三光の宮
今日は昨夜からずっと強い雨が降り続いたがようやく夕方になって降りやんだ。
最近は天候も極端になってきた。これも地球温暖化の影響なのだろう。
世界の人口を考えればこの先人類はうまくやっていけるのかと心配になる。
自国の利益優先という間違った愛国心のエゴが地球を破滅に追いやるかも知れない。
中秋の名月はあいにく見られなかったが、前後の月は優しく輝いていた。
月の大きさは地球の1/4だから、月から地球を見たら月の4倍の大きさに見えるはずである。
地球は青いというので、どんなに美しいのだろうか?見てみたいものだ。
その美しい地球で醜いエゴが渦巻いているのはいただけない。
戦後65年が経ち私を含め戦争を知らずに育った人がほとんどになった。
しかし人類の歴史は過ちの繰り返しできた。
さ~て、これからの100年をどう乗り越えていけるのでしょうか?
ロシアへは5-6年前に訪れた時に比べて年々昔に逆戻りしているようで心配になった。
周辺の国々との間でギクシャクしてきて、軍事的な高圧化が目立つようになってきた。
北方領土などもこのままでは進みそうにない。現政権では何もできないようにも思う。
さて、いつもならもうススキの穂も目立ってくると思うのだが、彼岸花と同じく大分遅くなってしまったようである。ススキがなければ中秋の名月も物足りない。
石岡も日天宮、月天宮、星之宮という三光の宮なるものがある。
歴史は1300年程前からあるともいわれ、古そうであるが、あまり紹介されることは少ない。
特に、星之宮は現在なく、総社宮に合祀されている。
元あった場所は、石岡二高のすぐ手前(国分寺の裏手)であり、小さな公園がある。
この三つのお宮が三角形に結ばれトライアングルを形成していた。
昔にこのお宮をこの位置に配置したことは、何か意味を持たせていたはずで今では考察もされていない。
江戸時代に水戸街道(陸前浜街道)ができ、明治に鉄道が敷かれ、昭和になって国道6号線が開通したのである。
鎌倉時代の前にはどのような道があったのだろうか。
こんなことを考えるのはおかしいのかもしれないが、まあ、考えているうちに何か気がつくこともあるでしょう。
三村から中津川で恋瀬川をわたり、田島の方を通って、日天宮と月天宮(貝地)の間を抜けるような道があったのかもしれない。
護身地蔵などもあるが、戦国時代のいわれはあるが、何時からあったものだろうか?
もっとも今の位置は6号国道建設時に移動されているが・・・・。
考古学と書物の歴史以外にも地元に残る伝承などももう少し研究すると面白いのにな~。
最近は天候も極端になってきた。これも地球温暖化の影響なのだろう。
世界の人口を考えればこの先人類はうまくやっていけるのかと心配になる。
自国の利益優先という間違った愛国心のエゴが地球を破滅に追いやるかも知れない。
中秋の名月はあいにく見られなかったが、前後の月は優しく輝いていた。
月の大きさは地球の1/4だから、月から地球を見たら月の4倍の大きさに見えるはずである。
地球は青いというので、どんなに美しいのだろうか?見てみたいものだ。
その美しい地球で醜いエゴが渦巻いているのはいただけない。
戦後65年が経ち私を含め戦争を知らずに育った人がほとんどになった。
しかし人類の歴史は過ちの繰り返しできた。
さ~て、これからの100年をどう乗り越えていけるのでしょうか?
ロシアへは5-6年前に訪れた時に比べて年々昔に逆戻りしているようで心配になった。
周辺の国々との間でギクシャクしてきて、軍事的な高圧化が目立つようになってきた。
北方領土などもこのままでは進みそうにない。現政権では何もできないようにも思う。
さて、いつもならもうススキの穂も目立ってくると思うのだが、彼岸花と同じく大分遅くなってしまったようである。ススキがなければ中秋の名月も物足りない。
石岡も日天宮、月天宮、星之宮という三光の宮なるものがある。
歴史は1300年程前からあるともいわれ、古そうであるが、あまり紹介されることは少ない。
特に、星之宮は現在なく、総社宮に合祀されている。
元あった場所は、石岡二高のすぐ手前(国分寺の裏手)であり、小さな公園がある。
この三つのお宮が三角形に結ばれトライアングルを形成していた。
昔にこのお宮をこの位置に配置したことは、何か意味を持たせていたはずで今では考察もされていない。
江戸時代に水戸街道(陸前浜街道)ができ、明治に鉄道が敷かれ、昭和になって国道6号線が開通したのである。
鎌倉時代の前にはどのような道があったのだろうか。
こんなことを考えるのはおかしいのかもしれないが、まあ、考えているうちに何か気がつくこともあるでしょう。
三村から中津川で恋瀬川をわたり、田島の方を通って、日天宮と月天宮(貝地)の間を抜けるような道があったのかもしれない。
護身地蔵などもあるが、戦国時代のいわれはあるが、何時からあったものだろうか?
もっとも今の位置は6号国道建設時に移動されているが・・・・。
考古学と書物の歴史以外にも地元に残る伝承などももう少し研究すると面白いのにな~。
国府と国衙(こくが)
今日は気温が比較的高いとの予報であったが、一日中冷たい雨が降ったりやんだり。
仕事に出かけ昼ごろから少し調子が悪く、風邪を引いたのかもしれない。
早めに帰宅し、少しの間横になっていた。
このブログも100日を過ぎ、読んでいただける方も少し増えたようだ。
毎回何かテーマを決めて続いて書くのも楽しくもあるいのだが苦しみも増えてきている。
私は好き勝手なことを書いているにすぎないが、書かれて気分を害される人もおられると思う。
しかし、全体を通して見ていただければ、この常世の国を愛してやまない一人であることはわかってもらえると思う。
今日はこんな調子であるのでブログの内容は1週間ほど前に書きためていたものを公開という形となることをお許し願いたい。
今月の市報に現石岡小学校の敷地内にある「常陸国衙跡」が正式に国指定史跡に登録されたという。
登録の名称では「常陸国府跡」と国衙という難しい漢字は使われないようだ。
これで、国分寺跡・国分尼寺跡・国府跡の3つの史跡が登録されその確認がされている全国唯一の都市
となった。これは画期的なことである。
市では出土品や写真などを近くの民俗資料館で展示するという。
しかし、ご存知の方も多いが、この資料館は小さくて展示内容も中途半端である。
昔からこのスタイルでやってきた・・・・。これはこの資料館の設立に関係するのかもしれない。
天狗党の残した柱の刀傷と国分寺や国衙からの出土品が同じフロアに広げられたイメージ。
現在開館も金・土・日(祝日)のみ。無料なのはありがたいが歴史の町が泣いているようにも思われます。
市民会館と一緒に運営管理し、風土記の丘の有料展示室と一緒の管理が望まれます。
「何か古いものがあるぞ!」とばかり自慢し、自分よがりに見えてなりません。
現代はいろいろなことをオープンにして、情報をいかに多くの人に知らしめて行くかということに
その知恵と能力を発揮していける人が必要だと思っています。
イベント広場に新たなものを建設しても、今のような意識ではろくなものができないとあきらめも
顔をのぞかせてきています。
現在水戸の近代美術館で「さよなら滝平二郎~はるかなるふるさとへ」展を開催しています。
切り絵作家として名高いですが、絵本の挿し絵は独特の郷愁が感じられますね。
時間がありましたら一度見学にお出かけください。(水戸千波湖脇です)
仕事に出かけ昼ごろから少し調子が悪く、風邪を引いたのかもしれない。
早めに帰宅し、少しの間横になっていた。
このブログも100日を過ぎ、読んでいただける方も少し増えたようだ。
毎回何かテーマを決めて続いて書くのも楽しくもあるいのだが苦しみも増えてきている。
私は好き勝手なことを書いているにすぎないが、書かれて気分を害される人もおられると思う。
しかし、全体を通して見ていただければ、この常世の国を愛してやまない一人であることはわかってもらえると思う。
今日はこんな調子であるのでブログの内容は1週間ほど前に書きためていたものを公開という形となることをお許し願いたい。
今月の市報に現石岡小学校の敷地内にある「常陸国衙跡」が正式に国指定史跡に登録されたという。
登録の名称では「常陸国府跡」と国衙という難しい漢字は使われないようだ。
これで、国分寺跡・国分尼寺跡・国府跡の3つの史跡が登録されその確認がされている全国唯一の都市
となった。これは画期的なことである。
市では出土品や写真などを近くの民俗資料館で展示するという。
しかし、ご存知の方も多いが、この資料館は小さくて展示内容も中途半端である。
昔からこのスタイルでやってきた・・・・。これはこの資料館の設立に関係するのかもしれない。
天狗党の残した柱の刀傷と国分寺や国衙からの出土品が同じフロアに広げられたイメージ。
現在開館も金・土・日(祝日)のみ。無料なのはありがたいが歴史の町が泣いているようにも思われます。
市民会館と一緒に運営管理し、風土記の丘の有料展示室と一緒の管理が望まれます。
「何か古いものがあるぞ!」とばかり自慢し、自分よがりに見えてなりません。
現代はいろいろなことをオープンにして、情報をいかに多くの人に知らしめて行くかということに
その知恵と能力を発揮していける人が必要だと思っています。
イベント広場に新たなものを建設しても、今のような意識ではろくなものができないとあきらめも
顔をのぞかせてきています。
現在水戸の近代美術館で「さよなら滝平二郎~はるかなるふるさとへ」展を開催しています。
切り絵作家として名高いですが、絵本の挿し絵は独特の郷愁が感じられますね。
時間がありましたら一度見学にお出かけください。(水戸千波湖脇です)
舟塚山古墳
昨夜から今朝は大雨で大変であったが、昼から天気となった。
しかし気温が生温かく何か変な陽気である。
茨城には竜巻注意報がでたとか。今も風が結構強く吹いている。
今日は石岡が誇る「舟塚山古墳」について、少し書いてみたい。
石岡の名所案内には必ず出てくる名前なのだが、私が隣町に長く住んでいた時には
一度も聞いたことがなかった。地元では有名でもそんなものなのだろう。
この古墳は東日本で2番目の大きさだとなっている。しかし1番目がどこか、また
日本でどのくらいの規模かは何処にも記載されていない。
ネットで調べてみると、東日本での1番目は群馬県太田市の太田天神山古墳で全長210m
で日本全体では27位。舟塚山古墳は全長186mで日本では46番目だという。
さすがに関西が多く、1位は仁徳天皇陵で486mなのでかなり規模は違います。
ただ、100mを超えた古墳は東日本ではそれ程なく、かなりの豪族のものと考えて良いでしょう。
また5世紀後半のものと推定され、仁徳天皇御陵などと似た特徴があるという。

<舟塚山古墳は霞ケ浦に漕ぎだすような形から「入船」と呼ばれ、上からは筑波山が良く見える>
さて、この時代にこの地を支配していた豪族が大和朝廷とつながっていた??
これを裏付けるためには、内部を発掘すべきですが、現地に書かれた案内板には気になる記述があります。
「舟塚山の発掘調査はなされていないが、地元には、多数の刀が出土したという伝えがある。」
一体どういうこと??
この舟塚山古墳の周りには沢山の古墳があり、古墳群となっています。
昭和47年に周辺の確認調査が行われ、円筒埴輪や、木棺、短甲、直刀、盾などが出土し
これらは風土記の丘の有料資料館の中に展示されています。

舟塚山古墳本体の発掘調査はどうやら出来ないでいるようですね。
やっても、もう何も出ないことがわかっているのでしょう。
実は盗掘も穴が見つかったりしているそうです。
また、地元も人に掘らせて、酒を与えて蓄えこんでいる人がいるのでは?
などという噂も聞こえてきます。
歴史的にこの地がどのような豪族が住んでいたのかを知るとても貴重な国民の財産です。
噂だけなら良いのですが・・・・。
地元の歴史ボランティアの方などに伺っても、あまりはっきりした回答はありません。
しかし、古墳に詳しい人に聞けば、全国で盗掘の被害がない古墳は少ないらしいです。
中世に掘られ、装飾品や刀などは売り飛ばされたり、溶かして再利用され無くなった
場合も多いとも聞きます。
さて、残念ながら舟塚山も被害にあっていると考える方が一般的な考えでしょう。
今、この古墳近くを国道のバイパスが通るための工事が進められています。
昔舟塚山の上は松林だったといいます。松くい虫でやられ、すべて切り倒されて
今のような芝生で覆い、筑波山や霞ケ浦が眺められるようになっています。
一度登って昔をいろいろと想像してみてください。
昔は霞ケ浦は海だったのですよ。海水が入ってきていたはずです。
イルカやサメ、クジラもいたかもしれませんね???
白井啓治さんの「霞ケ浦の紅い鯨」(クリックするとpdfが開きます)を読んでみてください。
しかし気温が生温かく何か変な陽気である。
茨城には竜巻注意報がでたとか。今も風が結構強く吹いている。
今日は石岡が誇る「舟塚山古墳」について、少し書いてみたい。
石岡の名所案内には必ず出てくる名前なのだが、私が隣町に長く住んでいた時には
一度も聞いたことがなかった。地元では有名でもそんなものなのだろう。
この古墳は東日本で2番目の大きさだとなっている。しかし1番目がどこか、また
日本でどのくらいの規模かは何処にも記載されていない。
ネットで調べてみると、東日本での1番目は群馬県太田市の太田天神山古墳で全長210m
で日本全体では27位。舟塚山古墳は全長186mで日本では46番目だという。
さすがに関西が多く、1位は仁徳天皇陵で486mなのでかなり規模は違います。
ただ、100mを超えた古墳は東日本ではそれ程なく、かなりの豪族のものと考えて良いでしょう。
また5世紀後半のものと推定され、仁徳天皇御陵などと似た特徴があるという。

<舟塚山古墳は霞ケ浦に漕ぎだすような形から「入船」と呼ばれ、上からは筑波山が良く見える>
さて、この時代にこの地を支配していた豪族が大和朝廷とつながっていた??
これを裏付けるためには、内部を発掘すべきですが、現地に書かれた案内板には気になる記述があります。
「舟塚山の発掘調査はなされていないが、地元には、多数の刀が出土したという伝えがある。」
一体どういうこと??
この舟塚山古墳の周りには沢山の古墳があり、古墳群となっています。
昭和47年に周辺の確認調査が行われ、円筒埴輪や、木棺、短甲、直刀、盾などが出土し
これらは風土記の丘の有料資料館の中に展示されています。

