道標 追分(1)

 追分とは道の分かれ道となっている場所のことだが、一般には分かれ道に置かれた道しるべ・道標をいうようだ。
石岡の街にも江戸時代の追分がいくつか残されているようなのだが、先日とあるこの道標が石岡小学校の校庭にある「陣屋門」の脇にそっと移動されたと聞いて見に行ってきました。

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陣屋門のすぐ脇になにげないように置かれていましたが、何も説明がありません。
この陣屋門も市民会館ができた時に移設したものですのでどちらも元の位置とは違う場所に置かれたことになります。

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この追分道標には「右 かさま  道」「左 根あた」横には「香丸町 鈴木○○・・」
などと書かれていました。あまり良く判読できません。(朱記訂正:2010.6.11)
少し丁寧な説明をかかげてほしいと思います。

さて、ではこの追分が置かれていた場所はというと、七谷家具さんのあるところの分かれ道だそうです。



確かに右は笠間方面です。 左の道は石岡二高の方に行く道ですが、根当(ねあたり)方面につながっています。その先には園部~部原~瓦会~(宇都宮街道に合流?)だったのでしょうか。

また、昔(江戸時代)の地図では千手院の大きな寺院が手前にあり、左側に国分寺がありました。
水戸街道はこの手前で泉町の方に右側に曲がっており、この笠間への街道も千手院をまくようにつながっていたようです。
 


道標 | コメント(30) | トラックバック(0) | 2011/06/07 19:07

道標 追分(2)

 石岡の町中に残された追分としてよく紹介されているものがあります。
場所は若松町の信号の真中に△エリアを設けて置かれています。

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この正面のガソリンスタンドは今はありません。現在はマンションが立てられています(今年)。

oiwake05.jpg 元文二年 巳四月日 (1737年)


「左かきおか まかべみち」「右 うつの宮かわらい道」

左は柿岡街道です。今も真壁に行けます。右は瓦会を通って宇都宮へ行く「宇都宮街道」です。
しかし、この宇都宮街道はこの先鹿の子遺跡の場所で常磐高速で遮断され、その先は矢向へ行きますが、柏原工業団地で途切れてしまいます。
もう少し、この人馬が通った「宇都宮街道」の検証をしてほしいものです。
この道標の制作年は元文二年となっていますので。徳川将軍「吉宗」の時代です。

当時のこの街道はどのようになっていたのでしょう。真壁、宇都宮からの道がここ府中(石岡)に入るために合流していたのです。

当時は府中の街はこの場所が北西方面からの人馬の入口でした。若松町も長法寺町と言っていた頃にはここまでが街で、この先は府中松平藩の武家屋敷などがこの先柏原池近くまでの領域にまとまっていました。


しかし、宇都宮街道などは時代とともにルートがわからなくなってきてしまっているおり、この追分道標がとても貴重なものとなっています。
大切にしていきたいですね。

普通でしたらこのくらいで、この若松町の追分の話も終わりです。
石岡の歴史案内書も他のブログも、これくらいしか書かれていません。
しかし、この追分がとても重要なような気がしています。
これは市の関係者には理解されていないかもわかりません。
明日は、この追分についてもう少し調べた内容を書いてみたいと思います。 


 

道標 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/08 19:12

道標 大棒杭(おおぼっくい)

 昨日の若松町の追分の続きです。
昔、道路の分岐点を追分といいましたが、棒杭(ぼっくい)とも言っていたようです。
道の分かれ道に道案内を示した棒状の杭を埋め込んでいたのでしょう。
この棒杭を「ぼっくい」と読むのですが、「焼け棒杭に火がついて・・・」などと使われるあの棒杭です。
私も昔「焼けボックリに火がつく」などと覚えていましたので、結構多くの人が今でも松ボックリのようなボックリと思っているかもしれません。

でも、焼け終わったと思っていた棒杭(ぼっくい)の火が消えていないでまた火がついたことをいうのですから棒杭が正解です。

さて、実はこの宇都宮街道と柿岡街道への分かれ道にも棒杭があったもので、今の道標が280年ほど前に作られたのですから、その前には木の棒杭があったのでしょう。
書物を読んでいるとここの場所を「大棒杭(おおぼっくい)」と言っていたようなのです。

江戸時代にここ府中は松平家2万石の町でした。藩主は江戸にいてほとんどこちらには来ません。
陣屋が現在の石岡小学校の場所にあり、すぐその近く(青木町から香丸町にかけて)に現在の刑務所のような牢屋のある場所がありました。

