九ちゃんの家
次の三連休の代わりに今日から三連休だ。「石岡のおまつり」とはまったくすれ違いとなってしまった。
しょうがないから昼からブログのネタ探しに少し思うところがあってドライブしてきた。
結構楽しいところがたくさんあって、短い時間だったが、ネタはたくさんできた。
少しずつ紹介させていただこう。
今日行ってきたのは、石岡(大増)大覚寺、親鸞の稲田草庵跡(西念寺)、稲田神社、笠間城跡、佐志能神社、小原神社と盛り沢山だ。
歴史に詳しい方なら「成程。そちらの方面に興味があるのか」などと思うかもしれないし、何でそんなところに興味を持つのかなどと思うかもしれない。
石岡の歴史を調べていたら、どうしても行きたくなってしまったのだからしょうがない。
少しずつしか紹介できないが、写真もあるのでさっと読み飛ばしながらお付き合いしていただけたらと思います。
しかし、今日紹介するのは、目的とは違って偶然見かけたので紹介しましょう。
笠間にある「九ちゃんの家」です。
日動美術館の前をそのままつつじ公園の方に進んだ道の途中にあります。
笠間稲荷で結婚式を挙げ、笠間を愛し、良く来ていたことは知っていましたが、こんなところに昔の家があったのですね。

この家は坂本九さんが戦争中に川崎から疎開で住んでいた家で、2歳から6歳の間過ごしたところだといいます。

4年前に、この家を保存しようと会を結成して、5月の連休中には一般公開なども行なっているようです。
しかし、今は夏草が大分茂っていました。

日航ジャンボ機墜落事故から26年、「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」など、いまだに多くの人に愛され続ける坂本九さん。
この歌碑は、家のすぐ上にある神社脇に建てられた歌碑です。歌は「上を向いて歩こうです」

坂本九さんの長女で歌手「大島花子」のブログはこちらです。→「歌うロハ主婦日記」
子供をかかえたお母さんを対象にしたcafeライブ「親子ライブ」を東京で開いています。
次女の舞坂ゆき子さんは「ドッグセラピスト」として活躍されているようです。
しょうがないから昼からブログのネタ探しに少し思うところがあってドライブしてきた。
結構楽しいところがたくさんあって、短い時間だったが、ネタはたくさんできた。
少しずつ紹介させていただこう。
今日行ってきたのは、石岡(大増)大覚寺、親鸞の稲田草庵跡(西念寺)、稲田神社、笠間城跡、佐志能神社、小原神社と盛り沢山だ。
歴史に詳しい方なら「成程。そちらの方面に興味があるのか」などと思うかもしれないし、何でそんなところに興味を持つのかなどと思うかもしれない。
石岡の歴史を調べていたら、どうしても行きたくなってしまったのだからしょうがない。
少しずつしか紹介できないが、写真もあるのでさっと読み飛ばしながらお付き合いしていただけたらと思います。
しかし、今日紹介するのは、目的とは違って偶然見かけたので紹介しましょう。
笠間にある「九ちゃんの家」です。
日動美術館の前をそのままつつじ公園の方に進んだ道の途中にあります。
笠間稲荷で結婚式を挙げ、笠間を愛し、良く来ていたことは知っていましたが、こんなところに昔の家があったのですね。

この家は坂本九さんが戦争中に川崎から疎開で住んでいた家で、2歳から6歳の間過ごしたところだといいます。

4年前に、この家を保存しようと会を結成して、5月の連休中には一般公開なども行なっているようです。
しかし、今は夏草が大分茂っていました。

日航ジャンボ機墜落事故から26年、「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」など、いまだに多くの人に愛され続ける坂本九さん。
この歌碑は、家のすぐ上にある神社脇に建てられた歌碑です。歌は「上を向いて歩こうです」

坂本九さんの長女で歌手「大島花子」のブログはこちらです。→「歌うロハ主婦日記」
子供をかかえたお母さんを対象にしたcafeライブ「親子ライブ」を東京で開いています。
次女の舞坂ゆき子さんは「ドッグセラピスト」として活躍されているようです。
合気道の神社
石岡にも合気道の道場もあるが、自分がかかわっていないとこのような場所があることも知らなかった。
この「合気神社」は先日ブログ仲間の方から教えてもらったものだが、昨日の散策途中に看板を見つけて行ってみたのです。
私も、「百聞は一見にしかず」とのことで、行ってみてそこの空気を感じないと気が済まなくなってきており、昔ならこの看板をみても素通りしていたと思う。
神社に行ってみると、この地には珍しく外人さんがいっぱい。
神社前には道場や、宿泊施設もあるようで、世界各国から愛好者が訪れているように思う。
地元でも知らなかったな~。という思いだ。

神社はまだ新しいが、世界的に知られる存在になっているようです。

合気道の開祖「植芝翁」の像の前で説明を熱心に聞き、撮影していました。
皆さんヨーロッパの方のようですね。
恐らく道場で練習されているのだと思います。

神社の由来が書かれています。
それにしても神様の数が多いですね。四十三柱の大神様が祭られているそうです。

皆さんこのような格好をしていましたが、礼儀正しく神社へ進むときは会釈して・・・
お参りの仕方はわからなかったみたいです。
「こんにち」はと一人から挨拶されましたが、その方が神社の説明をされていました。
この「合気神社」は先日ブログ仲間の方から教えてもらったものだが、昨日の散策途中に看板を見つけて行ってみたのです。
私も、「百聞は一見にしかず」とのことで、行ってみてそこの空気を感じないと気が済まなくなってきており、昔ならこの看板をみても素通りしていたと思う。
神社に行ってみると、この地には珍しく外人さんがいっぱい。
神社前には道場や、宿泊施設もあるようで、世界各国から愛好者が訪れているように思う。
地元でも知らなかったな~。という思いだ。

