三光の宮

今日は昨夜からずっと強い雨が降り続いたがようやく夕方になって降りやんだ。
最近は天候も極端になってきた。これも地球温暖化の影響なのだろう。
世界の人口を考えればこの先人類はうまくやっていけるのかと心配になる。
自国の利益優先という間違った愛国心のエゴが地球を破滅に追いやるかも知れない。
中秋の名月はあいにく見られなかったが、前後の月は優しく輝いていた。
月の大きさは地球の1/4だから、月から地球を見たら月の4倍の大きさに見えるはずである。
地球は青いというので、どんなに美しいのだろうか?見てみたいものだ。
その美しい地球で醜いエゴが渦巻いているのはいただけない。
戦後65年が経ち私を含め戦争を知らずに育った人がほとんどになった。
しかし人類の歴史は過ちの繰り返しできた。
さ~て、これからの100年をどう乗り越えていけるのでしょうか?
ロシアへは5-6年前に訪れた時に比べて年々昔に逆戻りしているようで心配になった。
周辺の国々との間でギクシャクしてきて、軍事的な高圧化が目立つようになってきた。
北方領土などもこのままでは進みそうにない。現政権では何もできないようにも思う。
さて、いつもならもうススキの穂も目立ってくると思うのだが、彼岸花と同じく大分遅くなってしまったようである。ススキがなければ中秋の名月も物足りない。
石岡も日天宮、月天宮、星之宮という三光の宮なるものがある。
歴史は1300年程前からあるともいわれ、古そうであるが、あまり紹介されることは少ない。
特に、星之宮は現在なく、総社宮に合祀されている。
元あった場所は、石岡二高のすぐ手前(国分寺の裏手)であり、小さな公園がある。
この三つのお宮が三角形に結ばれトライアングルを形成していた。
昔にこのお宮をこの位置に配置したことは、何か意味を持たせていたはずで今では考察もされていない。
江戸時代に水戸街道(陸前浜街道)ができ、明治に鉄道が敷かれ、昭和になって国道6号線が開通したのである。
鎌倉時代の前にはどのような道があったのだろうか。
こんなことを考えるのはおかしいのかもしれないが、まあ、考えているうちに何か気がつくこともあるでしょう。
三村から中津川で恋瀬川をわたり、田島の方を通って、日天宮と月天宮(貝地)の間を抜けるような道があったのかもしれない。
護身地蔵などもあるが、戦国時代のいわれはあるが、何時からあったものだろうか?
もっとも今の位置は6号国道建設時に移動されているが・・・・。
考古学と書物の歴史以外にも地元に残る伝承などももう少し研究すると面白いのにな~。

石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/28 21:36

国府と国衙(こくが)

 今日は気温が比較的高いとの予報であったが、一日中冷たい雨が降ったりやんだり。
仕事に出かけ昼ごろから少し調子が悪く、風邪を引いたのかもしれない。
早めに帰宅し、少しの間横になっていた。
このブログも100日を過ぎ、読んでいただける方も少し増えたようだ。
毎回何かテーマを決めて続いて書くのも楽しくもあるいのだが苦しみも増えてきている。
私は好き勝手なことを書いているにすぎないが、書かれて気分を害される人もおられると思う。
しかし、全体を通して見ていただければ、この常世の国を愛してやまない一人であることはわかってもらえると思う。
今日はこんな調子であるのでブログの内容は1週間ほど前に書きためていたものを公開という形となることをお許し願いたい。
 
