鹿子の木(カゴノキ)
昨日から急に寒くなった。
暑いときは寝不足を嘆いていたが、寒くなると体が疲れた感じになる。
なかなか丁度良い具合にはいかないものだ。
水不足は解消されたが、果物の産地としてはまだ心配だ。
さて、今日は「矢口家のカゴノキ」を紹介しよう。
場所は石岡市山崎風ヶ沢1383であるが、地元の人以外は現在あまり通らない場所だ。
ここは、昔は瓦会、部原地区と真家、岩間方面とを結ぶ街道であったという。
この場所で矢口家は茶屋を営んでおり、旅人の労をねぎらったという。

このカゴノキは樹齢約250年も経つもので、道路に斜めに張り出したようになっている。奇妙だが、昔は周りに、他の木があって邪魔をしていたためのようだ。

カゴノキは「鹿子の木」と書く。鹿の子(バンビ)の体の模様に似ているためについた名前だ。
木が大きくなるときに表皮が割れて模様になるという。
主に温暖な気候のところに生える樹木で、茨城では珍しいそうだ。
樹木もそうだが、馬滝(真家)から鳴滝(瓦会)へ山伝いの道を通っていた時に見つけた。
昔の街道であったと聞くと何か懐かしくなってきたので紹介してみた。
先日柴間の丘の上にあるギター文化館から、この方面を眺めた。
のどかな風景が広がり、その先に鐘転山(かねころばしやま)からの山並みが続いていた。
暑いときは寝不足を嘆いていたが、寒くなると体が疲れた感じになる。
なかなか丁度良い具合にはいかないものだ。
水不足は解消されたが、果物の産地としてはまだ心配だ。
さて、今日は「矢口家のカゴノキ」を紹介しよう。
場所は石岡市山崎風ヶ沢1383であるが、地元の人以外は現在あまり通らない場所だ。
ここは、昔は瓦会、部原地区と真家、岩間方面とを結ぶ街道であったという。
この場所で矢口家は茶屋を営んでおり、旅人の労をねぎらったという。

このカゴノキは樹齢約250年も経つもので、道路に斜めに張り出したようになっている。奇妙だが、昔は周りに、他の木があって邪魔をしていたためのようだ。

カゴノキは「鹿子の木」と書く。鹿の子(バンビ)の体の模様に似ているためについた名前だ。
木が大きくなるときに表皮が割れて模様になるという。
主に温暖な気候のところに生える樹木で、茨城では珍しいそうだ。
樹木もそうだが、馬滝(真家)から鳴滝(瓦会)へ山伝いの道を通っていた時に見つけた。
昔の街道であったと聞くと何か懐かしくなってきたので紹介してみた。
先日柴間の丘の上にあるギター文化館から、この方面を眺めた。
のどかな風景が広がり、その先に鐘転山(かねころばしやま)からの山並みが続いていた。
太田三楽という武将を知っていますか?
今日は日曜日、午前中に応援している風の会の機関誌の印刷、製本の手伝いをしました。
もっとこれだけの内容の濃い会報を毎月出しているのはすごいことだと思うのですが、この地方で受け入れられることが乏しいのはもったいないことです。
さて、今日のタイトルに書いた太田三楽斎資正(すけまさ)という武将を聞いたことがありますか?
この石岡の地に墓もあるのだが地元ではほとんど話題に上ることがない。
それなのに全国には多くの熱狂的なファンがいる。まあ埋もれた人物であろうか。
太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主である戦国武将として名前が知れているが、石岡の片野城の城主として間もなく入道となり、三楽斎を名乗る。
また手這坂の戦いで小田氏治を破った人物であり、はじめて軍用犬を使ったことで知られる。
軍用犬は岩槻城に近い松山城の二か所に犬を飼いならし、片方の城が攻められたときにいち早く犬を放ってもう一方の城の味方に知らせたという。
しかし、自分の城を子供に奪われ、佐竹氏に乞われて府中城と小田城との要の位置の前線で活躍している。
府中城が佐竹氏に攻められた際には、応援の要請には応えず、手出しをしなかったようである。
これは府中の大掾氏とも姻戚関係を結んでもいたことも関係したであろう。
また、落城した後の城をこの太田三楽にあずける話もあったようである。
しかし、この三楽を語る時に岩槻がでてきても石岡や片野、柿岡などがほとんど語られないのは何故なのだろうか。
最後まで上杉謙信への忠臣を貫き、謙信の死後直江兼続も高く評価していた知将して知られ、晩年には豊臣秀吉からは天下一の名将が、一国をとれないのは不思議だと言わせたともいう。
孤独な生涯を送ったともいわれ、また最後まで岩槻を奪還する野心を捨てなかったといわれています。
しかし一度石岡の片野の地を訪れ、城跡とお墓を探してみてください。

ひっそりと山の中に眠る墓は春には桜の花が舞い、ウグイスが鳴くのどかな場所にあります。

戦国時代を戦い抜いた一人の武将も44歳の働き盛りからこの地で戦に明け暮れ、秀吉の天下統一の8年後に69歳でなくなるまでこの片野の地にいたのは確かなのです。最後は静かな境地になっていたのではないかと思わされたのです。
地元の方に聞いてもほとんど知られていないようです。しかし、全国的にもファンが多くいるのですから近いうちに見直される時が来るように感じています。
地元には「片野排禍ばやし」(三楽が地元の禍を取り除くために始めたとされる)を一度見てみませんか。
「片野排禍ばやし」は7月の第3または第4日曜日と10月の第3日曜に地元の八坂神社のお祭りとして行われています。
もっとこれだけの内容の濃い会報を毎月出しているのはすごいことだと思うのですが、この地方で受け入れられることが乏しいのはもったいないことです。
さて、今日のタイトルに書いた太田三楽斎資正(すけまさ)という武将を聞いたことがありますか?
この石岡の地に墓もあるのだが地元ではほとんど話題に上ることがない。
それなのに全国には多くの熱狂的なファンがいる。まあ埋もれた人物であろうか。
太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主である戦国武将として名前が知れているが、石岡の片野城の城主として間もなく入道となり、三楽斎を名乗る。
また手這坂の戦いで小田氏治を破った人物であり、はじめて軍用犬を使ったことで知られる。
軍用犬は岩槻城に近い松山城の二か所に犬を飼いならし、片方の城が攻められたときにいち早く犬を放ってもう一方の城の味方に知らせたという。
しかし、自分の城を子供に奪われ、佐竹氏に乞われて府中城と小田城との要の位置の前線で活躍している。
府中城が佐竹氏に攻められた際には、応援の要請には応えず、手出しをしなかったようである。
これは府中の大掾氏とも姻戚関係を結んでもいたことも関係したであろう。
また、落城した後の城をこの太田三楽にあずける話もあったようである。
しかし、この三楽を語る時に岩槻がでてきても石岡や片野、柿岡などがほとんど語られないのは何故なのだろうか。
最後まで上杉謙信への忠臣を貫き、謙信の死後直江兼続も高く評価していた知将して知られ、晩年には豊臣秀吉からは天下一の名将が、一国をとれないのは不思議だと言わせたともいう。
孤独な生涯を送ったともいわれ、また最後まで岩槻を奪還する野心を捨てなかったといわれています。
しかし一度石岡の片野の地を訪れ、城跡とお墓を探してみてください。

ひっそりと山の中に眠る墓は春には桜の花が舞い、ウグイスが鳴くのどかな場所にあります。

戦国時代を戦い抜いた一人の武将も44歳の働き盛りからこの地で戦に明け暮れ、秀吉の天下統一の8年後に69歳でなくなるまでこの片野の地にいたのは確かなのです。最後は静かな境地になっていたのではないかと思わされたのです。
地元の方に聞いてもほとんど知られていないようです。しかし、全国的にもファンが多くいるのですから近いうちに見直される時が来るように感じています。
地元には「片野排禍ばやし」(三楽が地元の禍を取り除くために始めたとされる)を一度見てみませんか。
「片野排禍ばやし」は7月の第3または第4日曜日と10月の第3日曜に地元の八坂神社のお祭りとして行われています。
柿岡曲馬団
先日キグレサーカスの倒産が新聞に載った。
日本三大サーカスの一つが終わりを告げたのだ。
昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
私も小さい時に木下サーカスを見に行った記憶があり、いくつか見た記憶があるのでキグレサーカスも見たかもしれない。
またボリショイサーカスなどが来た時にも見にいった記憶もある。
さて、皆さんは柿岡曲馬団というサーカス団を御存知でしょうか。
私は名前も聞いたことはなかったのですが、八郷町史に載っていたのを思い出したのです。
そこで、今日仕事帰りに図書館によって確認してきました。
柿岡の名前と八郷町史ですから、この地元で作られたサーカス団なのかと思いましたが、違っていました。
柿岡春二郎(本名:荒川治二郎?)が率いた曲芸団で、明治後期から昭和初期までの間で非常に大きなサーカス団だったようです。
春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来たといいます。
若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。
そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になったといわれます。
大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。
ネットで検索して、面白いものを見つけました。
古書の中にこの柿岡曲馬団の絵葉書(カード)が売り出されており、3枚で12,000円の値が付いていましたのでびっくりですね。
内容は「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」「団員数十人の集合写真」でした。面白いですね。
さて、そのほかどのような出し物があったのでしょうか。
「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などの名前が載っています。
大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップに柿岡曲馬の名前があります。
さて、八郷の柿岡市の名前が出てきませんでしたが、はっきりしたことが分からないのですが。柿岡春二郎は大正三年に分家して柿岡に戸籍が移ります。
屋敷も持つのですが住んでいたところは宇都宮のようです。
ただ、吉生から養女をもらっており、戦後になってこの柿岡に移ってきたようです。
またそのころは、一座はほぼ活動は終わっていたようです。
昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石ですぐわかるようです。

善慶寺は柿岡小学校(柿岡城跡)の麓にあります。写真は桜並木と善慶寺です。
参考までにロシア(モスクワ)に行ったときに見たボリショウサーカスの写真も紹介しましょう。

