養老の滝伝説(1)
石岡には「親は諸白、子は清水」という史跡がある。
場所は鹿の子から柿岡へ向かう柿岡街道沿いの村上地区の左側だ。
看板があるのだが、木々の陰になり、車だと意外にも気がつかずに通り過ぎてしまう。
昔、この村上は「村上1000軒」と言われた程、多くの家があった村で、龍神山の麓に多くの家が集まっていたという。
村上の名前は石岡府中の街の上に位置していたのでつけられたのだろう。
しかし、村上地区は地盤が硬く地下水などをくみ上げるのには苦労していたらしく、龍神山の湧水やこの「子は清水」の湧水などはきっと素晴らしいきれいな水ではあったが、とても貴重な水でもあったように思う。
もちろん酒処でもある石岡は良質な水も豊富だったのであるが、水源となる龍神山の龍も住むところがなくなり、泣いているに違いない。


現地の説明看板の内容を下記に転記しましょう。
----------------------------------------------
昔、この村上の地は、「村上千軒」といわれるほどの大きな村であった。
この村に貧しい親子が住んでいた。
親孝行な息子は、毎日山に出かけては薪をとり、それを府中の町に売りに行って、その日その日の暮らしをたてていた。
年老いた父親は病気がちで、毎日息子が買ってきてくれる酒を、なによりの楽しみにしながら暮らしていた。
そんなある日、いつものように息子は、府中の町へ薪を売りに行ったが、その日は少しも売れなかった。
売れない薪を背負って、途方にくれながら家路をたどっていると、どこからか香しい匂いが漂ってくる。
その香りの源をたどっていくと、木立のなかに清水がこんこんと湧き出ていた。
息子は喜んで、この清水を腰の瓢につめて持ちかえり、父に飲ませると、父はその諸白(上質の酒)のうまさに驚いた。
翌日息子は、あまりの不思議さに、昨日の湧き水の場所に出かけて飲んでみると、それはただの清水であった。
それ以来、毎日この清水を父に飲ませると、病気がちだった父も元気になって、二人とも幸せな日々を送ることができたという。
この「親が飲めば諸白、子が飲めば清水」という養老孝子伝説は、古くからこの地方に伝わっており、次のような和歌が詠まれている。
なにし負う 鄙の府の 子は清水
汲みてや人の 夏や忘れん
旅人の 立ちどまれてや 夏蔭は
子は清水とて 先ず掬うらん
----------------------------------------------
各地に同じような養老の滝伝説が残されています。
何時ごろから伝わる話なのでしょうか?
説明看板には「村上千軒」と出てきますが、もっと昔から話は変化しながら伝わってきたのではないかと思われます。
また、看板に書かれた歌は何時のものでしょうか?
「石岡の昔ばなし」仲田安夫著(ふるさと文庫(1979年))によると、
「昔から、関東灘とよばれる酒の名産地石岡市大字村上に「親は諸白、子は清水」といわれる清水がある。ころは、奈良朝、聖武天皇の御代に 「与一」という十一歳になる孝行息子が住んでいた。
・・・・・・・・・・・・・
噂は噂を呼び四方八方へ知れ渡った。やがて、この話が、天子様のお耳にふれて「関東養老の泉」と命名された。
美濃の孝子の奇跡で、年号を改められたという「養老の滝の伝説」に似た美談であるからだというのである。」
となっています。
現地に立てられた説明板では、私には少し物足りなく感じます。
このような話を石岡の人はどのようにとらえて、またこの地を訪れた人にどのように説明できるのでしょうか?
