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正岡子規の「水戸紀行」を巡る(1)

 俳人正岡子規は学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。

当時水戸までは小山経由で鉄道は開通していましたが、まだ常磐線は開通しておらず、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。本人たちは2人でしたので弥次喜多道中を意識しての徒歩道中の気分だったようです。
子規は体は丈夫な方ではなかったようですが、俳句などを詠むにも、いろいろな場所で新たな発見をするのが好きで、いろいろなところに出掛けています。

本郷から千住-松戸-我孫子を通って藤代の2軒しかない旅籠の1軒である銚子屋という宿に1泊しました。
翌日は小雨で傘をさして牛久-土浦-中貫-稲吉を通って石岡の萬屋(よろずや)に泊まりました。

当時、常磐線は通っておりませんでしたが、石岡の町は高浜から霞ヶ浦を経由して東京まで汽船(高浜汽船)が周航していました。このため、多くの商人たちも石岡の宿に宿泊し、街には醤油工場や酒造所の大きな煙突が何本も聳え立っていました。

正岡子規は水戸では親友の菊池謙二郎氏が入れ違いで東京に出てしまっていために会えずに舟遊びなどをして帰路は水戸線経由で上野まで列車に乗っています。

子規は帰京1ヶ月後の5月9日に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています。そしてこの水戸への旅行記を半年後の10月に書いています。
ただ旅の途中は歌を詠むためのメモ以外にはあまり記録は残していなかったようで、半年前の記憶をたどって書いたようです。

原文は詩的表現やリズム感なども重視されていて原文で読むことをお勧めしますが、現代的な表現からは少し難解な部分もあるため、ここでは少し現代表現に訳して載せることにします。

参考とさせていただいた原文はこちらから読むことが出来ます。

小さな資料室:⇒ こちら 
(本資料室は充実しており参考にさせて頂いています。御礼申し上げます)

ブログではこれから数回に分けて載せます。
(調べるのが大変で、しかも1回分がかなり長くなってしまい何回で終わるかもわかりません。
よろしければ時々覗いてくださいね。)

<1> 出立~千住まで(約9km)

(現代語訳)
水 戸 紀 行
             莞爾(かんじ)先生子規著

我は生まれながらにして身体が弱く、殆ど外出はしないで部屋のなかに閉じこもって詩語などを集めた書物を読み漁る方であったが、好奇心は強く、まだ見たり遊んだりしたことのない知らない山や海川などは、読んだことのない書物を読みたいと思うのと同じように見に行ってみたいという思いがつのり、これは読んでいない書物を読みたいと思うのと同じように興味を覚えるものだ。

我の旅の最初は、明治十四年、十五の歳に、三並・太田・竹村の三氏と(伊予松山の久万(くま)山の)岩屋行を勧められて出掛けた。この時は旅に出てみたいという気持は強くあったが、我の脚力では年上の人についていくことは難しいといって止めた母の言葉も聞かずに、草鞋を履いて勇ましく出掛けたのだった。この場所は私の生まれた場所から十里(約40km)ほども離れた場所であったが、この久萬山岩屋を見物して、大変面白くそこで一泊したのだが、帰りは足が疲れて、途中から歩くことができず、道端に倒れて動けなくなることが何度もあった。
翌年の明治十五年には、伊予南部の大洲(おおず)地方へ四五泊の旅行をした。

そして明治十六年には、ついに東京へ来ることとなった。しかし、東京の旅は、陸路は車にのり、海路は舟で行くので、昔の膝栗毛道中の旅とは異なり歩く旅とはならなかった。東京へ来てからも歩く範囲は遠くと云っても、王子、鴻の台、小金井位までの範囲であり、それより遠くは何時も汽車に乗っての旅であった。
いつか膝栗毛道中の旅をしてみたいと思うのであったが、学校の休暇は極暑または極寒の時期が多く、病体の身ではなかなか思い立つ時がなく、心苦しくも年月が経ってしまったのである。

今年(明治22年)の春に十日ほどの学校の休みが得られたので、常盤会寄宿舎内の友一人を誘って水戸地方への旅行をしようではないかと相談したところ、話がまとまり、思い立ったが吉日・善は急げということになり、では明日出立しようと草履や朝飯の旅支度をととのえたのが四月二日の夜のことであった。

日が明けて、紀元(皇紀)二千五百四十九年四月三日の暁となった。
恐れ多い我らの遠い先祖にあたる天皇が、この日本を千代萬代にもわたって尽き果てることのないようにお開きになった初代神大和盤余彦尊神武天皇が崩御された日という由緒ある日を選んで旅立ったのもなにかゆかりがあるのだろうか。闇の世の中は一寸さきの見えないのが仕合せであるのだが。

されば何ごとも吉兆であり、幸先が良いと祝福して自ら慰むのもやさしき心根である。若し、いつ災難にあうとか、何時死ぬかなどが分っていたら、仮の浮世では何一つ面白くもないだろう。

この旅が、神ならぬ我が身の一月先に病になるなどと知るはずもなく、朝六時に勇んで本郷台の寄宿舎をブラッと立ち出でしは、二人のなまけ者である。

一人は鬼も十八の若盛り、ましてや顔(かんばせ)は雪のように白く、眼は夏でも暑さを知らないという程にすずしく、鼻はスッとして通らぬ処よろしく、また口元は普通よりも小さく、燒き芋を十個ほどに割らなければ入らないほど小さな口と見え、体は小柄で福相があり、災難を逃れることのできると人相見が言いそうな風つきで、縦から見ても横から見ても正札付きの美少年である。

もう一人は中肉中背とまではよかつたが、それ以外に取柄もなく、顔の色は靑白くといいたいが、白より靑の分子が多いため、白靑いと云う方が論理にかないそうなという難しい色であり、着物はゴツゴツ木綿の綿入と、その下に白シヤツ一枚、それをダラリとしだらなく着流して、醤油で何年も煮しめたような嫌疑のかかりそうな屁兒帶(へこおび)を小山のように締め、時々齒をむき出してニヤリニヤリと笑うところは大ばかでなければ狂顚(きちがい)病院へ片足を踏み入れた人と見える。
前の美少年と比べると無気味(ぶきみ)さが一層に引き立って見える、毛唐(けとう)人にいわせれば、good contrast と云える。

この前者の好少年が、即ち我の事で、後者の醜男子が我の連れの吉田の少將多駄次(ただじ)とか呼ぶ者である。………いやいや、実はこれは真っ赤なウソで、本当は真逆である。

── こんなことを白状する位なら、最初にあんなに人をほめるものでもなかつた。 また自分のことも余り遠慮がなさ過ぎた。 殘念々々 ──。

近頃長寝の癖があるが、(早起きしたので)町々の店の戸を開ける音がドタンドタンとひびくのもいさましく感じ、切通しとなった道を下って上野にやってきたら、はやくも初桜がいまにも脣(くちびる)を開こうとしていた。

一枝を手で折りたいところだが、これは違警罪といふ恋の邪魔に妨げられて本意をはたさず、そうしているうちに、早くも千住についたので、一枚のはがきを買ってこれから行く水戸の友に宛てて、我の出立のことをしたためて郵便箱に投げ入れた。
その時「コレ郵便箱さん頼みましたヨ たしかですか」とか何とか言えばよいのに、何とも云わずに出してしまったのは、後から思えば不覺であった。

(注釈)
<出立前>
● 正岡子規は慶応3年(1867)9月に伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士の長男として生まれる。幼少時の名前は正岡處之助(ところのすけ)といい、後に升(のぼる)と改めた。子規の名前はこの水戸への旅(明治22年4月)1か月後に吐血して、死ぬまで鳴くのをやめないといわれているホトトギスの漢字表記から子規と号するようになった。

● 東京へは明治16年(1883)5月に大学予備門受験のために松山中学を中退して6月にやってきた。
・明治17年(1884)9月:東京大学予備門入学
・明治21年(1888)9月:第一高等中学校本科に進級、本郷の常盤会宿舎に入る。

● 子規の旅行歴:

1) 明治14年(1881)(15歳):三並・太田・竹村の三氏と伊予松山の久万(くま)山へ徒歩旅行。当時子規は水墨画を習っており、この一緒に旅した三氏は恐らく水墨画の年長の先輩であったものと思われます。

久万の古岩屋は、高さ100m近い礫岩峰がいくつも立ち並び、国指定の名勝地となっています。また、その手前には四国八十八ヶ所霊場45番札所の海岸山岩屋寺があり、寺は八十八ヶ所中4番目に高いところにあります。

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(写真は名称・古岩屋:久万高原町ホームページより)
近くの不動尊に子規の碑が建てられています。

2) 明治15年(1882):大洲(おおず)地方に四五泊の徒歩旅行
愛媛県大洲市は南予地方にある伊予の小京都とよばれており、大洲盆地を中心に、瀬戸内海と四国山地に面し、中心を肱川が流れる少し高台の盆地にあります。江戸時代の大洲(おおず)城を中心とした江戸や明治の街並みが残されていて、情緒豊かな場所です。盆地にあるため、霧が発生すると幻想的な景色が広がります。

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(大洲城:大洲市公式観光情報サイト VisitOzuより)

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(煉瓦の道::大洲市公式観光情報サイト VisitOzuより)

3) 明治16年(1883):東京へ
子規は東京での徒歩散策圏内は王子、鴻の台、小金井位までの範囲と書かれています。

・【北】:王子(現東京都北区王子)・・・子規が水戸へ旅立った頃は王子村であった。
明治初期は浦和県であったが、明治4年に東京府に編入された。
王子製紙が明治8年に操業を開始しており、明治16年には鉄道も上野-熊谷間の一つの駅として開設されている。
そのため、子規は上野から鉄道で王子へ行くことも出来たようだが、王子稲荷の社(キツネ)が江戸時代から有名であり参拝者が多かったという。
東京都の北側であり、ここから筑波山が見えたそうだが、今はビルで見ることは出来ない。

・【東】:鴻の台(千葉県市川市国府台)・・・江戸川の下流にある高台を呼んだ。
これはこの近くに下総の国府があったことから国府台(こうのだい)と呼ばれたが、下を流れる川にコウノトリが飛来したことから鴻の台とも呼ばれたという。
広重の名所江戸百景に「鴻の台とね川風景」がある。

・【西】:小金井(東京都小金井市)・・・明治18年(1885)4月25日に子規は小金井で花見をしている。
後に根岸の子規庵に寄宿していた高浜虚子にも小金井桜を見に行くことを勧めている。
玉川上水の両岸の桜が有名だった。

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歌川広重 「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」

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歌川広重『王子稲荷の社』
王子稲荷では2月の牛の日は凧市(防火)でにぎわう。稲荷の裏手から見えた筑波山は、今はビルで見えない。

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歌川広重「鴻の台とね川風景」

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歌川広重「富士三十六景武蔵小金」安政6(1859)(武蔵小金井市ホームページ「小金井桜のあゆみ」)

4) ここには書かれていないが、病弱でありながら実にその前後も子規は旅をしており、無類の旅好きだったようです。
・明治18年9月8日、鎌倉無銭旅行:秋山真之、清水則遠、小倉(梅木)脩吉と共に夜の11時に鎌倉へ徒歩無銭旅行(懐に五十銭程懐中)をした。
夜中中歩いて翌日戸塚の手前で昼飯を喰い。
皆が歩けなくなり神奈川まで歩いて戻り、汽車に乗って(小倉氏が皆の汽車賃を何とか持っていた)新橋まで戻った。

・明治21年7月28日~7月30日鎌倉旅行
船で浦賀→横須賀→金沢文庫→鎌倉(泊)→鎌倉見物→七里ヶ浜(泊)→江の島→東京戻り(この時の旅でも吐血し暴風雨や寒さで病状悪化)
一般には水戸紀行の4月の旅のあとに吐血したとされていますが、この前年の夏の鎌倉旅行で既に吐血を経験していました。
ただこの時はただの喉の炎症と思っていたようです。
・明治24年3月25日~4月2日:房総半島一周
 常盤会寄宿舎→市川→船橋→大和田(泊)→臼井→佐倉→成田→酒々井→馬渡(泊)→千葉→寒川→浜野→閏井戸→長柄山(泊)→長南→大多喜(泊)→小湊→天津(泊)→和田→朝夷(あさい)郡平磯(現南房総市)(泊)→野島崎灯台→館山(泊)→那古の観音→保田(泊)→羅漢寺・鋸山→船で東京へ戻る(4月2日)
 ただ、明治27年12月にも房総鉄道の開通に合わせて鉄道を使って旅行しています。(市川・船橋・幕張・千葉・四街道・佐倉など)
・明治24年6月25日~7月4日 木曽・長野・妻篭 馬篭→松山へ帰省 
 この後に8月広島・岡山・大阪等を見学して東京へ戻る(8月31日)
・明治24年11月 武蔵野旅行(蕨、熊谷、川越など)
この後も度々旅行して居り、時には夏目漱石と共に行っています。
・明治26年7月19日~8月19日:1か月間東北旅行。
小旅行はこれによらずにまだ多くあります。実にたくさんの旅行をしています。勿論鉄道や船を利用しての旅も多くありますが、歩く旅は好きだったようです。

● 子規の旅の出発点となった「常盤会寄宿舎」:伊予松山藩の子弟の為に建てられた東京本郷真砂町の愛媛県人の男子宿舎であった。現在は東京都東久留米市中央町に移転している。

<出立から千住まで(約9km)>
● 出立した4月3日は当時の暦で、神武天皇祭であり、この日は神武天皇が崩御された日とされ、『日本書紀』によれば紀元前586年(神武天皇76年)3月11日をグレゴリオ暦に換算して4月3日がその日に当たるとしている。

● 子規はこの旅行から帰って1か月後の5月5日に喀血し、肺結核が発病した。
子規の号もこの喀血から、ホトトギスの唇が赤く、鳴いて血を吐く、死ぬまで鳴き続けるなどと云われていたことから、ホトトギスの漢字表記の「子規」を採用したとされる。
そのため、この水戸紀行は旅から帰ってから半年ほどたった同じ年の十月十七日から二十日にかけて、記憶を頼りに書かれたものである。
旅行中は途中で読んだ俳句以外には、あまりメモを残していなかったようです。

● 一緒に旅した友人は、同じ寄宿舎のまだ18歳の若者であり、ここでは吉田の少将多駄次と書かれているが、詳細は書かれていない。
しかし千葉日報の2008年12月の記事によれば「吉田匡(よしだただし)」氏だと書かれている。
ただ詳細はわからない。
匡は「ただじ」と読むのかもしれないが東海道中膝栗毛の弥次・喜多に合わせて面白く書かれているのだろう。

● 本郷の宿舎から上野までは1~2km程で、子規たちも散歩程度に通っていた道筋であろう。
切通しと書かれているが、これは湯島天満宮の前の「切通坂」(文京区湯島3丁目と4丁目の間)のことだと思われる。
この辺りは多くの文豪たちが過ごしていた場所だ。
この本郷 → 湯島 → 上野不忍池の道路は、比較的短い距離で、そこから千住までは、何処を通ったかは書かれていないが、そのまま東に進んで浅草あたりから墨田川を舟で北上するか、墨田川の西側のいわゆる旧日光街道を進めば、千住宿に着く。
宿舎から日光街道を歩いても千住宿まで8~9km程であるので恐らく歩いたのだと思う。
千住宿の中心は現在の北千住駅の西側にあり、この少し北の四丁目と五丁目の間の道を東に進めば水戸街道です。

芭蕉も奥の細道の記述では、千住(宿)まで弟子たちに見送られてきており、ここから日光街道・奥州街道を進んだ。
千住宿は日光方面や水戸方面からの江戸の入口であり、昭和初期まで大きな遊郭があった。
水戸街道はこの千住宿が出発点となっていた。
この千住で子規は、善は急げと出立してしまったので、水戸の学友・菊池謙二郎氏が水戸に帰省しているはずと思い手紙で、これから訪ねることを知らせたが、水戸に着いた時には入れ違いで、謙二郎氏は実家から東京に戻ってしまっていた。