上の写真はショーのラストに近い演技です。さすが本場ですね。観客はほぼ満員でした。

ボリショイサーカスの入場券を手に入れていなかったため、午前中に会場で購入しようとしたら、入口におばあさんが「良い席があるよ」と呼び込み。いわるるダフ屋ですが、正規の券は買えないので、少し高めのようでしたが、午後の券を購入できました。
友達がモスクワ大学に留学していたので会話ができ助かりました。
また、これとは別に、現地の人にボリショイバレーの公演の券を前もってお願いして取ってもらいましたが、こちらはさすがに当日に券を購入するのは無理なようです。なかなか取ることができないといっていました。
とてもすてきなバレーを見学でき良い思い出ができました。
(こちらバレー公演は撮影禁止のようです。セキュリティチェックもうるさく、持ち物などは全て預けなければなりませんでした。)
日本三大サーカスの一つが終わりを告げたのだ。
昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
私も小さい時に木下サーカスを見に行った記憶があり、いくつか見た記憶があるのでキグレサーカスも見たかもしれない。
またボリショイサーカスなどが来た時にも見にいった記憶もある。
さて、皆さんは柿岡曲馬団というサーカス団を御存知でしょうか。
私は名前も聞いたことはなかったのですが、八郷町史に載っていたのを思い出したのです。
そこで、今日仕事帰りに図書館によって確認してきました。
柿岡の名前と八郷町史ですから、この地元で作られたサーカス団なのかと思いましたが、違っていました。
柿岡春二郎(本名:荒川治二郎?)が率いた曲芸団で、明治後期から昭和初期までの間で非常に大きなサーカス団だったようです。
春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来たといいます。
若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。
そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になったといわれます。
大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。
ネットで検索して、面白いものを見つけました。
古書の中にこの柿岡曲馬団の絵葉書(カード)が売り出されており、3枚で12,000円の値が付いていましたのでびっくりですね。
内容は「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」「団員数十人の集合写真」でした。面白いですね。
さて、そのほかどのような出し物があったのでしょうか。
「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などの名前が載っています。
大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップに柿岡曲馬の名前があります。
さて、八郷の柿岡市の名前が出てきませんでしたが、はっきりしたことが分からないのですが。柿岡春二郎は大正三年に分家して柿岡に戸籍が移ります。
屋敷も持つのですが住んでいたところは宇都宮のようです。
ただ、吉生から養女をもらっており、戦後になってこの柿岡に移ってきたようです。
またそのころは、一座はほぼ活動は終わっていたようです。
昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石ですぐわかるようです。

善慶寺は柿岡小学校(柿岡城跡)の麓にあります。写真は桜並木と善慶寺です。
参考までにロシア(モスクワ)に行ったときに見たボリショウサーカスの写真も紹介しましょう。

上の写真はショーのラストに近い演技です。さすが本場ですね。観客はほぼ満員でした。

ボリショイサーカスの入場券を手に入れていなかったため、午前中に会場で購入しようとしたら、入口におばあさんが「良い席があるよ」と呼び込み。いわるるダフ屋ですが、正規の券は買えないので、少し高めのようでしたが、午後の券を購入できました。
友達がモスクワ大学に留学していたので会話ができ助かりました。
また、これとは別に、現地の人にボリショイバレーの公演の券を前もってお願いして取ってもらいましたが、こちらはさすがに当日に券を購入するのは無理なようです。なかなか取ることができないといっていました。
とてもすてきなバレーを見学でき良い思い出ができました。
(こちらバレー公演は撮影禁止のようです。セキュリティチェックもうるさく、持ち物などは全て預けなければなりませんでした。)
座禅体験
昨日はクッキリ見えていた筑波山は今朝は少し霞んでいました。
気温が少し高いのでしょうか? 明日はもう少し高い予想です。
今日は石岡で座禅体験ができることを紹介しておきましょう。
場所は根小屋にある「泰寧寺(たいねいじ)」です。
根小屋は常陸風土記の丘の先から畜産センターを通ってフラワーパークの方に向かった道の曲がり角にあります。「山形大弐(だいに)の墓」の看板が目を引きます。
ここで、人数がまとまれば座禅体験と写経の体験ができます。
今は「やさと里山クラブ」や朝日里山学校で5人以上から申し込めるそうです。
一度試してみられるのは如何でしょうか?

前のブログで「片野城城主である太田三楽資正」について書いたことがありました。
この片野地区と根小屋は隣りあっており、柿岡城と共に思い出してほしい場所です。
また、泰寧寺の脇から上の方に登って行ったところに「楓」という蕎麦屋さんがあります。
新しいお店できれいで美味しいというので一度行きました。
十割そばがとても美味しかったです。
一度お試しください。
道はくねくねして、畑の中に建っているような店ですが旗が立っていますのですぐわかります。
気温が少し高いのでしょうか? 明日はもう少し高い予想です。
今日は石岡で座禅体験ができることを紹介しておきましょう。
場所は根小屋にある「泰寧寺(たいねいじ)」です。
根小屋は常陸風土記の丘の先から畜産センターを通ってフラワーパークの方に向かった道の曲がり角にあります。「山形大弐(だいに)の墓」の看板が目を引きます。
ここで、人数がまとまれば座禅体験と写経の体験ができます。
今は「やさと里山クラブ」や朝日里山学校で5人以上から申し込めるそうです。
一度試してみられるのは如何でしょうか?

前のブログで「片野城城主である太田三楽資正」について書いたことがありました。
この片野地区と根小屋は隣りあっており、柿岡城と共に思い出してほしい場所です。
また、泰寧寺の脇から上の方に登って行ったところに「楓」という蕎麦屋さんがあります。
新しいお店できれいで美味しいというので一度行きました。
十割そばがとても美味しかったです。
一度お試しください。
道はくねくねして、畑の中に建っているような店ですが旗が立っていますのですぐわかります。
富士山
さて、今日は富士山についてであるが、日本一のあの富士山ではない。
石岡の八郷地区にある標高152mと日本一の山などと比べるまでもない小さな山である。
私は、あちらこちらを探索して歩くため、結構地図を良く見る機会が多いが、この富士山(ふじやま)はどの地図にも載っていて気になっていた。
しかし、特に特徴もなく何で富士山と名付けたのどろうか程度に地図をながめていたのである。
昨日ブログに観光案内の看板を紹介したが、実は筑波山を眺められる絶景ポイントは無いかを探していたのである。そこで眼にとまったのがこの富士山なのです。
場所は片野地区とフラワーパークの間にあるこんもりとした小山がそうです。
このあたり一帯は平野となっており、その平野の真中に小山があるといった格好です。
そして有名な地磁気研究所や東大の研究施設などがこの山の北側にひっそりと隠れるようにあります。
頂上もはっきりしないが2つあるようで、フラワーパークよりの頂上には「浅間神社」という神社があり、下から30分くらいで登れるという。

この山の位置は絶景のビューポイントになる位置なのですが、登山道はあまり整備されてなく、また山頂の見晴らしは木々が多くまったく期待できません。

でも、この山の頂上の木々を少し切って、休憩ベンチでも置いたら左手に筑波山、右手に加波山そして北側には吾国山連山、後ろは片野城のあった山や「すりばち山」「鬼越峠」「龍神山」などがすべて見てとれる位置にあります。
片野地区の観光(片野排禍囃子、泰寧寺の座禅、戦国武将太田三楽資正の墓など)も組み合わせればもっと歴史にもふれることができるのですが・・・。

上の写真は2つの写真を合成したものです。見事な位置に山がありますね。
さて、この富士山ですが、調べてみるとこの山は昔「鼓ヵ峰(つつかみね)」と呼ばれ、古くから愛された場所であったという。地面を踏むと響く鼓のような場所があるといいます。
この山の麓を流れる川は川又川といい恋瀬川に流れていきます。
川又の地名についても昔は鎌田といいヤマトタケルの時にこの地を愛した・・・・
などと言い伝えが残されているようです。
今、忘れ去られている物語を紐解いてみても面白そうですね。
石岡の八郷地区にある標高152mと日本一の山などと比べるまでもない小さな山である。
私は、あちらこちらを探索して歩くため、結構地図を良く見る機会が多いが、この富士山(ふじやま)はどの地図にも載っていて気になっていた。
しかし、特に特徴もなく何で富士山と名付けたのどろうか程度に地図をながめていたのである。
昨日ブログに観光案内の看板を紹介したが、実は筑波山を眺められる絶景ポイントは無いかを探していたのである。そこで眼にとまったのがこの富士山なのです。
場所は片野地区とフラワーパークの間にあるこんもりとした小山がそうです。
このあたり一帯は平野となっており、その平野の真中に小山があるといった格好です。
そして有名な地磁気研究所や東大の研究施設などがこの山の北側にひっそりと隠れるようにあります。
頂上もはっきりしないが2つあるようで、フラワーパークよりの頂上には「浅間神社」という神社があり、下から30分くらいで登れるという。

この山の位置は絶景のビューポイントになる位置なのですが、登山道はあまり整備されてなく、また山頂の見晴らしは木々が多くまったく期待できません。

でも、この山の頂上の木々を少し切って、休憩ベンチでも置いたら左手に筑波山、右手に加波山そして北側には吾国山連山、後ろは片野城のあった山や「すりばち山」「鬼越峠」「龍神山」などがすべて見てとれる位置にあります。
片野地区の観光(片野排禍囃子、泰寧寺の座禅、戦国武将太田三楽資正の墓など)も組み合わせればもっと歴史にもふれることができるのですが・・・。

上の写真は2つの写真を合成したものです。見事な位置に山がありますね。
さて、この富士山ですが、調べてみるとこの山は昔「鼓ヵ峰(つつかみね)」と呼ばれ、古くから愛された場所であったという。地面を踏むと響く鼓のような場所があるといいます。
この山の麓を流れる川は川又川といい恋瀬川に流れていきます。
川又の地名についても昔は鎌田といいヤマトタケルの時にこの地を愛した・・・・
などと言い伝えが残されているようです。
今、忘れ去られている物語を紐解いてみても面白そうですね。
関東の清水寺
私が石岡に越してくる前ですが、真壁から石岡に来るまで上曽峠を超えてきたことがあります。
その途中に「関東の清水寺」の看板があり、寄ってみることにしたのです。
正式には峰寺山西光院という寺で山の中腹に建てられたとても眺めの良い場所にあります。
清水寺の名前は寺の本堂が京都の清水寺と同じような懸造りで建てられていることからだ。
これは県の文化財(建造物)に指定されており、廻廊からの眺めがすばらしい。