 今月の市報に現石岡小学校の敷地内にある「常陸国衙跡」が正式に国指定史跡に登録されたという。
登録の名称では「常陸国府跡」と国衙という難しい漢字は使われないようだ。
これで、国分寺跡・国分尼寺跡・国府跡の3つの史跡が登録されその確認がされている全国唯一の都市
となった。これは画期的なことである。
市では出土品や写真などを近くの民俗資料館で展示するという。
しかし、ご存知の方も多いが、この資料館は小さくて展示内容も中途半端である。
昔からこのスタイルでやってきた・・・・。これはこの資料館の設立に関係するのかもしれない。
天狗党の残した柱の刀傷と国分寺や国衙からの出土品が同じフロアに広げられたイメージ。
現在開館も金・土・日(祝日)のみ。無料なのはありがたいが歴史の町が泣いているようにも思われます。
市民会館と一緒に運営管理し、風土記の丘の有料展示室と一緒の管理が望まれます。
「何か古いものがあるぞ!」とばかり自慢し、自分よがりに見えてなりません。
現代はいろいろなことをオープンにして、情報をいかに多くの人に知らしめて行くかということに
その知恵と能力を発揮していける人が必要だと思っています。
イベント広場に新たなものを建設しても、今のような意識ではろくなものができないとあきらめも
顔をのぞかせてきています。

現在水戸の近代美術館で「さよなら滝平二郎~はるかなるふるさとへ」展を開催しています。
切り絵作家として名高いですが、絵本の挿し絵は独特の郷愁が感じられますね。
時間がありましたら一度見学にお出かけください。(水戸千波湖脇です)
 
 

石岡市内 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2010/11/26 18:21

舟塚山古墳

 昨夜から今朝は大雨で大変であったが、昼から天気となった。
しかし気温が生温かく何か変な陽気である。
茨城には竜巻注意報がでたとか。今も風が結構強く吹いている。
今日は石岡が誇る「舟塚山古墳」について、少し書いてみたい。
石岡の名所案内には必ず出てくる名前なのだが、私が隣町に長く住んでいた時には
一度も聞いたことがなかった。地元では有名でもそんなものなのだろう。
この古墳は東日本で2番目の大きさだとなっている。しかし1番目がどこか、また
日本でどのくらいの規模かは何処にも記載されていない。
ネットで調べてみると、東日本での1番目は群馬県太田市の太田天神山古墳で全長210m
で日本全体では27位。舟塚山古墳は全長186mで日本では46番目だという。
さすがに関西が多く、1位は仁徳天皇陵で486mなのでかなり規模は違います。
ただ、100mを超えた古墳は東日本ではそれ程なく、かなりの豪族のものと考えて良いでしょう。
また5世紀後半のものと推定され、仁徳天皇御陵などと似た特徴があるという。

funatsukayama.jpg
<舟塚山古墳は霞ケ浦に漕ぎだすような形から「入船」と呼ばれ、上からは筑波山が良く見える>

さて、この時代にこの地を支配していた豪族が大和朝廷とつながっていた??
これを裏付けるためには、内部を発掘すべきですが、現地に書かれた案内板には気になる記述があります。

「舟塚山の発掘調査はなされていないが、地元には、多数の刀が出土したという伝えがある。」

一体どういうこと??
この舟塚山古墳の周りには沢山の古墳があり、古墳群となっています。
昭和47年に周辺の確認調査が行われ、円筒埴輪や、木棺、短甲、直刀、盾などが出土し
これらは風土記の丘の有料資料館の中に展示されています。

funatsukayama2.jpg

舟塚山古墳本体の発掘調査はどうやら出来ないでいるようですね。
やっても、もう何も出ないことがわかっているのでしょう。
実は盗掘も穴が見つかったりしているそうです。
また、地元も人に掘らせて、酒を与えて蓄えこんでいる人がいるのでは?
などという噂も聞こえてきます。
歴史的にこの地がどのような豪族が住んでいたのかを知るとても貴重な国民の財産です。
噂だけなら良いのですが・・・・。
地元の歴史ボランティアの方などに伺っても、あまりはっきりした回答はありません。
しかし、古墳に詳しい人に聞けば、全国で盗掘の被害がない古墳は少ないらしいです。
中世に掘られ、装飾品や刀などは売り飛ばされたり、溶かして再利用され無くなった
場合も多いとも聞きます。
さて、残念ながら舟塚山も被害にあっていると考える方が一般的な考えでしょう。
今、この古墳近くを国道のバイパスが通るための工事が進められています。
昔舟塚山の上は松林だったといいます。松くい虫でやられ、すべて切り倒されて
今のような芝生で覆い、筑波山や霞ケ浦が眺められるようになっています。
一度登って昔をいろいろと想像してみてください。
昔は霞ケ浦は海だったのですよ。海水が入ってきていたはずです。
イルカやサメ、クジラもいたかもしれませんね???
白井啓治さんの「霞ケ浦の紅い鯨」(クリックするとpdfが開きます)を読んでみてください。
 

