常世の国(1) 常陸国風土記
2023年になり、気分を新たにしてまた1年を過ごして行きたいと思います。
当ブログも2010年に始めて、13年目に入りました。
昔は毎日書いていたのですが、これは6年で断念しましたが、これからも細々とやっていきましょう。
今年の初めは、「常世の国(とこよのくに)」を少しまとめて紐解いて見たいと思います。
「常世の国」とは古代に不老不死の理想郷をそのような呼び方をしていたようです。
古事記、日本書紀、常陸国風土記などのこの「常世の国」という表現が使われています。
まずは身近な常陸国風土記に書かれている内容です。

まず、各郡の詳細などを現す前に「総記」として書かれた前文の最後に
「それ常陸の国は、境はこれ広大く、地も亦緬邈(はろか)にして、土壌(つち)沃墳(うる)ひ、原野肥衍(こえ)たり。墾発(ひら)きたる処、山海の利(さち)ありて、人々自得(ゆたか)に、家々足饒(にぎは)へり。設(も)し、身を耕耘(たつく)るわざに労(いたつ)き、力を紡蚕(いとつむ)ぐわざに竭(つく)す者あらば、立即(たちどころ)に富豊を取るべく、自然に貧窮(まづしさ)を免(まぬか)るべし。況(いはむ)や復(また)、塩と魚の味を求めむには、左は山にして右は海なり。桑を植ゑ、麻を種かむには、後は野にして前は原なり。いはゆる水陸の府臓、物産の膏腴(かうゆ)といへるものなり。
古(いにしへ)の人、常世の国といへるは、蓋(けだ)し疑ふらくは此の地ならむか。(原文:古人曰常世国、 蓋疑此地)
但、有るところの水田、上は少なく、中の多きを以ちて、年に霖雨(ながあめ)に遇はば、即ち苗子の登(みの)らざるを歎(なげき)を聞き、歳に亢陽(ひでり:好天気)に逢はば、唯穀実の豊稔(ゆたか)なる歓(よろこび)を見む」
(常陸国風土記 全訳注 秋本吉徳著)
ここでは奈良時代初頭に書かれた常陸国風土記には、古代の人が理想郷として考えていた「常世の国」とは、この常陸国のことを指していたのかもしれないと書いています。常陸国は山と海があり、また野原があってまさに理想郷のようだというのです。
ただし、その後に各地から伝わる気候の変化などで本来の理想郷とは違う土地の姿も書き加えています。
さて、理想郷である「常世の国」は海のかなたにあり、中国思想などのように山の上であったり、天上であったり・・・・
そのうちに海の中にある竜宮城などとも考えられたようです。
少しずつ、古代の常世の国が書かれた記述をこれから数回にわたって調べて見たいと思います。
常陸国風土記の記述でもう一箇所気になっているところがあるので書き加えておきます。
それは「茨城郡(うばらきのこほり)」のところです
「ここにいう茨城の郡は、今は那珂の郡に属しており、その西部にある。昔は、そこに郡衙が置かれていたから、まさしく茨城の郡の内であった。土地の人々の伝えてきた言いならわしに、「水依(みづよ)り茨城の国」と言う。」
と書かれています。
現在の石岡の地に茨城郡の郡衙が移される前に、那珂郡の西部にその郡衙があったとあり、茨城郡の郡衙が移されたことが記されています。
さらに「水依(みづよ)り茨城の国」と言う表現ですが、「水依り」の表記は「「水泳(みづくぐ)る」のマチガイと考える説が有力ですが、茨城の名前の由来に「うまい水の依せるウマラキの意味との解釈もあるようです。前から気になった「水泳(くぐ)る茨城」の考え方も一つヒントを貰った気になりました。
これは前に百人一首にある在原業平の歌
「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」
の水くくるの意味について、「くくり染め」という一般的な解釈がすっきりこないということにも通じます。
当ブログも2010年に始めて、13年目に入りました。
昔は毎日書いていたのですが、これは6年で断念しましたが、これからも細々とやっていきましょう。
今年の初めは、「常世の国(とこよのくに)」を少しまとめて紐解いて見たいと思います。
「常世の国」とは古代に不老不死の理想郷をそのような呼び方をしていたようです。
古事記、日本書紀、常陸国風土記などのこの「常世の国」という表現が使われています。
まずは身近な常陸国風土記に書かれている内容です。

まず、各郡の詳細などを現す前に「総記」として書かれた前文の最後に
「それ常陸の国は、境はこれ広大く、地も亦緬邈(はろか)にして、土壌(つち)沃墳(うる)ひ、原野肥衍(こえ)たり。墾発(ひら)きたる処、山海の利(さち)ありて、人々自得(ゆたか)に、家々足饒(にぎは)へり。設(も)し、身を耕耘(たつく)るわざに労(いたつ)き、力を紡蚕(いとつむ)ぐわざに竭(つく)す者あらば、立即(たちどころ)に富豊を取るべく、自然に貧窮(まづしさ)を免(まぬか)るべし。況(いはむ)や復(また)、塩と魚の味を求めむには、左は山にして右は海なり。桑を植ゑ、麻を種かむには、後は野にして前は原なり。いはゆる水陸の府臓、物産の膏腴(かうゆ)といへるものなり。
古(いにしへ)の人、常世の国といへるは、蓋(けだ)し疑ふらくは此の地ならむか。(原文:古人曰常世国、 蓋疑此地)
但、有るところの水田、上は少なく、中の多きを以ちて、年に霖雨(ながあめ)に遇はば、即ち苗子の登(みの)らざるを歎(なげき)を聞き、歳に亢陽(ひでり:好天気)に逢はば、唯穀実の豊稔(ゆたか)なる歓(よろこび)を見む」
(常陸国風土記 全訳注 秋本吉徳著)
ここでは奈良時代初頭に書かれた常陸国風土記には、古代の人が理想郷として考えていた「常世の国」とは、この常陸国のことを指していたのかもしれないと書いています。常陸国は山と海があり、また野原があってまさに理想郷のようだというのです。
ただし、その後に各地から伝わる気候の変化などで本来の理想郷とは違う土地の姿も書き加えています。
さて、理想郷である「常世の国」は海のかなたにあり、中国思想などのように山の上であったり、天上であったり・・・・
そのうちに海の中にある竜宮城などとも考えられたようです。
少しずつ、古代の常世の国が書かれた記述をこれから数回にわたって調べて見たいと思います。
常陸国風土記の記述でもう一箇所気になっているところがあるので書き加えておきます。
それは「茨城郡(うばらきのこほり)」のところです
「ここにいう茨城の郡は、今は那珂の郡に属しており、その西部にある。昔は、そこに郡衙が置かれていたから、まさしく茨城の郡の内であった。土地の人々の伝えてきた言いならわしに、「水依(みづよ)り茨城の国」と言う。」
と書かれています。
