祭りが終わって明日は中秋の名月
石岡のお祭りも終わり、街はまた静けさを取り戻しました。
でも、賑やかだったはずなのにどこか虚しさが襲ってきます。
祭りの時以外に、この駅に降り立った人は、この人通りのなさをきっと「寂しい街だなあ」と思うに違いありません。
私などがいくら街をPRしてもほとんど効果はありませんが、それでも少しは活性化になるように思ってやってきたのですが・・・・。
良いものは沢山あるのに、それを見たり感じる感性がこの町には感じないのは何故でしょうか?
薬師古道を整備し、薬師堂の景色はすばらしい風情があった。
しかし、人寄せパンダではあるまいに人工的な石灯篭や看板を配し、意味のまったくつかめない姿に変わってしまった。奈良や大和の寺を歩いた人はこの保存会にいないのだろうか。
自慢できるものが一つ減ってしまった。残念に思えてならない。
こんな気持ちはきっと理解できないのだろう。
歴史の町と自認していても、その時代は戦国時代まで。平家の祖先がいた町であるのに、その後がない。
江戸時代などに見るものが何もない。260年もの間、何があったのでしょうか。
多くの火災があったと私はHPに書いた。そしてなくしたと・・・・。
しかし、なくしたのでは、隠しているか、敢えて見せないのだと思う。
舟塚山古墳に眠っていた宝物は何処に??
静かになった町の真上に名月がそっと優しい光を注いでいる。
昔ときっと変わらない光と思うが、「昔は活気があった。」などとこれからもズーッと言っていくのだろうか。
60歳以上のネットを使う人と使わない(使えない)人の差がラジオで議論になっていた。
使えるからどうってことはないが、何歳になっても物事に対する感性をなくしたくはない。
昭和36年に開かれた上野の国立美術館の「ルーブルを中心としたフランス美術展」に中学になったばかりだったが両親に連れられて見に行った。
上野公園の端から長蛇の列でやっと入場したが、人がいっぱい。
でもその時に見た絵画の印象が一生忘れられないものになった。
その後、西洋美術館にやってきた「ミロのビーナス」もすごい人だかりだった。
その当時は、文化的なものに飢えていたのかもしれない。
そして、東京駅のブリヂストン美術館や、倉敷の大原美術館、奈良の博物館、デパートで開催したマネ・モネ・ルノワール・セザンヌ・ビュフェ・ユトリロ・ダリなどの美術展に足を運んだりした。
しかし、大学に入ってゼミの人達と話をして、皆あまりにも知らないことに驚いたことがあった。
皆、私より裕福な家庭に育っているはずであったが・・・。
理科系の人は絵画や文学には興味がなかったのかもしれない。
石岡に立派でなくてもよいが、しっかりとした美術館、博物館、資料館などを建てていただけないだろうか。
図書館は利用者が多いが、美術館などは利用者が少ないのでダメ??
発想が貧弱なんだな~。これでは文化は育たない。
お月さんのウサギが笑ってら。
でも、賑やかだったはずなのにどこか虚しさが襲ってきます。
祭りの時以外に、この駅に降り立った人は、この人通りのなさをきっと「寂しい街だなあ」と思うに違いありません。
私などがいくら街をPRしてもほとんど効果はありませんが、それでも少しは活性化になるように思ってやってきたのですが・・・・。
良いものは沢山あるのに、それを見たり感じる感性がこの町には感じないのは何故でしょうか?
薬師古道を整備し、薬師堂の景色はすばらしい風情があった。
しかし、人寄せパンダではあるまいに人工的な石灯篭や看板を配し、意味のまったくつかめない姿に変わってしまった。奈良や大和の寺を歩いた人はこの保存会にいないのだろうか。
自慢できるものが一つ減ってしまった。残念に思えてならない。
こんな気持ちはきっと理解できないのだろう。
歴史の町と自認していても、その時代は戦国時代まで。平家の祖先がいた町であるのに、その後がない。
江戸時代などに見るものが何もない。260年もの間、何があったのでしょうか。
多くの火災があったと私はHPに書いた。そしてなくしたと・・・・。
しかし、なくしたのでは、隠しているか、敢えて見せないのだと思う。
舟塚山古墳に眠っていた宝物は何処に??
静かになった町の真上に名月がそっと優しい光を注いでいる。
昔ときっと変わらない光と思うが、「昔は活気があった。」などとこれからもズーッと言っていくのだろうか。
60歳以上のネットを使う人と使わない(使えない)人の差がラジオで議論になっていた。
使えるからどうってことはないが、何歳になっても物事に対する感性をなくしたくはない。
昭和36年に開かれた上野の国立美術館の「ルーブルを中心としたフランス美術展」に中学になったばかりだったが両親に連れられて見に行った。
上野公園の端から長蛇の列でやっと入場したが、人がいっぱい。
でもその時に見た絵画の印象が一生忘れられないものになった。
その後、西洋美術館にやってきた「ミロのビーナス」もすごい人だかりだった。
その当時は、文化的なものに飢えていたのかもしれない。
そして、東京駅のブリヂストン美術館や、倉敷の大原美術館、奈良の博物館、デパートで開催したマネ・モネ・ルノワール・セザンヌ・ビュフェ・ユトリロ・ダリなどの美術展に足を運んだりした。
しかし、大学に入ってゼミの人達と話をして、皆あまりにも知らないことに驚いたことがあった。
皆、私より裕福な家庭に育っているはずであったが・・・。
理科系の人は絵画や文学には興味がなかったのかもしれない。
石岡に立派でなくてもよいが、しっかりとした美術館、博物館、資料館などを建てていただけないだろうか。
図書館は利用者が多いが、美術館などは利用者が少ないのでダメ??
発想が貧弱なんだな~。これでは文化は育たない。
お月さんのウサギが笑ってら。
菜の花と栗畑
今は、何処へ行っても花が多いですね。
道の両側に菜の花が咲き乱れていると黄色の絨毯のように見えます。
茨城県は、栗の生産では日本一ですが、その中でも、ここかすみがうら市(旧千代田町)の栗は有名です。
この栗畑の中に一面の菜の花が植えられているところがあります。
少し目に付くところは多いのですが、ここは一面が菜の花です。
(A) かすみがうら市の四万騎(しまき)農園の菜の花です。菜の花ばかりで栗の木が目立ちません。
しかし、ここの栗は有名でジャムに加工して「マロンジャム」として銀座などに卸してもいます。
菜の花が良い肥料になるのですね。

四万騎農園さんの入口です。敷地の中に石蔵があり、時々コンサートなどが行なわれています。

通りからすぐ菜の花畑が広がります。

(B) 同じくかすみがうら市の笄崎(こうがいさき)のバス停近くの栗畑です。

通りからは生け垣があり菜の花が目立たないのですが、きれいな畑です。

こちらの栗の木はまだ若木のようです。
さて、有機栽培の栗に菜の花の堆肥がよいのでしょが、こちらのサイトは一応歴史のテーマを主に取り扱っていますので、この「四万騎(しまき)」と「笄崎(こうがいさき)」の地名について説明しましょう。
「四万騎」の名前の由来は、八幡太郎義家(源義家)が陸奥守に任じられて、後三年の役(1083年~)で奥州へ平定に行くのですが、後からの作りごとか、余程宣伝がうまかったのか、「義家参戦」とききつけて、一行の行進に続々とまわりから仲間が集まってきました。
このかすみがうら市の辺りでは兵は四万になり、この辺りは広い草原があるため、ここで馬術の稽古をしたといわれています。そのため「四万騎」と名がついたそうです。
また、石岡では更に増えて五万になったということで「五万堀」という地名が残り、食事をした池には「生板池」(生板はまないたのこと)などの地名も残っています。
さて、もう一方の笄崎(こうがいさき)ですが、どこにもまだ書いたものを見ていませんが、前にブログで書いたように笄(こうがい)が流れ着いた場所をさすと思われますので、ヤマトタケルが東京湾を渡る時に波を静めるために海に身を沈めた弟橘姫の髪を止めていた笄が霞ケ浦を流れて、この辺りまで川をさかのぼってきたなどという話が伝わっているのではないかなどと想像しています。
行方市羽生にある「橘郷造神社」はこの弟橘姫をまつった神社です。
また羽生の地名も弟橘姫の笄(こうがい)が霞ケ浦の岸に流されたものが、「羽を生やして飛んできた」とか、「鳥が群がって運んできた」などと言われているようです。
道の両側に菜の花が咲き乱れていると黄色の絨毯のように見えます。
茨城県は、栗の生産では日本一ですが、その中でも、ここかすみがうら市(旧千代田町)の栗は有名です。
この栗畑の中に一面の菜の花が植えられているところがあります。
少し目に付くところは多いのですが、ここは一面が菜の花です。
(A) かすみがうら市の四万騎(しまき)農園の菜の花です。菜の花ばかりで栗の木が目立ちません。
しかし、ここの栗は有名でジャムに加工して「マロンジャム」として銀座などに卸してもいます。
菜の花が良い肥料になるのですね。

