杉の井と茶屋場(1)

今日は帰りが遅くなってしまいました。でも夜7時過ぎでもまだ十分明るかったです。
夏至の今頃は太陽の光がもっとも強く感じる時で、昔は特別な思いがあったことでしょう。
夏至の時に伊勢から見ても鹿島がもっとも早く、東の太陽が昇る地です。
何か不思議なエネルギーに満ちていたとしても不思議ではありませんね。

 さて、先日からあまり私にとっては縁の薄かった石岡の泉町を調べていました。
国分寺の七重の塔が現在に復活したらこの石岡はどのように写るだろうか想像したりしました。

ちゃちな観光目的のコンクリートのお城などでは何の趣もないので、模型ではないきちっとした塔を復活する事が可能なのか。本物でなければあまり意味がないのです。
薬王院の三重塔みごとでした。
奈良室生寺の五重塔もシンボルですからなければ様になりませんね。修復もできて良かったようです。

さて、今まで、旧水戸街道が脚光を浴び、この地を通過していく方が結構おられます。皆それぞれに良く調べて書かれていますので大変参考になりますが、ここは地元でのメリットを活かして、何度でも足を運べますので少し角度を変えて見てみたいとの思いがあります。

今日は泉町の裏通り(ガラミドウ)から杉並の方に行く道があります。
もちろん今は常磐線の踏切を越えて、更に柏原池から流れてくる山王川を渡るのですが、ここに府中六井といわれた井戸が残されています。「杉の井」です。

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かつて、府中には清らかな泉が6か所あり、六井の泉と呼ばれたといいます。
私の所に近い「石井の泉」と、この「杉の井」、それから最近復活した貝地/田島の「小目井」には案内板の設置もできていますが、他は道路や田圃で消えて行きました。

まあ、もっとも現在はわずかに流れている「石井の泉」もほとんど面影はなくなっておりますが、飲み水が貴重であった頃は美味しい湧水はとても生活に溶け込んで、信仰の対象でもありました。

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ここ杉の井は江戸時代に水戸の殿様が江戸の行き来の時に、水戸街道沿いの杉並木の先にあった「茶屋場」でお茶をたしなむのに、この水が使われたそうです。

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今は井戸にも水はかれて出ていません。奥の小さな祠には「弘法大師」が祀られています。



 次回はこの「茶屋場」を紹介します。(知っている方にとっては面白くもないですが)
 

府中六井 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/06/20 19:57

杉の井と茶屋場(2)

 さて、昨夜UPした「杉の井と茶屋場」の続きです。一般の案内では別々なのですが、これを関連付けて見てみたら何か見えてこないかと思い書いてみたのですが、まだよくイメージは湧きません。

石岡の一里塚(台風で片側の木は切ってしまいましたが、残った木も危険だからとして切られてしまいました。)が昔の街道の名残を残す唯一のものとなっています。
しかし、この先には杉並木が続いており、昼でも暗く、近代化の妨げとなる?と道路の整備とともに切られてしまいました。
確かに街中には邪魔とも考えられたとも思いますが、それではこの通りが発展したかというとそうでもないのです。
大型安売りスーパが今春に閉店。その先の回転寿司のチェーン店は昨年?閉店。またその先にあった郊外型の本屋さんは止めて、今はコンビニに変わっています。
地名の「杉並」が残っていますので、わずかに思いだせるでしょうか。

県の整備で昭和63年にまだ一里塚のエノキが健全であった時に「江戸街道・水戸街道」の宿場の絵図が看板に描かれています。こちらはまた後で紹介できるかと思います。
こっちの方が旅行者には興味はあるようですが・・・。

さて、もう少しいくとその先左側に「水戸信用金庫」の建物があります。

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平成19年に金融機関の合併統合が進んで、この金庫は別な場所に統合されました。今も建物は残っていますが、営業はしていません。

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この信用金庫の建物手前に奥に入る狭い道があり、奥に「万能塚」と書かれた看板があります。
その奥にこんもりとした塚と大きめの石が置かれています。

石岡と言えば、「万能(まんのう)」を忘れてはいけないようですが、今の人は知らないですよね。
私もよくわかりませんが、「農具万能(鍬くわ)は大変便利な鍬で備中鍬を改良し、「耕起・破砕・均平」すべてに使える2本~5本歯の鍬である」となっています。