「昔のおとぎ話が石岡にもある」程度にしか見ていないかもしれません。
この続きは明日にでも書きたいと思います。
場所は鹿の子から柿岡へ向かう柿岡街道沿いの村上地区の左側だ。
看板があるのだが、木々の陰になり、車だと意外にも気がつかずに通り過ぎてしまう。
昔、この村上は「村上1000軒」と言われた程、多くの家があった村で、龍神山の麓に多くの家が集まっていたという。
村上の名前は石岡府中の街の上に位置していたのでつけられたのだろう。
しかし、村上地区は地盤が硬く地下水などをくみ上げるのには苦労していたらしく、龍神山の湧水やこの「子は清水」の湧水などはきっと素晴らしいきれいな水ではあったが、とても貴重な水でもあったように思う。
もちろん酒処でもある石岡は良質な水も豊富だったのであるが、水源となる龍神山の龍も住むところがなくなり、泣いているに違いない。


現地の説明看板の内容を下記に転記しましょう。
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昔、この村上の地は、「村上千軒」といわれるほどの大きな村であった。
この村に貧しい親子が住んでいた。
親孝行な息子は、毎日山に出かけては薪をとり、それを府中の町に売りに行って、その日その日の暮らしをたてていた。
年老いた父親は病気がちで、毎日息子が買ってきてくれる酒を、なによりの楽しみにしながら暮らしていた。
そんなある日、いつものように息子は、府中の町へ薪を売りに行ったが、その日は少しも売れなかった。
売れない薪を背負って、途方にくれながら家路をたどっていると、どこからか香しい匂いが漂ってくる。
その香りの源をたどっていくと、木立のなかに清水がこんこんと湧き出ていた。
息子は喜んで、この清水を腰の瓢につめて持ちかえり、父に飲ませると、父はその諸白(上質の酒)のうまさに驚いた。
翌日息子は、あまりの不思議さに、昨日の湧き水の場所に出かけて飲んでみると、それはただの清水であった。
それ以来、毎日この清水を父に飲ませると、病気がちだった父も元気になって、二人とも幸せな日々を送ることができたという。
この「親が飲めば諸白、子が飲めば清水」という養老孝子伝説は、古くからこの地方に伝わっており、次のような和歌が詠まれている。
なにし負う 鄙の府の 子は清水
汲みてや人の 夏や忘れん
旅人の 立ちどまれてや 夏蔭は
子は清水とて 先ず掬うらん
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各地に同じような養老の滝伝説が残されています。
何時ごろから伝わる話なのでしょうか?
説明看板には「村上千軒」と出てきますが、もっと昔から話は変化しながら伝わってきたのではないかと思われます。
また、看板に書かれた歌は何時のものでしょうか?
「石岡の昔ばなし」仲田安夫著(ふるさと文庫(1979年))によると、
「昔から、関東灘とよばれる酒の名産地石岡市大字村上に「親は諸白、子は清水」といわれる清水がある。ころは、奈良朝、聖武天皇の御代に 「与一」という十一歳になる孝行息子が住んでいた。
・・・・・・・・・・・・・
噂は噂を呼び四方八方へ知れ渡った。やがて、この話が、天子様のお耳にふれて「関東養老の泉」と命名された。
美濃の孝子の奇跡で、年号を改められたという「養老の滝の伝説」に似た美談であるからだというのである。」
となっています。
現地に立てられた説明板では、私には少し物足りなく感じます。
このような話を石岡の人はどのようにとらえて、またこの地を訪れた人にどのように説明できるのでしょうか?
「昔のおとぎ話が石岡にもある」程度にしか見ていないかもしれません。
この続きは明日にでも書きたいと思います。
養老の滝伝説(2)
養老の滝伝説がどのように全国に伝わっていったのかを少し調べてみたくなりました。
まずは、岐阜県養老町に伝わる「養老の滝伝説」は多くの人が知っていると思いますが、概略は次のような話です。
------------------------------------
昔、美濃の国に貧しいけれど親孝行の源丞内という若者がいました。
毎日山で薪を取ってきてそれを売り、年老いた父親を養っていましたが、暮らしは楽ではなく父の好きな酒を充分に買うことが出来ません。
ある日いつもより山奥に登るとそこに岩壁から流れ落ちる滝がありました。
近付くとかすかな酒の香りが漂って来るのです。
不思議に思ってあたりを見廻すと岩間の泉から水が湧き出ています。
これをすくってなめてみると香わしい酒の味がします。
そこで、腰に下げているひさごに汲んで帰り、老父に飲ませた所、とても美味しい酒でした。
親子は喜んで、仲良く和やかな笑声が村中に広がりました。
