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瀬戸井街道(1)-山崎宿

 さて、今日の記事は江戸時代に筑波詣で栄えた瀬戸井街道に関するものです。

 江戸時代に江戸から見て鬼門(東北)方向に当たるとして、徳川家からの保護を受けて、筑波詣でが盛んに行われました。
このため、筑波への道が各地に造られ、特に水戸から筑波と群馬県の瀬戸井(邑楽郡千代田町瀬戸井)を結ぶ28里(112km)にも及ぶ街道(瀬戸井街道)が巡礼道、物資運搬道として発達していきました。

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しかし、この瀬戸井街道は現在あちこちが寸断され、1本の道としてはわからなくなっています。
水戸から岩間までは県道30号線、筑波(北条)から古河までは国道125号線がほぼこのルートでした。

主なルートは水戸-鯉渕-住吉-泉(岩間)-山崎-柿岡-小幡-(風返峠)-北条-高道祖-下妻-八町-諸川-小堤-古河-瀬戸井(古河-瀬戸井間は利根川が流れており舟運かもしれません)
街道に名前がついた「瀬戸井」も小さな町です。

日光への街道と、この筑波への街道とが大きな意味を持っていたのでしょう。
今の私達が見失っているものなのかもしれません。

この瀬戸井街道が、ここ石岡市の旧八郷地区を横切るように走っています。
水戸の城下から筑波にお参りに行く最短ルートだったようです。

「八郷町史」では、水戸から岩間を通り、真家・厚毛峠・山崎・部原(へばら)・柿岡・小幡・風返峠・北条と続いていたと書かれています。
しかし利用されたのは江戸期であり、明治・大正と徐々に一部は使われなくなり、消えて行ったため道も寸断されてしまいわからなくなっている所も多くあるようです。

特に柿岡から山崎、泉(岩間)の道ははっきりしません。

また「厚毛峠」とありますが、地図には出てきません。地図にあるのは「厚茂峠(あつもとうげ)」で、この峠は部原(へばら)部落に近いため、違うかもしれません。

昨年ブログで「矢口家の鹿子の木(こちら)」を紹介したのですが、もしこの道が瀬戸井街道の一部とすると、この山崎の宿場を通るとまわり道になります。

もう少し調べてみないと、私には瀬戸井街道はどのルートであったのかがわかりません。

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バス停の名前が「山崎宿」と宿場であった名前をとどめています。
「山崎」の地名はこの周辺にかなり広く使われていますが、「宿」がつくのはここですので間違いないでしょう。
でもバスは1時間に1本もありません。都会では考えられないですね。

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この通りに沿って立派な長屋門や屋敷が並びます。一部地震の被害も見受けます。

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こういった立派な門は門の中は納屋や使用人が寝泊まりできたようです。

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門だけで普通の家よりも立派ですね。でも屋根が瓦になったのはもっと後かもしれません。
八郷地区には長屋門に茅葺のものがいくつか残されています。
何時か調べてみたいとも思いますが、こちらは保存会もありますのでとりあえずはそちらに譲りましょう。

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門の軒は立派な木組です。思わずパチリと・・・。

柿岡、小幡などはこの後発展を遂げ、宿場としても大きくなっていったようですが、ここ山崎宿は比較的小さな宿場だったようです。

しかし、歴史に忘れられていくのは悲しいですね。
地元の人がその面影を残して頑張っておられますので記録に撮っておきましょう。


  

瀬戸井街道 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/08/14 18:16

瀬戸井街道(2)-部原から厚茂峠

 昨日、今朝と「池花池」を紹介しましたが、ここは常陸国国府(石岡)から陸奥国(仙台、多賀城)へ1300年前に作られていた官道沿い近くにあると思っています。
この話は、一呼吸おいてからまた続けます。その前に「瀬戸井街道」の探索です。

