鷲の話 - 鷲と酉の市
正月から、天狗、カラスの話を書いてきました。これは日本神話に登場する神からの連想です。
そのため、連想を少し広げて「鷲」(わし)の話をしてみたいと思います。
古事記や日本書紀などをじっくり読んでもいないし、神話など子供向けに書かれた昔話を少し読んだことがある程度でした。
また、書かれている内容もつじつまの合わないような作り話ではないかと誰もが感じ、まともに取り上げても面白くもなんともない話しばかりなのです。
しかし、石岡に来て神社や寺を回ってみているうちに、少し今までの私のイメージと違った世界があるように感じてきたのです。
何か昔から日本人の心の奥に残されている世界。
もしかしたらそれは、大和王朝が都合の良いように私たちを洗脳した世界かもしれませんが、どういう訳か各地に深く根をおろし、残り続けた世界なのです。
さて、今日から「鷲の話」です。鷲(わし)が神話に登場するのです。
神話では、天岩戸に御隠れになった天照大神が、岩戸の前でアメノウズメ(天宇受売命/祖天鈿女命)(後に猿田彦と結婚したと思われる猿女君(サルメのキミ))が胸を露わにして踊りますが、その時、そこには八百万の神が集まっていました。
そしてその中の一人の神が弦楽器を奏でます。
するとそこに一羽の鷲が弦の先に止まります。
そのため、その奏でていた神の名を「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」と名付けるのです。
これは何を意味しているのでしょうか?
問題なのは、この天日鷲命が阿波忌部の祖であることなのです。
そして「鷲神社」など鷲を祀ったと思われる神社が千葉から東京や茨城の方に多く残されているのです。
先日テレビで大化の改新の時に土地の名前を二文字にすることが決められたというようなことが言っていました。
この時に現在の徳島は「粟」から「阿波」に変わり、大阪の「泉」も「和泉」となったとのことでした。
そうすると「粟国」忌部氏が黒潮に乗り船で千葉房総に渡り、その地の名前が「安房(あわ)」となったことも頷けます。
鷲や「粟」「麻(あさ)=阿波からもたらされたもので総の国になった」などと関係する神社などを探していくと、きっと阿波忌部氏との関係がどこかでつながっているように思われます。
ところで「鷲」と書いて「わし」ではなく「とり」「おおとり」と読む神社も多いことに気がつきました。
とりはまた「酉」とも書きます。
東京などで昔から商売繁盛の熊手を売る「酉の市」がたくさんあります。
有名なのが浅草ですが、ここは正式には「大本山-長國山 鷲在寺(じゅせんじ)」といい「鷲大明神」を祀っています。
鷲大明神は「鷲妙見大菩薩」ともいい通称「おとりさま」と呼ばれています。
鷲を祀っているのは関西にはあまりなく、関東が多いと聞きましたが、ほとんどが事業・商売の繁盛祈願のところになっています。
これも恐らく阿波忌部氏の影響だと思います。
知らず知らずに、日本の中に染みつき「商売繁盛」といって熊手を買って福をかき集めているのでしょう。
もっとも熊手は大分後からのものでしょうね。
なお、神武東征で熊野で戦った時に金鵄(きんし)=金色の鵄(とび)が出てきます。
これは火の鳥(フェニックス、不死鳥)などの基になったようにも思いますが、おそらく太陽神を意味し、先日書いたヤタガラスとどこかでダブリます。
太陽の中心に黒いカラス(いつの間にか三本足になった)がいるのです。
その三本足のカラスの思想は中国にもあり、隣りの韓国(昔の高句麗の壁画にある)にもあります。
いずれも太陽神と関係があるように考えられています。
そうなると、大和民族は朝鮮を渡って日本にやってきた民族に違いありません。
蛇足ですが「鵄(トビ)」ですが、将棋(本将棋ではない)に「古鵄(こてつ)」と呼ばれる駒があり、これは成ると「天狗」になるといいます。
何故でしょうかね?
鳶(とび)が鷹(たか)を生むとも言いますので、裏に成れば「大鷹」などならわかるのですが・・・。
そのため、連想を少し広げて「鷲」(わし)の話をしてみたいと思います。
古事記や日本書紀などをじっくり読んでもいないし、神話など子供向けに書かれた昔話を少し読んだことがある程度でした。
