玉里御留川(その一)
御留川(おとめがわ)とは、いかにもメルヘンチックな名前だが、御留は「乙女」ではない。
私がこの名前を知ったのは、今から10年少しまえに霞ヶ浦の水運の盛んであった頃のことを調べていてこの名前を知り、石岡から霞ヶ浦沿いを東へ少し行った旧玉里村(現小美玉市)内を散策して、通り沿いにあった小さな神社「西の宮神社(恵比寿神社)」に置かれていた説明看板を見たのが最初だった。
その時の記事は ⇒ 「霞ヶ浦水運(8)高崎、下玉里地区」(こちら)
そこには「寛永年間に徳川頼房公が高浜入りに、お留川設定の際、漁場の鎮守とされた」と書かれていた。
御留川(おとめがわ)とは江戸時代にそれぞれが所属している藩所有の川であり、許可なく魚などを捕る事が禁止された川を言う。
一般には藩の許可なく木の伐採や、動物の狩猟などを禁じた「御留山(おとめやま)」などを定めたところが多いが、藩以外に勝手に作ったり、栽培する事を禁じた「お留椿」などというものも存在する。
このお留椿は将軍への献上などに使われ、次第に名前も「乙女椿」に変って行ったようだ。
御留山などには、藩からはその山を管理する地元の豪族を「御留山守」として指定し、一般的な年貢の取立て管理なども任せていたようだ。
近くでは玉造の「大塲家(おおばけ)」が大山守(おおやまもり)をしていたというのも、この御留山守とほぼ同じであろう。
しかし、霞ヶ浦の西側は北側が恋瀬川が流れ込む「高浜入り」南側が桜川が流れ込む「土浦入り」と一般には呼ばれるが、この高浜入りの玉里地区は、対岸も水戸藩の領土であり、この水戸藩が霞ヶ浦の一部である入り江部分を勝手に線引きして、自分たちが管理する川であり、ここでは勝手に漁をしてはいけないと定めて、幕府から許可をとり付けてしまったという事になる。
この頃は、こんな勝手な制度を作って、それ迄霞ヶ浦で協力しながら漁を続けてきた漁民たちへの裏切りだと少し憤慨してこの制度を見て聞いたのだが、下記の「水戸藩 玉里御留川」(小美玉市 玉里古文書研究会:会長、池上和子氏)を頂き、少しずつ読んでみた。
そして、これは御留川守の鈴木家に眠っていた古文書を丁寧に解読して、纏められたすばらしい本である事を知った。
一方的な見方だけでなく、そこに書かれた内容を見ていくと、当時の人々の生活が蘇ってくるのだ。
これはもう少しじっくり読んで、その一部をまとめてこのブログで何回かに分けて紹介するのもよいかなと思い始めた。
最近はブログの発信のスピードがかなり鈍ってしまったが、今年も何かを纏めたりしていきたいと思っている。

(平成22年2月28日発行 水戸藩玉里御留川- 近世 霞ヶ浦の漁業と漁民)
私がこの名前を知ったのは、今から10年少しまえに霞ヶ浦の水運の盛んであった頃のことを調べていてこの名前を知り、石岡から霞ヶ浦沿いを東へ少し行った旧玉里村(現小美玉市)内を散策して、通り沿いにあった小さな神社「西の宮神社(恵比寿神社)」に置かれていた説明看板を見たのが最初だった。
その時の記事は ⇒ 「霞ヶ浦水運(8)高崎、下玉里地区」(こちら)
そこには「寛永年間に徳川頼房公が高浜入りに、お留川設定の際、漁場の鎮守とされた」と書かれていた。
御留川(おとめがわ)とは江戸時代にそれぞれが所属している藩所有の川であり、許可なく魚などを捕る事が禁止された川を言う。
一般には藩の許可なく木の伐採や、動物の狩猟などを禁じた「御留山(おとめやま)」などを定めたところが多いが、藩以外に勝手に作ったり、栽培する事を禁じた「お留椿」などというものも存在する。
このお留椿は将軍への献上などに使われ、次第に名前も「乙女椿」に変って行ったようだ。
御留山などには、藩からはその山を管理する地元の豪族を「御留山守」として指定し、一般的な年貢の取立て管理なども任せていたようだ。
近くでは玉造の「大塲家(おおばけ)」が大山守(おおやまもり)をしていたというのも、この御留山守とほぼ同じであろう。
しかし、霞ヶ浦の西側は北側が恋瀬川が流れ込む「高浜入り」南側が桜川が流れ込む「土浦入り」と一般には呼ばれるが、この高浜入りの玉里地区は、対岸も水戸藩の領土であり、この水戸藩が霞ヶ浦の一部である入り江部分を勝手に線引きして、自分たちが管理する川であり、ここでは勝手に漁をしてはいけないと定めて、幕府から許可をとり付けてしまったという事になる。
この頃は、こんな勝手な制度を作って、それ迄霞ヶ浦で協力しながら漁を続けてきた漁民たちへの裏切りだと少し憤慨してこの制度を見て聞いたのだが、下記の「水戸藩 玉里御留川」(小美玉市 玉里古文書研究会:会長、池上和子氏)を頂き、少しずつ読んでみた。
そして、これは御留川守の鈴木家に眠っていた古文書を丁寧に解読して、纏められたすばらしい本である事を知った。
一方的な見方だけでなく、そこに書かれた内容を見ていくと、当時の人々の生活が蘇ってくるのだ。
これはもう少しじっくり読んで、その一部をまとめてこのブログで何回かに分けて紹介するのもよいかなと思い始めた。
最近はブログの発信のスピードがかなり鈍ってしまったが、今年も何かを纏めたりしていきたいと思っている。