発明品ですが、特許も取っていないので誰でも作れたといいます。とても便利で広がったようです。
この鈴木万能さんとこの塚の関係がいまいちわからないで困っています。

この「鈴木万能(鈴木平左衛門)」さんのお墓は市内の「常光院」にあります。自宅も香丸町の方にあったと聞いています。
この「万能塚」には、旧書に「万能塚は、今の万能の先祖にて、大和大峰山に信心して、それより万能と云う法号を得たり。この人の葬りたる故に、万能塚なりと云う。本姓は鈴木氏なり」書かれているようですので、万能の先祖が葬られたところと解釈できそうです。

まわりから、鉄屑などがでてきているので、ここで万能を制作していたのではないかと・・・。

何とも歯切れが悪いが、こんな説明しか出てこない。これ以上とりあえず調査はあきらめよう。
説明の中に「ズバイ」という地名が近くにあり「熱灰」のことだろうとなっていましたが、今後探れば、こちらは何か出てくるかもしれない。

更にその先を行くと「茶屋場住宅入口」という信号があります。

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この辺りに、水戸の殿様のお休み処があったようです。
左側の少しこんもりとした空地とその先の駐車場あたりにあったのでしょうか。

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資料(石岡100物語)によると、住宅地の開発された昭和30年以前には、高さ1mくらいの土手で三方を囲われた200坪ぐらいの茶屋場跡が山林の中に残されていたそうです。

また、江戸時代には、この茶屋場にみごとな松の木があったと書かれていたと思います。ちょっとの記憶だけですので、あまりはっきりはしません。

しかし、今は信号機の名前「茶屋場住宅入口」と町名の「杉並」だけでは、昔の陸前浜街道、水戸街道を探して歩かれる方には少し寂しすぎますね。せっかく一里塚が切り株だけでも趣を残しているのですから。

例えば、街道側に「杉の井」への道案内を入れるとか、杉並木の説明を泉橋の上だけでなくこちらにも少し看板を立てるとか、万能塚の説明も来る人にわかるように入れるとか、茶屋場にも説明看板を設置するなど・・・何とかできないものでしょうかね。

訪れる人の気持ちを是非汲んで、観光にも力を入れてください。
観光客は、そんな看板を見つけただけで、あちこちに宣伝してくれますよ。
これからは駅前でレンタサイクルをもっと夜遅くまで営業できませんか?

駅の駐輪場を整備し、観光客に貸し出す自転車を確保するなど工夫できると思います。
また、どこか数か所の市や駅とタイアップして自転車も乗り捨て可能ならさらに嬉しいですね。
いつも行政区分でしかものが見えないなんて、自らが計画して殻を破ってください。
もちろんやっても観光客が来ないなどとの嘆きが聞こえてきそうですが、それは工夫の仕方が悪いせいです。
計画がいつも点になってしまっているからです。線から面に広げる必要があります。

また、案内看板などですが、一律に立派な看板を設置していますが、「全体の中でどのように雰囲気を作れるか?」とか、イメージがわきやすいように屋根をつけるとか、遠くからでも見つけやすく、そこに行ってみてみたいと思わせる工夫が必要です。

今、泉町の橋およびその歩道に説明のプレートなどがあり、この一里塚にはそれなりのものがあります。
ここは観光客は「来て良かった」と思うでしょう。しかしその先は行里川の昔の面影を残す屋敷まで、何もないと思って通り過ぎてしまいます。本当に何もないのでしょうか?
杉の井の井戸は枯れても、鉄分の少ない水は美味しい水であり、酒造りに活かされているはずです。
「湖北の名水」でも近くで販売したら?

石岡には昔あちこちから道が集まってきていました。
どんな道かって? そう。これもわからない道がたくさんあります。調べたくてもどうなっているのかさえ分からない状態です。

古東海道終点の都市「石岡」、鎌倉街道、陸前浜街道、宇都宮街道、(笠間)江戸街道、真壁柿岡街道、筑波府中街道、小川街道(原道)、高浜街道・・・探すととても面白いです。
  

府中六井 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/06/21 07:13

府中六井(2)-石井の泉

本日(7/8)2度目です。1度目もよろしく。
 かって、常陸府中(石岡)の町は清酒どころとしても昔から名高いところである。
清酒造りには良い水が必要で、湧水は大変貴重なものであった。鉄分も少なく、酒造りに適していたと言われている。
そんな街中に昔から六井といわれる名井があった。六井というのは井戸が六ヶ所とも言われているが、どうも多くの井戸を指していたものらしく、定説となっている六個の井戸以外にも多くの井戸が知られていた。
筑波山にも筑波六井といわれる井戸が存在し、全てが明らかになっているわけではないようだ。