神社はまだ新しいが、世界的に知られる存在になっているようです。

合気道の開祖「植芝翁」の像の前で説明を熱心に聞き、撮影していました。
皆さんヨーロッパの方のようですね。
恐らく道場で練習されているのだと思います。

神社の由来が書かれています。
それにしても神様の数が多いですね。四十三柱の大神様が祭られているそうです。

皆さんこのような格好をしていましたが、礼儀正しく神社へ進むときは会釈して・・・
お参りの仕方はわからなかったみたいです。
「こんにち」はと一人から挨拶されましたが、その方が神社の説明をされていました。
愛宕神社(岩間)
本日2本目です。
本当は祭りシリーズの前に記事を書いていたので、内容が古くなりそうなので急いでUPします。
祭りシリーズの前に紹介していた「瀬戸井街道」の記事を一つ訂正しました。
瀬戸井街道と笠間街道が一部でラップしていると思っていましたが、どうやら違うようです。
水戸から来て土師交差点で岩間駅の方に曲がるのではなく、真っ直ぐ泉へ向かっていたようです。
地図を訂正して記事をUPし直しました。(こちら)
さて、この場所まで来たので、愛宕神社を紹介しておきます。
ここ岩間の愛宕神社は石岡の真家地区のすぐ裏に当たります。

国道355号線(通称笠間街道)側から少し入ったところで、岩間山を望む。
ここは桜の名所として知られ、下の鳥居から上の神社にかけて両脇に春には桜並木が続きます。
昔は江戸時代の書物には、岩間山と出てくるのですが、何時頃から「愛宕山」と呼ぶようんなったのかはわかりません。

車で神社の少し下にある天狗の森の駐車場まで登れる。さらに神社までも少し脇の方から登ることもできる。
頂上でも標高305mとそれ程高くは無いが、ここからの眺めはとても素晴らしい。
やはり常陸は「常世の国」と呼ばれていたのだろう。

この神社の創建は古く、京都から会津まで各地の山などに寺を建てた徳一法師が大同元年(806年)に建てたとされている。これは筑波山に中禅寺(現大御堂)を建てた年782年の後だ。
また、徳一法師といえば法相宗で会津(磐梯)慧日寺が有名だが、この寺の建立は807年というからその1年前になる。
石岡では関東の清水寺「西光院」もそうだし、笠間稲荷もそうだ。
ものすごい勢いで寺を建立していったものだとただ感心してしまう。
福島県いわき市の方にも多く寺がある。
こちらは今回の地震や原発なども心配だし、いつか特集して見たいなどとも思う。
この上で述べた「常世の国」という言葉はこれから進めて行く話のキーワードになりそうだ。
筑波山も峰寺山西光院もこの岩間山愛宕神社もみな眺めが良い。
徳一法師も親鸞もきっとこの地が「常世の国」だと気がついていたのではないかと思う。
これからノンビリと風を感じながら色々なところを歩いてみたいと思います。
でも私が行くところは基本的にあまり人がいかないところばかりです(笑)。

この愛宕神社は日本三大火防神社といわれ、各地の消防団などの信仰が篤いようです。
なにしろ昔は火事は大変なことだったのです。
次回はこの愛宕神社のすぐ裏にある十三天狗の祠を紹介しましょう。
本当は祭りシリーズの前に記事を書いていたので、内容が古くなりそうなので急いでUPします。
祭りシリーズの前に紹介していた「瀬戸井街道」の記事を一つ訂正しました。
瀬戸井街道と笠間街道が一部でラップしていると思っていましたが、どうやら違うようです。
水戸から来て土師交差点で岩間駅の方に曲がるのではなく、真っ直ぐ泉へ向かっていたようです。
地図を訂正して記事をUPし直しました。(こちら)
さて、この場所まで来たので、愛宕神社を紹介しておきます。
ここ岩間の愛宕神社は石岡の真家地区のすぐ裏に当たります。

国道355号線(通称笠間街道)側から少し入ったところで、岩間山を望む。
ここは桜の名所として知られ、下の鳥居から上の神社にかけて両脇に春には桜並木が続きます。
昔は江戸時代の書物には、岩間山と出てくるのですが、何時頃から「愛宕山」と呼ぶようんなったのかはわかりません。

車で神社の少し下にある天狗の森の駐車場まで登れる。さらに神社までも少し脇の方から登ることもできる。
頂上でも標高305mとそれ程高くは無いが、ここからの眺めはとても素晴らしい。
やはり常陸は「常世の国」と呼ばれていたのだろう。