舟塚山古墳本体の発掘調査はどうやら出来ないでいるようですね。
やっても、もう何も出ないことがわかっているのでしょう。
実は盗掘も穴が見つかったりしているそうです。
また、地元も人に掘らせて、酒を与えて蓄えこんでいる人がいるのでは?
などという噂も聞こえてきます。
歴史的にこの地がどのような豪族が住んでいたのかを知るとても貴重な国民の財産です。
噂だけなら良いのですが・・・・。
地元の歴史ボランティアの方などに伺っても、あまりはっきりした回答はありません。
しかし、古墳に詳しい人に聞けば、全国で盗掘の被害がない古墳は少ないらしいです。
中世に掘られ、装飾品や刀などは売り飛ばされたり、溶かして再利用され無くなった
場合も多いとも聞きます。
さて、残念ながら舟塚山も被害にあっていると考える方が一般的な考えでしょう。
今、この古墳近くを国道のバイパスが通るための工事が進められています。
昔舟塚山の上は松林だったといいます。松くい虫でやられ、すべて切り倒されて
今のような芝生で覆い、筑波山や霞ケ浦が眺められるようになっています。
一度登って昔をいろいろと想像してみてください。
昔は霞ケ浦は海だったのですよ。海水が入ってきていたはずです。
イルカやサメ、クジラもいたかもしれませんね???
白井啓治さんの「霞ケ浦の紅い鯨」(クリックするとpdfが開きます)を読んでみてください。
石岡城と府中城
今日は天皇誕生日で世の中は皆さん休みだというのにわが社は仕事。
さすがに車は少なかったです。
ブログも半分くらいは休みに書いたり、夜書いたりしているのだが、公開するのも結構時間的にきつい。
紹介の内容も乏しくなってくるがお許し願いたい。
今日は石岡の歴史の紹介で良く間違えてしまう二つの城の話です。
歴史を紐解いていて、私もよくわからないので間違っているかもしれません。
平国香を祖とする桓武平氏の血を引き継いだ常陸大掾氏。
平将門の乱が平定されたあと、大掾職についた多気維幹(これもと)はつくばの水守(みもり)城にいたが、この時(西暦990年頃)多気城(つくば市)を築いたという説がある。
私の理解もあやふやだが・・・。
すなわち、この頃は石岡の地に城はなく、石岡は政務をつかさどる官庁のような場所であったと思われます。
ところが、前にも書いたように曾我兄弟の仇討事件を利用した八田知家の換言で多気大掾6代目で失脚し、大掾職は水戸の吉田氏に渡ります。
吉田氏も元々同族ではありますが、水戸の馬場の近くに住んでいたので馬場氏と呼ばれるようになります。
この初代馬場大掾資幹(すけとも)は1195年頃に水戸に今の水戸城の元となる馬場城を築きます。
この後、1214年に鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えました。
これが「石岡城」であり、場所は貝地の霞ケ浦寄りになります。

この城が馬場大掾氏の居城となったわけですが、最初は馬場城(水戸城)と2か所の居城を有しており、政務は主にこちらの石岡城が中心となり、水戸とは行ったり来たりをしていたものと思われます。
規模もかなり大きなもので水戸と同じくらいであったといわれ、城郭なども作られたといいます。
しかし、馬場大掾8代目馬場詮国が正平年中(1346~51)に国衙の地(現石岡小学校敷地)に府中城を築きます。これは大変強固なもので当時の足利将軍との関係を強化し、兵力も増強したようです。


この時以前の「石岡城」もまた大掾氏の城の一部として使われ、外城(とじょう)と呼ばれています。
なぜ、くどくどと紹介する気になったのかはどうもこの府中城&石岡城についてもう少し評価が高くてもよいはずだと思えるためです。
そして、府中城と石岡城の関係も少し認識を新たにした方が良いように思います。
もっとも石岡城については「石岡の歴史」などの書物ではあまりふれられていません。記録があいまいな部分が多いようなので・・・。また石岡城という名前もあまりはっきりしません。
記録には少し出てくるようなので、明治維新で石岡の名前が使われたのでしょう。
石岡の地名については諸説あり、この石岡城という名前もあてにならないが、外城(とじょう)と呼ばれる前の城に名前がないのも困るのでとりあえず「石岡城」と呼んでいる程度に考えておくしかないでしょう。
地名の方は「こくふ」→「石阜」→「石岡」だという説が正しいとも伺ったことがありますが、これも本当といえるかどうかはわかりません。
地元でも、もう少し研究を深めて、当時の城の規模がどのようなものであったのかを検証すべきだと思っています。
今のままでは府中城を石岡城と言っても特に何も疑問に思わない人があふれてしまうでしょう。
府中城は県下唯一の都城式形態の備えを持つ名城といわれ、町全体が城壁、掘りで守られたような形となっており、城内がすなわち町内となっていたものと思われます。
このため、街全体が平和に長く暮らせたものと解釈できます。
このような城は他にはほとんどないのです。
馬場大掾氏は水戸城(馬場城)を江戸氏に奪われ、中心となった府中城も段々と包囲網が厳しくなって最後は佐竹氏に滅ぼされます。
ここ石岡(府中)は1590年まで長い間、常陸の中心の都市として光を放っていたはずなのです。
「昔をことだから関係ない」などとせずに、もう少し誇って、皆に知ってもらっても良いのではないでしょうか。
さすがに車は少なかったです。
ブログも半分くらいは休みに書いたり、夜書いたりしているのだが、公開するのも結構時間的にきつい。
紹介の内容も乏しくなってくるがお許し願いたい。
今日は石岡の歴史の紹介で良く間違えてしまう二つの城の話です。
歴史を紐解いていて、私もよくわからないので間違っているかもしれません。
平国香を祖とする桓武平氏の血を引き継いだ常陸大掾氏。
平将門の乱が平定されたあと、大掾職についた多気維幹(これもと)はつくばの水守(みもり)城にいたが、この時(西暦990年頃)多気城(つくば市)を築いたという説がある。
私の理解もあやふやだが・・・。
すなわち、この頃は石岡の地に城はなく、石岡は政務をつかさどる官庁のような場所であったと思われます。
ところが、前にも書いたように曾我兄弟の仇討事件を利用した八田知家の換言で多気大掾6代目で失脚し、大掾職は水戸の吉田氏に渡ります。
吉田氏も元々同族ではありますが、水戸の馬場の近くに住んでいたので馬場氏と呼ばれるようになります。
この初代馬場大掾資幹(すけとも)は1195年頃に水戸に今の水戸城の元となる馬場城を築きます。
この後、1214年に鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えました。
これが「石岡城」であり、場所は貝地の霞ケ浦寄りになります。

この城が馬場大掾氏の居城となったわけですが、最初は馬場城(水戸城)と2か所の居城を有しており、政務は主にこちらの石岡城が中心となり、水戸とは行ったり来たりをしていたものと思われます。
規模もかなり大きなもので水戸と同じくらいであったといわれ、城郭なども作られたといいます。
しかし、馬場大掾8代目馬場詮国が正平年中(1346~51)に国衙の地(現石岡小学校敷地)に府中城を築きます。これは大変強固なもので当時の足利将軍との関係を強化し、兵力も増強したようです。


この時以前の「石岡城」もまた大掾氏の城の一部として使われ、外城(とじょう)と呼ばれています。
なぜ、くどくどと紹介する気になったのかはどうもこの府中城&石岡城についてもう少し評価が高くてもよいはずだと思えるためです。
そして、府中城と石岡城の関係も少し認識を新たにした方が良いように思います。
もっとも石岡城については「石岡の歴史」などの書物ではあまりふれられていません。記録があいまいな部分が多いようなので・・・。また石岡城という名前もあまりはっきりしません。
記録には少し出てくるようなので、明治維新で石岡の名前が使われたのでしょう。
石岡の地名については諸説あり、この石岡城という名前もあてにならないが、外城(とじょう)と呼ばれる前の城に名前がないのも困るのでとりあえず「石岡城」と呼んでいる程度に考えておくしかないでしょう。
地名の方は「こくふ」→「石阜」→「石岡」だという説が正しいとも伺ったことがありますが、これも本当といえるかどうかはわかりません。
地元でも、もう少し研究を深めて、当時の城の規模がどのようなものであったのかを検証すべきだと思っています。
今のままでは府中城を石岡城と言っても特に何も疑問に思わない人があふれてしまうでしょう。
府中城は県下唯一の都城式形態の備えを持つ名城といわれ、町全体が城壁、掘りで守られたような形となっており、城内がすなわち町内となっていたものと思われます。
このため、街全体が平和に長く暮らせたものと解釈できます。
このような城は他にはほとんどないのです。
馬場大掾氏は水戸城(馬場城)を江戸氏に奪われ、中心となった府中城も段々と包囲網が厳しくなって最後は佐竹氏に滅ぼされます。
ここ石岡(府中)は1590年まで長い間、常陸の中心の都市として光を放っていたはずなのです。
「昔をことだから関係ない」などとせずに、もう少し誇って、皆に知ってもらっても良いのではないでしょうか。
府中城は名古城?
今朝は思ったより車は少ない気がしました。7時半頃、東から日が少し高いところまで昇り、昨夜東の空から黄色の鮮やかな輝きを見せていた月は白くなって徐々に薄れ、筑波山の少し南側の上にまだ見えていました。
「月は西に、日は東に」ですね。
昨日は2つの城の話をしました。
今日はその府中城が何故日本三大名古城と言われたのかを知りたいと思い、山鹿素行の「謫居童問(たっきょどうもん)」を読んでみようかと思いたちました。
そして、ネットでも読めることが判りトライすること1~2時間。
どうやら私には簡単に理解できる本ではなかった。
山鹿(やまが)素行は、江戸時代の儒教学者・兵法家であるが、知れば知るほど凄さが伝わってくるように思う。
「中朝事実」で中国より本朝の方が優れているとしたことが、朱子学を批判したとして赤穂藩に謫居(たっきょ)されられます。ここで著したのが「謫居童問」です。
童問とは読んで字のごとく子供の問いに答えるというのだけれど、そんな子供らしい問いなどどこにもない。
この思想が赤穂浪士の思想に大きな影響を及ぼし、吉田松陰へ伝っていったのです。
今日はこのような思想の話はさておき、この本に、ここ常陸国の府中城を古城として優れていたと書かれているというのですから確認したかったのですが、今日はギブアップです。

この地図は石岡小学校の敷地内の府中城の土塁の説明看板に掲載された図です。
出典は「図説石岡市史」となっています。
特徴は現在の小学校から総社宮及びその奥の山側を土塁と堀で囲み、北側を池で、南側は鯉川(現恋瀬川)が流れています。
最大の特徴は、その東側の街の外側に「から掘」が廻らされ、町を含めた全体で城を形成していたのです。
現在はその掘りのあったところは鉄道が走って、面影をたどるのは困難なようです。
城中にあったという池や掘りは、ほとんど埋め立てられたり、田や畑に変わってしまっています。
面影を求めて、まわりをまわってみましたが、土塁や竹林などが少し残っているばかりでした。

城山中などといわれたところにあった鈴ヶ池などを復活させ、公園にでもしたら鈴姫の物語も復活するのでしょうか?
最近、予算を組んで「上池」を公園風に整備しましたが、他所から来られた方には何処にあるのかさえわかりません。
地元の方でも意外に知られていないようですね。「上池」「下池」があったのですが・・・。
「月は西に、日は東に」ですね。
昨日は2つの城の話をしました。
今日はその府中城が何故日本三大名古城と言われたのかを知りたいと思い、山鹿素行の「謫居童問(たっきょどうもん)」を読んでみようかと思いたちました。
そして、ネットでも読めることが判りトライすること1~2時間。
どうやら私には簡単に理解できる本ではなかった。
山鹿(やまが)素行は、江戸時代の儒教学者・兵法家であるが、知れば知るほど凄さが伝わってくるように思う。
「中朝事実」で中国より本朝の方が優れているとしたことが、朱子学を批判したとして赤穂藩に謫居(たっきょ)されられます。ここで著したのが「謫居童問」です。
童問とは読んで字のごとく子供の問いに答えるというのだけれど、そんな子供らしい問いなどどこにもない。
この思想が赤穂浪士の思想に大きな影響を及ぼし、吉田松陰へ伝っていったのです。
今日はこのような思想の話はさておき、この本に、ここ常陸国の府中城を古城として優れていたと書かれているというのですから確認したかったのですが、今日はギブアップです。

この地図は石岡小学校の敷地内の府中城の土塁の説明看板に掲載された図です。
出典は「図説石岡市史」となっています。
特徴は現在の小学校から総社宮及びその奥の山側を土塁と堀で囲み、北側を池で、南側は鯉川(現恋瀬川)が流れています。
最大の特徴は、その東側の街の外側に「から掘」が廻らされ、町を含めた全体で城を形成していたのです。
現在はその掘りのあったところは鉄道が走って、面影をたどるのは困難なようです。
城中にあったという池や掘りは、ほとんど埋め立てられたり、田や畑に変わってしまっています。
面影を求めて、まわりをまわってみましたが、土塁や竹林などが少し残っているばかりでした。

城山中などといわれたところにあった鈴ヶ池などを復活させ、公園にでもしたら鈴姫の物語も復活するのでしょうか?
最近、予算を組んで「上池」を公園風に整備しましたが、他所から来られた方には何処にあるのかさえわかりません。
地元の方でも意外に知られていないようですね。「上池」「下池」があったのですが・・・。
回国六部
回国六部という人達を御存知でしょうか?
私も2-3年前までよく知りませんでした。
時代劇などではよく出てきていたようなのですが、あまり理解せずにいたようです。
背中にお経を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らしながら木戸銭などを乞いながら諸国を廻って歩いたといいます。
そう、時代劇にはよく出てきていた気がします。
六部(ろくぶ)とは六十六部が正式な名前のようですが、略して六部と言います。
法華経を写して、それを全国66ヵ国へ各1部ずつ奉納して回った人(行者)のことです。
室町時代くらいから僧侶中心に行われてきたようですが、江戸時代には民間の人でも多くの六部が現れたようです。
この六部のことを知るきっかけとなったのは、石岡市染谷にある「大乗妙典日本廻国供養碑」です。
この長たらしい名前で何のことかわからずに行ってみたのです。

