稲田神社(笠間市)
-常陸の出雲神話(1)-
先日テレビで松本清張の「砂の器」が放映されていた。その中に、食堂で東北弁をしゃべっているのを聞いたとの証言から、東北地方を探したが手がかりが得られず、出雲の地方で東北弁をしゃべる地域があると知り、事件解決に進む。
出雲地方と東北地方に何かかかわりがありそうなのだが、ここ常陸地方がもっともかかわりがあるように感じている。
少しずつ紐解いてみたいと思います。もちろん専門家ではないのでトンチンカンなことを書くかもしれないがご容赦願いたい。
まずは、笠間市稲田にある「稲田神社」だ。私は親鸞が稲田に草庵を構えた理由の一つにこの神社の存在が影響していたのではないかさえ感じている。
平安時代に編纂された延喜式にのっている神名帳。その中に常陸国には28座の神社が載せられている。
その中で、神社の規模を表す「大」に分類される数は7社ある。
「鹿島神宮」「大洗礒前薬師菩薩(明)神社(大洗磯前神社)」「静神社」「筑波山神社」「吉田神社」「酒烈礒前薬師菩薩神社(酒烈礒前神社)」とこの「稲田神社」だ。
他の神社は全て現在も堂々とその威風を表している神社ばかりである。
ところがこの「稲田神社」は忘れられたように稲田の地に鎮座している。

これが旧道脇に建てられている鳥居。「県社」と書かれている。
普通が「村社」「郷社」などとなっているものが多いから、県社は位が高いのだろう。

鳥居をくぐると長い静かな参道が続く。桜の時期は美しいだろう。

神社の拝殿にはこの階段を上るのだが、登り口に神社の由緒などが書かれている。


そう、ここは出雲の神話「八岐大蛇伝説」がそっくりこの地に伝わっており、その「奇稲田姫(くしいなだひめ)」だけを祀った珍しい神社なのだ。

八岐大蛇の神話は知っている方が多いと思うが、概略は
「スサノオノがある村にやってくると、年とった夫婦と一人の娘が泣いていた。わけを訪ねると、この山に住む八つの頭を持つおろち(大蛇)に毎年生贄をださないと、ひどい目に合う。
上の娘7人はすでに生贄となって、今年は末の娘(奇稲田姫)の番で、それが悲しくて泣いているという。
そこでスサノオは強い酒の樽を8個配置して、奇稲田姫を櫛に姿を変えて自分の髪に挿し、酒に酔って寝てしまった大蛇を剣で切り刻んでしまいます。
尻尾の所から出てきたのが後の「草薙の剣」で、無事大蛇を成敗して、スサノオと奇稲田姫は結婚する」
という話しです。
この八岐大蛇の住んでいた山が北方にある「八瓶山」で、8つの酒樽のうち大蛇が投げ飛ばしたとされる3つの樽を祀った神社が、笠間北方の飯田ダムに向かう途中にある「三瓶神社」です。
実際に八瓶山の麓にはこの話と同じ話が伝わっています。
この八瓶山山の麓にできた寺は笠間城で述べた、300坊といわれる僧侶がいた「徳蔵寺」です。
後に今の徳蔵(とくら)の地に後から移ったというわけです。

