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九ちゃんの家

 次の三連休の代わりに今日から三連休だ。「石岡のおまつり」とはまったくすれ違いとなってしまった。
しょうがないから昼からブログのネタ探しに少し思うところがあってドライブしてきた。

結構楽しいところがたくさんあって、短い時間だったが、ネタはたくさんできた。
少しずつ紹介させていただこう。
今日行ってきたのは、石岡(大増)大覚寺、親鸞の稲田草庵跡(西念寺)、稲田神社、笠間城跡、佐志能神社、小原神社と盛り沢山だ。

歴史に詳しい方なら「成程。そちらの方面に興味があるのか」などと思うかもしれないし、何でそんなところに興味を持つのかなどと思うかもしれない。

石岡の歴史を調べていたら、どうしても行きたくなってしまったのだからしょうがない。
少しずつしか紹介できないが、写真もあるのでさっと読み飛ばしながらお付き合いしていただけたらと思います。

しかし、今日紹介するのは、目的とは違って偶然見かけたので紹介しましょう。

笠間にある「九ちゃんの家」です。
日動美術館の前をそのままつつじ公園の方に進んだ道の途中にあります。
笠間稲荷で結婚式を挙げ、笠間を愛し、良く来ていたことは知っていましたが、こんなところに昔の家があったのですね。

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この家は坂本九さんが戦争中に川崎から疎開で住んでいた家で、2歳から6歳の間過ごしたところだといいます。

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4年前に、この家を保存しようと会を結成して、5月の連休中には一般公開なども行なっているようです。
しかし、今は夏草が大分茂っていました。

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日航ジャンボ機墜落事故から26年、「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」など、いまだに多くの人に愛され続ける坂本九さん。
この歌碑は、家のすぐ上にある神社脇に建てられた歌碑です。歌は「上を向いて歩こうです」

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坂本九さんの長女で歌手「大島花子」のブログはこちらです。→「歌うロハ主婦日記

子供をかかえたお母さんを対象にしたcafeライブ「親子ライブ」を東京で開いています。
次女の舞坂ゆき子さんは「ドッグセラピスト」として活躍されているようです。
 

笠間方面 | コメント(16) | トラックバック(0) | 2011/09/14 18:01

合気道の神社

 石岡にも合気道の道場もあるが、自分がかかわっていないとこのような場所があることも知らなかった。
この「合気神社」は先日ブログ仲間の方から教えてもらったものだが、昨日の散策途中に看板を見つけて行ってみたのです。

私も、「百聞は一見にしかず」とのことで、行ってみてそこの空気を感じないと気が済まなくなってきており、昔ならこの看板をみても素通りしていたと思う。

 神社に行ってみると、この地には珍しく外人さんがいっぱい。
神社前には道場や、宿泊施設もあるようで、世界各国から愛好者が訪れているように思う。
地元でも知らなかったな~。という思いだ。

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神社はまだ新しいが、世界的に知られる存在になっているようです。

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合気道の開祖「植芝翁」の像の前で説明を熱心に聞き、撮影していました。
皆さんヨーロッパの方のようですね。
恐らく道場で練習されているのだと思います。

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神社の由来が書かれています。
それにしても神様の数が多いですね。四十三柱の大神様が祭られているそうです。

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皆さんこのような格好をしていましたが、礼儀正しく神社へ進むときは会釈して・・・
お参りの仕方はわからなかったみたいです。
「こんにち」はと一人から挨拶されましたが、その方が神社の説明をされていました。


 

笠間方面 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/15 10:46

愛宕神社(岩間)

本日2本目です。
本当は祭りシリーズの前に記事を書いていたので、内容が古くなりそうなので急いでUPします。

 祭りシリーズの前に紹介していた「瀬戸井街道」の記事を一つ訂正しました。
瀬戸井街道と笠間街道が一部でラップしていると思っていましたが、どうやら違うようです。
水戸から来て土師交差点で岩間駅の方に曲がるのではなく、真っ直ぐ泉へ向かっていたようです。
地図を訂正して記事をUPし直しました。(こちら

 さて、この場所まで来たので、愛宕神社を紹介しておきます。
ここ岩間の愛宕神社は石岡の真家地区のすぐ裏に当たります。

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国道355号線(通称笠間街道)側から少し入ったところで、岩間山を望む。
ここは桜の名所として知られ、下の鳥居から上の神社にかけて両脇に春には桜並木が続きます。

昔は江戸時代の書物には、岩間山と出てくるのですが、何時頃から「愛宕山」と呼ぶようんなったのかはわかりません。

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車で神社の少し下にある天狗の森の駐車場まで登れる。さらに神社までも少し脇の方から登ることもできる。
頂上でも標高305mとそれ程高くは無いが、ここからの眺めはとても素晴らしい。
やはり常陸は「常世の国」と呼ばれていたのだろう。

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この神社の創建は古く、京都から会津まで各地の山などに寺を建てた徳一法師が大同元年(806年)に建てたとされている。これは筑波山に中禅寺(現大御堂)を建てた年782年の後だ。

また、徳一法師といえば法相宗で会津(磐梯)慧日寺が有名だが、この寺の建立は807年というからその1年前になる。
石岡では関東の清水寺「西光院」もそうだし、笠間稲荷もそうだ。
ものすごい勢いで寺を建立していったものだとただ感心してしまう。
福島県いわき市の方にも多く寺がある。

こちらは今回の地震や原発なども心配だし、いつか特集して見たいなどとも思う。

この上で述べた「常世の国」という言葉はこれから進めて行く話のキーワードになりそうだ。

筑波山も峰寺山西光院もこの岩間山愛宕神社もみな眺めが良い。
徳一法師も親鸞もきっとこの地が「常世の国」だと気がついていたのではないかと思う。
これからノンビリと風を感じながら色々なところを歩いてみたいと思います。

でも私が行くところは基本的にあまり人がいかないところばかりです(笑)。

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この愛宕神社は日本三大火防神社といわれ、各地の消防団などの信仰が篤いようです。
なにしろ昔は火事は大変なことだったのです。

次回はこの愛宕神社のすぐ裏にある十三天狗の祠を紹介しましょう。


 
 

笠間方面 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/09/15 17:28

飯綱神社(岩間)

岩間の愛宕神社の裏に少し変わった神社がつながっているので紹介します。
この愛宕神社にせっかく来てこちらを見て行かない人もいそうなので、行かれたら是非見てきてください。

神社は「飯綱神社(いいつなじんじゃ)」です。
古びた木造の拝殿があります。

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ここは天狗の修験場所であったところといわれ、この岩間山(現愛宕山)に住みついて修業した十三天狗を祀っています。
毎年12月に行われる『悪態まつり』は日本三大奇祭のひとつともいわれ、白装束の天狗に扮した13人が、食べ物を神社の13天狗の祠に奉納するために参道を登ると、これに続く人は互いに悪口を言い合い、お供え物を奪い合うという。お供え物を奪い取った人は、幸せになれると言い伝えられている。手力男命(アメノタヂカラオ:手の力の強い神、天岩戸から覗いたアマテラスを引きだした神)を祀る。


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この神社の本殿が変わっています。銅製の六角形の堂で「六角殿」というようです。
この本殿を支える台座も石の六角形をしています。
そして、これは亀を表わしており、首や尾などもあるのです。
頭にはまた銅製の鳳凰の飾りがついています。

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そして、この六角殿を守るように古びて苔むした祠が14個。真中の祠は「狐に乗った烏天狗」であり、この神社の祭神です。