その罪人たちは逃げてもわかるように赤い服を着せられていて「赤ちゃん」などとも呼ばれていました。
しかしその罪人が釈放される時に使われたのが、この大棒杭の方向の門だったと言われています。
なぜなら、これは江戸の方面及び水戸方面(泉町)にある門はお江戸の殿様、また水戸様の方向ですから、罪人を釈放する方向とはできなかったためといわれています。

昔、若松町は1710年頃まで「長法寺町」と呼ばれていました。長法(峰)寺という大きな寺があったのです。
この寺は明治3年の長法寺の火事とよばれる大火で焼失してしまいました。

ここ府中(石岡)は馬の集積地としてにぎわいました。
まわりから馬が集まってきており、馬市が開かれていました。
宇都宮街道から、また柿岡街道から馬が集まってきたといいます。
そしてこの長法寺の境内で市が立ったようです。

この寺のあった場所には現在「木像十一面観音(県指定有形文化財)」が置かれた小さなお宮(保管蔵)が置かれ、馬頭観世音の碑が建っています。

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明治3年の大火は昭和4年の大火と比べあまり記録に残っていませんが、矢口本陣や鈴の宮の近くの新地八軒も焼けるほどの大火で500戸程が焼けたと言われています。

また、昔の言葉で「長法寺のオン出し」というのがあるそうですが、これは罪人をこの方向からオン出したことからそのように呼ばれたといいます。
今では全く使われることもありません。

ところで、現在石岡のお祭りには「若松町」として参加していますが、最近まで祭りの書類では「長法寺町」となっているものを何度も目にしています。

十一面観音のある場所は細い横道に入ったところですが、昔はここが宇都宮の方につながる道だったのでしょう。
観光客がこの十一面観音の場所に来ても恐らく、このようなことは考えないでしょう。
現地には十一面観音についての説明だけしかなく、何故馬頭観音が立っているのかは理解できないように思います。

また、上野にある東京国立博物館には「長法寺」の銘の入った名刀が残されています。
ここ長法寺から鎌倉に移った「長法寺(長峰寺正俊)」という名刀鍛冶が造ったものと考えられているそうです。
 
 

道標 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/09 18:39

道標-石岡町道路元標

 石岡市街の中町の筑波銀行(旧関東つくば銀行、その前は関東銀行)の入口にある「石岡町道路元標」という石の道標を見たことがあるでしょうか。
銀行入口の石畳の一部に置かれているこの石標はこの部分だけまわりを敷き石で囲っています。

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気をつけて見ていないと目立たないので多くの方は気がつかないで通り過ぎてしまっていると思います。
しかし、各地の道路元標を探して見に来る方もおられるようです。

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これが置かれたのは記録が残っていないようですが、明治6年に各府県ごとに「里程元標」を設けるように政府より指示され、また大正9(8?)年に旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされたといいます。

そうすると、この石岡町の道路元標はこの大正9年の時道交法により設置されたのものと考えるのが妥当だと思います。

設置場所は府県知事が指定することとされており、道路元標のある場所を起終点としていました。

しかし、道路法では道路元標は道路の附属物とされているだけで、道路元標の設置義務がなく、いつもまにか取り壊されたり工事などでなくなってしまった道路元標も多いと言われています。

茨石商事刊のワクワク通信「ワクワクふるさと紀行」をまとめた「いしおか100物語」に、昭和9年10月18日の読売新聞の記事が紹介されていました。
 「近くアスファルトの舗装工事が成り、県下一模範道路の折り紙をつけられる石岡町に、これは又何としたことか、町の道路元標が郵便局の空地に数年間投げ捨てられたまま子供等のオモチャになっている。もしこの石が物言うなら、模範道路が聞いてあきれる、まずこのおれをもとの場所へ立ててから自慢をしてほしい、と云うに相違ない」
そして、元標は元の位置に戻されて今も残されているのです。

この場所は府中本陣矢口家の近くであり、昭和8年まで「石岡警察署」があり、そのあとを昭和46年まで「石岡郵便局」があり、その後「関東銀行」が移ってきて現在は「筑波銀行」となっています。

100物語では明治の初期の建設ではないかとされていますが、全国の元標の記録を見ると大正8~9年の設置でしょう。
この道路元標のデータベースを構築しようとしている人もおられるので、石岡ももっと情報を発信していただきたいと思います。