稲田神社の拝殿と本殿。

こちらが本殿です。
この神社は、最初に書きましたが、式内社の大社です。
水戸光圀がこの地を訪れて、その衰退ぶりをなげき、四神旗を奉納し、復興につとめたと言われています。
さすが水戸黄門様はこのような神社仏閣にも大変精通されていたようです。
この神社は女神さまということで、女性の参拝者が多いと聞きます。
また、稲田姫の父母「手名椎(てなつち)足名椎」の住居だったところが「関戸神社」であるともいわれ、
一つ一つ見て行っても面白い。
この稲田神社には実はもう一つ「稲田姫神社」と呼ばれる奥の院があるが、ここを訪れる人は少ないようだ。
先日こちらにも行ってきたので次回紹介したい。
先日テレビで松本清張の「砂の器」が放映されていた。その中に、食堂で東北弁をしゃべっているのを聞いたとの証言から、東北地方を探したが手がかりが得られず、出雲の地方で東北弁をしゃべる地域があると知り、事件解決に進む。
出雲地方と東北地方に何かかかわりがありそうなのだが、ここ常陸地方がもっともかかわりがあるように感じている。
少しずつ紐解いてみたいと思います。もちろん専門家ではないのでトンチンカンなことを書くかもしれないがご容赦願いたい。
まずは、笠間市稲田にある「稲田神社」だ。私は親鸞が稲田に草庵を構えた理由の一つにこの神社の存在が影響していたのではないかさえ感じている。
平安時代に編纂された延喜式にのっている神名帳。その中に常陸国には28座の神社が載せられている。
その中で、神社の規模を表す「大」に分類される数は7社ある。
「鹿島神宮」「大洗礒前薬師菩薩(明)神社(大洗磯前神社)」「静神社」「筑波山神社」「吉田神社」「酒烈礒前薬師菩薩神社(酒烈礒前神社)」とこの「稲田神社」だ。
他の神社は全て現在も堂々とその威風を表している神社ばかりである。
ところがこの「稲田神社」は忘れられたように稲田の地に鎮座している。

これが旧道脇に建てられている鳥居。「県社」と書かれている。
普通が「村社」「郷社」などとなっているものが多いから、県社は位が高いのだろう。

鳥居をくぐると長い静かな参道が続く。桜の時期は美しいだろう。

神社の拝殿にはこの階段を上るのだが、登り口に神社の由緒などが書かれている。


そう、ここは出雲の神話「八岐大蛇伝説」がそっくりこの地に伝わっており、その「奇稲田姫(くしいなだひめ)」だけを祀った珍しい神社なのだ。

八岐大蛇の神話は知っている方が多いと思うが、概略は
「スサノオノがある村にやってくると、年とった夫婦と一人の娘が泣いていた。わけを訪ねると、この山に住む八つの頭を持つおろち(大蛇)に毎年生贄をださないと、ひどい目に合う。
上の娘7人はすでに生贄となって、今年は末の娘(奇稲田姫)の番で、それが悲しくて泣いているという。
そこでスサノオは強い酒の樽を8個配置して、奇稲田姫を櫛に姿を変えて自分の髪に挿し、酒に酔って寝てしまった大蛇を剣で切り刻んでしまいます。
尻尾の所から出てきたのが後の「草薙の剣」で、無事大蛇を成敗して、スサノオと奇稲田姫は結婚する」
という話しです。
この八岐大蛇の住んでいた山が北方にある「八瓶山」で、8つの酒樽のうち大蛇が投げ飛ばしたとされる3つの樽を祀った神社が、笠間北方の飯田ダムに向かう途中にある「三瓶神社」です。
実際に八瓶山の麓にはこの話と同じ話が伝わっています。
この八瓶山山の麓にできた寺は笠間城で述べた、300坊といわれる僧侶がいた「徳蔵寺」です。
後に今の徳蔵(とくら)の地に後から移ったというわけです。

稲田神社の拝殿と本殿。

こちらが本殿です。
この神社は、最初に書きましたが、式内社の大社です。
水戸光圀がこの地を訪れて、その衰退ぶりをなげき、四神旗を奉納し、復興につとめたと言われています。
さすが水戸黄門様はこのような神社仏閣にも大変精通されていたようです。
この神社は女神さまということで、女性の参拝者が多いと聞きます。
また、稲田姫の父母「手名椎(てなつち)足名椎」の住居だったところが「関戸神社」であるともいわれ、
一つ一つ見て行っても面白い。
この稲田神社には実はもう一つ「稲田姫神社」と呼ばれる奥の院があるが、ここを訪れる人は少ないようだ。
先日こちらにも行ってきたので次回紹介したい。
稲田姫神社(奥の院)
-常陸の出雲神話(2)-
さて、稲田神社の奥の院と言われるところが地図には載っているので早速行ってみた。
しかし、ぐるりと稲田神社を回って裏側に車で出たが、姫神社への道がわからない。
左手の山の上にあるはずだと検討をつけて、登れる道を兎も角登って見た。