この寺の名前の西光院(さいこういん)は平安時代の初期に徳一法師がこの地で西から光が差すのを見て、西方極楽浄土を祈願して、ここに寺を建てたことに由来するようです。

ここの景色は茨城百景にも選ばれ、昔から風光明媚で知られるようですが、昔はここまでの山道が寂しく、車がすれ違うのが厳しいようでもあり、天気の悪い日や、夕方は嫌われるようです。
しかし、八郷の一帯が手に取るように見ることができるのでこれからは人も訪れるようになると思います。

「関東の清水寺」をアピールしていってほしいですね。フルーツラインなどの標識はかなり整備されているようです。
道路を一方通行などにして通行の心配がないようにしてほしいですね。
この地の地名は吉生(よしう)村といわれ、いろいろな名前のいわれもあるようだ。
また、昔から牛馬などの信仰の寺として、正月の市が開かれ、近隣からこの山を牛馬などで登ってきたといいます。
しかし、農機具に牛・馬が使われなくなりそれに伴って大分静寂になったといいます。
この寺の入口に東筑波ユートピアという動物園があります。
私は入ったことがないのですが、良く商売として続けていけると感心はしています。
寺の入口の山桜、竹林などは趣があります。


その途中に「関東の清水寺」の看板があり、寄ってみることにしたのです。
正式には峰寺山西光院という寺で山の中腹に建てられたとても眺めの良い場所にあります。
清水寺の名前は寺の本堂が京都の清水寺と同じような懸造りで建てられていることからだ。
これは県の文化財(建造物)に指定されており、廻廊からの眺めがすばらしい。

この寺の名前の西光院(さいこういん)は平安時代の初期に徳一法師がこの地で西から光が差すのを見て、西方極楽浄土を祈願して、ここに寺を建てたことに由来するようです。

ここの景色は茨城百景にも選ばれ、昔から風光明媚で知られるようですが、昔はここまでの山道が寂しく、車がすれ違うのが厳しいようでもあり、天気の悪い日や、夕方は嫌われるようです。
しかし、八郷の一帯が手に取るように見ることができるのでこれからは人も訪れるようになると思います。

「関東の清水寺」をアピールしていってほしいですね。フルーツラインなどの標識はかなり整備されているようです。
道路を一方通行などにして通行の心配がないようにしてほしいですね。
この地の地名は吉生(よしう)村といわれ、いろいろな名前のいわれもあるようだ。
また、昔から牛馬などの信仰の寺として、正月の市が開かれ、近隣からこの山を牛馬などで登ってきたといいます。
しかし、農機具に牛・馬が使われなくなりそれに伴って大分静寂になったといいます。
この寺の入口に東筑波ユートピアという動物園があります。
私は入ったことがないのですが、良く商売として続けていけると感心はしています。
寺の入口の山桜、竹林などは趣があります。


小町伝説
今年も残り少なくなり時の経つのが年々早くなるような気がするのは年をとった証拠なのかもしれない。
しかし、毎日ブログを書いていると時間の無さが辛いと感じることも多い。
昼間は時間いっぱいまだ仕事もしており、町おこしなどといっても独りよがりだということもわかっている。
そのうちに、このようなブログなどあってもなくても雨後の竹の子のように情報があふれるようになってくれればこの役目を終えることができるのだが・・・。
この調子では数年まだダメかもしれないが、何か少しづつ変わってきそうな気もしている。
石岡という昔の国府が埋もれていくのだけは避けたいものである。
今晩も上を見上げれば真ん丸の月が照らしている。気温もあまり寒くはない。
明日は月食だというが・・・。
さて、今日は「小町伝説」について少し知っていることを書いてみたい。
もう知っている人にとってはつまらない内容だが、情報もまだ少ないので書く価値はありそうだ。
フラワーセンター方面からフルーツラインを土浦方面に進み、辻のイチゴ団地の交差点を右に曲がります。
少し行くと「薬師古道入口」の看板がありますが、そのまま直進すると田圃の左手に「北向観音堂」があります。
ここは地元の方(ふるさとの史跡まもり隊)によって整備され、きれいになりました。
ここに小町伝説が伝わっているのです。

花を植えて「小町花街道」と名付けてPR。私は山里の雰囲気がとても好きです。

この「北向観音堂」は手前にきれいな川が流れ、古びた石段がとても景色にマッチしています。
以前NHKの「武蔵」の撮影にも使われ、お通がこの階段を駆け登ったとか・・・。

ここのお堂の先の山を越えた向こう側が、かすみがうら市の「小町の里」があり、ここの小野家に昔、小野小町が滞在し、病になって、当時病にご利益があるという、この北向観音堂にお参りし病が治ったと伝えられています。
しかし、別な病で亡くなってしまい、小町の里の小野家に小町の墓があるのです。
また、この小町が山を越えてきた道がこの北向観音堂の裏山に残っており、少し登ったところに「小町の腰掛石」があります。
小野小町は全国数え切らないくらい伝説が残され、その墓も数え切れないくらいありそうです。
しかし、その伝説をさぐってみるのもよし、またこの山里ののどかな景色を楽しむのもよしですね。
また、この北向観音についての歴史にも目を向けてほしいですね。
この堂は、聖武天皇(奈良時代)の時代に行基菩薩によって創建されたと伝えられています。
またこの辺りの地名も小野越、仏生寺などといわれており、こんなことも紐解いても面白そうです。
ただ、この場所には駐車場がないのは残念です。
山向こうの小町の里は大型駐車場や、そば打ち施設、水車、小町のビデオ放映(市原悦子のナレーション)などがありますので、もう少し考えてもよさそうです。
もっとも、今の雰囲気を壊さないようにしてほしいですね。この山里の雰囲気はとても貴重ですよ。

北向観音といえば、石岡の町中にもありますね。「富田北向観音」です。
大掾氏の墓所のある「平福寺」の隣りで、市民に愛されている観音様です。子供の健康を祈願するところとして知られているようです。
観音様が北を向くと、お参りする人が南向きになります。
南はインド(天竺)の方向をさしており、現世御利益を願うものとされますので、今の生活を良くすることなどを願ってみては如何ですか?
しかし、毎日ブログを書いていると時間の無さが辛いと感じることも多い。
昼間は時間いっぱいまだ仕事もしており、町おこしなどといっても独りよがりだということもわかっている。
そのうちに、このようなブログなどあってもなくても雨後の竹の子のように情報があふれるようになってくれればこの役目を終えることができるのだが・・・。
この調子では数年まだダメかもしれないが、何か少しづつ変わってきそうな気もしている。
石岡という昔の国府が埋もれていくのだけは避けたいものである。
今晩も上を見上げれば真ん丸の月が照らしている。気温もあまり寒くはない。
明日は月食だというが・・・。
さて、今日は「小町伝説」について少し知っていることを書いてみたい。
もう知っている人にとってはつまらない内容だが、情報もまだ少ないので書く価値はありそうだ。
フラワーセンター方面からフルーツラインを土浦方面に進み、辻のイチゴ団地の交差点を右に曲がります。
少し行くと「薬師古道入口」の看板がありますが、そのまま直進すると田圃の左手に「北向観音堂」があります。
ここは地元の方(ふるさとの史跡まもり隊)によって整備され、きれいになりました。
ここに小町伝説が伝わっているのです。

花を植えて「小町花街道」と名付けてPR。私は山里の雰囲気がとても好きです。

この「北向観音堂」は手前にきれいな川が流れ、古びた石段がとても景色にマッチしています。
以前NHKの「武蔵」の撮影にも使われ、お通がこの階段を駆け登ったとか・・・。

ここのお堂の先の山を越えた向こう側が、かすみがうら市の「小町の里」があり、ここの小野家に昔、小野小町が滞在し、病になって、当時病にご利益があるという、この北向観音堂にお参りし病が治ったと伝えられています。
しかし、別な病で亡くなってしまい、小町の里の小野家に小町の墓があるのです。
また、この小町が山を越えてきた道がこの北向観音堂の裏山に残っており、少し登ったところに「小町の腰掛石」があります。
小野小町は全国数え切らないくらい伝説が残され、その墓も数え切れないくらいありそうです。
しかし、その伝説をさぐってみるのもよし、またこの山里ののどかな景色を楽しむのもよしですね。
また、この北向観音についての歴史にも目を向けてほしいですね。
この堂は、聖武天皇(奈良時代)の時代に行基菩薩によって創建されたと伝えられています。
またこの辺りの地名も小野越、仏生寺などといわれており、こんなことも紐解いても面白そうです。
ただ、この場所には駐車場がないのは残念です。
山向こうの小町の里は大型駐車場や、そば打ち施設、水車、小町のビデオ放映(市原悦子のナレーション)などがありますので、もう少し考えてもよさそうです。
もっとも、今の雰囲気を壊さないようにしてほしいですね。この山里の雰囲気はとても貴重ですよ。