小さなお堂の脇にたくさんの苔むした石板が置かれていました。

その石板にはどうやら地図らしきものが彫られています。
地図は日本地図であり、大まかには今の地図と北海道を除けば意外に正確なものです。
伊能忠敬が日本地図を作製するよりも約50年ほど前に作られたものです。
伝承によれば、地元の須賀田庄右門が自ら日本廻国の成就を記念し、元禄七年(1694)に建立したとなっています。
経典を奉納した六十六の国を地図に彫ったものと思われます。
ここは染谷地区の高台側にありますが、「六部台」と呼ばれている場所だといいます。
石板も風雨に曝されて線も薄くなりかけています。
この当時の日本地図としても価値があるものと思いますが、個人所有とはいえ、個人にその保管が任されていても良いのか疑問ですね。
さて、このような六部は室町時代には僧侶が行っていたのですが、江戸時代にはこのように民間の篤志家でも行なう者が出てきたのだと思います。
先日紹介した小町伝説の「北向観音堂」に祀られた「観音像」も行基菩薩が連れてきた稽主勲兄弟の作といわれていますが、どうもその昔、六部が背負ってきたものを病になり、厄介になった代わりに置いて行ったものとも伝えられています。
また、天狗の話にも出てきた「長楽寺」にも六部の回国記念の石板があるといいます。
日本各地に六部が途中で病に倒れたなどで、幾つもの逸話が残っているようです。
私たちも戦後の現代的な生活に慣れ親しんで、このような話がきっとどこかにまだ埋もれてしまっているに違いありません。
六部の話の最後に各地に「六部殺し」という物騒な話が伝わっています。
有名なものは
「ある晩、六部が家を訪ねてきて、一晩の宿を頼んだ。
主人は、快く泊めてやった。
しかし、その六部が大金を持っていることに気がついて、その金(金塊?)を奪うために殺してしまう。
そうして、村一番の長者になるが、身内に不幸が降りそそぐ。
来る嫁は亡くなり、子供も次々に亡くなってしまう。
ようやく、子供も無事に育つ子もでてきたとき、ある晩、その子を背負って山道を歩いていたら、
背中の子供が「あれもちょうどこんな晩だったね~」としゃべった。
最後には一家は没落していったと」
この怪談話しの背景に当時一人で国中を渡り歩く六部の姿を映し出しているのかもしれません。
六部が金塊を持っていたり、泊めた六部が消えてしまったり、六部を泊めた家がお金持ちになったりしたのを、このような話として伝わっていったのかもしれません。
私も2-3年前までよく知りませんでした。
時代劇などではよく出てきていたようなのですが、あまり理解せずにいたようです。
背中にお経を入れた厨子を背負い、鉦や鈴を鳴らしながら木戸銭などを乞いながら諸国を廻って歩いたといいます。
そう、時代劇にはよく出てきていた気がします。
六部(ろくぶ)とは六十六部が正式な名前のようですが、略して六部と言います。
法華経を写して、それを全国66ヵ国へ各1部ずつ奉納して回った人(行者)のことです。
室町時代くらいから僧侶中心に行われてきたようですが、江戸時代には民間の人でも多くの六部が現れたようです。
この六部のことを知るきっかけとなったのは、石岡市染谷にある「大乗妙典日本廻国供養碑」です。
この長たらしい名前で何のことかわからずに行ってみたのです。

小さなお堂の脇にたくさんの苔むした石板が置かれていました。

その石板にはどうやら地図らしきものが彫られています。
地図は日本地図であり、大まかには今の地図と北海道を除けば意外に正確なものです。
伊能忠敬が日本地図を作製するよりも約50年ほど前に作られたものです。
伝承によれば、地元の須賀田庄右門が自ら日本廻国の成就を記念し、元禄七年(1694)に建立したとなっています。
経典を奉納した六十六の国を地図に彫ったものと思われます。
ここは染谷地区の高台側にありますが、「六部台」と呼ばれている場所だといいます。
石板も風雨に曝されて線も薄くなりかけています。
この当時の日本地図としても価値があるものと思いますが、個人所有とはいえ、個人にその保管が任されていても良いのか疑問ですね。
さて、このような六部は室町時代には僧侶が行っていたのですが、江戸時代にはこのように民間の篤志家でも行なう者が出てきたのだと思います。
先日紹介した小町伝説の「北向観音堂」に祀られた「観音像」も行基菩薩が連れてきた稽主勲兄弟の作といわれていますが、どうもその昔、六部が背負ってきたものを病になり、厄介になった代わりに置いて行ったものとも伝えられています。
また、天狗の話にも出てきた「長楽寺」にも六部の回国記念の石板があるといいます。
日本各地に六部が途中で病に倒れたなどで、幾つもの逸話が残っているようです。
私たちも戦後の現代的な生活に慣れ親しんで、このような話がきっとどこかにまだ埋もれてしまっているに違いありません。
六部の話の最後に各地に「六部殺し」という物騒な話が伝わっています。
有名なものは
「ある晩、六部が家を訪ねてきて、一晩の宿を頼んだ。
主人は、快く泊めてやった。
しかし、その六部が大金を持っていることに気がついて、その金(金塊?)を奪うために殺してしまう。
そうして、村一番の長者になるが、身内に不幸が降りそそぐ。
来る嫁は亡くなり、子供も次々に亡くなってしまう。
ようやく、子供も無事に育つ子もでてきたとき、ある晩、その子を背負って山道を歩いていたら、
背中の子供が「あれもちょうどこんな晩だったね~」としゃべった。
最後には一家は没落していったと」
この怪談話しの背景に当時一人で国中を渡り歩く六部の姿を映し出しているのかもしれません。
六部が金塊を持っていたり、泊めた六部が消えてしまったり、六部を泊めた家がお金持ちになったりしたのを、このような話として伝わっていったのかもしれません。
二十三夜
今日は本当に暖かかったですね。春一番が吹いたとか。
花粉も良く飛ぶのでしばらく遺跡などの散策も出来ないかもしれません。
今までに撮った写真などでもう少し紹介したいところもありますのでしばらくは大丈夫かな?
さて、石岡にはお寺の境内、村の入口辻や古道の道端などにたくさんの二十三夜講の石塔が立っている。
探してみたらいったいいくつくらいあるのだろうか?今までに見て写真に撮ったものを一部紹介します。
昔は二十三夜の月を待つことが各地で行われ、それぞれの村や部落で夜遅く(夜10時~12時頃)上る月を待つために集まり飲食を共にしたのだろう。
毎月行うところもあったそうだが、1月、5月、9月、11月に行うのが一般的だそうだ。
今日は2月の二十三夜であり、月の出は真夜中の12時過ぎである。一年で最も遅く出る部類の月ではないかと思う。
これが9月であれば、月は割合と目の高さに近いところになるので、十五夜はそれ程変わらず夕方4時から5時頃に月の出となるが、二十三夜は10時半ころである。
二十三夜は勢至菩薩を本尊とし、勢至菩薩は、智慧の光をもっているとされ、あらゆるものを照し、すべての苦しみを離れ、衆生に限りない力を得させる菩薩といわれています。月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まったものだそうです。
明かりが貴重な時代に月の明かりは大変大切だったのでしょう。なかなか出ない月を、家族や部落の人たちが集まって、月の出を待ちわびたのでしょう。

二十三夜尊(石岡市若宮:若宮八幡通り)・・・金刀比羅神社と共にお盛りがあり、縁日には夜店なども出て賑わったそうで、月の23日に町内で集まり神を祀り、飲食雑談して月の出を待ったと言う。特に11月23日は、霜月三夜と呼ばれ、重要視された。またこのお宮の脇に銭湯がかなり頑張って残っていたが、今はすでにありません。

正法寺(石岡市大増)・・・十八羅漢と百観音の寺として有名である。この寺の入口にたくさんの二十三夜の石塔が立っている。

石岡市龍明(狢内)・・・愛宕山の十三番目の天狗になった長楽寺のいた寺で、映画撮影に良く使われるところとして有名だ。長楽寺へ向かう狢内の部落の道角に立っている。(これは十九夜塔です)

石岡市菖蒲沢(薬師古道)・・・筑波四面薬師の一つで菖蒲沢の薬師さまとして親しまれてきた。近年廃れた参拝山道を整備し、薬師古道として脚光を浴びている。この二十三夜塔は山の入口を少し登ったところにある。

笠間市岩間(泉)・・・難台山、愛宕山と連なる筑波連峰の一番先端にある鐘転山(かねころばしやま)(標高218m)の麓に建つ隠沢観音への道の途中にある

石岡市三村地区の先の高台に正月平がある。この街並み先の道端に立つ

ギター文化館へ向かう宇都宮街道の山崎地区の信号のある交差点の隅に立っている。

筑波四面薬師の一つ真壁町の椎尾薬師(薬王院)を訪ねた時に道を間違えて手前の山道を上ったら偶然道端に立っていた。

幻に終わった「加波山鉄道」の俤を追い求めて、恋瀬川サイクリングロードをたどった時、半田地区の川沿いの山道に隠れて立っていた。
花粉も良く飛ぶのでしばらく遺跡などの散策も出来ないかもしれません。
今までに撮った写真などでもう少し紹介したいところもありますのでしばらくは大丈夫かな?
さて、石岡にはお寺の境内、村の入口辻や古道の道端などにたくさんの二十三夜講の石塔が立っている。
探してみたらいったいいくつくらいあるのだろうか?今までに見て写真に撮ったものを一部紹介します。
昔は二十三夜の月を待つことが各地で行われ、それぞれの村や部落で夜遅く(夜10時~12時頃)上る月を待つために集まり飲食を共にしたのだろう。
毎月行うところもあったそうだが、1月、5月、9月、11月に行うのが一般的だそうだ。
今日は2月の二十三夜であり、月の出は真夜中の12時過ぎである。一年で最も遅く出る部類の月ではないかと思う。
これが9月であれば、月は割合と目の高さに近いところになるので、十五夜はそれ程変わらず夕方4時から5時頃に月の出となるが、二十三夜は10時半ころである。
二十三夜は勢至菩薩を本尊とし、勢至菩薩は、智慧の光をもっているとされ、あらゆるものを照し、すべての苦しみを離れ、衆生に限りない力を得させる菩薩といわれています。月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まったものだそうです。
明かりが貴重な時代に月の明かりは大変大切だったのでしょう。なかなか出ない月を、家族や部落の人たちが集まって、月の出を待ちわびたのでしょう。

二十三夜尊(石岡市若宮:若宮八幡通り)・・・金刀比羅神社と共にお盛りがあり、縁日には夜店なども出て賑わったそうで、月の23日に町内で集まり神を祀り、飲食雑談して月の出を待ったと言う。特に11月23日は、霜月三夜と呼ばれ、重要視された。またこのお宮の脇に銭湯がかなり頑張って残っていたが、今はすでにありません。

正法寺(石岡市大増)・・・十八羅漢と百観音の寺として有名である。この寺の入口にたくさんの二十三夜の石塔が立っている。

石岡市龍明(狢内)・・・愛宕山の十三番目の天狗になった長楽寺のいた寺で、映画撮影に良く使われるところとして有名だ。長楽寺へ向かう狢内の部落の道角に立っている。(これは十九夜塔です)

石岡市菖蒲沢(薬師古道)・・・筑波四面薬師の一つで菖蒲沢の薬師さまとして親しまれてきた。近年廃れた参拝山道を整備し、薬師古道として脚光を浴びている。この二十三夜塔は山の入口を少し登ったところにある。

笠間市岩間(泉)・・・難台山、愛宕山と連なる筑波連峰の一番先端にある鐘転山(かねころばしやま)(標高218m)の麓に建つ隠沢観音への道の途中にある

石岡市三村地区の先の高台に正月平がある。この街並み先の道端に立つ

ギター文化館へ向かう宇都宮街道の山崎地区の信号のある交差点の隅に立っている。

筑波四面薬師の一つ真壁町の椎尾薬師(薬王院)を訪ねた時に道を間違えて手前の山道を上ったら偶然道端に立っていた。

幻に終わった「加波山鉄道」の俤を追い求めて、恋瀬川サイクリングロードをたどった時、半田地区の川沿いの山道に隠れて立っていた。
石岡府中のお稲荷様(七稲荷)
一昨日のギター文化館のコンサートの様子を昨日紹介しましたが、下記のブログでも紹介されていました。皆さん結構頑張っていますね。
1)okayan music雑記帳(ギター)
2)ギター文化館DIARY(木下館長さんブログ)
さて今日は、石岡市内のお宮様の話です。
ここ石岡(府中)の昔の地図が残されています。石岡の市史などでも紹介されているもので天保期(1830-1843年)に書かれた手書きの府中町絵図(鈴木彬夫氏所蔵)というものです。
この地図で特徴的なことは、今の旧355号線(水戸街道)が中町から香丸町を通って泉町の方に曲がる突き当りに千手院の大きな寺院があり、国分寺はその横に小さく描かれていることである。
今は、この通りは笠間の方に続いているが、当時はこの千手院を迂回していたようである。
今の国分寺の境内の中に、この千手院の山門が残されているだけで、いつの間にか千手院は無くなってしまった。
さて、今日の話はこの地図に多くの稲荷神社が書かれていることなのです。
稲荷神社が10か所も府中の町の中にあったのです。
稲荷神社は府中七稲荷といわれていた記録があり、この七稲荷のうち、仲之内町の福徳稲荷,金丸町の鈴宮稲荷をはじめ,青木町の青木稲荷,守木町の天之宮稲荷,守横町の宇迦魂稲荷は絵図に示された位置に現存しています。
青木稲荷
隅之宮福徳稲荷
鈴宮(すずのみや)稲荷
宇迦魂(うがのみたま)稲荷
しかし,中町の稲荷は金刀比羅宮に合祀され,香丸町の稲荷は橋本旅館(ホテル橋本楼)の南端にあったそうですが総社宮に合祀されたといいます。
これらの稲荷の多くは「正一位」と称していますが、正一位は最高位で、正一位の伏見稲荷大社より勧請を受けた稲荷神社はほとんどがこの正一位を名乗っているといいます。
このように、石岡の稲荷神社は、400年ほどの歴史があり、石岡の旧町ごとに存在したのです。
これらは、各町住民の結束を図る働きをしたものと考えられます。
このようなこともお祭りの年番制などの結束にも影響を与えているのかもしれません。
しかし、あまりこれらを研究されているようには見えません。
昔、中町本陣の隣りにあったとされる「天王社」などの歴史や祭礼などと市民のかかわりなどをもう少し研究すべきではないかと思ったりしています。
1)okayan music雑記帳(ギター)
2)ギター文化館DIARY(木下館長さんブログ)
さて今日は、石岡市内のお宮様の話です。
ここ石岡(府中)の昔の地図が残されています。石岡の市史などでも紹介されているもので天保期(1830-1843年)に書かれた手書きの府中町絵図(鈴木彬夫氏所蔵)というものです。
この地図で特徴的なことは、今の旧355号線(水戸街道)が中町から香丸町を通って泉町の方に曲がる突き当りに千手院の大きな寺院があり、国分寺はその横に小さく描かれていることである。
今は、この通りは笠間の方に続いているが、当時はこの千手院を迂回していたようである。
今の国分寺の境内の中に、この千手院の山門が残されているだけで、いつの間にか千手院は無くなってしまった。
さて、今日の話はこの地図に多くの稲荷神社が書かれていることなのです。
稲荷神社が10か所も府中の町の中にあったのです。
稲荷神社は府中七稲荷といわれていた記録があり、この七稲荷のうち、仲之内町の福徳稲荷,金丸町の鈴宮稲荷をはじめ,青木町の青木稲荷,守木町の天之宮稲荷,守横町の宇迦魂稲荷は絵図に示された位置に現存しています。




