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甲子夜話の面白き世界(第1話)天狗にまつわる話

甲子夜話の世界第1話

昨年春より江戸時代に書かれた「甲子夜話」(かっしやわ)をFBの友人が物語の語りのお稽古と称して毎日のように紹介していただいている。

書かれたのは長崎(肥前)平戸藩の藩主であった松浦清(まつらきよし=静山)公で、内容も藩制のこと、歴史のこと、動物の事、地理のこと、文化芸能のこと、自然のこと、超自然現象や庶民の暮らしまでありとあらゆる事が紹介されている。

藩主を辞した1821年から約30年間の間書き綴った随筆であり、その量は実に膨大で、当時の文を読みなれていなければ、理解も難しいところも実に多い。
それを、平易に直しながらFBでUPしていただいているので、それを許可を頂いて、新たなブログを作成してそちらに順番にUPさせていただいている。(ブログ:甲子夜話のお稽古・・・こちら

ただ、面白い内容もじっくり読まないと理解に苦しむ事もあり、ここに面白そうな内容を少しずつピックアップして、これからすこしずつ紹介していきたいと思います。


<甲子夜話の面白き世界(第1話) 天狗にまつわる話(その1)>

《1》 天狗にさらわれた男の話し

 わしの下僕で、上総(かずさ:現千葉県の一部)生まれの男がいる。
年は56歳だそうだ。その男がかつて天狗にさらわれたという。
その男の話しはこうである。

『今から15年ほど前の春3月5日のお昼少し前のことでした。
両国橋を歩いていますと、急に気持が悪くなってきたのです。
すると見知らぬ者から声をかけられました。
そして、その者の方に行くと・・・ もうその後のことは何も覚えておりません。
気が付いた時には、信濃の善光寺の門前に立っていたのでございます。
着ている着物は前に覚えのある着物ですが、もうあちらこちらが破けてばらばらになっておりました。
また頭は禿げ上がり、さかやき(月代)をそりあげたような姿で、脇の髪は伸びてバラバラでした。
そして日時を確かめると10月28日ですので、8ヶ月以上経っていたのです。
そして、ぼんやりと辺りを眺めていると、偶然にも、故郷でかつて知っていた人に遭ったのです。
そして、その人の助けで、なんとか一緒に江戸にもどってくる事ができたのです。
ただ、8ヶ月以上も何処でどうしていたのかまったく記憶になく、何か食べようとすると胸がムカムカして何も食べられません。
特に五穀の類はまったく口に入れることが出来ませんでしたが、サツマイモだけは食べる事ができました。
そしてしばらくの間、便には木の実のようなものが混じって出てきて、それが暫く続きました。その木の実の便が出なくなると腹の調子は元にもどり、普通の穀の食に戻ったのでございます』

この話しが本当ならば、天地間には人類に非なるものもあるのかもしれない。
天狗にさらわれたのか、または山の中で木喰(もくじき)上人のような生活を送っていたのか・・・・
   (巻之七 〈ニ七〉 ← クリック 元話

《2》 天狗にとりつかれた若い尼僧の話し

嵯峨天竜寺の瑞応院から印宗和尚が下記のような文をよこした。
『天竜寺の領内に遠離庵と云う尼庵があり、そこに始めて仏門に入りたての年のころは十九の尼がいた。
それが、今年の3月4日の日暮れ時に、他の尼4~5人と連れ立って、山に蕨採りに出かけたときのこと。
蕨をそれぞれ採り終って、バラバラに庵に戻ったのだが、この若い尼だけが帰ってこなかった。
庵では狐タヌキに惑わされたのか、はたまた何か事故にでもあったのかと心配して、皆で一心に祈願していた。
そうした中、17日の夕暮れになって、隣村(清滝村)の樵(きこり)が薪を採りに山に入り、深い谷間で、若い尼が布を洗っているのを見つけた。ぼんやりとした様子を不審に感じて、「どうしてこんな山奥にこられたのか」と尼に声をかけた。
すると「私は愛宕山に籠もっている者です」との返事。
こんな娘尼が山に籠もっているとは、半ばあきれて村(清滝村)につれて帰った。
帰ってくると「私は遠離庵の尼です」というので、夜に籠を呼んで乗せて庵に帰した。
庵にもどると、普段無口なこの尼は何かわからぬ事を大声でしゃべり出した。
そこで、侠気の藤七を呼び、尼と対峙させると、尼は「帰る、帰る。 まず飯を食いたい」と云った。
飯を用意すると、なんと山盛りの飯を三椀も平らげた後に、気を失ってしまった。
暫く気を失って眠っていたが、その後目を覚ましていつもの様子に戻った。
そして、山で何があったのかを聞くと、次のように話した。
『山で蕨(わらび)を採っていたら、年の頃は四十ばかりの杖をついた僧侶があらわれ、こちらへ来いと声をかけてきた。
どことなく貴い僧侶に見えたので近づくと、「この杖を持ってみよ」と云うので、持つと「目をつぶりなさい」と言われたので、その通りにした。
そのままじっとしていると、どこか遠くへ来たと感じた。
目を開けると、そこには金の御殿や宝の仕舞ってある宝閣があった。
そして、「ここはみだりに中に入る事を禁ずる」と申し聞かされ、団子の様な物を「食うべし」と与えられた。
この団子を口に入れると、とても美味く、今でもその甘さが忘れら得ない味で、ほかに何も食べなくても、少しも空腹にならないと云う。
またこの僧侶は、「汝は節操がある正しき者なので、愛宕山へ行って籠って修行をすればきっと良い尼になるだろう。
また、修行の間には、時々諸国を見物させてもやろう。 そうだ讃岐の金毘羅様へもお参りさせよう」と言った。
この若い尼が庵に戻ってからも、次の日には「僧が御入りです」と言うのだが、他の人にはその姿は見えなかった。
そのため、これは天狗の仕業に違いないといい定めて、この新尼には親里へ戻して庵から出てもらった。

これまで天狗は女人には取り行かぬものだったが、世も末、天狗も女人を愛する様になったのか・・・。

巻之四十九 〈40〉  ← クリック 元話

《3》 寺の木陰に天狗を見たという話し

 最近、ある老医から聞いた話だが、この7月13日の前日の朝八時頃の話だが、
御箪笥町に真言宗の千手院と云う大きな寺があり、ここに、大きな樅(もみ)の木がある。
その樹の影に不審な人が見えたという。
その人物は樅の木の枝の間に腰かけて厳然としていて、顔赤く、鼻高くて、世にいう天狗というものの様だった。
これを見た人は皆、大いに驚いたという。
これはまさに、真の天狗であろうと思う。
また、この姿を見たものは、鵜川内膳と云う人の婢僕がまず見つけて、その他に数人が見たという。

巻之五十 〈八〉  ← クリック 元話


 (続く)

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/27 16:46

甲子夜話の面白き世界(第2話)天狗にまつわる話(2)

甲子夜話の世界第2話

<甲子夜話の面白き世界(第2話)天狗にまつわる話(その2)>

《4》 天狗が吉原へ見物に出かけた話し

「笑い話を一つ」

 普段仙境にいるといわれる天狗だが、あるとき人界に現れ、吉原町というところを一度見ておきたいと吉原に出かけた。

だが、人に顔を見られるのを恐れ、手ぬぐいで頬かむりをしたがのだが、長い鼻はでてしまう。

まあこれは仕方がないと、両手で鼻をかくして、吉原の店前にある格子から中を覗いて見ようとした。

しかし、鼻が格子につかえて、よく見る事が出来ない。

ではと、格子の間から鼻柱を入れた。

すると中からこれを少妓が見つけて叫んだ。

「あれあれ、何者かが格子からおしっこをするよ」。

続 巻之十七 〈一〉 ← クリック 元記事

《5》 天狗になった住持の話し

 永禄の頃の話だというが、川越の喜多院の住持(住職)が天狗になって、妙義山に聳える岩の上に飛び去ったという。

 そのため、寺(院)にある住職代々の墓の中にこの住持の墓だけがないという。

 またこの住持が使っていた小僧も天狗になって同じように飛び立ったが、庭前に墜落して死んでしまった。

 その死んだ場所には今小祠が建っている。

 この小僧は飛び立つ直前まで味噌をすっていたが、この擂粉木(すりこぎ)をなげ捨てて飛んだのだという。

 そのためか、今ではこの院内で味噌をするのを見れば、必ず擂粉木を取りあげるという。
 まあ、味噌をすらなくとも、槌(つち)で打って汁にするのだそうだ。

 このようなことが伝わっているのも、何かがあってのことであろう。

巻之52 〔14〕 ← クリック 元記事


《6》 少年時代に天狗にさらわれた男の話し

 私の屋敷にいる下男で、今53歳になる源左衛門という男がいる。
この男は昔天狗に連れ去られたという。

その話によると
 7歳の少年の祝いの時に、馬の模様が染め抜かれた着物を着て八幡宮に詣でていた時の事。
八幡宮の社のあたりから急に山伏が現れて、少年を誘い、そして連れ去ったのだと。
連れ去られてから山伏と共にいたが、8年が経った頃、山伏は、おまえの家族で仏事があったので、お前の身は不浄になった。
そのため、このままここに置いておくわけにはいかないので人間界に返すと云って、相州(相模国)の大山に置いていかれた。
それを里人が見つけてくれ、腰には札が取り付けられていて、そこには国郡の名まで書いてあったので、宿から宿を通して家に戻ってくることができた。

その時に、持って帰った着物は、7歳の時に着ていた馬染めの着物であり、それは少しも損なっていなかった。
その後3年間はそのまま家にいたが、18歳になった時に、例の山伏が「迎えにきたよ」と云って現れた。
そして、「一緒に来なさい。しっかり目をつぶっていなさい」といって、山伏はその青年を背負うと、帯のようなものを肩にかけ、あっという間に飛び立ち、風の鳴る音が聞こえたという。
そして、着いたところは越中の立山の大きな祠のある場所だった。
そこから加賀の白山に通じている途中に畳を二十畳ほど敷いた場所があった。
ここには僧や山伏が合わせて十一人が座っていた。

源左衛門を連れてきた例の山伏の名は「権現」と云った。
権現は源左衛門を「長福房」と呼んで、十一人の天狗の上座に「権現」が座し、「長福房」をすぐその傍に座らせた。
この時、初めて乾菓子を食べた。
また十一人の天狗は各々口の中で呪文を唱えるようにしていたが、いきなり笙(しょう)と篳篥(しきりき)の音(ね)が聞こえてきて、天狗たちは皆たちかわり踊り、唄った。
「権現」は白髪で髭(ひげ)は長く膝まで及んでいた。
表情は温和で、慈愛な感じで、あまり天狗らしくなく、ゆらゆらした感じであった。

話しによると天狗たちは、諸国を廻るうちに、奥の国(魔界)の昔の大将の陰者になる者が多いという。
また源左衛門は、山伏に伴なわれて鞍馬の貴船に行った。
そこの千畳敷には僧達が大勢座っていて、貴船に参詣する人々の様々な祈り、願い事が心の中によく伝わり聞こえてくるという。
聞こえてくる願い事について、天狗は皆で話しており、この願いは妥当だからかなえてやろうとか、また願い事を聞いて愚かな者よと大笑いする天狗もいる。
または中には極めてかなえられない願いもある。
また叶えられないものに見えても、何かの呪文を誦することもある。

周りの山に連れていかれたが、そこには様々な天狗がいて、剣術をやり、兵法を学んでいた。そして源左衛門もそれを伝授された。
申楽、宴歌、酒席にも連れて行かれた。
天狗の「権現」師匠は、毎朝天下安全を祈り、勤行するようにと教えられた。

またある時、昔の源平合戦のときの「一の谷の合戦」の状態を見せようではないかと云う事があった。
山頭に色鮮やかな旗を翻しながら、人馬が群れて走り、ときの声が上がり、その場の様子はまさにその場でおこっているように見えた。しかしこれは妖術である。
また、世の中には木葉天狗と云う者もいる。
あの世この世の境ではハクロウと呼ぶ。この者は狼として生きた経歴がある。白い毛が生えている老狼なので、白狼である。

また十九歳の時に人間界へ還されたが、その時に天狗の類を去る証明書と兵法の巻物二つを与えられ、脇差を帯させ、袈裟を掛けて帰したという。

始め魔界に入った時に着ていた馬の絵柄の着物、兵法の巻物とこの証明書の三品は、上総(かずさ)の氏神に奉納し、授けられた脇差と袈裟は今度お見せします、と云ったが、わしはまだ見ていない。

聴き及んだ話では、ある日、奉納した巻物をその神社の社司が秘かに見ようとしたが、眼がくらみ見ることはできなかったという。そのため、そのまま納められているのこと。巻物はすべて梵字で書かれているという。

また天狗も物を買うことがあるが、この銭は、白狼どもが薪を採って売ったり、または人に肩を貸すなどしてその駄賃を集めたもので賄っていると。
また天狗は酒を嗜むと云う。

また南部におそれ山という高山がある。この奥十八里に天狗の祠があり、これを「狗賓(ぐひん)堂」と称する。
ここに毎月下旬に信州から善光寺の如来を招き、このご利益を願い、白狼の輩の三熱の苦を免れるように祈る。
その時は、天狗権現師匠とその仲間達で皆を出迎える。
善光寺の如来が来向するときはまるで白昼のともし火の様だという。
また源左衛門がこの魔界にいた時、菓子を一度食べてからというもの、物を食べたことはない。
だから両便(大便、小便)の通じがなかったという。

以上の説は、かの下男が云うことであるが、そこに虚偽疑がないとは思わない。
しかし話す内容は妄想だけとも思われない。

何もかにも天と地の間にこの様な妖魔の一界があるのだなあと思ったことだ。

(注:平田篤胤が天狗にさらわれて江戸の町に戻ったという少年の話を聞き取った「仙境異聞」を書いたのは、1822年のこと。この松浦静山公がこの甲子夜話を書いたのは1821年から30年間である。話の内容はかなり似通ったものがあるが、時代も近い。似たような話もまだ多くあったのかもしれない。)

巻之七十三 六 ← クリック 元記事


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/28 07:54

甲子夜話の面白き世界(第3話)天狗にまつわる話(3)

甲子夜話の世界第3話

<甲子夜話の面白き世界(第3話)天狗にまつわる話(その3)>

《7》 空中を逆さに行く婦人の話し

5、6年前のある席上で坊主衆が語った。 高松侯の世継ぎ貞五郎が語られた話だという。
貞五郎が幼児時に矢ノ倉の邸に住んていて、風鳶(たこ)をあげて遊んでおられた。
すると、向こうの方からなにやら空中を来るのものがいた。
何んなのかと不審に思い見ていると、それが近づいて来た。
それはどうしたことか、婦人が逆さまになって動いてくる。
両足は天に向けて、首は下になり、衣服はまくれていた。
またはっきりとは分らないが女であると見え、号泣する声もよく聞こえた。