● 参考までに松尾芭蕉の奥の細道の記述からいろいろ推察してみよう。
芭蕉は千住まで船で弟子たちに見送られてきており、ここから日光街道・奥州街道を進んだ。

(千住旅立ち:元禄2年3月27日)
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

行春や 鳥啼 魚の目は泪  (芭蕉)

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
芭蕉は東北への旅立ちで、まず門人たちと船で深川から隅田川をさかのぼり、千住の宿にやってきました。

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(蕪村が書いた芭蕉旅立ちの絵)

千住は隅田川と荒川とにはさまれた地帯で当時の江戸では品川に次ぐ大きな宿場でした。
北への玄関口だったのです。当時のこの宿場町には約2400軒の家屋と、人口は1万人近くもいたといわれています。

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<千住宿>
道路にはめ込まれている千住宿のタイル:本陣が1軒、脇本陣1軒、旅籠は55軒ほどあった。
本陣跡は北千住駅からすぐ。

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北千住駅西口から西にまっすぐ伸びる道を最初の信号の右に一つ入った路地裏に看板がある。その地図の緑色の場所が本陣屋敷です。
その本陣跡の上の赤丸部分が「見番跡」となっています。

説明によると「江戸時代から千住宿は遊女を置いていい旅篭が50軒ほどありました。
明治になりこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。
花街が千住柳町に移転させられた大正8年以降も昭和18年まで営業していたといいます。
そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。」と書かれています。
まあ岡場所なんていってもう知っている人は少なくなったでしょうね。

政府が公認で遊女を置いてよい宿場は江戸には4つありました。
「品川宿」「板橋宿」「内藤新宿」とここ「千住宿」です。
もちろんこのほかに遊郭として「吉原」がありました。
これらは政府の公認であり、その他の宿や食べ物屋などは禁止されていたのです。
そうはいってももぐりはあって「あいまいや」などというものが存在していたのでしょう。
子規もこの後、土浦で「あいまいや」のことを書いています。

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写真の通りが「見番横丁」です。奥の左側に「見番」なる芸妓組合の事務所があった場所で、右側は本陣のあった場所です。


さてもう一つ、この見番通りと交わる通りが「旧日光街道」となっています。

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このお店のたくさん並んだ通りが一方通行ですが、旧日光街道です。
この先が日光や奥州へ繋がっていたようです。
芭蕉も門人「河合曾良」とここを通って奥の細道へ旅立ちました。
旧水戸街道は、この道のすこし先を東(右)に曲がった道です。

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旧水戸街道の道標:千住四丁目と五丁目の間に置かれています。
この道標は、東へ「旧水戸佐倉道」となっています。
また旧石造りの道標(時代は不明)が足立区立郷土博物館に残されているようです。
説明では「もと千住四丁目30-1角に旧日光道中より分岐する旧水戸海道入口に建てられていた道標」となっており、街道ではなく海道と書かれています。

それでは、ここから子規たちが徒歩旅行した旧水戸街道の道筋を、宿場名から地図に示しておきます。
全行程は約111kmあります。

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(日本の旧街道の地図GPSCycling:旧水戸街道による)

千住-新宿(5.5km)-松戸(11.4km)-小金(17.4km)-我孫子(28.2km)-取手(34.8km)-藤代(42.7km)-若柴(46.2km)-牛久(51.9km)-荒川沖(58.7km)-中村-(60.5km)土浦(65.5km)-中貫(70.6km)-稲吉(74.0km)-府中(石岡)(80.9km)-竹原(86.4km)-片倉(91.0km)-小幡(95.5km)-長岡(101.9km)-水戸(111km)
・・・( )内の距離は千住からの概算値です。


水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/02/27 18:41

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(2)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は2回目です。


<2> 千住~松戸~小金~我孫子(約40km)

(現代語訳)
千住の中頃より右に曲るとは聞いていたが分かれ道がどこやら分らず、そうしているうちに向うに巡査がたたずんでいるのが見えた。これは地獄で仏とばかり、駆け寄って

「モーシモーシ このあたりに水戸へ行く街道があれば、教えて下さりませ」

と石童丸(いしどうまる:伝説中の人物。出家した父の苅萱(かるかや)道心を探しに高野山に訪ねる)の気取りで言うと、巡査もまた助高屋(歌舞伎役者)気取りか何かで「ここをまがるも水戸街道で、あそこをまがるもまた水戸街道、どこも水戸街道ばかりですよ」とでもやるのかと思いきや、芝居心のない巡査と見え、左の手を出して、 「コッチへ」とだけ云ったきりであった。

我は相棒の多駄次を見てニッコリ笑いながら、そこを横に曲り、「丁度曲るところで道を聞いたというも妙じゃないかね。あの巡査は何故あそこに立っていたのだろう。まるで僕等の為に待っていたようなもんだぜ」と云いながら後を振り返れば、もう巡査の影もなかった。 

さては、明神樣が仮に巡査の姿をして現れ、我に行く道を敎へてくれたものか、ああ有難いか否かといって、睫(まつげ)に唾をつけてみた。

ボタボタと草履(ぞうり)を引きずり、着物の裾もからげずに歩いていくと、もう人里はなれていて(街並みを離れ)野路にかかっているので、見栄をかざる必要もないと尻をりりしく端折(はしょ)て多駄次に向いながら、

「オイ 多駄公、君とこう二人で一処に膝栗毛とは妙ぢやないか 僕が野暮次で君が多駄八 だから彌次、喜多よりは一段上の洒落人となって一九(十返舎一九)をくやしがらせるとは、極々妙々の思案じやなア」

 多駄「こいつは妙(案)だ、サア道中の始まり始まり」
すると、折しも路ばたの車夫が声をかけ

 車夫「旦那どうです 松戸まで帰りですのでお安くやります」
というので、二人顔を見合せたが

 野暮「オイ いくらでいく」

というと、サアそれから談判が始まった。すると高いとか安いとかいう内に、車夫(人力車)がまけるとくる、さらば乗らずばなるまいと、折角端折った裾をおろして、再びもとの紳士となり、さきの言葉もどこへやら 中川橋を渡り松戸のこなたで、車はガラガラギリギリドンと止まった。

車を下りて、江戸川を渡れば松戸駅(駅:鉄道はまだないので「うまや」「宿場」のこと)である。

それから一里余りで小金駅に至る。
道中は一本道で、町は寂々寥々(せきせきりょうりょう:しずかでさびしい)として空き家が立ち並んでいると思うばかりである。

そのとき、その道端で四五人の子供が集まって遊んでいたが、その中に七八歳くらいの女の子がいて、身なりはつゞれ(つぎはぎ着物)を纏(まと)っていて大変汚い格好であったが、子守歌などを歌いながら足ぶみしていて、背中に背負われている子供の頭だけが見えるが、それが白いので、少々怪しく思えて、近づいてみると、何とそれは小さな犬の子であったのは、おかしくもあり面白くもあった。

    犬の子を負ふた子供や桃の花

と詠んでここを過ぎると、繩手道(並木道)となった。そこからさらに行くこと一里(約4km)ほどいったところで、次の宿へはと問うと、ここからまだ二里(約8km)もあるという。

時計を見れば(この時計は多駄八のものであって、持ったふりをしているわけではない。念のためことわりおく)十二時に近い。
腹が減っては歩かれぬという説に、多駄公も異論をとなえるはずもなく、と云ってみても、そこらに気の利いた飲食店もなく、路傍に一間の草の屋あって、食物をならべていたが、むさ苦しくて東京の紳士が立ち寄る所とは思えない。

ただ、この先にも望みがないだろうから、腹がへっては戦さも出來ずと云いながらこの中に入った。
我等を迎えたのは、身のたけ五尺五六寸(約165cm)、体重は十七貫(63.75kg)はあると思える大女であった。

「菜は燒豆腐とひじきと鮫(さめ)の煮たのとがありますが、どれにしましょうか」と問うが、どれとして選ぶ物がない。
しかし燒豆腐やひじきは恐れる(心配だから)から、それなら鮫にしようと、二人の投票が鮫に落ちついたので、そのように女亭主から板額に通じて、盛って出てきたものを見ると、真っ黒な肴(さかな)かどうかも分からない。また飯を盛ろうとするが、杓子がないので

 野暮「オイ しやもじくれんか」
 大女「エヽ」
と振り返りながら、何のことかわからない樣子であったので
 野暮「飯をよそう………」
と半分手まねで示すと、
 大女「アヽ しやくしか」と一声叫んだ。

余は東京にきて「杓子(しゃくし)」といつてしくじったことがあるので、気をきかして「しやもじ」といったのだが、又しくじってしまった。

飯を盛って食ってみたが、その米の色は玄米であっても、硬さは石膏(せっこう:ジプサム)よりも硬いと思えるほどであった。
ならば鮫を(さめ)で腹をこしらえようといって怒る多駄八を諫(いさ)めて、一きれ食べてみたが、藁(わら)を食っているような心地がして、吐き出した、でもまあ主(あるじ)に対してそうすることもできず、口の中で持て余して興覚めして、一思いにグッと喉の奥に流し込むと、目に涙が浮かんだ。
物の本に「さめざめと泣く」などと書いてあるのは、この時から始まったのだろう。

これではだめだと多駄公の発議に贊成して、生卵はあるかねと問へば、ありという。
田舎でも卵は卵なりで、味も変わるものではないから仙桃(せんとう:中国で云う仙人の桃)を得た心地がして、多駄公は飯をヤッと一杯喰い、余は我慢して二杯食った。

お代はと聞くと、二人前にて卵二個をそえても十錢もしない。こんなに安いのでは、不味くても無理はないとそこを立ち出で、二三十間(36~54m)行くと、大きな息をついて、鮫の口をのがれたのを祝って傍(かたわら)を見れば芋屋(いもや)があった。

二人は喜び斜ならず、「ふかし芋」二錢を買って喰ひながらあるいた。
この芋の旨いこと鮫の比ではなく、芋に助けられてようやく我孫子駅にやってきた。


(注釈)
 千住宿~松戸宿(約11.4km)
 松戸宿~小金宿~我孫子宿(約28km)

(千住から松戸)
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千住_北斎
(富岳三十六景:千住花街と大名行列 (北斎) Wikipediaより)

● 千住はすぐ東を荒川が流れ、西は墨田川があり、両方の川が蛇行している場所です。
このため、千住は河川が運んできた土砂の堆積による湿地帯であったようです。北斎の富岳三十六景に描かれているような雰囲気だったのでしょう。
また荒川は江戸への物資輸送の大動脈として舟運が発達していました。
昭和5年(1930)に完成した荒川放水路により川の両側に新荒川堤防ができ、現在は洪水の危険もなくなり、当時の様子が想像しにくくなりました。
また江戸時代には、荒川も江戸防衛の為に橋は架けられていなかったようですので、子規たちも渡し船で渡ったのだと思われます。

● 千住を過ぎて水戸街道へ入ってそれ程いかないところで、車夫に声を掛けられ、帰りなので安くするとの言葉で二人は人力車に乗りました。乗った距離は10kmほどだと思われます。水戸までの距離の1/10位をこの車に乗ったことになります。

● 水戸街道の入口にいた巡査に道を尋ねた時のとのやり取りですが、子規は高野山に親を探しに行く「石童丸と刈萱道心の説話」(歌舞伎)の登場人物や歌舞伎俳優の名前を出しています。

(物語のあらすじ)
平安時代末期、九州博多の守護職であった加藤繁昌は大宰府を守る苅萱の関守も兼ねており、苅萱道心(かるかやどうしん)と呼ばれていた。
しかし40歳を過ぎても子宝に恵まれず、香椎宮(かしいぐう)にお参りして子授け祈願をしました。
そしてそのとき石堂口に行ってそこの玉のような石を妻にあたえよとのお告げがあり、その石堂口にあった輝く温石を持ち帰り妻に与えると妻は身ごもり、やがて男の子を生んだ。
その子の名前を「石堂丸(石童丸)」と名づけた。
しかし、父繁昌は世の無常を悟り出家を決意し、石童丸の誕生前に京の黒谷へ出て法然上人の弟子となった。
石堂丸が13歳となった春、あまりの父恋しさのため、まだ見ぬ父を探しに九州より母と二人で都へ旅立った。
父を探して訪ね歩いていると、父は高野山にいるという話しを聞き、二人は高野山に父を探しに行った。
しかし高野山は女人禁制で母は山に登ることがかなわず麓の宿に留め置かれてしまった。
まだ13歳の石堂丸は一度も父にあったことがないため父の顔もわからなかったが、一人で高野山へ登った。

しかしそこで修業している僧侶の数は数知れず、顔も知らない父を探すことは並大抵なことではなかった。
それでも石堂丸は必死になって彼方こちらを訪ね歩いて父を訪ね歩きまわったが、知っている者はいなかった。
とうとう疲労困ぱいしてふらふらと歩いていた時に一人の僧侶が声をかけてきた。
実はその僧侶がその探していた父であったが、父は世俗を捨て修行の身であり、石堂丸の名を聞いて自分の息子であることに気が付いたが、父親であることを名乗れず、そなたの父は既に亡くなっていると告げ、母の許へ帰るように諭した。
悲嘆にくれて山を下りた石堂丸だったが、麓の宿では旅の疲れから母は亡くなっており、母を弔い、高野山で親切にしてくれた僧侶(父)のもとを訪ね、弟子入りを志願して一緒に修行生活を送ることになります。

その二人が修行して暮らしていた高野山のお堂が「(高野山密厳院)苅萱堂」です。
その後も父であることは告げずに二人は修行を続け、石堂丸もうすうす父かもしれないと気が付いていても、最後まで父は親であることを名乗ることもなく亡くなります。
その後、石堂丸は父と同じく「苅萱道心」とよばれ、ある日、善光寺如来に導かれて信濃の地で草庵(現在の苅萱山西光寺)を営み、14年に亘って毎日善光寺に参龍し、83歳で亡くなりました。
西光寺には、この説話が伝わっています。

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歌舞伎:「苅萱道心 助高屋高助」「石童丸 嵐和三郎」

助高屋は、この水戸紀行が書かれた頃の歌舞伎俳優という事で、四代目助高屋高助であろう。
ただこの四代目は明治19年に亡くなっており、その後を澤村宗十郎が養子となり継いでいますので、この澤村宗十郎なのかもしれません。

● 中川に架かる中川橋は、今の中川に架かる橋とすれば亀有-金町間を通っており、人力車に乗ったまま、この橋を渡り、少し進んだ江戸川の手前で車を降り、歩いて江戸川を渡って松戸宿に行ったようだ。
江戸川を渡ったのは、現在の県道54号線に架かる「葛飾橋」の辺りだと思われるが、江戸川は江戸時代は治安も含め橋はかかっていなかったようなので、子規の旅した当時もまだ橋は架かっていなかったのではないかと思う。
そうすると渡し船で渡ったことになる。この江戸川も船運拠点でもあり船が結構にぎわっていたようだ。

少し下流側には、歌で有名な「矢切の渡し」があります。ここは柴又帝釈天と千葉県側(松戸市)を結ぶ渡し船です。


<松戸宿~小金宿~我孫子宿>

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● 松戸~小金間の距離が約6km(1.5里)、小金~我孫子間が約12km(3里)程度です。
この間は現在の6号国道に近い道で、今では人家やお店も多くにぎやかですが、子規が歩いた明治22年当時は「町は寂々寥々(せきせきりょうりょう)として空き家ばかり」と書かれています。
松戸から小金まで1里(4km)ほどであり、その道路近くで遊んでいる子供たちのことが書かれています。
犬の子を背負った女の子を見ての句