しかし,中町の稲荷は金刀比羅宮に合祀され,香丸町の稲荷は橋本旅館(ホテル橋本楼)の南端にあったそうですが総社宮に合祀されたといいます。
これらの稲荷の多くは「正一位」と称していますが、正一位は最高位で、正一位の伏見稲荷大社より勧請を受けた稲荷神社はほとんどがこの正一位を名乗っているといいます。
このように、石岡の稲荷神社は、400年ほどの歴史があり、石岡の旧町ごとに存在したのです。
これらは、各町住民の結束を図る働きをしたものと考えられます。
このようなこともお祭りの年番制などの結束にも影響を与えているのかもしれません。
しかし、あまりこれらを研究されているようには見えません。
昔、中町本陣の隣りにあったとされる「天王社」などの歴史や祭礼などと市民のかかわりなどをもう少し研究すべきではないかと思ったりしています。
松平播磨守
「松平播磨守」(まつだいらはりまのかみ)の名前を聞いて、さて石岡の人はどれだけの人が気がつくでしょうか。
とても興味深い。この私もつい最近まで気がつかなかったのです。
常陸府中藩は松平2万石であることは多くの人は聞いているはずです。
ところが、この播磨守とつくと石岡の藩主であったことにどれだけ気がつくのでしょう?
播磨とはもちろん播州、赤穂、姫路、などのあの播磨の国を指します。
この播磨守になることは大変な名誉なことで、平清盛などはまず播磨守になり出世します。
来年の大河ドラマは清盛だそうですから、見るのも楽しみですね。
しかし、江戸時代には、その役職はその地方とはあまり関係なく、一種の名誉職になっていたようです。
ですから、常陸府中初代藩主松平頼隆が播磨守となると、その後3,4,5,6,8,10代府中藩主が江戸では播磨守に任ぜられています。
ここ石岡には陣屋がおかれ、藩主は江戸に暮らしていました。
この暮らしていた場所が「小石川」であることはよく知られていますが、では小石川の何処なのでしょうか?
小石川には水戸の藩邸がありました。これは今の小石川後楽園の場所です。そうジャイアンツの後楽園ドーム球場のあるところです。
府中藩の松平家の藩邸はというと、この播磨守の名前がヒントになります。
今「播磨坂」という坂があり、桜の名所になっている辺りなのです。
この石岡に住んでいて、どういう訳だか分りませんが、この話は聞いたことがありません。
私が聞いていないだけなのかもしれませんが、興味がないのでしょうか。
陣屋門という門が石岡小学校の校庭に保存されています。
小石川の藩邸が火事になり、建て直した時にあまった、木材で建てられたものと言われています。

この陣屋門も市民会館ができるまではこの小学校の入口のあり、子どもたちがこの門を通って通っていました。
懐かしい人もおられるでしょうね。
とても興味深い。この私もつい最近まで気がつかなかったのです。
常陸府中藩は松平2万石であることは多くの人は聞いているはずです。
ところが、この播磨守とつくと石岡の藩主であったことにどれだけ気がつくのでしょう?
播磨とはもちろん播州、赤穂、姫路、などのあの播磨の国を指します。
この播磨守になることは大変な名誉なことで、平清盛などはまず播磨守になり出世します。
来年の大河ドラマは清盛だそうですから、見るのも楽しみですね。
しかし、江戸時代には、その役職はその地方とはあまり関係なく、一種の名誉職になっていたようです。
ですから、常陸府中初代藩主松平頼隆が播磨守となると、その後3,4,5,6,8,10代府中藩主が江戸では播磨守に任ぜられています。
ここ石岡には陣屋がおかれ、藩主は江戸に暮らしていました。
この暮らしていた場所が「小石川」であることはよく知られていますが、では小石川の何処なのでしょうか?
小石川には水戸の藩邸がありました。これは今の小石川後楽園の場所です。そうジャイアンツの後楽園ドーム球場のあるところです。
府中藩の松平家の藩邸はというと、この播磨守の名前がヒントになります。
今「播磨坂」という坂があり、桜の名所になっている辺りなのです。
この石岡に住んでいて、どういう訳だか分りませんが、この話は聞いたことがありません。
私が聞いていないだけなのかもしれませんが、興味がないのでしょうか。
陣屋門という門が石岡小学校の校庭に保存されています。
小石川の藩邸が火事になり、建て直した時にあまった、木材で建てられたものと言われています。

この陣屋門も市民会館ができるまではこの小学校の入口のあり、子どもたちがこの門を通って通っていました。
懐かしい人もおられるでしょうね。
石岡の陣屋門の思い出
先日、江戸時代の府中藩主松平氏が江戸小石川の屋敷が今の播磨坂のあたりで、松平播磨守であったことを紹介しました。
また、小石川の藩邸が火事で再建した時の材木の残りで、ここ府中の陣屋門がつくられたのですが、このブログの石岡出身の読者の方から、昔の小学校の発行した文集の表紙を送っていただきました。
私はこの学校の卒業生ではないので思い出もありませんが、当時を知る人にとっては思い出も詰まっているものと思います。
懐かしく感じられる人もおられると思いましたので掲載させていただきたく思います。
石岡小学校昭和43年3月発行
これは、昭和43年の3月に石岡小学校の4~6年生の文集だそうです。当時の子供(生徒)の数は今の5倍くらいいたようです。木造の校舎で冬はダルマストーブ(石炭)だったとか・・・。
学校の入口に陣屋門があり、これを生徒はくぐって登校していた様子を版画にしたものですね。
歴史的な経緯を書くと
・文政11年(1828)2月に建立(小石川の藩邸の改築時に同じ木材を使って造られた)
・昭和41年7月石岡市民会館の建設計画と、陣屋門の移転計画が発表。
・昭和42年、市民会館の建設工事着手。
・昭和43年4月、市民会館が完成オープン。
・昭和44年3月、移転工事(現市民会館入り口から小学校校庭入口へ)
となっていますので
この文集は市民会館がオープンする寸前に出されたものですね。
この版画のように当時は門は常にオープンで左右の門柱に写真のような表札が付けられたいたようです。
(資料提供に感謝いたします)
※小学校の昔の文集ですので、そのまま表紙を載せております。
関係者の方で何か問題なり、ご意見等があればご連絡お願いいたします。
また、小石川の藩邸が火事で再建した時の材木の残りで、ここ府中の陣屋門がつくられたのですが、このブログの石岡出身の読者の方から、昔の小学校の発行した文集の表紙を送っていただきました。
私はこの学校の卒業生ではないので思い出もありませんが、当時を知る人にとっては思い出も詰まっているものと思います。
懐かしく感じられる人もおられると思いましたので掲載させていただきたく思います。

これは、昭和43年の3月に石岡小学校の4~6年生の文集だそうです。当時の子供(生徒)の数は今の5倍くらいいたようです。木造の校舎で冬はダルマストーブ(石炭)だったとか・・・。
学校の入口に陣屋門があり、これを生徒はくぐって登校していた様子を版画にしたものですね。
歴史的な経緯を書くと
・文政11年(1828)2月に建立(小石川の藩邸の改築時に同じ木材を使って造られた)
・昭和41年7月石岡市民会館の建設計画と、陣屋門の移転計画が発表。
・昭和42年、市民会館の建設工事着手。
・昭和43年4月、市民会館が完成オープン。
・昭和44年3月、移転工事(現市民会館入り口から小学校校庭入口へ)
となっていますので
この文集は市民会館がオープンする寸前に出されたものですね。
この版画のように当時は門は常にオープンで左右の門柱に写真のような表札が付けられたいたようです。
(資料提供に感謝いたします)
※小学校の昔の文集ですので、そのまま表紙を載せております。
関係者の方で何か問題なり、ご意見等があればご連絡お願いいたします。
木比堤(きびさげ)稲荷
本日2度目の投稿です。
泉町の常磐線の跨線橋を越えて、旧水戸街道を一里塚の方に進むと、右側に「是れよりきびさけいなり道」という大きな石柱が立っている。(読みはきびさげと濁点がつく)
行ってみるとそこから昔参道であったと思われる道が続いているが、まわりは普通の住宅だ。
前から気になっていたが、今日あるブログ読者の方から、「インターネットではほとんどでてこないのですが、昔は、笠間稲荷よりにぎわったともいわれるようなのですが、何かご存じありませんか?」と質問を受けた。
さて、昔からその存在は知っていたが、石岡の歴史などの書物に出てこないので、大したものではないのではないかと思い見に行くチャンスがなかった。
質問を受けて、そういえば何故、何処にも出てこないのだろうか? と気になり、早速見に行った。

旧水戸街道の一里塚手前に、このような立派な石柱が置かれている。
しかし、ここから、稲荷まではというと、細い道を入って、市役所前へ続く道を横切り、約5分程歩くともとアルコール工場のあったという現在のカスミなどの入ったショッピングモールの裏手の方にこんもりとした木々のしげったところにこの「木比堤(きびさげ)稲荷」があった。

一の鳥居の先に木の鳥居がたくさん並んでいます。

代々鳥居を寄進して守られてきたのがわかります。この鳥居は全て白木で、よくあるような赤い鳥居などはありません。このため朽ちるのも早いのかもしれません。恐らく何年かに1度鳥居を新しいものに交換して続いてきていると思われます。

境内には稲荷神社特有の狐の像がたくさんありました。拝殿は昭和59年に火災で焼失し、その後再建したものだといわれています。。

さて、この稲荷さんですが、通称「きびさげいなりさん」として親しまれているといわれ、いつ創建されたかは不明ですが、とても重要な神社です。
何故、この神社が石岡の歴史書にほとんど書かれていないのでしょうか? とても不思議です。
この神社は常陸大掾国香以来の領主にとって、鬼門(北東)の守り神として大変重要な役割を担っていたと思われます。
古来から町の上下の崇敬篤く祭神は宇迦魂命です。
さて、調べてみると、歴史書に出てこない理由が少し見えてきました。
この稲荷は、大正時代に、霊験あらたかで有名になり、東京の講中が参拝して、境内は大変なにぎわいになったといいます。(いしおか100物語より)
地元から見ると、よその講中の信仰を集めてしまったと言えます。
証拠には上の写真にあった鳥居も東京の方のものが数多くありました。
しかし、この府中の街の鬼門の守り神を大切にして歴史も検証していかなければいけないと思います。
地元でも紹介の記事が少なすぎますね。例祭は2月初午日に行なわれているといいます。
泉町の常磐線の跨線橋を越えて、旧水戸街道を一里塚の方に進むと、右側に「是れよりきびさけいなり道」という大きな石柱が立っている。(読みはきびさげと濁点がつく)
行ってみるとそこから昔参道であったと思われる道が続いているが、まわりは普通の住宅だ。
前から気になっていたが、今日あるブログ読者の方から、「インターネットではほとんどでてこないのですが、昔は、笠間稲荷よりにぎわったともいわれるようなのですが、何かご存じありませんか?」と質問を受けた。
さて、昔からその存在は知っていたが、石岡の歴史などの書物に出てこないので、大したものではないのではないかと思い見に行くチャンスがなかった。
質問を受けて、そういえば何故、何処にも出てこないのだろうか? と気になり、早速見に行った。

旧水戸街道の一里塚手前に、このような立派な石柱が置かれている。
しかし、ここから、稲荷まではというと、細い道を入って、市役所前へ続く道を横切り、約5分程歩くともとアルコール工場のあったという現在のカスミなどの入ったショッピングモールの裏手の方にこんもりとした木々のしげったところにこの「木比堤(きびさげ)稲荷」があった。

一の鳥居の先に木の鳥居がたくさん並んでいます。

代々鳥居を寄進して守られてきたのがわかります。この鳥居は全て白木で、よくあるような赤い鳥居などはありません。このため朽ちるのも早いのかもしれません。恐らく何年かに1度鳥居を新しいものに交換して続いてきていると思われます。

