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常陸国における源平合戦(序)

 書棚を見ていたら、4年前の藝文の特集号が出てきた。

最近、地元石岡にいて常陸国の源氏・平氏をもう少し掘り下げておきたいと考えていた。
さて、ここに書かれている話とは多分多くのところでラップすると思うが、これを参考にしながら少しまとめておければなどと思っている。

年内にどこまで進められるか?
まだ訪れていない所にどれだけいけるのか?
まったく見通しは無いが、今まで訪れたところなどもかなりあるので・・・・・

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400年後の源平合戦。
これは1180年代に起った源平合戦の400年後の1580~90年代に源氏の流れをくむ佐竹氏がそれまでこの地方を治めていた常陸平氏の大掾氏(だいじょうし)一族を滅ぼし、常陸国を制したことを指している。

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この藝文特集号の最初に、「常陸源・平関係図」というこの地方に関係した人物の相関関係図が載っている。
これは現在土浦博物館館長の糸賀先生の纏められた図表だが、参考になる点が多くあり、これからの理解の助けとなりそうだ。
なにしろ、関東における武士軍団も源平入り混じっているし、特に女性まで含めると血筋は恐らくどちらも混じっていると思って間違いは無い。

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佐竹氏が水戸より南側を治めていた多くの館の主を滅ぼしたことについて、これを読んでもう少し勉強して理解を改めないといけないとも思い返した。
訪れておかなければいけない場所もまだまたありそうだ。
少し時間は掛かると思うが、やることが出来ればありがたいことでもある。
それにしてもここ石岡は史実としてたくさんの事柄の宝庫なのだが、なんだか眠ってしまったような・・・・・・
博物館のようなものが出来ればと願っている。


常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/05/19 10:32

常陸国における源平合戦(1) <律令制と親王任国>


源平合戦(1)

 このブログのテーマは常陸国の源氏・平氏の戦いなどを書くものだが、その前提となる常陸国の成り立ちなどをまとめておきたい。

大和を中心に日本国が建国されたのを何時と見るかは諸説あり、ここではそこには踏み込まない。
しかし、大和朝廷が中国唐の中央集権的国家を見習って、律令制度を発令した西暦701年の大宝律令により全国に統一国家としての姿が確立したと考えられる。

少し前を辿れば、645年にそれまで権力を握ってきた蘇我氏を滅ぼした大化の改新の事件(中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺)が起こり、となりの朝鮮半島の白村江で663年に日本・百済連合軍として、唐・新羅連合軍と戦った。
しかし、ここで大敗してしまう。

この当時、日本にはまだ中央政権制度がなく、この大敗を機に隣りの大国・唐を見習って、この律令国家制度を強力に進めることを目指したのだろう。近隣諸国でこの唐の律令制国家を見習ったのは日本しかないのだ。
大雑把に言って、「戸籍に登録した人に土地を与え、税を納めさせ、兵役を負担させる」といった中央政権の樹立である。

また、この前からやって来ていた百済の人々やこの時に日本に逃れてきた多くの百済人の要人たちは、大陸から伝わっていた数多くの知識や技術を持っており、その後の日本国建設に大いに力を発揮してもらうことにもなった。

そして、この律令制度に欠かせない全国の律令国(今の県のような範囲)が整備されていった。
ただ、令制国が成立する前に、土着した豪族が世襲した国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)があったようだが、これが令制国になると、中央から派遣された国司が治める国の形式になっていった。

704年には全国の国印が鋳造され、平城京に都を置いた奈良時代の初め、713年に全国に風土記の編纂を命じている。
また同じ年の5月に全国の郡(こおり)・郷(さと)の名前を2文字の好字とするように通達が出された。
これにより国名が変ったのは以下がある。(幾つか段階があり、同時に成立したかは不明)
 ・ 上毛野国 ⇒ 上野国
 ・ 下毛野国 ⇒ 下野国
 ・ 木国 ⇒ 紀伊国
 ・ 粟国 ⇒ 阿波国
 ・ 火国 ⇒ 肥前国、肥後国
 ・ 豊国 ⇒ 豊前国、豊後国
 ・ 凡河内(おおしこうち)国 ⇒ 河内国、摂津国

また、律令制の制定によりそれまでの国が分割されて成立した国も幾つかあり、律令国家成立後に分割されて成立した国もある。
平安時代に入り纏められた延喜式の中に書かれた国は

畿内:5(大和国、山城国、河内国、和泉国、摂津国 )・・・5畿内と呼ばれる。
  畿内から各方面に7つの街道を整備し、それぞれの国府を結んだ。
<東海道>
・伊賀国 ・伊勢国 ・志摩国(8世紀初めまでに伊勢国より分立)
・尾張国 ・三河国 ・遠江国 ・駿河国 ・伊豆国(680年に駿河国より分立)
・甲斐国 ・相模国 ・武蔵国(771年、東山道から東海道に変更)
・安房国(718年に上総国より分立、741年に上総国に併合、757年再分立)
・上総国 ・下総国 ・常陸国
<東山道>
・近江国 ・美濃国 ・飛騨国 ・信濃国 ・諏方国( 721年に信濃国より分立、731年に再統合)
・上野国 ・下野国 ・陸奥国(7世紀に常陸国より分立) ・石背国(718年に陸奥国より分立、数年後に再統合)
・石城国(718年に陸奥国より分立、数年後に再統合) ・出羽国(712年に越後国出羽郡を割いて建立)
<北陸道>
・若狭国 ・越前国 ・加賀国(823年に越前国より分立)
・能登国(718年に越前国より分立、741年に越中国に併合、757年に再分立)
・越中国 ・越後国 ・佐渡国(743年に越後国に併合、752年に再分立)
<山陰道>
・丹波国 ・丹後国(713年に丹波国より分立) ・但馬国
・因幡国 ・伯耆国 ・出雲国 ・石見国 ・隠岐国
<山陽道>
・播磨国 ・美作国(713年に備前国より分立) ・備前国 ・備中国 ・備後国
・安芸国 ・周防国 ・長門国
<南海道>
・紀伊国 ・淡路国 ・阿波国 ・讃岐国 ・伊予国 ・土佐国
<西海道>
・筑前国 ・筑後国 ・豊前国 ・豊後国 ・肥前国 ・値嘉島(876年に肥前国より分立。数年後に再編入)
・肥後国 ・日向国 ・大隅国(713年に日向国より分立)
・多禰国(702年に日向国より分立、824年に大隅国に併合) ・薩摩国(702年に日向国より分立)
・壱岐国 ・対馬国
(以上はWikipediaより)

また、都からの距離で、畿内、近国、中国、遠国に分類し、国の規模で大国、上国、中国、下国に分類されていた。
延喜式に載っている大国は以下の13か国であった。
「大和国、河内国、伊勢国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、近江国、上野国、陸奥国、越前国、播磨国、肥後国」

さて、東国における源平合戦の話として忘れてはいけな親王任国(しんのうにんごく)の制度がある。

それは桓武天皇には子どもがたくさんおり、続く平城天皇及び嵯峨天皇も多くの子供たちがいた。
こうなると皇室としてあたえる役職が足りなくなって、養っていけなくなってきた。
そこで、西暦826年に、遠い国で大国といわれて比較的肥沃な地から常陸国、上総国、上野国の3国を選び、この国の税を皇族の費用に当てるために、親王(天皇の子供達の皇族)が直接統治する「親王任国(しんのうにんごく)」制度を作った。

最初は桓武天皇の3人の親王がそれぞれ3カ国の国守に選ばれ、この職を太守と呼び、官位は正四位下であった。
しかし、この太守は形だけのその国のトップで、中央にいて現地には行かなくても良いといった制度であった。
こんな遠い国に行かなくても都で優雅に暮らせるなら誰も行かないですね。
そこでこれらの親王任国では、実際の国司のトップに当る職は「介(すけ)」(常陸介、上総介、上野介)となった。

これがその後の将門の乱や平氏、源氏の勢力争いにもなって行くのです。

当時の国司の階級は
・守(かみ)・・・大国、上国には権守(ごんのかみ)1名が追加された。
・介(すけ)・・・大国、上国には権介(ごんのすけ)1名が追加された。
・掾(じょう)・・・大国には大掾(だいじょう)、少掾(しょうじょう)がおり、大国、上国には権掾(ごんのじょう)もいた。
・目(さかん)・・・大国には大目(だいさかん)、少目(しょうさかん)がいた。
・史生(ししょう)・・・大国に5名、上国4名、中国3名、下国2名。ただし定員は時代や場所でも異なっていたかもしれない。
 ※ 国司四部官・・・守・介・掾・目

(注)この国司も時代により変化し、しだいに都から離れずに親王任国と同じように名ばかりの守や皇族の費用に充てるための兼務などが増えてきます。これらの国司は「名代〔みょうだい〕国司、知行主〔ちぎょうぬし〕」などと呼ばれます。
また、代理を現地に置いたりもしていたようです。この代理は「目代(もくだい、めしろ)」と呼ばれており、上記の目(さかん)とは違います。
常陸国の国府である石岡の茨城廃寺ちかくに「小目代」という地名がありますが、この小目代は目代の代理人を指す言葉のようです。代理の代理が現地にいたという事でしょうか。

        (続く)





常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/05/21 07:30

常陸国における源平合戦(2) 源氏と平氏のはじまり

源平合戦(2)

 一般には源氏と平家という言い方をする場合が多いが、平家は清盛を中心とした伊勢平氏が都で華やかに暮らした時代の呼び名であり、それ以外は平氏と呼んで差し支えないと思う。
ここでは源氏・平氏という呼び方をする。

さて、源平合戦やその後の鎌倉幕府を開いた時代は、どうも平家(平氏)=貴族で、源氏=武士 という構図でとらえがちだが、これは少し間違っていると思う。また西の平氏に東の源氏という考え方も少し違う。
伊勢平氏にしても基本的には東国にやってきた桓武平氏の流れの中から伊勢に土着した平氏であるからルーツはやはり東国にあり、基本は東国武士と変らない。

まず、源氏と平氏のはじまりを探ってみよう。

前回書いたが、平安時代の西暦826年に東の遠国である大国の中から3国を親王任国とした理由は、桓武天皇はじめ、その後の天皇にも子どもが多くいて親王(天皇の皇子)たちに満足な職を与えられなくなったことが原因だと述べた。

しかし、子供でも親王になれたのは数人で、多くを皇族から民間に下ろした(臣籍降下:臣下の籍に降りる)のです。
平安時代以前にもこのようなことは行われていたようですが、臣籍降下するときに身分を証する物として皇室の源流であるという意味で「源氏」の名、平安京の皇室に繋がるという意味で「平氏」の名を与えたのです。

最初に源氏の名が与えられたのは西暦814年のに嵯峨天皇(桓武天皇の第2皇子)の皇子女8人に対してです。
その後も天皇の子供や孫に対してたくさんの源氏名が贈られました。
そのため、それぞれの系統を示すために嵯峨源氏、清和源氏など、江戸時代まで二十一流が存在します。

一方平氏ですが、これは825年に、桓武天皇の孫の代から始まった桓武平氏をはじめ、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の四流だけです。子供の代ではなく孫の代からですので、呼び名も少し変えたのかもしれません。
でも、源氏になったその子供も源氏を名乗りますので、どちらが偉いなどと言ってみても仕方が無いでしょう。

桓武天皇にはたくさんの親王おり、以下にその主な系譜をWiki.から載せておきます。

桓武天皇系譜

ここには載せきれない系譜がたくさんありますが、ここの流れで重要なの嵯峨源氏と桓武平氏です。
源氏・平氏を研究するような方は細かく見ていく必要はあるでしょうが、ここは研究論文ではありませんので大きな流れだけを捉えていきます。

・嵯峨源氏・・・桓武天皇の第2皇子の嵯峨天皇の子供たちの中から814年に臣籍降下して源氏が誕生した。
・桓武平氏・・・桓武天皇のやはり皇子であった葛原(かずらわら)親王の子供、孫たちを825年に臣籍降下して平氏が誕生した。

源氏も平氏も基本的には、共に天皇の子供、孫、曾孫などが臣籍降下するときにこの氏を名乗ることが許されたということですので、後々白黒争うことになるというのもどうなんでしょうね。

平安時代のこの源氏や平氏は、中央(朝廷)で、いろいろな形で役職にも付いていたが、徐々にこれは廃れて行ったようだ。
代が後ろに行けば、そんなに役職などには就けず、没落して行った者も多いと考えられるし、役職も中央は無くなり、地方の役職の欠員がでれば、地方に出かけていく者たちも多くなっていったと思われます。

紫式部が天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生を「源氏物語」として書いたといわれるのですが、書かれたのは西暦1000年頃(1008年?)ではないかと見られています。
そして光源氏のモデルとしての最有力候補の一人に上の図表にある嵯峨源氏の源融(とおる)がいます。
源融は嵯峨天皇の皇子だったが、母親の身分が低く臣籍降下して源氏となったのです。
しかし数いた源氏の中でも出世頭ともいえ、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである「参議」になっています。
嵯峨源氏は名前が1文字の人が多いので、源姓で1文字の人物は嵯峨源氏の一派と考えられ、源融(とおる)の孫の源仕(つこう)は関東の武蔵国に下向し、仕(つこう) - 宛(あつる) - 綱(つな) など3代に亘って東国(武蔵国)で活動し、ご存知の大江山の酒呑童子で名を知られる頼光四天王の一人である渡辺綱はこの源綱である。
源綱は武蔵国足立郡箕田郷(現:埼玉県鴻巣市)に生まれるが、都に近い摂津国(大阪)の源氏に婿養子に入り、そちらで暮らすようになった。渡辺はその住んだ地の地名(摂津国西成郡渡辺)です。