(平成22年2月28日発行 水戸藩玉里御留川- 近世 霞ヶ浦の漁業と漁民)
玉里御留川(その二)御留川の設定経緯
玉里御留川(たまりおとめがわ)の制定経過については、制定後に明治維新まで川守として続いた鈴木家文書から読み解く事ができる。
この鈴木家は慶長年間(1596年~1615年)には地代官を勤め、鳥見役(鷹狩場の管理)も兼ねていた、地元の有力者であった。
1) 寛永16年(1625年)に鈴木七左衛門は、玉里入海を水戸藩の「御留川」にしたいと注進した。
2) これに対し霞ヶ浦の四十八津組合の村々がこぞって反対し、幕府に異議を申し立てた。
3) 鈴木七左衛門は幕府の開いた江戸の評定所において、水戸様の御留川となるように説明を熱心にした。
4) この結果、幕府より下記の範囲の玉里入海の御留川が公式に認定された。
(玉里御留川の範囲)
下玉里村稲荷の森より、水上を見通し、安食村柊塚(ひいらきつか)を結んだ線 と
石川村境堂より沖の三本杭と高崎村と田中村の境(後に鉾の宮とされた)を結んだ線 の間の領域
高崎の鉾の宮:現在場所は不明だが、下高崎の夷宮(現:恵比寿神社、西宮神社)あたりと推定される
境堂:石川村のお堂(阿弥陀堂、現:宝珠庵)とされる
稲荷の森:下玉里の大井戸に渋井稲荷神社がありこの辺りか? 稗蔵(ひえくら)地名がある
柊塚(ひいらぎつか):かすみがうら市安食(あんじき)には旧字名に「柊(ひいらき)」がある。この辺りか?


ここで各漁場の名前が「○○川」とかわの名称がついているが、これは一般的な川のことではなく、御留川ではその漁場の名前をそれぞれ川の名前をつけて呼んでいるのである。
また、本来の御留川の設定範囲は「内川」とし、現在の「かすみがうら大橋」までの領域を、この水戸藩玉里御留川に入ってくる魚たちの通り道(御川筋)として「外川」と名づけて呼んだのである。
これは本来の玉里地区の御留川は両岸ともに水戸藩の領域であるが、その外側には水戸藩以外の村も存在したのである。
例えば、八木蒔(やぎまき)村や沖須村(現在は沖洲)は水戸藩ではなくそれぞれ旗本新庄氏知行所、麻生藩であった。
これらの詳細は次回へ。
この鈴木家は慶長年間(1596年~1615年)には地代官を勤め、鳥見役(鷹狩場の管理)も兼ねていた、地元の有力者であった。
1) 寛永16年(1625年)に鈴木七左衛門は、玉里入海を水戸藩の「御留川」にしたいと注進した。
2) これに対し霞ヶ浦の四十八津組合の村々がこぞって反対し、幕府に異議を申し立てた。
3) 鈴木七左衛門は幕府の開いた江戸の評定所において、水戸様の御留川となるように説明を熱心にした。
4) この結果、幕府より下記の範囲の玉里入海の御留川が公式に認定された。
(玉里御留川の範囲)
下玉里村稲荷の森より、水上を見通し、安食村柊塚(ひいらきつか)を結んだ線 と
石川村境堂より沖の三本杭と高崎村と田中村の境(後に鉾の宮とされた)を結んだ線 の間の領域
高崎の鉾の宮:現在場所は不明だが、下高崎の夷宮(現:恵比寿神社、西宮神社)あたりと推定される
境堂:石川村のお堂(阿弥陀堂、現:宝珠庵)とされる
稲荷の森:下玉里の大井戸に渋井稲荷神社がありこの辺りか? 稗蔵(ひえくら)地名がある
柊塚(ひいらぎつか):かすみがうら市安食(あんじき)には旧字名に「柊(ひいらき)」がある。この辺りか?


