祭りが終わって明日は中秋の名月

 石岡のお祭りも終わり、街はまた静けさを取り戻しました。
でも、賑やかだったはずなのにどこか虚しさが襲ってきます。
祭りの時以外に、この駅に降り立った人は、この人通りのなさをきっと「寂しい街だなあ」と思うに違いありません。
私などがいくら街をPRしてもほとんど効果はありませんが、それでも少しは活性化になるように思ってやってきたのですが・・・・。
良いものは沢山あるのに、それを見たり感じる感性がこの町には感じないのは何故でしょうか?
薬師古道を整備し、薬師堂の景色はすばらしい風情があった。
しかし、人寄せパンダではあるまいに人工的な石灯篭や看板を配し、意味のまったくつかめない姿に変わってしまった。奈良や大和の寺を歩いた人はこの保存会にいないのだろうか。
自慢できるものが一つ減ってしまった。残念に思えてならない。
こんな気持ちはきっと理解できないのだろう。
歴史の町と自認していても、その時代は戦国時代まで。平家の祖先がいた町であるのに、その後がない。
江戸時代などに見るものが何もない。260年もの間、何があったのでしょうか。
多くの火災があったと私はHPに書いた。そしてなくしたと・・・・。
しかし、なくしたのでは、隠しているか、敢えて見せないのだと思う。
舟塚山古墳に眠っていた宝物は何処に??
静かになった町の真上に名月がそっと優しい光を注いでいる。
昔ときっと変わらない光と思うが、「昔は活気があった。」などとこれからもズーッと言っていくのだろうか。
60歳以上のネットを使う人と使わない(使えない)人の差がラジオで議論になっていた。
使えるからどうってことはないが、何歳になっても物事に対する感性をなくしたくはない。
昭和36年に開かれた上野の国立美術館の「ルーブルを中心としたフランス美術展」に中学になったばかりだったが両親に連れられて見に行った。
上野公園の端から長蛇の列でやっと入場したが、人がいっぱい。
でもその時に見た絵画の印象が一生忘れられないものになった。
その後、西洋美術館にやってきた「ミロのビーナス」もすごい人だかりだった。
その当時は、文化的なものに飢えていたのかもしれない。
そして、東京駅のブリヂストン美術館や、倉敷の大原美術館、奈良の博物館、デパートで開催したマネ・モネ・ルノワール・セザンヌ・ビュフェ・ユトリロ・ダリなどの美術展に足を運んだりした。
しかし、大学に入ってゼミの人達と話をして、皆あまりにも知らないことに驚いたことがあった。
皆、私より裕福な家庭に育っているはずであったが・・・。
理科系の人は絵画や文学には興味がなかったのかもしれない。
石岡に立派でなくてもよいが、しっかりとした美術館、博物館、資料館などを建てていただけないだろうか。
図書館は利用者が多いが、美術館などは利用者が少ないのでダメ??
発想が貧弱なんだな~。これでは文化は育たない。
お月さんのウサギが笑ってら。



その他風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/21 21:47

菜の花と栗畑

今は、何処へ行っても花が多いですね。
道の両側に菜の花が咲き乱れていると黄色の絨毯のように見えます。

茨城県は、栗の生産では日本一ですが、その中でも、ここかすみがうら市(旧千代田町)の栗は有名です。
この栗畑の中に一面の菜の花が植えられているところがあります。
少し目に付くところは多いのですが、ここは一面が菜の花です。

(A) かすみがうら市の四万騎(しまき)農園の菜の花です。菜の花ばかりで栗の木が目立ちません。
しかし、ここの栗は有名でジャムに加工して「マロンジャム」として銀座などに卸してもいます。
菜の花が良い肥料になるのですね。

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四万騎農園さんの入口です。敷地の中に石蔵があり、時々コンサートなどが行なわれています。

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通りからすぐ菜の花畑が広がります。

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(B) 同じくかすみがうら市の笄崎(こうがいさき)のバス停近くの栗畑です。

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通りからは生け垣があり菜の花が目立たないのですが、きれいな畑です。

