霞ケ浦水運(高浜ルート)

 明治28年に友部-土浦間に鉄道が開通し、翌明治29年12月に東京田端まで今の常磐線が開通した。
鉄道開通までは、高浜から東京までの汽船が使われ、物資の輸送もほとんどがこの水上交通であったといiいます。
当時の物流の流れを知らないと、今の国道や、鉄道の状況でしかものが見えなくなってしまう。
この水上輸送の状況を想像すらできないというのは困ったものである。
歴史への興味はきっと身近なものが過去と綿々とつながっていることがわかって初めて興味を覚えるものだと思う。
歴史をただ単なる暗記科目にしてしまったために、私のような歴史音痴な人間ができ、今頃になってやっと、昔のことなどに興味を覚え、調べたりし始めているのである。
本当に「なんてこった」である。

 高浜を調べるうちに、江戸時代から明治にかけてこの地に発達したという船の航行した水運について、ほとんど知識がないことがわかった。
もっとも利根川が江戸時代に流れ銚子の方に東遷したことすら昔は知らなかった。
学生時代に習っていたのかどうかとても記憶にないのである。
こんな調子であるから、昔の船が何処を通っていたかなど知る由もないのである。

江戸に船でものを運ぶルートはいくつかあったようなのだが、昔は日本海側は北前船が若狭湾から対馬海流にのって北海道まで物資の運搬をしていたのであるが、太平洋側の東北方面や関東から江戸までのルートは一体どうなっていたのだろうか?

これを知らないと、高浜の歴史など知ったことにならない。

船運

これは、調べた結果を地図に書きこんだものだが、「高浜」に集められたいろいろ品物は「高瀬舟」(船底の平らな小型の木造船)に荷を積んで、銚子の方に向かい、途中で利根川に入って上流に進みます。
利根川と江戸川の合流地点「関宿(せきやど)」で江戸川に入り、江戸に川を下って行ったのです。
この関宿は上の地図では川の合流点に書いたが、実際は野田市の北部で利根川と江戸川に挟まれた一帯にありました。宿場として栄えたのですが、明治の鉄道の普及でやはり廃れて行きました。

しかし、地図でもわかる通り、利根川を江戸川との合流点まで遡ることは距離も結構長く時間もかかってしまいます。
そのため、途中で陸路として川をバイパスしたりもしていたようです。

その一つが、前に書いた「なま(鮮魚)街道」です。
銚子で水揚げされた魚を新鮮なうちに江戸に運ぶため、夕方銚子を船で利根川の布佐まで運び、翌朝陸路を馬で松戸までこの「なま街道」で運び江戸川で再び船で江戸に運びました。次の朝のセリに間に合わせたといいますので約1日半の行程でした。

一方、野田の手前で流山の方に2つの川を繋ぐ運河(利根運河)が計画されました。
これは、明治12年に計画が持ち上がり、結局完成したのは明治23年になってからでした。

しかし、明治23年というと各地で鉄道が建設されていた時です。
上野-青森間の鉄道が全通したのは明治24年のことです。

この時には物流は急速に鉄道にとって代わっていったのです。


霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/01 15:50

霞ケ浦水運(2)-江戸川から江戸へ

 江戸時代に高浜に近隣から多くの荷が集められました。
江戸時代の初めにすでに府中領の年貢米を江戸に船で運んでいた記録があるといいます。
そして江戸中期以降になると河岸問屋の数も増えてきました。
大きな問屋としては「笹目八郎兵衛」「今泉吉兵衛」などがいたといいます。
取り扱いの荷物は
 ・年貢米:府中松平藩、笠間藩牧野家や旗本など
 ・穀類、薪炭(主に恋瀬川の流域から)
また、荷揚されたものは
 ・赤穂塩(醤油の原料)
 ・九十九里の干鰯(イワシ)
 ・江戸からの衣類、日常品
などであったようです。時代によってもいろいろ違っていたのでしょうね。