四万騎農園さんの入口です。敷地の中に石蔵があり、時々コンサートなどが行なわれています。

通りからすぐ菜の花畑が広がります。

(B) 同じくかすみがうら市の笄崎(こうがいさき)のバス停近くの栗畑です。

通りからは生け垣があり菜の花が目立たないのですが、きれいな畑です。

こちらの栗の木はまだ若木のようです。
さて、有機栽培の栗に菜の花の堆肥がよいのでしょが、こちらのサイトは一応歴史のテーマを主に取り扱っていますので、この「四万騎(しまき)」と「笄崎(こうがいさき)」の地名について説明しましょう。
「四万騎」の名前の由来は、八幡太郎義家(源義家)が陸奥守に任じられて、後三年の役(1083年~)で奥州へ平定に行くのですが、後からの作りごとか、余程宣伝がうまかったのか、「義家参戦」とききつけて、一行の行進に続々とまわりから仲間が集まってきました。
このかすみがうら市の辺りでは兵は四万になり、この辺りは広い草原があるため、ここで馬術の稽古をしたといわれています。そのため「四万騎」と名がついたそうです。
また、石岡では更に増えて五万になったということで「五万堀」という地名が残り、食事をした池には「生板池」(生板はまないたのこと)などの地名も残っています。
さて、もう一方の笄崎(こうがいさき)ですが、どこにもまだ書いたものを見ていませんが、前にブログで書いたように笄(こうがい)が流れ着いた場所をさすと思われますので、ヤマトタケルが東京湾を渡る時に波を静めるために海に身を沈めた弟橘姫の髪を止めていた笄が霞ケ浦を流れて、この辺りまで川をさかのぼってきたなどという話が伝わっているのではないかなどと想像しています。
行方市羽生にある「橘郷造神社」はこの弟橘姫をまつった神社です。
また羽生の地名も弟橘姫の笄(こうがい)が霞ケ浦の岸に流されたものが、「羽を生やして飛んできた」とか、「鳥が群がって運んできた」などと言われているようです。
ハナミズキ
最近、各家の入口にハナミズキの花が目立つようになったと思う。
桜が散る頃に桜の花と同じような色合いの可憐な花が咲いているのである。
もともとアメリカワシントンD.Cにソメイヨシノの桜の木を送ったお礼にアメリカから送られた木である。古来の日本にはなかった花で古都に似合うかはわからない。
そのためどこかモダンなイメージがあるが、ヒットソングにも歌われて人気が出たのかもしれない。
新しい住宅などが建つと、庭木や公園の木としてからっとした雰囲気を醸し出す。

旧家の門の脇にも植えられたいました。

でもやはり洋風な家の庭木や入口近くにうえられることが多いようだ。

日本ではさるすべりのイメージに近いものを感じる。

色はピンク、赤、白と結構種類が多い。また花が密集しているものやパラパラに咲くものなど。
すっかり日本にも定着したようだ。
1915年に日本に送られたと辞書にはあるので、約100年くらいになる。
日米交流もこのような文化が感じられるものなら歓迎だ。
桜が散る頃に桜の花と同じような色合いの可憐な花が咲いているのである。
もともとアメリカワシントンD.Cにソメイヨシノの桜の木を送ったお礼にアメリカから送られた木である。古来の日本にはなかった花で古都に似合うかはわからない。
そのためどこかモダンなイメージがあるが、ヒットソングにも歌われて人気が出たのかもしれない。
新しい住宅などが建つと、庭木や公園の木としてからっとした雰囲気を醸し出す。

旧家の門の脇にも植えられたいました。

でもやはり洋風な家の庭木や入口近くにうえられることが多いようだ。

日本ではさるすべりのイメージに近いものを感じる。

色はピンク、赤、白と結構種類が多い。また花が密集しているものやパラパラに咲くものなど。
すっかり日本にも定着したようだ。
1915年に日本に送られたと辞書にはあるので、約100年くらいになる。
日米交流もこのような文化が感じられるものなら歓迎だ。
花大根
ゴールデンウィークとはいうが、今年は今日でおしまいだ。明日からまた仕事が始まる。
しかも土曜日も。代わりに夏の休暇が長くなった。
今年の電力不足も思わぬ方向になった。あまり猛暑も困るな~。
さて、「だいこんの花」というテレビドラマが昔あったが、一般に大根の花は白い小さな花がたくさん咲いているのを思い浮かべていた。
しかし、この花に似た「花だいこん」というものが別にあることを知った。
現在は観賞用にも植えられているらしいが、一年草で道端でも可憐に咲いているところを今までも見ていた。
女房が「大根の花」が好きという。そして、先日仙台で公園の前に咲いていた花を見て「あ、だいこんの花」と叫んだので花の名前がわかったのである。
この花にもダイコンができるのかとも思ったが、まったく別物のようで、ダイコンはできない。
中国原産の花で別名「諸葛菜(しょかっさい)、紫花菜(むらさきはなな)、大紫羅欄花(おおあらせいとう)」などと呼ばれると言う。
諸葛菜は三国志に出てくる「諸葛孔明」が食料として栽培していたということから名前がついたようだ。
日本には江戸時代に渡ってきたらしいが、一年草で、また種が落ちるので、また翌年も花を咲かせるという。

大根の花に似ていると言うがダイコンはもっと白い小花だったと思うが・・・。ピンクのものもあるので似ていると言えば似ているかもしれない。

写真の場所はかすみがうら市下志筑(しづく)から中志筑に向かう途中の坂道にある池の脇である。
二十三夜塔も道端に置かれており、きれいに花だいこんが咲いていた。

この池は名前は何と言うのだろうか? 志筑城の堀の一部が残ったものだろうか?
遅咲きのボタン桜がまだ咲いていた。
しかも土曜日も。代わりに夏の休暇が長くなった。
今年の電力不足も思わぬ方向になった。あまり猛暑も困るな~。
さて、「だいこんの花」というテレビドラマが昔あったが、一般に大根の花は白い小さな花がたくさん咲いているのを思い浮かべていた。
しかし、この花に似た「花だいこん」というものが別にあることを知った。
現在は観賞用にも植えられているらしいが、一年草で道端でも可憐に咲いているところを今までも見ていた。
女房が「大根の花」が好きという。そして、先日仙台で公園の前に咲いていた花を見て「あ、だいこんの花」と叫んだので花の名前がわかったのである。
この花にもダイコンができるのかとも思ったが、まったく別物のようで、ダイコンはできない。
中国原産の花で別名「諸葛菜(しょかっさい)、紫花菜(むらさきはなな)、大紫羅欄花(おおあらせいとう)」などと呼ばれると言う。
諸葛菜は三国志に出てくる「諸葛孔明」が食料として栽培していたということから名前がついたようだ。
日本には江戸時代に渡ってきたらしいが、一年草で、また種が落ちるので、また翌年も花を咲かせるという。

大根の花に似ていると言うがダイコンはもっと白い小花だったと思うが・・・。ピンクのものもあるので似ていると言えば似ているかもしれない。

写真の場所はかすみがうら市下志筑(しづく)から中志筑に向かう途中の坂道にある池の脇である。
二十三夜塔も道端に置かれており、きれいに花だいこんが咲いていた。

この池は名前は何と言うのだろうか? 志筑城の堀の一部が残ったものだろうか?
遅咲きのボタン桜がまだ咲いていた。
薫風(くんぷう)
(5月15日 2度目の投稿です。) 風薫る5月といわれますが、さわやかな日曜日となりました。
中学1年生の頃だったであろうか、学校で各自の文集を作ることになった。私の文集のタイトルにはこの「薫風」という字を選んだ。
まだそのころは意味もわからず、人の名前に「薫」と書く男の子がいたのでこの字を覚えていた程度であった。どこか格好よさそうに思えただけだった。
しかし、最近は風が薫るということが愛おしくさえ感じるようになった。
おかしなものである。
団塊の世代などといわれ、受験競争に明け暮れ、企業でも、毎日休みもなく仕事に明け暮れて、子どものことなど女房にまかせっきり。
気がつけば地域社会との絆は薄く、暇になってもまだ仕事をすることしか考えることがなかった。
しかし、毎日ブログを飽きもせず書き続けて9カ月が過ぎた。
そして、歴史の里といわれるこの地に移り住んで、季節の移り変わりになんとなく心をときめかせるようにもなった。
石岡といういわばタイムスリップしたような古く変わろうとしない町も珍しいのかもしれない。
これも貴重価値として尊重されなければならないかもしれないが、このままではそのうち立ちいかなくなることは間違いない。
最近は、こうして発信してわずかでも読者がいるだけでも違ってきているように感じる。