北向観音といえば、石岡の町中にもありますね。「富田北向観音」です。
大掾氏の墓所のある「平福寺」の隣りで、市民に愛されている観音様です。子供の健康を祈願するところとして知られているようです。
観音様が北を向くと、お参りする人が南向きになります。
南はインド(天竺)の方向をさしており、現世御利益を願うものとされますので、今の生活を良くすることなどを願ってみては如何ですか?
姨捨山
今日は昨日に比べれば朝は少し寒かったが、昼間は思ったよりも暖かくなった。
花粉を気にしながら山道を散策したりすることもあり、これからは少し出かけるのが躊躇われる。
1週間ほど前に、筑波山の隣りの足尾山について書いてきたのだけれど、調べだすと最初に思っていたよりも気になることが多い。
一つづつ紐解いていきたいのだが毎日書くブログでは時間が限られて表面を少しなでることくらいしかできない。それでもわかったことだけでも書いて行こうと思う。読まれる方には物足りないこともあろうが、気楽にお付き合いください。
さて、この山を小初瀬山・小泊瀬山などと呼んできた。
石岡の恋瀬川も昔、小初瀬川・小泊瀬川などと呼んでいた時期があるという。もちろん鯉川、表側、信筑川などとも呼ばれ昔から親しまれてきた川だ。
小初瀬山はふりがなをふるとオハッセまたはオバッセとなる。
問題はこのオバッセが「姥捨て」となったのではないかと気になるのである。
長野県千曲市の近くに「姨捨山(おばすてやま、うばすてやま)」という山がある。
姥ヶ峰、爺ヶ峰伝説が、筑波山の東側、石岡市の旧八郷町小幡の十三塚に残されており、八郷町誌などでも紹介されている。その内容は
「昔、この場所を通った婆さんと爺さんが追い剥ぎにあい、必死に逃げたが殺されてしまった。そこで村人が石仏を作り、春と秋の彼岸に供養法要を営んだ。そしてこの石仏を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えが残っている。このため抱き石とも呼ばれる」
というものだ。
場所はケーブルカーの乗り場「つつじヶ丘」の下「風返峠」から尾根のパープルラインを少し東に行った場所でそこに媼ヶ峰(ばあがみね)駐車場とその奥の高台に赤い鳥居があり子授け地蔵が祀ってある。
そこの「抱き石」を抱くと子供が授かるといわれています。
姥ヶ峰は古来から筑波山の名所のひとつとして「筑波山恋明書」に”姥かみね”と記載されているといいます。昔から信仰の領域であったと思われます。
この名前からやはり「姥捨ての山」とも呼ばれていたのかもしれません。
調べればきっと何か出てきそうに思います。この話と山の名前との関係はたぶん名前が先で話は後からできたのではないかと思っています。
花粉を気にしながら山道を散策したりすることもあり、これからは少し出かけるのが躊躇われる。
1週間ほど前に、筑波山の隣りの足尾山について書いてきたのだけれど、調べだすと最初に思っていたよりも気になることが多い。
一つづつ紐解いていきたいのだが毎日書くブログでは時間が限られて表面を少しなでることくらいしかできない。それでもわかったことだけでも書いて行こうと思う。読まれる方には物足りないこともあろうが、気楽にお付き合いください。
さて、この山を小初瀬山・小泊瀬山などと呼んできた。
石岡の恋瀬川も昔、小初瀬川・小泊瀬川などと呼んでいた時期があるという。もちろん鯉川、表側、信筑川などとも呼ばれ昔から親しまれてきた川だ。
小初瀬山はふりがなをふるとオハッセまたはオバッセとなる。
問題はこのオバッセが「姥捨て」となったのではないかと気になるのである。
長野県千曲市の近くに「姨捨山(おばすてやま、うばすてやま)」という山がある。
姥ヶ峰、爺ヶ峰伝説が、筑波山の東側、石岡市の旧八郷町小幡の十三塚に残されており、八郷町誌などでも紹介されている。その内容は
「昔、この場所を通った婆さんと爺さんが追い剥ぎにあい、必死に逃げたが殺されてしまった。そこで村人が石仏を作り、春と秋の彼岸に供養法要を営んだ。そしてこの石仏を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えが残っている。このため抱き石とも呼ばれる」
というものだ。
場所はケーブルカーの乗り場「つつじヶ丘」の下「風返峠」から尾根のパープルラインを少し東に行った場所でそこに媼ヶ峰(ばあがみね)駐車場とその奥の高台に赤い鳥居があり子授け地蔵が祀ってある。
そこの「抱き石」を抱くと子供が授かるといわれています。
姥ヶ峰は古来から筑波山の名所のひとつとして「筑波山恋明書」に”姥かみね”と記載されているといいます。昔から信仰の領域であったと思われます。
この名前からやはり「姥捨ての山」とも呼ばれていたのかもしれません。
調べればきっと何か出てきそうに思います。この話と山の名前との関係はたぶん名前が先で話は後からできたのではないかと思っています。
佐久良東雄の生家
先日、雨が上がった後すぐに常陸風土記の丘を訪れた。
そして、入口にある曲屋という江戸時代にできたといわれる古民家の藁葺屋根に日が当って一気に蒸気が立ち昇っていました。
これを見ていたら八郷地区の柿岡手前にある佐久良東雄の生家をまた訪ねてみたくなりました。
何故? 特に理由はありません。なんとなくです。
佐久良東雄(さくらあずまお)という人をご存知ですか?
私は石岡に来るまで知りませんでした。
もっとも、桜田門外の変や安政の大獄などの言葉は知っていても具体的な内容はあまり興味もなかったと思います。
詳しく知りたい方は調べてみてください。
墓は若い時に住職をしていた(先日紹介した)土浦市真鍋にある善応寺にあります。
名前の佐久良は桜です。
東雄というのも如何にも「日本男子ここにあり」といった名前の付け方ですね。
本名は飯島吉兵衛というそうです。

この生家の門は立派な藁葺の屋根がついた門です。
今は門の隣りに説明看板と桜田門外の変の映画の旗が置かれていました。

旧八郷地区には、このような藁葺(茅葺)古民家がたくさん残っています。
一度訪ね歩くのもいいかもしれません。今でもほとんどは生活で使われている民家です。

まわりはのんびりとした雰囲気が漂います。よくある田舎の風景です。
家の隣に見学者用の駐車場があります(石岡では珍しいです)。

そして、入口にある曲屋という江戸時代にできたといわれる古民家の藁葺屋根に日が当って一気に蒸気が立ち昇っていました。
これを見ていたら八郷地区の柿岡手前にある佐久良東雄の生家をまた訪ねてみたくなりました。
何故? 特に理由はありません。なんとなくです。
佐久良東雄(さくらあずまお)という人をご存知ですか?
私は石岡に来るまで知りませんでした。
もっとも、桜田門外の変や安政の大獄などの言葉は知っていても具体的な内容はあまり興味もなかったと思います。
詳しく知りたい方は調べてみてください。
墓は若い時に住職をしていた(先日紹介した)土浦市真鍋にある善応寺にあります。
名前の佐久良は桜です。
東雄というのも如何にも「日本男子ここにあり」といった名前の付け方ですね。
本名は飯島吉兵衛というそうです。

この生家の門は立派な藁葺の屋根がついた門です。
今は門の隣りに説明看板と桜田門外の変の映画の旗が置かれていました。

旧八郷地区には、このような藁葺(茅葺)古民家がたくさん残っています。
一度訪ね歩くのもいいかもしれません。今でもほとんどは生活で使われている民家です。

まわりはのんびりとした雰囲気が漂います。よくある田舎の風景です。
家の隣に見学者用の駐車場があります(石岡では珍しいです)。

有明の松
この松にまつわる話は、南北朝時代末期1387年といいますから、今から700年以上も前に起きた出来事です。
1380年南朝方の小山義政が難台山中に城郭を造り、足利軍と合戦して破れ、さらに、1387年、小田五郎藤綱と義政の子・若犬丸が、再度、難台山に陣を構え、北朝足利方の上杉朝宗と合戦し、8か月に及ぶ籠城、攻防の末、食糧供給の道を遮断され、食料が尽き落城してしまいました。
藤綱は城を焼いて自害し、若犬丸は逃亡、小田五郎は郎党百名あまりとともに討ち死にしたと伝えられています。
この時に、難台城の婦女子が夜を徹して難台山を逆に登り裏山を下って、この松の下に集まり、夜を明かしました。その時に見た夜明けの空が大変すばらしかったので将来を明るく見ようと「有明の松」と名付けられたと伝えられています。

この松は今はご覧通り、天に登る松の木は影も形もありません。裏に難台山が聳えています。

昨年6月に撮影した時の「有明の松」
この松も前の松から採取した種子を発芽させた2世であるが、それがまた無くなってしまったのです。

この地方はタバコの産地です。たくさんのタバコが栽培されています。
しかし、ご時世でタバコは縮小気味。最近はブルーベリー農園が結構あります。

これはすぐ近くに建っていた「坂東・西国・秩父 百番札所(観音)」の奉納記念碑です。
この松もこのように信仰の対象になっていた時もあったのでしょう。
当時、山中では道もないようなところを下ってきたのでしょう。
どんな思いをしてこの松に希望を見出したのかを想像してみてください。
写真の右側が東で日が上る方向です。
北には落城寸前の山城がありました。
在りし日の有明の松
1380年南朝方の小山義政が難台山中に城郭を造り、足利軍と合戦して破れ、さらに、1387年、小田五郎藤綱と義政の子・若犬丸が、再度、難台山に陣を構え、北朝足利方の上杉朝宗と合戦し、8か月に及ぶ籠城、攻防の末、食糧供給の道を遮断され、食料が尽き落城してしまいました。
藤綱は城を焼いて自害し、若犬丸は逃亡、小田五郎は郎党百名あまりとともに討ち死にしたと伝えられています。
この時に、難台城の婦女子が夜を徹して難台山を逆に登り裏山を下って、この松の下に集まり、夜を明かしました。その時に見た夜明けの空が大変すばらしかったので将来を明るく見ようと「有明の松」と名付けられたと伝えられています。

この松は今はご覧通り、天に登る松の木は影も形もありません。裏に難台山が聳えています。

昨年6月に撮影した時の「有明の松」
この松も前の松から採取した種子を発芽させた2世であるが、それがまた無くなってしまったのです。

この地方はタバコの産地です。たくさんのタバコが栽培されています。
しかし、ご時世でタバコは縮小気味。最近はブルーベリー農園が結構あります。

これはすぐ近くに建っていた「坂東・西国・秩父 百番札所(観音)」の奉納記念碑です。
この松もこのように信仰の対象になっていた時もあったのでしょう。
当時、山中では道もないようなところを下ってきたのでしょう。
どんな思いをしてこの松に希望を見出したのかを想像してみてください。
写真の右側が東で日が上る方向です。
北には落城寸前の山城がありました。