高浜入り江では、高浜以外にも石川河岸、高崎河岸(玉里)に問屋があり、にぎわったといいます。
もちろんこのほか、土浦や鉾田の方にもいろいろな水運が発達しています。

さて、先日水運(1)で利根川から関宿(せきやど)まで川を登って、江戸川に入り江戸へ運んでいたことを書きましたが、今日はこの江戸川から江戸の中心部への流れを少し書いてみたいと思います。

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この地図を見てください。 旧江戸川が千葉県の行徳の先から現在の新川へ入ります。そして船堀で中川に合流し、そこから小名木川を通って江戸の中心部を流れている隅田川へ物資を運んでいたのです。

新川は江戸時代には三代将軍家光の時代にはかなり整備され、掘削が進められた人口の水路で、もともとは船堀川があったものを拡張、新たに船運のために掘削したものです。
そのため、江戸時代は船堀川とか行徳川と呼ばれ、江戸水運の大動脈になったそうです。

これは行徳の塩田でとれる塩を江戸に運ぶためでもあり、この新川沿いにさまざまな問屋などができて賑やかであったといいます。
このため、現在川沿いに桜の木を1000本植えたり、木橋や石の護岸整備などをして昔の風情を取り戻す整備が行なわれているといいます。

参考:歌川広重「江戸百景:中川口」

 さて、この小名木川は江戸の今の箱崎あたりまで続いていますが、ここに「清澄庭園(東側)、清澄公園(西側)」があります。この場所はかって豪商「紀伊國屋文左衛門」の屋敷があったところといわれ、明治になって三菱の創始者「岩崎弥太郎」がここを買い取り庭園として整備したといいます。
その後、関東大震災で避難所として活躍したため、東側の庭園部分を東京都に寄贈し、昭和48年になって残りの西半分を都が買い取って公園にしたそうです。

何にも知らなかったのに、いろいろなことがつながってくるのでおもしろいですね。
もう少し先を調べてみたいと思います。
 

霞ケ浦水運 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/03 08:04

霞ケ浦水運(3)-行徳船

 水運(2)では江戸川から隅田川までの船の流れを紹介しましたが、隅田川と小名木川の合流点近くに芭蕉の「芭蕉庵」がありました。現在は「芭蕉記念館、芭蕉稲荷神社」になっているところです。
芭蕉が奥の細道への旅立ちは元禄2年3月27日で、その前にこの芭蕉庵を引き払い、前回紹介した「清澄庭園」のすぐ南側(深川)の「採荼庵」へ越しており、ここからの出発となりました。

・草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家・・・芭蕉庵を引き払って子供のいる別な家庭がそこに見えますね。
  (雛まつりの3月3日にはすでに別な家庭が住んでいたのですね)

さて、3月27日に旅立ちますが、ルートはというと船で隅田川を千住まで行き、千住宿から日光街道を進みました。千住で詠んだ歌が

・行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪

やはり、当時に風景が浮かんできますね。
この旅は8月に大垣で終わりますが、かなりの大行程を短期間で歩いたものですね。
しかし、芭蕉は霞ケ浦へのルートではなく千住から日光への道をとりました。

では、まだこちらの水運が発達していなかったのかというとそうではありません。
元禄2年にはすでに、小名木川から新川(船堀川)を通り、利根川へのルートは完成しており、その50年程前に、日本橋小網町から本行徳まで貨物(客)船「行徳船」が就航しており、当時はすでに50隻以上の船が往来していたといいます。想像するだけでも楽しいですね。

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行徳船を調べてみると、芭蕉の時代はどのような船かはわかりませんが、江戸後期には朝6時から夜6時まで江戸-行徳間を往復したといいます。
船頭1人に24人の客を乗せることができ、行徳の塩田の塩や野菜魚介類を江戸に運び、江戸からは日用品や成田などへの参拝客を運んでいたようです。
 
明治になりしばらくしてから蒸気船が東京-銚子間に就航します。これは内外通運会社の「通運丸」や「利根川丸」で1日2往復で18時間(1泊2日)かかったといいます。
内外通運会社は後の日本通運であり、民営化されたのは昭和25年でした。