現在の石岡の地に茨城郡の郡衙が移される前に、那珂郡の西部にその郡衙があったとあり、茨城郡の郡衙が移されたことが記されています。
さらに「水依(みづよ)り茨城の国」と言う表現ですが、「水依り」の表記は「「水泳(みづくぐ)る」のマチガイと考える説が有力ですが、茨城の名前の由来に「うまい水の依せるウマラキの意味との解釈もあるようです。前から気になった「水泳(くぐ)る茨城」の考え方も一つヒントを貰った気になりました。
これは前に百人一首にある在原業平の歌
「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」
の水くくるの意味について、「くくり染め」という一般的な解釈がすっきりこないということにも通じます。
常世の国(2)-非常香果(ときじくのかぐのこのみ)
この「まほらにふく風に乗って」というブログのタイトルは
「まほら=真秀ら」(真によい処)=常世の国
ということにもなる。
そして、このブログのスタートは2010年8月だから、今から12年以上前となる。
今回、「常世の国=古代の理想郷」をどのように見るかを考えているのだが、まず、古事記や日本書紀に記載のある「常世の国」との表現がある箇所をピックアップしていきたいと思う。

第2回目は「非常香果=日本書紀」「登岐士玖能 迦玖能木實(時じくの香の木の実)=古事記」について紹介しよう。
まずは古事記の内容を見ていこう。
1)古事記(和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたとされる)
古事記には橘の実について非時香果(ときじくのみ:いつでも香り高い果実)であり、常世の実であるという記述があります。
中巻 (11代)垂仁天皇の条
<原文>
・又天皇 以三宅連等之祖 名多遲麻毛理遣常世國 令求登岐士玖能 迦玖能木實。
・故 多遲摩毛理 遂到其國 採其木實 以 縵八縵。矛八矛 將來之間 天皇既 崩
・爾多遲摩毛理 分 縵四縵 矛四矛 獻于大后 以 縵四縵 矛四矛 獻置天皇之 御陵戸而。
・擎其木實 叫哭以白 常世國之 登岐士玖能 迦玖能木實 持參上侍 遂叫哭死也
・其登岐士玖能 迦玖能木實者 是今橘者也。
<読み下し>
・また天皇、三宅の連(むらじ)等の祖先の名前をタヂマモリ(田道間守)という者を常世の国に遣わして、時じくの香(か)ぐの木の実を求めしめたまひき
・依ってタヂマモリ、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)を、將(もち)來(つる)間に、天皇既に 崩(かむあがり)ましき
・ここにタヂマモリ、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を分けて、大后に獻り、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を、天皇の御陵の戸に獻り置きて、
・その木の實を擎(ささげ)て、叫び哭(おらび)て白(さく)、「「常世の國の 時じくの香(か)くの木(こ)の實(み)を 持ちまゐ上りて侍(さもら)ふ」とまをして 遂に哭(おら)び死にき。
・その時じくの香(か)くの木の實は今の橘なり。
<話の概要>
11代垂仁(すいにん)天皇の在位90年の所に、天皇は三宅の連(むらじ)の祖先である多遲麻毛理(タヂマモリ)という人に、海の彼方にあるという理想郷の国=常世の国に行って、何時までも香りのよい実をつける(不老不死の果物)「時じくの香(か)ぐの木の実」という果物を取ってきてほしいと命令したのです。
タヂマモリは海の彼方にある常世の国を目指して大海原に船を漕ぎ出し、荒波を越え、やっとの思いで常世の国に到着しました。
そこにあった「時じくの香(か)ぐの木の実」の実を八つ、実を連ねた木の枝を八本持って、また必死の思いで海を渡り天皇のいる国へ戻って来ました。
しかし、国に戻ってきたときには、すでに天皇は崩御されていたのです。嘆き悲しんだタヂマモリは持って帰って来た「「時じくの香(か)ぐの木の実」の半分(四縵、四矛)を天皇の大妃に差し上げ、残りの半分を天皇の御陵に持って行き、その場で持って帰ったことを報告し、悲しみ、泣き叫んで死んで(自害?)しまいました。
その「時じくの香(か)ぐの木の実」というのが、現在の橘(たちばな)のことです。
(解説)
この垂仁天皇は『日本書紀』での名は活目入彦(いくめいりびこ)五十狭茅天皇です。兄は東国に派遣された豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。豊城入彦命が東国の統一に進攻している間、活目入彦が天皇の位を継いで、まず畿内周辺の四街道へ四道将軍を派遣し、周りを固めます。そして余命も少なくなって、この不老不死の木の実を欲したのでしょう。しかし、在位99年(年令は古事記153歳、日本書紀140歳)で崩御してしまい、木の実を持ち帰ったのは、出かけてから10年経っていたのです。
神話(古事記、日本書紀)に書かれた年代をそのまま信じるの無理ですので、この話の年代は三世紀後半から四世紀始めの頃と考えられます。
垂仁天皇の後が 景行天皇で、景行天皇の子がヤマトタケル(日本武尊)となります。
一方持ち帰ったという「時じくの香(か)くの木の實」は「縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)」という表現がされていますが、この畳み掛けるような数の表現は謎賭けのような要素を持ち、八は末広がりで縁起が良く沢山と言う意味も持っているようです。八百万(やよろず)などの表現にもその事が表われています。
縵(かげ)は実を表わし、矛(ほこ)は実が串刺しとなって連なった枝を意味します。
ただ、矛(ほこ)も茅(ち)と通じ、茅の輪のようにこれをくぐって疫病などの災害を防ぐなどの意味ともつなっがているのかもしれません。
さて、この橘の木は、常陸国風土記にも出てきます。場所は行方郡のところです。
「郡の側(かたはら)の居邑(むら)に、橘樹(たちばな)生(お)へり。」と書かれています。
行方郡は茨城郡と那珂郡の地域から653年に分割して成立しました。
(行方)郡衙が何処にあったかは不明ですが、現在の玉造の少し東側にあったと推察されます。
少し長くなりましたのでこの続きは次回へ
「まほら=真秀ら」(真によい処)=常世の国
ということにもなる。
そして、このブログのスタートは2010年8月だから、今から12年以上前となる。
今回、「常世の国=古代の理想郷」をどのように見るかを考えているのだが、まず、古事記や日本書紀に記載のある「常世の国」との表現がある箇所をピックアップしていきたいと思う。

