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絵画の思い出

 最近になって、甲子夜話に残されている「水雲問答」をひも解き始めているが、これも今の人にとっては少し難解な部分もあり、ここに現代語にしてUPし始めているが、現在約半分程度が終ったばかり。

毎日数点書いていると、他のことをする時間が取られてしまい、少しこの辺でペースを落として来月半ばくらいの完成を目指す事にしようと思っている。
またたまには別な記事も書かないと興味のない方には飽きられてしまう。

というわけで、頭に浮かんだ事などを記事に挟みながら進めたいと思っている。
そこで、他の人のFBにある画家の絵画の紹介があり、それを見ていて昔の記憶が蘇った。

それは今から50年以上も前のこと、大学の初めの頃の事。
大学で入った同好会で、夏休みに姫路の先輩宅で泊まって、山陰地方を合宿をかけて回ったときだったと思う。

現地への集合で、私は姫路に行く前によりたい場所があり、一人大きなリュックを背負って、倉敷で降りた。
蔵の街と言われるだけ有り、倉敷は情緒の有る素敵な街並みだった。

そんな街並みの一角にお目当ての建物があった。

「大原美術館」である。

学生時代は結構絵画も好きで、入社した時のも東京のブリジストン美術館に立ち寄ったり、ルノワールやセザンヌ、マリーローランサンなどの展覧会が東京のデパートなどで開催されるとよく見に行っていた。
また上野の西洋美術館なども時々足を運んでいた。

まあ、大原美術館も当時地方にあっては比較的有名であったので、近くにいけるチャンスが来たから一度行って見ようと思ったくらいの気持だった。

倉敷の駅に降り立ったのは1968年の7月末。

そして、大原美術館を目指したのだが、目にしたのは沢山の喪服を着た人の列であった。
何処へ続くのかと思ったら、これが美術館に続いていたのだ。

そう、この日は大原美術館の館長(倉敷レイヨンの元社長)大原総一郎氏の葬儀が行われていたのだ。
これでは、美術館も閉まっているだろうと、美術館の入口まで来た。

そうすると入口が開いていて、中には入れるようだ。

案内の方に声をかけると「どうど」と。

こちらは薄汚い格好の学生で背中にはこれからのたびの支度を入れ込んだリュックサックを背負っていた。

葬儀の列を横目に恐る恐る美術館に入れてもらった。

そこで、入ってすぐのところにあった。ミロの絵に釘付けとなった。

miro1.jpg

「夜の中の女たち」というタイトルがつけられた絵である。
一見子供が書いたいたずら書きのようにしか見えないかもしれないが、独特の色使いからも私にとって忘れられない絵となった。

その後、社会人になってから、もう一度大原美術館を訪れた事があったが、絵画や彫刻のイメージは最初の頃からは大分変っていた。
今はどうかわからないが昔の、葬儀のハプニングと共に思い出に残った記憶のほうが今でも鮮明に残っている。


昔の事 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/03/25 09:53

絵画の思い出(2)

 さて、今日は昨日の続きで西洋絵画などを見るようになったきっかけの話です。
小学2年から大学に入る頃迄、私は東京の多摩地区に住んでいました。

中学1年生の冬に、東京上野の国立博物館でルーヴル美術館の絵画を中心としたフランスの絵画の展覧会が行われました。
始めてルーヴル所蔵の有名な絵画がたくさん日本で見られるとあって、かなりのニュースにもなりました。
ただ、まだ特に美術が好きであったわけでもなく、東京といってもまだ田舎の方に住んでいましたので、こういうものに触れる機会もほとんど無かったせいも有り、話題にはなっていましたが特に興味も無かったのです。

ところが、これを家族で見に行こうと父が言い出したのです。
父は東京銀座に勤めに通っていましたので、子供(兄と私)を田舎者にしたくなかったのかもしれません。

確か年の暮れか、正月かは忘れましたが、日曜日?の祝日に家族で出かけたのです。

上野といえば、その頃は、西郷さんの銅像と、動物園くらいしか余り頭に浮かばないくらいの人間でした。
電車に乗って、上野の公園口から降りて、西洋美術館のそばを通って、動物園入り口前の広い広場に出て驚いたのです。
なんと、そこには博物館の方へ続く長い人の列が、その広場をうめつくすくらいに並んでおり、西郷さんの銅像近くの方まで続いていたのです。