そしてそれを取り囲むのが、この山で修行していたという十三天狗の祠です。

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13天狗については江戸時代の学者「平田篤胤」が天狗小僧寅吉の経験をもとに表わした「仙境異聞」に詳しく書かれています。

最初5天狗が12人に増え、最後に狢内村(石岡市)長楽寺が加わり13天狗となりました。
人間の形をしたのはこの長楽寺のみ。
他は鳥などが形を変えて天狗となった。
そして長楽寺はここの首領となったと。

しかしここの首領の名前は「杉山大増正」と出てくる。
この杉山大増正と十三番目に加わった長楽寺は別なのか?
読んだだけではわからない。
市のHPなどでは別人と解釈されているようですが・・・・。

この平田篤胤という人は本居宣長没後に国文学を継承した立派な学者で、後の尊王攘夷運などにも大きな影響を与えた人です。
その平田篤胤が天狗と一緒に暮らしていたと江戸で評判になった寅吉少年を、自分の家に連れてきて一緒に生活までして聞いて書いたという本ですが、これは創作ではなくこの学者は本気に信じて書いたものだと思われます。

 この長楽寺は映画撮影にもしばしば登場する寺です。

何度かこのブログでも取り上げました。
この天狗の祠に長楽寺を見学すると、もしかしたら面白い世界が見えてくるかもしれません。

体力と興味があれば、愛宕山の隣りのししヶ鼻岩(天狗の鼻:寅吉が最初に見た岩)や南台丈と言われた南北朝時代の悲劇の残る「難台山」なども気軽に縦走できますので楽しみは沢山ありますよ。
 

笠間方面 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/16 07:32

笠間城(1)

 出かけて、その中身を調べながらブログを書いているのだが、調べるのはやはり時間もかかる。
しょうがないから、行ってみた感想程度を少し述べて紹介だけしたいと思います。

私のブログは、現場に行って今流れている風を感じながら、過去を想像して見ることですから、まずは感じたままを述べて行きます。

今日は「笠間城」です。古城好きの人は是非行ってほしい城跡です。
明治維新まで残されていた城ですので、これが皆残っていればなどとつい思ってしまうほどに全体が見てとれます。

この笠間城が構築されたのは鎌倉時代の北条氏が執権を持っていた1220年頃です。
宇都宮にいた下野(しもつけ)国の守護宇都宮(藤原)頼綱の甥の宇都宮(藤原)時朝によって12年ほどかけて築城され、時朝は笠間氏を名乗り、初代笠間氏になります。

しかしその前の鎌倉初期までは、この佐白山には正福寺という寺がありました。多くの僧兵を抱えており「百坊」と呼ばれていたようです。

一方麓の七会村(現城里町)には徳蔵寺という大きな寺があり、「三百坊」といわれる僧兵がおり、この二つの寺が勢力争いをしていたのです。

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笠間城への上り口に「大黒石」という大きな石が置かれています。道をふさぐような大きな石です。

ここに書かれた説明板によれば、
「鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵がその勢力を争って戦った。佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白山頂近くまで逃げのび、山上にあった大黒石をころがした。
 徳蔵寺の僧兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多くの死者が出たため、佐白山の僧兵は、あやうく難をのがれることができた。・・・・」
と書かれています。

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車でそのまま山道を進むと大きな駐車場に出ます。ここは「千人溜り跡」と書かれています。

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おそらく、江戸時代の登城した藩士たちは、馬でここまで来て、ここからは徒歩で登ったのではないでしょうか。
一般の人もここから先は車通行止めですので、歩いて10~15分くらい登らなければなりません。

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この駐車場の入口の通りの反対側に「百坊跡」の碑が置かれていました。

この寺の百坊と七会村の徳蔵寺の三百坊は共に宇都宮(藤原)時朝によって滅ぼされました。
どんな戦いがあったのでしょうか。昔、寺に宿泊して修業していた僧は僧兵といわれるように力を持っていたのでしょうね。

この徳蔵寺は今は花の寺(8ヶ寺)としても知られ、ここには四国八十八か所の砂を埋めた足置き場があります。
前からとても気になっていたところです。
地名は徳蔵(とくら)で寺の名前は徳蔵寺(とくぞうじ)、また徳蔵大師(とくらだいし)として親しまれています。
那珂川沿いの阿波山からここにのびる道路「阿波山-徳蔵線」が前から気になっていたのです。

ここにもやっと先日行ってきましたので後から紹介します。



(その2)へ続きます。


笠間方面 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/16 18:15

笠間藩こぼれ話(1)-大石邸跡

笠間城(1)をさきに書きましたが、一つ関連した情報を挟みます。

 しばらくぶりに笠間にやってきたので、少し見て回った。
昔来たころと比べずいぶんきれいになった。もっとも稲荷神社が町の中心であるイメージは変わらない。

ここ笠間の歴史はとても興味があるのだが、あまり多くは知らないので少しだけ紐解いておきたい。
今日は「日動画廊企画展示館」の隣りにある「大石邸跡」である。
もう昔からこの地にあるが、昔と比べるとまわりがずいぶん変わった。となりの展示館は何時建ったのだろう。
また、そこから少し右に登った「ホテル山の荘」などいつできたのか? 
まったくここがお城だと勘違いしそうだ。

しかし、地図をみても、このホテルの隣りの台地に「笠間城」と載っているが、ここも本来の山城「笠間城」ではない。
この辺りの説明が何処にもない。 おかしな話だな。
少しずつ調べればわかってくるでしょうからのんびりやっていきましょう。

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ここには、播州赤穂の赤穂浪士でおなじみの大石家の屋敷があったのです。
昔、笠間藩主であった浅野家の家老としてここに屋敷を構えていたのです。

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きれいに手入れされ、それ程おおきな敷地ではないが、ここの立地がとても興味を引きます。

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浅野家がここ笠間藩の藩主として統治していたのは1622年~1645年です。
江戸城松の廊下で刃傷沙汰に及ぶのが1701年ですから、笠間から赤穂へ移って56年後ですね。
この辺りは昨年末このブログで書きました(その1)、(その2

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さて、この敷地の少し先に大きな駐車場が整備されています、その手前の曲がり角に上のような標識が置かれていました。

この場所が「田町」となった理由が書かれています。
でもこれで理解はできません。大石邸の説明にもありません。
しかし、浅野家が何故赤穂に移ることになったのかの説明が何処にも書かれていないのです。

この「田町」としたのは浅野家より前の「蒲生氏」の時で、この時城は佐白山の山の上(佐志能神社のあるところ)にありました。
この田町は田圃を埋めて馬で登城できる様にしたものでしょう。

しかし、なにしろ城は山の上ですから、途中まで馬でのぼり、最後は歩いて城まで登っていたのでしょう。
このため、藩主浅野氏が家臣が登城する負担を和らげようと、ここの近く(山の麓)に別な藩邸を作ったのです。(それがYAHOO地図にある笠間城でしょう)
しかし、江戸時代は勝手に城を作ってはいけないという武家御法度があり、これに違反したとされ、赤穂に移ることになったと言われています。
このここを知らないとこの石碑に書かれた内容が理解できません。

関東地方で唯一の近代山城と言われた笠間城の続きは、この後に書きましょう。


 

笠間方面 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/17 06:34

笠間城(2)