<風土記の丘 時の門脇>

<風土記の丘 有料展示場前>

<風土記の丘 ニッコウキスゲ>
中学1年生の頃だったであろうか、学校で各自の文集を作ることになった。私の文集のタイトルにはこの「薫風」という字を選んだ。
まだそのころは意味もわからず、人の名前に「薫」と書く男の子がいたのでこの字を覚えていた程度であった。どこか格好よさそうに思えただけだった。
しかし、最近は風が薫るということが愛おしくさえ感じるようになった。
おかしなものである。
団塊の世代などといわれ、受験競争に明け暮れ、企業でも、毎日休みもなく仕事に明け暮れて、子どものことなど女房にまかせっきり。
気がつけば地域社会との絆は薄く、暇になってもまだ仕事をすることしか考えることがなかった。
しかし、毎日ブログを飽きもせず書き続けて9カ月が過ぎた。
そして、歴史の里といわれるこの地に移り住んで、季節の移り変わりになんとなく心をときめかせるようにもなった。
石岡といういわばタイムスリップしたような古く変わろうとしない町も珍しいのかもしれない。
これも貴重価値として尊重されなければならないかもしれないが、このままではそのうち立ちいかなくなることは間違いない。
最近は、こうして発信してわずかでも読者がいるだけでも違ってきているように感じる。

<風土記の丘 時の門脇>

<風土記の丘 有料展示場前>

<風土記の丘 ニッコウキスゲ>
山の花の期間は短い。
今朝早く、娘がイギリスに帰るために、成田まで送って行った。
昨日は近くでいろいろと買い物するのに付き合い、昼に東大橋の「かね喜」石岡店で寿司を食べた。
本店は土浦であるが、100円寿司と比べると味は雲泥の違いで、ここの「あなご」が最高である。
さて、寿司の話はこれくらいにして、先週月曜日に迎えに行ったのであるが、その時に途中の「山藤」がみごとで、その場所を今度写真にでも撮っておこうとしたのだが、今日通ったら花はもう咲いていなかった。
この山藤は先週は大きな山の茂みにツタをからませ、見事に木々の間からその花を垂らしていたのであった。
しかし、今日は散ってしまったようで、藤のツタがあるかどうかも分からなくなっていた。
山の花は皆、可憐にその姿を登山者たちの目を楽しませてくれるが、どれもその時期は短いのが常である。
丁度良い時期に行き当たったら幸運を喜ぶべきなのでしょう。
ところで、山藤(ヤマフジ)のつるは右巻き(下から上を見て時計方向)であるのに対し、普通の藤(ノダフジ)は左巻きだという。これも不思議ですね。
昨日は近くでいろいろと買い物するのに付き合い、昼に東大橋の「かね喜」石岡店で寿司を食べた。
本店は土浦であるが、100円寿司と比べると味は雲泥の違いで、ここの「あなご」が最高である。
さて、寿司の話はこれくらいにして、先週月曜日に迎えに行ったのであるが、その時に途中の「山藤」がみごとで、その場所を今度写真にでも撮っておこうとしたのだが、今日通ったら花はもう咲いていなかった。
この山藤は先週は大きな山の茂みにツタをからませ、見事に木々の間からその花を垂らしていたのであった。
しかし、今日は散ってしまったようで、藤のツタがあるかどうかも分からなくなっていた。
山の花は皆、可憐にその姿を登山者たちの目を楽しませてくれるが、どれもその時期は短いのが常である。
丁度良い時期に行き当たったら幸運を喜ぶべきなのでしょう。
ところで、山藤(ヤマフジ)のつるは右巻き(下から上を見て時計方向)であるのに対し、普通の藤(ノダフジ)は左巻きだという。これも不思議ですね。
チガヤの白い穂風になびく
今日車で走っていて草原に白い綿のような穂が風になびいてキラキラと光っていた。
ススキや葦、蒲などの綿毛はほとんど秋であり、ワタスゲなどは夏である。これは何だろう?
とてもきれいなので写真に撮って、帰ってから調べてみた。
「チガヤ」というそうだ。
どこにでもあるようなのだが、雑草かもしれないがきれいである。
チガヤは「千茅」「茅花」「血茅」などいろいろとかかれるようだが、今の時期の白い穂はきれいだ。
秋には紅くなり血の色と見えるともいう。
昔は若い穂を子どもが食べたというが、私は食べた記憶は無い。

今日は曇っていて筑波山が良く見えなかったが、天気が良ければ後ろの方に見えるはずだ。この場所は恋瀬川に近い場所なので、日没も山に近いところに沈む。
これから夏至までどんどんと右手(北側)に沈む方向が変わってくる。


昨日書いた金色姫の話は、調べてみると日立市豊浦の小貝浜(蚕養浜)にも伝わる話で、養蚕がどのように伝わったのかを調べる糸口になりそうだ。しかし筑波の神社は、神郡の豊浦という地区にあるのだから、名前もどこかでダブルが、筑波の方が古く由緒があるとなるとどう結びつくのか?
黒潮で流れ着くとしたら日立あたりが北限でもある。
常陸国第二社「静神社」(水戸)にも機織りの神が祭られている。
蚕は4回脱皮をして、それから新鮮な桑の葉を一気に食べるのだそうだ。きれいな絹織物ができるのだから貴重なものだったのだと思う。
伝えたのが「物部氏」と「秦氏」のようなのだが、この一族は朝鮮からやってきたともいわれており、日本の歴史の中での大いなる未知の不思議さを残している。
ススキや葦、蒲などの綿毛はほとんど秋であり、ワタスゲなどは夏である。これは何だろう?
とてもきれいなので写真に撮って、帰ってから調べてみた。
「チガヤ」というそうだ。
どこにでもあるようなのだが、雑草かもしれないがきれいである。
チガヤは「千茅」「茅花」「血茅」などいろいろとかかれるようだが、今の時期の白い穂はきれいだ。
秋には紅くなり血の色と見えるともいう。
昔は若い穂を子どもが食べたというが、私は食べた記憶は無い。

今日は曇っていて筑波山が良く見えなかったが、天気が良ければ後ろの方に見えるはずだ。この場所は恋瀬川に近い場所なので、日没も山に近いところに沈む。
これから夏至までどんどんと右手(北側)に沈む方向が変わってくる。


昨日書いた金色姫の話は、調べてみると日立市豊浦の小貝浜(蚕養浜)にも伝わる話で、養蚕がどのように伝わったのかを調べる糸口になりそうだ。しかし筑波の神社は、神郡の豊浦という地区にあるのだから、名前もどこかでダブルが、筑波の方が古く由緒があるとなるとどう結びつくのか?
黒潮で流れ着くとしたら日立あたりが北限でもある。
常陸国第二社「静神社」(水戸)にも機織りの神が祭られている。
蚕は4回脱皮をして、それから新鮮な桑の葉を一気に食べるのだそうだ。きれいな絹織物ができるのだから貴重なものだったのだと思う。
伝えたのが「物部氏」と「秦氏」のようなのだが、この一族は朝鮮からやってきたともいわれており、日本の歴史の中での大いなる未知の不思議さを残している。
野の花もきれい
私の同僚や定年退職した先輩の中には家でバラや菊の栽培を熱心にしている方がおられる。
手入れも大変だがそれだけきれいに咲くと喜びもひとしおのようである。
しかし、私にはその趣味もなければ、育てる根気もない。
どうも手を加え過ぎた美はその人には満足感もあり良いと思うのだが、手を加えない自然のままの美しさや可憐さにハッとする時の方が好きである。
先日ツガヤの白い穂の写真を載せたら、脚本家の白井啓治さんから次のようなメールをいただいた。
「ツガヤの穂(芽)ちょっと青臭さがありますが甘みがあって美味しいですよ。子供の頃よく学校の帰り道穂を割いて食べたことを思い出しました。」
わたしは食べたことがないがやはり昔から食べられていたのですね。それにこの白い穂はその白さにハッとして写真をとったのだが、もう色が黄ばみ始めているようだ。今まで何もこのようなありふれた草や花に目もくれなかったのだが、これからは少し休み休みこんな所にも目を向けて行きたい。
下の写真は、先日から我が家の庭にいつの間にか咲いていた花である。
葉は3枚のハート型なので、クローバなどと似た形をしている。
しかし、空地や道路端で良くみかけるカタバミ(片喰)だと思うのだが、紫の濃い花が咲いた。
野の花とは言え、気になったのでインターネット図鑑で調べてみると「ムラサキカタバミ」が出てきた。似ているがもう少し色が濃い。
すると「イモカタバミ」というのがあった。これには似ている。花の真中が少し紫の色が濃い。
あったあったと喜んでいたら、ブラジル原産の「ベニカタバミ」というのがもっともこれに近い。
どうやらこの「ベニカタバミ」というらしい。しかし、この花、案外珍しそうだ。
大正時代に日本に持ち込まれたそうだが、これらの花は、花は咲くが種を持たないらしい。根や茎で増えていく。
どんどん増えるいわゆる「雑草」だが、町や野原のどこにでも増えていく。
つまんで除いてもいつの間にか増えてしまうようだ。
またこのようなきれいな花が咲くと抜いてしまうのにためらいも生じる。
・雑草だって目守れば花のきれい 啓治(*)
・疲れたら休めと野の花のいう 啓治(*)
・山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
・やっぱり一人がよろしい雑草 山頭火