でも諦める事もできませんので、その最後尾に並び、少しずつ前へ。1時間くらいたってようやく博物館の入口が見えたと思ったら、並んでいる列は入口には入れず、博物館の周囲を1周していたのです。

それから広い博物館の敷地の周りを1周して、ようやく中に入ると、今度は博物館の敷地の中も列が続いていました。
疲れ果てそうになりましたが、何とか中には入れたのですが、絵画の前は黒山の人だかりのようになっていて、順番に押すな押すなといわれながら、あまり止まって鑑賞出来ずに、絵を順番に見て回るような状態でした。

ルーヴル美術館の絵はかなりの数が出展されていて、有名な人の絵画もたくさんありました。

見終わって、最後に額に飾る絵を買って帰ることになり、私が買ったのは、コローの風景画でした。

コロー2

「モルトフォンテーヌの思い出」と題するコローの大きな風景画です。
構図も色合いも、とても気に入ったのです。

しかし、母などはマリーローランサンの絵が好きだといってそちらも買って来ました。
今ではこちらの絵もよさがわかって来ましたのですが、ヨ-ロッパ絵画を見て最初に気に入ったのはこのような写実主義の絵だったのです。

当時西洋美術は上野の西洋美術館(松方コレクション)が中心でしたが、これだけの大規模な展覧会でしたので、会場を国立博物館にしたようです。

<調べたら>
 ルーヴルを中心とするフランス美術展
 1961(昭和36)年11月3日- 1962(昭和37)年1月15日
 会場:東京国立博物館
 主催:東京国立博物館、国立西洋美術館、朝日新聞社
 出品点数:絵画260点、彫刻60点、素描119点、版画39点、計478点
 入場者数:722,082人
とありました。

そして、その後、各画家ごとの絵画集(あまり高くは無い)などを家に取り揃えるようになり、印象派や抽象的な絵なども、少しですが有名な画家のものはわかるようになりました。

その後しばらくして西洋美術館でミロのヴィーナスがやってきたのでした。

まだ、ヨーロッパに旅行にいくなんて、望めそうも無い時代だったんですね。
こんな西洋文化にやはり人は飢えていた時代だったのかもしれません。

今では連れて行ってくれた父に感謝しています。

昔の事 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/03/26 10:55

77年前 終戦

 今年も原爆投下、終戦のあった昭和20年(1945年)8月の行事がやってきた。
これは今から見ると77年前になる。
また、その終戦のさらに77年前は明治維新である。

2度とこんな戦争はしないと誓ったはずなのだが、最近は相手から攻撃される恐れがあった場合は、先制攻撃も出来るようにするとか、核を持っていなければ攻撃されるから持つべきだといった意見が今までになく大きくなっている。

日本は神の国で選ばれた民族国家だなどという人々の気が知れない。
そう思うのは自由だが、他国の国民を自分達より劣った人々だとか、自分たちは特別だという考え方を国の権力者たちが持つと、何が起ころか分からない。
言論は自分たちの意見に賛同する意見しか報道されなくなり、かつての「大東亜共栄圏」構想と同じく、アジアを解放するためと称して戦争を正当化するようになるだろう。

仕事で海外にも何度か行ったが、頭の良さは日本人より優れている地域も多くあったし、女性のたくましさなども多く目にしてきた。
日本人はおおむねまじめで引っ込み思案で、言われたことは守る。それくらい。
ただ、その頃はまだ日本の技術水準もいい所に行っていたが、今では大分見劣りし始めているし、かなりの所で機能不全が目に付く。

日本は島国であり、江戸時代は鎖国で海外との行き来は制限されていた。
独自の文化が花開き、素晴らしい国だと思うが、今はこれが仇(あだ)となって、まったく機能不全に陥ってしまったように思う。

このままいけば先進国の中であこがれどころか、誰からも相手にされない国になるかもしれない。
国の借金は赤ん坊を含めて1人当たり1000万円を超えた。

その借金も日銀が半数以上を持っている?
また日本の株も日銀が筆頭株主などとも。
いつ暴落するのか分からないが、頭の良いといわれていた日本の官僚も機能不全を起こしたのか、どこ吹く風だ。