ここで各漁場の名前が「○○川」とかわの名称がついているが、これは一般的な川のことではなく、御留川ではその漁場の名前をそれぞれ川の名前をつけて呼んでいるのである。
また、本来の御留川の設定範囲は「内川」とし、現在の「かすみがうら大橋」までの領域を、この水戸藩玉里御留川に入ってくる魚たちの通り道(御川筋)として「外川」と名づけて呼んだのである。
これは本来の玉里地区の御留川は両岸ともに水戸藩の領域であるが、その外側には水戸藩以外の村も存在したのである。
例えば、八木蒔(やぎまき)村や沖須村(現在は沖洲)は水戸藩ではなくそれぞれ旗本新庄氏知行所、麻生藩であった。
これらの詳細は次回へ。
玉里御留川(その三)御留川と御川筋
玉里御留川がどのように行われていたのか?
少し気になりましたので、制度設定後の運用について見てみましょう。
この御留川の設定時(寛永2年:1625年)に際して、霞ヶ浦には四十八津の組合があり、その組合に入会する事で漁業が出来た。
しかし、この御留川設定により、その設定範囲(高崎村鉾の宮~石川村・三村村の境堂、下玉里稲荷の森~安食村柊塚)での漁が自由にできなくなった。そして、当初は直網(じきあみ)で水戸藩の奉行のもとで御川守である鈴木家が立会い、地元の漁師が参加して大網を引いていた。これが天和3年(1683年)に本格的な入札請負制に変わったという。その経緯などを見ていこう。
1) 直網(じきあみ):大きな網を御留川内に投げ入れて網元より雇われた漁師がこれを浜で引いて根こそぎ魚を捕る。

上図が直網漁の様子である。
2つの直網を多くの人間が高崎村、玉里村の浜で引いています。
(初期には大網は二株あったと記録がある)
この図は高崎村夷宮前の「川:網引場」で10月に網おろしの神事が行われ、大網漁(地引網)が多くの雇われた引子達により引かれている様子が描かれています。
また近くの子供達も集まっているようです。
霞ヶ浦では一年中魚はいるが、当時の漁の期間は冬から春(10月~翌年3月)とされていたようです。
また玉里御留川定法の定めに御留川内でも秋3ヶ月はこの御留川の規制によらずに住民は漁ができると解釈できる文書もあり、近隣住民の不満を和らげるために規定に盛り込まれたものと思われます。
この漁で捕れた魚は鯉を筆頭にサイ(にごい)、マルタ(うぐい)、鮒、うなぎ、蝦などであった。
また餅網などによる鴨などの水鳥猟も行われた。
御留川の制定初期はどの程度の漁獲量があったのかはあまり詳しい資料はないが、初期はそれまで地元の小漁師が掛網等にて漁をしていただけであるので大漁が続いたという。
初期の11年間で魚鳥代金二千両余りの利益があったという。
しかし大漁が長くは続かず、寛永13年(1636年)にこの直網が中止となった。
そして、御留川内の漁を希望するものに競争入札で請け負わせる「入札運上」になった。
2) 入札運上制:
運上人の記録
・地元の漁師54人:1年間
・水戸の笹嶋九兵衛:2年間
・下玉里の漁師4人:2年間
この5年間でこの入札運上は終わりとなった。
終わりとなった理由は明らかではないが、霞ヶ浦四十八津組合との話し合いがうまくいかなかったのではないかと考えられる。
その後も御留川の漁は不良が続いていたようだ。
資料では宝暦8年(1758年)の記録では、直網の53年間で2650両となっており、最初の11年間で2000両もあったことから、その後は650両しか収益が上がらなかったようである。
3) 入札請負(いれふだうけおい):
天和3年(1683年)に直網が廃止され、入札請負制度になった。
この運上人は江戸の駿河屋市衛門と大阪屋左兵衛の2人であった。
この運上人のみが御留川での漁の権利を有し、その下請け人によって、実際の漁は行われていたと考えられる。
どうやらこの2人は江戸の魚問屋と思われ、捕れた魚は江戸の魚市場に運ばれたと思われる。
しかし、この玉里地区の前の指定領域だけでは魚の取れる量が限られてくる。
そこで、さおの漁場に繋がった入り口部分を御川筋と定め、今までの制定範囲を「内川」、御川筋を「外川」と呼んで漁場を広げて行った。
いつ頃からこの御川筋が加わったのかは定かでないが、江戸中期の享保期(1720年代)頃から資料でははっきりしてきている。
4) 小漁場(こりょうば)
また「小漁場(小猟場)」という猟(漁)を保障する場所を定めている。
特に高崎村と対岸の石川村の間には葦が密生した谷原が存在していた。
この辺りの狭い領域を、石川村と高崎村に小漁場として認めていたようだ。

上の地図は高浜に恋瀬川が流れ込んでいる辺りを示した明治17年の地図にある葦原・谷原などが描かれている。
その谷原部分に江戸時代の谷原の境界を点線で追加した図である。
明治17年の地図よりも谷原は手前(小さかった)ようである。
5) 御川筋(外川)
本来の御留川範囲ではなく、この御留川に流れ込む川筋(御留川と霞ヶ浦との間の高浜入り部分)を御留川と同様に水戸藩の漁場として設定した。
これはいつ頃成立したかが不明であるが、江戸中期には本格的に実施されていたようである。

