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笄崎(こうがいざき)地名について

 今日は曇っていたので比較的気温が上がらず、年寄りには助かりました。私も石岡の歴史に関することを少し調べたりしていますが、最近埋もれた古道について少し調べてみたいと思っています。石岡は古東海道の終点の都市と言われていますが、千葉県我孫子より石岡(常陸府中)への道がはっきりしません。終点とはいえ、石岡から水戸の先までは道がほぼ直線的につながっていてほぼわかっているようですが、昔は霞ケ浦は香取の海と呼ばれ、もっと湿地帯が多く、どこの道がメインルートであったのかが不明確です。
石岡のとなりのかすみがうら市に子安神社・胎安神社という古い神社があり、この横に鎌倉街道が通っていたと聞いてルートを追いかけた時この「笄崎」という地名にぶつかりました。笄(こうがい)とは昔の主に女性が髪を留めるのに使ったカンザシや櫛のようなものです。この場所は昔の地図でも内陸で霞ケ浦に面したところではありません。平安末期頃からその名がでてくる「江後田」部落への入口にあたります。
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上記の写真はここのバス停です。笄と聞いて思い出すのがヤマトタケル(倭武尊)が東京湾を渡ったときに海が荒れて、妻である弟橘姫(媛)が入水し波を静めた話です。この弟橘姫の笄が流れ着いたところが各地に笄崎と名前が付いているようなのです。行方市の羽生というところにも笄崎という地名があり、霞ケ浦に流れ着いた弟橘姫の笄が羽が生えて飛んで「橘郷造神社」に祭られるようになったといわれています。このかすみがうら市神立近くの「笄崎」を地図でよく見てみると、霞ケ浦の先端にある柏崎から菱木川というのがこの近くまで流れている。小学校や中学校ができこの近くの川は水路整備がされ、今は上にコンクリの蓋がかぶされ川とは気がつかないほどになっている。昔我が家の息子がこの川にサッカーボールを落としてしまった。これが柏崎の方が拾って電話をいただいたことがあります。ボールに名前と電話番号を書いていたおかげであるが、この水路があんな先まで途中で止まることなく流れて行ったことには驚かされたものだ。昔は舟でこのあたりまできていたのかもしれないなー。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/19 20:02

長法寺町と若松町

 私の今住んでいるところは石岡市若松である。正式名称は若松町ではない。しかし、この若松町の地名の成り立ちを考えると歴史も少し見えてきそうである。もちろんこちらに来て年数は浅く、地元の古参の方ともお付き合いがないので間違っているかもしれない。図書館の書籍によると昔は「長法寺町」といっていたという。石岡のおまつりに出る山車には「若松町」の表示があるが、年番制がスタートした明治35年(1902年)の最初の16町の中の表示は「長法寺町」となっていた。ではいつ名前が変わったのだろうか。
資料によると江戸時代の宝永年間(1704-1711)に若松町改名されたという。理由ははっきりしないが「佳名をとって・・・」というので縁起の良い名前にしたという。しかし、この長法寺は室町時代ころからこの地にあって、かなり大きな寺であったが、明治3年の500軒ほどが焼失した大火(長峰寺の火事:長法寺は長峰寺とも書いていた)で焼けてしまいその後はなくなってしまったようである(今は木造十一面観音立像と馬頭観音の石碑が置かれている)。しかし、まつりの年番制の正式町名が最初は「長法寺町」といわれるように長い間2つの名前が用いられていたに違いない。昔の石岡(府中)の街の姿を考えてみると、ここ若松町は柿岡街道と宇都宮街道が合流する地点であり、馬頭観音石碑があるように馬の集積地になっていたという。また車がまだあまりなかった昭和30年頃まで、多くの人が米2俵を馬の背につけてここへ運んだという。また、昔の方に聞くと生糸などを運ぶ絹街道ともいわれにぎやかであったという。今はただ石岡の市内の中で最も大きな町(住民が多い)として見られる以外にはあまり特徴がない住宅地だが、国分尼寺跡は若松町内にある。また、有名な刀工長峰寺正俊(刀は国立博物館に所蔵されている)はこの地に住んでいたが、鎌倉へ移ったという。名前に長法寺を使っているので寺の住職だったのかもしれない。
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若松町にある追分(柿岡街道とかわらい宇都宮街道との分かれ道)
名前を変更して佳名をつける必要があったと考えると、考えられるのは江戸時代の陣屋(今の石岡小学校の場所)近くに刑場があり、罪人を釈放する時に江戸徳川側と水戸様側を避けてこの長法寺側の門から釈放したと記述が残されており、あまり良い印象を持たれなかったためなのかもしれない。まったくの推論ですが・・・。それにしても自分の住んでいるところももっと知りたいな~。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/21 11:26

はけの道

 今日は処暑というのに暑さがぶり返して、まだしばらくはこの暑さが続くそうです。あまり無理せずにブログもマイペースでいきましょう。さて、東京都小金井市南側に「はけの道」と呼ばれる道があります。昔多摩川により削り取られた崖に水が湧いて、野川を形成して、今では駅の側(南側)から商店街を抜けるとすぐに道は急に下がっている。この崖下の道が「はけの道」と呼ばれているのですが、この断層は正式には国分寺崖線というそうです。昔は特に人もあまり歩いてはいなかったのですが最近は野川が整備され川沿いの散歩道とともに「はけの道」も人気が高まっているようです。私も大学時代からしばらくここに住んでおり、今でも私の兄夫婦とと母が小金井に元気で暮らしており、毎年夏に父の墓参りなどに出かけている。なぜ今回「はけの道」を取り上げたかというと「はけ」の言葉の意味に興味がわいたからです。「水はけ」のことばから湧水があって名付けられたという説もあるようですが、「がけ」を意味するpake(パケ)という縄文語(アイヌ語)が元になったと考えられます。四国の大歩危・小歩危や崖のことを「hake」「ハッケ」「パッケ」などというところが多いというのでまずは間違いないと思います。茨城県の水戸の朝房山の麓に「木葉下」と書いて「アボッケ」というところがあります。
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これも鈴木健氏が「常陸国風土記と古代地名」の中で朝房下から転じたものとの説と同時に崖下をハケシタといい「葉木下」の字をあててハボッケと読んだのがアボッケになったとの説を書かれています。恐らくこのようなかたちで地名はいつの間にか読も方や当てられた漢字で意味もわからなくなっていくようです。さて「はけの道」には「中村研一はけの森美術館」があり、野川沿いにすすむと「武蔵野公園」「野川公園(旧国際基督教大学ゴルフ場)」につながっています。広々とした公園で大変気持ちの良い公園です。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/23 19:40

石岡にある羽黒の地名

 今日もまだ暑い日が続いていますが、夜は比較的涼しくなり比較的すごしやすくなった気がします。
でも昼間は仕事場でクーラの中なのでこれも違ってまだまだ暑いのかもしれない。
先日から、昔の街道を少し追いかけてみようと思っている。前に書いたがここ若松町は柿岡-真壁街道と宇都宮(かわらい)街道がぶつかっている場所である。今でも柿岡-真壁街道は現在の道路でもあり、わかりやすいが、宇都宮街道は途中で高速道路と柏原工業団地にさえぎられてわかりにくくなっている。
全貌はまた今度の機会に譲るが、今回は石岡若松で柿岡街道とぶつかるあたりに「羽黒」という地名があったようだということである。柿岡街道が常磐高速の上をまたぐ橋は「鹿の子橋」であり、宇都宮街道と思われるところにかかる橋は「谷向西橋」という。この2つの間に生活用がメインの2つの橋があり、「羽黒西橋」と「羽黒東橋」という。現在水戸-東京間の高速バスがこの近くで止まるのだが、乗車場所に最も近いバス停の名前が「西羽黒」という。現在この羽黒と名前がつく地区は若松2丁目となっており、住所表記からは羽黒の名前は消えている。
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もちろん羽黒といえば出羽三山の羽黒山であり、山伏や天狗の山という信仰の山でもある。実はこの宇都宮街道を追いかけていくと途中で水戸線の「羽黒駅」(桜川市)にぶち当たる。
また、行方市にある旧麻生城があった場所が「羽黒山公園」という。
何か繋がりがないのだろうか? 石岡の羽黒については何時頃からあった名前かはわからない。鹿の子地区の隣りであるから結構古いのではないだろうか。もう少し調べたら何か出てくるかもしれない。
それにしても昔は筑波山・加波山・岩間山と沢山の天狗が修業していたというのだから、出羽の羽黒山ともきっと関係していそうですね。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/24 21:25