登ると何やら古い石碑とお墓がある。いわれがありそうだが、無視して進むとこのような竹林に出た。
一人で行くので男といえどもあまり気持ちは良くない。

少し登ると民家の庭先に出た。広くなっており、ここが稲田神社の奥の院らしい。
この家はこの神社を守っているのだろうか。
そして庭先から奥に神社の祠が見える。入口に書かれているのは「神宮寺」である。

そのまま進み、階段を少し登ったところに「稲田姫奥の院」と書かれた碑が建っていた。

他にも祠が2つ祀られており、特に書かれたものはなかった。

神社近くにある「太鼓石」(太古石?)であるが、由緒など良くわからない。
私は道を間違えて入ってきてしまったようで、もう少し手前からすぐにここへ入ってこれたようだ。
いずれにせよ、1200年の年月のうちに衰退したり、火災にあったりして昔の姿はわからないが、とても興味を抱かせる神社だと思う。
約1200年前に「新治郡国造(くにのみやっこ)」が派遣され、この神社を創建したと伝えられる何かがあるのだと思う。
さて、稲田神社の奥の院と言われるところが地図には載っているので早速行ってみた。
しかし、ぐるりと稲田神社を回って裏側に車で出たが、姫神社への道がわからない。
左手の山の上にあるはずだと検討をつけて、登れる道を兎も角登って見た。

登ると何やら古い石碑とお墓がある。いわれがありそうだが、無視して進むとこのような竹林に出た。
一人で行くので男といえどもあまり気持ちは良くない。

少し登ると民家の庭先に出た。広くなっており、ここが稲田神社の奥の院らしい。
この家はこの神社を守っているのだろうか。
そして庭先から奥に神社の祠が見える。入口に書かれているのは「神宮寺」である。

そのまま進み、階段を少し登ったところに「稲田姫奥の院」と書かれた碑が建っていた。

他にも祠が2つ祀られており、特に書かれたものはなかった。

神社近くにある「太鼓石」(太古石?)であるが、由緒など良くわからない。
私は道を間違えて入ってきてしまったようで、もう少し手前からすぐにここへ入ってこれたようだ。
いずれにせよ、1200年の年月のうちに衰退したり、火災にあったりして昔の姿はわからないが、とても興味を抱かせる神社だと思う。
約1200年前に「新治郡国造(くにのみやっこ)」が派遣され、この神社を創建したと伝えられる何かがあるのだと思う。
阿波山上神社(城里町)
-常陸の出雲神話(3)-
今日は城里町(旧桂村)にある「阿波山上(あわさんじょう)神社」を紹介します。
石岡からは結構遠いのですが、何度も訪れているうちに、この地に何かありそうな気がしてとても気になっていたのです。
そして、この石岡から昔の道をたどっていくと自然にこの地に行きつきます。
おもしろいものですね。
私はそれ程歴史に興味があったわけでもなく、学校の日本史はあの漢字を見ただけで覚えられないため、なんだか興味がなくなってしまっていたのです。
受験の選択もも世界史でしたし、どうして日本の歴史など好きな人がいるのだろうと不思議でした。
しかし、文字に書かれたものには多くの嘘を含んでいるし、昔の地名などの漢字はほとんど当て字だと思ったら、逆にとても興味深くなってきました。
だって、これはパズルを解いたり、推理小説などにも似ていますよ。
たった1000年か1500年くらい前のことがまるでわからないのですから・・・。
さて、今日紹介する「阿波山上神社」は茨城県に28か所ある延喜式内神社の一つです(まあ古いということは確かでしょう)。
最初はこの名前にある「阿波」という言葉に興味を持ちました。そして山の上にあるわけでもないのに「山上神社」です。どこかおかしい気がしますね。
すると、この辺りの地名が「阿波山」というではありませんか?

