西山荘(常陸太田)(1)
今日午後から、水戸光圀の隠居所「西山荘」に行ってきました。
ここは紅葉もきれいなのですが、まだ少し早かったようです。
まぶしいくらいの緑に、少し紅葉が混じっている程度でしょうか。

入口駐車場わきにできている「西山の里 桃源」の池と庭
このお休み処は前には無かったと思うが、何時できたのだろう。きれいに手入れされた庭もいい。

西山荘手前の梅の庭

入口の通用門。この竹林と質素な門がいつ来てもいいですね。

水戸黄門(光圀)は華美なことをきらい、僅かな身の回りの物だけを持ち込んで、この隠居所で73歳で亡くなるまで10年間過ごしました。
この場所で大日本史の編纂事業を行なったとされています。

西山荘は光圀没後100年以上後に野火により西山御殿が焼失し、翌年規模は小さくなりましたが再建されたものです。
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ここは紅葉もきれいなのですが、まだ少し早かったようです。
まぶしいくらいの緑に、少し紅葉が混じっている程度でしょうか。

入口駐車場わきにできている「西山の里 桃源」の池と庭
このお休み処は前には無かったと思うが、何時できたのだろう。きれいに手入れされた庭もいい。

西山荘手前の梅の庭

入口の通用門。この竹林と質素な門がいつ来てもいいですね。

水戸黄門(光圀)は華美なことをきらい、僅かな身の回りの物だけを持ち込んで、この隠居所で73歳で亡くなるまで10年間過ごしました。
この場所で大日本史の編纂事業を行なったとされています。

西山荘は光圀没後100年以上後に野火により西山御殿が焼失し、翌年規模は小さくなりましたが再建されたものです。


西山荘(常陸太田)(2)
西山荘(せいざんそう)の続きです。

これは入口の通用門で裏門と呼ばれているものです。
家臣や近所の庶民が出入りするための門ですが、表門より立派なのです。庶民を大切にしたいとの思いが込められています。

さて、これが表門です。一般に「突上御門(つきあげごもん)」と呼ばれているもので、非常に質素な門です。この門は昼は扉を上にはね上げて開けたままにしておくのです。
お城からの使者などはこちらから入ります。

西山御殿の裏側に吊るされた半鐘。280年前の物だそうです。
何か家臣や奉公人に用事や知らせたいことがある時に鳴らしたようです。

これが「西山御殿」です。左端の丸い採光の窓があるところが書斎(三畳)でその右が寝室です。
その右は御座の間(十畳)の居間。続いて家来たちが控えるお次の間ですが、この間には敷居がありません。
玄関はもう少し右側です。
さて茅葺屋根のてっぺんに草が生えていますが、これはわざと生やしているのです。
植えられているのは「いちはつ(別名しばきり)」で、根が張ることによって屋根が崩れにくくなり、水をやることで火災の防止にもなるそうです。

突上御門手前側からみた西山御殿。落ち着いた佇まいです。
すべて苔むした地面がとても落ち着いた気分にしてくれます。

入口駐車場の桜。こちらは色づいてきていましたが、西山荘の中はまだ少しでした。
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これは入口の通用門で裏門と呼ばれているものです。
家臣や近所の庶民が出入りするための門ですが、表門より立派なのです。庶民を大切にしたいとの思いが込められています。

さて、これが表門です。一般に「突上御門(つきあげごもん)」と呼ばれているもので、非常に質素な門です。この門は昼は扉を上にはね上げて開けたままにしておくのです。
お城からの使者などはこちらから入ります。

西山御殿の裏側に吊るされた半鐘。280年前の物だそうです。
何か家臣や奉公人に用事や知らせたいことがある時に鳴らしたようです。

これが「西山御殿」です。左端の丸い採光の窓があるところが書斎(三畳)でその右が寝室です。
その右は御座の間(十畳)の居間。続いて家来たちが控えるお次の間ですが、この間には敷居がありません。
玄関はもう少し右側です。
さて茅葺屋根のてっぺんに草が生えていますが、これはわざと生やしているのです。
植えられているのは「いちはつ(別名しばきり)」で、根が張ることによって屋根が崩れにくくなり、水をやることで火災の防止にもなるそうです。