また、書かれている内容もつじつまの合わないような作り話ではないかと誰もが感じ、まともに取り上げても面白くもなんともない話しばかりなのです。
しかし、石岡に来て神社や寺を回ってみているうちに、少し今までの私のイメージと違った世界があるように感じてきたのです。
何か昔から日本人の心の奥に残されている世界。
もしかしたらそれは、大和王朝が都合の良いように私たちを洗脳した世界かもしれませんが、どういう訳か各地に深く根をおろし、残り続けた世界なのです。
さて、今日から「鷲の話」です。鷲(わし)が神話に登場するのです。
神話では、天岩戸に御隠れになった天照大神が、岩戸の前でアメノウズメ(天宇受売命/祖天鈿女命)(後に猿田彦と結婚したと思われる猿女君(サルメのキミ))が胸を露わにして踊りますが、その時、そこには八百万の神が集まっていました。
そしてその中の一人の神が弦楽器を奏でます。
するとそこに一羽の鷲が弦の先に止まります。
そのため、その奏でていた神の名を「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」と名付けるのです。
これは何を意味しているのでしょうか?
問題なのは、この天日鷲命が阿波忌部の祖であることなのです。
そして「鷲神社」など鷲を祀ったと思われる神社が千葉から東京や茨城の方に多く残されているのです。
先日テレビで大化の改新の時に土地の名前を二文字にすることが決められたというようなことが言っていました。
この時に現在の徳島は「粟」から「阿波」に変わり、大阪の「泉」も「和泉」となったとのことでした。
そうすると「粟国」忌部氏が黒潮に乗り船で千葉房総に渡り、その地の名前が「安房(あわ)」となったことも頷けます。
鷲や「粟」「麻(あさ)=阿波からもたらされたもので総の国になった」などと関係する神社などを探していくと、きっと阿波忌部氏との関係がどこかでつながっているように思われます。
ところで「鷲」と書いて「わし」ではなく「とり」「おおとり」と読む神社も多いことに気がつきました。
とりはまた「酉」とも書きます。
東京などで昔から商売繁盛の熊手を売る「酉の市」がたくさんあります。
有名なのが浅草ですが、ここは正式には「大本山-長國山 鷲在寺(じゅせんじ)」といい「鷲大明神」を祀っています。
鷲大明神は「鷲妙見大菩薩」ともいい通称「おとりさま」と呼ばれています。
鷲を祀っているのは関西にはあまりなく、関東が多いと聞きましたが、ほとんどが事業・商売の繁盛祈願のところになっています。
これも恐らく阿波忌部氏の影響だと思います。
知らず知らずに、日本の中に染みつき「商売繁盛」といって熊手を買って福をかき集めているのでしょう。
もっとも熊手は大分後からのものでしょうね。
なお、神武東征で熊野で戦った時に金鵄(きんし)=金色の鵄(とび)が出てきます。
これは火の鳥(フェニックス、不死鳥)などの基になったようにも思いますが、おそらく太陽神を意味し、先日書いたヤタガラスとどこかでダブリます。
太陽の中心に黒いカラス(いつの間にか三本足になった)がいるのです。
その三本足のカラスの思想は中国にもあり、隣りの韓国(昔の高句麗の壁画にある)にもあります。
いずれも太陽神と関係があるように考えられています。
そうなると、大和民族は朝鮮を渡って日本にやってきた民族に違いありません。
蛇足ですが「鵄(トビ)」ですが、将棋(本将棋ではない)に「古鵄(こてつ)」と呼ばれる駒があり、これは成ると「天狗」になるといいます。
何故でしょうかね?
鳶(とび)が鷹(たか)を生むとも言いますので、裏に成れば「大鷹」などならわかるのですが・・・。
鷲の話 - 千手院山門彫刻
石岡にある国分寺は昔の常陸国分寺の跡があるお寺ですが、昔の国分寺が続いてきた寺ではありません。
昔の国分寺は七重の塔などがあり、かなりおおきな規模であったと思われますが、全国どこを見ても当時の寺が続いてきたところはないでしょう。
どこも、昔ここに国分寺があった場所として礎石などが残されているのです。
しかし、常陸国分寺は幸いなことに、七重の塔礎石も発見され、中門跡、講堂跡、金堂跡なども残されている数少ない貴重な場所であることは確かです。
その今ある国分寺の境内に「千手院山門」という藁葺屋根の山門が残されています。