第2回目は「非常香果=日本書紀」「登岐士玖能 迦玖能木實(時じくの香の木の実)=古事記」について紹介しよう。
まずは古事記の内容を見ていこう。
1)古事記(和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたとされる)
古事記には橘の実について非時香果(ときじくのみ:いつでも香り高い果実)であり、常世の実であるという記述があります。
中巻 (11代)垂仁天皇の条
<原文>
・又天皇 以三宅連等之祖 名多遲麻毛理遣常世國 令求登岐士玖能 迦玖能木實。
・故 多遲摩毛理 遂到其國 採其木實 以 縵八縵。矛八矛 將來之間 天皇既 崩
・爾多遲摩毛理 分 縵四縵 矛四矛 獻于大后 以 縵四縵 矛四矛 獻置天皇之 御陵戸而。
・擎其木實 叫哭以白 常世國之 登岐士玖能 迦玖能木實 持參上侍 遂叫哭死也
・其登岐士玖能 迦玖能木實者 是今橘者也。
<読み下し>
・また天皇、三宅の連(むらじ)等の祖先の名前をタヂマモリ(田道間守)という者を常世の国に遣わして、時じくの香(か)ぐの木の実を求めしめたまひき
・依ってタヂマモリ、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)を、將(もち)來(つる)間に、天皇既に 崩(かむあがり)ましき
・ここにタヂマモリ、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を分けて、大后に獻り、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を、天皇の御陵の戸に獻り置きて、
・その木の實を擎(ささげ)て、叫び哭(おらび)て白(さく)、「「常世の國の 時じくの香(か)くの木(こ)の實(み)を 持ちまゐ上りて侍(さもら)ふ」とまをして 遂に哭(おら)び死にき。
・その時じくの香(か)くの木の實は今の橘なり。
<話の概要>
11代垂仁(すいにん)天皇の在位90年の所に、天皇は三宅の連(むらじ)の祖先である多遲麻毛理(タヂマモリ)という人に、海の彼方にあるという理想郷の国=常世の国に行って、何時までも香りのよい実をつける(不老不死の果物)「時じくの香(か)ぐの木の実」という果物を取ってきてほしいと命令したのです。
タヂマモリは海の彼方にある常世の国を目指して大海原に船を漕ぎ出し、荒波を越え、やっとの思いで常世の国に到着しました。
そこにあった「時じくの香(か)ぐの木の実」の実を八つ、実を連ねた木の枝を八本持って、また必死の思いで海を渡り天皇のいる国へ戻って来ました。
しかし、国に戻ってきたときには、すでに天皇は崩御されていたのです。嘆き悲しんだタヂマモリは持って帰って来た「「時じくの香(か)ぐの木の実」の半分(四縵、四矛)を天皇の大妃に差し上げ、残りの半分を天皇の御陵に持って行き、その場で持って帰ったことを報告し、悲しみ、泣き叫んで死んで(自害?)しまいました。
その「時じくの香(か)ぐの木の実」というのが、現在の橘(たちばな)のことです。
(解説)
この垂仁天皇は『日本書紀』での名は活目入彦(いくめいりびこ)五十狭茅天皇です。兄は東国に派遣された豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。豊城入彦命が東国の統一に進攻している間、活目入彦が天皇の位を継いで、まず畿内周辺の四街道へ四道将軍を派遣し、周りを固めます。そして余命も少なくなって、この不老不死の木の実を欲したのでしょう。しかし、在位99年(年令は古事記153歳、日本書紀140歳)で崩御してしまい、木の実を持ち帰ったのは、出かけてから10年経っていたのです。
神話(古事記、日本書紀)に書かれた年代をそのまま信じるの無理ですので、この話の年代は三世紀後半から四世紀始めの頃と考えられます。
垂仁天皇の後が 景行天皇で、景行天皇の子がヤマトタケル(日本武尊)となります。
一方持ち帰ったという「時じくの香(か)くの木の實」は「縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)」という表現がされていますが、この畳み掛けるような数の表現は謎賭けのような要素を持ち、八は末広がりで縁起が良く沢山と言う意味も持っているようです。八百万(やよろず)などの表現にもその事が表われています。
縵(かげ)は実を表わし、矛(ほこ)は実が串刺しとなって連なった枝を意味します。
ただ、矛(ほこ)も茅(ち)と通じ、茅の輪のようにこれをくぐって疫病などの災害を防ぐなどの意味ともつなっがているのかもしれません。
さて、この橘の木は、常陸国風土記にも出てきます。場所は行方郡のところです。
「郡の側(かたはら)の居邑(むら)に、橘樹(たちばな)生(お)へり。」と書かれています。
行方郡は茨城郡と那珂郡の地域から653年に分割して成立しました。
(行方)郡衙が何処にあったかは不明ですが、現在の玉造の少し東側にあったと推察されます。
少し長くなりましたのでこの続きは次回へ
常世の国(3)万葉集と橘

常陸国風土記に橘(たちばな)の記載されたところとして行方郡があると書きましたが、もう1箇所香島郡にも書かれている箇所がありました。
香島郡という表記は常陸国風土記のみで使われ、他では「鹿島郡」と一般には表記されています。
653年に行方郡が成立しましたが、香島郡はその4年前の649年に海上国と那珂郡の地域を一部割いて成立しました。
この時に最初に置かれた香島郡の郡衙は、鹿島神宮の北の沼尾神社付近にあったと推察されています。
「この地にある池には鮒・鯉が多くいて、この池の蓮は美味しくて食べると病が治るといわれている」とあり、また
「この地には以前郡衙が置かれていて、橘(たちばな)がたくさんうえられており、その果実は美味である」と記されています。
このように常陸国は行方郡と香島郡の郡衙近くに「橘」の樹がたくさんあったことがうかがえます。
ただ、奈良朝の始め頃には香島郡(鹿島郡)の郡衙は丁度この池(沼尾)とは神宮をはさんだ反対の東南側に移されています。
さて、663年に白村江の戦いで倭国は百済と一緒に唐・新羅連合軍と戦い敗れてしまいます。
その後、九州にこれらの外敵から倭国を守るために防衛軍として防人(さきもり)が派遣されます。
奈良朝になると、東国からも多くの防人が派遣され、常陸国からも一度に200~300人程度の人を徴集して九州に送られました。