石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/03 19:04

石岡城と府中城

今日は天皇誕生日で世の中は皆さん休みだというのにわが社は仕事。
さすがに車は少なかったです。
ブログも半分くらいは休みに書いたり、夜書いたりしているのだが、公開するのも結構時間的にきつい。
紹介の内容も乏しくなってくるがお許し願いたい。
 
 今日は石岡の歴史の紹介で良く間違えてしまう二つの城の話です。
歴史を紐解いていて、私もよくわからないので間違っているかもしれません。

平国香を祖とする桓武平氏の血を引き継いだ常陸大掾氏。
平将門の乱が平定されたあと、大掾職についた多気維幹(これもと)はつくばの水守(みもり)城にいたが、この時(西暦990年頃)多気城(つくば市)を築いたという説がある。
私の理解もあやふやだが・・・。

すなわち、この頃は石岡の地に城はなく、石岡は政務をつかさどる官庁のような場所であったと思われます。

ところが、前にも書いたように曾我兄弟の仇討事件を利用した八田知家の換言で多気大掾6代目で失脚し、大掾職は水戸の吉田氏に渡ります。
吉田氏も元々同族ではありますが、水戸の馬場の近くに住んでいたので馬場氏と呼ばれるようになります。

この初代馬場大掾資幹(すけとも)は1195年頃に水戸に今の水戸城の元となる馬場城を築きます。

この後、1214年に鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えました。
これが「石岡城」であり、場所は貝地の霞ケ浦寄りになります。

isiokajyou.jpg

この城が馬場大掾氏の居城となったわけですが、最初は馬場城(水戸城)と2か所の居城を有しており、政務は主にこちらの石岡城が中心となり、水戸とは行ったり来たりをしていたものと思われます。
規模もかなり大きなもので水戸と同じくらいであったといわれ、城郭なども作られたといいます。

しかし、馬場大掾8代目馬場詮国が正平年中(1346~51)に国衙の地(現石岡小学校敷地)に府中城を築きます。これは大変強固なもので当時の足利将軍との関係を強化し、兵力も増強したようです。

fuchuujyou1.jpg

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この時以前の「石岡城」もまた大掾氏の城の一部として使われ、外城(とじょう)と呼ばれています。

なぜ、くどくどと紹介する気になったのかはどうもこの府中城&石岡城についてもう少し評価が高くてもよいはずだと思えるためです。
そして、府中城と石岡城の関係も少し認識を新たにした方が良いように思います。
もっとも石岡城については「石岡の歴史」などの書物ではあまりふれられていません。記録があいまいな部分が多いようなので・・・。また石岡城という名前もあまりはっきりしません。
記録には少し出てくるようなので、明治維新で石岡の名前が使われたのでしょう。

石岡の地名については諸説あり、この石岡城という名前もあてにならないが、外城(とじょう)と呼ばれる前の城に名前がないのも困るのでとりあえず「石岡城」と呼んでいる程度に考えておくしかないでしょう。
地名の方は「こくふ」→「石阜」→「石岡」だという説が正しいとも伺ったことがありますが、これも本当といえるかどうかはわかりません。

地元でも、もう少し研究を深めて、当時の城の規模がどのようなものであったのかを検証すべきだと思っています。
今のままでは府中城を石岡城と言っても特に何も疑問に思わない人があふれてしまうでしょう。

府中城は県下唯一の都城式形態の備えを持つ名城といわれ、町全体が城壁、掘りで守られたような形となっており、城内がすなわち町内となっていたものと思われます。

このため、街全体が平和に長く暮らせたものと解釈できます。
このような城は他にはほとんどないのです。

馬場大掾氏は水戸城(馬場城)を江戸氏に奪われ、中心となった府中城も段々と包囲網が厳しくなって最後は佐竹氏に滅ぼされます。

ここ石岡(府中)は1590年まで長い間、常陸の中心の都市として光を放っていたはずなのです。
「昔をことだから関係ない」などとせずに、もう少し誇って、皆に知ってもらっても良いのではないでしょうか。
 

石岡市内 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/12/23 19:27

府中城は名古城?