 犬の子を負ふた子供や桃の花

季節は上野で桜が咲き始めていた時で、この辺りでは桃も咲いていたのでしょう。
ただ桃と犬の子を背負った少女を対比するとかわいらしさが引き立ち、目に浮かびます。
この句が詠まれた場所は文章からは小金の手前のあたりとなります。

● また犬と正岡子規の関係ですが、子規がほぼ寝たきりの生活であった明治33年1月に書かれた犬についての短編の文章が残されており、その最後に「こんな犬(罪を背負った犬)があって、それが生れ変って僕になったのではあるまいか、その証拠には、足が全く立たんので、わずかに犬のように這い廻って居るのである。」と自分のことを書いています。

● この小金宿近くには江戸時代の幕府の馬の放牧場であった「小金牧」が大きく広がっていました。
子規の紀行文の中にはこれに関する記述は見当たりません。

● 子規たちが昼食をとったのは、次の宿まで2里ほどの所とあると書かれているので、恐らく現在の南柏から柏駅の近くであったと思われます。今はにぎやかになって全く想像もつかない程です。鮫(さめ)は海から離れたこの地でも腐敗しにくいため、エイなどと共に食べられていたようです。
ふかし芋を食べた芋屋もこの柏あたりでしょう。
また杓子を「しゃくし」「しゃもじ」の呼び方でもめたようですが、調べて見ると「しゃくし」が元々あった言葉で、平安時代に「文字(もじ)」をつける言葉がはやり、「しゃもじ」という呼び名が生まれたようです。
その後「しゃもじ」が飯を盛る平らな杓子で、「しゃくし」が汁などを盛る「お玉杓子」などを指すようになったようです。汁を盛る「しゃくし」は一般に「お玉」などとも呼ばれていますね。

● また我孫子と云えば近くに手賀沼があり、大正、昭和の文豪(志賀直哉や武者小路実篤等)たちの別荘や白樺派ゆかりの地ですが、これらは明治末期から大正・昭和の時代ですから、子規の旅したころにはまだそのような傾向はなかったのでしょう。
また、子規の旅した翌年の1890年(明治23年)には利根川の洪水により堤防が決壊し、手賀沼沿岸が水害に見舞われています。



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/02/28 10:56

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(3)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は3回目です。



<3> 我孫子~取手~藤代(約14km) 

(現代語訳)
(我孫子宿では)両側の宿屋の下女が人を呼びとめ、騒々しく嚙みつきそうであったが、これを無視して靜かに、又急いで走り去ると、宿場の街並みから四五町(約500~600m)行けば、もうここまでの単調な景色に引きかえて、一面の麦畑のある場所にでた。その麦畑に菜の花が咲き混じっていて、無数の(麦の)白帆がまっすぐに隊列をなして音もなくその上を往来している。
近くに川があるとは察せられるが、川面は全く見えず、実に絶景である。

ここで一句をひねろうと考えてみたが、中々に目は景色にうばわれて、一句も読むことが出来ない。
白帆と麦緑と菜黄と三つ(三色)を取り合せて七言の一句となそうと苦吟してみるがうまくは出来ない。

それならば発句にしてみようと無理に十七字の中に、この菜花と麦と白帆とを云い込めて見たけれど、それも気に入らず、それではと三十一文字にしてみようとするが、これも不出来なものばかりだ。

しばらくいろいろと辛苦していると、余の胸中に浮んだ一大問題は、日本字・漢字・英字の比較である。
今この景色を表すのに漢字を使えば、これだけの字にて足り、日本字ならば何字、英字ならば何字を要するかなどということを初めとし、漢字には日本や欧州にはない特性の妙があり、麦緑菜黄というように他国の語にて言うことが出来ない能がある処であるということ、そのほかに、種々の漢字の利益を発明したり、この議論を詳細に書こうとすると少なくとも八九枚を費してしまうだろう。あまり横道へはいりこんでしまうと、中々水戸までたどり着けそうにないので略して(ここで句を詠むのを)止めることにした。

このように考へながら歩いている内に路地伝いに麦畑の間に入ってしまった。気も晴れて、胸にあった雲も晴れてしまった。

ああ心地よいなと云いながらたたずめば、たちまちチーチーといふ声がいかにものどかにあちこちから聞こえてくる。その鳥を見ようと仰き見るが姿が見えない。
これは不思議であると多駄八に問うと、「雲雀(ひばり)」だという。
あゝそれよ

川辺にやってきた。始めて知ったのだ。
これこそ阪東太郎というあだ名を取りたる利根川とは。
標柱を見れば茨城県と千葉県の境であった。

川を渡れば取手であり、ここまでで一番繁華なる町である。
処々に西洋風の家をも見受けられた。
ただ、このあたりから少しづゝ足の疲れを感じるようになった。
多駄八の足元を見ると、よろよろとして確かではなくとかく遅れがちであった。

周りの野原のなかに1本の梅の木があり、花は眞盛りで、まだ散り始めておらず、こゝらあたりは春も遲いのだろうと、煙草を出して吸ひながらたたずんでいると、少し過ぎて鶯(うぐいす)の鳴き声を聞きければ山陽の獨有渠伊聲不訛といふ句の思ひ出されて

    鶯の聲になまりはなかりけり

このあたりの場所は言葉がすこしなまって鼻にかゝるが、鶯にもし鼻があればなまるのかもしれない。

かくて草の屋が二三軒立ちならぶ処に至る 道のほとりに三尺程の溝あり 槇(まき)、木槿(むくげ)などの垣根があり その垣根の中に一本の椿(つばき)がたいそうにぎやかに咲いていたが、その半ば散って、溝の中は眞赤であった。 あれ見よや、美しいことであると言おうとして、後を振り返ると多駄八は一町程離れて、後からよぼよぼと歩いてくる

道行く商人を相手に、次の駅(宿)のことなど聞き合せ、藤代の入り口にて(商人とは)別れ、まだ日は高いので(次の宿の)牛久までは行こうと思っていたが、我も八里(12km)の道にくたびれたので藤代の中程にある銚子屋(宿屋)へ一宿した。

この駅(藤代)には旅店が二軒あるのみといへば、その淋しさも思ひ見ることが出来よう。(宿で)湯にはいり、足をのばしたのは心持良かったのだが、夜に入って伸ばした足が寒くて、自らちゞまってしまった。またむさくるしい(食事の)膳の中身は昼飯(ひどかった)に比べれば美味いと云えたが、食事が終りすぐ床をしかせて、これで寒さを忘れたのだけれど、枕の堅いのには閉口であった。床の中で多駄八とおもしろき事などを話しあった。

(注釈)
我孫子宿~取手宿~藤代宿(泊) 約14km
<我孫子~取手~藤代>

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● 我孫子宿では両側に並んだ宿の下女たちの呼び込みがうるさいようにかかれています。
でも町の様子や手賀沼のことは書かれていません。

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(Wikipediaの我孫子宿地図)

説明では本陣・脇本陣が置かれた大きな宿場町で、東西1km弱の範囲に広がっていたとあります。
この上の地図の左側東京方面に1km程のところから布施弁天への分かれ道があり、水戸街道も我孫子・取手・牛久などを通らずに牛久沼などが氾濫した時などはこちらの布施弁天→板橋不動尊→土浦のルートもありました。
また上記地図の右(東)側の分かれ道「成田街道」もその昔はこちら側を通って布施から北上するルートもありました。

地図上の門松(角松)本店は江戸時代から旅籠として存在し、現在も割烹旅館角松本店を営業されています。
ただ、この旅館は明治17年に明治天皇も利用したといい、昔は「松島屋」という旅館であったようです。
明治43年頃は柔道の嘉納治五郎もよく訪れていたそうで、その後門松本店に営業が移ったようです。
明治の初めころも結構にぎやかだったようですね。

● 我孫子を過ぎて麦畑を通り、白帆と麦緑と菜黄を合わせた句を詠もうとするが詠めず、あきらめ、その後、鶯の鳴き声に訛りがないことを一句残しています。
このあたりの訛りは鼻で濁り音が出ると思うのでしょうか。
鶯はどこでも同じようにきれいな声で鳴くのでしょうね。

「山陽の獨有渠伊聲不訛」とありますが、頼山陽の漢詩の一部なのでしょうか? よくわかりません。
「渠伊」は中国語で」方言のことのようです。

<取手宿>
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現在の取手駅の東側あたりに宿場があった。
範囲は東西に1キロ弱の範くらいの規模で広がっており、子規も利根川を渡った(渡し船?)あと川に平行に宿場町を進みます。
対岸の東京側にも、青山宿という小規模な宿場町があった。

取手宿が正規の宿場町に指定されたのは、江戸時代に入り暫くしてからであり、他宿場町より、多少遅れていた。
しかし取手宿は利根川水運の拠点地・物資集積地でもあったため、二百軒程の家並みが並ぶかなり大きな集落を形成していた。本陣として使われていた染野家住宅(1795年築)が保存されており週末には公開されている。

また取手の渡しとして渡し船があったが、昔の利根川は、取手市の南(現在の古利根沼(ふるとねぬま))を蛇行して流れており、水害が絶えなかったことから利根川改修工事(明治40年から大正9年まで)が行われ、現在の形に姿を変えました。
この時それまで地続きであった小堀(おおほり)地区が利根川により分断され孤立したため、渡船場(とせんば)の設置を決め、大正3年に渡し船が就航しました。
これが今も船の姿や動力船などに姿は変わりましたが「小堀(おおほり)の渡し」として観光船を兼ね就航しています。

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小堀(おおほり)の渡し:Wikipediより

取手宿について、子規はこのあたりで一番の大きな町だとあり、西洋風の家なども見えると書かれています。
やはり当時はまだ鉄道が通っていなかったが、船運は盛んで、東京などに運ぶ荷物もこの利根川が使われていましたから、町はにぎわっていたのでしょう。


<藤代宿>
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● まだ日が高いから牛久まで行こうと思ったが八里も歩いてきて二人ともくたびれて、藤代に泊まった。
宿が2軒しかない少しさびしい町だったという。
その宿の名前は「銚子屋」といった。もう一つは「永田屋」といったらしい。
この銚子屋さんは江戸時代には宿場の脇本陣だったそうですが、明治になり旅館をされていました。

現在はその跡地に別な経営者として建て直されて「河原崎書店」(取手市藤代502-5)となっています。
現在この河原崎書店さん宅に残された古くからある庭に子規の没後百年記念句碑(平成元年12月建立)が置かれています。

『旅籠屋の門を出づれば春の雨』

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(河原崎書店さんのホームページより)

この句はこのとき詠まれたものではなく、明治29年の作品です。
でも情景はぴったりですね。
また藤代の本陣は現在の役場の場所にあったそうです。



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/02/29 21:04

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(4)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は4回目です。


<4> 藤代~牛久~荒川沖~中村~土浦 約23km

(現代語訳)
四日(4月4日)朝起き出でゝ見れば小雨がしよぼしよぼと振っていて少し落胆したれども、春雨のことであり、何程の事でもないだろうと二人は各々が携えて来た蝙蝠傘を広げた(ただ、余が持ってきた傘は明庵よりの借用物である)

野道をたどること一里、たいそう大なる沼あり牛久という 地図を見るとこの沼の形は二股(ふたまた)大根の形をしていて、余等はその大根の茎と接する部分を横ぎるものであった。
沼には枯れ葦(あし)、枯れ菰(こも)のたぐひが多く、水はそれほど深いとも見えない。
一艘の小舟が雨の中を釣糸を垂れているのは哀れにも寒げであり、水鳥はあちらこちらに一むれ二むれづつ固まって動きもしない。
両股(ふたまた)の股(また)にあたる所に近いため、雨にかすみながらも低い岡があって、そのふもとに菜の花が咲き出でたるなどが見えた。 そこから一里程にて牛久駅に達す。

牛久を通りぬけて後は、路のほとりに一二寸の木瓜(ぼけ)の木が葉もついていないのに、花だけが咲いているのはいぢらしい
路は一筋の松繩手(松並木)にかりゝぬ
雨は次第に勢を増してきて、寒さに堪へられず少し震えながら、多駄公に何か物語りを話してくれないかと思うのだが、話すことは大方昨日の旅路の話に尽きてしまった。
仕方がなく、震える声で声を張り上げて放歌吟声を始めた。

月落烏啼きてを序幕(はじめ)にして寒玉音の知っている詩はすべて吟じ尽くしてしまい、それから謠ひ(うたい:謡曲)を自己流の節にて歌ひしが、諳誦(あんしょう)せし処も少しであるのでこ、れも忽ち種切れとなった。

そこでズットなり下って大阪天満宮の話となり、ここだけは多駄八も加勢してくれてどうにか千秋楽となつた。

サア困つた、(他に)何か種はないか、あるある、花山文に指南を受けた小笠原島の都々一がある。それをやつたが、これも終わってしまい、それからも都々一ときまつたが 都々一は文句を三ツ四ツしか知らないので、半分はウヽウヽと小声で何か自分にも分らぬことをうなっていた。

片手で傘を持ち、もう一つの手は懐に入れている。
風が後から追っかける樣に吹く。
雨がさも憎らしそうに横から人を打つ。
手がかじかんで、小便するのもやつとの思いであった。
足はだるくなった。
歌は拂底(ふってい:すっかりなくなる)になった。

………からだはふるへる。
………粟粒が言ひ合した樣に百程が一所に頰の辺に出た。
………松を吹く風の音ゾー。
………傘に落ちる松の露ポテポテポテ。
………その寒さ。
………その哀れさ。
………痩我慢(やせがまん)の彌次喜多(やじきた)も最早降參だ。

折ふし松のあはひ(松と松の木の間)に一軒の小屋を見付けたり 
店さきにはむさくるしき臺(台)が置かれていて、ふかし芋をうづ高く盛っている。
多駄八にめくばせして、つかつかと店に入り

 野暮「オイ 芋を一錢だけくれんか」 
 「ハイ、わるいお天氣で困ります」

といふものは年の頃十七八を五十許りこえたと思はれる老婆なり、
老婆の手づから与えられた芋を、多駄八にわけている内に、茶など汲みて出だせり つくつく家の内を見るに間口四間奥行二間もあるべし 

右の半分は板間にて店となし、左の半分は土間にて竈(かまど)をすえ、薪を積みなどし、火も燃えていた
かの老嫗(おうな)の外には猫一匹いるとも見えないので、いでここにて一休みしようと内に入って、多駄八と共に火にあたり、木の切りはしに腰をかけ、袂(たもと)より芋を取り出して食ひけるは
滹沱河(こだか)の雑炊にも、十年の宰相にも劣らないと思われた。

老嫗を相手に話している内に一人前五厘の芋は喰ひつくしてしまった
烟草(たばこ)を巻きながら前を見れば釜の中にて何かが煮えており、気がかりなれば

 野「ばあさん これはなんだ」
 婆「それは赤飯(せきはん)でございます」と答ふ
 野「そうか、それじやア何か祝ひでもあって炊くのか、」と何心なく問ひしに老婆はせせら笑ひしながら
 嫗「イエ それは売るのでございます」とさも気の毒そうににいへり

これは吾等の身なりが宜しくないので、それを一杯くわせろなどとねだるのではないかと邪推している樣子であった
少し癪(しゃく)にさわったが礼を述べてその家を去った。
火にて温まっている間は寒さを忘れていたが表へ出れば再び藤房(万里小路藤房?)を気取って松の下蔭(したかげ)に袖を濡らざるを得ず、今はいよいよ御運の末であると力なげに落ちて行くである。
昨日までも今日までも、玉の台の奥深く、蝶よ花よとかしづかれ風にもあてぬ御からだ、薙刀(なぎなた)草履(ぞうり)に身をやつしているのはいても、行くあてもなく、