北向観音(仏生寺)
今年の中秋の名月(十五夜)は9月12日で6年ぶりに満月と重なるのだとか。
この十五夜(旧暦8月15日)は何時も満月と思っていたのだが違うようだ。
先ほど6時頃東の空はまだうす明るかったが、月はもう大分上にのぼっていた。天気が良ければいいな。
ススキにお団子。どうもこの年になっても食い気の方が先のようだ。
さて、今日は、このブログでも何回も紹介しているとおもうが先日八郷地区の北向観音堂に行ってきた。
市内にも富田に北向観音堂はあるが、ここは旧八郷地区の仏生寺というところにある。
ここの地名が仏が生まれた寺という「仏生寺」または小野小町が山越えしてきたところで「小野越」という。
しかし、寺は無く、実際にあるのはこの北向観音堂だけである。
小野小町が病を直したところといわれる伝説が伝わる。
しかし、この古びた苔むした石段がたまらなくいい。
NHKテレビ「武蔵」の撮影ではお通がこの階段を駆け上がった。想像するだけで絵になる。

前回訪れた時に比べ、草が大分茂ってしまっていたが、階段の両側は紫陽花が植わっていた。
「しまった」この時期に来ればよかったと後悔したが、今はまわりには黄金色の稲穂がきれいであった。

階段昇り口には左に古びた仏像と十九夜尊塔、右側には二十三夜尊塔が置かれている。
十九夜は女性だけの講。二十三夜は主に男性の集まりの講であったと思う。
こんな佇まいが、地図にもあまり載っていない場所にあるのは不思議である。

お堂は前に紹介していると思うので、今回は省略します。
この裏山に「小町腰掛石」というのがある。
山の反対側の「小町の里」というところの小野家には小町の墓もある。

この写真は9月8日に撮影したものだが、稲刈りも始まっていたので、一週間後は刈り取られているだろう。
すぐそばに駐車場がないので、行かれる方は道路か少し離れた空き地にでも車を止めるしかありません。
この十五夜(旧暦8月15日)は何時も満月と思っていたのだが違うようだ。
先ほど6時頃東の空はまだうす明るかったが、月はもう大分上にのぼっていた。天気が良ければいいな。
ススキにお団子。どうもこの年になっても食い気の方が先のようだ。
さて、今日は、このブログでも何回も紹介しているとおもうが先日八郷地区の北向観音堂に行ってきた。
市内にも富田に北向観音堂はあるが、ここは旧八郷地区の仏生寺というところにある。
ここの地名が仏が生まれた寺という「仏生寺」または小野小町が山越えしてきたところで「小野越」という。
しかし、寺は無く、実際にあるのはこの北向観音堂だけである。
小野小町が病を直したところといわれる伝説が伝わる。
しかし、この古びた苔むした石段がたまらなくいい。
NHKテレビ「武蔵」の撮影ではお通がこの階段を駆け上がった。想像するだけで絵になる。

前回訪れた時に比べ、草が大分茂ってしまっていたが、階段の両側は紫陽花が植わっていた。
「しまった」この時期に来ればよかったと後悔したが、今はまわりには黄金色の稲穂がきれいであった。

階段昇り口には左に古びた仏像と十九夜尊塔、右側には二十三夜尊塔が置かれている。
十九夜は女性だけの講。二十三夜は主に男性の集まりの講であったと思う。
こんな佇まいが、地図にもあまり載っていない場所にあるのは不思議である。

お堂は前に紹介していると思うので、今回は省略します。
この裏山に「小町腰掛石」というのがある。
山の反対側の「小町の里」というところの小野家には小町の墓もある。

この写真は9月8日に撮影したものだが、稲刈りも始まっていたので、一週間後は刈り取られているだろう。
すぐそばに駐車場がないので、行かれる方は道路か少し離れた空き地にでも車を止めるしかありません。
泰寧寺(石岡・根小屋)
昨日、城里町の「龍谷院」を紹介しましたが、その寺の末寺の中にこの石岡の禅寺・泰寧寺(たいねいじ)の名前がありましたので、行ってみました。
前に「座禅体験」として取り上げた寺です。
場所は風土記の丘から「鬼越峠(おにこしとうげ)」を越えて比較的近くです。
戦国時代にここ根小屋、片野地区は小田氏を破った佐竹派の名将太田三楽(資正)の城(片野城)のあった地区です。
また、江戸時代の勤皇学者 山県大弐の墓があることでも有名です。
山県大弐は、1725年に甲斐国に生まれ、27才の時、江戸に出て儒学と兵学を講じ門人も三千人にも及んだといいます。また吉田松陰らにも影響を与えた思想家でもありました。
しかし、書いた書物が幕府を批判したとして捕らえられて処刑されました。時に43才でした。(明和事件)
大弐の門人で、根小屋(八郷町)出身の園部文之進らがひそかに処刑された師の首をはこび、この泰寧寺境内に葬ったものだそうです。
処刑されたのは明治維新の100年も前でした。
山県大弐の墓は生まれ故郷である山梨県甲斐市(旧竜王町)の山県神社と東京都新宿区全勝寺にもあるそうです。大弐は江戸に出た時、四谷坂町に住んでおり、夫人の里方の菩提寺である全徳寺に埋葬されたが、廃寺となったため全勝寺に移されたと載っていました。

寺の入口に咲く彼岸花。お墓の花との印象も強いですが、このようにして見ると、お寺にとても合う花ですね。


お寺側から見ると、向こうに筑波山と八郷の里山(稲刈りの終わった田圃)の煙が・・・
どこか懐かしい風景です。この辺りから見る筑波山は2つの頂上が1つに重なっています。
煙の向こう側のこんもりとした低い山は「富士山」といいます。
いつからその名前がついたのか・・・
その昔(万葉の頃)は「鼓ヶ峰(つつみがみね)」と呼ばれていたそうです。
その頃の筑波山への登山道はこちら側からが主体でした。のどかな平野から十三塚を通り真っ直ぐに登るのです。そして白滝を通って今の神社の手前から女体山へ登っていました。
先日、恋瀬川で書いた「男女川(みなのがわ)」が今では桜川に注ぐと思い込んでいますが、恋瀬川でないと当時の風景とマッチしないように思います。

この寺は禅寺で、禅や写経の体験が受けられます。
この5本柱の月丸扇の紋は佐竹氏の紋です。石岡の街中では清涼寺にもありました。
この寺は佐竹氏の秋田移封後に片野城に入った滝川氏の菩提寺だったようです。
この滝川氏も四代で後継ぎがなく、城も廃城となってしまったといいます。

前回来た時はこの六地蔵はなかったと思います。
急にあちこちに置かれるようになりました。
六地蔵と寺の大きな屋根も絵になりますね。

名将、太田資正(三楽)についてはまた書きましょう。
前に「座禅体験」として取り上げた寺です。
場所は風土記の丘から「鬼越峠(おにこしとうげ)」を越えて比較的近くです。
戦国時代にここ根小屋、片野地区は小田氏を破った佐竹派の名将太田三楽(資正)の城(片野城)のあった地区です。
また、江戸時代の勤皇学者 山県大弐の墓があることでも有名です。
山県大弐は、1725年に甲斐国に生まれ、27才の時、江戸に出て儒学と兵学を講じ門人も三千人にも及んだといいます。また吉田松陰らにも影響を与えた思想家でもありました。
しかし、書いた書物が幕府を批判したとして捕らえられて処刑されました。時に43才でした。(明和事件)
大弐の門人で、根小屋(八郷町)出身の園部文之進らがひそかに処刑された師の首をはこび、この泰寧寺境内に葬ったものだそうです。
処刑されたのは明治維新の100年も前でした。
山県大弐の墓は生まれ故郷である山梨県甲斐市(旧竜王町)の山県神社と東京都新宿区全勝寺にもあるそうです。大弐は江戸に出た時、四谷坂町に住んでおり、夫人の里方の菩提寺である全徳寺に埋葬されたが、廃寺となったため全勝寺に移されたと載っていました。

寺の入口に咲く彼岸花。お墓の花との印象も強いですが、このようにして見ると、お寺にとても合う花ですね。


お寺側から見ると、向こうに筑波山と八郷の里山(稲刈りの終わった田圃)の煙が・・・
どこか懐かしい風景です。この辺りから見る筑波山は2つの頂上が1つに重なっています。
煙の向こう側のこんもりとした低い山は「富士山」といいます。
いつからその名前がついたのか・・・
その昔(万葉の頃)は「鼓ヶ峰(つつみがみね)」と呼ばれていたそうです。
その頃の筑波山への登山道はこちら側からが主体でした。のどかな平野から十三塚を通り真っ直ぐに登るのです。そして白滝を通って今の神社の手前から女体山へ登っていました。
先日、恋瀬川で書いた「男女川(みなのがわ)」が今では桜川に注ぐと思い込んでいますが、恋瀬川でないと当時の風景とマッチしないように思います。

この寺は禅寺で、禅や写経の体験が受けられます。
この5本柱の月丸扇の紋は佐竹氏の紋です。石岡の街中では清涼寺にもありました。
この寺は佐竹氏の秋田移封後に片野城に入った滝川氏の菩提寺だったようです。
この滝川氏も四代で後継ぎがなく、城も廃城となってしまったといいます。

前回来た時はこの六地蔵はなかったと思います。
急にあちこちに置かれるようになりました。
六地蔵と寺の大きな屋根も絵になりますね。

名将、太田資正(三楽)についてはまた書きましょう。
太田三楽(資正)の墓
昨年秋に「太田三楽という武将を知っていますか?」というタイトルでブログに書いたのですが、昨日書いた「泰寧寺(たいねいじ)」のある石岡市根小屋と隣接する片野地区の山上には、戦国時代には「片野城」という城がありました。
この城を治めていたのが太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主であった戦国武将「太田資正(すけまさ)」(後に入道となり、三楽斎を名乗る)でした。
この片野城はもとは「小田天庵」の城であったが、小田氏(親北条派)と佐竹氏の覇権争いがし烈になり、この片野城を奪った「佐竹義重」はこの城を太田資正に預けます。
そして、資正は小田氏との戦いに勝利するのです。
太田三楽資正は日本で初めて軍用犬を使ったことで知られ、「三楽犬」と呼ばれています。
この片野、根小屋地区に残された無形文化財「排禍ばやし」や「七代神社神楽」など独特の文化がその後残り、代々にわたって地域で継続されているのですから、地元に愛されていたのだと思います。
戦国武将として大きな城もとれなかった人物ですが、もう少し日の目を見る機会に恵まれればと思います。