このままいけばそう遠くない内に日本も戦争に参加するなどとなるかもしれない。
テレビが出始めた頃(昭和30年代前半)、「一億総白痴化」などと言われた時を今頃になって思い出す。

知らず知らずに「総白痴化」が侵食し始めているようにも感じるこの頃である。

明日8月15日は77回目の終戦記念日である。

昔訪れて心に残った、広島の原爆の跡、そして沖縄の地上戦の跡、インドネシアでの戦後復興で日本の賠償金で建てられたホテル、北海道の引き上げ船の話し・・・・・  などなど 思い出せばやはり心に迫るものがある。
やはりこれからは知らなかったでは済まされないことを伝えていかねばならないだろう。


昔の事 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/14 11:45

37年前 日航機墜落

 8月12日のニュースで、日航ジャンボ機の墜落事故から37年という記事が目に入ってきた。
もうあれから37年も経つというのだ。

その事故当時の37年前に大卒で会社に入った人が来年60歳定年を迎えるのだという。
坂本九さんがその飛行機に乗っていて亡くなり、御巣鷹山の山中で朝から救出が始まり4人の方が助かったが多くの乗客・乗員は助からなかった。
テレビから映されたその惨状は眼を覆いたくなるものであった。

私にとってもこの事故は特に記憶に残っているものである。
当時(37年前)、私は勤めていた会社の新聞編集委員をしていた。
これは、それぞれの部署から1人ずつ編集員が選ばれ、持ち回りで会社の新聞のコラム欄の執筆が任された。
私はたまたまこの墜落事故のあった時に、このコラム記事(新聞で言えば天声人語のようなもの)の順番が廻ってきたのだ。

これは、記事のネタにせねばならないと、文学的な文章などとはほとんど縁が無かったが、何とか書き上げて9月始めの締め切りに間に合わせた。

このとき、私は「現在、人生の中間点に差し掛かった筆者であるが・・・・」という言葉を使った事を覚えている。
事故原因はいろいろと取りざたされていたが、「圧力隔壁の疲労破壊」というのが大筋であった。
手元にその時の記事は残っていないが、この「疲労破壊と検査ミスなどを仕事の戒めとして自分たちの仕事を見直したい」などと戒めの記事としてまとめた覚えがある。

37年前の私は37歳。 今その倍の年令になった。
そう人生の中間点の倍・・・・ ということは、もう終末期か。
父親の亡くなった年齢を越したが、まだまだやりたいこともある。
もう少し晩年も楽しみたいものだ。

37年前はほとんど仕事以外での文章などは書いていない。
しかし、幾つかのエッセイーなども読んでいたので、このときがそんな記事を書いた最初なのだと思う。
書いた記事は名前は出していなかったと思うが、意外に評判がよく、今のブログを書き始めるときにも、すこし自信になったのかもしれない。



昔の事 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/15 13:37

12年前 ブログ開始

 2010年8月11日にブログ「まほらにふく風に乗って」を書き始めた。
その2年前の2008年に勤めていた企業で定年を向かえ、そのまま仕事も継続はしていたがこれからの人生をどのように過ごして行こうかをいろいろ考えていた。

今住んでいる「石岡」には妻の希望で、2006年に隣町から引っ越してきたのだったが、古くからの歴史がある町とはいっても、他所から来た者にはどこか活気が無く、おまつりではしゃいでいるだけの「一地方都市」に過ぎないように見えた。

ネットもまだその頃はそれ程盛んでもなかったが、石岡を検索してみてもあまり良い記事はヒットせず、同じような佐原や川越などと比べても情報発信力はかなり劣っているように感じた。
これは民間、行政ともにいえることだった。

自分で作成したホームページなどで少し記事などを書いたりしていたが、住み始めてから調べて興味を持つようになった「地元やその周辺の歴史」などを、行政に文句ばかり言っていないで、自分から発信してみようと一つのサイトを2008年に立ち上げた。
それが、「1300年の歴史の里・石岡ロマン紀行」である。(サイトは ⇒こちら

当時感じた事は、この定年間際の暇つぶしのようなサイトは、その後、雨後のタケノコのように育ってくる若者が作成するサイトやSNSの発展で埋もれてしまうに違いないと思っていた。
しかし、このときの私の思惑ははずれ、数年経ってもあまりこれを超える情報が立ち上がってこなかった。