今朝は思ったより車は少ない気がしました。7時半頃、東から日が少し高いところまで昇り、昨夜東の空から黄色の鮮やかな輝きを見せていた月は白くなって徐々に薄れ、筑波山の少し南側の上にまだ見えていました。
「月は西に、日は東に」ですね。

 昨日は2つの城の話をしました。
今日はその府中城が何故日本三大名古城と言われたのかを知りたいと思い、山鹿素行の「謫居童問(たっきょどうもん)」を読んでみようかと思いたちました。
そして、ネットでも読めることが判りトライすること1~2時間。
どうやら私には簡単に理解できる本ではなかった。
山鹿(やまが)素行は、江戸時代の儒教学者・兵法家であるが、知れば知るほど凄さが伝わってくるように思う。
「中朝事実」で中国より本朝の方が優れているとしたことが、朱子学を批判したとして赤穂藩に謫居(たっきょ)されられます。ここで著したのが「謫居童問」です。
童問とは読んで字のごとく子供の問いに答えるというのだけれど、そんな子供らしい問いなどどこにもない。

この思想が赤穂浪士の思想に大きな影響を及ぼし、吉田松陰へ伝っていったのです。
今日はこのような思想の話はさておき、この本に、ここ常陸国の府中城を古城として優れていたと書かれているというのですから確認したかったのですが、今日はギブアップです。

fuchuuchizu.jpg

この地図は石岡小学校の敷地内の府中城の土塁の説明看板に掲載された図です。
出典は「図説石岡市史」となっています。

特徴は現在の小学校から総社宮及びその奥の山側を土塁と堀で囲み、北側を池で、南側は鯉川(現恋瀬川)が流れています。
最大の特徴は、その東側の街の外側に「から掘」が廻らされ、町を含めた全体で城を形成していたのです。
現在はその掘りのあったところは鉄道が走って、面影をたどるのは困難なようです。

城中にあったという池や掘りは、ほとんど埋め立てられたり、田や畑に変わってしまっています。
面影を求めて、まわりをまわってみましたが、土塁や竹林などが少し残っているばかりでした。

fuchuujyou04.jpg

城山中などといわれたところにあった鈴ヶ池などを復活させ、公園にでもしたら鈴姫の物語も復活するのでしょうか?

最近、予算を組んで「上池」を公園風に整備しましたが、他所から来られた方には何処にあるのかさえわかりません。
地元の方でも意外に知られていないようですね。「上池」「下池」があったのですが・・・。
 


石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/24 20:13

回国六部

回国六部という人達を御存知でしょうか?

私も2-3年前までよく知りませんでした。
時代劇などではよく出てきていたようなのですが、あまり理解せずにいたようです。

背中にお経を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らしながら木戸銭などを乞いながら諸国を廻って歩いたといいます。
そう、時代劇にはよく出てきていた気がします。
六部(ろくぶ)とは六十六部が正式な名前のようですが、略して六部と言います。
法華経を写して、それを全国66ヵ国へ各1部ずつ奉納して回った人(行者)のことです。

室町時代くらいから僧侶中心に行われてきたようですが、江戸時代には民間の人でも多くの六部が現れたようです。
この六部のことを知るきっかけとなったのは、石岡市染谷にある「大乗妙典日本廻国供養碑」です。
この長たらしい名前で何のことかわからずに行ってみたのです。

rokubu01.jpg

小さなお堂の脇にたくさんの苔むした石板が置かれていました。

rokubu02.jpg

その石板にはどうやら地図らしきものが彫られています。
地図は日本地図であり、大まかには今の地図と北海道を除けば意外に正確なものです。
伊能忠敬が日本地図を作製するよりも約50年ほど前に作られたものです。