近くには「粟(あわ)」という地名があります。
近くを流れるのは常陸国の真中を流れる川だから「那珂川(なかがわ)」と言われている大きな川が流れています。
しかし、常陸国の真中を流れるから那珂川(中川)というのは変な話です。
常陸の国がだいたい今の形に決まる前から那珂ですし、名前がついた時にはまだ常陸国という国は存在していません。
常陸国風土記には、昔は足柄峠から東は「吾妻の国」とよばれ、「新治(にひばり)」「筑波(つくは)」「茨城(うばらき)」「那珂(なか)」「久慈(くじ)」「多珂(たか)」という6つの小国があったと書かれています。
ですから「那珂」が真中という意味ではないはずです。
では、那珂が何が語源かというと諸説ありますので、真実は?
ところで、常陸国風土記にはこの川を「粟川(あわがわ)」とも表現しています。
そして、この粟川の粟はこの那珂川沿いのこの旧桂村(現城里町)の粟地方を指していると考えられそうです。
そして、この粟の地名にとって、とても興味深いことがこの神社に残されています。

神社の場所は「桂中学校」のすぐ隣です。
入口に「親鸞聖人之旧跡」(大山草庵跡)の大きな案内板が出ています。
親鸞の稲田草庵には「稲田神社」があり、この大山草庵にはこの「阿波山上神社」があったのだと思います。
(これは私の勝手な推論です。しかし古来からの神社には親鸞も学ぶべき書物があったことも理由だったでしょう。)