突上御門手前側からみた西山御殿。落ち着いた佇まいです。
すべて苔むした地面がとても落ち着いた気分にしてくれます。

入口駐車場の桜。こちらは色づいてきていましたが、西山荘の中はまだ少しでした。


西山荘(常陸太田)(3)
先日から水戸黄門さんの隠居所「西山荘」を紹介してきましたが、今回で最後です。

西山荘はまだ紅葉には早かったのですが、庭園内に小さな川があり、この場所は「洗耳滝」と書かれていました。
この水はすぐ上に「桜ヶ池」という湧水を貯めている池があり、この水を流しています。
「洗耳滝」の名前の由来は15代当主が光圀公ちなみ「桃源遺事」よりこの名をとったと書かれていました。

ここは四季折々楽しめるようです。とてもきれいな場所ですね。
この梅の木も花が咲いているといいでしょうね。



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西山荘はまだ紅葉には早かったのですが、庭園内に小さな川があり、この場所は「洗耳滝」と書かれていました。
この水はすぐ上に「桜ヶ池」という湧水を貯めている池があり、この水を流しています。
「洗耳滝」の名前の由来は15代当主が光圀公ちなみ「桃源遺事」よりこの名をとったと書かれていました。

ここは四季折々楽しめるようです。とてもきれいな場所ですね。
この梅の木も花が咲いているといいでしょうね。





佐竹寺(常陸太田)(1)
西山荘の帰りに佐竹寺に寄ってきました。
もちろん私がこの寺に寄ろうと思ったのは、ここが常陸国を統一した武将佐竹氏の菩提寺だったからです。
また、この佐竹氏が秋田に飛ばされてしまったのですが、源氏の直系として名前が刻まれていたからでもあります。
常陸国における源氏は新羅三郎(源)義光(しんらさぶろうよしみつ)が常陸介としてやってきたことに始まります。
この義光は八幡太郎義家の弟であるが笙(しょう)の名手であり、この笛についてのエピソードなども昔よく軍記物の昔話などに登場していたのを思い出します。
この義光の孫の昌義(まさよし)が1133年に常陸国佐竹郷(さたけごう・現茨城県常陸太田市)に居住し“佐竹氏”を名乗ったのにはじまるとされています。
この源義光の子供には常陸の武田郷に住んだ武田氏が甲斐に移って甲斐武田氏となっています。
佐竹氏は、その後、奥7郡を支配していましたが源頼朝の挙兵時に平家方に加わり所領を没収されてしまいます。
室町時代にようやく常陸太田城へ復帰し、1189年に秀義が源頼朝の奥州征伐に参加し、無印の白旗で参戦していたため、馬印に月印五本骨軍扇を与えられ、家紋となりました。(月丸扇とも、一部には日の丸扇とも呼ばれています。)

佐竹寺山門。
この佐竹寺の創建については、985年に、現在地から西北西に700mくらい離れたところに元蜜上人により開山され、「観音寺」と称していたといいます。
先に述べた新羅三郎義光の孫の昌義が初代佐竹氏を名乗り、1177年にこの寺を祈願所と定めて繁栄していったと伝えられています。

1543年に寺は兵火で焼失し、3年後に佐竹家18代義昭によって現在の場所に再建されたものだそうです。


この本堂は明治39年に国指定重要文化財に指定されています。
とても見ごたえのある造りです。

この続きは明日へ。
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もちろん私がこの寺に寄ろうと思ったのは、ここが常陸国を統一した武将佐竹氏の菩提寺だったからです。
また、この佐竹氏が秋田に飛ばされてしまったのですが、源氏の直系として名前が刻まれていたからでもあります。
常陸国における源氏は新羅三郎(源)義光(しんらさぶろうよしみつ)が常陸介としてやってきたことに始まります。
この義光は八幡太郎義家の弟であるが笙(しょう)の名手であり、この笛についてのエピソードなども昔よく軍記物の昔話などに登場していたのを思い出します。
この義光の孫の昌義(まさよし)が1133年に常陸国佐竹郷(さたけごう・現茨城県常陸太田市)に居住し“佐竹氏”を名乗ったのにはじまるとされています。
この源義光の子供には常陸の武田郷に住んだ武田氏が甲斐に移って甲斐武田氏となっています。
佐竹氏は、その後、奥7郡を支配していましたが源頼朝の挙兵時に平家方に加わり所領を没収されてしまいます。
室町時代にようやく常陸太田城へ復帰し、1189年に秀義が源頼朝の奥州征伐に参加し、無印の白旗で参戦していたため、馬印に月印五本骨軍扇を与えられ、家紋となりました。(月丸扇とも、一部には日の丸扇とも呼ばれています。)