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こちらの栗の木はまだ若木のようです。

さて、有機栽培の栗に菜の花の堆肥がよいのでしょが、こちらのサイトは一応歴史のテーマを主に取り扱っていますので、この「四万騎(しまき)」と「笄崎(こうがいさき)」の地名について説明しましょう。
「四万騎」の名前の由来は、八幡太郎義家(源義家)が陸奥守に任じられて、後三年の役(1083年~)で奥州へ平定に行くのですが、後からの作りごとか、余程宣伝がうまかったのか、「義家参戦」とききつけて、一行の行進に続々とまわりから仲間が集まってきました。

このかすみがうら市の辺りでは兵は四万になり、この辺りは広い草原があるため、ここで馬術の稽古をしたといわれています。そのため「四万騎」と名がついたそうです。
また、石岡では更に増えて五万になったということで「五万堀」という地名が残り、食事をした池には「生板池」(生板はまないたのこと)などの地名も残っています。

さて、もう一方の笄崎(こうがいさき)ですが、どこにもまだ書いたものを見ていませんが、前にブログで書いたように笄(こうがい)が流れ着いた場所をさすと思われますので、ヤマトタケルが東京湾を渡る時に波を静めるために海に身を沈めた弟橘姫の髪を止めていた笄が霞ケ浦を流れて、この辺りまで川をさかのぼってきたなどという話が伝わっているのではないかなどと想像しています。

行方市羽生にある「橘郷造神社」はこの弟橘姫をまつった神社です。
また羽生の地名も弟橘姫の笄(こうがい)が霞ケ浦の岸に流されたものが、「羽を生やして飛んできた」とか、「鳥が群がって運んできた」などと言われているようです。
 
 

その他風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/30 07:49

ハナミズキ

最近、各家の入口にハナミズキの花が目立つようになったと思う。
桜が散る頃に桜の花と同じような色合いの可憐な花が咲いているのである。
もともとアメリカワシントンD.Cにソメイヨシノの桜の木を送ったお礼にアメリカから送られた木である。古来の日本にはなかった花で古都に似合うかはわからない。
そのためどこかモダンなイメージがあるが、ヒットソングにも歌われて人気が出たのかもしれない。

新しい住宅などが建つと、庭木や公園の木としてからっとした雰囲気を醸し出す。

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旧家の門の脇にも植えられたいました。

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でもやはり洋風な家の庭木や入口近くにうえられることが多いようだ。

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日本ではさるすべりのイメージに近いものを感じる。

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色はピンク、赤、白と結構種類が多い。また花が密集しているものやパラパラに咲くものなど。
すっかり日本にも定着したようだ。
1915年に日本に送られたと辞書にはあるので、約100年くらいになる。
日米交流もこのような文化が感じられるものなら歓迎だ。
 

その他風景 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2011/05/03 07:43

花大根

ゴールデンウィークとはいうが、今年は今日でおしまいだ。明日からまた仕事が始まる。
しかも土曜日も。代わりに夏の休暇が長くなった。
今年の電力不足も思わぬ方向になった。あまり猛暑も困るな~。
 さて、「だいこんの花」というテレビドラマが昔あったが、一般に大根の花は白い小さな花がたくさん咲いているのを思い浮かべていた。
しかし、この花に似た「花だいこん」というものが別にあることを知った。
現在は観賞用にも植えられているらしいが、一年草で道端でも可憐に咲いているところを今までも見ていた。
女房が「大根の花」が好きという。そして、先日仙台で公園の前に咲いていた花を見て「あ、だいこんの花」と叫んだので花の名前がわかったのである。
この花にもダイコンができるのかとも思ったが、まったく別物のようで、ダイコンはできない。
中国原産の花で別名「諸葛菜(しょかっさい)、紫花菜(むらさきはなな)、大紫羅欄花(おおあらせいとう)」などと呼ばれると言う。
諸葛菜は三国志に出てくる「諸葛孔明」が食料として栽培していたということから名前がついたようだ。
日本には江戸時代に渡ってきたらしいが、一年草で、また種が落ちるので、また翌年も花を咲かせるという。