 先日石岡の八郷地区を通っていたという(筑波参拝の)江戸時代の街道「瀬戸井街道」の宿場と思われる「山崎宿」を紹介しました。(こちら
しかし、どう考えてもそのルートがはっきりしません。
そこで、八郷町史に出てくるルートを国土地理院の地図などをたよりに探してみることにしました。

大増から瓦会を通り園部とを結ぶ県道140号線(通称瓦会(かわらえ)街道)は北側に難台山などの山並みを見、南の高台に豊後荘病院、ギター文化館などをながめられる窪地の街道である。

先日紹介した「山崎宿」はこの街道にあるのだが、どうもこの140号線は比較的新しいのではないか。
瀬戸井街道ではないようだ。ではいったいどこを通っていたのか?

文献では厚毛峠を通っていたらしいので、この厚毛峠を探すと、地図では標高117mの厚茂(あつも)峠がこれらしい。

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部原(へばら)(変わった読み方ですね)集落のバス停「部原」から山の方に入っていく道がある。

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道幅は4mくらいで、車が1台通れるだけだが、舗装されている。 道の片側は田圃が続く。

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道はくねくねと山の方に入っていくが、途中茅葺屋根の立派な門が見えてきた。
ここはむかし豊後荘病院があったところらしく、病院の門が残されていた。
この門の奥には立派なお屋敷が続いているので、病院の院長の自宅だろうか?
きれいに茅葺の屋根の手入れがされていた。

山道に入ると車でも結構急な坂が続く。麓の集落が標高40~50mくらいなので、峠の頂上まで約70mくらい登ることになる。
それ程危険な道ではないが、車がすれ違える場所は少なく、坂の途中で車も止められなかったので、頂上付近で1枚撮っただけです。

登りでは盛んにセミが鳴いていた。もうツクツクボウシが鳴いていた。やはり山なのだろう。
(ここを訪れた時は、1週間ほど前になります。)

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ここからは坂を一気に下る。

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くねくねと下ると部落の道にぶつかる。

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このぶつかったところの右側にきれいな水飲み場がある。コップで1杯飲んでみた。とても冷たくて
美味しい。

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この反対側はお地蔵や石板などが置かれ、ここが街道の分かれ道であった様子がわかる。
こういうのが今も残るのはとてもうれしい。

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おもしろいことに、この瀬戸井街道のルートが見えてくると、もう一つの宇都宮街道(宇都宮-瓦会街道)も前から気になっていたのが見えてきた。

昔の街道は幅が2間(3.6m)くらいだったというのだから今では車1台が通れる程度だ。
県道140号線が今はバスも通る道になっているが、これを中心に考えると江戸時代やそれ以前の道は見えてこないものなんですね。

この先、水戸までの道を順を追って見て行きたいと思います。次回は真家宿までを紹介します。

今回現地に行ってみてわかったルートは、瀬戸井(邑楽郡千代田町瀬戸井)-古河-諸川-八町-下妻-高道祖-北条-(風返峠)-小幡宿-柿岡宿-部原-(山崎宿)-真家宿-泉宿(岩間)-土師-住吉宿-随分附-鯉渕宿-水戸です。

1回目に山崎宿を紹介しましたが、この宿は通る時も通らない時もあったのでしょう。
今日が部原から真家宿までの半分です。
今後この先を水戸の一つ手前の「鯉渕宿」までを独断と勘をたよりに紹介していく予定です。
どうなりますか。

(地元以外の方には何処の道かなど全然わかりませんね。でも何処か懐かしい道や家の佇まいを楽しんでいただければと思います。まだしばらく続くと思いますので、できれば、お付き合いしていただけると嬉しいですね。)


 

瀬戸井街道 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/08/23 19:02

瀬戸井街道(3)-真家地区

昨日書いた「厚茂(あつも)峠」から下の集落へ下ったところから今日はスタートです。
今日は真家地区と普通呼ばれている柿の産地の集落です。

立派な竹林と古くからの古木の素敵な家がありました。

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この真家地区を通る瀬戸井街道は山の集落の人家を縫うように続いています。