この千手院は江戸時代はかなり大きなお寺(菩提山千手院来高寺)で、中町通りから香丸通りを通って、泉町へ曲がらずに真っ直ぐ行ったすぐ正面にありました。
国分寺は逆にこの千手院の末寺のような位置関係にあったようです。
今はこの山門が残されているだけなのですが、ここに鷲の彫刻があります。

鷲が子猿を鋭い爪で捕まえているように見えます。
しかし、山門を改修する時にその意味が判ったといいます。
それによると、鷲は慈悲深い観音様の化身であり、猿は煩悩に身を焦がして奈落の底に転げ落ちようとしている人間を現しており、それを救済するために鷲となって助けているのだそうです。
しかし、神話にでてくる鷲を知るともう少し違っても見えてくるようにも思います。
単に説明文をどこかで見ただけで、納得できない物は沢山あるように思います。
もちろん本来の意味などは私にはわかりません。
少し考えてみたいという気持ちがあるだけです・・・。
なお、千手院の本寺は京都東寺です。従って真言宗です。
東寺観智院には宮本武蔵の「鷹の図」の壁画があります。
何故「鷹」なのか? 今まででしたら、武蔵の剣豪としての勢いなどで絵を見てしまいがちですが、「五輪書」の武蔵の心境を想い、考えてみることもできそうに思います。
昔の国分寺は七重の塔などがあり、かなりおおきな規模であったと思われますが、全国どこを見ても当時の寺が続いてきたところはないでしょう。
どこも、昔ここに国分寺があった場所として礎石などが残されているのです。
しかし、常陸国分寺は幸いなことに、七重の塔礎石も発見され、中門跡、講堂跡、金堂跡なども残されている数少ない貴重な場所であることは確かです。
その今ある国分寺の境内に「千手院山門」という藁葺屋根の山門が残されています。

この千手院は江戸時代はかなり大きなお寺(菩提山千手院来高寺)で、中町通りから香丸通りを通って、泉町へ曲がらずに真っ直ぐ行ったすぐ正面にありました。
国分寺は逆にこの千手院の末寺のような位置関係にあったようです。
今はこの山門が残されているだけなのですが、ここに鷲の彫刻があります。