成田線の駅名

 今日は土曜日で昼間からパソコンの前に扇風機を回して座っている。暑いがクーラはなくてもどうにかなると思うので、できるだけクーラはつけない。シャワーを浴びて扇風機でいるのも夏の風情と感じている。
もう大分前になるが、成田空港まで我孫子駅で乗り換えて成田線で行ったことがある。大きな荷物の客はほとんどおらず、地元の学生などが多かった。単線であるので途中でしばらく反対側の電車を待ち合わせるなどノンビリとした風景であった。その後成田空港までは土浦駅からつくばセンターを経由してバスがでており、時間もこちらの方が早く楽となったので、成田線も2度ほど乗っただけであった。しかし、我孫子から成田までの駅名が非常に気になった。
 我孫子-湖北-新木-布佐-木下(キオロシ)-小林-安食(アジキ)-下総松崎(シモウサマンザキ)
私の名字の頭文字がKであり、友人もKのつく人が多くいる。「木下」、「小林」ときたから次は自分の名前が来るかもしれないなどと思いながら乗っていた。そうしたらアジキ(安食)であった。かすみがうら市(旧出島)に安食と書いて「アンジキ」と読む地名があり、この地名も気になった。次が「シモウサマンザキ」の地名である。シモウサもそうであるが「マンザキ」と読むのはどこからきているのだろうと気になった。どれも調べていけば昔の歴史につながる面白い話が出てきそうなのだが、心の片隅にしまって大分時間が経ってしまった。今は時間も少し取れるようになったので、すこしずつ調べていけたらな~と思う次第です。
石岡は古道東海道の終点の都市です。東京湾を舟で渡って上総の国(市原)から下総国(市川)を経て(我孫子)に至ります。この先は昔は印旛沼-手賀沼-利根川の一部は霞ケ浦と一体となって大きな内海(香取の海)となっていたのです。今成田線の走っているところは手賀沼と利根川の間の高台を通っており、木下で手賀沼から流れる川は利根川に合流しています。きっと江戸時代の初めに利根川が東遷工事がおこなわれ水運として利根川が大いに活躍した頃の歴史とその前の歴史が共に混在して残っているように思われます。「布佐」はこの利根川水運の川港町として栄え、魚も大量に採れた「網代場」もあったといいます。木下(キオロシ)は材木を水運に下ろしたところから名前がついたようです。またこの辺りが下総国であるので、今の鉄道を中心にしての地図の見方も変えていかないと理解が進まないようです。鎌倉道なる間道も通っていたといわれますので、時代時代で便利な道ができれば昔の道が廃れてきて、いつのまにかわからなくなっていく・・・・。もう少し想い出としてでも残していければそこに生活していた人々の姿がボンヤリとでも見えてきそうに思っています。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/28 11:45

石岡の泉町

 今日はまた真夏の暑さが戻ってきてどこへいってもグッタリしてしまう。もう数日すれば秋も期待できるだろう。昔もこんな暑い年はあったのだろうか。昨日杉並木のことを書いたので、今日は手前の泉町の話をしたいと思う。この泉町は旧水戸街道(現県道52号線)が中町(旧府中宿)を通り国分寺(千住院)のところで右折し杉並、行里川(なめりがわ)方面に進むところにできた宿場町で昔は新宿(あらじゅく)といった。府中宿とはつながっているので水戸街道の出口にあたっていた。鉄道がない時はここに山王川が流れ、橋がかかっていた。これが泉町にかわったのは宝永年間(1701~1710)頃といわれ、徳川綱吉の時代である。名前の由来は火災にあわないようにとの願いが込められていたという。また文献などでは和泉町と書かれたものも見られる。またこの町に3月2日~5日まで馬市がおこなわれていたという。
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常磐線をまたぐ橋(いずみ橋)の欄干には国分寺の七重の塔と筑波山の想像イラストが書かれていた。
橋は常磐線と山王川にも跨っていると思うのだが、ここで川が地下にもぐってしまっているようである。昔は川遊びができたという山王川は柏原池から流れてくるが、その源となる龍神山があの姿ではきれいな川の復活は望めないであろう。ホタルの棲める川にしたいとかいうが・・・・。
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橋(いずみ橋)の歩道に貼られたタイル。日本橋から21里となっている。
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千住まで19里
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新宿(亀有)まで18里
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松戸(矢切りの渡し)まで16里
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小金(本土寺)まで15里
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我孫子まで13里

普段車で通過してしまうのでゆっくりと歩道を歩く機会がなかったので気がつかなかったが、きれいにできている。歴史的にどうかを考えると何故?などと思う点もあるが、これもまた楽しである。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/11 17:24

石岡の幸町

 昨日は暑さがぶり返しいささか気分が悪くなった。そこで久しぶりに外食をした。場所は県道7号線の石岡第一病院の少し先のジャスコよりの場所(東府中)の「青葉」という台湾料理屋さんである。最近できた台湾人の方の経営するお店である。まだ開店まもないのでお客さんの入りはあまり良くなかったが、本格的な台湾料理(点心など)が食べられる。比較的美味しいと感じた。すぐそばには中国人の経営する中華料理のお店もあり、石岡は外食産業は人口の割合にとても多いと思う。
 さて、昨日は泉町の話をしたので、今日は旧町名が「幸町」のことを少し書いてみたい。私は各町内会から見れば他所者であるので、この町名を聞いても場所がよくわからなかった。現在の住所表記では国府7丁目あたりと思う。旧水戸街道の府中宿の入口にあたる。現在の6号国道から県道355線で市街地方面に左折し、登り坂の途中で斜め左に入ったあたりだ。こちらが昔の水戸街道であろう。幸町という名前は若松、泉町などと同様に江戸時代の宝永年間に変わったという。その前の町名は「土器屋(かわらけ)町」といった。「かわらけ」という地名は全国に多く存在し、また各地に素焼きの皿などを高いところから下に投げる「かわらけ投げ」などがの風習が残っている。石岡といえば国分寺があるが、この国分寺のやねの瓦を焼いたとされるところは旧八郷地区の瓦会(かわらえ)地区だ。瓦を焼いた窯が数基発掘されている。しかしこの地区の現在の町名は瓦谷(かわらや)である。もともとは瓦谷という地区もありこちらも「かわらえ」と読んでいたようなのであるが、新住所に変わるとそれまでの歴史が薄れていくように思われてならない。
さて幸町の土器屋(かわらえ)であるが、何が焼かれていたのであろうか?
「府中雑記」には「今幸町ト云ウ所宝永年改ル往古土器屋ト云リ、其故ハ国府ナル故ニ古実ノ神事数多アリ、其時窪手平賀ナト云土器ヲ製セシ所也ト云ヒ伝フ」
と書かれているという。石岡は寺も多く、神事も盛んに行われていたため、この近辺に神事用土器の職人が多く住んでいたと考えられる。幸町ではそのようなことは伝わってこない。少しでもどこかにそのような地名の痕跡を残しておいてほしいと願っている。旧水戸街道は現在の355線を通り、泉町へ右折していたが、鎌倉時代の古東海道や鎌倉街道なるものはこの道ではなかったはずで、おそらく街道の入口となる前からそのような人たちが集まっていたのであろう。石岡「三光宮」といわれる日天宮がある。

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/12 14:46

仏生寺という地名

 先年末、八郷地区の北向観音堂の紹介をしました。このあたりの地名を仏生寺というのです。
寺と名前がついているので昔お寺があったのでしょうか?