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立派な長者門の家が通りに姿を現しました。あたりは柿の果樹園が広がります。

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明円寺の入口。ここから少し上流に「馬滝(うまたき)」がある。
明円寺は親鸞を襲って、回心し弟子となった山伏弁円(明法房)の建てた寺だが、一般には親鸞の二十四輩の明法房の寺は上宮寺をいうようですが、ここも忘れてはいけない寺です。
元はもう少し山の上にあったが山津波で流され下にたてなおされたものといいます。

またお盆の時に行なわれる平安時代から続く「真家のみたまおどり」が残る不思議な場所です。
(おどりはこちらを参照ください)

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この真家地区の柿は(皇室)献上柿として有名だそうだ。
柿の収穫は10月頃である。今はこの程度の大きさだ。

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明日は真家宿を紹介します。
 

瀬戸井街道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/08/24 10:53

瀬戸井街道(4)-真家宿

 瀬戸井街道は真家を通っていたはずだが、真家は柿の畑が広がる山側のイメージが強かったが、国土地理院の地図では園部からの通り沿いに「真家宿」の表示がある。

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ここは初めて通ったが、古い家並みが続く。真家さんとの表札の家もある。

この道を真っ直ぐにいけば岩間にでる。

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大きな瓦屋根の家があった。元は茅葺屋根だったものをそのままの形で瓦屋根にかえたと思われるが、勾配がきつくて、私だったらこんな屋根は恐くて登れない。

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長屋門の上から裏山(鐘転山?)が見える。

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今回の地震で土壁などが傷んだ門や家もかなり見かける。

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この真家宿の中心にあるのが「全龍寺」という天文4年(1535)に創建されたという寺である。
何度か火災にあって平成5年に本堂客殿書院を建立したもの。
この山門は少し古くから残されたものと思われる。

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寺の入口には新しい六地蔵が並ぶ。




次回は岩間(泉)宿へ
 

瀬戸井街道 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/08/25 06:30

瀬戸井街道(5)-岩間(泉)宿

本日2回目の投稿です。

 真家宿の道を真っ直ぐに進むとT字路に突き当りますが、ここを右に(東に)まがると石岡と笠間を結ぶ国道355線の旧道に出ます。
こちらの道(355線)は前に紹介したが、笠間市の観光案内書では「江戸街道」として紹介されている。

この通りに出て少し岩間駅の方に進んだところが泉地区で、何処となく宿場の雰囲気が残っている。

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このような大きな構えの家が並んでいる。
下の写真など立派な門だ。長者門?

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下の写真は泉地区ではなく岩間の駅に近い場所にある。
それにしても門がこんなに幅広いのでは、十分にこの門で暮らせますね。

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いよいよここからは岩間と水戸を結ぶ岩間街道に出るわけですが、この岩間地区は愛宕神社を素通りできないですね。また「隠沢観音」というのがあるのですが、ここもこの街道とともに見ると見方が変わってきます。

しかし、一旦街道の流れを見てからまた戻って調べた方がわかるように思いますので後ほど紹介に加えましょう。


 

瀬戸井街道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/08/25 18:30

瀬戸井街道(6)-岩間街道

 さて、瀬戸井街道はこの泉宿で(旧)国道355号線(笠間街道、江戸街道)に一旦でてJRの岩間駅から水戸方面につながる県道30号線(岩間街道)がほぼ昔の瀬戸井街道であったと言われています。

この岩間街道に入ると、旧岩間町役場(現笠間市役所岩間支所)の横を通ります。
この役場の建物や敷地は立派ですね。岩間駅などの施設に比べて見るとなんでこんなに立派なの?
などと考えてしまいますが・・・。

県道30号線は「土師(はじ)十字路」交差点で少し左に折れています。
土師とは名前からすると、8~9世紀頃まで盛んに作られていた「土師器(はじき)」を作る人たちが住んでいたところと思われますね。