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大根の花に似ていると言うがダイコンはもっと白い小花だったと思うが・・・。ピンクのものもあるので似ていると言えば似ているかもしれない。

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写真の場所はかすみがうら市下志筑(しづく)から中志筑に向かう途中の坂道にある池の脇である。
二十三夜塔も道端に置かれており、きれいに花だいこんが咲いていた。

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この池は名前は何と言うのだろうか? 志筑城の堀の一部が残ったものだろうか?
遅咲きのボタン桜がまだ咲いていた。
 

その他風景 | コメント(12) | トラックバック(0) | 2011/05/04 21:52

薫風(くんぷう)

(5月15日 2度目の投稿です。) 風薫る5月といわれますが、さわやかな日曜日となりました。
中学1年生の頃だったであろうか、学校で各自の文集を作ることになった。私の文集のタイトルにはこの「薫風」という字を選んだ。
まだそのころは意味もわからず、人の名前に「薫」と書く男の子がいたのでこの字を覚えていた程度であった。どこか格好よさそうに思えただけだった。

しかし、最近は風が薫るということが愛おしくさえ感じるようになった。
おかしなものである。

 団塊の世代などといわれ、受験競争に明け暮れ、企業でも、毎日休みもなく仕事に明け暮れて、子どものことなど女房にまかせっきり。
気がつけば地域社会との絆は薄く、暇になってもまだ仕事をすることしか考えることがなかった。
しかし、毎日ブログを飽きもせず書き続けて9カ月が過ぎた。

 そして、歴史の里といわれるこの地に移り住んで、季節の移り変わりになんとなく心をときめかせるようにもなった。

石岡といういわばタイムスリップしたような古く変わろうとしない町も珍しいのかもしれない。

これも貴重価値として尊重されなければならないかもしれないが、このままではそのうち立ちいかなくなることは間違いない。
最近は、こうして発信してわずかでも読者がいるだけでも違ってきているように感じる。

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<風土記の丘 時の門脇>

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<風土記の丘 有料展示場前>

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<風土記の丘 ニッコウキスゲ>
 

その他風景 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/05/15 19:15

山の花の期間は短い。

 今朝早く、娘がイギリスに帰るために、成田まで送って行った。
昨日は近くでいろいろと買い物するのに付き合い、昼に東大橋の「かね喜」石岡店で寿司を食べた。
本店は土浦であるが、100円寿司と比べると味は雲泥の違いで、ここの「あなご」が最高である。

さて、寿司の話はこれくらいにして、先週月曜日に迎えに行ったのであるが、その時に途中の「山藤」がみごとで、その場所を今度写真にでも撮っておこうとしたのだが、今日通ったら花はもう咲いていなかった。
この山藤は先週は大きな山の茂みにツタをからませ、見事に木々の間からその花を垂らしていたのであった。

しかし、今日は散ってしまったようで、藤のツタがあるかどうかも分からなくなっていた。
山の花は皆、可憐にその姿を登山者たちの目を楽しませてくれるが、どれもその時期は短いのが常である。
丁度良い時期に行き当たったら幸運を喜ぶべきなのでしょう。

ところで、山藤(ヤマフジ)のつるは右巻き(下から上を見て時計方向)であるのに対し、普通の藤(ノダフジ)は左巻きだという。これも不思議ですね。
  

その他風景 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/05/17 19:09

チガヤの白い穂風になびく

 今日車で走っていて草原に白い綿のような穂が風になびいてキラキラと光っていた。
ススキや葦、蒲などの綿毛はほとんど秋であり、ワタスゲなどは夏である。これは何だろう?
とてもきれいなので写真に撮って、帰ってから調べてみた。
「チガヤ」というそうだ。
どこにでもあるようなのだが、雑草かもしれないがきれいである。
チガヤは「千茅」「茅花」「血茅」などいろいろとかかれるようだが、今の時期の白い穂はきれいだ。
秋には紅くなり血の色と見えるともいう。
昔は若い穂を子どもが食べたというが、私は食べた記憶は無い。