境内には稲荷神社特有の狐の像がたくさんありました。拝殿は昭和59年に火災で焼失し、その後再建したものだといわれています。。

さて、この稲荷さんですが、通称「きびさげいなりさん」として親しまれているといわれ、いつ創建されたかは不明ですが、とても重要な神社です。
何故、この神社が石岡の歴史書にほとんど書かれていないのでしょうか? とても不思議です。
この神社は常陸大掾国香以来の領主にとって、鬼門(北東)の守り神として大変重要な役割を担っていたと思われます。
古来から町の上下の崇敬篤く祭神は宇迦魂命です。
さて、調べてみると、歴史書に出てこない理由が少し見えてきました。
この稲荷は、大正時代に、霊験あらたかで有名になり、東京の講中が参拝して、境内は大変なにぎわいになったといいます。(いしおか100物語より)
地元から見ると、よその講中の信仰を集めてしまったと言えます。
証拠には上の写真にあった鳥居も東京の方のものが数多くありました。
しかし、この府中の街の鬼門の守り神を大切にして歴史も検証していかなければいけないと思います。
地元でも紹介の記事が少なすぎますね。例祭は2月初午日に行なわれているといいます。
木比提-きびさげ-ことばあそび
さて、一昨日に「木比提稲荷」が何故歴史の舞台から消えてしまったのかを考えていたら、この名前の由来が気になった。
「木比提」きびさげ、きびさき、きびさけ ・・・いろいろと連想して言葉遊びをしてみた。
この「きびさげ稲荷」は国府府中にとっては北東方向であり鬼が出入りする鬼門の方角である。
連想する時は、漢字で考えてはまず間違えるので、発音などを考えながらまずは「ひらがな」から進めます。
十二支と方角
鬼門は北東で「丑」(うし)と「寅」(とら)の間で、「丑寅=艮(うしとら)」というそうです。
鬼が「牛の角をもち、虎の柄の腰巻をつける」のはこのためだといいます。
では言葉の連想をスタートしましょう。
1)木比→きび→黍→吉備→吉備だんご(黍団子)→桃太郎→鬼退治
2)きび→黄実→黄泉の国(よみのくに)→神話では地下の死者の国→黄泉比良坂(よもつひらさか)で、葦原中国(あしはらのなかつくに)につながる。
3)きび→黍→稷→禾+畟(しゅく)→穀物+鬼?
4)きび→トウキビ(トウモロコシ)→サトウキビ
5)きび→きびなご→キビナゴ、きび女子・・・「きび」は鹿児島方面で帯のこと?。帯状の縞模様の小魚
6)さげ→提→提燈(ちょうちん)→穂が垂れ下がるさま
このようなことばの連想から、考えをまとめてみると
A)きびは弥生時代に中国から伝えられたという五穀の一つ「きび・黍」と見るのがもっとも考えられそうだ。
B)1m以上にも成長する黍に実がつき秋になると黄色の実がたくさんついた穂が垂れ下がり、その姿は
きびさげ→ 黍下げ→黍提げ→木比提 (黍の写真はこちら)
C)桃太郎の鬼退治の家来は申(猿犬)・キジ(酉)・戌(犬)で、北東の反対側の干支である。
D)桃太郎は川を流れてきた大きな桃から生まれる。
(桃はイザナミノミコトが黄泉の国から逃げ帰る時桃の実に救われる?)
鬼が島に行って、鬼を一方的に懲らしめて、財宝を奪い取って、お爺さんお婆さんにやってしまう。
鬼はとくに悪いことをしたとはなっていないようだ。子供向け話として付け加えられた?
これは、大和朝廷がこの地に豊かに暮らしていた蝦夷人の土地を侵略し、金銀や鉄などの資源を奪い
朝廷に献上するのと同じである。
常陸風土記に書かれた「土蜘蛛」のような原住民が鬼と考えると、桃太郎は全く違った物語となる。
E)こんなことを考えてきたら、芥川龍の介の書いた「桃太郎」が出てきた。→ 青空文庫「桃太郎」へ
ほかに 尾崎紅葉の「鬼桃太郎」などもあります。
こんな「ことばあそび」もたまには楽しいですね。
ところで
「石岡」は「国府」→「こくふ」→「石阜」→「石岡」 という説が有力だとか??
「高浜」は「国府の浜」→「こうのはま」→「高浜」だと言っています。
「恋瀬川」は「国府の瀬川→「「こうのせかわ」→「「恋瀬川」
さてどうでしょうか? 国府は確かに「こう」と読む地がたくさんあります。
色々な学者様が、「これが本当だ」などといいますが、どれが本当なのかは、何時までもわからないと思います。
根拠となるなどという書物には本当のことはあまり書かれていません。まして地名は文字などない時に呼ばれていたものが多いのです。
奈良時代の初期に書かれたとされる「常陸風土記」にいたっては、当時の大和朝廷の考え方と、当時の長老に聞いた巷の言い伝えなどをまとめただけですから・・・・。
ではまた。
「木比提」きびさげ、きびさき、きびさけ ・・・いろいろと連想して言葉遊びをしてみた。
この「きびさげ稲荷」は国府府中にとっては北東方向であり鬼が出入りする鬼門の方角である。
連想する時は、漢字で考えてはまず間違えるので、発音などを考えながらまずは「ひらがな」から進めます。

鬼門は北東で「丑」(うし)と「寅」(とら)の間で、「丑寅=艮(うしとら)」というそうです。
鬼が「牛の角をもち、虎の柄の腰巻をつける」のはこのためだといいます。
では言葉の連想をスタートしましょう。
1)木比→きび→黍→吉備→吉備だんご(黍団子)→桃太郎→鬼退治
2)きび→黄実→黄泉の国(よみのくに)→神話では地下の死者の国→黄泉比良坂(よもつひらさか)で、葦原中国(あしはらのなかつくに)につながる。
3)きび→黍→稷→禾+畟(しゅく)→穀物+鬼?
4)きび→トウキビ(トウモロコシ)→サトウキビ
5)きび→きびなご→キビナゴ、きび女子・・・「きび」は鹿児島方面で帯のこと?。帯状の縞模様の小魚
6)さげ→提→提燈(ちょうちん)→穂が垂れ下がるさま
このようなことばの連想から、考えをまとめてみると
A)きびは弥生時代に中国から伝えられたという五穀の一つ「きび・黍」と見るのがもっとも考えられそうだ。
B)1m以上にも成長する黍に実がつき秋になると黄色の実がたくさんついた穂が垂れ下がり、その姿は
きびさげ→ 黍下げ→黍提げ→木比提 (黍の写真はこちら)
C)桃太郎の鬼退治の家来は申(猿犬)・キジ(酉)・戌(犬)で、北東の反対側の干支である。
D)桃太郎は川を流れてきた大きな桃から生まれる。
(桃はイザナミノミコトが黄泉の国から逃げ帰る時桃の実に救われる?)
鬼が島に行って、鬼を一方的に懲らしめて、財宝を奪い取って、お爺さんお婆さんにやってしまう。
鬼はとくに悪いことをしたとはなっていないようだ。子供向け話として付け加えられた?
これは、大和朝廷がこの地に豊かに暮らしていた蝦夷人の土地を侵略し、金銀や鉄などの資源を奪い
朝廷に献上するのと同じである。
常陸風土記に書かれた「土蜘蛛」のような原住民が鬼と考えると、桃太郎は全く違った物語となる。
E)こんなことを考えてきたら、芥川龍の介の書いた「桃太郎」が出てきた。→ 青空文庫「桃太郎」へ
ほかに 尾崎紅葉の「鬼桃太郎」などもあります。
こんな「ことばあそび」もたまには楽しいですね。
ところで
「石岡」は「国府」→「こくふ」→「石阜」→「石岡」 という説が有力だとか??
「高浜」は「国府の浜」→「こうのはま」→「高浜」だと言っています。
「恋瀬川」は「国府の瀬川→「「こうのせかわ」→「「恋瀬川」
さてどうでしょうか? 国府は確かに「こう」と読む地がたくさんあります。
色々な学者様が、「これが本当だ」などといいますが、どれが本当なのかは、何時までもわからないと思います。
根拠となるなどという書物には本当のことはあまり書かれていません。まして地名は文字などない時に呼ばれていたものが多いのです。
奈良時代の初期に書かれたとされる「常陸風土記」にいたっては、当時の大和朝廷の考え方と、当時の長老に聞いた巷の言い伝えなどをまとめただけですから・・・・。
ではまた。
大矢橋(1) スマートインター
今「ことば座」の公演から帰ってきました。とても良かったです。
モダンバレーの柏木さんの舞いは本当に違いますね。足のつま先から手の先まで全て容になっています。
とても刺激になりました。文化を育てたいと・・・。
こちらの公演の内容は「風の会」のHPの方に今晩でも少し手を加えて良くしたいと思います。
オカリナの野口さんの作曲した「名は愛しきもの」とても人気です。また今度紹介させてください。
この常世の国から発信したいですね。
さて、話変わって、地域ネタの続きです。
昨日は、石岡から笠間へ行く国道355線(江戸道)について愛宕山への分かれ道の道標を紹介したが、この355線は、石岡から一旦小美玉市(旧美野里町羽鳥)を通って、また石岡市(東成井、真家)に入り、また岩間(愛宕山)の所からは笠間市になります。(石岡市→小美玉市→石岡市→笠間市)
一昨日に紹介した「五輪堂橋」と同じように少し入り組んでいます。(石岡市→かすみがうら市→石岡市)
さて、今日はこの石岡市から小美玉市に入るところの境界にできた高速道路のスマートインターチャンジを紹介しましょう。
この場所はとても興味のある場所なのです。この話はあすにまた書きます。
さて、この24時間乗り降りともできるスマートインターチェンジは、震災直後の3月24日にオープンとなりました。
震災の影響で大々的なセレモニーは控えられたのですが、無人とはいえ便利になったことは確かです。
インターの正式名称は「石岡小美玉スマートインターチェンジ」といいます。
4月末に仙台に行く時にこのインターを初めて利用しました。
通常の料金所のETCゲートと同じだと思って進むと「一旦停止」の文字が。
これはきいたことがあったので止まらなければいけないと、少しバーの手前で停止しました。
しかしバーが上がらない。車につけているカードの読み取りの電源が入っていないのかとも思ってスイッチを入れ直したがなんとも動かない。
もっと前に行かないと認識しないと思い、バーの直前まで進む。
すると、しばらくしてバーが上がった。初めてだとやはり少し戸惑う。少し早めに手前の方で停止してしまったようだ。
年寄りにはあまりなじみにくい。無人も良いけど少しトラブった時は不安である。
今回写真をとるためにインターまでまた行ってみた。
インターの入口の信号を曲がって(旧355線の石岡方面からは直進)進むと、高速の東京方面といわき方面に入口の道路がわかれており、いわき方面は直進で高速道路の下をくぐって向こう側に行きます。

そして道はインターの入口に向かうのだが、私はこのまま乗るのではなく引き返したいのだが困った。
そのまま入口に続いてしまう。Uターンできるほど広い幅の道ではない。
後ろから車が来るので手前で一旦停止して追い越してもらったが・・・・
そして良く見るとゲートの手前でう回路があることに気がついた。

そう、間違って侵入してしまった人やカードの有効期間が過ぎてしまったときの場合のために引き返すための迂回路が設けてありました。
でもバーの直前まで進んで、後ろに車がつながってしまったらバックしないと迂回路に戻れない。
その時はしょうがないのでバーを押してはいってもOKのようです。出口で係員に説明して出るしかないですね。
(インターフォンがあるので、係りに連絡して時間があれば来てもらえるようですが・・・)
なぜこの場所にインターができたのでしょうか。どうも二つの市にまたがっていることがいいようです。
柏原の工業団地にも近いし、茨城空港にも行きやすい。
しかし、今はインターの周りには何もない。水戸の方に「茨城町西」インター(北関東道)などは、インターと合わせて大規模な工業団地や住宅団地などを同時に建設している。
私はこの国の建設などの公共事業の拡大には疑問も持っているし、推進を唱える人たちの利権なども大いに疑問を持っている。
しかし、県や国の事業はほとんど紐付きで、一部を地方自治体で負担しなければならない事が多いと聞いている。
すると、金のない?石岡は何もやらなくなる。やれないのかもしれない。
でも、この市をどのようにしたいのかのビジョンが見えない。
雇用も大切です。これにより駅前も活性化する。外部からの通勤客や石岡への来訪者も増える。
小口製糸工場があった時には女工さんがたくさんいた。
駅前には喫茶店や映画館などがたくさんあった。
外部から資本を呼び込まなければ、歴史資産を守ることもできない。バランスが大切だと思っている。
「歴史では飯は食えない」という人がいる。
しかし「歴史を粗末にしては飯も食えない」ことも忘れてはならない。
このブログは単なる観光案内・歴史遺産の紹介にはとどめたくは無いと思っている。
表面だけをみているだけだと、そこの土地に染みついている昔の香りも風の流れも感じることはほとんど無い。
よろしければ、これからもお付き合いくださいね。
モダンバレーの柏木さんの舞いは本当に違いますね。足のつま先から手の先まで全て容になっています。
とても刺激になりました。文化を育てたいと・・・。
こちらの公演の内容は「風の会」のHPの方に今晩でも少し手を加えて良くしたいと思います。
オカリナの野口さんの作曲した「名は愛しきもの」とても人気です。また今度紹介させてください。
この常世の国から発信したいですね。
さて、話変わって、地域ネタの続きです。
昨日は、石岡から笠間へ行く国道355線(江戸道)について愛宕山への分かれ道の道標を紹介したが、この355線は、石岡から一旦小美玉市(旧美野里町羽鳥)を通って、また石岡市(東成井、真家)に入り、また岩間(愛宕山)の所からは笠間市になります。(石岡市→小美玉市→石岡市→笠間市)
一昨日に紹介した「五輪堂橋」と同じように少し入り組んでいます。(石岡市→かすみがうら市→石岡市)
さて、今日はこの石岡市から小美玉市に入るところの境界にできた高速道路のスマートインターチャンジを紹介しましょう。
この場所はとても興味のある場所なのです。この話はあすにまた書きます。
さて、この24時間乗り降りともできるスマートインターチェンジは、震災直後の3月24日にオープンとなりました。
震災の影響で大々的なセレモニーは控えられたのですが、無人とはいえ便利になったことは確かです。
インターの正式名称は「石岡小美玉スマートインターチェンジ」といいます。
4月末に仙台に行く時にこのインターを初めて利用しました。
通常の料金所のETCゲートと同じだと思って進むと「一旦停止」の文字が。
これはきいたことがあったので止まらなければいけないと、少しバーの手前で停止しました。
しかしバーが上がらない。車につけているカードの読み取りの電源が入っていないのかとも思ってスイッチを入れ直したがなんとも動かない。
もっと前に行かないと認識しないと思い、バーの直前まで進む。
すると、しばらくしてバーが上がった。初めてだとやはり少し戸惑う。少し早めに手前の方で停止してしまったようだ。
年寄りにはあまりなじみにくい。無人も良いけど少しトラブった時は不安である。
今回写真をとるためにインターまでまた行ってみた。
インターの入口の信号を曲がって(旧355線の石岡方面からは直進)進むと、高速の東京方面といわき方面に入口の道路がわかれており、いわき方面は直進で高速道路の下をくぐって向こう側に行きます。

そして道はインターの入口に向かうのだが、私はこのまま乗るのではなく引き返したいのだが困った。
そのまま入口に続いてしまう。Uターンできるほど広い幅の道ではない。
後ろから車が来るので手前で一旦停止して追い越してもらったが・・・・
そして良く見るとゲートの手前でう回路があることに気がついた。