臣籍降下が始まった当初は、多くの源氏、平氏も中央政権の中での貴族として暮らしていたようだが、これも次第になくなり、まだ開拓余地のたくさん残っていた東国への進出が始まるのだった。
また、東国で基礎を固めた源氏や平家もその子や孫の代には都に残っていた源氏や平家を頼って都での仕官などを願った者も多くいたようです。

(続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/05/22 10:04

常陸国における源平合戦(3) 常陸国における平氏のはじまり

源平合戦(3)

東国、特に常陸国における平氏の始まりを書いておきます。

一般には、889年に桓武天皇の皇子であった葛原親王の孫の高望王が臣籍降下して宇多天皇より平氏姓を賜ったところから始まります。平高望(たいらのたかもち)となって9年後の898年に高望は上総介になります。
高望は、都ではこれ以上いても出世は望めないと思ったのか、遠い上総国(今の千葉県東南部)の未知の領土にあこがれたのか、三人の子供を連れて上総国へ赴任してきたのです。(当時は必ずしも現地に赴任しなくてもよかったようです)

葛原親王は天皇にはなれませんでしたが、親王に与えられる最高位である一品に叙せられており、式部省(文官の勤務状態や品行などを取り調べたり、官を授けたりする機関)の長官という地位にあり、親王任国の常陸国や上野国の大守を歴任していました。
そして子供は長男・高棟王と次男・高見王の二人男子がおり、長男・高棟王は臣籍降下して平氏を名乗りますが、子孫は高棟王流堂上平家として京都での公家平家として栄えます。
しかし、次男の高棟王は無位無官のまま早世してしまい、その子の高望も臣籍降下して京の社会で生きていこうとしますが、親がなくなっていて後ろ盾もなく、都の公家社会からは没落してしまったようです。
これが平氏に臣籍降下した高望(たかもち)が9年後に上総介となって、京に残らずに東国へ新天地を求めた背景ではないかと思います。ただ、平家物語の元となった琵琶法師の記録には京の都において民部卿宗章の謀反を鎮圧し功績で、上総介となったが、これは当時東国で群盗などがたびたび蜂起していたため、これを鎮めるために選ばれたのではないかとも言われているようです。
しかし、この流れが東国における平氏となり、また後の子孫である伊勢平氏から平清盛が出たのです。

さて、平高望が上総介として東国に一緒に伴ってきたとされるのは正室・藤原良方娘との間に出来た子供、長男国香(くにか)、次男良兼(よしかね)、三男良将(よしまさ、又は良持:よしもち)の三人です。

平高望は、その後902年に西海道の国司となり大宰府に移りますが、三人の子供たちは上総、下総、常陸国に土着して領地を拡大し、武士団の形成も為されていきます。
平高望が大宰府に移った翌年の903年に大宰府で菅原道真が死去していますが、丁度その頃、東国では平将門が生まれています。将門は高望の三男・平良将の子供です。

平氏系図


当時開拓した土地をどれだけ自分の物に出来たかどうかはわかりませんが、この平高望や三人の息子が来る前に、地元にはすでに、強大な力を持つ豪族となっていた人物がいました。
常陸国でのその筆頭が、源護(みなもとのまもる)という人物ですが、居住地は真壁(羽鳥地区?)あたり、筑波山の西側から北側にかけて広大な領地を有していたといわれています。
当時、現地の長官職である常陸大掾(だいじょう)を任されていたようで、都から任命されてきた介などよりも職としては下なのですが、領地や馬、財宝などを貯えていたようで、上総介としてやってきた平高望親子が勢力を拡張していくためには、この地方の豪族と手を組んだり、血縁関係を結んだりしていく必要があったようです。

源護については、詳細は残されていませんが、名前が1字の源氏であるので、嵯峨源氏の一族(源融の系列か?)ではないかとも考えられています。
1)長男の国香(くにか)はこの常陸大掾の源護の娘を妻とし常陸国に進出します。
この国香は将門の乱のときに死んでしまいますが、その子孫が代々常陸国の大掾職を継いで大掾氏を名乗るようになります。また、平清盛を代表とする平家と言われるのはこの国香の子孫で伊勢に移った平氏です。
2)次男の良兼は千葉県九十九里の屋形を本拠地とし、上総と下総に領地を持っていたといわれます。この屋形は栗又川の入口にあって、内陸には大きな内海(椿の海)が広がっている場所です。父の高望が902年に東国を去った後は父の後を継ぎ上総介となり、領地を広げて行ったようです。しかし、将門の乱が起こり、兄の国香が殺されてから、将門と対立し、多勢の勢力で戦を挑むも将門に負けて下野国府ににげこみます。このあたりは次回の将門の乱のほうで書きたいと思います。
3)三男・良将(良持)は、やはり源護の娘婿となり、下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開拓して領地を広げていきます。しかし鎮守府将軍となって陸奥国胆沢城に赴任が、比較的若くしてなくなってしまったようです。その後をまだ若い将門が継いだいたのでしょう。(将門記で次回取り上げます)
ただ、平将門がおこした乱で敗れたため、良将の正当な子孫はいなくなりました。

このように高望王の子孫たちは坂東に地盤を持つ有力豪族として発展していくことになります。

4)平高望には其の他にも、四男・良繇(よしより)や側室の子どもである五男・良文以下、良広、良持、良茂、良正などがいました。
これらの人物もその後遅れて関東にやってきて土着した平氏として名を残した人物が出てきます。四男・良繇については詳細が不明でくわしいことがわかりません。
ただ、関東地方の平氏として重要なのは、五男の平良文(よしぶみ)です。良文は、兄弟三人とは遅れて関東地方にやって来て、当初武蔵国(村岡)を基盤とし、下総にも進出しました。そして、その子孫が後の千葉氏、三浦氏、大庭氏、梶原氏など「坂東八平氏」と呼ばれる有力武士団となっていきます。

(つづく)

常陸国における源平合戦 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2021/05/24 07:09

常陸国における源平合戦(4) 平将門の乱(1)


源平合戦(4)

西暦898年、平高望は3人の息子を伴って上総介として東国にやってきた。
どのルートを通って上総国に来たのかは定かではない。
しかし、当時上総国へは古東海道をきたとすれば、伊豆半島横須賀ちかくの走水(はしりみず)から上総国府(市原)に近い富津岬へ舟で渡ったはずだ。
もしくは舟に乗って黒潮に乗って房総半島を回って北上し、千葉県の九十九里浜側に上陸したのかもしれない。

この九十九里浜の現在の横芝光町屋形(やかた)に平高望や次男の良兼が上総介として住んでいた屋敷があったため屋形(館)の地名となったのではないかともいわれている。
ここからは栗山川をさかのぼれば、下総や上野国などへのアクセスも良い。
また古代から多くの古代人が使った丸木舟が遺跡として多く発掘されており、食料にも恵まれた土地だったと考えられる。

さて、当時の東国での記録はあまり残されているものも少なく、皇族の子孫として都で生まれ若いころに東国にやってきた国香たちは都の生活を知っている。
これを第一期生とすれば、この一期生の子供たちは東国で生まれた最初の平氏で、東国の平氏の第二期生といえるだろう。
この者たちはどんな思いで、東国で過ごし、また都に居る親戚たちのことを思っていたのだろうか。
これについては想像するしかない。
東国で起きた大事件の主役「将門」はこの第二期生だ。
数少ない記録でもある将門記を読みながらその当時の東国での武士団結成に向かう源治・平氏の動向を見ていきたいと思う。
勿論逆賊となり大和政権・朝廷からは皇室に歯向かった大悪人のレッテルを貼られ、表舞台では抹殺された記録も、東国庶民の間では神社に祀られ、英雄としての伝説などが残された。
将門記は将門を英雄として書かれたものであるから、史実とは違った部分も多々あるかと思うが、そこは歴史の先生方に任せて、事実と違うところもありそうだという前提で読んでいただきたい。
また東国の源平、藤原氏などの武士団の発生には欠かせない要素であろう。

将門記も原文は残されておらず写本が残されているだけだ。
また将門の死(940年)後どの位経ってから書かれたものかははっきりせず100年くらい後ではないかと考えるのが妥当かと思う。

作者も近くの僧侶ではないかなどとも言われ、正確にはわかっていない。
原文(写本)は難読な漢文で書かれており、ところどころに欠文があって解釈も分かれる。
これから書く内容もただの参考程度に読んでいただければと思う。
文学書としては、大岡昇平、吉川英治、海音寺潮五郎、村上春樹、赤城宗徳さんや数多くの歴史学者などが書いているので、興味のある方はこれらの小説などを読んでください。
ここでは私の所属している「ふるさと風の会」の「打田昇三」氏の書かれた「打田昇三の私本将門記『罪と名声』」を参考とさせていただきました。

平高望の三人の息子たちは、当時、筑波山の北西部に巨大な勢力をもっていた源護(みなもとのまもる)と手を組むことを考えた。
当時源護は常陸大掾(だいじょう)の職を任されていたという。
長男の平国香はこの源護の娘を妻にして(次男の良兼と娘を争ったという話もある)、大掾職を継ぎ、石田に居を構えており、水守(みもり)に館を持っていた。
水守は、現在の学園東大通りが国道125号線に交わる(田中信号)の少し南側のつくば市水守(みもり)であり、平安時代中期には「水守郷」と呼ばれていた。
恐らく国香は条里制などの管理をし、ここの田の水利の実権を持っていたのだと思われる。
ここが国香死亡後の将門に対抗する人々の初期の拠点だったようだ。
国香の住まいは常陸国真壁郡石田にあったといわれ、現在の筑西市(旧明野町)東石田(東石田公民館と隣の長光寺あたり)だとされている。
将門の乱に館は焼かれ、国香も亡くなった。


将門記の記述を元にして時代を見ていこう。
1) 将門は西暦903年、陸奥鎮守府将軍・平良持の三男として下総国で生まれた。
2) 母親は下総の名族・犬養氏の娘である。
3) 父は鎮守府将軍であったが将門のまだ10代の頃に亡くなり、将門が父の後を継いだらしい。
4) 伯父の国香の嫡男・貞盛は都に上って朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった官職である「馬寮(めりょう/うまのつかさ)」として勤務していた。
5) 将門も都に上り、亡き父の縁故をたよって太政大臣・藤原忠平に仕え、天皇の護衛官である「禁裏瀧口(きんりたきぐち)」として約10年間勤務した。
6) このままでは出世は出来ないと思ったか、将門は朱雀天皇の即位の時に、職を辞して下総へ帰って来た。

ここからは将門記の記述による

<私闘の始まり>
 原文には欠落が多く、何故事件が始まったのかは推論しかない。
伯父の国香や良兼とは、どうも女性に絡んで931年頃から不仲になっていたという。
この女性が絡む事案については諸説あるのでここは不明としておきたい。

<将門が迎撃される>
 西暦935年2月4日、外出から館に戻る途中、野本で源護の息子である「裏」「扶(たすく)」により襲撃を受けた。
このとき、少人数しかいなかった将門の軍勢は風も味方して、この源護の息子たちの軍勢を打ち破ってしまいました。

<将門が反撃を開始>
 襲撃を受けて4日後には、将門の軍勢は勝ちに乗じて敵となった勢力の拠点、野本・石田・大串・取木などの館や近隣の民家などにも火をつけ、おりからの強風で火の勢いは凄まじく、出てきた者たちは次々と矢を放たれて死んでしまった。
雑兵の多くは農民であり、彼らは武器を棄て逃げ惑ったのだろう。石田に居た長老国香もこの時に焼死したという。

<貞盛の苦衷>
 この国香の死を知らされた都にいた嫡男の貞盛は、しばらく動きも取れなかったが、しばらく後に許可を取り常陸国に帰って来た。
父親・国香の屋敷はすでにひどい焼け方で、国香の遺骨もわからない。
しかし、どうにか遺骨らしきものを捜して現地に埋葬したようだ。
ただこれも「伝・国香の墓」として近年まで石田に残されていたが、これも伝承でしかない。
また貞盛は母親の行方を捜すが、これも近隣に聞きまわって、ようやく母親、妻などの行方を知ることができた。
貞盛は父親の敵である将門を攻めたいところではあったが、戦の原因が護の息子たちが最初に将門を襲撃したためであり、それに巻き込まれて死亡したことを知り、すぐには反撃せずに和睦して、自分は都に戻ろうとしたのだった。

<良正の画策>
 和睦を考えていた貞盛であったが、ここに割り込んできたのが平良正である。
良正は高望の正妻の子ではなく、妾の子といわれていたが、最初に将門を襲った源護の子供である「扶(たすく)」とはどうも姻戚関係にあったようで、国香の弟の良兼とも手を組み将門を殺そうとして走り回っていたという。良正については、最初の襲撃の時から扶の仲間として加わっていたという説もある。
ただ、良兼は居住していたのが東の端の九十九里浜近く(横芝光町の屋形)であったので、この争いには参戦せずしばらく傍観していたようだ。