どうもこれは、天狗が人をつかみ上げて空中を動いて行っているところと思われたが、天狗の姿は見えず人だけが見えていたという。 
またこのことは、そのそばにいた家臣たちも見たという。

 これとは別に、『池北偶談(中国の怪奇小説集)』に次のような話がある。
『文登の諸生の段階を終わり、夢を求める9歳の時に庭で遊んでいた。
時はお昼頃、天は青く澄みわたり、雲はなかった。
空中を見ると1人の婦人が白馬に乗り、華やかな袿(うちかけ)に白い裾で、馬の手綱をひいて、北から南に非常にゆっくりと移って行った。暫く見ていたが、そのまま遠くまで行き、姿が見えなくなった。
わしの従妹が永清県(中国の県)にいるが、かつて晴れた昼のこと、空中を仰ぎ見ると、美しく艶やかな1人の少女が、朱の衣に白い裾に手には団扇を揺らして南から北へ向かっていったという。久しく見ていたがやがて見えなくなった』

 これも同じような話だが、これらの話は仙人の所為なのか。

巻之30 〔23〕  ← クリック 元記事

《8》 天狗が炎の中を走り廻る話し

 我が荘内にある天祥庵の守僧に、昌信と云う者がある。
この僧とは、日夕の参拝の時に時々はなしを交わす。

ある日、わしは何かの話の中で「どこかで聞いた事があるのだが、出火して大火になると、天狗が炎の中を走り廻って火を延(ひ)くというそうだね」と云うと、「では私の聞いたお話をいたしましょう」と云い、次の話を語った。

「長門侯の家臣の者が江戸から国にもどる途中、侯の命によって伊勢に参詣し、その後で京に行き、各所を見て回った後、正月13日の夕に愛宕山に登った。
 すると日暮れ時の午後4時ころになり、街中の宮川町1丁目荒物屋から出火して、洛中に火が広がり、またたくまに延焼した。
この時、この火災の火は光天を焦がし、満炎はまるで雲のようだった。

この長門侯の家臣の者が愛宕山の山上から街を見下ろすと、その燃えさかる炎の上を、異形非類の者が群れを成して走り回っているのが見えた。
よく見ると、その面には知った者がおり、多くは甲冑を身に着け馬に騎(の)っていた。
まるで戦場のようであった。
この有り様は、この家臣の士ばかりではなく、従僕の輩にもよく見えたという。

そして、この怪は夜が明けて、日が射し始めると、みな消え去ってしまったという。」

これは如何なる者なのか。

はじめにわしが聞いた、火中を天狗が走って火を延(ひ)くと云うのもあながちごまかしの嘘の話しではないのかもしれない。

また世に名高い、昔土佐氏が描いた百鬼夜行という図の中にもこれと同じような見覚えのある怪があった。
これ等は虚謔の為に図にしたものではないだろう。
まったく、奇怪不思議のことだ。

またこんな事も聞いた。
その大火の起こる前の早朝に、12,3ほどの少女が火盆に、燃灰を累々と積み上げて、この火災が起きた荒物屋の中に入っていったという。
隣の家の者たちは、これを見て皆いぶかったが、その火元の家人はまったく気付かなかったという。
ならばこれも、また妖魔天狗の類になるのだろうか。

三篇 巻之67 〔10〕 ← クリック 元記事

《9》 山の中で天狗の宴に遭遇した話し

 ある飛脚か2人づれで箱根を越えているとき、夜も大分更けて、あたりはひとしお凄惨なじょうきょうであった。
そんな中で、山上の方から人の話す声が騒々しく聞こえてきた。

飛脚の2人はこんな夜中にと不審に思いながら声の方に近づいていくと、しばらくすると山上の路傍の芝生に、幕がぐるりと張られており、そこで数人が集まって宴をしているのが見えた。
どうも酒に酔いながら、舞ったり、歌をうたったり、それに弦の音も加わっていた。
通り道ににも幕が張られていて、2人は先に行く事が出来なかった。

 そこで、2人は声をそろえて中の者に「通れませぬ」と告げた。
すると幕の中から「通行しておくれ」という声が聞こえた。
それではと、2人が幕に入ると、幕はこつ然と消えてしまった。

 そして今までしていた笑い声や歓声も絶えて、2人は元の寂々した深山の中に立っていた。
2人は驚き、怖くなって急いでそこから走った。

 すると、しばらく後に、前の弦や歌を歌う人達の声がまた聞こえてきた。
そして、元の場所にはまた幕が前と同じように張られていた。
2人は益々驚いて、飛ぶようにして山を下り、ようやく人の居る所にたどり着いた。

これは世のいわゆる「天狗」であろうか。

巻之23 〔10〕 ← クリック 元記事

《10》 天狗の品、飛銚子の話し

千石和州は伏見奉行で、この地に没したが、この人が日光奉行の時に本当に接したいう逸話がある。

日光の山上に何とかと云う祠があった。
そここに参詣して、願いをかけて、この銚子に酒を入れて置くという。

またそこから一里くらい離れたところにも、また同じような祠が一箇所あった。

前の祠での願いがかなえられた時に、祠の木銚子が自ら一里先のこちらの祠に移り、いつの間にかこちらの祠の中に在るという。

土地の者によると、これは「飛銚子」と呼ばれるものだという。
そのため、山の修験者たちは、ここに信仰拝詣する者が絶えないという。

また、この飛銚子は天狗の品であるのではないかと云っている。
まことに奇異なことである。

巻之二十五  〈13〉 ← クリック 元記事

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/28 20:17

甲子夜話の面白き世界(第4話)天狗にまつわる話(4)

甲子夜話の世界第4話

天狗の記載がありませんが、初期の頃、空から降ってくる「火球」も天狗といわれていたといわれているそうですので、ここに火球に係わる2つの話を載せておきます。

《11》 火毬が降ってきた話し

わが永昌寺の隣りに宗源寺という寺があり、そこの住持(住職)を順道と云う。
肥前佐嘉(佐賀)領の人だという話と聞くが、佐賀では時として天から火毬が降ることがあると。
これを里人は「テンピ」と言っている。(このテンピは天火なるに違いない〉。

火毬は地上に落ちると、地面の上を転がる。
人々はこれを観ると直ぐに集まって後を追う。
そして追う時には念仏を高唱する。

追えば、テンピはまた回転して逃げる様である。
そして郊外まで追って行くと野に転がって行き災いはない。
しかし追わないと人家に転び入り、そこで火を発すると云う。

奇なることである。

巻之9 〔3〕 ← クリック 元記事

《12》 火球が天より落ちてきた話し

林子が語った事だが、癸未十月八日の夜の戌刻下りに、西の天から大砲のような響きがして、それが北の方へ行った。
そして直ぐに北の戸を開けて空を見ると、北天に残響が轟いていた。

後に人が話すのを聞くと、あたりを歩いていた人は、そのとき大きな光り物が飛んでいくのを見たという。

また数日隔てて聞いた。
早稲田にちょっとした御家人の住居があり、その玄関辺りに石が落ちて屋根を突き破り、破片が飛び散ったのが、その夜のその時刻だったという。

そういえば、七八年前にもこのようなことがあったな。
これは昼間の話だが、八王子の農家の畑の土に石がめりこんだ。
今回の夜の一件と同じようだ。

今度の破片も同じような石だとそれを見た人は云っている。

昔、星が落ちてきて石になったなどと云うことを聞いたが、これに由来しているのだろう。

七八年前の飛び物は、まさしくわしの身内の者が見ていたのだが、その大きさは四尺(1.2mほど)以上にもなる。
また、赤っぽく、黒っぽく、雲のようで、火焔のようである。
鳴動回転して、中天をものすごい勢いで飛ぶ。
そして走っていく後ろには火の光のようなものがついており、かつ残響を曳くこと二三丈に及んだ。
動きは東北から西方に飛んで行った。

見物人は、はじめのうちは熱心に見入っているが、その後は怖くなって家に逃げかえり、戸を塞いでしまう。

巻之40 〔5〕  ← クリック 元記事


以上甲子夜話に記載されていた天狗に纏わる話を4回にわたり12件紹介した。
しかし、これもまだごく一部で、目次を探ると、天狗に関する話題はまだまだたくさん収録されている。(参考)

  No 篇数 巻数 番号 目次
  1  続 005 003 越後、漂木咄
  2  続 012 007 天狗災火を走る
  3  続 017 001 落咄百節
  4  続 021 009 『車借』の事〔能に見ゆ〕
  5  正 006 009 林子、宮嶋にて山禁を犯し瀑雨にあふ事
  6  正 009 025 誠拙和尚、南禅寺にて天狗を戒むる事
  7  正 023 010 飛脚、箱根山にて怪異に逢ふ事
  8  正 023 034 坂本雲四郎、駒嶽に怪を見る事
  9  正 030 023 空中に人行を見し話
  10 正 034 007 足利時代勧進能并場所の図
  11 続 032 004 喜多六平太家伝符大会の面の事
  12 続 036 002 原、白隠和尚時蹟『粉引唄』[同]
  13 続 055 003 火災詩〔文政十二年三月〕
  14 続 066 003 天保二年辛卯観世勧進能のこと並其前と古代の事
  15 正 095 002 狼華歓心能
  16 正 094 011 天狗〔引『抱朴子』〕
  17 正 090 013 古人の短冊
  18 三 015 001 就中『石橋』の能、家々其別ある由之事
  19 三 017 002 讃州丸亀城主京極家の家老某、女病しとき家長神託のこと
  20 三 021 001 豆州談〔江川太郎左衛門、朝川鼎物語。三十一段〕
  21 三 050 002 堀田備中奥医某怪死
  22 三 058 004 牛車をぎっしゃと唱ること ○水天宮 ○浄海入道の墓 ○二子山
  23 三 067 010 大火之とき天狗火を延く話 ○長門の臣愛宕山に登、洛中延焼を見し話并右大火の前妖
  24 三 069 006 日光宮登山のとき愛宕山失火の怪語
  25 三 070 012 天狗をグヒンと云説并天狗両種ある説 付安覚并梅居士の強記 ○天狗を見し正話
  26 三 077 016 足守侯の領、鷲人語を成せし話付評
  27 正 073 006 天狗界の噺
  28 正 068 001 『丙丁燼余』之一
  29 正 065 006 福太郎の図[河童の名]
  30 正 064 003 南禅寺守護神
  31 正 060 017 天狗〔飛物の名〕
  32 正 007 027 上総人足、天狗にとられ帰後の直話

などがあり、今ここでは12件ほど(1/3)を紹介したに過ぎない。
またブログ自体もまだ全体の1/3程度であり、機会があれば残りの物も後から追加してまとめて見たい。

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/29 05:46

甲子夜話の面白き世界(第5話)天狗にまつわる話(5)

甲子夜話の世界第5話

今回は甲子夜話に記載されている話とは別なものを紹介しておきたいと思います。
私のブログでもう10年ほど前に天狗をテーマに10回ほど記事を載せました。
この甲子夜話を読みながら、私の記事も一緒に読んでもらえたらうれしいなという気持ちになりました。
大変あつかましいのですが、ここにリンクを貼らせて頂きたいと思います。

<天狗について> 以下に記事を載せます。それぞれの項目をクリックしても単独に読む事が出来ます。

ただ纏めて11件を続けて読む事も出来ます ⇒ こちら(天狗の話) をクリックしてください。

1) 天狗の話 - 猿田彦

2) 天狗の話 - 長楽寺の天狗

3) 天狗の話 - 愛宕山の天狗

4) 天狗の話 - 天狗小僧寅吉

5) 天狗の話 - 烏天狗

6) 天狗の話 - 大杉神社

7) 天狗の話 - 常陸坊海尊

8) 足尾山と常陸坊海存

9) 天狗と津島の祇園

10) 平田篤胤が江戸で見ていた常陸の天狗世界

11) 常陸の天狗世界(2)

なお、平田篤胤の書いた仙境異聞に登場する天狗小僧寅吉のその後や子孫が開いた「天狗湯」を探した記事もあります。
こちらは紹介というよりのんびりと探す事を楽しんだ様子を書いています。

記事は ⇒ こちら「天狗湯を探せ!」

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/29 09:27

甲子夜話の面白き世界(第6話)河童にまつわる話

甲子夜話の世界第6話
(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 天狗が終って、今回は「河童(かっぱ)」です。

《1》 河童の図、福太郎、川太郎の話し

 先年、領国の平戸にあやしい施版が出回った。
後に思い出してこれを尋ねると、ある処をつまびらかにしたが、この頃(1825年頃?)、ふと籠の裏からその古い絵の書かれている紙を手にした(以下の図)。

7214_n.jpg

 前図に小記を添えた。最も取るに足りないその旨を述べたい。

・『訓蒙図』に云う。川太郎。水中にいる時は小児の様に背丈金尺8寸~1尺1寸。
・『本草網目』に云う。水虎、河伯ともいう。
・出雲国では川子大明神という。
・豊後国では川太郎。
・山国で山太郎(山の下、城の字を脱するか)。
・筑後国では水天狗。
・九州では川童子。

最初の守りお札は、恩返しに福を授けるので福太郎と云う。

その由来は、相州金沢村の漁師重右衛門の家に伝わる箱に、水難、疱瘡の守りと記してあって、そのまま家内に祭り置いた。
享和元年(1801年)5月15日夜、重右衛門の姉の夢の中に童子が来た。
「我はこの家に久しく祭られているけれども、未だよく知る者はいない。願わくは、我が為に一社を建てて頂たい。然らば、水難、疱瘡、麻疹の守り神として護ろう」と云って、夢から覚めた。
  姉はいぶかしく思い、親類に知らせて集まり、共に箱を開いた。
そこには猿の様な、四肢には水かきがあって、頭には凹がある。

 因みに前書の説にきわめ、夢の告知で福太郎と称した。
後また某侯の求めで、その邸に出したが、某侯にも同じ物があって、同じ夢の告知から水神と勧請した。
江戸、その領国でもしばしば霊験ありという。

 また云う。
今この祠の建立に因んで水神と唱える。
信心の輩はこの施版を受けて銭12孔を寄付を請うた。
    南八丁堀二丁目自身番向    丸屋久七
 またこの後に図をつける。
これは他人が添えたものである。これもまたここに載せる。

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 総じて河童に霊があることは、領邑だは往々云っている。
わしも先年領邑の堺村で、この河童の手を見た。
猿の掌に似て、指の節は4つあったと思う。
またこの物は亀の類で、猿を合わせた物である。