府中六井とは笹目内蔵助さんが崙書房から昭和58年に「府中六井」という書物を出している。これによると
「野々井・室ケ井・小目井・石井・杉ノ井・鈴負井」という市史などがあげている井戸の他に入れなければいけない井戸を挙げている。
例えば「北の谷のホチ水、田端井、総社のおみたらし、小目代福性院の古井戸、宮下の遺徳泉、村上の子ハ清水、府中宿の古井戸、貝地駒田の古井戸」などが挙げられている。

ここはまずは通説の6つの井戸の現状をみつつ、時代が見えてくればいいのだが・・・
先日「杉の井」を紹介しましたので、今日は「石井の泉」を紹介します。

府中六井地図

・涼しさに千歳をかけて契るかな 石井の水の清き流れに <石井の泉>

・びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ <室ケ井>

・故郷の野中の清水ぬるければ 物の心を知る人ぞ汲む <野々井>

・見ぬ人は汲みて知るらん小目井の 清き流れの千代の行く末 <小目井>

・宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水 <鈴負井>

・今の世に塵もとどめぬ杉の井の 清きをおのがこころもとがな <杉の井>

それぞれの泉を読んだ歌がのっていました。(石井の泉の現地案内板)

石井の泉は通りに案内矢印があるが、そのまま行くと突き当りを少し右に回るように進むと下の写真のように住宅の横に階段がある。ここには案内がないので初めての人は気がつかない。
石岡の案内板は本当にこのようなものが多い。

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住宅の裏へまわってみると、そこに地蔵さまと看板がある。
水は申し訳程度にながれているが、苔むした淀んだ水できれいとは言えない。
昔は、目の治療にも効く清らかな水で、農薬が出回り始めた時は、この泉の周りは農薬が禁止されたといいます。

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現在地蔵には雨露を防ぐため屋根つきの小屋がつくられています。

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「いしおか昭和の肖像」に写真がありました。今泉さんのお顔と当時の泉の様子がわかるので、ここに比較のため掲載させていただきました。
(勝手に掲載お許しください。あまりにい写真だったので。問題あれば連絡ください。)


府中六井 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/08 19:58

府中六井(3)-小目井(1)

 府中六井としと呼ばれたきれいな水の湧き出していた井戸は、先日「杉の井」をまた昨日は石井の泉を紹介しましたが、今日は2年ほど前に地元の努力で復活した「小目井」に行ってきました。
実は、石岡市の市報で記事を見つけて探してみたのですが場所がわからず、今回で3度目の正直で場所がわかりました。
小目という名前のためもう少し茨城廃寺側にあるとばかり思って、少し東側をウロウロしてしまいました。
結果は外城といわれた昔の城があった岡田神社の建つ台地の裾野の方で、今回の6号バイパスの橋が良く見える場所でした。

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写真の正面の草原の先が小目井がある。左手の台地が外城(石岡城)のあった舌状台地である。

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復活した府中六井「小目井」。今は井戸を置いているが水はありません。

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看板にあるように、この水は眼病に効くと言われ、近隣から、また遠くからも参拝者がたくさんいたそうです。
昭和30年頃に六井も姿を消していく中で、この小目井も荒れ果てていましたが、念願かなって復活。


府中六井 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/09 18:13

府中六井(3)-小目井(2)

昨日紹介した「小目井」の場所ですが、本当に昔なら恋瀬川に面していたところかもしれません。
私のブログは歴史紹介ではないので、六井の井戸の内容の紹介は程々にして、そこに行って感じたこと、風や空の動きなどをできるだけ肌で感じたことを書きたいと思っている。

まあ、思いと実際の行動はどうも一緒にはならないが、気持ちだけは大切にしたいと思う。
この小目井も目の治療に近隣、いや結構遠くから人が集まってきたという。
どんな感じだったのかを想像しようとするが、なかなか思い浮かばない。
しかし、この場所を知ったことにより昔の外城(石岡城)の建っていた場所が舌状の台地の上であることが確認できた。

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この「小目井」のある場所は台地の先端ですが、昔はこの先は霞ケ浦だったのかもしれません。今は梨畑が広がり、その向こうに工事中の橋や6号の恋瀬橋が近くが見えます。奥の山は筑波山です。