この地名のいわれはあまり紹介されているものが少ないようですが、この地の整備を行なっているボランティア団体の「八郷ふるさとの史跡守り隊」が発行している「民話の里めぐり」というパンフレットに地名のいわれが載せてあります。

 これによると「行基菩薩伝説の仏生寺集落」とあります。パンフレットの概略を書くと、「行基菩薩が稽主勲を伴って、筑波山を経てこの地にさしかかると山里に光明を見た。
急いで行ってみると神龍が潜むような川の淵に白髪の老翁がいて、近付くと雷が落ち周囲の木が燃え、白壇の木が残されていた。
そして、この木で仏像を彫り住民に与えたという。そして、後に堂宇を建て「龍光院」と名付けた。
行基菩薩は、「この地は仏が生まれた地であるので、仏生寺と名付けよ」と言われたという。」
となっています。

 どうも私の悪い癖で、このように聞くと本当? とすぐに疑ってしまうのである。
この龍光院というのは前に紹介した小町伝説のある北向観音堂のことです。
この話が本当であれば約1300年前ということになります。

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上の観音像は、北向観音堂に安置されているもので、行基菩薩が奈良から連れて来た稽主勲兄弟の作と言われているといいます。

行基菩薩という人は菩薩と呼ばれるように困っている人を助け、道路を直し、橋をかけ、溝や掘りを多く作ったといわれる高僧で聖武天皇に奈良東大寺の大仏建立のために招聘された人物です。

関西から九州方面にかけて多くの足跡が残されており、また地図まで作ったほど日本全国にも足を伸ばしているといいます。

日本全国各地に伝説や謂れが残されており、多くは後から創られたものと考えるのが普通でしょう。

さて、八郷町誌にはこの観音様について、次のように紹介しています。

「一説には、観音を背負った回国六部がここにきて病にかかったとき、長い間厄介になったある家の主人に観音のご利益を説き、お礼として残したものともいう。」

どちらを信じるか? または別な説があるのか?

どちらにしろ、伝説(小町伝説、行基菩薩伝説、薬師如来伝説など)が生まれるような場所であることだけは確かなようです。

「回国六部」についてはまた明日にでも書きますね。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/12 19:15

生板池(なまいたいけ)

 「なま街道」というのを紹介したので、石岡にある「生板(なまいた)池」という池を紹介します。
東大橋の少し石岡駅よりという比較的に車の多い通りにも近いが、驚くほどひっそりとした池である。
名前が生々しいし、池のほとりには営業廃止したレストラン?の建物が少し不気味な感じがするのでここを心霊スポットとした話などもあるようだ。

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池から石岡の街を眺めることができる。

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池は釣りをしている人もいるが人通りが少ない。
しかし、池をきれいにする活動も行われていて、比較的きれいである。

ここには「八幡太郎の伝説」が伝わっているのである。
源義家(八幡太郎)は奥州征伐の戦いに2度参戦し、2度ともこの石岡の地を通っている。
2度目の戦い(後3年の役)時は、道々進むたびに周りから仲間に入ろうと多くの兵が続々と集まってきた。
現在のかすみがうら市市役所の先にある草原は「四万騎(しまき)ヶ原」といい。騎馬が4万騎も集まり訓練をした場所ということで、この名前が残った。
また、石岡の鹿の子の先には「五万掘」という地名があったが、この時には五万の兵がいたと言う。
では「生板池」はどうかというと、この場所は食事をする炊事場となったため「まな板」の語源が「生板」であることから、この炊事場の意味だという。

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場所は6号国道のジャスコの近くの信号を東に少し行ったところで近くの通りは車が多いのに、少し入ったこの池の周りはぐっと車も少なくなる。
地図を見ると、池は近くを流れる園部川とつながっている。


地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/29 18:42

貝地という地名

 今日で1月も終わりである。1日寒い日であったが、もうすぐ暖かくなるらしい。
夕方も日が暮れるのが大分遅くなって、六時頃はまだ少し明るかった。

 今日は「貝地」の地名について少し述べたいと思います。
石岡市貝地(かいじ)は茨城廃寺や府中外城(石岡城)などがあり、「茨城の県名発祥の地」などとも呼ばれている古い遺跡の残る地です。
今でも地面を掘ると遺跡などが出てくるといわれ、勝手にあまり深く掘ることができないそうです。
名前が「貝地」というので、貝塚などがあるように思ってしまいますが、まったく違っています。
「貝地」は昔は「廨地」と書かれているそうです。
「廨(かい)」という字は「公廨(くがい)(くげ)」などとして使われますが、役所、官庁などを指す言葉です。
辞書によると、「本来は官衙の舎屋の意味であったが、律令制下においては官衙の収蔵物・用度物のことを指すようになり、更に転じて官人(特に国司)の得分(給与)を指すようになった。」とあります。

そう、貝地は常陸国のお役所や資料などの倉庫、特に今の税務署の役人のような人がいた場所を示す地名なのです。
この地に「大掾(だいじょう)氏」と並ぶお役人の中心人物「税所(さいしょ)氏」がおりました。
税所氏の屋敷は「万福寺」の辺りだと考えられていますので、貝地のばらき台団地の入口です。

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税所氏は名前の通り、税や文書管理をしていたことを表しておりますが、この名前は大掾氏と同じく、役職からつけられた名前で、元は「百済氏」といいました。

そうです、「百済(くだら)」は朝鮮半島南部に昔あり、日本に仏教などを伝えた国の名前です。
百済は西暦600年に唐により滅ぼされました。
その時、倭国(日本)には数千人の百済人が逃げてきたといわれています。
それも百済国の身分の高い人が皆逃げてきたようです。
西暦600年といえば日本では古墳時代です。

そして、各地の当時の役人たちの中にもこの人たちが多く含まれているようなのです。
この百済からの人も今の韓国人の中にも多くいるでしょう。
日本に来た人たちも、来た当時は九州や大和などにいたのでしょうが、大和朝廷の進出とともに各地に散らばっていったと思われます。
そうして、日本人になったのです。
日本(倭国)に来るのが早かったか遅かったかの違いでしょう。

どうして、日本の歴史教育は大和朝廷一本やりの内容になってしまっているのでしょうか。
この霞ケ浦周辺には昔からのどかに暮らしていた縄文人が数千年に亘って住んでいました。
そして、大和朝廷に従わない人々をオオカミ(性)やネズミ(窺う)、フクロウ(情)のような人間でない獣というような表現で退け占領したのです。

私もその(大和民族)の血を引き継いでいる一人だと思いますが、昔の歴史ももう少しわかりやすく教えてもらいたいものだと考えされられてしまいます。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/31 19:23

古渡(ふっと)

 今日は銚子にまた出かけてきました。また港の食堂で金目のさしみ・フライ・づけなどのセットを食べてきました。本当に美味しいですね。一番脂がのるのは3月~4月頃といいますので、またその頃に来れたら食べてみたいですね。場所は前回と同じ「久六」さんです。
12月に来たことを覚えてくれていました。うれしいですね。

 さて、今日は途中にみつけた地名「古渡」をFUTTOと道路標識に付けられています。「ふっと」です。
読み方が難しいですね。こういう時にはなにかあるということです。
一緒に行った友人が北海道出身なのですが、この地名をみて「この漢字は当て字だな」というのです。
「北海道にはたくさんこのような地名があり、大体見当がつく」と言います。
そこで、帰ってきて少し調べ始めたら、これもまたおもしろいのです。
場所は先日紹介した大杉神社(阿波アバ、あんば様)の少し手前、稲敷市です。美浦村の少し先になります。
 ここは昔「古渡村」といい、霞ヶ浦の水運で江戸時代までは、非常に栄えていたところだといいます。
また、この古渡には昔からの「祇園祭り」があり、夜8時頃になって神輿が霞ケ浦に入る湖渡御が行なわれる行事が行われていたといいます。しかし最近は夜に湖に入るのは危険なため、湖には入らずに水をかけあう行事に変わったといいます。