そう、間違って侵入してしまった人やカードの有効期間が過ぎてしまったときの場合のために引き返すための迂回路が設けてありました。
でもバーの直前まで進んで、後ろに車がつながってしまったらバックしないと迂回路に戻れない。
その時はしょうがないのでバーを押してはいってもOKのようです。出口で係員に説明して出るしかないですね。
(インターフォンがあるので、係りに連絡して時間があれば来てもらえるようですが・・・)
なぜこの場所にインターができたのでしょうか。どうも二つの市にまたがっていることがいいようです。
柏原の工業団地にも近いし、茨城空港にも行きやすい。
しかし、今はインターの周りには何もない。水戸の方に「茨城町西」インター(北関東道)などは、インターと合わせて大規模な工業団地や住宅団地などを同時に建設している。
私はこの国の建設などの公共事業の拡大には疑問も持っているし、推進を唱える人たちの利権なども大いに疑問を持っている。
しかし、県や国の事業はほとんど紐付きで、一部を地方自治体で負担しなければならない事が多いと聞いている。
すると、金のない?石岡は何もやらなくなる。やれないのかもしれない。
でも、この市をどのようにしたいのかのビジョンが見えない。
雇用も大切です。これにより駅前も活性化する。外部からの通勤客や石岡への来訪者も増える。
小口製糸工場があった時には女工さんがたくさんいた。
駅前には喫茶店や映画館などがたくさんあった。
外部から資本を呼び込まなければ、歴史資産を守ることもできない。バランスが大切だと思っている。
「歴史では飯は食えない」という人がいる。
しかし「歴史を粗末にしては飯も食えない」ことも忘れてはならない。
このブログは単なる観光案内・歴史遺産の紹介にはとどめたくは無いと思っている。
表面だけをみているだけだと、そこの土地に染みついている昔の香りも風の流れも感じることはほとんど無い。
よろしければ、これからもお付き合いくださいね。
大矢橋(2)-佐竹義政の首塚
本日2度目の投稿です。歴史ネタです。
昨日、石岡・小美玉スマートインターチェンジを紹介したのですが、実はこのインターの場所がとても大事な場所だと最近気がついたのです。
インターを下りて石岡側に向かう信号の場所はすぐ近くを「園部川」が流れており、この川に架かる橋を「大矢橋」といいます。
そのために、ブログの題名を「大矢橋」としてこの紹介をしたいと思っています。
ここは鎌倉幕府が始まる前に、ある事件が起こったとても重要な場所です。日本の歴史にとっても、石岡の人にとっても大切にその歴史を残してほしい場所だと思います。
もう古い事件なので、あまり関心も持たれる方が少ないのですが、事件の概要は次のようなものです。
源頼朝が伊豆で挙兵し、関東でのまず覇権をねらいます。千葉の上総介広常(平広常)などは平氏であったがすぐに頼朝の見方となります。
その頃常陸の国は佐竹氏が常陸太田の方面の奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。
そして、頼朝は広常が「関東での覇権を先に握るべきだ」との話に従い、常陸国府(石岡)までやってきました。
そして、佐竹氏に対し、国府(石岡)に来て自分に従うように使者を出します。
佐竹氏はやはり源氏の直系(新羅三郎の直系、甲斐武田氏も同じ)ですが、当主(2代目)は京の都にいって平家にゴマをすっており、二人の息子が留守を守っていました。
弟の佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城にたてこもりますが、兄義政は当時頼朝の見方となっていた上総介広常(姻戚関係にあった)の勧めで、頼朝と会見するために国府(石岡)にやってきました。
広常の一行はこの大矢橋の手前にて、佐竹義政がやってくるのを待ちました。
この時にもこの大矢橋が常陸国府(府中)の入口だったのだと思います。
そこに義政が家人と部下を連れてやってきます。
橋を挟んで話し合うこととなり、まずは佐竹義政と上総介広常はお互いに1対1で話し合うために、橋の中央まで進みます。
そして、あっという間に広常は佐竹義政に切りつけ、殺してしまいました。いってみればだまし討ちです。
驚いた佐竹側の家来や家人たちです。主人が殺され、あわてて逃げ帰ってしまいました。
この様子は「吾妻鏡」に書かれています。
卑怯なだまし討ちでしたが、そのまま書かれているので割合と本当のことが書かれているようです。(吾妻鏡は源氏を美化して書かれた書物ですが・・・)
その後、弟の佐竹秀義は頼朝軍に攻められ、自然の堅城と言われた金砂山に立て篭もっていたが、どんどんと後ろに敗走してしまいました。そして、頼朝に帰順せざるを得なくなります。
これで関東での頼朝の覇権が成功して、いよいよ京の平氏へ攻め上がるようになるのです。
源氏の頼朝が関東での主導権を握った大事な出来事です。事件は治承4年(1180年)11月4日でした。
(だまし討ちでも、当時は結果OKなら悪いとは思っていないようです)
この源氏が関東での覇権を握るきっかけとなった、大切な大矢橋の場所が、スマートインターの目の前にあるのです。
何故かインターの記事や案内板にはこの大矢橋は出てきませんね。
ほとんど知らないし、石岡は何故か平氏・平氏としか言いません。
平国香の墓が市内「平福寺」にあると思っています。
本当か嘘かはわかりませんし、わからない事はそれ以上興味もありませんし、嘘かも知れない事を自慢はしません。
この大矢橋に関して話題になりませんね。鎌倉時代前の首塚など不気味ですから、興味もないのかもしれません。

写真の木の茂っているところが、佐竹義政の首塚。左側の橋が新しい(数年前建設の)大矢橋。

首塚と説明看板。これによると胴塚も近く(小美玉市)にありそうですが、場所がわかりません。

上の写真は3年ほど前の撮影で、新しい橋ができたばかりの時。向こうに見えるのが旧大矢橋です。
事件は830年も前ですので、当時の橋がどんなであったかはわかりません。
そんなに大きな橋ではなかったでしょう。
ただ、佐竹氏が府中にやってくるのに、こちらの笠間方面からやってきたのだけは確かですね。
前に紹介した道標の所へ出ます。当時はそんな道標は無かったので、棒杭(ぼっくい)でもあったのでしょうか。

旧国道355号線に数年間使われずに残されていた「旧大矢橋」は取り外し工事の最中でした。工事の若いお兄ちゃんが話しかけてきました。
「元の橋は取り外してしまうけど、もうすぐ脇に歩道ができるから、あそこの塚の所へは行きやすくなりますよ。地元の人が、あの首塚の周りの下草を刈ってくれているみたいだ。そういえばあそこでやられたのは弟さんだったかな? 胴塚も向こうの小美玉にあるようだよ。」
見に来る人も珍しいのでしょうね。興味深げに話しかけてくれました。
胴塚はどこにある? 地図などでは載っていないが・・・どなたか知っていますか?
(補足)
この記事も1週間以上寝かせてしまいました。他の話題が増えてしまい、UPするのが遅くなってしました。
現在は旧橋の撤去や歩道の整備も終わっているかもしれません。
佐竹氏がこの後、戦国時代にはこの常陸の国を統一しますが、この辺りを制していた平氏一族をことごとくだまし討ちでやっつけてしまうのですから、あまりだまし討ちが悪いとは言えないでしょうね。
家康に、秋田へ飛ばされてしまったのも、どこか信用されていなかったのかもしれませんね。
昨日、石岡・小美玉スマートインターチェンジを紹介したのですが、実はこのインターの場所がとても大事な場所だと最近気がついたのです。
インターを下りて石岡側に向かう信号の場所はすぐ近くを「園部川」が流れており、この川に架かる橋を「大矢橋」といいます。
そのために、ブログの題名を「大矢橋」としてこの紹介をしたいと思っています。
ここは鎌倉幕府が始まる前に、ある事件が起こったとても重要な場所です。日本の歴史にとっても、石岡の人にとっても大切にその歴史を残してほしい場所だと思います。
もう古い事件なので、あまり関心も持たれる方が少ないのですが、事件の概要は次のようなものです。
源頼朝が伊豆で挙兵し、関東でのまず覇権をねらいます。千葉の上総介広常(平広常)などは平氏であったがすぐに頼朝の見方となります。
その頃常陸の国は佐竹氏が常陸太田の方面の奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。
そして、頼朝は広常が「関東での覇権を先に握るべきだ」との話に従い、常陸国府(石岡)までやってきました。
そして、佐竹氏に対し、国府(石岡)に来て自分に従うように使者を出します。
佐竹氏はやはり源氏の直系(新羅三郎の直系、甲斐武田氏も同じ)ですが、当主(2代目)は京の都にいって平家にゴマをすっており、二人の息子が留守を守っていました。
弟の佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城にたてこもりますが、兄義政は当時頼朝の見方となっていた上総介広常(姻戚関係にあった)の勧めで、頼朝と会見するために国府(石岡)にやってきました。
広常の一行はこの大矢橋の手前にて、佐竹義政がやってくるのを待ちました。
この時にもこの大矢橋が常陸国府(府中)の入口だったのだと思います。
そこに義政が家人と部下を連れてやってきます。
橋を挟んで話し合うこととなり、まずは佐竹義政と上総介広常はお互いに1対1で話し合うために、橋の中央まで進みます。
そして、あっという間に広常は佐竹義政に切りつけ、殺してしまいました。いってみればだまし討ちです。
驚いた佐竹側の家来や家人たちです。主人が殺され、あわてて逃げ帰ってしまいました。
この様子は「吾妻鏡」に書かれています。
卑怯なだまし討ちでしたが、そのまま書かれているので割合と本当のことが書かれているようです。(吾妻鏡は源氏を美化して書かれた書物ですが・・・)
その後、弟の佐竹秀義は頼朝軍に攻められ、自然の堅城と言われた金砂山に立て篭もっていたが、どんどんと後ろに敗走してしまいました。そして、頼朝に帰順せざるを得なくなります。
これで関東での頼朝の覇権が成功して、いよいよ京の平氏へ攻め上がるようになるのです。
源氏の頼朝が関東での主導権を握った大事な出来事です。事件は治承4年(1180年)11月4日でした。
(だまし討ちでも、当時は結果OKなら悪いとは思っていないようです)
この源氏が関東での覇権を握るきっかけとなった、大切な大矢橋の場所が、スマートインターの目の前にあるのです。
何故かインターの記事や案内板にはこの大矢橋は出てきませんね。
ほとんど知らないし、石岡は何故か平氏・平氏としか言いません。
平国香の墓が市内「平福寺」にあると思っています。
本当か嘘かはわかりませんし、わからない事はそれ以上興味もありませんし、嘘かも知れない事を自慢はしません。
この大矢橋に関して話題になりませんね。鎌倉時代前の首塚など不気味ですから、興味もないのかもしれません。

写真の木の茂っているところが、佐竹義政の首塚。左側の橋が新しい(数年前建設の)大矢橋。

首塚と説明看板。これによると胴塚も近く(小美玉市)にありそうですが、場所がわかりません。

上の写真は3年ほど前の撮影で、新しい橋ができたばかりの時。向こうに見えるのが旧大矢橋です。
事件は830年も前ですので、当時の橋がどんなであったかはわかりません。
そんなに大きな橋ではなかったでしょう。
ただ、佐竹氏が府中にやってくるのに、こちらの笠間方面からやってきたのだけは確かですね。
前に紹介した道標の所へ出ます。当時はそんな道標は無かったので、棒杭(ぼっくい)でもあったのでしょうか。

旧国道355号線に数年間使われずに残されていた「旧大矢橋」は取り外し工事の最中でした。工事の若いお兄ちゃんが話しかけてきました。
「元の橋は取り外してしまうけど、もうすぐ脇に歩道ができるから、あそこの塚の所へは行きやすくなりますよ。地元の人が、あの首塚の周りの下草を刈ってくれているみたいだ。そういえばあそこでやられたのは弟さんだったかな? 胴塚も向こうの小美玉にあるようだよ。」
見に来る人も珍しいのでしょうね。興味深げに話しかけてくれました。
胴塚はどこにある? 地図などでは載っていないが・・・どなたか知っていますか?
(補足)
この記事も1週間以上寝かせてしまいました。他の話題が増えてしまい、UPするのが遅くなってしました。
現在は旧橋の撤去や歩道の整備も終わっているかもしれません。
佐竹氏がこの後、戦国時代にはこの常陸の国を統一しますが、この辺りを制していた平氏一族をことごとくだまし討ちでやっつけてしまうのですから、あまりだまし討ちが悪いとは言えないでしょうね。
家康に、秋田へ飛ばされてしまったのも、どこか信用されていなかったのかもしれませんね。
陣屋門と石岡
昨日の赤レンガ(1)の補足です。
昨日石岡の陣屋門を元の場所へ戻すのが良いと書きました。
同じ思いの人も多いのではないかと思います。
他の方のブログを見たりしていると、どんな思いでこの門を見るかは実に色々と異なっています。
・昔のあり日の姿を思い受けべてこの門をくぐった思い出がよみがえる人
・国衙の場所を見に来て、ここに陣屋があったと気がつく人
・茨城の城閣などを探しまわってこの門が「高麗門」であることに気がつく人
・なんだお江戸の殿様の余り木で造ったのか?などと思う人
・市民会館で行なわれる落語などを聞きにきて「陣屋門跡」の石柱に気がつく人
でも、この場所が石岡のイメージを決めてしまっているようにも思います。
ところで、陣屋っていったい何? どんなイメージだったの。
藩邸とは何が違うの? 藩がなくなるころ陣屋にはどんな人たちがどんなことをしていたの?
最後には200人くらいの人がいたらしいけど。
明治、大正と石岡が発展していいた時に江戸時代の庶民の生活などの香りは何処かに飛んで行ったのでしょうか?
この町の不思議の一つが「石岡の江戸時代はどんな様子だったのか?」まったくわからないことでは??
作家の村上春樹さんが原発事故をうけての公演で、日本の過ちを指摘しそれは「効率」を求めたからだといっていました。
私はこの発言にはまったく賛成していません。
はたして効率を良くしたいとの思いが他のことを犠牲にしてこの事故を起こさせたのでしょうか?
まったく違うと思っています。
硬直化したお役所体制。将来を見ての理想を描けない人達。
自分たちの今しか見れない人達の傲慢さは「効率」という言葉とは真逆です。
まったく効率の悪い仕組みが多すぎます。
決まった内容を行なうのはコンピュータにすべて任せましょう。
業務の効率を3倍くらいにUPさせるべきです。そして、将来の理想の議論を大いにやりたいですね。
過去の人々の暮らしの歴史を大切にしながら・・・・。
昨日石岡の陣屋門を元の場所へ戻すのが良いと書きました。
同じ思いの人も多いのではないかと思います。
他の方のブログを見たりしていると、どんな思いでこの門を見るかは実に色々と異なっています。
・昔のあり日の姿を思い受けべてこの門をくぐった思い出がよみがえる人
・国衙の場所を見に来て、ここに陣屋があったと気がつく人
・茨城の城閣などを探しまわってこの門が「高麗門」であることに気がつく人
・なんだお江戸の殿様の余り木で造ったのか?などと思う人
・市民会館で行なわれる落語などを聞きにきて「陣屋門跡」の石柱に気がつく人
でも、この場所が石岡のイメージを決めてしまっているようにも思います。
ところで、陣屋っていったい何? どんなイメージだったの。
藩邸とは何が違うの? 藩がなくなるころ陣屋にはどんな人たちがどんなことをしていたの?
最後には200人くらいの人がいたらしいけど。
明治、大正と石岡が発展していいた時に江戸時代の庶民の生活などの香りは何処かに飛んで行ったのでしょうか?
この町の不思議の一つが「石岡の江戸時代はどんな様子だったのか?」まったくわからないことでは??
作家の村上春樹さんが原発事故をうけての公演で、日本の過ちを指摘しそれは「効率」を求めたからだといっていました。
私はこの発言にはまったく賛成していません。
はたして効率を良くしたいとの思いが他のことを犠牲にしてこの事故を起こさせたのでしょうか?
まったく違うと思っています。
硬直化したお役所体制。将来を見ての理想を描けない人達。
自分たちの今しか見れない人達の傲慢さは「効率」という言葉とは真逆です。
まったく効率の悪い仕組みが多すぎます。
決まった内容を行なうのはコンピュータにすべて任せましょう。
業務の効率を3倍くらいにUPさせるべきです。そして、将来の理想の議論を大いにやりたいですね。
過去の人々の暮らしの歴史を大切にしながら・・・・。
青屋祭
台風は大分南に遠のいているが、昨夜は結構風が強かった。東北の被災地にあまり影響がなくて少しホッとしています。
7月17日(日)夕方5時半から青屋神社の大祭があると言うので、ギター館のアイヌの民族のコンサートから戻って、出かけてみました。
青屋神社はこの石岡にやって来た時にすぐに説明を読んだ場所です。
昔、この常陸国府の地に赴任された国司は、一の宮から順番に参拝する習わしがあったといいます。
常陸一宮は鹿島神宮ですから、高浜から船で渡ったといいます。
しかし天候が悪いと渡ることができなくなり、このような時は浜辺に青茅で小屋を作りそこから鹿島神宮の方向を拝んだといいます。
これが徐々に一般的になり惣社の行事として旧暦6月21日に神事が高浜で行われるようになり、これが高浜神社に発展します。
大掾氏が滅亡して、この祭りも途絶えたとありますが、江戸時代になり府中の税所(さいしょ)家(百済氏)により復活したのです。
この祭りは青屋の馬場にて行なわれ、神馬に跨った惣社神主を先頭に数名で高浜神社との間を往復したようです。
その後この青屋祭に青いススキで作った箸でウドンを食べるという風習が残ったとあります。
では今はどんなことをやるのでしょうか。

