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芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (1)

芭蕉の鹿島紀行を巡る

(はじめに)
 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。
これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。
仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。
仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(1682)勝利し、鹿島に戻り、根本寺を弟子に譲り、芭蕉が訪れた時は、荒廃していた山の草庵を立て直し暮らしていたようです。

 芭蕉は1680年に日本橋から深川の芭蕉庵に移っていますが、この芭蕉庵から臨川院(現臨川寺)まで小名木川の萬年橋を渡って500m程の距離であり、芭蕉は仏頂和尚に俳句を、仏頂は禅を教えるというようにかなり親密に過ごしたようです。
年は仏頂和尚が二~三歳年上です。

この仏頂和尚の月見の誘いを受けて、鹿島の山の月見をしようと二人の門人を連れて1887年の中秋の名月に鹿島を訪れました。
その時に書かれ、残されたのが「鹿島紀行(鹿島詣)」です。
今回はその原文と、現代語訳、および書かれた当時の時代背景なども含めて内容を検証してみたいと思います。

芭蕉旅立ち
(芭蕉旅立ち:蕪村)

数回に分けて載せます。

第1回目は「原文」と「現代語訳」に挑戦です。

<原文> 

鹿島紀行(鹿島詣)         松尾芭蕉

 らくの貞室、須磨のうらの月、見にゆきて、「松陰や月は三五や中納言」といひけむ。
狂夫のむかしもなつかしきまゝに、このあき、かしまの山の月見んとおもひたつ事あり。

 ともなふ人ふたり。浪客の士ひとり。すなわち河合曾良なり。
ひとりは流れる水、行く雲をさすらう水雲の僧。すなわち宗波なり。
僧は、からすのごとくなる墨のころもに、三衣の袋をえりにうちかけ、釈迦の修業を終えて出山の姿をうつした尊像をづしにあがめ入テうしろに背負、拄丈ひきならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩していでぬ。

 いまひとりは、わたくしこと芭蕉である。
僧にもあらず、俗にもあらず。鳥鼠の間に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく、門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。

 ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、おの/\いたゞきよそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり。
それはまるで秦甸(しんでん)の一千里とかや。めもはるかにみわたさるゝ。

 つくば山むかふに高く、男体、女体の二峯ならびたてり。
これを見て思い出されるのは、かのもろこしに、「双劔のみねあり」ときこえしは廬山の一隅也。

  ゆきは不レ申(まうさず)先(まづ)むらさきのつくばかな

と筑波山を詠めしは、我門人嵐雪が句也。
すべてこの山は、やまとたけるの尊の言葉をつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。
和歌なくば、あるべからず。句なくば、すぐべからず。まことに、愛すべき山のすがたなりけらし。
 萩は錦を地にしけらんやうにて、かつてためなかゞ長櫃に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花、みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。

 日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。
此川にて、鮭の網代といふものをたくみて、武江の市にひさぐもの有。
よひのほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。
月くまなくはれけるまゝに、夜舟さしくだして、かしまにいたる。

 かしまに至れば、ひるより、あめしきりにふりて、月見るべくもあらず。
ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。
すこぶる人をして深省を發せしむ、と吟じけむ。しばらく、清浄の心をうるにゝたり。

 しばし居寐たるに、あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。
月のひかり、雨の音、たヾあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はる/”\と月みにきたるものを、句も詠まれぬかひなきこそ、ほゐなきわざなれ。
かの何がしの女すら、郭公の歌得よまでかへりわづらひしも、我ためには、よき荷憺(かたん)の人ならむかし。

をり/\にかはらぬ空の月かげも
     ちヾのながめは雲のまに/\  和尚
月はやし梢は雨を持ながら    桃青
寺に寝てまこと顔なる月見哉   同
雨に寝て竹起かへるつきみかな  曾良
月さびし堂の軒端(のきば)の雨しづく   宗波

   神前
此松の実ばえせし代や神の秋   桃青
ぬぐはヾや石のおましの苔の露  宗波
膝折ルやかしこまり鳴鹿の聲   曾良

   田家
かりかけし田づらのつるや里の秋  桃青
夜田(よた)かりに我やとはれん里の月   宗波
賎(しず)の子やいねすりかけて月をみる  桃青
いもの葉や月待里の焼ばたけ    桃青

   野
もゝひきや一花摺の萩ごろも  ソラ
はなの秋草に喰あく野馬哉   仝
萩原や一よはやどせ山のいぬ  桃青

帰路自準の家に宿ス
塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ  主人
あきをこめたるくねの指杉   客
月見んと汐引のぼる船とめて  曾良

貞亨丁卯仲秋末五日
              (終わり)