<川曲村の戦い>
 平良正は桓武平氏の仲間ではあったが、こちらの源氏一派と血縁関係を持ち、源氏の見方をして、将門を攻めたのだ。
平氏同士の内輪もめという構図のように思いがちだが、源護一派と良正が源氏の仲間として加わり将門に対抗するという、関東の最初の源平合戦ともなった。
この護や平良正の動きは将門が知るところとなり、将門軍は935年10月11日に川曲(かわわ:下妻市西南の鬼怒川右岸あたり)に出陣した。
この両軍が日の戦も将門軍の勝利で、良正たちの死者は60余騎、山王神社も焼け、良正に味方した者たちはみな散りじりに逃げ惑ったという。


さてこの続きは次回の載せるが、将門記では、平氏の長男である平国香は、この争いが始まってすぐに死んでしまう。
東国における(特に常陸国における)平氏の系列は、この国香から始まっているといっても良く、また清盛に代表される伊勢平氏も国香の子孫である。
将門記は平将門が中心であるので、残念だが、国香についてはほとんど触れられていない。

あっけなく焼き打ちにあって死んでしまったようだ。
私の住む常陸国の国府があった石岡では平福寺にある五輪塔の真ん中にある大きな墓が国香のものという伝承があるが、住んでいたのは筑波山の西側の石田であり、常陸国国庁には恐らく通うだけだったのだろう。
墓も実際のところは存在するかどうかも怪しい事になる。

(将門記 続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/05/26 12:47

常陸国における源平合戦(5) 平将門の乱(2)

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将門記の前回の続きです。

<良兼の介入>
国香の弟の平良兼は国香と同じく源護(まもる)の娘を妻にしている。また日頃から将門とは不仲であったようだ。川曲村の戦いで破れた平良正は将門の悪口を散々と手紙に書き良兼に送って一緒に将門を成敗してくれるように懇願した。常日頃仲の悪い将門の悪口を信じた良兼はすぐに良正や護の援護を約束した。

<下野国境の戦い>
 良兼はすぐに軍勢を集めて、周りの役人の制止も振り切って、936年6月26日に上総より常陸国を目指して出立した。香取神宮に戦勝祈願をして利根川を渡り、江戸崎辺りで休憩し、阿見・荒川沖辺りを経由してつくばの拠点「水守」の平良正の館に到着した。
そして、到着したのに良正らが迎えに出なかったことにも腹を立て、国香の嫡男の貞盛が将門攻略に参戦していないことから、貞盛にも戦に加わるように説得したのだった。こうして良正、良兼、貞盛の連合軍、数千が下野国に集ったのだ。将門はまさかこんな大群が押し寄せてきていると走らず、敵が集っているとの情報で、100騎ほどで偵察にやってきた。
将門の軍勢に気がついた良兼の軍勢が勢いよく将門軍に襲いかかろうとした。しかしここでも将門軍の徒歩部隊が、良兼軍の先頭部隊に肉薄して迫り、先手を打って攻撃し、人馬80余りが倒された。
これを見た良兼軍は総崩れに成り、下野国府の庁内に逃げ込んだ。このときの下野国府は国分寺町(現下野市)と栃木市の中間あたりにあった。

<将門、伯父を見逃す>
 将門は伯父・良兼が逃げ込んだ下野国庁を取り囲んでいたが、身内の伯父は殺すにしのびなく、良兼だけを逃すために、西側の包囲網を解いた。これは良兼だけを逃がす予定だったが、どうも部下の多くの兵が一緒に脱出してしまった。
将門はこの戦は伯父の上総介(良兼)側が、道理に反して仕掛けてきたことであると近隣にふれ回り、下野国庁から都にも将門が書き残した顛末書が送られた。
しかし、この前に裏にいた源護から将門への告訴状が京都に送られてしまっていたのだ。

<将門の上洛>
 事件が起ったのは承幣年2月4日、源護が書いた将門の告訴状に対して京の役所が動いたのは12月29日。またこの公文書が関東地方の国府に届いたのが翌年の9月7日だという。随分のん気なもののように思うが、当時の役所の動きや手紙の配達速度などはどうなっていたのだろうか。ともかく、送られてきた書状は、「近衛府の下級役人である舎人(とねり)を関東に下して事件の検証を行う」というものであった。将門はこれはまずいと思ったか、自らの意見を述べるために上洛したのだった。上洛した将門は以前勤めていた都の役人を頼りに、左近衛府に出向き、事情を説明し、これが天皇まで届いて説明内容が了解されてしまった。次に検非違使庁に乗り込み、この事案は「厳重注意」で言ってみれば無罪放免となったのだ。また、都では東国からきた英雄のように扱われたらしい。

<恩赦にあい帰国>
 承平7年(1937)4月7日に行われた恩赦により多くの罪人と共に恩赦が下され、将門は一切の罪から解放され、5月11日に都を発って下総へ帰って来た。

<良兼の襲撃>
 下総国へ戻ってきた将門は長旅で疲れて横になっていた。その様子を聞き及んだ良兼はこれはチャンスと見て、8月6日に下総と常陸の境にある「子飼(小貝)の渡し」に出陣してきた。
前回負けていた良兼は今度の戦では、上総介だった祖父の平高望と自分の父親の鎮守府将軍・平良将の似顔絵を陣頭に掲げて戦を挑んできた。
将門もこれにはどうすることも出来ず、また見方も少なかったため合戦せずに逃げ出したようだ。その機に乗じて良兼軍は将門の支配地域の農家などを焼き払い、これが将門の仕業であるように見せかけたのだ。このため、将門はこの地の農民たちから恨みをかうことになってしまった。

<敗残の将門>
 戦いに敗れた形になった将門はすぐに軍勢を整えて4月17日改めて堀越の渡しに布陣し、良兼軍と対峙した。しかし、思わぬ事態が起った。総大将の将門は長旅の疲れか出たのか病気(脚気?)のため動けなくなってしまった。そのため将門軍は戦わずして引き返してしまった。
良兼も戦いが無ければいつまでもこの地の残っていることもできずに下総の屋敷に引き上げた。

<葦津江の遭難>
 将門は病で戦えないために、複数の妻子等と共に、葦津江の岸に避難していた。妻子等は岸辺近くに留めた船に乗せていたが、どこで情報が漏れたか、良兼軍に見つかり、襲撃されて皆殺しにあってしまった。妻には良兼の娘も居たので、彼女は良兼の陣営に連れ戻された。現在桜川市木崎の「后(きさき)神社」にこの時の妻と思われる女性の木像が祀られている。
この良兼の娘は将門のことが忘れられず、弟たちの助けを借りて、上総国の良兼の屋敷を抜け出し、下総国豊田郡の将門のところへ戻ってきた。

<弓袋山の逆襲> 
 妻子たちを奪われ、敵となった上総介・良兼が常陸国の筑波山麓の自分の領地にやって来ているとの情報を得た将門は、9月19日に平真樹などの援軍を入れて1800余騎の軍勢を集め、良兼の領地である真壁郡服織(現:筑西市真壁町羽鳥?)の宿を襲撃し、周辺の領地のことごとく火をつけ焼き払ってしまった。この襲撃で良兼は何とか難を逃れ、近くの山に逃げ込んだ。 良兼の行方を捜していた将門軍は9月23日にようやく筑波山の東北部に広がる谷間に潜んでいるという情報を得て、この周囲を取り囲み、良兼陣営に挑戦状を矢で射込んだ。しかし、この戦のその後については将門記には詳細な記述がなく、将門軍では酒に酔って敵に討たれた者が7人と牛10頭が死んだとなっていて、真樹の陣営は負傷者のみがいたとなっており、良兼陣営の被害はわからない。結局敵陣本部までたどり着けずに将門は兵を引いたという。とうじの兵士は農民の兼務がほとんどで稲の収穫期とも重なり兵を引き上げたものかもしれない。合戦のあった弓袋山は恐らく真壁町側にある湯袋峠付近ではないかと思われる。

<良兼の執念>
この合戦のすぐ後の11月5日中央政府から関東一円の諸国に将門の敵となっていた平良兼、源護、平貞盛、良兼の息子(公雅、公連など)を捕らえよ。という通達(公文書)が出された。しかし、この平氏同士の内輪もめと近隣諸国も見ており、この通達はあまり効果が無く、かえって良兼と周りの役人たちとの結束が深まっていった。

<密偵子春丸>
 将門の館で走り使いを務めていた丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)という者がいた。この男が商売取引かなにかで国香の屋敷のあった石田庄(当時は国香の嫡男の貞盛の領地)に頻繁に出入りしていた。これを知った良兼は彼をうまく利用して将門の情報を得ようと子春丸を呼び寄せ捕えさせた。そして言葉巧みに将門の情報を教えてくれたらいろいろ褒美や出世も約束してやろうと持ち掛けると、子春丸はスパイとして良兼の息のかかった農民をつれて戻り、情報をこの農民を使って連絡させることを約束し、絹2反をもらって栗栖院常羽御厨の近くの自分の家に戻った。そして将門館の見取り図や出入り口の兵士の数などの情報がすべてこの農民スパイから良兼の許に知らされた。

<石井夜討>
 この石井というのは現在の岩井のことである。ここに将門は新たに営所を築いていた。この営所の情報が良兼に漏れてしまった事になる。この情報を得た良兼は、すぐに精鋭の80余騎で承平7年12月14日に夜に夜襲の軍勢を差し向けた。亥の刻(夜10時)頃、軍勢は結城郡法城寺付近の街道に出てここから南下して将門の本陣(石井館)を突く計画であった。しかし将門の部下の一人が法城寺(現在も寺は結城市内にあるが、当時は鬼怒川大橋の西北の八千代高校近辺にあったらしい)にいて、この奇襲を察知して、石井館に知らせた。しかし、ここには将門軍として戦える人数は10名ほどしか居らず、一同あわてたが、将門は鬼のような形相で味方を奮い立たせ自ら夜襲の軍勢に切りかかり、第一の矢で敵の指揮官の多治良利を討ち取り、ひるむ敵の軍勢の40余名を倒してしまったのだ。こうして敵の軍勢は逃げて行ったという。その後、子春丸の密偵(スパイ)が明らかになり、翌年正月に子春丸は処刑された。

<貞盛追撃>
 源護から国香が大掾(だいじょう)職を引き継いでいたが、国香がなくなったため、この職は息子の貞盛に引き継がれていたらしい。貞盛は都に戻って出世を願うと共に、将門を反逆の罪で訴えることを考え京に上る決意をした。そして承平8年2月に貞盛は良兼には内緒で東海道ではなく栃木県側から東山道経由で都へ向かった。これを察知した将門は、都に自分のことを換言すると感じて、これを阻止するため100余騎の軍勢でこれを追いかけた。将門軍は2月29日に信濃国分寺近辺で追いつき、千曲川を挟んで両軍が合戦を始めた。貞盛側は武将・他田真樹(おさだのまき)が戦死、将門側も武将・文室好立(ぶんやのよしたつ)が矢傷をおった。貞盛は機を見て山中に隠れてしまい、将門も諦めて常陸国に兵を引き上げざるを得なかった。
都にどうにかたどり着いた貞盛は朝廷に将門を反逆罪で告訴したのである。

<貞盛の窮状>
 貞盛の訴状により、朝廷は将門の尋問を命じる公文書を下野国府に下した。そして貞盛は6月中旬に京から下総・常陸へ戻ってきた。しかし戻ってくるとこちらの東国では将門追求の機運は無く、しばらく後に伯父の良兼が病死してしまった。10月に平維扶(たいらのこれすけ:桓武平氏、高棟流)が陸奥守として赴任途中、下野国府に立ち寄った。貞盛は陸奥国に同行を願い出て許可された。これは、この機会に将門から逃げるためだったと思われる。貞盛の動きを知った将門は今度こそはと貞盛を阻止しようと軍勢を差し向けて貞盛を探したが、見つからず。将門の動きを知った維扶は貞盛を見捨てて陸奥国へ出発してしまった。
そしてしばらくはお互いの領地で比較的平穏に時は過ぎて行った。

<武蔵国庁の紛争>
 さて、当時下総、常陸などは平氏が次第に勢力を拡大し、平氏同士の争いが起っていたが、武蔵国には源氏が役職を担っていた。そこに承平8年(938)2月に揉め事が起った。武蔵権守を任命された與世王(おきよのおおきみ)と武蔵介を任命された源経基(みなもとのつねもと)が武蔵国にやってきたが、当時地元で権力を握っていた足立軍郡司と武蔵大掾を兼務していた武蔵武芝(むさしたけしば)とが対立した。これはまだ正式な任命状が届かないために現地での受け入れを拒否されたことが理由らしいが、どうも現地では武蔵武芝は信頼されていたようで、今迄あまり現地の政務に口出ししてこなかった中央からの権守や介が、権力を笠に口出しして利益を横取りしようとしたのかもしれない。妨害された與世王と源経基は怒り、国府の兵を集めて武蔵武芝を攻めたため、武蔵武芝は身を隠したのだが、その居なくなった武芝の屋敷やその周辺の民家を襲い、自分たちの役所の物として奪ってしまったのです。これにより地方に着任してきた役人たちの中には、朝廷の権力を背景に夜盗のような存在となった権守や介などが結構居たのかもしれません。これにより武蔵国の民は疲弊し、これを何とか訴えるべく、国府の下級役人の中から上司の失政を訴え、反省を求める書状を武蔵国の庁舎の前に落とし、これにより悪事が武蔵国中に知れ渡ったのです。