 さて、当時の市町村に1個ずつ設置されたとするなら、現在の石岡市には幾つ設置されたのだろうか?
調べてみました。
「石岡町」「關川村」「三村」「高濱村」「柿岡町」「園部村」「瓦會村」「林村」「戀瀬村」「葦穂村」「小幡村」「小櫻村」の12か所に設置されたことになるようです。

この中で、柿岡にも残っていることがわかったので、見に行ってきました。

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場所は柿岡の中心地「八坂神社前」の角であす。

残りの村はそれぞれ後に合併して加わったものであり、元標が不要になったのかもしれないが、まだ残っているものがあったら教えていただきたい。

また近くでは土浦町の元標が亀城公園の前に残されているそうです。
どこも、その町の起点となるところに設置されたのですね。
村のものなどは、多くはその時の村役場の前などに設置されたようですので、他のものもそのうち探してみたいですね。

 
  

道標 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/06/10 19:06

道標-筑波町道路元標

 石岡町と柿岡町の大正9年設置の道路元標を昨日ブログに載せたのですが、こんなとこにもあるよと教えていただいた。
「筑波山神社の御神橋の前」・・・え! 山の中腹ですよと思ったが、前に現地の写真を撮っていたので写っていないか探してみた。
「あったー、あった!」見つけました。早速、今日のブログの予定を変更して本日2番目の記事としてUPです。

でも、道路の起点(基準)となる場所が、山の上(中腹)になっているとは。さすが筑波ですね。
それにしても教えてもらわなければ気がつかないですね。

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<筑波町道路元標>

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この御神橋は春秋の御座替祭(4月1日と11月1日)及び年越祭(2月10日、11日)に一般の人が渡れます。



それと北条町道路元標が前に紹介した、あの「つくば道」の入口にあったのです。こちらは写真には残念ながら写っていませんでした。やはり気にしていなければ絶対見つからないですね。

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北条町の道路元標は、この写真を撮っている足元にあったようです。

今日で震災後3カ月が過ぎた、最近の停滞ぶりが気になる。
また、関西電力の対応には本当に腹が立つ。国民を馬鹿にしている。
この事故の直後に関西経団連の会長に関西電力の会長が就任し、その対応に疑問をもったが、今度の発表も・・・。
どうやら電力会社は民間企業の皮をかぶっている官企業で、更にたちが悪い。
原子力も完全に撤廃は苦しいだろうし、技術も進歩させなければ、今後中国などとの力関係にも不安が残る。
でも、このような隠ぺい体質では、話し合いをする気も起らない。
また、つい愚痴が・・・。
 

道標 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/11 18:50

道標-昔の街の考察

 先日から、街道の分かれ道に置かれた追分道標と道路元標について紹介してきました。

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最初に石岡の陣屋門に移動させられた追分道標の道の案内の読み方について教えていただき、昔の地図と対比してやっとこの道標が置かれていたであろうと思われる場所を推定してみました。

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これは、江戸時代に書かれた手書きの府中の街の絵図の一部です。
これによると、現在の旧355線が中町・香丸町と進むと、正面に「千手院」の大きな寺院が見えてきます。

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現在の国分寺境内に移設された「千手院」の山門

この千手院の山門の手前を右に曲がって泉町から杉並へ向かうのが旧水戸街道です。
この水戸街道はこの先山王川を渡り、その先には一里塚が両側にそびえ、その先には日光と同じような杉並木の街道が続いていました。

さて、千手院の裏に大きな「薬師」様と木々の茂みが見えます。この場所が現在の国分寺があるところです。
この図では左手手前に「国分寺」と寺が書かれていますが、これは現在ありません。
昔の常陸国分寺は、この地図の「薬師」とあるところですが、この千手院も含めた領域になっていたと思われます。
(現在のNTTの建物も寺院の領域だったかもしれません。)

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この位置関係を、現在の地図に拙いですが書き加えてみました。
そうすると、昔の道がおぼろげながら見えてくるではありませんか。
「右 かさま 阿たご 道」「左 根あた里」 の道標の位置は、この推測ではNTTの建物の少し手前から右(東)へ曲がる道があり、この道(今の旧国道355号の1本東側の道)が昔の笠間方面にいく街道でした。
そのため、この道標があった場所はこの曲がり角と推測されます。

この右「阿たご」は十三天狗の岩間山(現愛宕山)愛宕神社のことを指すものと思いますが、ここにも「愛宕神社」があったことになっています。
現在は何も地図にはありません。この辺りは次回紹介します。
 
どうやら、この旧道の分かれ道にあったのものを、今の分かれ道のところへでも移動し、今回はまた関係のない陣屋門の脇に移動したものと思われます。
近くの方にお聞きしましたが、わからないようでした。

