茨城の県名(1)-茨城県の誕生
この茨城の名前の由来をテーマにブログでも書いてみようと思い始めてからもう3カ月も経ってしまいました。
いつも記事が長くなる場合は1日で書けないので、下書きの記事を書きながら途中で追加したり訂正したりしているのですが、今回の記事は少しも書き進めることができませんでした。
記事を書き始めたのは7月中旬でしょうか。
少しずつ書いてきたのですが、どうもまとまらないのでボツにしようかと思ったのですが、もったいないので、中途半端だけれどUPする事にしました。
この茨城県という県名ですが、中央政権的な発想で決められたようで、私はあまり好きなネーミングではありません。
茨城県の不人気の一因にもなっているように思っています。
「茨(いば)」というとトゲがあって痛いし、眠り姫が100年間眠っていたら、野原は「茨」だらけになって、そこを王子様が切り開いて進むというイメージ(未開の土地)が働きます。
しかし、歴史的にみれば明治政府に水戸藩の人間がほとんど入れなかった(というよりも幕末の騒乱で多くの人物が殺された)ために、やむを得なかったでしょう。
県の名前のいきさつを調べてみました。
明治2年6月の版籍奉還の時には茨城県域は14藩(水戸・土浦・笠間・古河・松岡・石岡・下館・結城・谷田部・志筑・牛久・宍戸・下妻・麻生)があり、藩主がそれぞれ藩知事に任命されました。
その後出入り(谷田部が消え松川・龍崎の2藩が加わった)はあったが、廃藩置県では藩が県(天領を除き15県)となります。こんなにたくさん県ができたのですね。
その後、明治4年11月13日にこれらは、茨城県(県北・県央)、新治県(県南・鹿行)、印旛県(県西)の3県に統合されました。そして県庁もそれぞれ水戸・土浦・千葉県印旛郡に置かれました。
この時に「茨城県」という名をもつ県が誕生し、茨城県の県民の日は11月13日となったのです。
そして、明治8年5月7日に新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割編入が行なわれ、水戸が中心でしたので「茨城県」が残って現在の姿になります。
では、私のいる石岡市はどのように名前が変わっていったのかを見ると
明治2年6月17日:常陸府中藩(常府)から石岡藩へ名称変更(版籍奉還)
明治4年7月14日:石岡藩は石岡県へ名称変更(廃藩置県)
明治4年11月13日:石岡県は他の県と合わせて新治県に統合(茨城県、新治県、印旛県ができた)
従って、石岡は茨城県という県名ができた時には、新治(ニイハリ)県に属していたのです。
意外にこの辺りのいきさつを書いたものが少ないですね。
あまり興味もないかもしれませんが少し詳しく書かせていただきました。
ここで疑問に思うことは、水戸を含む県央・県北地域が何故「茨城県」となったのでしょうか。
このいきさつが良くわからないのです。
もちろん「常陸府中」が「石岡」にかわったのも真相は不明です。
(少し、注釈を付けないとあちこちからクレームがきそうですので、この石岡の名前については色々な解釈や本もでています。市でも「石岡の地名」という本を作っています。ほかにもたくさん説明はあります。
ですので、ここであまり論じるつもりもありません。
これらの資料によれば、ある程度いきさつはわかるのですが、しかし、何故「石岡」などという名前を探して藩の名前にせずに、「常府」などの名前をつけようとしなかったのかが不明なのです。
これは廃藩置県の時ではなく、その前の版籍奉還で「石岡藩」になった時のことです。
このいきさつは駿河府中(駿府)が「静岡県」になったのと、とても良く似ているように思います。)
水戸は水戸学の中心であり、大きな思想的影響力があったが、天狗党はじめ多大な犠牲者を出し、明治政府には要人を入れることができなかったのです。
むしろ、その影響力を弱めようとする力が新政府に働いたのだと思います。
このため、水戸を含む地域が「茨城県」という大昔の名前を持ってきたのでしょう。
「新治」についてもヤマトタケルの頃からある名前ですので、大昔からの名前ですね。
現代風な見方をすれば、全て「野暮ったい名前」になっていますね。
これが、「水戸っぽ気質」などと言われる県民性もあり、都会では人気のない県としてトップに名前があげられる一因となっているように感じています。
明治に鉄道ができるのも比較的遅かったと思います。
明治18年に東北本線が大宮-宇都宮間に開業し、明治20年に水戸-小山間に水戸鉄道が開通しました。
友部-土浦間の土浦線開通が明治28年で、この時に石岡駅が開設されています。
その後東京田端-土浦間の鉄道開通は明治29年12月です。
これにより現在の常磐線の上野-水戸間がほぼ開通しています。
しかし、目的は常磐炭鉱の石炭の輸送が最大の目的でした。
しかし皮肉なことに、この鉄道が開通したために霞ケ浦の船運は急速に衰退し、石岡の港である「高浜」も町としても衰退してしまったのです。
このことは、今では逆に、都会の便利さとは全く違う風情を多く残す結果になっているのですから、石岡や茨城県はもっと都会などとは違った魅力をアピールしていくべきだと思っています。
さて、次回は石岡が「茨城県名の発祥地」ということのお話です。
最後までお読みいただきありがとうございます。
よろしければ次回(明日)もお付き合いください。
・・・・以下は記事とは関係のない余録です・・・・・
昨夜、久しぶりに6号国道沿いの「キッチンさくら」にハンバーグを食べに行ってきました。
相変わらず美味しかったですが、前行った時より気になっていた点が改善されていました。
一つはライスセット(320円)にライスとスープと今までは和食の漬物などが決まってついていたのですが、別にサラダなども好みで選択できるようになっていました。
また、このセットにはドリンク(コヒー、紅茶など数種)を好きなものが選べます。
また、たのまれたメニューもちゃんと復唱していました。良くなっていました。頑張れ~。
店内にあるジャズ人形も時間になると音楽と一緒に動きます。人形1体ごとにスピーカがついていて、楽器に合わせた音が出てきます。これっていいですね。
今月末のハロインのカボチャの飾り物もありましたよ。
← よろしければクリックお願いします。
いつも記事が長くなる場合は1日で書けないので、下書きの記事を書きながら途中で追加したり訂正したりしているのですが、今回の記事は少しも書き進めることができませんでした。
記事を書き始めたのは7月中旬でしょうか。
少しずつ書いてきたのですが、どうもまとまらないのでボツにしようかと思ったのですが、もったいないので、中途半端だけれどUPする事にしました。
この茨城県という県名ですが、中央政権的な発想で決められたようで、私はあまり好きなネーミングではありません。
茨城県の不人気の一因にもなっているように思っています。
「茨(いば)」というとトゲがあって痛いし、眠り姫が100年間眠っていたら、野原は「茨」だらけになって、そこを王子様が切り開いて進むというイメージ(未開の土地)が働きます。
しかし、歴史的にみれば明治政府に水戸藩の人間がほとんど入れなかった(というよりも幕末の騒乱で多くの人物が殺された)ために、やむを得なかったでしょう。
県の名前のいきさつを調べてみました。
明治2年6月の版籍奉還の時には茨城県域は14藩(水戸・土浦・笠間・古河・松岡・石岡・下館・結城・谷田部・志筑・牛久・宍戸・下妻・麻生)があり、藩主がそれぞれ藩知事に任命されました。
その後出入り(谷田部が消え松川・龍崎の2藩が加わった)はあったが、廃藩置県では藩が県(天領を除き15県)となります。こんなにたくさん県ができたのですね。
その後、明治4年11月13日にこれらは、茨城県(県北・県央)、新治県(県南・鹿行)、印旛県(県西)の3県に統合されました。そして県庁もそれぞれ水戸・土浦・千葉県印旛郡に置かれました。
この時に「茨城県」という名をもつ県が誕生し、茨城県の県民の日は11月13日となったのです。
そして、明治8年5月7日に新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割編入が行なわれ、水戸が中心でしたので「茨城県」が残って現在の姿になります。
では、私のいる石岡市はどのように名前が変わっていったのかを見ると
明治2年6月17日:常陸府中藩(常府)から石岡藩へ名称変更(版籍奉還)
明治4年7月14日:石岡藩は石岡県へ名称変更(廃藩置県)
明治4年11月13日:石岡県は他の県と合わせて新治県に統合(茨城県、新治県、印旛県ができた)
従って、石岡は茨城県という県名ができた時には、新治(ニイハリ)県に属していたのです。
意外にこの辺りのいきさつを書いたものが少ないですね。
あまり興味もないかもしれませんが少し詳しく書かせていただきました。
ここで疑問に思うことは、水戸を含む県央・県北地域が何故「茨城県」となったのでしょうか。
このいきさつが良くわからないのです。
もちろん「常陸府中」が「石岡」にかわったのも真相は不明です。
(少し、注釈を付けないとあちこちからクレームがきそうですので、この石岡の名前については色々な解釈や本もでています。市でも「石岡の地名」という本を作っています。ほかにもたくさん説明はあります。
ですので、ここであまり論じるつもりもありません。
これらの資料によれば、ある程度いきさつはわかるのですが、しかし、何故「石岡」などという名前を探して藩の名前にせずに、「常府」などの名前をつけようとしなかったのかが不明なのです。
これは廃藩置県の時ではなく、その前の版籍奉還で「石岡藩」になった時のことです。
このいきさつは駿河府中(駿府)が「静岡県」になったのと、とても良く似ているように思います。)
水戸は水戸学の中心であり、大きな思想的影響力があったが、天狗党はじめ多大な犠牲者を出し、明治政府には要人を入れることができなかったのです。
むしろ、その影響力を弱めようとする力が新政府に働いたのだと思います。
このため、水戸を含む地域が「茨城県」という大昔の名前を持ってきたのでしょう。
「新治」についてもヤマトタケルの頃からある名前ですので、大昔からの名前ですね。
現代風な見方をすれば、全て「野暮ったい名前」になっていますね。
これが、「水戸っぽ気質」などと言われる県民性もあり、都会では人気のない県としてトップに名前があげられる一因となっているように感じています。
明治に鉄道ができるのも比較的遅かったと思います。
明治18年に東北本線が大宮-宇都宮間に開業し、明治20年に水戸-小山間に水戸鉄道が開通しました。
友部-土浦間の土浦線開通が明治28年で、この時に石岡駅が開設されています。
その後東京田端-土浦間の鉄道開通は明治29年12月です。
これにより現在の常磐線の上野-水戸間がほぼ開通しています。
しかし、目的は常磐炭鉱の石炭の輸送が最大の目的でした。
しかし皮肉なことに、この鉄道が開通したために霞ケ浦の船運は急速に衰退し、石岡の港である「高浜」も町としても衰退してしまったのです。
このことは、今では逆に、都会の便利さとは全く違う風情を多く残す結果になっているのですから、石岡や茨城県はもっと都会などとは違った魅力をアピールしていくべきだと思っています。
さて、次回は石岡が「茨城県名の発祥地」ということのお話です。
最後までお読みいただきありがとうございます。
よろしければ次回(明日)もお付き合いください。
・・・・以下は記事とは関係のない余録です・・・・・
昨夜、久しぶりに6号国道沿いの「キッチンさくら」にハンバーグを食べに行ってきました。
相変わらず美味しかったですが、前行った時より気になっていた点が改善されていました。
一つはライスセット(320円)にライスとスープと今までは和食の漬物などが決まってついていたのですが、別にサラダなども好みで選択できるようになっていました。
また、このセットにはドリンク(コヒー、紅茶など数種)を好きなものが選べます。
また、たのまれたメニューもちゃんと復唱していました。良くなっていました。頑張れ~。
店内にあるジャズ人形も時間になると音楽と一緒に動きます。人形1体ごとにスピーカがついていて、楽器に合わせた音が出てきます。これっていいですね。
今月末のハロインのカボチャの飾り物もありましたよ。


茨城の県名(2)-石岡は県名発祥の地?
茨城県の県名を書いてきましたが、今日は(その2)です。
今日は、ここ石岡市が茨城県名の発祥の地と言われていることについて少し書きたいと思います。
最初にお断りしておきますが、私はこの解釈は正確には正しくないと思っています。
しかし、あまり声を荒げて反対を叫ぶつもりもありません。
なぜなら、全く間違っているというわけではないからです。
しかし、石岡では反対を唱えることは多分タブーなのでしょう。
県の名前がこの場所から興ったというと格好がいいのかな?
石岡市史や石岡の歴史などでは、反対の意見はあまり紹介されていません。
ここで違うと書いても、まあこんなブログに文句をつける人もあまりいないでしょうから好きに書かせてもらっても良いでしょう。

JR石岡駅の改札を出たところに「ようこそ歴史の里 石岡へ」という看板が出ています。

その看板の裏側には「茨城県名発祥の地」と書かれており、駅を正面に見ると目だつようになっています。
私が石岡にきて間もない頃、もう数年前ですが、石岡市の駅の隣りの観光案内所を訪ねて、
「石岡の駅前には「茨城の県名発祥の地」と大きな看板がでていますが、発祥の地の説明板があると聞いてバラキ(茨城)台団地の近くを探したけれどわからなかったのですが、何処かおわかりになりますか?」
と訪ねたことがありました。
すると、案内所の方が嬉しそうに出てきて説明してくれました。
「貝地のスーパの前あたりに、たしか説明看板があったと思います」と教えていただきました。
そして、こちらはそれ以上の説明を頼んだわけではないのだが、知っていることをしゃべらずにはいられないというように、
「むかし、このあたりには山の佐伯、野の佐伯という凶暴な土ぐもが、穴を掘ってすんでおり、里人を困らせていたのです。
そこへ、黒坂命(くろさかのみこと)がやってきて、茨(いばら)で穴の入口をふさいでしまったので、土ぐもたちは、穴にはいることができずに、茨に傷ついて退治されてしまいました。
また、茨(いばら)で城をきずいたともいわれ、茨城の名前になったのです。」
と得意そうに説明をされるました。
私としてはそのことは聞いてもいないし、ただ「そうですか」と聞いていました。
この説明を聞くのは、実はいやな気持になるのです。
お話していただいた方には大変申し訳ないのですが、得意になって話す内容ではないと思っています。
確かに、常陸風土記の茨城郡の所には古老の話として、今説明された内容が書かれています。
しかし、あくまでも古老の話としてあり、大和朝廷の意向に合うように書かれたものに違いありません。
ここに何千年、何万年も前から住んでいた現住民族を土蜘蛛なんて表現するのは間違っていますよ!!
石岡にくると急にこの「黒坂命(ころさかのみこと)」の名前が出てきます。
ヤマトタケルの名前ではありません。ではこの黒坂命とはどんな人物だったのでしょうか?
石岡の歴史関係の書物にはほとんど説明がないようです。
そのため、石岡の人もわからずに覚えた「黒坂命」の名前を無意識に使うのだと思います。
石岡では茨城県の地名の発祥の説明に引用されている常陸風土記に登場する「黒坂命(くろさかのみこと)」について、あまり説明されてきていないようです。何故なのでしょうか?
常陸風土記では「岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。」
となっているのですが、佐伯(さえき)とは砂鉄を掘る人などをいったのではないかという考えもあるようです。
そして、敗戦で捕虜になった佐伯の人々は西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられたということも出てくるようです。
そして、この黒坂命は神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を祖とする多臣(おおとみ)系と思われています。
これは中臣(なかとみ)氏と同じです。中臣鎌足(藤原鎌足)が鹿島出身であるとの説がかなり強いということも頷けます。
ではこの場所はどこを指しているのでしょうか?
香島郡(かしまのこおり)と出てくるところもありますので、香島郡とはどのあたりでしょうか?
香島(かしま)は現在の鹿島神社の鹿島の昔の呼び名ですが、香島郡については常陸風土記に那賀と香島との境は、阿多可奈湖(あたかなのみなと)と書かれており、この阿多可奈湖の位置を涸沼にあてる説(新編常陸国誌など)と那珂湊の古名とする説(日本地名辞典など)があるとされていて、香島は涸沼または那珂湊よりも南側と解釈できます。
しかし、現在の地形で考えると理解がし難いようです。
霞ケ浦が湖ではなく、大きな流海と呼ばれたように、この那珂川と涸沼などの一帯ももっと大きな海(湖と海の中間)であったと思われます。
さて、少し別な方面から見てみましょう。
この黒坂命は都(大和)から、霞ケ浦の対岸の美浦村(信太郡)にやってきたようです。
時代は第10代崇神天皇の時代。紀元前97年~紀元前29年と古事記などでは紹介されている時代なのですが、日本の天皇はこの頃サバを読むのが得意で、色々解釈が分かれるようですが、実際は3世紀後半から4世紀初めころではないかと思われます(あまり詳しくはわかりません)。
そして、この土地(美浦村)にいくつかの話が伝わっています。
そして、そこから蝦夷を追いたてながら北の方に攻め入り、日立市十王町の北部の「堅破山(たつわれさん)」で病死したと伝えられています。
そして、堅破山の上に「黒前(くろさき)神社」が建てられ、黒坂命の亡骸はかねてからの本人の希望の通り霞ケ浦がみえる美浦村にいってそこに葬られた(古墳(大塚古墳か?))と言われているのです。
この葬送の様子が、赤や青など五彩の旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見えたので、「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後に「信太(垂・しで)の国」(今の霞ケ浦の南岸地域)というようになったと言われています。
ということは黒坂命が退治したのは土蜘蛛などではなく、蝦夷と呼ばれる現住民族だったのはたしかなのです。
何故美浦村なのかと言うと、この地が豊かであったのと同時に、昔は北へ向かう道がこの近くの牛込あたりから霞ケ浦(昔は流海とか香取海などと呼ばれていた内海)を舟で渡って対岸の現在のかすみがうら市の牛渡付近に渡っていたからです。
すなわち北への玄関口だったのでしょう。
牛込・牛渡(うしわた)の地名はここを牛が渡ったことに由来しているようです。
土浦の方はまだ沼地で現在の6号国道の方は通れなかったのでしょう。
黒坂命は、その当時大和朝廷の力が及んで安心していられた場所に葬られたのだと思います。
実際に美浦村で古墳が発見され、一時騒然としたのですが、まだ実態は不明です。
これとは別に、石岡の東(霞ケ浦の北岸)である行方(なめがた)地方には「ヤマトタケル」の伝説がたくさん残っています。
これは前にもこのブログで紹介しました。
行方には、黒坂命の時代にはまだまだ反対の勢力がたくさんいたのでしょう。
こちらを制圧したのはそれより数十年後の時代(第12代景行天皇の時代)で、ヤマトタケルの時代なのでしょう。
そうすればほとんどつじつまが合ってきます。
さて、話は戻って、私は茨城の名前の由来の説明に出てくる「野の佐伯などの土蜘蛛など」という表現は好きではありません。
もし、観光案内所の方がこの事実を御存じだったら、説明も自ずから変わってくるはずなのです。
案内書などで、歴史の説明をしていただけることはありがたいのですが、もう少し実情を理解して表現に注意していただたら、もっとすばらしくなるのにと思わないわけにはいかなかったのです。
ましてや、そこにきれいな野バラが咲いていたから「茨城」の名前がついたなどという表現は正直「嫌い」です。
美化された言葉で、真実が見えなくなってしまいます。(しかし、この説もないわけではありませんが)
(その3へ続く)
← よろしければクリックお願いします。
今日は、ここ石岡市が茨城県名の発祥の地と言われていることについて少し書きたいと思います。
最初にお断りしておきますが、私はこの解釈は正確には正しくないと思っています。
しかし、あまり声を荒げて反対を叫ぶつもりもありません。
なぜなら、全く間違っているというわけではないからです。
しかし、石岡では反対を唱えることは多分タブーなのでしょう。
県の名前がこの場所から興ったというと格好がいいのかな?
石岡市史や石岡の歴史などでは、反対の意見はあまり紹介されていません。
ここで違うと書いても、まあこんなブログに文句をつける人もあまりいないでしょうから好きに書かせてもらっても良いでしょう。