 さて、城跡はこの千人溜りの駐車場の奥から登り始めます。
まず最初にあるのが「大手門跡」です。昔は、この大手門をくぐって、石段を登って行ったのだと思われます。

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脇に一般車は通行止めですが、工事関係者などが通る車道がつけられていますが、真っ直ぐに本丸の方に登る石段がついていますので、この階段を上ります。

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階段を上ると広場に出ます。ここに笠間城の跡という碑が置かれています。
かなり広いです。
良くこのような山城が明治初めまで残されていたものだと感心します。
もっとも、江戸時代は平和になりましたので、このような山城はとても不便だったと思います。

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そのため、浅野家では麓に武家屋敷などを整備して、幕府のお咎めを受けることになってしまったのです。

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さて、この広場から更に高くなった山の頂に「佐志能神社」が祀られています。
この神社への道を少し登ったところに「笠間城天主跡」の碑が置かれています。

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また、この天主跡の所には昔の城壁の跡がまだ残っていました。

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佐志能神社はこの後で紹介しますが、先ほどの城跡の広場の一角(西側)に「笠間城八幡台櫓跡」と書かれた碑が建っています。

この櫓は現在も実存しており、明治13年に日蓮宗真浄寺にそのまま移築されて保存されています。
また、城の門が民家の門として2か所残されているといいます。
 

笠間方面 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/09/18 06:43

笠間城(3)

 城の天守閣のあった頂上に現在この「佐志能神社」が祀られています。
かなり古い神社で、延喜式式内社(茨城県に28座)の一つに数えられています。

ここで気になるのが石岡の佐志能神社との関係です。
石岡には3つの佐志能神社があります。染谷、村上と旧八郷の柿岡です。
龍神山麓の村上神社から染谷は分かれてできたものと思われますが、創建された年代がわからないほど古く何処か元は1つだったのかもしれません。
ということは、ここ佐白山の佐志能神社がもとになった可能性が・・・・。

あまりにもこの笠間・小原・稲田周辺や朝房山などがこの石岡と関係が似てるんだよな。
5~6世紀頃の古墳分布なども調べて行けば何かありそうだが・・・。
水戸に大足(おおだら)などというダイダラボッチにまつわる地名があるが、石岡にもある。
これは製鉄と関係があるのだろう。
青銅文化と鉄器文化がほぼ同時に日本にはやってきた。でも鉄の方が戦えば強い。
日本の歴史も何もわかっていないことが多い。

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この笠間の佐志能神社は笠間城(桂城)の天守閣のあった佐白山の山頂の岩場の上に置かれています。

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このように大きな岩の上に乗っかっているだけ?です。

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本殿は城の瓦を使った土塀で囲まれていました。
しかし、今回の地震で、危険ということで裏側に回ることはできませんでした。


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この佐志能神社ですが、ここに笠間城が建てられた時に、祠を下市毛字田宿(黒袴)に遷されたといいます。
そして、明治になり廃城となってから元の位置に戻されたそうです。(明治5年)
しかし気になるのはもっと前の5-6世紀頃です。

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城跡の場所はきれいに整備されています。
途中登るときは少し暗くて寂しい感じですが、上の広場はカラッとして気持ちがいいです。

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登り道中は苔むした木々など趣があります。

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さて、千人溜りの駐車場から笠間の市内と反対側に下ってみました。
山を下りた麓は桜の木の並木があります。
春は花が咲ききれいでしょうね。

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山に囲まれたところに蕎麦の花が咲いており、向こうの方は刈り取られたばかりの稲束が干してあります。
のどかな里山の風情が広がります。

多くの方はこちらには下りてこないのだろう、「もったいないな~」などと思いながらここを後にしました。


 

笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/19 06:24

月山寺(1)-庭園

 大覚寺の裏見なしの庭を紹介しましたので、すぐ近くの桜川市「月山寺」の庭園を紹介します。
京都というと寺院もさることながらそこの庭園がとても魅力的ですね。
苔寺や銀閣寺、龍安寺の枯山水など京都でしか味わえないと思っている方も多いでしょう。

今日紹介する「月山寺」もなかなかすぐれた庭があります。

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山門で一礼して寺の中にはいると、すぐ脇に手水(ちょうず)の石盤があり、きれいな水が流れています。
この水は八溝山系と繋がっているのだとか・・・。
八溝山の水は有名で、汲みに行っている人もいるようですが少し遠いですね。袋田の滝の先ですから。

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手水盤の上や近くにたくさんの亀(置物)が置かれていますが、この亀にそっと水をかけてあげましょう。
長生きできるそうですよ。

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寺の境内です。この寺も「東国花の寺百ヶ寺」の一つです。
また寺には美術館もあります。

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この写真は7月に行った時のものですが、緑がきれいでした。

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この砂山や石の配置は京都の枯山水の世界ですね。
京都に行かずとも近くにもいいところがあることも知ってほしいですね。

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なかなか見ごたえがありますよ。

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しかし、もっともきれいなのは紅葉の時だとのことで、昨年11月に行った時の写真です。


 

笠間方面 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/09/21 20:55

月山寺(2)

昨日の台風は非常に大きく、仕事を早めに切り上げて帰宅しました。靴などぐしょぐしょ。
被害にあわれた方には本当にお見舞い申し上げます。
東北の被害にあわれた方々にはまた大きな心の痛手ともなったものと推察して心痛めております。
そんな中、6カ月経った三陸海岸沿いを自転車でルポされた「枯木チャリダー」さんのブログの写真には驚愕し何とか平穏な生活が早く戻られることを祈らずにはおられません。
(枯木チャリダーさんのブログ → こちら


 さて、話は戻って、昨日は月山寺の庭園を紹介しましたので、少し別な角度から寺を紹介します。

このお寺は天台宗の関東の八檀林(だんりん)として江戸時代からたくさんの僧侶が修業をしてきたお寺さんだ。
今でもここで寝泊まりしてお勤めをしている修行僧がたくさん暮らしている。

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この寺の創建は徳一法師が橋本山の麓に法相宗の寺として建てたもので、1200年ほど前に、徳一法師は筑波山の中禅寺、峰寺山西光院、岩間愛宕神社、磐梯山慧日寺など山岳信仰の場所に多くの寺を建てている。

この寺は、江戸時代は笠間藩8万石の属する寺で、寛永3年(1626年)に寺院が焼失したが、当時の笠間藩主浅野長重の援助により再建されたといいます。

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寺の門は、元々あった橋本山(羽黒)の方を見るように建てられている。
この山門をくぐってお寺を拝観するのだが、門をくぐるときはちゃんと合掌・礼拝して入りましょう。
また拝観を終わって出る時も、くぐったら振り返って礼拝をして下さいね。
私も知らずにそのままズケズケと入っていましたが、それが礼儀で、気持ちがいいですよ。

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さて、昔この寺が大きな力を持っていたエピソードが残されています。

山門の少し左手に藁葺の門が残されています。どうやらこれが幕末に建設された一夜門らしい。

笠間藩の殿様(牧野家)から寺のケヤキを城へ献上せよとのお達しがあったが、当時の住職がこれをきらって一夜のうちに山門を建てさせたのだとか。当時の格式は月山寺は格式10万石を与えられており、当時の笠間藩は8万石であったので、月山寺の方が格上であったのである。

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鐘楼堂などが上の高台にあり、庭や寺の伽藍が良く見渡せる。

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「鐘楼」と左側が「千手観音堂」。
この観音堂は1632年に栃木県二宮町の長栄寺に建てられたもので、平成10年にこの地に移築されたという。
中国式の寺院様式でとても大きな建物で、庭の庭園とは違和感もあるが、とても存在感がある。