関係の方もおられるので、また事実がわかればお知らせしたいと思います。
  

道標 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/13 19:40

道標-泉町の横道

 今日は仕事を早めに切り上げて帰ってきた。銀行をまわって支払いを済ませたが、今回は屋根の修理代に思わぬ出費となった。
でも雨漏りの心配がなくなり落ち着いて過ごせるのでありがたい。

今週は勝手に応援団の「ことば座」の定期公演がある。

先日ブログで書いたが、500円引きOKとのこと。詳細はこちらのポスターを見てください。

もし来られるなら、受付で「ブログ見たよ」と行っていただければ3000円→2500円です。
ふる里を応援するつもりで一度ご覧いただければと思います。
3日間(6/17~19)は同じ内容です。

 さて、今日の歴史案内は、市内に残された追分道標のルーツを追いかけてみたのだが、意外に面白い姿が見えてきました。
やはりこのような道標はもとの位置において、できるだけ広報をして説明をする姿勢が如何に大切かを知った思いです。

昔の国分寺薬師の所から「右 かさま 阿たご道」となっていたので、この愛宕をさがしたのです。
これは岩間の愛宕神社のことを指しているのかもしれないが、石岡の地図に愛宕神社が書かれており、この可能性もありそうに思ったのである。

今では岩間の山は愛宕山というが、江戸時代は岩間山と言っていた。
この神社は有名なのでこちらの可能性がとても高いのですが、この街中の地名にある「愛宕神社」を探してみた。

しかし、そこは住宅街で、神社の面影はまったく無くがっかりです。こちらの可能性はなさそうです。

(ここの愛宕神社が総社に合祀されたかもしれないと思って、あとで総社へ行ってみた。星の宮などの合祀された神社と並んで「厳島神社/愛宕神社」というのがあったが、元どこにあった何処の神社かわからない。

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大正八年に厳島神社の愛宕神社が合祀され、さらにそれが総社に合祀されたものか?

まだ若い(高校生のような)二人の巫女さんが庭を掃き清めていた。
近付くと向こうから「こんにちは」と声をかけてきた。(これは12日の日曜日のことです)

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よっぽど聞いてみようかと思ったが、あまり場違いのようなので止めにしました。)

次に、泉町の古地図にある「意徳院」という寺と「不動」と書かれたところを探してみた。
これはすぐに見つかった。

「威徳院」と「安産不動尊」である。

これは、駅の方からやってきて泉町通りから横道に入る道があり、この前に出るようになっているが、あまり気にとめてこなかった。
石二高生などがこの近くの横道を通っているところだ。

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「威徳院」は無人のお堂とお墓しかない。しかし江戸時代には「虚空蔵(こくうぞう)」とでてくる。

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安産不動尊(多胎不動尊)はいかにも「昔からここにありますよ。」というようにどっしりと座っている。

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不動尊の脇には地蔵さまも置かれている。

石岡はこのような脇道がとても多い。
これはこの町の特色と言っても良い。
車社会になり不便なのだが、脇道の方が歩いたり自転車で走り回るにはとても都合がよい。

この横道を掘り下げると、江戸時代からの人の流れが見えてくるのです。

私はこの場所に来て初めてこの泉町の姿が少し見えてきたように思い嬉しくなった。

さて、この町が泉町と命名されたのは宝永年間(1704~1710年)のことで、それまでは「新宿」と言われていました。
江戸の初期には水戸街道がここを通っていなかったといいます。もっと今の駅の近くで川を渡っていたのです。
それをこちらを通るように変更して、ここに旅館などができるようになったために「新宿」となったのです。

そして、宝永年間に東海・南海連動型の大地震がおこり、さらに富士山の大噴火が起こりました。
おそらく、この時の災害を機に、火事などが起こらないように願いを込めて「泉町=和泉町」としたのでしょう。

天明4年(1785年)「常陸古跡案内調べ」という書物が書かれています。これが「いしおか100物語」に記載されていましたので引用します。

「それより、泉町へ出、威徳院の虚空蔵へ参る。昔この町に3月朔日より5日まで馬市が立ち、毎年芝居などありて賑わいし・・・・」

これによると昔のにぎわいが見えてきます。この脇道こそが昔の面影を残しているのではないでしょうか。

道標 | コメント(25) | トラックバック(0) | 2011/06/15 15:19

道標-ガラミドウ

 昨日泉町にあったされる愛宕神社について書いたのですが、読者の方より、そこは国分寺の七重の塔があったのではないかとされる「ガラミドウ(伽藍御堂)」の近くではないかとご指摘を受けた。