これは昨日載せた地図である。
御川筋と呼ばれる広い領域をそれまでの御留川に追加した形で水戸藩が強制的に定めたものだろうと思われる。
当然四十八津の反対もあったし、水戸範囲外の村もその間に含まれているため、その村からの反発などもあった。
出島(かすみがうら市)側は石川村から田布施村まで水戸藩の領地であったが、対岸の玉里村側は高崎村から玉造村までの水戸藩の領地の中に「沖須村(現;沖洲)」と「八木蒔村」の2村は麻生藩と麻生藩と関係の深い新庄氏の知行地であった。

上記図は天明8年(1788年)に八木蒔村から出された網漁の伺い書の図である。
御留川の川筋を御留川と同じように制定しているが、八木蒔村は新庄勝三郎殿の知行地である。
下玉里御川守の源太左衛門側は、上図の浜村の渡し場に置かれた御制札場(ごせいさつば)と小川川尻を結ぶ線(陸地から約750m)より外での漁を認めないとし、それに異議を唱えた八木蒔村では、江戸に出て控訴するとのやり取りが残されている。
ただ、どのように決着したのかは分らない。
この御制札場(ごせいさつば)というのは、高札のことで、法令や禁止事項を知らしめる札の建てる場所であり、浜村の船着場にあったという。
この船着場はかすみがうら大橋が出来るまでは柏崎と浜をつなぐ渡し舟が出ていた。
学校に通う生徒の足でもあったという。
またここから高浜よりにこの高浜入りを埋め立てて干拓して農地にしようとの計画もあった。
その埋め立てに筑波山を削ればよいなどという乱暴な意見を真面目くさっていう議員もいたという。
今回はここまで。
次回もう少し追加を書きます。
少し気になりましたので、制度設定後の運用について見てみましょう。
この御留川の設定時(寛永2年:1625年)に際して、霞ヶ浦には四十八津の組合があり、その組合に入会する事で漁業が出来た。
しかし、この御留川設定により、その設定範囲(高崎村鉾の宮~石川村・三村村の境堂、下玉里稲荷の森~安食村柊塚)での漁が自由にできなくなった。そして、当初は直網(じきあみ)で水戸藩の奉行のもとで御川守である鈴木家が立会い、地元の漁師が参加して大網を引いていた。これが天和3年(1683年)に本格的な入札請負制に変わったという。その経緯などを見ていこう。
1) 直網(じきあみ):大きな網を御留川内に投げ入れて網元より雇われた漁師がこれを浜で引いて根こそぎ魚を捕る。

上図が直網漁の様子である。
2つの直網を多くの人間が高崎村、玉里村の浜で引いています。
(初期には大網は二株あったと記録がある)
この図は高崎村夷宮前の「川:網引場」で10月に網おろしの神事が行われ、大網漁(地引網)が多くの雇われた引子達により引かれている様子が描かれています。
また近くの子供達も集まっているようです。
霞ヶ浦では一年中魚はいるが、当時の漁の期間は冬から春(10月~翌年3月)とされていたようです。
また玉里御留川定法の定めに御留川内でも秋3ヶ月はこの御留川の規制によらずに住民は漁ができると解釈できる文書もあり、近隣住民の不満を和らげるために規定に盛り込まれたものと思われます。
この漁で捕れた魚は鯉を筆頭にサイ(にごい)、マルタ(うぐい)、鮒、うなぎ、蝦などであった。
また餅網などによる鴨などの水鳥猟も行われた。
御留川の制定初期はどの程度の漁獲量があったのかはあまり詳しい資料はないが、初期はそれまで地元の小漁師が掛網等にて漁をしていただけであるので大漁が続いたという。
初期の11年間で魚鳥代金二千両余りの利益があったという。
しかし大漁が長くは続かず、寛永13年(1636年)にこの直網が中止となった。
そして、御留川内の漁を希望するものに競争入札で請け負わせる「入札運上」になった。
2) 入札運上制:
運上人の記録
・地元の漁師54人:1年間
・水戸の笹嶋九兵衛:2年間
・下玉里の漁師4人:2年間
この5年間でこの入札運上は終わりとなった。
終わりとなった理由は明らかではないが、霞ヶ浦四十八津組合との話し合いがうまくいかなかったのではないかと考えられる。
その後も御留川の漁は不良が続いていたようだ。
資料では宝暦8年(1758年)の記録では、直網の53年間で2650両となっており、最初の11年間で2000両もあったことから、その後は650両しか収益が上がらなかったようである。
3) 入札請負(いれふだうけおい):
天和3年(1683年)に直網が廃止され、入札請負制度になった。
この運上人は江戸の駿河屋市衛門と大阪屋左兵衛の2人であった。
この運上人のみが御留川での漁の権利を有し、その下請け人によって、実際の漁は行われていたと考えられる。
どうやらこの2人は江戸の魚問屋と思われ、捕れた魚は江戸の魚市場に運ばれたと思われる。
しかし、この玉里地区の前の指定領域だけでは魚の取れる量が限られてくる。
そこで、さおの漁場に繋がった入り口部分を御川筋と定め、今までの制定範囲を「内川」、御川筋を「外川」と呼んで漁場を広げて行った。
いつ頃からこの御川筋が加わったのかは定かでないが、江戸中期の享保期(1720年代)頃から資料でははっきりしてきている。
4) 小漁場(こりょうば)
また「小漁場(小猟場)」という猟(漁)を保障する場所を定めている。
特に高崎村と対岸の石川村の間には葦が密生した谷原が存在していた。
この辺りの狭い領域を、石川村と高崎村に小漁場として認めていたようだ。