今では更新もしなくなってしまったし、使っているソフトなどが機能しなくなったりして、スライドショーやドロップダウンメニューなどが使えなくなっている。
これを修正しなければならないのだが、私も、以前ほどパワーがなくなりやらばければならないとは思いながらもう2年くらいは何も出来ていない。

さて、今回の話はこのHPの事ではなく、その2年後の2010年(今から12年前)に立ち上げたブログの話しだ。

町の歴史や名所旧跡などを紹介するこのHPを2年間ほど、結構熱心に更新もしていたのだが、実は飽きてしまったのだ。
書く内容が、市の観光行政の補完のようになり、各所を訪れて感じたことの半分くらいしか書くことが出来ないと思い始めたのだ。

神社仏閣、旧跡、何もない原や空き地、そこにかつて過ごしたであろう人々の思い・・・・ 考えると昔と同じ風がそこを駆け抜け、私の耳元でささやく・・・・。

HPの紹介は誠につまらない。
まるで旅行会社が企画した「団体観光旅行」に行っているような、そんな気がしてきたのだ。

もとから団体の観光旅行やパック旅行は好きではなく、一方的な説明や観光の押し売り的要素がどうしても自分にはなじめない。
そこで、始めてみたのが「まほらにふく風に乗って」と題したブログである。

始めるにあたって考えたのが、このタイトルである。
「まほら=真秀ら」の言葉がその時の自分の気持に一番しっくりしたのだ。

何時まで続けられるか分らないが、始めるからには毎日更新しよう。
目標は先ず1年間。3年位続けばまあ合格だろうと・・・・

細々とでいいのでまずは続けようと

最初の8月に書いたブログは⇒こちら

1日数件のアクセス。
でも毎日更新して、同じブログ仲間との交流で、写真も少しきれいになり、構図もみよう見真似で少し見られるようになった。
そして1日に20~30件位のアクセス。

そんな時に2011年3月11日の東日本大震災が起こった。ブログを始めてちょうど7ヵ月後だった。
地区は全て停電となり、その日のブログは前日に予約投稿を依頼していたので、こちらが停電でもUPされ、連続記録も途切れずにすんだ。しかしこんな大事故の後に何を書いたらよいか分らない。
翌日何とか電気は復旧できたので、更新は続けることができたのだが、問題は市のHPなどが機能しなくなり、災害の発生後の管理機能が麻痺してしまった事だ。
街やお店の電気、食料品の入荷状況、道路の状況、水道の復旧、給水車の情報、ガソリンの在庫不足・新規入荷情報、何時復旧できそうか、放射能の拡散情報・・・・

市の情報が無いならと自分のブログにこれらの情報を毎日数回にわたって更新して発信を続けた。
ネットはかなりそれらの情報を得る事ができるため、石岡市に関係のある他所の都市の人や、海外からも熱心にアクセスがあった。
市出身の方が親類の安否を心配してのアクセスもかなり多く、1日に1000件ほどになったらと思ったら、いつの間にか5000件ほどのアクセスがあった。
これにより、人々が求めている情報のあり方などを学ぶ事ができたと思う。

さて、私のブログは1年、3年、5年と毎日の更新がそれからも続き、6年2ヶ月(2016年10月13日)までの「2256回・連続記録」で一旦連続投稿はやめることとした。

  「風に吹かれて行く処はさだまらず」(記事は ⇒ こちら

と少し肩の荷を降ろして、書き込んだのです。

それから更に6年近くが経つが、まだ「行く処」は定まっていないようです。

さて、いろいろやろうとするパワー昔ほどありません。でも何かをやるとするならば、どうすべきなのか?

「ふるさと風の会」で、機関紙なども毎月発行していますが、これはこのブログと共にあります。
私がこの会に参加したのは2010年の秋ですが、ブログ開始の2010年8月には会の集まりには参加していました。

この「ふるさと風」も来年1月で200号となります。
記念特別号とするほど、会のメンバーには力は残っておらず、200号以降をどうするかをこの秋にでも決めようと思います。
毎回楽しみにしていてくださる方がおられるので・・・・。

今回は少し昔のことを振り返ってみました。

mahora.png

このブログの表紙画像も最初から殆んど変わらない。
オレンジの画面色が好きで始めたのだが、1年中使っているが、画像はハロインがテーマ。
その10月がまたやってくる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。









昔の事 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/08/18 11:19
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