 歴史をたどると「古渡城」なるものがあったようで、北条氏滅亡後、戦国時代末期に徳川家康が家臣の「山岡景久」に古渡1万石を与え、この景久が築城したといいます。その後、織田信長の家臣の丹羽長秀の子・長重が西軍に味方して所領を没収されていたが、1603年にここ古渡(ふっと)1万石で入ります。
しかし、この丹羽氏は1622年に棚倉藩(福島県)に5万石で移ったため、古渡城は廃城となったといいます。
今、この城の遺構はほとんど残っていないようです。

 さて、先ほどの地名の由来ははっきりとはわかりません。しかし、この地は縄文人の住んでいた地であり、必ずこのような地名は縄文語(アイヌ語)が係っていると思われます。

調べてみると「古渡」(ふっと)は、アイヌ語で「プット(putu)」に由来し、出口を指す言葉ではないかという考え方が載っていました。
地形をみてみると、小野川が霞ヶ浦に注いでいる場所です。流れの出口となっています。
また「信太古渡(しだふっと)」と書かれた地名もあります。昔のこの地は信太郡です。

現在も、古渡の入り江は水路のように長く、景観がとても美しい場所で、霞ケ浦湖岸でも一二を争うくらい美しい場所だそうです。茨城百景に「古渡の湖畔」が選ばれています。
今度はこの湖畔を散策してみたいと思います。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/03 21:56

匝瑳(そうさ)

今日は立春だが、最近のテレビなどはあまりこの行事を言わなくなった。節分も豆まきよりも恵方巻などとよくわからない行事がいつの間にか行なわれるようになった。
今日のニュースもほとんどバレンタインデーの話題(逆チョコだの友達チョコなど)だ。寂しいですね。

 さて、今日も昨日の続きです。
銚子の駅の近くの交差点の道路標識に「匝瑳」と言う地名が書かれていました。何て読むのだろうと興味がわき調べてみました。匝瑳(そうさ)と読むそうです。「瑳」は切磋琢磨の瑳(サ)ですから磨くと同じような意味でしょう。
では「匝」(ソウ)とは何を意味するのでしょうか?そんなことを考えてこの匝瑳市のホ-ムページを見てみました。
この市は、平成18年1月23日に八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併した時に、名前を住民投票で選んだのだといいます。難しい字を選んだものですね。
ホームページにはこの地名の歴史が紹介されていました。下記の抜粋させていただきます。
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匝瑳という地名は、現存のものでは、奈良東大寺正倉院に伝わる庸調(「ようちょう」朝廷に納めた特産物)に見られる天平13年(741年)の記録が最も古いとされています。
匝瑳という地名の由来は、平安時代前期の歴史書「続日本後紀」によれば、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内の豪族であった物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡(さふさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられています。

匝瑳の語源については、諸説あって定まっていませんが、発音での「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡であったことに由来するという説があります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。
 なお、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで“匝(めぐ)る”と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで“瑳(あざ)やか”あるいは“瑳(みが)く”と読み、あざやかで美しいという意味があります。
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 さて、何が面白いのかと言われそうですが、とても面白いです。この漢字も当て字ですね。
布佐、総、麻、阿波、粟などどう見ても忌部氏などとの関係をおもわせるのですが、物部氏がでてきました。日本(やまと)の国を治めていた? 藤原家により記録もどこかに消された?謎に包まれた物部氏です・・・。

また、同じホームページの中に面白い記事を見つけました。
「曾我兄弟」の墓がこの匝瑳市にあると書かれています。何故?? と思いますよね。
富士の裾野での仇討事件は伊豆の源頼朝の周辺の話だと思っていたのです。

書かれていた内容を概略下記に転載させていただきます。
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源義朝が平治の乱に敗れ、その家臣である鬼王七郎左衛門も東国に落ち、今の匝瑳市山桑に逃れた。
七郎左衛門には鬼王丸・団三郎の二子があり、共に父の遺命で伊豆の河津祐泰(ひろやす)に仕えた。祐泰には十郎・五郎の二子があり鬼王丸は五郎を、団三郎は十郎をお守りした。

 安元二年(1176)祐泰は、伊豆の狩り場で工藤祐経に殺された。十郎・五郎兄弟の母親は、後に曽我祐信に嫁ぎ、曽我の姓を名乗ったあとも、鬼王丸・団三郎兄弟は引続き曽我兄弟に仕えていた。

 建久四年(1193)、富士の裾野の巻狩りで工藤祐経を殺し、父の仇を討ったが、十郎は討たれ、五郎は捕われた後に殺された。鬼王丸・団三郎兄弟は、十郎・五郎の遺骨を携えて山桑に帰り、ねんごろに葬ったという。現在でも鬼王家の墓地には曽我兄弟の墓がある。

 なお、曽我物語で、十郎の妾として登場する大磯の虎御前が、この山桑を訪れ鬼王家に七年間も滞在し、曽我兄弟の冥福を祈ったといわれている。万町の福善寺には、虎御前が用いたうちかけがあるという。
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さあ、どこまで信用できますか?ここには虎御前も出てきます。
よっぽど有名だったのですね。

ひたちなか市の「虎塚古墳」に「十五郎穴」にも曾我兄弟の話がもっともらしく語られる程、この仇討事件が有名になっていたのでしょうね。
それにしても知らないことがこんなにも多いとはインターネットの威力はすごいですね。
 
 今度の日曜日には美浦村の陸平(おかだいら)文化センターで「石岡」のことば座の朗読舞い(白井さん、小林さん)と美浦村のモダンバレー(柏木さん)に行方市のオカリナ奏者(野口さん)のコラボレーション公演が行われる。皆その地方を大切にし、活躍をしている人たちだ。本当に楽しみです。

午後2時からです。入場無料ですので皆さん一度見て、聞いてくださいね。(^_^)~


  

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/04 20:56

葦穂と足尾山

今日は満月十五夜のようです。夜6時過ぎで、まだ東の空に上ったばかりです。月の出は4時半ごろでしょうか?
これから1日に1時間くらい月の出が遅くなります。
 さて、今日は筑波連山の足尾山についてです。
足尾山(627.5m)は筑波山(877m)と加波山(708.9m)の中間に位置し、石岡市と桜川市の境に位置する古来からの信仰の山です。またこの三山を常陸三山といっています。
今は板敷山~吾国山と並んでハングライダーのメッカとなっているようです。
 
 しかし、この山の歴史を見てみるととても興味深いのです。
山頂に足尾神社があり、延喜20年(920年)に醍醐天皇が夢枕にこの神社を知って、ここに祈願して足の病が治ったことで勅額を賜り「足尾山」となったという。額は野火で焼けてしまったそうですが、足の信仰とあって多くの草鞋や草履などの奉納があり今でも続いています。
また、全国各地に足の不自由な人の信仰の場所があるのですが、その中でもここがそのメッカ的な場所となっているそうです。

常陸風土記の(一)新治郡のところに

「郡家より東五十里のところに、笠間の村がある。村へ通ふには葦穂山(あしほやま)を越えねばならない。葦穂山には昔、油置売(あぶらおきめ)の命といふ山の主(山姥)がゐた。今は森の中の社の石屋に眠ってゐる。こんな俗謡もある。

 言痛(こちた)けば をはつせ山の 石城にも 率て篭もらなむ な恋ひそ我妹(わぎも)

(もし人に知られて辛くされたら、小初瀬山の石室にともに眠らねばならない。だから気持ちを押さへてくれ、私の恋人よ。)」

と書かれている。 (口訳・常陸風土記より)

「葦穂山(あしほやま),小初瀬山(おはつせやま)」と出てくる山がこの足尾山であり、葦穂を足尾(あしお)と書くようになったものと考えられる。
また、石岡市の足尾山の麓の村は昔「葦穂村」といい、今でも地名に使われており、葦穂小学校などがある。また近くに「芦穂」なる地名もある。