伝承によれば、地元の須賀田庄右門が自ら日本廻国の成就を記念し、元禄七年(1694)に建立したとなっています。
経典を奉納した六十六の国を地図に彫ったものと思われます。
ここは染谷地区の高台側にありますが、「六部台」と呼ばれている場所だといいます。
石板も風雨に曝されて線も薄くなりかけています。
この当時の日本地図としても価値があるものと思いますが、個人所有とはいえ、個人にその保管が任されていても良いのか疑問ですね。
さて、このような六部は室町時代には僧侶が行っていたのですが、江戸時代にはこのように民間の篤志家でも行なう者が出てきたのだと思います。

 先日紹介した小町伝説の「北向観音堂」に祀られた「観音像」も行基菩薩が連れてきた稽主勲兄弟の作といわれていますが、どうもその昔、六部が背負ってきたものを病になり、厄介になった代わりに置いて行ったものとも伝えられています。
また、天狗の話にも出てきた「長楽寺」にも六部の回国記念の石板があるといいます。
日本各地に六部が途中で病に倒れたなどで、幾つもの逸話が残っているようです。
私たちも戦後の現代的な生活に慣れ親しんで、このような話がきっとどこかにまだ埋もれてしまっているに違いありません。

六部の話の最後に各地に「六部殺し」という物騒な話が伝わっています。

有名なものは

「ある晩、六部が家を訪ねてきて、一晩の宿を頼んだ。
主人は、快く泊めてやった。 
しかし、その六部が大金を持っていることに気がついて、その金(金塊?)を奪うために殺してしまう。
そうして、村一番の長者になるが、身内に不幸が降りそそぐ。
来る嫁は亡くなり、子供も次々に亡くなってしまう。
ようやく、子供も無事に育つ子もでてきたとき、ある晩、その子を背負って山道を歩いていたら、
背中の子供が「あれもちょうどこんな晩だったね~」としゃべった。
最後には一家は没落していったと」

この怪談話しの背景に当時一人で国中を渡り歩く六部の姿を映し出しているのかもしれません。
六部が金塊を持っていたり、泊めた六部が消えてしまったり、六部を泊めた家がお金持ちになったりしたのを、このような話として伝わっていったのかもしれません。

  

石岡市内 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/01/13 19:34

二十三夜

 今日は本当に暖かかったですね。春一番が吹いたとか。
花粉も良く飛ぶのでしばらく遺跡などの散策も出来ないかもしれません。
今までに撮った写真などでもう少し紹介したいところもありますのでしばらくは大丈夫かな?

 さて、石岡にはお寺の境内、村の入口辻や古道の道端などにたくさんの二十三夜講の石塔が立っている。
探してみたらいったいいくつくらいあるのだろうか?今までに見て写真に撮ったものを一部紹介します。

昔は二十三夜の月を待つことが各地で行われ、それぞれの村や部落で夜遅く(夜10時~12時頃)上る月を待つために集まり飲食を共にしたのだろう。

毎月行うところもあったそうだが、1月、5月、9月、11月に行うのが一般的だそうだ。
今日は2月の二十三夜であり、月の出は真夜中の12時過ぎである。一年で最も遅く出る部類の月ではないかと思う。
これが9月であれば、月は割合と目の高さに近いところになるので、十五夜はそれ程変わらず夕方4時から5時頃に月の出となるが、二十三夜は10時半ころである。

二十三夜は勢至菩薩を本尊とし、勢至菩薩は、智慧の光をもっているとされ、あらゆるものを照し、すべての苦しみを離れ、衆生に限りない力を得させる菩薩といわれています。月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まったものだそうです。
明かりが貴重な時代に月の明かりは大変大切だったのでしょう。なかなか出ない月を、家族や部落の人たちが集まって、月の出を待ちわびたのでしょう。

二十三夜尊

二十三夜尊(石岡市若宮:若宮八幡通り)・・・金刀比羅神社と共にお盛りがあり、縁日には夜店なども出て賑わったそうで、月の23日に町内で集まり神を祀り、飲食雑談して月の出を待ったと言う。特に11月23日は、霜月三夜と呼ばれ、重要視された。またこのお宮の脇に銭湯がかなり頑張って残っていたが、今はすでにありません。