神社への参道が続きます。

神社の拝殿です。神官は普段は住んではいないようです。

こちらが、拝殿後ろの本殿です。

この神社で一番の関心事はこの神木です。樹齢千年の杉がここにあったが、昭和47年の落雷で焼失したといいます。
「大宝元年(701)に境内にあったとされる神木で、この大杉に粟の穂をもった神が童子の姿で降臨し、この粟から少彦名命を祀った」
と書かれています。
一体何のことでしょう。
私も最初に読んだ時には何のことかわからなかったし、特別に、これに興味はなかったのですが、各地を追っかけて行くととても色々な関係が見えてきました。
私は「日本の神話なんてつまらないことが書いてあるな」ってずっと思ってきたのです。
しかし、いつの間にこの神話に興味を覚えるようになったのだから本当に不思議です。
特にこの少彦名(スクナヒコナ)はとても変わった神様です。これは知っておいた方が知識としても役立ちそうですよ。
あまり面白くは無いでしょうが、興味のある方だけどうぞ。
「出雲の国で国造りをしていた大国主(オオクニヌシ)(これは八岐大蛇退治をしたスサノオの子孫)が、出雲の浜で沖を眺めていると、波の間から小さな天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(ガガイモの実の舟)に乗って鵝(ひむし)(蛾)の皮を剥いだ服を着た小さな人がやってくるのを見ました。
大国主が声をかけますが、何の返事もしません。蛙に聞くと、物知りの久延毘古(クエビコ=山田の案山子(かかし))なら知っているだろうと言いました。そこでカカシを呼び出して訪ねると「それは神産巣日神の子供の少彦名神ですよ」と答えました。そこで今度は神産巣日神にそのことを尋ねると「その子は私の指の間からこぼれ落ちた子です。あなたと一緒に国造りをして下さい。」とのことでした。
そこで、大国主はこの少名彦と一緒になって国造り(葦原中国(アシハラノナカツクニ=今の日本(出雲中心))をほぼ完成させます。
ほぼ国造りが終わると、少名彦は「粟島」に行き、粟の茎によじのぼって、茎の弾力で跳ねて常世の国にいってしまいました。
さあ、この少名彦は何処から来てどこに行ったのでしょうか?
海の向こうから来たので今の韓国(新羅、高句麗、百済の三国がありました)からやってきたのでしょうか。
これはスクナヒコが小人なのに、いろいろの先人文明の知識を持っていたことでも想像できます。
では何処に行ったのでしょう。「常世の国」へ行った(または帰った)となっていますが、神話なので架空の世界と考えるかもしれないのですが、ここの阿波山上神社に舞い降りた子供はこの少彦名(スクナヒコ)ではないでしょうか。
するとやはりこの常陸の国が「常世の国」と考えられそうにも思います。
少彦名は小人で一寸法師のモデルとも言われます。薬の知識が豊富な神様で今では薬関係の神社として各地で祀られていますし、また温泉を発見した(道後温泉など)神様として各地で祀られています。
最後にいなくなった時の「粟島」は今の和歌山県の「加太神社=淡島様」だといわれています。
四国徳島は昔阿波国といいましたが、その昔は「粟国」です。和歌山の粟島(加太)は徳島側に少し突き出したような位置にあり、昔は島だったのかもしれません。
徳島の吉野川流域の地名と和歌山県、奈良県の地名は近いものがたくさんあります。
しかし、この少彦名を祀った神社はそれ程多くはありません。
それが、常陸では那珂川の入口にある2つの大社「酒列磯前神社」と「大洗磯前神社」に祀られているということです。
もう一つ興味を引くのはガガイモの実の舟で蛾の皮をはいだ服を着ていることです。
このガガイモの実を写真で見ると白い綿のようなものができています。(参考:こちら)
この写真と蛾の皮をはいだ服というのはまさに蚕を想像します。
蚕影神社に残された「金色姫伝説」を思い起こさせますね。(前に書いたブログ参照:こちら)
拙い文を最後までお読みくださってありがとうございました。
このような神社はあまりYAHOOの地図には載っていないですね。何故でしょう?
今日は城里町(旧桂村)にある「阿波山上(あわさんじょう)神社」を紹介します。
石岡からは結構遠いのですが、何度も訪れているうちに、この地に何かありそうな気がしてとても気になっていたのです。
そして、この石岡から昔の道をたどっていくと自然にこの地に行きつきます。
おもしろいものですね。
私はそれ程歴史に興味があったわけでもなく、学校の日本史はあの漢字を見ただけで覚えられないため、なんだか興味がなくなってしまっていたのです。
受験の選択もも世界史でしたし、どうして日本の歴史など好きな人がいるのだろうと不思議でした。
しかし、文字に書かれたものには多くの嘘を含んでいるし、昔の地名などの漢字はほとんど当て字だと思ったら、逆にとても興味深くなってきました。
だって、これはパズルを解いたり、推理小説などにも似ていますよ。
たった1000年か1500年くらい前のことがまるでわからないのですから・・・。
さて、今日紹介する「阿波山上神社」は茨城県に28か所ある延喜式内神社の一つです(まあ古いということは確かでしょう)。
最初はこの名前にある「阿波」という言葉に興味を持ちました。そして山の上にあるわけでもないのに「山上神社」です。どこかおかしい気がしますね。
すると、この辺りの地名が「阿波山」というではありませんか?

近くには「粟(あわ)」という地名があります。
近くを流れるのは常陸国の真中を流れる川だから「那珂川(なかがわ)」と言われている大きな川が流れています。
しかし、常陸国の真中を流れるから那珂川(中川)というのは変な話です。
常陸の国がだいたい今の形に決まる前から那珂ですし、名前がついた時にはまだ常陸国という国は存在していません。
常陸国風土記には、昔は足柄峠から東は「吾妻の国」とよばれ、「新治(にひばり)」「筑波(つくは)」「茨城(うばらき)」「那珂(なか)」「久慈(くじ)」「多珂(たか)」という6つの小国があったと書かれています。
ですから「那珂」が真中という意味ではないはずです。
では、那珂が何が語源かというと諸説ありますので、真実は?
ところで、常陸国風土記にはこの川を「粟川(あわがわ)」とも表現しています。
そして、この粟川の粟はこの那珂川沿いのこの旧桂村(現城里町)の粟地方を指していると考えられそうです。
そして、この粟の地名にとって、とても興味深いことがこの神社に残されています。