上の地図は高浜に恋瀬川が流れ込んでいる辺りを示した明治17年の地図にある葦原・谷原などが描かれている。
その谷原部分に江戸時代の谷原の境界を点線で追加した図である。
明治17年の地図よりも谷原は手前(小さかった)ようである。
5) 御川筋(外川)
本来の御留川範囲ではなく、この御留川に流れ込む川筋(御留川と霞ヶ浦との間の高浜入り部分)を御留川と同様に水戸藩の漁場として設定した。
これはいつ頃成立したかが不明であるが、江戸中期には本格的に実施されていたようである。

これは昨日載せた地図である。
御川筋と呼ばれる広い領域をそれまでの御留川に追加した形で水戸藩が強制的に定めたものだろうと思われる。
当然四十八津の反対もあったし、水戸範囲外の村もその間に含まれているため、その村からの反発などもあった。
出島(かすみがうら市)側は石川村から田布施村まで水戸藩の領地であったが、対岸の玉里村側は高崎村から玉造村までの水戸藩の領地の中に「沖須村(現;沖洲)」と「八木蒔村」の2村は麻生藩と麻生藩と関係の深い新庄氏の知行地であった。

上記図は天明8年(1788年)に八木蒔村から出された網漁の伺い書の図である。
御留川の川筋を御留川と同じように制定しているが、八木蒔村は新庄勝三郎殿の知行地である。
下玉里御川守の源太左衛門側は、上図の浜村の渡し場に置かれた御制札場(ごせいさつば)と小川川尻を結ぶ線(陸地から約750m)より外での漁を認めないとし、それに異議を唱えた八木蒔村では、江戸に出て控訴するとのやり取りが残されている。
ただ、どのように決着したのかは分らない。
この御制札場(ごせいさつば)というのは、高札のことで、法令や禁止事項を知らしめる札の建てる場所であり、浜村の船着場にあったという。
この船着場はかすみがうら大橋が出来るまでは柏崎と浜をつなぐ渡し舟が出ていた。
学校に通う生徒の足でもあったという。
またここから高浜よりにこの高浜入りを埋め立てて干拓して農地にしようとの計画もあった。
その埋め立てに筑波山を削ればよいなどという乱暴な意見を真面目くさっていう議員もいたという。
今回はここまで。
次回もう少し追加を書きます。
玉里御留川(その四) 御留川の調査資料を読んで感じたことなど
玉里御留川は江戸時代の水戸藩の話ですが、水戸とこの霞ヶ浦の高浜入り地区(旧玉里村、対岸の旧出島村)地区とはかなりはなれています。
しかし、江戸とは水戸からも霞ヶ浦経由で荷物の運搬も人の行き来も繋がっていました。
玉里御留川制度に関して、少し追加で知り得た事などを参考までに載せておきます。
1) 箕和田御留川について
水戸藩が玉里地区沿岸の霞ヶ浦入り江を御留川にすることを願い出て認められたのは、江戸時代初期の1625年である。
しかし、実は霞ヶ浦ではそれ以前に「御留川」を設定されている場所があった。
それが「箕和田(みのわだ)御御留川」と呼ばれる場所で、これは江戸の幕府(公儀)の御留川であった。