すべる道草ふみしめて、雨も嵐もあら川や うきとなげきの中村を、
さまよひ給ふ御有樣あはれといふもおろか也 
かゝる苦にあい給ふとも いつかは花もさくら川土浦まちへと着き給う
(宿場は牛久-荒川沖-中村-(さくら川)土浦とあり、これを詠み込んだ)


(注釈)

<牛久沼>
水戸街道は陸路は牛久沼の東側を進んで、若柴宿などを通っているが、牛久沼を船で渡ることの方がこの頃は一般的だったようだ。

401.png 402.png  
(牛久)               龍ヶ崎市観光物産協会ホームページ

旧水戸街道は藤代宿より牛久沼を東に迂回して若柴宿を通る道となっていますが、子規も牛久沼を舟で渡ったと書かれています。
上の右側の図の赤い点線のように船を使った方が近道で楽であったようです。
ただ紀行文には船で渡る場所は、牛久沼の二又に分かれるところに近くてその陸がよく見えると書かれていますので、上記の地図の船のルートよりもう少し西側を通ったのかも知れません。
また牛久沼そのものも現在よりはもう少し東側に広がっていたのでしょう。
悪天候の時は陸路を通ったようですが、これも水が氾濫した時などにいくつかのルートがあったようです。
取手から大きく西に回って現在のつくばみらい市にある板橋不動尊を通って土浦へ行く道もありました。

● また牛久沼を船で渡っていたことでこんなお話もあります。

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<うな丼発祥の地:牛久沼」>(常陽藝文 2011年6月号)

江戸日本橋の芝居の金方であった大久保今助が、生まれ故郷の常陸太田へ向かう途中、水戸街道の牛久沼の渡し場にある茶店で好物の鰻の蒲焼と丼めしを頼んだ。
ところが、注文の品が出てきたとき「舟がでるよー」の声。
あわてた今助は、丼めしの上に蒲焼ののった皿をそのまま逆さにかぶせて舟に持ち込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べることにした。

すると、蒲焼がめしの熱に蒸されてよりやわらかくなり、めしにはタレがほどよくしみこんで、それまでに味わったことがないうまさの食べ物になっていた。
 数日後、今助は江戸に戻る途中、再び茶店に寄り、今度は初めから蒲焼ののった丼めしを作ってもらった。
その後、茶店でこれを売りだしたところ大当たりして、牛久沼の名物となった。
また江戸では、今助が芝居見物につきものの重詰め弁当の代わりに、熱いめしの上に鰻の蒲焼をのせた重箱を取り寄せるようになり、これがうな重の始まりになった。(ここまで引用)

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(藤代~土浦)

● 牛久を通り抜けてからしばらく行くと昔の街道の松並木が続いていたようで、この場所は蝙蝠傘を片手に持ち、いろいろな歌や詩、都々逸など声を出しながら進んだが種が尽きてしまったと書かれています。
これは牛久宿から荒川沖宿までの7kmほどの区間になります。
但し、この間は今の6号国道とほぼ同じところを通っており、国道の拡張や街並みの変化ですっかり昔のイメージは湧きません。

ただ、昔の街道は一般には松が植えられた場氏が多く、このイメージを得るには、土浦-稲吉間にある「板谷の松並木」あたりが参考になると思います。そちらの方は別途後で載せます。

● この松並木の間にあった小さな店で芋を一銭で一つ買って、二人で分けて食べていますが、店の婆さんとのやり取りも面白く、また赤飯を炊いて売っていた様子なども当時のお店の様子が目に浮かびます。

●  この火に暖まりながら芋を喰っているときの表現に「滹沱河(こだか)の雑炊にも、十年の宰相にも劣らない」とありますが、私の知識不足でよくわかりません。
しかし、滹沱河(こだか)は中国の川の名前で、思い浮かぶのは禅宗の臨済宗の名前由来。
臨済禅師が、滹沱河(こだか)の川のほとり(古渡:古い渡し場)に院(寺)を結び、臨済院と名付けたものです。「済=渡し場」であり、渡し場に臨んでいるから「臨済」となったそうです。
昔は禅宗の寺などでは残った汁に飯などを入れて雑炊も良く作っていたようです。
十年の宰相(そうしょう)は、国のトップで10年? 秀吉でしょうか?  秀吉も三十三間堂前の鰻の入った「うぞうすい」がお気に入りだったようです。 もし清盛なら出生にまつわる「山芋」の話があります。
21歳の子規も若くしていろいろ書物を読んでいたのでしょうね。
ただ同期の親友夏目漱石の文には子規も脱帽だったというような話もありますが。

● 店屋を出た後にまた寒くなり、「藤房」の話が出てきます。
私もよくわかりませんが、南北朝時代に建武政権の立役者として知られる藤原藤房(万里小路 藤房)のことではないかと思われます。中納言、正二位まで出世しましたが、37歳(?)で1332年5月に常陸国に流されています。
その後本職に復帰しますが、39歳で出家しています。(太平記)

● ここら先土浦までは歌のリズムでかろやかに「荒川沖宿」「中村宿」と特に書くこともなく通り過ぎています。
荒川沖宿は6号国道から荒川沖駅の方(東)に分かれた道沿いに面影が残されています。
ただ本陣もなく牛久・土浦の補完的な宿場として機能していたようです。

<荒川沖宿>
 「荒川沖」は国道6号線から一つ線路寄りに平行に走る道が旧道のようです。
わらぶき屋根の家が残っています。
写真は2013年11月に訪れた時のものです。

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(鶴町(たばこ屋さん)の建物?)

406.jpg
佐野屋(旅籠)だった家のようです。

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詳細はわかりませんが数件の家の造りが昔をしのばせてくれるものがあります。


また中村宿も荒川沖宿から1里ほどしか離れておらず、それほど大きな宿場ではなく本陣と宿屋が少しあった程度のようです。
場所は、現在の土浦市外・花室川の少し手前、現6号国道の西側、大川橋手前ですが現在それらしき痕跡はあまり残されていません。



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/01 13:46

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(5)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は5回目です。


<5> 土浦~中貫~稲吉~石岡(約15km) 

(現代語訳)
土浦の町は街道の一筋道ではなく、あっちへ曲がり、こっちへ曲がりなどして、家の数もかなりありそうに見える。
丁度正午となり昼食を取りたい家を探しながら歩いたが、丁度良いと思われる店がなく、そのまま歩いて四五丁(4~500m)も行き過ぎてしまった。

この先もおぼつかなそうであったので、ある宿屋らしき処へ入り、昼の食事を食べさせてくれるかどうか聞くが、すぐには準備できないという。しょうがないので、そこを出て先に進むと町はずれに出てしまった。
仕方がなく近くの小さな汚げな旅籠に入って昼飯を食わせてくれるか聞くと、とても簡単に引き受けてくれた。
足が汚れているので腰かけて食うと言うと、床に上がれという。ではと足の汚れをすすいで畳の上にすわった。
しかし、なお寒くて心よくない。

飯を待つ間に例の(部屋の内部まわりの)観察を始めると、内部は客間も一間(ま)か二間(ま)くらいしかなく、しかもむさくるしく、家族は三人いて、夫婦に娘一人と見える。
家婦の愛嬌は良くて客を丁寧にもてなす処から、娘の皃(かお)も垢抜けして一通りでない処を思へば、この家は「曖昧屋」ということが分った。

飯はうまくない上に、かの雄弁な妻君が人をあしらひながらのお給事役であるので、何だか不気味で飯も腹にたまらず早速そこを飛び出さうとしたところ、疲れた足を一度休めたためか疲れが出て一寸には引っ込まず、不体裁ながら針の山を踏むような足つきでそろりそろりとやっと門をにじり出た。

ああ天は人を苦しめないものだ。丁度その向かい側に車屋があった。
そこへ行って車(人力車)を頼むと、車夫は傲然(ごうぜん)として中々動かず、また途方もない程の高直(かうぢき)なことを言い散らすゆえ、それではここまでと、生きるとも死ぬとも、そこは運しだいであり、足の先がすりきれるまで、こぶらが木に化石するまで歩かずにはおかんと動かない足を引っ立て、また歩き出した。

 余等が失望したことは、この話の他にもう一つあった。
それは、地図を見て調べていたので、この土浦は霞ケ浦に臨んでいることを知っており、土浦へ行けばきっと霞ヶ浦は一目の中にあって、飯を食うのもその見晴らしの良い家を選んで食べようなどと空想して来てみれば霞が浦はどこにも見えず、ハテ困ったと思っているうちに土浦を出てしまい、そこから一町ばかり行くと左側に絶壁になった処があり、石の階段があった。
もしかしたら、ここを登れば霞ヶ浦が見えるかもしれないと石の階段を数十段上れば、そこは数百坪もある広い平地であり、所々茶屋とでもいうような家があり、そこに「總宜園」という額が掛かっていた。

思うに土浦の公園であろう。
この断崖に立って南の方を見ると、果して広い湖が見えた。
向う岸などは雨のため見えなかったが、すぐに霞ヶ浦だと分かった。

    霞みながら春雨ふるや湖の上

こゝを下りてまた芋を求め北に向って進むと、筑波へ行く道は左へ曲れと石の(標識が)立ちたるを見過して、筑波へは行かずにくたびれてはいたが中貫、稲吉を経て感心にも石岡までたどり着き、萬屋に宿を定む。


(注釈)

● 土浦は江戸時代は土浦藩(土屋氏)9万5千石の城下町であり、亀城公園を中心に街道もくねくね曲がっている。街並みもどこからどこまでが土浦宿の街並みかはよくわからない。
ただ土浦市では旧水戸街道の案内には力を入れていて、説明版なども整備されています。

「土浦宿には、大町・田宿町・中城町からなる中城分の町と、本町・中町・田町・横町からなる東﨑分の町があり、それぞれに名主が置かれていました。大名などが宿泊する本陣は、本町の大塚家(現土浦商工会議所)と、大田家(1742年まで)・山口家(まちかど蔵大徳の道奥1744年以降)が務め、この二つの本陣を中心に旅館、問屋、商人宿、船宿、茶屋、商家などが軒を連ねていました。」(フィールド博物館・土浦)

またまちかど蔵・大徳の前には
「中城通りぞいに天明五(1785)年創業された呉服の老舗。蔵は天保十三(1842)年建築の元蔵をはじめ、江戸時代末期に建築された見世蔵や袖蔵、向蔵などの四棟があります。」との看板があります。

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水戸紀行に書かれている最初に入ったがすぐに用意が出来ないと不愛想にいわれた宿はまだ街中のようだが、街並みがいったん途切れて少し行くと「真鍋宿」がある。ここは正規の宿場ではないが土浦の中心から1kmほどしか離れておらず、恐らく子規が食事をし、曖昧屋と知ったという宿はこの真鍋の宿場ではないかと思われます。

「曖昧屋(あいまいや)」は表向きは料理屋・茶屋などをしていますが、こっそりと売春などをしていた店のことです。現在上の地図の上側真壁町の辺りですが、6号国道を北側から東京方面へ来ると、左手に土浦一校の建屋があり、その先を左に降る脇道があります。この脇道周りに昔の街並みを感じられる建物が残されています。

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この坂を下りた左手に「善応寺」というお寺がありますが、ここに幕末の土浦藩の英才大久保要と石岡生まれの「佐久良東雄(さくらあずまお)」の墓が並んで置かれています。このあたりにも人力車の車屋があったのでしょうか。まあ子規たちも学生であり、あまり格好は良くなかったので金もあまり持っていないとみられたのでしょうね。
土浦もここ頃は鉄道も通っていませんが霞ケ浦を経由した船の便は結構頻繁に出ており、東京へも簡単に出れたようです。徒歩でやってくる弥次喜多道中などをする人はめったにいなかったのでしょう。

● さて、子規たちが高台に登って広い公園から霞ケ浦を眺めたとありますが、昔、土浦一高近くに「真鍋公園(総宜園)」という高台の公園がありました。ここで「見えた見えた。」ととても喜んで歌を残しました。

 霞みながら 春雨ふるや 湖の上

少し雨が降るあいにくの天気でした。
子規がながめた霞ケ浦と土浦の街はこんな感じだったのでしょう。
絵葉書が残されていました。

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[よろずや商会絵葉書ギャラリー]より(明治40年頃の真鍋公園)

実は、この真鍋公園は6号国道ができる時に削られてなくなってしまいました。
この場所が良くわからなかったのですが、公園の半分の場所が残っていました。
「愛宕神社」がある場所です。6号国道(現125号)側から神社へ登る階段がついています。

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しかし、この階段は途中で崩れて登れません。
柳生四郎氏が水戸紀行の道筋を昭和24年頃自ら訪ねて歩き、解説本を出版しています。この昭和24年頃にはまだ公園はあったようです。
しかし、「この公園地も、六号国道ができるときけずり取られて、現在は石段も崩れたままで、容易には上れないままに、町の一角に忘れ去られたようになっている」と書かれています。
 
さて、この公園は愛宕神社の隣にあったそうで、今の神社は国道側からはいけませんが、隣にある「真延寺」(無宗派)側から裏を回って行くことができます。

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(真延寺の入口階段: 国道側から)

神社には祠と子規の碑の木の看板が置かれていました。

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(愛宕神社)

しかし、ここからは木々が邪魔して霞ケ浦を見渡すことができません。

隣りの真延寺の境内から霞ケ浦を見渡せることから、平成21年に、ここに子規の碑を建立しました。
真延寺は七福神を祀る無宗派の寺です。

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● さて、この土浦から石岡(府中)までの道のりは14kmほどですが、街道の記述はあまり書かれていません。しかし、旧水戸街道の松並木や宿場跡らしき雰囲気は今も所々に見て取れます。もし子規の歩いた道を辿ってみたい方がいましたら参考にして下さい。

1) 板谷の松並木
江戸日本橋から水戸までの旧水戸街道に唯一残っている松並木が土浦市の板谷にあります。
土浦・真鍋宿からその先の中貫宿までの中間くらいになります。
旧日立電線の工場(今はなし)入口付近から松並木は始まります。

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この松並木の途中に「板谷の一里塚」あります。
通りの両側に塚が残されています。

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この一里(約4km)毎に置かれた一里塚ですが、この先は「千代田.石岡インター」出口にあり、その次が「石岡の一里塚」です。

2) 千代田の一里塚
 旧水戸街道の一里塚は石岡市並木の一里塚の一つ手前が千代田の一里塚であり、この一里塚は6号国道と常磐高速道路の「千代田石岡インター」の交差する場所に残されています。
ただ車だと近くに駐車スペースがありませんので、どこか近くで止めて見に行くなどする必要があります。

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高速道路下り出口から6号国道に出て、この高速道路の下をくぐったところにあります。
道路をくぐってすぐ左に登ります。
塚には石段を上ります。その上に山道のような道路が細く続きます。

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上まで上って初めてこの石碑が見えます。

3) 中貫宿
 昔の街道をいくつか調べたり探してみたりしていますが、江戸時代のメイン街道は紹介される方も多く、ある程度知られていますので、敢えて取り上げるのは避けてきました。
しかし、近くは少し紹介しておきたいとも思い、出かけてきました。
まずは常陸府中宿の2つ江戸寄りの「中貫(なかぬき)宿」です。
宿場の大名などが宿泊した宿(普通の旅籠ではなく、特別の家があてられた)を「本陣」といいますが、現在旧水戸街道で本陣が残っているところは「取手」「中貫」「稲吉」の3か所しかない。

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現在の6号国道の中貫交差点から、一つ山側に平行に走る裏街道が旧水戸街道です。
古い町並みが少し残っていますが、手前の土浦・真鍋宿からの距離も近く、宿泊はしなかったようです。