神社の場所は「桂中学校」のすぐ隣です。
入口に「親鸞聖人之旧跡」(大山草庵跡)の大きな案内板が出ています。
親鸞の稲田草庵には「稲田神社」があり、この大山草庵にはこの「阿波山上神社」があったのだと思います。
(これは私の勝手な推論です。しかし古来からの神社には親鸞も学ぶべき書物があったことも理由だったでしょう。)

神社への参道が続きます。

神社の拝殿です。神官は普段は住んではいないようです。

こちらが、拝殿後ろの本殿です。

この神社で一番の関心事はこの神木です。樹齢千年の杉がここにあったが、昭和47年の落雷で焼失したといいます。
「大宝元年(701)に境内にあったとされる神木で、この大杉に粟の穂をもった神が童子の姿で降臨し、この粟から少彦名命を祀った」
と書かれています。
一体何のことでしょう。
私も最初に読んだ時には何のことかわからなかったし、特別に、これに興味はなかったのですが、各地を追っかけて行くととても色々な関係が見えてきました。
私は「日本の神話なんてつまらないことが書いてあるな」ってずっと思ってきたのです。
しかし、いつの間にこの神話に興味を覚えるようになったのだから本当に不思議です。
特にこの少彦名(スクナヒコナ)はとても変わった神様です。これは知っておいた方が知識としても役立ちそうですよ。
あまり面白くは無いでしょうが、興味のある方だけどうぞ。
「出雲の国で国造りをしていた大国主(オオクニヌシ)(これは八岐大蛇退治をしたスサノオの子孫)が、出雲の浜で沖を眺めていると、波の間から小さな天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(ガガイモの実の舟)に乗って鵝(ひむし)(蛾)の皮を剥いだ服を着た小さな人がやってくるのを見ました。
大国主が声をかけますが、何の返事もしません。蛙に聞くと、物知りの久延毘古(クエビコ=山田の案山子(かかし))なら知っているだろうと言いました。そこでカカシを呼び出して訪ねると「それは神産巣日神の子供の少彦名神ですよ」と答えました。そこで今度は神産巣日神にそのことを尋ねると「その子は私の指の間からこぼれ落ちた子です。あなたと一緒に国造りをして下さい。」とのことでした。
そこで、大国主はこの少名彦と一緒になって国造り(葦原中国(アシハラノナカツクニ=今の日本(出雲中心))をほぼ完成させます。
ほぼ国造りが終わると、少名彦は「粟島」に行き、粟の茎によじのぼって、茎の弾力で跳ねて常世の国にいってしまいました。
さあ、この少名彦は何処から来てどこに行ったのでしょうか?
海の向こうから来たので今の韓国(新羅、高句麗、百済の三国がありました)からやってきたのでしょうか。
これはスクナヒコが小人なのに、いろいろの先人文明の知識を持っていたことでも想像できます。
では何処に行ったのでしょう。「常世の国」へ行った(または帰った)となっていますが、神話なので架空の世界と考えるかもしれないのですが、ここの阿波山上神社に舞い降りた子供はこの少彦名(スクナヒコ)ではないでしょうか。
するとやはりこの常陸の国が「常世の国」と考えられそうにも思います。
少彦名は小人で一寸法師のモデルとも言われます。薬の知識が豊富な神様で今では薬関係の神社として各地で祀られていますし、また温泉を発見した(道後温泉など)神様として各地で祀られています。
最後にいなくなった時の「粟島」は今の和歌山県の「加太神社=淡島様」だといわれています。
四国徳島は昔阿波国といいましたが、その昔は「粟国」です。和歌山の粟島(加太)は徳島側に少し突き出したような位置にあり、昔は島だったのかもしれません。
徳島の吉野川流域の地名と和歌山県、奈良県の地名は近いものがたくさんあります。
しかし、この少彦名を祀った神社はそれ程多くはありません。
それが、常陸では那珂川の入口にある2つの大社「酒列磯前神社」と「大洗磯前神社」に祀られているということです。
もう一つ興味を引くのはガガイモの実の舟で蛾の皮をはいだ服を着ていることです。
このガガイモの実を写真で見ると白い綿のようなものができています。(参考:こちら)
この写真と蛾の皮をはいだ服というのはまさに蚕を想像します。
蚕影神社に残された「金色姫伝説」を思い起こさせますね。(前に書いたブログ参照:こちら)
拙い文を最後までお読みくださってありがとうございました。
このような神社はあまりYAHOOの地図には載っていないですね。何故でしょう?
石船神社(城里町)
-常陸の出雲神話(4)-
城里町の阿波山上神社を見た後、近くの同じ式内社である「石船神社(いしふねじんじゃ)」に行ったのでここも紹介します。
とても不思議な神社です。
祭神は「鳥石楠船命(とりのいわくすふねのみこと)」又の名を「天鳥船命」(あめのとりふねのみこと)です。
しかし、この鳥石楠船命を祀る神社は少なく、出雲の国譲りで神様が乗った船のことだそうです。
船が石のように堅固ということで、この神社は大石(特に船の形をした)を祭る神社のようです。