<現代語訳>
洛(京都)の貞室(安原貞室:俳諧師)が須磨の浦の月を見にゆきて、「松陰や月は三五(十五夜)や中納言(須磨に流された中納言行平も、同じ月を見たのだろう)」と詠んでいる。
狂夫(風流に狂った者:貞室)の昔もなつかしさがつのり、この秋、鹿島の山の月を見ようと思い立った。

一緒に旅をするのは二人。浪客の士が一人。すなわち河合曾良である。
もう一人は流れる水、行く雲をさすらう水雲の僧。すなわち宗波である。
この僧は、カラスのような真っ黒い墨の衣に、三衣(さんえ:大衣・七条・五条)の袈裟の袋をえりにうちかけ、釈迦が修業を終えて山を出るときの姿をうつした尊像を厨子に崇めて後ろに背負い、拄丈(しゅじょう:錫杖)をひきならして、無門の関(悟りを開いた中国宋の無門慧開(えかい)禅師の「大道門無く、千差路有り。この関を透り得ば、乾坤を独歩せむによる」のように物事に頓着せず、天地に独歩して進む。

 いま一人は、私こと芭蕉である。
僧にもあらず、俗にもあらず。鳥鼠(ちょうそ)の間に名をかうぶり(蝙蝠)の、鳥なき島(鹿島)にも渡ろうと、門から舟に乗って、行徳というところに至る。

 舟から上がれば、馬にものらず、細脛の力(弱い脚力)をためそうと、徒歩で行く。
甲斐の国からある人が送ってくれた檜でつくった笠を、三人それぞれかぶって、八幡(千葉県市川市八幡)という里を過ぎると、釜ケ谷(かまがい:現鎌ケ谷)の原という所に、広い野があった。
まさに「秦甸(しんでん:秦の首都周辺)の一千里」とも言うべきか。はるかに見渡される。
筑波山が向こうに高く、男体山・女体山の二つの峯が並び立っている。
例の、中国に双剣の峯があると聞いているのは、廬山(ろざん:中国江西省にある山、仏教の霊場)の一隅である。

 ゆきは不レ申(まうさず)先(まづ)むらさきのつくばかな
(雪が降りかかっている姿は言うまでも無いが、紫峰といわれる筑波山の姿はまた素晴らしい。)

と詠んだのは、わが門人服部嵐雪の句だ。
いったいこの山は、ヤマトタケルノミコトが最初にお供の老人と連歌したという言葉を伝えて、連歌する人の起源とし(酒折宮での火焚老人の:「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜 日には十日を」の話)、連歌のことを「筑波の道」とも言うのだ。
せっかく筑波山にきて歌を詠まないのはもったいない。句を作らないで通り過ぎるものではない。実に愛すべき山の姿であるなあ。

 筑波山では萩は錦を地に広げたように咲いて、かつて橘為仲が陸奥守から都へ戻る時、宮城野萩を長櫃(ながびつ)に土産として持ち帰ったように、風流なことである。桔梗・女郎花・かるかや・尾花などが乱れあい、牡鹿が妻を慕ってあちこちで鳴くのも、大変趣がある。野の馬が放牧されて、所知ったる顔で群れ歩いているのも、また趣がある。

日がすでに暮れかかるころに、利根川のほとりの布佐という所についた。
この川で鮭をとるために網代を仕掛けて、江戸の市で商売をしている者あり、宵の間にその漁師の家で休んだ。
夜になり、その宿が魚の臭いが生臭く(寝ていられないので)、外の月あかりがくまなく晴れわたっているのにまかせて、夜舟を出発させて川を下り鹿島に至った。

鹿島に着くと、昼から雨がしきりに降って、月を見ることもできない。
山のふもとに、根本寺の前の和尚(仏頂上和尚)が今は世を逃れてこの寺にいらっしゃると聞いて、訪ねていって泊まった。
杜甫が(『古文真宝』にて)「人をして深省を発せしむ」と詠んでいるが、しばらく清らかな心を得た気持ちになった。

しばらく寝て、夜明けの空が少し晴れてきたころ、(仏頂)和尚が人々を起こすと人々は起きてきた。
月の光、雨の音、ただ趣深い景色ばかりが胸に満ちて、句を詠む題材もない。
はるばると月を見にきたのに句が詠めないということは不本意なことだ。
しかし、かの何がしの女(清少納言)だって、ほととぎすの声を聞いたものの、ついに歌を詠まないで帰ってしまったというから、(清少納言)は私にとって心強い味方といえるかもしれない。