鉄道が開通すると、18時間→2時間 となったため、船は急速にその役割を減らしてしまったのです。

さて、行徳(市川市)の塩田は江戸の初期には家康の保護もあり、江戸には無くてはならない塩の一大供給地域でした。しかし、中期以降には赤穂などの良質の塩が供給され始め、製法が天日干しによる比較的小さな業者が多かったこともあり、天候にも左右され一時の1/4以下に減ってしまったようです。

行徳の船着き場は本行徳村にあったようで、現在「常夜燈」がある辺りではないでしょうか。
この行徳から新川河岸が整備され、昔の面影を取り戻してくれたら行ってみたいですね。
 

霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/03 14:03

霞ケ浦水運(4)-那珂湊内海まわり

 霞ケ浦の水運を調べるのに、高浜からは米、清酒、醤油それに材木、炭などであり、米は高浜相場なるものまであったといいます。また土浦からも同じように醤油などを中心に運ばれたといいます。
これは陸路だと馬の背に乗せて(米なら左右に2俵)馬子が一人必要で、これが駄賃の言葉を生んだのですが、船なら高瀬船で船頭1人で何十倍も一度に運べたのです。
これなら馬で運ぶ駄賃の1/5~1/10くらいで済んだといいます。

では霞ケ浦水運として、別なルートがどのような状況であったのかを知らなければなりません。
そこで、北浦を航行していた船がどのようなルートで物資を運んでいたのかを調べてみました。

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これは那珂湊内海ルートと呼ばれていたものらしいのですが、那珂湊まで仙台や石巻など東北方面から外洋を船で運び、那珂湊からそのまま川をたどって涸沼に入ります。
涸沼から陸路を「鉾田」へ運び、北浦を通って佐原から利根川を遡ります。
または涸沼から小川へでて、高浜ルートで佐原から利根川です。

これは鹿島灘の航海や、銚子から先の外洋ルートは度々事故もあり危険だったからのようです。
このため、このルートも大いに発達を遂げたようです。
しかし、涸沼から陸路を使うために、荷物を乗せ換える手間などが発生し、次第に廃れて行ったようです。
また、北浦に蒸気船が明治21年に就航します。
鉄道は石岡-小川-玉造間に「鹿島参宮鉄道」(その後の鹿島鉄道、現在廃線)が、できたのは大正11年です。
鉄道の普及で物資も鉄道で運べば時間が1/10くらいになるのですから、やはりどうしても廃れてしまうのは仕方がないでしょうね。

それにしても「涸沼のしじみ」は今でも大粒で大変美味しいですね。茨城名産品の一つでしょう。
 

霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/04 06:52

霞ケ浦水運(5)-高浜の街並み

 昔、高浜の湊から、親鸞聖人が鹿島神宮に書物を調べ(?)に舟でよく行き来をしていた時(鎌倉時代初め頃)、この村に腫れ物で苦しんでいる男がおりました。
可哀そうに思った親鸞は、この男の所へ行って介抱するとたちまち治って動けるようになりました。
男は驚いて、今度は心の病も救ってくださいと頼みます。
すると親鸞はその男に「庭の石に阿弥陀如来が宿っているのでそれを信心して拝むが良い。」と立ち去りました。
男が庭の石を見てみると、爪で書いたような阿弥陀如来の像が浮き出していたのです。
この石を大切にして拝んできたのです。これが高浜にある「爪書阿弥陀」なのです。

このような伝説は各地に残されていますが、親鸞そのものの存在まで疑われた時もあったのですから、この話の信憑性はわかりません。
しかし、この地に親鸞がよく通ったことは確かなようです。

さて、今日は、親鸞の話がメインではなく、この爪書阿弥陀堂の裏山からの高浜の街並みが見事にながめることができるのを伝えたかったのです。

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これが、爪書阿弥陀堂です。お堂の右手後ろに階段が見えます。この階段を上りましょう。

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この上はお墓の墓地ですが、ここからの眺めはとても素晴らしいです。霞ケ浦のここ高浜の入り江が一望できます。

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真中の橋が「愛郷橋」、右側の少し木がこんもり茂っているところが「高浜神社」です。