この人たちは鹿島神宮で武運を祈り、そこから出立したために「鹿島立ち」などと言う言葉も生まれました。
また、これらの防人は難波に着くと、大伴家持の要請で歌を詠みました。
この行方郡の橘を詠った歌があります。
橘の 下吹く風の かぐはしき 筑波の山を 恋ひずあらめかも
(万葉集:7371番)
作者は占部廣方(うらべのひろかた)の歌で、「天平勝寳七歳(西暦755年)2月、相替(あいかわ)りて筑紫に遣わされる諸國の防人(さきもり)たちの歌」と題が書かれています。
天平勝宝7年(西暦755年)2月9日に、常陸國の防人を引率する役人である防人部領使(さきもりことりづかい)として息長真人國嶋(おきながのまひとのくにしま)が進上したとされる17首の歌の一つだとされます。

(占部廣方の歌碑:羽生の公民館脇)
占部廣方の役職は「助丁(すけのよぼろ)」で、防人の長「国造丁(くにのみやつこよぼろ)」を補佐する役職でした。
この歌の原文を見てみましょう。
多知波奈乃 之多布久可是乃 可具波志伎 都久波能夜麻乎 古比須安良米可毛
となっており、橘の読み(万葉仮名)は「多知波奈」です。
これをどう読むかですが、タチバナ、タチハナとどちらも有りでしょう。ただ、「茨城」は倭名類聚抄では「牟波良岐」となっており、ムバラキ(またはウバラキ)と読むと考えられます。
古代(万葉の頃)の発音は、今とは違う発音も多くなされていたようで、「波」も「BA:バ]ではなく「PA:パ」または「FA:ファ」といった発音であったとの解釈もありますので、それが何時、どのように「タチバナ」と変って行ったのかは不明です。
では平安時代の辞書である「和名抄」の地名からの変化を見て行きましょう。
1) 倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう) 略称:和名抄 (わみょうしょう)
承平 年間( 931年 - 938年 )に源順 (みなもとのしたごう)が編纂。
平安時代の辞書といわれる。ここに当時の国名、郡名、郷名が載っている。
常陸国は東海道の国に分類され、五畿内と隣りあう伊賀国から始まって最後が常陸国となる。
常陸国には
郡名:新治(爾比波里)、眞壁(萬加倍)、筑波(豆久波)、河内(甲知)、信太(志多)、茨城(牟波良岐)、行方(奈女加多)、鹿島(加未之)、那珂、久慈、多珂 とある。
また茨城郡には
夷針、山前、城上、島田、佐賀、大幡、生國、茨城、田舎、小見、拝師、石間、安食、白川、安候、大津、立花、田籠
とあり、「立花」と漢字で書かれています。
これは郡・郷の名前は二文字とするようにお達しが出ていたため、「橘」 ⇒ 「立花」となったものと考えられます。
2) 地名大辞典
地名の大辞典は過去の博士などの有名なものもあるが、一般向けにまとめられた次の2つの大辞典が有名である。
・角川書店:角川日本地名大辞典 8茨城県 S58.12.8発行
・平凡社:日本歴史地名体系 8 茨城県の地名 1982年11月4日 発行
この2社の内容はそれぞれに特徴があり、古代、中世の地名などについては角川書店が詳しいが、元禄郷帳(1702年)、天保郷帳(1834年)、1882年地方行政区画便覧、1889年市町村制施行、1953年町村合併促進法などでの変化を見るには平凡社が秀でている。
また、旧小字名一覧などは角川書店版にほぼ網羅されている。
橘・立花についての角川書店版の内容をここに少し紹介しよう。
古代:立花郷(たちばなごう)
平安期に見える郷名。「和名抄」常陸国茨城郡十八郷の一つ。「新編常陸」によれば、羽生に橘明神という社があるといい(現在の橘郷造神社か?)、当郷を江戸期の「羽生・沖須・八十蒔・谷島・浜・捻木・倉数・与沢・山野・幡谷・外ノ内新田・花園新田等ノ十二村」にあてている。
中世:橘郷(たちばなごう)
平安末期~室町期に見える郷名。常陸国南郡のうち。「和名抄」の立花郷にほぼあたる。鹿島社領。・・・・・とある。
この地は鎌倉時代を中心に鹿島神宮の領地として寄進された地域である。
近世
・立花村(明治22年~昭和29年):羽生・八木蒔・沖洲・浜の4ヶ村が合併・・・現行方市
・橘村(明治22年~昭和29年):与沢・山野・幡谷・川戸・外之内・倉数の6ヶ村が合併・・・現小美玉市
上記の「立花も橘も共に古代からの郷名から名付けられており、ともに「タチバナ」という。
現在は2つの自治体に分かれてしまっているが、ともに古代の「タチバナ」であり、恐らく橘の樹が多く生えていたことと思われます。
古代の理想郷の「常世の国」の「時じくの香くの木の実」はこの地にあったという考え方も成り立つのではないでしょうか?
古墳時代に垂仁天皇は、常世の国へ行っての「時じくの香くの木の実」を取ってくるように命じました。
当時どのような人々がこの地に棲んでいたのかは良くわかりません。
しかし、三昧塚古墳や沖洲古墳群が点在するこの地「橘郷・立花郷」から霞ヶ浦周辺は食べ物も豊富で、水もあり、霊峰筑波山が姿をくっきりと浮かべ、日が沈むときには筑波山は真っ赤に萌えます。
そして、歌垣で男女が集い、恋の花を咲かせていたことも想像に難くないでしょう。
「常世の国」シリーズを最初から読むには ⇒ こちら
常世の国(4) 御毛沼命(みけぬのみこと)
さて、古事記や日本書紀などの古代の記述にある「常世の国」には、ここまで書いた橘を持ち帰った田道間守(タヂマモリ)の他に行ったきりで帰ってこない人物がいます。
そんな人物に焦点を当ててみましょう。
まずは、御毛沼命(古事記:みけぬのみこと、日本書紀は三毛入野命)です。
あまり聞きなれない人物ですが、初代天皇となる神武天皇の兄です。
神武天皇は第4子で、御毛沼命はその上の第3子(または第2子)とされています。
名前の御(ミ)は敬称、毛(ケ)は食物、「沼」は「主」を表わしているといわれています。

さて、時代は神武東征のとき(『日本書紀』神武即位前紀)です。
神武東征時には、後の神武天皇となる弟の「神日本磐余彦尊(書紀)」「神倭伊波礼毘古命(古事記)」と共に九州高千穂から大和を目指して進んだとされますが、熊野で暴風雨にあい、母も海神であるのになぜこのように進むのを阻むのかと嘆き、「波頭を踏んで常世国に渡った」と書かれています。
たったこれだけです。
これは、常世の国は理想郷と言うよりは「霊界」的な意味合いを持つ場所と思われます。
ヤマトタケルが走水(神奈川県)から東京湾を富津岬(千葉県)に船で渡るときに、波が荒れ、それを妻の弟橘姫が自ら入水して波を鎮めた話とどこかで繋がっているように感じます。
御毛沼命は神武東征の人柱的な犠牲になったのでしょうか?