鷲が子猿を鋭い爪で捕まえているように見えます。
しかし、山門を改修する時にその意味が判ったといいます。
それによると、鷲は慈悲深い観音様の化身であり、猿は煩悩に身を焦がして奈落の底に転げ落ちようとしている人間を現しており、それを救済するために鷲となって助けているのだそうです。
しかし、神話にでてくる鷲を知るともう少し違っても見えてくるようにも思います。
単に説明文をどこかで見ただけで、納得できない物は沢山あるように思います。
もちろん本来の意味などは私にはわかりません。
少し考えてみたいという気持ちがあるだけです・・・。
なお、千手院の本寺は京都東寺です。従って真言宗です。
東寺観智院には宮本武蔵の「鷹の図」の壁画があります。
何故「鷹」なのか? 今まででしたら、武蔵の剣豪としての勢いなどで絵を見てしまいがちですが、「五輪書」の武蔵の心境を想い、考えてみることもできそうに思います。
鷲の話 - 鷲塚と鰻塚
鷲の話の第3話です。
今日は私のHPで紹介した「三村城秘話」に登場する「鷲(わし)塚」と「鰻(うなぎ)塚」の話を紹介しましょう。
石岡(府中)の平氏・大掾(だいじょう)氏が滅びる寸前(戦国時代末期)の話です。
府中城の東の守りを固めるために三村城が今の三村小学校のところの高台にありました。
城主は府中城主大掾清幹の弟である「常春」が任じられました。
常春はまだ若かったのですが、三村のまわりを固め、常春寺を建て、熱心にその地を守るのに尽力したように思います。
「南城実録・三村記」などが残されており、当時を偲ぶことができるようです。
さて、この落城にまつわる話として「大鷲」と「大鰻」の決闘の話が伝わって残っているのです。
小川城の園部は府中城の兄清幹の妻「鈴姫」の実家です。
その園部が佐竹氏の味方となって府中城に攻めてくる報が入ります。
そのため、三村城の本丸に重臣たちが集まり会議をしていた時に、近くの霞ケ浦の岸で、「大鰻」とそれを空から「大鷲」が襲って、ものすごい戦いがはじまったのです。
戦いは、両方が傷つき、死んでしまったといいます。
鰻は胴周りが1尺もあり、耳や歯がある大きなウナギだったというのです。
城の兵士は園部を攻めるために出陣しますが、そのスキをついて空になった城を小田氏が1000名の兵をもって攻めてきます。
城主「常春」は城の麓の田に馬の足を取られ自害して果てます。
この話に出てきた「大鷲」「大鰻」を葬った場所が「鷲塚」「鰻塚」とよばれて残されてきたのです。
しかし、耕地整理の堤防増築の際にこの塚を削ったところ、中から2体の人骨がでてきて、古墳だったということがわかったのです。
この話には少しおまけがあり、鷲と鰻が争っていたのを城の兵士である「飯田七郎左衛門」が撃ち殺したとあるのです。
なぜ、この造られたような話に人の名前が出てくるのでしょうか?
一般に作り話であればこのような具体的な名前は出てこないか、もっと有名な人の名前に置き換わっていることが多いはずです。
この話を読むとその時の光景が目に浮かぶようです。
鷲が神から使わされた鳥であるなら、この鰻は何を指しているのでしょうか。
鰻は淡水魚とは言われますが、深海を周遊して戻ってくるとも言われています。
昔から鰻は食用に食べられていたようです。
鰻を祀ったお宮や「鰻塚」などが各地にあります。これは、鰻を食べて病気が治ったなどと言い伝えが多くあり、ウナギを祀ったものと思われます。
この話には判らないことがまだたくさん残されているように思います。
石岡の人は何故このような面白い話に興味を示さないのでしょうかね?
私のHPを読んだ鎌倉の人が興味のあることを書いてきた。
そして自分のHP(鎌倉、幻の風景)に紹介している(岩瀬、伝説が生まれた所)。
この記事も面白い解釈だと思う。
今日は私のHPで紹介した「三村城秘話」に登場する「鷲(わし)塚」と「鰻(うなぎ)塚」の話を紹介しましょう。
石岡(府中)の平氏・大掾(だいじょう)氏が滅びる寸前(戦国時代末期)の話です。
府中城の東の守りを固めるために三村城が今の三村小学校のところの高台にありました。
城主は府中城主大掾清幹の弟である「常春」が任じられました。
常春はまだ若かったのですが、三村のまわりを固め、常春寺を建て、熱心にその地を守るのに尽力したように思います。
「南城実録・三村記」などが残されており、当時を偲ぶことができるようです。
さて、この落城にまつわる話として「大鷲」と「大鰻」の決闘の話が伝わって残っているのです。
小川城の園部は府中城の兄清幹の妻「鈴姫」の実家です。
その園部が佐竹氏の味方となって府中城に攻めてくる報が入ります。
そのため、三村城の本丸に重臣たちが集まり会議をしていた時に、近くの霞ケ浦の岸で、「大鰻」とそれを空から「大鷲」が襲って、ものすごい戦いがはじまったのです。
戦いは、両方が傷つき、死んでしまったといいます。
鰻は胴周りが1尺もあり、耳や歯がある大きなウナギだったというのです。
城の兵士は園部を攻めるために出陣しますが、そのスキをついて空になった城を小田氏が1000名の兵をもって攻めてきます。
城主「常春」は城の麓の田に馬の足を取られ自害して果てます。
この話に出てきた「大鷲」「大鰻」を葬った場所が「鷲塚」「鰻塚」とよばれて残されてきたのです。
しかし、耕地整理の堤防増築の際にこの塚を削ったところ、中から2体の人骨がでてきて、古墳だったということがわかったのです。
この話には少しおまけがあり、鷲と鰻が争っていたのを城の兵士である「飯田七郎左衛門」が撃ち殺したとあるのです。
なぜ、この造られたような話に人の名前が出てくるのでしょうか?
一般に作り話であればこのような具体的な名前は出てこないか、もっと有名な人の名前に置き換わっていることが多いはずです。
この話を読むとその時の光景が目に浮かぶようです。
鷲が神から使わされた鳥であるなら、この鰻は何を指しているのでしょうか。
鰻は淡水魚とは言われますが、深海を周遊して戻ってくるとも言われています。
昔から鰻は食用に食べられていたようです。
鰻を祀ったお宮や「鰻塚」などが各地にあります。これは、鰻を食べて病気が治ったなどと言い伝えが多くあり、ウナギを祀ったものと思われます。
この話には判らないことがまだたくさん残されているように思います。
石岡の人は何故このような面白い話に興味を示さないのでしょうかね?
私のHPを読んだ鎌倉の人が興味のあることを書いてきた。
そして自分のHP(鎌倉、幻の風景)に紹介している(岩瀬、伝説が生まれた所)。
この記事も面白い解釈だと思う。
鷲の話 - 鷲神社
鷲の話も4話目になります。
今日は鷲神社(わしじんじゃ)(おおとりじんじゃ)の名前がつく神社を少し探してみました。
ここ石岡には探し方が悪いかもしれませんが、見つかりません。
となりのかすみがうら市に1件、土浦市に3件の神社があります。すべて「わしじんじゃ)と読むようです。
私が行ったことがあるのは土浦市大畑にある「鷲神社」です。
ここは県指定無形民俗文化財「からかさ万灯」という祭りがおこなわれることで有名です。
これは、毎年8月15日に行われ、大きなから傘に花火を仕掛け、それを神社の鳥居から綱で結び、その綱にも火薬を仕込んで導火線のように火がから傘に伝わります。
から傘からは一斉に花火がひろがり傘の先から周囲に火花が滴り落ちます。
昔は傘が回転したのですが、今は危険だというので固定されているようです。
お祭りの目的は「雨乞い」と言われています。
その他、つくば市手代木の大鷲(おおわし)神社、神栖市矢田部の大鷲(おおとり)神社などたくさんの神社がありいずれも天日鷲命を祀っています。
さて、石岡にはまったくないかと言うと、実は染谷佐志能神社が天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀っているといいます(神社データベース)。
石岡市史や現地の説明板ではなどでは、この神社は龍神山の龍神(雨の神)を祀るとしており、染谷にある佐志能神社は高龗(おかみ)神(雌龍)、村上佐志能神社はが闇おかみ神(雄龍)を祀るといい、この天日鷲命が出てきません。