この中貫本陣の本橋さんが今もここで暮らしています。
天狗党に焼かれてしまい、その後の再建だといいます。

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依然私が伺った時は、東日本大震災の地震のすぐ後であったため、屋根瓦が一部壊れていました。


中貫宿の入口、出口あたりにそれぞれ下記のような標識が置かれている。

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この場所は土浦市のはずれであり、かすみがうら市の入口に近い。  
この標識には「フィールド博物館・土浦」となっています。

土浦市の商工観光課の事業の中にありました。
「物語性のある観光モデルコースや散策コースの設定など,来訪者が楽しんで歩ける歴史散策ルートづくりを行います。」
現在QRコードなども追加して、情報がすぐに得られるようにする計画のようです。
 
4) 稲吉宿(旧水戸街道)
石岡の一つ手前の「稲吉宿」。6号国道に並行に昔の道が走っている。
この道を石岡側に来ると「かすみがうら市役所」がある。
思いたって出かけに朝写真を撮ったが、生憎の小雨。少し暗くなってしまった。

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旧水戸街道で本陣が残っているのは数少なくなってしまった。

この稲吉宿には水戸街道で唯一現存する皆川屋という旅籠(木村家住宅)が残されており、天狗党の残した柱の刀傷などが見られるといいます。

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水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/02 13:41

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(6)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は6回目です。

<6> 石岡(府中)~竹原~片倉~小幡

(現代語訳)
 石岡は醤油の名所なり 萬屋は石岡中の第一等の旅店なり さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故、藤代にくらぶれば数段上と覚えたり 足を伸ばしたりかがめたりしながら枕の底へいたづら書なとす。
余がこの二日の旅において感ぜしことは気候の遅きことと地理が相違していることの二つである。

 気候が寒いのは、梅の花がまだ散らないことを見ても知ることが出来る。
地理に付いては、余は兼てより下総常陸あたりは平地であって山はないと聞いていたため平野が一望され、肥沃な土地が千里続いていると云った様子を思い浮かべていたが、思いのほか、それ程でなく平野は極めて稀であり、却って低い山や小さな丘陵が多く稲田などは丘陵の間を川のように縫って連なっているところが少なからず見られた。

このほかに、大木もなく、といって開墾もしていない平原といいたい様な所が時々ある(余が広い原を観察するのは、ベースボールから生じた思いである)。これを我が郷里松山あたりと比較すると大差があるというべきだろう。

我の郷里は真に沃野千里(そんなに広くはないが)とでもいうべき丘陵もあるが、常州の辺りのように散在せず、稻田も麦田も時候によって変化するものであり、水田には稲より外の植物を作らないというようなことはなく、又一坪といえども開墾していない土地はない。
これが、余が常州あたりを漫遊して一種奇異なる感情を起した所以である

(四月)五日の朝、褥(しとね)の中で眼を開けると、窓があかるくなっていて日影がうららかにうつっていた。
昨日とはうって変わった日和であるので旅心地は非常にうれしく、障子をあけると、連なった屋根の上に真っ白いものをよく見ると霜であった。

宿を出ようとすると、宿の家婦が言うには、「水戸へおいでになるのでしたら、どこか御定宿はございますか」と、余は「なし」と答えると、それならば「何がしといふ宿へ行きなさいませ。きっとおろそかには取扱ないはずです」と言う。そして案内状まで添えてくれたので、それを受け取りここを出て行くと、筑波山は昨日の(雨の)けしきとは引きかえに、たいそうさやかに見られた。

昨日から絶えず筑波を左にながめながら行くので、山も共に行くような心地がして離れそうにない。

    二日路は筑波にそふて日ぞ長き

(筑波の山が)時々雲にかくれたり、また雲のあいだより男体女体のジャンギリ頭と島田髷(まげ)が見える所などは、なかなかおつである。

    白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體 

このあたりより街道はますます東北の方へと向ひければかの俳諧の元祖を後に見て竹原片倉はどうして過きたか知らず早くも小幡に着きにける 

(注釈)
1)石岡宿(府中宿)

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 石岡の町はかつて常陸国(常州)の国府があった場所であり、国分寺跡や国分尼寺跡がある。
ただ江戸時代は水戸藩の支藩で松平播磨守2万石(他所と合算しているので実質は1万石)の領地であった。
鉄道は明治28年に水戸(友部)-土浦間が開通している。東京田端まで開通したのは翌明治29年12月であった。
子規が旅をした明治22年春はまだ霞ケ浦を利用した船旅が主流であった。

江戸末期から明治、大正、昭和初期まで酒・醤油の醸造業が盛んで、子規も町の印象を「石岡は醤油の名所なり」と書いている。当時この酒醸造所や醤油醸造所が多くあり、町の至るところに大きな煙突が聳えていた。また明治14年ごろから昭和初期まで製紙産業も盛んとなり商人たちも多く往来していた。
明治34年に書かれた石岡繁昌記(平野松太郎著)には当時の街内の店などの広告が載って居り、子規が泊まった萬屋も載っている。
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明治34年 石岡繁昌記(平野松太郎著)
旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」

同じ石岡繁昌記に明治34年当時の鉄道の時刻表が載せられていたので、参考までに載せておきます。
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明治34年当時の石岡駅の時刻表

この子規が泊まった萬屋は現在の石岡駅西口(旧市街)御幸通り(八間通り)の突き当りの「カギヤ楽器」の所(正確には左側の駐車場辺りまで含めたあたり?)にあり、カギヤさんも楽器屋の前には鍵屋玩具店(おもちゃ屋)をしており、柳生四郎氏が昭和24年に書かれた解説本にも近くの橋本旅館(現ホテル橋本楼)さんで聞いて、街中にあるおもちゃ屋さんの場所だと聞いたと書かれています。この鍵屋玩具店さんが2つに分かれて、元の場所に「カギヤ楽器店」と、少し東京よりに「ミノキオトーイ」(玩具店)に分かれたものです。
萬屋旅館からは経営者も変わっており、いつまで旅館が存在したかはよくわかりません。
しかし、明治34年には2か所(本店、停車場前支店)出していた宿も明治44年の石岡誌(松倉鶴雄著)には載って居りませんので、この間に旅館はやめられたのでしょうか。

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(正面左側が子規の宿泊した萬屋があった場所です)

「もてなしも厚き故藤代にくらぶれば数段上と覚えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす  ・・・・」と書かれていますので、この枕でも残されて居れば今ではお宝になっていたに違いありません。

しかし、時代が流れ、鉄道が運行されるとしだいに人や物の流れも代わり、汽船が廃れ、町の姿もだいぶ変わりました。
子規は石岡の宿を出発して気分よく、2つの句を残しました。
その一つ

・二日路は筑波にそふて日ぞ長き

の句碑が中町通りの金刀比羅神社境内にあります。

土浦などの句碑よりも遅かったのですが、これで水戸までつながってきました。
この碑の除幕式が平成26年10月10日に行われた時にその場に行きましたので、その時の様子を載せます。

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石岡市内にある金刀比羅神社で正岡子規の句碑の除幕式があった。
金刀比羅さんは霞ヶ浦の水運が盛んであった頃は笠間の稲荷と並ぶほどの参拝者があったという。水戸街道もこの神社の前を通っていたし、陸前浜街道とも呼ばれていた。

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本句碑は「石岡の歴史を愛する会」により建立されました。

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揮毫書家:川又南岳(水戸)

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写真の正面奥にうっすらと筑波山が見えます。天気が良ければくっきりと見えるでしょう。

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2)石岡の一里塚
昔(江戸時代)の水戸街道は石岡の中町通り(旧355号)から泉町の通りを通って現在の常磐線を越えて、杉並から行里川へ向かっていた。
この杉並の名前はここにかつて日光杉並木のような並木通りがあったことに由来する。
このような街道は一般に松並木が多いが、杉並木は珍しいことだといいます。
理由はここ石岡(府中藩)は水戸藩(松平家)の支藩であり許可されてとの事。

この杉並木の入り口に石岡の一里塚があります。
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これが平成14年の台風で1本が折れ、もう1本も危険だということで根元から伐採された。その後一里塚には2世目の榎(えのき)とその横に桜の木が植えられました。

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桜の木の成長は早く毎年春にきれいな花を咲かせてくれます。

3) 石岡の杉並木
 また昭和30年までは石岡の一里塚から先2kmにわたって、立派な日光のような杉並木がありました。遠くからでもよく見えたそうです。こちらも鬱蒼として暗くなり危険だということで伐採されました。

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今は杉並木はありませんが、「杉並」という地名は残されています。
写真の先の方に行くと「茶屋場住宅前」という信号がある。
ここは水戸藩の殿様などが来たときに接待した「茶屋場」があった場所である。
「石岡100物語」(茨石商事刊行)によると、住宅地の開発された昭和30年以前には、高さ1mくらいの土手で三方を囲われた200坪ぐらいの茶屋場跡が山林の中に残されていたそうです。また江戸時代には、この茶屋場にみごとな松の木(延齢の松)があったという。

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この看板は常磐線の上を跨ぐ旧水戸街道の橋のガードにとりつけられています。
また一里塚と杉並木の昭和30年頃の写真が写真集「いしおか昭和の肖像」(1994年発行宇)に残されています。

4) 行里川(なめりがわ)
杉並の先に行里川(なめりがわ)の信号がありますが、旧水戸街道はここを直進し、関鉄グリーンバス(株)の先を県道は少し右にカーブしていますが、旧水戸街道はそのまま左の道をまっすぐ進みます。ここが行里川(なめりがわ)地区であり、昔の面影のある長屋門のある建物があります。

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行里川(なめりがわ)の街道沿いに残る立派な長屋門。
そしてこの先旧水戸街道は、園部川沿いに大きく右に廻って6号国道へ出て、そこを突っ切って6号国道の東側を通る道になります。


5)竹原宿
竹原宿は本陣・脇本陣の無い比較的小さな宿場でした。また旧水戸街道は、現在の6号国道と重なっており、昔の宿場や街道の面影を探すことは難しく、静かな街並みが旧竹原宿をイメージするだけとなっています。
旧水戸街道は石岡の一里塚から杉並から行里川(なめりがわ)を経由してからしばらくして旧道を通りながら東に向かい現在の6号国道と交差するあたりが竹原宿で、ここから次の片倉宿の手前までは現在の6号国道と合致します。

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この竹原の交差点手前の少し高くなった台地の上に竹原神社があります。
この神社には「アワアワ祇園」という祭りが継承されています。
説明では:
正保二年(1645)に園部川上流の旧大谷村を中心に伝染病が流行し、その原因が「大谷村の牛頭天王が人を食うからだ」、との噂が広まった為、大谷村の人々は怒って牛頭天王の御神体である金幣を園部川に流してしまいました。そのご神体が流れ着いた竹原村では、神の怒りを恐れ、水中から金幣を引き上げた後に、洗い清め、焚火で温めて、乾かしてから祠を建ててお祀りしました。
そのご神体が「アワアワ」と寒さでふるえていたとの言い伝えから「アワアワ祇園」と名づけられました。と書かれています。
アワアワ祇園祭は7月の第3土・日に行われています。
また石岡の木之地町のみろく人形も今では残っているものが少なく、ここ竹原に残されていたみろく人形をもとに復元されています。

6)片倉宿
 6号国道は、この片倉宿から小幡宿を少し避けるように迂回するルートがとられましたので、片倉宿には昔の宿場の名残が少し残されています。

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旧水戸街道は現在の国道6号の水戸に向かって左側を走っています。
この小美玉市役所の側に片倉宿がありました。
今は住所表記では「堅倉」となっていますが、昔は片倉でした。
本陣はなく、脇本陣が1軒と宿屋が10軒ほどあったといいます。

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街道の曲がり角に「角屋」という旅館がありました。この旅館「角屋」も江戸の中期ころには創業していたようですが、詳しくはわかりません。
この宿はその後「旅館かと屋」と名前を変えて残っています。
上の写真の建物ですが、改装で立て直されたようですが、設計に問題があり内部は完成できずに住むことができないそうで、現在の「旅館かと屋」は100mくらい離れた国道沿いに移転して営業をしていました。「堅倉」の信号のすぐ横です。

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旅館「かと家」

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曲がった先にあった「平本米穀店」さん
6号国道の「堅倉」交差点近くに「貴布禰神社」があります。


この先水戸、更に大洗までもう少し調べておかなければならないことが多すぎます。
この先の記事は調査が終わってからに先延ばしです。
水戸近辺は常陽藝文 2007年3月号の「正岡子規の「水戸紀行を歩く」が詳しいです。
これを頼りに時間の或る時に散策してみたいと思います。
(続きは またその時までお待ちください)







水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/03 14:15

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(7)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は7回目です。

<7> 小幡~長岡~水戸

(現代語訳)
この辺の街道は松繩手(松並木)にあらずして路の両側に桜の木が植えられている。
木の様は皆のびのびとして高さ十間(約18m)余もあり 東京の向島あたりで見なれた横に広がったものとは肥えた越人と痩せた秦人ほどの差があり、惜むらくはまだ蕾(つぼみ)さえふかず、気候の遅きこと想いやるべし。 

長岡に至る頃は、まだ正午の頃であったが、足が疲れてニッチもサッチも行かず、この上、膝栗毛をやつて足がすり切れてはと心配し、前言をくんでまた人力車二挺を雇った。

ここより水戸上市(うわいち)まで二里半である、その間はほぼ大方は林の中を通って行くが、標識を見ると一等官林とあった。
松の木が目がくらむ程にひしひしと並んでおり、一時過ぎに上市の入り口にある常盤(ときわ)神社のもとについた。

この日は晴れたれども風が吹いて寒かったが、人力車に乗っているとなおさら冷ややかに感じた。
仙波沼にそってやって来たが、それもふりすてて坂を上れば上市(うわいち)である。
町幅は広く店も立派であり、(故郷)松山などの比ではない。

こうして両側をながめながら、歩いて(石岡の)萬屋にて名指しくれたる宿屋についた。構えも広く、家も新しいので喜んで、案内について二階への階段上り、案内された室に入ると、そこは客部屋ではなく、三畳程のほの暗い納戸ともいえる程の処であった。
外に部屋はないのかというと「なし」という。

腹だゝしきこと一方ならず されど腹が減っては立ってもいられず 先づ午飯(ひるめし)を持て来よと命ずれば、やうやうにして飯櫃(ひつ)と膳が運ばれて来た。

これを食べて、さすがは水戸だけあって美味いけれども行燈(あんどん)部屋で食うのでは八珍の膳も気持ちがよくない。 
食い終ってから下女に

野暮「これから少し歩いてくるから夕方帰るまでにはきつと座敷を替えておけと命じてここを出て、四五町(約500m)行って菊池仙湖の家についた。

案内をこうと、(歳の頃)五十ばかりの翁が出で来た。
容貌が似ているので仙湖(菊池謙次郎)の親であろうと察し仙湖の在否を問うと、今、この下を通った汽車で出京してしまったと言う。
あなたはどちらからと問はれ、東京よりきました ここ六年ほど御交際している何がしであり、同伴のものは同郷の友の誰なりと引き合せれば

翁「それはようこそおいでになりました 謙次郎が居たら喜ぶ事で御座いましように………誠に殘念で………モー少し早いと間にあいますのでございましたに………どうも殘念でござ………マアそこでは何です こちらへお上り………サアむさくろしい内ですがサアどうぞ」
と促(うなが)されるのについて家に上がった

いかにもかたぎの翁と見えこれが水戸の士の風なるべしとむかしゆかしく思はれた。
座敷へ通ると、あまり広い間ではないがこッちりとして床には本箱が三ッ四ッ重ねてあり、そのふたに経書軍書などが書かれていた。