 立って歩く事があるという。
また鴨捕りと生業の者に聞くと、水沢の辺を窺いみていると、水辺を歩いて魚貝を取り食うと。
また時として水汀を見ると足跡がある。小児の様だと。

 また漁師が云うには、稀に網に入ることがある。
漁師はこの物が網に入ると漁にならず、とても嫌う。
入れば即放る。
網に入って、挙げると、その形一円石に似ている。
これは蔵六の体ならばのこと。
因みに水に投ずれば、忽ち四足頭尾を出し、水中を去ると。

然れば全く亀類である。

巻之65 〔6〕 ← クリック 元記事


《2》 対馬の河太郎(水虎、河童)の話し

対馬には河太郎がいる。

波よけの石塘(いしども、石で造った堤防)に集まり群れている。
亀が石の上に出て甲羅をさらす様にしている。

丈はニ尺余り人に似ている。
老いたもの若いものがいて白髪のものもいる。
髪が生えているものもまた逆に天を衝(つ)くもの種々あるという。

人を見ればみな海に入る。
一般的に人につくのは狐が人につくのと同じである。

国や人に厄をなすと云う。
またわしが若い頃、東部で捕らえたと云う図を見た。

 これは享保(1716~1736)中、本所那須村の芦藪の中の沼田間で子どもを育てているのを村夫が見つけて追い出した。
その捕らえた子どもの図である。

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太田澄元と云う本草家の父岩永玄浩が鑑定した所「水虎」であると云う。

また本所御材木倉取建の時に、芦藪を刈払いをしていて狩り出して獲たと云う。
〈『余録』〉。

巻之32 〔9〕 ← クリック 元記事


《3》 河童に足を取られる話し

 わしが浅草川畔を往来したとき、心に思うまま、「この川は往昔は今の様に深水ではなかった」と云った。

側の者が「『落穂集』にあったと思います。
ある老人の話で、浅草川も昔は川中に一筋の流れがあって、左右の辺りは沙汀で小児など遊行していました。
今では一面に水をたたえていて昔とはさま変わりをしてしまいました」といった。

 わしはいまだその書は見ていないが、その様なこともあるのだな。

 今年10月23日の朝五時(今の午前8時)に、汐引きするとき、御厩川岸を通り、
船長に問うた。「この川の深さは幾尺あるだろうか」。

答えるには、「退汐(ヒキシオ)のときは、川中で3間ばかりです。水棹は3間になりますが、ようやく水底にとどきます。盈潮(みちしお)だと棹はとどきません。ですが両辺は至って水が浅うございます」。

 このとき従行人が云うには、「この川で水泳ぎをする者が言うには、両辺が浅ければ足も水底に立つのです。
しかし油断して泳ぎつづけると、川中に至って急に岸の様に深いところで、そこにおち入って溺死することもあるそうです。
これを世間では、河童に取られてしまうというのですね」。

 これは前の話と合う。
ならば往古のこの都が開けざる前は荒れた田圃だったので、両辺が沙汀なのは自然なことである。
さて今は繁茂に従って、両畔に石垣を作って、壁立して川幅がやや狭くなれば、川上の流れ下り、海の潮は古今変わらないまま、水の満ち方は古より多くなっただろうに。その筈である。

 古は左右に物がなければ、流れも増さず、水退きもはやいので、今の郊外遠堺の水の流れもみなこの様であっただろうに。

正しくはわしの少年の頃までは、河畔石垣がない所が多かった。
また松平冠山の祖父の画いたこの川両辺の景色には、芦が生えた所が多い。

これはわしの少年時より3,40年前になるだろう。
これに想いを馳せよう。

続篇  巻之20  〔12〕 ← クリック 元記事


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/09/30 07:09

甲子夜話の面白き世界(第7話) 亀の話し

甲子夜話の世界第7話

前回の河童には亀に似た図も載っていた。
そこで今回は「亀」特に毛の生えた亀の記事を中心に紹介していこう。

<甲子夜話の面白き世界(第7話)亀の話し>

《1》 毛のある亀の話し

鶴亀の図にある亀の図は亀の尾が蓑の様なことが多い。

これは絵描きの創作かというと、どうでもそうでもないようだ。
昨春、江戸に居る時、織田雲州(丹波柏原の主2万石)が次のような話をした。
 わしが江戸に上がる時に遠州金谷に泊まった。
その夕刻、宿を出て、近辺を歩いた。
山の麓の沢に亀が多くいて、その亀にみな毛が生えていたのだ。
これを捕り瓶に入れて、江戸屋敷に連れ帰ると、亀はみな元気であった。
そこで、雲州に見てくれないかと請い、1匹贈ると、その場で即座にその姿を写した。

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「本草」に緑毛亀とあるのもなるほどと思う。
毛は青色である。また世の中に出回っている絵は左の絵のように毛を甲羅の下より描く。
しかし、今見ているものは、右側の画のように背面よりみな生えている。
世に出回っている絵とは似ていない(寛政5年に記す)。

巻之42 〔13〕  ← クリック 元記事

《2》 毛の生ずる亀の話し

 (平戸)藩士鮎川某が、若い時に領海生月嶋(いきつきしま)の沖で釣りをしていた。
朝日が登る頃、乗っていた舟の向い5,60間(約100m)のあたりに大亀が浮かんできた。
見ていると沈んだり、浮かんだりを繰り返している。
 その大きさは甲の径り4,5畳ほどで、背の甲の文は鮮明で絵のようだ。
そして尾には毛があって赤色をしている。
日光を受けて、海水に映じてその色はいよいよ美しい。
亀の首は見分けられないと人に語ったという。

 『本草啓蒙』には、「海亀は海中で産する大亀である。小物は2,3尺、大者は丈(1丈で3㍍)余り。甲は水亀と同じく六角の文が13ある」と書かれている。
 これら甲の径り4,5帖あまり、背の文は鮮明と云うのよく符合する。
また尾は、同書の「緑毛亀」の条に、本邦にも3,5寸ばかりの大きさは、池沢の流水の中に、一般の(よく見かける)亀と群れて泳いでいる。形は水亀と異ならないとある。
 ただ甲に黄斑があって3寸ばかりの長さの細い緑の毛が多く生じて、水中を行くときは甲の後ろに靡(なび)いて尾のようだ。
今島台に飾る多毛の尾がある亀はこの状態を像(かたど)っている。
実に尾に多毛の亀であるわけではない。

 海中にもまた緑毛の亀がいると見える。
然らば前に聞いたものは海中の緑毛亀だろうか。
但し赤毛と云えば、緑色ではない。
今画者の描いた彩色なのは、亀の尾毛のあるものはみな、赭(あか)毛で、金色の線が混じる。 
ならばこの着色もそのあかしなのか。

 俗間で、蓬萊山を亀が背負う所を画くものはみなこれである。
唐土(中国)の緑毛亀は小さいものと見える。
前42巻に出した、織田雲州が語った亀、わしは目撃した毛亀は、甲背にみな緑毛があった。
ただし赭色(しゃくしょく:赤土色)や金線があることはない。
 『本綱』に記載されているのは、
「緑毛亀、今惟(思う)に(中国)勸州方物を以て、養い、商いをする者は、渓谷などで自ら採集している。水瓶の中で畜う」という。
 魚や鰕(えび)をえさとし、冬になって水を除くと毛を生じ、その長さ4,5寸である。
毛の中に金線が混じっている。
 その大きさは大5銖銭(ごしゅせん:古代の中国の鋳造銭)くらいである。
他の亀も長く飼えば毛を生ずるが、金線は無い。
 『和漢三才図会』を調べてみると、大抵画かれている亀は、みな長い尾があり、緑毛の亀のようである。
しかれども本朝にては稀有なものである。
ただ久し飼えば毛が生ずるというものでもない。
普通の水亀も、冬は泥の中にいて、春に出てくる時は、甲の上に藻や苔を被っている。
青緑色にして、毛のように見える。これを捕え、数回撫でてもこれが脱することはない。
しかし数ヶ月もすれば毛は落ちてしまう」とある。

 しかしわしが目撃したものは、中々毛が脱するような体ではなかった。
また以上の諸説をまじえて考えると、海中に赤毛の亀がいないというものではない。
思うに画家に伝わる蓬山を負う亀は、おそらく赤毛の海亀になったのだろう。

巻之88 〔7〕  ← クリック 元記事

《3》 いろいろな色の毛の亀の話し

 平戸に野々村某と云う士があった。
かつて月夜に海中に釣りに出かけ、一物を釣り上げて見るとそれは亀だった。
甲の幅は4寸ばかりで、尾に毛があり、長さは6寸をこえる。いわゆる緑毛亀である。
口は殊に広く、鈎(つりばり)を銜(くわ)えて口を開く口内は紅色で火が燃えるようであった。
奇異からだと、釣り糸を外して、亀を海に投げたと云う。

 また近臣篠崎某も、平戸城下黒子嶋辺りの海面で見た亀は、その頭は馬の首の大きさで、頷(あご)下は紅色で美観であったという。また甲背は見えなかった。
海中に没したとき、亀の尻の部分がみえたので、尾の毛はあったと思う。そして毛の色は赤土色であったと。

また先年藩士が領海生月嶋の辺りで見た大亀も、尾の毛があって赤色だったと。
『本綱』の海亀に大小あると云うのは、これらも類か。

 また吾が中の者が、船で淡路を経たとき海中から亀が頭を出したのに遭遇したが、大きな猫の首のようで、これも甲は見なかった。ただ、海中に没するとき尻を露わすと毛があった。蓑のようにして、長からず、灰色だったと。
これまた別種か。

三篇 巻之1 〔9〕  ← クリック 元記事

《4》 ぜにがめの話し

わしの幼児(息子、肥州)が、亀の卵を持ってきた。
見ると白色で鳩の卵の様だった。
四五日して殻を割って亀が生まれた。
大きさは銭の様だった。
その腹の甲に三四寸の臍帯(ヘソノオ)がある。
色白で細い縄の様。日を経て落ちた。
虫介類も卵の中に胞(エナ)があって産後に臍帯があるのが奇である。
『本草啓蒙』にある。水亀は春に陸に出て、沙土を掘ること六寸ばかり。
卵をその中に生じて土をかける。
八月中旬に至り孵化する。
大きさは銭の様。
これを「ぜにがめ」と云う。
薬用の亀甲は腹版である」と見える。
幼児が得たのも、八月中旬のことである。臍帯は腹版甲文の際より生じている。
林が云った。
佐野肥州〈大目付〉の庭に小池があって、年々に亀雛(本文ママ、亀の子ども)を生じる。
その卵をなして土をかぶせてから孵化に至る日数は、必ず七十二日である。
しばしば試みるが違わずと云うこと。
七十二の数は、あたかも真理に叶う。
肥州は知らずに試みて、暗にその数に合致する。
もっとも奇である。

続篇 巻之31 〔2〕 篇 巻之1 〔9〕  ← クリック 元記事

《5》 亀などの卵が孵る日数の話し

林翁が話したこと。
時鳥(とき)は自ら巣をつくることなく、鶯の巣に卵を産し、鶯に暖めさせて雛になるのはよく知られている。
この頃聞いたが、鷺(さぎ)もその様に巣を持たず、鵜の巣に卵を産んで鵜に返さすという。
これは初耳だった。
又話す。
久留米候の高輪の別荘に招かれて行ったが、その園に丹頂鶴が卵を暖めていた。
去年孵った(かえった)ヒナもいた。
そこの人に聞いたが、年々1組ずつ雛が孵るのだと。
日数はどの位かかるのかと問うと、36日目には必ず孵るのだと云う。
また先年、ある人が園地で亀を養っていた。
年々子を産する。
その親亀の地に穴を掘って卵を産してからおよそ75日で孵り、小亀となっていくのを度々見たと。
ふと鶴の36日孵化を思い起こした。
亀は72日であるべし。地中の事だから、人目につくのに2〜3日は遅れるんじゃないだろうか。
6は老陰の数だから、6✕6=36。これを倍すれば、72だ。自然とこの数に合うこと、奇跡と云うべきだ。
※老陰〜周益では6の倍数。

巻之48 〔8〕  ← クリック 元記事


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/01 05:54

甲子夜話の面白き世界(第8話)蛟(みずち)の話し

甲子夜話の世界第8話

<甲子夜話の面白き世界(第8話)蛟(みずち)の話し>

  蛟(みずち)

わしの小臣の某がある夜に小舟に乗って海釣りをしていた。
その時に月が白く輝き、風は清らかだった。

そして、白岳の方を臨むと、山頂より雲が一帯生じていた。
その雲は白色で綿々していた。
その綿のような雲は、だんだん広がってきて、遂には天を半分覆うようになり、まるで茶碗の様であった。

そして、その傍には、また白く鱗々とした雲が生じてきた。
すると、また急に黒雲が出てきて、次第に広がり、東北に行き渡り、暴雨が降って来て浪もまた湧かんばかりの様子だった。

少し時が経ち、空は晴れた。
このとき、雨は山の東北のみに降って、西南には降らなかったという。

わしは思うにこれは蛟(みずち)のしわざだと思う。
蛟は世にいう雨竜と呼ぶもので、山腹の土中に居るものであるという。

『荒政輯(シュウ)要』にその害の除き方が載っている。
また世に「ほうらぬけ」と云って、処々の山半分がにわかに振動して雷雨誨冥(らいうかいめい:雷と雨が起こり暗闇となる)にしてそこから何かが飛び出すものがあった。

これを「ほうら」が土中に居る様だと云うが、誰もこれを正しく見た者はいない。
これはまた、蛟が地中から出たものと云う。

淇園(皆川淇園、みなかわきえん:江戸時代の儒学者、1735〜1807)先生はかつて話されたことがあるが、ある士人の所にいてたまたま目にした事だという。
「1日その庭を見ていると竹垣の小口から白い気が生じて繊々として糸の様である。
見るうちに1丈ばかり立ち上り、遂にひとかたまりの小丸の様になった。
またとび石の処を見ると、その平石の上が3、4尺ばかりが濡れて雨水の様のようになっていた。

その人は不思議に思い、かの竹垣の小口を窺い見ると、(白い)気が生じた竹中に蜥蜴(とかげ)がいたという。
この蟲は長身4足で蛟の類だという。

するとこの属(蛟)はみな雨を起こすものであるというのもうなずけよう。

巻之26 〔5〕  ← クリック 元記事

甲子夜話に出てくる「蛟(みずち)」の話は今のところこれ1件だけである。
ただ、「みずち」の「みず」は水で、「ち」はヤマタノオロチなどの「ち」と解釈もされており、水辺にいる蛇族の一種とも考えられる。
一般に、関東以北では「みずち」という妖怪めいた謎の生き物は蛇のような姿で捉えられる場合が多いと思う。
また、東北地方になると「ミズチ」は河童などを含めた水辺の不思議な生き物全体に使われ、これがアイヌに伝わると「ミントゥチ」は本土における「河童」などの水棲の半人半獣の霊的存在の獣一般を指すようになった。