神社の前にはきれいな川(那珂川の支流で岩船川)が流れている。この石橋を渡って神社の拝殿に行き、裏にまわて見ると、本来あるはずの本殿がありません。
あるのは杉の木や葉がたくさん積まれています。
最初は「こんなところに木々を捨ててはダメだよ」といいたかったのですが、調べたらこの木々で覆われた下に大石(兜石)があり、この石がこの神社の祭神なのだそうです。

こちらは別な時に行った紅葉の時の入口の鳥居である。
ここから川沿いに参道を進みます。とてもきれいなところです。

ここが拝殿正面。 秋の紅葉が映えてきれいである。

最初行った時は気がつかなかったが、参道の途中の川のわきの石にしめ縄がかかっていました。
これは八幡太郎義家が怪物退治の時に放った矢がささったという「矢の根石」というらしい。
こんなところにも八幡太郎の伝説があるということは、昔の蝦夷の逃げていった道に近いのかもしれません。
その他に神社の左側にも舟形をした石にしめ縄で囲まれていました。
この石のへこんだ部分には水がたまっていて、昔雨乞いに使われたととも言われているようです。

神社の裏側は古木が茂って古さを物語っているようです。
さて、この神社の祭神である鳥石楠船命を祀る神社は少なく、他には千葉県の神崎神社、東京の隅田川神社(もと浮島宮)などといわれますが、この隅田川神社は常陸国信太郡の浮島(現稲敷市桜川)にあったものが移されたものではないかといわれています。
また、以前紹介したアンバ様こと「大杉神社」などとのかかわりも調べれば何か出てきそうである。
みな阿波(=安房)忌部氏が進出してきた証拠ではないかと思うが、さてこれ以上は私の知識では太刀打ちできそうにないのでまた後で考えることにしよう。
城里町の阿波山上神社を見た後、近くの同じ式内社である「石船神社(いしふねじんじゃ)」に行ったのでここも紹介します。
とても不思議な神社です。
祭神は「鳥石楠船命(とりのいわくすふねのみこと)」又の名を「天鳥船命」(あめのとりふねのみこと)です。
しかし、この鳥石楠船命を祀る神社は少なく、出雲の国譲りで神様が乗った船のことだそうです。
船が石のように堅固ということで、この神社は大石(特に船の形をした)を祭る神社のようです。

神社の前にはきれいな川(那珂川の支流で岩船川)が流れている。この石橋を渡って神社の拝殿に行き、裏にまわて見ると、本来あるはずの本殿がありません。
あるのは杉の木や葉がたくさん積まれています。
最初は「こんなところに木々を捨ててはダメだよ」といいたかったのですが、調べたらこの木々で覆われた下に大石(兜石)があり、この石がこの神社の祭神なのだそうです。

こちらは別な時に行った紅葉の時の入口の鳥居である。
ここから川沿いに参道を進みます。とてもきれいなところです。

ここが拝殿正面。 秋の紅葉が映えてきれいである。

最初行った時は気がつかなかったが、参道の途中の川のわきの石にしめ縄がかかっていました。
これは八幡太郎義家が怪物退治の時に放った矢がささったという「矢の根石」というらしい。
こんなところにも八幡太郎の伝説があるということは、昔の蝦夷の逃げていった道に近いのかもしれません。
その他に神社の左側にも舟形をした石にしめ縄で囲まれていました。
この石のへこんだ部分には水がたまっていて、昔雨乞いに使われたととも言われているようです。