霞ヶ浦絵図(写) 本図は制作年は不明ですが、潮来は板久では無く、現在の「潮来」表現であり1698年以降に書かれたものと推察されます。御留川は「玉里御川」と表現されています。
図中の赤丸印は御留川の網引場=川を現しています。
「水戸藩玉里御留川」の冊子には南が上になるように表示されていますが、一般の地図で見慣れた北を上に表示し直しました。
さて、この「箕和田」は、上図の南側、浮島の東の湾となっているところです。
この箕和田が徳川幕府の御留川となったのは、いつ頃制定されたのかははっきりしないが、恐らくこの幕府が先に箕和田御留川を設定して、あわてた水戸藩が自分も・・・と乗り出したのだろう。
この箕和田(みのわだ)地区は浮島東側の湾ではあるが、現在は食糧増産ということで埋め立てられ、本新島干拓地(昭和31年完成)となった。浮島のチュウリップ畑で有名になった和田公園の東側にあたる。
ただ徳川幕府の御留川としては、江戸中期頃から水深がかなり浅くなって余り機能しなくなったようだ。
浮島も昔は霞ヶ浦に浮かぶ島であったが、昭和7年から27年に野田奈川干拓がおこなわれ、陸続きとなっった。
昭和30年代には、夏は海水浴(湖だが)などを楽しむ多くの観光客が訪れたという。
昭和33年に茨城県が観光用に制作された観光映画がU-Tubeにアップされています。
少し長いですが当時の様子がかなりよく分ります。
この幕府の御留川の話を読んでいて、思いだしたことがある。それは成田北側の長沼の訴訟事件である。
10年以上昔、成田空港に向かう途中の街道に「長豊街道(諭吉通り)」と書かれた看板を見て、福沢諭吉とここでの長沼訴訟の関係をはじめて知った。
その時の記事は ⇒ こちら(諭吉通り)
この長沼訴訟の手伝いをして、最後まで気にかけていたという福沢諭吉。
死の直前になって、この沼がここで生活する住民(漁民)の手に払い下げらたことを知った諭吉は大変安堵したといわれています。
2) 稲荷の森について
玉里御留川の初期の設定範囲は下玉里の稲荷の森と対岸の安食村の柊(ひいらぎ)塚を結ぶ線だと書かれていた。
この稲荷の森は何処なのだろう。
現在の大井戸公園の高崎・高浜寄りに地図では示されている。

この場所は昔散策した事があった。
あたり一面の蓮田に中に、一つだけポツンと木の茂みがあり、こじんまりした神社があった。


そこの神社(渋井稲荷神社)の説明看板には次のように書かれていた。

この渋井は「玉里六井」といわれる昔からの湧き水の井戸の一つで、ここには集落があったという。
御留川の飼料によれば、ここの組頭・作衛門は、この集落内の畑地などを御留川のために水戸藩に差し出したという。
見ての通りの低地であり、度々洪水に悩まされていた地で、記録によれば享保14年(1729年)に水戸藩の指示で大井戸西部湖岸(現・平山集落)に部落全員が移住したという。
最初説明を読んだときには、御留川には集落のほとんどが反対して、場所を移住したのだと思ったのだが、水戸藩が土地を提供したようである。
ただそれでも、このような土地に住んでいたことを考えると、漁で生業を立てていた漁民も多くいたであろうし、舟で生活していたものもいたのではないだろうか。
葛飾北斎が富岳三十六景の中で、唯一常陸国から見た富士山を描いた版画がある。

「常州牛堀」と題されたこの絵は、潮来の隣「牛堀」の朝の風景である。
これは恐らく漁師ではなく、鹿島巡りなどの観光客を乗せる舟だろうが、水夫たちは舟で寝泊りし、朝早く米を洗っているのだろう。
霞ヶ浦四十八津の組合に入っていた漁民たちも、舟で生活する(寝泊りする)者も結構いたのではないだろうか?
ふと、御留川の資料を見ながらこの北斎の絵を思い出してしまった。
しかし、江戸とは水戸からも霞ヶ浦経由で荷物の運搬も人の行き来も繋がっていました。
玉里御留川制度に関して、少し追加で知り得た事などを参考までに載せておきます。
1) 箕和田御留川について
水戸藩が玉里地区沿岸の霞ヶ浦入り江を御留川にすることを願い出て認められたのは、江戸時代初期の1625年である。
しかし、実は霞ヶ浦ではそれ以前に「御留川」を設定されている場所があった。
それが「箕和田(みのわだ)御御留川」と呼ばれる場所で、これは江戸の幕府(公儀)の御留川であった。