この神社の創建は古く、京都から会津まで各地の山などに寺を建てた徳一法師が大同元年(806年)に建てたとされている。これは筑波山に中禅寺(現大御堂)を建てた年782年の後だ。
また、徳一法師といえば法相宗で会津(磐梯)慧日寺が有名だが、この寺の建立は807年というからその1年前になる。
石岡では関東の清水寺「西光院」もそうだし、笠間稲荷もそうだ。
ものすごい勢いで寺を建立していったものだとただ感心してしまう。
福島県いわき市の方にも多く寺がある。
こちらは今回の地震や原発なども心配だし、いつか特集して見たいなどとも思う。
この上で述べた「常世の国」という言葉はこれから進めて行く話のキーワードになりそうだ。
筑波山も峰寺山西光院もこの岩間山愛宕神社もみな眺めが良い。
徳一法師も親鸞もきっとこの地が「常世の国」だと気がついていたのではないかと思う。
これからノンビリと風を感じながら色々なところを歩いてみたいと思います。
でも私が行くところは基本的にあまり人がいかないところばかりです(笑)。

この愛宕神社は日本三大火防神社といわれ、各地の消防団などの信仰が篤いようです。
なにしろ昔は火事は大変なことだったのです。
次回はこの愛宕神社のすぐ裏にある十三天狗の祠を紹介しましょう。
飯綱神社(岩間)
岩間の愛宕神社の裏に少し変わった神社がつながっているので紹介します。
この愛宕神社にせっかく来てこちらを見て行かない人もいそうなので、行かれたら是非見てきてください。
神社は「飯綱神社(いいつなじんじゃ)」です。
古びた木造の拝殿があります。

ここは天狗の修験場所であったところといわれ、この岩間山(現愛宕山)に住みついて修業した十三天狗を祀っています。
毎年12月に行われる『悪態まつり』は日本三大奇祭のひとつともいわれ、白装束の天狗に扮した13人が、食べ物を神社の13天狗の祠に奉納するために参道を登ると、これに続く人は互いに悪口を言い合い、お供え物を奪い合うという。お供え物を奪い取った人は、幸せになれると言い伝えられている。手力男命(アメノタヂカラオ:手の力の強い神、天岩戸から覗いたアマテラスを引きだした神)を祀る。

この神社の本殿が変わっています。銅製の六角形の堂で「六角殿」というようです。
この本殿を支える台座も石の六角形をしています。
そして、これは亀を表わしており、首や尾などもあるのです。
頭にはまた銅製の鳳凰の飾りがついています。

そして、この六角殿を守るように古びて苔むした祠が14個。真中の祠は「狐に乗った烏天狗」であり、この神社の祭神です。
そしてそれを取り囲むのが、この山で修行していたという十三天狗の祠です。

13天狗については江戸時代の学者「平田篤胤」が天狗小僧寅吉の経験をもとに表わした「仙境異聞」に詳しく書かれています。
最初5天狗が12人に増え、最後に狢内村(石岡市)長楽寺が加わり13天狗となりました。
人間の形をしたのはこの長楽寺のみ。
他は鳥などが形を変えて天狗となった。
そして長楽寺はここの首領となったと。
しかしここの首領の名前は「杉山大増正」と出てくる。
この杉山大増正と十三番目に加わった長楽寺は別なのか?
読んだだけではわからない。
市のHPなどでは別人と解釈されているようですが・・・・。
この平田篤胤という人は本居宣長没後に国文学を継承した立派な学者で、後の尊王攘夷運などにも大きな影響を与えた人です。
その平田篤胤が天狗と一緒に暮らしていたと江戸で評判になった寅吉少年を、自分の家に連れてきて一緒に生活までして聞いて書いたという本ですが、これは創作ではなくこの学者は本気に信じて書いたものだと思われます。
この長楽寺は映画撮影にもしばしば登場する寺です。
何度かこのブログでも取り上げました。
この天狗の祠に長楽寺を見学すると、もしかしたら面白い世界が見えてくるかもしれません。
体力と興味があれば、愛宕山の隣りのししヶ鼻岩(天狗の鼻:寅吉が最初に見た岩)や南台丈と言われた南北朝時代の悲劇の残る「難台山」なども気軽に縦走できますので楽しみは沢山ありますよ。
この愛宕神社にせっかく来てこちらを見て行かない人もいそうなので、行かれたら是非見てきてください。
神社は「飯綱神社(いいつなじんじゃ)」です。
古びた木造の拝殿があります。

ここは天狗の修験場所であったところといわれ、この岩間山(現愛宕山)に住みついて修業した十三天狗を祀っています。
毎年12月に行われる『悪態まつり』は日本三大奇祭のひとつともいわれ、白装束の天狗に扮した13人が、食べ物を神社の13天狗の祠に奉納するために参道を登ると、これに続く人は互いに悪口を言い合い、お供え物を奪い合うという。お供え物を奪い取った人は、幸せになれると言い伝えられている。手力男命(アメノタヂカラオ:手の力の強い神、天岩戸から覗いたアマテラスを引きだした神)を祀る。

この神社の本殿が変わっています。銅製の六角形の堂で「六角殿」というようです。
この本殿を支える台座も石の六角形をしています。
そして、これは亀を表わしており、首や尾などもあるのです。
頭にはまた銅製の鳳凰の飾りがついています。

そして、この六角殿を守るように古びて苔むした祠が14個。真中の祠は「狐に乗った烏天狗」であり、この神社の祭神です。
そしてそれを取り囲むのが、この山で修行していたという十三天狗の祠です。