(*:啓治・・・白井啓治さんの一行文、一行詩)
手入れも大変だがそれだけきれいに咲くと喜びもひとしおのようである。
しかし、私にはその趣味もなければ、育てる根気もない。
どうも手を加え過ぎた美はその人には満足感もあり良いと思うのだが、手を加えない自然のままの美しさや可憐さにハッとする時の方が好きである。
先日ツガヤの白い穂の写真を載せたら、脚本家の白井啓治さんから次のようなメールをいただいた。
「ツガヤの穂(芽)ちょっと青臭さがありますが甘みがあって美味しいですよ。子供の頃よく学校の帰り道穂を割いて食べたことを思い出しました。」
わたしは食べたことがないがやはり昔から食べられていたのですね。それにこの白い穂はその白さにハッとして写真をとったのだが、もう色が黄ばみ始めているようだ。今まで何もこのようなありふれた草や花に目もくれなかったのだが、これからは少し休み休みこんな所にも目を向けて行きたい。
下の写真は、先日から我が家の庭にいつの間にか咲いていた花である。
葉は3枚のハート型なので、クローバなどと似た形をしている。
しかし、空地や道路端で良くみかけるカタバミ(片喰)だと思うのだが、紫の濃い花が咲いた。
野の花とは言え、気になったのでインターネット図鑑で調べてみると「ムラサキカタバミ」が出てきた。似ているがもう少し色が濃い。
すると「イモカタバミ」というのがあった。これには似ている。花の真中が少し紫の色が濃い。
あったあったと喜んでいたら、ブラジル原産の「ベニカタバミ」というのがもっともこれに近い。
どうやらこの「ベニカタバミ」というらしい。しかし、この花、案外珍しそうだ。
大正時代に日本に持ち込まれたそうだが、これらの花は、花は咲くが種を持たないらしい。根や茎で増えていく。
どんどん増えるいわゆる「雑草」だが、町や野原のどこにでも増えていく。
つまんで除いてもいつの間にか増えてしまうようだ。
またこのようなきれいな花が咲くと抜いてしまうのにためらいも生じる。
・雑草だって目守れば花のきれい 啓治(*)
・疲れたら休めと野の花のいう 啓治(*)
・山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉
・やっぱり一人がよろしい雑草 山頭火


(*:啓治・・・白井啓治さんの一行文、一行詩)
紫金草(しきんそう)
前に花ダイコン(オオアラセイトウ)の花を紹介しました。
すると、この花ダイコンを広めたのは石岡の灰吹屋さんのご主人だそうですとの話をうかがった。
創業慶安元年(1648年)
はて、このオオアラセイトウは江戸時代に日本に入ってきたと聞いたのだが、こちらは昭和の話。
そこで、調べて色々なことがわかってきた。興味のある方はご自身で調べられたら良いと思いますが、調べたことを少しだけ紹介したい。
--------------------------------
日中戦争の南京での大虐殺といわれる事件の数か月後(1939年)に、旧日本陸軍衛生材料廠の廠長山口誠太郎さんが現地を視察で訪れました。
山口さんは昔学生(東京帝国大学)時代に、中国人留学生と南京に来たことがあり知っていたのですが、戦争により大きく変わってしまったことに大変驚いたといいます。
そして南京郊外にたくさん咲いていた紫の花の美しさに感動し、この種子をそっと持ち帰ったのです。
そして、日本で育て「紫金草(しきんそう)」(南京の紫金山の名前をとった)と名前をつけ、育てて増やした種子を知人や近隣の人に分けてきたといいます。
さらに、昭和41年夏からは全国各地の人に配布したそうです。
また、種子を埋め込んだ土をだんご状にして、列車の窓からあちこちにばらまき広めて行きました。
このことが、朝日新聞の天声人語に掲載され、多くの人に知られることになったといいます。
また、この花を広めて、平和のシンボルにしたいという山口誠太郎の想いを息子さんの山口裕が「平和の花だいこんを広める会(石岡市泉ヶ丘保育園内)」を組織し、つくば科学万博(1985年)に100万袋の種を日本をはじめ、世界からの来場者に配ったそうです。
-----------------------------------
さて、この山口誠太郎さんは石岡の灰吹屋山口薬局さんの先代で、東京品川にある「星薬科大学」の前身の「星薬学専門学校(昭和16年設立)」の初代校長となっています。
ちなみに、この学校の創立者は星一さんで、作家の星新一さんのお父さんです。
さて、この花だいこんの名前を「オオアラセイトウ(大紫羅欄花)」となずけたのは牧野富太郎博士であり、江戸時代には日本に渡ってきた外来種として知られていました。
しかし、この紫金草の名前が、20年程前の新聞の声の欄で取り上げられて議論にもなったといいます。
その時に、天皇陛下も聞くところとなり、「すでに博士によって和名がつけられているのでそれでよいのでは・・・」となって、落着。「和名オオアラセイトウ、一名ショカッサイ」となったそうです。
現在、日本に「紫金草合唱団」が全国組織で結成され、日中友好として中国にても演奏などが行なわれているそうです。
そして、紫金草の花壇を作るために1000万円をこの記念館に寄贈しました。
お互いの友好と平和のシンボルとして。
その場所は、中国の「南京大虐殺記念館の平和公園内」です・・・・・・・。
これの先は、それぞれの思いでこの話の捉え方は違ってくるでしょうから、書くのはやめます。
この花に、石岡が関係していたとの話の紹介にとどめたいと思います。
でも花は可憐できれいな花ですね。花の想いはわかりませんが・・・。
すると、この花ダイコンを広めたのは石岡の灰吹屋さんのご主人だそうですとの話をうかがった。

創業慶安元年(1648年)
はて、このオオアラセイトウは江戸時代に日本に入ってきたと聞いたのだが、こちらは昭和の話。
そこで、調べて色々なことがわかってきた。興味のある方はご自身で調べられたら良いと思いますが、調べたことを少しだけ紹介したい。
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日中戦争の南京での大虐殺といわれる事件の数か月後(1939年)に、旧日本陸軍衛生材料廠の廠長山口誠太郎さんが現地を視察で訪れました。
山口さんは昔学生(東京帝国大学)時代に、中国人留学生と南京に来たことがあり知っていたのですが、戦争により大きく変わってしまったことに大変驚いたといいます。
そして南京郊外にたくさん咲いていた紫の花の美しさに感動し、この種子をそっと持ち帰ったのです。
そして、日本で育て「紫金草(しきんそう)」(南京の紫金山の名前をとった)と名前をつけ、育てて増やした種子を知人や近隣の人に分けてきたといいます。
さらに、昭和41年夏からは全国各地の人に配布したそうです。
また、種子を埋め込んだ土をだんご状にして、列車の窓からあちこちにばらまき広めて行きました。
このことが、朝日新聞の天声人語に掲載され、多くの人に知られることになったといいます。
また、この花を広めて、平和のシンボルにしたいという山口誠太郎の想いを息子さんの山口裕が「平和の花だいこんを広める会(石岡市泉ヶ丘保育園内)」を組織し、つくば科学万博(1985年)に100万袋の種を日本をはじめ、世界からの来場者に配ったそうです。
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さて、この山口誠太郎さんは石岡の灰吹屋山口薬局さんの先代で、東京品川にある「星薬科大学」の前身の「星薬学専門学校(昭和16年設立)」の初代校長となっています。
ちなみに、この学校の創立者は星一さんで、作家の星新一さんのお父さんです。
さて、この花だいこんの名前を「オオアラセイトウ(大紫羅欄花)」となずけたのは牧野富太郎博士であり、江戸時代には日本に渡ってきた外来種として知られていました。
しかし、この紫金草の名前が、20年程前の新聞の声の欄で取り上げられて議論にもなったといいます。
その時に、天皇陛下も聞くところとなり、「すでに博士によって和名がつけられているのでそれでよいのでは・・・」となって、落着。「和名オオアラセイトウ、一名ショカッサイ」となったそうです。
現在、日本に「紫金草合唱団」が全国組織で結成され、日中友好として中国にても演奏などが行なわれているそうです。
そして、紫金草の花壇を作るために1000万円をこの記念館に寄贈しました。
お互いの友好と平和のシンボルとして。
その場所は、中国の「南京大虐殺記念館の平和公園内」です・・・・・・・。
これの先は、それぞれの思いでこの話の捉え方は違ってくるでしょうから、書くのはやめます。
この花に、石岡が関係していたとの話の紹介にとどめたいと思います。
でも花は可憐できれいな花ですね。花の想いはわかりませんが・・・。
栗の花があちこちで咲いています。
以前、栗の木の下の菜の花畑を紹介しましたが、ここ数日栗の木に白い花が咲いているのが目立つようになりました。
この花は少し匂いが強いのですが、栗の花を紹介します。こんなものだということを知る機会としてとらえてください。