石岡には旧水戸街道の石岡の入口に「幸町」という旧町名があるが、ここは昔江戸時代半ばまで「土器(かわらけ)町」と言われたところでした(昨年のブログ参照)。
かわらけより土師器の方が古いかもしれません。

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この岩間街道に「歴史と語らいの道」という看板と少しの休憩スペースが設置されています。

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結構広いスペースですので車や自転車は少し休憩してここに書かれている説明板を見てほしいと思います。

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一通り歴史が細かく書かれていました。瀬戸井街道として使われたこと。天狗党がここを通って筑波山に集結したことなど。
土師村焼き討ち、鯉渕勢などの天狗党時代のことも詳しいですね。
私が気にしたのはこの中の「土浦藩主や家臣たちが北条陣屋と岩間を往復した道」というくだりです。
これは何を意味してるのでしょうか?

岩間の愛宕山はもちろんですが、隠沢観音がとても興味を引きます。

明日は住吉宿です。

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(瀬戸井街道のルートを青い線のルートに訂正します。2011.9.8)


 

瀬戸井街道 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/08/26 06:21

瀬戸井街道(7)-住吉宿

本日2本目です。早くこの街道を制覇したいので。

江戸時代に120kmにも及ぶ地方街道であった「瀬戸井街道」は徳川幕府の当時の信仰感も見えてきます。
日光に御所を置き、街道を整備していますが、一方鬼門の方向にあった筑波山も保護し、この筑波詣でも盛んに行なわれるようになりました。

徳川御三家の一つ「水戸藩」と筑波山を結ぶ最短ルートがこの瀬戸井街道でした。
しかし、明治になり主要道ではなかったために、徐々にその役目がなくなり道もわからなくなっていきました。

現在、国土地理院の地図ではこの街道沿いに「宿」の文字が見えるか所がいくつか存在します。
しかし、他の交通地図で探してもほとんど載っていません。
岩間街道沿いでは唯一、この住吉に「新宿」「本宿」との地名が残っていました。

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まず最初に「住吉新宿」があります。
地名では残っていますが、宿場町らしい面影はあまりありません。

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こちらの本宿は新宿からすぐですが、こちらは神社、旧家の面影があります。
現在の街道は昔の街道の4倍くらいは道幅が広がっていますので、大分変ってしまったものと思います。

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この通りから裏側も何処となくその雰囲気は感じられます。

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宿場の神社や街道沿いに残された門などに昔の趣を感じるのですが、変化も激しいですね。

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このような門を保存していくのも大変ですが、是非残していってほしいですね。


   

 

瀬戸井街道 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/08/26 14:14

瀬戸井街道(8)-随分附

 旧瀬戸井街道といわれる「岩間街道」を岩間から水戸方面に行くと、昨日紹介した「住吉宿」があり、次が「鯉渕宿」ですが、この2つの宿場の中間にとても変わった地名の場所があります。
「随分附」とかいて「ナムサンヅケ」と読みます。

茨城の難読地名リストに必ず登場するところです。木葉下でアボッケ、安居で「アゴ」など明らかに昔から伝わり残された地名です。
漢字はほとんどの場合が当て字でしょうから、漢字から意味をつかむのは無理でしょう。
興味のある方はアイヌ語などを調べられたらわかるかもしれません。

さて、この随分附には昔の街道と思われる通りが残されていました。


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上の写真は水戸方面から岩間方面を見たところです。
「随分附本郷」という看板を笠間市が立てていました。
ここから横(北方向に)に入る幅4mくらいの道は、恐らく瀬戸井街道の名残でしょう。

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こんな感じの道が数十mあるだけで、元の笠間海道に出てしまいます。