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この煙突は、白菊酒造さんの工場です。

今日はいつもより帰りが遅くなってしまいました。高浜の眺めを楽しむだけで終わりましょう。
 

霞ケ浦水運 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/04 20:39

霞ケ浦水運(6)-高瀬舟

 利根川の東遷事業により霞ケ浦から利根川、江戸川を通って安全に江戸に物資を運ぶことができるようになりました。

江戸時代前から川で主に荷物を運搬するために、舟の底を平らにした高瀬舟(高瀬=浅瀬)が全国各地の川で使われました。高瀬舟ってどんなものだったのでしょう。

森鴎外の「高瀬舟」は京都から大阪へ流れる高瀬川を行き来する小舟であり、こちらの荷物運搬も同じような小舟が多かったのでしょう。
この罪人を運んだという京都から大阪の高瀬川の舟は再現されています。<写真はこちら

あまり大きなものではなく、米なら20~30俵くらい運んだのでしょう。
これには帆がありませんが、霞ケ浦で使われていた高瀬舟はどんなものだったのでしょう。

小舟にとっては潮の流れがなく、風があれば帆をはり、なければ櫓をこぎ。または川の沿岸からロープで曳き舟などもあったようです。

実は慶応4年に高浜神社に奉納された1枚の額絵があります。

この高浜神社は大変古く、天候が悪く鹿島神宮にお参りの舟が出せない時など、この地で鹿島神宮に向かって祈りをささげた「青屋神社」がスタートでした。
高浜に来れば必ず立ち寄られるところだと思います。

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神社の境内にこのような説明が置かれています。写真左の上は山岡鉄舟の書いた「高浜神社」の奉納額。下が慶応4年に書かれたこの高浜の風景を描いた奉納額です。

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しかし、この高浜神社の説明には、常陸風土記に歌われた時の高浜の様子が説明されているだけです。
では、この絵の説明はと探すと、この神社ではなく「高浜公民館」(先日書いた「いづみ荘」の近くです)にありました。

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これによると、江戸に運んだものは「米・麦・大豆・小豆・薪炭・醤油・木材など」で江戸から運ばれたものは「塩・干鰯・砂糖・ロウソク、呉服・荒物・小間物など」と書かれています。
この中では塩がとても気になりますが、これは醤油の材料として「赤穂塩」が使われたようです。

京都の方の高瀬舟は川幅もせまく、場所によっては、陸からロープで曳き舟などしたりもしたようですが、霞ケ浦は広く潮の流れもあまりないので、風があれば帆をはり、なければ櫓をこぎなどしたものと思われます。

ここに書かれた絵も帆が見えますが、はっきりしませんので、「石岡の歴史」に掲載されている写真を拡大して見ましょう。

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この大きくそびえる山は富士山ではありません。筑波山です。きれいな形の山ですね。

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これは高浜神社です。湖側と反対側に大きな(石の?)鳥居が見えます。
また湖の岸辺には小さな鳥居があります。

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帆を張った舟と帆をおろしてマストのついた舟が数隻見えます。また町の真ん中に大きな梯子?階段?が見えますがこれは火の見櫓でしょうか? いや醤油工場の煙突かもしれません。

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この屋号はどこの舟でしょう。横幅は結構広く、2m以上あるように見えます。

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全部で舟は10隻以上描かれています。
かなり賑やかだったと思われます。この絵が奉納されたのは慶応4年の3月です。明治元年は同じ年の9月でした。
また、大政奉還は前年の慶応3年。戊辰戦争がはじまったのは、この慶応4年です。

こののどかな景色・風景と当時の動きとがうまく頭の中で整理できません。
山岡鉄舟の活躍した時代と同じなのですから。

ところで、この山岡鉄舟の兄(小野古風)は、高浜小学校(私塾からスタート)の創始者で、初代校長でした。
 

霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/05 19:51

霞ケ浦水運(7)-蒸気船

 さて、昨日霞ケ浦の高瀬舟のことを書いたのですが、その後調べてみるとかなり大きなものが多く就航していたようです。
「いしおか100物語」によると、その積載量の規模は
<高瀬船>
・霞ケ浦  900~1200俵 (利根川下流域まで:1船に船頭と水主5-6人。北浦も含む)
・中利根川 300~550俵
・鬼怒川  250~500俵
・那珂川  500~600俵
<平田船>  300~500俵
<茶船>   60~100俵
<川下小船> 25俵

