笄崎(こうがいざき)地名について

 今日は曇っていたので比較的気温が上がらず、年寄りには助かりました。私も石岡の歴史に関することを少し調べたりしていますが、最近埋もれた古道について少し調べてみたいと思っています。石岡は古東海道の終点の都市と言われていますが、千葉県我孫子より石岡(常陸府中)への道がはっきりしません。終点とはいえ、石岡から水戸の先までは道がほぼ直線的につながっていてほぼわかっているようですが、昔は霞ケ浦は香取の海と呼ばれ、もっと湿地帯が多く、どこの道がメインルートであったのかが不明確です。
石岡のとなりのかすみがうら市に子安神社・胎安神社という古い神社があり、この横に鎌倉街道が通っていたと聞いてルートを追いかけた時この「笄崎」という地名にぶつかりました。笄(こうがい)とは昔の主に女性が髪を留めるのに使ったカンザシや櫛のようなものです。この場所は昔の地図でも内陸で霞ケ浦に面したところではありません。平安末期頃からその名がでてくる「江後田」部落への入口にあたります。
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上記の写真はここのバス停です。笄と聞いて思い出すのがヤマトタケル(倭武尊)が東京湾を渡ったときに海が荒れて、妻である弟橘姫(媛)が入水し波を静めた話です。この弟橘姫の笄が流れ着いたところが各地に笄崎と名前が付いているようなのです。行方市の羽生というところにも笄崎という地名があり、霞ケ浦に流れ着いた弟橘姫の笄が羽が生えて飛んで「橘郷造神社」に祭られるようになったといわれています。このかすみがうら市神立近くの「笄崎」を地図でよく見てみると、霞ケ浦の先端にある柏崎から菱木川というのがこの近くまで流れている。小学校や中学校ができこの近くの川は水路整備がされ、今は上にコンクリの蓋がかぶされ川とは気がつかないほどになっている。昔我が家の息子がこの川にサッカーボールを落としてしまった。これが柏崎の方が拾って電話をいただいたことがあります。ボールに名前と電話番号を書いていたおかげであるが、この水路があんな先まで途中で止まることなく流れて行ったことには驚かされたものだ。昔は舟でこのあたりまできていたのかもしれないなー。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/19 20:02

長法寺町と若松町

 私の今住んでいるところは石岡市若松である。正式名称は若松町ではない。しかし、この若松町の地名の成り立ちを考えると歴史も少し見えてきそうである。もちろんこちらに来て年数は浅く、地元の古参の方ともお付き合いがないので間違っているかもしれない。図書館の書籍によると昔は「長法寺町」といっていたという。石岡のおまつりに出る山車には「若松町」の表示があるが、年番制がスタートした明治35年(1902年)の最初の16町の中の表示は「長法寺町」となっていた。ではいつ名前が変わったのだろうか。
資料によると江戸時代の宝永年間(1704-1711)に若松町改名されたという。理由ははっきりしないが「佳名をとって・・・」というので縁起の良い名前にしたという。しかし、この長法寺は室町時代ころからこの地にあって、かなり大きな寺であったが、明治3年の500軒ほどが焼失した大火(長峰寺の火事:長法寺は長峰寺とも書いていた)で焼けてしまいその後はなくなってしまったようである(今は木造十一面観音立像と馬頭観音の石碑が置かれている)。しかし、まつりの年番制の正式町名が最初は「長法寺町」といわれるように長い間2つの名前が用いられていたに違いない。昔の石岡(府中)の街の姿を考えてみると、ここ若松町は柿岡街道と宇都宮街道が合流する地点であり、馬頭観音石碑があるように馬の集積地になっていたという。また車がまだあまりなかった昭和30年頃まで、多くの人が米2俵を馬の背につけてここへ運んだという。また、昔の方に聞くと生糸などを運ぶ絹街道ともいわれにぎやかであったという。今はただ石岡の市内の中で最も大きな町(住民が多い)として見られる以外にはあまり特徴がない住宅地だが、国分尼寺跡は若松町内にある。また、有名な刀工長峰寺正俊(刀は国立博物館に所蔵されている)はこの地に住んでいたが、鎌倉へ移ったという。名前に長法寺を使っているので寺の住職だったのかもしれない。
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若松町にある追分(柿岡街道とかわらい宇都宮街道との分かれ道)
名前を変更して佳名をつける必要があったと考えると、考えられるのは江戸時代の陣屋(今の石岡小学校の場所)近くに刑場があり、罪人を釈放する時に江戸徳川側と水戸様側を避けてこの長法寺側の門から釈放したと記述が残されており、あまり良い印象を持たれなかったためなのかもしれない。まったくの推論ですが・・・。それにしても自分の住んでいるところももっと知りたいな~。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/21 11:26