<将門、調停に乗り出す>
 武蔵武芝も自分の財産を横取りされ、その返還を求める訴えを出していたが、まったく聞く気のない與世王たちは、これを押さえつけようと軍事行動の準備をしていた。しかし源経基はあまりひどい與世王たちを面白く思っていなかったらしく、その不満が将門の耳に入ったのである。
そして、天慶2年(939)2月頃にこの調停に向かうため、手勢を率いて武蔵国府(埼玉県大宮市)に向かった。ここで武蔵武芝の隠れ家に行って、援護を申し出た。これに喜んだ武芝から将門は権守や介の居場所が2人は軍勢と家族も連れて比企郡の狭服山(入間郡狭山か)に登って居ると聞いたが、将門と武芝は国府に向かう事にした。国府に到着すると、與世王は国府に戻っていて、源経基は居なかったが、将門は武芝と與世王の仲裁のために酒宴を開いた。しかしこの席にいなかった源経基は仲間はずれにされたと思い、その後、将門を反逆者として訴えるきっかけとなってしまうのだった。

<経基の狼狽>
 将門を味方につけた武芝の軍勢が、源経基の陣営を見つけ、それを取り囲んだ。慌てふためいた経基やその軍勢は四方に逃げ出し、その騒動が武蔵国府に伝わり、この武蔵国の騒動はやがて、武芝にそそのかされた将門が、源経基の暗殺を企てている伝わり、源経基から都の太政官に訴えが奏上されてしまった。困った太政官は、この詳細を昔将門が都で仕えていた藤原忠平に調査するように命じた。これはすぐに将門のところへも書状が届き、これにすぐ反論する書状(謀反の事実が無いこと)を、常陸、下総、下野、武蔵、上野の5カ国から国府発行の証書として発行してもらったのである。

<乱人。藤原玄明>
 また当時、常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方を拠点として農地を経営していたと見られる藤原玄明という者が居た。将門記では乱人と表現されているが、この者は領地の収穫物を思うまま横領し、国府には租税を一切納めず、国府の常陸介・藤原維幾はこれに対し何度か公文書で国府への出頭を通告したが、玄明は一切無視して従わなかった。玄明を捕らえるべく維幾は国府の役人を派遣したが、この知らせを受けた玄明は妻子を連れて屋敷から逃げ出した。玄明が将門のところに逃げたという噂を聞いて、将門に身柄引き渡しを要求したが、将門は玄明を匿い、国府からは何度も玄明の引き渡し要求を受けたが、「たしかに玄明はきたが、もうここにはいない」と突っぱねた。

<常陸国庁襲撃>
 一方、将門が命を狙っていた平貞盛が常陸国庁に匿われているらしいという知らせがあった。そこで天慶2年(939)11月21日に玄明の軍勢を含め1000騎ほどで常陸国の国庁(現石岡市)に向けて軍を進めた。一方国府側は3000騎ほどの軍勢で待ち構えていた。石田方面からどのルートでやってきたかは明らかではないが、3方から攻めたとか、小貝川~桜川を超えて恋瀬川畔にやってきたのかもしれない。国庁からはこの軍勢を見ることができたのだろう。そして、将門から国庁へ使者を送って、「国府攻撃は考えていらず、誤解されている玄明に同情している。釈明させてもらい、今まで通り常陸国内に住むことを許可願いたい。」しかし、貞盛を匿っている国司(常陸介)・藤原維幾は、敵の数がかなり少ないとみて、「その要求は受け入れられないのでここで戦って決着をつけようではないか」などと宣戦布告。どうも将門が奇襲攻撃を掛けたというわけではなさそうだ。それではと、将門は国庁に一斉攻撃をしかけた。数で3倍もの軍隊を持ちながら、戦争経験のほとんどない国庁の兵士たちは、将門の軍勢に何もできずに全員打ち取られてしまったという。どうも庁舎の敷地内に国府軍は集まっていたらしい。それに対し、将門軍は周りの民家などに火をつけ、300余戸の家々はたちまち燃え広がり、その火は国庁にまで迫ってきたらしい。これに驚いた国府の役人たちはたちまち降伏してしまった。この時将門の軍勢は国分寺や国分尼寺などにも押しかけ、乱暴を働き、寺宝をみな奪ってしまったのです。また国庁内には常陸国内から集めて、都に置く予定だった絹織物が1万5千反も積まれていたという。これらもすべて将門の軍勢が奪い取ってしまった。しかし肝心の貞盛はこっそりと逃げ出していて、ここにはいなかった。11月29日まで将門軍は国府を占拠していたが、捕虜となった常陸介の藤原維幾から、常陸国の国印と国庫の鍵を取り上げ、国司たちを捕虜として下総国豊田(鎌輪)に引き上げた。捕虜と言ってもそれほど待遇はひどくはなかったようだが、常陸介を捕虜として連れて行き、また国印を奪ったことは、朝廷に対して言い訳のできない反逆行為を将門が行ったとのみなされてしまう結果となってしまった。

<東国制覇の野望>
 常陸国の国司の代理を捕虜にして石田の館に戻っていたところへ、前に登場した武蔵国権守の與世王(おきよのおおきみ)にやってきた。そして「この勝利は素晴らしいが、中央政府は黙っていないでしょうから、この際坂東8か国を征服しませんか? 私も援護します。」とささやいた。これを聞き、将門は、自分も皇室の末裔である。近隣諸国の国印を奪って、都からきている役人などは追い出して、坂東8か国の兵や民を服従させれば、都にも攻め入ることができるのではないかと野望を抱くようになった。そして、天慶2年(939)12月11日将門は軍勢を下野(しもつけ)国へ向かわせた。下野国府は現在の栃木市にあった。将門の本拠地からは直線距離で50kmほど。平穏にのんきに暮らしていた下野国庁は国司交代のために、藤原公雅(きんまさ)、大中臣全行(おおなかさとのまたゆき)、新旧2人の国司が庁舎にいた。そこに立派な武士軍団が勇ましい格好で庁舎を取り囲まれ、国司2人は、常陸国の話が伝わっていたので恐ろしくなり、将門にひれ伏して自ら下野国の国印と国庫の鍵を渡してしまったのです。将門の軍勢にまったく手も出さずに奪われてしまった下野国。2人の国司は恨み言を残して、家族を連れて追い出され都に寒い中を徒で戻っていったという。

<新皇僭称>
 2つの国を奪った将門が次に向かったのは上野(こうずけ)国だった。向かったのは翌年(940年)2月15日。この時上総国は上野介・藤原尚範がいた。ここもほとんど抵抗できずに上野介は捕えられ、2月19日に都へ追放されてしまった。国印などは下野国では国司みずから渡したとなっているが、上野国では将門軍が奪い取ったというから多少の犠牲者は出たのかもしれない。
その頃南海において藤原純友が反乱を起こしているが、この純友はこの上野介・尚範の甥である。東国だけではなく、南海でも朝廷の政治に不満がたまっていたのかもしれない。将門の本拠地である下総国も含め4か国が将門の手に入ったのである。それも天皇家の蓄財の親王任国が半分(常陸、上野)を占めているのだから天皇家の皇族たちが慌てたのも無理はない。将門軍は上野国の庁舎を囲む塀の門をすべて閉じ、軍勢で固めた。その時将門の前に「我は八幡大菩薩のお使いである」と名乗る一人の巫女があらわれ、「朕が位を蔭子(おんし=名門の子孫)平将門に授け奉る。その位記(証拠)は、左大臣正二位菅原朝臣(菅原道真)の霊魂(天神様)が示し奉る・・・・」と神託を述べたという。将門はこれを良いことに「新皇(しんのう)」を宣言した。

<摂政忠平への書状>
 将門は都で仕えていた主君である、摂政・藤原忠平へ手紙を書いた。そこには今までのいきさつを将門の立場で説明し理解を求めたものであった。この手紙の実在については明らかでなく後に付け加えられた創作という見方もある。ここにはこれまでの顛末を将門の立場から詳細にのべているが、ここに紹介するのは長くなるのでやめておく。

<将平・員経の諫言>
 将平は将門の弟で大芦原四郎と呼ばれる人物で、員経(かずつね)は伊和員経であり、将門の側近である。この2人があまりの将門の高まる思いを諌めようと、「帝王の地位は人事の及ばない所にあり、天から与えられたものしかなれません。このままでは後世の人々から非難されましょう。どうか、思いとどまってください」と諫言した。これに対し将門は「将門は坂東一帯に武名を轟かせ、戦上手は都にまで聞こえている。こんな時代は必ず合戦に勝った者が君主となる。力のある者が制するということは、異国にも例がある。今我が軍は漢の高祖の軍にも劣らない。今都からの軍勢が攻めてきても足柄山と碓氷峠の関を堅守する自信もある。何も心配することはない。」といった。一旦はこれで引き下がった側近の員経は、また後日、将門に次のように諫言した。「このままでは国家が争乱に巻き込まれ、危険となります。古来から天命に逆らえば忽ちにして禍が生じ、帝王に背けば重罪はまぬかれません。どうか新皇におかれましては耆婆(ぎば:古代インドの名医で反逆に走る兄を諌めた)のような方々のお言葉に耳を傾けて下されますようお願い申上げます。」これに対し将門は「優れた才能も、ひとによっては己の身を滅ぼす罪ともなるが、人によっては身を助ける喜びともなる。君子となった自分が、一度決めた言葉は取り消せない。実行するしかないのだ。」と

<新政府の構想>
 将門や、武蔵権守・與世王や藤原玄茂らは新皇の宣旨(せんじ)として、坂東一帯の国司の任命を行った。
下野守:平将頼(将門の弟)
上野守:多治経明(将門の重臣)
常陸介:藤原玄茂
上総介:與世王(武蔵権守と兼務?)
安房守:文屋好立(将門の重臣)
相模守:平将文(将門の弟)
伊豆守:平将武(将門の末弟)
下総守:平将為(将門の弟)

<京中の騒動>
 将門の新皇樹立で、諸国の国司たちは震え上がり京に逃げ帰ってしまった。武蔵や相模など国司が不在となり、将門は易々と国印や鍵を抑えることができ、国府に残っていた役人にはそのまま仕事をさせた。そして都には「平将門が新たに天皇の位に就く」と書状で申し送った。
朝廷は大慌て、天皇(61代朱雀天皇)もまだ10代と若く、仏様に自分の命があることと、この騒動が無事に治まるを祈るばかりだった。また神社仏閣では邪悪の追放、悪鬼退散を祈願した法要などが頻繁に行われた。将門は京の都で反逆者として恐れられる存在となってしまったのです。

<常陸掃討>
 相模国から戻った将門は、天慶3年(940)正月中旬に、平貞盛と藤原為憲の追討するために、まだ疲れの残る5千の兵を率いて常陸国の北部に向かった。それに対し、この将門(新皇)の軍を那珂郡および久慈郡にいた藤原氏などの役人はあわてて(郡)境まで迎え、「貞盛等の逃亡者はこちらには居りません。また噂では浮雲のように飛び来て飛び去ってしまいましたので行き先もわかりません」という。10日ほど探したが、敵兵の一人も発見できず、仕方がなく将門は自分の館へ戻って行った。

<貞盛の妻への恩情>
 貞盛らは妻子を非難させ、別にどこかに隠れていたらしく、将門の捜索で、平貞盛の妻と源扶(たすく:源護の息子で、最初に将門を襲撃した首謀者の一人)の妻らが将門軍の先陣隊により捕らえられた。この知らせが本陣の将門の本隊に届いて、すぐ「乱暴はするな」と命令を出したが、伝達に時間も掛かり、捕らわれた妻たちはかなりひどい目に合わされたという。
また、将門からは「戦場で放浪している女性は本来の主の許に返すのが古来からのしきたりである。身寄りが無ければ然るべき救いの手を差し伸べるのは帝王としての範とすべきだ。」といって、これらの女性一襲(ひとかかえ)の衣服を与え解放した。 
そして次のような歌を贈った。
  「よそにても風の便りに吾ぞ問ふ
        枝離れたる花の宿りを」
これに対して貞盛の妻、源扶の妻もそれぞれ返歌を返した。
  「よそにいても花の匂いの散りければ
        我が身侘しと思ほ得ぬかな」
  「花散りし我が身もならず吹く風は
        心もあわきものにざりける」
原本はお互いの心が和み将門への憎しみも安らいでいった・・・・などとある。
まあ最初に書いた争いの始まりの女性をめぐる争いとしてこの女性が関係していたという説もあるが、原本には書かれていない。

<秀郷の登場>
 貞盛等を追いかけて常陸国北部までやってきた将門であったが、多くの日を費やして探したが妻子たち家族しかとらえられず虚しく下総へ戻ってきた。多くの兵士も家族の所へ戻るなり将門の周辺には千人にも満たない兵士がいるだけであった。陣内は正月でもあり、のんきな様子であった。そんな様子が隠れていた貞盛の陣営に伝えられた。
将門攻略のチャンスととらえた貞盛は軍勢を集めた。そこに登場するのが、当時下総国の押領使(おうりょうし)を勤めていた藤原秀郷である。押領使は、基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が兼任し、その国内の治安の維持にあたっていた。一部では一国に限らず東海道や東山道といった諸国を統括すし、安維持や警備にあたっていた場合もあるようだ。またこの押領使には、土地の豪族を任命することが主流で、軍備力も、自らがその地おいて持つ私的武力が中心であったという。朝廷からの将門討幕命令を受けているので貞盛と秀郷の軍勢は合わせて四千騎余が集まった。その軍勢が将門の本拠地を目指して行動を開始した。この動きは将門陣営にも届き、陣営に残っていた軍勢千騎ほどで迎え撃つために出陣した。時は天慶3年(940)2月1日であった。そして藤原玄茂の部下の中から多治経明、坂上遂高の軍勢が前方に出て偵察すると、多治経明の部下が、敵の大軍、それも四千もいるであろう軍勢を発見した。多治経明も我は「一騎当千の武士」と豪語しており、これは手柄を上げるチャンスとばかり、後ろの本部隊には知らせず秀郷らの軍勢の中に突撃した。しかし思いのほか秀郷軍は強く、これは撃破されてしまい、この敗北は本隊に伝えられた時はすでに遅く、将門軍は兵を引いて、体制を立て直さざるを得なかった。