佐竹寺山門。
この佐竹寺の創建については、985年に、現在地から西北西に700mくらい離れたところに元蜜上人により開山され、「観音寺」と称していたといいます。
先に述べた新羅三郎義光の孫の昌義が初代佐竹氏を名乗り、1177年にこの寺を祈願所と定めて繁栄していったと伝えられています。

1543年に寺は兵火で焼失し、3年後に佐竹家18代義昭によって現在の場所に再建されたものだそうです。


この本堂は明治39年に国指定重要文化財に指定されています。
とても見ごたえのある造りです。

この続きは明日へ。


佐竹寺(常陸太田)(2)
佐竹寺の続きです。
佐竹氏は戦国時代に常陸国を統一した武将としてその名が知られていますが、私のいる石岡(旧石岡市)では悪者扱いのようです。
これは、常陸国府(石岡)は平氏(平家とは言わない。平家はここから分かれた一派で、伊勢平氏のみを指すようです)の直系常陸大掾(だいじょう)氏が300年間この地で繁栄してきたのですが、この源氏の家系の佐竹氏に城や町も焼かれ「憎っくき佐竹」というところなのかもしれません。
そうはいっても、石岡の地でも秋田に転封になるまでの10年間は佐竹氏の支配下になっていて、寺も再興し、復興につとめたようです。(石岡での佐竹氏の菩提寺は市内の「清涼寺」です)

佐竹氏の家紋は月丸扇(月印五本骨軍扇)で、扇の骨の本数が5本に赤い満月がえがかれています。
これは、源頼朝(八幡太郎義家の直系)の奥州征伐に佐竹秀義が印のついていない白旗(源氏は白旗)で参加し、源氏の旗と区別がつかないので、手に持っていた扇に丸を書いて渡したものだといわれています。
しかし、これは一般には「日の丸扇」と呼ばれるようです。
日の丸を家紋にすることは、戦国時代でも日本を表しているとの認識があり、天皇家に対して問題があり、月丸と称して、こっそりと「日の丸」と言ってきたのでしょう。
秋田には「日の丸醸造」なる古い歴史を持つお酒の会社があります。これもこの家紋から名付けたようです。
また秋田藩の江戸上屋敷があった東京神田には「佐竹稲荷神社」があり、この社紋は「扇に日の丸」といわれ、明治初めに付けられた新町名の(神田)旭町の由来はこの日の丸扇と言われています。

お寺の柱や壁には一面に「千社札」が貼られています。
ものすごい数ですね。江戸時代中期頃から、このような自分の名前や屋号などを書いたお札を刷って(木版画)、おまいりした寺院に貼ることが流行ったそうです。
自分の名前を貼ることで、何時でもそこにいて、お参りしている気持ちになったのでしょう。
(日帰りで行っても、札を貼っておけば、貼ってあるあいだは功徳が続くと思われたようです)
今はこの本堂は国宝(室町時代の建造物)ですので、勝手に貼ったりはできないでしょう。

佐竹氏の系図はかなり興味深いものがあります。
常陸介として常陸国にやってきた新羅三郎(源)義光の長男が後継のいなかった義光の兄 源義綱のところに養子に入り、義綱死去後に常陸国に常陸平氏の娘を妻にむかえていた縁で常陸に土着します。
そして佐竹郷に住み、「佐竹氏」となります。
一方本当の父義光はその後、次男を立てて常陸の武田郷に住み「武田氏」となります。
その後甲斐国に常陸より追われて行き、「甲斐武田氏」が誕生します。

江戸時代にはすでに佐竹氏は秋田に行っておりましたが、この地には佐竹氏を偲んでいろいろなものが残っているようです。
この前に紹介した「西山荘」はこの佐竹の里に黄門さんこと水戸光圀は隠居所を建てたのです。
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佐竹氏は戦国時代に常陸国を統一した武将としてその名が知られていますが、私のいる石岡(旧石岡市)では悪者扱いのようです。
これは、常陸国府(石岡)は平氏(平家とは言わない。平家はここから分かれた一派で、伊勢平氏のみを指すようです)の直系常陸大掾(だいじょう)氏が300年間この地で繁栄してきたのですが、この源氏の家系の佐竹氏に城や町も焼かれ「憎っくき佐竹」というところなのかもしれません。
そうはいっても、石岡の地でも秋田に転封になるまでの10年間は佐竹氏の支配下になっていて、寺も再興し、復興につとめたようです。(石岡での佐竹氏の菩提寺は市内の「清涼寺」です)