前回菜の花が満開であった「笄崎(こうがいさき)」の栗畑です。

こちらも菜の花畑であった「四万騎農園」の栗畑です。

栗の花はこんなに真っ白になります。これはほとんどが雄花で、雌花は中に少し小さいのが混じっているそうです。

菜の花を植えていたところは、菜の花が終わって草だらけでしたが、普通の栗園ではこのように下草はありません。

四万騎農園の入口の看板です。先日助六一揆を紹介しましたが、助六一揆を相談するために、地元の庄屋さんなどがここの場所に集まったといいます。
当時の資料では「嶋木原」と表示されています。
何時ごろから四万騎と書くようになったのでしょうか?
八幡太郎の伝説からこの名前になったなら、助六の時代にもこの「四万騎(しまき)」と書いてもよさそうですね。
きっと、後から文字を伝説に当てはめたのでしょう。こんなものなのかもしれませんね。
この花は少し匂いが強いのですが、栗の花を紹介します。こんなものだということを知る機会としてとらえてください。

前回菜の花が満開であった「笄崎(こうがいさき)」の栗畑です。

こちらも菜の花畑であった「四万騎農園」の栗畑です。

栗の花はこんなに真っ白になります。これはほとんどが雄花で、雌花は中に少し小さいのが混じっているそうです。

菜の花を植えていたところは、菜の花が終わって草だらけでしたが、普通の栗園ではこのように下草はありません。

四万騎農園の入口の看板です。先日助六一揆を紹介しましたが、助六一揆を相談するために、地元の庄屋さんなどがここの場所に集まったといいます。
当時の資料では「嶋木原」と表示されています。
何時ごろから四万騎と書くようになったのでしょうか?
八幡太郎の伝説からこの名前になったなら、助六の時代にもこの「四万騎(しまき)」と書いてもよさそうですね。
きっと、後から文字を伝説に当てはめたのでしょう。こんなものなのかもしれませんね。
山百合まつり
昨日の日曜日に行方市の西蓮寺隣りの山で行なわれている「山百合まつり」に行ってきた。
この祭りは数年前から行なっており、地元ボランティアで植えた山百合が2万本にもなり、東京からはとバスツアーまでくるようになってきた。
石岡でもフラワーパークで山百合祭りをやっているというが、県立の施設とこちらは地元のボランティアと商工会などでの宣伝活動が実を結んだ形だ。
去年は行けず、今年始めて行ってみたのだが、たくさんの人と車でいっぱい。交通整理やお手伝いの人がいっぱい出ていた。

常陸高野と別名のある西連寺の駐車場に駐車して坂を下って一面に開けた田圃に出る。その先の山が「井上山百合の里」で、個人所有の山だ。
この山に、山百合を植えて少しずつ増やしてきたものを公開するようになり、イベントも行なわれるようになり、現在では百合の植え込みや下草刈りなど地元の方たちがボランティアで行なっている。

上の写真の田圃の向こう側が西連寺。この田圃を通ってこちらの山百合の山へ来るのである。
午前中割合に早かったが、人出はすでに多く、日差しがとても強い日でした。

山百合は公園に植えられた花とは違い、山に咲いているのが良いので期待している方には期待外れかもしれませんね。

百合の群生しているところで記念撮影。

山百合の咲き具合はこんな感じです。でも山百合はあまり人が多いと感激はほとんどなくなりますね。
山路を歩いて見つけて楽しむ花のように思います。
すれ違いにおばさんたちが「花はどこに咲いてるの。もうこれしかないの?がっかりだわ・・・」
こんなものなのかもしれません。

この三連休には野口さんとその生徒さんのオカリナの演奏会がありました。野外で行なう大地の声「オカリナ」もいいですね。今年は歌手の方も来られたらしいです。

この山への入山料に300円かかります。これはこの山の環境を守るのに使われるそうです。
入口で冷たい麦茶とこのコロコロとしたジャガイモがサービスされます。
ほくほくしてとても美味しかったです。
時間がなく、早々に引き揚げてきましたが、この暑さは応えます。
本来、西蓮寺は好きな寺で樹齢1000年の大イチョウはとても見事です。
また元寇(弘安の役)の戦勝を祈念して造られた相輪橖(そうりんとう)は見る価値十分です。
でも、この人出の中ではまったくイメージがちがってしまいますので、静かな時に訪れてみてください。

寺の裏の方の見事な竹林に風が吹いておりました。どうも私にはこちらの方がいいようです。
山百合を見るために田圃の間の道を歩いていると、前に賑やかなおばさん三人組みがおりました。
声が大きいので自然に聞こえてきます。
「こないださ。東京を朝9時にバスで発って、佐野でラーメン食べ、足利で藤の花を見たの。
とってもきれいで、みんな感激しちゃってさ、案を出した私はみんなに感謝されたの。
とっても素敵だったわ。
そして常陸海浜公園でネモヒラ見て、これがまた一面青い花でいっぱい。もうみんなで感激しちゃったのよ。」
さてさて、この山百合はどんなふうに映ったのでしょうか。少し心配です。
私には素朴で素敵に見えたし、山から見下ろした里山の田圃に風がふいて波のように揺れていました。
少し観光化されすぎるのも問題かもしれませんね。
行方はヤマトタケル伝説が残っています。
少し地方の特色などを知って来られると見えてくる風景が違って見えます。
さて、はとバスのツアーの内容をちょこっと紹介しておきましょう。
池袋(8:40)-浜松町(9:30)-常磐道-行方煙家(地元で人気の焼肉屋)で昼食-
ふるさと山百合まつり(地元の方のおもてなしあり。野菜のお土産付き)-
観光物産館こいこいでショッピングと行方バーガーのおやつ-
白帆の湯(霞ヶ浦を望む天然温泉)-東京駅(19:00)
平日6,980円、休日7,480円
さあ、どうでしょう。この温泉は私も何度か利用しています。夕日がとてもきれいな場所です。

この祭りは数年前から行なっており、地元ボランティアで植えた山百合が2万本にもなり、東京からはとバスツアーまでくるようになってきた。
石岡でもフラワーパークで山百合祭りをやっているというが、県立の施設とこちらは地元のボランティアと商工会などでの宣伝活動が実を結んだ形だ。
去年は行けず、今年始めて行ってみたのだが、たくさんの人と車でいっぱい。交通整理やお手伝いの人がいっぱい出ていた。

常陸高野と別名のある西連寺の駐車場に駐車して坂を下って一面に開けた田圃に出る。その先の山が「井上山百合の里」で、個人所有の山だ。
この山に、山百合を植えて少しずつ増やしてきたものを公開するようになり、イベントも行なわれるようになり、現在では百合の植え込みや下草刈りなど地元の方たちがボランティアで行なっている。

上の写真の田圃の向こう側が西連寺。この田圃を通ってこちらの山百合の山へ来るのである。
午前中割合に早かったが、人出はすでに多く、日差しがとても強い日でした。

山百合は公園に植えられた花とは違い、山に咲いているのが良いので期待している方には期待外れかもしれませんね。

百合の群生しているところで記念撮影。

山百合の咲き具合はこんな感じです。でも山百合はあまり人が多いと感激はほとんどなくなりますね。
山路を歩いて見つけて楽しむ花のように思います。
すれ違いにおばさんたちが「花はどこに咲いてるの。もうこれしかないの?がっかりだわ・・・」
こんなものなのかもしれません。

この三連休には野口さんとその生徒さんのオカリナの演奏会がありました。野外で行なう大地の声「オカリナ」もいいですね。今年は歌手の方も来られたらしいです。

この山への入山料に300円かかります。これはこの山の環境を守るのに使われるそうです。
入口で冷たい麦茶とこのコロコロとしたジャガイモがサービスされます。
ほくほくしてとても美味しかったです。
時間がなく、早々に引き揚げてきましたが、この暑さは応えます。
本来、西蓮寺は好きな寺で樹齢1000年の大イチョウはとても見事です。
また元寇(弘安の役)の戦勝を祈念して造られた相輪橖(そうりんとう)は見る価値十分です。
でも、この人出の中ではまったくイメージがちがってしまいますので、静かな時に訪れてみてください。