正法寺

正法寺(石岡市大増)・・・十八羅漢と百観音の寺として有名である。この寺の入口にたくさんの二十三夜の石塔が立っている。

狢内(19夜)

石岡市龍明(狢内)・・・愛宕山の十三番目の天狗になった長楽寺のいた寺で、映画撮影に良く使われるところとして有名だ。長楽寺へ向かう狢内の部落の道角に立っている。(これは十九夜塔です)

薬師古道

石岡市菖蒲沢(薬師古道)・・・筑波四面薬師の一つで菖蒲沢の薬師さまとして親しまれてきた。近年廃れた参拝山道を整備し、薬師古道として脚光を浴びている。この二十三夜塔は山の入口を少し登ったところにある。

隠沢観音

笠間市岩間(泉)・・・難台山、愛宕山と連なる筑波連峰の一番先端にある鐘転山(かねころばしやま)(標高218m)の麓に建つ隠沢観音への道の途中にある

23夜(正月平)

石岡市三村地区の先の高台に正月平がある。この街並み先の道端に立つ

宇都宮街道

ギター文化館へ向かう宇都宮街道の山崎地区の信号のある交差点の隅に立っている。

椎尾薬師
筑波四面薬師の一つ真壁町の椎尾薬師(薬王院)を訪ねた時に道を間違えて手前の山道を上ったら偶然道端に立っていた。

サイクリングロード

幻に終わった「加波山鉄道」の俤を追い求めて、恋瀬川サイクリングロードをたどった時、半田地区の川沿いの山道に隠れて立っていた。
 

石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/25 19:29

石岡府中のお稲荷様(七稲荷)

一昨日のギター文化館のコンサートの様子を昨日紹介しましたが、下記のブログでも紹介されていました。皆さん結構頑張っていますね。

1)okayan music雑記帳(ギター)
2)ギター文化館DIARY(木下館長さんブログ

 さて今日は、石岡市内のお宮様の話です。
ここ石岡(府中)の昔の地図が残されています。石岡の市史などでも紹介されているもので天保期(1830-1843年)に書かれた手書きの府中町絵図(鈴木彬夫氏所蔵)というものです。

この地図で特徴的なことは、今の旧355号線(水戸街道)が中町から香丸町を通って泉町の方に曲がる突き当りに千手院の大きな寺院があり、国分寺はその横に小さく描かれていることである。
今は、この通りは笠間の方に続いているが、当時はこの千手院を迂回していたようである。
今の国分寺の境内の中に、この千手院の山門が残されているだけで、いつの間にか千手院は無くなってしまった。

 さて、今日の話はこの地図に多くの稲荷神社が書かれていることなのです。
稲荷神社が10か所も府中の町の中にあったのです。

 稲荷神社は府中七稲荷といわれていた記録があり、この七稲荷のうち、仲之内町の福徳稲荷,金丸町の鈴宮稲荷をはじめ,青木町の青木稲荷,守木町の天之宮稲荷,守横町の宇迦魂稲荷は絵図に示された位置に現存しています。
inariaoki.jpg 青木稲荷

inarifukutoku.jpg 隅之宮福徳稲荷

inarisuzumiya.jpg 鈴宮(すずのみや)稲荷

inariugatama.jpg 宇迦魂(うがのみたま)稲荷


しかし,中町の稲荷は金刀比羅宮に合祀され,香丸町の稲荷は橋本旅館(ホテル橋本楼)の南端にあったそうですが総社宮に合祀されたといいます。

これらの稲荷の多くは「正一位」と称していますが、正一位は最高位で、正一位の伏見稲荷大社より勧請を受けた稲荷神社はほとんどがこの正一位を名乗っているといいます。

このように、石岡の稲荷神社は、400年ほどの歴史があり、石岡の旧町ごとに存在したのです。
これらは、各町住民の結束を図る働きをしたものと考えられます。
このようなこともお祭りの年番制などの結束にも影響を与えているのかもしれません。
しかし、あまりこれらを研究されているようには見えません。