佐竹氏の家紋は月丸扇(月印五本骨軍扇)で、扇の骨の本数が5本に赤い満月がえがかれています。
これは、源頼朝(八幡太郎義家の直系)の奥州征伐に佐竹秀義が印のついていない白旗(源氏は白旗)で参加し、源氏の旗と区別がつかないので、手に持っていた扇に丸を書いて渡したものだといわれています。
しかし、これは一般には「日の丸扇」と呼ばれるようです。
日の丸を家紋にすることは、戦国時代でも日本を表しているとの認識があり、天皇家に対して問題があり、月丸と称して、こっそりと「日の丸」と言ってきたのでしょう。
秋田には「日の丸醸造」なる古い歴史を持つお酒の会社があります。これもこの家紋から名付けたようです。
また秋田藩の江戸上屋敷があった東京神田には「佐竹稲荷神社」があり、この社紋は「扇に日の丸」といわれ、明治初めに付けられた新町名の(神田)旭町の由来はこの日の丸扇と言われています。

お寺の柱や壁には一面に「千社札」が貼られています。
ものすごい数ですね。江戸時代中期頃から、このような自分の名前や屋号などを書いたお札を刷って(木版画)、おまいりした寺院に貼ることが流行ったそうです。
自分の名前を貼ることで、何時でもそこにいて、お参りしている気持ちになったのでしょう。
(日帰りで行っても、札を貼っておけば、貼ってあるあいだは功徳が続くと思われたようです)
今はこの本堂は国宝(室町時代の建造物)ですので、勝手に貼ったりはできないでしょう。

佐竹氏の系図はかなり興味深いものがあります。
常陸介として常陸国にやってきた新羅三郎(源)義光の長男が後継のいなかった義光の兄 源義綱のところに養子に入り、義綱死去後に常陸国に常陸平氏の娘を妻にむかえていた縁で常陸に土着します。
そして佐竹郷に住み、「佐竹氏」となります。
一方本当の父義光はその後、次男を立てて常陸の武田郷に住み「武田氏」となります。
その後甲斐国に常陸より追われて行き、「甲斐武田氏」が誕生します。

江戸時代にはすでに佐竹氏は秋田に行っておりましたが、この地には佐竹氏を偲んでいろいろなものが残っているようです。
この前に紹介した「西山荘」はこの佐竹の里に黄門さんこと水戸光圀は隠居所を建てたのです。


額田城跡
前回の額田の阿弥陀寺の記事から1週間ほど経ってしまいました。
今回は、その阿弥陀寺の裏山に中世の額田城の跡が残されていたのを紹介します。
寺の裏手から奥の林の中に入る道がついており、案内に従って進んだ。

阿弥陀寺の入り口に掲げられた城跡の説明板。

こちらが城跡の領域の地図。かなりの大きさがある。

(サムネルです)
この城は中世のそれ程中心的な城ではなく、戦国末期にはなくなってしまったのに、これほど大きな遺構が残っているとは驚いた。

(サムネルです)
5代佐竹義重の二男佐竹義直がここに城を築いて額田氏を名乗ったという。
しかし、佐竹氏同士で争いが起こり、この額田氏は10代で滅んだ。
その後に、佐竹氏の家臣小野崎氏が入り、この小野崎氏の懇請により、大山の阿弥陀寺がこの寺の守護として城内に建てられた。
しかし、戦国末期にはまたも佐竹氏に滅ぼされて廃城となった。今から450年ほど前である。
その後このように宅地化もされずそのまま残るのは珍しい。
阿弥陀寺は守護とされる城はなくなったが、そのまま信者に守られ残ったようだ。
この額田という地も面白い場所だ。
この額田城以上にもっと古い歴史が眠っているように思う。額田というのは額田氏を名乗る前にこの地は額田だったはずだから、きっと額田王との関係もどこかでつながってくるのだろう。
大和国平群郡額田郷などともつながってくるかもしれない。
万葉集に歌われた四国道後温泉近くの湊で読んだ
「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
などが思い起こされる。つながれば面白いことだ。

(サムネルです)
この地形を見ると平山城といったところだが、山城のイメージにも近い。
このように城の全容が残されているのは貴重な史跡と言える。

(サムネルです)
現在、この城跡に遊歩道を作っていた。林の中に道を設け、そこに伐採した木々のチップを敷き詰めていた。
中世の城のファンであれば結構面白い場所ではないかと思う。
あまり観光化されるのも問題だが、それ程人が押し寄せるとは思われないので、適当に整備されるのは良いことではないかと思う。
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今回は、その阿弥陀寺の裏山に中世の額田城の跡が残されていたのを紹介します。
寺の裏手から奥の林の中に入る道がついており、案内に従って進んだ。