寺の裏の方の見事な竹林に風が吹いておりました。どうも私にはこちらの方がいいようです。
山百合を見るために田圃の間の道を歩いていると、前に賑やかなおばさん三人組みがおりました。
声が大きいので自然に聞こえてきます。
「こないださ。東京を朝9時にバスで発って、佐野でラーメン食べ、足利で藤の花を見たの。
とってもきれいで、みんな感激しちゃってさ、案を出した私はみんなに感謝されたの。
とっても素敵だったわ。
そして常陸海浜公園でネモヒラ見て、これがまた一面青い花でいっぱい。もうみんなで感激しちゃったのよ。」
さてさて、この山百合はどんなふうに映ったのでしょうか。少し心配です。
私には素朴で素敵に見えたし、山から見下ろした里山の田圃に風がふいて波のように揺れていました。
少し観光化されすぎるのも問題かもしれませんね。
行方はヤマトタケル伝説が残っています。
少し地方の特色などを知って来られると見えてくる風景が違って見えます。
さて、はとバスのツアーの内容をちょこっと紹介しておきましょう。
池袋(8:40)-浜松町(9:30)-常磐道-行方煙家(地元で人気の焼肉屋)で昼食-
ふるさと山百合まつり(地元の方のおもてなしあり。野菜のお土産付き)-
観光物産館こいこいでショッピングと行方バーガーのおやつ-
白帆の湯(霞ヶ浦を望む天然温泉)-東京駅(19:00)
平日6,980円、休日7,480円
さあ、どうでしょう。この温泉は私も何度か利用しています。夕日がとてもきれいな場所です。

ホタル
石岡の里山にはホタルが見られる場所がたくさんあるそうです。
去年、家内がホタルを見て帰ってくるとその車の中に1匹ホタルが飛びこんで来たと言って帰ってきた。
見ると車の中で小さな明かりが光っていた。
窓を開けて逃がしてやったが、たくさん乱舞していたのだという。
そこで、この前の土曜日にその場所へ暗くなってから出かけてみた。
車のライトをパッシングさせたが飛んでこない。良く見ていると草むらで明かりが点滅。
近付いてみて見ると確かにホタルが光を点滅させていた。

残念ながら乱舞するほどはいなかったが、気温が低かったせいかもしれない。
きょうあたりはまだたくさんいるのだろう。
ホタルのいる場所はあまり教えてはいけないそうだ。教えると人が押し掛けてホタルがいなくなるとのこと。
石岡でも朝日里山学校など何箇所かでホタル観賞の人員を募集したりしている。
すぐにいっぱいになってしまうらしいが、蕎麦打ち体験などと是非セットで来年でも申し込まれたらいいと思う。
今年はもうお終いになるし、予約も一杯のようなので。
去年、家内がホタルを見て帰ってくるとその車の中に1匹ホタルが飛びこんで来たと言って帰ってきた。
見ると車の中で小さな明かりが光っていた。
窓を開けて逃がしてやったが、たくさん乱舞していたのだという。
そこで、この前の土曜日にその場所へ暗くなってから出かけてみた。
車のライトをパッシングさせたが飛んでこない。良く見ていると草むらで明かりが点滅。
近付いてみて見ると確かにホタルが光を点滅させていた。

残念ながら乱舞するほどはいなかったが、気温が低かったせいかもしれない。
きょうあたりはまだたくさんいるのだろう。
ホタルのいる場所はあまり教えてはいけないそうだ。教えると人が押し掛けてホタルがいなくなるとのこと。
石岡でも朝日里山学校など何箇所かでホタル観賞の人員を募集したりしている。
すぐにいっぱいになってしまうらしいが、蕎麦打ち体験などと是非セットで来年でも申し込まれたらいいと思う。
今年はもうお終いになるし、予約も一杯のようなので。
池花池(2)-タヌキモ?
昨夜UPした、池花池にはヒツジ草とともに水中にたくさんの草がはえています。
水面に白い花?がポツポツとたくさん・・・
これはいったい何って言うの?
調べたが良くわかりません。
この池花池には「ヒツジ草」と「イヌタヌキモ」がたくさんあったが、昨年?、池の底を工事して無くなってしまったなどという記事を見つけた。
しかし、ヒツジ草は一杯に浮かんでいるし、もうひとつの水草もかなり変わっている。
でも「イヌタヌキモ」ではなく「ヒメタヌキモ」のように見える。
どなたかわかれば教えてもらいたい。
タヌキモは食虫植物で水中で虫をとらえるのだとか。
めずらしいですね。水中にタヌキ(狸)ですから。
またはイトヤナギモ(イトモ)か?

水面に白い花?がポツポツとたくさん・・・
これはいったい何って言うの?
調べたが良くわかりません。
この池花池には「ヒツジ草」と「イヌタヌキモ」がたくさんあったが、昨年?、池の底を工事して無くなってしまったなどという記事を見つけた。
しかし、ヒツジ草は一杯に浮かんでいるし、もうひとつの水草もかなり変わっている。
でも「イヌタヌキモ」ではなく「ヒメタヌキモ」のように見える。
どなたかわかれば教えてもらいたい。
タヌキモは食虫植物で水中で虫をとらえるのだとか。
めずらしいですね。水中にタヌキ(狸)ですから。
またはイトヤナギモ(イトモ)か?

ススキ
本日2本目です。
明日が十五夜とのことで、昨日の記事に「どこかススキのある場所はしりませんか」と質問をいただいた。
残念ながら、毎年ススキを飾るなどということをしてこなかったので、気に留めていなかったが、確かにまだ時期的には早いようだ。
どこにでも、川の土手や田んぼのあぜ道、野原などに幾らでもあるだろうと思ったのだが・・・。
今日昼前に用事で会社へ行き、その帰りに少しまわり道をして見渡したが意外に希望の物は無かった。
やっと、かすみがうら市の中志筑か五反田地区あたりに十本程見つけて数本を持ち帰った。

女房も出かけており、写真を撮ろうと少し飾って見たがセンスがない。
尾花などという洒落た言葉もあるが、やはり酒と団子に限る。
ただし、最近は車に乗る機会も多く、酒はほとんど飲まなくなっている。
今日は午後三時からギター文化館にオカリナコンサートと新説柏原池物語の朗読を聞きに行ってきます。
明日が十五夜とのことで、昨日の記事に「どこかススキのある場所はしりませんか」と質問をいただいた。
残念ながら、毎年ススキを飾るなどということをしてこなかったので、気に留めていなかったが、確かにまだ時期的には早いようだ。
どこにでも、川の土手や田んぼのあぜ道、野原などに幾らでもあるだろうと思ったのだが・・・。
今日昼前に用事で会社へ行き、その帰りに少しまわり道をして見渡したが意外に希望の物は無かった。
やっと、かすみがうら市の中志筑か五反田地区あたりに十本程見つけて数本を持ち帰った。

女房も出かけており、写真を撮ろうと少し飾って見たがセンスがない。
尾花などという洒落た言葉もあるが、やはり酒と団子に限る。
ただし、最近は車に乗る機会も多く、酒はほとんど飲まなくなっている。
今日は午後三時からギター文化館にオカリナコンサートと新説柏原池物語の朗読を聞きに行ってきます。
中秋の名月
今日は中秋の名月。夕方仕事が終わってあわてて外に出ると、もう月は大分高くなっていた。
真ん丸のいい月が東の空に輝いていた。
あわてて、家や電線のないところから写真を撮った。まだ外は明るい。

都会と違って、明かりも少なければ電線もあまりない。
広がるのは稲穂。 田舎はいい。(17:50頃)

そのまま、霞ケ浦へ出たいと車を走らせた。
ここは、かすみがうら市の郷土資料館。城の形をした資料館で時間はすでに閉館していた。
もう大分暗くなっていた。(18:20頃)

すぐ近くの歩崎公園で、霞ケ浦に出て撮影した。波が少し荒い。
数組のカップルと親子がいたが、全く静かだ。(18:30頃)
ここは霞ケ浦に飛びだした出島の先端。三又と呼ばれるところです。
銚子の方から進んできて石岡方面と土浦方面にわかれるところで、波が荒い。
昔国分寺の鐘を盗んだ泥棒が波が荒くて、この沖合で鐘を湖に投げ込んだと言われているところです。
(国分寺の雄雌の鐘伝説)

帰ろうとして駐車場に止めた車に戻ると、私の車の隣りになんとNHKの「キッチンが走る」の車と、スタッフらしき若者が十数人が駐車場で何やらガヤガヤやっていました。

やっと石岡に戻って中町の看板建築(昭和初期)の街並みの上に出る月です。
写真ではうまく撮れません。実際に見たようにはいきませんでした。
真ん丸のいい月が東の空に輝いていた。
あわてて、家や電線のないところから写真を撮った。まだ外は明るい。

都会と違って、明かりも少なければ電線もあまりない。
広がるのは稲穂。 田舎はいい。(17:50頃)

そのまま、霞ケ浦へ出たいと車を走らせた。
ここは、かすみがうら市の郷土資料館。城の形をした資料館で時間はすでに閉館していた。
もう大分暗くなっていた。(18:20頃)