<川口村の戦い>
 将門軍は兵を引き上げて一旦下がって、川口村(下総国川口村:下妻市と古河市の中間辺り)附近にやってきた。敵軍が後を追ってきたが、将門はここで体制を整えて反撃に出た。戦闘は将門が先頭に立ち雲上で鳴り響く雷のようにすさまじく、最初は将門軍に押されっぱなし出会ったが、貞盛の「敵は賊軍、われらは政府の軍隊である。怯んではならない。」の激に奮起してか西に日が傾いてきた頃次第に貞盛・秀郷軍が挽回してきた。弓矢の数で勝る貞盛軍の放つ多くの矢は効果的で、将門の本拠地の岩井にも近いこの場所の戦は貞盛軍の勝利となり、将門軍は退却せざるを得なかった。

<北山の決戦>
 川口村で勝利した貞盛は近隣から言葉巧みに兵を集めた。集まった兵は今までの倍ほどになった。そして天慶3年2月13日に将門の本拠地へ向かった。
一方将門は、敵も疲れていると見て、敵をひきつける作戦で、手持ちの軍勢で猿島(幸島)の広江(広河の江:湿地帯)に潜伏した。本拠地に将門がいると思って攻め込んできた貞盛たちは、将門がいないために多くの家屋に火をつけ、家財道具などを破壊して回った。住民たちや僧侶たちはそこから逃げるしかなかった。将門には常に8000の兵がいたようだが、多くの兵がそれぞれの故郷に帰ったりしていて、急には集められず、この時、将門軍はわずか400余の兵しかいなかったという。その兵たちを集めて、将門は北山(現在の岩井市北部)に陣を布いた。一方の秀郷・貞盛連合軍は強力な布陣で、まだ将門の援軍が到着する前を狙って攻撃を仕掛けた。

<将門の最後>
 先頭が開始された時は強風が吹いており、将門軍は風上にいて順風を得て、将門軍は優位となった。将門軍の騎馬武者が攻めてくる敵八十余を討ち取ってしまった。これに恐れをなした貞盛たちの兵士が逃げ出し、三百余の兵士しか残っていない状態になった。この時に風向きが変ったのである。今まで将門軍に優位に吹いていた風が反対になったのである。貞盛軍たちもこの風を味方につけ反撃してきた。将門はこの中でも鎧兜に身を固め、軍の先頭に立って風に向かって駿馬に鞭打って戦ったのである。その時、どこからともなく強風に乗って飛んできた鏑矢が将門の右の額に命中した。大将は普通は味方の軍の後ろにひかえているものだが、将門は先頭に立ちその猛威を存分に示していたが、不死身の伝説もあっけなく尽きてしまった。将門の死は天慶3年2月14日のことであった。
将門記での記述は無いが、首は刎ねられ、京の都に送られ、さらし首となり、都の人々はそのあまりの形相に震え上がり、その首が空を飛んで岩井に戻る途中、力尽きて江戸に落ちた(将門の首塚)などという伝承もその後生まれた。

<将門悲傷>
 将門の死により、捕虜となっていた常陸介・藤原維幾と交替使・藤原定遠らは無事に解放され、将門の死の翌日の2月15日に常陸国府まで戻ることができた。中国の古書・左伝には「悪徳を貪り、公権に背くことは、猛威を過信して無謀にも鋭利な刃物を踏む虎のようなものである」と書かれている。平素から学業には重きをおかず、武芸のみに熱中しており、これが原因で親類縁者を敵として戦う事になった。その結果、中国の古書にある黄帝と炎帝の戦いで版泉の地に滅んだ炎帝のように、合戦で敗れて命を失い、さらに謀反人として永く汚名を残す事になってしまった。

<余類伏誅>
 余類伏誅(よるいふくちゅう)とは、将門の関係していた者たちが次々に殺されたということだ。賊首の兄弟及び伴類等を追捕すべきという官符が正月十一日を以て東海道東山道の諸国に下された。これにより平将頼(弟)、藤原玄茂らは相模国に逃れたが、ここで殺害された。また與世王は上総国で、坂上遂高(さかのうえのかつたか)・藤原玄明は共に常陸国で見つかり殺害された。征討軍の先手であった藤原忠舒は下野少掾(しょうじょう)に押領使(おうりょうし:現地の豪族から選ばれた官憲)を任命して、4月8日から謀反人の探索を始めた。これにより各地に潜んでいた将門の親族たちが山伏となり山中に隠れたという。

<論功行賞>
 天慶3年3月9日、中務省からこの軍功に対して、次の論功賞が行われた。
・源経基:正六位上から従五位下に叙された
・藤原秀郷:従四位下に叙された
・平貞盛:正五位に叙された

<乱後の余塵>
 平将門の行動を評すれば、誤った考えから、身分を超える野望を抱き、流れゆく水のように儚い生涯を終えたのであるが、「虎は死んでも皮を残し、人は死後に名を遺す」という諺のように、自分の身は滅びたが、敵の勝った者たちは思いもかけぬ恩賞を得たのであるから真鍮悔いはないであろう。一人の武人が謀反の心を抱いたことで坂東八か国に騒乱が起きたのである。一族の妻子兄弟姉妹らは居場所を失い、身を隠す場所すらなくしてしまった。それまで雲の如く群がっていた平氏やその家族たちも敗戦とともに逃げ散ってしまい、多くの者はまた途中で討たれ閉ったのです。また肉親たちはバラバラになり、別れ別れになってしまいました。大空の雷鳴は百里の遠方まで響き渡るが、将門の悪名はそれをはるかに超える千里の果てまで知れ渡ったのです。

<冥界消息>
 将門の死後、世間では次のようなことが言われた。
「平将門は、前世の因縁で、東海道は下総国豊田郡に住んでいた。殺生に明け暮れ、少しも善根を施すことがなかった。この将門も限りある寿命で遂に滅んでしまった。
また、噂話として、討たれた平将門は、今、仏道に言うところの三界の国、六道の郡、五趣の郷、八難の村に住んでいて、使者に伝言して近況を伝えてきた。それによれば、
「私、平将門は世に在る時一つとして善行を施したことがなかった。その業により、今は悪道(地獄)に堕ちることとなって、この住所に苦しみながら棲んでいる。私を悪人と訴える亡霊が地獄にも1万5千匹も居て毎日、私を苦しめる。現役の時に為した部下の罪もすべて私一人で背負わねばならない。剣の柱に身を置き、鉄柵の中で火に焼かれ、たくさんの毒を食べさせられ、毎日忙しくて苦痛な日々をおくっている。月に1日だけ休日があるが、これは現世に居た時に願掛けした今光明経の功徳である」とのこと。冥界では人間社会の12年が1年に当り、12ヶ月が1ヶ月、30日が1日だという。月に1度の休日は人間社会では1年に1度になる。
最後に将門の霊魂は「生き残った者たちよ。他の為に慈悲を施し、悪行を消す為に善根を積むことを心掛けて欲しい。美味であったも精進を忘れて生きものを殺してはならぬ。たとえ心中に惜しんでも仏僧への施しを忘れてはならぬ・・・」と書かれ、事件直後の「天慶3年6月中に此の文を書いた」とある。
この最後の文はいかにも僧侶の言葉のようで、恐らく作者が近くに住んでいた僧侶だと考えられる根拠になっている。

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さて以上が将門記の概要であるが、皇室を降下した平氏であった将門は、根っからの悪人ではなく、お人よしで、人一倍女にもてて、戦えば負けることを知らないような者であった。それが周りの取り巻きにおだてられ、東国八カ国を手に入れ、新皇王を宣言して、国が2つ(当時まだ東北北部と北海道は大和朝廷の力の及ぶ領地ではなかった)に分けることが出来ると本当に思ったのかもしれない。東国では都の力があまり及ばず、山賊や狼藉を働くものも各地でいたのであろう。一時の夢に終ったが、東国人にとって汗水して得た食料や衣類などを、中央から来た役人どもに搾取されたことも多かったのかもしれない。この将門の事件は短期間で決着がついたが、東国の庶民にとっては拍手喝采の部分もあったのだろう。それが将門の数々の伝説を生み、神田明神をはじめ多くの神社などに祀られ、庶民の心に深く残って行ったものと考える。
 しかし、実際の歴史は、皇室に刃向かって新たな王を樹立するという暴挙に出たとして、大悪人として名前を残す事になったのだ。また、この大悪人をやっつけた藤原秀郷は一躍有名になり、日光山縁起にからめたムカデ退治(俵藤太)の伝説が生まれ、その後の鎮守府将軍に任命され、東国における源・平に匹敵する第3の勢力である藤原秀郷流武士団(小山氏、結城氏、長沼氏、皆川氏、佐野氏、小野寺氏、那須氏、藤姓足利氏、鎌田氏、波多野氏、奥州藤原氏、紀伊佐藤氏など)の発達につながって行った。また平貞盛も、その後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙さられた。貞盛は源護、平国香と引き継がれてきた常陸大掾職を弟繁盛の子維幹を養子にして任命させ、その子孫が大掾職をほぼ独占で世襲したため、一般には子孫も大掾氏と呼ばれるようになって行った。常陸国南部を中心にこの大掾氏を中心とした平氏一族が戦国時代末期までそれから600年に亘って治める事になったのである。

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/05/28 12:35

常陸国における源平合戦(6) 常陸国における源氏のはじまり


源平合戦(6)

さて、ここまで常陸国における源平合戦として、平氏の始まりを書き、続いて平将門の乱を書いて、平氏の坂東武者の広がりを見てきた。
次は源氏の始まりを書こうと思うのだが、何時の時代から書くか迷ってしまった。
一般には新羅三郎義光が常陸介でやってくる辺りからなのだと思うが、その前に将門の乱の最初の始まりにもなった武蔵国の争いの仲裁に将門が乗り出したことが、この乱の始まりの原因の一つともいわれているおり、これが東国の源平の最初にもなっているようにも感じたので、少しそのあたりから見て行きたいと思う。

源氏系図

さて、上の系図に東国、常陸国の源氏の流れを表してみた。

1) 前に書いたが、天皇には子供がたくさんいて、天皇になれない皇子は親王になりますが、それも多くなると与えるべき職も無くなります。そのため、西暦826年に上総、常陸、上野国の3国が親王任国となり、これらの親王が形の上でこれらの国のトップである太守を2~3年で交代するようになります。そしてそれらの親王の子供たちの多くが臣籍降下して源氏や平氏の姓をもらって民間に天下ってきます。

2) 東国の源氏の流れは、この源氏の中でも、第56代清和天皇の第六皇子である「貞純(さだずみ)親王」の子孫が源氏となって発展した家系です。貞純親王も上総(かずさ)国や常陸国の太守となったようですが、当然のことながら、親王任国の太守は形ばかりであって、京の都にいて現地にはやってきません。
源氏も皇室から臣籍降下して多くの源氏姓が発生しますが、そのなかでもその後の武士社会になっていくうえで最も有名なのが、この貞純親王の息子たちから始まった源姓です。この清和天皇の皇子のうち4人および、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏となっています。

3) 貞純親王の皇子の経基(つねもと)が源氏姓賜与された後、承平8年(938年)に武蔵介として現地に赴任します。
この時に時を同じくして武蔵権守として赴任したのが将門の乱での首謀者の一人となった「興世王(おきよおう)」です。
この二人が正式な手続きを終える前に、この地方の豪族などから強引に貢物などの賄賂をよこすように命令を出し、それを拒否した在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝にたいして、経基らが兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行いました。武蔵武芝からの助けに応じた将門は仲裁するつもりで武蔵国にやってきて、経基や興世王との間で戦となりました。経基たちは将門の勢いに負けて、山に逃げ込みました。
興世王はその後、将門をおだてて仲間となり、その結果東国の国府を攻める事になってしまいました。
結果は前回書いたとおりです。

4) 一方、もう一人の(源)経基は暫く山に逃げ込んで隠れていましたが、その後隙を見て都に帰って行きました。そして将門を朝廷に訴えたのです。でも、この結果は恩赦もあり、将門は許されて下総に帰って来ました。

5) 最後は将門は朝廷からの謀反人として攻められる事になり、藤原秀郷(俵藤太)の活躍で滅んでしまいました(940年)。この源経基も将門攻略に出かけていますが、現地に来たときはすでに乱は鎮圧され、その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めました。

6) 経基の嫡男の満仲も都で貴族(武官)をしていたが、都の治安維持に活躍し武門の各国の国司などを勤めた。その後摂津国(大阪)に土着し、摂津源氏として活躍する鎮守府将軍・源頼光など摂津や京での武士集団として活躍するようになります。
この頃の都における官僚組織のトップのほとんどが、藤原氏(中臣鎌足から始まる)によって占められており、源氏の諸氏はこの藤原氏に仕える武士団として活躍していました。源頼光などが、丹波国大江山の酒呑童子退治伝説などで有名になりますが、それがどのように生まれて行ったのかは、今回は東国の源平ですので、話は又の機会にしたいと思います。