阿弥陀寺の入り口に掲げられた城跡の説明板。

こちらが城跡の領域の地図。かなりの大きさがある。

(サムネルです)
この城は中世のそれ程中心的な城ではなく、戦国末期にはなくなってしまったのに、これほど大きな遺構が残っているとは驚いた。

(サムネルです)
5代佐竹義重の二男佐竹義直がここに城を築いて額田氏を名乗ったという。
しかし、佐竹氏同士で争いが起こり、この額田氏は10代で滅んだ。
その後に、佐竹氏の家臣小野崎氏が入り、この小野崎氏の懇請により、大山の阿弥陀寺がこの寺の守護として城内に建てられた。
しかし、戦国末期にはまたも佐竹氏に滅ぼされて廃城となった。今から450年ほど前である。
その後このように宅地化もされずそのまま残るのは珍しい。
阿弥陀寺は守護とされる城はなくなったが、そのまま信者に守られ残ったようだ。
この額田という地も面白い場所だ。
この額田城以上にもっと古い歴史が眠っているように思う。額田というのは額田氏を名乗る前にこの地は額田だったはずだから、きっと額田王との関係もどこかでつながってくるのだろう。
大和国平群郡額田郷などともつながってくるかもしれない。
万葉集に歌われた四国道後温泉近くの湊で読んだ
「熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
などが思い起こされる。つながれば面白いことだ。

(サムネルです)
この地形を見ると平山城といったところだが、山城のイメージにも近い。
このように城の全容が残されているのは貴重な史跡と言える。

(サムネルです)
現在、この城跡に遊歩道を作っていた。林の中に道を設け、そこに伐採した木々のチップを敷き詰めていた。
中世の城のファンであれば結構面白い場所ではないかと思う。
あまり観光化されるのも問題だが、それ程人が押し寄せるとは思われないので、適当に整備されるのは良いことではないかと思う。


額田神社
額田という地名が気になり地図を見ていたら「額田神社」が古そうな感じであった。
よく分からない時は行って見るに限る。
額田城の脇を北にクネクネとたどる昔の道が見てとれる。それが額田小学校に続いており、小学校のところから神社までとても長い参道が続いていた。
車ではこの道はたどれないので、街道を進んで、途中からこの参道に出た。

参道の両側には杉の木が並び、広い参道が神社へ続いている。

社務所の屋根は地震で壊れたのか、まだブルーシートが架けられていたが、鳥居も神社も影響はなかったようだ。

この額田神社は「鹿嶋八幡神社」というようだ。
この神社の本殿を見て、名前の由来が理解できた。

拝殿が一つで、本殿が二つある。
説明版のとおり、一つは鹿嶋宮で806年に鹿島神宮のタケミカズチを祀って創建された?
もう一つは八幡宮で源氏のお社だ。
ここでは八幡太郎義家(源義家)が東北に蝦夷征伐に出かけて時に戦勝祈願したとあるが、その後にこの地を支配した佐竹氏は、この義家の弟新羅三郎義光の長男が起こした氏族で、次男は甲斐武田氏だ。
佐竹氏も源氏の正統家柄というわけだ。でもこんな本殿は見たことがない。

こちらは拝殿。二つの神社が一つになっているが、お参りする人は同時に二つにお参りするのだろうか。

狛犬(阿型)

狛犬(吽型)。この他に説明では木製の狛犬1対と陶製の狛犬1体があるという。
昔の狛犬は屋外でなく屋内に置かれた木製や陶製のものであったようなので、これも見てみたいと思ったが、どこに保存されているのかわからなかった。

拝殿の彫刻も見ごたえのあるものであり、歴史的に大切にされてきた神社と思われた。
この拝殿に掲げられた神社の扁額は「額田神宮」とある。神社庁では一般の神社は神宮を名乗ることができない。
ネットで次のような記事があった。
「徳川光圀公の社寺改革で、那珂市額田の八幡宮は全て吉田神社、鹿島神社等に改められた。この社だけ特別で、八幡神を残し、鹿島神と合祀して「額田神宮」とするよう徳川光圀公より命じられたが、神宮は恐れ多いので額田神社としたようである。約200年後、寛政3年(1791)に「正名論」を著わした水戸学の祖 藤田幽谷(ゆうこく)の弟子、会沢正志斎先生(字は伯民)が額田神社を訪れた折り、光圀の命を重んじて「額田神宮」の額を送ったと言われている。」(額田神社HP http://www.nukadajinjya.e-naka.jp/)
少し興味深い。
この神社の裏手にスクナヒコナを祀る「淡島神社」がある。なぜ同じ敷地に続いてあるのか?