甲子夜話では主な解釈も西日本での当時の「蛟(みずち)」の考え方を書かれていて大変面白い。

茨城県の利根町にはこの 蛟=水神 を祀る「蛟蝄神社(こうもう神社)」がある。

(前に書いた記事 参考:<日本語と縄文語(29) 九州地方の地名>

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/02 10:18

甲子夜話の面白き世界(第9話)狐にまつわる話(1)狐つき

甲子夜話の世界第9話


(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 今回からは「狐」です。その最初は「狐つき」についてです。
狐は古来から男や女に化けて、人をだましたり、人に取り付いたりするようです。
ここには甲子夜話からそんな話を集めてみました。

《1》 狐つき

ある者に狐がついた。
医薬は勿論、僧巫(そうふ)の祈祷でも離れなかった。

やん方なくある博徒がいて、狐を落とそうではないかと云う。
それで、頼んだ。

博徒は、鮪(まぐろ)の肉をすり身にして当の者の総身に塗り、屋柱に縛り付けた。
そうして、そこに畜犬を連れて来ると、犬は喜んで満身を舐めた。
その者は大いに恐怖を感じ震えながら叫び声を上げた。

やがて狐も落ちたとのこと。

巻之12 〔25〕  ← クリック 元記事

《2》 聾者に狐つき

わしの身内に茶道をする老婆がいる。
年七十余りで気持ちの安定が尋常ではない。
どうも狐つきらしいと思われ、よく未来を云い、また過去を説いては違わない。

ややもすれば、ここにいると害に遭うと云っている。
人がその側を離れれば、逃げ出そうとする。
家の者はこれを憂いて祈祷者に占わせた。

ガマの目の法を施せば、この妖魔は去ると云う。
わしはすぐに聞いた。
「どうしてガマの目の法を行うと去るのか。早く邸中の年少の者に、かの家にいって指矢を射させるのだ。そうしたら、妖狐は即去るだろう」。

未だかつてこんなことはなかったが、老婆が云う。
「日を置かず、ガマの目の法を行って下さい。そうすれば、速やかに去るでしょう。やらないと死んでしまいます」。
これで老婆は正常に回復した。奇跡だ。

この老婆は、もともと聾(ろう)だったと聞いたが、狐つきの間はよく人の話が聞くことができ、またいろいろ事を細かく話すことができた。
しかし、狐は去り元の聾(ろう)に戻った。
これもまた奇跡である。

続編 巻70 〔11〕  ← クリック 元記事

《3》 浮田秀家女についた妖狐(1)

『雑談集』にある話。
浮田中納言秀家は備前一ヶ国の大主である。
ゆえあってひとり娘に妖狐がついた。
種々の術を尽くせど出ていかない。

それで秀家も心気鬱になり、出仕もやめざるを得なかった。
秀吉はこれを聞き召され、かの娘を城へ召して、狐に速やかに退散する様命じた。

狐は退くという時に次の様に云った。
「私は車裂きの刑に逢うとも退くものかと思いました。しかし、秀吉さまの命にそむくならば、諸大名に令して、西国及び四国の狐までを狩り平らげよとの御心中と察しましたので、今退きます。私の為に多くの狐の命を亡くす事は、如何ともしがたい。だから涙泣きをしつつ立ち去ります」。

翌日、秀家は謝礼として登城して、その始末を言った。
秀吉は頷いて微笑んだという事(『余録』)。

巻22 〔19〕  ← クリック 元記事

《4》 浮田秀家女についた妖狐(2)

巻之ニ十ニに浮田秀家の娘に狐がついて離れ去らないのを秀吉公の命でたちまち去った話があった。
また同じ冊の後ろの段に、芸州宮嶋には狐の害がないと云っている。

この頃、太閤の令と云うものを行智に聞いた。
先年、それを見て暗記したと云うのだ。すると浮田の事はこれであろうかと思った。

『その方が支配する野干(やかん、野獣)は、秀吉の召使いの女房に取り付いた為に悩ませている。
何のつもりがあってその仇をなすのか。
その子細は無きものとして、早々に(取り付いた者の体から)引き取られたし。
もし引く時期が延びるとすれば、日本国中に狐狩りを申し付ける。
猶(なお)、委細は吉田神社に(ことごとく)口状申し含む。  
       
              秀吉          
月  日
      稲荷大明神殿え』。

巻96 〔17〕  ← クリック 元記事

《5》 安芸の宮嶋には狐つきなし

 安芸の宮嶋には狐つきがある事がない。
また他所の人が、狐につかれた者をこの嶋につれて来ると必ず落ちる。 

 また狐つきの人をかの社頭の鳥居の中にひいて入れると、苦悶大叫して狐がそく落ちると。
 神霊はこの如くである。

 近頃わしの小臣がこれは実説だったと云う。
これに依ると昔浮田の女(むすめ)が、あばれる狐がおちないので、太閤が西国四国の狐狩りをしようと云ったかどうかは疑わしい。備前宮嶋からの距離はそう遠くはないではないか。

 秀家が鼻の前の神験を知らずに、愁い鬱々した日を重ねたというのは、いぶかしい。

巻22 〔29〕  ← クリック 元記事

《6》 蝦夷の狐ばかりは人を化かす事を知らない

林の話に、そうじて狐は人を化かすのは何れの国も同じ事なのに、蝦夷の狐ばかりは人を化かす事を知らない。
如何なることにて狐の性が変わるのだろうか。

巻47 〔10〕  ← クリック 元記事





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甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/03 06:57

甲子夜話の面白き世界(第10話)狐にまつわる話(2)鳥を化かす狐

甲子夜話の世界第10話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 「狐」の2回目は「鳥を化かす狐」についてです。

《1》 狐に化かされる鳥

邸の隣の住人に聞いた話。

ある者が幼い時、上野山下の根岸に住んでいた。
その時山から老狐が出てきて、よく馴れた。
食をあたえると家に入り人の傍で食べた。

狐は人ばかりでなく、鳥類も化かすと知られていたが、ある日鳥が来て樹の小枝にとまった。
するとこの狐はその樹の下をぐるぐる回ると、鳥は飛びさる事が出来なかった。

狐が樹の下にいて頭を揺らすと、鳥も樹の上で頭を揺らしてた。
狐がやる事一切を、その通りにしたのだ。

とするならば、血気あふれて飛び走る類もきっと狐に惑わされたものと見た。

巻之8 〔3〕  ← クリック 元記事

《2》 狐ににらまれた鳬(かも)

この頃また聞くには、下谷妙音寺の池に鳬(かも)が多く集まると云う。
時々狐が出てきては、水岸に鳬がいるのを見ると、その鳬の中の一羽に狙いをつけて、真っ直ぐにその方へ行くと云う。
その鳬は動く事ができず、わざわざ狐に捕らえられると云う。

これまた惑わして、引き寄せるものなのだろう。

巻之21 〔14〕  ← クリック 元記事

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/03 17:39

甲子夜話の面白き世界(第11話)狐にまつわる話(3)稲荷と狐

甲子夜話の世界第11話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 「狐」の3回目は「稲荷、八幡社などと狐」についてです。

《1》  『ヤハタ』の森

聞いた話である。

上総下総の国境の道傍に『ヤハタの森』と呼ぶ小森がある。
その裏を看ると向こうへ見通すほどの狭い林である。

しかし、以前より、この裏に入る者は1人としてまた出ることはなかったという。
人は怪場として、「やはた知らず」と云った。
その意味は、人は未だこの林の中を知る者はいないと云う意味である。

また聞いた。
かつて水戸光圀卿がこの辺を行き過ぎようとしたとき、お供の者に、この林の中に入ろうとの言われた。
左右の者は堅くそれを拒んだ。
卿は「何ごとかあるのか」と自身1人で中に入り、出てこられるまですこしの時間がかかった。
従行の人はみな色を失った。
然るに、卿は少ししてから出てこられた。
その顔容はいつもと違っていた。そして曰くに。
「実に怪しき処であった」と、それ以外は何も言わなかった。

こうして、しばらく日数を経てから言うには、
「かつて『ヤハタ』に入ったときは、その中に白髪交じりの狐の翁が居た。
そして曰く。『何たる故にこの処に来られたのか。昔よりここに到る者は生きて帰ることはありませぬ』。
また辺りを見ると、枯れ骨が累積しておった。
狐はそれを指して曰く。『君も還ることはよしとしないが、貴方の賢明さは世に聞こえている。今、ここに留まらず、速く出給われよ。そして再び来給うな』と云って別れたものよ。
このは余りに畏怖があってな、人に語るには及ばず」
と人にの給われた。

ある人また曰く。
「この処は八幡殿義家(八幡太郎・源義家)の陣跡と云い伝わっている」と。
これは『ヤハタ』と称する説だろうか。また果たして真なのか。

三篇 巻之11 〔4〕  ← クリック 元記事

《2》 水戸殿の祠

 水戸殿の小石川邸(現後楽園球場附近)の園中には、伯夷、叔斉の祠がある。
(伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、古代中国・殷代末期(紀元前1100年頃)の孤竹国(現在地不明)の王子の兄弟であり、儒教では聖人とされる)

いつの頃からかその像を取り除いて祠八幡とした。
今の中納言殿〔卿〕の祖文公殿〔中納言治保卿〕の時、林子を招かれ、園中翺翔(こうしょう)にある折りから、林子に詩を乞われた。
林子は色を正して云った。
「義公(徳川 光圀公)の高風清節後世に流伝するのは、伯夷を景慕されてのことであろう。
今日その祠を見ると、いつか八幡となってしまった。
真に歎かわしいこと、甚だしい。
あわれ、八幡祠を外に新しく造られ、この旧祠には狐竹2子の像を元のように安置したまえ。
そうあらんときには、この時こそ拙も詩を呈すべく」

と陳説され、文公は大いに感動された。

その後八幡祠は別に成って、狐竹祠は昔に復したとのこと。
林子はいかにも奇男子と云えるだろう。

注:伯夷・叔斉は、孤竹の国の君主の子供であった。おなじ「狐」でも稲荷の狐とは意味が違うということか。

続篇 巻之7 〔7〕  ← クリック 元記事


《3》 王子の稲荷の狐
(王子稲荷は、大晦日に全国の狐が集まり、狐火を灯した行列があるとの民話がある)

ある士が、王子の稲荷(東京北区の王子稲荷神社:東国三十三国稲荷総司)に参詣に出かけた。
山中に至ると、穴の中に狐が伏せて寝ている。
士が「権助、権助」と狐を呼んだ。
狐は驚いて目を覚まし、思った。
「お侍さんは、オイラの事を権助と見るのか」。
狐は化けはせず、そのまま穴を出てきた。
士もまた知らん顔をして狐を連れて通って行った。

帰り道、山下の海老屋に入った。(この辺りには海老屋と扇屋という大きな料理屋があった)
狐は下僕に化け、酒肴を注文した。
そして酒肴が酒の席にズラーと並べられた。
酒もたけなわになったところで、士は厠に行き、そのままそこを去った。
下僕の狐だけが残された。
家人が怪しみ「酒肴のお代は?払ってくれるよな?」と聞いた。
下僕は「お、おいら、わかんないや!」と云った。
主人は怒り、その狐を嘲った。
下僕ははじめて悟り、すぐさま走って山に走って逃げた。
店主はあっけに取られてしまった。

士は戻ってこれを窺い見た。
ただ、この店には入らずに、餅の店に行き、饅頭を買って、再び狐穴に行った。
小狐がいて臥せっていた。
士は狐を呼んだ。
小狐はまた驚いて起き上がった。
士が云った。「おまえ、驚くなよ。饅頭をやるから」。
小狐は喜んだ!喜んだ!
それから牝狐の所に行き、このことを告げた。
牝狐が云った。
「食べないよ。おそらくは馬糞だからね」。

注:狐が化けて人間に饅頭を渡すと、それが馬糞の饅頭だったという民話は各地にたくさんあります。

続編 巻之17 〔1〕  ← クリック 元記事


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/04 04:52

甲子夜話の面白き世界(第12話)狐の話し(4)狐と火事

甲子夜話の世界第12話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 「狐」の4回目は「狐と火事」についてです。
昔は狐が火をつけて火事になったなどという話がたくさんあったようです。

《1》 霊妙なる狐

狐は霊妙なる者である。
平戸城下、桜馬場という処の士が屋敷にて狐が火を燃すのを見た。
若い士どもは取囲んで追うと、人々を飛び越えて逃げ去った。
すると物が落ちる音。
これを見ると人骨の様なものがある。
みなが言うには「これは火を燃すものに違いない。
取り置けば、燃すことは出来ない。
持ち帰って屋内においておけば、必ず取りに来るだろう。
その時、生け捕りにしよう」。
示し合わせて、障子を少し開けて狐がやって来るのを待っていた。
果して狐は来て、伺い見るようにして、障子が開いた所から面を入れては出したりを度々繰り返した。
人々は今や入ると構えていると、遂に屋内にかけ入った。
待ち受けていた者は、障子を閉めるが閉まらない。
その間に狐は走り出た。
皆は何が起こったのかと、障子の敷居を見ると、細い竹を溝に入れ置いていた。
それ故、障子が動かず。
いつの間にか、枯れ骨も取り返されてしまった。
さきに伺っていた時に、この細竹を入れ置いたに違いない。

巻之4 〔25〕  ← クリック 元記事

《2》 狐の祟りの話しもまちまち

印宗和尚の話。播州竜門寺との文通によると。
京東本願寺が火事で焼けた時に、尾州名古屋より仮のお堂を京へ送った。
海運の途中、船数艘に積んでいたら、柱積んだ中で大船2艘に船火事が起こり、積材は燃えて尽きてしまった。
人が云うには、これは狐の祟りかと。

また松尾華厳寺の手紙には、本願寺の本堂注文の中、大工の棟梁が心得違いを起こして、柱10本の長さ1間ずつ短く切ってしまった。
大きな木材なので、にわかには取り入れられなかった。
けれども、本堂の建て方を早急に調えることは出来ず、これにより仮のお堂の沙汰に及んだのだと。