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写真の梨畑の先は現在工事中の6号バイパスの橋桁です。
このバイパスはこの先舟塚山古墳群をかわしながらまわっていきますが、どうしても昔の縄文人の遺跡も通るし、ヤマト朝廷の通った道も通ります。また中世の行方四頭などの本拠地も通ります。

文化の繋がりが断たれないことを望みます。
この井戸の場所は現在地元の人以外にはほとんど通りません。しかし、大昔は通っていたのかも知れません。
近くに月天宮(貝地)があります。ここと幸町の日天宮を通って・・・など 現在では考えられないようなルートだったのかとも想像します。

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月天宮(貝地)

これは、この小目井の場所を探して歩き回った時に田島地区の分かれ道にあったもの。このような偶然の出会いがうれしいので放浪することも止められません。

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見ぬ人は汲みて知るらん小目井の 清き流れの千代の行く末

  

府中六井 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/10 09:05

府中六井(4)-室ヶ井と景清

びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ

この室ヶ井(室貝)のあった場所は6号国道の建設で道路の下に消えたとある。
しかし、この歌にある「びんずるの谷津」とはどんなところなのだろうと興味がわいた。
谷津とは谷津田という言葉が良く出てくるように谷のようになった低い土地で田圃などが良く作られている場所が多いそうだ。
では「びんずる」とはなにか気になったが、別な書物を見たら「びん面」と書かれてあった。

まずは、資料から地図をたよりに場所を探してみました。

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この写真は6号国道の貝地の交差点の横断歩道の上から石岡・水戸方面を見たところです。
信号のすぐ左手に「護身地蔵尊」「一成蕎麦屋」その先に「きっちんさくら」。右側に「レストランサイゼリア」、「讃岐うどん丸亀製麺」などがあります。



室ヶ井はこの少し低くなったあたりの田圃の中にあったようです。石岡駅側から細い道を現在の6号を通り越して「平等寺」の方に行く途中だといいます。
このあたりには谷津田が広がっていたのでしょう。
写真集「いしおか昭和の肖像」には、昭和30年12月18日にこの室ヶ井の井戸供養が行なわれた写真が載っています。
この時まで水は湧き出ていたものと思われます。6号国道バイパスが昭和36年に完成し、すっかり景色が変わってしまったといいます。

それにしても、一日に七へん色が変わるほどの清井で、昭和30年の時には土地の所有者が市に残してほしいと寄付したと書きしるされており、石碑の一つもどこか脇にでも立てて残してほしかったと思います。

この室ヶ井には景清(平家の猛者として歌舞伎でも有名です)がこの地で生まれ、この水を産水としたとの伝説が残されています。

景清の生まれたところがはたしてこの石岡であったのかどうかもはっきり証拠はありません。
しかし、現在の貝地にある「平等寺」があった場所には昔、「国掌屋敷」という屋敷があり、近衛景清(藤原景清、平景清)がこの屋敷で生まれたとする話が伝わっています。

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景清はその武勇を頼朝が惜しみ、死罪をまぬかれ、九州へ渡ったとする説や、常陸国守八田知家に預けられ、そこで死んだとする説などいくつかあります。
やはり八田家に預けられ、死んだとするのが有力とすると、その霊をここに祀って、慰めるということでしょうか。

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場所は「平等寺」のとなりのこんもりとした愛宕山です。おそらく古墳があったのでしょう。
 
 

府中六井 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/10 19:30

府中六井(5)-鈴負井

宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水

昭和30年代に次々に姿を消していった府中六井。何とか3つは案内板なども整備され、昔を少し思い浮かべられるようになっているが、残りの3つはどうなっているのでしょうか。
昨日は産水に使われていたという室ヶ井の場所を、景清伝説と共に考えてみましたが、今日は「鈴負井」です。「鈴緒井」とも書くようです。

場所は宮部下の先の田圃の中です。
355線バイパス(旧石岡有料道路)の旧料金所の近くです。

どうやら、一か所ではなく、数か所で湧水がありそれぞれにみな鈴負井と言われていたようです。
現在は「府中橋」から真っ直ぐにこのバイパスへの道を建設しています。今年の1月に途中を紹介しましたが、まだ未完です。(こちら

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場所を確かめようと、現在の建設道路の1本北側の田圃のあぜ道に足を踏み入れました。
すると、田圃のあちこちに白鷺がいっぱい。

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近付くと飛び立ってしまいました。

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バイパス道路から田圃三枚分くらいは行ったあたりというので、この場所くらいでしょうか?
水は結構ありましたが、湧水は良くわかりません。あちこち湧き出しているようでもあります。