はけの道

 今日は処暑というのに暑さがぶり返して、まだしばらくはこの暑さが続くそうです。あまり無理せずにブログもマイペースでいきましょう。さて、東京都小金井市南側に「はけの道」と呼ばれる道があります。昔多摩川により削り取られた崖に水が湧いて、野川を形成して、今では駅の側(南側)から商店街を抜けるとすぐに道は急に下がっている。この崖下の道が「はけの道」と呼ばれているのですが、この断層は正式には国分寺崖線というそうです。昔は特に人もあまり歩いてはいなかったのですが最近は野川が整備され川沿いの散歩道とともに「はけの道」も人気が高まっているようです。私も大学時代からしばらくここに住んでおり、今でも私の兄夫婦とと母が小金井に元気で暮らしており、毎年夏に父の墓参りなどに出かけている。なぜ今回「はけの道」を取り上げたかというと「はけ」の言葉の意味に興味がわいたからです。「水はけ」のことばから湧水があって名付けられたという説もあるようですが、「がけ」を意味するpake(パケ)という縄文語(アイヌ語)が元になったと考えられます。四国の大歩危・小歩危や崖のことを「hake」「ハッケ」「パッケ」などというところが多いというのでまずは間違いないと思います。茨城県の水戸の朝房山の麓に「木葉下」と書いて「アボッケ」というところがあります。
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これも鈴木健氏が「常陸国風土記と古代地名」の中で朝房下から転じたものとの説と同時に崖下をハケシタといい「葉木下」の字をあててハボッケと読んだのがアボッケになったとの説を書かれています。恐らくこのようなかたちで地名はいつの間にか読も方や当てられた漢字で意味もわからなくなっていくようです。さて「はけの道」には「中村研一はけの森美術館」があり、野川沿いにすすむと「武蔵野公園」「野川公園(旧国際基督教大学ゴルフ場)」につながっています。広々とした公園で大変気持ちの良い公園です。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/23 19:40

石岡にある羽黒の地名

 今日もまだ暑い日が続いていますが、夜は比較的涼しくなり比較的すごしやすくなった気がします。
でも昼間は仕事場でクーラの中なのでこれも違ってまだまだ暑いのかもしれない。
先日から、昔の街道を少し追いかけてみようと思っている。前に書いたがここ若松町は柿岡-真壁街道と宇都宮(かわらい)街道がぶつかっている場所である。今でも柿岡-真壁街道は現在の道路でもあり、わかりやすいが、宇都宮街道は途中で高速道路と柏原工業団地にさえぎられてわかりにくくなっている。
全貌はまた今度の機会に譲るが、今回は石岡若松で柿岡街道とぶつかるあたりに「羽黒」という地名があったようだということである。柿岡街道が常磐高速の上をまたぐ橋は「鹿の子橋」であり、宇都宮街道と思われるところにかかる橋は「谷向西橋」という。この2つの間に生活用がメインの2つの橋があり、「羽黒西橋」と「羽黒東橋」という。現在水戸-東京間の高速バスがこの近くで止まるのだが、乗車場所に最も近いバス停の名前が「西羽黒」という。現在この羽黒と名前がつく地区は若松2丁目となっており、住所表記からは羽黒の名前は消えている。
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もちろん羽黒といえば出羽三山の羽黒山であり、山伏や天狗の山という信仰の山でもある。実はこの宇都宮街道を追いかけていくと途中で水戸線の「羽黒駅」(桜川市)にぶち当たる。
また、行方市にある旧麻生城があった場所が「羽黒山公園」という。
何か繋がりがないのだろうか? 石岡の羽黒については何時頃からあった名前かはわからない。鹿の子地区の隣りであるから結構古いのではないだろうか。もう少し調べたら何か出てくるかもしれない。
それにしても昔は筑波山・加波山・岩間山と沢山の天狗が修業していたというのだから、出羽の羽黒山ともきっと関係していそうですね。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/24 21:25