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明らかにまわりの家に比べて雰囲気が違っていますね。

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立派な門や塀、古木などが続いています。

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次回は水戸市に入って「鯉渕宿」周辺をお届けします。
 

瀬戸井街道 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/08/27 06:24

瀬戸井街道(9)-鯉渕宿

 岩間街道は水戸城下から筑波を通っていた瀬戸井街道の通りをほぼ拡張して作られているようです。
しかし、昔の道幅は狭く、徒歩や馬で通っていた時代は道はくねくね曲がっていたはずです。
それを車が通りやすく、通りに大型のショッピング店などが建つように変わっていくと、昔の名残を探すのが困難になってきます。

さて、瀬戸井街道の水戸城下から最初の宿場が「鯉渕宿」です。
鯉渕もかなり広い範囲にまたがっていて、昔の通りをさがしてみました。

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水戸方面に向かって、高速道路の高架橋の少し手前の信号から右手斜めに入る道があります。
これが旧道でしょう。通りの両側には古い桜の並木が残されていました。

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この桜の古木は中心がもうありません。空洞ですね。でも青々とした葉をいっぱい茂らせていました。
古木に耳をあてると昔のことを思い出させてくれる。そんな感じになります。

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通りの分かれ道の所にはやはり地蔵さんや石碑が立っていました。
このままこの旧道を進むと鯉渕小学校の所に出ます。

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さて、この旧道はまたぐるっとまわって、元の岩間街道にでます。
この途中に旧家らしい家並みが続きます。
石岡から水戸に行くのによくここに出てきました。
古い家並みを見て通過していたのですが、今やっとすこしずつ通りが見えてきました。

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この旧家の所を右に曲がると「根古矢」へ。曲ってすぐまた右に行く道は石岡へつながります。

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鯉渕は昔「鯉渕城」があったと言われており、道もたくさんの道が交わり、クランクのようになっています。
桜田門外の変では鯉渕勢として名前が出てきます。鯉渕要人なども関係者でしょう。

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ここ、鯉渕に鎮座する「鹿島神社」由緒などは良くわかりませんが、中世の城の大手門なども近くにあったようです。

さて、岩間街道(瀬戸井街道)はこのあと水戸市街に入っていきます。
そして歴史館の横を通って、大工町にでます。
市街地になり面影が追えなくなりますので、一旦ここで探索を終了し、岩間の神社を見てみたいと思います。

次回は岩間の隠沢観音を紹介します。
 

 

瀬戸井街道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/08/27 18:50

瀬戸井街道(10)-(岩間)隠沢観音

 江戸時代の地方街道、走行距離120kmにも及ぶ「瀬戸井街道」は私のいる石岡市を横切っていました。
しかし、ほとんど紹介されているものもなく、ルートもわからなくなってしまっていたと思います。

今回そのわからない部分をたんなる勘をたよりに訪ねてみたのですが、わからないなりに昔の道や人の流れが見えてきたように思います。

笠間市の旧岩間には「愛宕神社」やその手前に「六所神社」がありますが、昔の瀬戸井街道が廃れたために、現在使われている県道や国道を中心に物が見えており、また市をまたがっているとどうしてもそこに行政の壁があって、道はつながっているのにそこに線が引かれ、壁があるようです。

でもこれは受け取る側の問題なんですね。実際はどこにも壁はありません。

岩間には吾国山から鐘転山まで連なる山がありますが、岩間の泉から真家に行くのには山越えはありません。
山をまくように平地でつながっていました。ほとんど通ることがないので山越えが必要と思い込んでいました。

ここに「隠沢観音」(嶽南山・慈眼院清竜寺)という無住の寺があります。
現在は裏の鐘転(かねころばし)山へ登る方が時々通るだけです。

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寺への石の階段は年月を感じさせる寺です。

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数年前に朽ちたような看板に誘われて行ってみたのですが、今回この瀬戸井街道との繋がりが見えてきました。

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この寺は「養老4年(720)の開創にして、後行基菩薩の一刀三拝の作と伝えられる十一面観音像を奉安してある。本寺は土浦土屋初代藩主数直侯の遺志を継承した二代政直侯が、堂平より現位置に移転改築したもので、本堂、客殿、二階建の庫裡黒門と輪舘奐の美を整え、延宝9年(1681)10月14日完成、本堂内に御本尊を奉納した。当寺は土浦藩主の御祈願所として格別の庇護を受け、年々石高にして十石が寄進され保護されていた。」と説明にあります。