どうもこの天日鷲命が阿波忌部氏の関東進出に伴って広がったのと、日本武尊(ヤマトタケル)の進出がダブってくるようでもあります。
歴史など、何処までが本当で、何処までが嘘なのか?
これはきっと謎のままにしておいた方が良いのでしょうね。
今日は鷲神社(わしじんじゃ)(おおとりじんじゃ)の名前がつく神社を少し探してみました。
ここ石岡には探し方が悪いかもしれませんが、見つかりません。
となりのかすみがうら市に1件、土浦市に3件の神社があります。すべて「わしじんじゃ)と読むようです。
私が行ったことがあるのは土浦市大畑にある「鷲神社」です。
ここは県指定無形民俗文化財「からかさ万灯」という祭りがおこなわれることで有名です。
これは、毎年8月15日に行われ、大きなから傘に花火を仕掛け、それを神社の鳥居から綱で結び、その綱にも火薬を仕込んで導火線のように火がから傘に伝わります。
から傘からは一斉に花火がひろがり傘の先から周囲に火花が滴り落ちます。
昔は傘が回転したのですが、今は危険だというので固定されているようです。
お祭りの目的は「雨乞い」と言われています。
その他、つくば市手代木の大鷲(おおわし)神社、神栖市矢田部の大鷲(おおとり)神社などたくさんの神社がありいずれも天日鷲命を祀っています。
さて、石岡にはまったくないかと言うと、実は染谷佐志能神社が天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀っているといいます(神社データベース)。
石岡市史や現地の説明板ではなどでは、この神社は龍神山の龍神(雨の神)を祀るとしており、染谷にある佐志能神社は高龗(おかみ)神(雌龍)、村上佐志能神社はが闇おかみ神(雄龍)を祀るといい、この天日鷲命が出てきません。