   (仏頂和尚の寺にて)
をり/\にかはらぬ空の月かげも
     ちヾのながめは雲のまに/\  和尚(仏頂)
月はやし梢は雨を持ながら    桃青(芭蕉)
寺に寝てまこと顔なる月見哉   同(芭蕉)
雨に寝て竹起かへるつきみかな  曾良
月さびし堂の軒端(のきば)の雨しづく   宗波

   神前(鹿島神宮にて)
此松の実ばえせし代や神の秋   桃青(芭蕉)
ぬぐはヾや石のおましの苔の露  宗波
膝折ルやかしこまり鳴鹿の聲   曾良

   田家(田舎の家にて)
かりかけし田づらのつるや里の秋  桃青(芭蕉)
夜田(よた)かりに我やとはれん里の月   宗波
賎(しず)の子やいねすりかけて月をみる  桃青(芭蕉)
いもの葉や月待里の焼ばたけ    桃青(芭蕉)

   野(まわりの野にて)
もゝひきや一花摺(はなずり)の萩ごろも  ソラ(曾良)
はなの秋草に喰あく野馬哉   仝(曾良)
萩原や一よはやどせ山のいぬ  桃青(芭蕉)

帰路自準の家に宿ス(自準亭:潮来の本間道悦亭)
塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ  主人(自準:道悦)
あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ)   客(芭蕉)
月見んと汐引のぼる船とめて  曾良
(貞享四年(1687)八月二十五日)
              (終わり)


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鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/31 07:53

芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (2)

(解説)
 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。
しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀上野から桃印という甥と三人で暮らしていたのですが、寿貞と桃印が駆け落ちしてしまったのです。当時これは密通罪という大罪であり、二人に死罪もあるため、怪しまれることを恐れた芭蕉(桃青)は延宝八年(1680年)日本橋と云う繁華街から深川に移ったと云われています。

芭蕉庵02
芭蕉庵と臨川庵


さて、芭蕉が深川で暮らした「芭蕉庵」ですが、現在の墨田川と小名木川の合流地点のすぐ近くです。
上記の地図に示した「芭蕉稲荷神社」に芭蕉庵跡の碑が置かれています。また、すぐ近くの川を眺められるテラス公園(芭蕉庵史跡展望公園)に芭蕉の像が置かれています。芭蕉に関するいろいろな資料などは隅田川沿いのすぐ北側の「芭蕉記念館」にあります。

しかし日本橋から深川に移ったため、門下の人々の多くが来なくなり、かなり失意の気持ちが強かったと思われます。そんな時に知り合ったのが仏頂和尚です。
この仏頂和尚ですが、芭蕉庵から500m程の距離にあった「臨川庵」(現:臨川寺)にいました。
この臨川庵は、承応2年(1653)に鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだのが始まりとされます。
鹿島の根本寺住職は1674年に冷山和尚から仏頂和尚に引き継がれましたが、根本寺の寺領50石を鹿島神宮に取られそうになり、1675年頃から仏頂和尚は寺社奉行に訴えるために江戸臨川庵に逗留していました。この訴訟争いは7年ほどかかり勝訴がほぼ決まったのは天和2年(1682)だといいます。
またこの臨川庵は仏頂和尚が幕府に願い出て、正徳3年(1713)瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可され現在に至っています。
芭蕉はこの仏頂和尚から禅の心を会得し、精神的にもだいぶ変化があったようです。
そして仏頂和尚から鹿島の山の月見に誘われて、貞享四年(1687)8月15日の前の日に名月を見ようと曾良と宗波の2人の門下と鹿島詣に出掛けたのです。
さて、行きは小名木川から新川に入り行徳まで舟で進み、そこから布佐までは当時の木下(きおろし)街道を徒歩で進みました。
この小名木川と新川を通る舟の道は江戸時代の大きな舟運の大動脈でした。

少し歴史を見て見ましょう。
天正18年(1590)、江戸に入った徳川家康はまず行徳の塩田に目をつけました。この塩を江戸に安全に運ぶために、行徳を天領とし中川と隅田川を繋ぐ人工的な運河(水路)・小名木川を造り、また、文禄3年(1594)には利根川東遷事業という大工事を開始し、河川の改造をすすめています。
一方この小名木川は中川までつながりましたが、中川から行徳までは古川という自然の川を当初は使っていたのですが、東側がかなり蛇行して通行に支障をきたしていたために江戸幕府成立後の寛永6年(1629)に水路を直線化する工事が行われ、今の新川が出来ました。そして当初は行徳の塩の輸送が主な目的だったのですが、寛永9年(1632)には貨客船「行徳丸」が就航し、利根川を経由した船路が整備され、東北地方や関東地方と江戸を結ぶ水運が発達し、荷物の運搬や人の輸送にこの小名木川・新川のルートが水運の大動脈になったのです。