片野城は山域全体に広がっていたようですが、今では一部に土塁跡がみられるくらいしか残っていません。
その山の一角にこの「浄瑠璃光寺」という墓所があります。
地元の人でも、ここにお墓がある家以外にはあまり知られていないようですが、今回「泰寧寺」を訪れたので、見に行ってみました。

一部、山の脇道などは震災の影響で通れないところもありますが、この場所には問題なく辿りつきました。
太田資正三楽の墓はこの墓所の一番隅にありますが、なにしろ場所の案内がないので知らない人が探すのは苦労するだろうと思います。

前回訪れた時はちゃんとした「五輪塔」であったが、今回の地震で上部2段が崩れて、3段だけになっていた。
五輪はそれぞれ意味を持つので、三段ではやはりまずい。
お手数だが、市としても、援助してでも、もとの姿への復旧を望みたい。
ランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします。
この城を治めていたのが太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主であった戦国武将「太田資正(すけまさ)」(後に入道となり、三楽斎を名乗る)でした。
この片野城はもとは「小田天庵」の城であったが、小田氏(親北条派)と佐竹氏の覇権争いがし烈になり、この片野城を奪った「佐竹義重」はこの城を太田資正に預けます。
そして、資正は小田氏との戦いに勝利するのです。
太田三楽資正は日本で初めて軍用犬を使ったことで知られ、「三楽犬」と呼ばれています。
この片野、根小屋地区に残された無形文化財「排禍ばやし」や「七代神社神楽」など独特の文化がその後残り、代々にわたって地域で継続されているのですから、地元に愛されていたのだと思います。
戦国武将として大きな城もとれなかった人物ですが、もう少し日の目を見る機会に恵まれればと思います。

片野城は山域全体に広がっていたようですが、今では一部に土塁跡がみられるくらいしか残っていません。
その山の一角にこの「浄瑠璃光寺」という墓所があります。
地元の人でも、ここにお墓がある家以外にはあまり知られていないようですが、今回「泰寧寺」を訪れたので、見に行ってみました。

一部、山の脇道などは震災の影響で通れないところもありますが、この場所には問題なく辿りつきました。
太田資正三楽の墓はこの墓所の一番隅にありますが、なにしろ場所の案内がないので知らない人が探すのは苦労するだろうと思います。

前回訪れた時はちゃんとした「五輪塔」であったが、今回の地震で上部2段が崩れて、3段だけになっていた。
五輪はそれぞれ意味を持つので、三段ではやはりまずい。
お手数だが、市としても、援助してでも、もとの姿への復旧を望みたい。

七代天神社(石岡市根小屋)
昨日書いた「大田三楽(資正)」の墓は、昔、片野城があった佐久山にあるのだが、この登り道の途中に「七代天神社」がある。
山へ少し登ったところで、あまり人も通らないところにあるので、お祭り以外では一般の人はあまり来ないのだろう。
この天神社の祭典は11月3日正午から行なわれる「根小屋のじゃかもこじゃん」といわれる十二座神楽が残されています。
これは、市の無形文化財に指定されています。七代天神社は、永禄年間(1558~1570)片野城主太田資正(三楽)が城の守護神と して、久慈郡佐竹郷(常陸太田市)天神林から神霊を迎え、その時十二神楽を奉納したと伝えられているそうです。
この神楽は、十二種の舞で構成されており、代々この地の長男に引き継がれることから「代々神楽」と呼ばれています。
先日お祭りの中日に総社で奉納される「染谷の十二座神楽」を紹介したが、同じようなものが石岡には三か所も残されていることになります。
残りは9月の中秋の名月に柿岡の八幡神社で奉納される「柿岡のじゃかもこじゃん」(太々神楽)です。
ともに400年以上の歴史があるようです。
また、どこの神楽も、12歳以下の地元の女の子が巫女さんになることも共通しています。
(染谷十二座神楽は前に書いたブログを参照してください。 → No.1、No.2)

根小屋の集落の真ん中くらいから、太田資正(三楽)の墓へ山道を登る途中にある。
こんな大きな鳥居だが、気をつけていないと見過ごしてしまいそうだ。
正面の拝殿まで参道が続いています。

この木は、樹齢400年以上といわれるケヤキ(欅)で、御神木の杉の木と共に「石岡市認定保存樹」に指定されています。

こちらが御神木の杉の木です。樹齢は神社の歴史から見て400歳以上と思われます。

拝殿側から見るとこんな感じです。

こちらが拝殿で、ここで11月3日に「代々神楽」(石岡市無形民俗文化財)が奉納されます。
この神社は天正年間(1573~1592年)に佐竹郷(常陸太田)から七代天神の心霊を迎祀されたといわれています。
この拝殿の裏側の通りの向こう側に「片野城跡」の碑が置かれています。

神社の鳥居付近から見た下の里と筑波山。
地図は昨日の記事に載っています。(こちら)
ランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします。
山へ少し登ったところで、あまり人も通らないところにあるので、お祭り以外では一般の人はあまり来ないのだろう。
この天神社の祭典は11月3日正午から行なわれる「根小屋のじゃかもこじゃん」といわれる十二座神楽が残されています。
これは、市の無形文化財に指定されています。七代天神社は、永禄年間(1558~1570)片野城主太田資正(三楽)が城の守護神と して、久慈郡佐竹郷(常陸太田市)天神林から神霊を迎え、その時十二神楽を奉納したと伝えられているそうです。
この神楽は、十二種の舞で構成されており、代々この地の長男に引き継がれることから「代々神楽」と呼ばれています。
先日お祭りの中日に総社で奉納される「染谷の十二座神楽」を紹介したが、同じようなものが石岡には三か所も残されていることになります。
残りは9月の中秋の名月に柿岡の八幡神社で奉納される「柿岡のじゃかもこじゃん」(太々神楽)です。
ともに400年以上の歴史があるようです。
また、どこの神楽も、12歳以下の地元の女の子が巫女さんになることも共通しています。
(染谷十二座神楽は前に書いたブログを参照してください。 → No.1、No.2)

根小屋の集落の真ん中くらいから、太田資正(三楽)の墓へ山道を登る途中にある。
こんな大きな鳥居だが、気をつけていないと見過ごしてしまいそうだ。
正面の拝殿まで参道が続いています。

この木は、樹齢400年以上といわれるケヤキ(欅)で、御神木の杉の木と共に「石岡市認定保存樹」に指定されています。

こちらが御神木の杉の木です。樹齢は神社の歴史から見て400歳以上と思われます。

拝殿側から見るとこんな感じです。

こちらが拝殿で、ここで11月3日に「代々神楽」(石岡市無形民俗文化財)が奉納されます。
この神社は天正年間(1573~1592年)に佐竹郷(常陸太田)から七代天神の心霊を迎祀されたといわれています。
この拝殿の裏側の通りの向こう側に「片野城跡」の碑が置かれています。

神社の鳥居付近から見た下の里と筑波山。
地図は昨日の記事に載っています。(こちら)

薬師古道-菖蒲沢の薬師様
以前に徳一法師が筑波山に中禅寺を建て、その周りに配した筑波四面薬師を紹介しましたが(こちら)、秋も深まりこの中の菖蒲沢の薬師堂を訪れてみました。
ここを訪れるのは4度目でしょうか。
山の中にあり、たったの15分くらいしか登らないのだけれど、結構急な山道を登ると息が切れてくる。
運動不足解消にはいいのかな。
車で、菖蒲沢の公民館で止めようと坂道を登り始めたら、道路工事中でだめ。
また下へ降りて、ふもとに止めた。
手前の人家の脇道を登って見ると、薬師古道の途中に出た。そのまま整備された古道を登ると天白稲荷神社がある。

お稲荷さんといえばキツネであるが、ここのキツネは全体が真っ赤だ。

赤い襟巻や前掛けが赤いくらいならまだ良いが全体が赤い。恐いくらいだ。

この稲荷神社を過ぎて少し行くと薬師堂が見えてくる。(下の写真)
この薬師堂を最初に見た時は、ハッとする美しさがあった。
地元では、この昔の列をなして参拝したという山道を整備し、大きな薬師像をみんなで台車に載せて山道をおろし、専門家に依頼して修繕しました。

このお堂の美しさに昔は心ときめいたのですが、今は宮大工の方々の手で修繕が施されたようです。
屋根の色が青くなっていたのには驚きましたが、これもまたしょうがないのかな。
前に、登り階段の入口に2基の灯篭が置かれて、理由を観光協会に問い合わせたことがあった。
お返事では、特に意味はないが、お堂には良くあるでしょ「春日灯篭」というものですよ。
というようなお返事をいただいた。
歴史的なものを追求しようとするこちらにも問題もあるのかもしれないな。
今はここを巡るツアーなども時々計画されているようだ。
私のHPには前に訪れた時のスライドショーも入れてありますので、こちらも見てください→こちら)

← よろしければクリックお願いします。
ここを訪れるのは4度目でしょうか。
山の中にあり、たったの15分くらいしか登らないのだけれど、結構急な山道を登ると息が切れてくる。
運動不足解消にはいいのかな。
車で、菖蒲沢の公民館で止めようと坂道を登り始めたら、道路工事中でだめ。
また下へ降りて、ふもとに止めた。
手前の人家の脇道を登って見ると、薬師古道の途中に出た。そのまま整備された古道を登ると天白稲荷神社がある。

お稲荷さんといえばキツネであるが、ここのキツネは全体が真っ赤だ。

赤い襟巻や前掛けが赤いくらいならまだ良いが全体が赤い。恐いくらいだ。

この稲荷神社を過ぎて少し行くと薬師堂が見えてくる。(下の写真)
この薬師堂を最初に見た時は、ハッとする美しさがあった。
地元では、この昔の列をなして参拝したという山道を整備し、大きな薬師像をみんなで台車に載せて山道をおろし、専門家に依頼して修繕しました。

このお堂の美しさに昔は心ときめいたのですが、今は宮大工の方々の手で修繕が施されたようです。
屋根の色が青くなっていたのには驚きましたが、これもまたしょうがないのかな。
前に、登り階段の入口に2基の灯篭が置かれて、理由を観光協会に問い合わせたことがあった。
お返事では、特に意味はないが、お堂には良くあるでしょ「春日灯篭」というものですよ。
というようなお返事をいただいた。
歴史的なものを追求しようとするこちらにも問題もあるのかもしれないな。
今はここを巡るツアーなども時々計画されているようだ。
私のHPには前に訪れた時のスライドショーも入れてありますので、こちらも見てください→こちら)