JR石岡駅の改札を出たところに「ようこそ歴史の里 石岡へ」という看板が出ています。

その看板の裏側には「茨城県名発祥の地」と書かれており、駅を正面に見ると目だつようになっています。
私が石岡にきて間もない頃、もう数年前ですが、石岡市の駅の隣りの観光案内所を訪ねて、
「石岡の駅前には「茨城の県名発祥の地」と大きな看板がでていますが、発祥の地の説明板があると聞いてバラキ(茨城)台団地の近くを探したけれどわからなかったのですが、何処かおわかりになりますか?」
と訪ねたことがありました。
すると、案内所の方が嬉しそうに出てきて説明してくれました。
「貝地のスーパの前あたりに、たしか説明看板があったと思います」と教えていただきました。
そして、こちらはそれ以上の説明を頼んだわけではないのだが、知っていることをしゃべらずにはいられないというように、
「むかし、このあたりには山の佐伯、野の佐伯という凶暴な土ぐもが、穴を掘ってすんでおり、里人を困らせていたのです。
そこへ、黒坂命(くろさかのみこと)がやってきて、茨(いばら)で穴の入口をふさいでしまったので、土ぐもたちは、穴にはいることができずに、茨に傷ついて退治されてしまいました。
また、茨(いばら)で城をきずいたともいわれ、茨城の名前になったのです。」
と得意そうに説明をされるました。
私としてはそのことは聞いてもいないし、ただ「そうですか」と聞いていました。
この説明を聞くのは、実はいやな気持になるのです。
お話していただいた方には大変申し訳ないのですが、得意になって話す内容ではないと思っています。
確かに、常陸風土記の茨城郡の所には古老の話として、今説明された内容が書かれています。
しかし、あくまでも古老の話としてあり、大和朝廷の意向に合うように書かれたものに違いありません。
ここに何千年、何万年も前から住んでいた現住民族を土蜘蛛なんて表現するのは間違っていますよ!!
石岡にくると急にこの「黒坂命(ころさかのみこと)」の名前が出てきます。
ヤマトタケルの名前ではありません。ではこの黒坂命とはどんな人物だったのでしょうか?
石岡の歴史関係の書物にはほとんど説明がないようです。
そのため、石岡の人もわからずに覚えた「黒坂命」の名前を無意識に使うのだと思います。
石岡では茨城県の地名の発祥の説明に引用されている常陸風土記に登場する「黒坂命(くろさかのみこと)」について、あまり説明されてきていないようです。何故なのでしょうか?
常陸風土記では「岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。」
となっているのですが、佐伯(さえき)とは砂鉄を掘る人などをいったのではないかという考えもあるようです。
そして、敗戦で捕虜になった佐伯の人々は西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられたということも出てくるようです。
そして、この黒坂命は神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を祖とする多臣(おおとみ)系と思われています。
これは中臣(なかとみ)氏と同じです。中臣鎌足(藤原鎌足)が鹿島出身であるとの説がかなり強いということも頷けます。
ではこの場所はどこを指しているのでしょうか?
香島郡(かしまのこおり)と出てくるところもありますので、香島郡とはどのあたりでしょうか?
香島(かしま)は現在の鹿島神社の鹿島の昔の呼び名ですが、香島郡については常陸風土記に那賀と香島との境は、阿多可奈湖(あたかなのみなと)と書かれており、この阿多可奈湖の位置を涸沼にあてる説(新編常陸国誌など)と那珂湊の古名とする説(日本地名辞典など)があるとされていて、香島は涸沼または那珂湊よりも南側と解釈できます。
しかし、現在の地形で考えると理解がし難いようです。
霞ケ浦が湖ではなく、大きな流海と呼ばれたように、この那珂川と涸沼などの一帯ももっと大きな海(湖と海の中間)であったと思われます。
さて、少し別な方面から見てみましょう。
この黒坂命は都(大和)から、霞ケ浦の対岸の美浦村(信太郡)にやってきたようです。
時代は第10代崇神天皇の時代。紀元前97年~紀元前29年と古事記などでは紹介されている時代なのですが、日本の天皇はこの頃サバを読むのが得意で、色々解釈が分かれるようですが、実際は3世紀後半から4世紀初めころではないかと思われます(あまり詳しくはわかりません)。
そして、この土地(美浦村)にいくつかの話が伝わっています。
そして、そこから蝦夷を追いたてながら北の方に攻め入り、日立市十王町の北部の「堅破山(たつわれさん)」で病死したと伝えられています。
そして、堅破山の上に「黒前(くろさき)神社」が建てられ、黒坂命の亡骸はかねてからの本人の希望の通り霞ケ浦がみえる美浦村にいってそこに葬られた(古墳(大塚古墳か?))と言われているのです。
この葬送の様子が、赤や青など五彩の旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見えたので、「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後に「信太(垂・しで)の国」(今の霞ケ浦の南岸地域)というようになったと言われています。
ということは黒坂命が退治したのは土蜘蛛などではなく、蝦夷と呼ばれる現住民族だったのはたしかなのです。
何故美浦村なのかと言うと、この地が豊かであったのと同時に、昔は北へ向かう道がこの近くの牛込あたりから霞ケ浦(昔は流海とか香取海などと呼ばれていた内海)を舟で渡って対岸の現在のかすみがうら市の牛渡付近に渡っていたからです。
すなわち北への玄関口だったのでしょう。
牛込・牛渡(うしわた)の地名はここを牛が渡ったことに由来しているようです。
土浦の方はまだ沼地で現在の6号国道の方は通れなかったのでしょう。
黒坂命は、その当時大和朝廷の力が及んで安心していられた場所に葬られたのだと思います。
実際に美浦村で古墳が発見され、一時騒然としたのですが、まだ実態は不明です。
これとは別に、石岡の東(霞ケ浦の北岸)である行方(なめがた)地方には「ヤマトタケル」の伝説がたくさん残っています。
これは前にもこのブログで紹介しました。
行方には、黒坂命の時代にはまだまだ反対の勢力がたくさんいたのでしょう。
こちらを制圧したのはそれより数十年後の時代(第12代景行天皇の時代)で、ヤマトタケルの時代なのでしょう。
そうすればほとんどつじつまが合ってきます。
さて、話は戻って、私は茨城の名前の由来の説明に出てくる「野の佐伯などの土蜘蛛など」という表現は好きではありません。
もし、観光案内所の方がこの事実を御存じだったら、説明も自ずから変わってくるはずなのです。
案内書などで、歴史の説明をしていただけることはありがたいのですが、もう少し実情を理解して表現に注意していただたら、もっとすばらしくなるのにと思わないわけにはいかなかったのです。
ましてや、そこにきれいな野バラが咲いていたから「茨城」の名前がついたなどという表現は正直「嫌い」です。
美化された言葉で、真実が見えなくなってしまいます。(しかし、この説もないわけではありませんが)
(その3へ続く)


茨城の県名(3)-野の佐伯、山の佐伯
茨城の県名の由来についての話の3回目です。
さて、今までの2回の記事で、少し違っていることもありそうですが、引用したりする場合は自己責任でお願いします。あまり内容はあてになりません。
さて、きのうの話の続きですが、観光案内所で聞いた、貝地のスーパーの前に行くと下記のような看板が道路沿いに立ててあります。

数年前に探した時は風雨で字がほとんど読めなくなっていましたので、かなり前に立てられたものだと思いますが、昨年春に上のようなきれいな看板に書きかえられました。
ここに書かれている内容は「常陸国風土記」の内容に基づいています。
しかし、左の原文(漢文)と比べていただければわかりますが、原文とは少し違いがありますし、注釈を付けないと理解しにくい内容だと思います。
このまま読んで馬鹿正直に信じる人がいるのでしょうか。多くの人は、お話程度によものでしょうね。
原文では
1)「古老いわく」ですから、本当かどうかわからないが、地元でそのように伝わっているお話です。
2)「昔、国巣あり」と続きます。国巣(くず)とは蝦夷などの原住民のことです。これはもう常識です。
3)「野の佐伯」「山の佐伯」についても、何の解釈もされていません。
何故?? 普通は但し書きくらいつけますよね。
さて、この佐伯は調べると面白いのがたくさんネットで出てきます。
もっとも面白かったのは、この佐伯については『 日本書紀 』景行天皇51年条に、
日本武尊が東国遠征の際に捕えた 蝦夷(えみし)(東部 北部の原住民)を伊勢神宮に献上したが、昼夜なく騒がしいので播磨 讃岐 伊予 安芸 阿波に移して住まわせた。
と書かれているという(確認していません)。
これが西国の佐伯なのでしょうか。
佐伯とは朝廷の命令を「さえぎる」という意味だとすると、「朝廷に抵抗する部族」で蝦夷のことにもつながります。
佐伯が常陸から播磨 安芸 阿波 讃岐 豊前などの瀬戸内海沿岸にいって、主に製鉄の技術を持った集団だと考えるのもおかしなことではなさそうです。
平安時代の空海(弘法大師)が実は讃岐の佐伯直(佐伯部を取りまとめる人)の出身と言われているとありました。本当でしょうか?
さて、茨城の名前発祥について、もう少し調べて見るため、図書館で、「八郷町史(平成17発行)」を図書館で借りて読んでみました。
「八郷町史」は合併の前に八郷町としてまとめたもので、前からあったもの(民族的な伝承が多かった)と両方を合わせないとならないようになっていますが、この茨城の名称については、新「八郷町史」に書かれていました。
第二節「常陸国風土記」「万葉集」と八郷町史の中の「茨城の由来」という項目です。
ここには、通り一辺の
1)「常陸風土記」に書かれた茨城郡の地名起源説話・・これは上に述べた貝地(茨城(バラキ)台近く)にある市の看板と同じ
2)茨が生い茂っていたことによる地名で、城は周囲が囲まれてまとまっている所
3)「ウバラキ」は「大針」で、鹿砦のことを「ウバラ」といい、木柵で囲んだ根拠地のこと
4)多臣系中臣氏族の「オオ」にちなんでつけられた「オバラ」がもとの名
5)「ウバラキ」とは「野バラが群生しているところ」という意味
6)「ウバラキ」、「ムバラキ」は「ハラキ」が元で、林野を開いて原にすることを表わした名
7)「ウバラキ」の「ウバ」は「崖地」を指す言葉
などをあげており、この八郷町史の編者は最後の「崖地」を有力としています。
私が気になったのは、次の下りです。
「ただし、「茨城」という地名の由来について考えるさいに注意しなければならないのは、「茨城」という地名の起源になったの地は、那珂郡の茨城郷であって、茨城郡の茨城郷ではないということである。」
この根拠として「常陸風土記」の茨城郡条の文章をあげています。
「いわゆる茨城という地は、今は那珂郡に属してその西部にあるが、昔はそこに茨城郡の郡衙が置かれていたから、まさにそこは茨城郡の内で、土地の言いならわしに、水をいとおしむ茨城の国という」
すなわち、常陸風土記が書かれる(720年頃)より前に茨城郡があって、その中心が場所を変えたと考えられることです。
また「茨城」は和名抄では「牟波良岐」と書かれており、「ウバラキ」または「ムバラキ」と読んだのではないかともありました。(鈴木健著 常陸国風土記と古代地名)
常陸風土記の時代には「那珂郡」になっているある場所が最初に「茨城郷」と呼ばれていたのだが、土地の区分けを変更した際にこの場所が「那珂郡」に入ることになり、「茨城郡」の中心を茨城郡の中にあった今の石岡の地に定めたという解釈がもっとも理解しやすいのです。
そうすると、「茨城(イバラキ)」の名前が最初についた地は石岡ではないことになります。
まあ、あまり気にするほどのことでもないし、大昔のことなど好きに解釈しても誰もわからないのかもしれません。
自分で考えて一番素直に理解できることを自分の理解として吸収していくだけです。
イバラキなどの発音は今風ではないですね。「いば☆らき」「大☆好き」な人が増えるといいなって思います。
この続きは次回へ。
・・・以下は記事とは別の余録です・・・・
昨日ある方のブログに四国へチャリ旅行で行っていて、高知県の「奈半利(なはり)」という地名が変わっているとあったので以下のようなコメントを書いた。
さて、奈半利(なはり)って面白い地名ですね。
土佐日記に「那波の泊」と出てくるところだそうですので漢字は当て字ですね。
「り」は里でしょうから、「なは」の里でしょうね。
「なは」は沖縄の「那覇」と同じですね。
基本的には湊を意味する言葉だと思います。
「難波」「名張」なども同じかもしれません。
すべて文字がなかったときの縄文語(今はアイヌ語)ですね。
大歩危・小歩危のボケ=ポケ=崖地なども縄文語ですね。
違っているかもしれません。
その時は「ごめんなはりませ」(後免-奈半利)・・・後免と奈半利をつなぐ道路があるので。
このコメントを書いていて、ふと茨城の「那珂湊」を思い浮かべてしまった。関係あるのかな?
また「後免」(ごめん)なんてのもとても変わっていますね。
わからない地名は、ほとんどすべて漢字から意味を考えないことですね。
多くの難読地名は漢字や文字がない時から伝わってきたものに後から漢字を当てはめているのですね。
← よろしければクリックお願いします。
さて、今までの2回の記事で、少し違っていることもありそうですが、引用したりする場合は自己責任でお願いします。あまり内容はあてになりません。
さて、きのうの話の続きですが、観光案内所で聞いた、貝地のスーパーの前に行くと下記のような看板が道路沿いに立ててあります。