また柱には(藤田)東湖の書を彫りたる竹の柱隱(かく)しがあり、一方は庭につづいていて、庭のつくる処はきりぎし(絶壁)をなし、その下に仙波沼(千波湖)が低くきらきらとかがやいていた。

座について後、翁はあらためて初対面の挨拶をした。

余は語をつぎて
「実は少し前にこつちへ着いたのですが、宿屋へいて昼飯をくつてからここへ来たもんですから………誠に殘念しました 実はおととい千住で端書(ハガキ)を出しておいたのですが届きませんでしたか」

翁「オヤさうですか 一向届きません樣に心得ます 一昨日おだしになつたのならば遅くも今日は早くくる筈ですが ヘヽーどういふ間違ひでしたろふか………エー御飯は如何ですか まだおすみになりませねば御遠慮には及びませんから」

野「イエ モー宿屋でくつてきまして、それが爲に後れた位ですから」

翁「おすみになりましたか それでは………一昨日でしたか矢張り高等中学の石井さんがおいでになりまして私方へお泊りになりましたが昨日の朝寒水石の出る山を見に行くとおつしやつて………これは少し北の方にありまするがそれへおいでになりました」

野「アヽさうですか」

と話の中に母親も出て来られて挨拶あり

翁「それでは何ですか お宿をお取りなすつて………ハア、なんにも御遠慮はございません 私の内へおとまりなすつて イエ決して御遠慮には、きたない内ですが………謙次郎はいなくても ナニさうなさい お宿は少し外に知り合いの者があつて宿をきめたからといつて断ればようございます 書生さんのうちは矢張………会計の方が………マア成るたけ金のいらぬ樣に………何ですから」

この質朴淳良(しつぼくじゅんりょう)の風、思いやられてなつかし 明庵ならば「卿等(けいら)窮措大(きゅうそだい)、思フニ多額ノ長物ヲ有セザルベシ」などゝ書くべき処なり 四方山(よもやま)の話のついでに水戸勝景の地理などを聞き慇懃(いんぎん)に礼をのべてこの家を立ち出た。


(注釈)

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(小幡~水戸)

1) 小幡の桜並木
小幡宿を過ぎたあたりで、街道沿いに杉並木ではなく背の高い立派な桜の並木があったと書かれています。
それは「千貫桜(せんがんざくら)」と呼ばれた桜並木だと思われます。
江戸時代初期に徳川光圀(黄門)がこの近くにあった山桜が見事で「千貫」の価値があると言われてその名前がついたと言われますが、その山桜も木が衰え、それを嘆いて、今度は徳川斉昭が山桜を街道沿いに植えたとされ、子規が通ったときはこの斉昭の植樹した桜の木の並木のことだと思われます。

現在6号国道沿いの小幡信号を少し水戸方面に進んだ右側に茨城東高校があり、その反対側の道路の左側に「千貫桜の記念碑」があります。そこをスタート地点として曲がった道沿いに桜並木が残されています。

この桜並木もかつてはかなり立派な並木が続いていたようですが、今では数も減り、段々と樹勢も衰えてきていて、歯抜け状態と云えるでしょうか。

今、6号国道沿いはこの手前の片倉宿の手前「大曲」地区に1kmほどに亘って片側だけですが、みごとなソメイヨシノの桜並木が続いています。
今が盛りの見事な桜の景色が見られます。ここは旧水戸街道沿いで、以前松並木だったそうですが、これが枯れ、昭和53年(1978)に桜の木を植えたのだそうです。
今はこの並木が途絶えた場所辺りから左に少し斜めに入った先に堅倉(片倉)宿があります。

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(千貫桜の碑)

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(千貫桜並木:2024年3月5日撮影)

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(大曲の桜並木:観光茨城ホームページより)

2) 肥えた越人と痩せた秦人
小幡の桜と東京向島の桜の形状をこの中国の故事に例えて表現しています。これは中国の「韓愈-諍臣論」の中にあります。
「越(えつ)人の秦(しん)人の肥瘠(ヒセキ)を視るが如し」とあり、正確には「視政之得失、若越人視秦人之肥瘠、勿焉不加喜戚於其心」
(政の得失を視ること、越人の秦人の肥瘠(ひせき)を視るが若く、勿焉(ぶつえん)として喜戚(きせき)をその心に加えず)
... 東の越の人は、遠く離れている西の秦の人の肥瘠を見ても何とも思わないことから自分に関係のないものは何とも思わない喩えだといいます。
子規もこの水戸紀行の中にいくつかこのような知識を入れ込んでいますが、読む人の知識を試しているように感じるのは子規がまだ若かりし日に詩作活動の一つの挑戦なのかもしれません。

3) 長岡宿から常盤神社へ
子規たちは長岡宿(水戸の一つ手前の宿場)から水戸の上市へ向かうために水戸街道から現在の県道50号線を千波湖(仙波沼)方面に常盤神社下入口まで2里半(約10km)を人力車に乗りました。千住から10kmほど前に乗っていますので、この旅の途中で2度人力車に乗ったことになります(合計で約20km)。
(注釈の最初に載せた地図の赤い破線のルート)
この道は新しい茨城県庁の西側を通る街道で、道路の両サイドにはほとんど街路樹はありません。しかし、子規が通ったときはこの間はほとんど林の中の道を行くようであって、標識を見ると一等官林と書かれていたとあります。
これはこの現在の茨城県庁の建物がある笠原町の敷地には「関東林木育種場」などの国の林業関係の施設があったそうです。県庁移転に伴い随分周りが開けて来て大分イメージが変わってきてしまったようです。

4) 水戸の上市(うわいち)と下市(しもいち)
水戸が市制となったのは明治22年4月1日だそうです。これは子規が訪れる数日前ですね。元々水戸は徳川の城下町でした。旧県庁があった二の丸~三の丸の水戸城(台地)の西側、千波湖の北側の台地側は城関係の上級藩士などの住むところで上市(うわいち)と呼ばれていました。これに対し東側に後から下級武士や町人たちの住む下市(しもいち)を造りました。こちらは上市よりも一段低い場所です。
また千波湖は今よりもっと東に長く伸びた広い沼でした。昭和の中頃までは水戸駅の近くまで沼や田圃などが広がっていたそうです。また上市と下市との行き来も仙波沼があり簡単に行けなかったようです。石岡で聞いてきた水戸の宿はこの上市の常盤神社から上がった現在の泉町辺りにあったようです。

5) 一等官林
子規たちは長岡宿から旧水戸街道と別れて、水戸の上市方面に(北上して)進みますが、長岡から常盤神社下まで人力車に乗りました。2里半(約10km)木々の茂った林のような道を北上していますが、これは現在県道50号線と重なっており、千波湖の手前で県道は少し左にカーブして千波山信号などを通りますが、恐らく昔はそのまま「少年の森」公園沿いに千波湖畔の光圀像辺りを通って常盤神社下まで進んだと思われます。

千波湖
千波湖畔も白鳥ボートなどで遊ぶこともでき、写真のように白鳥、黒鳥や鴨たちがたくさんいます。のんびりと鳥とふれあうのもいいですね。


6) 大雑把なルート予想図

菊池宅
上記の赤の点線経路は、子規たちの通った道を大雑把に地図で予想したものです。
(ただし細かな道は不明であり当時に地図などを検討する必要があるが、未検討)

長岡⇒常盤神社下 :人力車(約10km)
常盤神社下 ⇒ 常盤神社 ⇒ 西の谷 ⇒ 泉町一丁目(旅館)⇒(約500m) 菊池謙二郎実家

7) 謙二郎の実家
菊池謙二郎(子規は謙次郎と表記)実家:学友の菊池謙二郎の実家は現在の水戸市梅香一丁目にありました。現在ここにはマンション「Gコート梅香」が建っています。ここで対応した謙二郎の父は慎七郎といい、旧水戸藩の藩士で、石岡(府中)藩の付家老職を務めた人です。謙二郎はその次男。
後に旧制水戸中学(現水戸一校)の校長を務め、教育者として有名で学生にも人気があったそうです。しかし大正10年(1921)に起きた「舌禍(ぜっか)事件」は守屋知事による自由を抑圧された学生たちが同盟休校(ストライキ)を起し、それに理解を示した校長謙二郎が責任を取り学校をやめることになった事件。その後謙二郎は1924年に衆議院議員となり4年間務めた。藤田東湖などの歴史研究者で知られる。

8) 句碑
菊池宅で部屋のなかなどの様子が水戸紀行の中に記載されていますが、このときのことを思い出して数年後に子規は次の句を残しました。
    梅の花柱かくしは東湖なり

    この家も鴨ものぞくや仙波沼


703.png 梅香2  

この下の句の句碑は菊池宅の跡地であるマンションの玄関前に2005年に建てられました。

9) 寒水石
子規の前に菊池宅に来ていた石井さんが寒水石を探しに北の山へ行ったとあります。
この寒水石は大理石のことで、茨城県久慈郡,多賀郡で産する古生層に挟まれた結晶質石灰岩(大理石)のことだそうです。特に幕末頃からは茨城県産の”白色大理石”を「寒水石」と呼んで重宝されたようです。偕楽園にある吐玉泉の白い石はこの寒水石だそうです。


水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/07 09:53

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(8)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は8回目です。

<8> 水戸散策(1)弘道館・水戸城跡まわり

(現代語訳)
多駄八と共にくたびれ足をひきずりながら城の方へと向った
このほとりの町々(上町)は一昨年の正月の火事に大方は焼かれて、家居は新しいけれど、なおまばらである 学校や、県庁であるだろう西洋風の建て物二三軒を過ぎると、二三百坪の広い平らな場所があり、その回りに梅が植えられている。

左に曲れば大きな門があり、何とも分らないが寺か宮の類と思って、玄関に至って縦覧(見学)を願ったら、たやすく許されたので、上って見れば、これこそかねてから聞いていた弘道館であった。
烈公の書像を拝して、その高尚なる風采に尊敬の心を起した。 床にかけてあった一軸は烈公が書いた種梅の記の石摺(いしすずり:石に刻まれた文字などを紙に掏り取ったもの)である。 

今は大半頽(くず)れているものの中に講堂と思われるほどの広い間は見受けられず、この家の半分は幼稚園となっていた。 裏へまわると梅の樹がたくさんあり、梅の碑もその中にある。
咲き残る梅の中に一つの堂らしき小さな物があり、何か知らないがのぞき見たが、面白いものもなかった。
その少し横に又小さな家作りがある。これもまたつまらぬ者よと通り過ぎて、帰京後に聞いて見たらば、これぞ名高き大なる寒水石の碑であった。
弘道館の向いはすぐに旧城阯であった。
さあ(城)興亡の跡を見ようと、堀を渡って内に入ってみると、師範学校と思われる立派な家居があり、それに沿って行くと、古木が茂っていてほの暗い処に出た。
行きどまりになった処は絶壁であり、谷の深さは二三十間もあるだろう。 
下を望むと工夫が四五十人群がって鉄軌(レイル)をしき煉瓦(レンガ)を運んだりしていた。
その理由はわからないが、谷を隔てたところに残された櫓(やぐら)が一ッ二ッ立っている。 
この城は上市とは同じ高さの土地であるが城の東南にある下市から見ると遥かに数十丈の空(上)にある。
ただし上市は東京の山の手に当たり、下市は下町の類である。 
この谷に沿って左に行けば、那珂川が山の下に帯のように蛇が横に這っているように曲折している。

それを出て新たに堀り割りした道を通り、石階段を登れば常盤木のおい茂れる中に一つの廟があった。
家康公を祭りしもののようだ。
ここから路を変えて水戸公園常盤(ときわ)神社に至り、そこから左にいくと数百坪の平坦な芝生の原が毛氈(もうせん)のように広がっており、左は十間許りの崖があり、この崖の下は直ぐに仙波沼である。
この沼に限らずこの近辺には沼が多い。
沼の水は深くはないが、一面にみなぎっており、これは灌漑用に供するために、今から水門を閉じて蓄えておくもので、違う時期には水は乾(か)れていると。

かの芝生の上にて七八人の小供が歳は十(歳)ばかりであるがうちむれて遊んでいた。何をしているかと近づいてみると、ベース・ボールのまねであった。
ピッチャアありキャッチャアありベース、メンあり 
ストライカーは竹を取りて毬(女の持て遊ぶまりではない)を打つ 
規則は十分にととのっていないがファヲル、アウト位の事は知っている。

この地方にこの遊戯があるのは体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)の卒業生などが小学校において広めたのだろうと思われる。

(注釈)

● 水戸の火事:
明治5年(1872)に水戸城は三階櫓を除いて焼失し、本丸の跡地に水戸一校が建てられた。
17年には下町,19年には上町の大火によって,城下町水戸は近代都市へと転換していく。この19年の火事は12月30日ですからこの子規の書いた一昨年の正月の火災のことになります。(明治17年に下市の大火という火事があり、七軒町から出火し、本町、竹隈町からさらに焼け広がったそうです。これにより下市は整備がなされ、近代的な商業都市になっていきました。)

● 弘道館:
水戸弘道館は水戸藩の藩校で、三の丸付近にあった藩校を二の丸付近に新たに建設移転して天保12年(1841)に完成(仮開館)したものです。ただ当時鹿島神宮からの分祀や孔子廟の完成などを経て安政4年(1857)に本開館となりました。(弘道館HP)
明治になると役割を終えた弘道館は茨城県庁舎(明治5年~明治15年)や幼稚園(明治22年1月~大正10年?)、小学校や高等女学校の仮校舎として使用されたようです。正岡子規が訪れた時に「幼稚園」であると書かれていますが、ここには「私立の弘道館幼稚園(水戸幼稚園)」があったようです。当時はこの幼稚園園舎(私立)が出来たばかりの頃で、大正10年に水戸市に移管され、大正14年に三の丸の小学校校内に園舎を建設して三の丸に移転され「水戸市三の丸幼稚園」として継続されています。

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(写真:弘道館HPより)

● 弘道館記碑(寒水石の碑):現在の常陸太田市の真弓山から切り出された寒水石(大理石)に「弘道館記」が斉昭の書および篆額で刻まれています。石碑の大きさは、高さ318㎝、幅191㎝、厚さ55㎝です。
「弘道館記」は、弘道館建学の精神を象徴するものです。天保8年(1837年)に藤田東湖によって草案が作られ、多くの学者らによって検討が繰り返され、天保9年3月に斉昭の名で公表されました。弘道館という校名は、「弘道館記」の冒頭「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。」からつけられました

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(弘道館HPより)

弘道館の向かいの旧城跡:これは城の二の丸付近で、この一帯には現在付属小と水戸三校のある辺りには「茨城師範学校」がありました。茨城師範学校は小学校の教員養成のため、明治7年に別な場所に設立されましたが、子規の訪れた前年の明治21年にこの城跡に新しく建設され移転しました。現在は茨城大の付属小学校となっていますが、近くに「茨城師範学校跡」の碑が建てられています。

● 鉄道工事:
二の丸の先が崖になっていて下で鉄道工事が行われていたとありますが、これは現在の水郡線の通っている場所で、この線路の向こう側の高いところは三の丸、本丸があった場所です。この鉄道工事の詳細は常陽藝文2007年3月号によれば、水戸駅と那珂川駅とを結ぶ貨物線の建設だそうだ。那珂川の水運と鉄道の駅とを結ぶ貨物輸送用の鉄道で、また工夫達がレンガを運んでいたのは、アーチ形のトンネル橋に使うためだったという。
その後このレンガの橋は、三の丸にできた水戸中(現水戸一高)の生徒の通り道となった。(このレンガの橋は昭和四年に鉄製の橋(本城橋)となり、平成14年には新しい橋に付け替えられています。)