7) 上の系図にあるように攝津国に住した満仲には多くの子供がおりましたが、東国の源氏に関係するのは三男の源頼信(968-1048)です。源頼信は、兄・頼光と同じく関白の藤原道兼や道長に仕えて、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任しました。また武勇の誉れが高く、道長の四天王の一人といわれ、河内国石川郡を本拠地としたため、この源氏は「河内源氏」と呼ばれるようになります。
1028年に甲斐守であったときに、東国の房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で、将門の乱以来といわれる「平忠常(平良文の子孫)の乱」が起っていた。しかも朝廷は討伐軍を派遣するが、なかなか平定できずに3年も争いが続いていた。
そこで、この乱の平定に有力武士であったこの源頼信が起用されると忠常はあっさり降伏したのです。ここも平氏と源氏の争いと言えますが、実は平氏も源氏も都においては共に武士軍団としては同じように活躍しています。
藤原道長の四天王は、平維衡・平致頼・藤原保昌・源頼信です。
平維衡(これひら)は、将門に敵として追われた平貞盛の四男で、その後の平清盛などを輩出する伊勢平氏の祖となる人物です。
もう一人の平致頼(むねより)も国香の弟である平良兼の嫡子で、坂東平氏の流れをくむ人物です。

8) さてここからが東国の源氏の流れとなる「源頼義(よりよし)」の登場です。
源頼義は父の源頼信と共に都では武勇の誉れが特に高く、「平忠常(平良文の子孫)の乱」の鎮圧に父と共に東国にやってきます。この親子が来ると知った平忠常はたちまち降参して乱は収まってしまったといいます。

9) この武勇が伝わると、桓武平氏の直系とも自負する平直方が武勇の誉れ高い頼義を自分の婿に欲しいと願いでたのです。そして、直方は自分の所有していた鎌倉の土地を頼義に譲ったのです。ただ、頼義も源氏の嫡男ですので源氏姓を棄てることはなく、直方は娘を頼義に嫁がせました。平直方も少し複雑ですが、平貞盛の孫であり桓武平氏国香流を継いでいます。このあたりはまた次回にでも書きたいと思います。この鎌倉の土地がその後の河内源氏の活動の拠点となり鎌倉に幕府ができた要因になります。
この妻との間に、その後有名になる三人の子どもが生まれます。
元服した神社などの名前を取って、それぞれ「八幡太郎義家」「賀茂次郎義綱」「新羅三郎義光」です。

10) 頼義も武勇の誉れとしては高かったのですが、都の官位昇進の面では弟の頼清の方が早く出世し、5年ほど遅れを取り、50歳を目の前にしてようやく相模守を受領ました。

11) 永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が奥州の安倍氏に敗れ、陸奥守を更迭されると、朝廷は頼義を陸奥守とし、さらに鎮守府将軍も兼任させる命令を出します。
この時に、頼義は長男の八幡太郎義家を伴って行きます。そして、陸奥へ向かう途中に常陸国の国府(現:石岡)にも立ち寄っています。(また詳しくは後に書きたいと思います)
この奥州の安倍氏の乱を平定したのが前九年の役と呼ばれるものです。この平定には途中で戦いが中断したりしたこともあり、実際は九年以上の十二年ほどかかっていますす。大分苦労はしますが、安倍氏との争いは、同じく奥州の豪族である清原氏の協力が有り、1062年に安倍氏を滅ぼします。

12)その後、奥州では安倍氏に変わって清原氏が勢力を持ち、陸奥国の覇者をねらう清原氏がねらうようになります。
そのため、今度はこの清原氏を朝廷の命令に従わせるために、頼義の長男の八幡太郎義家源義家が陸奥守となり、奥州へやってきます。この清原氏の鎮圧平定が1083年~1087年の実質三年間であり、後三年役と呼ばれます。

13) 後三年の役では、当初義家軍は苦戦を強いられていました。そこに義家の弟、(新羅三郎)源義光が戦闘に加わりこの戦いに勝利しました。(1087年)

14) 後三年の役が終わり、都に帰った源義光(新羅三郎)は常陸介に任じられて常陸国に再びやってきます。
そして勢力を拡大していた平国香の子孫(大掾氏)から妻を迎えこの地での地位を築いていきます。
しかし、鹿島神宮領域の争いで追放となり次男の源義清(武田冠者と呼ばれる:常陸国勝田付近の武田郷に住んでいた)と共に甲斐国に移り住みます。これが甲斐武田氏の始まりといわれています。

15) しかし、武田氏となったのは義光の次男で、新羅三郎義光の長男、源義業(よしなり)がは常陸国太田の有力豪族の娘を妻に迎えます。この源義業が妻の里である(常陸)太田の地にやって来て、そこを地盤に活躍するようになったのです。
これが戦国時代に常陸国を制した佐竹氏の祖となって行きます。

(続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/03 14:51

常陸国における源平合戦(7) 常陸大掾氏(多気大掾)

源平合戦(7)

さて、かなり細かくい今まで書いてきているので、わかりにくいかもしれませんね。
しかし、書き始めたのでこのままのスタイルで最後まで進めたいと思います。

さて、今回のテーマは将門の乱の後に、常陸の地(とくに南部)で勢力を持った「平氏」の話です。
一般に常陸大掾(だいじょう)氏と呼ばれる平氏です。

掾(じょう)は国司の位の一つで、すでにこの「常陸国における源平合戦」の(1)に書いています。

守、介の下の位です。また大国には大掾(だいじょう)、少掾(しょうじょう)の2名がおかれました。
常陸国は大国でしたので、大掾・少掾がおりました。

また親王任国でしたので、守は皇室の親王がなる(太守)決まりとなっていましたので、これは形だけのものでした。
また介(常陸介)も現地に来ても数年で交代します。
そのため、現地のトップとして、地方豪族などを統括する役割はこの大掾(だうじょう)が握っていました。
そして、この職をこの常陸に勢力を伸ばした平氏が世襲のようにこの職を守って離さなかったのです。

そのため、その後、姓は平(氏)ですが、大掾氏と呼ばれるのが一般的となってきました。

常陸大掾氏関係図1-1


上の系図に常陸国大掾氏として、現在のつくば市北条の多気(たき、たけ)山に城を築いて、鎌倉幕府の初期まで続いた氏族「多気大掾氏」について説明していきます。

(平)貞盛: 父の平国香は筑波山の北と西側に勢力を持っていた常陸国の大掾職を任されていた(源氏の種族と思われる)源護(みなもとのまもる)の娘を妻に迎え、この大掾の職を国香が継いでいました。
しかし、住んでいた石田(現:筑西市東石田)の館を将門に襲われ、無念の死を遂げます。この悲報を京にいて知った国香の長男の貞盛は、将門追討のため下向するが将門討伐に失敗し、また都に逃げ帰ります。その後坂東の6カ国を手に入れた将門は新皇を自ら宣言し、朝廷に対する反逆者となります。そして将門の追討命令が出されます。都で時をうかがっていた貞盛に、将門軍が多くの勢力を休ませて手薄な時を狙って、大群を率いて将門追討に出ます。
また、これに下野押領使藤原秀郷(ひでさと)が味方したために、将門は400人ほどの兵で、この貞盛・秀郷の連合軍約4000人と合戦となり、将門はついに馬上で矢を受けて倒れたのです。
この将門追討の功績で、(平)貞盛は、従五位上に任じられ常陸に多くの所領を得ることになります。
その後、鎮守府将軍や陸奥守などを歴任し、従四位下に叙せられ「平将軍」と呼ばれるほど出世します。
ただ、貞盛には繁盛(しげもり)という弟がおり、兄の貞盛と共に将門追討軍に参戦したのですが、こちらに対する論功行賞はなかったようです。
これに不満を持ったようですが、この常陸国の大掾職はこの繁盛が継いだようです。住んでいたのは将門追討の時の貞盛側の拠点であった水守(みもり;:現つくば市水守・・・後の小田氏の拠点となった小田城の北西側)であろうと考えられます。
記録として残っているのは繁盛が大般若経600巻を書写して、寛和2年(986年)に比叡山延暦寺へ奉納したことくらいでしょうか。この計画も当初、武蔵国の平忠頼・忠光らの妨害で、成し遂げることが出来ず、争いも起こりますが、これは各国の国衙を経由して奉納するという条件で比叡山への奉納を成し遂げることができたようです。600巻を書き写すのにどれくらいの年月がかかったかはわかりませんが、将門の死後46年後に成し遂げるのですから、この間の多くの時間をこの書き写しに費やしていたように思います。
さて、都で成功した兄の貞盛は実子の他に多くの養子を迎え、各地の役務につかせていたようです。
やはり常陸国の大掾職は貞盛にとっても欲しい職だったのかもしれません。この弟・繁盛の子の「維幹」を自分の養子にします。

維幹(維基)(コレモト):貞盛の弟の繁盛の子であり、貞盛の養子となって常陸大掾職につきます。
それ以来この常陸大掾職がほぼこの一族で世襲されて(実際はかならずしも世襲されず、これが世襲されたとまでは言えないとする考え方もあります)、名前に「幹(もと)」という漢字を入れた平氏がここに始まります。
そのため、国香などから大掾職が始まったというよりは、大掾氏の実質的な祖はこの「平維幹」と言ってもよいと思います。
最初は、筑波郡水守(みもり)(当時の記録には水漏と記載あり)に住み、990年頃に近くの多気(つくば市北条近く)に移ります。
記録としては、「宇治拾遺物語」に、
・維幹が京都に訴訟で上ったとき、高階成順の娘を見初め、妻にして常陸に帰った。
・二女をもうけたが、やがて歳月を経て妻は死んだ。
・その後維幹の妻の妹が夫の常陸介にしたがって常陸にやってきた。
・まもなく任期が終わって都に帰るとき、維幹は二女を遣わして餞別を贈らせた。
・二人の娘はそれぞれ逸物の良馬10疋ずつと、皮子(籠)を負った馬100疋ずつをおくったので、常陸介は維幹の娘たちの富裕におどろいた、
という話が記されています。(石岡市史より)

為幹(タメモト):常陸大掾。
・寛仁4年(1020年)ころ、維幹・為幹父子の勢力は強大で、常陸介を圧倒するほどであった。
・当時、為幹は父と同じく従五位下に叙されており、富力と権力をもって粗暴な振る舞いが多かった。
・寛仁4年7月。紫式部の弟の常陸介藤原惟通(これみち)は常陸国府で死んだ。この時、為幹が惟通の妻子を奪い取り、強姦するという事件がおこった。
・惟通の母が朝廷に訴えたが、為幹は権力に任せて病気を理由に出頭しなかった。
・日々莫大な献物を貴族達に贈っていたことが分かっている。
・結果としては為幹は1年間京都に留められ、1021年に罪を許されている。

繁幹(重幹):上総介。
・源義家(八幡太郎)の弟の新羅三郎義光が常陸介在任中に繁幹(重幹)と婚姻関係を結んでいる。
・嫡男の義業に繁幹(重幹)の子清幹の娘をめとらせ、生まれた昌義が佐竹氏の祖となった。
・1106年(嘉承元)源義国と佐竹氏側で合戦した。

致幹(ムネモト):多気権守。
・東城寺の裏山から発見された経筒には1122年と1124年 平朝臣致幹 銘の経筒が発見されている。
・後三年の役に参加。
・致幹の兄弟は、水戸および結城・真壁方面に進出した。清幹は吉田次郎といい、その3子は吉田太郎盛幹・行方次郎忠幹・鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田・行方・鹿島氏の祖となった。
・「奥州後三年記」には、源頼家が安倍貞任を討つために陸奥国に下ったとき、多気権守宗基(致幹)の娘と旅の仮屋で逢い女子を生んだ。その子が美女で清原真衡(さねひら)は、この女を迎えて養子の成衡の妻にしたと記されている。

直幹:常陸大掾。
直幹の四男長幹は真壁に築城して真壁氏となった。

義幹:常陸大掾。
・1193年大掾職の座を狙っていた守護の八田(小田)知家が策謀を巡らし、源頼朝へ曽我兄弟の仇討ち事件の混乱につけ入り、「義幹謀叛の噂あり」と讒言をした。八田知家は藤原北家宇都宮氏の直系で、当時この北条近くの小田に城を構え、小田氏と称されていた。
・義幹は鎌倉に呼び出され、大掾職を解かれ、領地没収となり失脚し、多気氏は滅びた。
・次男茂幹は芹沢氏(新撰組の芹沢鴨はこの一族)となり、常陸国に戻ってきた。

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(北条の町に残されている多気太郎:平義幹の墓:五輪塔)

99s.jpg
(小田氏は、この写真の北条の町中に残された灌漑用の水路の整備を、鎌倉幕府に謀反の証拠として換言したといわれる)

この鎌倉幕府(頼朝)によって領地没収となった多気氏がその後どうなったかについては以前書いた下記の記事にあります。

手奪橋(5) ⇒ こちら

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/06 16:26

常陸国における源平合戦(8) 吉田(馬場)大掾氏

源平合戦8

常陸国の源平合戦(8)になります。
前回、常陸国南部に勢力を持った桓武平氏の直系である「多気大掾氏」を紹介しました。
しかし、この大掾(だいじょう)氏が当時どのように呼ばれていたのかは不明で、大掾職(官職)が必ずしも世襲とはなっていなかったとも言われ、正式に大掾氏と呼ぶのにはふさわしくないという話もあります。