私はこのガラミドウについては詳しくは無く、現在の国分寺の東側100~200mくらい離れた所に七重の塔があったとされる礎石があったという記事を見ていた程度だが、何処かわからずに、探してもなかった。

地図で見て、確かにその近くだと気がつき、神社の場所も前に探していた場所よりも一つ国分寺側にあったようなので、確認しに行ってきた。

国道355線のNTTの手前のマンションの脇から東に入る道があり、そこに「国分町」の石柱が立っている。

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この町の石柱のところを右に入ると、奥に古い墓地が広がる。
この墓地を「ガラミドウ墓地」と呼ばれているようだ。昔の国分寺や千手院の寺領の場所で、このあたりの地名にガラミドウと残っているらしい。

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この墓地はかなり古くからのものではあるが、この墓地内に管理する小屋や寺はない。国分寺で管理しているのだろう。もっとも国分寺の境内にも裏手に墓地はあるが・・・。

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今回の地震で、この墓も古くからの墓石が倒れてしまった。この修理がなかなか進まないようだ。
市内にもまだたくさんのお墓があるが、奥の方に行くと重機も入れないところも多い。大変である。

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このガラミドウ墓地の途中から左(北)に入る道が2本ある。上の写真は最初の道で、これは向こう側までつながっており通りぬけができる。
昭和10年の地図に載っていた「愛宕神社」はこの住宅の辺りであるが、今は何もないようだ。

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2本目の通りは途中で行き止まりで、地図によるとこの突き当りの空地辺りが、伽藍御堂の塔があったと思われる自然石が14個あったとされる場所と思われる。
現在はM乳業さんの管理地となっていた。この重要な場所の発掘はまだほとんど行なわれていないという。

昭和の初期の写真にこの石が写っているのだが、その後どこかに行ってしまい、現在は一つだけ現在の郵便局の前の線路沿いの道を拡張整備する時に見つかり、数日かけて、今の国分寺の千手院山門前に運こばれて展示されている。

ここの愛宕神社はこの空地の近くにあったようだが、現在は住宅になってしまったようである。
新宿を泉町に変えた時にでも立てられたのではないかと思う。なにせ愛宕神社は「防火」の神様ですから。

石岡の街の「愛宕神社」は調べてみる価値がありそうですが、また時間がある時に。

道標 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/16 19:18

道標-愛宕山道

 今日から「ことば座」の公演がギター文化館ではじまった。 私は勝手に応援団などと言っていたが、今日は仕事と歯医者で行けずに失礼してしまった。明日にでも出かけようと思う。

一部写真がギター文化館のブログに掲載された。木下館長はいつもマメで早いですね。
 
 さて、先日紹介した石岡の国分寺脇にあったと思われる道標は「右 かさま 阿たご 道」となっていました。
この先に笠間までどんな道がつながっていたのでしょうか。
昨日は国分寺の「ガラミ堂」のことをしるきっかけとなったので大きな収穫でした。

今日は、この先を辿ってみたいと思います。
笠間市のホームページに「江戸道」としてこの街道が紹介されていました。

この355線の旧道は「旧江戸道」というのだそうです。いい響きですね。
笠間とタイアップしてこの道も残したいですね。現在この国道355線はバイパスが完成して昔の旧道が廃れてしまいそうです。なんとか趣のある道を石岡も宣伝に力を入れてほしいものです。
お金など掛けなくてもできますよ。その気があればいいのです。
笠間の観光協会を是非参考にして下さい。

石岡市と笠間市(旧岩間町)の市境(笠間市側)に道標が建っています。
「左 阿たご山道」(天保7年(1836年))です。
苔むした岩と木の横に置かれています。
昔はここから山道に入って行ったのですね。今は細い道があるようですが、入口とは思いませんので、恐らく気がつかずに通り過ぎてしまうかもしれません。

まさに、石岡市から笠間市に入ったところのカーブしているところです。
手前の鐘転山に近いところです。

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このように曲り道というよりも家の角にあります。

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すぐ手前の石岡市東成井?から長原の方に右にまがる道の角に「聖徳太子尊」「?法華供養塔」が立っています。
何時のものかは不明ですが、地元で長い間大切にされてきたのでしょう。

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そのすぐ隣には木の小屋があり、中に子安像?三体がありました。 


道標 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/17 19:34
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