どうもこの天日鷲命が阿波忌部氏の関東進出に伴って広がったのと、日本武尊(ヤマトタケル)の進出がダブってくるようでもあります。
歴史など、何処までが本当で、何処までが嘘なのか?
これはきっと謎のままにしておいた方が良いのでしょうね。
鷲の話 - 鷲子山上神社
明日は大寒ということだが、寒さも幾分緩んできた様に思う。
庭の蝋梅も満開を過ぎたが、まだ香を漂わしている。
また県内も梅も早咲きが開いたとかの便りも聞こえてきた。
夜になって少し雲が出てきたが、先ほどまで真ん丸の月が東に輝いていた。
星は昨日まではかなりはっきり輝いていたが、今日は雲のせいであまり見えないようである。
鷲の話をしてきましたが、最後に石岡からは少し遠いのですが常陸大宮市美和町)にある「鷲子山上神社」を紹介します。
鷲子と書いて「とりのこ」と読みます。
茨城県と栃木県の県境にあるとても面白い神社です。
県境にあるためにテレビなどでもときどき紹介されています。

ここへ行くとすぐに「ふくろう神社」の看板などが目に入ってきます。
「フクロウ」は「不苦労」につながるという単純なものですが、いろいろなところにフクロウの像が置かれ、階段の数も96段で往復して2*96(不苦労)だといいます。
また敷石に6角形の亀型を使い幸せに長寿できるようにと色々なものがあります。
しかし、とても古い立派な神社で、辺りはいろいろな樹木の宝庫で神社境内の杉(御神木)も千年杉と呼ばれています。
また、この神社より手前ですが美和の交差点近くの「吉田神社」には本当に立派な「三浦杉」という大木が神社拝殿の石段の両脇に聳えており、とても見事です。
こちらはまた別な機会があれば紹介したいと思います。