13天狗については江戸時代の学者「平田篤胤」が天狗小僧寅吉の経験をもとに表わした「仙境異聞」に詳しく書かれています。
最初5天狗が12人に増え、最後に狢内村(石岡市)長楽寺が加わり13天狗となりました。
人間の形をしたのはこの長楽寺のみ。
他は鳥などが形を変えて天狗となった。
そして長楽寺はここの首領となったと。
しかしここの首領の名前は「杉山大増正」と出てくる。
この杉山大増正と十三番目に加わった長楽寺は別なのか?
読んだだけではわからない。
市のHPなどでは別人と解釈されているようですが・・・・。
この平田篤胤という人は本居宣長没後に国文学を継承した立派な学者で、後の尊王攘夷運などにも大きな影響を与えた人です。
その平田篤胤が天狗と一緒に暮らしていたと江戸で評判になった寅吉少年を、自分の家に連れてきて一緒に生活までして聞いて書いたという本ですが、これは創作ではなくこの学者は本気に信じて書いたものだと思われます。
この長楽寺は映画撮影にもしばしば登場する寺です。
何度かこのブログでも取り上げました。
この天狗の祠に長楽寺を見学すると、もしかしたら面白い世界が見えてくるかもしれません。
体力と興味があれば、愛宕山の隣りのししヶ鼻岩(天狗の鼻:寅吉が最初に見た岩)や南台丈と言われた南北朝時代の悲劇の残る「難台山」なども気軽に縦走できますので楽しみは沢山ありますよ。
笠間城(1)
出かけて、その中身を調べながらブログを書いているのだが、調べるのはやはり時間もかかる。
しょうがないから、行ってみた感想程度を少し述べて紹介だけしたいと思います。
私のブログは、現場に行って今流れている風を感じながら、過去を想像して見ることですから、まずは感じたままを述べて行きます。
今日は「笠間城」です。古城好きの人は是非行ってほしい城跡です。
明治維新まで残されていた城ですので、これが皆残っていればなどとつい思ってしまうほどに全体が見てとれます。
この笠間城が構築されたのは鎌倉時代の北条氏が執権を持っていた1220年頃です。
宇都宮にいた下野(しもつけ)国の守護宇都宮(藤原)頼綱の甥の宇都宮(藤原)時朝によって12年ほどかけて築城され、時朝は笠間氏を名乗り、初代笠間氏になります。
しかしその前の鎌倉初期までは、この佐白山には正福寺という寺がありました。多くの僧兵を抱えており「百坊」と呼ばれていたようです。
一方麓の七会村(現城里町)には徳蔵寺という大きな寺があり、「三百坊」といわれる僧兵がおり、この二つの寺が勢力争いをしていたのです。

笠間城への上り口に「大黒石」という大きな石が置かれています。道をふさぐような大きな石です。
ここに書かれた説明板によれば、
「鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵がその勢力を争って戦った。佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山頂近くまで逃げのび、山上にあった大黒石をころがした。
徳蔵寺の僧兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多くの死者が出たため、佐白山の僧兵は、あやうく難をのがれることができた。・・・・」
と書かれています。

車でそのまま山道を進むと大きな駐車場に出ます。ここは「千人溜り跡」と書かれています。

おそらく、江戸時代の登城した藩士たちは、馬でここまで来て、ここからは徒歩で登ったのではないでしょうか。
一般の人もここから先は車通行止めですので、歩いて10~15分くらい登らなければなりません。

この駐車場の入口の通りの反対側に「百坊跡」の碑が置かれていました。
この寺の百坊と七会村の徳蔵寺の三百坊は共に宇都宮(藤原)時朝によって滅ぼされました。
どんな戦いがあったのでしょうか。昔、寺に宿泊して修業していた僧は僧兵といわれるように力を持っていたのでしょうね。
この徳蔵寺は今は花の寺(8ヶ寺)としても知られ、ここには四国八十八か所の砂を埋めた足置き場があります。
前からとても気になっていたところです。
地名は徳蔵(とくら)で寺の名前は徳蔵寺(とくぞうじ)、また徳蔵大師(とくらだいし)として親しまれています。
那珂川沿いの阿波山からここにのびる道路「阿波山-徳蔵線」が前から気になっていたのです。
ここにもやっと先日行ってきましたので後から紹介します。
(その2)へ続きます。
しょうがないから、行ってみた感想程度を少し述べて紹介だけしたいと思います。
私のブログは、現場に行って今流れている風を感じながら、過去を想像して見ることですから、まずは感じたままを述べて行きます。
今日は「笠間城」です。古城好きの人は是非行ってほしい城跡です。
明治維新まで残されていた城ですので、これが皆残っていればなどとつい思ってしまうほどに全体が見てとれます。
この笠間城が構築されたのは鎌倉時代の北条氏が執権を持っていた1220年頃です。
宇都宮にいた下野(しもつけ)国の守護宇都宮(藤原)頼綱の甥の宇都宮(藤原)時朝によって12年ほどかけて築城され、時朝は笠間氏を名乗り、初代笠間氏になります。
しかしその前の鎌倉初期までは、この佐白山には正福寺という寺がありました。多くの僧兵を抱えており「百坊」と呼ばれていたようです。
一方麓の七会村(現城里町)には徳蔵寺という大きな寺があり、「三百坊」といわれる僧兵がおり、この二つの寺が勢力争いをしていたのです。

笠間城への上り口に「大黒石」という大きな石が置かれています。道をふさぐような大きな石です。
ここに書かれた説明板によれば、
「鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵がその勢力を争って戦った。佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山頂近くまで逃げのび、山上にあった大黒石をころがした。
徳蔵寺の僧兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多くの死者が出たため、佐白山の僧兵は、あやうく難をのがれることができた。・・・・」
と書かれています。