数年前に探した時は風雨で字がほとんど読めなくなっていましたので、かなり前に立てられたものだと思いますが、昨年春に上のようなきれいな看板に書きかえられました。
ここに書かれている内容は「常陸国風土記」の内容に基づいています。
しかし、左の原文(漢文)と比べていただければわかりますが、原文とは少し違いがありますし、注釈を付けないと理解しにくい内容だと思います。
このまま読んで馬鹿正直に信じる人がいるのでしょうか。多くの人は、お話程度によものでしょうね。
原文では
1)「古老いわく」ですから、本当かどうかわからないが、地元でそのように伝わっているお話です。
2)「昔、国巣あり」と続きます。国巣(くず)とは蝦夷などの原住民のことです。これはもう常識です。
3)「野の佐伯」「山の佐伯」についても、何の解釈もされていません。
何故?? 普通は但し書きくらいつけますよね。
さて、この佐伯は調べると面白いのがたくさんネットで出てきます。
もっとも面白かったのは、この佐伯については『 日本書紀 』景行天皇51年条に、
日本武尊が東国遠征の際に捕えた 蝦夷(えみし)(東部 北部の原住民)を伊勢神宮に献上したが、昼夜なく騒がしいので播磨 讃岐 伊予 安芸 阿波に移して住まわせた。
と書かれているという(確認していません)。
これが西国の佐伯なのでしょうか。
佐伯とは朝廷の命令を「さえぎる」という意味だとすると、「朝廷に抵抗する部族」で蝦夷のことにもつながります。
佐伯が常陸から播磨 安芸 阿波 讃岐 豊前などの瀬戸内海沿岸にいって、主に製鉄の技術を持った集団だと考えるのもおかしなことではなさそうです。
平安時代の空海(弘法大師)が実は讃岐の佐伯直(佐伯部を取りまとめる人)の出身と言われているとありました。本当でしょうか?
さて、茨城の名前発祥について、もう少し調べて見るため、図書館で、「八郷町史(平成17発行)」を図書館で借りて読んでみました。
「八郷町史」は合併の前に八郷町としてまとめたもので、前からあったもの(民族的な伝承が多かった)と両方を合わせないとならないようになっていますが、この茨城の名称については、新「八郷町史」に書かれていました。
第二節「常陸国風土記」「万葉集」と八郷町史の中の「茨城の由来」という項目です。
ここには、通り一辺の
1)「常陸風土記」に書かれた茨城郡の地名起源説話・・これは上に述べた貝地(茨城(バラキ)台近く)にある市の看板と同じ
2)茨が生い茂っていたことによる地名で、城は周囲が囲まれてまとまっている所
3)「ウバラキ」は「大針」で、鹿砦のことを「ウバラ」といい、木柵で囲んだ根拠地のこと
4)多臣系中臣氏族の「オオ」にちなんでつけられた「オバラ」がもとの名
5)「ウバラキ」とは「野バラが群生しているところ」という意味
6)「ウバラキ」、「ムバラキ」は「ハラキ」が元で、林野を開いて原にすることを表わした名
7)「ウバラキ」の「ウバ」は「崖地」を指す言葉
などをあげており、この八郷町史の編者は最後の「崖地」を有力としています。
私が気になったのは、次の下りです。
「ただし、「茨城」という地名の由来について考えるさいに注意しなければならないのは、「茨城」という地名の起源になったの地は、那珂郡の茨城郷であって、茨城郡の茨城郷ではないということである。」
この根拠として「常陸風土記」の茨城郡条の文章をあげています。
「いわゆる茨城という地は、今は那珂郡に属してその西部にあるが、昔はそこに茨城郡の郡衙が置かれていたから、まさにそこは茨城郡の内で、土地の言いならわしに、水をいとおしむ茨城の国という」
すなわち、常陸風土記が書かれる(720年頃)より前に茨城郡があって、その中心が場所を変えたと考えられることです。
また「茨城」は和名抄では「牟波良岐」と書かれており、「ウバラキ」または「ムバラキ」と読んだのではないかともありました。(鈴木健著 常陸国風土記と古代地名)
常陸風土記の時代には「那珂郡」になっているある場所が最初に「茨城郷」と呼ばれていたのだが、土地の区分けを変更した際にこの場所が「那珂郡」に入ることになり、「茨城郡」の中心を茨城郡の中にあった今の石岡の地に定めたという解釈がもっとも理解しやすいのです。
そうすると、「茨城(イバラキ)」の名前が最初についた地は石岡ではないことになります。
まあ、あまり気にするほどのことでもないし、大昔のことなど好きに解釈しても誰もわからないのかもしれません。
自分で考えて一番素直に理解できることを自分の理解として吸収していくだけです。
イバラキなどの発音は今風ではないですね。「いば☆らき」「大☆好き」な人が増えるといいなって思います。
この続きは次回へ。
・・・以下は記事とは別の余録です・・・・
昨日ある方のブログに四国へチャリ旅行で行っていて、高知県の「奈半利(なはり)」という地名が変わっているとあったので以下のようなコメントを書いた。
さて、奈半利(なはり)って面白い地名ですね。
土佐日記に「那波の泊」と出てくるところだそうですので漢字は当て字ですね。
「り」は里でしょうから、「なは」の里でしょうね。
「なは」は沖縄の「那覇」と同じですね。
基本的には湊を意味する言葉だと思います。
「難波」「名張」なども同じかもしれません。
すべて文字がなかったときの縄文語(今はアイヌ語)ですね。
大歩危・小歩危のボケ=ポケ=崖地なども縄文語ですね。
違っているかもしれません。
その時は「ごめんなはりませ」(後免-奈半利)・・・後免と奈半利をつなぐ道路があるので。
このコメントを書いていて、ふと茨城の「那珂湊」を思い浮かべてしまった。関係あるのかな?
また「後免」(ごめん)なんてのもとても変わっていますね。
わからない地名は、ほとんどすべて漢字から意味を考えないことですね。
多くの難読地名は漢字や文字がない時から伝わってきたものに後から漢字を当てはめているのですね。


茨城の県名(4)-万葉の頃
茨城の県名の話-その4 です。
最初の茨城県の始まった時はまだ、今の茨城県は水戸より北が「茨城県」それより南は「新治県」(にいはりけん)に分かれていました(その他印旛県もありましたが少し話から外します)
テーマの県名から外れそうですが、今日は先にこの新治について考えていきたいと思います。
何を書くかはっきり決めずに、書きながら考えていくのも楽しそうなので、寄り道しながら行きましょう。
まあ急ぐわけでもないので、のんびりやって行こうかと思います。
○ 今日の旅 花か紅葉か 知らないけれど 風に吹かれて ゆくわいな(扇歌)
さて、平成の大合併などで、新たな市町村や郡が誕生した時に、好きな名前にしてしまうと歴史的な継続性が断たれてしまい、後世の人が何だか分からなくなってしまうようです。
小川、美野里、玉里を合わせて「小美玉市」になったり、石岡の旧八郷町も8つの町村が合併してできた名前ですね。その前にあった名前は地名としてほとんど残っているのでまだ考えやすいのですが、前の名前が無くなったり、または別な場所で同じ名前が使われたりしたら混乱しますよね。
今日の話の「新治」はまさに後者になります。「茨城」についても似たところがありますのでまた後から考えましょう。
まあ新しい名前も、時間がたてば、そこに生活しておられる方にとっては馴染みもできるし、名前にも愛着がわいてきますので良いのですが、昔からの継続性がないので、とても理解しにくくなってしまいます。
今日6号国道の石岡から恋瀬川を渡ったすぐ先のかすみがうら市西野寺(子安神社の近く)に「新治小学校」という文字が目に飛び込んできました。
「そうだここも新治なんだ」とおもわずつぶやいてしまいました。
ではここから万葉の時代に遡って見ましょう。常陸国風土記が編纂された頃です。
まずはこの話からスタートしましょう。

国府(石岡)の表川(恋瀬川)からの霊峰筑波山 : 万葉の頃はこの方角から山に登っていた。
この頃の登山道についてはこのブログでも筑波古道の府中街道で紹介しています。
今の筑波や土浦方面からの古道はもう少し後からの道で、特に徳川幕府から庇護を受けてさかえた筑波参道はもっとずっと後です。
瀬戸井街道なども紹介しました。全てがつながってきます。
ではまず、万葉集に歌われた歌の碑がいくつか筑波山神社の近くにありますので、紹介しましょう。

(占部広方:橘の花の下を吹く風の香ぐはしい筑波の山を、恋いこがれないでいられようか。)

(丹比真人国人:東の国に高い山はたくさんあるが、中でもとりわけ、男神と女神のいます貴い山で二つの嶺が並び立つさまが心を引きつける山と、神代の昔から人が言い伝え、春ごとに国見の行なわれてきた筑波の山よ。それなのに今はまだ冬でその時期でないからと国見をしないで行ってしまったら、これまで以上に恋しくおもわれるだろうと、雪解けのぬかるんだ山道を苦労しながら、私はやっと今この頂きまで登ってきました。)

(丹比真人国人:名高い筑波の嶺をよそ目にばかり見ていられなくて、雪解けの道に足をとられながら、やっと今このいただきまでたどりついた)
どうですか、万葉の頃この筑波山が恋の山として奈良の都に認知されていたことがわかりますね。
少し、その気分を味わっていただけたでしょうか。
もう一つ、以前に志筑の長興寺裏の田圃の中にある万葉歌碑を紹介したことがありました。

(かすみがうら市志筑にある「師付の田井」)
万葉の時代(719年頃)常陸国の国司として常陸国府(石岡)の地にやってきていた藤原宇合(うまかい)の部下であったと思われる高橋虫麻呂は、筑波山に登って数多くの歌を読んでいます。
常陸国風土記もこの二人によってまとめられたのではないかと言われています。とても文体がすばらしいのです。
「万葉集(第九-1757)
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。
新治の鳥羽の淡海(あふみ)も秋風に 白波立ちぬ。筑波嶺のよけくを見れば長き日(け)に、おもひ積み来し憂いはやみぬ。
(旅の悲しみを慰めることもあろうかと、筑波山に登って、登ってきた常陸国府側を見下ろすと、こんこんとわき出でるきれいな泉のある師付の田井(田圃)には、尾花(ススキ)の穂が風にキラキラひかりその上を雁が寒々と渡っていく。
一方、目を反対側に移すと新治(ニイハリ)の鳥羽の海のようになった広い淡海には秋風で白波が立っている。
こうして筑波山の美しい景色を見ていると、長い間思い悩んできた憂えも止んでしまうようだ。)
というような意味だと思いますが、今でもその山の上からの景色が目に浮かぶように思えます。
さあ、今でもこの山や川に流れている風は昔と変わらないのですが、今とは大分違っていたこともあったのでしょう。
特に、この「新治の鳥羽の淡海(あふみ)」と言われる場所は、筑波山の西にあたる小貝川(この名前も私は蚕飼川が元の名前だと思っています)の上流で、下妻市の常総線の騰波ノ江(とばのえ)駅辺りだといわれています。
この辺りは今は大きな湖はありませんが、当時は豊かに水をたたえていたのでしょう。
このように地名として残っているとありがたいですね。
(騰波ノ江)
万葉の奈良時代にはこの辺りが新治だったのです。筑波山の西側一帯ですね。
ところが、今の人達は新治郡とは筑波山の東側一帯のイメージです。
ですから、まったく昔の話を読んでもチンプンカンプンになってしまいます。
一体どうしてこういうことになったのでしょうか。
この続きは長くなりましたので、明日にします。その前に、もう一つ新治が出てくる有名な歌があります。
それは古事記に出てくるヤマトタケルが東征を成し遂げて甲斐に越えて、酒折ノ宮で詠んだ歌です。
「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」:新治・筑波を出てから幾日寝たことだろう。
(ここでは返しの歌で九夜十日となっています。)
さて、このヤマトタケルは第12代景行天皇の第二皇子ということですので、天皇のサバ読み年齢を加味すると4世紀前半の頃(320~330年頃?)でしょう。
上の万葉の頃(常陸国風土記の編纂時期)より恐らく400年くらい前のことになります。
この「筑波・新治」と万葉集に出てくる新治は、万葉の頃の新治と同じでしょうか?
これもまた次回にでも考えてみましょう。
この続きは(5)へ
昨夜別の記事(馬頭広重美術館)を入れていますので、そちらも見てくださいね。(この記事の下です ↓)
← よろしければクリックお願いします。
最初の茨城県の始まった時はまだ、今の茨城県は水戸より北が「茨城県」それより南は「新治県」(にいはりけん)に分かれていました(その他印旛県もありましたが少し話から外します)
テーマの県名から外れそうですが、今日は先にこの新治について考えていきたいと思います。
何を書くかはっきり決めずに、書きながら考えていくのも楽しそうなので、寄り道しながら行きましょう。
まあ急ぐわけでもないので、のんびりやって行こうかと思います。
○ 今日の旅 花か紅葉か 知らないけれど 風に吹かれて ゆくわいな(扇歌)
さて、平成の大合併などで、新たな市町村や郡が誕生した時に、好きな名前にしてしまうと歴史的な継続性が断たれてしまい、後世の人が何だか分からなくなってしまうようです。
小川、美野里、玉里を合わせて「小美玉市」になったり、石岡の旧八郷町も8つの町村が合併してできた名前ですね。その前にあった名前は地名としてほとんど残っているのでまだ考えやすいのですが、前の名前が無くなったり、または別な場所で同じ名前が使われたりしたら混乱しますよね。
今日の話の「新治」はまさに後者になります。「茨城」についても似たところがありますのでまた後から考えましょう。
まあ新しい名前も、時間がたてば、そこに生活しておられる方にとっては馴染みもできるし、名前にも愛着がわいてきますので良いのですが、昔からの継続性がないので、とても理解しにくくなってしまいます。
今日6号国道の石岡から恋瀬川を渡ったすぐ先のかすみがうら市西野寺(子安神社の近く)に「新治小学校」という文字が目に飛び込んできました。
「そうだここも新治なんだ」とおもわずつぶやいてしまいました。
ではここから万葉の時代に遡って見ましょう。常陸国風土記が編纂された頃です。
まずはこの話からスタートしましょう。

国府(石岡)の表川(恋瀬川)からの霊峰筑波山 : 万葉の頃はこの方角から山に登っていた。
この頃の登山道についてはこのブログでも筑波古道の府中街道で紹介しています。
今の筑波や土浦方面からの古道はもう少し後からの道で、特に徳川幕府から庇護を受けてさかえた筑波参道はもっとずっと後です。
瀬戸井街道なども紹介しました。全てがつながってきます。
ではまず、万葉集に歌われた歌の碑がいくつか筑波山神社の近くにありますので、紹介しましょう。

(占部広方:橘の花の下を吹く風の香ぐはしい筑波の山を、恋いこがれないでいられようか。)

(丹比真人国人:東の国に高い山はたくさんあるが、中でもとりわけ、男神と女神のいます貴い山で二つの嶺が並び立つさまが心を引きつける山と、神代の昔から人が言い伝え、春ごとに国見の行なわれてきた筑波の山よ。それなのに今はまだ冬でその時期でないからと国見をしないで行ってしまったら、これまで以上に恋しくおもわれるだろうと、雪解けのぬかるんだ山道を苦労しながら、私はやっと今この頂きまで登ってきました。)

(丹比真人国人:名高い筑波の嶺をよそ目にばかり見ていられなくて、雪解けの道に足をとられながら、やっと今このいただきまでたどりついた)
どうですか、万葉の頃この筑波山が恋の山として奈良の都に認知されていたことがわかりますね。
少し、その気分を味わっていただけたでしょうか。
もう一つ、以前に志筑の長興寺裏の田圃の中にある万葉歌碑を紹介したことがありました。