すぐ近くの歩崎公園で、霞ケ浦に出て撮影した。波が少し荒い。
数組のカップルと親子がいたが、全く静かだ。(18:30頃)
ここは霞ケ浦に飛びだした出島の先端。三又と呼ばれるところです。
銚子の方から進んできて石岡方面と土浦方面にわかれるところで、波が荒い。
昔国分寺の鐘を盗んだ泥棒が波が荒くて、この沖合で鐘を湖に投げ込んだと言われているところです。
(国分寺の雄雌の鐘伝説)

帰ろうとして駐車場に止めた車に戻ると、私の車の隣りになんとNHKの「キッチンが走る」の車と、スタッフらしき若者が十数人が駐車場で何やらガヤガヤやっていました。

やっと石岡に戻って中町の看板建築(昭和初期)の街並みの上に出る月です。
写真ではうまく撮れません。実際に見たようにはいきませんでした。
旧暦9月の満月
旧暦の八月の満月(十五夜)で中秋の名月。
九月の十三夜も名月といわれ栗名月などといわれていますね。
一昨日の十三夜を見損なってしまいました。
しかし今日の満月もきれいでした。月が一番小さく見える満月だそうです。
あわてて石岡市内に行って写真を撮ってきました。

陣屋門(石岡小学校敷地内)の上に月が。

中町通り。
旧昭和レトロな看板建築の街並みにできたドラッグストアも夜には明かりが。
隣りの福島屋砂糖店はすでに暗い。
電線のない街燈がいい。

久松商店と福島屋砂糖店の間から月の明かりが・・・。(両店とも昭和5年と6年建築の国の有形文化財)

石岡の市街地の守り神である金刀比羅神社にも月が。
「笠間の稲荷か府中の金刀比羅さんか」といわれた賑わいは今はない。


今回3月の震災で鳥居も倒壊の危険が。なんとか補強して大丈夫だったようです。
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九月の十三夜も名月といわれ栗名月などといわれていますね。
一昨日の十三夜を見損なってしまいました。
しかし今日の満月もきれいでした。月が一番小さく見える満月だそうです。
あわてて石岡市内に行って写真を撮ってきました。

陣屋門(石岡小学校敷地内)の上に月が。

中町通り。
旧昭和レトロな看板建築の街並みにできたドラッグストアも夜には明かりが。
隣りの福島屋砂糖店はすでに暗い。
電線のない街燈がいい。

久松商店と福島屋砂糖店の間から月の明かりが・・・。(両店とも昭和5年と6年建築の国の有形文化財)

石岡の市街地の守り神である金刀比羅神社にも月が。
「笠間の稲荷か府中の金刀比羅さんか」といわれた賑わいは今はない。


今回3月の震災で鳥居も倒壊の危険が。なんとか補強して大丈夫だったようです。


秋里の街道風景
土曜日に出かけた時の茨城の街道風景を載せます。(昨日に続いて、1日2回の更新です)
行ったところは、石岡から北へ真っ直ぐ常陸大宮市(旧美和)から那珂川町へ。また美和まで戻って山道を常陸大子(袋田)の方に行き、水郡線沿いの道を通って戻ってきました。寄り道しながらのドライブでしたので、帰りに温泉に入る予定もしていたのですが、元気もなくつかれて早く戻りたくなり、そのまま帰ってきました。運転時間は6時間くらいかかってしまいました。

石岡ももうこんなに黄葉が始まっています。(国道355バイパス 柏原付近)

行く先々に柿の実がなっています。日本の里山には何処もこの時期柿が多いですね。

柿と民家の風情が何とも言えません。田舎には何処にもある風景です。

途中の丘の上に古びた神社と石仏などがあり、階段を上って見ました。 木にはアケビの実がなっていました。

那珂川はこの日は朝方大雨が降り、水かさも増え、釣り人も少なく空もどんよりです。(桂の那珂川大橋付近)

街道沿いの農家での柿の木。ここでは山で採れたキノコや卵・野菜などを売っているようでした。
さて、昼に食事をしたお蕎麦屋さんを紹介します。この店に来るのは2度目です。
場所は「道の駅美和」の前を少し鷲子(とりのこ)神社側にいったところです。
お店の名前は「やじか」です。とても美味しいので載せておきます。

前に来た時は「もりそば」を食べたので、この日は「つけけんちんそば」セットです。100%常陸そば(夏そば)とセットで出汁卵焼きとサラダがつきます。もり蕎麦の時は天ぷらがセットでつきました。
セットは全て1000円、単品はまた全て800円です。その他別に天ぷら300円なども頼めます。

ここのお店のこだわりは蕎麦を100%自家栽培で、そば粉を挽くのも自分のところでやっています。
100%そばも二八もすべて手でこねています。

店の裏にそば畑があり、この日は刈り取りが終わったばかり。乾燥も前日終わったので新秋蕎麦はもう少しで出せるところだそうですが、この日は残念ながら新そばではありませんでした。
ご自宅は前の街道の前の山側の家で大きな蔵があり、蔵で保存するのが一番いいので新ソバと変わらないとのこと。
親子三代で蕎麦造りからお米などを生産しています。お米は鷲子(とりのこ)山からの水がいいのでとても美味しいとのこと。山と水は米作りには最適です。
蕎麦は品評会で以前2番になったとのこと。
裏の畑以外にも蕎麦を作っており、自分の店で使い、それ以外は、直接希望の蕎麦屋さんに卸しているそうです。
← よろしければクリックお願いします。
行ったところは、石岡から北へ真っ直ぐ常陸大宮市(旧美和)から那珂川町へ。また美和まで戻って山道を常陸大子(袋田)の方に行き、水郡線沿いの道を通って戻ってきました。寄り道しながらのドライブでしたので、帰りに温泉に入る予定もしていたのですが、元気もなくつかれて早く戻りたくなり、そのまま帰ってきました。運転時間は6時間くらいかかってしまいました。

石岡ももうこんなに黄葉が始まっています。(国道355バイパス 柏原付近)

行く先々に柿の実がなっています。日本の里山には何処もこの時期柿が多いですね。

柿と民家の風情が何とも言えません。田舎には何処にもある風景です。

途中の丘の上に古びた神社と石仏などがあり、階段を上って見ました。 木にはアケビの実がなっていました。

那珂川はこの日は朝方大雨が降り、水かさも増え、釣り人も少なく空もどんよりです。(桂の那珂川大橋付近)

街道沿いの農家での柿の木。ここでは山で採れたキノコや卵・野菜などを売っているようでした。
さて、昼に食事をしたお蕎麦屋さんを紹介します。この店に来るのは2度目です。
場所は「道の駅美和」の前を少し鷲子(とりのこ)神社側にいったところです。
お店の名前は「やじか」です。とても美味しいので載せておきます。

前に来た時は「もりそば」を食べたので、この日は「つけけんちんそば」セットです。100%常陸そば(夏そば)とセットで出汁卵焼きとサラダがつきます。もり蕎麦の時は天ぷらがセットでつきました。
セットは全て1000円、単品はまた全て800円です。その他別に天ぷら300円なども頼めます。

ここのお店のこだわりは蕎麦を100%自家栽培で、そば粉を挽くのも自分のところでやっています。
100%そばも二八もすべて手でこねています。

店の裏にそば畑があり、この日は刈り取りが終わったばかり。乾燥も前日終わったので新秋蕎麦はもう少しで出せるところだそうですが、この日は残念ながら新そばではありませんでした。
ご自宅は前の街道の前の山側の家で大きな蔵があり、蔵で保存するのが一番いいので新ソバと変わらないとのこと。
親子三代で蕎麦造りからお米などを生産しています。お米は鷲子(とりのこ)山からの水がいいのでとても美味しいとのこと。山と水は米作りには最適です。
蕎麦は品評会で以前2番になったとのこと。
裏の畑以外にも蕎麦を作っており、自分の店で使い、それ以外は、直接希望の蕎麦屋さんに卸しているそうです。


ザクロに秋の空
私の家の入口にザクロの木がある。固い実が少しずつ大きくなってきているのを見てきた。
その実がやっと一つザックリと割れて、赤い実がでてきた。
ザクロ=柘榴は言葉がどうも不吉なニュアンスを感じさせ、意味もなく嫌いな方もおられるかもしれないが、昔は良く食べたりしたのだが、ほとんど食べるところもないので今ではだれも振り向かない。