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常陸七福神の一つ「布袋尊」が祀られている。

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樹齢約700年といわれる「五葉松」
 

笠間方面 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/22 09:55

悪態まつり(岩間飯綱神社)

 18日の日曜日に岩間の愛宕神社(笠間市)の裏手にある13天狗の祠を祀る飯綱神社に昔から伝わる奇祭「悪態まつり」を見学に行ってきました。

前に天狗の話で何度も登場したこの神社(こちら1)(こちら2)ですが、ここに伝わる変わったお祭りです。

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午後2時頃になると神社の社務所の前で準備が始まりました。
霞ケ浦から朝とった生きた魚(フナ?)を使って、このように手にぶら下げられるように口に葉っぱなどでひも状にしてくくります。

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魚とは別に竹の筒に甘酒を詰めます(オバンドーというそうです)。

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準備した魚と竹筒を13天狗の祠に一つづつつりさげます。(祠は神社の祭神もあるので14個あります)

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2時半になると飯綱神社に白装束に烏帽子に足袋の姿をした天狗(氏子さんたち?)が13人集合し、神主さんのお祓いを受けて、それぞれ本日の取りあいとなる食べ物の入った藁の束と竹の杖を受け取ります。
木の箱を持った人もいますが何が入っているのかはわかりませんでした。
最後に神社でお餅をまくそうですので、お餅が入っていたのかもしれません。

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この神社は愛宕山の上に立っているので、ここでお祓いを受けた白装束の人達(天狗役の氏子の人)は山の麓へ移動(車で)して、山の下から祭りが始まります。
この天狗役は皆白いマスクをしていて、しゃべってはいけないそうです。無言で神事を行います。

山を登る間にお互いに悪態をつきあうというのですが、これも行事となってしまったので「なにをこのやろう」などという言葉を大声で時々皆に聞こえる大きな声をはりあげます。

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その登る途中で、手に持った食べ物(藁筒など)を奪い合うのが行事なのですが、実際はこのような途中に設けられた祭殿のような小屋に置いておき、それを早いものが奪い合うのが行事になっています。

最後は飯綱神社、神社本殿(六角殿)、13天狗の祠とまわって祭りは終わりになります。
最初に祠にとりつけた魚と甘酒も人が持って行っていいことになります。
この魚は新鮮なので家に帰って焼いたりして食べると美味しいそうです。
また、杖として使っていた青竹は皆参拝者に配るそうです。
最後に拝殿で餅をまく時には大天狗一人だけが天狗の面をつけておこなうそうです。
残念ながら最後までいなかったので見ていません。

お祭りの食べ物を持ち帰るとその1年は無病息災となり、幸せになると言い伝えられています。
本来のこの行事は戦前までは真夜中12時頃に女人禁制で男子のみで行なわれてきたようですが、今は昼間に行なうようになったとのことです。
当時は天狗役になった氏子は七日間行屋にこもり、餅をつき、井戸水で身を清めて祭りを行なったといわれています。
今では真夜中では参加者も減って、真夜中では継続は出来なかったのでしょう。

今回まつりの見学に若い人も多くいましたが、聞こえてきた話では、水戸の歴史館で行なわれた「妖怪見聞」でパンフレットをもらったのを見て来たようでした。

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笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/19 07:05

廣慶寺(笠間市小原)

 今日10月27日の夜は旧暦九月の十三夜です。

豆名月とか栗名月と呼ばれるそうですね。

今晩、ふと外を眺めたら満月ではないけど、姿のいいお月様が輝いていました。

何で昔の人は十五夜の1ヶ月後の満月ではなく十三夜を名月にしたのでしょうか?

私のいる茨城県は栗の名産地です。
笠間が有名になったけど、石岡のとなりのかすみがうら市(旧千代田町)も栗は日本一と言っています。
大きな栗がいっぱい採れます。

今年も栗ごはん用に、栗の皮むきハサミでたくさん剥いたけど今頃食べるのがいいのだろうね。

栗は虫止め液など使わないで冷蔵庫にいれたり、水につけておいたりするけど早く処理して茹でたほうがやはり美味しいです。

では今日の記事です。

 先日御前山の方に行く途中、いつもと違う脇道を走っていた。
途中道がよくわからなくなり、国道50号線を目指して友部の近郊を適当に走った。

すると、少し古びた寺の前に出た。近くに古墳もある矢印があった。
寺の名前は「廣慶寺」と書いてあった。

後で、すぐ目の前に茨城の名前発祥の地ではないかという「小原神社」のそばであったことに気がついた。

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どういうわけか寺の入り口が2つ並んでいた。

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となりの入口は直接本堂の方に入る車道なのだろう。

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左側の階段を上ると、参道があり、古い桜の古木があり、春は桜並木になるのかもしれない。

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こちらは山門です。

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山門入口左手に「禁葷酒(くんしゅ)」の戒壇石が置かれているのでここは禅寺だ。
やはり、これがあると少し酒は飲んでいないにしても、口が臭くないかなどと気になる。
やはり山門で一礼して中に入ります。

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山門を入った右側に石仏像が置かれています。

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この寺を調べてみると、資料は少ないが、

「文亀2年(1502)に、小原城主里見義俊が養堂祖禅師の道風を慕い開基したといわれ、曹洞宗鳳台院の末寺である。友部・内原・岩間地区の寺院を参詣する「新秩父三十四番」では、八番住吉山小原院廣慶寺とある。」

という記事を見つけた。

さて、こうなるともう少し調べなければならなくなった。
小原城とは? 里見氏とは? 千葉の里見氏とはつながるのか?
そもそも小原氏というのは里見氏と関係があったと思うが・・・。
宍戸城や佐竹氏との関係は?

この辺を調べ出すと時間が足りない。少しだけでとりあえずお茶を濁しておくことにしたい。

小原氏をサイト「武家家伝」で見てみると

「北奥の戦国大名和賀氏の「四天の重臣」のひとりとして知られている小原氏は、物部姓あるいは源姓などといわれるがその出自は不明である。そもそもは平清盛に仕えて、山城国小原(愛宕郡小原か)を知行したことから小原を称するようになったのだという。
 他方、清和源氏の一族である里見義俊の五代の孫、が常陸の国茨城郡大茨(おばら)に住んで大茨氏を名乗ったことに始まるとする説もある。関東の兵乱を避けて奥州に流浪した忠義は、大茨から小原姓に改め、和賀氏に仕えるようになったのだという。」

と書かれている。

上の説明の下段の方の説明がこちらの小原地方になる。

特に面白いのが、この土地の名前は「大茨(おばら)」といったという点と里見義俊という里見氏の祖から分かれているという点です。

里見氏は元は上野の国出身で房総の里見氏(後の南総里見八犬伝でお馴染み)になっていきますが、同じ系列ということになります。

これは充分調べてみる必要があるが、これ以上は、またの機会に譲りたい。

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この寺には江戸時代初期(享保元年(1716))と言われる市指定「紙本著色釈迦尊涅槃像図」があるという。(縦202.5㎝ 横170.5㎝)

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こちらは寺の脇に置かれていた石像だが、小僧さんが寝ているような姿だが、上の涅槃図からこのようなものを置いたのだろう。

さて、これはありやなしや? 