(かすみがうら市志筑にある「師付の田井」)
万葉の時代(719年頃)常陸国の国司として常陸国府(石岡)の地にやってきていた藤原宇合(うまかい)の部下であったと思われる高橋虫麻呂は、筑波山に登って数多くの歌を読んでいます。
常陸国風土記もこの二人によってまとめられたのではないかと言われています。とても文体がすばらしいのです。
「万葉集(第九-1757)
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。
新治の鳥羽の淡海(あふみ)も秋風に 白波立ちぬ。筑波嶺のよけくを見れば長き日(け)に、おもひ積み来し憂いはやみぬ。
(旅の悲しみを慰めることもあろうかと、筑波山に登って、登ってきた常陸国府側を見下ろすと、こんこんとわき出でるきれいな泉のある師付の田井(田圃)には、尾花(ススキ)の穂が風にキラキラひかりその上を雁が寒々と渡っていく。
一方、目を反対側に移すと新治(ニイハリ)の鳥羽の海のようになった広い淡海には秋風で白波が立っている。
こうして筑波山の美しい景色を見ていると、長い間思い悩んできた憂えも止んでしまうようだ。)
というような意味だと思いますが、今でもその山の上からの景色が目に浮かぶように思えます。
さあ、今でもこの山や川に流れている風は昔と変わらないのですが、今とは大分違っていたこともあったのでしょう。
特に、この「新治の鳥羽の淡海(あふみ)」と言われる場所は、筑波山の西にあたる小貝川(この名前も私は蚕飼川が元の名前だと思っています)の上流で、下妻市の常総線の騰波ノ江(とばのえ)駅辺りだといわれています。
この辺りは今は大きな湖はありませんが、当時は豊かに水をたたえていたのでしょう。
このように地名として残っているとありがたいですね。
(騰波ノ江)
万葉の奈良時代にはこの辺りが新治だったのです。筑波山の西側一帯ですね。
ところが、今の人達は新治郡とは筑波山の東側一帯のイメージです。
ですから、まったく昔の話を読んでもチンプンカンプンになってしまいます。
一体どうしてこういうことになったのでしょうか。
この続きは長くなりましたので、明日にします。その前に、もう一つ新治が出てくる有名な歌があります。
それは古事記に出てくるヤマトタケルが東征を成し遂げて甲斐に越えて、酒折ノ宮で詠んだ歌です。
「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」:新治・筑波を出てから幾日寝たことだろう。
(ここでは返しの歌で九夜十日となっています。)
さて、このヤマトタケルは第12代景行天皇の第二皇子ということですので、天皇のサバ読み年齢を加味すると4世紀前半の頃(320~330年頃?)でしょう。
上の万葉の頃(常陸国風土記の編纂時期)より恐らく400年くらい前のことになります。
この「筑波・新治」と万葉集に出てくる新治は、万葉の頃の新治と同じでしょうか?
これもまた次回にでも考えてみましょう。
この続きは(5)へ
昨夜別の記事(馬頭広重美術館)を入れていますので、そちらも見てくださいね。(この記事の下です ↓)


茨城の県名(5)-地名の変化
茨城の県名の5回目です。
前回に万葉の頃の新治郡とその後の新治郡が場所が変化したことを見てきました。
少し、調べる必要が出てきましたので、ネットで調べた概要を以下に述べます。
1)常陸国ができる以前(ヤマトタケルなどのの3~4世紀頃):6つの小国
常陸国風土記の序章(口訳・常陸国風土記より)に書かれていることによると
「相模の国の足柄の坂(やま)より東の諸々の県(あがた)は、すべて吾妻の国といってゐたもので、常陸といふ名の国もなかった。
ただ新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の小国には、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されてゐた。」
と書かれています。
2)律令制時代 :常陸国となり、11郡に分けた。
常陸国風土記の上の記載の後には、
「後に、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世に、高向(たかむこ)臣や中臣幡織田(はとり だ)連(むらじ)らを派遣し、足柄の坂より東を八国として総轄統治せしめた。その八国の一つが、常陸の国である」
となっています。
孝徳天皇は第36代天皇で、その在位は645年~654年です。大化の改新が2年目の646年です。
さて、この時の常陸国の郡(11郡)は
・「新治郡」中西部、小貝川中流・・・郡衙は筑西市(旧協和町)古都(水戸線の新治駅付近)
・「白壁郡」筑波山西北、真壁、明野 郡衙は不明
→ 8世紀末に「真壁郡」に名称変更される(郡衙は真壁郡真壁町古城・源法寺)
・「筑波郡」筑波山南西、毛野川(小貝川) 郡衙は筑波山南麓(平沢郡衙跡)
・「河内郡」現在のつくば市周辺 郡衙はつくば市金田台
・・・古代筑波国の一部と茨城郡の一部が分離結合して成立?
・「信太(しだ)郡」南部、霞ケ浦の西、龍ヶ崎周辺 郡衙は美浦村付近
・「茨城郡」中南部 郡衙は石岡市茨城(バラキ)付近・・・常陸国国府も石岡に置かれた。
・「行方(なめかた)郡」霞ケ浦内の半島部、潮来(板来)から北側 郡衙は旧玉造町南部
・・・茨城郡から分離して成立
・「香島郡」東南部、大洗町以南の鹿島灘、郡衙は鹿島神社前(鹿島市神野向)
・「那賀郡」中部、那珂川流域、郡衙は水戸市南西部(水戸市渡里)
・「久慈郡」北部、久慈川流域 郡衙は久慈郡金砂郷町薬谷・大里
・「多珂郡」北東部、日立市以北、 郡衙は高萩市付近
ここで少し北の方の群を話としては別にして、白壁郡(後に真壁郡)はその前の新治郡から7世紀後半に分割して作られたことがわかっています。
3 平安時代末期~
奈良時代の律令制下で農地を増加させるために開墾した土地の私有を認めたため、各所に荘園(しょうえん)ができ、自立的に各地に村が発生し、村単位の自治が起こります。
戦国時代に突入し、戦国大名がこれを解体・支配することになり、荘園はその自治が失われてきました。
4 1594年 太閤検地
豊臣秀吉が、細分化されていた郡や荘を再編したのですが、この時に古代からつかわれていた土地の名称を別な地域につけてしまったのです。
これにより、昔と異なる場所に同じ名前が発生しました。
これにより、古代の新治郡と近世以降の新治郡は全く違うところになってしまったのです。
<古代の新治郡> 律令制時代の新治郡と白壁郡(真壁郡)を両方合わせたような地域
<律令制時代の新治郡> 中西部、小貝川中流・・・郡衙は筑西市(旧協和町)古都
<近世(安土桃山以降)の新治郡> 現在の石岡市、かすみがうら市、土浦市、小美玉市の旧玉里村、つくば市の桜村が入っていました。
古代の新治郡と近世以降の新治郡が全く違っている理由はだいたいお分かりいただけたのではないかと思いますが、その他の郡については特に調べていないので、興味のある方はご自身で調べて見てください。
本当にぐちゃぐちゃでわかりません。さて問題の茨城の地名ですが、常陸国風土記では、律令制時代になるまえに6つの小国の1つに茨城国があり、その中に茨城郷という場所があったようです。
そして、この茨城郷の場所が、大化の改新より前に那珂(那賀)国に組み込まれたので、そのまとめ中心地を現在の石岡の地に移したようです。
そして、その後大化の改新が行なわれ、常陸国が成立した時にこの石岡に常陸国の国府が置かれることになったようです。
石岡は常陸国のほぼ真ん中に位置し、北部に比べまだ大和朝廷の意向を安心して反映できる場所であったことが選定の理由だったのかもしれません。
石岡の「鹿の子(かのこ)遺跡」が高速道路建設時に発見されたものによると、ここに大規模な工房の跡が見つかりました。
鉄製品などを製造しており、蝦夷に対する軍事工場的な役割もしていたようです。
年代としては749年~795年頃の年代が判別できるものがたくさん出土されています。
このため、奈良時代以降の常陸国の中心都市であったのですから、石岡はこの事をもっとアピールして、復権をしてほしいものです。
最初に書いた「茨城の県名発祥の地」などという曖昧な内容でアピールするのは良くないと思います。
調べるのが中途半端になってしまいました。
茨城郡も途中で「東茨城郡」「西茨城郡」ができ、その後、多くが市などの名前になると、今度は古代の茨城郡とは全く関係ないところに(東茨城郡の中の長岡町、川根村、上野合村、石崎村と鹿島郡の沼前村が昭和30年以降に合併して)「茨城町」が誕生してしまいました。
古代の茨城郡は現石岡が中心の中南部がその地域でしたので、後の「東茨城郡」「西茨城郡」とは全く違っていたのです。
先の合併で土浦市と合併した「新治村」がありましたが、この村は1955年にこの村の名前になりましたが、古代の新治郡の名前を使ったので、古代の歴史には直接関係ありません。
次回(6)は茨城の名前が最初に使われたとする場所を紹介します。
← よろしければクリックお願いします。
前回に万葉の頃の新治郡とその後の新治郡が場所が変化したことを見てきました。
少し、調べる必要が出てきましたので、ネットで調べた概要を以下に述べます。
1)常陸国ができる以前(ヤマトタケルなどのの3~4世紀頃):6つの小国
常陸国風土記の序章(口訳・常陸国風土記より)に書かれていることによると
「相模の国の足柄の坂(やま)より東の諸々の県(あがた)は、すべて吾妻の国といってゐたもので、常陸といふ名の国もなかった。
ただ新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の小国には、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されてゐた。」
と書かれています。
2)律令制時代 :常陸国となり、11郡に分けた。
常陸国風土記の上の記載の後には、
「後に、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世に、高向(たかむこ)臣や中臣幡織田(はとり だ)連(むらじ)らを派遣し、足柄の坂より東を八国として総轄統治せしめた。その八国の一つが、常陸の国である」
となっています。
孝徳天皇は第36代天皇で、その在位は645年~654年です。大化の改新が2年目の646年です。
さて、この時の常陸国の郡(11郡)は
・「新治郡」中西部、小貝川中流・・・郡衙は筑西市(旧協和町)古都(水戸線の新治駅付近)
・「白壁郡」筑波山西北、真壁、明野 郡衙は不明
→ 8世紀末に「真壁郡」に名称変更される(郡衙は真壁郡真壁町古城・源法寺)
・「筑波郡」筑波山南西、毛野川(小貝川) 郡衙は筑波山南麓(平沢郡衙跡)
・「河内郡」現在のつくば市周辺 郡衙はつくば市金田台
・・・古代筑波国の一部と茨城郡の一部が分離結合して成立?
・「信太(しだ)郡」南部、霞ケ浦の西、龍ヶ崎周辺 郡衙は美浦村付近
・「茨城郡」中南部 郡衙は石岡市茨城(バラキ)付近・・・常陸国国府も石岡に置かれた。
・「行方(なめかた)郡」霞ケ浦内の半島部、潮来(板来)から北側 郡衙は旧玉造町南部
・・・茨城郡から分離して成立
・「香島郡」東南部、大洗町以南の鹿島灘、郡衙は鹿島神社前(鹿島市神野向)
・「那賀郡」中部、那珂川流域、郡衙は水戸市南西部(水戸市渡里)
・「久慈郡」北部、久慈川流域 郡衙は久慈郡金砂郷町薬谷・大里
・「多珂郡」北東部、日立市以北、 郡衙は高萩市付近
ここで少し北の方の群を話としては別にして、白壁郡(後に真壁郡)はその前の新治郡から7世紀後半に分割して作られたことがわかっています。
3 平安時代末期~
奈良時代の律令制下で農地を増加させるために開墾した土地の私有を認めたため、各所に荘園(しょうえん)ができ、自立的に各地に村が発生し、村単位の自治が起こります。
戦国時代に突入し、戦国大名がこれを解体・支配することになり、荘園はその自治が失われてきました。
4 1594年 太閤検地
豊臣秀吉が、細分化されていた郡や荘を再編したのですが、この時に古代からつかわれていた土地の名称を別な地域につけてしまったのです。
これにより、昔と異なる場所に同じ名前が発生しました。
これにより、古代の新治郡と近世以降の新治郡は全く違うところになってしまったのです。
<古代の新治郡> 律令制時代の新治郡と白壁郡(真壁郡)を両方合わせたような地域
<律令制時代の新治郡> 中西部、小貝川中流・・・郡衙は筑西市(旧協和町)古都
<近世(安土桃山以降)の新治郡> 現在の石岡市、かすみがうら市、土浦市、小美玉市の旧玉里村、つくば市の桜村が入っていました。
古代の新治郡と近世以降の新治郡が全く違っている理由はだいたいお分かりいただけたのではないかと思いますが、その他の郡については特に調べていないので、興味のある方はご自身で調べて見てください。
本当にぐちゃぐちゃでわかりません。さて問題の茨城の地名ですが、常陸国風土記では、律令制時代になるまえに6つの小国の1つに茨城国があり、その中に茨城郷という場所があったようです。
そして、この茨城郷の場所が、大化の改新より前に那珂(那賀)国に組み込まれたので、そのまとめ中心地を現在の石岡の地に移したようです。
そして、その後大化の改新が行なわれ、常陸国が成立した時にこの石岡に常陸国の国府が置かれることになったようです。
石岡は常陸国のほぼ真ん中に位置し、北部に比べまだ大和朝廷の意向を安心して反映できる場所であったことが選定の理由だったのかもしれません。
石岡の「鹿の子(かのこ)遺跡」が高速道路建設時に発見されたものによると、ここに大規模な工房の跡が見つかりました。
鉄製品などを製造しており、蝦夷に対する軍事工場的な役割もしていたようです。
年代としては749年~795年頃の年代が判別できるものがたくさん出土されています。
このため、奈良時代以降の常陸国の中心都市であったのですから、石岡はこの事をもっとアピールして、復権をしてほしいものです。
最初に書いた「茨城の県名発祥の地」などという曖昧な内容でアピールするのは良くないと思います。
調べるのが中途半端になってしまいました。
茨城郡も途中で「東茨城郡」「西茨城郡」ができ、その後、多くが市などの名前になると、今度は古代の茨城郡とは全く関係ないところに(東茨城郡の中の長岡町、川根村、上野合村、石崎村と鹿島郡の沼前村が昭和30年以降に合併して)「茨城町」が誕生してしまいました。
古代の茨城郡は現石岡が中心の中南部がその地域でしたので、後の「東茨城郡」「西茨城郡」とは全く違っていたのです。
先の合併で土浦市と合併した「新治村」がありましたが、この村は1955年にこの村の名前になりましたが、古代の新治郡の名前を使ったので、古代の歴史には直接関係ありません。
次回(6)は茨城の名前が最初に使われたとする場所を紹介します。


茨城の県名(6)-小原神社
前回、常陸風土記が書かれた時(西暦720年頃)には、現在の茨城郡にあるが、それはもっと昔には、今は那珂郡となっているどこかにあったが、ある時期に編入替えがあって、移ったと読み取れる文章が書かれているのです。(この解釈は、ちがって読む人もおられるので、解釈による違いもあるようです。)
この那珂郡の大昔に茨城郡の郡衙があったのではないかと思われている場所が、今日紹介する「小原神社(おばらじんじゃ)」の場所なのです。
何時かは一度訪れてみなければならないと思っていた神社です。
行って見て、知らなければ、いくら書物で読んでも理解ができないですからです。
でもあまり訪れる人はいないようです。神社の存在もほとんど知られていません。
この神社を訪れてすぐに紹介記事を書こうと思っていたのですが、1ヶ月以上経ってしまいました。
ここが「茨城」の地名発祥の地であるという最有力候補(私の頭の中では)なのです。
これから説明する小原神社のことなども少しは理解した方がいいと思います。
では小原神社(現笠間市、旧友部町)を見てみましょう。