当時の様子を調べて見ましょう。
深川万年橋
富嶽三十六景 深川万年橋下 葛飾北斎(1760~1849)

芭蕉庵のすぐ近くの小名木川に架かかる萬年橋ですが、寛永年間(1624~ 1644)に木造の橋が最初に架けられたといいます。芭蕉が深川の芭蕉庵に住んでいた頃(1680~1694)から北斎の描いた時代までは100年以上離れていますので、芭蕉が歩いたと思われる萬年橋の姿とは少し違うかもしれません。
舟で荷物を運ぶためにアーチ形の橋になったと思われますが、最初はもう少し低い橋だったのかもしれません。徐々に船も大きくなり、橋下の高さも高くしたのかもしれません。
また橋が出来た当初はこの橋の近く(芭蕉庵近く)に江戸に運ばれてくる船荷などを見張るために、川船番所が置かれていました。しかし、船運の増加、江戸の町の拡大にともない、寛文元年(1661)6月に小名木川と(旧)中川との合流点に中川船番所が出来、番所の役目はそちらに移りました。したがって、芭蕉が住んでいた頃には中川船番所に移っていました。

中川合流01

現在は荒川放水路が出来、この中川と小名木川、新川の合流点の様子はわかりにくくなっていますが、上地図の赤丸が「中川船番所」があった場所で、現在再現され当時の資料なども展示されています。
また新川の破線で書いた水路が放水路で大きく削り取られています。
旧中川はこの上流側の東から蛇行して流れてきていましたが、荒川放水路で分断され、この場所では川の東側が中川(新)で西側が荒川です。この下流で中川は荒川に合流します。

中川口
歌川広重『名所江戸百景 』中川口

江戸百景の中川口は手前が小名木川で左側に船番所があった。向う奥が新川でその間が中川(旧)。

芭蕉たちは小名木川・新川と舟で進み、旧江戸川に入り、少し北上した「行徳」で船を降ります。
行徳からは馬にも乗らず徒歩で甲斐の国からある人が送ってくれた檜でつくった笠を三人がそれぞれかぶって、八幡(千葉県市川市八幡)という里を過ぎ、釜ケ谷(かまがい:現鎌ケ谷)の広い原を通って布佐まで行ったとありますので、これは木下(きおろし)街道を通ったと思われます。
木下街道は江戸と下利根方面を繋ぐ物流の最短ルートとして整備され、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿場が設けられていました。
gyoutoku.png

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木下(きおろし)街道 (行徳 ~ 木下)

この鹿島紀行では釜ケ谷(鎌ヶ谷)の広い原に野馬が放牧されていた様子が筑波山の景色と共に表現されています。また、木下街道という名前は当時あまり使われておらず、いろいろな呼び名で呼ばれていたようです。木下(きおろし)も利根川の水運で近隣の木材を川に下したことから名づけられたとも云われています。銚子などでとれた魚を江戸に運ぶ道としても利用されましたが、布佐と松戸を繋ぐ鮮魚街道(なま街道)が発達し、松戸から川を下って行徳まで運ぶ方が時間も短いのでそちらが生魚の輸送に使われ江戸の人口増加に貢献したのです。

この布佐~松戸の「なま街道」については昔記事にしたことが有ります。 ⇒ こちら(なま(鮮魚)街道)(2011年1月)

さて、芭蕉たちは布佐で漁師(鮭漁)の家で休んで、翌朝船で鹿島に向かう予定?でしたが、魚の臭いが生臭く寝ていられないので、月の明りがあるのを頼りに夜船で鹿島を目指しました。
布佐はこの木下の利根川すぐ上流にあります。利根川がこの付近が一番狭くなっており、海から川を昇る魚がいったんここに留まるため、魚を捕獲する網代場が設けられていました。
鮭漁は現在利根川では行われていませんが、赤松宗旦の『利根川図誌』(安政2年(1855))によると、
「利根川にてレン魚(さけ)を漁するは、毎年七月下旬より十月下旬までなり。利根川のレン魚(さけ)は布川(ふがわ)を以て最(さい)とす。これを布川鮭といふ。魚肥え脂つき、肉紅(くれない)にして臙脂(えんし)の如く、味亦冠たり。これを漁するは大網(おおあみ)、待網(まちあみ)、打切(うちきり)、歩掛(かじがけ)、無相(むそう)、流し、イクリ、バカッピキ、これ等は網なり。又ヤスにてつきてとるをヤスツキといふ。」と書かれており、利根川でも布佐と対岸の布川間で鮭漁(網代)がおこなわれていたようです。

                   (続く)

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鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/01 06:58

芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (3)

仏頂和尚について

今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。
仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。
芭蕉より2歳年上です。