霞ヶ浦絵図(写) 本図は制作年は不明ですが、潮来は板久では無く、現在の「潮来」表現であり1698年以降に書かれたものと推察されます。御留川は「玉里御川」と表現されています。
図中の赤丸印は御留川の網引場=川を現しています。
「水戸藩玉里御留川」の冊子には南が上になるように表示されていますが、一般の地図で見慣れた北を上に表示し直しました。
さて、この「箕和田」は、上図の南側、浮島の東の湾となっているところです。
この箕和田が徳川幕府の御留川となったのは、いつ頃制定されたのかははっきりしないが、恐らくこの幕府が先に箕和田御留川を設定して、あわてた水戸藩が自分も・・・と乗り出したのだろう。
この箕和田(みのわだ)地区は浮島東側の湾ではあるが、現在は食糧増産ということで埋め立てられ、本新島干拓地(昭和31年完成)となった。浮島のチュウリップ畑で有名になった和田公園の東側にあたる。
ただ徳川幕府の御留川としては、江戸中期頃から水深がかなり浅くなって余り機能しなくなったようだ。
浮島も昔は霞ヶ浦に浮かぶ島であったが、昭和7年から27年に野田奈川干拓がおこなわれ、陸続きとなっった。
昭和30年代には、夏は海水浴(湖だが)などを楽しむ多くの観光客が訪れたという。
昭和33年に茨城県が観光用に制作された観光映画がU-Tubeにアップされています。
少し長いですが当時の様子がかなりよく分ります。
この幕府の御留川の話を読んでいて、思いだしたことがある。それは成田北側の長沼の訴訟事件である。
10年以上昔、成田空港に向かう途中の街道に「長豊街道(諭吉通り)」と書かれた看板を見て、福沢諭吉とここでの長沼訴訟の関係をはじめて知った。
その時の記事は ⇒ こちら(諭吉通り)
この長沼訴訟の手伝いをして、最後まで気にかけていたという福沢諭吉。
死の直前になって、この沼がここで生活する住民(漁民)の手に払い下げらたことを知った諭吉は大変安堵したといわれています。
2) 稲荷の森について
玉里御留川の初期の設定範囲は下玉里の稲荷の森と対岸の安食村の柊(ひいらぎ)塚を結ぶ線だと書かれていた。
この稲荷の森は何処なのだろう。
現在の大井戸公園の高崎・高浜寄りに地図では示されている。

この場所は昔散策した事があった。
あたり一面の蓮田に中に、一つだけポツンと木の茂みがあり、こじんまりした神社があった。


そこの神社(渋井稲荷神社)の説明看板には次のように書かれていた。

この渋井は「玉里六井」といわれる昔からの湧き水の井戸の一つで、ここには集落があったという。
御留川の飼料によれば、ここの組頭・作衛門は、この集落内の畑地などを御留川のために水戸藩に差し出したという。
見ての通りの低地であり、度々洪水に悩まされていた地で、記録によれば享保14年(1729年)に水戸藩の指示で大井戸西部湖岸(現・平山集落)に部落全員が移住したという。
最初説明を読んだときには、御留川には集落のほとんどが反対して、場所を移住したのだと思ったのだが、水戸藩が土地を提供したようである。
ただそれでも、このような土地に住んでいたことを考えると、漁で生業を立てていた漁民も多くいたであろうし、舟で生活していたものもいたのではないだろうか。
葛飾北斎が富岳三十六景の中で、唯一常陸国から見た富士山を描いた版画がある。

「常州牛堀」と題されたこの絵は、潮来の隣「牛堀」の朝の風景である。
これは恐らく漁師ではなく、鹿島巡りなどの観光客を乗せる舟だろうが、水夫たちは舟で寝泊りし、朝早く米を洗っているのだろう。
霞ヶ浦四十八津の組合に入っていた漁民たちも、舟で生活する(寝泊りする)者も結構いたのではないだろうか?
ふと、御留川の資料を見ながらこの北斎の絵を思い出してしまった。
玉里御留川(その五)御留川余話
水曜日は仕事で朝からこの霞ヶ浦を石岡から潮来、銚子へと車で走りました。
月に何回か走っているのですが、この御留川記事の辺りに思いを致し、少し違った気分になっていました。
玉里地区を過ぎ、行方市に入ると霞ヶ浦沿いの堤防沿いには数本のポプラの木が見えてきます。
ここは霞ヶ浦が泳げた頃に戻そうと、湾になっている所に砂を入れ、砂が流れ出さないように防砂用の波除を設けた「ほほえみの丘」と呼ばれるところです。
ただ、ここで泳げるようになるにはまだまだ年数がかかるのかもしれません。

そして通り(355号線)の左側には「三昧塚古墳(墳長:82.1m前方後円墳、5世紀半ば頃の築造?」がきれいに芝生などで化粧されているのが見えます。
この三昧塚古墳からは頭に被る金銅製の冠(国の重要文化財)が出土しています。
この冠には周りに馬の形をした飾りがあり、馬で移動するときにそれが揺れるのです。
ここに5世紀半ばに騎馬民族がいたのかもしれないと思わせる大変貴重な装飾品です。

(茨城県立歴史館の再製レプリカ(復元品))