前半に仮のお堂の事は本当に起こった事と記したが、人の口はまちまちで何が真実なのか。

巻之51 〔3〕  ← クリック 元記事

《3》 狐のうらない。火事の後に寺地を変える

溜池の嶺南(れいなん)坂は、今の品川東禅寺がかつてあった所である。
その寺の開山を嶺南和尚という。
明暦の大火(1657年3月2日〜3月5日)の後、品川に寺地を下されたが、その名残りで坂を嶺南と呼ぶ。
嶺南和尚はこの火災後、寺地を移すことを決め、移転先を決めようと、この寺開基の檀那伊東候〈日向飫肥五万余石〉と共に海浜を連れ立って歩いていた。
するとそこに、一匹の狐が現れて、嶺南の衣をくわえて引っぱった。
そのため、嶺南は即その地に寺を建てた。
今の東禅寺の由縁である。
この場所は、外門の額海上禅林と面している。

また、この寺の住持(住職)が遷化する(亡くなる)時は必ず狐が現れるという。
吉凶、いかなる兆(きざ)しか。
〈林氏云う。火事の後に寺地を変えることは、昔の定例でおびただしいことであった。
皆、官家の命に出て、私的に地を交換することではなかった〉

巻之70 〔23〕  ← クリック 元記事

《4》 地雷火と狐火

 長岡侯(牧野備前守)在邑のとき、火術を心得た家士どもが地雷火を試そうと、某の野山に仕掛けてやっていた。
来たる幾日にと伺い出たので、侯は許された。
すると、その前夜に1100の狐火が、その山野に満ちてさまざまの形容を為した。
あたかも地雷火がほとばしり走る様にその中に存在感をなしていた。
狐が物事を前もって知るのは、珍しい事ではないながら、火術の真似をするのは最奇聞である。

巻之31 〔4〕  ← クリック 元記事

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/04 18:36

甲子夜話の面白き世界(第13話)狐の話し(5)狐の恩返し等

甲子夜話の世界第13話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 「狐」の5回目(最後)は「狐の恩返しなど」についてです。

《1》 忠義の狐の話し

これは昔のこと、物語とも云えるだろう。

羽州秋田に何とかという狐がおり、人に馴れ、またよく走ったという。
そこで秋田侯の内で、書信がある度にその狐の首に手紙をまとわせて江戸までやっていたのだという。
しばしばその素速い獣の力を借りたのだ。

ところが、ある時書信がつかないということがあった。
はなはだ疑い訝った家人がその狐の行方を探し求めると、途中大雪に逢い傷ついたと見えて雪中に埋もれていたという。

巻之1 〔14〕  ← クリック 元記事

《2》 楽を聴く狐

岸本応斎〈輪王寺の坊官〉が話したと伝聞する。
かの坊官の任にある時、上野の本坊で楽があった。
その合奏の際、ふと見ると書院の上段の床の上に狐がいた。
楽を聴いて、歓喜の様子である。
人々は驚き誰彼と呼び立てて、もの騒がしくなったので逃げ去った。
感心して出たものと思われる。

巻之2 〔28〕  ← クリック 元記事

《3》 久昌夫人と野狐

久昌夫人(静山公の御祖母様)は母儀の徳がおありになり、かつ御慈悲深かりしは人もよく知っている。
また今わしが住む別荘は、そのころは樹林も密に生じ、今の稲荷祠の処も幽邃(ゆうすい)であった。
因みに世のいわゆる、稲荷の使いの野狐もこのあたりに住んでいた。

近頃、わしの病中看てくれた妾が、聞いてきた話によると、「夫人(久昌)は如何なる御ことでしょうか。夢のお告げがあって、かの稲荷祠の使い狐に、綿を与えられたそうですよ」。

またその後、稲荷祠に参詣された時、母狐らしいものが、子狐をニ、三を率いて夫人の詣の前に出たという。
それを人が見ていて、子狐がさきに夫人が母狐に与えられた綿を頭にも載せていたというのだ。
何でも夫人の恩徳が鳥獣にも及ぶとは、わしもことごとく聴いたというわけだ。

また夫人は御生前は、この邸におられたので、わしが浅草の邸からこの邸を訪ねると、この時は下女に「狐に食を与えよ」と命じられるのが耳に入った。
わしは「何者ですか」と問い申すと「狐(コン)であるが、よく馴れて縁先に来るのですよ」とお答えになられた。

かたがた前の話と思い出したものだ。

巻之71 〔15〕  ← クリック 元記事

《4》 竹千代君誕生秘話

ある日某氏の邸を訪ねて、談話する中で主人が云った。
今の増山参政の家は、そのはじめは農夫であったが、あるとき里中で小児どもが狐を捉え侮蔑し弄んているところにあった。
とても不憫に思い、その狐をどうするのかと聞くと、すぐに打殺すと答えた。
農夫は憐れみ、その狐をくれと強く求めて、家に帰って狐を放した。
狐はその恩を感じて、その夜農夫の夢に現れ、「大変感謝しております。御恩返しにはお望みのままに」と言った。
農夫は云った。「ならば、わしを将軍にしてくれんか」。
狐は云った。「このことはあなた様の代では叶えられません。けれどもお孫さまならば、必ず将軍になられるでしょう。しかしあなた様は、残念ですが大厄に遭われます」。
農夫は云った。「大厄などとるに足らねぇや。孫の代になったら将軍さまかぁ。なにしろ大きな望みが叶うんだからなぁ」。
ここで夢が覚めた。
ところが農夫は本当に叶うのかとだんだん怪しく思う様になっていった。
月日が経ち、ある日家の近くに鶴が来た。農夫は気づかれぬところから、飛び道具で鶴を殺し、人に売った。
このことが役所の知るところになり、官禁を犯したかどで、死罪に処された。
家宅は没収され、家人はその田里を去った。

その家には娘が二人いたが、この様なわけで暮らしていくために江戸に出ていった。
ある日上野山下の広小路で、地上に蓆(むしろ)を敷き、土偶(土人形)を並べてこれを売っていた。
たまたま、将軍家が東叡(東叡山寛永寺)を御参詣された。
その時、この娘の姿を輿の中から御覧なされた。
御帰輿の後、春日局を召し仰がれ、
「今日東叡山下で土偶を売る娘が二人いて、ことさら美しかった。
早く呼び寄せ、汝の部屋に置くように」。

局は、人を使って娘達を探すと、果たして有った。
局はただちに御城内に連れて入った。
これより月日経ち娘は昇進して、ついには上の幸いを得た。
そして御産に至り、竹千代君を生んだ。これが四代将軍様である。

また主人曰く。春日局は、某の家祖で狐が言うことにもまた真実味があると。

わしは『柳営婦女伝』を閲覧すると、宝樹院殿〈増山侯の祖、かのニ女は農のニ娘である〉の御事蹟とたがわない。
されども小同大異、要するに、狐異(狐の報恩話)は一聞とすべきであろう。

巻之14 〔13〕  ← クリック 元記事

狐にかかわる話もまだいろいろあるようですが、まずはここまで。


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/05 08:31

甲子夜話の面白き世界(第14話)狸の話し

甲子夜話の世界第14話
(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 「狐」につづいては「狸」のお話しをいくつか載せて置きましょう。

《1》 狸を化かして、また化かされた

平戸のある人が語った。
ある者が、ある人の家に行こうと山路を歩いていた。
するとその道の傍の樹の下に狸が一匹ぐっすり眠っていた。
この者は狸を騙してやろうと思い、声を上げて言った。
「小僧!小僧!早う起きよ!わしは持ち物があっから、持ってくれんか!」。
狸は驚いて目覚めて思った。
「これって、小僧だと思っているということは、オイラは狸が化けたのをおじさん知らないのだな」。
それで持ち物を背負い、付いて行った。
出立してから大分経っていたが、目的の家は近かった。
目的の屋敷に着くと、その者は狸の小僧を小径に待たせておいて、その屋敷の中に入り、かの山径での経緯を皆に語り、「どうか決して狸を騙している事を悟られないように、狸を見ても決して咲わないでくれ」と念を押した。
そして、小僧の元へ戻り、その屋敷の中に連れ入った。
家人はみな、目配せをして全く笑うことはない。
狸はいよいよ気をよくして、その身体が獣であることなどとは考えも及ばなかった。
周りも、まったく人のように接している。
主人は客に酒を出す。狸もこれを飲む。
季節は夏であったので、ひやむぎを味わった。
客は「うまい、うまい」と言いながら食った。
小僧にも振る舞われた。そして小僧が食べようとすると!!!
皿の汁に獣である自分の姿が映っているではないか!!!
狸ははじめて、騙されていたことを知り、戸外に逃げた!逃げた!逃げた!
客も家の者みな拍車喝采して笑った。
その後、客たちはこの話題を肴にして甚だ酔い、夜更けに帰宅した。
途中妻が戸外に出て待っていた。
「夏の夜は殊に暑いわねえ。さぞや汗をかいただろ。さあ、湯を沸かしたから浴しなさいよ」。
夫は「よく気のつく嬶(カカア)だねえ」と、湯に入った。
ああ、何て爽快な!
そこへ、隣人がやって来て云った。
「おい、何で小便壺に入ってんだ?」。
その男、気づけば隣人の言うように壷に入っていた。
あら〜。妻と思ったが、あれは狸だったのか。
狸は、妻に化けて讎(あだ)に報いたんだね。

わしは、この話はこの様に評価する。
校人(番人の長)が子産(鄭の宰相)を欺いて、君子は欺くにその方を以てすると云うが、そのはじめに料理を食わせるとき、子産ははやくも知っていて、寛徳その所を得たという話を出したのを、校人は悟らず、道理のない説を発したか。
山狸もまた、冷麺の影に驚いたのが正解であろう。
だから、妻に化けたのは偽りといえよう。
読者よ、熟慮を望む。

(注:孟子にある話:
  ある時、生きた魚を鄭の子産に贈った者がいた。
  子産はこれを校人(池の番人)に命じて、池で飼わせた。
  ところがその校人は、その魚を食ってしまい、子産に復命した。
  「初め、之を池に放った時には、元気が悪かったが、少し経つと、
  元気が良くなって、悠々と泳いでいきました」と。
  子産は言った、 「其れ所を得る哉(住むべきところを得たのかな)」と。
  校人は、退出すると言った。
  〈誰だよ、子産を智者とか言ったのは…、
   オレが煮て食っちまったっつーの。
   よかったよかった、だとよ。〉
  このように、もし君子をダマしたいのであれば、それらしいウソをつけばよい。
  ただし、道から外れた行いによって、君子の目をくらますことは難しいけどね。

巻之14 〔1〕  ← クリック 元記事

《2》 古狸

 豊川勾当は例年の事でこの冬もまた天祥寺に招いて『平家』をかたらせる間、かれらの話である。
過ぎし年用事があって外出した帰路に和田倉御門に入った。
桜田の方へ行くと心得て、いつものように手引きの者と一緒にいったが、思わず草が生い茂る広野に出てしまった。
心中に、ここは御郭の中だから、このような広原があるはずもないと。
手引きの者に「ここは何処ぞ」と聞けば、手引きの者も思わず「野原に行きかかったようですね」と答えた。
勾当はこれで心づき、「これは狐の所為ならん。されど畜生は如何にして人を迷わすのか」と独り言云いつつ行った。
 柝(ひょうしぎ)を打って時を廻る音が甚だしいなる所に近づいてきた。
「されば」と暁(さと)り、手引きに「ここは御郭の内なるぞ。心を鎮めよ」と云うと、手引きもはじめて心づいた。
「やはり馬場先内で、未だ外桜田をば出る所なのだろう。僅かの間に狐は迷わしてくれることよ」と。

 そのとき坐中の人の話に、昔山里に住まる夫婦が樵(きこり)の業を為していたが、夫は片目だった。
妻はある時、その山から薪を負うて還るのを見て、(夫は)右片目なのだが今日は左片目になっていたので、「怪しい」と思い、折ふし有合の酒を強いて飲ませた。
遂に酔って眠ったのを妻はこれを縄で柱にくくりつけた。

 ちょうど夫も帰ってきて、「何だ。これは化け物だ」と罵り責めた。
これで忽ち古狸となり姿を表わしたので夫婦で打ち殺した。

畜類のかなしさとして、片目とだけ思って、左右の弁別なきは、可咲(おかし)いことだった。

続篇 巻之10 〔7〕  ← クリック 元記事

《3》 碁打ちの老狸

 世に知られた角力(相撲)の関取で緋威(ひおどし)という者は芸州(広島)の産まれである。
近頃年老いて、わしのところにいる角力(相撲取り)の錦の処に仮住まいをしている。
わしも年来知る者ゆえ、時々呼んで噺をさせちるが、その中に面白いものがあった。

 彼の故郷の邑から在郷3里ばかりいった村に老狸がいた。
この狸は常に人と話をすることができた。
ただ見た目は普通の狸と違わない。
緋威もしばしばこの狸と付き合った。

 ところでこの狸はよく碁を打った。
相手が碁の打ち手にほとほと困っていると、「あっしは目が見えませんからね」などと云って、人間と同じように相手をあなどる言い方をする。

 総じて人のようだった。
そこで、これを困らしめようと傍人が戸を閉じて障子を塞ぐが、その隙間から幻影の様にいつの間にか出て行てしまう。
また戯れに陰嚢を披いて人に被せることがある。
人は驚いて逃げようとするが、さらに包み結んで、笑っている。
そのいたずらをするのも人と違わない。

 またある人が
「あんたさんには弟子がいるかね」と聞くと、
「弟子もいるにはいるが、弟子と言っても隣村にいるちんば狐だけだね。しかしながら、この弟子は、人と話するのは未だできねえな」。
 わしは疑った。内心は信じられない気持ちを持ちであったが、時に錦もまた同席しており、かつて共に芸州に行ってその人を知っているので、虚妄ともおもえない。

 またこの狸はよく古い昔のことを語るという。
おおむね茂林寺の守鶴老貉(むじな)の談に類する。

 だから芸狸も長寿の者か。
また隣のちんば狐は、里人に時々視られていたと云う。

注:茂林寺の分福茶釜のお話は、現在昔話に取り上げられている話とは少し異なり、この茶釜は老貉(むじな:狸)が化けていた守鶴といくら汲んでも湯が尽きないという茶釜であるという。
この縁起の話は甲子夜話 巻35 30(下記) に詳しく記載されている。

巻之44 〔14〕  ← クリック 元記事

《4》 分福茶釜

甲子夜話 巻之35-30 に記載があるがまだブログにて紹介していないので、ここではその概略を述べておく。

 「池北偶談」に、僧が鶴に化けて飛去したことが記されている。
わが国にも上野(群馬)の茂林寺にて貉(むじな)が僧になって、後に飛去ったということがあった。
始めは僧でも鶴なら飛び去るのもありうるが、貉が飛ぶとは何事かと思った。
ただ、この貉は人に化けて名前を「守鶴」という。
鶴であるから飛ぶことに縁がないとは言えないだろう。
世に謂ふ「分福茶釜」というのは、この僧が所有していた釜のことだ。
縁記があるのでここに附出す。