成田線の駅名

 今日は土曜日で昼間からパソコンの前に扇風機を回して座っている。暑いがクーラはなくてもどうにかなると思うので、できるだけクーラはつけない。シャワーを浴びて扇風機でいるのも夏の風情と感じている。
もう大分前になるが、成田空港まで我孫子駅で乗り換えて成田線で行ったことがある。大きな荷物の客はほとんどおらず、地元の学生などが多かった。単線であるので途中でしばらく反対側の電車を待ち合わせるなどノンビリとした風景であった。その後成田空港までは土浦駅からつくばセンターを経由してバスがでており、時間もこちらの方が早く楽となったので、成田線も2度ほど乗っただけであった。しかし、我孫子から成田までの駅名が非常に気になった。
 我孫子-湖北-新木-布佐-木下(キオロシ)-小林-安食(アジキ)-下総松崎(シモウサマンザキ)
私の名字の頭文字がKであり、友人もKのつく人が多くいる。「木下」、「小林」ときたから次は自分の名前が来るかもしれないなどと思いながら乗っていた。そうしたらアジキ(安食)であった。かすみがうら市(旧出島)に安食と書いて「アンジキ」と読む地名があり、この地名も気になった。次が「シモウサマンザキ」の地名である。シモウサもそうであるが「マンザキ」と読むのはどこからきているのだろうと気になった。どれも調べていけば昔の歴史につながる面白い話が出てきそうなのだが、心の片隅にしまって大分時間が経ってしまった。今は時間も少し取れるようになったので、すこしずつ調べていけたらな~と思う次第です。
石岡は古道東海道の終点の都市です。東京湾を舟で渡って上総の国(市原)から下総国(市川)を経て(我孫子)に至ります。この先は昔は印旛沼-手賀沼-利根川の一部は霞ケ浦と一体となって大きな内海(香取の海)となっていたのです。今成田線の走っているところは手賀沼と利根川の間の高台を通っており、木下で手賀沼から流れる川は利根川に合流しています。きっと江戸時代の初めに利根川が東遷工事がおこなわれ水運として利根川が大いに活躍した頃の歴史とその前の歴史が共に混在して残っているように思われます。「布佐」はこの利根川水運の川港町として栄え、魚も大量に採れた「網代場」もあったといいます。木下(キオロシ)は材木を水運に下ろしたところから名前がついたようです。またこの辺りが下総国であるので、今の鉄道を中心にしての地図の見方も変えていかないと理解が進まないようです。鎌倉道なる間道も通っていたといわれますので、時代時代で便利な道ができれば昔の道が廃れてきて、いつのまにかわからなくなっていく・・・・。もう少し想い出としてでも残していければそこに生活していた人々の姿がボンヤリとでも見えてきそうに思っています。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/28 11:45

石岡の泉町

 今日はまた真夏の暑さが戻ってきてどこへいってもグッタリしてしまう。もう数日すれば秋も期待できるだろう。昔もこんな暑い年はあったのだろうか。昨日杉並木のことを書いたので、今日は手前の泉町の話をしたいと思う。この泉町は旧水戸街道(現県道52号線)が中町(旧府中宿)を通り国分寺(千住院)のところで右折し杉並、行里川(なめりがわ)方面に進むところにできた宿場町で昔は新宿(あらじゅく)といった。府中宿とはつながっているので水戸街道の出口にあたっていた。鉄道がない時はここに山王川が流れ、橋がかかっていた。これが泉町にかわったのは宝永年間(1701~1710)頃といわれ、徳川綱吉の時代である。名前の由来は火災にあわないようにとの願いが込められていたという。また文献などでは和泉町と書かれたものも見られる。またこの町に3月2日~5日まで馬市がおこなわれていたという。
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常磐線をまたぐ橋(いずみ橋)の欄干には国分寺の七重の塔と筑波山の想像イラストが書かれていた。
橋は常磐線と山王川にも跨っていると思うのだが、ここで川が地下にもぐってしまっているようである。昔は川遊びができたという山王川は柏原池から流れてくるが、その源となる龍神山があの姿ではきれいな川の復活は望めないであろう。ホタルの棲める川にしたいとかいうが・・・・。
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橋(いずみ橋)の歩道に貼られたタイル。日本橋から21里となっている。
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千住まで19里
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新宿(亀有)まで18里
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松戸(矢切りの渡し)まで16里
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小金(本土寺)まで15里
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我孫子まで13里

普段車で通過してしまうのでゆっくりと歩道を歩く機会がなかったので気がつかなかったが、きれいにできている。歴史的にどうかを考えると何故?などと思う点もあるが、これもまた楽しである。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/11 17:24