車でそのまま山道を進むと大きな駐車場に出ます。ここは「千人溜り跡」と書かれています。

おそらく、江戸時代の登城した藩士たちは、馬でここまで来て、ここからは徒歩で登ったのではないでしょうか。
一般の人もここから先は車通行止めですので、歩いて10~15分くらい登らなければなりません。

この駐車場の入口の通りの反対側に「百坊跡」の碑が置かれていました。
この寺の百坊と七会村の徳蔵寺の三百坊は共に宇都宮(藤原)時朝によって滅ぼされました。
どんな戦いがあったのでしょうか。昔、寺に宿泊して修業していた僧は僧兵といわれるように力を持っていたのでしょうね。
この徳蔵寺は今は花の寺(8ヶ寺)としても知られ、ここには四国八十八か所の砂を埋めた足置き場があります。
前からとても気になっていたところです。
地名は徳蔵(とくら)で寺の名前は徳蔵寺(とくぞうじ)、また徳蔵大師(とくらだいし)として親しまれています。
那珂川沿いの阿波山からここにのびる道路「阿波山-徳蔵線」が前から気になっていたのです。
ここにもやっと先日行ってきましたので後から紹介します。
(その2)へ続きます。
笠間藩こぼれ話(1)-大石邸跡
笠間城(1)をさきに書きましたが、一つ関連した情報を挟みます。
しばらくぶりに笠間にやってきたので、少し見て回った。
昔来たころと比べずいぶんきれいになった。もっとも稲荷神社が町の中心であるイメージは変わらない。
ここ笠間の歴史はとても興味があるのだが、あまり多くは知らないので少しだけ紐解いておきたい。
今日は「日動画廊企画展示館」の隣りにある「大石邸跡」である。
もう昔からこの地にあるが、昔と比べるとまわりがずいぶん変わった。となりの展示館は何時建ったのだろう。
また、そこから少し右に登った「ホテル山の荘」などいつできたのか?
まったくここがお城だと勘違いしそうだ。
しかし、地図をみても、このホテルの隣りの台地に「笠間城」と載っているが、ここも本来の山城「笠間城」ではない。
この辺りの説明が何処にもない。 おかしな話だな。
少しずつ調べればわかってくるでしょうからのんびりやっていきましょう。

ここには、播州赤穂の赤穂浪士でおなじみの大石家の屋敷があったのです。
昔、笠間藩主であった浅野家の家老としてここに屋敷を構えていたのです。

きれいに手入れされ、それ程おおきな敷地ではないが、ここの立地がとても興味を引きます。

浅野家がここ笠間藩の藩主として統治していたのは1622年~1645年です。
江戸城松の廊下で刃傷沙汰に及ぶのが1701年ですから、笠間から赤穂へ移って56年後ですね。
この辺りは昨年末このブログで書きました(その1)、(その2)

さて、この敷地の少し先に大きな駐車場が整備されています、その手前の曲がり角に上のような標識が置かれていました。
この場所が「田町」となった理由が書かれています。
でもこれで理解はできません。大石邸の説明にもありません。
しかし、浅野家が何故赤穂に移ることになったのかの説明が何処にも書かれていないのです。
この「田町」としたのは浅野家より前の「蒲生氏」の時で、この時城は佐白山の山の上(佐志能神社のあるところ)にありました。
この田町は田圃を埋めて馬で登城できる様にしたものでしょう。
しかし、なにしろ城は山の上ですから、途中まで馬でのぼり、最後は歩いて城まで登っていたのでしょう。
このため、藩主浅野氏が家臣が登城する負担を和らげようと、ここの近く(山の麓)に別な藩邸を作ったのです。(それがYAHOO地図にある笠間城でしょう)
しかし、江戸時代は勝手に城を作ってはいけないという武家御法度があり、これに違反したとされ、赤穂に移ることになったと言われています。
このここを知らないとこの石碑に書かれた内容が理解できません。
関東地方で唯一の近代山城と言われた笠間城の続きは、この後に書きましょう。
しばらくぶりに笠間にやってきたので、少し見て回った。
昔来たころと比べずいぶんきれいになった。もっとも稲荷神社が町の中心であるイメージは変わらない。
ここ笠間の歴史はとても興味があるのだが、あまり多くは知らないので少しだけ紐解いておきたい。
今日は「日動画廊企画展示館」の隣りにある「大石邸跡」である。
もう昔からこの地にあるが、昔と比べるとまわりがずいぶん変わった。となりの展示館は何時建ったのだろう。
また、そこから少し右に登った「ホテル山の荘」などいつできたのか?
まったくここがお城だと勘違いしそうだ。
しかし、地図をみても、このホテルの隣りの台地に「笠間城」と載っているが、ここも本来の山城「笠間城」ではない。
この辺りの説明が何処にもない。 おかしな話だな。
少しずつ調べればわかってくるでしょうからのんびりやっていきましょう。

ここには、播州赤穂の赤穂浪士でおなじみの大石家の屋敷があったのです。
昔、笠間藩主であった浅野家の家老としてここに屋敷を構えていたのです。

きれいに手入れされ、それ程おおきな敷地ではないが、ここの立地がとても興味を引きます。

浅野家がここ笠間藩の藩主として統治していたのは1622年~1645年です。
江戸城松の廊下で刃傷沙汰に及ぶのが1701年ですから、笠間から赤穂へ移って56年後ですね。
この辺りは昨年末このブログで書きました(その1)、(その2)