また、明治期には外輪蒸気船が就航します。まさに人と荷物を運ぶ足として、霞ケ浦周辺の町を結ぶ航路として運行されていたのです。

この外輪蒸気船「通運丸」の画像(ポスター)がTeaCupにアップされていました。 →こちら
煙突から煙を吐きながら霞ケ浦を行ったり来たりしていた様子が目に浮かぶようです。

これは戦前まで運行されていたようですので、お年寄りの方は見ておられる人も多いと思います。

また、参考までにこの航路が今泉さんのブログに昨年12月乗っていました。→こちらです。

大変参考になりました。
さて、これによるとたくさんの船着き場があったようです。高浜・小川・羽生・玉造・柏崎・田伏・井上・五反田・今宿・麻生・牛堀・佐原・・・ いろいろなルートがあったようですね。

「霞ケ浦四十八津」という霞ケ浦の周りの漁師たちで作る自治組織のようなものが、江戸時代になる前からあったといいます。
江戸時代の初めに、下玉里村の大地主が自分が有している土地の前に広がる高浜入を水戸藩占有できる「御留川(おとめがわ)」の申し入れがなされ、これが認められてしまいました。

実は、この下玉里村の対岸は「井関」で、昔は水戸藩領だったのです。
従って、高浜の入り江の入口部分の漁業権が漁師になく、雇われた漁民が大網で大量に魚をとる事態になってしまいました。

これに反対していた「霞ケ浦四十八津」の漁師たちは、「御留川」以外での漁となりましたが、乱獲を防ぎ、自分たちの子孫にまで霞ケ浦の豊かな自然をまもるため、会議を毎年行ない、大量の捕獲法を認めず罰則も設けた八カ条を制定し、江戸末期まで続けてきたといいます。

 霞ケ浦の歴史も知らない事が多いですね。少しずつわかってくると見る楽しさもUPします。

それにしても、この高浜から霞ケ浦沿い東に行く道は鹿島鉄道が通っていた道ですね。
船がなく、鉄道がなくなり、お互いを有機的に結びつける強いきずながなくなってきています。
石岡の歴史を紐解いていますが、これも昔からの物や文化の流れがあってこそ成り立っています。

是非その流れを断ち切らないように、お互いがお互いの立場や歴史的な流れを知り、お互いの文化を大切にしていく交流が大切だと感じました。

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高浜に残る昔の河岸問屋の名残を残す建物。もうほとんど残っていませんね。
 
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この場所は石岡市高浜と小美玉市高崎の市境となっているところで、龍神山から柏原池を通り石岡駅で一旦地下にもぐって流れてきている山王川が霞ケ浦に注ぐところです。
とても穏やかな流れです。
行政区分上は別々の市ですが、昔の生活の流れはつながっています。
明日は、この先の高崎地区を少しだけ紹介します。
 
  

霞ケ浦水運 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/06 18:52

霞ケ浦水運(8)-高崎、下玉里地区

昨日のブログで「御留川(おとめがわ)」が制定され、この高浜入が徳川水戸藩領となり、この場所が川とみなされ漁業権も水戸藩の物となった時期があると書きました。
この場所を確認したくて、高浜の隣り高崎・下玉里地区へ行ってみました。

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ここは下高崎側から高浜方面を見たところ。角にうなぎ屋さんがあります。その先の道を左に行くと高浜、右に行くと玉里の町に行きます。
玉里もその名前はヤマトタケル伝説などと結びついた古い名前で、この道がヤマト朝廷が進んで来た道なのでしょう。
この先の行方市には多くの伝説が残されています。機会があればまた紹介したいと思います。

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下高崎地区にも昔の河岸問屋の面影を残す建物が残されています。
このようなものは記録にとどめておかないとそのうちに近代的なものに変わってしまうでしょう。

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目の前に霞ケ浦が広がっています。

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霞ケ浦との間に少し空いたところには蓮畑です。 霞ケ浦周辺はレンコンの一大産地です。