夕方5時からはじまると思って、出かけたのだが、貼られた紙には
「青屋神社例大祭 午後五時半より 主催 青屋神社氏子会祭礼実行委員会、元真地四部三班~七班」
となっていました。
しまった30分早すぎた。
係りの実行委員会の方たちが5-6人テントで準備中でした。しょうがないので、神社にお参りして写真を1枚撮らせていただきました。

5時半少し前になると総社の神主さん2人がやってきました。

そして太鼓と祝詞の準備です。そこに一人の若い女性のカメラマンが一人やってきました。
あらあら、女性カメラマンは何処かの新聞社かなにかの取材かと思ったら、この方は総社宮の若いお嫁さんだそうです。
来られている左側の神主さんが旦那さんです。

神職で宮司の下の位を禰宜(ねぎ)と言うそうですが、この禰宜のご夫婦だといいます。
会津若松出身の奥さまは今年の県の「いばらき女性特派員」の一人に選ばれたそうです。
こんな制度があるなんて知らなかったが、県発行の雑誌「ひばり」に記事を書くそうです。

さて、近くで見ていたら、例大祭が始まるので中にあがれといわれたので、部外者ですからとお断りしてはじまった太鼓の音を聞きながら帰ってきました。
特に変わったこともなさそうでしたが、近くの方に「うどんは食べるのですか?」とお聞きしたところ、「うどんは食べますよ」とのことでした。
ススキの箸を使うかは聞かなかったが・・・
今回は「いばらき女性特派員」の制度を知っただけで収穫ありです。
もう何年かやっているそうですが、今は1年任期で4人を選んで依頼しているといいます。
希望者は来年にでも応募して見てください。
7月17日(日)夕方5時半から青屋神社の大祭があると言うので、ギター館のアイヌの民族のコンサートから戻って、出かけてみました。
青屋神社はこの石岡にやって来た時にすぐに説明を読んだ場所です。
昔、この常陸国府の地に赴任された国司は、一の宮から順番に参拝する習わしがあったといいます。
常陸一宮は鹿島神宮ですから、高浜から船で渡ったといいます。
しかし天候が悪いと渡ることができなくなり、このような時は浜辺に青茅で小屋を作りそこから鹿島神宮の方向を拝んだといいます。
これが徐々に一般的になり惣社の行事として旧暦6月21日に神事が高浜で行われるようになり、これが高浜神社に発展します。
大掾氏が滅亡して、この祭りも途絶えたとありますが、江戸時代になり府中の税所(さいしょ)家(百済氏)により復活したのです。
この祭りは青屋の馬場にて行なわれ、神馬に跨った惣社神主を先頭に数名で高浜神社との間を往復したようです。
その後この青屋祭に青いススキで作った箸でウドンを食べるという風習が残ったとあります。
では今はどんなことをやるのでしょうか。

夕方5時からはじまると思って、出かけたのだが、貼られた紙には
「青屋神社例大祭 午後五時半より 主催 青屋神社氏子会祭礼実行委員会、元真地四部三班~七班」
となっていました。
しまった30分早すぎた。
係りの実行委員会の方たちが5-6人テントで準備中でした。しょうがないので、神社にお参りして写真を1枚撮らせていただきました。

5時半少し前になると総社の神主さん2人がやってきました。

そして太鼓と祝詞の準備です。そこに一人の若い女性のカメラマンが一人やってきました。
あらあら、女性カメラマンは何処かの新聞社かなにかの取材かと思ったら、この方は総社宮の若いお嫁さんだそうです。
来られている左側の神主さんが旦那さんです。

神職で宮司の下の位を禰宜(ねぎ)と言うそうですが、この禰宜のご夫婦だといいます。
会津若松出身の奥さまは今年の県の「いばらき女性特派員」の一人に選ばれたそうです。
こんな制度があるなんて知らなかったが、県発行の雑誌「ひばり」に記事を書くそうです。

さて、近くで見ていたら、例大祭が始まるので中にあがれといわれたので、部外者ですからとお断りしてはじまった太鼓の音を聞きながら帰ってきました。
特に変わったこともなさそうでしたが、近くの方に「うどんは食べるのですか?」とお聞きしたところ、「うどんは食べますよ」とのことでした。
ススキの箸を使うかは聞かなかったが・・・
今回は「いばらき女性特派員」の制度を知っただけで収穫ありです。
もう何年かやっているそうですが、今は1年任期で4人を選んで依頼しているといいます。
希望者は来年にでも応募して見てください。
平家の福を願う寺
現在まだ石岡のお祭りのシリーズが終わっておりませんが、石岡を少し知っていただけるように記事を一つ載せます。
タイトルに「平家の福を願う寺」と書きましたが、これは石岡市内の「(春林山)平福寺」のことです。
ここに平家の祖といわれる平国香(くにか)が平安時代中期に常陸国の大掾(だいじょう)職についてより1590年まで世襲的に大掾職を継承して約680年にわたって続いてきた常陸大掾平氏歴代の墓(五輪塔)があります。
寺は平国香(たいらのくにか)により約1000年前に建立されたと伝えられますが、はっきりしたことはわかりません。
ただ、奈良の西大寺(東大寺と対比して建立された)の末寺にこの平福寺の名前があり、かなり古くからあったことは間違いないようです。
またかっては、ここ石岡(府中)の五大寺に数えられた寺です。他の四寺は不動院・龍光寺・千手院・照光寺です。
「おごる平家も久しからず」と言われた平清盛はこの国香の子孫で伊勢平氏と呼ばれています。

平福寺本堂。現在は曹洞宗です。

大掾平氏歴代の墓(五輪塔)。真中に大きな塔があり、まわりを14基の塔が囲って配置されています。
「新編常陸国誌」(1836年)の記述をもとに、真中の塔が国香の墓だと信じて疑わない人もいるようです。
しかし、時代背景などを考えると平将門に殺された国香の墓があるというのは地理的には無理があるようで、異論が多く真実はわかっていません。
五輪とは上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪と呼ばれ、これで万物を表現したものだそうです。
奈良の西大寺は女性天皇「孝謙上皇」が建立した(765年)寺で、日本最古ではないかといわれる五輪塔があります。
この奈良の西大寺は当時力を持っていた僧、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の思想が組み込まれていると言われています。
道鏡も都を追われて下野国へやってきましたので、物部一族とのかかわりもわからないところだらけです。
ここ府中の中世の六名家として、税所(さいしょ)・健児所・香丸・金丸・中宮部・弓削(ゆげ)の名前があげられていますが、この弓削氏との関係があるのか興味がわきます。
ここ石岡は、まだまだ謎がたくさん埋まっている土地ですね。
場所は富田の北向き観音の隣りです。北向き観音の反対側は府中酒造さんです。まぼろしの酒「渡舟」でも買って、寺の見物などもされたら良いと思います。
祭りの供奉行列もこの北向き観音の前を通ります。
私も、またじっくり調べてみたいと思います。
タイトルに「平家の福を願う寺」と書きましたが、これは石岡市内の「(春林山)平福寺」のことです。
ここに平家の祖といわれる平国香(くにか)が平安時代中期に常陸国の大掾(だいじょう)職についてより1590年まで世襲的に大掾職を継承して約680年にわたって続いてきた常陸大掾平氏歴代の墓(五輪塔)があります。
寺は平国香(たいらのくにか)により約1000年前に建立されたと伝えられますが、はっきりしたことはわかりません。
ただ、奈良の西大寺(東大寺と対比して建立された)の末寺にこの平福寺の名前があり、かなり古くからあったことは間違いないようです。
またかっては、ここ石岡(府中)の五大寺に数えられた寺です。他の四寺は不動院・龍光寺・千手院・照光寺です。
「おごる平家も久しからず」と言われた平清盛はこの国香の子孫で伊勢平氏と呼ばれています。

平福寺本堂。現在は曹洞宗です。

大掾平氏歴代の墓(五輪塔)。真中に大きな塔があり、まわりを14基の塔が囲って配置されています。
「新編常陸国誌」(1836年)の記述をもとに、真中の塔が国香の墓だと信じて疑わない人もいるようです。
しかし、時代背景などを考えると平将門に殺された国香の墓があるというのは地理的には無理があるようで、異論が多く真実はわかっていません。
五輪とは上から空輪・風輪・火輪・水輪・地輪と呼ばれ、これで万物を表現したものだそうです。
奈良の西大寺は女性天皇「孝謙上皇」が建立した(765年)寺で、日本最古ではないかといわれる五輪塔があります。
この奈良の西大寺は当時力を持っていた僧、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の思想が組み込まれていると言われています。
道鏡も都を追われて下野国へやってきましたので、物部一族とのかかわりもわからないところだらけです。
ここ府中の中世の六名家として、税所(さいしょ)・健児所・香丸・金丸・中宮部・弓削(ゆげ)の名前があげられていますが、この弓削氏との関係があるのか興味がわきます。
ここ石岡は、まだまだ謎がたくさん埋まっている土地ですね。
場所は富田の北向き観音の隣りです。北向き観音の反対側は府中酒造さんです。まぼろしの酒「渡舟」でも買って、寺の見物などもされたら良いと思います。
祭りの供奉行列もこの北向き観音の前を通ります。
私も、またじっくり調べてみたいと思います。
天狗が祈った神社-鈴宮稲荷神社
祭りの記事もまだ終わっていませんが、本日2本目の記事です。今回もまた、石岡市内の想い出の1ページを開きたいと思います。
鈴の宮稲荷神社です。
石岡駅からも近く、行ってみても特別変わったところもない普通のお稲荷さんに思えます。
しかし、この神社もその歴史を見るとこの町の歴史が奥底に埋まっています。

神社の鳥居と赤い旗。赤い奉納旗は祭礼時期などですので、普通の時はありません。
でも赤い旗は目立って如何にも神社らしいです。

拝殿の前にはちょこんと構えている2匹の狐が、この神社が稲荷神社だと教えてくれます。

さて神社の隣りは駐車場です。この駐車場は単なる神社の駐車場ではありません。
むかしこの地は新地八軒(紀州屋、金枡屋など)といわれた遊郭があったのです。
ここに江戸末期、水戸藩の尊王攘夷論が台頭して、急進派の藤田小四郎(藤田東湖の四男)や竹内百太郎たちはこの遊郭を定宿として同士を集めていました。
元治元年(1864年)この鈴の宮神社に集結し、そのまま筑波山にむかい、62人の同志たちと共に挙兵(天狗党)したのです。藤田小四郎は23歳の若者でした。

筑波山神社の拝殿の階段を上る手前の左側の少し高くなっている広場に天に向かって右手を高くさし上げている小四朗の像が建っています。
天狗党の最後はあまりにも悲惨で、書物もあまり読んでいません。
しかし、挙兵した当時は、彼らは理想を求めていたはずです。
その後、石岡も2つに割れ、お互いが家を壊したり、火をつけたりして大きな痛手をこうむりました。
明治政府ができても、そこで登用され活躍できる人材が皆いなくなってしまいました。

この写真は筑波山神社の拝殿です。
年間たくさんの人が訪れます。
鈴の宮で天狗党の決起を誓い、そして、石岡(府中)から府中(筑波)街道を通って、小幡-十三塚から風返り峠へこの府中の街を見下ろしながら真っ直ぐに登って行ったはずです。
どんな思いだったのでしょうか。
また、この筑波山神社境内に集まって気勢を上げた時はどんな思いだったのか。
この鈴の宮神社でも、筑波山神社の前に立っても、どこかやりきれない思いがしてくるのです。
そんな思いとは裏腹に、この石岡の鈴の宮神社は街中にあって比較的カラッとしています。
神社の奥に大イチョウがあって、昔はたくさんの葉を茂られていたそうです。(今は根元の幹の部分だけ)
この鈴の宮に立ち寄られたら、意外にカラッと昔の思いを語ってくれそうですよ。
<鈴の宮について>
さて、鈴の宮神社は江戸中期に建てられたものではないかと思われますが、鈴の宮の名前の由来は、この神社の場所が、律令制時代に各国府を結んでいた官道の(府中)駅家(うまや)(16kmごとに置かれていた)があったところではないかと思われており、そのことに関係しているようです。
旧律令制時代の古代官道は、現在では各地でわからなくなってしまっており、発掘調査でこの道路の跡が見つかって段々と、わかってきているようです。
もっと解明されればとてもおもしろいと思います。
各駅には馬を数頭置いておくことが義務づけられており、富田町は江戸時代の宝永年間までは「馬之地」と呼ばれていました。
この駅家が古代律令制のころからそのまま江戸時代まで、この地で受け継がれてきたとも思われませんが、官人が往来する時に駅使が鈴をならす風習があったようです。
この鈴が使われ無くなった時に神社に奉納されてものだと言われています。
鈴の宮稲荷神社です。
石岡駅からも近く、行ってみても特別変わったところもない普通のお稲荷さんに思えます。
しかし、この神社もその歴史を見るとこの町の歴史が奥底に埋まっています。