釈迦の涅槃図はあくまで釈迦が入滅した時に周りを弟子たちが取り囲んだ図であるのだから・・・。

まあいいかな。


笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/10/27 18:17

岩間隠沢観音

 以前に江戸時代のつくば詣の道であった「瀬戸井街道」を紹介していた時に、この岩間(笠間市)にある隠沢(かくれざわ)観音を紹介した。(記事はこちら

しかし、その後連絡いただいて、この観音堂が無残な姿になっていると聞いていた。

桜を求めて岩間まで来たついでに様子を見ようと立寄った。

奥まった場所であるので、今では訪れる人はもともと少ないのだが、とても無残な姿になっていた。

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もう桜の時期もだいぶ過ぎてしまい、この記事をUPするのもためらわれたのだが、前に紹介しているので、正しく今の姿を見ていただく方が良いと思い掲載することにした。

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あまり手入れをされていないこの観音堂であるが、麓は桜並木が続くのんびりした道を鐘転山(かねころばしやま)の麓に分けいった場所にある。

この山の向こう側にギター文化館がある。

隠沢観音の入口階段を上ると、大きく屋根の崩れたお堂が見えてくる。

「これはすごいことになってるな」と思いながら上まで登る。

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屋根の片側半分が大きく崩れている。
地震での倒壊ではなく、倒木によるものと聞いている。

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由緒ある建物なのだが、これを修理するのも大変だろう。
確かに訪れる人が少ないのだから修理も後回しなのだろうか?
それとも所有権の問題か?

石岡八郷地区の善光寺の屋根ももう手をつけられない状態だが、こちらの隠沢観音は屋根の大きさも比較的小さいので、まだ修理できるのではないか。

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(サムネルです)

この高台からきた方向を見ると、桜並木が続いていたのがわかる。
岩間の街の方向もよく見える。

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ここへの入口も確かにのどかな場所で、薄暗い時などは少しばかり気味が悪いかもしれないな。
早く修理して欲しいものだ。

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笠間方面 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/04/26 20:59

塙家住宅-分棟式曲り屋

 安居の古代の官道駅家(うまや)があったとも割る場所の近くに国指定文化財の「塙家住宅」があります。
前にブロ友さんの記事で気になっていて3月末に見に行っていたのですが、古代官道記事が先になり、やっと紹介できるようになりました。

とても興味深い家屋でした。
まあ、多くの方は「なんでこんなところに感動しているんだ」と思われると思いますが・・・。

そう、江戸時代にできた藁葺きの家屋でしかないんです。でも面白い。初めて見る形です。

少しずつ写真とともに紹介します。

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このあたりは江戸時代水戸徳川家の宍戸藩の領域ですが、佐竹氏が家康に秋田へ飛ばされた時に、秋田氏が国替えで入ってきました(1602年)。
しかし、秋田氏は1645年に福島県三春に移されてしまったために、この地にいたのも比較的短かったのです。

この塙家は、この秋田氏の名主をつとめていた家で、三春に移った時に随行せずにこの地に残ったそうです。

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この建物は江戸中期の18世紀中頃だそうですので、なぜこのような建て方になったのかについて、いろいろな憶測を呼びそうです。
詳細は後で述べます。

正面に大きな入母屋造りの主屋があり、右手には兜屋根の家屋が隣り合ってL字型配置に置かれています。
これは正しく曲り屋とそっくりです。

那珂市の一の関ため池親水公園に移築されたつるし雛で有名な曲り屋とそっくりです。(こちら参考)

兜屋根にしているのは2階部分の開口部を広く取るためで、東北地方などでも普通のようです。

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違っているのは、曲り屋ではあるのに、二つの茅葺き屋根が分かれてしまっているのです。
確かにふた棟を連続した屋根で茅葺きにするのは手間がかかりますが、それなら二棟を分けてしまえば済むのだと思いますね。

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しかし、この二棟は屋根は別々ですが、内部は普通の曲り屋と同じで、一体に続いているのです。

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では雨が漏らないのか心配ですよね。
それがこの構造を見てわかったのです。
二つの家屋の中間に大きな丸太が で~ん と渡してあるんです。
しかも丸太を半割れにして中をくりぬいて大きな樋になっていたのです。

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裏に回ってみると、このように丸太がニョキッと飛び出していました。
変わってますよね。初めて見ました。

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それにしてもずいぶん大きな木を使ったもんですね。

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なぜこれが面白いのかって??
下の説明を読んでみてください。

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読んでもつまらないでしょうか?
きっと面白がる人は少ないのでしょうね。

私が面白いと感じたのは最後の方に書かれていた内容です。

「このような分棟型の民家は、沖縄や鹿児島に多く見られるほか、西日本の太平洋側に分布しています。千葉県の房総半島から九十九里海岸辺りにも見られます。本県の場合、海岸寄りではなく、水戸市の西方部、美和村(現常陸大宮市)・桂村(現城里町)・御前山村(現常陸太田市)から笠間市にかけて内陸部に見られます。」

これは、私が石岡から北部の道を感じるままに美和地方にたどり着いたのとまさに同じルートなんです。

桂村の「粟」「阿波山」から御前山までは那珂川(昔は粟川)沿いです。

古代の官道も水戸の河内から北へ延喜式に書かれた駅家(うまや)のルートとしてこちらの道を挙げていませんが、車で走ってみると桂村、御前山村、美和村のルートの流れが前からとても気になっているのです。

鹿児島から太平洋と房総までは完全に黒潮ルートです。海のシルクロード沿いです。
そして那珂川沿いを遡るのが、民族の移動の流れのように思えます。

縄文人(蝦夷人)もこのルートに沿って後退して行ったのかもしれません。

坂上田村麻呂、八幡太郎義家などの蝦夷征伐は、このルート沿いにいろいろな伝説が残されているのも興味をそそります。

さて、もう一つ興味を抱いたことがあります。
それはこの地に来た秋田氏の出生です。

平安時代に出羽(秋田)から津軽(青森)を治めていた安東氏がそのはじめであるが、この秋田氏は安倍氏の後裔を自認し、阿弖流為の子孫であるとまで称しているという。

そうすると、この分棟型の民家の分布を真っすぐにたどると三春にたどり着く。
やはり何かあると考えるのは考え過ぎか?



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笠間方面 | コメント(7) | トラックバック(0) | 2013/05/10 20:09

安古祖父神社

 五万堀古道の安侯駅家(うまや)があったと思われる安居(あご)地区に、気になる名前の神社があります。
安古祖父神社(あふるおおじじんじゃ)というので立ち寄ってみました。

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近くに行くと、鬱蒼とした木立の中に神社の拝殿が奥の方に見えてきました。
上の写真の左手奥が神社です。

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名前のとおり古そうな神社です。

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こちらが入口の鳥居。正面に神社の拝殿が見えます。

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参道に沿ってたくさんの境内社が一定の間隔で置かれています。「八幡宮」「加波山神社」・・・・

あまりこのような一定に置いてあるところは少ないように思います。

それぞれ、近くに信仰の対象となった小さな神社があったのでしょう。
それをここに集約したのでしょうか。

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この神社のいわれを調べてみたのだけれど見つからない。笠間の図書館でも行けばわかるのか?

安居(あご)と安古(あふる)と読みは違うが同じ意味なのか??