ただ、ここからこの常陸国の平氏が始まりますので、ここは多気大掾氏と呼んでおきましょう。

また、奈良朝のはじめから、常陸国の国衙(政務を行う中心)は現在の石岡市にずっとありました。
このため、この多気大掾が大掾職を履行するためには、石岡の政庁に行く必要があります。
しかし、この頃の記録にあまり大掾氏の印が押されておらず、主にこの石岡地方に居を構えていた「税所(さいしょ)氏」の印が押されていたようです。

この常陸国の大掾氏がどの程度政務などを行っていたのかについてもあまり記録がありません。

税所(さいしょ)という名前は、常陸国全般の税をとり纏める役職から、このような名前で呼ばれるようになったもので、元々は百済(くだら)氏と呼ばれていました。大和朝廷が、百済から亡命してきた百済王国の人を常陸国にも何人か送り込んでいますので、そのうちの一人だと思われます。

さて、1193年に鎌倉に呼び出されて、所領を没収され、この多気(北条)の地を追われて、この平氏の流れはいったん途絶えるのですが、鎌倉幕府(よりとも)は、この大掾職とその没収した多気氏の所領を、換言をした小田氏(八田氏)に与えず、当時水戸近郊の吉田郡にいた多気大掾氏の親戚に当る吉田氏に任せる事にしました。
(多気大掾:平繁幹の次男の清幹が、水戸明神のあった現水戸一校野球場付近に館を構えた。この地が吉田神社の一部であったため、この館を吉田館とよび、この一族(平氏)は吉田氏と呼ばれた。但し、正式な氏は平(たいら)である。)

頼朝は平家との戦の前に、常陸太田にいた佐竹氏の勢力を押さえ込んでから、戦いに入っており、まだこの常陸北部に勢力を持っていた佐竹氏を封じ込めるためにも、この水戸での足場を固めておきたかったのかもしれません。

常陸大掾氏関係図2

資幹(助幹)(すけもと) :
1193年八田(小田)氏の讒言で失脚となった多気氏に代わって同族の吉田氏の資幹が源頼朝より大掾職に任ぜられた。
・本拠を水戸明神の馬場に移して水戸城を構築した(築城年ははっきりしていないが建久年間(1190年-1198年)といわれる。また今の城よりは大分小さな城だったと思われる)。
・水戸明神の馬場であったことにより馬場小次郎資幹と称し、これより馬場氏と名乗った。
・1214年鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えた。
 どうもこれ以降に国府の政務も行うようになったのかもしれない。
・この時現在の石岡市田島の台地に外城(石岡城ともいわれるが、当時の呼び名ははっきりしない)が築かれたという。

朝幹(あさとも) :
・この朝幹の代に、知家の子で、実質的な初代小田氏の小田知重が大掾職を望み、鎌倉幕府の常陸守護の立場を利用し、鎌倉幕府に働きかけ、大掾職が一時停止となった。
・しかし大掾職はまた馬場氏に戻されたが、鎌倉期以来の常陸守護の系譜を引く小田氏との対立、抗争がその後も続く事になった。

教幹(のりもと) : 

光幹(みつもと) :
 
時幹(ときもと) :
 
盛幹(もりもと):
・1333年鎌倉幕府滅亡し、南北朝時代となり、盛幹は1335年中先代(なかせんだい)の乱では北条時行についたが、その後室町幕府を開く足利尊氏に謝罪のため、多気種幹の遺子竜太を人質として差し出す。

高幹(たかもと):
・時幹の子で盛幹の弟とみられる。
・北条時行側についた高幹は、中先代(なかせんだい)の乱を平定するために東下した足利尊氏の軍と合戦におよんだ。
・この戦いに大敗して北条時行軍は潰滅、鎌倉に入った尊氏に高幹は降伏した。
・その後、尊氏は後醍醐天皇の召還命令を無視して鎌倉に居すわったため、天皇は尊氏謀叛として新田義貞を大将とする討伐軍を発した。ここで楠木正成の弟正家が常陸国瓜連城に入ると、高幹は小田・那珂氏とともにこれに加担した。
・しかし瓜連城は落城し、北朝方の高師冬の軍事拠点となった。この瓜連城落城を契機に南朝方那珂氏は滅亡に瀕し、終始尊氏方として活躍した佐竹氏の常陸北部支配が決定的なものとなった。
・佐竹氏らの武家方に府中を攻められるも、小田治久の助けを得て国府原で佐竹軍と激突、佐竹勢を打ち破った。
・しかし小田氏との永年の確執は変わらず、高幹は1338年に武家方(北朝)に転向し、小田氏・志筑氏を攻めることとなった。
・以後、府中一帯は北朝勢力の一拠点として、内乱期を通じて比較的穏やかな日々が続いた。
・1341年小田城の攻撃に際して、大掾高幹は志筑城攻めを命じられている。
・大掾職を嫡男文幹(詮国)に譲った高幹は、剃髪すると浄永と号して水戸に隠居した。

詮国(あきくに、文幹:ふみもと):
・文幹(ふみもと)は足利将軍義詮に従い功をたて、詮の一字を賜り詮国(あきくに)と改めた。
・正平年中(1346~51)に府中城を築き兵勢を盛んにして争乱に備えた。
・それまでの居城である田島の城も外城(とじょう)として残した。
・北朝方に属した大掾高幹・詮国父子の時代に大掾氏は勢力を拡大し、この大掾氏の存在は、南朝方の小田・白河結城氏らの行動を牽制し、同氏の政治的地位の向上や府中の非戦場化を実現した。
・高幹・詮国・満幹の名は足利将軍からの一字拝領と思われ、足利氏との強固な関係を築いていたことがうかがわれる。

満幹(みつもと):
・1416年に上杉禅秀の乱(室町(足利)幕府に対しておこした反乱)で上杉方につくが、敗れた
・水戸城(馬場城)周辺の所領を没収され、足利幕府は水戸城も含め、大掾氏の水戸の所領は江戸道房に与えられた。
・しかし満幹は水戸城の明け渡しを拒否し、占拠を続けた。
・1426年に府中(石岡)で行われた「青屋祭」を執行するため、一族をあげて府中に赴き、水戸城を離れた。
・これを好機とした江戸通房が大掾氏の居館である水戸館を奪取した。(江戸氏はそれまで仲間のような振る舞いで大掾氏と接していたようだ。留守を江戸氏に任せて出かけたものと思われる。)
・1429年12月に満幹父子は鎌倉に呼び出され、鎌倉公方持氏の命により殺害された。

清幹(きよもと):
・満幹父子が殺され、満幹の弟秀幹のそ孫清幹(満幹の孫との説もある)が大掾氏を継承した。

高幹(たかもと): 法名亀山

常幹(つねもと): 法名涼峯浄清

慶幹(のりもと):
・水戸地方を拠点とした江戸氏は盛んに勢力を南に拡大してきており、これに対して大掾氏は小田・真壁・笠間の諸氏ととも江戸氏と対立した。
・1546年、行方四頭のひとり同族の小高直幹の誘いにのった小田政治が大掾慶幹を攻撃してきたが、慶幹は長者原において小田氏を撃退し、さらに進んで小高城を奪取した。

貞国(さだくに):
・1551年慶幹が没し、子の貞国が大掾氏を継いだ。
・この頃には大掾氏、小田氏、江戸氏の三つ巴の対立が激化し、特に小田氏の勢力が強まった。
・1563年貞国は三村合戦で小田氏治に破れた。
・その後佐竹氏と連携し小田氏攻略に備えたが、大掾氏は小川の園部氏と確執を起こし争った。
・しかし、その園部氏(小川)を江戸氏と佐竹氏が園部氏(小川)を支援したため、小田氏への守りとして築城した三村城も城主の弟常春は小田氏に攻められ1573年に落城し、25歳の短い運命を閉じた。
・一方、小田氏も佐竹方に攻められ1574年に土浦城が陥落した。
・この時、大掾氏は東に園部、北に江戸・佐竹、南に小田に囲まれてしまった。
・1577年に貞国は戦死した。

清幹(浄幹)(きよもと):
・貞国の死後5歳の清幹が家督を継いだ。
・後北条氏の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は上杉謙信と結び、佐竹氏らと協力して反北条活動をとる。
・しかし、その間も江戸重通は大掾氏を攻め続け、当初中立の立場をとっていた佐竹氏も江戸重通に協力する。
・清幹は府中城の詰め城を殆ど落とされ、大掾氏惣領家の滅亡は時間の問題となった。
 これに対抗するため清幹は後北条氏と結んだと思われる。
・天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原の役が発生する。
・清幹をはじめとする大掾氏一族は後北条氏側に立ち、参陣をしなかった。
・結果、常陸は参陣をした佐竹義重に与えられた。
・佐竹義重は水戸城を攻めて江戸重通を追い出し、その勢いで府中城も攻め立てた。
・激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自害した。
 この時清幹は18歳であった。 これにより大掾本宗家は滅亡した。

次いで翌年2月、佐竹義重は三十三館主と呼ばれた鹿島・行方郡の大掾氏枝族を太田城に招き皆殺しにしたと伝えられている。ただ三十三館という数は、常陸国の水戸より南に勢力を誇っていた平氏一族の総称で、正確な館の数ではない。
また鹿島、行方郡に軍を進め、大掾氏一族の殆どは滅亡した。(別途記載)

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(府中城跡に残された土塁)

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(外城跡:掛札神社)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/07 16:29

常陸国における源平合戦(9) 河内源氏と常陸源氏

源平合戦(9)

常陸国における源平合戦の9回目です。
前回と前々回は平氏として常陸国南部に進出した桓武平氏の直系とされる「大掾(だいじょう)氏」とよばれる氏族を鎌倉時代初めまでの多気大掾氏とその後戦国時代末期までの吉田大掾氏について書いて来ました。

では源氏は?

常陸国の源氏といえば、戦国時代を制し、常陸国を統一した佐竹氏がいます。

常陸国は、ここまで書いてきたようにまず桓武平氏が地元豪族などと手を結すび、常陸国南部を中心に領地を拡大させました。
その後に、河内源氏が入り込むのですが、そのきっかけは奥州の蝦夷征伐として知られる「前九年の役」「後三年の役」における源氏の活躍です。

この成果が東国武士団にも大きな影響を及ぼしたと思われます。
後三年の役では八幡太郎義家に味方した東国の武士がかなりいたのでしょう。
ただ、歴史は勝者により作られるという話しもあり、鎌倉幕府が成立したことで、実際の史実以上に誇張され、美化された話とおもわれる伝説やたくさん作られ、残されていったように思われます。

最近になってわかってきた史実を基に、これらの美化された話なども検証しながらこの常陸国の源氏の流れに関係する事項を見ていきましょう。

常陸と河内源氏関係図2

上の関係図は現在のWikipediaなどに記載された内容を図式化したものです。

まず、河内源氏は前に書きましたが、2代目源頼義(よりよし)がかなりの強者で、桓武平氏国香流の都で活躍していた平直方の娘と結婚し、(八幡太郎)義家、(賀茂次郎)義綱、(新羅三郎)義光という3人の息子たちが生まれます。
そして、3人は都でそれぞれに出世もしていきます。

1) 頼義は1051年に50歳目前で陸奥守に任じられ、その武勇を見込まれて奥州の安部氏の平定を任せるために鎮守府将軍にも任じられ、常陸国経由で奥州に出かけることになります。(前九年の役)
奥州へのルートははっきりしませんが、頼義はつくば市北条の多気氏(大掾氏)の娘と一夜を共にし、女の子(後に美人と評判となった)が生まれています。また、石岡市三村近郊の村で宿営した時にちょうど正月で小さな村の人から大変ご馳走してもらい、後にこのことに感謝して「黄金のはたし」が贈られ、この地の名前が「正月平」となったと伝わっています。
また、陸奥守として着任した先は仙台の多賀城です。
このため、この時のルートは古東海道で、常陸国国府(石岡)を経由し、水戸の郊外台渡里経由で郡山から古東山道に出たものと推察します。

2) 前九年の役には、長男義家、次男義綱も参戦しており、最後には清原氏の軍勢1万人ほども援助を受け、12年もかかった戦争に勝利しました。都に凱旋したのちに、頼義は正四位下伊予守に、嫡男・義家は従五位下出羽守に、次男・義綱は右衛門尉に任じられた。これで、長男、次男は出世の道に進みますが、三男義光は出世から遅れることになります。

3) 頼義は伊予守の任期を終えて1065年に出家し、1075年に没しています。

4) 八幡太郎義家は、1063年に従五位下出羽守に、1070年に下野守などに叙任されており、1083年に陸奥守になると、前九年の役で勢力を持った奥州の清原氏の内紛に介入し、後三年の役が始まります。
しかし、この戦いは朝廷の命令によるものではなく、私戦とみなされており、朝廷からの援軍がなく、義家は苦しい立場になります。賀茂二郎義綱は官職を無視するわけにもいかず、援護には出ません。そこで登場するのが新羅三郎義光です。
官職では上の兄たちに後れを取った義光ですが、朝廷に兄の援護に出かけることを願い出ます。しかしこれは認められず、1087年義光は官職を辞して兄(義家)の救援に出かけました。年齢も40代前半です。

5) 義光の救援も得て、後三年の役に勝利した義家ですが、この戦いが私戦であったとして、褒賞は無く、陸奥守も解任されてしまいます。
戦いに参戦した新羅三郎義光は刑部丞に任ぜられ、常陸介となり常陸国にやってくることになります。
都では、戦いに参戦しなかった賀茂二郎義綱が出世し、義家、義綱の2人の中は悪くなっていきます。