神社の裏側は古木が茂って古さを物語っているようです。
さて、この神社の祭神である鳥石楠船命を祀る神社は少なく、他には千葉県の神崎神社、東京の隅田川神社(もと浮島宮)などといわれますが、この隅田川神社は常陸国信太郡の浮島(現稲敷市桜川)にあったものが移されたものではないかといわれています。
また、以前紹介したアンバ様こと「大杉神社」などとのかかわりも調べれば何か出てきそうである。
みな阿波(=安房)忌部氏が進出してきた証拠ではないかと思うが、さてこれ以上は私の知識では太刀打ちできそうにないのでまた後で考えることにしよう。
出雲大社常陸分社
-常陸の出雲神話(5)-
笠間市の国道50号線を走っていると「出雲大社」の大きな看板が目を引きます。
さて、何故ここに出雲大社があるのか? 不思議ですね。
百聞は一見にしかずと言うからには一度見ないことには何も言えないと思い、立ち寄りました。
昔は無かったと思ったので、調べたら・・・
「平成4年(1992)に出雲大社の分霊(大国主大神)を鎮座したのが創祀という。
当社は島根・出雲大社と長野・諏訪神社を結んだ直線上に位置するが、出雲大社のある出雲国(島根)は、古来、日が沈み休まる国「日隅宮」と称され、信濃国(長野)・諏訪大社の祭神は、大国主大神の第2子・建御名方大神であり、常陸国(茨城)は古来、日の生まれる国と呼ばれていた。」
とある。
これは昔私がHPに載せたレイラインの考え方と同じだ。(こちら)


それにしてもこの拝殿に懸けられたしめ縄は立派だ。
出雲大社にも確かあったと思うが、このしめ縄は全長16mで重さは4トンあるという。

真下に行くと大きさが良くわかる。圧倒される大きさだ。

この拝殿の中の左隅に「大国主命=大黒様」の大きな像が置かれている。
通常は神社にはこのような像が置かれているのを見たことは無いが・・・。
さて、笠間市は昨年「恋人の聖地」に選ばれており、この神社の拝殿の写真も使われていた。
町の発展にもなるのでこれもありなのだと思うが、この地の出雲神話との関係がいまいちよくわからない。
笠間市の国道50号線を走っていると「出雲大社」の大きな看板が目を引きます。
さて、何故ここに出雲大社があるのか? 不思議ですね。
百聞は一見にしかずと言うからには一度見ないことには何も言えないと思い、立ち寄りました。
昔は無かったと思ったので、調べたら・・・
「平成4年(1992)に出雲大社の分霊(大国主大神)を鎮座したのが創祀という。
当社は島根・出雲大社と長野・諏訪神社を結んだ直線上に位置するが、出雲大社のある出雲国(島根)は、古来、日が沈み休まる国「日隅宮」と称され、信濃国(長野)・諏訪大社の祭神は、大国主大神の第2子・建御名方大神であり、常陸国(茨城)は古来、日の生まれる国と呼ばれていた。」
とある。
これは昔私がHPに載せたレイラインの考え方と同じだ。(こちら)


それにしてもこの拝殿に懸けられたしめ縄は立派だ。
出雲大社にも確かあったと思うが、このしめ縄は全長16mで重さは4トンあるという。

真下に行くと大きさが良くわかる。圧倒される大きさだ。

この拝殿の中の左隅に「大国主命=大黒様」の大きな像が置かれている。
通常は神社にはこのような像が置かれているのを見たことは無いが・・・。
さて、笠間市は昨年「恋人の聖地」に選ばれており、この神社の拝殿の写真も使われていた。
町の発展にもなるのでこれもありなのだと思うが、この地の出雲神話との関係がいまいちよくわからない。
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