● 三の丸(本丸):
子規は水戸の城址は二の丸の師範学校の辺りだけだと思っていたようで、この場所にある師範学校(できたばかり)などを見て、その先の崖から谷間の線路工事などを確認して、その先高台に2~3の櫓の立っているのを見たという。この場所が旧水戸城の三の丸、本丸のあった場所で、現在は水戸一高があります。昔の上市(うわいち)は城から見て西側の高台であり、下市(しもいち)は東南の低い場所でした。

● 新たに堀り割りした道:
子規が書いているこの道は「旧銀杏坂(いちょうざか、別名ぎんなんざか)」と呼ばれる坂道で、子規の来た前の年の正月の火事(正確には明治19年12月)の後に、明治20年に切通しに掘り込んでできた坂だという。それまではうっそうとした森だったそうだ。JR水戸駅北口駅前から国道50号線で一つ先の信号が「銀杏坂」となっており、ここを右に曲がって水戸京成ホテル前を通り三の丸小学校へ行く道が「旧銀杏坂」です。駅方面から曲がる手前に大きな銀杏の木があります。ここから三の丸方面は登坂です。子規たちは三の丸側から駅方面に下った。

● 徳川家康の廟:現在の水戸東照宮(水戸市宮町2-5-13)

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(Wikipediaより)

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(子規の水戸市内見物:旧水戸城周辺)

旧弘道館(幼稚園含む)⇒茨城師範学校(二の丸)⇒貨物線工事中⇒その向こうに櫓(本丸、三の丸)を眺め⇒切通(旧銀杏坂)⇒水戸東照宮⇒常盤神社・偕楽園
(午後の短い時間によくこれだけ歩いたものと感心する)

● 偕楽園の芝生広場:少年たちの野球(ベース・ボール)
当時の偕楽園の芝生広場がどのようになっていたかは知らないが、野球は当時まだ日本ではあまり知られていないスポーツであった。子規の野球好きは有名であるが、この水戸の地にベースボールが伝わっていて喜んだのだろう。水戸での野球チームが誕生したのは水戸中(現在の水戸一高)の野球部で明治24年(1891)だという。札幌農学校出の河村九淵教諭が原書から野球のルールを翻訳して生徒に教えたという。(当時の校長渡瀬寅次郎も英国帰りの人物でスポーツに熱心だったそうだ)

● 体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ 旧字:體操傳習所)は、1878年(明治11年)10月、東京府神田区(現在の東京都千代田区)に設立された文部省直轄の体育教員・指導者の養成機関


水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/08 09:58

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(9)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は9回目です。


<9> 水戸散策(2)偕楽園周辺

(現代語訳)
ふりかへり見ながら通り過ぎて行くと、一株の枝垂桜(しだれざくら)があった。
やや唇を開いて今まさに笑おうとしている。

その下に竹垣や柴の戸などがあり、その内側に色々の木々が美しく積み重なっており、大層淸らかなる中に、二階づくりの家が一棟二棟ある。
富貴なる人の別荘と見受けられる構えであるが、何かわからないので、つかつかと進み入りて見れば好文亭であった。

番人の許しを得て、好文亭の部屋に上って、部屋の中を見まわすと、額、襖、掛物などの類は、皆当藩(水戸藩)の諸名家の筆(ふで)であった。

二階に上って外を見ると、仙波沼が脚下に横たわり、向い岸は岡が打ち続いて樹などが茂っている。
すぐ目の下を見れば崖には梅の樹が斜めにわだかまりて、花はまだ散りつくしてはおらず、この崖と沼の間に細い道が続いているのは汽車の通る処である。

この楼の景色は山あり水あり奥如(おくじょ:奥まった様)と曠如(こうじょ:広々している様)を兼ねて天然の絶景と人造の庭園が打つづき、常盤木(常緑広葉樹)、花さく木が混じり合って何一つ欠けたるものがない。

余はいまだこのような婉麗幽遠(えんれいゆうえん:しとやかで美しく、奥深くてはるかなこと)なる公園を見たることがない。景勝は常に噂よりは悪いものであるが、ここばかりは想像していたものよりはるかに良いものだ。
好文亭と名づけしは梅を多く植えたためであろう。
眺めは飽きないが、楼を下りて後の方に行けば見渡す限り皆梅の樹が果てしもなく続いており、見えない花もまだ大方は散りはじめていない程である。

奥へは行ってみれば仙境もあるであろうと思われたが、寒く、日が傾むいてきたので、梅と袂を別ちて、我宿へもどった頃はもう燈をつける時間であった。
大方善い部屋が空いているのではないかと、階子段を上ってみるが矢張り元の狭苦しい部屋であった。

腹立つことおびただしく、下女をさんざんに叱り亭主を呼んで来るように言うと、下女は慌てて下に行ったが、待てども待てども亭主も来ず、番頭も出てこない。手を打つ音、はげしく、パチパチパチパチパチ、下にて「ハーイ」といつたことはたしかにいつたが浜の松風にて姿を見せず ますますいらついて(手を)拍(う)つとやっと下女が来た

 野「貴樣じやァ分らない、早く亭主を呼んでこい 早く早く」

といそがせると、下女は又トントントンと楷子(はしご)を下りたが人音なし 腹が立つて腹が立つて裂けさうなるをかかえてようやく癇癪玉の破裂を防いでいた頃に、障子をあけてやってきたのは五十許りの老嫗(ろうう:老女)なり 

 嫗「何御用ですか」
といへば今迄こらえこらえし癇癪が一度にこみあげて面には朱をそそぎ口に泡を吹きて

 野「オイ 人を何だと思つている、ナゼこんなに人を馬鹿にするのだ、馬鹿にするのも程があるじやァないか、この部屋は何だ 人間のはいれる部屋じやあるまい、行燈部屋へ人を納れるといふのは………石岡で萬屋で折角いつてくれたからわざわざここを尋ねて來たのだ、宿屋はこゝばかりじやァあるまいし、さつき出る時にもあれほどいつておいたに………失敬千萬じやァないか、納戸へ押しこまれてたまるものか、なんだと 外に部屋がないと、なにいやがるのだい、ないならないで始めからなぜ断らぬのだ、なんだと 左樣なら外(ほか)の宿へいつてくれと、人を馬鹿にしやァがるな、いけといわなくつてもこつちでいかァ、だれがこんな処でぐづぐづしているものか、昼飯の勘定もつてこい、早く早く」

と繰り返しまき返ししやべる言葉もあとやさき 老下女は驚きもせず返事しながら下り行きしが暫くして来り

嫗「お宿は私方から御案内致しますからどうぞお出なすつて………御飯代はもう宜しうございます」

野「なにを言やがるんだい、飯代はいくらだといふに、なぜ貴樣はそんなに人を馬鹿にする、飯代を払わずに………どう どうすると思つているのだ………早く勘定してこい」

終に勘定をすまして二階を下り何か亭主のわび言をいうのを耳にもかけず草履(ぞうり)をひつかけ、草臥(くたびれ)たのも忘れて、いとあらあらしく門を出づれば、小僧が提灯(ちょうちん)をつけて待っていたがまだ腹は癒えないが、これ(提灯)について歩み行きたり 道々思ふのだが、水戸街道は鉄道が通じ始めてよりたちまち寂しくなり石岡などにてはそれが為に我々でもよくもてなしくれたる者であろう。
されど水戸は鉄道のために益々繁昌し、殊に県庁さえあれば、我々がうさんくさい風をしては侮(あなど)るのももっともである
彼の旅店はあがり口に靴が沢山あったのを見れば県官などの止宿しているものとの卜筮(ぼくぜい:うらない)は中(あた)らずといえども遠からざるべし
かかる処にては書生などを取りあわないのは普通のことであろう
されど我々の考えでは書生は天下第一等のお客なり 錢はなくとも丁寧に取り扱ふべきものなりやと考えているために、立腹もしたるなり、こんどは少し善き処であろうと思いながら歩む内に、小僧はとある門にはいり、何か亭主にささやいて出できて、余らを引き入れた。
そこは余り美しくはない宿屋であったが、案内につれて上りて見れば、矢張り下等なる店であった。けれど小僧の通知にて、下女などの応接等からその他のもてなしに至るまで、別仕立の丁寧なる言葉であった。
部屋がきたないので立つた腹はまだ横にならないが、我慢して笑顔をつくり「腹へつたのでまず早く飯を持って来てくれと命じた。
それを待つ間に湯に入り足をのばし、隣近所の客を見ると皆書生であった。
扨(さて)は下宿屋であったとは、これは謀(はか)られたり 殘念なり あくまで憎きは、かの宿屋の亭主なりと齒ぎしりするが、どうすることもできない。

ここを出ようと思うが、怖味(こわみ)をおびて手にすえる樣にあしらう故、気の毒でそうも出来ず、もはやこの上はここにて堪忍しようと多駄八にも相談し、飯を食ったが、飯は下宿屋ものであるから、旨いはずもなく、飯が終ればすぐに表へ出で、二三町行ったところに一軒の大きそうな蕎麦屋があった。これは屈竟(くっきょう:ちょうど都合がよい)の処なり さあ一攻めしてやろうと中に入れば、余りきれいではないが間(部屋)はいくつもあって、別々にしきられている。ここで天ぷらと何とかと二杯を喫し、腹をいやして宿に帰り寝るたり。

自分は心から腹立たしいけれど、これを読む人や聞く人はおかしいに違いない。
こうもあろうか

 おこつてはふくれるふぐの腹の皮よりて聞き人は笑ふなるらん

(注釈)
子規たちは健脚にも旧水戸城址から今の水戸駅近くまで下って、最初に訪れた常盤神社の側から偕楽園へ行った。おそらくすでに夕方近くなっていたであろう。

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● 偕楽園:
偕楽園の良さは子規も書いていますが梅ばかりではありませんね。枝垂桜の下に、竹垣や柴の戸などがあり・・・と書かれています。
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シーズンの夜には、キャンドルで道を照らすイベントも行われています。
竹林や熊笹などの佇まいは独特の侘びの世界観を表しています。

<好文亭>

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名前の由来:「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」という晋の武帝の故事が由来で、子規もこの名前の由来を「梅」からすぐに推察して書いています。
金閣寺のような派手な建物を嫌った水戸藩主烈公(9代藩主徳川斉昭:慶喜の父)が建てたこの公園の中の建て物は質素を旨とした考えがにじんでいます。

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さて、子規はこの偕楽園では句を残していません。しかし、梅の木が崖に植えられ、天に向かって真っすぐに伸びているさまを書いています。
そして、後に句を詠んでいます。
現在その句碑が偕楽園の庭に立てられています。

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 ○ 崖(がけ)急に 梅ことごとく 斜めなり

この崖は好文亭のすぐ南の下側にあります。

偕楽園を子規はとても気に入ったようで、「天下に名園は幾つもあるが、行って聞いているより良いと思ったところはほとんどない。されどこの庭園は名は知れていないがとても素晴らしいところだ」と絶賛でした。
現在の偕楽園は、作られた当時よりも敷地は大分せまくなっているようですが、「偕楽園」の名前には、領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと願った斉昭の想いが込められていますので子規もその思いを感じたことでしょう。

さて、偕楽園から宿に戻って、部屋が用意されていると思っていた子規たちに、宿は全く相手にもせず、子規たちは怒り心頭して、散々にわめき散らしています。藤代、石岡では宿の名前は書かれていますが、水戸での宿の名前はどこにも書かれていません。悪口を言っているために書くのをやめたと思われます。
ではなぜこのようなことが起こったのでしょうか。
これについては子規も指摘している通り、当時常磐線はまだ開通していませんでしたが、水戸はすでに(明治20年)小山経由で東京方面からも鉄道が開通していました。
このため、子規たち書生はまったく宿から見れば相手にもしないといった風が見られたのでしょう。石岡の萬屋はまだこのときに、この水戸の宿は前から知っていたようですが、その当時からは変わってしまっていたことを知らなかったのだと思います。
これは、石岡での萬屋(旅籠)の当時の広告からも読み解くことが出来ます。
石岡では当時鉄道はまだ建設されていません(開通は明治28年~29年)でしたが、霞ケ浦や利根川を経由した蒸気船(通運丸:明治10年開設)は運行され、東京方面との足としてかなり頻繁に運行されていました。(焼き玉エンジン:ポンポン蒸気)
石岡の宿の所でも書きましたが、
明治34年に書かれた石岡繁昌記(平野松太郎著)から、当時の石岡の宿屋の宣伝文を見て見ましょう。当時同じように駅が開設した後に駅前にも支店を出した2つの宿屋の比較です。
まず1つ目は子規が泊まった萬屋です。

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旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」
もう一つは「香取屋」旅館です。

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ここには「陸海軍御官衛御用旅館」「商店銀行員御宿館」「糸繭商定宿」などと記されています。鉄道開通後は駅前に2つの支店を出し、一つには草津温泉のお湯で風呂を提供し、駅の待ち時間にひと風呂・・・などとうたっています。

このように子規が泊まった萬屋は子規のような一般の旅行者(徒歩旅も含む)なども丁寧に扱われた宿だったのでしょうが、水戸の上市の宿は県庁所在地でもありすっかり昔風の旅人などは丁寧な扱いがされなかったのもうなづけます。
これも時代が大きく変わっていた当時の時代の流れだったようです。


水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/09 08:03

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(10)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は10回目です。最終回です。


<10> 4月6日大洗 ~ 4月7日 帰京

(現代語訳)
(四月)六日 曇り、多駄八と共に宿屋を出て今日は大洗に行こうとかねてよりの目論見であったので、舟に乗ろうと那珂川のほとりに下りようとしたとき、たちまち左足の裏の筋肉が痙攣(けいれん)を起して一歩も歩くことが出来なくなった。
多駄八と顔を見合せてまるで立ち往生の姿となり 正にこれ

    時不利兮騅不逝。多駄多駄奈レ汝何

かくては敵わないと項羽の勇を奮って十間程歩くとまた筋が攣(つ)ってしまい、泣く泣く蝙蝠傘(こうもりがさ)をたたいて歌って曰く

    行クニ無レ車。帰ルニ無レ家。蝙蝠若レ爾ヲ何

やっとのことで舟宿へ行き小舟を一艘買って那珂川を下った。
岸移り山行く あるいは藪の下を過ぎて竹の風に耳を洗い、あるいは家のほとりを漕ぎて人の話に耳を傾ける
この日は日も照らさず雨を催す筑波下ろしが寒いので興もさめてしまう心地がする、震え声を振り立てて船ばたを敲(たた)いて歌ふて曰く

野「蘭ノ槳兮桂ノ棹 そんなものはここにない。月落チ烏啼いて朝寒い」
多「なんだ、それは。船歌なら船頭の方がうまいよ」
野「これは「い」の字の韻をふんだ新体詩だよ、和漢を一丸に処に気が付れやせんか」

と威張っても風が寒いだけはおさまりがつかず、とうとう船の底に成るべく背を小さくして寝てみたがなお寒い。
少し働いたら寒さを忘れるだろうと船板をまくってボートを漕ぐように漕ごうとするが薄い板なのでヒョコヒョコとして力が入らず、船頭が「そこにある棹(さお)では如何ですか」と言う。
それならばやって見ようと棹を取り出して見るが、三間有余の大な木の棒であり、その重いことおびただしい。