スクナヒコナは大国主とともに国造りを成し遂げ、和歌山加太の淡島神社の粟の穂によじ登って、粟の弾力で常世の国に行ったと言われる。
その和歌山の淡島神社の末社である。
この額田を訪れることになったのは城里町(旧桂村)にあったとされる親鸞の大山草庵の寺「阿弥陀寺」がこの額田に移されたということを知って来たもので、この桂村の阿弥陀寺の隣に「阿波山上神社」があり、ここがスクナヒコナが祀られているのだ。
面白い関係だと思う。きっと額田の淡島神社が後なのだろうが、どこかで関係しているはずだ。

しかし、神社のHPによるとこちらは「女性のための神社」と書かれている。これも面白い。
縁結び、子宝の守り神だそうです。
一般には薬の神様、温泉の神様とされています。


額田神社をネットで検索してみると、出てきたのは伊勢の桑名市に額田神社があった。
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額田城の脇を北にクネクネとたどる昔の道が見てとれる。それが額田小学校に続いており、小学校のところから神社までとても長い参道が続いていた。
車ではこの道はたどれないので、街道を進んで、途中からこの参道に出た。

参道の両側には杉の木が並び、広い参道が神社へ続いている。

社務所の屋根は地震で壊れたのか、まだブルーシートが架けられていたが、鳥居も神社も影響はなかったようだ。

この額田神社は「鹿嶋八幡神社」というようだ。
この神社の本殿を見て、名前の由来が理解できた。

拝殿が一つで、本殿が二つある。
説明版のとおり、一つは鹿嶋宮で806年に鹿島神宮のタケミカズチを祀って創建された?
もう一つは八幡宮で源氏のお社だ。
ここでは八幡太郎義家(源義家)が東北に蝦夷征伐に出かけて時に戦勝祈願したとあるが、その後にこの地を支配した佐竹氏は、この義家の弟新羅三郎義光の長男が起こした氏族で、次男は甲斐武田氏だ。
佐竹氏も源氏の正統家柄というわけだ。でもこんな本殿は見たことがない。

こちらは拝殿。二つの神社が一つになっているが、お参りする人は同時に二つにお参りするのだろうか。

狛犬(阿型)

狛犬(吽型)。この他に説明では木製の狛犬1対と陶製の狛犬1体があるという。
昔の狛犬は屋外でなく屋内に置かれた木製や陶製のものであったようなので、これも見てみたいと思ったが、どこに保存されているのかわからなかった。

拝殿の彫刻も見ごたえのあるものであり、歴史的に大切にされてきた神社と思われた。
この拝殿に掲げられた神社の扁額は「額田神宮」とある。神社庁では一般の神社は神宮を名乗ることができない。
ネットで次のような記事があった。
「徳川光圀公の社寺改革で、那珂市額田の八幡宮は全て吉田神社、鹿島神社等に改められた。この社だけ特別で、八幡神を残し、鹿島神と合祀して「額田神宮」とするよう徳川光圀公より命じられたが、神宮は恐れ多いので額田神社としたようである。約200年後、寛政3年(1791)に「正名論」を著わした水戸学の祖 藤田幽谷(ゆうこく)の弟子、会沢正志斎先生(字は伯民)が額田神社を訪れた折り、光圀の命を重んじて「額田神宮」の額を送ったと言われている。」(額田神社HP http://www.nukadajinjya.e-naka.jp/)
少し興味深い。
この神社の裏手にスクナヒコナを祀る「淡島神社」がある。なぜ同じ敷地に続いてあるのか?