さて、この敷地の少し先に大きな駐車場が整備されています、その手前の曲がり角に上のような標識が置かれていました。
この場所が「田町」となった理由が書かれています。
でもこれで理解はできません。大石邸の説明にもありません。
しかし、浅野家が何故赤穂に移ることになったのかの説明が何処にも書かれていないのです。
この「田町」としたのは浅野家より前の「蒲生氏」の時で、この時城は佐白山の山の上(佐志能神社のあるところ)にありました。
この田町は田圃を埋めて馬で登城できる様にしたものでしょう。
しかし、なにしろ城は山の上ですから、途中まで馬でのぼり、最後は歩いて城まで登っていたのでしょう。
このため、藩主浅野氏が家臣が登城する負担を和らげようと、ここの近く(山の麓)に別な藩邸を作ったのです。(それがYAHOO地図にある笠間城でしょう)
しかし、江戸時代は勝手に城を作ってはいけないという武家御法度があり、これに違反したとされ、赤穂に移ることになったと言われています。
このここを知らないとこの石碑に書かれた内容が理解できません。
関東地方で唯一の近代山城と言われた笠間城の続きは、この後に書きましょう。
笠間城(2)
さて、城跡はこの千人溜りの駐車場の奥から登り始めます。
まず最初にあるのが「大手門跡」です。昔は、この大手門をくぐって、石段を登って行ったのだと思われます。

脇に一般車は通行止めですが、工事関係者などが通る車道がつけられていますが、真っ直ぐに本丸の方に登る石段がついていますので、この階段を上ります。

階段を上ると広場に出ます。ここに笠間城の跡という碑が置かれています。
かなり広いです。
良くこのような山城が明治初めまで残されていたものだと感心します。
もっとも、江戸時代は平和になりましたので、このような山城はとても不便だったと思います。

そのため、浅野家では麓に武家屋敷などを整備して、幕府のお咎めを受けることになってしまったのです。

さて、この広場から更に高くなった山の頂に「佐志能神社」が祀られています。
この神社への道を少し登ったところに「笠間城天主跡」の碑が置かれています。

また、この天主跡の所には昔の城壁の跡がまだ残っていました。

佐志能神社はこの後で紹介しますが、先ほどの城跡の広場の一角(西側)に「笠間城八幡台櫓跡」と書かれた碑が建っています。
この櫓は現在も実存しており、明治13年に日蓮宗真浄寺にそのまま移築されて保存されています。
また、城の門が民家の門として2か所残されているといいます。
まず最初にあるのが「大手門跡」です。昔は、この大手門をくぐって、石段を登って行ったのだと思われます。

脇に一般車は通行止めですが、工事関係者などが通る車道がつけられていますが、真っ直ぐに本丸の方に登る石段がついていますので、この階段を上ります。

階段を上ると広場に出ます。ここに笠間城の跡という碑が置かれています。
かなり広いです。
良くこのような山城が明治初めまで残されていたものだと感心します。
もっとも、江戸時代は平和になりましたので、このような山城はとても不便だったと思います。

そのため、浅野家では麓に武家屋敷などを整備して、幕府のお咎めを受けることになってしまったのです。

さて、この広場から更に高くなった山の頂に「佐志能神社」が祀られています。
この神社への道を少し登ったところに「笠間城天主跡」の碑が置かれています。

また、この天主跡の所には昔の城壁の跡がまだ残っていました。

佐志能神社はこの後で紹介しますが、先ほどの城跡の広場の一角(西側)に「笠間城八幡台櫓跡」と書かれた碑が建っています。
この櫓は現在も実存しており、明治13年に日蓮宗真浄寺にそのまま移築されて保存されています。
また、城の門が民家の門として2か所残されているといいます。
笠間城(3)
城の天守閣のあった頂上に現在この「佐志能神社」が祀られています。
かなり古い神社で、延喜式式内社(茨城県に28座)の一つに数えられています。
ここで気になるのが石岡の佐志能神社との関係です。
石岡には3つの佐志能神社があります。染谷、村上と旧八郷の柿岡です。
龍神山麓の村上神社から染谷は分かれてできたものと思われますが、創建された年代がわからないほど古く何処か元は1つだったのかもしれません。
ということは、ここ佐白山の佐志能神社がもとになった可能性が・・・・。
あまりにもこの笠間・小原・稲田周辺や朝房山などがこの石岡と関係が似てるんだよな。
5~6世紀頃の古墳分布なども調べて行けば何かありそうだが・・・。
水戸に大足(おおだら)などというダイダラボッチにまつわる地名があるが、石岡にもある。
これは製鉄と関係があるのだろう。
青銅文化と鉄器文化がほぼ同時に日本にはやってきた。でも鉄の方が戦えば強い。
日本の歴史も何もわかっていないことが多い。

この笠間の佐志能神社は笠間城(桂城)の天守閣のあった佐白山の山頂の岩場の上に置かれています。

このように大きな岩の上に乗っかっているだけ?です。

本殿は城の瓦を使った土塀で囲まれていました。
しかし、今回の地震で、危険ということで裏側に回ることはできませんでした。

この佐志能神社ですが、ここに笠間城が建てられた時に、祠を下市毛字田宿(黒袴)に遷されたといいます。
そして、明治になり廃城となってから元の位置に戻されたそうです。(明治5年)
しかし気になるのはもっと前の5-6世紀頃です。