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お堂の奥に観音像が置かれています。肉眼ではあまり良く見えません。

ここは土浦藩土屋家の祈願所だったのです。
7月10日、12月10日のお参りは「朝観音」といわれ、この日にお参りすると4万6千日(しまんろくせんにち)お参りしたことになるといわれたといいます。
浅草のほうずき市(7/9,10)観音様詣りと同じです。

子授け、子育てに霊験があると言われています。
土浦藩の北条陣屋(つくば)からここにお参りに来るにはこの瀬戸井街道が使われたに違いありません。
 

 

瀬戸井街道 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/08/28 06:30

瀬戸井街道(11)-笠間街道

前にブログで石岡の石岡小学校の敷地に移されている陣屋門の脇にある道標をしらべ、これを基に昔の街道を調べていました(こちら)。

そして、その後に石岡市と笠間市(旧岩間町)の市境近くに立っている大きな道標のことを書きました(こちら
この笠間街道(笠間市では江戸街道と呼んでいる)の道標は常陸国府(石岡)から笠間へ通じる街道です。

ちょうどこの道標の近くで笠間街道と瀬戸井街道が交わっていたようです。

その前に二十三夜尊を記事にしていましたが、ここで取り上げた大きな碑はこの道を少し入った辺りです。
こちら

二十三夜の遅い月の出を待って飲み食いして日ごろの疲れをとり、親睦を深めていたその地に根付いて行った信仰ですね。

女性たちが同じように集まる講がありました。これが十九夜です。
十九夜は「寝待ちの月」といわれるように寝ながら月の出を待つそうです。

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瀬戸井街道から隠沢観音への道。右が二十三夜尊、奥の山は「鐘転(かねころがし)山」
今回はここに吹く風が気持ちよかったので昔の写真をUPしました。


瀬戸井街道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/08/28 18:36

瀬戸井街道(12)-小幡宿

前に一度(2月)この宿場は紹介している(こちら)。

筑波山を越える手前の宿場だ。石岡の特産品「水車杉線香」「矢羽根」などもこの地域だ。
先日、国民宿舎「つくばね」にランチを食べに行く時に、用事がありここの郵便局に立ちよった。

その時の写真をすこし紹介します。

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郵便局から石岡・柿岡方面を見たところです。
郵便局はやはり良いですね。田舎に行っても必ずあるのは助かります。
中で15分くらいいたのですが、その間にお客さんはポストに手紙を出しに来た2人だけでした。
親切に対応してくれます。

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大きな家が多いです。皆豊かなのでしょうか。

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この先は筑波山の風返し峠まで十三塚の果樹園を抜けて山登りになります。
この真っ直ぐ登る道が昔の街道のルートです。

今はほとんどこの急坂の道は使われていません。
途中から右に曲がって湯袋峠から登ります。
こちらは車でもすれ違えるので心配いりません。
途中に「ゆりの郷」という日帰り温泉施設と国民宿舎「つくばね」にオートキャンプ場があります。

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立派な門構えの家がありました。この門に更に小窓が・・・。
この窓の目的はなんでしょうか。外にいる人を確認するのかな?