もともと葦という植物はその真っ直ぐ立つ姿から「足」「脚」などと同意語として使われたのではないでしょうか。
またパスカルの言葉として伝わる「人間は考える葦である」ということも日本語ではないので関係はないようですが面白い比喩だと思います。葦は風が吹くとしなってその流れに耐え、止めば真っ直ぐに立つというのを表現しているようです。人間の足も同じですね。
もっとも鈴木健さんによればこれも縄文語で「as:立っている、立つ」「i:もの、ところ」からきていると書かれており、「足す」を「たす」と読むのも同じで「噂が立つ」などの立つも同じだと書かれています。(「日本語になった縄文語」より)

ところで、足尾山の山中には大きな奇岩が多く、たくさんの霊場があったと伝わっています。
登山道は先日紹介した上曽宿に残された鳥居から登る登山道があったと言うが、この道は残っていないようである。

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上の写真のように上曽宿の鳥居の先は人家が建てられ山への登山道は何処にあったのかわからない。

また、石岡市小屋に、足尾神社別当だった大岩寺があるというので行ってみた。

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寺の場所はフルーツラインを北に向かって進むと葦穂小学校と葦穂郵便局の丁度中間くらいの左側の道を少し入ったところにあります。YAHOOの地図などでは詳細の地図にしないと表示されません。
また、このフルーツラインの反対側には通りに面して「井白の泉」なる名水があります。

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私は知りませんでしたが、名水としてコーヒーなどに使うと美味しいといわれているようです。
今度行った時に少しボトルにでも入れてこようと思います。(ものは試さないとわからないですから・・・)

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寺の鐘堂の向こうに足尾山の山並みが見えます。

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古い山門の佇まいも佳いです。

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寺の入口にいくつかの古びた石塔が立っていました。
「二十三夜尊」「六十六部記念碑」などが置かれています。

さて、この足尾山には昨日書いた「常陸坊海尊」が関係しているというのですが、今日書く予定でしたが時間がなくなりました。また明日にでも・・・・。
  

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/18 19:15

正月平

今日はギター文化館のコンサートに行ってきた。友人とフィリピン人を一人連れて行った。
また会社の同僚の若夫婦が子供を連れてきてくれた。十分楽しめたようだ。
ギターのオカヤンもかなりよかった。うまく溶け込んでおり全体に厚みができていた。
帰り際に、鈴木牧場でヨーグルトとチーズを買って、友人たちを送って、今帰ってきたところである。

あまり新しい話も書くのは大変なので、今日はめでたい地名としてよく名前のあげられる「正月平(しょうがつだいら)」についてです。
もう知っておられる方にはつまらない話ですが、この名前の由来は八幡太郎(源)義家と父親の頼義親子が奥州安倍氏と争った前九年の役(1051年~)の時のことです。
陸奥守に任じられた源頼義とその子義家親子が奥州へ行く途中でこの場所で正月を迎えます。
村の人々は数少ない住民しかおりませんでしたが、温かく迎え接待をしたと伝えられています。
まだこの最初の奥州戦は人数も少なく、この親子にとっては大変苦労した戦いになりました。黄海の戦いで数百人の死者を出し戦に敗れ、安倍氏側の勝利となるかと思われたが、清原氏の助けを借りて安倍氏を滅ぼします。
この時朝廷側の兵はおよそ1万。頼義の兵は約3千と伝えられます。

その後東北地方は安倍氏に代わって清原氏が治めることになりますが、後三年の役では今度はこの清原氏との戦いになりこれを滅ぼします。その後奥州に勢力を伸ばしたのは藤原氏となるのです。
この戦に向かう八幡太郎義家には続々と味方が加わり、かすみがうら市の四万騎(しまき)ヶ原、石岡の五万掘、生板池(七万)などの地名が残されるようになります。
この正月平にも八幡太郎義家の「鞍掛けの松」があったといわれますが、今はどうなっているか??

さて、源頼義の三男新羅三郎義光が後三年の役(1083年~)で、兄を助けるために参戦を朝廷に願い出ますが許されず、官を辞して参戦します。
そして、戦いの後、源義光は常陸守に任じられて常陸国にやってきます。そして常陸平氏(吉田)から妻をめとり勢力を拡大していきました。
この源義光の子孫が常陸国を統一した佐竹氏であり、甲斐の武田氏となっていきます。
源氏も平家もないですね。甲斐国に行ったのは、義光が甲斐守に任じられたこともありますが、常陸平氏の勢力(鹿島氏など)との軋轢があるといわれています。

しかし、私にはこの新羅三郎義光が笙(しょう)(ふえ)の名人で、戦争に行って帰れないかもしれないため、追いかけてきた豊原時秋に足柄山においてこの秘曲を授けた逸話の方がとても興味を引きます。

今日の話題から段々それてしまっていますので、話題を戻して、この正月平地区を散策してみました。
場所は三村の少し南側の高台地区です。

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現在の正月平地区の通りです。大きな塀の家が多いですね。

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地区のはずれにある八幡神社です。

この近くのかすみがうら市の「子安神社」「胎安神社」などにこの八幡太郎の伝承が残されています。
石岡は古東海道の終点の都市でした。その東海道を通ってきたとすると昔の街道がこの辺りにあったことになります。
美浦村の牛込から霞ケ浦(香取の海)を舟で牛渡へ渡り、そのから旧出島村を通ってこの三村地区(正月平)へでて、中津川あたりで恋瀬川を渡って北根本へでて国府へ向かったのでしょう。
この川のあたりの地名に「かいつづみ」という場所があるといいます。
これは、湿地帯で歩行困難となった時に付近に群生する茅を刈り取って集めそれを踏みしめて何とか無事に進むことができたため「茅堤」と言う名が付いたものだそうです。これが訛ってかいつづみ(地元では「かえつづみ」と発音)となったものといいます。

平将門の国府攻めもほぼ似たようなルートではなかったかと思います。まっとも正上内などが将門に味方して四方から火を放ちながら攻め入ったようです。
西暦900年頃から鎌倉時代頃まではこちらの道がかなり使われていたのでしょう。
今からは想像するのみですが・・・。
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/06 19:04

タバッコ峠

 先日でかけた常陸大宮市の美和から大子町へ抜ける山の市境に変わった名前の峠があります。
現地にいっても何の変哲もない普通の峠で、市や町の境を示す標識はありますが、峠の名前を示す標識はありません。
北海道を除けば峠の名前にカタカナを使っている場所は多くは無いでしょう。この「タバッコ峠」と神奈川県の「ヤビツ峠」くらいではないでしょうか?

ヤビツ峠は「矢櫃峠」と書く場合もあるようですが、矢の入った櫃が発見されたなどといういかがわしい説明があるのと同じく、この峠にも弘法大師が峠でタバコを一服し、腰かけた石があったのでこのような名前がついたとの解釈や、タバコの栽培が盛んであったとのことからついたのではないかという解釈がなされています。

しかし、わたしはどちらもアイヌ語説を信じています。
昨年のブログで美浦村の少しさきにある「古渡」という地名が「フット」と読むことがアイヌ語からきているのだろうと書いたことがありますが、このタバッコもアイヌ語=縄文語であろうと思います。
山の鞍部が峠であり、「タワ」「トウ」などという縄文語が日本語の「たわむ、たわわに実る」などの言葉の元になったということを考えれば、タバッコも単に峠を指す言葉が残ったのでしょう。

ヤビツ峠は神奈川県の大山(おおやま)の麓で秦市です。秦氏との関係も興味がある地区です。アイヌ語というよりも朝鮮語かもしれません。
ヤビツ峠の近くには「名古木」と書いて「ながぬき」と読む地名があります。これも関係がるのかも知っれませんね。

水戸の「木葉下」で「アボッケ」と読むのと共通するかもしれません。

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「タバッコ峠」は、旧美和町の高部から大子町の栃原(昔に金山があった)へ行く時に通る山越えの峠です。
峠越えをするときに、私の車の前に木材を載せたトラックが走っていました。