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(仏頂和尚像:根本寺蔵)                (大儀寺の仏頂和尚石像)

白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり)の里」の遺称地とされています。
現在の北浦に架かる鹿行大橋を行方側から鹿島へ渡った先(東側)になります。
生まれた場所は札村の「明蔵寺」(後の普門寺)の近くだったようで、現在白鳥観音堂があり、その奥が「普門寺」となっています。

仏頂和尚が仏門に入るきっかけとなったというエピソードが残されていました。

「近所の明蔵寺の柿の木に登って果実を採っていると、その寺の老僧が来て見つけた。これが父に知れると叱られるがなどと当惑していると、老僧は「今年は数が少なくなった、来年また早く来て採れよ」と慈愛に満ちた言葉をかけて頭を撫でてくれた。幼い彼はこれに深く感動して、仏道に入る決心をしたという。」(高木蒼梧箸『俳諧人名辞典』より)

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(太陽郵便局横の細い道を上に上ったところにある「白鳥観音堂」)

fumonji03.jpg
(観音堂の裏手から振り返った写真:左手が普門寺と思われる建物:その前は広場と畑?)

以前訪れた時の記事 ⇒ こちら

仏頂和尚(河南)は8歳で(鹿島)根本寺の冷山和尚のもとに入り禅の世界に入り、修行を続け、14歳の時に全国修行の旅に出ました。
その後各地を旅し、33歳で根本寺の住職(21世)を冷山和尚から引き継ぎます(1674年)。
その後根本寺の寺領50石を鹿島神宮との間で争いがあり、仏頂和尚は江戸深川の「臨川(りんせん)院」に行き(1975年?)、寺社奉行に訴えました。この裁判に勝利したのは天和2年(1682)です。その後は鹿島の方に戻り、根本寺の住職を弟子に譲り、根本寺敷地内にある「長興庵」という隠居所に移ったとされています。

仏頂和尚と芭蕉との交流は1680年~1682年は頻繁に往来していたようです。
仏頂和尚が鹿島に戻った後も、臨川院の寺籍の訴えなどもあり、度々深川に来ていたのかもしれません。

記録では北浦の少し上流の阿玉という地区にある「大儀(おおぎ)寺」での縁起では、
「慶長年間(1596~1615)華蔵曇下(けぞうどんげ)和尚が草庵を開き,その後,元和2年(1616)阿玉村の領主,荒野右京進が梅易陽禅師を迎えて法花山大儀庵にし、その後六代を経て廃庵となった。
一方、近くの札村出身の仏頂阿南禅師が、延宝8年(1680)に鹿島の根本寺を辞して、貞享元年(1684)に荒廃していたこの大儀庵に入り,復興に努力し,寺名も宝光山大儀寺と改めた」とあります。

このため、鹿島紀行(1687年8月)で仏頂和尚と会った場所には2案あります。
一つは根本寺の隠居所「長興庵」、もう一つがこの「大儀(おおぎ)寺」です。
現在の雰囲気としては「大儀寺」の方がイメージは近いのですが、舟で鹿島近くの大船津に着けば根本寺は比較的近いので、この「長興庵」説が有力と云われているようですが、大儀寺は結構北にありますが当時の舟運を考えると、舟なら比較的近く、大船津からも北浦の「札」あたりには簡単に行くことが出来たと思われます。
私としては両方訪ねてみたけれど大儀寺の方に一票と云ったところでしょうか?


konnponji01.jpg
(鹿島 根本寺)

konponji02.jpg
(根本寺の芭蕉句碑)
「月はやし梢は雨を持ながら」 この歌碑が本堂の入口の右手に置かれている。

ougiji01.jpg
(宝光山大儀寺)

oogiji02.jpg
(大儀寺の芭蕉句碑)

「寺に寝て まこと顔なる月見哉」 芭蕉(桃青)


根本寺:
 ・根本寺(鹿嶋)-芭蕉句碑 ⇒(こちら
 ・常陸国における源平合戦(20) 鹿島氏終焉の地(記事の後ろの方) ⇒(こちら
 (鹿島根本寺は鹿島氏歴代の墓所でもあり、「鹿島前惣大行事」の碑が置かれています)

大儀寺:
 ・大儀寺ー芭蕉月見の寺 ⇒(こちら
 ・大儀寺(2)-仏頂禅師 ⇒(こちら
 ・大儀寺(3)-句碑 ⇒(こちら

仏頂和尚は、芭蕉たちの月見の後に、黒羽の雲厳(岩)寺に行き、裏山で草庵を結び修行しました。
月見の2年後の1689年に芭蕉たちは「奥の細道」に旅立ちますが、芭蕉はこの仏頂和尚(禅師)が修行した草庵を訪ねています。
ただ雲厳寺に当時仏頂和尚は居なかったようです。
また草庵も以前修行していた場所となっているので、全国行脚したときに修行していたのかもしれません。
仏頂和尚はこの雲厳寺で正徳5年(1715)12月28日、73歳で没しました。

unngannji01.jpg
(栃木県大田原市に雲厳寺(雲岩寺))

unngannji02.jpg
(雲厳寺境内にある仏頂和尚と芭蕉の句碑)

竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば (仏頂和尚)

木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立 (芭蕉)

雲厳寺:
 ・雲厳寺(1) ⇒ (こちら
 ・雲厳寺(2) ⇒ (こちら


鹿島舟ルート

芭蕉の 布佐 ~ 鹿島 のルートを推察してみよう。
布佐から夜船で利根川を下り、佐原から 横利根川 を通って牛堀に出て、常陸利根川を 潮来へ
潮来から 前川を通って 大船津へ

  1) 大船津で下りて 根本寺へ
  2) 大船津から北浦を経由して札村へ徒歩で大儀寺へ

帰りは 鹿島神宮~大船津(舟)~前川~潮来の本間家自準亭(泊)(数日) ~元に戻って利根川経由関宿経由荒川~江戸へ

大雑把にこのように推論。

この鹿島紀行(鹿島詣)は、潮来の自準亭で書いたと推察されます。
書かれたのは「8/25日」であるので10日余りも本間家に滞在したのか??

          (続く)

鹿島紀行を巡る最初から読むには ⇒ こちらから




鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/02 13:38

芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (4)

 芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。

書かれている句は次の5か所に分類されています。

1)仏頂和尚の庵にて
をり/\にかはらぬ空の月かげも
     ちヾのながめは雲のまに/\  和尚
月はやし梢は雨を持ながら    桃青
   konponji02.jpg(根本寺)

寺に寝てまこと顔なる月見哉   同
   oogiji02.jpg
  (大儀寺)

雨に寝て竹起かへるつきみかな  曾良
月さびし堂の軒端(のきば)の雨しづく   宗波

2)神前(鹿島神宮)
此松の実ばえせし代や神の秋   桃青
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  (奥宮前~御手洗池間通路)(鹿島神宮HPより借用)

ぬぐはヾや石のおましの苔の露  宗波
膝折ルやかしこまり鳴鹿の聲   曾良

3)田家
かりかけし田づらのつるや里の秋  桃青
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  (潮来市大洲 大六天神社の石碑(明治9年建立))

夜田(よた)かりに我やとはれん里の月   宗波
賎(しず)の子やいねすりかけて月をみる  桃青
いもの葉や月待里の焼ばたけ    桃青

4)野
もゝひきや一花摺の萩ごろも  ソラ
はなの秋草に喰あく野馬哉   仝
萩原や一よはやどせ山のいぬ  桃青

5)帰路自準の家に宿ス
塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ  主人
あきをこめたるくねの指杉   客
月見んと汐引のぼる船とめて  曾良
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  (小美玉市小川の天聖寺の本間家の墓所)

 また、潮来市内の長勝寺に上の3句を彫った句碑(石碑)がある。

鹿島紀行の句ではありませんが、他に句碑があるのは
 ・枯枝に鴉のとまりけり秋の暮 (鹿島神宮要石:鹿嶋市)
 ・この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し (息栖神社:神栖市)
 ・この道やゆく人なしに秋のくれ (化蘇沼稲荷神社:行方市内宿)
 ・けふばかり人も年よれ初時雨 (月蔵寺:鉾田市)
 ・名月に麓の霧や田の曇り (鉾田市大和田)
 ・春もややけしきととのふ月と梅 (修善院:小美玉市吉影)
 ・梅が香にのっと日の出る山路かな (鉾田市石八戸公民館)
 ・雲折々人を休る月見かな (光明院:神栖市波崎)

などなど・・・・まだ探せばきっとたくさんあると思われます。(茨城県内には60か所以上あるそうです)

鹿島紀行を巡る最初から読むには ⇒ こちらから


鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/04 07:51

芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (5)

「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。

今回は鹿島紀行の最後に書かれている

 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭)
 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ  主人(自準:道悦)
 あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ)   客(芭蕉)
 月見んと汐引のぼる船とめて  曾良
 (貞享四年(1687)八月二十五日)

という部分の検証です。

芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚のところで、中秋の名月を鑑賞し、句を詠み、恐らく翌日に鹿島神宮にお詣りして
その足で鹿島の大船津あたりから舟で潮来へ行ったものと思われます。
大船津からは前川を通って潮来へは船に乗ったままでも行けるし、対岸に渡って徒歩でもそれ程の距離でもありません。