スクナヒコナは大国主とともに国造りを成し遂げ、和歌山加太の淡島神社の粟の穂によじ登って、粟の弾力で常世の国に行ったと言われる。
その和歌山の淡島神社の末社である。
この額田を訪れることになったのは城里町(旧桂村)にあったとされる親鸞の大山草庵の寺「阿弥陀寺」がこの額田に移されたということを知って来たもので、この桂村の阿弥陀寺の隣に「阿波山上神社」があり、ここがスクナヒコナが祀られているのだ。
面白い関係だと思う。きっと額田の淡島神社が後なのだろうが、どこかで関係しているはずだ。

しかし、神社のHPによるとこちらは「女性のための神社」と書かれている。これも面白い。
縁結び、子宝の守り神だそうです。
一般には薬の神様、温泉の神様とされています。


額田神社をネットで検索してみると、出てきたのは伊勢の桑名市に額田神社があった。


毘慮遮那寺(額田)
那珂市額田の額田神社はとても長い参道がある。
その途中(入り口脇)にこの毘慮遮那寺(真言宗)という寺がある。
何と読むのか気になるところだが、どうも「びるしゃな」と読むらしい。
Wikipediaではインドの仏教からきた「毘慮遮那教」(大日教)という密教に関係していそうだ。
奈良東大寺の大仏さんも毘慮遮那仏だそうだ。

このようなサンスクリット語を漢字にあてはめるからこのような字になったのだと思うが、寺の名前にそのまま使っているのは珍しいのではないか。
この額田も何かあるに違いない。
額田は大和国の額田部氏と関係しているという記事もあった。
ということは皇族とつながっているのか?
日本もこれだけ年数が経てばどこかで色々な人がつながっていても不思議ではない。
源氏だって平家だって元をたどれば同じところに落ち着く。おかしなものだ。

真言宗 雨部山寳光院 毘慮遮那寺
色々調べるがいわれがよくわからない。
嵯峨大覚寺の末寺だったというので、ここに書かれている1192年というのは鎌倉幕府が開かれた年である。
この時にこの地に建てられたものか?





(サムネルです)
立派な本堂と観音堂?

この寺に関しては全くわからなかった。また時間をかけているうちにわかるかもしれない。
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その途中(入り口脇)にこの毘慮遮那寺(真言宗)という寺がある。
何と読むのか気になるところだが、どうも「びるしゃな」と読むらしい。
Wikipediaではインドの仏教からきた「毘慮遮那教」(大日教)という密教に関係していそうだ。
奈良東大寺の大仏さんも毘慮遮那仏だそうだ。

このようなサンスクリット語を漢字にあてはめるからこのような字になったのだと思うが、寺の名前にそのまま使っているのは珍しいのではないか。
この額田も何かあるに違いない。
額田は大和国の額田部氏と関係しているという記事もあった。
ということは皇族とつながっているのか?
日本もこれだけ年数が経てばどこかで色々な人がつながっていても不思議ではない。
源氏だって平家だって元をたどれば同じところに落ち着く。おかしなものだ。

真言宗 雨部山寳光院 毘慮遮那寺
色々調べるがいわれがよくわからない。
嵯峨大覚寺の末寺だったというので、ここに書かれている1192年というのは鎌倉幕府が開かれた年である。
この時にこの地に建てられたものか?





(サムネルです)
立派な本堂と観音堂?

この寺に関しては全くわからなかった。また時間をかけているうちにわかるかもしれない。


引接寺(額田)
那珂市額田にあるもうひとつ気になった寺を紹介しておきます。
浄土宗 引接寺(いんじょうじ)です。正式には光圀山攝取院(こうこくざんせっしゅいん)引接寺というそうです。
名前に光圀が入っていることでわかるように水戸光圀に関係した寺です。

神社のホームページによると、もともとこの場所には「広栄山心岸寺」という寺があったそうです。その寺を金砂に移して、この地に水戸光圀(黄門)が今の寺を建立して、瓜連にある関東十八檀林の一つである「常福寺」の末寺としました。
そしてこの寺に常福寺の第三世であった稱蓮社益誉上人を連れてきたというのです。

そして、水戸徳川家の常陸太田の徳川墓所に埋葬する時にはここが宿泊所となったそうです。



説明にあるようにこの木造阿弥陀如来像はご本尊のようですが、室町時代末期の作で徳川光圀により寄進されたものだそうです。

境内にもうひとつ変わった説明板が置かれていました。
この額田に住んでいた「大谷達才」という人がとんちで有名になったそうで、「たっつあい」として知らしまれたのだそうです。

裏の墓地に墓がありましたが、どの墓標がたっつあいのものかがわからないのでしょうか。
こんな人もいたのだと覚えておきましょう。
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浄土宗 引接寺(いんじょうじ)です。正式には光圀山攝取院(こうこくざんせっしゅいん)引接寺というそうです。
名前に光圀が入っていることでわかるように水戸光圀に関係した寺です。