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飛び去った白鷺が、向こうの方を悠々と飛んでおりましたら、また頭上の方に戻ってきました。
すると近くの田んぼに隠れていたもう1羽の鳥がバタバタと飛び立ち驚いてしまいました。

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田圃の向こうに筑波山が見えます。手前に走っているのが常磐高速道路です。

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現在取り付け道路の工事中ですが、355バイパスにも歩道が一部ですが付くようです。



さて、この場所は、大変豊かな田圃がありますが、石岡地区では一番?低い低地です。
この西側には恋瀬川が流れており、その先は志筑の町に出ます。
志筑には万葉集に歌われた「師付の田井」があります。こちらの井戸も歴史は古く今でもコンコンと水が流れ出ています。
常陸国府の役人であった高橋虫麻呂は、筑波山に登って、こちらの常陸国府を眺めた時に志筑の田もこの辺りの田も同じに見えたでしょう。
恐らくこの志筑川(恋瀬川)の周りに豊かな湧水があり、田園地帯が広がっていたのでしょう。
時は秋の暮れでしょうか。今頃登っていいればまた全然違った歌になっていたでしょう。

万葉集(第九-1757):
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。・・・・
 

府中六井 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/11 18:47

府中六井(6)-野々井と大蛇

 府中六井の最後は「野々井」です。場所は先日紹介した国分寺町から笠間へ向かう通称「笠間街道」(旧355号線)が山王川を渡ってすぐ左側です。

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ここを流れる山王川はご覧のように細い排水路のようになってしまいました。
昔は川遊びなどができたといいますのでイメージがわきません。
しかし、都会でも下水の整備が進み昔の川を整備し、遊歩道を設けたりしているところも増えています。
石岡も市街地を通るこの川の見直しが急務ではないかと思います。
液状化対策などと合わせて検討する必要がありそうです。

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野々井はこの山王川を渡ったすぐ先の左側Kさん宅の床下から湧き出していたといいます。
家が建ったのは昭和50年だといいます。北の谷のホチ水という水がこの野々井のことともいわれています。
元々は住宅などなく野原が広がっていたのでしょう。



さて、野々井というのは「野の井戸」という意味だとすると、この場所以外にもあるといいます。笹目内蔵助さんの「府中六井」にはもう一か所「野々井」をあげています。
場所は「ばらき台団地」(石岡市茨城町)の山王川に近い田の脇といいますが、場所は書物には書かれていましたが探してはいません。

さて、今回この北ノ谷の野々井で残されている大蛇の話を紹介します。
「昔、この野々井の付近に大蛇が棲んでいました。男がその大蛇を捕まえて殺し、この水で洗ったところ、その大蛇の血で田圃は真っ赤に染まり、その血が霞ケ浦に三日三晩流れ続けたといいます」

この話は、あちこちの資料に紹介されています。何故この話だけが残っていくのでしょうか。
大蛇は殺してはいけないものだったのかもしれません。

ここまで、府中六井といわれる井戸の跡などを見てきましたが、書物によっても井戸の場所が違っていたり、近くの同じような湧水が同じ名前で呼ばれていたりします。
いずれにしても貴重な湧水が今はほとんどその痕跡を残さない程自然がなくなっているのかもしれません。
石岡が名酒処なので、名水処であると胸を張って堂々といえないようでは町の歴史が泣いていますね。
地形を見ればこの石岡台地に水を運んでいるのは、霊峰筑波山、足尾山、加波山、そして龍神山です。
どうすれば水の都「石岡」が復活できるのでしょうか?
皆さんとともに考えて行きたいと思います。
  

府中六井 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/07/13 18:50

府中六井(付録1)-総社のおみたらし

由緒ある常陸国総社宮は、今は市民会館側(石岡小学校)側から参道を通って隋神門(現在右大臣、左大臣像は来年3月まで修理中)をくぐってお参りしているが、昔は宮下町の方から階段を上って拝殿前にでるのが正規の参道であった。

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宮下通りの「宮下町」バス停脇から神社拝殿に直接登る昔の参道がある。(通り側の入口)

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この鳥居をくぐって進むと急な階段を上って拝殿の前にでます。
しかし、こちらはほとんど使われているようには見えない。
階段を上った左手に「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の腰掛石」がある。