この芭蕉の鹿島詣の100年以上後の文化14年(1817)5月26日に小林一茶は鹿島詣の後、大舟津より舟で板久(潮来)に来て(旅館)俵屋に宿泊します。、そして翌日板久(潮来)から舟で銚子へ行っています。
一茶の「七番日記」には、
 ・大舟津ヨリ舟渡 六十四文、
 ・板久 の俵屋に泊まる(百五十 文)
 ・卯上刻出船 二百六十四文 未下刻銚子ニ入
となっています。
このときの銚子は銚子の手前の「松岸」あたりまで舟で行ったようです。
板久(潮来)から船が出たのは「卯上刻」となっていますので、朝の5時から6時の間でしょうか?
帆引き船が走っていたと考えられますので、風の向きが良い時間帯になるのだと思われます。

さて、一茶の話は別にして、芭蕉たちは潮来では「自準亭」に泊まっています。
自準亭は本間道悦(医師)が開いた邸宅で、ここで医療の他に読み書きなどの面倒も見ていたようです。
芭蕉とは日本橋にいた時に、芭蕉とは近くに住んでいて、芭蕉が本間道悦医師にかかったことから知り合いになり、道悦も芭蕉から俳句を習っていたようです。

自準亭地図02

本間道悦の自準亭は潮来の前川沿いの「天王橋」のすぐ前でした。

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今では通り沿いの家の角に「史跡 本間自重亭跡」という木のポールがあるだけで、説明版はありません。

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またこの橋のたもとには鳥居があり、常夜灯が移設設置されています。
丁度この北側の市役所と第一中学校の高台が、天王台と呼ばれ、現在「素鵞熊野神社」があります。
この素鵞神社が江戸時代の天王社(牛頭天王を祀る)で、この天王社が昔のの近くにあったものと思われます。
神社のHPでは「素鵞熊野神社は、辻の天王原に祭られていた小社を、文治4年(1188年)に潮来の天王河岸へ移し、牛頭天王と呼んだのが素鵞神社のはじまりである。」と書かれています。
また、調べて見ると、この天王河岸にあった素鵞神社を現在の北側に遷座したのは「元禄9年/1696年」とありましたので、芭蕉が自準亭に滞在したときは、この自準亭のすぐ前にあったと考えられます。

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(天王橋の天王社があった所にある鳥居。又すぐ横に素鵞神社の仮の舎があり、そこにも小さな鳥居がある)

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この常夜灯は前川沿いに昭和14年み建てられたものが、東日本大震災の際に破損して、それをこの場所に修復して移設したという。

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天王橋から西側の前川アヤメ園側を眺めると、鹿島線の線路がすぐ近くを通っています。 写真の左手側が潮来駅です。

また東側を眺めると

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すぐ東側に観光船着き場がありました。

出はそちらに移動しましょう。すぐ隣ですので1分もかかりません。

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「水郷古民家磯山邸」
120年ほど前に建てられた古民家が市に寄贈されたので、内部や庭をリニューアルして、当初は観光イベントなどで、公開されていましたが、数年前より、1棟まるまる1日1組限定に宿泊施設として貸し出していました。

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また、前川沿いにあった津軽屋敷のとなりに残されていた石倉を喫茶店などとしてオープンさせていました。

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津軽屋敷のところは広場となっており、観光用の建物とここから「ろ舟」に乗れるので、そのチケット売り場があります。

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最近アヤメ以外の潮来の魅力創出の力を入れている水郷磯山邸も楽しみが増えてよいのですが、観光案内の説明には東側の「愛友酒造」さんの酒蔵見学などが書かれていましたが、この自準亭については記事を丹念に探さないとほとんど見つかりませんでした。

次回本間道悦について少し詳細を書いておきたいと思います。


鹿島紀行を巡る最初から読むには ⇒ こちらから


鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/14 11:39

芭蕉の「鹿島紀行」を巡って (6) 最終回

 松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。
この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。

芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。
場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。
芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。

一方本間道悦は、近江大垣藩の武士の家に三男として生まれますが、15歳の時に島原の乱(1637年)に出陣し、足を負傷してびっこになってしまったため武士をあきらめ、医に志ざし、大垣藩(戸田家)の藩医となりました。
その後、医術の研究を志して、江戸の日本橋青物町に居を構えました。
医術は評判となり、松尾芭蕉の日本橋小田原町とはすぐ近くであり、芭蕉もこの道悦とは親交を深めていたようです。
道悦は芭蕉から俳諧を習い「松江」という俳号を得ており、芭蕉は道悦から医術、薬草知識などを教えてもらっていたようです。