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今日は曇っていて筑波山が良く見えなかったが、天気が良ければ後ろの方に見えるはずだ。この場所は恋瀬川に近い場所なので、日没も山に近いところに沈む。
これから夏至までどんどんと右手(北側)に沈む方向が変わってくる。

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昨日書いた金色姫の話は、調べてみると日立市豊浦の小貝浜(蚕養浜)にも伝わる話で、養蚕がどのように伝わったのかを調べる糸口になりそうだ。しかし筑波の神社は、神郡の豊浦という地区にあるのだから、名前もどこかでダブルが、筑波の方が古く由緒があるとなるとどう結びつくのか?
黒潮で流れ着くとしたら日立あたりが北限でもある。

常陸国第二社「静神社」(水戸)にも機織りの神が祭られている。

蚕は4回脱皮をして、それから新鮮な桑の葉を一気に食べるのだそうだ。きれいな絹織物ができるのだから貴重なものだったのだと思う。
伝えたのが「物部氏」と「秦氏」のようなのだが、この一族は朝鮮からやってきたともいわれており、日本の歴史の中での大いなる未知の不思議さを残している。
 

その他風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/26 19:00

野の花もきれい

 私の同僚や定年退職した先輩の中には家でバラや菊の栽培を熱心にしている方がおられる。
手入れも大変だがそれだけきれいに咲くと喜びもひとしおのようである。
しかし、私にはその趣味もなければ、育てる根気もない。
どうも手を加え過ぎた美はその人には満足感もあり良いと思うのだが、手を加えない自然のままの美しさや可憐さにハッとする時の方が好きである。

先日ツガヤの白い穂の写真を載せたら、脚本家の白井啓治さんから次のようなメールをいただいた。

「ツガヤの穂(芽)ちょっと青臭さがありますが甘みがあって美味しいですよ。子供の頃よく学校の帰り道穂を割いて食べたことを思い出しました。」

わたしは食べたことがないがやはり昔から食べられていたのですね。それにこの白い穂はその白さにハッとして写真をとったのだが、もう色が黄ばみ始めているようだ。今まで何もこのようなありふれた草や花に目もくれなかったのだが、これからは少し休み休みこんな所にも目を向けて行きたい。

 下の写真は、先日から我が家の庭にいつの間にか咲いていた花である。

葉は3枚のハート型なので、クローバなどと似た形をしている。
しかし、空地や道路端で良くみかけるカタバミ(片喰)だと思うのだが、紫の濃い花が咲いた。

野の花とは言え、気になったのでインターネット図鑑で調べてみると「ムラサキカタバミ」が出てきた。似ているがもう少し色が濃い。
すると「イモカタバミ」というのがあった。これには似ている。花の真中が少し紫の色が濃い。
あったあったと喜んでいたら、ブラジル原産の「ベニカタバミ」というのがもっともこれに近い。

どうやらこの「ベニカタバミ」というらしい。しかし、この花、案外珍しそうだ。

大正時代に日本に持ち込まれたそうだが、これらの花は、花は咲くが種を持たないらしい。根や茎で増えていく。
どんどん増えるいわゆる「雑草」だが、町や野原のどこにでも増えていく。
つまんで除いてもいつの間にか増えてしまうようだ。
またこのようなきれいな花が咲くと抜いてしまうのにためらいも生じる。

・雑草だって目守れば花のきれい  啓治(*)

・疲れたら休めと野の花のいう   啓治(*)

・山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

・やっぱり一人がよろしい雑草   山頭火

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カタバミ11

 (*:啓治・・・白井啓治さんの一行文、一行詩)
 

その他風景 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/05/28 15:57

紫金草(しきんそう)

 前に花ダイコン(オオアラセイトウ)の花を紹介しました。
すると、この花ダイコンを広めたのは石岡の灰吹屋さんのご主人だそうですとの話をうかがった。

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創業慶安元年(1648年)

はて、このオオアラセイトウは江戸時代に日本に入ってきたと聞いたのだが、こちらは昭和の話。
そこで、調べて色々なことがわかってきた。興味のある方はご自身で調べられたら良いと思いますが、調べたことを少しだけ紹介したい。