もっとも、東京湾で入水したとされる弟橘姫も常陸国風土記の行方郡の「相鹿(あうか)」及び、久慈郡の「遭鹿(あふか)」の地名由来としてここで倭武(ヤマトタケル)は皇后の大橘比命とめぐり会ったとされるので、古代の神話では常世の国へ渡っても死んだとは限らないでしょう。
この御毛沼命も高千穂へ舞い戻り、そこ(高千穂神社)で祀られてもいるのです。
さて、常世の国に行った話ではなく、伊勢神宮の創設に纏わる話の中に「常世の国」が出てきます。
さらっと書かれていてあまり注目はされないみたいですが、少し気になるので下記に書いておきます。
日本書紀 垂仁天皇の即位25年のところです。
(原文)
三月丁亥朔丙申、離天照大神於豊耜入姫命、託于倭姫命。
爰倭姫命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡(筱、此云佐佐)、更還之入近江国、東廻美濃、到伊勢国。
時、天照大神誨倭姫命曰
「是神風伊勢国、則常世之浪重浪歸国也、傍国可怜国也。欲居是国。」
故、隨大神教、其祠立於伊勢国。
因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。
(解釈)
ここには、伊勢に天照大神を祀る神宮が移された経緯が書かれています。
年代としては垂仁天皇即位25年の三月です。神話の年号はこの頃は実際より2倍ほど早く進んでいるようですので、今から推察していけば西暦270年前後でしょうか。
天照大神が鎮座する地を求めてあちこち探し回るのですが、天照の係りを前の崇神天皇の娘である「豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)」から垂仁天皇の娘の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に替えます。まだ倭姫命は幼い子どのように思われますが、霊的能力が高かったようです。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至り、そして引き返して近江国から、東の美濃を巡って、伊勢国にやって来ました。そこで天照大神が倭姫命に言うのです。
「この神風の伊勢国は、常世の国から繰り返し浪が打寄せてはまた帰る国です。また、大和の国の側でももある「可怜国(ウマシクニ:すばらしい国)です。この国にいたいと思う」
そこで大神の教えに従って、ここ伊勢国に祠(ヤシロ)を建てたのです。
斎宮(イワイノミヤ)を五十鈴川の川上に立て、それは磯宮(イソノミヤ)といい、天照大神が初めて天より降りた場所です。
ここで、常世の国が伊勢国そのものを指すとも解釈できますが、垂仁天皇90年に田道間守(タジマモリ)が「非時香実=橘」を探しに常世の国へ遣わされますので、伊勢国には常世の国から波が打ち寄せ、帰ると解釈するべきでしょう。
「常世の国」を最初から読むには ⇒ こちら
そんな人物に焦点を当ててみましょう。
まずは、御毛沼命(古事記:みけぬのみこと、日本書紀は三毛入野命)です。
あまり聞きなれない人物ですが、初代天皇となる神武天皇の兄です。
神武天皇は第4子で、御毛沼命はその上の第3子(または第2子)とされています。
名前の御(ミ)は敬称、毛(ケ)は食物、「沼」は「主」を表わしているといわれています。

さて、時代は神武東征のとき(『日本書紀』神武即位前紀)です。
神武東征時には、後の神武天皇となる弟の「神日本磐余彦尊(書紀)」「神倭伊波礼毘古命(古事記)」と共に九州高千穂から大和を目指して進んだとされますが、熊野で暴風雨にあい、母も海神であるのになぜこのように進むのを阻むのかと嘆き、「波頭を踏んで常世国に渡った」と書かれています。
たったこれだけです。
これは、常世の国は理想郷と言うよりは「霊界」的な意味合いを持つ場所と思われます。
ヤマトタケルが走水(神奈川県)から東京湾を富津岬(千葉県)に船で渡るときに、波が荒れ、それを妻の弟橘姫が自ら入水して波を鎮めた話とどこかで繋がっているように感じます。
御毛沼命は神武東征の人柱的な犠牲になったのでしょうか?
もっとも、東京湾で入水したとされる弟橘姫も常陸国風土記の行方郡の「相鹿(あうか)」及び、久慈郡の「遭鹿(あふか)」の地名由来としてここで倭武(ヤマトタケル)は皇后の大橘比命とめぐり会ったとされるので、古代の神話では常世の国へ渡っても死んだとは限らないでしょう。
この御毛沼命も高千穂へ舞い戻り、そこ(高千穂神社)で祀られてもいるのです。
さて、常世の国に行った話ではなく、伊勢神宮の創設に纏わる話の中に「常世の国」が出てきます。
さらっと書かれていてあまり注目はされないみたいですが、少し気になるので下記に書いておきます。
日本書紀 垂仁天皇の即位25年のところです。
(原文)
三月丁亥朔丙申、離天照大神於豊耜入姫命、託于倭姫命。
爰倭姫命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡(筱、此云佐佐)、更還之入近江国、東廻美濃、到伊勢国。
時、天照大神誨倭姫命曰
「是神風伊勢国、則常世之浪重浪歸国也、傍国可怜国也。欲居是国。」
故、隨大神教、其祠立於伊勢国。
因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。
(解釈)
ここには、伊勢に天照大神を祀る神宮が移された経緯が書かれています。
年代としては垂仁天皇即位25年の三月です。神話の年号はこの頃は実際より2倍ほど早く進んでいるようですので、今から推察していけば西暦270年前後でしょうか。
天照大神が鎮座する地を求めてあちこち探し回るのですが、天照の係りを前の崇神天皇の娘である「豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)」から垂仁天皇の娘の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に替えます。まだ倭姫命は幼い子どのように思われますが、霊的能力が高かったようです。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至り、そして引き返して近江国から、東の美濃を巡って、伊勢国にやって来ました。そこで天照大神が倭姫命に言うのです。
「この神風の伊勢国は、常世の国から繰り返し浪が打寄せてはまた帰る国です。また、大和の国の側でももある「可怜国(ウマシクニ:すばらしい国)です。この国にいたいと思う」
そこで大神の教えに従って、ここ伊勢国に祠(ヤシロ)を建てたのです。
斎宮(イワイノミヤ)を五十鈴川の川上に立て、それは磯宮(イソノミヤ)といい、天照大神が初めて天より降りた場所です。
ここで、常世の国が伊勢国そのものを指すとも解釈できますが、垂仁天皇90年に田道間守(タジマモリ)が「非時香実=橘」を探しに常世の国へ遣わされますので、伊勢国には常世の国から波が打ち寄せ、帰ると解釈するべきでしょう。
「常世の国」を最初から読むには ⇒ こちら
常世の国(5) 少彦名(すくなびこな)命

常世の国に渡った人物(神)として忘れてはいけないのが、少彦名命(日本書紀:すくなびこなのみこと、古事記:少名毘古那神)です。
これは、大国主(大黒様、大己貴命(おおなむちのみこと))が出雲で、この日本国の国造りをしている時代ですから、いつ頃になるのでしょうか? まあ神話ですから良くわかりません。