芭蕉が日本橋を離れ、深川に移ったのは1680年であり、その2年後の延宝10年(1682)に道悦は江戸から常州常陸国の潮来天王河岸近くに移り住み、「自準亭」という診療所を開きました。

また道悦は、ここで、診療所だけではなく「読み書き・そろばん」を中心に「礼儀作法」などを教える寺子屋の機能もあり、庶民教育にも力を入れていたようです。

芭蕉たちが、鹿島の月見の後にの自準亭を訪れ、数日間滞在したと云われています。
潮来の方の記述では10日間~15日間ほど滞在し、ここでこの「鹿島紀行」の内容を書いて残し、その本間家に伝わっていた芭蕉の真蹟を宝暦2年(1752)に『鹿島詣(まいり)』として出版したのが、広く世に知られるところとなったと書かれています。

残された記録では芭蕉が書いたとされる本文は8月25日と書かれており、月見は8月15日ですので10日ほど間隔があいています。
これをこの自準亭で書いたとすれば自準亭で10日から15日程度滞在していても辻褄は合います。
ただ、滞在していた時の内容がわかりませんので、江戸に戻ってから鹿島紀行を書いたなどとも多くの書物でも書かれており、潮来で書いたことを疑問視する見方もあるようです。

私としては潮来で書いたという説の方がより真実味をもっているように感じます。

これは現在「鹿島紀行」というタイトルで出版されたのは寛政2年(1790)刊行といわれていますので、1752年に刊行した鹿島詣の方が先であり、本間家に残されていた芭蕉の真筆とされるものから、潮来の古刹長勝寺に石碑がつくられています。

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長勝寺に残されている芭蕉たちの句碑(芭蕉の真筆から採ったと言われている)

では芭蕉たちはこの潮来の地で何をしていたのでしょうか?
伝わっている話としては芭蕉は道悦から医術を学び、免状を得たとも云われており、ここで医術の知識を学んでいたのだと思われます。
それを考える上で、この自準亭の様子を考えるのでふさわしい家が、本間家がその後移り住んだ小川町(現小美玉市)に残されています。

初代道悦から4代後の本間家5代玄琢(げんたく)の生家が保存されているのです。
この玄琢は水戸藩の小川に「稽医館(けいいかん)」という水戸藩で最初の郷校(医学専門校を建てるのに尽力しています。

玄琢生家

以前書いた記事:玄琢の生家 ⇒ こちら

道悦はこの潮来の地で、元禄10年(1697年)に79歳の生涯を終えたが、その後、2代目・道因、3代目・道仙はここ潮来で医業を継ぎ、道仙が潮来から小川に移り、医者の家業を継いでいきます。

潮来と小川は同じ水戸藩であり、霞ケ浦を経由した船運の要所地でもありました。
4代道意5代玄琢以降は歴代水戸藩医として活躍しました。

中でも8代の玄調(棗軒)は水戸藩主徳川斉昭に仕え、西洋医学を修め麻酔を使った外科手術(わが国最初の脱疽下肢切断術施行者)や種痘をしたりと、近代医学の基を築いたとされる人物で、水戸三の丸に銅像となっています。

また芭蕉から100年以上後の文化14年(1817)に、小林一茶がこの小川の本間家を訪れています。
一茶は小川の本間家で1泊し、そこから化蘇沼稲荷神社(現行方市内宿町)まで4里を馬で送ってもらったという。
そして、この近くの北浦湖畔の帆津倉に住む俳人洞海舎河野涼谷(本名:河野新之右衛門)宅に1泊し、そこから北浦を渡って、鹿島神宮の方に行っています。
(詳細は ⇒ こちらに記事としています)

そのため、小川に移ってからも江戸などの俳人との交流もあったようです。
潮来前川の水運の歴史を見ていくと、江戸時代初期は東北地方などから江戸へ船で運ぶ荷物は、銚子沖を越えることが難しく、水戸付近の涸沼へ入り、その先、北浦や小川付近の霞ケ浦に流れ込む川なども使いながら陸と川を経由して「潮来」「小川」(共に水戸藩)で荷物を詰めかえ、江戸まで利根川経由で運んでいました。
しかし江戸中期以降になると船も大型化し、銚子沖の潮流を越えられるようになり、銚子から利根川を経由するか、そのまま江戸湾から江戸に船で運ぶようになりました。

潮来の前川沿いの仙台藩屋敷・河岸などの役目も徐々に衰退し、銚子の河岸や屋敷の方が中心となっていきました。

丁度それに呼応して、この本間家も潮来から小川に移り、水戸藩の医療の発展に寄与していったのです。


               芭蕉の「鹿島紀行」を巡って  ~ 終り ~


鹿島紀行を巡る最初から読むには ⇒ こちらから

鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/15 09:55
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