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日中戦争の南京での大虐殺といわれる事件の数か月後(1939年)に、旧日本陸軍衛生材料廠の廠長山口誠太郎さんが現地を視察で訪れました。
山口さんは昔学生(東京帝国大学)時代に、中国人留学生と南京に来たことがあり知っていたのですが、戦争により大きく変わってしまったことに大変驚いたといいます。
そして南京郊外にたくさん咲いていた紫の花の美しさに感動し、この種子をそっと持ち帰ったのです。
そして、日本で育て「紫金草(しきんそう)」(南京の紫金山の名前をとった)と名前をつけ、育てて増やした種子を知人や近隣の人に分けてきたといいます。
さらに、昭和41年夏からは全国各地の人に配布したそうです。
また、種子を埋め込んだ土をだんご状にして、列車の窓からあちこちにばらまき広めて行きました。
このことが、朝日新聞の天声人語に掲載され、多くの人に知られることになったといいます。

また、この花を広めて、平和のシンボルにしたいという山口誠太郎の想いを息子さんの山口裕が「平和の花だいこんを広める会(石岡市泉ヶ丘保育園内)」を組織し、つくば科学万博(1985年)に100万袋の種を日本をはじめ、世界からの来場者に配ったそうです。
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さて、この山口誠太郎さんは石岡の灰吹屋山口薬局さんの先代で、東京品川にある「星薬科大学」の前身の「星薬学専門学校(昭和16年設立)」の初代校長となっています。
ちなみに、この学校の創立者は星一さんで、作家の星新一さんのお父さんです。

さて、この花だいこんの名前を「オオアラセイトウ(大紫羅欄花)」となずけたのは牧野富太郎博士であり、江戸時代には日本に渡ってきた外来種として知られていました。
しかし、この紫金草の名前が、20年程前の新聞の声の欄で取り上げられて議論にもなったといいます。
その時に、天皇陛下も聞くところとなり、「すでに博士によって和名がつけられているのでそれでよいのでは・・・」となって、落着。「和名オオアラセイトウ、一名ショカッサイ」となったそうです。

現在、日本に「紫金草合唱団」が全国組織で結成され、日中友好として中国にても演奏などが行なわれているそうです。
そして、紫金草の花壇を作るために1000万円をこの記念館に寄贈しました。
お互いの友好と平和のシンボルとして。

その場所は、中国の「南京大虐殺記念館の平和公園内」です・・・・・・・。

これの先は、それぞれの思いでこの話の捉え方は違ってくるでしょうから、書くのはやめます。

この花に、石岡が関係していたとの話の紹介にとどめたいと思います。

でも花は可憐できれいな花ですね。花の想いはわかりませんが・・・。

 

その他風景 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/06/11 15:38

栗の花があちこちで咲いています。

 以前、栗の木の下の菜の花畑を紹介しましたが、ここ数日栗の木に白い花が咲いているのが目立つようになりました。
この花は少し匂いが強いのですが、栗の花を紹介します。こんなものだということを知る機会としてとらえてください。

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前回菜の花が満開であった「笄崎(こうがいさき)」の栗畑です。

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こちらも菜の花畑であった「四万騎農園」の栗畑です。

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栗の花はこんなに真っ白になります。これはほとんどが雄花で、雌花は中に少し小さいのが混じっているそうです。

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菜の花を植えていたところは、菜の花が終わって草だらけでしたが、普通の栗園ではこのように下草はありません。

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四万騎農園の入口の看板です。先日助六一揆を紹介しましたが、助六一揆を相談するために、地元の庄屋さんなどがここの場所に集まったといいます。
当時の資料では「嶋木原」と表示されています。

何時ごろから四万騎と書くようになったのでしょうか?
八幡太郎の伝説からこの名前になったなら、助六の時代にもこの「四万騎(しまき)」と書いてもよさそうですね。
きっと、後から文字を伝説に当てはめたのでしょう。こんなものなのかもしれませんね。
 

その他風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/12 12:20
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