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すぐ近くにある「医王院」。建物の脇には苔むした石像や石塔などが無造作に置かれている。
この医王院の隣には「上安居公民館」があり、広場が広がっている。

恐らくこの医王院と安古祖父神社は一体だったのかもしれません。神仏分離などでわかれたものか。
書かれたものがないが、恐らくかなり古い寺院であったように思われます。


笠間方面 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/05/15 19:36

羽梨山神社(笠間市上郷)

 新型コロナウイルスはどうにか持ちこたえている状態のようです。
色々な不安はありますが冷静に対処したいと思います。

こうなれば少し長期戦での対応が必要かもしれないですね。
終息まで1年以上かかりそうですから・・・・・
まずは自分が感染せず、感染したとしてもその先に感染させずにはどういう行動をとるべきかを考えていきたいと思います。

このブログ記事もこのような神社紹介や歴史掘り起しなどの記事も何時書けなくなるかもしれません。
もし感染爆発が起こり、出かけられなくなれば気持ちの上でも通常記事は書けなくなりそうです。

さて、先日三村の地名の中で「羽成子(はなし)」について書いたのですが、平安時代に書かれた延喜式の式内社の茨城郡の中の「羽梨山神社」と考えられている古社が笠間市(旧岩間町)の上郷地区に鎮座しているので10日ほど前に見学・参拝に訪れた。

旧355号線を石岡側から岩間駅を過ぎてしばらく行くと「上郷」信号がある。
ここから西にしばらく走るとゴルフ場の手前の道がカーブしているあたりに神社はあった。

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入口にはおおきな「延喜式式内社」の看板が掲げられていた。
どっしりとした趣のある鳥居、拝殿、本殿が一直線に並び、その裏手に大きな杉のご神木があった。

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この説明の石碑に書かれている内容はどこまで信用してよいかわからない。
ただ良く読めないので書きだしてみます。
・・・・・・・・・・・
御祭神 木花咲耶姫命
 木花咲耶姫命は容姿端麗に桜花の咲き匂うがごとき美女と讃えられ全山花に覆われ花白山とも称される羽梨山に相応しい御祭神として勧請されたものである

由緒 羽梨山神社は延喜式宝典(905)の式内社 常陸国二八社の中の一社であり 郷社に列せられた格式高い神社である
又、上古 、磐筒男・磐筒女の二神が磐麻に在って日本武尊の東征軍を援け給い 尊より羽梨山の尊称を戴き岩間朝日丘に鎮祭されたとも伝えられている
延歴22年(803) 坂上田村麻呂陸奥征討の大任遂行の報賽として神殿二宇を建立寄進する
中世(1200年代) 宍戸家政 当社を崇敬して社殿を造営し 宍戸33郷の鎮守と定める
天文11年(1542)兵火に罹り神殿悉く焼失し朝日丘より八町程下なる現在地に遷る
寛文8年(1668) 本殿及び拝殿造営(棟札)
元禄16年(1703) 明神石鳥居建立(現鳥居)
延享4年(1747) 本社(現社殿)新築竣工
明治6年(1873) 郷社に列せられる
鎮守の神様は地域の守護神であり 御神木の霊力と相俟って縁結び・家内安全・除災招福・五穀豊穣その他氏子崇敬者の願いを聞こし召して下さる
・・・・・・・・
このような内容が彫られています。
ただ中世までは伝承と言ったところでしょう。

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もう一つの石碑には更級日記のことが書かれています。
こちらも書きだしてみましょう。

「羽梨山神社旧蹟地碑建立記念」
羽梨山神社は平安時代の初期に建立され 常陸の国式内二十八社の一に列する格式高い神社である
創建時は難台山麓にあり 国司巡拝を記した更級日記に記されている由緒ある神社である
中世宍戸家政公は当社を篤く崇敬して宍戸三三郷の鎮守と定め繁栄したが 天文十一年兵火に罹り神殿悉く焼失して八丁程下なる現在地に遷宮する
爾来五百年当時の社地はゴルフ場となり 痕跡の失われることを憂い 氏子総代相諮り旧跡地に碑を建立する
平成22年11月吉日

そうするとこの碑は少し先にある現在のゴルフ場の敷地に建てられたものか?
どうもスッキリしませんが調べながらまとめてみましょう。

1) 創建時(664年というが不明)はこの場所ではなく、もう少し(八丁:約880m)難台山(旧南台丈)の中腹(朝日丘)にあった。

2) 祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)というから子安神社などの神だ。現地では絶世の美女だとか・・・・
   貞操を疑われて、自ら火をつけた燃え盛る小屋の中で子供を産んだとされる神話の神ですね。  
 
3) 難台山の名前は往古は羽梨山と言ったようで、「羽梨」の由来は、桜の花が白くて「花白山」が「花志山」、「羽梨山」へと変化したのではないかとか、筑波山系の山が葉が茂って緑なのに対し、この山は葉がなく、「葉無し山」といわれ、それが羽梨山となったとなどともいわれていると。
また、社伝によれば、ヤマトタケルが東征のときにここに布陣した時に、、「磐筒男」と「磐筒女」という老翁・老媼が現れて山果(梨)を捧げた。これにより兵の飢渇が癒されたので、帰りの凱旋時に「朝日丘」(現難台山)の神に羽々矢と梨の実を捧げたので、「羽梨山」と呼ばれるようになったともいわれているらしい。

4) 1542年に朝日丘から社殿を麓(現在地)に遷した。
   ただ、この地にはその前に熊野大権現が祀られており、この遷宮で合祀となった。
   別当寺「普賢院」の管理であったようだが、明治の神仏分離令で管理は別れた。

境内石碑には更級日記のことが書かれていますので少し補足しておく必要がありそうです。
更級日記は平安時代に書かれた菅原孝標(たかすえ)の次女・菅原孝標女の書いた日記ですが、この神社については書かれていません。
菅原孝標は上総介(1017年~)となった時にはこの娘もつれて東国に来ていますが、その後京都に戻り、1032年に常陸介として赴任したときは家族は連れてきていません。そのため、日記では常陸国の父からの手紙が紹介されているのです。

あづまより人来たり。

「神拝といふわざして国のうちありきしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木(こ)むらのある、をかしき所かな、見せでとまづ思ひ出でて、『ここはいづことかいふ』と問へば、『子しのびの森となむ申す』と答へたりしが、身によそへられていみじく悲しかなりしかば、馬よりおりて、そこに二時なむながめられし、
とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
となむおぼえられし」
とあるを見る心地、いへばさらなり。返事(かえりごと)に、
子しのびを 聞くにつけても とどめ置きし ちちぶの山の つらきあづま路
(訳)
あづまより父の便りを持った人が来た。
「神拝という儀式をして、国のうちをまわっていたところ、水が趣深く流れている野がはるばるとある所に、木が群がっている所がある、趣深い所だなあ、見せてやれないのが残念だと、まずお前のことを思い出して、『ここは何というところですか』と聞くと、『子しのびの森と申します』と答えたのが、身につまされてたいそう悲しかったので、馬からおりて、そこに二時(四時間)ぼんやりしていた。
とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
お前もわが子をどこかに置いてきて、私のように悲しい気持ちなのか。見るも悲しい子しのびの森よ。
と思った」

むかしの国司は常陸国の国府(現石岡市)から国内の神社(鹿島神社や静神社などの主だった神社を遥拝して廻るのが習慣で、その途中でこここにある「子しのびの森」が、この言葉からこの付近の「押辺=おしのべ」ではないかと言われている。
そのため、当時のこの神社(羽梨山神社)に来たのではないかというのである。

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しかし、この11世紀頃にこの神社(もう少し山の中腹にあった)が何と呼ばれていたかはあまりはっきりしない。
色々な文献に「羽梨之神」が出てくるが、少し考えてみたい。