小原神社の入口です。

境内は比較的広く、特に目立ったものはありませんが、ケヤキなどの古木はやはり目に映ります。

拝殿前の狛犬です。

拝殿です。建物そのものはそれほど豪華な造りではありません。

小原神社の本殿です。しっかりと作られている感じです。

道路縁にケヤキの古木が何本かあり、二号だの三号だのと名前がついているようです。
この古木のコブもすごいですね。

裏の敷地にはケヤキのおそらく昔の御神木の根っこと思われる木が残されていました。

こんな木が何本か聳えています。
この神社は特別なものがある訳ではありませんが、全体にこの辺りの中でこの一帯は何か古さを感じるものがあります。
さて、本題の茨城の名前の件ですが、この神社の詳しい創建や由来はわかりません。
それでも、この辺りが茨城の名前の発祥の地だと言われています。何故でしょうか?
常陸風土記では常陸国ができる前に6つの郡があったと書かれています。その一つが茨城郡です。
ですから茨城の言葉はすでに8世紀よりも前にあったことになります。
そして重要なことはこの茨城郡の郡衙(ぐんが=行政の中心地)の場所が、途中で那珂郡に編入されたために別な茨城郡の場所に移されたと書かれていることです。
「常陸風土記」の茨城郡条では、
「いわゆる茨城という地は、今は那珂郡に属してその西部にあるが、昔はそこに茨城郡の郡衙が置かれていたから、まさにそこは茨城郡の内で、土地の言いならわしに、水をいとおしむ茨城の国という」
となっているのです。この那珂郡に属している西部の地がこの小原周辺ではないかということです。
他に相当する地が見当たりません。
そして、この郡衙が移された先が現在の石岡市の貝地や茨城(バラキ)、小目代地区であると推定されるということです。
多くの学者がいろいろの説を唱えており、この小原が茨城郡の元の郡衙で、この地が那珂郡に編入されたときに現在の石岡の地に茨城の郡衙が移ったというのも一つの解釈にすぎません。
私は学者でもないし、こんなことで論陣を張るつもりも全くありません。
でも常陸風土記も素直に読むと、そのように理解されると思うだけです。
そして、当時の大和朝廷が歴史を都合のよいように書き換えてしまっているのを見破ることもできない。
常陸風土記も西暦720年前後にまとめられたものと考えられていますので、この時点の茨城郡の郡衙(ぐんが)はここ石岡になっていたということは確かでしょう。
また、その時にはすでに常陸国が成立(大化の改新645年の直後から690年頃までの間?)しており、その常陸国の国衙が茨城郡の郡衙である石岡の地になったのでしょう。
石岡はこの事だけで十分価値があるのです。そしてそこに文化が花開いたはずなのです。
しかし、常陸国の国衙は国の史跡にやっと登録(昨年5月)され、「国府跡」という名前になりました。
場所はバラキのあたりではなく、こちらは石岡小学校(戦国時代まで、城があったところ)敷地内です。
いばら=ウバラ(ムバラ)=アイヌ語? どちらにしてもイバラはバラ(野バラ)ではないでしょう。
これは1500年以上前の地形がどのようになっていたかがもう少しわかれば想像がしやすくなりそうです。
涸沼なども含めた那珂川がもっと大きな領域を占め、一部は海となっていたような時代の話ですので、今の地形から考えても理解はし辛いでしょう。
これには諸説あり、解釈も分かれますので、石岡が茨城の県名発祥の地という意見も確かに存在します。
またこれを、堂々と言うのは構いませんが、他の意見を聞かないというのは感心しません。
これは「石岡のおまつり」のルーツについても同じだと思います。
常陸の語源も色々ありますね。
これも昔ある書物から「常陸も最初の頃は常道と書いていたという文献があり、真っ直ぐな道が続くひたみち(=直道)からヒタチとなった」と自分のHPに書いたことがありますが、各地の地名などを見てくると、あまり漢字にとらわれると発想が偏りそうに感じています。
これもアイヌ語の拓く(開拓した広い土地)意味だという方が何となく好きですね。
日本書紀に登場する蝦夷の国「日高見国」が最初に何処かにあって、大和朝廷の軍が遠征しながら、どのように北へ移動していったかを考えると自ずからわかってきそうです。
日高見国にしても辞書などは東北や北海道の日高地方の事を指すように書かれていますが、常陸風土記には黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなって日高見国に還るのですから、美浦村辺りだということになります。
時代で徐々に北へ移って行ったものですね。
全ての意見を聞いて自分はそれでもこう思うという意見を持つことが大変重要なことだと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この意見はあくまでも推論が多く確かではありませんので解釈や理解は各個人の責任でお願いします。
明日は、茨城郡が石岡の地になったといわれる証明ともなっている「茨城廃寺(いばらきはいじ)」について書いてみます。
← よろしければクリックお願いします。
この那珂郡の大昔に茨城郡の郡衙があったのではないかと思われている場所が、今日紹介する「小原神社(おばらじんじゃ)」の場所なのです。
何時かは一度訪れてみなければならないと思っていた神社です。
行って見て、知らなければ、いくら書物で読んでも理解ができないですからです。
でもあまり訪れる人はいないようです。神社の存在もほとんど知られていません。
この神社を訪れてすぐに紹介記事を書こうと思っていたのですが、1ヶ月以上経ってしまいました。
ここが「茨城」の地名発祥の地であるという最有力候補(私の頭の中では)なのです。
これから説明する小原神社のことなども少しは理解した方がいいと思います。
では小原神社(現笠間市、旧友部町)を見てみましょう。

小原神社の入口です。

境内は比較的広く、特に目立ったものはありませんが、ケヤキなどの古木はやはり目に映ります。

拝殿前の狛犬です。

拝殿です。建物そのものはそれほど豪華な造りではありません。

小原神社の本殿です。しっかりと作られている感じです。

道路縁にケヤキの古木が何本かあり、二号だの三号だのと名前がついているようです。
この古木のコブもすごいですね。

裏の敷地にはケヤキのおそらく昔の御神木の根っこと思われる木が残されていました。

こんな木が何本か聳えています。
この神社は特別なものがある訳ではありませんが、全体にこの辺りの中でこの一帯は何か古さを感じるものがあります。
さて、本題の茨城の名前の件ですが、この神社の詳しい創建や由来はわかりません。
それでも、この辺りが茨城の名前の発祥の地だと言われています。何故でしょうか?
常陸風土記では常陸国ができる前に6つの郡があったと書かれています。その一つが茨城郡です。
ですから茨城の言葉はすでに8世紀よりも前にあったことになります。
そして重要なことはこの茨城郡の郡衙(ぐんが=行政の中心地)の場所が、途中で那珂郡に編入されたために別な茨城郡の場所に移されたと書かれていることです。
「常陸風土記」の茨城郡条では、
「いわゆる茨城という地は、今は那珂郡に属してその西部にあるが、昔はそこに茨城郡の郡衙が置かれていたから、まさにそこは茨城郡の内で、土地の言いならわしに、水をいとおしむ茨城の国という」
となっているのです。この那珂郡に属している西部の地がこの小原周辺ではないかということです。
他に相当する地が見当たりません。
そして、この郡衙が移された先が現在の石岡市の貝地や茨城(バラキ)、小目代地区であると推定されるということです。
多くの学者がいろいろの説を唱えており、この小原が茨城郡の元の郡衙で、この地が那珂郡に編入されたときに現在の石岡の地に茨城の郡衙が移ったというのも一つの解釈にすぎません。
私は学者でもないし、こんなことで論陣を張るつもりも全くありません。
でも常陸風土記も素直に読むと、そのように理解されると思うだけです。
そして、当時の大和朝廷が歴史を都合のよいように書き換えてしまっているのを見破ることもできない。
常陸風土記も西暦720年前後にまとめられたものと考えられていますので、この時点の茨城郡の郡衙(ぐんが)はここ石岡になっていたということは確かでしょう。
また、その時にはすでに常陸国が成立(大化の改新645年の直後から690年頃までの間?)しており、その常陸国の国衙が茨城郡の郡衙である石岡の地になったのでしょう。
石岡はこの事だけで十分価値があるのです。そしてそこに文化が花開いたはずなのです。
しかし、常陸国の国衙は国の史跡にやっと登録(昨年5月)され、「国府跡」という名前になりました。
場所はバラキのあたりではなく、こちらは石岡小学校(戦国時代まで、城があったところ)敷地内です。
いばら=ウバラ(ムバラ)=アイヌ語? どちらにしてもイバラはバラ(野バラ)ではないでしょう。
これは1500年以上前の地形がどのようになっていたかがもう少しわかれば想像がしやすくなりそうです。
涸沼なども含めた那珂川がもっと大きな領域を占め、一部は海となっていたような時代の話ですので、今の地形から考えても理解はし辛いでしょう。
これには諸説あり、解釈も分かれますので、石岡が茨城の県名発祥の地という意見も確かに存在します。
またこれを、堂々と言うのは構いませんが、他の意見を聞かないというのは感心しません。
これは「石岡のおまつり」のルーツについても同じだと思います。
常陸の語源も色々ありますね。
これも昔ある書物から「常陸も最初の頃は常道と書いていたという文献があり、真っ直ぐな道が続くひたみち(=直道)からヒタチとなった」と自分のHPに書いたことがありますが、各地の地名などを見てくると、あまり漢字にとらわれると発想が偏りそうに感じています。
これもアイヌ語の拓く(開拓した広い土地)意味だという方が何となく好きですね。
日本書紀に登場する蝦夷の国「日高見国」が最初に何処かにあって、大和朝廷の軍が遠征しながら、どのように北へ移動していったかを考えると自ずからわかってきそうです。
日高見国にしても辞書などは東北や北海道の日高地方の事を指すように書かれていますが、常陸風土記には黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなって日高見国に還るのですから、美浦村辺りだということになります。
時代で徐々に北へ移って行ったものですね。
全ての意見を聞いて自分はそれでもこう思うという意見を持つことが大変重要なことだと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この意見はあくまでも推論が多く確かではありませんので解釈や理解は各個人の責任でお願いします。
明日は、茨城郡が石岡の地になったといわれる証明ともなっている「茨城廃寺(いばらきはいじ)」について書いてみます。


茨城の県名(7)-茨城廃寺(バラキハイジ)
茨城の県名の発祥についての記事の7回目です。
茨城群の群衙(ぐんが:群の中心で行政をつかさどる場所)がここ石岡に置かれたことを示す根拠となっているのが、今日紹介する「茨城廃寺(バラキハイジ)」の存在です。
「廃寺」というと皆さんはどんなイメージを抱くでしょうか。
私が初めてこの名前を聞いた時は「はいでら」なら、住職がいなくなって荒れ果てた無住の寺のこと?
って思いましたが、普通はその程度ですよね。
しかしこの「はいじ」というのは少し違うようです。
Wikipediaによると「廃止された仏教寺院のこと」と定義されています。
すなわち、昔寺院であったが、何かの理由で無くなってしまったものをさし、「廃寺跡」と表現されるのが普通のようです。
例えば、
・奈良の「吉備池廃寺跡(7世紀前半創建? 廃寺期不明)」
・愛知県「大山廃寺跡(7世紀後半創建 15世紀廃寺)」
・鳥取県「上淀廃寺跡(7世紀後半創建 11世紀廃寺)」
・片山廃寺跡(8世紀後半創建 10世紀廃寺)」
などが挙がっています。
では、ここ石岡の「茨城廃寺」(バラキハイジ)はどうなんでしょうか。
「イバラキハイジ」ではなく「バラキハイジ」とふり仮名が振ってあります。
石岡にあるのですが、どのくらいの人に認知されているのでしょうか?
この寺は1300年前に建てられたという国分寺よりも古くて大きな寺だったようなのです。
Wikipediaの「廃寺」として紹介に上がらないのは何故なのでしょう。
まだ調査が完全でなく、良くわかっていないということもありますが、この茨城の名前と県名発祥の地との関係も明確な統一見解はまだないようです。

高浜街道の貝地地区に「茨城廃寺跡」への案内看板があり、狭い道を入ると住宅地を抜けたところに、上の写真にある栗畑に説明看板が置かれています。
ここは、発掘調査をして、ここに金堂などがあったことが確認された場所です。

また、この家の裏手に少しうっそうとした竹林がありますが、それを越えた先に斜めに下りる道があります。
ここに廃寺の礎石が残されています。
この廃寺の礎石は市内にある「平福寺」と「清涼寺」にも残されています。どれも元々あった場所ではなく、動かされたものです。

場所は小目代公民館のとなりで、知らない方が見つけるのは大変だと思います。
ここにあることがわかっていれば比較的探しやすいのですが、道案内などの案内板が少し不足しているようです。
石岡の史跡全般にこれは言えることで、私も場所を探すのに苦労したので、HPなどではできるだけ行く道順などを載せるようにしています。
ここを最初に訪れたのは、石岡民俗資料館を見学していた時に、東京の方が見えていて、館の係りの人に場所を聞いていたので、私もわからなかったので、私の車で一緒に探しに行ったのです。
狭い道をくねくね。道を歩いている人に聞いたりしてたどりつきました。
一緒に行かれ東京の方は図書館関係の人のようでした。
「ここが茨城の名前がおこったところですね」といっていました。
「場所は茨城と漢字で書きますが、バラキと地名は読みますよ。」と教えると不思議そうな顔をされていました。
もう3~4年前ですね。

国分寺よりも前の時代に、このような立派な寺があったのです。
でも廃寺というだけですから、石岡の人にもあまり馴染みはないようです。話題にも上りません。
この大きな寺は、飛鳥時代の白鳳寺院だというのだから本当に驚きなのですが、扱いはどうも粗末に思えてしまいます。
ここでは「八郷町史(平成17年)」に記載されている説明を紹介しましょう。(石岡市史よりこちらの方が新しいので)
「茨城廃寺は、石岡市小目代に所在する白鳳寺院で、昭和55年から3年間かけて調査を行ったところ、塔跡、金堂跡、講堂跡が発見され、法隆寺式伽藍であることがわかった。塔の規模は東西約12.2m、南北約11.5mで・・・・・・・・。
茨城廃寺の屋瓦は、大きく3つの系統がある。一つは創建瓦である筑波系・・・、2つ目が結城廃寺から九重東岡廃寺の流れをひく・・・、3つ目が常陸国府系の・・・・。
・・・つまり、第1期の屋瓦が、7世紀後半、第2期が8世紀前半、第3期が8世中葉と考えられる。
墨書土器に「茨木寺」「文殊」「南院」というものがでてきており、この「茨木寺」というのは、ここが茨城郡の郡寺であることを示すものであり、那珂郡の台渡廃寺に「仲寺」、久慈郡の郡寺と想定されている薬谷廃寺から「久寺」という土器が出土しているのと同じように郡寺と考えられる」
と書かれています。
このため、7世紀後半にはこの石岡の地に、茨城郡の郡衙(ぐんが)が置かれていたということは間違いないでしょう。
しかし、昨日書いたように、茨城の名前はもっと昔からあって、最初に茨城と言った場所は
ウバラキ → ウバラ →小原 で小原神社の辺りだということだろうと思われることです。
この友部に近い小原からこの石岡へ移った時期は不明ですが、5世紀~6世紀の頃でしょうか?
卑弥呼の頃は3世紀前半ですから、何時ごろなのかは考えて見るだけで幾らでも想像できてしまいます。
東日本で2番目に大きな前方後円墳である舟塚山古墳が比較的近い場所にあります。
この古墳が造られたのはは5世紀後半と推定されていますので、この寺との関係なども何かあるのでしょうか?
常陸風土記の丘の展示室(有料)には、舟塚山古墳群の中から発掘されたという鉄製の盾と甲冑が展示されています。(こちら参照)
鉄が使われていたことに少し驚きましたが、展示室には何の説明もありませんでした。
まだまだ不明なことが多すぎますね。
さて、常陸国分寺は743年から752年にかけて建立されたのですが、この寺は、それより前であり、茨城廃寺の造られたのは、瓦から7世紀後半(670~690年頃)のことではないかと勝手に推論しています。
この県名のルーツを探る旅はとりあえず終わりにします。
調べながら興味が出てきた事柄もありますが、機会があれば別な形で紹介できるといいなと思っています。
他の県の人には興味はなかったかもしれませんね。
← よろしければクリックお願いします。
茨城群の群衙(ぐんが:群の中心で行政をつかさどる場所)がここ石岡に置かれたことを示す根拠となっているのが、今日紹介する「茨城廃寺(バラキハイジ)」の存在です。
「廃寺」というと皆さんはどんなイメージを抱くでしょうか。
私が初めてこの名前を聞いた時は「はいでら」なら、住職がいなくなって荒れ果てた無住の寺のこと?
って思いましたが、普通はその程度ですよね。
しかしこの「はいじ」というのは少し違うようです。
Wikipediaによると「廃止された仏教寺院のこと」と定義されています。
すなわち、昔寺院であったが、何かの理由で無くなってしまったものをさし、「廃寺跡」と表現されるのが普通のようです。
例えば、
・奈良の「吉備池廃寺跡(7世紀前半創建? 廃寺期不明)」
・愛知県「大山廃寺跡(7世紀後半創建 15世紀廃寺)」
・鳥取県「上淀廃寺跡(7世紀後半創建 11世紀廃寺)」
・片山廃寺跡(8世紀後半創建 10世紀廃寺)」
などが挙がっています。
では、ここ石岡の「茨城廃寺」(バラキハイジ)はどうなんでしょうか。
「イバラキハイジ」ではなく「バラキハイジ」とふり仮名が振ってあります。
石岡にあるのですが、どのくらいの人に認知されているのでしょうか?
この寺は1300年前に建てられたという国分寺よりも古くて大きな寺だったようなのです。
Wikipediaの「廃寺」として紹介に上がらないのは何故なのでしょう。
まだ調査が完全でなく、良くわかっていないということもありますが、この茨城の名前と県名発祥の地との関係も明確な統一見解はまだないようです。