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向こうに見えるのが筑波山。手前が高浜の町です。

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銚子側を見るとこの地域が対岸までの距離が狭くなっているのがわかります。
この辺りが「御留川」とされた場所でしょう。対岸は先日紹介した「八木干拓」の地域です。
この下玉里地区と対岸の井関地区は一時徳川水戸藩の直轄領になっていたのです。

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西の宮神社(恵比寿神社):地元の小じんまりした神社です。

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ここに「御留川」の説明がありました。西の宮の別称となっていますので、東の宮は?
この東には「素鷲(そが)神社」がありますので、素鷲神社が東の宮でしょうか?


霞ケ浦水運 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/07/07 08:44

霞ケ浦水運(9)-高瀬船で運ばれた仁王像

昨夜は夜中にかなり大きめの地震がありドキッとしましたが、M5.6だそうです。
余震慣れしているとはいえいやな思いが頭の中をよぎります。
過去の例からするとまだまだ安心はできないですね。今度はもっと南の方といういやな予感。
今朝は雨が降っています。これが明ければ梅雨明けかも?
夏風邪を引いたようでのどが痛い。「少しおとなしくしろ」と言われているのかもしれない。

さて、霞ケ浦は昔海だった。流れ海、香取の海、信太の海などといろいろに呼ばれたという。
淡水湖になったのは比較的歴史が浅いと思う。まだまだ知らない事が多すぎます。
知りたいという気持ちが大切で、知っているからどうということもないでしょう。
のんびりやっていきましょう。

 さて、昨日高浜の隣り町であり高崎地区(小美玉市下玉里)の街並みや霞ケ浦の風景などを紹介しました。
ここは水戸藩が「御留川」として自分たちの魚場とした領域です。

今日はこの高崎地区に元禄5年(1692年)に運ばれてきた石造の仁王像が残されていると聞いて行ってきました。

場所は旧鹿島電鉄の「しかむら(四箇村)駅」から北へ800mくらい行ったところにありました。
石岡脳外科病院の脇の道を真っ直ぐ行ったところの「極楽寺」への分かれ道の角にあった。
以前に、この近くの「耳守神社」へ行ったことがあったが、このすぐ近くです。全く知らなかった。

小美玉市になっているので、石岡の歴史ではほとんど紹介されない。この「耳守神社」など非常に関係が深いのに何の紹介もないのはどうしてだろう。行政の縦割りはどうしようもない。
歴史では今の行政区分ではわからなくなってしまうことも多い。是非考えてもらいたいものです。

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ちょうど分かれ道の角に置かれている。とても立派な仁王像(金剛像、力士像)である。

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2つの像が両側に置かれている階段の先には小さな祠がある。この場所には「安楽寺」という寺があったそうです。地蔵堂・釈迦堂・阿弥陀堂などが立ち並ぶかなり大きな寺だったそうです。そして、この仁王像がある場所には「仁王門」があったのです。
しかし、江戸時代の後期に焼失してしまい、この仁王像だけが残されたのです。(石岡100物語より)

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この像はそれぞれ高さ1.7m、重量は3トンだといいます。合計6トンです。
そしてこの像が江戸から運び込まれたいきさつが「100物語に」書かれていました。

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この説明板では詳細がわかりません。実際には元禄年に高浜村の河岸問屋「笹目八郎兵衛」により江戸から船で運ばれ、ここの阿弥陀堂に寄進されたものだそうです。
説明では高浜の湊ではなく高崎に運ばれてきたようです。
江戸から江戸川・利根川・霞ケ浦と高瀬船で運ばれてきたのです。300年以上前のことですね。

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今はこの辺りには寺の面影はありません。この一角がこんもりした小さな森となっています。
また竹林が・・・。のんびり時を見つめてきたのでしょう。

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裏側はこのような田圃がひろがり、白鷺が舞い、きれいな水が流れていました。