6) 1091年には河内国の領地をめぐって義家と義綱が兵を構える事件も発生しています。
1093年に義綱は陸奥守となり、翌年には従四位上で義家と並び、1095年には美濃守となり、兄より格上となりました。
河内源氏の棟梁である義家としては恐らくこれは面白くなかったことだろうと思われます。2人の兄弟の争いが後の義綱滅亡のきっかけとなっていくようです。

7) 河内源氏の棟梁である義家は武勇の誉れは高くあったのですが、跡目を継ぐ予定だった嫡男(二男?)義親(よしちか)が対馬守に任じられたとき九州で略奪を働き(1101年)帰還命令が出ますが、義親はこれに従わず官吏を殺害したため、隠岐国へ配流となりますが、これにも従わず出雲国へ渡って再び官吏を殺したため、平正盛の追討を受けて誅殺されてしまいます。

8) 河内源氏の跡目をこのような形で、失うこととなり、義家は次期棟梁を三男義忠(よしただ)とし、その後嫡男の遺児(四男)為義に任すことも考えていたようです。義家は1106年に亡くなり、河内源氏の棟梁は三男の義忠となりました。

9) そして、1109年に事件は起きます。この河内源氏の跡目を継いだ源義忠が何者かに襲撃を受けて殺されてしまったのです。
そして、襲った刀が賀茂二郎義綱の三男・義明のものであったため、その犯人として(賀茂二郎)義綱とその三男・義明に疑いが向けられました。疑われたことに憤慨した義綱たちは山に籠って抵抗し、義綱の6人の息子たちは全員抗議の為自害して果てたのです。また息子たちを失った義綱も佐渡に流され、1132年佐渡で自害し、この義綱の家系は途絶えてしまいました。

10) しかし、この源義忠暗殺事件には黒幕がおり、それが新羅三郎義光であったといわれています。
義光は、後三年の役のあと、常陸介となり、常陸国にやって来ます。そして、多気大掾氏(桓武平氏)から分かれて、水戸南部の吉田に居を構えていた平清幹(きよもと)=吉田氏 の娘を嫡男・源義業(よしひら)の妻に迎え勢力を拡大します。

11) 義業とこの平清幹の娘との間にできた子供が、佐竹氏と甲斐武田氏になっていきます。(次回)
この河内源氏棟梁の義忠暗殺事件首謀者は源氏棟梁の跡目を狙っていたこの(新羅三郎)義光が仕組んだことだといわれています。
実行犯は妻の兄(または弟)である「鹿島三郎こと平成幹(たいらのなりもと)」で、義光にそそのかされて、源義忠の郎党になり、こっそりと賀茂二郎義綱の息子の源義明の刀を使って、義忠を背後から切りつけたのです。義忠も即死ではなく2日後に亡くなりました。

12) この義忠襲撃事件で平成幹も負傷し、義光は自分の弟(正妻ではない子)で僧侶になっていた快誉がいる園城寺に身を隠し、養生するように書状を持たせ寺に向かわせました。しかし、その書状には成幹を殺すように指示されており、成幹は快誉によって口封じのために生き埋めにされて殺害されたといいます。そして義光は兄の賀茂二郎親子に罪をなすりつけ、さっさと常陸国に帰ってしまいました。
(一部不明なところもまだありますが、現在の解釈ではこの義光が黒幕とされています)

13) 義光は豪族吉田氏(平氏)の所有していた常陸国那賀郡武田郷に住し、ここを次男「義清」に譲り、義清は武田冠者と呼ばれました。1127年に義光は亡くなりましたが、父(義頼)時代から甲斐介なども歴任し、甲斐国に義光の所領もあったようです。

14) 義光の死後、1130年に(武田冠者)義清の嫡男である清光が隣りの吉田郷の平盛幹(吉田氏嫡男)と境界をめぐって争いが有り、1130年に義清と嫡男清光親子は常陸国を追われて甲斐国北巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市/甲斐市)へ配流されました。この後、甲斐国に土着して甲斐武田氏が起こります。(資料により少しずれがあるが、義光が何処で亡くなったのかはっきりしない。甲斐国の方に義光から武田氏に伝わったとする日の丸の旗や楯なし鎧などの品が残されており、甲斐に行っていたのかもしれない。)
新羅三郎義光の墓は元服した新羅明神にちなみ滋賀県大津市に残されています。

さて、以下にいくつかの伝承話しなどを載せておきます。

(1) 甲斐武田家伝来の家宝 楯無しと日の丸御旗  ⇒ 記事

(2) 新羅三郎の伝来の笛にまつわるお話 ⇒ 記事

(3) かすみがうら市子安神社・・・源頼義父子征奥軍が、三村正月平(現石岡市三村)に宿営、たまたま正月七日の大祭礼に際会。あまりの賑やかさに里人に尋ねたところ、当神社の由来を聞き、感銘した父子は早速流れに架橋し(子安橋)神主に依頼し、朝敵降伏、国家安泰の祈祷をさせた。また、康平6年征奥の退任を終え、凱旋の折、当社に奉賽。社殿修営、祭祀料の寄進をしたと伝えられている。

(4) かすみがうら市胎安神社・・・1054(天喜2)年には、鎭守府将軍陸奥守源頼義、義家(八幡太郎)父子が奥州征討の時に隣村の詩下雫村(下志筑)に在陣中に胎安神社の霊験著しいことを聞き、都にある内室の安産祈願をし、嫡男を無事出産したため、康平6年(1064年)に大任遂行の帰路報賽し、嫡男の誕生日である9月9日を祭日と定め、源氏の紋章である「笹竜胆」(ささりんどう)の使用を許されたと伝えられている。

(5) 正月平・・・石岡の三村地区の上の高台に「正月平」という土地があり、ここに伝わる話です。
源義家親子が前九年の役で、奥州に向かう途中でこの地で正月を迎えました。数軒しかなかったこの地の住民は総出で、乏しい貯えの中から赤飯を炊いて正月のおもてなしをしたのです。そして源義家(八幡太郎)と父の頼義は、それに大いに感激し、「休馬美落集」という巻物の中で、義家は村人に対し心より感謝の気持ちを表しているのです。そして源義家親子は、この地に「黄金のはたし」を残したといわれています。この黄金のはたしは江戸時代まで地元(正月平)にあったが、歩崎観音に奉納され、これも33年に1度しか見ることができなくなったのです。歩崎観音には戦時中ころまで、竜女が安産の願掛けをして無事に生まれたことから黄金で出来た機織機が残されていました。現在は東京などへの展示で持ち出して戦争などで行方不明となりました。

(6) 八幡太郎と長者
 蝦夷征伐(後三年の役)にやってきた八幡太郎義家の活躍した話は各地に伝説となってつたわっています。石岡付近でも、鞍掛けの松といわれた松があった話し、かすみがうら市では四万騎が集まって訓練した野原「四万騎ヶ原」があり、石岡や小美玉市では「五万堀」とか六万の兵が食事をしたという「生板池」「六万」などという地名も残されています。
水戸付近まで行くと軍勢は十万騎に増えていたとも伝わっています。
しかしこれらはほとんどが源氏の時代になり創作されたものも多いようです。

さて、そんな中で逆に八幡太郎をあまりよく思わなかった人々もいたようです。
その中の話を少し紹介します。

 (6-1) 一盛(守)長者(水戸)
昔、台渡里の長者山(現在の水戸市渡里町)に、一盛(一守)長者という豪族が住んでおりました。

八幡太郎の通称で知られる源義家が、後3年の役(1083~1087年)の時、十万余の大軍を率いて奥州に向かう途中に、その長者屋敷に立ち寄りました。
長者は、そんな大軍群ですからとても無理だと思えたのですが、義家を大切に向かえ、すぐさま山の様な御馳走と酒を用意して手厚くもてなしたのです。それも酒宴は三日三晩も続いたのです。
そして、義家が奥州を平定して、帰りに、再び一盛長者の屋敷に立ち寄りました。
すると前にも増して豪華なもてなしを受けたのです。
義家は次第に、喜ぶどころかあまりの豪勢振りに恐ろしくなってきました。
『この様な恐ろしい程の大金持ちをこのままにしておいては後々災いの元となる。
謀反などを起こされたら大変だ。今のうちに滅ぼしてしまおう。』
と考え、長者の屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまったのです。
この時、長者は秘密の抜け穴に逃れ、身を潜めておりましたが、抜け穴も義家の家来に見つかり、長者は出口まで追い詰められてしまいました。
出口のすぐ下は那珂川です。もう逃れられないとさとった長者は、家宝にしていた黄金の鶏を抱いたまま川に身を投げてしまったということです。

伝説の一盛長者の屋敷(後の時代には長者山城)跡は現在も確認できます。幾重にも重なる郭と堀。北西を田野川、北東を那珂川。城として好条件でした。

 (6-2) 唐ヶ崎長者(行方)
これは行方市の西蓮寺に伝わる話です。
昔、神様のお告げで酒となる湧水を売った親孝行息子がおりました。その後に鹿島へ向かう大道沿いに唐木造り白檀の門構え,三百間四方を土手で回すほどの長者となり、唐ヶ崎長者と呼ばれておりました。
しかし、長者夫婦には病弱な一人娘がおりました。このため、長者夫婦は西蓮寺薬師如来に祈願して、その功徳によってこの娘は無事に成長しました。
数十年過ぎて、この娘も老婆になっておりましたが、そこにちょうど源義家の軍勢が奥州征伐の途中に立ち寄りました。
義家たちは長者に食事を用意してくれぬかとお願いしましたが、長者は、お武家様に食べされるようなごちそうはございませんと一度断ったのです。しかし、それでもよいから何か用意してほしいと懇願され、長者が用意した料理がとても豪勢で、これは大変な長者だ、後々生かしておけば大変な災いになるに違いないと、義家はこの長者一族を皆殺しにしてしまったのです。
しかし、この老婆だけは生き残り、一族の冥福を祈って供養し、念仏三昧の余生を送りました。今でも九月の西蓮寺の常行三昧会には西蓮寺婆さんとして、その徳を称えているといいます。
この伝承は長者没落譚ですが、結論としては西蓮寺への信仰を進める伝承に落ち着いています。
薬師如来の加護によって成長した娘は源義家の虐殺にも生き延び、死ぬまで念仏三昧だったと言います。「西蓮寺婆さん」自身が念仏三昧の生涯を送り、かつ信仰対象にもなっているわけで、理想的な信者の手本として伝承されてきた存在でしょう。
現在、寺に祀られているこのおばあさんの像は、「おびんずるおばあさん」としてなでられたりさすられたりしています。

これらの伝承は長者没落の話ですが、どこかその没落の原因が英雄により意図的に没落させられたというようにすり替えられていったのかもしれません。

 (6-3) 勝倉長者伝説(ひたちなか市)
 勝倉大平長者が谷津というところに、大変裕福な長者が住んでいた。
ある日、八幡太郎こと源義家が、奥州征伐へ向かう途中にこの長者の屋敷に立ち寄り昼飯を乞うた。
長者は快く引き受け、即座に300人分を用意した。
しかし義家は何を思ったか、長者をこのまま生かしておいては後々に災いになる、と思った。
義家は奥州から帰る途中。世話になった長者の屋敷を一夜のうちにすべてを焼き払い滅ぼしました。

 (6-4) 大里長者伝説(常陸太田市)
 常陸太田市の大里というところに、大変豊かな長者がいた。

ある日、八幡太郎こと源義家が、奥州征伐へ向かう途中にこの長者の屋敷に立ち寄り宿泊しました。
長者のあまりの富豪ぶりを目の当たりにした義家は、長者をこのまま生かしておいては後々に災いになると思い、急に長者を襲い滅ぼしてしまいました。

 (6-5) あずま長者(持丸長者)(岩間町安居(あご))
源氏の大将八幡太郎義家が、五万の大軍 を率いて奥州の蝦夷を征伐して都へ帰る途中、上安居のあずま長者屋敷 へ立寄りました。
長者は、 「はい、このたびは、蝦夷征伐おめでとうございます。さぞお疲れでございましょう。どうぞ、ごゆっくりお休みください。」と言って、一行をもてなす支度に大騒ぎとなりました。
長者は、もてなしに御無礼があってはならないと、細心の注意を払い、ありったけのご馳走を作り、珍しい品々を集めて酒、肴を振舞ったので義家も驚くほどの豪華なお膳が並びました。
義家一行は、ごちそうに機嫌よくしておりました、出発まぎわになって、雨が降り出してなかなか止みそうもありませんでした。すると、長者は、すぐに五万人分の雨具を用意して差し出しました。義家は、その場は礼をいって出立しましたがこのような豪族をこのままにしておいたらやがて災いを起こすかも知れない。今のうちに滅ぼしておいた方がよかろう。」と五万人窪から急きょ引き返して、長者の家に火を放ちました。
豪勢を誇っていた長者屋敷は、穀倉と共に跡形もなく焼け落ちて、一族も皆滅んでしまいました。

さて、どうでしょうたくさんの伝承も何処までが史実かについてはまったくわかりません。
実際に八幡太郎義家の所業も強力にまかせ、無謀な振る舞いも多かったようです。
どのように考えるかは、一つ一つ丁寧に史実を積み重ねて検証してみなければなりません。
しかし、これらの民間伝承には当時の人々の思いなども重なっている部分もあり、単なる作り話といってよいとは思われません。
ここに載せたのは一つの参考に見てください。







常陸国における源平合戦 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2021/06/15 10:07
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