石岡市八郷地区
今日朝のNHK「小さな旅」で石岡市八郷を放映していました。
八郷地区の魅力をうまく表現していたと思います。
今日は神社ばかりではつまらないので、予定を変更して八郷地区の紹介をさせてください。
ここは筑波山~加波山~吾国山(あがくにさん)~難台山(なんだいさん)~鐘転山(かねころがしやま)の山並みにより西から北側を囲まれ、東側は霞ケ浦に続く平野部に続く温暖な気候の地域です。
八郷とは7つの村と1つの町が合併して「八郷町」となり平成の大合併で石岡市と合併した地区で八郷の地名は消えましたが、長らく愛された八郷の名前はあちこちで使われています。
東京からも70kmほどしか離れていないのに驚くほど自然豊かなホタルも舞う里山が広がっています。
今日のテレビでの紹介は次の3つでした。
1)親子3代にわたり八郷地区で農業をしている家庭。
昔はタバコ栽培をしていたが、野菜栽培に切り替え親子三代で一緒に暮らしている。
(タバコは、昔はこの地区の主要な産業でした。しかし最近野菜や果物栽培・ブルーベリー農園などに切り替えている所が多くなっています)
2)東京から脱サラでやってきた30代の親子。
2年間の農業指導を受けてこの地に自分の土地を耕し、野菜作りが始まった家族。
サラリーマン時代は子供と過ごす時間もほとんどなかったのが、収入は半分になったけれど、生き生きとして暮らしている姿であった。
奥さんの
「うちの子供たちはここにきてからこの人(ご主人)のことを父親だと知ったみたいです。それまでは時々顔を見かける人だった」
の言葉は強烈な印象を受けました。
私も昔はこんなだったな~なんて!
3)八郷地区の茅葺屋根を葺く職人さんに若い職人が加わり、必死に技を覚えている。
この地区に伝わる茅葺屋根は「筑波流」という独特の葺き方をしている。きれいな模様が特徴だ。
これは何度か紹介している。前に載せた写真だがここであらためて載せておきましょう。


この地区は日本の里山100選に選ばれており、都会からこの地に移り住む人も多い。
また果樹団地も多く、梨、りんご、柿、イチゴ、ブルーベリーなどのほか、有機栽培の野菜を始め、シャモ(軍鶏)も有名です。

(秋の柿(献上柿))
やはり良いところです。もっと紹介しなくてはいけないですね。
NHKのカメラは最後に素敵な映像を見せてくれました。山に登ってこの八郷地区を流れる恋瀬川の上に朝もやが帯状にたなびいていました。
素晴らしいですね。自分もこんな景色を写真に今度撮って見たい。

(板敷峠~吾国山の尾根より八郷地区を眺める。右手の山が筑波山~足尾山~加波山の連なる山並み)
今日は予定を変更して八郷地区の紹介をさせていただきました。
都会がいやになったら是非おいで下さい。
また雪国を離れたかったら来て見てくださいね。
八郷地区は結構広いんです。旧石岡地区より面積は大分大きいです。(下の地図を参照)

← よろしければクリックお願いします。
八郷地区の魅力をうまく表現していたと思います。
今日は神社ばかりではつまらないので、予定を変更して八郷地区の紹介をさせてください。
ここは筑波山~加波山~吾国山(あがくにさん)~難台山(なんだいさん)~鐘転山(かねころがしやま)の山並みにより西から北側を囲まれ、東側は霞ケ浦に続く平野部に続く温暖な気候の地域です。
八郷とは7つの村と1つの町が合併して「八郷町」となり平成の大合併で石岡市と合併した地区で八郷の地名は消えましたが、長らく愛された八郷の名前はあちこちで使われています。
東京からも70kmほどしか離れていないのに驚くほど自然豊かなホタルも舞う里山が広がっています。
今日のテレビでの紹介は次の3つでした。
1)親子3代にわたり八郷地区で農業をしている家庭。
昔はタバコ栽培をしていたが、野菜栽培に切り替え親子三代で一緒に暮らしている。
(タバコは、昔はこの地区の主要な産業でした。しかし最近野菜や果物栽培・ブルーベリー農園などに切り替えている所が多くなっています)
2)東京から脱サラでやってきた30代の親子。
2年間の農業指導を受けてこの地に自分の土地を耕し、野菜作りが始まった家族。
サラリーマン時代は子供と過ごす時間もほとんどなかったのが、収入は半分になったけれど、生き生きとして暮らしている姿であった。
奥さんの
「うちの子供たちはここにきてからこの人(ご主人)のことを父親だと知ったみたいです。それまでは時々顔を見かける人だった」
の言葉は強烈な印象を受けました。
私も昔はこんなだったな~なんて!
3)八郷地区の茅葺屋根を葺く職人さんに若い職人が加わり、必死に技を覚えている。
この地区に伝わる茅葺屋根は「筑波流」という独特の葺き方をしている。きれいな模様が特徴だ。
これは何度か紹介している。前に載せた写真だがここであらためて載せておきましょう。


この地区は日本の里山100選に選ばれており、都会からこの地に移り住む人も多い。
また果樹団地も多く、梨、りんご、柿、イチゴ、ブルーベリーなどのほか、有機栽培の野菜を始め、シャモ(軍鶏)も有名です。

(秋の柿(献上柿))
やはり良いところです。もっと紹介しなくてはいけないですね。
NHKのカメラは最後に素敵な映像を見せてくれました。山に登ってこの八郷地区を流れる恋瀬川の上に朝もやが帯状にたなびいていました。
素晴らしいですね。自分もこんな景色を写真に今度撮って見たい。

(板敷峠~吾国山の尾根より八郷地区を眺める。右手の山が筑波山~足尾山~加波山の連なる山並み)
今日は予定を変更して八郷地区の紹介をさせていただきました。
都会がいやになったら是非おいで下さい。
また雪国を離れたかったら来て見てくださいね。
八郷地区は結構広いんです。旧石岡地区より面積は大分大きいです。(下の地図を参照)



里山の春(1)-北向観音
にほんの里100選に選ばれている石岡市八郷地区。
ここには東京から70kmくらいしか離れていないのに静かな里山が広がります。
毎年桜の時期になるとここの里山の桜が見たくなります。
石岡の桜は常陸風土記の丘などは見物客等も多くなっているが、年取ったせいかどうも落ち着かない。
最近は花見の宴会などとは縁遠くもなっていて、山里に咲いている桜や山でひっそりと咲く山桜などの方が日本的な気がして好きである。
そして毎年、桜が咲いたというとこの八郷の筑波山の麓にある小町伝説の残る「北向観音」周辺の里山の桜を見たくなる。

あヽ。今年も会えたね。ありがとう。そんな気がする。

里山の桜は満開となり、少し風に舞ってひらひらと散り始めていた。
空にはトンビがゆっくりと旋回していた。
ピーヒョロロとないています。

ここは筑波山の不動峠への登り口。地名は仏生寺。正確には小野越。
田園が広がり直ぐに山道へと続く。
筑波山、寺の参拝の道でもあった。
いまは急坂で道が狭いのでこの道を通る車は少ない。

手前に綺麗な川が流れ、椿と桜の咲くこの頃の里山風景は美しい。
また、これから水田が青々してくる時期も捨てがたい。
7月にはホタルもいる里山を大切にしていきたいですね。



← よろしければクリックお願いします。
ここには東京から70kmくらいしか離れていないのに静かな里山が広がります。
毎年桜の時期になるとここの里山の桜が見たくなります。
石岡の桜は常陸風土記の丘などは見物客等も多くなっているが、年取ったせいかどうも落ち着かない。
最近は花見の宴会などとは縁遠くもなっていて、山里に咲いている桜や山でひっそりと咲く山桜などの方が日本的な気がして好きである。
そして毎年、桜が咲いたというとこの八郷の筑波山の麓にある小町伝説の残る「北向観音」周辺の里山の桜を見たくなる。

あヽ。今年も会えたね。ありがとう。そんな気がする。

里山の桜は満開となり、少し風に舞ってひらひらと散り始めていた。
空にはトンビがゆっくりと旋回していた。
ピーヒョロロとないています。

ここは筑波山の不動峠への登り口。地名は仏生寺。正確には小野越。
田園が広がり直ぐに山道へと続く。
筑波山、寺の参拝の道でもあった。
いまは急坂で道が狭いのでこの道を通る車は少ない。

手前に綺麗な川が流れ、椿と桜の咲くこの頃の里山風景は美しい。
また、これから水田が青々してくる時期も捨てがたい。
7月にはホタルもいる里山を大切にしていきたいですね。





里山の春(2)-北向観音2
北向観音はこの小野越の里の山を越えた南側にある小町の里とセットで語られるべきかもしれない。
行政区分が違うとこの山の峠で線が引かれてしまう。
この峠を越えて小野小町がこの北向観音に病の治療の祈願にやってきたという伝説が残されている。

ここは駐車場がないのと、通りは少し狭くて車をおいておけないのが残念だが、このブログでも何回も取り上げてきた。
歴史や伝説等については前の記事を参考にして欲しい。
(小町伝説(2010.12.20)、北向観音(仏生寺)(2011.9.10))

お堂に行くのに脇の道が出来ていた。
今回はこちら側から行ったがお堂の美しさはまた別な魅力が加わった感じだ。

やはりこの崩れかけてような石段に赤いお堂。そして階段入口の古ぼけた石仏に大きな椿の花。
まな絵になっている。

NHKテレビ「武蔵」では、このお堂の石段をお通が駆け登ったという。

麓はまだ田んぼの稲も植わっていないがこれから緑の絨毯が広がる。
綺麗な川も流れていていつまでも変わらぬ姿でいてほしいと思っている。
← よろしければクリックお願いします。
行政区分が違うとこの山の峠で線が引かれてしまう。
この峠を越えて小野小町がこの北向観音に病の治療の祈願にやってきたという伝説が残されている。