石岡の幸町

 昨日は暑さがぶり返しいささか気分が悪くなった。そこで久しぶりに外食をした。場所は県道7号線の石岡第一病院の少し先のジャスコよりの場所(東府中)の「青葉」という台湾料理屋さんである。最近できた台湾人の方の経営するお店である。まだ開店まもないのでお客さんの入りはあまり良くなかったが、本格的な台湾料理(点心など)が食べられる。比較的美味しいと感じた。すぐそばには中国人の経営する中華料理のお店もあり、石岡は外食産業は人口の割合にとても多いと思う。
 さて、昨日は泉町の話をしたので、今日は旧町名が「幸町」のことを少し書いてみたい。私は各町内会から見れば他所者であるので、この町名を聞いても場所がよくわからなかった。現在の住所表記では国府7丁目あたりと思う。旧水戸街道の府中宿の入口にあたる。現在の6号国道から県道355線で市街地方面に左折し、登り坂の途中で斜め左に入ったあたりだ。こちらが昔の水戸街道であろう。幸町という名前は若松、泉町などと同様に江戸時代の宝永年間に変わったという。その前の町名は「土器屋(かわらけ)町」といった。「かわらけ」という地名は全国に多く存在し、また各地に素焼きの皿などを高いところから下に投げる「かわらけ投げ」などがの風習が残っている。石岡といえば国分寺があるが、この国分寺のやねの瓦を焼いたとされるところは旧八郷地区の瓦会(かわらえ)地区だ。瓦を焼いた窯が数基発掘されている。しかしこの地区の現在の町名は瓦谷(かわらや)である。もともとは瓦谷という地区もありこちらも「かわらえ」と読んでいたようなのであるが、新住所に変わるとそれまでの歴史が薄れていくように思われてならない。
さて幸町の土器屋(かわらえ)であるが、何が焼かれていたのであろうか?
「府中雑記」には「今幸町ト云ウ所宝永年改ル往古土器屋ト云リ、其故ハ国府ナル故ニ古実ノ神事数多アリ、其時窪手平賀ナト云土器ヲ製セシ所也ト云ヒ伝フ」
と書かれているという。石岡は寺も多く、神事も盛んに行われていたため、この近辺に神事用土器の職人が多く住んでいたと考えられる。幸町ではそのようなことは伝わってこない。少しでもどこかにそのような地名の痕跡を残しておいてほしいと願っている。旧水戸街道は現在の355線を通り、泉町へ右折していたが、鎌倉時代の古東海道や鎌倉街道なるものはこの道ではなかったはずで、おそらく街道の入口となる前からそのような人たちが集まっていたのであろう。石岡「三光宮」といわれる日天宮がある。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/12 14:46

仏生寺という地名

 先年末、八郷地区の北向観音堂の紹介をしました。このあたりの地名を仏生寺というのです。
寺と名前がついているので昔お寺があったのでしょうか?

この地名のいわれはあまり紹介されているものが少ないようですが、この地の整備を行なっているボランティア団体の「八郷ふるさとの史跡守り隊」が発行している「民話の里めぐり」というパンフレットに地名のいわれが載せてあります。

 これによると「行基菩薩伝説の仏生寺集落」とあります。パンフレットの概略を書くと、「行基菩薩が稽主勲を伴って、筑波山を経てこの地にさしかかると山里に光明を見た。
急いで行ってみると神龍が潜むような川の淵に白髪の老翁がいて、近付くと雷が落ち周囲の木が燃え、白壇の木が残されていた。
そして、この木で仏像を彫り住民に与えたという。そして、後に堂宇を建て「龍光院」と名付けた。
行基菩薩は、「この地は仏が生まれた地であるので、仏生寺と名付けよ」と言われたという。」
となっています。

 どうも私の悪い癖で、このように聞くと本当? とすぐに疑ってしまうのである。
この龍光院というのは前に紹介した小町伝説のある北向観音堂のことです。
この話が本当であれば約1300年前ということになります。

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上の観音像は、北向観音堂に安置されているもので、行基菩薩が奈良から連れて来た稽主勲兄弟の作と言われているといいます。

行基菩薩という人は菩薩と呼ばれるように困っている人を助け、道路を直し、橋をかけ、溝や掘りを多く作ったといわれる高僧で聖武天皇に奈良東大寺の大仏建立のために招聘された人物です。

関西から九州方面にかけて多くの足跡が残されており、また地図まで作ったほど日本全国にも足を伸ばしているといいます。

日本全国各地に伝説や謂れが残されており、多くは後から創られたものと考えるのが普通でしょう。

さて、八郷町誌にはこの観音様について、次のように紹介しています。

「一説には、観音を背負った回国六部がここにきて病にかかったとき、長い間厄介になったある家の主人に観音のご利益を説き、お礼として残したものともいう。」

どちらを信じるか? または別な説があるのか?