神社の鳥居と赤い旗。赤い奉納旗は祭礼時期などですので、普通の時はありません。
でも赤い旗は目立って如何にも神社らしいです。

拝殿の前にはちょこんと構えている2匹の狐が、この神社が稲荷神社だと教えてくれます。

さて神社の隣りは駐車場です。この駐車場は単なる神社の駐車場ではありません。
むかしこの地は新地八軒(紀州屋、金枡屋など)といわれた遊郭があったのです。
ここに江戸末期、水戸藩の尊王攘夷論が台頭して、急進派の藤田小四郎(藤田東湖の四男)や竹内百太郎たちはこの遊郭を定宿として同士を集めていました。
元治元年(1864年)この鈴の宮神社に集結し、そのまま筑波山にむかい、62人の同志たちと共に挙兵(天狗党)したのです。藤田小四郎は23歳の若者でした。

筑波山神社の拝殿の階段を上る手前の左側の少し高くなっている広場に天に向かって右手を高くさし上げている小四朗の像が建っています。
天狗党の最後はあまりにも悲惨で、書物もあまり読んでいません。
しかし、挙兵した当時は、彼らは理想を求めていたはずです。
その後、石岡も2つに割れ、お互いが家を壊したり、火をつけたりして大きな痛手をこうむりました。
明治政府ができても、そこで登用され活躍できる人材が皆いなくなってしまいました。

この写真は筑波山神社の拝殿です。
年間たくさんの人が訪れます。
鈴の宮で天狗党の決起を誓い、そして、石岡(府中)から府中(筑波)街道を通って、小幡-十三塚から風返り峠へこの府中の街を見下ろしながら真っ直ぐに登って行ったはずです。
どんな思いだったのでしょうか。
また、この筑波山神社境内に集まって気勢を上げた時はどんな思いだったのか。
この鈴の宮神社でも、筑波山神社の前に立っても、どこかやりきれない思いがしてくるのです。
そんな思いとは裏腹に、この石岡の鈴の宮神社は街中にあって比較的カラッとしています。
神社の奥に大イチョウがあって、昔はたくさんの葉を茂られていたそうです。(今は根元の幹の部分だけ)
この鈴の宮に立ち寄られたら、意外にカラッと昔の思いを語ってくれそうですよ。
<鈴の宮について>
さて、鈴の宮神社は江戸中期に建てられたものではないかと思われますが、鈴の宮の名前の由来は、この神社の場所が、律令制時代に各国府を結んでいた官道の(府中)駅家(うまや)(16kmごとに置かれていた)があったところではないかと思われており、そのことに関係しているようです。
旧律令制時代の古代官道は、現在では各地でわからなくなってしまっており、発掘調査でこの道路の跡が見つかって段々と、わかってきているようです。
もっと解明されればとてもおもしろいと思います。
各駅には馬を数頭置いておくことが義務づけられており、富田町は江戸時代の宝永年間までは「馬之地」と呼ばれていました。
この駅家が古代律令制のころからそのまま江戸時代まで、この地で受け継がれてきたとも思われませんが、官人が往来する時に駅使が鈴をならす風習があったようです。
この鈴が使われ無くなった時に神社に奉納されてものだと言われています。
鈴姫伝説の鈴ヶ池は今どこに
石岡には関東平家の長である大掾(だいじょう)氏の最後にまつわる悲劇として語り伝えられてきた「鈴姫伝説」の話が残されています。
伝説の内容は(こちら)を参考にして下さい。
この話を最初に見つけた時はやはり「ドキッ」としましたが、多くの人の心に残るでしょう
この鈴姫が身を投げたとされる鈴ヶ池は今どうなっているのでしょうか?
昔の城は今の石岡小学校の敷地からもう少し後ろの方にのびており、本丸はそちらの方にありました。
そしてこの場所は「城山中」と呼ばれていたのです。

「城山中の鈴ヶ池を踏査する石岡史跡保存会」:写真集 いしおか昭和の肖像 より
ここに昔の写真があり、木々のうっそうとした中に池が残っていたようです。
しかし、その後開拓が進み、今では何処にあったのかさえわかりません。
小学校の西側の崖下は、今は埋めたてられ、たくさん住宅が建っていました。

恐らくこの草原ではなく、奥の少し低くなった住宅の辺りにあったと思われます。
石岡に残る話、伝説など大切にしていかなければなりません。
地元で生まれた耳の聞こえない俳優、ことば座の小林幸枝さんの十八番です。
こちらの脚本はこちらで読むことができます。→「新鈴ヶ池物語」(pdf)
今度の日曜日(9月11日)にギター文化館で「野口喜広のオカリナと白井啓治の詩の朗読コンサート」があります。
野口さんは行方市に現在住んでいますが、自身でオカリナを製作する方で、その土地の土でオカリナを作って演奏すると、まったく違ったものになるというこだわりを持っています。
今回は日立市で発見された日本最古の地層(カンブリア紀)の土でオカリナを焼きました。
一体どんな音がするのでしょうか。カンブリア紀は白亜紀よりもずっと前の時代です。
もう一つは「新説柏原池物語」を白井啓治さんが書き、声優の永瀬沙知さんが白井さんと一緒に朗読します。
ギターも加わり、一層厚みが増したと思います。
私は「勝手に応援団」と自称していますので、一言宣伝しておかないと・・・。
詳細は「ふるさと風の会」または「ギター文化館」のHP、またはこちらのチラシをどうぞ→(こちら)
「鈴ヶ池」があったと思われる場所
伝説の内容は(こちら)を参考にして下さい。
この話を最初に見つけた時はやはり「ドキッ」としましたが、多くの人の心に残るでしょう
この鈴姫が身を投げたとされる鈴ヶ池は今どうなっているのでしょうか?
昔の城は今の石岡小学校の敷地からもう少し後ろの方にのびており、本丸はそちらの方にありました。
そしてこの場所は「城山中」と呼ばれていたのです。

「城山中の鈴ヶ池を踏査する石岡史跡保存会」:写真集 いしおか昭和の肖像 より
ここに昔の写真があり、木々のうっそうとした中に池が残っていたようです。
しかし、その後開拓が進み、今では何処にあったのかさえわかりません。
小学校の西側の崖下は、今は埋めたてられ、たくさん住宅が建っていました。

恐らくこの草原ではなく、奥の少し低くなった住宅の辺りにあったと思われます。
石岡に残る話、伝説など大切にしていかなければなりません。
地元で生まれた耳の聞こえない俳優、ことば座の小林幸枝さんの十八番です。
こちらの脚本はこちらで読むことができます。→「新鈴ヶ池物語」(pdf)
今度の日曜日(9月11日)にギター文化館で「野口喜広のオカリナと白井啓治の詩の朗読コンサート」があります。
野口さんは行方市に現在住んでいますが、自身でオカリナを製作する方で、その土地の土でオカリナを作って演奏すると、まったく違ったものになるというこだわりを持っています。
今回は日立市で発見された日本最古の地層(カンブリア紀)の土でオカリナを焼きました。
一体どんな音がするのでしょうか。カンブリア紀は白亜紀よりもずっと前の時代です。
もう一つは「新説柏原池物語」を白井啓治さんが書き、声優の永瀬沙知さんが白井さんと一緒に朗読します。
ギターも加わり、一層厚みが増したと思います。
私は「勝手に応援団」と自称していますので、一言宣伝しておかないと・・・。
詳細は「ふるさと風の会」または「ギター文化館」のHP、またはこちらのチラシをどうぞ→(こちら)
「鈴ヶ池」があったと思われる場所
陣屋門
庭では「ツクツク法師」が最後の鳴き声を懸命にあげています。「惜しいよ!惜しいよ!ジー」と飛び立っていきました。
水たまりには鬼ヤンマが力つき、家の中に飛び込んだアブラゼミはもう動きません。
暑くなりましたが、夏ももう終わりですね。
さて、市内の想い出ページとして、今日は石岡の陣屋門を紹介します。
江戸時代はここ常陸府中(石岡)は松平2万石の藩がありました。
水戸徳川家はご存知にお通り徳川御三家の一つで石高は52万石。
このほかに水戸徳川藩には支藩が4つあり、讃岐高松藩(12万石)、陸奥守山藩(郡山:2万石)、常陸府中藩(石岡:2万石)、常陸宍戸藩(笠間市宍戸:1万石)があります。
高松藩は初代水戸藩主の長男ですので別格として、他の三藩は兄弟のようなものですね。
さて、ここ常陸府中藩は江戸詰めで、播磨守でしたので、ここ府中にはほとんどきません。
陣屋が置かれていただけです。
そして、この府中藩は陸奥国長沼に領地がありこちらにも陣屋がありました。
石岡の陣屋門は市民会館の入口位置から裏の石岡小学校の校庭の市民族博物館脇に移されています。
移されたのは昭和44年です。それまでは小学校の門として使われていました。
この陣屋門が建てられたのは9代目松平頼縄のとき,江戸小石川の藩邸を新築した際に余った材木を使い建築したものです(文政11年(1828)2月)。
主として欅(けやき)材が用いられています。

現在陣屋門は小学校の校庭側ですので、普段学校がある時は、校庭の門を閉めていますが、見る人は校庭の門を手で開けて入るように書かれています。
さて、陣屋門の説明と写真は全て、上のようなことしか書かれていませし、写真もほとんどが正面だけです。
しかし、このサイトはこれで終われません。もう少しテーマを見つけなければ・・・。
そこで、この門の構造に注目して見ました。
なんと「高麗門」ではありませんか。
今まで何回もこの門を見ているのに、何もわかっていなかったのです。

上の写真は門を内側から見たところです。
門の上の屋根とは別に、真中の入口の両脇に門と直角に小屋根の塀があります。
これはまさしく城の門に良く使われた「高麗門」です。
城の守備側の死角を減らす工夫がされたものだそうだ。
江戸城桜田門や御所の蛤御門などと同じ様式なのです。
(しかし高麗門はその後、城だけでなく寺などの門としても使われていますので特段珍しくは無いかもしれません。)
読めば現地の説明にも書いてあるのに、何も考えずに読み飛ばしていた。
多分ほとんどの人は私と同じで、そうなんだろうな。

もう一つは屋根の上の鯱鉾? これは鯱(しゃち)だろうか? 金ではないが、名古屋城のシャチホコとも違うようだ。
また、この瓦の家紋が問題だ。
水戸徳川家はご存知の黄門さんの印籠だ。○の中に3つの葵(あおい)葉が描かれているのだが、これは真中に芯(花?)があって、まわりに葵の葉が六個描かれている(六葉葵)。
どうやらこれが松平家の家紋らしい。
しかし、松平家の墓所「照光寺」は普通の三つ葉葵の幕があったような・・・・。
ついでに、近くの照光寺の松平家の墓所に行ってみた。

このように三つ葉葵の周りを六角形で囲んだ形だ。これが正式な家紋と思うのだが・・・。
先日ブログ仲間に教えてもらった宍戸藩の門にも六葉の葵の紋が3つ鮮やかに残っていた。
それも陣屋の表門のすぐ上にきれいな紋が3つ並んでいた。
真中が六葉の表葵、左右が六葉の裏葵(葉の葉脈がない)と思う。
あまり書かれたものがないし、知識もないので調べるのは後にします。

青い空にのびる桜の老木と陣屋門も絵になります。
何かこの門が愛おしくなってきました。
この門一つとってもまだまだ残しておかなければならないことがたくさんあるように思う。
水たまりには鬼ヤンマが力つき、家の中に飛び込んだアブラゼミはもう動きません。
暑くなりましたが、夏ももう終わりですね。
さて、市内の想い出ページとして、今日は石岡の陣屋門を紹介します。
江戸時代はここ常陸府中(石岡)は松平2万石の藩がありました。
水戸徳川家はご存知にお通り徳川御三家の一つで石高は52万石。
このほかに水戸徳川藩には支藩が4つあり、讃岐高松藩(12万石)、陸奥守山藩(郡山:2万石)、常陸府中藩(石岡:2万石)、常陸宍戸藩(笠間市宍戸:1万石)があります。
高松藩は初代水戸藩主の長男ですので別格として、他の三藩は兄弟のようなものですね。
さて、ここ常陸府中藩は江戸詰めで、播磨守でしたので、ここ府中にはほとんどきません。
陣屋が置かれていただけです。
そして、この府中藩は陸奥国長沼に領地がありこちらにも陣屋がありました。
石岡の陣屋門は市民会館の入口位置から裏の石岡小学校の校庭の市民族博物館脇に移されています。
移されたのは昭和44年です。それまでは小学校の門として使われていました。
この陣屋門が建てられたのは9代目松平頼縄のとき,江戸小石川の藩邸を新築した際に余った材木を使い建築したものです(文政11年(1828)2月)。
主として欅(けやき)材が用いられています。

現在陣屋門は小学校の校庭側ですので、普段学校がある時は、校庭の門を閉めていますが、見る人は校庭の門を手で開けて入るように書かれています。
さて、陣屋門の説明と写真は全て、上のようなことしか書かれていませし、写真もほとんどが正面だけです。
しかし、このサイトはこれで終われません。もう少しテーマを見つけなければ・・・。
そこで、この門の構造に注目して見ました。
なんと「高麗門」ではありませんか。
今まで何回もこの門を見ているのに、何もわかっていなかったのです。

上の写真は門を内側から見たところです。
門の上の屋根とは別に、真中の入口の両脇に門と直角に小屋根の塀があります。
これはまさしく城の門に良く使われた「高麗門」です。
城の守備側の死角を減らす工夫がされたものだそうだ。
江戸城桜田門や御所の蛤御門などと同じ様式なのです。
(しかし高麗門はその後、城だけでなく寺などの門としても使われていますので特段珍しくは無いかもしれません。)
読めば現地の説明にも書いてあるのに、何も考えずに読み飛ばしていた。
多分ほとんどの人は私と同じで、そうなんだろうな。

もう一つは屋根の上の鯱鉾? これは鯱(しゃち)だろうか? 金ではないが、名古屋城のシャチホコとも違うようだ。
また、この瓦の家紋が問題だ。
水戸徳川家はご存知の黄門さんの印籠だ。○の中に3つの葵(あおい)葉が描かれているのだが、これは真中に芯(花?)があって、まわりに葵の葉が六個描かれている(六葉葵)。
どうやらこれが松平家の家紋らしい。
しかし、松平家の墓所「照光寺」は普通の三つ葉葵の幕があったような・・・・。
ついでに、近くの照光寺の松平家の墓所に行ってみた。

このように三つ葉葵の周りを六角形で囲んだ形だ。これが正式な家紋と思うのだが・・・。
先日ブログ仲間に教えてもらった宍戸藩の門にも六葉の葵の紋が3つ鮮やかに残っていた。
それも陣屋の表門のすぐ上にきれいな紋が3つ並んでいた。
真中が六葉の表葵、左右が六葉の裏葵(葉の葉脈がない)と思う。
あまり書かれたものがないし、知識もないので調べるのは後にします。

青い空にのびる桜の老木と陣屋門も絵になります。
何かこの門が愛おしくなってきました。
この門一つとってもまだまだ残しておかなければならないことがたくさんあるように思う。