三昧塚古墳
常陸国風土記には常陸の馬の話しが出てきますが、有名な常陸の馬と呼ばれるのは「麻生の馬」だと書かれています。
麻生は霞ヶ浦に沿ってもう少し東側になりますが、結構近いです。
さて、そこを少し行くと沖洲ですが、江戸時代は沖須村と書きました。所属は水戸藩ではなく「麻生藩」でした。
そして霞ヶ浦沿いの低地を行く旧道が右に別れ、国道はその左手の少し小高くなった台地へ上っていきます。
この旧道と現国道とにはさまれた場所がこんもりと木が茂っています。
近づくとこのこんもりした森の中は一面の竹林が続きます。
またよく見るとこんもりと土が盛り上がっていて、この場所は古墳である事がわかります。
この沖須(沖洲)にはいくつか特徴のある古墳が点在していて、「沖洲古墳群」と呼ばれています。
今上に書いた分かれ道の先にある古墳は「勅使塚古墳(全長64m、4世紀後半)と呼ばれるもので、昔、勅使(ちょくし)がここで倒れてなくなり、その勅使を葬ったという伝承があるのです。
古代には常陸国に入るには恐らく霞ヶ浦を舟で渡ったと思われますので、その時の常陸国の中心はまだ石岡にはなかったかもしれません。
また、特筆すべきはこの勅使塚古墳が茨城県ではもっとも古い時代の築造(4世紀末頃?)ではないかといわれている事です。
関東地方の古墳では、東京湾を舟で渡ってきたところの千葉県市原市惣社にある神門古墳群(ごうどこふんぐん)あたりが最も古く、3世紀の中葉ではないかといわれていますが、調査をすればこの古墳もかなり古いのかもしれません。
東日本で2番目に大きな石岡市にある国指定史跡の舟塚山古墳は5世紀の半ば頃の築造といわれています。
その頃を考えるとロマンが膨らみますね。これからもっと知られてもよさそうですね。
私もこのあたりを通るときに時々三昧塚古墳の上にもぼって霞ヶ浦や筑波山を眺めます。
古代に夢を馳せるのも良いですよね。
夜に戻ってきましたが、潮来周辺ではみぞれが降っていました。
石岡に戻ってきたら雨も降っていませんでした。
月に何回か走っているのですが、この御留川記事の辺りに思いを致し、少し違った気分になっていました。
玉里地区を過ぎ、行方市に入ると霞ヶ浦沿いの堤防沿いには数本のポプラの木が見えてきます。
ここは霞ヶ浦が泳げた頃に戻そうと、湾になっている所に砂を入れ、砂が流れ出さないように防砂用の波除を設けた「ほほえみの丘」と呼ばれるところです。
ただ、ここで泳げるようになるにはまだまだ年数がかかるのかもしれません。

そして通り(355号線)の左側には「三昧塚古墳(墳長:82.1m前方後円墳、5世紀半ば頃の築造?」がきれいに芝生などで化粧されているのが見えます。
この三昧塚古墳からは頭に被る金銅製の冠(国の重要文化財)が出土しています。
この冠には周りに馬の形をした飾りがあり、馬で移動するときにそれが揺れるのです。
ここに5世紀半ばに騎馬民族がいたのかもしれないと思わせる大変貴重な装飾品です。

(茨城県立歴史館の再製レプリカ(復元品))

三昧塚古墳
常陸国風土記には常陸の馬の話しが出てきますが、有名な常陸の馬と呼ばれるのは「麻生の馬」だと書かれています。
麻生は霞ヶ浦に沿ってもう少し東側になりますが、結構近いです。
さて、そこを少し行くと沖洲ですが、江戸時代は沖須村と書きました。所属は水戸藩ではなく「麻生藩」でした。
そして霞ヶ浦沿いの低地を行く旧道が右に別れ、国道はその左手の少し小高くなった台地へ上っていきます。
この旧道と現国道とにはさまれた場所がこんもりと木が茂っています。
近づくとこのこんもりした森の中は一面の竹林が続きます。
またよく見るとこんもりと土が盛り上がっていて、この場所は古墳である事がわかります。
この沖須(沖洲)にはいくつか特徴のある古墳が点在していて、「沖洲古墳群」と呼ばれています。
今上に書いた分かれ道の先にある古墳は「勅使塚古墳(全長64m、4世紀後半)と呼ばれるもので、昔、勅使(ちょくし)がここで倒れてなくなり、その勅使を葬ったという伝承があるのです。
古代には常陸国に入るには恐らく霞ヶ浦を舟で渡ったと思われますので、その時の常陸国の中心はまだ石岡にはなかったかもしれません。
また、特筆すべきはこの勅使塚古墳が茨城県ではもっとも古い時代の築造(4世紀末頃?)ではないかといわれている事です。
関東地方の古墳では、東京湾を舟で渡ってきたところの千葉県市原市惣社にある神門古墳群(ごうどこふんぐん)あたりが最も古く、3世紀の中葉ではないかといわれていますが、調査をすればこの古墳もかなり古いのかもしれません。
東日本で2番目に大きな石岡市にある国指定史跡の舟塚山古墳は5世紀の半ば頃の築造といわれています。
その頃を考えるとロマンが膨らみますね。これからもっと知られてもよさそうですね。
私もこのあたりを通るときに時々三昧塚古墳の上にもぼって霞ヶ浦や筑波山を眺めます。
古代に夢を馳せるのも良いですよね。
夜に戻ってきましたが、潮来周辺ではみぞれが降っていました。
石岡に戻ってきたら雨も降っていませんでした。
| HOME |