上の写真は鷲子山上神社の「楼門」です。時代を感じさせる立派な建物です。
しかし、本当に興味がわくのは「鷲子」(トリノコ)という名前です。
祭神はもちろん「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」です。阿波忌部氏の流れをくむ神社です。
そして、この地方が昔紙すきの地であり、水戸光圀が藩中の女性を連れ見学させたと伝えられる場所なのです。
(話は水戸黄門の風車の弥七のモデルとなった人物がこの地の出身で、黄門に進言したとも言われています)
紙に白い「トリノコ和紙」というのがあり、各地に産地として伝わっています。
辞書で引いても「鳥の卵の殻のように白いところから名前がついた」と書かれているようです。
しかし、この地名の「鷲子(トリノコ)」との繋がりを捨てることができません。
和紙は昔は大きな産業で、和紙が盛んであった明治の初め頃まで、栄えたといいます。
この神社も産業の神様としてズーッと守られてきたのでしょう。
ちなみに、この和紙の製法技術は徳島(阿波)からもたらされたものと言われています。

風車の弥七が実在した人物なのか架空の人物なのかはあまり関係はないのですが、この地が和紙で栄えた土地であることは大変興味があります。

地元には観光目的でしょうか? 「弥七とその妻お新の墓」があります。
さて、鷲子のある美和地区は「星がきれいに見える町」ということで「星のふるさと」をキャッチフレーズにしています。
我が八郷地区などもきっときれいな星空がみえるはずです。ふるさとを見直したいですね。
庭の蝋梅も満開を過ぎたが、まだ香を漂わしている。
また県内も梅も早咲きが開いたとかの便りも聞こえてきた。
夜になって少し雲が出てきたが、先ほどまで真ん丸の月が東に輝いていた。
星は昨日まではかなりはっきり輝いていたが、今日は雲のせいであまり見えないようである。
鷲の話をしてきましたが、最後に石岡からは少し遠いのですが常陸大宮市美和町)にある「鷲子山上神社」を紹介します。
鷲子と書いて「とりのこ」と読みます。
茨城県と栃木県の県境にあるとても面白い神社です。
県境にあるためにテレビなどでもときどき紹介されています。

ここへ行くとすぐに「ふくろう神社」の看板などが目に入ってきます。
「フクロウ」は「不苦労」につながるという単純なものですが、いろいろなところにフクロウの像が置かれ、階段の数も96段で往復して2*96(不苦労)だといいます。
また敷石に6角形の亀型を使い幸せに長寿できるようにと色々なものがあります。
しかし、とても古い立派な神社で、辺りはいろいろな樹木の宝庫で神社境内の杉(御神木)も千年杉と呼ばれています。
また、この神社より手前ですが美和の交差点近くの「吉田神社」には本当に立派な「三浦杉」という大木が神社拝殿の石段の両脇に聳えており、とても見事です。
こちらはまた別な機会があれば紹介したいと思います。

上の写真は鷲子山上神社の「楼門」です。時代を感じさせる立派な建物です。
しかし、本当に興味がわくのは「鷲子」(トリノコ)という名前です。
祭神はもちろん「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」です。阿波忌部氏の流れをくむ神社です。
そして、この地方が昔紙すきの地であり、水戸光圀が藩中の女性を連れ見学させたと伝えられる場所なのです。
(話は水戸黄門の風車の弥七のモデルとなった人物がこの地の出身で、黄門に進言したとも言われています)
紙に白い「トリノコ和紙」というのがあり、各地に産地として伝わっています。
辞書で引いても「鳥の卵の殻のように白いところから名前がついた」と書かれているようです。
しかし、この地名の「鷲子(トリノコ)」との繋がりを捨てることができません。
和紙は昔は大きな産業で、和紙が盛んであった明治の初め頃まで、栄えたといいます。
この神社も産業の神様としてズーッと守られてきたのでしょう。
ちなみに、この和紙の製法技術は徳島(阿波)からもたらされたものと言われています。

風車の弥七が実在した人物なのか架空の人物なのかはあまり関係はないのですが、この地が和紙で栄えた土地であることは大変興味があります。

地元には観光目的でしょうか? 「弥七とその妻お新の墓」があります。
さて、鷲子のある美和地区は「星がきれいに見える町」ということで「星のふるさと」をキャッチフレーズにしています。
我が八郷地区などもきっときれいな星空がみえるはずです。ふるさとを見直したいですね。
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