さて瀬戸井街道はいったん終了です。
石岡市内ではもう一つ「柿岡宿」がありますが、これは八郷町であった頃の中心街で、上宿、本宿、下宿といった大きな宿場町でした。
こちらの紹介はまた後でしましょう。
 
このあと、関東三大祭りともいわれる「石岡のおまつり」の紹介をしておきたいと思います。
  


瀬戸井街道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/08/29 18:33

雲照寺(石岡市瓦谷)

 1年ほど前に「瀬戸井街道」と言われた江戸時代の筑波参詣の道を追いかけたことがあった。(こちら

瀬戸井というのは古河の少し西側の群馬県千代田町にある地名だが、ここと水戸をつなぐ街道が瀬戸井街道である。

前回は石岡市の瓦会から水戸までのルートを追いかけたのだが、今度この瓦会から柿岡を通って筑波山の風返峠への道「県道42号」を少し車で走ってきました。

途中瓦谷地区で見た「雲照寺」がかなり雰囲気の良い寺でしたのでまず紹介します。

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(写真はサムネルです)

寺の山門です。古びた門と手前の紅葉に落ち葉がとてもいい雰囲気です。

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(写真はサムネルです)

この門は内側の両側に小屋根がありますので「高麗門」です。
江戸時代に部家屋敷などの門として使われました。石岡の陣屋門も同じ様式です。
小屋根の脇は本来は人が隠れられるような場所として考えられたものだと思います。
外を覗く窓も付いています。

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(写真はサムネルです)

山門を入ったところに梅の木がたくさん植えられています。
この梅の咲く時期にまた来たいと思います。

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寺の本堂です。常明山寶聚院(ほうしゅういん)雲照寺。真言宗豊山派です。

文明2年(1470)に慶阿闍梨によって葦穂村(今の足尾山の麓)に建てられたという。

その後、天文年間に兵火で焼失したが、片野城の城主の太田三楽斉(太田資正)が再建したといいます。

その後昨日書いた柿岡城に来た長倉(佐竹)遠江守が修理したとされるが、慶長年間(1596~1614)に廃寺となった。
しかし、元和2年(1616)に宥岳上人が現在地に再興したとされます。
この宥岳上人はどのような人かは調べたけれどわかりませんでした。

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(写真はサムネルです)

弁財天堂です。昭和60年に法隆寺の夢殿を模して再興したものです。
桐紋が扉についています。昔からこの紋が使われていたのかは不明です。

この寺はこの前後に庭園や各堂宇などを新築したようです。

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(写真はサムネルです)

遠くの山と寺の堂宇や梅や楓の美しい寺でした。
私も今回初めて訪れましたが、驚きました。全体の美しさではかなりのレベルにあたります。

この寺の歴史もかなり古いようですが、途中で廃れた時もありよくわからないようです。
加波山神社などとのつながりや京都醍醐寺三宝院の末寺などとの記述もありますがよくわかりませんでした。



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瀬戸井街道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/12/04 20:34

瀬戸井街道(13)瓦谷~柿岡

 今日は大きな地震で驚きましたが、被害もなさそうで一安心です。
まだまだ心配なことは続きそうです。

(今ロンドンにいる娘から電話があった。
向こうでも日本でまた大きな地震があったとニュースになったようだ。
なんでも早くなったね。)

 さて、今では埋もれてしまった筑波参詣の道「瀬戸井街道」の八郷地区内の抜けてしまった部分を追加します。
もう1年も前に紹介していたのですが、途中が歯抜け状態だったので、ルートを勝手に推論してみました。

昨年は部原(へばら)から水戸の手前までを主に紹介しました。
今回は部原から柿岡を通り筑波山への登り口である小畑までの道順を数回に分けて紹介します。

瀬戸井街道2

上記地図の部原(へばら)バス停より水戸方面は、少し今の自動車道より山側の峠越えの道を通り、真家から岩間に抜けて現在の県道30号線にほぼ沿うように水戸まで続いていました。
(前回までの瀬戸井街道は → こちら

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瀬戸井街道は真家地区を通って山越えの峠道を通って、この部原バス停あたりに出てきていたと思います。

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瓦谷バス停の前に「瓦会郵便局」があります。郵便局にとなりには立派なお屋敷が続いています。

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この瓦会のところの信号を左に行く42号線が昔の瀬戸井街道ではないかと思います。
信号の右手前に瓦会郵便局、その先陰に隠れているところに「日笠神社」(こちら)があります。
また、曲がり角の左側にはおそばの美味しい「まんまや」さん(こちら)があります。