1)「日本三代実録」(901年成立)に、「羽梨神」が貞観12年(870年)に従五位下から従五位上、仁和元年(885年)に従五位上から正五位下と階級が上がっている。
2)『神祇志料(じんぎしりょう)』(1873年成立)によると、『大同類聚方』』」(だいどうるいじゅうほう)に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」とある。
 この茨城郡拜師里は現在の石岡市上林・下林から染谷・村上の竜神山付近と考えられている。
3)『新国誌』園部状に、小田城(つくば市小田)の小田政治が羽梨之宮に集まって、軍を整え霞ケ浦を船で渡って小川(現小美玉市)に向かうとある。とする説。そこから、胎安神社か子安神社が羽梨山神社かもしれないと記されている。

やはりこれらの資料から延喜式の羽梨山神社は
1)石岡市(みむら)羽成子にある鹿島神社
2)かすみがうら市東野寺、西野寺にある子安神社・胎安神社
3)石岡市染谷、村上にある佐志能神社(2カ所)
がまず思い浮かぶ。

ただこの笠間市上郷の羽梨山神社も木花咲耶姫命を祀っていることを考えると、かすみがうら市の子安・胎安神がむかしは羽梨山神社としてあり、これが分かれてこちらの神社に名前として残ったのかもしれない。

子しのびの森もこちらの子安・胎安神社近くを流れる天の川付近の森ということも考えられる。
ただ一般には同じ茨城郡の式内社である「夷針(いはり)神社」の論社の中に子安神社、胎安神社、をいれており、佐志能神社は新治郡の式内社にある。

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(難台山を反対側の石岡市八郷地区より眺める:この時季山は白く笑っているように見える)


笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/04/05 16:13

普賢院(岩間)-羽梨山神社別当

 昨日紹介した笠間市(旧岩間町)上郷の羽梨山神社 のすぐ奥にお寺があった。

「難台山普賢院龍光寺」(真言宗豊山派)となっている。

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寺の入口は門から向かって右側にはきれいな花桃畑があり、左側は寺院の墓地が広がっている。
奥には難台山からの山並みが続いている。

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この寺院の入口から昨日紹介した羽梨山神社方面を見るとすぐ近くにある。
この左側に花桃の畑がある。

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大きなどっしりとした寺の本堂だが、こちらは平成28年に新しく新築完成したものだ。

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左手のお堂がそれまでの旧本堂(1702年建立)だった。
こちらは今は観音堂と呼ばれており、中に安置されていた1582年制作の寺の本尊十一面観音像と共に、笠間市指定文化財となっている。

市の説明では、
【建立】客殿は宝永元年(1704)建造で本堂はそれより相当古い
【規模】間口2間半、奥行2間半
「創建は不詳ながら「貞享元年普賢院指出覚」には寛喜3年(1231)とあり、熊野権現社の別当寺であった。本尊十一面観音は室町末期の作である。この堂は、木造宝形造りで周囲に回廊を有している。堂内の格天井は、繊細な花鳥図が描かれている。」
と書かれている。

観音像については(市のHPは ⇒ こちら)(写真あり)
【製作】天正10年(1582)寄進
【像形】像高:190.5cm
本像は、大和の長谷観音形式の寄木造りで、金箔の美しい光背を有している。行基菩薩作と伝承されてきたが、平成4年の解体修復の際、胎内墨書が発見され、それによれば、天正10年大檀那源廣信によって寄進され、仏師は笠間郡本戸(もとど)郷住人宗須である。
とある。

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(江戸末期 元禄期の六地蔵)

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(二十三夜尊と??観世音)

さて、この寺は説明にあるようにかなり古い。
そしてこの近くの熊野権現社の別当寺だったようだ。
そして現在羽梨山神社を山の中腹から移動させた時に、この熊野権現社と合祀して羽梨山神社とし、明治の神仏分離(廃仏毀釈?)で、神社とは管理が分かれたようだ。



笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/04/06 14:13

小松寺と平重盛の墓

 10日ほど前になるが茨城県城里町小松にある「小松寺」に行った。

まあ、たまたま近くを通っていて、懐かしくなって立ち寄ったというところではあるんだが・・・。

ここには平清盛の嫡男の重盛の墓がある。
その真偽についてはわからないが、私は本当のように思っている。

重盛は清盛の後を継ぐとみなされていましたが、源平合戦の前に父清盛より早く42歳で病気で亡くなってしまった。
重盛が生きていれば源平合戦の結果も変っていたかもしれないともよくいわれているようですが、重盛の母は正室でも比較的身分が低く、清盛の継室となった時子の子が大切にされて孤立していた様でもあります。

重盛が死んだ後、継室時子の長子「宗盛」が後を継ぎますが、源氏に攻められ平家は西国に逃れる事を決めます。
目指すは九州大宰府や宇佐神宮だったようですが、重盛に仕えて来た平貞能(さだよし)は、九州の状況を見てきていたこともあり、これに反対します。
そして、皆が京を離れるとき、貞義は重盛の墓から遺骨を掘り起こし、周りの土を川に流して、遺骨と重盛の妻を連れて、関東の平氏を頼って逃げたのです。
伊勢平氏の基は関東の平氏で、その本流は当時現在のつくば市北条の多気山に居を構えていた多気大掾氏(だいじょうし)でした。

この寺に残されているのは、この多気大掾義幹(よしもと)を頼ってきて、この地に遺骨を埋め、夫人はここで尼(相応院得律禅尼)となって菩提を弔ったとされています。

ただ、貞義は重盛夫人と共に、重盛の妹も一緒に関東に逃げてきたといわれ、ここから貞義は、重盛の妹(妙雲禅尼)をつれて、関東藤原氏の宇都宮氏(宇都宮朝綱)を頼って行ったという。
宇都宮朝綱は、源氏との修復も図れる相手だったのでしょう。

現在栃木県の益子町の妙雲寺に妙雲禅尼の墓、安善寺に貞義の墓があります。

ただ、平貞義に関する話はいろいろとあり、遠く陸奥国仙台の方まで残されています。
何処までが真実か?

ただ、この茨城の小松寺は、重盛が京都で暮らしていた六波羅小松第から「小松殿」と呼ばれていたこと。
また、寺には重盛の念持仏といわれる小さな白檀の像が残されていることなどから、ある程度の信憑性も感じられます。

白檀の重盛の念持仏 : こちら (前に書いた記事参照)
毎年1月1日に開帳されています。

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寺の本堂は東日本大震災の被害があり、近年新たに立て替えられました。
枝垂桜が植えられ、春にはきれいに境内を彩ります。
正面奥に見えるのは薬師堂で白雲山

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寺の唐門。 重盛の住んでいた小松御殿の勅使門を模して、大掾義幹によって建久2年(1191年)に寄進されたという。
(現在の門は改修されたと思われる。)

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観音堂と本堂をつなぐ渡り廊下を潜って、裏山へ向かいます。

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この苔むした石段を登った山の中腹に重盛の墓がある。

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墓の処までは入れず、手前に柵があるが、正面が重盛の墓で、左に平貞能(たいら の さだよし)の墓があり、右に重盛夫人の墓がある。
周りが結構鬱蒼としていて、写真を撮ると、必ずぼけてしまう。何処かに霊気を感じさせる場所でもある。

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寺の本堂の改築前に使われていた鬼瓦が唐門横に置かれていた。
かなり大きい。


笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/11/18 12:41

壁面観世音(城里町)