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山の先の大子町の山側には今でも製材所がありました。

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峠には「常陸大宮市」と大子町の境を示す標識があるのみです。

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峠の山桜です。何もないのですがホッとしますね。

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常陸大宮市側の通りです。一週間前の桜のまだ咲いていた時です。今はもう散ってしまったでしょうか?
大子町は袋田の滝で有名ですが、地震後鉄道(水郡線)もなかなか復旧せずに、観光客場激減だそうです。
今は鉄道も復旧しましたが、観光も厳しいでしょうね。
私は、大子町のコンニャク製造農家へ時々行っています。

とっても美味しいコンニャクで、刺身で食べても美味しいので、都会なら高く売れるでしょう。 (^。^)~
 

地名 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/04/26 18:30

難読地名-嘉良寿理

 このブログでも何度か地名を取り上げてきました。
ブログを書くために調べるうちに、最初の頃と比べて地名についても自分の見方も大分変わってきたように思います。

 さて、石岡に「嘉良寿理」という地名があります。何と読むでしょうか?
「カラスリ」と読みます。漢字をそのまま読めば読めますね。
でも普通の人は読めません。どこか不思議な地名です。周りの地名「林」「山崎」「柴間」「瓦会」などとはニュアンスが異なります。あきらかに言葉があって漢字はあとからあてはめられたということでしょう。

八郷町が石岡市と合併したのは平成17年10月。下の「八郷町史」が出版されたのは平成17年の3月。「八郷町の地名」の方は平成15年12月です。これは平成の大合併が検討されていた平成12年から八郷町の名前がなくなるのを危惧して作成されたものです。
大分急いで作成されたため、内容は不十分と思えるか所が散見されますが、その労は多とさせていただきます。

石岡にも地名の立派な本が出版されていますが、基本がどうしても元禄や天保などの時代にしかさかのぼれず、こちらからのアプローチは必ず一方的な解釈にならざるを得ないように思います。
八郷の地名の本は内容は兎も角、字地名や昔の集落の地名がかなり列挙されており、記録としての価値がありそうに思います。

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「元禄郷帳には鷹爪、天保郷帳では烏瓜、新編常陸国誌では烏瓜(加良須宇里)、明治17年の陸軍部作成地形図は加良須里とある。現在は嘉良寿理と表記している。本来は「涸州里」で水の少ない谷津地集落の意であろう。一方では「唐住里」で大陸渡来人の住んだ集落説を唱える説もある。
 集落の北側台地上には、瓦谷街道(後宇都宮街道)の古道があり、街道沿いには茨城県指定文化財の嘉良寿理経筒出土地、旧嘉良寿理村社貴船神社がある。・・・近世旗本領、・・・天保14年の戸数は16戸である。」

と書かれています。この場所を谷津地(恋瀬川支流の一つの源流地)と見るか、まったく別の見方があるのか? 唐は昔はインド、中国、韓国などの地はすべて唐という見方もあります。

さて、ネットで検索して見ると、「あやしい地名研究」という変わったサイトがありました。登録された地名からある単語で検索をして、その地名の分布と縄文遺跡の分布などを突き合わせていた。
おもしろい手法だと思う。
ここでは「カラス」「ラス」「シラス」などの語で検索して解釈を加えている。
1)「カラス」を含む地名は背後に険しい山のある「岡」にあることが多いといってよい。
2)「からす」は山の人々、「から」と呼ばれた人々の「巣」ではないか。「か」は「かみ(上)」「かむる(被る)」の「か」であり「上のほう(も人々)」となる。「かす」ではなく「からす」であるが「ら」とは何か?「ら」は「そこ等」「僕等」「はらから(同胞)」の「ら」であると思う。複数を表す「ら」である。
となっています。
また「唐」についても解釈がなされ、天竺などインド、中国、韓国などは遠いところと、高いところと解釈しています。
おもしろいですね。

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高台の丘の上からは東には難台山などの山並みがきれいだ。

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地区にある貴船神社にあるスタジイは市内の古木としても大変大きな木である。
訪れる人もほとんどいないが、幻の旧宇都宮街道の休憩場所としても旅人をいやしたに違いない。
この高台からは両側の山が見渡せる。

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さて、この八郷や石岡の地名をデータベースに取り込んで、ほとんどは郵便番号帳で取り込めると思いますが、検索プログラムでも作成して検討して見たいと思うようになりました。
そのうちにやってみましょう。プログラムは単純なものならEXCELで意外に簡単にできそうです。


  

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/08/02 19:35

石岡の地名-狢内

 映画やテレビの時代劇などでよく使われる龍明にある長楽寺。
この寺は愛宕山13天狗に登場する13番目の天狗の寺としても有名で、江戸時代の本にも狢内村の長楽寺として出てくる。
少し前までこの地区は(葦穂村)狢内と呼ばれていた。

この場所に行って、裏は山で奥まった感じから「むじな」とは当然タヌキやアライグマなどで人を化かすムジナのことだとばかり思っていた。
しかし、先日借りてきた「八郷町の地名」によると

「狢内の地名の由来は不明であるが、獣の狢ではない。足尾山中腹の山中に位置する狢内に、源流を発する小さな川は、下流の鯨岡と弓張境までの川岸が山間の急流を流れることからの地形語と考えられる。
「ムサ・ムシ・ムジナ」などの意は山中の「沢」が曲流して崩壊地形をつくる地名を言う。
「ムジナ・ムジル」でむしり取るの沢が流れの方向を変える処の意ともいわれている。」

となっています。では「むしる」という言葉は「たわわ」などと同じ縄文語?かもしれない。

ところで旧八郷には変わった地名も多いが、「林(はやし)」などという大きな村があったが、あまり直接このようなストレートの名前は珍しい。
これについては「八郷町の地名」によれば、「拜師」で信仰対象地域の意であろうとしています。
しかし、「八郷町誌」では「和名抄」に書かれている茨城郡の18郷の中に「拝師(はやし)郷」とあるが、「出雲国風土記」に「ここの樹林が勢いよく茂っていたので、林という。神亀3年(726年)に字を拝志と改めた」とのことが書かれており、本来は「林」という地名であったのだろうとしています。
従って今は元に戻ったということなのでしょうか。

地名は難しいですね。どれももっともらしく聞こえてきます。

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長楽寺の入口に立つ仁王門(裏手側から撮影)

MapFan地図へ
 

地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/08/05 19:30

正上内

さて、今日は石岡の祭りの記事の間に一つ記事を挟みます。

 台風は四国から中国地方から近畿地方に大雨を降らせ広い範囲に被害があっったという。
被害にあわれたところには心よりお見舞い申し上げます。
幸い、こちらの方は梨の収穫や巨峰の収穫にも問題なく雨も大したことがなかった。

今日は車の調子が悪く、見てもらう約束していた車のディーラに出かけてきました。

一日中、蒸し暑く、あまりスッキリした気分ではないが、車の悪いところもわかりホットして戻ってきた。
せっかく出かけたので、気になっていた「正上内」(しょうじょううち)という町にに行ってみることにした。

車を空地に置いて少し歩いてみたが、セミも最後の鳴き声をはりあげていた。
ツクツクボウシがたくさんに鳴いていた。でも「オシーツクツク」て鳴いていますよね。
「ツクツクホーシ」とは鳴かない。これがどうにも変だ。
つまらないことに関心を持ったものだが、夏を惜しむように「惜しーツクツク」て鳴いているのに・・・。

ヒグラシが夏の終わりのセミというイメージがあるが、夏には一番早く鳴き出す。

 さて、正上内という名前が出てくるのは平将門が1000名位の兵で3000人もいた国府の兵をやっつけ、常陸国府を奪い取った事件の時である。

もう1000年以上も前の大事件です。

将門が事件を起こすきっかけにもなった「藤原玄明(はるあき)」「藤原玄茂(ふじわらはるもち)」たちの一族の住んでいたのではないかと言われるこの正上内にある「権現神社」を見てみたかったのである。