ここは駐車場がないのと、通りは少し狭くて車をおいておけないのが残念だが、このブログでも何回も取り上げてきた。
歴史や伝説等については前の記事を参考にして欲しい。
(小町伝説(2010.12.20)、北向観音(仏生寺)(2011.9.10))

お堂に行くのに脇の道が出来ていた。
今回はこちら側から行ったがお堂の美しさはまた別な魅力が加わった感じだ。

やはりこの崩れかけてような石段に赤いお堂。そして階段入口の古ぼけた石仏に大きな椿の花。
まな絵になっている。

NHKテレビ「武蔵」では、このお堂の石段をお通が駆け登ったという。

麓はまだ田んぼの稲も植わっていないがこれから緑の絨毯が広がる。
綺麗な川も流れていていつまでも変わらぬ姿でいてほしいと思っている。


里山の春(3)-弓弦
今日は夕方から雷を伴って雨が激しく降りました。
今も外は雨の音が結構激しいです。桜は散ってしまったか?
さて、先日訪れてた北向観音から石岡市内の方に戻るときに、今回はいちごのハウスがたくさんある「辻」の交差点でフルーツラインへは曲がらず、まっすぐに進んでみた。
この道は通ったことがなかった。
直ぐに「弓弦」という地区に入る。弓弦と書いて「ゆづり」と読む難読地名の一つだ。
万葉の頃は石岡(常陸府中)の都からつくば山に登るときにはきっとこちらに近いところを通っていたのだろう。
この筑波山の尾根にある「不動峠」を超えると古代筑波郡の平沢官衙(かんが)跡にでる。
きっと平安時代には筑波郡衙から常陸国衙へ行くのにこの峠を越えていたに違いない。
そしてこの弓弦を通って五輪堂あたりで恋瀬川(志筑川)を越えていたと思われます。
地元の言い伝えでは「ヤマトタケルがこの地で弓の弦を壊してしまって、それを直した」などという最もらしい言い伝えも伝わっているという。
もちろん私にはとても信じられません。
漢字から意味を当てはめた典型のような解釈ですね。
昔からある地名は漢字は後から当てはめられたものだと考えたほうがいいです。
でも「ゆづり」という言葉が何を意味するものかはわかりません。
「親ゆづり」「世代ゆづり」「「ゆづり合い」「ゆづり葉」・・・アイヌ(縄文)語なのか?

(上の写真はサムネルです。クリックで大きな写真を表示します。この写真だけです。)
この弓弦地区の公民館の桜です。木造の公民館にもどこか郷愁をかんじます。

この公民館の先から山の方に「宝蔵寺」の案内板がありました。
宝蔵寺というのは日本全国たくさんあって、ここのお寺の由来等はあまりよくわかりません。

車を公民館近くに停めて、お寺の方に歩いて行ってみました。
少し山を登ったところにお寺がありました。
この弓弦地区からの里山の眺めは素敵ですね。筑波山と里山がマッチしています。
きっと田んぼが青々したときは独特の里山風情を見せてくれそうです。

諸喝采。花ダイコンが群生していました。
どなたかが種を蒔いたのでしょうか。
(花ダイコンについては去年記事にしました。
(こちら1、こちら2)

梅の花も満開です。不思議なコラボレーションが見られました。
← よろしければクリックお願いします。
今も外は雨の音が結構激しいです。桜は散ってしまったか?
さて、先日訪れてた北向観音から石岡市内の方に戻るときに、今回はいちごのハウスがたくさんある「辻」の交差点でフルーツラインへは曲がらず、まっすぐに進んでみた。
この道は通ったことがなかった。
直ぐに「弓弦」という地区に入る。弓弦と書いて「ゆづり」と読む難読地名の一つだ。
万葉の頃は石岡(常陸府中)の都からつくば山に登るときにはきっとこちらに近いところを通っていたのだろう。
この筑波山の尾根にある「不動峠」を超えると古代筑波郡の平沢官衙(かんが)跡にでる。
きっと平安時代には筑波郡衙から常陸国衙へ行くのにこの峠を越えていたに違いない。
そしてこの弓弦を通って五輪堂あたりで恋瀬川(志筑川)を越えていたと思われます。
地元の言い伝えでは「ヤマトタケルがこの地で弓の弦を壊してしまって、それを直した」などという最もらしい言い伝えも伝わっているという。
もちろん私にはとても信じられません。
漢字から意味を当てはめた典型のような解釈ですね。
昔からある地名は漢字は後から当てはめられたものだと考えたほうがいいです。
でも「ゆづり」という言葉が何を意味するものかはわかりません。
「親ゆづり」「世代ゆづり」「「ゆづり合い」「ゆづり葉」・・・アイヌ(縄文)語なのか?

(上の写真はサムネルです。クリックで大きな写真を表示します。この写真だけです。)
この弓弦地区の公民館の桜です。木造の公民館にもどこか郷愁をかんじます。

この公民館の先から山の方に「宝蔵寺」の案内板がありました。
宝蔵寺というのは日本全国たくさんあって、ここのお寺の由来等はあまりよくわかりません。

車を公民館近くに停めて、お寺の方に歩いて行ってみました。
少し山を登ったところにお寺がありました。
この弓弦地区からの里山の眺めは素敵ですね。筑波山と里山がマッチしています。
きっと田んぼが青々したときは独特の里山風情を見せてくれそうです。

諸喝采。花ダイコンが群生していました。
どなたかが種を蒔いたのでしょうか。
(花ダイコンについては去年記事にしました。
(こちら1、こちら2)

梅の花も満開です。不思議なコラボレーションが見られました。


瓦会(1)-日笠神社
石岡市瓦会(かわらえ)地区を少し紹介しておきたいと思います。
吾国山-難台山(南台丈)-愛宕山(岩間山)-鐘転山(かねころばしやま)と続く石岡の東北側の山並みの麓にこの瓦会(かわらえ)はあります。
地図では瓦谷と瓦会との表記が混在していますが、元々は明治22年に近隣の小塙村・宇治会村・瓦谷村・野田村・佐久村・部原村の6つの村が合併して、瓦谷と宇治会の2つの村の名前から瓦会となったという。
この瓦の由来は、ここで国分寺などの瓦を焼いた窯跡がいくつも発見されたことが由来していると思われる。
8世紀頃にここの山側の台地で瓦を焼いた窯がいくつも掘り出され、ここで焼かれた瓦が府中(石岡)の国分寺などに運ばれたものと考えられている。
窯跡については私の別なHPを参照願いたい → こちら

瓦会の郵便局のある交差点に古びた神社があります。
「村社日笠神社」となっています。

神社の沿革を書いた石碑が建てられており、内容を要約すると
「日笠神社の祭神は弟橘姫命で創建は建治元年(1275)と云われ、近郷近在の人々に広く崇敬されてきたが、南北朝時代の難台山の戦乱で1388年に兵火で焼けてしまった。
その後、再建されたようだが、記録ははっきりせず、江戸時代に牛久三代藩主より1683年から毎年祭祀料の寄進があった。
1832年に再建した記録があるが、その後1841年に近隣の大火で類焼し、1850年に再建された。
境内神社として金刀比羅神社(大物主命)、稲荷神社(倉稲魂命)、浅間神社(木花開耶姫命)を祭る。」
ここで、面白いのはこの地が江戸時代牛久藩(山口家)の領地であったという。
イメージとして浮かんでこないが、牛久藩は新治郡にも多くの領地が有り、となりの下総国(今の千葉県)にも領地があったようだ。

この手水鉢?にもしめ縄がしてあるがどういうことか?
弟橘姫が祀られていることと関係があるのだろうか?
もっとも日笠神社という名前の神社はあまり多くはないようです。

拝殿の裏に本殿がありますが、木の板や金網によって覆われていて、よく見ることができません。
木の板は隙間がありますので、覗き込んで写真を撮りました。
立派な龍の彫り物が施されています。
フラッシュは使っていませんが、西日が注ぎ込んでいました。
← よろしければクリックお願いします。
吾国山-難台山(南台丈)-愛宕山(岩間山)-鐘転山(かねころばしやま)と続く石岡の東北側の山並みの麓にこの瓦会(かわらえ)はあります。
地図では瓦谷と瓦会との表記が混在していますが、元々は明治22年に近隣の小塙村・宇治会村・瓦谷村・野田村・佐久村・部原村の6つの村が合併して、瓦谷と宇治会の2つの村の名前から瓦会となったという。
この瓦の由来は、ここで国分寺などの瓦を焼いた窯跡がいくつも発見されたことが由来していると思われる。
8世紀頃にここの山側の台地で瓦を焼いた窯がいくつも掘り出され、ここで焼かれた瓦が府中(石岡)の国分寺などに運ばれたものと考えられている。
窯跡については私の別なHPを参照願いたい → こちら

瓦会の郵便局のある交差点に古びた神社があります。
「村社日笠神社」となっています。

神社の沿革を書いた石碑が建てられており、内容を要約すると
「日笠神社の祭神は弟橘姫命で創建は建治元年(1275)と云われ、近郷近在の人々に広く崇敬されてきたが、南北朝時代の難台山の戦乱で1388年に兵火で焼けてしまった。
その後、再建されたようだが、記録ははっきりせず、江戸時代に牛久三代藩主より1683年から毎年祭祀料の寄進があった。
1832年に再建した記録があるが、その後1841年に近隣の大火で類焼し、1850年に再建された。
境内神社として金刀比羅神社(大物主命)、稲荷神社(倉稲魂命)、浅間神社(木花開耶姫命)を祭る。」
ここで、面白いのはこの地が江戸時代牛久藩(山口家)の領地であったという。
イメージとして浮かんでこないが、牛久藩は新治郡にも多くの領地が有り、となりの下総国(今の千葉県)にも領地があったようだ。

この手水鉢?にもしめ縄がしてあるがどういうことか?
弟橘姫が祀られていることと関係があるのだろうか?
もっとも日笠神社という名前の神社はあまり多くはないようです。

拝殿の裏に本殿がありますが、木の板や金網によって覆われていて、よく見ることができません。
木の板は隙間がありますので、覗き込んで写真を撮りました。
立派な龍の彫り物が施されています。
フラッシュは使っていませんが、西日が注ぎ込んでいました。