見上げるとその先には、秋の空が広がっている。やはり気持ちがいいな。

7月中ごろにはこれくらい(下)の大きさであった。

5月頃はまだ花の名残が先っぽに広がり、徐々に実が膨らんでくる。

さて、このザクロとザックリ割れるなどの言葉が気になるのだが、ザックリとは「大雑把に」などとの意味もあるので、ザックリの言葉が先かもしれない。
ザクロ=柘榴(石榴)の語源を調べて見ると、その生息地であったウズベキスタンの首都タシケントの古名(テュルク語)「石の国」からきている言葉だそうだ。
中国との交易も歴史が古く、後漢書では「石国」と書かれているという。またタシケントはソルド語でその古名は「チャーチュ」といい、中国でも隋や唐の時代には「柘支」とも書かれているそうだ。
こんなことも調べると雑学につながる。ザクロ一つとっても知らないことがたくさんあるんだな。
特に雑学に興味があるわけではないが、色々なことがわかってくると楽しいことも多くなる。
14世紀に朝鮮半島で滅んだ王朝「高麗」の人々「高麗人」がその後、ロシアの極東地域(朝鮮との国境付近)の沿海地方にたくさん住んでいたのですが、第二次大戦で東のコーカサス地方に追放され、この地域に50万人が住んでいるそうです。
そのうち約20万人がウズベキスタンに住んでいるのです。
モスクワなどの日本料理店(寿司店など)で日本人と似た顔をした人たちが働いています。
恐らく、この高麗人のコミュニティの人達ではないかと思います。
皆、着物を着ているのですが、着ているというよりもただ体に巻きつけてるような日本人から見たら全く不自然な姿なのですが、ロシア人などには区別がつかないのでしょうね。
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その実がやっと一つザックリと割れて、赤い実がでてきた。
ザクロ=柘榴は言葉がどうも不吉なニュアンスを感じさせ、意味もなく嫌いな方もおられるかもしれないが、昔は良く食べたりしたのだが、ほとんど食べるところもないので今ではだれも振り向かない。

見上げるとその先には、秋の空が広がっている。やはり気持ちがいいな。

7月中ごろにはこれくらい(下)の大きさであった。

5月頃はまだ花の名残が先っぽに広がり、徐々に実が膨らんでくる。

さて、このザクロとザックリ割れるなどの言葉が気になるのだが、ザックリとは「大雑把に」などとの意味もあるので、ザックリの言葉が先かもしれない。
ザクロ=柘榴(石榴)の語源を調べて見ると、その生息地であったウズベキスタンの首都タシケントの古名(テュルク語)「石の国」からきている言葉だそうだ。
中国との交易も歴史が古く、後漢書では「石国」と書かれているという。またタシケントはソルド語でその古名は「チャーチュ」といい、中国でも隋や唐の時代には「柘支」とも書かれているそうだ。
こんなことも調べると雑学につながる。ザクロ一つとっても知らないことがたくさんあるんだな。
特に雑学に興味があるわけではないが、色々なことがわかってくると楽しいことも多くなる。
14世紀に朝鮮半島で滅んだ王朝「高麗」の人々「高麗人」がその後、ロシアの極東地域(朝鮮との国境付近)の沿海地方にたくさん住んでいたのですが、第二次大戦で東のコーカサス地方に追放され、この地域に50万人が住んでいるそうです。
そのうち約20万人がウズベキスタンに住んでいるのです。
モスクワなどの日本料理店(寿司店など)で日本人と似た顔をした人たちが働いています。
恐らく、この高麗人のコミュニティの人達ではないかと思います。
皆、着物を着ているのですが、着ているというよりもただ体に巻きつけてるような日本人から見たら全く不自然な姿なのですが、ロシア人などには区別がつかないのでしょうね。


真っ赤な秋
もう秋も終わりというのに今年はまだら模様で秋も暮れていきます。
この調子なら12月に入っても寒さもまだら模様かもしれない。
震災後の桜の開花の時も「まだら模様」って思ったが一気に春爛漫になった。
この時は季節の移り変わりを受け入れる自分の気持ちがそう思わせるのでは思った。
しかし、秋もまたまだら模様で、秋をあまり感じないうちに冬がやってくるようだ。
おかしな陽気ですね。たまにはセンチメンタルな秋も味わいたい。

(茨城県美浦村木原にて 2011年11月27日 撮影)
<まっかな秋> 薩摩 忠 作詞、小林秀雄 作曲
まっかだな まっかだな
つたの 葉っぱが まっかだな
もみじの 葉っぱも まっかだな
沈む 夕日に てらされて
まっかなほっぺたの 君と僕
まっかな 秋に かこまれて いる
まっかだな まっかだな
からすうりって まっかだな
とんぼのせなかも まっかだな
夕焼雲を ゆびさして
まっかなほっぺたの 君と僕
まっかな 秋に よびかけて いる
まっかだな まっかだな
ひがん花って まっかだな
遠くの たき火も まっかだな
お宮の 鳥居(とりい)を くぐりぬけ
まっかなほっぺたの 君と僕
まっかな 秋を たずねて まわる
・・・そうなんですよね。烏瓜ってあまり真っ赤なのは少ないかもしれませんが昔から赤の代名詞ですね。
信太郡を調べている時に見つけた。木原城があった高台。 この向こうに霞ケ浦が広がる。
なぜか懐かしくなる。

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この調子なら12月に入っても寒さもまだら模様かもしれない。
震災後の桜の開花の時も「まだら模様」って思ったが一気に春爛漫になった。
この時は季節の移り変わりを受け入れる自分の気持ちがそう思わせるのでは思った。
しかし、秋もまたまだら模様で、秋をあまり感じないうちに冬がやってくるようだ。
おかしな陽気ですね。たまにはセンチメンタルな秋も味わいたい。

(茨城県美浦村木原にて 2011年11月27日 撮影)
<まっかな秋> 薩摩 忠 作詞、小林秀雄 作曲
まっかだな まっかだな
つたの 葉っぱが まっかだな
もみじの 葉っぱも まっかだな
沈む 夕日に てらされて
まっかなほっぺたの 君と僕
まっかな 秋に かこまれて いる
まっかだな まっかだな
からすうりって まっかだな
とんぼのせなかも まっかだな
夕焼雲を ゆびさして
まっかなほっぺたの 君と僕
まっかな 秋に よびかけて いる
まっかだな まっかだな
ひがん花って まっかだな
遠くの たき火も まっかだな
お宮の 鳥居(とりい)を くぐりぬけ
まっかなほっぺたの 君と僕
まっかな 秋を たずねて まわる
・・・そうなんですよね。烏瓜ってあまり真っ赤なのは少ないかもしれませんが昔から赤の代名詞ですね。
信太郡を調べている時に見つけた。木原城があった高台。 この向こうに霞ケ浦が広がる。
なぜか懐かしくなる。



潮宮神社の古木
小美玉市倉数にある「潮宮(いたみや)神社」に苔むした古木を撮りに行った。
この神社は前にも紹介したことがあるが、鹿島灘で採れた塩(潮)を府中(石岡)の都に運ぶ潮街道の中間拠点の町の神社だそうだ。
今ではほとんどそのようなことを知る人も僅かになっているのだろう。
訪れる人もあまりいない。
潮宮と書いて「いたみや」と読む。
潮来(いたこ)は昔は板来と書いた。これはこの地の人を集めて皆殺しにした「痛く殺す」からきているのだという。いやな想い出は忘れた方がいいのかもしれない。
こんな歴史も知る人は少ないようだ。
もっともこれを潮来と書くようにしたのは水戸黄門様だともいう。潮宮:イタミヤからとってこの名前にしたと伝えられている。
この神社も潮来の方の「潮宮」から来た名前だと思う。

ここに初めて来た時に、この斜めにしっかりと伸びた大きな木があるのに驚かされた。

神社の参道を長い年月の間多くに人が参拝に訪れた。そのうちに参道が沈んでいったのだという。
むき出しの木の根も驚くほどだ。

木には苔がびっしり。

今では参道も歩く人はまばらで、へこむどころか苔が生えている。
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この神社は前にも紹介したことがあるが、鹿島灘で採れた塩(潮)を府中(石岡)の都に運ぶ潮街道の中間拠点の町の神社だそうだ。
今ではほとんどそのようなことを知る人も僅かになっているのだろう。
訪れる人もあまりいない。
潮宮と書いて「いたみや」と読む。
潮来(いたこ)は昔は板来と書いた。これはこの地の人を集めて皆殺しにした「痛く殺す」からきているのだという。いやな想い出は忘れた方がいいのかもしれない。
こんな歴史も知る人は少ないようだ。
もっともこれを潮来と書くようにしたのは水戸黄門様だともいう。潮宮:イタミヤからとってこの名前にしたと伝えられている。
この神社も潮来の方の「潮宮」から来た名前だと思う。

ここに初めて来た時に、この斜めにしっかりと伸びた大きな木があるのに驚かされた。

神社の参道を長い年月の間多くに人が参拝に訪れた。そのうちに参道が沈んでいったのだという。
むき出しの木の根も驚くほどだ。

木には苔がびっしり。

今では参道も歩く人はまばらで、へこむどころか苔が生えている。