将門記でも大悪人のように書かれている藤原玄明とはどんな人物だったのか。

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正上内は石岡から笠間へ向かう旧355線、笠間街道(笠間では江戸街道とよぶ)を石岡から県道7号線の下をくぐるところから先にある。
特に何も目だった特徴のものは無い。

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石岡一高の農園(第二)がありました。
園芸科が高校にあり、その農園でしょう。高校の農園としては広いです。梨畑などがあります。

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権現神社は県営アパートの少し先の355号線が坂を下った所から左に少し入ったところにありました。

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訪れる人はほとんどいないらしく、手入れはされていましたが、足跡はなく、私が歩いた跡だけが残りました。
神社もそれほど大きくは無く、各地の部落に残されたというような普通の神社です。

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屋根についているマークが少し変わっているので写真をとりました。

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この場所はもうすぐそこに新しくできた常磐高速道路のスマートインターチェンジの入口が見えます。

前に書いたのですが、佐竹義政の首塚のある大矢橋は目と鼻の先です。

やはり、実際に行ってみないとイメージがわかないものですね。行って良かったと思います。

正上内の名前の由来は常陸少掾(しょうじょう)が住んでいたところという意味でついた地名だと言われています。
常陸の国衙(現石岡小学校の敷地)には常陸大掾(だいじょう)が住んでいました。

掾(じょう)というのは役職で介の下の位ですが、段々と年代が進むと、常陸介は都にいてやってこなくなりますから、実質上の県知事のようなトップの役職になっていきます。
そして世襲のようになり名前まで「大掾氏」と呼ばれるようになっていったのです。

まだまだ知らないことがたくさんあるものです(将門時代などまったく良くわかりません)。

将門が常陸国衙を奪ったとき、ここ常陸国衙にはたくさんの絹が保管されていたといいます。
当時は大変貴重であった絹布が1万5千もあったと伝えられています。

 

   

地名 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/09/04 23:29

茨城の県名(1)-茨城県の誕生

この茨城の名前の由来をテーマにブログでも書いてみようと思い始めてからもう3カ月も経ってしまいました。

 いつも記事が長くなる場合は1日で書けないので、下書きの記事を書きながら途中で追加したり訂正したりしているのですが、今回の記事は少しも書き進めることができませんでした。

記事を書き始めたのは7月中旬でしょうか。

少しずつ書いてきたのですが、どうもまとまらないのでボツにしようかと思ったのですが、もったいないので、中途半端だけれどUPする事にしました。

この茨城県という県名ですが、中央政権的な発想で決められたようで、私はあまり好きなネーミングではありません。
茨城県の不人気の一因にもなっているように思っています。

「茨(いば)」というとトゲがあって痛いし、眠り姫が100年間眠っていたら、野原は「茨」だらけになって、そこを王子様が切り開いて進むというイメージ(未開の土地)が働きます。

しかし、歴史的にみれば明治政府に水戸藩の人間がほとんど入れなかった(というよりも幕末の騒乱で多くの人物が殺された)ために、やむを得なかったでしょう。

 県の名前のいきさつを調べてみました。

明治2年6月の版籍奉還の時には茨城県域は14藩(水戸・土浦・笠間・古河・松岡・石岡・下館・結城・谷田部・志筑・牛久・宍戸・下妻・麻生)があり、藩主がそれぞれ藩知事に任命されました。

その後出入り(谷田部が消え松川・龍崎の2藩が加わった)はあったが、廃藩置県では藩が県(天領を除き15県)となります。こんなにたくさん県ができたのですね。

 その後、明治4年11月13日にこれらは、茨城県(県北・県央)、新治県(県南・鹿行)、印旛県(県西)の3県に統合されました。そして県庁もそれぞれ水戸・土浦・千葉県印旛郡に置かれました。

この時に「茨城県」という名をもつ県が誕生し、茨城県の県民の日は11月13日となったのです。

そして、明治8年5月7日に新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割編入が行なわれ、水戸が中心でしたので「茨城県」が残って現在の姿になります。

 では、私のいる石岡市はどのように名前が変わっていったのかを見ると

明治2年6月17日:常陸府中藩(常府)から石岡藩へ名称変更(版籍奉還)
明治4年7月14日:石岡藩は石岡県へ名称変更(廃藩置県)
明治4年11月13日:石岡県は他の県と合わせて新治県に統合(茨城県、新治県、印旛県ができた)

従って、石岡は茨城県という県名ができた時には、新治(ニイハリ)県に属していたのです。
意外にこの辺りのいきさつを書いたものが少ないですね。
あまり興味もないかもしれませんが少し詳しく書かせていただきました。

 ここで疑問に思うことは、水戸を含む県央・県北地域が何故「茨城県」となったのでしょうか。
このいきさつが良くわからないのです。

もちろん「常陸府中」が「石岡」にかわったのも真相は不明です。

(少し、注釈を付けないとあちこちからクレームがきそうですので、この石岡の名前については色々な解釈や本もでています。市でも「石岡の地名」という本を作っています。ほかにもたくさん説明はあります。
ですので、ここであまり論じるつもりもありません。
これらの資料によれば、ある程度いきさつはわかるのですが、しかし、何故「石岡」などという名前を探して藩の名前にせずに、「常府」などの名前をつけようとしなかったのかが不明なのです。
これは廃藩置県の時ではなく、その前の版籍奉還で「石岡藩」になった時のことです。
このいきさつは駿河府中(駿府)が「静岡県」になったのと、とても良く似ているように思います。)

水戸は水戸学の中心であり、大きな思想的影響力があったが、天狗党はじめ多大な犠牲者を出し、明治政府には要人を入れることができなかったのです。
むしろ、その影響力を弱めようとする力が新政府に働いたのだと思います。

このため、水戸を含む地域が「茨城県」という大昔の名前を持ってきたのでしょう。
「新治」についてもヤマトタケルの頃からある名前ですので、大昔からの名前ですね。
現代風な見方をすれば、全て「野暮ったい名前」になっていますね。

これが、「水戸っぽ気質」などと言われる県民性もあり、都会では人気のない県としてトップに名前があげられる一因となっているように感じています。

明治に鉄道ができるのも比較的遅かったと思います。

明治18年に東北本線が大宮-宇都宮間に開業し、明治20年に水戸-小山間に水戸鉄道が開通しました。
友部-土浦間の土浦線開通が明治28年で、この時に石岡駅が開設されています。
その後東京田端-土浦間の鉄道開通は明治29年12月です。
これにより現在の常磐線の上野-水戸間がほぼ開通しています。
しかし、目的は常磐炭鉱の石炭の輸送が最大の目的でした。

しかし皮肉なことに、この鉄道が開通したために霞ケ浦の船運は急速に衰退し、石岡の港である「高浜」も町としても衰退してしまったのです。

このことは、今では逆に、都会の便利さとは全く違う風情を多く残す結果になっているのですから、石岡や茨城県はもっと都会などとは違った魅力をアピールしていくべきだと思っています。

 さて、次回は石岡が「茨城県名の発祥地」ということのお話です。

最後までお読みいただきありがとうございます。
よろしければ次回(明日)もお付き合いください。

・・・・以下は記事とは関係のない余録です・・・・・

 昨夜、久しぶりに6号国道沿いの「キッチンさくら」にハンバーグを食べに行ってきました。
相変わらず美味しかったですが、前行った時より気になっていた点が改善されていました。

一つはライスセット(320円)にライスとスープと今までは和食の漬物などが決まってついていたのですが、別にサラダなども好みで選択できるようになっていました。
また、このセットにはドリンク(コヒー、紅茶など数種)を好きなものが選べます。

また、たのまれたメニューもちゃんと復唱していました。良くなっていました。頑張れ~。

店内にあるジャズ人形も時間になると音楽と一緒に動きます。人形1体ごとにスピーカがついていて、楽器に合わせた音が出てきます。これっていいですね。

今月末のハロインのカボチャの飾り物もありましたよ。

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茨城の県名 | コメント(30) | トラックバック(0) | 2011/10/20 06:59

茨城の県名(2)-石岡は県名発祥の地?