大国主が出雲の海岸で、国造りをどのように進めていけばよいかを悩んでいると、海から見知らぬ小人がガガイモの舟に乗って近くにやってきます。言葉もわからず汚い身なりの小人です。
この小人が「少彦名(スクナビコナ)」なのですが、書紀などの記述はここでは省きます。
出雲に渡ってきたスクナヒコナは日本語が喋れなかったが、物知りの「山田のかかし」が素性を知らせることになりました。
どこからやってきたかは明らかではありません。言葉が通じませんので、日本から見れば異国からやってきたのでしょう。
この少彦名命は薬の知識を持っていたり、温泉を見つけてその効用を知らせたり・・・様々な知識が豊富で、大国主は少彦名命の力を借りて国造りを進めていく事となりました。
『古事記』上巻の記述では、この国を作り固めた後、少彦名神は常世の国に渡ったとあり、日本書紀では、大国主神が少彦名命と力を合せて国作りの業を終えた後、少彦名命は熊野の岬に行き、そこから“常世郷”に渡ったとあり、、または淡嶋に行き、登った粟の茎に弾かれて常世郷に渡ったと書かれています。
この淡嶋の場所が和歌山県加太の淡嶋神社等、幾つかの説がありますが、粟の茎に弾かれて、空を飛んで常世の国へ行ってしまいます。
空を飛んでいくので、常世の国は海の彼方なのか、天上にある国なのかはわかりません。
少彦名命は薬の神様、温泉の神様としても有名ですが、やってきた時に乗っていたガガイモの舟は天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)といわれ、空を飛びますので、航空関係神様としても祀られています。

<ガガイモ>
上記の写真は、私が空き地で見つけたガガイモの実だと思うのですが、半分に割れ、中の綿毛のついた種はすでにどこかに飛んでいってしまっ後だとおもいます。
こんな小さな舟に乗ってやってくるのだから小人に違いないですね。
そこから後に「一寸法師」のモデルになったとも言われるようです。
少彦名命が飛んでいった先の常世の国がこの常陸国という考えもありそうに思います。
茨城で少彦名命を祀る有名な神社は酒列磯前神社と大洗磯前神社があります。
那珂川の入口の両側を抑えている大変重要な神社で、共に延喜式の大社となっています。
また、那珂川の中流域に「粟」という地域ががあるが、この那珂川は常陸国風土記では「粟川」とかかれており、この地に鎮座する「阿波山上神社」のご神木に少彦名命が舞い降りてきたとの伝承があり、この阿波山上神社にも祀られています。
常世の国は基本的には不老不死の国であり、理想郷とされていて、そこへは海の波を越えていかねばならず、中国の蓬莱山や天空の城ラピタのような天上界に近い場所にある国などとも考えられます。
また、海の底の竜宮城がその国だというお話も存在します。
有名な浦島太郎の昔ばなしの元となった「浦嶋子」の話しが神話の世界や風土記にも残されていますので、興味のある方はお調べください。
(常世の国シリーズ 完)
「常世の国」を最初から読むには ⇒ こちら
常世の国(6) 竜宮城(浦嶋子伝説)
年初めから数回にわたり常世の国に関する記事を書き、一旦終了としたのですが、後からの考察に便利になる事柄が見つかりましたので数回分記事を追加しておきたいと思います。
まずは「浦島太郎」の昔話(常世の国=竜宮城と考えられる)の元になってあろう「浦嶋子(うらしまこ)伝説」について紹介しておきます。

昔話の浦島太郎については、もう皆さんは良くご存知だと思います。
(あらすじ)
浦島太郎は、浜で子供達が亀をいじめているところに遭遇し、その亀を買いとって海に放してやりました。
すると数日後に亀があらわれ、お礼に太郎を背中に乗せて海中にある竜宮城へに連れて行きます。
竜宮城では乙姫様が太郎をたくさんのご馳走や舞で歓待し、何日経ったかも忘れて過ごしました。
地上が恋しくもなった太郎は帰る意思を伝えると、乙姫様は「決して蓋を開けてはいけない」という玉手箱を渡されます。
太郎はまたもとの亀に乗って元の浜に戻ってくると、もうその地上では700年もの年月が経過していたのです。
太郎は乙姫様のが忠告を忘れて玉手箱を開けてしまいます。
すると中から白い煙がでてきて、太郎は白髪でしわだらけの老人の姿になってしまいました。
(いつ頃作られたのか)
この浦島太郎の話は明治半ばに、童話作家「巖谷 小波(いわや さざなみ)」がまとめた『日本お伽噺』に掲載された子供向けの昔話を明治政府が学校の国定教科書に取り上げて、一般に広まったといわれています。
しかし、この話には「浦嶋子(うらしまこ)伝説」といわれる話が存在します。
この話が書かれているのは『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』にそれぞれあり、内容も多少違いはありますが、ほぼ同じようです。
まずは日本書紀(720年成立)の雄略紀にかかれているものを記します。(ブログ浦島説話研究所:『日本書紀』の「浦島説話」より)
二十二年、秋七月、 雄略22年(478年)秋7月
丹波國餘社郡筒川人瑞江浦嶋子、 丹波國餘社郡筒川に水江浦嶋子という人物がいた。
乗レ舟而釣、遂得(二)大龜(一)。 舟に乗って釣りをしていると、遂に大龜を得た。
便化(二)爲女(一)。 龜は女性に化した。
於レ是浦嶋子感以爲レ婦、 浦嶋子は女性の放つ妖艶な魅力に感じて、女性を妻とした。
相逐入レ海、到(二)蓬莱山(一)、 海に入った二人は、蓬莱山に至った。
歴(二)覩仙衆(一)。 そこで、不老不死の仙人をつぶさに目にしたのである。
語在(二)別巻(一)。 詳細は別巻に在る。
このように詳細は別巻によるとなっていて、これは現在見つかっていない。
一方これを詳細に表わしているのは豊後風土記の逸文だ。
詳細は省くが、概要は、
・與謝郡日置里の筒川村の住人で、日下部首等の先祖にあたる、筒川嶼子という一人の人夫がいた。
・筒川嶼子は、美男子で、風流も類が無いほど優れた人物で、いわゆる水江浦嶼子と呼ばれた者である。
・嶼子は海に出て釣りをしていたが、三日三晩一尾の魚も釣り上げることができなかったが、「五色龜」を得た。
・嶼子が眠っている間に、忽ち、龜は美しく妖艶な「婦人」に変身した。
・嶼子はその婦人に「人家は遥か遠く、広い海原が広がるこの場所に、どうやって来ることができたのか。」と聞いた。
・その女娘は微笑み、「素敵な男性が一人大海原にいるのを目にし、風雲に乗りやってきたの。」と答えた。
・嶼子は「風雲とはどこから来たのか。」と聞くと、
・女娘は「仙人が住む天上界から来たのです。お願いですから私と親しくしてくださいね。」と答えた。
・嶼子「望むところです。」と答えた。
・女娘は「貴方が船を漕いで下さい。蓬山に行きましょう。」といった。
・女娘は嶼子を眠らせ、海中の大きな嶋に着いた。そこは宝玉が一面に敷き詰められたように美しいところだ。
・門外の殿は暗く見えたが、内の高殿は光り輝いており、見たことも聞いたこともない世界だった。
・二人が手を取り合って進んで行くと、一軒の見事な家の門にたどり着いた。
・女娘は「少しの間、ここにいてください」といって、門の中に入っていった。
・すると七人の童子が来て、この人が龜比賣の夫だね、と語り合った。また八人の童子もやって来て同じことを言ったので、女娘の名前が龜比賣であることがわかった。
・戻ってきた女娘に童子(竪子)等のことについて聞くと、七人の童子は昴(スバル)星。八人の童子は畢(アメフリ)星。です。
・女娘は嶼子を案内して中に入ると、そこには女娘の両親が出迎えてくれ、挨拶をして坐に座った。
・両親は人の世と仙界との違いについて説明し、人と神とがたまたま出会えた喜びを語った。