老父はこの不思議な水のおかげですっかり若々しくなりました。
この不思議な水の話が、都に伝えられ、奈良の都の元正天皇は「これは親孝行の心が天地の神々に通じたものでしょう」とおおせになり、この地に行幸になり、孝行の見本でもあるとたいそうお誉めになり、年号を「養老」と改めたといいます。
----------------------------------------
これは年号が「養老」になった年ですから、西暦717年のことになります。
元正天皇は聖武天皇の1代前の女帝(独身)です。聖武天皇がまだ若いので天皇になったものです。
これから考えても、孝子伝説は西暦700年代の前半のことになり、石岡の伝説が本当であれば、岐阜よりも少し後ですから、同じような時期の話になりますね。
またこれから生まれた話は二つに分かれます。
一つは水がお酒になった親孝行の「親は酒、子は清水」の話しです。 そしてもう一つは「若返る不思議な水」の話しです。
この養老の滝の話は確かにあった話で、万葉集に歌われています(万葉集 巻六 1034)。
美濃の国の多芸の行宮(かりみや)にして、大伴宿禰東人が作る歌1首
「古ゆ 人の言ひ来る 老人の 変若(を)つといふ水そ 名に負う滝の瀬」
これによれば、養老の滝の話は「老人が若返る水と言われている滝の水があった」ことが伝わっていたと解釈されますね。(場合によっては病に効く水とも・・・)
若返りの水の話は、伝わるうちに「こぶとりじいさん」や「舌切り雀」のように物語として広がります。
「若返ったお爺さんの姿を見て、欲を出したお婆さんがその水を飲みすぎて赤ん坊になってしまった」というような話ですね。
では、親孝行の息子が父親に飲ませたら酒となり、子供が飲んだらただの清水であるという話は何時ごろから伝わっていったのでしょうか。
一般に養老の滝伝説は「養老孝子伝説」と言われるように、「親孝行することが美徳である」ことを世の中に広めたいという思いが時の権力者側にあり、広めさせたのかもしれません。
また、この水が酒になったというのはおそらくもう少し後から始まったと考える方が時代的には合っているように思います。
酒造りに美味しい水が必要であり、どこかでこの水が酒に化ける話を追加して作られたものかもしれません。
昔から良い酒を造るには美味しい水が不可欠であり、酒の名所と言うところに話は広がったものと思われます。
では実際に何処に残されているのか? また明日にでも調べて結果を載せます。
まずは、岐阜県養老町に伝わる「養老の滝伝説」は多くの人が知っていると思いますが、概略は次のような話です。
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昔、美濃の国に貧しいけれど親孝行の源丞内という若者がいました。
毎日山で薪を取ってきてそれを売り、年老いた父親を養っていましたが、暮らしは楽ではなく父の好きな酒を充分に買うことが出来ません。
ある日いつもより山奥に登るとそこに岩壁から流れ落ちる滝がありました。
近付くとかすかな酒の香りが漂って来るのです。
不思議に思ってあたりを見廻すと岩間の泉から水が湧き出ています。
これをすくってなめてみると香わしい酒の味がします。
そこで、腰に下げているひさごに汲んで帰り、老父に飲ませた所、とても美味しい酒でした。
親子は喜んで、仲良く和やかな笑声が村中に広がりました。
老父はこの不思議な水のおかげですっかり若々しくなりました。
この不思議な水の話が、都に伝えられ、奈良の都の元正天皇は「これは親孝行の心が天地の神々に通じたものでしょう」とおおせになり、この地に行幸になり、孝行の見本でもあるとたいそうお誉めになり、年号を「養老」と改めたといいます。
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これは年号が「養老」になった年ですから、西暦717年のことになります。
元正天皇は聖武天皇の1代前の女帝(独身)です。聖武天皇がまだ若いので天皇になったものです。
これから考えても、孝子伝説は西暦700年代の前半のことになり、石岡の伝説が本当であれば、岐阜よりも少し後ですから、同じような時期の話になりますね。
またこれから生まれた話は二つに分かれます。
一つは水がお酒になった親孝行の「親は酒、子は清水」の話しです。 そしてもう一つは「若返る不思議な水」の話しです。
この養老の滝の話は確かにあった話で、万葉集に歌われています(万葉集 巻六 1034)。
美濃の国の多芸の行宮(かりみや)にして、大伴宿禰東人が作る歌1首
「古ゆ 人の言ひ来る 老人の 変若(を)つといふ水そ 名に負う滝の瀬」