これを横にして縄でもって船べりに確りとしばり、いざ漕ぎだそうと水に入れ引きあげようとするが、舷(げん:船べり)は低く、また棒は長いため棒の先の水が上がらず、却って舟の進みを止めてしまうので、これも止めようとなり止めた。
船頭に少し櫂(かい)を貸してくれ、漕いでみるからと言えば船頭は喜んで座を余に譲った。
余は臍(へそ)の緒を切ってから初めて日本船を漕ぐことであり、どうなるものかと心配しながら押したり引いたりすると思いの外うまく行った。
興に乗じて夢中になって漕いでいると、しばらくして気がついて船の位置を見ると真っすぐに来ていないで斜め斜めに進んでいる。
これはと思っているうちに向う岸に突き当たりそうになる。あわてて向きを曲げようとするが舟はますます直線に進み、わき目もふらず石に(舟の)頭が触れそうになり困り果てて「助け船、助け船」と呼べば 船頭は笑いながらやって来て、舟を転じてくれた。余の漕ぎ方は引く方が弱いとの船頭の忠告に成程とさとり、その理論であれば今度はうまくやれると鼻をぴこつかして漕ぎはじめたが、いつの間にかまた岸近くなってしまった。
かくては一船を支配せんこと覺束(おぼつか)なしと、ついに辞職した。もし余を人海に入れて世渡りすれば、なおこの舟のようになるであろう。

船のことは船頭に譲って、おのれは矢張り哲学者然として舟にいても舟を忘れ、水を見つめて逝者其如此夫(ゆくものはそれかくのごときかな)とすましこんでいるものから、今まで舟漕ぐ技(わざ)に紛れていた寒さがいよいよ強くなり、その上、船暈(ふなよい)の気味があり、口には言わねど腹では閉口しながら、何! 大丈夫だ これしきのことに………余は元来痩我慢(やせがまん)の男であって、身体の弱い方なのに不規則に過激な運動をすることがあるけれど、苦しきのみであり、何とも思はず、着物も着たら脱ぐのは大嫌いだから着ることはもっと嫌いであり、烈寒の時もさむがりの癖に、薄着で表へ出ることも多い。

そうであるから今回の旅も綿入一枚に白金巾のシヤツ一枚ばかりにて、着替えも持っていないのでひた震えに震えて、それはただ寒いのみなりと達摩(だるま)の如く悟りこんでいて、これが為に悪いとか良いとかいう考は無いばかりでなく、こんな目にあって櫛風沐雨(しっぷうもくう:風雨にさらされながら、苦労して働く)の稽古をすればこそ、体も丈夫になり心も練磨するのであると思い知るこそ、うたて(いやな)の技である。
この船の中の震慄(しんりつ)が一ケ月の後に余に子規の名を与えようとは神ならぬ身の知るよしもないけれど、今より当時の有様を回顧すれば覚えず粟粒(ぞくりゅう:粟粒のように小さい)をして肌膚(きふ:はだ)を満たすのに足りる、ああ天地は無窮大(むぐうだい:無限大)の走馬燈である。 
今日の人は昨日の人にあらず 今年の花は来年の花にあらず 甲去り乙来り 権兵衛死して八兵衛生る 
百万年の百万倍も無窮(むげん)に比べれば奇零(きれい:単位以下の数)の一にも足らず、まして百年生きのびるも三十にして終るも天地の一瞬の一億万分の一なるべし、されば一寸の蟲(むし)に五分の魂あり 生きとし生ける者いづれか生命を惜しまざらん ただ止むを得ずあきらめるのみ 
西行は浮世のままならぬを悟りて髪を落し、(熊谷)直実は若木の桜を切りて蓮生(よりつな)となる 
提婆(だいば)が悪も仏果を得、遠藤の恋は文覚(もんがく)となる、煩悩も菩提なり 病気豈(あに)悟りの種とならざらんや、かへらぬことをくりかへすは愚痴(ぐち)のかぎりなるべし

舟は川口に着いた。祝町の大門を出て松原を行くこと半里余、砂の中を歩む数町にして又一ツの林に出た 樹々の間に見える甍(いらか)はこれなん大洗い神社である 

石階を下りて海浜に出れば料理屋四五軒あり 今新築にかかれるたかどのは結構壮麗目を驚かす許りなればこれも料理屋であるかと問へばそうであった。 
鉄道が水戸に通じてそれから紳士がくることも多いのでこの夏の備えに設けるものであるという。 
このすぐ下は海であり、そのまま太平洋に連なっており、沖に島もなく山もなく、遠くで空は海に浸り、海は空に続いている。
行き来る白帆(船)もなければ飛びかう小鳥もない。

この浜辺四五町の間は、小石のかたまったように見える丸い岩が、いくつも連なって東から打ち寄せる波がこの岩にあたって白雪を数丈の高さに飛ばし、勢いの余るものは岩の上を越えて、つぎの岩にあたって砕け散る。
砕けた波しぶきは空に白く躍り、超える波は岩の上を真っ白にする。

この景色が長く続くのを見ていると、ここに消え、かしこに興り、左に退いて右に進む。
一目で遠くを見渡せば、白い岩と黒い岩とがあって、さながら碁石のように変幻の妙筆に尽くしがたい。

    ア メ リ カ の 波 打 ち よ す る 霞 か な

茂林陰暗路迂回 大洗祠頭眼界開 牛踞虎蹲百岩石 雉飛翬集幾樓臺
  狂風高自雲端落 怒浪遠從天末來 嶋影無痕帆影沒 乾坤一望絶纖埃

ここの美肴(びこう)にて昼飯をしようとの発議もあったが表議がまとまらず止めとなった。それよりは車を雇って帰れば今日の午後の汽車に間に合うだろうと磯浜(地名)を歩き回ったが、車がなく、志をはたさなかった。
それならば飯を喰おうとあと戻りして、飲食店を探すが、これと思う処が一間も見あたらず、仕方なく大そう古びた汚い家に入った。
二階へ上ったが、乞兒(こじき)小屋に壁をつけた位なもので、飯もきっとそのように期待できないだろうと思ってはいたが、やはり運んできた膳に向って茶碗を取り飯を一箸頰張ってみると、初めの日に板額(はんがく)の御馳走になったのにも増して石を食ふてもこんなことはあるまいと腹が立ったが、吐き出すことも出来ず一杯をようやく食い終って早々にここも逃げ出した。

磯浜の出口に来ると、車夫が群がるほどいて、しきりに乗せようというが、これも足元を見るものであろう。この時は多駄八も余も、弱りに弱りて蹌々踉々(そうそうろうろう)といふ風情であった。
これは酒を飲んだような徴候であり、遠路に草臥(くたび)れたものである論理を知らぬ車屋にも、すぐさま見ぬかれたけれど最早かくなる上は車には乗るまいと意地になり、

野「なんだと 車に乗れと、おれさま達を誰だと思ふんだ はばかりながら神田ツ子のその隣の本郷ツ子だよ、車をすすめるなら足元見ていやアがれ、一日に東海道を行きもどりしたとて、くたびれる樣なお兄イさんじやないよ」

とさんざんに威張ったが、足といふ正直者はとかく我等を裏切ってなかなか先にすたすたと歩くことが出来ず、折から道の辺にてよもぎ(ヨモギ)といふ草を摘む老女(おうな)あり、この草は我ふるさとでは餅などに混ぜて搗(つ)くから、そのようなのかと尋ねると、否この草は何とかいふ病に効き目があるという。思いがけない答えに驚いて、そのようなこともあるのかとそこを通り過ぎた。

三里ばかり歩いて下町に着くと、大そう寂しく衰えたる様であった。
店に重箱木地鉢のたぐいの塗物を売る処が多くあったので、このあたりの名産であろう。

仙波湖に沿って上町に来て停車場の近くの家に宿をとった。
明日の一番汽車に乗るつもりであるから、良い頃に起こしてくださいと頼んで一夜の夢に日頃のくたびれを休めた。

翌(四月)七日朝早く起てだして、見ると大雨が盆を傾けたくらいに振り、汽車に乗れば屈託もしないと、ここから停車場まで五町はあるといふのには閉口したり、また人力車は一寸無く、朝飯は間にあわないと言って弁当をこしらえてくれたけれど、この雨では弁当の折りが雨にぬれてしまうと心配すれば、この家の老女が、破れた絹の切れ端し破れ草履二足とを持ってやって来て、折り二ツを絹のきれに包んで、またその草履ではとても歩けないであろうからこの破れ草履をはいて停車場まで行き、そこで履き替えるなさいと言う。

大層なさけ深い老女(おうな)であると拝むばかりに礼を述べてここをたち出で停車場へ来るまでに着物は大方絞るばかりに濡れてしまった。

一番汽車に乗り込めば最早(もはや)しめたものである。火もふれ鑓(やり)もふれと思うが、雨の勢いはあいにくに減ってきた。ピューと一声、汽車は仙波沼に沿って動き始めたが、偕楽園(好文亭のある公園の名)の麓に数十の穴が同じ間隔に並んでいるのが見えた。

あやしく思ったが、穴居の遺跡ではないのか、それならば足がくたびれていたとしても見ておくべきものであったと殘念であった。
しかし雑誌では見たこともないので穴居ではないだろうかと半信半疑のうちに汽車はためらいもせずに進んで走り去った。

間もなく正午になった頃に上野停車場へ帰った。あまりの早さで、旅で歩いたことがおかしく思われた。

旅費の殘りがあればと多駄八がだだをこねるので、仕方なく西洋料理に出かけ、帰りに菊池仙湖の寓を訪ねて、今回の水戸行の委細を語れば

「君がこようとは夢にも思わなかった。それは殘念だった。はがきは曾て(かつて)屆かず、これは不思議なことあって、君と同日だと思うが僕の弟が出した手紙も届かなかった」

と言っている。思い出して偕楽園の下の穴の理由を訪ねてみたが、あれは土を掘るためであって何でもないと答えるので、余はこの答を聞いて失望せずに逆に安心した。

後は野となれ山となれ、日頃志す膝栗毛がここにようやく終りを告げて
                         めでたしめでたし 
[自筆稿 明治22]


(注釈)
1) 那珂川の船乗り場:子規たちが水戸から大洗に行こうと舟を頼んだ場所は、国道349号線(旧太田街道、棚倉街道:水戸~常陸太田~)の那珂川に架かる橋「万代橋(よろずよばし)あたりではないかといいます。この橋が最初に架かったのは大正8年だそうで、それまでは「青柳の渡し」という渡し場があったようです。現在川のふもとに石碑が置かれているが、江戸時代は夜の渡船は禁止され、明治以降は人が溜まると舟を出すという感じであったらしい。子規もこのあたりにたむろしている舟を頼んだのだろう(定期便ではなく)。子規も自ら舟を漕いだりしたと書かれている。この舟に乗ったときに寒さと無理がたたって1か月後に喀血して子規を号するようになったとここに書かれている。
2) 時不利兮騅不逝。多駄多駄奈レ汝何。  (史記「四面楚歌」より)
(時利あらずして騅(すい)逝(ゆ)かず:時勢は(吾に)不利であり、(愛馬の)騅は進もうとしない)
(多駄多駄奈レ汝何:ただただ奈れ汝(なんじ)をいかんせん)
項羽の勇:三国志に出てくる勇者
3) 那珂川の舟下りの間の様子がここには書かれていますが、話の内容に古代中国(三国志など)に関係した言葉がいくつか出てきます。
・「蘭ノ槳兮桂ノ棹」:中国の詩人・蘇軾の著わした「赤壁の賦」の中に酒を飲んで舷(ふなばた)をたたいて歌ったとき、「桂櫂兮蘭槳 撃空明兮泝流光 渺渺兮予懷」
(「桂の櫂(さお)蘭(らん)の槳(かい) 空明(くうめい)を撃(さおさ)して流光に泝(さかのぼ)る。 渺渺(びょうびょう)たり予(わ)が懷(おも)ひ
美人を天の一方に望む」)とあります。
・月落チ烏啼いて朝寒い:唐の詩人・張継が詠んだ七言絶句に「月落烏啼霜滿天」(月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ)あたりから来ているのだろうと思われます。
4) 粟粒をして肌膚を満たす:これは結核を患った子規の思いが込められているようです。「肌に粟を生じる=寒さのために肌に粟粒のようなつぶつぶができる。」「粟粒結核=結核菌が血管の中に進入して、肺だけでなく様々な臓器で感染した状態」
子規はこのようなことをも心配しながら暗示しているのかもしれません。
5)「直実は若木の桜を切りて蓮生となる」源平合戦で活躍し、平敦盛を討った熊谷次郎直実(なおざね)は思うところがあって、法然と会ったのち出家して蓮生(れんせい)となり法然の弟子となりました。
6)大洗にて
  祝町:那珂川の河口部ですが、ここは水戸光圀が開いた江戸時代の遊郭があり、花街として栄えました。ここで船を降りた子規たちはここから南に海岸沿いに下ったようです。

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そうして、一つの緑の杜を抜けて2つ目の杜の中に見つけたのが「大洗磯前神社」です。

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そしてこの石段を下りて下の海岸に出ました。

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そこの岩に波が打ち付ける様子を興味深く眺めながら、この海の向こうがアメリカにつながっているという感覚に襲われました。

    ア メ リ カ の 波 打 ち よ す る 霞 か な
茂林陰暗路迂回 大洗祠頭眼界開 牛踞虎蹲百岩石 雉飛翬集幾樓臺
  狂風高自雲端落 怒浪遠從天末來 嶋影無痕帆影沒 乾坤一望絶纖埃

この俳句の後にうたわれている漢詩(七言律詩)は大洗で得た印象をそのまま表した律詩です。漢字の持つ意味をつなぎ合わせれば意味は通じます。細かな解釈は読まれた方におまかせします。

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大洗港のサンフラワー号(北海道までのフェリー)

町から少し離れてしまい仕方なく入った店は旅の最初に食べた店と同じくらいひどかったようだ。初日の店は小金宿を過ぎた今の柏辺りで鮫を食した店のことで、そこの女が大女であったと書いている。ここでは「板額」と書かれている。
・板額(はんがく)は板額御前(平安時代末期から鎌倉時代初期の女武将)の伝説から、体格がたくましく背の高い、容貌の醜い女をあざけっていう語だという。
・ヨモギの効能:子規はヨモギ餅のことは知っていたが、薬になるのは知らなかったようだ。ヨモギには抗炎症作用、皮膚炎の改善や血行を良くする作用もあることが知られていますね。

子規たちは3里(12km)も歩いて水戸の下市に戻ってきた。余り繁華街ではなく寂れた印象だったようだ。ここには「重箱木地鉢のたぐいの塗物」が沢山売られていたと書かれています。下市は水戸の町人・職人などが集まって町が作られた経緯があります。そしてその晩は駅の近くの宿に泊まった。
藝文によれば当時の水戸駅は「柵町(さくまち)停車場」と言っていたという。当時の駅は「停車場」とみな呼ばれていたようだが、柵町というのは何だろう。
今でも水戸駅南口の東側に狭いエリアだが「柵町」という地名は残されている。
今昔水戸の地名(堀口雄一著)によると柵町は江戸時代に二の丸城の南側に柵があり、この柵門より西が西柵町、東が東柵町であり、ここが上町(上市)と下町(下市)との分界であったそうだ。

7)翌四月七日 朝から大雨だったが、朝早い時間に水戸線に乗り正午頃に上野駅に着いた。
・横穴:列車で偕楽園脇を走っているときに子規は崖にいくつも横穴があいているのを発見します。そして帰京してから菊池謙二郎に確認したが、あれは何でもないといわれ、まあ期待したのにがっかりではなく、むしろ安心したと書かれています。
実はこの横穴には「水戸城の抜け穴」ではないかという伝承があるようです。
ただ、これは「江戸時代に 「神崎岩」 と呼ばれた石を笠原水道という昔の巨大な地下水道の岩樋 (いわひ : 岩をくりぬいて作られる川の取水口) などに使うため採掘した跡」というのが今の見解のようですが、総てがそうであるかはよくわかっていないようでもあります。内部調査をしたところノミで掘った跡などから人口のものであることは判明しましたが、岩を取るためとは思えない複雑な構造をしており未だ謎が残されているようです。(茨城大学地質情報活用プロジェクトHPより)



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/10 08:38
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