昔、中町本陣の隣りにあったとされる「天王社」などの歴史や祭礼などと市民のかかわりなどをもう少し研究すべきではないかと思ったりしています。
 

石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/08 20:18

松平播磨守

「松平播磨守」(まつだいらはりまのかみ)の名前を聞いて、さて石岡の人はどれだけの人が気がつくでしょうか。
とても興味深い。この私もつい最近まで気がつかなかったのです。
常陸府中藩は松平2万石であることは多くの人は聞いているはずです。
ところが、この播磨守とつくと石岡の藩主であったことにどれだけ気がつくのでしょう?
播磨とはもちろん播州、赤穂、姫路、などのあの播磨の国を指します。
この播磨守になることは大変な名誉なことで、平清盛などはまず播磨守になり出世します。
来年の大河ドラマは清盛だそうですから、見るのも楽しみですね。

しかし、江戸時代には、その役職はその地方とはあまり関係なく、一種の名誉職になっていたようです。
ですから、常陸府中初代藩主松平頼隆が播磨守となると、その後3,4,5,6,8,10代府中藩主が江戸では播磨守に任ぜられています。
ここ石岡には陣屋がおかれ、藩主は江戸に暮らしていました。
この暮らしていた場所が「小石川」であることはよく知られていますが、では小石川の何処なのでしょうか?
小石川には水戸の藩邸がありました。これは今の小石川後楽園の場所です。そうジャイアンツの後楽園ドーム球場のあるところです。
府中藩の松平家の藩邸はというと、この播磨守の名前がヒントになります。
今「播磨坂」という坂があり、桜の名所になっている辺りなのです。

この石岡に住んでいて、どういう訳だか分りませんが、この話は聞いたことがありません。
私が聞いていないだけなのかもしれませんが、興味がないのでしょうか。

陣屋門という門が石岡小学校の校庭に保存されています。
小石川の藩邸が火事になり、建て直した時にあまった、木材で建てられたものと言われています。

P1010013s_20110428193605.jpg

この陣屋門も市民会館ができるまではこの小学校の入口のあり、子どもたちがこの門を通って通っていました。
懐かしい人もおられるでしょうね。

石岡市内 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/05/01 07:44

石岡の陣屋門の思い出

 先日、江戸時代の府中藩主松平氏が江戸小石川の屋敷が今の播磨坂のあたりで、松平播磨守であったことを紹介しました。
また、小石川の藩邸が火事で再建した時の材木の残りで、ここ府中の陣屋門がつくられたのですが、このブログの石岡出身の読者の方から、昔の小学校の発行した文集の表紙を送っていただきました。

私はこの学校の卒業生ではないので思い出もありませんが、当時を知る人にとっては思い出も詰まっているものと思います。
懐かしく感じられる人もおられると思いましたので掲載させていただきたく思います。

 jinyamon41.jpg 石岡小学校昭和43年3月発行

これは、昭和43年の3月に石岡小学校の4~6年生の文集だそうです。当時の子供(生徒)の数は今の5倍くらいいたようです。木造の校舎で冬はダルマストーブ(石炭)だったとか・・・。

学校の入口に陣屋門があり、これを生徒はくぐって登校していた様子を版画にしたものですね。

歴史的な経緯を書くと
・文政11年(1828)2月に建立(小石川の藩邸の改築時に同じ木材を使って造られた)
・昭和41年7月石岡市民会館の建設計画と、陣屋門の移転計画が発表。
・昭和42年、市民会館の建設工事着手。
・昭和43年4月、市民会館が完成オープン。
・昭和44年3月、移転工事(現市民会館入り口から小学校校庭入口へ)
となっていますので
この文集は市民会館がオープンする寸前に出されたものですね。
この版画のように当時は門は常にオープンで左右の門柱に写真のような表札が付けられたいたようです。
(資料提供に感謝いたします)
 
※小学校の昔の文集ですので、そのまま表紙を載せております。
関係者の方で何か問題なり、ご意見等があればご連絡お願いいたします。 
 

石岡市内 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2011/05/08 13:05
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