これによれば、養老の滝の話は「老人が若返る水と言われている滝の水があった」ことが伝わっていたと解釈されますね。(場合によっては病に効く水とも・・・)
若返りの水の話は、伝わるうちに「こぶとりじいさん」や「舌切り雀」のように物語として広がります。
「若返ったお爺さんの姿を見て、欲を出したお婆さんがその水を飲みすぎて赤ん坊になってしまった」というような話ですね。
では、親孝行の息子が父親に飲ませたら酒となり、子供が飲んだらただの清水であるという話は何時ごろから伝わっていったのでしょうか。
一般に養老の滝伝説は「養老孝子伝説」と言われるように、「親孝行することが美徳である」ことを世の中に広めたいという思いが時の権力者側にあり、広めさせたのかもしれません。
また、この水が酒になったというのはおそらくもう少し後から始まったと考える方が時代的には合っているように思います。
酒造りに美味しい水が必要であり、どこかでこの水が酒に化ける話を追加して作られたものかもしれません。
昔から良い酒を造るには美味しい水が不可欠であり、酒の名所と言うところに話は広がったものと思われます。
では実際に何処に残されているのか? また明日にでも調べて結果を載せます。
養老の滝伝説(3)
「子は清水」などの言葉で、ネットで検索してみました。
ここには出てこないけれども話としては残っているところもきっと多くあるに違いありません。
1)「親はうま酒、子は清水」:松戸市常盤平(金ケ作)・・・「子和清水」の像
2)「親は諸白、子は清水」「関東養老の泉」:石岡市村上
4)「子は清水・親は酒」:習志野市
5)「親はうま酒、子は清水」:佐倉市直弥
:四街道市吉岡
6)「子和清水」:郡山市西田町丹伊田
7)「親は諸白、子は清水」:福島県会津若松市河東町八田字強清水(住所は強清水)
8)「親ハ諸白子ハ清水」:福島県桑折町南半田
9)「親はもろはく、子は清水」:新潟県弥彦村大字麓
<子清水の湧水があるところ>
「親清水子清水」:長野県清内路街道
<強清水(こわしみず)という湧水や滝があるところ>
・強清水:岐阜県中津川市神坂
・強清水の滝:群馬県沼田市
・強清水:長野県長和町広原
・強清水:秋田県男鹿市
(住所に強清水、子ハ清水がつくところ)
・新潟県佐渡市強清水
・福島県西白河郡矢吹町子ハ清水
など
面白いことに関東から東北方面が多くありました。
灘など関西や中部地区には無いのでしょうか?
また一番多く出てきたのは松戸市常盤平の「子和清水」です。
ここには息子が水を手で掬っている像と一茶の句碑があります。
「母馬が番して呑ます清水かな」
またここは金ケ作陣屋があったところで、前の街道を生(鮮魚)街道と言うそうです。
ちょっと面白そうなのでこの街道については明日にでも紹介してみたいと思います。
検索してたくさん出てくることはそれだけ地元に熱心な人が多いに違いない。
二番目に石岡が出てきたが、これは私が造っているHPで、その他の人のHPはもっとずっと後に一つだけ出てきただけだ。
残念ながら行政などが作ったものは一つもなかった。
これではまだまだダメだな。
話は面白いとは言えないだろうが、こういう話が残っていることをもう少し大切にする土壌を植え付けていかないと何も無くなってしまいそうである。
「関東の養老の泉」として是非これからも大切にしていってもらいたいものだ。
また、強清水(こわしみず)=子和清水 とあることを考えると「強清水」なる言葉が先にあって「子は清水」となり、その言葉の連想から「親は酒」となったのかもしれない??・・・。
どちらにしろ、「酒処=水の質が良いところ」なのだから・・・。
きれいな水がわき出る地を復活してほしいものです。
ここには出てこないけれども話としては残っているところもきっと多くあるに違いありません。
1)「親はうま酒、子は清水」:松戸市常盤平(金ケ作)・・・「子和清水」の像
2)「親は諸白、子は清水」「関東養老の泉」:石岡市村上
4)「子は清水・親は酒」:習志野市
5)「親はうま酒、子は清水」:佐倉市直弥
:四街道市吉岡
6)「子和清水」:郡山市西田町丹伊田
7)「親は諸白、子は清水」:福島県会津若松市河東町八田字強清水(住所は強清水)
8)「親ハ諸白子ハ清水」:福島県桑折町南半田
9)「親はもろはく、子は清水」:新潟県弥彦村大字麓
<子清水の湧水があるところ>
「親清水子清水」:長野県清内路街道
<強清水(こわしみず)という湧水や滝があるところ>
・強清水:岐阜県中津川市神坂
・強清水の滝:群馬県沼田市
・強清水:長野県長和町広原
・強清水:秋田県男鹿市
(住所に強清水、子ハ清水がつくところ)
・新潟県佐渡市強清水
・福島県西白河郡矢吹町子ハ清水
など
面白いことに関東から東北方面が多くありました。
灘など関西や中部地区には無いのでしょうか?