<茂林寺縁起>
 
「往昔、茂林寺に守鶴といふ老僧あり。その僧はこの寺が應永年中(1398〜1428)に開山した時に、開山禅師にしたがつて館林に一緒に来たという。
そして、160年も経ったが第十世岑月禅師までずっとそばに仕えていた。
その少し前の茂林寺七世月舟禅師の時に、寺は大きく繫栄して会下の衆僧の千人がここに集うこととなった。
しかし、茶釜が小さく、とても千人の湯を沸かすことなどできない。なげいていると僧・守鶴はいづくともしらず一つの茶釜をもってきた。
その茶釜は昼夜茶をせんじても、湯が尽きることがなかった。
人々は不思議に思いその理由を問うた。守鶴曰く、
「これは分福茶釜と言って何千人が茶を飲んでも尽きることがありません。特にこの釜には八つの功德があります。その中でも福を分ち与えるために分福茶釜といいます。この度、この釜にて煎じた茶で喉を潤す人は、一生渇きの病を煩ふ事がなく、第一文武の德を備へ、物に対しておそるゝことがなく、智惠が増し、諸人愛敬をそへ、開運出世し、寿命長久となるでしょう。この德を疑うべからず」となり。

それより年月を経て、十世岑月禅師の代になり、ある時、守鶴が昼寝をしていると、手足に毛が生え、尻尾が出てるのを、見られてしまった。
それが誰れとなくさゝやかれていたため、守鶴はすぐにこれをさとり、住職に向つて言った。
「我、開山禅師に従って、当山に来てから120余年になります。然るに今、化けたのが分ってしまいましたのでお暇いたしましょう。
私は、本当は数千年を生きている狢(むじな)です。釋尊靈就山にて說法なし給ふ会上八萬の大衆の数につらなり、それより唐土へわたり、又日本へ来て棲むこと凡そ800年となります。
開山禅師の德に感じ入り、禅師に従ってきました。今に至るまでたくさんの高恩をうけ、言葉で表わすことも難しい。今は名残惜しいため、最後に、源平合戦の屋島のたたかいを今見せてしんぜよう」
と、一つの呪文をとなふるうちより、寺内は、たちまち満々たる海上となり、源氏は陸、平氏は船、両陣互いに攻め戦う様子、あたかも壽永の陳中にあるがごとし。人々ふしぎと見るうちに、あとかたもなくきえうせぬ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・(後略)

(巻之35 〔30〕)


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/07 10:41

甲子夜話の面白き世界(第15話)珍獣の話し(1)駱駝(ラクダ)

甲子夜話の世界(15)

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

江戸時代に長崎からいろいろな動物が日本に入ってきた。
そんな動物(珍獣)も甲子夜話に描かれている。
今回は「駱駝(らくだ)」について

《1》 駱駝(らくだ)の図

昨年、オランダ船が駱駝を乗せて長崎にやって来た。
その後、「東にも来るだろうよ」と人々は話していたが、ついに来なかった。
先年、ある候の邸に集まった時に、ある画工がその図をわしに見せてくれた。
今古い紙の中から見つけたので記した。
図に少し文を添えて云うには。
「享和三癸亥七月長崎沖へ渡来したアメリカ人十ニ人、ジャワ人九十四人、乗組の船積み乗せ候馬の図である。
前足は三節である。爪まで毛に覆われている。
高さ九尺(2,727㍍)長さ三間(5,455㍍)というその船は交易を請うが、禁制な国なので許されず還された。
これは正しくは駱駝(らくだ)である。この度、再度渡来した」。

rakuda.jpg

巻之8 〔14〕  ← クリック 元記事


《2》 おかしな駱駝(らくだ)の図

この三月両国橋を渡ろうとしたら路傍に見世物の看板が出ていた。
駱駝(ラクダ)の容貌をしている。
また板刻にしてその状態を印刷して売っている。曰く。
亜刺比亜(アラビア)国の墨加(メッカ)の産で丈九尺五寸(2.85 ㍍)、長さ一丈五尺(4.5㍍)、足は三つに折れる。
わしが、人を通して質問したことに対し答えた。
「これは去年長崎に渡来した駱駝の風にしていて、本物はやがて御当地にやって来るから」と言っている。
よって、明日人を遣わして見せるのに、作り物ではあるが、その状態を図にして帰った。
  図を見ると恐らく本物を模して作ったものではない。
「漢書」西域伝の師古の註に言う所は背の上の肉鞍(コブ)は土を封じたように高く盛り上がっている。
俗に牛封じと呼ぶ。
ある者曰く。駝状の馬に似て、頭は羊に似る。長くて程よく垂れた耳、身体は蒼褐黃紫の数色である。
この駝形には肉鞍が高い風でもなく、その形も板刻の言う所と合わない。
前に駝の事を言ったが、それはちゃんと(駱駝の特徴を)表している。

rakuda2.jpg

(注)ただこちらはヒトコブラクダのようだね。当時は珍しかったので区別できなかったかも・・・・。

巻之9 〔24〕  ← クリック 元記事

《3》 駱駝の読み方

前に駱駝(ラクダ)がやって来たことを記した。
今では市中でもよく知られるようになった。
前回、享和(1801〜1804)には見た者がなかった。
だから多くの者が見て、珍しいと云ったものだった 。
この程燕席亭である人が云った。
ずっと昔、すでに、この獣が日本へやって来ていたという。
そこで「国史」を紐解いた。
推古天皇の七年秋の九月癸亥(みずのと)1日、百済(くだら)から駱駝(ラクダノウマ)一疋、驢(ウサギウマ:ロバのこと)一疋、羊二頭、白雉ひと番(つがい)の貢物としてやって来た。
今、一千二百二十六年であるが、世間が珍しがったのは尤もである。
また「和名抄(平安時代の辞書)」もこのことを伝えている。
良久太乃宇万(らくだのうま)と和名が記してある。

巻之56 〔17〕  ← クリック 元記事

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/08 08:00

甲子夜話の面白き世界(第16話)珍獣の話し(2)豹と虎

甲子夜話の世界(16)

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

江戸時代に長崎からいろいろな動物が日本に入ってきた。
今回は「豹(ひょう)、虎(とら)」について

《1》 豹か虎か

 この(己丑)正月、平戸からの便りによると、平戸嶋田助浦では、対馬人が生きた虎をつれて来たのを城の外門に呼んで見たという。図も描かせた。

kassi008.jpg
図。この虎の来歴を聞き書きした。

一、 背のわたり2尺7,8寸ばかり、首1尺余り、尾2尺7,8寸ばかり、高さ2尺2,3寸ばかりあり。
虎の大きなものは、体のわたり1間半ばかりのものもあるという。
これはまだ3歳で、籠内に入れて育てられる故、大きくなるかどうか確かめた方がよい。

一、 子を得た時は、猫ほどの大きさなので膝の上で飼い育ててもよい。

一、 声は、ヲ、ンウ、ンとだけいう。犬が呻くに似ている。
時により声高で、物すごく真似しがたい声のよし(虎は既に詩文に多い。豹の鳴き声は諸書に書かれていない)。

一、 餌は鳥獣を専ら食い、油少なき魚類も食べるが、腹にあたって良くない。
また獣も、猫は似ている故か、くい殺しはするが、しかと食わず。
犬は好物である。穀類は一向に食わず。鶏の餌袋など、穀類がある故か、残して食わず。
野菜、芋、大根類もすべて食わず。
常に1日に鳥3羽ばかり食すると、飽かないが、先ず足りてるようだ。
飽くまで食すると、至って静かになって眠る。
また食が足りないときは荒れ廻り、食をせめあさっている。

一、 朝を与える時、鶏ならば毛を抜いて、3つばかりに切って食わせること。
獣もこのように切って食わせるように。
生で与えるならば、おのれで毛をとり食するが、籠の中を汚す故、料理して与えるとよい。
鳥獣の骨をかみ砕く事は、例えば人が煎餅をかむように、歯にもさわらむ気色である。

一、 雌雄で見分け方は難しい。改めて見る事を嫌う故、男のようにあるが、飼い主も知り得ない。

一、 世の人は虎は雄で、豹は雌といっている。飼っている人が云うには、虎にも雄雌がある。
また豹にも雄雌があるという(飼い人の言う事である。前説は非であるので従うことのないよう)。

一、 蠅蚊ともに近寄らない。

一、 両便とも同じ場でする。きちんとしている。

一、 筑州で大守が見ようと、竹のやらいを結び廻して、その中に虎の子2匹を放した。
餌を生ながら与えられると、2匹で争い餌を取るありさまは、猛(たけ)くするどく、びっくりするが、1匹の虎が餌に手をつけ、先んじて食べた方は、退き、やらいのすみに引っ込む。
神妙に心清きさまは、こと獣の中でも優れていると云える。

一、 芽は常に丸く、変わる事はない。

一、 飛び上がる時は、4,5間(3.272~5.09㍍)ばかり揚がるよし。

一、 今1匹加島で死んだのは、黄色に黒い星があって、中に穴がなかったという。
この度連れてきたのは、毛に黒い輪があって穴がある(『本草集解』に云う。
豹の毛は赤黄、文は黒く銭のよう、しかも中が空になり、体のあちこちに見る。
これが黒い毛の輪が廻して穴があるということ。穴と云うのは文の拙いこと。
また云う。豹の姿は虎に似てしかも小さい。白面に丸頭、自らその毛を抜いている。
この文は銭のようで金銭豹という。皮衣の如く。
艾(よもぎ)葉の如き者、艾葉豹という。これが黒星で中に穴なしと云う者)。

一、 朝鮮人が語ることを、飼い主がいっている。虎は三子生まれ、必ず1匹は豹である。
豹は三子を生み、必ず1匹は虎である。
(『集解』に云う。『禽虫述』に云う。虎三子を生んで、1匹は豹を為す。
則ち豹は変化する者である。寇氏は未だそれを知らず。
朝鮮人の言葉は、思うにここに基づく。
だがこれは、虎が豹を産することではないだろう。豹が変ずることと聞こえないか)。

一、 この高さは1間余り、横3尺ばかり。

一、 この度、周防船に便船して参るよし。飼人はみな対州の人である。
上は文政11年子12月、対州から町人等虎児と1匹を籠に入れて持ってきた。
そこで質疑をしたが虚実を明らかにせず、いうがままにこれを記す。

      12月15日

      追加
ある人曰く。この獣を筑州前に至り、かの城下では、見物人の中に歌妓がいた。
籠に近寄り覗いていたら虎は手を出して、この婦人の髪を掴んだ。
婦人は恐れて頭を引いたが、虎は離さなかった。
遂に頭髪みな切れて、禿げてしまった。
危ない事だが、また可笑(おか)しなことになってしまった。

続編 巻之22 〔15〕  ← クリック 元記事

《2》 義心の獣(虎)

 ある人の話である。 
 対州から朝鮮へ出張(デバリ)の在番所があった。
ここで在番の者が、一年(アルトン)春色を楽しもうと野外に遊山した。
席を敷き、行厨(ベントウ)を出して賑やかに飲食をしていたところ、ふと小狗(コイヌ)のような獣があらわれた。

 人々は何の獣かと気にせず、可愛らしく思い肴類を投げ与えた。
獣も悦んで食する様子なので、みなは互いに投げ与えた。

 ふと1人が向うを見ると、1,2町くらいはなれていただろうか、小阜(コヤマ)の上に虎が踞(うずくま)っていた。
その眼光は星のようだった。
人々ははじめて心づいて、「この小狗は絶対虎の子で、向こうにいるのは父獣にちがいない。もち疑えば、たちまち害心を興すだろう。速やかに逃げろ!」。

 人々は行厨を捨て置いて、瞬く間にその場を去り、宿所にもどった。
それから夜に入って、宿所の戸外で物音がした。察するに獣の足音のようだった。
人々は思った。「今日の虎が、(我々が)子に接したことを怒り、2度と近づくなといいたいのか」。
戸内に兵器を設けたがよいか。
また両刀を帯している者もいる。
それなのに来て帰るの様子である。
それで特別に何かことを起こしたわけでもなかった。

 みなは訝しく思い、ひそかに戸孔から窺うと、昨日野外に持って行った行厨の道具を丁寧に並べて置いていて、脇には鴨を2羽添えている。

 何と我々は節穴であったか。人は集まって口々に言い合った。
定めて先刻の父虎は、己の子を可愛がったことに恩を感じで、このような事をしたのだろう。
すると虎は猛謀といえども、すこぶる義心ある獣であると人は云った。

 この事は、わしの臣の中に、対馬侯に縁者があった事から知った話である。

 これを親しく聞いたところである。
またごく最近のことであるという。

続編 巻之94 〔18〕  ← クリック 元記事

《3》 虎と熊の馬の捕獲法

 わしの内に、対州(対馬国)より召抱えている士がいる。
この者は郷国で度々朝鮮の和館に行った。
その者の話で、虎が馬を捕獲する様子について人は信じ難く思っている。

しかし、近頃わしの隠れ家に対馬侯の馬役が来て同じ話をしたのだ。
それからというもの人々は前言を信じるようになった。

虎が馬をとろうとする時、まず馬とともに数回走り、それから馬の背に跨がる。
馬は驚いて、速度を上げる。
もし馬の走りが遅ければ、虎は自分の尾で打って馬を更に走らせる。

遂に息切れて、馬は倒れてしまい、そして虎は馬を食うと云う。
猛獣も初めから、(馬を取って食おうとしないと見える。

また一方、蝦夷地では熊がやはり馬を取るやり方がある。
初めから馬に飛びかかり、ひしひしと馬の脚を折って、そして肩にそれを負うて去ると云う。

となると熊の勇猛さは、虎より勝ると云うべきだろう。

巻之21 〔8〕  ← クリック 元記事

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/09 07:21

甲子夜話の面白き世界(第17話)海獺の話しなど

甲子夜話の世界第17話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

今回は海の生き物です。
まず「海獺」ですが、何と読むでしょうか。「獺」の漢字は今や日本酒の銘酒として知られる「獺祭:だっさい」が有名です。
獺祭は正岡子規の別称と、酒つくりの場所の地名「獺越:おそこえ」からつけられた名前だそうです。
この「獺=おそ」 とは「カワウオ=川獺」をさします。
川獺=かわうそですから「海獺=うみうそ、うみおそ」というようですが、辞書を引くと一般には「ラッコ」と読む場合が多いようです。
では江戸時代の甲子夜話にはどのように紹介されているのでしょうか。ここではラッコはでてきません。