高浜街道の貝地地区に「茨城廃寺跡」への案内看板があり、狭い道を入ると住宅地を抜けたところに、上の写真にある栗畑に説明看板が置かれています。
ここは、発掘調査をして、ここに金堂などがあったことが確認された場所です。

また、この家の裏手に少しうっそうとした竹林がありますが、それを越えた先に斜めに下りる道があります。
ここに廃寺の礎石が残されています。
この廃寺の礎石は市内にある「平福寺」と「清涼寺」にも残されています。どれも元々あった場所ではなく、動かされたものです。

場所は小目代公民館のとなりで、知らない方が見つけるのは大変だと思います。
ここにあることがわかっていれば比較的探しやすいのですが、道案内などの案内板が少し不足しているようです。
石岡の史跡全般にこれは言えることで、私も場所を探すのに苦労したので、HPなどではできるだけ行く道順などを載せるようにしています。
ここを最初に訪れたのは、石岡民俗資料館を見学していた時に、東京の方が見えていて、館の係りの人に場所を聞いていたので、私もわからなかったので、私の車で一緒に探しに行ったのです。
狭い道をくねくね。道を歩いている人に聞いたりしてたどりつきました。
一緒に行かれ東京の方は図書館関係の人のようでした。
「ここが茨城の名前がおこったところですね」といっていました。
「場所は茨城と漢字で書きますが、バラキと地名は読みますよ。」と教えると不思議そうな顔をされていました。
もう3~4年前ですね。

国分寺よりも前の時代に、このような立派な寺があったのです。
でも廃寺というだけですから、石岡の人にもあまり馴染みはないようです。話題にも上りません。
この大きな寺は、飛鳥時代の白鳳寺院だというのだから本当に驚きなのですが、扱いはどうも粗末に思えてしまいます。
ここでは「八郷町史(平成17年)」に記載されている説明を紹介しましょう。(石岡市史よりこちらの方が新しいので)
「茨城廃寺は、石岡市小目代に所在する白鳳寺院で、昭和55年から3年間かけて調査を行ったところ、塔跡、金堂跡、講堂跡が発見され、法隆寺式伽藍であることがわかった。塔の規模は東西約12.2m、南北約11.5mで・・・・・・・・。
茨城廃寺の屋瓦は、大きく3つの系統がある。一つは創建瓦である筑波系・・・、2つ目が結城廃寺から九重東岡廃寺の流れをひく・・・、3つ目が常陸国府系の・・・・。
・・・つまり、第1期の屋瓦が、7世紀後半、第2期が8世紀前半、第3期が8世中葉と考えられる。
墨書土器に「茨木寺」「文殊」「南院」というものがでてきており、この「茨木寺」というのは、ここが茨城郡の郡寺であることを示すものであり、那珂郡の台渡廃寺に「仲寺」、久慈郡の郡寺と想定されている薬谷廃寺から「久寺」という土器が出土しているのと同じように郡寺と考えられる」
と書かれています。
このため、7世紀後半にはこの石岡の地に、茨城郡の郡衙(ぐんが)が置かれていたということは間違いないでしょう。
しかし、昨日書いたように、茨城の名前はもっと昔からあって、最初に茨城と言った場所は
ウバラキ → ウバラ →小原 で小原神社の辺りだということだろうと思われることです。
この友部に近い小原からこの石岡へ移った時期は不明ですが、5世紀~6世紀の頃でしょうか?
卑弥呼の頃は3世紀前半ですから、何時ごろなのかは考えて見るだけで幾らでも想像できてしまいます。
東日本で2番目に大きな前方後円墳である舟塚山古墳が比較的近い場所にあります。
この古墳が造られたのはは5世紀後半と推定されていますので、この寺との関係なども何かあるのでしょうか?
常陸風土記の丘の展示室(有料)には、舟塚山古墳群の中から発掘されたという鉄製の盾と甲冑が展示されています。(こちら参照)
鉄が使われていたことに少し驚きましたが、展示室には何の説明もありませんでした。
まだまだ不明なことが多すぎますね。
さて、常陸国分寺は743年から752年にかけて建立されたのですが、この寺は、それより前であり、茨城廃寺の造られたのは、瓦から7世紀後半(670~690年頃)のことではないかと勝手に推論しています。
この県名のルーツを探る旅はとりあえず終わりにします。
調べながら興味が出てきた事柄もありますが、機会があれば別な形で紹介できるといいなと思っています。
他の県の人には興味はなかったかもしれませんね。


茨城の県名(8)-黒坂命古墳
先に茨城の県名の由来記事を書いてきました。
一応は小原神社を紹介して終わっているのですが、関連した記事を少し続けたいと思います。
茨城の名前については常陸国風土記に書かれている「黒坂命(くろさかのみこと)」なる人物が、この地に住む「野の佐伯・山の佐伯」を茨で穴や洞窟を塞いでやっつけたことが名前の由来だと書かれています。
これについては疑義があると書いてきました。
ではこの「黒坂命」とはどんな人物だったのでしょうか?
この頃の英雄はほとんど、どこかの神社に祀られ、良くわからない神様になっています。
しかし、この黒坂命はこれだけの活躍をしたにもかかわらず、死んだとされる日立市十王町の「黒前(くろさき)神社」に祀られているだけです。
調べて見ると「多氏(大氏)(おおし)」の系統の人物だったと思われます。多氏は、九州から大和に来てそして常陸の鹿島地区に来た氏族の中臣(かなとみ)=後の藤原氏の祖?と同じです。
県名の由来に書かれるにしてはあまりはっきりしたことがわかっていない気がします。
常陸国風土記では日立市十王町の竪破山(たつわれさん)で亡くなった黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かい、この時の様子から幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国といふようになったと書かれています。
そして、江戸時代に発見されたという美浦村にあるこの黒坂命の古墳(弁天塚古墳、大塚古墳等の呼び名がある)を見に行ってきました。

前に何度か探したのですが、良くわからずに断念をしたくらいわかりにくい場所です。
見つけて見れば何のことはないのに、まさかこんな場所といった感じでしょうか。
すぐ隣りは一般の家が建っています。

すこしこじんまりとした小山の円墳です。
山の上から霞ケ浦が見えます。周りは田圃など低い低地が霞ケ浦まで続きます。

山の頂上には由緒らしき説明の石板と新しい五輪塔らしきものが置かれています。
古墳の上り口の説明看板には「村指定文化財」となっており、「1847年に古墳の中腹にあった稲荷社を塚上に移す際石棺がはっけんされ、江戸時代末期の国学者色川三中(土浦市出身)が「黒坂命墳墓考」として記録されています。・・・・」
と記され、黒坂命の墓ではないかと考察したとしています。しかし、この時に発見されたとしている石棺や鏡、剣、甲冑などがたくさん記録されていますが、何も残されていません。

この古墳は下で海抜5~6m、頂上でも10mくらいです。
さて、黒坂命がこの地に来たのはいつごろなのでしょうか?
これは前に書きましたが、ヤマトタケルよりも数十年前の3世紀後半から4世紀初めだと思われます。
この古墳は2005年の筑波大考古学研究室の調査で、古墳の形態から古墳時代中期前半と思われますと、案内板にも書かれています。そうするとやはり5世紀半ばくらいのものでしょう。
黒坂命の年代は特定されていませんが、時代が合わないように思います。

国土地理院の地図から標高5mのところまで水位が高かったとしたら、水はすぐ麓まで来ていたことになります。(上の地図の左側少し突き出している所=弁天塚古墳と表示)
ここにきて、この古墳が黒坂命の古墳とはどうしても考えられないという思いが強くなりました。
江戸時代の学者が書いているといっても、可能性を述べているだけで、現在は確認の術は何もない状態です。
上の地図で緑の部分が5mの高さの時の水位。陸平貝塚のあるのは右側の島。
縄文時代は、少なくとも10~15mくらい水位が高かったと思いますので、5000年くらい前はこの古墳の場所は水没していたところだし、陸平(おかだいら)貝塚の場所も完全に島になっていたように思います。
← よろしければクリックお願いします。
一応は小原神社を紹介して終わっているのですが、関連した記事を少し続けたいと思います。
茨城の名前については常陸国風土記に書かれている「黒坂命(くろさかのみこと)」なる人物が、この地に住む「野の佐伯・山の佐伯」を茨で穴や洞窟を塞いでやっつけたことが名前の由来だと書かれています。
これについては疑義があると書いてきました。
ではこの「黒坂命」とはどんな人物だったのでしょうか?
この頃の英雄はほとんど、どこかの神社に祀られ、良くわからない神様になっています。
しかし、この黒坂命はこれだけの活躍をしたにもかかわらず、死んだとされる日立市十王町の「黒前(くろさき)神社」に祀られているだけです。
調べて見ると「多氏(大氏)(おおし)」の系統の人物だったと思われます。多氏は、九州から大和に来てそして常陸の鹿島地区に来た氏族の中臣(かなとみ)=後の藤原氏の祖?と同じです。
県名の由来に書かれるにしてはあまりはっきりしたことがわかっていない気がします。
常陸国風土記では日立市十王町の竪破山(たつわれさん)で亡くなった黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かい、この時の様子から幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国といふようになったと書かれています。
そして、江戸時代に発見されたという美浦村にあるこの黒坂命の古墳(弁天塚古墳、大塚古墳等の呼び名がある)を見に行ってきました。

前に何度か探したのですが、良くわからずに断念をしたくらいわかりにくい場所です。
見つけて見れば何のことはないのに、まさかこんな場所といった感じでしょうか。
すぐ隣りは一般の家が建っています。

すこしこじんまりとした小山の円墳です。
山の上から霞ケ浦が見えます。周りは田圃など低い低地が霞ケ浦まで続きます。

山の頂上には由緒らしき説明の石板と新しい五輪塔らしきものが置かれています。
古墳の上り口の説明看板には「村指定文化財」となっており、「1847年に古墳の中腹にあった稲荷社を塚上に移す際石棺がはっけんされ、江戸時代末期の国学者色川三中(土浦市出身)が「黒坂命墳墓考」として記録されています。・・・・」
と記され、黒坂命の墓ではないかと考察したとしています。しかし、この時に発見されたとしている石棺や鏡、剣、甲冑などがたくさん記録されていますが、何も残されていません。

この古墳は下で海抜5~6m、頂上でも10mくらいです。
さて、黒坂命がこの地に来たのはいつごろなのでしょうか?
これは前に書きましたが、ヤマトタケルよりも数十年前の3世紀後半から4世紀初めだと思われます。
この古墳は2005年の筑波大考古学研究室の調査で、古墳の形態から古墳時代中期前半と思われますと、案内板にも書かれています。そうするとやはり5世紀半ばくらいのものでしょう。
黒坂命の年代は特定されていませんが、時代が合わないように思います。

国土地理院の地図から標高5mのところまで水位が高かったとしたら、水はすぐ麓まで来ていたことになります。(上の地図の左側少し突き出している所=弁天塚古墳と表示)
ここにきて、この古墳が黒坂命の古墳とはどうしても考えられないという思いが強くなりました。
江戸時代の学者が書いているといっても、可能性を述べているだけで、現在は確認の術は何もない状態です。
上の地図で緑の部分が5mの高さの時の水位。陸平貝塚のあるのは右側の島。
縄文時代は、少なくとも10~15mくらい水位が高かったと思いますので、5000年くらい前はこの古墳の場所は水没していたところだし、陸平(おかだいら)貝塚の場所も完全に島になっていたように思います。


奈良の鹿
奈良公園にいる鹿は修学旅行生にも人気でみなさんご存じだと思います。
この奈良公園の鹿は春日大社の守り神で神聖な動物だとされています。
この春日大社は大化の改新で活躍した中臣鎌足が藤原姓を賜り、藤原鎌足となって藤原氏の繁栄を象徴するために、この藤原氏の氏神として鎌足の息子の藤原不比等により768年に建てられたものです。
そして、ここに祀られている神は藤原氏の守護神であるタケミカズチ(武甕槌命)で、これは常陸国一宮の鹿島神宮の祭神です。
中臣家は鹿島神宮の神官の家柄で、この中臣鎌足(鎌子)は常陸生まれであるとの説はかなりの信憑性があると思っています。奈良には生誕の地なる碑もできているようですが、やはり常陸生まれですよね。
鎌足(幼少時:鎌子)などと言う名前は製鉄のイメージにつながりますから。
現在世界遺産に登録されている春日大社の裏山にあたる春日山、御蓋山(三笠山)一帯は、いまでも原生林が残る貴重な区域になっていますが、これはこの場所が神聖な区域として人の立ち入りを禁止しているからなのです。
春日大社の主神、タケミカズチは768年に、この御蓋山の上に白鹿に乗って舞い降りてきたとされています。
鹿島神宮の神がこの地にやってきたのです。鎌足が鹿島出身の人でないとつじつまが合いません。
そして鹿は、貴重な神の使いの動物として狩猟が禁止されました。
鹿島神宮の鹿島は昔は香島と書いていました。しかし、鹿島に変わったのが何時なのかがはっきりしません。
さて、話変わって、百人一首の第5首目の次の有名な歌はほとんどの方はご存じだと思います。
○ 奥山に 紅葉ふみわけ なく鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき 猿丸太夫
この歌は、良く国語の問題にもなっていますね。
・もみじを踏み分けているのは歌の作者ですか?それとも鹿ですか? という問題ですね。
答えは鹿だそうです。すなわち作者は鹿の姿を想像して詠んでいるというのです。
雄鹿は9月から3カ月くらいは発情期で気が荒くなり、雄鹿が雌鹿を探して鳴いていると解釈され、遠距離恋愛などの歌の例としても良くとりあげられています。