また一番多く出てきたのは松戸市常盤平の「子和清水」です。
ここには息子が水を手で掬っている像と一茶の句碑があります。
「母馬が番して呑ます清水かな」
またここは金ケ作陣屋があったところで、前の街道を生(鮮魚)街道と言うそうです。
ちょっと面白そうなのでこの街道については明日にでも紹介してみたいと思います。
検索してたくさん出てくることはそれだけ地元に熱心な人が多いに違いない。
二番目に石岡が出てきたが、これは私が造っているHPで、その他の人のHPはもっとずっと後に一つだけ出てきただけだ。
残念ながら行政などが作ったものは一つもなかった。
これではまだまだダメだな。
話は面白いとは言えないだろうが、こういう話が残っていることをもう少し大切にする土壌を植え付けていかないと何も無くなってしまいそうである。
「関東の養老の泉」として是非これからも大切にしていってもらいたいものだ。
また、強清水(こわしみず)=子和清水 とあることを考えると「強清水」なる言葉が先にあって「子は清水」となり、その言葉の連想から「親は酒」となったのかもしれない??・・・。
どちらにしろ、「酒処=水の質が良いところ」なのだから・・・。
きれいな水がわき出る地を復活してほしいものです。
なま(鮮魚)街道
子は清水を調べていたら松戸市常盤平にある清水のところには「なま街道」という街道が通っていたと書いてあったので少し調べてみました。
調べてみると結構面白いことが判りました。
なまは鱻という字(魚が3つ)だそうです。
この字は「鮮」の元字だそうです。
この「なま街道」は「鮮魚街道」ともいうと書かれていました。
江戸時代中期以降でしょうか、当時から銚子は魚の一大産地で、江戸の市場に魚などを運ぶ必要がありました。
しかし、銚子から外洋に出て東京湾を運ぶのは海洋事故も多く危険なものだったようです。
このため、銚子から舟で利根川を上り、成田線の布佐駅の近くで舟から馬に荷物を積み替えて松戸まで7里半(30km)位を陸路で運び、また松戸で舟に乗せ換え江戸川を下り、行徳辺りで新川の掘りを通って隅田川で日本橋まで運んだといいます。

現在、街道は一部「航空自衛隊下総航空基地」で分断されてしまっています。
また、明治初めの鉄道開通でこの輸送は必要がなくなり、急に廃れてしまったようですが、銚子を夜出発して翌朝布佐で馬に乗せ、半日かけて松戸へ運びその日の晩または翌朝までに江戸へ到着するスケジュールだったといいます。
この「なま街道」はできるだけ早く新鮮な魚を江戸に運ぶために作られたルートでしたが、それでも、夏場は暑く、この陸路はかなりきつかったようです。
途中金ケ作(常盤平)にある「子和清水」は水をかけて、この魚の鮮度を保つために使われたといいます。
元々の街道としては木下(きおろし)~鎌ヶ谷~行徳を結ぶ「行徳街道」がありましたが、町中を通る上に距離も長いため、最短のルートとして定着したものと思われます。
でも「なま」とはなんとも生々しい名前ですね。
調べるといろいろ出てきそうで面白そうです。
木下(きおろし)と布佐の争いなどもあったとか、夜中でも関所を通行できたとか・・・・。
いろいろ知らないことがあるものだと感心してしまいました。
調べてみると結構面白いことが判りました。
なまは鱻という字(魚が3つ)だそうです。
この字は「鮮」の元字だそうです。
この「なま街道」は「鮮魚街道」ともいうと書かれていました。
江戸時代中期以降でしょうか、当時から銚子は魚の一大産地で、江戸の市場に魚などを運ぶ必要がありました。
しかし、銚子から外洋に出て東京湾を運ぶのは海洋事故も多く危険なものだったようです。
このため、銚子から舟で利根川を上り、成田線の布佐駅の近くで舟から馬に荷物を積み替えて松戸まで7里半(30km)位を陸路で運び、また松戸で舟に乗せ換え江戸川を下り、行徳辺りで新川の掘りを通って隅田川で日本橋まで運んだといいます。

現在、街道は一部「航空自衛隊下総航空基地」で分断されてしまっています。
また、明治初めの鉄道開通でこの輸送は必要がなくなり、急に廃れてしまったようですが、銚子を夜出発して翌朝布佐で馬に乗せ、半日かけて松戸へ運びその日の晩または翌朝までに江戸へ到着するスケジュールだったといいます。
この「なま街道」はできるだけ早く新鮮な魚を江戸に運ぶために作られたルートでしたが、それでも、夏場は暑く、この陸路はかなりきつかったようです。
途中金ケ作(常盤平)にある「子和清水」は水をかけて、この魚の鮮度を保つために使われたといいます。
元々の街道としては木下(きおろし)~鎌ヶ谷~行徳を結ぶ「行徳街道」がありましたが、町中を通る上に距離も長いため、最短のルートとして定着したものと思われます。
でも「なま」とはなんとも生々しい名前ですね。
調べるといろいろ出てきそうで面白そうです。
木下(きおろし)と布佐の争いなどもあったとか、夜中でも関所を通行できたとか・・・・。
いろいろ知らないことがあるものだと感心してしまいました。
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