《1》 海獺(うみをそ)

平戸のある画工が描いた一図を示す。
写真の図は天保三辰正月の初、平戸城の北の釜田浦横島と云う処で捕らえた海獣である。
生魚を食べて死魚は食べない。
けれども飢えていると、死魚も食べる。人はその名を知らない。
ある人が云うには。
水豹だろう。漁師はこれを売って、金四両に替えたと。
後、ある本草家に質をして、その意を得たという。

詳しくは以下の通り。
このケモノ、その顔面は鹿に似ていてどう猛ではない。
色は灰黒色である。毛は長くない。
つみげ(動物の毛)は、柔らかい。
ひれ肉に毛がある。
大筋は五条あって、人の手の様に屈曲する。その五筋の先に小爪がある。
陸を歩む時、このひれを手の様にしてよく走る。
その尾ひれ、また足の様にして走る。
その尾ひれもまた前ひれの様に五筋あって、左右に分かれて付いている。その中央に小さな尾がある。
生魚を取って食べる。
海中に死魚がないので、生魚を好む。

漢名 海獺    和名 うみをそ

このうみをそと云うものに二種ある。
気褐色のものを『とど』と云う。
佐州(佐渡)はとどの島が最多い。
灰黒色のものを『あしか』と云う。
相州(相模)はあしかの島が多い。
二種共によく眠ることを好む。
国によって黃褐色のものをも、あしかと云う処がある。
その大きいものは、一丈(3㍍)位に至るものがいる。
その肉は煎って油をしぼる。油が多い。また味噌漬けにして炙って食べる。
『本草』にある。
大獺、海獺と云うも同じものである。

うみうそ

続篇 巻之77 〔3〕  ← クリック 元記事

《2》 海獣、オットセイ

『余録』に書いたこと。
寛政四年壬子冬に領内松浦郡大島の漁師の家の棚下に一頭の獣を捕えた。
図を併記(写真)。
獣は犬のようで身は長く、細い毛は短く滑らかで光っている。
背はねずみ色で腹は茶褐色。歯があって犬のようでいて牙はない。
耳は極めて小さく、頭の左右にある。前足は魚のヒレに似て肉がある。
表は毛があって、手のひらがある。爪と見られるものが五つ。
後ろ足も魚の尾に似て肉の掌がある。五本指に三本の爪が生えている。
爪と爪の間にみずかきがある。この両足の間に尾がある。
小さくて仔犬のようだ。その下に陰戸がある。
メスである。人はその名を知らない。

小野氏の『本草講説』を考えると、海獺である。
後、村人の話すことを聞く。この獣はあしかと謂う。
津吉の浜で見ることがある。
小近、五島〈津吉、小近、五島、みな領内の地名〉の両地もまたあり、海中を群れて行く。
あるいは、石の上に上り伏せている。
その中の一獣は眠らず、人が来れば、たちまち海に入る。
そのほかも従って海に没して、跡を見ることはない。

この獣は波打ち際に上がるといっても、歩くことは出来ない。
だから、石の上から転倒して、水の中に身を沈む。
けれども海中においては、水面を走る、原野の鹿のようである。

また、商舶が玄海の洋中で見ることもあるという。
ただ、全身を見た者はいない。
またある人が云う。
オットセイに牝牡があると。
牡はその歯が重なり生えていて、牝は一重である。
とすると海獺はオットセイの牝である。
今年、捕まえたものは、歯が一重で陰戸がある。
その形は尤も似ている。すると村内にもオットセイがいるにちがいない。
海獺も得ることが難しいので、未だその有無を知る者はいない。
   図は下の写真の通り

『仲正家集』
我が恋はあしかをねらうえぞ船の
      よりみよらずみ波間をぞ待つ
これを顧みると、三十五年前の文である。
されども往時を思い返せば尚追ってみたくなる。
この獣を捕したとき、大島の漁師の家では幼児を失ってしまった。
母親は子がいなくなったことに気づき、戸外の棚下を捜した。
獣がいて、子を傍らに置いていた。
母親は怒って、木でこれを殴り殺した。
子は既にこと切れていた。
だから、この獣を取り去り物と人は云った。

その後、死骸を取り寄せてみると、腹の大きさごすんにも肥えていて、囲一尺五寸余りである。
首と尾はこれに応ず。
それで縄で頭をくくって、提げて揺らしてみたら、身体の柔らかく萎えて骨がないようにしていて、振ると波状に動く。
ただそその生臭い獣の臭いは人は耐えられない。
鼻を覆わなければ、近づき視ることは出来ない。

海獺2

巻之80 〔27〕  ← クリック 元記事

《3》 ムツゴロウ

孫啓が西帰りの途中で見たと描いた物を肥州(静山さまのご子息)より和州(不明)に送り、わしに転送した。
ムツゴロウ(魚の名-欄外注記)、肥前国白石浜にいる魚である。
よそへ移しても生きられぬ。
おとがい(顎の下)の下鰭(ひれ)の様なものがあるが足である。
これでよく歩む。
人が来るのを知ると、躍って砂穴に入る。
矢の如く速やかである。
これを獲るには砂に穴を掘ってとる。
人の如く瞬きをする。大きい物で六寸ばかりとのこと。
......................
ここからは、静山さんが本草啓蒙と食療正要から転載された内容。
『本草啓蒙』に云う。石ひつ(魚に必)魚。ムツ→京(ムツと京では呼ぶ)。カワムツ→京。モツ。モト→若州。ヤマブト→勢州。コウジバエ→阿州。
渓潤流水及び池沢に多くいる。形はハエに似て狭長。細鱗に嘴は尖り、口は大きい。吻に砂がある。よく虫を食う。小さいもので六七寸。あるいは八九寸に至る。色は淡黃褐でわずかに黒が帯びる。脇に一本の黒い線がある。上下の鰭(ひれ)の色が赤くなるのをテリムツと呼ぶ。またアカムツ→江州、コケムツ→江州と云う。
これに対し常に小さな物をクソムツ→江州、シロムツ〈『食療正要』と云う。また海魚にムツがある。一名ロクノイヲ(奥州。国名を避けて名を易しくしている)、クジラトオシ→筑前、東西諸州にある。筑後筑前の泥海に最多しと『大和本草』にあり。形はニベに似て小さく、紫黒色で黒線がある。細い鱗に大きい頭、眼もまた大きい。尾には股がなく、鱗は硬い。身の長さは七八寸、あるいは尺の物もいる。油多し。煎じて灯油にする。肉の味は蛋白、下品〈げひんではなく、上物ではない〉である、〉である。
以上静山さんによる転載終わり
.......................
また聞く。
同州(肥前)の小城(オギ)戸川の辺りでは、売り物として、旅の客が買い求め、旅中の馬上で食べていて、すこぶる珍味だとのこと。
またある人が云う。「この魚は佐賀領に多くいる」。
また云う。
「かつてこの魚を長崎で見たが、とくに性分強い物と知った。料理されるところを見たが、首と尾を切り離すときに、首と尾の肉が動いて生きている様であった。形はイモリによく似ている。だからかの地の人は賞味しても、形がイモリに似ているので、心もち悪くて人は食べようとしないなあ」。
また云う。
「かつて佐賀領の旅宿で膳が出された時、平椀の蓋をとり見ると、中にイモリが入っているではないか!驚いて女中に聞くと、ムツゴロウですと答えたと」。
と、するとイモリによく似ている物だろうよ。
そうしたら前の図と形状が違うのではないか。
べつの種類なのか。
わしは思う。
この魚はムツと云うのを、ここ佐賀ではムツゴロウと云うのは、イモリに似ていると云えば、イモリは黒色だから、ムツグロと謂うべきを、肥人の訛りで、グロをゴロウと呼ぶ物になったのではなかろうか。

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続篇 巻之25 〔10〕  ← クリック 元記事

《4》 ウキキ(マンボウ)

東の海のウキキと云う魚は未だ形を見る事も無いが、辛亥の東觀中に長崎の宿老德見茂四郎も東来してわしの邸を訪問して、水戸侯へ参りこれを食したと云う。
またその臣に請いて本物の図を得たと見せてくれた。
わしはすぐにその図を写した(写真参照)。
ウキキの本性の文字はない。
ゆえに献上するにも仮名で認(したた)め上げる。
魚の大きさはニ間四方(一間は181.818㌢)、中には三、四間余りもある。
夏ばかり捕れる魚で、常陸沖に夏の気候になると浮かぶ。
俗に浮亀鮫と云う(『余録』)。
これを林氏に語ると、夏ばかりこの魚はが採れる事は今まで知らなかったが、これで解った。
年々七月、十ニ月に水戸侯より贈り物がある。
その添品は七月はう、十ニ月は鮭の粕漬けである。
これは冬はウキキが無いという談である〈水戸では、サケには鮭の字を用いるとのこと〉。

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巻之35 〔23〕  ← クリック 元記事


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/10 05:49

甲子夜話の面白き世界(第18話)虬(ミズチ)と竜巻

甲子夜話の世界第18話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

今回は、この甲子夜話の面白き世界でも第8話に記載した蛟(ミズチ)の続きである。(こちら
ミズチも蛟とか虬と漢字で書くが、どのような意味合いがあるのだろうか・・・・

前回のところではミズチから白い煙が立ち昇る(気が立ち上がる)というような表現がされていたが・・・

《1》 白山での不思議な現象:ゑいの尾

 医師の某が、先年壱岐に往こうとして田助に泊まった際、この浦の辺りの白岳に登った。

 時は3月で天気はよく晴れ渡り、海の波は穏やかだった。
4,5人の輩としばらく眺めていたが、海洋を臨む処4,5里と思われるが、西の天にはたちまち一むらの雲が、墨を流す様に俄爾となりそれは半天をおおってしまった。

 その形は斜角で下り垂れる所に鋒(ほこさき)がある。
やがて海面に下ろうとすると、潮がそれに応じて沸騰した。

それは尖った山の様な形で高さは2,3丈(6~9㍍)だった。
雲と波は相向って、一条の銀氷白浪が躍々としていた。

 すなわち暴風大雨かと思われたが、遠くにあるのではっきりとわからない。
この時雲が下れば、浪が迎えて上る。
雲が上がれば、浪は下る。

 こうして西から東へと奔る如しである。
その迅速さは須臾に10余里を渡り終えて雲は散り、浪は平かになった。

 このとき、1艘の小舟が2,3里辺りにあったが、この風に中(あた)り、ひっくり返ってしまった。

 また1里辺りに大船があったが、俄かに帆を張って走り行く。
なお風の音に触れて楫(かじ)を折って、地の方角に漕ぎ入った。

 奇異な事に思えたので、土地の老人に見たことを話し、何のことだかを訊いた。
老人は「これはゑいの尾と云ってな、これに逢うたときは船は必ずひっくり返る。舟人はこれをみたらよく晴れていても著しく警戒するものじゃ」と答えた。

 このゑいの尾と名づけたのは、ゑいは魚の名(紅魚)、雲の形はかの魚の身に似ているのでそういうようになった。

巻之25 〔18〕  ← クリック 元記事

《2》 虬(ミヅチ)

 庚子(かのえね)の8月、塙次書を送った。
その中に虬が天に上がることに触れていた。
また目撃図を添える。
視るとわしが前に記した近所の竜巻と同じである。

 けれどこれは7月22日という。
前記は12日である。11日違う。
思うに別の処で竜巻が起こったのだろう。
その他、時刻方角は異ならない。

その図     東橋逸士芳洲織
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 天保11(1840年)年庚子の秋7月22日、晴れて熱く無風、未の刻(午後1時~3時)前の辰卯の方角(少し南に寄った東)に大柱のような黒雲が昇る状となったが、このようなことであった。

 黒雲の中より虬は尾を垂れて丑子の方角に翩(ひるがえ)り翻(ひるがえ)ると、にわかに大潟雨降になった。
またにわかに本当の晴天となった。
傍観者は多しと云う。

三篇 巻之68 〔9〕  ← クリック 元記事

《3》 竜巻

 平戸居城北3里大嶋に住む、小臣が語った事―
 某先年風雨の日瀬先で釣りをしたとき、俄かに海上100間ほどと思われる所に白波がたつと見えたが、渦巻き一条の雪柱をなした。
それから空中に4,5丈も立ちあがり、天上から黒雲が覆(おお)って降りた。
このような気に接すると見えたが、雨はますます澍(そそ)ぎ風は大になった。

 その状態はすさまじい。
日中に至って雨はやんだ。
風はなぎに変わった。
その地の老夫が云うには、「これは竜捲(たつまき)と呼んでいるが、その辺りに船が寄れば、直ちに捲揚げられて天中に入るそ」。

 海上には奇異なこともあるものだ。

<注:上の(1)、(2)もミヅチの仕業と言って絵までありますが、エイの尻尾なども形状から推察すれば海上に於ける竜巻と考えられます。気を立ち昇らせる怪虫が海辺や山の中腹の土の中にいて、このような現象を起こさせたなどとも考えられていたようです。

続篇 巻之92 〔16〕  ← クリック 元記事

《4》 大川(隅田川)の竜巻

先年、竜巻が起こった暴風雨があった時のこと。
諸船が多くこの災難に遭った。
ある老侯は家根舟(やねぶね)で大川に遊居していたが、白鬚祠の辺りでこの風に遭った。
川水は凄まじく巻き上がり、その舟を一丈(約3.03㍍)余り空中にまき揚げたと云う。
その時舟の中には侯の妾もいたが、心かしこい女性で自分の腰巻きを解いた。
そして侯を舟の柱に結わえた。
やがて舟は下がり川中に墜ちたが、侯は無事だった。
髪の元結は切れてしまったが。
同じ舟に乗っていた中に溺れた者もあると聞いた。

巻之8 〔6〕  ← クリック 元記事

《5》 雹(ひょう)と竜巻

閏三月廿九日、午後過ぎより晴天やや曇り、南風がにわかに西風に変わり、西北の際の雲色は極めて黒く、まさに雨が降ろうとしていた。
人々は尋常でないと見ていたら、疾風暴雨で、雷鳴が繰り返され、雹が雨と混じり合って降った。
一ニ時して止んだ。

この雹のことを聞くと、人の口は各々違うことを云う。
まずわしの辺りはみな通常の霰(あられ)のようであった。
中に大きいものは無患子(むくろじ、羽子板の羽根の下部の黒いもの)のようで、これよりやや大きいものも混じっていた。

また曰く。
この日、上野に行く者がいた。
雨に合い、中堂に入って凌いだか、その話を聞くと、大きさ蜜柑のようなものが多かったと。
この勢いは、中堂回廊などの瓦に当たり、瓦は砕けて落ちたものもあったと。