神社のホームページによると、もともとこの場所には「広栄山心岸寺」という寺があったそうです。その寺を金砂に移して、この地に水戸光圀(黄門)が今の寺を建立して、瓜連にある関東十八檀林の一つである「常福寺」の末寺としました。
そしてこの寺に常福寺の第三世であった稱蓮社益誉上人を連れてきたというのです。

そして、水戸徳川家の常陸太田の徳川墓所に埋葬する時にはここが宿泊所となったそうです。



説明にあるようにこの木造阿弥陀如来像はご本尊のようですが、室町時代末期の作で徳川光圀により寄進されたものだそうです。

境内にもうひとつ変わった説明板が置かれていました。
この額田に住んでいた「大谷達才」という人がとんちで有名になったそうで、「たっつあい」として知らしまれたのだそうです。

裏の墓地に墓がありましたが、どの墓標がたっつあいのものかがわからないのでしょうか。
こんな人もいたのだと覚えておきましょう。


十二所渕(常陸大宮諸沢)
久慈川を奥久慈地方に入ると山方の町がある。
最近は山形にあやかってかどうか知らないが日本一の大鍋による芋煮会を行っている。
もともとこのあたりは楮(こうぞ)が多く植えられ、和紙つくりが盛んで西ノ内和紙として知られている。
この先から東側の山あいに入ったところに「三太の湯」という温泉施設ができておりよく利用する。
この三太の湯に向かう途中にまず通るところが本来の西の内だと思う。この山あいに点在する集落を少し過ぎたところが諸沢という地区で、ここに「十二所渕」という矢印看板が出ていた。
小さな農村公園になっていて、したの川へ降りる鉄製の階段がある。

(サムネルです)
階段のしたに降りると高さがわずか2m程の段々になった滝があった。
そして周りの岩肌の景観は素晴らしく、誰も来ないのはもったいないような感じだ。

しかし、もう少し綺麗な清流であれば人にも薦められるが、あまり綺麗とは言えない。

(サムネルです)
その十二所渕をさらに先に進むと「鏡泉院」という寺の看板があった。
名前が素敵なので何か見るものがあるかと細い道を入ってみた。

大きな寺の門柱がすぐに見え別な寺院の名前が書かれていたが、ここが鏡泉院で間違いないようだ。

古びた山門と大きなイチョウの木(樹齢300年以上)と杉の木があり、奥に寺の本堂があった。
まあ、訪れる人はほとんどいないようで、少し写真をてっていたら寺から人が出てきて怪訝な顔でこちらを見ていたのでそうそうに引き上げた。



これは「宝筐印(ほうきょういん)塔」だと思うが、かなり年代も古そうだ。
鎌倉・室町のころのものかもしれないが・・・。
何も書かれたものはないのでわからない。
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最近は山形にあやかってかどうか知らないが日本一の大鍋による芋煮会を行っている。
もともとこのあたりは楮(こうぞ)が多く植えられ、和紙つくりが盛んで西ノ内和紙として知られている。
この先から東側の山あいに入ったところに「三太の湯」という温泉施設ができておりよく利用する。
この三太の湯に向かう途中にまず通るところが本来の西の内だと思う。この山あいに点在する集落を少し過ぎたところが諸沢という地区で、ここに「十二所渕」という矢印看板が出ていた。
小さな農村公園になっていて、したの川へ降りる鉄製の階段がある。

(サムネルです)
階段のしたに降りると高さがわずか2m程の段々になった滝があった。
そして周りの岩肌の景観は素晴らしく、誰も来ないのはもったいないような感じだ。

しかし、もう少し綺麗な清流であれば人にも薦められるが、あまり綺麗とは言えない。

(サムネルです)
その十二所渕をさらに先に進むと「鏡泉院」という寺の看板があった。
名前が素敵なので何か見るものがあるかと細い道を入ってみた。

大きな寺の門柱がすぐに見え別な寺院の名前が書かれていたが、ここが鏡泉院で間違いないようだ。

古びた山門と大きなイチョウの木(樹齢300年以上)と杉の木があり、奥に寺の本堂があった。
まあ、訪れる人はほとんどいないようで、少し写真をてっていたら寺から人が出てきて怪訝な顔でこちらを見ていたのでそうそうに引き上げた。



これは「宝筐印(ほうきょういん)塔」だと思うが、かなり年代も古そうだ。
鎌倉・室町のころのものかもしれないが・・・。
何も書かれたものはないのでわからない。