城跡の場所はきれいに整備されています。
途中登るときは少し暗くて寂しい感じですが、上の広場はカラッとして気持ちがいいです。

登り道中は苔むした木々など趣があります。

さて、千人溜りの駐車場から笠間の市内と反対側に下ってみました。
山を下りた麓は桜の木の並木があります。
春は花が咲ききれいでしょうね。

山に囲まれたところに蕎麦の花が咲いており、向こうの方は刈り取られたばかりの稲束が干してあります。
のどかな里山の風情が広がります。
多くの方はこちらには下りてこないのだろう、「もったいないな~」などと思いながらここを後にしました。
かなり古い神社で、延喜式式内社(茨城県に28座)の一つに数えられています。
ここで気になるのが石岡の佐志能神社との関係です。
石岡には3つの佐志能神社があります。染谷、村上と旧八郷の柿岡です。
龍神山麓の村上神社から染谷は分かれてできたものと思われますが、創建された年代がわからないほど古く何処か元は1つだったのかもしれません。
ということは、ここ佐白山の佐志能神社がもとになった可能性が・・・・。
あまりにもこの笠間・小原・稲田周辺や朝房山などがこの石岡と関係が似てるんだよな。
5~6世紀頃の古墳分布なども調べて行けば何かありそうだが・・・。
水戸に大足(おおだら)などというダイダラボッチにまつわる地名があるが、石岡にもある。
これは製鉄と関係があるのだろう。
青銅文化と鉄器文化がほぼ同時に日本にはやってきた。でも鉄の方が戦えば強い。
日本の歴史も何もわかっていないことが多い。

この笠間の佐志能神社は笠間城(桂城)の天守閣のあった佐白山の山頂の岩場の上に置かれています。

このように大きな岩の上に乗っかっているだけ?です。

本殿は城の瓦を使った土塀で囲まれていました。
しかし、今回の地震で、危険ということで裏側に回ることはできませんでした。

この佐志能神社ですが、ここに笠間城が建てられた時に、祠を下市毛字田宿(黒袴)に遷されたといいます。
そして、明治になり廃城となってから元の位置に戻されたそうです。(明治5年)
しかし気になるのはもっと前の5-6世紀頃です。

城跡の場所はきれいに整備されています。
途中登るときは少し暗くて寂しい感じですが、上の広場はカラッとして気持ちがいいです。

登り道中は苔むした木々など趣があります。

さて、千人溜りの駐車場から笠間の市内と反対側に下ってみました。
山を下りた麓は桜の木の並木があります。
春は花が咲ききれいでしょうね。

山に囲まれたところに蕎麦の花が咲いており、向こうの方は刈り取られたばかりの稲束が干してあります。
のどかな里山の風情が広がります。
多くの方はこちらには下りてこないのだろう、「もったいないな~」などと思いながらここを後にしました。
月山寺(1)-庭園
大覚寺の裏見なしの庭を紹介しましたので、すぐ近くの桜川市「月山寺」の庭園を紹介します。
京都というと寺院もさることながらそこの庭園がとても魅力的ですね。
苔寺や銀閣寺、龍安寺の枯山水など京都でしか味わえないと思っている方も多いでしょう。
今日紹介する「月山寺」もなかなかすぐれた庭があります。

山門で一礼して寺の中にはいると、すぐ脇に手水(ちょうず)の石盤があり、きれいな水が流れています。
この水は八溝山系と繋がっているのだとか・・・。
八溝山の水は有名で、汲みに行っている人もいるようですが少し遠いですね。袋田の滝の先ですから。

手水盤の上や近くにたくさんの亀(置物)が置かれていますが、この亀にそっと水をかけてあげましょう。
長生きできるそうですよ。

寺の境内です。この寺も「東国花の寺百ヶ寺」の一つです。
また寺には美術館もあります。

この写真は7月に行った時のものですが、緑がきれいでした。

この砂山や石の配置は京都の枯山水の世界ですね。
京都に行かずとも近くにもいいところがあることも知ってほしいですね。

なかなか見ごたえがありますよ。


しかし、もっともきれいなのは紅葉の時だとのことで、昨年11月に行った時の写真です。
京都というと寺院もさることながらそこの庭園がとても魅力的ですね。
苔寺や銀閣寺、龍安寺の枯山水など京都でしか味わえないと思っている方も多いでしょう。
今日紹介する「月山寺」もなかなかすぐれた庭があります。

山門で一礼して寺の中にはいると、すぐ脇に手水(ちょうず)の石盤があり、きれいな水が流れています。
この水は八溝山系と繋がっているのだとか・・・。
八溝山の水は有名で、汲みに行っている人もいるようですが少し遠いですね。袋田の滝の先ですから。