(2010.11.21 月山寺にて)
しかし、最近になって、私は全く違った意味の歌なのではないかと気になりだしました。
この歌があるので、私は奈良の山には昔から野生の鹿がたくさんいたのだろうとばかり思っていたのです。
この鹿の鳴いていた場所がこの春日山の一帯の立ち入り禁止の山なのです。
当時藤原氏でなければどんなに優れていても出世できないとされてしまった時代だと思います。
この猿丸太夫と言う人は本当にいた人物かどうかもわかっていません。
詠み人知らずになっていた歌を小倉百人一首に載せたのです。
私にはこの歌が、藤原氏ばかりの世になってしまい、それを嘆いているように思えてなりません。
もともと奈良には山の鹿がいたのでしょうか?
春日大社創設時に、常陸の国から1年かけて陸路を、鹿を連れて奈良まで行ったという言い伝えが残っており、道中に鹿のつく地名が何箇所かあるのだといわれています。
その後、奈良の鹿が少なくなってしまい、948年には、この石岡(常陸国府)から鹿7頭を奈良に送っています。
しかし、今度は鹿島の鹿が絶滅したため、奈良から鹿を連れてきたため、今の鹿島の鹿は逆輸入鹿だといわれているのです。
今日は百人一種の秋の歌として名高い上記の歌の解釈も違った見方も出来るのではないかということを書いてみたまでですが、それにしても歌はうまいですよね。
鹿が紅葉を踏み分ける音が映像とともに聞こえてきますね。紅葉に鹿の姿は絵になるのですね。
名句だと思います。
もう一つ私の大好きな句があります。
○ 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ 藤原定家 (新古今和歌集)
歌を詠むだけでその映像が浮かんでくる。そして聞く人の心を打つ。
浮かぶのは真っ白な夕やみ迫る白銀の世界。全ての音を消してしまう雪の降る音だけが残ります。
それから、この佐野は和歌山県新宮市の辺りだそうです。
私は長いこと、厄除大師で有名な栃木県の佐野かと思っていました。
もうずっとも昔の学生の頃ですが、この春日山の裏手をまわり地獄谷石窟仏を通って柳生街道を柳生の里を通って笠置駅まで歩きましたが、まだ若かったのですね。今ではそんな元気はありませんね。
地獄谷のあたりは少し怖いくらいで、山道を入れて25kmくらいは歩いたのでしょうか。
今でも想い出に残っています。
← よろしければクリックお願いします。
この奈良公園の鹿は春日大社の守り神で神聖な動物だとされています。
この春日大社は大化の改新で活躍した中臣鎌足が藤原姓を賜り、藤原鎌足となって藤原氏の繁栄を象徴するために、この藤原氏の氏神として鎌足の息子の藤原不比等により768年に建てられたものです。
そして、ここに祀られている神は藤原氏の守護神であるタケミカズチ(武甕槌命)で、これは常陸国一宮の鹿島神宮の祭神です。
中臣家は鹿島神宮の神官の家柄で、この中臣鎌足(鎌子)は常陸生まれであるとの説はかなりの信憑性があると思っています。奈良には生誕の地なる碑もできているようですが、やはり常陸生まれですよね。
鎌足(幼少時:鎌子)などと言う名前は製鉄のイメージにつながりますから。
現在世界遺産に登録されている春日大社の裏山にあたる春日山、御蓋山(三笠山)一帯は、いまでも原生林が残る貴重な区域になっていますが、これはこの場所が神聖な区域として人の立ち入りを禁止しているからなのです。
春日大社の主神、タケミカズチは768年に、この御蓋山の上に白鹿に乗って舞い降りてきたとされています。
鹿島神宮の神がこの地にやってきたのです。鎌足が鹿島出身の人でないとつじつまが合いません。
そして鹿は、貴重な神の使いの動物として狩猟が禁止されました。
鹿島神宮の鹿島は昔は香島と書いていました。しかし、鹿島に変わったのが何時なのかがはっきりしません。
さて、話変わって、百人一首の第5首目の次の有名な歌はほとんどの方はご存じだと思います。
○ 奥山に 紅葉ふみわけ なく鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき 猿丸太夫
この歌は、良く国語の問題にもなっていますね。
・もみじを踏み分けているのは歌の作者ですか?それとも鹿ですか? という問題ですね。
答えは鹿だそうです。すなわち作者は鹿の姿を想像して詠んでいるというのです。
雄鹿は9月から3カ月くらいは発情期で気が荒くなり、雄鹿が雌鹿を探して鳴いていると解釈され、遠距離恋愛などの歌の例としても良くとりあげられています。

(2010.11.21 月山寺にて)
しかし、最近になって、私は全く違った意味の歌なのではないかと気になりだしました。
この歌があるので、私は奈良の山には昔から野生の鹿がたくさんいたのだろうとばかり思っていたのです。
この鹿の鳴いていた場所がこの春日山の一帯の立ち入り禁止の山なのです。
当時藤原氏でなければどんなに優れていても出世できないとされてしまった時代だと思います。
この猿丸太夫と言う人は本当にいた人物かどうかもわかっていません。
詠み人知らずになっていた歌を小倉百人一首に載せたのです。
私にはこの歌が、藤原氏ばかりの世になってしまい、それを嘆いているように思えてなりません。
もともと奈良には山の鹿がいたのでしょうか?
春日大社創設時に、常陸の国から1年かけて陸路を、鹿を連れて奈良まで行ったという言い伝えが残っており、道中に鹿のつく地名が何箇所かあるのだといわれています。
その後、奈良の鹿が少なくなってしまい、948年には、この石岡(常陸国府)から鹿7頭を奈良に送っています。
しかし、今度は鹿島の鹿が絶滅したため、奈良から鹿を連れてきたため、今の鹿島の鹿は逆輸入鹿だといわれているのです。
今日は百人一種の秋の歌として名高い上記の歌の解釈も違った見方も出来るのではないかということを書いてみたまでですが、それにしても歌はうまいですよね。
鹿が紅葉を踏み分ける音が映像とともに聞こえてきますね。紅葉に鹿の姿は絵になるのですね。
名句だと思います。
もう一つ私の大好きな句があります。
○ 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ 藤原定家 (新古今和歌集)
歌を詠むだけでその映像が浮かんでくる。そして聞く人の心を打つ。
浮かぶのは真っ白な夕やみ迫る白銀の世界。全ての音を消してしまう雪の降る音だけが残ります。
それから、この佐野は和歌山県新宮市の辺りだそうです。
私は長いこと、厄除大師で有名な栃木県の佐野かと思っていました。
もうずっとも昔の学生の頃ですが、この春日山の裏手をまわり地獄谷石窟仏を通って柳生街道を柳生の里を通って笠置駅まで歩きましたが、まだ若かったのですね。今ではそんな元気はありませんね。
地獄谷のあたりは少し怖いくらいで、山道を入れて25kmくらいは歩いたのでしょうか。
今でも想い出に残っています。


葦原の鹿
さて、昨日、奈良の鹿が鹿島の鹿を連れて行ったもので、藤原氏の祈願所である奈良の春日大社はこの鹿島神宮の神を奈良に分霊したものだと書きました。
今日はその奈良の鹿に絡む話ですが、長ったらしいので、興味のある人だけ読んでくださいね。
奈良の都で春日大社を建て、勢力を拡大した藤原氏が日本の歴史を数百年間にわたって、封印してしまったので謎解きゲームのようなことが必要になってきているように思われます。
石岡の歴史についても、古墳時代は何もわかっていません。歴史と言うのがこの風土記からはじまるのです。
常陸国風土記の編纂者として名前があがっている「藤原宇合(うまかい)」は藤原氏の基を築いた藤原不比等の三男で、719年に25~26歳で常陸国守として赴任し、723年まで滞在しました。
みやこに戻って翌年には蝦夷で反乱が起こり、鎮圧のために陸奥国に大将軍として出かけています。
この宇合が赴任を終えて戻る時にこの地の娘から贈られた歌が石岡小学校の敷地に置かれています。

「庭に立つ 麻手(あさで)刈り干し布曝(さら)す 東女(あづまをみな)を忘れたまふな」(藤原 宇合(うまかひ)大夫(まへつきみ) 、任 遷(うつ)りて京に上る時に 常陸娘子(ひたちのをとめ)の贈る歌)
(麻を、刈ったり干したり晒したりしていた東国の女を忘れないでくださいの意見)
この頃からこの地の歴史が始まり1300年の歴史と言われるゆえんですが、この前はというと皆考古学とみなされて、その間の繋がりが無くなってしまっているのです。
ここに藤原氏が封印した歴史が眠っているのでしょう。
さて、今日の話の「葦原(あしはら)の鹿」については、この歴史から脱落してしまった世界が書かれているように思います。歴史の学問から外されてしまった世界のようです。
実は、これは茨城県の県名の由来を書いてきた時に気になった項目の一つです。
「常陸国風土記」で、黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなって戻って埋葬された地とされる信太郡(しだぐん)について以下のような不思議なことが書かれています。
「諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」(口訳・常陸国風土記)
そのまま解釈すれば、
「葦の茂るような湿地帯に棲む鹿の肉は下総などの鹿とは味が違う(まずい)ので、狩りをして全滅させられることもないだろう。」
というようなことでしょうか。
このすぐ前には、この地(信太郡あたりの地)のことを「葦原の中津の国」とも表現されていますので、この信太郡の地の鹿のことを書いていることになります。
古事記や日本書紀では「葦原中国(あしはらのなかつくに)」はこの日本国の最初の国だとされており、それが出雲にあり、これを譲り受けることで、今の天皇制の国家が出来上がったとされています。
従って、何故常陸風土記ではこの信太の地を「葦原の中津の国」と呼んだのでしょうか。
また、黒坂命がこの地に戻る時に「日高見の国」と書かれているのでしょうか?
「日高見国(ひたかみのくに)」は辞書をひくと、「日本書紀に登場する現在の東日本(一説では東北地方、岩手県内の北上川流域)にあったとされる蝦夷の国である」と書かれています。
これは、景行天皇27年(4世紀初め頃?)、武内宿禰が東国を巡視し、「東に日高見国がある。蝦夷が住んでおり、土地は肥沃で広大である。征服すべきである」と報告したという記載が基になっています。
そして、ヤトタケルが派遣されて、統一されることになるのです。
ヤマトタケルは実在したかははっきりしませんが、黒坂命はそれより数十年前の時代で、常陸国の北部まで大和朝廷の勢力を拡大した人物です。
従って、この日高見国(ひだかみのくに)は、蝦夷の国ではなく、蝦夷と接する大和朝廷の最前線の安定した(制覇されて完全に自分たちの勢力範囲になった)地域を指す言葉と解釈してよさそうです。
黒坂命の時代はこの霞ケ浦を渡る手前の「信太郡」の地域です。
そして、その後常陸国全体がこの日高見国になり、この地を「常陸」と呼ぶようになったものと思います。
(「常陸」の語源は常道、直道など平地がつながっている様からきており、東北(蝦夷地)を道奥と書いていたものが、陸奥と書くようになり、常陸になったというのが、今では定説のようですが、これは承知の上で、このように考えてもいいのではないかということです)
その更にもっと前については、面白い記事を読みました。
和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺「道成寺」に残る古話「安珍・清姫伝説」の話を風の会の会報(こちら2P目から)に書かれた内容です。
道成寺は701年に建立されてた大変古い寺で、ここに伝わるこの古い言い伝えが歌舞伎や能で演じられてきているのは大変興味深いと感じます。
要するに、この日高郡の地名こそが、昔この地(和歌山県)が日高見国であって、大和に入るのに苦戦したところをヤタガラスがでてきて道案内して、無事にヤマトの国に入ることができたことにつながるって来るようです。
さて、常陸国風土記では、続けて、
「榎(え)の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神(今の鹿島神宮)を遥拝し、そののちに国に入ることができる。」(注:駅家(うまや)は律令制時代に整備した官道の駅にあたるもので、馬を数台常駐させ、官史などの往来時に宿や馬の交換などを行なっていた場所です。)
と書かれているのです。

(信太(しだ)郡は常陸国の入口でした。ここから流海(香取の海)=霞ケ浦を渡っていたのです。)
これは、意味もわからないので適当に読み飛ばしていましたが、考えて見るととても意味深な言葉に思えます。
・ 葦原中国(あしはらのなかつくに)というのは、日本神話に登場するこの日本の始まりの国です。
そしてこれは出雲にあったとされています。(国譲りの話に出てくる)
・ 国譲りでは鹿島神宮神(タケミカズチ(建御雷神))と香取神宮神(フツヌシ(経津主神))が出雲に赴き、強引に国譲りを成し遂げます。
・ 鹿島神宮と香取神宮は、伊勢神宮を合わせた三社のみが昔は神宮と言う特別な名で呼ばれています。
・ 鹿島神宮は常陸国の一宮、香取神宮は下総国の一宮です。
・ この信太(しだ)郡は、この平安の時代以前は「常陸国」への入口でした。大昔の古東海道はここから霞ケ浦(流海・香取海)を舟で渡っていたのです。
渡った先はかすみがうら市の旧出島の牛渡(うしわた)辺りですが、一部は行方(なめかた)の方にも渡っていたかもしれません。
ヤマトタケルの伝説が対岸の行方に多いのは、この黒坂命が自分たちの勢力範囲と出来ていなかったところがこの地に残されていたのでしょう。
そして数十年後のヤマトタケルの時代になって、この地から舟で行方へ渡って、こちらにいた人々を服従させていったと考えるのがもっとも考えられることどと思われます。
そして以前書いた「清玉井」「現原の丘」などの話になっていったものと考えられます。
・香取神宮は「物部氏」。鹿島は「中臣氏」。そして鹿島の名前は、昔は香島と書いていたが、何時しか鹿島に変わっています。
中臣(なかとみ)氏は鹿島神宮の神官として、神と人との間をとりもつ(中をとりもつ人で「中臣」)占いの氏族でしょう。
九州が起源とされる皇族とかかわりを持つ古族「多(おお)氏」の系列です。
香取神宮の経津主神は物部氏が海洋技術に長けていたのでしょう。「舵取り=香取」でしょう。
そして、藤原氏の祖「中臣(なかとみ)氏」の神=タケミカズチ がこの物部(もののべ)を取りこんで行ったのでしょうね。そして、あたかも自分の仲間と言うように、一緒に神として祀った。
常陸国の入口を押さえた二つの神社はこんな意味合いがあったのでしょう。
冒頭で述べた「葦原の鹿」と言うのは、まだ鹿島(=香島)が香取を支配できていなかった不安定な時代のことを暗示しているのかもしれません。
ああ、なんだかこんがらがってきましたね。このパズルを解いてほしい!!
でもハズルを解いてしまうと1300年封印してきたパンドラの箱を開けてしまうかもしれません。
なんか怖いですね。これは程々にして、今度は写真いっぱいの記事に戻しましょう。
長ったらしい文を最後までお読みいただきありがとうございました。
← よろしければクリックお願いします。
今日はその奈良の鹿に絡む話ですが、長ったらしいので、興味のある人だけ読んでくださいね。
奈良の都で春日大社を建て、勢力を拡大した藤原氏が日本の歴史を数百年間にわたって、封印してしまったので謎解きゲームのようなことが必要になってきているように思われます。
石岡の歴史についても、古墳時代は何もわかっていません。歴史と言うのがこの風土記からはじまるのです。
常陸国風土記の編纂者として名前があがっている「藤原宇合(うまかい)」は藤原氏の基を築いた藤原不比等の三男で、719年に25~26歳で常陸国守として赴任し、723年まで滞在しました。
みやこに戻って翌年には蝦夷で反乱が起こり、鎮圧のために陸奥国に大将軍として出かけています。
この宇合が赴任を終えて戻る時にこの地の娘から贈られた歌が石岡小学校の敷地に置かれています。