 
この川は玉里運動公園脇の「野村田池」などから流れてきて園部川に注いています。
 

霞ケ浦水運 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2011/07/08 07:23

霞ヶ浦の水門

 徳川家康は江戸の治水のため、現在の東京湾に注いでいた暴れ川といわれる「利根川」の流れを常陸川に合流させ、銚子の方に変えさせる命令を出した(1590年)。

これは水路で江戸に物資を運ぶためのルート確保の役割もあり、寛文5年(1665年)、境町・関宿間に江戸川を移し権現堂川を締め切ることで、霞ヶ浦や銚子からの物資を関宿を通って江戸川を経由して江戸へ運ぶ水運の大動脈が完成した。

元々は縄文海進でこの香取海流域は湿地帯で稲作もあまり盛んではなかったようだが、この利根川の東遷事業で肥沃な土砂が堆積し、広大な稲作の地帯が出現した。

しかし、利根川の逆流などで各地で洪水は頻繁に発生し、治水対策が明治になっても続けられた。

下の写真は現在の霞ヶ浦や利根川の下流地帯の写真であるが、この利根川等に架かる橋を書き込んでみた。

(写真はサムネルです。クリックで大きくなります)
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大きな橋は下流から「銚子大橋」「利根かもめ大橋」「利根川大橋・常陸川大橋」「小見川大橋・息栖大橋」となっている。

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水門があるのは利根川と常陸川が合流する手前の「利根川大橋・常陸川大橋」のところに設置されています。河口からは18.5km上流にあります。

上の写真は利根川大橋です。この手前側に常陸川大橋があり、こちらも同じような水門が並んでいます。

tonesuimonn.jpg

水門の東側(海側)は波が押し寄せても水門の上流側には水流の逆流がない。
この道路の上から見ると左右でその違いがすぐにわかるほどだ。
この道路は利根川と常陸川に挟まれたデルタ地帯のちょうど一番先端に当たる。

この水門は昭和40年(1965年)12月に着工し、昭和46年(1971年)1月に完成している。
最大の目的は塩分濃度の調節(水田の塩害防止)にあるそうです。

それまでは利根川の香取付近や霞ヶ浦の北浦などで塩害の被害が度々あったそうです。

水門は自動制御され、自家発電施設も備えており、停電時も確実に制御されているとともに、今まで地震でも問題になったことはないという。

川の水量が多く洪水の心配があるときは全ての水門が全開となるが、利根川流域の洪水防止は堤防の整備もさることながら昭和3年に完成した利根川上流の権現堂川を仕切って廃川として調整池の役割を持たせたことも大きいようです。

でも、この水門が出来てから霞ヶ浦の自然環境は大きく変わってしまいました。
ウナギなどの海からの遡上が仕切られてしまったことや、霞ヶ浦の漁や湖岸に生える植物等も大きな変化があったといいます。

少しずつでも理解してどうするのが私たちにとって良いのかも考えてみたい。

kamomeohasi.jpg

この上の写真は2000年に完成した有料(普通車200円)の「利根かもめ大橋」です。

ここから10km程海寄りの銚子大橋の交通量が多く、この混雑緩和を狙ったそうですが、有料であるため通行量は1日4000台に満たないそうだ。
都市の中心部を通らない中途半端な有料の橋のため、見たときも通行する車は少ないように見えた。

元々銚子大橋が完成したのは昭和37年(1962)で、当初は有料道路だった。
この料金は30年で償還する予定が、通行料が増えて12年後の昭和49年(1974)に無料となった。
通行量は現在1日に約26000台あるという。

かもめ大橋はできたのだが、あまり通行量はなく、こちらの銚子大橋は交通の動脈となっている。
その銚子大橋も1年程前に行った時には架け替えの工事をしていた。

現在は新しい銚子大橋が2010年12月に一部が開通し、今年春には全線開通するはずである。

霞ヶ浦の西側に二橋を架ける運動が行われていることは先日書いたが、このような他の橋やその歴史等も見ておく必要がありそうだ。

それにしてもこの利根川下流地帯は水田が一面に広がっていて、今では大きなコメの産地になっていると思う。
詳しいことは分からないが、米の戸別所得補償制度等に対する取り組み方を見る時、この地帯の動きも興味深い気がします。

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霞ケ浦水運 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/05/07 18:21
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