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恋瀬川から神社へ直接登る道であったと思われ、今でも整備はされており十分に通ることはできるのだが、神社の格式からしてこちらの参道は廃れてしまったと思う。
駅から行くのも、車で駐車場に行くのもこちらの参道は通らないので地元の方以外には忘れられているのだと思う。

 さて、石岡の湧水の番外編でこの神社の「おみたらし=御手洗」と言われる場所を紹介したいと思います。
地元の古い方はみな御存じなのだと思うけれど、はじめてこられた方や、遠くから来られた方はまず気がつかずに通り過ぎてしまう。

 この「おみたらし」に行くには知らない方はまず神社の庭に出て、奉納相撲の土俵のすぐ後ろから下る道がある。

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下り道の入口に「おみたらし道」という立派な石の案内板がある。

基本的には鹿島神宮などの「御手洗(おみたらし)」と同様に参拝する前に手の汚れなどを清めるためであると思うが、今はほとんど使われていない。

しかし、この水がなければ総社をここに建設しなかったのではないかとさえ思える重要な湧水です。
これもブログの読者の方から教えていただいて見に行ったので、教えていただかなければ見過ごしていたのだと思う。
子供の頃にサワガニをとって遊んだ場所だそうだが、今も水は流れているがサワガニ採りは聞いたことがないし見たことがない。(ザリガニをサワガニに訂正:7月15日22:26)

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水は小さな滝状に流れており、「神水」と表示されていました。


 

府中六井 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/07/15 09:31

府中六井(付録2)-村上のおみたらし

府中六井に番外編があるとすれば、総社の「おみたらし」に村上神社の「おみたらし」と「子は清水」ではないかと思う。

総社のおみたらしを紹介したので、村上佐志能神社のおみたらしも紹介しなければなるまい。
村上という名前は恐らく府中の村の上にあった村から呼ばれたのかもしれない。
「村上千軒」といわれるくらい人が集まっていたというのだが、その頃はどんなだったのかと想像をめぐらしている。

この村上地区は龍神山の麓に広がった硬い地盤の上にできた集落で、何mか下まで硬い岩盤を掘らないと井戸が掘れなかったそうである。そのためにここの村上佐志能神社のおみたらしの湧水や子は清水(親が飲めば諸白、子どもが飲めば清水)伝説の生まれる要因があったのかもしれない。

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今、村上神社の入口には「御神水」と書かれた石板が置かれています。
今は水は申し訳程度しか流れていないようです。

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龍神山には村上と染谷の2つの佐志能神社があるが、この村上の方が古いのではないだろうか。

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少し村上神社はわかりにくいので訪れる人はほとんど見かけないが、龍神山の上にある奥の院の祠にはここから裏山を登るしかない。神社の本殿は古びた拝殿の裏に隠れるようにあるが、龍の彫り物が見事だ。

 この湧水についての昔話が残されている。

「村上の水は昔から村上神社の境内の「おみたらし」からもらい水をして飲料水として使用していた。村の女衆は手桶を下げ、男衆は天秤棒に桶を二つ下げて山から水を運ぶことが日課となっていた。この「おみたらし」の水は大変豊富で、旱天でも水が枯れることはなかった。そのため村上ばかりではなく、遠くは東大橋や小川あたりの農家の人も弁当持参で水を汲みに来たという。村上神社につくと神主にご祈祷してもらい、竹筒に水を入れて帰るのであるが、帰るときは途中で休憩することはなかった。それは、途中で休むとその場所に雨が降るといわれていたからであった。特に旱天(ひでり)に雨乞いをする時は、自分の土地に雨が降らずに、途中で降られては困ると信じられていたのである。竹筒に入れた水は家に帰ると神棚にあげ、雨の降るまで一心にお祈りしたとのことである。今でも農家の人たちは、初米ができると、村上神社へお供えに行く人がいるとのことです。」

このように、日照りでも枯れることがなかった湧水が今はこの姿・・・。
また竜神は雨降りの神でもありました。雨乞いも行なわれていたのでしょう。

また、龍神山の岩盤が、筑波山系とは違い「水成岩(粘板岩)」でとても良質な石が採れたのである。
これが、この山の悲劇をもたらしてしまった。誠に残念だ。

さて、このように村上地区に井戸がなかった理由は地盤が固いことと、もう一つ理由があった。
粘土質の層が多いために井戸を掘ってもなかなか飲料に適しなかったことも理由だったそうである。

しかし、粘土質のため、その土で瓦を焼く瓦焼きが3軒もあったのである。


府中六井 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/16 06:54
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