どちらにしろ、伝説(小町伝説、行基菩薩伝説、薬師如来伝説など)が生まれるような場所であることだけは確かなようです。

「回国六部」についてはまた明日にでも書きますね。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/12 19:15

生板池(なまいたいけ)

 「なま街道」というのを紹介したので、石岡にある「生板(なまいた)池」という池を紹介します。
東大橋の少し石岡駅よりという比較的に車の多い通りにも近いが、驚くほどひっそりとした池である。
名前が生々しいし、池のほとりには営業廃止したレストラン?の建物が少し不気味な感じがするのでここを心霊スポットとした話などもあるようだ。

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池から石岡の街を眺めることができる。

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池は釣りをしている人もいるが人通りが少ない。
しかし、池をきれいにする活動も行われていて、比較的きれいである。

ここには「八幡太郎の伝説」が伝わっているのである。
源義家(八幡太郎)は奥州征伐の戦いに2度参戦し、2度ともこの石岡の地を通っている。
2度目の戦い(後3年の役)時は、道々進むたびに周りから仲間に入ろうと多くの兵が続々と集まってきた。
現在のかすみがうら市市役所の先にある草原は「四万騎(しまき)ヶ原」といい。騎馬が4万騎も集まり訓練をした場所ということで、この名前が残った。
また、石岡の鹿の子の先には「五万掘」という地名があったが、この時には五万の兵がいたと言う。
では「生板池」はどうかというと、この場所は食事をする炊事場となったため「まな板」の語源が「生板」であることから、この炊事場の意味だという。

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場所は6号国道のジャスコの近くの信号を東に少し行ったところで近くの通りは車が多いのに、少し入ったこの池の周りはぐっと車も少なくなる。
地図を見ると、池は近くを流れる園部川とつながっている。


地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/29 18:42

貝地という地名

 今日で1月も終わりである。1日寒い日であったが、もうすぐ暖かくなるらしい。
夕方も日が暮れるのが大分遅くなって、六時頃はまだ少し明るかった。

 今日は「貝地」の地名について少し述べたいと思います。
石岡市貝地(かいじ)は茨城廃寺や府中外城(石岡城)などがあり、「茨城の県名発祥の地」などとも呼ばれている古い遺跡の残る地です。
今でも地面を掘ると遺跡などが出てくるといわれ、勝手にあまり深く掘ることができないそうです。
名前が「貝地」というので、貝塚などがあるように思ってしまいますが、まったく違っています。
「貝地」は昔は「廨地」と書かれているそうです。
「廨(かい)」という字は「公廨(くがい)(くげ)」などとして使われますが、役所、官庁などを指す言葉です。
辞書によると、「本来は官衙の舎屋の意味であったが、律令制下においては官衙の収蔵物・用度物のことを指すようになり、更に転じて官人(特に国司)の得分(給与)を指すようになった。」とあります。

そう、貝地は常陸国のお役所や資料などの倉庫、特に今の税務署の役人のような人がいた場所を示す地名なのです。
この地に「大掾(だいじょう)氏」と並ぶお役人の中心人物「税所(さいしょ)氏」がおりました。
税所氏の屋敷は「万福寺」の辺りだと考えられていますので、貝地のばらき台団地の入口です。

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税所氏は名前の通り、税や文書管理をしていたことを表しておりますが、この名前は大掾氏と同じく、役職からつけられた名前で、元は「百済氏」といいました。

そうです、「百済(くだら)」は朝鮮半島南部に昔あり、日本に仏教などを伝えた国の名前です。
百済は西暦600年に唐により滅ぼされました。
その時、倭国(日本)には数千人の百済人が逃げてきたといわれています。
それも百済国の身分の高い人が皆逃げてきたようです。
西暦600年といえば日本では古墳時代です。

そして、各地の当時の役人たちの中にもこの人たちが多く含まれているようなのです。
この百済からの人も今の韓国人の中にも多くいるでしょう。
日本に来た人たちも、来た当時は九州や大和などにいたのでしょうが、大和朝廷の進出とともに各地に散らばっていったと思われます。
そうして、日本人になったのです。
日本(倭国)に来るのが早かったか遅かったかの違いでしょう。

どうして、日本の歴史教育は大和朝廷一本やりの内容になってしまっているのでしょうか。
この霞ケ浦周辺には昔からのどかに暮らしていた縄文人が数千年に亘って住んでいました。
そして、大和朝廷に従わない人々をオオカミ(性)やネズミ(窺う)、フクロウ(情)のような人間でない獣というような表現で退け占領したのです。

私もその(大和民族)の血を引き継いでいる一人だと思いますが、昔の歴史ももう少しわかりやすく教えてもらいたいものだと考えされられてしまいます。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/31 19:23
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