・珍しい数々の料理が並び、兄弟姉妹たちも酒の杯を重ね合い、仙界の人たちの歌は透き通るように響き、連なる舞も神々しかった。黄昏時になり、宴に参加していた多くの仙人等は三々五々席をたった。
・その後、二人は肩を寄せ合い夫婦となった。
・嶼子が仙界に留まってから既に三年の月日が流れたとき、突然、望郷の念にかられ、嘆く日々が日増しに募ってきた。
・その様子を見た女娘は「最近様子が変で、顔色もすぐれず一体どうしたとのでしょうか。理由を教えてください。」と
・嶼子は素直に、親元を遠く離れ、今は神仙の世界にいるが、できれば故郷の戻って親に会いたいことを告げた。
・女娘は涙を拭い、語り合っては嘆き悲しんだが、遂に嶼子と女娘はそでを合わせ、別れのときをむかえた。
・女娘や父母、親族等が悲しみをこらえ見送った。その時、女娘は玉匣を嶼子に手渡した。
・そして、「どうか私のことを忘れないで。また再会しようと思うのなら、この匣を決して開けないでください。」といった。
・二人は別々の船に乗った。
・嶼子はまた眠につき、瞬く間に故郷・筒川に着いた。
・しかし、そこの様子は一変していて、嶼子は里の人に自分の家族が今どこにいるのかを聞いた。
・村人は、「あなたは一体どこの方ですか。村の古老から、昔、水江浦嶼子という人物がおり、一人で海に出たが再び帰ってこなかったと聞いた。もう三百年余りも前のことですよ」と。
・呆然とした嶼子はあたりを歩き回るが、父母とも会うことができず、一月が経過した。
・嶼子は玉匣を撫で、神女に思いを馳せていたが、契った約束を忘れ、玉匣を開けてしまった。
・たちまち、蘭のような芳しき本質を有した玉匣の中身は、風雲につれられて天空に飛翔してしまった。
・神女との約束を破った嶼子は、二度と会うことができなくなってしまったことを悟り、後ろを振り返り、佇み、悲嘆の涙にくれながら、歩き回るだけだった。
さあ、どうでしょう。浦嶋子のこの昔のお話がどのように現在の昔話へ変化して行ったのかは興味がわきますね。
でもこの頃の常世の国が中国の理想郷である「蓬莱山」であり、竜宮城とは言っていませんね。
また、亀がきれいな婦人に変ってしまい夫婦になるのも大きく変っている点です。
今回はもう少し検証するのは止めて、調べた事を記しておくに留めます。
ブログ浦島説話研究所さま:勝手に内容を少し省きながら使わせていただきましたことお許しください。
まずは「浦島太郎」の昔話(常世の国=竜宮城と考えられる)の元になってあろう「浦嶋子(うらしまこ)伝説」について紹介しておきます。

昔話の浦島太郎については、もう皆さんは良くご存知だと思います。
(あらすじ)
浦島太郎は、浜で子供達が亀をいじめているところに遭遇し、その亀を買いとって海に放してやりました。
すると数日後に亀があらわれ、お礼に太郎を背中に乗せて海中にある竜宮城へに連れて行きます。
竜宮城では乙姫様が太郎をたくさんのご馳走や舞で歓待し、何日経ったかも忘れて過ごしました。
地上が恋しくもなった太郎は帰る意思を伝えると、乙姫様は「決して蓋を開けてはいけない」という玉手箱を渡されます。
太郎はまたもとの亀に乗って元の浜に戻ってくると、もうその地上では700年もの年月が経過していたのです。
太郎は乙姫様のが忠告を忘れて玉手箱を開けてしまいます。
すると中から白い煙がでてきて、太郎は白髪でしわだらけの老人の姿になってしまいました。
(いつ頃作られたのか)
この浦島太郎の話は明治半ばに、童話作家「巖谷 小波(いわや さざなみ)」がまとめた『日本お伽噺』に掲載された子供向けの昔話を明治政府が学校の国定教科書に取り上げて、一般に広まったといわれています。
しかし、この話には「浦嶋子(うらしまこ)伝説」といわれる話が存在します。
この話が書かれているのは『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』にそれぞれあり、内容も多少違いはありますが、ほぼ同じようです。
まずは日本書紀(720年成立)の雄略紀にかかれているものを記します。(ブログ浦島説話研究所:『日本書紀』の「浦島説話」より)
二十二年、秋七月、 雄略22年(478年)秋7月
丹波國餘社郡筒川人瑞江浦嶋子、 丹波國餘社郡筒川に水江浦嶋子という人物がいた。
乗レ舟而釣、遂得(二)大龜(一)。 舟に乗って釣りをしていると、遂に大龜を得た。
便化(二)爲女(一)。 龜は女性に化した。
於レ是浦嶋子感以爲レ婦、 浦嶋子は女性の放つ妖艶な魅力に感じて、女性を妻とした。
相逐入レ海、到(二)蓬莱山(一)、 海に入った二人は、蓬莱山に至った。
歴(二)覩仙衆(一)。 そこで、不老不死の仙人をつぶさに目にしたのである。
語在(二)別巻(一)。 詳細は別巻に在る。
このように詳細は別巻によるとなっていて、これは現在見つかっていない。
一方これを詳細に表わしているのは豊後風土記の逸文だ。
詳細は省くが、概要は、
・與謝郡日置里の筒川村の住人で、日下部首等の先祖にあたる、筒川嶼子という一人の人夫がいた。
・筒川嶼子は、美男子で、風流も類が無いほど優れた人物で、いわゆる水江浦嶼子と呼ばれた者である。
・嶼子は海に出て釣りをしていたが、三日三晩一尾の魚も釣り上げることができなかったが、「五色龜」を得た。
・嶼子が眠っている間に、忽ち、龜は美しく妖艶な「婦人」に変身した。
・嶼子はその婦人に「人家は遥か遠く、広い海原が広がるこの場所に、どうやって来ることができたのか。」と聞いた。
・その女娘は微笑み、「素敵な男性が一人大海原にいるのを目にし、風雲に乗りやってきたの。」と答えた。
・嶼子は「風雲とはどこから来たのか。」と聞くと、
・女娘は「仙人が住む天上界から来たのです。お願いですから私と親しくしてくださいね。」と答えた。
・嶼子「望むところです。」と答えた。
・女娘は「貴方が船を漕いで下さい。蓬山に行きましょう。」といった。
・女娘は嶼子を眠らせ、海中の大きな嶋に着いた。そこは宝玉が一面に敷き詰められたように美しいところだ。
・門外の殿は暗く見えたが、内の高殿は光り輝いており、見たことも聞いたこともない世界だった。
・二人が手を取り合って進んで行くと、一軒の見事な家の門にたどり着いた。
・女娘は「少しの間、ここにいてください」といって、門の中に入っていった。
・すると七人の童子が来て、この人が龜比賣の夫だね、と語り合った。また八人の童子もやって来て同じことを言ったので、女娘の名前が龜比賣であることがわかった。
・戻ってきた女娘に童子(竪子)等のことについて聞くと、七人の童子は昴(スバル)星。八人の童子は畢(アメフリ)星。です。
・女娘は嶼子を案内して中に入ると、そこには女娘の両親が出迎えてくれ、挨拶をして坐に座った。
・両親は人の世と仙界との違いについて説明し、人と神とがたまたま出会えた喜びを語った。
・珍しい数々の料理が並び、兄弟姉妹たちも酒の杯を重ね合い、仙界の人たちの歌は透き通るように響き、連なる舞も神々しかった。黄昏時になり、宴に参加していた多くの仙人等は三々五々席をたった。
・その後、二人は肩を寄せ合い夫婦となった。
・嶼子が仙界に留まってから既に三年の月日が流れたとき、突然、望郷の念にかられ、嘆く日々が日増しに募ってきた。
・その様子を見た女娘は「最近様子が変で、顔色もすぐれず一体どうしたとのでしょうか。理由を教えてください。」と
・嶼子は素直に、親元を遠く離れ、今は神仙の世界にいるが、できれば故郷の戻って親に会いたいことを告げた。
・女娘は涙を拭い、語り合っては嘆き悲しんだが、遂に嶼子と女娘はそでを合わせ、別れのときをむかえた。