 今朝書いた「ビーフライン」を旧桂村(現城里町)阿波山で国道123号線を超えて、西へ笠間方面に入ると、県道112号線のバイパス道となる。
すぐに花の寺、孔雀のいる寺としても有名な大山寺を通る。
まあここは前にも何回か紹介しているので、通過してそのまま進むと、現在のビーフラインは途中から南に直角に曲がる。

しかし、地図上はそのまま県道112号(ビーフライン)はまっすぐ西にも続いている。
この道を進むと、岩船川に突き当たり、広い道はここで終わる。

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笠間方面には左に細い道が続き、右へは牧場と壁面観世音の案内板がある。
そして岩船川を渡った所に左・観世音の矢印がある。
地名は孫根という。
ただ昔はこの観世音像があるので、観世音村とも呼ばれていたようです。

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車ではここまで入れるが、近いので、県道の突き当たり附近で停めて歩いてきたほうがよい。

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案内看板のところを、川沿いに少し進むとこの壁面観世音とこの壁の直ぐ前に堂宇が建っている。
このお堂の直ぐ裏の壁面を削りこんで、観世音像が彫りこまれている。

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この観音像も大分輪郭などが風雨でぼやけてきているが、伝えるところでは奈良の都から常陸国を通って会津へ渡った法相宗の徳一法師が彫ったものと伝えられている。

願をかけて一晩で彫ろうとしたが、まだ目を開かせる前に一番鶏が鳴いてしまい、とうとう開眼せずに未完であったといわれている。
そのため「目つぶれ観音」とも呼ばれています。
またこの地方では、鶏を飼わないなどともいわれてきました。

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大木の根元には石像が置かれていた。

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実はここにはもう10年くらい前にも訪れているが、当時はこの県道も確かにこの場所でストップしていた。
ただ、それからビーフラインなどは途中から南を通るように変更され、この道は計画変更されているようだ。
おそらくこの壁面観音像の直ぐ脇の山を削る計画だったのかもしれない。

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像の手前広場の直ぐ前まで、道路工事の土盛りが迫っている。

しかし、ここは岩場で、削るのは大変だ。しかも文化財のある像の脇を無残に削ろうとしたのか・・・・・。
今はこの工事は中断なのか? ここで取り止めになったのか?
いずれにせよこのままではどうしようもない。
中止して、景観を守るようにしてほしい。
こんな事は、日本の恥だと思う。

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ここを流れる川は「岩船川」だと思うが、岩船川は北を流れる川と二手に分かれているので、こちらを「観世音川」と呼ぶようです。

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この観音様にまつわる昔話が茨城の民話Webアーカイブにあります.⇒ こちら

今は、この像の前の川に橋が架けられ、像のすぐままで土盛りが行われた状態で止まっている。
まったく醜い姿となってしまった。

笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/21 18:23

石船神社(城里町)

 茨城県城里町の旧桂地区を少し紹介しています。
今日は、昨日書いた「壁面観世音像」の少し東側にある「石船神社」です。

ここを訪れるのは4度目くらいになるでしょう。
私も近郊の社寺周りもしていますが、ここは私の好きな神社の一つです。

なにしろ大きな岩がご神体である古社の一つで、周りの雰囲気もよいのです。

ところで、神社の名前ですが、一般には「いしふねじんじゃ」といわれています。
もちろん岩船地区にありますので「いわふねじんじゃ」といっても間違えとはいえないようです。

今回、拝殿の手前に神社の見取り図と説明の紙がおいてありましたので、今までに気がつかなかったことも見えてきたものもありました。
このパンフレットの内容に沿って紹介しましょう。

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神社の拝殿手前に置かれていた見取り図で、これは写真にとって来ましたのでここに載せておきます。
車は見取り図の下の社務所の前に置けます。

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社務所の入口横に大きな石の石標が置かれています。
石船神社の文字の上に延喜式式内社の文字も書かれています。

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社務所から右へ神社の鳥居(明神鳥居)があり、参道が続いています。
秋の紅葉時期もきれいなのですが、今回はすでに紅葉も終わってしまいました。

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パンフレットにはこの鳥居に掲げられた扁額の文字に注意書きがあります。
この「石船神社」の石の字の上に「`(テン)」が付いています。
これは何を意味するのでしょうか?
この神社には「矢の根石」という矢の跡がついたといわれている石が本殿後ろの兜石とともにご神体となっていますので、この石のことなのでしょうか?

パンフレットには、この「テンがついた石の字」は鳥居のほかに、村社々号標、神額にも使われているそうです。

さて、この鳥居をくぐって、参道は右横を岩船川が流れており、これに沿って進むと直ぐ右手に岩船石という大きな石と石の燈籠があります。

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(岩船と燈籠)

そしてこの直ぐ前の川岸に、「矢の根石」という大きな石が祀られています。

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この矢の根石にまつわるつぎのような伝承が残されています。

昔、八幡太郎義家が蝦夷征伐に行く途中でこの地を通った。
その時、この村に怪獣がいて、村人を苦しめていた。
村人達はこの怪獣退治を義家に懇願した。
そして、怪獣退治を引き受けた義家の放った矢が怪獣に中り、怪獣は滅ぼされたが、義家の放った矢はこの石に突き刺さっていた。その矢の跡が残されたという。

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(矢の根石に残されたの矢の痕)

そのまま進むと、川の向こう側に拝殿があり、その手前に石橋が架けられています。

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この石橋はアーチ型に組まれており、橋を支えているものはありません。
石の組み合わせで、上に乗っても落下しないのです。
「神橋」と名づけられていますが、中央で合わせた橋脚がない橋だと説明されていました。

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拝殿の中の奥には金属製?の鏡が置かれています。

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そして拝殿の左側の川沿いには、大きな船形の石があります。

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石船と名付けられています。
長さは6mあるそうです。

この船形の石の上のくぼみのところに溜まった水を浚って(さらって)旱魃(かんばつ)の時に雨乞い祈願をしたそうです。

さて、この神社のご神体の大きな石は、拝殿の後ろに置かれています。

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拝殿の後ろは、このように本殿があるところですが、このように兜形をした門があり、周りを板塀で覆っています。

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一番後ろに廻ってみました。
上から覗き込むように内部が見えますが、草などが生えていてよくわかりません。
私も最初に来た時は、何が祭られているのかわかりませんでした。
なにしろ、その時は枯葉などが一杯に積み上げられていたのです。

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今は、木柵のすきまからご神体の大石「兜石」の姿を一部拝顔できます。

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兜石は周囲15Mもある花崗岩でできているそうです。
これだけの大石ですので動かしてはいないようです。
元からここにあり、この石を祀ったのでしょう。

神社の創建については、不詳ではあるが、貞観元年859年以前だと資料には書かれていました。

もう一つ神社の名前は
1) 県神社庁・氏子: 石船(いしふね)
2) 通称: 石船(いわふね)
3) 延喜式、三大実録、神名帳考証: 石舩(イワフネ)
とありました。

また、小美玉市寺崎、小岩戸の石船神社 および 茨城町生井沢の石船神社、東海村亀下の磐船神社の4社にここから分霊されているそうです。
祭神は鳥石楠船命(とりのいわくすふねのみこと)です。別名は天鳥船命(あまのとりふねのみこと)です。

このため、航空関係の人の参拝も多く、過去に
・1937年に「神風号」が日英間初飛行の際に、模型奉納と祈願
・連合艦隊司令官の山本五十六が航海安全祈願
などがあったといいます。









笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/12/22 13:27
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