 茨城県の県名を書いてきましたが、今日は(その2)です。

今日は、ここ石岡市が茨城県名の発祥の地と言われていることについて少し書きたいと思います。

最初にお断りしておきますが、私はこの解釈は正確には正しくないと思っています。
しかし、あまり声を荒げて反対を叫ぶつもりもありません。

なぜなら、全く間違っているというわけではないからです。

しかし、石岡では反対を唱えることは多分タブーなのでしょう。
県の名前がこの場所から興ったというと格好がいいのかな?

石岡市史や石岡の歴史などでは、反対の意見はあまり紹介されていません。

ここで違うと書いても、まあこんなブログに文句をつける人もあまりいないでしょうから好きに書かせてもらっても良いでしょう。

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JR石岡駅の改札を出たところに「ようこそ歴史の里 石岡へ」という看板が出ています。

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その看板の裏側には「茨城県名発祥の地」と書かれており、駅を正面に見ると目だつようになっています。

私が石岡にきて間もない頃、もう数年前ですが、石岡市の駅の隣りの観光案内所を訪ねて、

「石岡の駅前には「茨城の県名発祥の地」と大きな看板がでていますが、発祥の地の説明板があると聞いてバラキ(茨城)台団地の近くを探したけれどわからなかったのですが、何処かおわかりになりますか?」

と訪ねたことがありました。

すると、案内所の方が嬉しそうに出てきて説明してくれました。

「貝地のスーパの前あたりに、たしか説明看板があったと思います」と教えていただきました。

そして、こちらはそれ以上の説明を頼んだわけではないのだが、知っていることをしゃべらずにはいられないというように、

「むかし、このあたりには山の佐伯、野の佐伯という凶暴な土ぐもが、穴を掘ってすんでおり、里人を困らせていたのです。
 そこへ、黒坂命(くろさかのみこと)がやってきて、茨(いばら)で穴の入口をふさいでしまったので、土ぐもたちは、穴にはいることができずに、茨に傷ついて退治されてしまいました。
また、茨(いばら)で城をきずいたともいわれ、茨城の名前になったのです。」

と得意そうに説明をされるました。

私としてはそのことは聞いてもいないし、ただ「そうですか」と聞いていました。

この説明を聞くのは、実はいやな気持になるのです。
お話していただいた方には大変申し訳ないのですが、得意になって話す内容ではないと思っています。

確かに、常陸風土記の茨城郡の所には古老の話として、今説明された内容が書かれています。

しかし、あくまでも古老の話としてあり、大和朝廷の意向に合うように書かれたものに違いありません。
ここに何千年、何万年も前から住んでいた現住民族を土蜘蛛なんて表現するのは間違っていますよ!!

石岡にくると急にこの「黒坂命(ころさかのみこと)」の名前が出てきます。
ヤマトタケルの名前ではありません。ではこの黒坂命とはどんな人物だったのでしょうか?

石岡の歴史関係の書物にはほとんど説明がないようです。
そのため、石岡の人もわからずに覚えた「黒坂命」の名前を無意識に使うのだと思います。

 石岡では茨城県の地名の発祥の説明に引用されている常陸風土記に登場する「黒坂命(くろさかのみこと)」について、あまり説明されてきていないようです。何故なのでしょうか?

 常陸風土記では「岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。」

となっているのですが、佐伯(さえき)とは砂鉄を掘る人などをいったのではないかという考えもあるようです。

そして、敗戦で捕虜になった佐伯の人々は西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられたということも出てくるようです。

そして、この黒坂命は神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を祖とする多臣(おおとみ)系と思われています。
これは中臣(なかとみ)氏と同じです。中臣鎌足(藤原鎌足)が鹿島出身であるとの説がかなり強いということも頷けます。

 ではこの場所はどこを指しているのでしょうか?
香島郡(かしまのこおり)と出てくるところもありますので、香島郡とはどのあたりでしょうか?

香島(かしま)は現在の鹿島神社の鹿島の昔の呼び名ですが、香島郡については常陸風土記に那賀と香島との境は、阿多可奈湖(あたかなのみなと)と書かれており、この阿多可奈湖の位置を涸沼にあてる説(新編常陸国誌など)と那珂湊の古名とする説(日本地名辞典など)があるとされていて、香島は涸沼または那珂湊よりも南側と解釈できます。

しかし、現在の地形で考えると理解がし難いようです。

霞ケ浦が湖ではなく、大きな流海と呼ばれたように、この那珂川と涸沼などの一帯ももっと大きな海(湖と海の中間)であったと思われます。

さて、少し別な方面から見てみましょう。

 この黒坂命は都(大和)から、霞ケ浦の対岸の美浦村(信太郡)にやってきたようです。

時代は第10代崇神天皇の時代。紀元前97年~紀元前29年と古事記などでは紹介されている時代なのですが、日本の天皇はこの頃サバを読むのが得意で、色々解釈が分かれるようですが、実際は3世紀後半から4世紀初めころではないかと思われます(あまり詳しくはわかりません)。

そして、この土地(美浦村)にいくつかの話が伝わっています。

そして、そこから蝦夷を追いたてながら北の方に攻め入り、日立市十王町の北部の「堅破山(たつわれさん)」で病死したと伝えられています。

そして、堅破山の上に「黒前(くろさき)神社」が建てられ、黒坂命の亡骸はかねてからの本人の希望の通り霞ケ浦がみえる美浦村にいってそこに葬られた(古墳(大塚古墳か?))と言われているのです。

この葬送の様子が、赤や青など五彩の旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見えたので、「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後に「信太(垂・しで)の国」(今の霞ケ浦の南岸地域)というようになったと言われています。

ということは黒坂命が退治したのは土蜘蛛などではなく、蝦夷と呼ばれる現住民族だったのはたしかなのです。

何故美浦村なのかと言うと、この地が豊かであったのと同時に、昔は北へ向かう道がこの近くの牛込あたりから霞ケ浦(昔は流海とか香取海などと呼ばれていた内海)を舟で渡って対岸の現在のかすみがうら市の牛渡付近に渡っていたからです。
すなわち北への玄関口だったのでしょう。
牛込・牛渡(うしわた)の地名はここを牛が渡ったことに由来しているようです。
土浦の方はまだ沼地で現在の6号国道の方は通れなかったのでしょう。

 黒坂命は、その当時大和朝廷の力が及んで安心していられた場所に葬られたのだと思います。
実際に美浦村で古墳が発見され、一時騒然としたのですが、まだ実態は不明です。

これとは別に、石岡の東(霞ケ浦の北岸)である行方(なめがた)地方には「ヤマトタケル」の伝説がたくさん残っています。
これは前にもこのブログで紹介しました。

行方には、黒坂命の時代にはまだまだ反対の勢力がたくさんいたのでしょう。
こちらを制圧したのはそれより数十年後の時代(第12代景行天皇の時代)で、ヤマトタケルの時代なのでしょう。
そうすればほとんどつじつまが合ってきます。

 さて、話は戻って、私は茨城の名前の由来の説明に出てくる「野の佐伯などの土蜘蛛など」という表現は好きではありません。

もし、観光案内所の方がこの事実を御存じだったら、説明も自ずから変わってくるはずなのです。

案内書などで、歴史の説明をしていただけることはありがたいのですが、もう少し実情を理解して表現に注意していただたら、もっとすばらしくなるのにと思わないわけにはいかなかったのです。

ましてや、そこにきれいな野バラが咲いていたから「茨城」の名前がついたなどという表現は正直「嫌い」です。

美化された言葉で、真実が見えなくなってしまいます。(しかし、この説もないわけではありませんが)

(その3へ続く)

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茨城の県名 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2011/10/21 05:29
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