・女娘や父母、親族等が悲しみをこらえ見送った。その時、女娘は玉匣を嶼子に手渡した。
・そして、「どうか私のことを忘れないで。また再会しようと思うのなら、この匣を決して開けないでください。」といった。
・二人は別々の船に乗った。
・嶼子はまた眠につき、瞬く間に故郷・筒川に着いた。
・しかし、そこの様子は一変していて、嶼子は里の人に自分の家族が今どこにいるのかを聞いた。
・村人は、「あなたは一体どこの方ですか。村の古老から、昔、水江浦嶼子という人物がおり、一人で海に出たが再び帰ってこなかったと聞いた。もう三百年余りも前のことですよ」と。
・呆然とした嶼子はあたりを歩き回るが、父母とも会うことができず、一月が経過した。
・嶼子は玉匣を撫で、神女に思いを馳せていたが、契った約束を忘れ、玉匣を開けてしまった。
・たちまち、蘭のような芳しき本質を有した玉匣の中身は、風雲につれられて天空に飛翔してしまった。
・神女との約束を破った嶼子は、二度と会うことができなくなってしまったことを悟り、後ろを振り返り、佇み、悲嘆の涙にくれながら、歩き回るだけだった。
さあ、どうでしょう。浦嶋子のこの昔のお話がどのように現在の昔話へ変化して行ったのかは興味がわきますね。
でもこの頃の常世の国が中国の理想郷である「蓬莱山」であり、竜宮城とは言っていませんね。
また、亀がきれいな婦人に変ってしまい夫婦になるのも大きく変っている点です。
今回はもう少し検証するのは止めて、調べた事を記しておくに留めます。
ブログ浦島説話研究所さま:勝手に内容を少し省きながら使わせていただきましたことお許しください。
常世の国(7) 徐福はどこへ

今回の常世の国は遠く離れた中国の紀元前3世紀の話を紹介しましょう。
中国では紀元前90年ころ(前漢時代)に、司馬遷により膨大な歴史書である「史記」が書かれています。
古代中国では日本の「常世の国」といわれる不老不死の理想郷と同じように、東方の渤海(ぼっかい:遼東半島と山東半島の間にある内海状の海域)の先にある神仙が住む島で、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)の三神山があると信じられて来ました。
この中で「蓬莱山」がもっとも有名になって日本にも伝わってきています。
前回書いた「浦嶋子」伝説も、浦嶋子は舟で竜宮城ではなく「蓬莱山」にいったとなっていますから、奈良朝初め頃は常世の国=蓬莱山とも考えられていたのかもしれませんね。
日本最初の物語といわれる「竹取物語」(平安時代前期成立)でもかぐや姫に求婚してきた5人の貴公子にそれぞれ難題を出しますが、その5人の中の一人「車持皇子(くらもちのみこ)」にだされたのが、「東方の海上にあるという蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)をもってくるように」と言うものでした。
車持皇子は3年かけて蓬莱の玉の枝というものを探し出して、姫のところへ持ってきます。
しかし、そこに1000日もかけて玉の枝を製作したのにまだ報酬を貰っていないという職人が名乗り出て、これが偽物だとばれてしまいます。まあ、この竹取物語での理想郷は「月」なのかもわかりませんが、中国の理想郷は蓬莱山であるということは日本に伝わっていた事は明らかですね。
さて、中国の紀元前に書かれた歴史書「史記」の中で、徐福(じょふく)という人物が登場します。
秦の始皇帝の時代です。
当時、占いや役、気功術などをあやつる修験者のことは「方士(ほうし)」と呼ばれていましたが、この徐福はこの方士の一人でした。方士という呼び方は紀元前3世紀ころから紀元5世紀ころまでで、道教が浸透してからは一般には「道士」と呼ばれるようになりました。
史記には次のように書かれています。(Wiki.より)
『又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。』
(現代語訳)
『、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかった』(Wiki.より)
このように、始皇帝に不老不死の妙薬を見つけてきますと言って、3000人もの男女に民に多くの技術者を連れて、船出したが、この神山には到達せず、広い原の地に至り、そこの王様になって、とうとう秦国には戻らなかったというのです。
さて、この話の時代ですが、資料に寄れば紀元前210年です。
しかし、この前の紀元前219年に一度徐福は徐福(徐氏:じょふつ)は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけて、援助を得たが、7年後に「蓬莱に行けば仙薬が手に入ることがわかったが、大鮫に邪魔され辿り着けなかった」と始皇帝に報告した。
そして、今度は「多くの男女の若者と技術者たちを連れてもう一度仙薬を手に入れてきます」と言葉巧みに申し出たようです。
そして、紀元前210年に上記ような大人数の船団を組んで出航したようです。
当時の始皇帝の絶対権力は甚大で、徐福などは命令には逆らえなかったようです。
この徐福という人物についてもさまざまな意見があるようです。
・本当はイスラエル(ユダヤ民族)の栄光ある消えた古代民族の一つの子孫
・始皇帝が滅ぼした斉の国の皇太子であった。(斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身)
・想像された人物で実際にはいなかった。⇒ どうもこれは今では否定されており、実際に存在したとされている。
さて、3000人もの人数が船にのって出航するというのは、当時どの程度の舟があったかは良くわかりません。
倭国が中国へ正式に使者を派遣したのは、西暦600年の第1回遣隋使派遣です。
それより710年も前に、舟の建造技術がどの程度であったのか? 私は良くわかっていません。
3000人もの人々が、途中波にさらわれ、あちこちの島々にバラバラに到着したかもわかりません。
徐福は台湾、韓国、日本などにたどり着いてそこの王になったという考えがあり、中国では日本に渡ったとする伝承がかなり強くあり、この考えが日本にも伝わって、日本の各地に徐福伝説が残っているのかもしれません。
(日本における徐福の伝承)
1、熊野(現在の三重県熊野市):波田須駅付近には徐福ノ宮があり、ここは徐福が持参したすり鉢がご神体という。
2、和歌山県新宮市:徐福の墓とされるものがあり、徐福公園が造られている。
3、福岡県八女市山内(童男山古墳)
4、その他、佐賀県佐賀市、京都府伊根町、長野県佐久市(蓼科山)・・・・・鹿児島~青森 の各地に多くの伝承が残されています。
年代からか、日本の天皇家の祖であるという説もあるようです。
また、もう一つ日本で注目を集めているのは日本における渡来人集団である「秦(はた)氏」の存在です。
聖徳太子の頃の秦河勝を筆頭とする秦氏は、自ら秦の始皇帝の末裔であると称しており、秦国から百済(または新羅)を経由して日本列島(倭国)へ渡って来たと見られています。
秦河勝(はたの かわかつ)は、世阿弥の『風姿花伝』によれば、河勝は申楽(猿楽)・能楽の始祖とされています。
仏教における宿神、摩多羅神などとの関係も気になる所です。
また、644年に富士川である虫を「常世の神」として祀る信仰が流行し、河勝はこれを滅ぼしていることも、この「常世の国」とのブログテーマですので、一言書き加えておきます。
いろいろな情報が山盛りですが、ここは整理も必要ですので、一旦この話題は終了とします。
| HOME |