また聞く。
上野坂本へ行った人が見たものは、炭団大のほどだった(炭団は直径三寸五歩)。
上野宮様の御家士某が来て語るには、某宅に降った雹は、煙草盆にある火入れ程だが、小さい中に廿四五塊も混じって降った。これは所々打ち破り、修復をするほどだった。

また宮様の御庭に降った雹は、大きさは通常の茶碗ほどで、間々その雹に青い苔が着いたものもあった。
人が評するには、これは中禅寺湖などの氷を竜巻に破砕されて降ったものではないか。
小石川にいる商人が云うには、その店の辺りに降ったのは、余りに大きく思えたので量ったら重さは七十八十目(目は匁、一目は3.75㌘)なるかと。ここの辺りは古家が多く、破損した。
またその辺りで、折ふし小荷物運びが通りかかった。
如何したのか、この雹に馬が激しく倒され、馬夫(まご)は荷物を解いて馬を起こそうとしたが、馬夫もまた雹に打たれ甚だ困っていたと。

また板橋宿辺りに降ったのは、重さ百七八十目になった。
だからこれに打たれ、怪我をした者もあったと。
また前に出た商人の話。
この雹は、その所々でまちまちであったと聞こえて、四月朔日に品川へ行ったときに、このほどの雹は何かと問うた。
この辺りは、大雨に一ニ粒ばかりの最(いと)小さいものが混じわって降るのみで、雹というほどでもなかった。
けれども田舎の辺りは風がことに強く、家居もこの為に吹き壊されたものがあったと答えた。
されば遠近方角で違いもあるのだ。

察するに日光山の辺りは、山上の氷を吹き砕き、風下の所々に降り落としたということだ。

(注:竜巻とは直接関係ありませんが、最後に雹が日光山の氷を風が運んだというような話しが書かれていて、当時の想像している世界感が面白く、ここに載せました。)

続篇 巻之41 〔7〕  ← クリック 元記事

甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/11 04:22

甲子夜話の面白き世界(第19話)ろくろ首

甲子夜話の世界第19話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 小泉八雲が1904年に出版した「怪談」の17編の怪談話しの中に「ろくろ首」がある。
小泉八雲より70~80年程前に書かれたこの甲子夜話の中にもこの「ろくろ首」の話しが出てくる。
奇病の一種と捉えていたようでもあるが、とても興味深いのでここにまとめておきたい。
また、松浦静山とほぼ同時代を生きた浮世絵師葛飾北斎もこれを絵にしている。

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(葛飾北斎『北斎漫画』より「轆轤首」 Wiki.より)

《1》 ろくろ首(轆轤首)の話し

 先年能勢伊予守が訪ねてきて話す中で、世にろくろ首というものが実にあると語った。
末家能勢十次郎の弟を源蔵と云う。
性格は強直、拳法を西尾七兵衛に学んでいる。
七兵衛は御番衆で十次郎の婚家である。

 源蔵は師かつ親戚としてよくかの家に留宿する。
七兵衛の家に一婢がいた。
人はこのものをろくろ首だといっている。
源蔵はあやしんで家人にそのことを問うと、そうだといっている。

因みに源蔵はそれを視ようと、2,3の輩と共に、夜起きていた。
家の者は婢が寝入るのを待っていた。
源蔵が行ってみると、こころよく寝ていて、起きる気配はない。

 已に夜半も過ぎたが、変わりはない。
ややあって、婢の胸のあたりから、僅かに気が出ていて、寒晨に現れる口気のようである。
須臾(しゅうゆ:ほんの少しの間)にしてやや盛んに甑煙(そうえん:湯気)のように、肩から上は見えない。

 視る者は大いに怪しんだ。
時に桁上の欄間を見ると、婢の頭が欄間にあって眠っている。
その状態は梟(フクロウ)の首のようである。
視る者は驚いて動いた、その音で、婢が寝返りを打つと、煙気もまた消え失せた。
頭はもとのように、なおよく寝て目を覚まさない。
よく見てみたが、前と異なる所はなかった。

 源蔵は虚妄を言う者ではない。
本当の事を話したことだろう。
また世の人は云う。
ろくろ首はその人の咽に必ず紫筋ありとのこと。
源蔵の云うことを聞くと、この婢の容貌は常人と異ならない。
但し面色は青ざめていると。
また、このようなことなので、七兵衛は暇を与えない。

 時に婢は泣いて曰く。
某奉公に縁がなくて仕える所すべて期日を終えず、みな半ばでこのようだと。
今また然り。
願わくは期日を全うしたいと願うが、怪しい所があるので聴き入れられず、遂に出される。

 かの婢は己の身のこのようなことは、つゆ知らずという。
奇異なこともあるものだ。
わしは年頃ろくろ首と云うもののことを訝しく思うので、この事実を聞いた。
これは唐における「飛頭蛮」と謂うものである。

巻之8 〔5〕  ← クリック 元記事

《2》 ろくろ首(2)

1日外に出ずにいたら、路上で売り歩く者がいた。
「云々」と呼びかけた。
使者に命じて、売りものの紙片を買い取って視ると、曰く。

常陸国谷田辺(現 谷田部)村の奇病轆轤首(ろくろくび)。

ここ常陸国戸根川つづきの浜づたいの谷田辺村という所に、百姓作兵衛の妻、喜久と云うものをが近頃ふと煩い床についた。
日増しにやせ衰え、甚だしく大病となり、色々な医薬を用い、加持祈祷などつくしたが、その験もなく、次第に重くなっていった。
今は頼み少なく見える処にこの村に年久しく来る商人がこの体(てい)を見て申すには、
「ヶ様の病には、白犬の肝を取って呑めば、たちまち治るから」と話すと、この作兵衛の所に畜(かい)置く白犬がいた。
かの商人の噺を聞いたが、かの人が帰る時に、門に臥(ふ)している犬に大いに睨まれたので、商人は身の毛だち、またいい直して「犬よりは雉の肝が格別きく」と云い捨て帰った。

主は幸いに「この犬を殺そうか」と尋ねた処、その日よりこの犬の姿がしばらく見られなかったが、5、6日を経たある夕方、何処からか雉1羽をくわえて帰ってきた。
主は夜陰に白犬を目当てに、それとも心づかず棒で打ち殺し、この肝を妻に与えると、たちまち病は治った。

日を追い健やかになったが、2、3年を経て娘が生まれた。
蝶よ花よと慈しんだ。

生長するに従い類なき美婦となり、近頃の評判者となった所に、いつの頃からか誰いうとなく、「作兵衛の娘は轆轤首だ。この程毎夜現れて、誰某の寺の墓場で見たよ。誰は川下の渡り場で見た」など風説がなされた。

だが二親は更に心もつかずにいる処に、この10月中旬のある夜かの首が抜け出て、井の辺を遊び廻る所を何処ともなく白犬が1匹寄って来て、この喉にかみつき、遂に嚙殺したという。

不思議だ。
思うにこれは先年妻の為に飼い犬を殺したが、犬は妻の命を救おうと雉を取って来たのを、作兵衛は故なく殺したから、その恨みを子にむくい、ヶ様の奇病となり、剰への畜類の牙にかかり、愛する子を失った。
報いの程こそ恐ろしい」。

この怪説は取るに足らないけれども、少しは形代があることなのだろう。
これに就いて思い出す事がある。10余年前に紀州の徳本行者が、江都に出て念仏の教化があって、諸人に帰依させたことがあった。
武州か常陸か、今その処は忘れてしまった。
徳本は、郷民に念仏を勧め、説法して人みな集まり聴いたが、ある時一匹の犬があって俄に徳本に吠えかかり、噛みついた。
徳本は驚いて逃げたが、犬は遂に齧(か)み殺したら、大きな古狸の正体を現したと云う。
その頃、片紙に記したものを坊間に売り行きたが、その摺板を失ってしまった。

注:このような話も書いて、かわら版などと同様に売り歩くものがいたのですね。このように情報が伝わる

続篇 巻之22 〔12〕  ← クリック 元記事

さて、谷田部のろくろ首の話しはここまでで、甲子夜話には続きがありますので、それも載せておきましょう。

《3》 書を書く狸

また『四神地名録』に曰く。
武州多摩郡国分寺村の名主儀兵衛の宅に、狸が書いた筆跡があると聞いて、立ち寄って見た。

三社の託宣で、てん字、真字、行字とり交え、文章も取りちがえた所もあって、如何にも狸などの書いたものだろうと見える。
狸が出家に化してこの家に泊宿したのは、儀兵衛の父の代であった。

京都紫野大徳寺勧化の僧で、無言の行者と称して、用事は書を以て通ずる。
辺鄙の名主ゆえに有り難い僧の様に思って、馳走をして泊めたとの事であった。
その後に聞くと、北武蔵のうちで、犬に見とがめられ、くい殺され、狸のかたちをあらわしたとの事だった。

昔よりも、狐狸の年をふった者は書をなすものだと聞いたが、信じ難く思って居たら、この度狸の書を初めて見て、謬説(びゅうせつ 間違った説)ではない事を知った。

儀兵衛の父もかの僧(狸)も犬にくい殺されたと聞き、滞留の初終を勘(かんが)え見ると、怪しき思う事も2、3度もあると、今の儀兵衛が物語ったとの言い伝えあり。

世には怪しき事もなきにあらず。

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《4》 男色の古狸

また武州多摩郡中野村の名主 卯右衛門なといって、かしこい者が夜語りしたが、前文に記した狸坊主は卯右衛門宅でも一夜泊める口実にして、その物語りを聞きに、食事をする時には人を除いて食らったと云う。

寝るにも屏風を引き廻し、夜具でからだを包廻し伏せる体なので、怪しい出家とは思わないが、狸の化けとはさらに心づかないので、その後犬にとられた様子を聞いて、怪しく思った。

狸が化けた僧ではないかと、再びおそれ驚いた事と物語った。
この様な話には虚説が多いものだから、この狸の出家化けは、実説に聞こえない。

すると、この辺りには狸が化けは1度ではない。
また犬の為に命が終わるのも、過去の因縁、前世の宿敵なのか。またこれに就いておかしい事があるのは、わしの領邑平戸の中の安満岳〈西禅寺〉の里坊に妙顕寺がある〈真言宗〉。
片田舎で幽寂無人の堺である。

ある夜総角の美童が1人来た。
住僧は心から悦び、芋を茹で、黍(キビ)を炊いて食わしめ、泊めて宿させた。

僧は衾(ふすま)を同じうして甚だ楽しみ、貯置きし朱塗りの印籠を与えた。
童もまた喜んだが半夜を過ぎていで去った。僧は眠らず待ったが暁になっても帰らなかった。

僧が起きて尋ねると、堂の後ろの篁(竹やぶ)中に童が倒れ伏して、前夜に与えた印籠を腰に下げていた。
よく視ると古狸だった。
僧は大いに驚いて、その倒れた状態を詳しく見ると、龍陽(男色)傷破したとのこと。

霖(リン)子曰く。
「嗚呼、住僧はこの様なる者の後身(生まれ変わり)なのか」。

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甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/12 05:55

甲子夜話の面白き世界(第20話)猫おどり

甲子夜話の世界第20話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 今回は「猫踊り」についてである。
今ではSNSや動画配信で、立った猫の画像や、踊りを踊る猫などもさほど珍しくも無くなった。
テレビ漫画「ササエさん」でも猫(タマ)は踊っている。
しかし江戸時代にすでに猫は飼われていたようだが、夜中の灯りの乏しいころに猫が立ち上がり踊ったら化け物と映ったのかも知れない。

《1》 猫の踊り

 先年、角筈村(つのはず:現東京都新宿区)に住まわれる伯母殿に仕える医者、高木伯仙が云う話には

「私は下総国の佐倉の生まれだが、亡き父がある夜眠った後、枕元で音がした。
目を覚まして見ると、永年飼っている猫が首に手拭いを被り立ちながら、手をあげて招くようにしている。
その様子は童が飛んだり跳ねたりしている様である。
父はすぐさま枕元の刀を取り猫を斬ろうとした。
猫は驚いて走り出し、今は行方知れず。
それから家に帰らなくなった」と。

そんなことだから、世に云う猫の踊りと云うものは迷い事とはいえないだろう。

巻之2 〔34〕  ← クリック 元記事

《2》 猫の踊り(2)

 猫のをどりの事は前に云った。
また聞いた。
光照夫人(わしの伯母)が角筈(つのわず)村に住み仕えていて今は鳥越邸に仕える婦人が語った話。

夫人が飼っていた黒毛の老猫は、ある夜、婦人の枕頭で踊ったので、怖くなった婦人は衾を引きかぶって臥してそれを見ないようにしていたが、猫が後ろ足で立って踊る足音がよく聞こえたという。

またこの猫は常に障子の類は自らよく開いたという。
これは、諸人の知る所だけれども、如何にして開くかと云うことを知る者はなしか。

巻之7 〔24〕  ← クリック 元記事

次の記事は猫踊りとは関係がないが、猫について書かれたものであるのでここに載せておきます。

《3》 猫だけがかかる病もある

世に解せないことも多いが、基本わしは世に疎いから

 「今年10月11月の間、天行の邪気が甚だしくて、老いも若きもみなそれに患に罹って回復する者なし。
但々病の軽重は人々によって違う。
多くは咳となって小児の感じやすいものは衂血(はなぢ)を発せることもある。
わしは医にその説はあるが、また解せない所あるがと問うた。
林子曰く。官家でも出仕の面々が長髪を免され、供人は減少、または長髪等苦しきなき由を令(ふれ)られた。

 途中で行列(葬列)を立って往来するのを見ると、徒士から始まった駕脇手廻り等までみな長髪で、喪家の人の往来歟(か)と訝しくなどと、人々は笑っている。
またその後、殿中廻りが済むと、病を押して詰め合う者は、勝手次第退出するようにと令られた。
珍しい程のことである」

 わしはこれにつき思うに、10余年にも及ぶ。
猫の疫が流行して、野猫、畜猫、みなこれに罹った。
あるいは故無くて忽ち潰し、または屋上にいるものが俄かに墜落して死す。
これは全くその邪に遭ったものである。
この時人は疾病は無い。

 ある人曰く。
1年鼬(いたち)の疾病があって、これも猫と同じかと。
天地間の気は計られぬものである。
林曰く。
牛馬疫のことは諸書でも見た。
小白曰く。
この度ほか邪の流行につき御令等のことは、先年わしが勤めていたときも、これと同じこと両度まであった。
林子も覚えているはずである。
するとこれを珍しいとも云い難い。

続篇 巻之84 〔11〕  ← クリック 元記事


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/13 05:00
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