手水盤の上や近くにたくさんの亀(置物)が置かれていますが、この亀にそっと水をかけてあげましょう。
長生きできるそうですよ。

寺の境内です。この寺も「東国花の寺百ヶ寺」の一つです。
また寺には美術館もあります。

この写真は7月に行った時のものですが、緑がきれいでした。

この砂山や石の配置は京都の枯山水の世界ですね。
京都に行かずとも近くにもいいところがあることも知ってほしいですね。

なかなか見ごたえがありますよ。


しかし、もっともきれいなのは紅葉の時だとのことで、昨年11月に行った時の写真です。
月山寺(2)
昨日の台風は非常に大きく、仕事を早めに切り上げて帰宅しました。靴などぐしょぐしょ。
被害にあわれた方には本当にお見舞い申し上げます。
東北の被害にあわれた方々にはまた大きな心の痛手ともなったものと推察して心痛めております。
そんな中、6カ月経った三陸海岸沿いを自転車でルポされた「枯木チャリダー」さんのブログの写真には驚愕し何とか平穏な生活が早く戻られることを祈らずにはおられません。
(枯木チャリダーさんのブログ → こちら)
さて、話は戻って、昨日は月山寺の庭園を紹介しましたので、少し別な角度から寺を紹介します。
このお寺は天台宗の関東の八檀林(だんりん)として江戸時代からたくさんの僧侶が修業をしてきたお寺さんだ。
今でもここで寝泊まりしてお勤めをしている修行僧がたくさん暮らしている。

この寺の創建は徳一法師が橋本山の麓に法相宗の寺として建てたもので、1200年ほど前に、徳一法師は筑波山の中禅寺、峰寺山西光院、岩間愛宕神社、磐梯山慧日寺など山岳信仰の場所に多くの寺を建てている。
この寺は、江戸時代は笠間藩8万石の属する寺で、寛永3年(1626年)に寺院が焼失したが、当時の笠間藩主浅野長重の援助により再建されたといいます。

寺の門は、元々あった橋本山(羽黒)の方を見るように建てられている。
この山門をくぐってお寺を拝観するのだが、門をくぐるときはちゃんと合掌・礼拝して入りましょう。
また拝観を終わって出る時も、くぐったら振り返って礼拝をして下さいね。
私も知らずにそのままズケズケと入っていましたが、それが礼儀で、気持ちがいいですよ。

さて、昔この寺が大きな力を持っていたエピソードが残されています。
山門の少し左手に藁葺の門が残されています。どうやらこれが幕末に建設された一夜門らしい。
笠間藩の殿様(牧野家)から寺のケヤキを城へ献上せよとのお達しがあったが、当時の住職がこれをきらって一夜のうちに山門を建てさせたのだとか。当時の格式は月山寺は格式10万石を与えられており、当時の笠間藩は8万石であったので、月山寺の方が格上であったのである。

鐘楼堂などが上の高台にあり、庭や寺の伽藍が良く見渡せる。

「鐘楼」と左側が「千手観音堂」。
この観音堂は1632年に栃木県二宮町の長栄寺に建てられたもので、平成10年にこの地に移築されたという。
中国式の寺院様式でとても大きな建物で、庭の庭園とは違和感もあるが、とても存在感がある。

常陸七福神の一つ「布袋尊」が祀られている。

樹齢約700年といわれる「五葉松」
被害にあわれた方には本当にお見舞い申し上げます。
東北の被害にあわれた方々にはまた大きな心の痛手ともなったものと推察して心痛めております。
そんな中、6カ月経った三陸海岸沿いを自転車でルポされた「枯木チャリダー」さんのブログの写真には驚愕し何とか平穏な生活が早く戻られることを祈らずにはおられません。
(枯木チャリダーさんのブログ → こちら)
さて、話は戻って、昨日は月山寺の庭園を紹介しましたので、少し別な角度から寺を紹介します。
このお寺は天台宗の関東の八檀林(だんりん)として江戸時代からたくさんの僧侶が修業をしてきたお寺さんだ。
今でもここで寝泊まりしてお勤めをしている修行僧がたくさん暮らしている。

この寺の創建は徳一法師が橋本山の麓に法相宗の寺として建てたもので、1200年ほど前に、徳一法師は筑波山の中禅寺、峰寺山西光院、岩間愛宕神社、磐梯山慧日寺など山岳信仰の場所に多くの寺を建てている。
この寺は、江戸時代は笠間藩8万石の属する寺で、寛永3年(1626年)に寺院が焼失したが、当時の笠間藩主浅野長重の援助により再建されたといいます。

寺の門は、元々あった橋本山(羽黒)の方を見るように建てられている。
この山門をくぐってお寺を拝観するのだが、門をくぐるときはちゃんと合掌・礼拝して入りましょう。
また拝観を終わって出る時も、くぐったら振り返って礼拝をして下さいね。
私も知らずにそのままズケズケと入っていましたが、それが礼儀で、気持ちがいいですよ。

さて、昔この寺が大きな力を持っていたエピソードが残されています。
山門の少し左手に藁葺の門が残されています。どうやらこれが幕末に建設された一夜門らしい。
笠間藩の殿様(牧野家)から寺のケヤキを城へ献上せよとのお達しがあったが、当時の住職がこれをきらって一夜のうちに山門を建てさせたのだとか。当時の格式は月山寺は格式10万石を与えられており、当時の笠間藩は8万石であったので、月山寺の方が格上であったのである。

鐘楼堂などが上の高台にあり、庭や寺の伽藍が良く見渡せる。

「鐘楼」と左側が「千手観音堂」。
この観音堂は1632年に栃木県二宮町の長栄寺に建てられたもので、平成10年にこの地に移築されたという。
中国式の寺院様式でとても大きな建物で、庭の庭園とは違和感もあるが、とても存在感がある。

常陸七福神の一つ「布袋尊」が祀られている。

樹齢約700年といわれる「五葉松」