「庭に立つ 麻手(あさで)刈り干し布曝(さら)す 東女(あづまをみな)を忘れたまふな」(藤原 宇合(うまかひ)大夫(まへつきみ) 、任 遷(うつ)りて京に上る時に 常陸娘子(ひたちのをとめ)の贈る歌)
(麻を、刈ったり干したり晒したりしていた東国の女を忘れないでくださいの意見)
この頃からこの地の歴史が始まり1300年の歴史と言われるゆえんですが、この前はというと皆考古学とみなされて、その間の繋がりが無くなってしまっているのです。
ここに藤原氏が封印した歴史が眠っているのでしょう。
さて、今日の話の「葦原(あしはら)の鹿」については、この歴史から脱落してしまった世界が書かれているように思います。歴史の学問から外されてしまった世界のようです。
実は、これは茨城県の県名の由来を書いてきた時に気になった項目の一つです。
「常陸国風土記」で、黒坂命(くろさかのみこと)が亡くなって戻って埋葬された地とされる信太郡(しだぐん)について以下のような不思議なことが書かれています。
「諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」(口訳・常陸国風土記)
そのまま解釈すれば、
「葦の茂るような湿地帯に棲む鹿の肉は下総などの鹿とは味が違う(まずい)ので、狩りをして全滅させられることもないだろう。」
というようなことでしょうか。
このすぐ前には、この地(信太郡あたりの地)のことを「葦原の中津の国」とも表現されていますので、この信太郡の地の鹿のことを書いていることになります。
古事記や日本書紀では「葦原中国(あしはらのなかつくに)」はこの日本国の最初の国だとされており、それが出雲にあり、これを譲り受けることで、今の天皇制の国家が出来上がったとされています。
従って、何故常陸風土記ではこの信太の地を「葦原の中津の国」と呼んだのでしょうか。
また、黒坂命がこの地に戻る時に「日高見の国」と書かれているのでしょうか?
「日高見国(ひたかみのくに)」は辞書をひくと、「日本書紀に登場する現在の東日本(一説では東北地方、岩手県内の北上川流域)にあったとされる蝦夷の国である」と書かれています。
これは、景行天皇27年(4世紀初め頃?)、武内宿禰が東国を巡視し、「東に日高見国がある。蝦夷が住んでおり、土地は肥沃で広大である。征服すべきである」と報告したという記載が基になっています。
そして、ヤトタケルが派遣されて、統一されることになるのです。
ヤマトタケルは実在したかははっきりしませんが、黒坂命はそれより数十年前の時代で、常陸国の北部まで大和朝廷の勢力を拡大した人物です。
従って、この日高見国(ひだかみのくに)は、蝦夷の国ではなく、蝦夷と接する大和朝廷の最前線の安定した(制覇されて完全に自分たちの勢力範囲になった)地域を指す言葉と解釈してよさそうです。
黒坂命の時代はこの霞ケ浦を渡る手前の「信太郡」の地域です。
そして、その後常陸国全体がこの日高見国になり、この地を「常陸」と呼ぶようになったものと思います。
(「常陸」の語源は常道、直道など平地がつながっている様からきており、東北(蝦夷地)を道奥と書いていたものが、陸奥と書くようになり、常陸になったというのが、今では定説のようですが、これは承知の上で、このように考えてもいいのではないかということです)
その更にもっと前については、面白い記事を読みました。
和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺「道成寺」に残る古話「安珍・清姫伝説」の話を風の会の会報(こちら2P目から)に書かれた内容です。
道成寺は701年に建立されてた大変古い寺で、ここに伝わるこの古い言い伝えが歌舞伎や能で演じられてきているのは大変興味深いと感じます。
要するに、この日高郡の地名こそが、昔この地(和歌山県)が日高見国であって、大和に入るのに苦戦したところをヤタガラスがでてきて道案内して、無事にヤマトの国に入ることができたことにつながるって来るようです。
さて、常陸国風土記では、続けて、
「榎(え)の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神(今の鹿島神宮)を遥拝し、そののちに国に入ることができる。」(注:駅家(うまや)は律令制時代に整備した官道の駅にあたるもので、馬を数台常駐させ、官史などの往来時に宿や馬の交換などを行なっていた場所です。)
と書かれているのです。

(信太(しだ)郡は常陸国の入口でした。ここから流海(香取の海)=霞ケ浦を渡っていたのです。)
これは、意味もわからないので適当に読み飛ばしていましたが、考えて見るととても意味深な言葉に思えます。
・ 葦原中国(あしはらのなかつくに)というのは、日本神話に登場するこの日本の始まりの国です。
そしてこれは出雲にあったとされています。(国譲りの話に出てくる)
・ 国譲りでは鹿島神宮神(タケミカズチ(建御雷神))と香取神宮神(フツヌシ(経津主神))が出雲に赴き、強引に国譲りを成し遂げます。
・ 鹿島神宮と香取神宮は、伊勢神宮を合わせた三社のみが昔は神宮と言う特別な名で呼ばれています。
・ 鹿島神宮は常陸国の一宮、香取神宮は下総国の一宮です。
・ この信太(しだ)郡は、この平安の時代以前は「常陸国」への入口でした。大昔の古東海道はここから霞ケ浦(流海・香取海)を舟で渡っていたのです。
渡った先はかすみがうら市の旧出島の牛渡(うしわた)辺りですが、一部は行方(なめかた)の方にも渡っていたかもしれません。
ヤマトタケルの伝説が対岸の行方に多いのは、この黒坂命が自分たちの勢力範囲と出来ていなかったところがこの地に残されていたのでしょう。
そして数十年後のヤマトタケルの時代になって、この地から舟で行方へ渡って、こちらにいた人々を服従させていったと考えるのがもっとも考えられることどと思われます。
そして以前書いた「清玉井」「現原の丘」などの話になっていったものと考えられます。
・香取神宮は「物部氏」。鹿島は「中臣氏」。そして鹿島の名前は、昔は香島と書いていたが、何時しか鹿島に変わっています。
中臣(なかとみ)氏は鹿島神宮の神官として、神と人との間をとりもつ(中をとりもつ人で「中臣」)占いの氏族でしょう。
九州が起源とされる皇族とかかわりを持つ古族「多(おお)氏」の系列です。
香取神宮の経津主神は物部氏が海洋技術に長けていたのでしょう。「舵取り=香取」でしょう。
そして、藤原氏の祖「中臣(なかとみ)氏」の神=タケミカズチ がこの物部(もののべ)を取りこんで行ったのでしょうね。そして、あたかも自分の仲間と言うように、一緒に神として祀った。
常陸国の入口を押さえた二つの神社はこんな意味合いがあったのでしょう。
冒頭で述べた「葦原の鹿」と言うのは、まだ鹿島(=香島)が香取を支配できていなかった不安定な時代のことを暗示しているのかもしれません。
ああ、なんだかこんがらがってきましたね。このパズルを解いてほしい!!
でもハズルを解いてしまうと1300年封印してきたパンドラの箱を開けてしまうかもしれません。
なんか怖いですね。これは程々にして、今度は写真いっぱいの記事に戻しましょう。
長ったらしい文を最後までお読みいただきありがとうございました。


新治廃寺跡
以前に茨城県の県名の由来を取り上げてきました(こちら)。
その中で、新治郡(ニイハリグン)の名前が時期より移ってきたことを書きました。(こちら)
そのため、古代の新治郡と言われた旧協和町の新治廃寺跡地を見に行きました。
国道50号線の街道にそったところに史跡の碑が建っています。
新治郡の郡衙(ぐんが)跡は地図では50号線の反対側のすぐそばのようです。
こちらには行っていません。

通りに面して石碑がありますが、気をつけて見ていないと見落としてしまうでしょう。
ここを通る人もあまり気にして見る人はいないようです。

常陸国風土記に書かれているヤマトタケルが来た頃には常陸国はまだ存在しておらず、新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の小国があったと書かれています。
その時の新治の小国がこの辺りにあったのです。常陸国が成立した後も「新治郡」としてこの地に郡衙があったと考えられています。

ここは国の指定史跡です。
昭和14年からの発掘調査によって、金堂の東西にそれぞれ塔(東塔、西塔)を配置し、それらが一直線上に並ぶ伽藍(がらん)配置をもつことが明らかとなりました。
この木のあるところが「金堂跡」で左右に「東塔跡」と「西塔跡」があります。
塔の跡は土を盛ってあるのでそのように知っていればわかります。
講堂跡はこの木の北側(向こう側)です。
出土した古瓦も豊富で文字瓦も含まれており、奈良時代の東国への仏教文化の伝播を知る遺跡であると紹介されています。

すぐ近くにこの寺の瓦を焼いたと思われる「上野原瓦窯跡」が発見されています。

通りからはすぐ近くに椎(スタジイ)の大木と案内看板が見えますが、その場所へ行く道路がありません。
畑のようになった場所を慎重に歩いて行きましたが、雨が上がったばかりでしたので靴は泥だらけになってしまいました。
とり付き道路くらいは造っていただきたいですね。
常陸の国名由来としてあげられているヤマトタケルの衣の袖が水にぬれたので、水に浸したことから「ヒタチ」となった説も一部ではあるが、その伝説はここ新治郡である。
また、この裏筑波山から笠間にかけては「出雲系」の人々が移り住んでいったようである。
この地に残された神社などにはたくさんの出雲神話が残されている。
その中で、新治郡(ニイハリグン)の名前が時期より移ってきたことを書きました。(こちら)
そのため、古代の新治郡と言われた旧協和町の新治廃寺跡地を見に行きました。
国道50号線の街道にそったところに史跡の碑が建っています。
新治郡の郡衙(ぐんが)跡は地図では50号線の反対側のすぐそばのようです。
こちらには行っていません。

通りに面して石碑がありますが、気をつけて見ていないと見落としてしまうでしょう。
ここを通る人もあまり気にして見る人はいないようです。

常陸国風土記に書かれているヤマトタケルが来た頃には常陸国はまだ存在しておらず、新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の小国があったと書かれています。
その時の新治の小国がこの辺りにあったのです。常陸国が成立した後も「新治郡」としてこの地に郡衙があったと考えられています。

ここは国の指定史跡です。
昭和14年からの発掘調査によって、金堂の東西にそれぞれ塔(東塔、西塔)を配置し、それらが一直線上に並ぶ伽藍(がらん)配置をもつことが明らかとなりました。
この木のあるところが「金堂跡」で左右に「東塔跡」と「西塔跡」があります。
塔の跡は土を盛ってあるのでそのように知っていればわかります。
講堂跡はこの木の北側(向こう側)です。
出土した古瓦も豊富で文字瓦も含まれており、奈良時代の東国への仏教文化の伝播を知る遺跡であると紹介されています。

すぐ近くにこの寺の瓦を焼いたと思われる「上野原瓦窯跡」が発見されています。

通りからはすぐ近くに椎(スタジイ)の大木と案内看板が見えますが、その場所へ行く道路がありません。
畑のようになった場所を慎重に歩いて行きましたが、雨が上がったばかりでしたので靴は泥だらけになってしまいました。
とり付き道路くらいは造っていただきたいですね。
常陸の国名由来としてあげられているヤマトタケルの衣の袖が水にぬれたので、水に浸したことから「ヒタチ」となった説も一部ではあるが、その伝説はここ新治郡である。
また、この裏筑波山から笠間にかけては「出雲系」の人々が移り住んでいったようである。
この地に残された神社などにはたくさんの出雲神話が残されている。
常陸国<倭名類聚抄>
すっかりこのブログも更新から遠ざかってしまいました。
昔は毎日更新していたのに・・・・・
本作りや講演の資料造りなどを優先して、まあ言い訳はそれくらいで、少し反省ですね。
さて、資料つくりなどをしていて、その中で少し記録にとどめておかなければいけないと思い、今回記事としてみました。
平安時代の西暦930年代頃に編纂されたとされる「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という昔の辞書がある。
これは十巻ものと二十巻物が存在するらしいが、その二十巻物の中に当時の「国・郡・郷」の名前が書かれていて、当時の古代律令制における地名の研究の基資料といわれている。
今ではパソコンで国会図書館のアーカイブを検索してみる事ができて大変重宝している。
私は必要なところを取り出して、自分専用の書籍に製本して手元の置いている。
今日は、あまり見たことがない方のために、この中から常陸国を取り上げてみたい。

上の図は2箇所を常陸国に関係するところだけを抜粋したものである。
右側は「東海国」とあるが、都(五畿内)から地方に整備された七道の中の「(古)東海道」に属している国名が書かれている。
伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河(三河)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸
となっており、終点が「常陸国」である。
各国名の下には万葉仮名で読みが書かれている。
たとえば、参河は「三加波」、遠江は「止保太阿不三」で、常陸は「比太知」=ヒタチ である。
また、この中の武蔵国は律令制の最初は東山道に属していたが、荷物運搬にも不便となり西暦771年にこちらの東海道に編入されたものだ。
また、図の左半分は、常陸国の石高、都までの行程や、中の郡名が書かれている。
石高は田四萬九十二町六段百十二歩・・・などとあり、上総の二萬二千八百四十六町、下総の二萬六千四百三十二町などと比べても圧倒的に大きな田を持つ国であったことが分る。
行程は上三十日、下十五日と都までの行き帰りの日数が倍半分違うが、これは恐らく上りは荷物を運ぶためであり、下りは荷物がないためだろうと思う。
この行程日数も、上総国(市原)、下総国(市川)共に同じ日数がかかれており、同じ古東海道を通っていても必ずしも途中の国府に立ち寄ったりはしていないのだろうと思われます。
ただこの十世紀始めの東海道が、東京湾を渡るルートであったかといえば、武蔵国が東海道に編入されて暫く建った西暦805~810年頃には東京湾を舟で渡るルートは恐らく廃止されているようなので、何故常陸国(石岡)からと下総(市川)から都までの日数が同じなのかは不明である。
またこのところで特に注目すべきは「茨城(郡)」の読み方だ。
茨城=「牟波良岐」とあり、ここに常陸国の国府があったことが記されている。
牟波良岐=ムバラキ と読むのが一般的だろう。 イバラキとは読めない。
当時はムバラキと発音されていたと考えて良いだろう。
学者の先生はこれはマチガイではないかなどと言われる方もあるようだが、間違いとは思われない。
茨(イバラ)の生茂った原などを、古語では「おどろ=棘/荊棘」などと言っていたというので「おどろ原」⇒小原などが茨城地名の元なのかも知れない。
笠間市小原近くに大昔の茨城郡の郡の中心があったという説があるからである。
(茨城郡の郡衙は、途中でその地が茨城郡から那珂郡に編入される事になり、その後、現在の石岡の地に移った事が風土記にも記されている)
ハラキというのも「切り開く」という言葉を意味すると考えればいいのではないだろうか。
まあ考えるのは自由であるから、今回は倭名抄の内容を紹介したくなりました。
昔は毎日更新していたのに・・・・・
本作りや講演の資料造りなどを優先して、まあ言い訳はそれくらいで、少し反省ですね。
さて、資料つくりなどをしていて、その中で少し記録にとどめておかなければいけないと思い、今回記事としてみました。
平安時代の西暦930年代頃に編纂されたとされる「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」という昔の辞書がある。
これは十巻ものと二十巻物が存在するらしいが、その二十巻物の中に当時の「国・郡・郷」の名前が書かれていて、当時の古代律令制における地名の研究の基資料といわれている。
今ではパソコンで国会図書館のアーカイブを検索してみる事ができて大変重宝している。
私は必要なところを取り出して、自分専用の書籍に製本して手元の置いている。
今日は、あまり見たことがない方のために、この中から常陸国を取り上げてみたい。

上の図は2箇所を常陸国に関係するところだけを抜粋したものである。
右側は「東海国」とあるが、都(五畿内)から地方に整備された七道の中の「(古)東海道」に属している国名が書かれている。
伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河(三河)・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸
となっており、終点が「常陸国」である。
各国名の下には万葉仮名で読みが書かれている。
たとえば、参河は「三加波」、遠江は「止保太阿不三」で、常陸は「比太知」=ヒタチ である。
また、この中の武蔵国は律令制の最初は東山道に属していたが、荷物運搬にも不便となり西暦771年にこちらの東海道に編入されたものだ。
また、図の左半分は、常陸国の石高、都までの行程や、中の郡名が書かれている。
石高は田四萬九十二町六段百十二歩・・・などとあり、上総の二萬二千八百四十六町、下総の二萬六千四百三十二町などと比べても圧倒的に大きな田を持つ国であったことが分る。
行程は上三十日、下十五日と都までの行き帰りの日数が倍半分違うが、これは恐らく上りは荷物を運ぶためであり、下りは荷物がないためだろうと思う。
この行程日数も、上総国(市原)、下総国(市川)共に同じ日数がかかれており、同じ古東海道を通っていても必ずしも途中の国府に立ち寄ったりはしていないのだろうと思われます。
ただこの十世紀始めの東海道が、東京湾を渡るルートであったかといえば、武蔵国が東海道に編入されて暫く建った西暦805~810年頃には東京湾を舟で渡るルートは恐らく廃止されているようなので、何故常陸国(石岡)からと下総(市川)から都までの日数が同じなのかは不明である。
またこのところで特に注目すべきは「茨城(郡)」の読み方だ。
茨城=「牟波良岐」とあり、ここに常陸国の国府があったことが記されている。
牟波良岐=ムバラキ と読むのが一般的だろう。 イバラキとは読めない。
当時はムバラキと発音されていたと考えて良いだろう。
学者の先生はこれはマチガイではないかなどと言われる方もあるようだが、間違いとは思われない。
茨(イバラ)の生茂った原などを、古語では「おどろ=棘/荊棘」などと言っていたというので「おどろ原」⇒小原などが茨城地名の元なのかも知れない。
笠間市小原近くに大昔の茨城郡の郡の中心があったという説があるからである。
(茨城郡の郡衙は、途中でその地が茨城郡から那珂郡に編入される事になり、その後、現在の石岡の地に移った事が風土記にも記されている)
ハラキというのも「切り開く」という言葉を意味すると考えればいいのではないだろうか。
まあ考えるのは自由であるから、今回は倭名抄の内容を紹介したくなりました。
| HOME |