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瓦会の信号を柿岡方面に左折すると、このような門構えの家が目立ます。結構大きな家が多いですね。

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少し先に、右側には先日紹介した「雲照寺」があり、その通りの反対側にはこのような旧家があります。

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家の蔵に付けられた家札には「平岡本」となっています。昔は何屋さんだったのでしょうか? 
この瓦会郵便局の北側を散策した時に牧場がありました。 その牧場も確か「平岡牧場」さんというようでしたので、平岡家の本家を表しているのかもしれません。

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途中右に新しそうな道が出来ていました。やはり角のお屋敷の塀は立派でした。

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この街道沿いも特に際立った町並みはありません。
筑波山や加波山の山並みなどを眺めながら道が続いていきます。
佐久大杉の方への道を右手に見て進みます。

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大きな運動公園があります。「八郷総合運動公園」です。昔桜の花を求めてここにも来たことがあります。

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右手に丸山古墳や佐志能神社などのある、古代の小山を巻くように進み、柿岡の街へ入ります。
左手の建物は旧八郷町舎です。現在の石岡市役所の支所となっています。
石岡市役所は今回の地震でかなり被害が大きく、機能はこの八郷の支所で肩代わりしています。

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それにしても立派な庁舎です。石岡の役場を立て直す話もありますが、この庁舎があるのですからこちらを本庁舎にしてもいいように思います。
この辺の話になると旧石岡市の人と旧八郷町の人とで考え方にかなり温度差がありますね。

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このあたりは大型スーパーなどもかなりあります。

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この庁舎の少し先に「如来寺」というお寺があります。
入口に古びた山門と親鸞の二十四人の弟子の第四番の寺だという表示があります。
弟子順位4番は「乗然房領海」です。

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寺の本堂の前にもう一つの山門があります。2階建てです。

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如来寺の本堂です。この寺には親鸞が法然ともども、たえず崇拝していた聖徳太子の像があります。
足が半紙1枚分ほど浮いているので「聖徳太子浮き足の像」といわれています。

この寺で私が興味深いと感じたのは、この寺ができたのは、霞ヶ浦南側の美浦村木原にあった草庵だったということです。
そしてその地に伝わる霞ヶ浦から親鸞が拾い上げた「阿弥陀如来像」を祀っていたと思われるのですが、この像は現在滋賀県野洲市木部の錦織寺に奉られているといわれています。

明日はこの先を少し紹介します。

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瀬戸井街道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/12/07 18:28

瀬戸井街道(14)柿岡宿

 今日は午前中に会報「ふるさと風」の印刷・製本作業を手伝って、その足で朝日トンネルの先の「小町の里」と北条町内の「ふるさと館」に会報を10部ずつ置かせてもらってきた。

小町の里は駐車場も一杯で、車に自転車を積んでここからあちこちにサイクリングをするらしい人がたくさんいた。
八郷地区は本当に豊かでゆったりとした里山が広がる常世の国の楽園です。
サイクリングなど最適な場所であるにもかかわらず、今回出来た朝日トンネルには自転車レーンがない。
少し高くなったところに歩道があるので引いて歩くことはできるが、1.7km歩くのは少し長い。
車で走ってみて、車道を自転車が走るのはやはり危険だ。
本当にもったいない。

これから東京で毎年やっている仲間との忘年会に出かける。 今日の記事は早めにUPさせておきます。



 柿岡の街は八郷の中の中心であったところで、県道7号線(石岡~真壁)の道路に沿って昔からの街並みが続いている。
石岡に近い側から「下宿」「新宿」「上宿」と続いている。

柿岡を紹介するときにこの瀬戸井街道から見てみようとする人はほとんどいないだろう。
このように見方を変えてみるのも楽しそうだ。

柿岡2

中心部に新宿があるが、この柿岡の中心にあるのが「八坂神社」です。
神社の入口に柿岡の道路元標も置かれている。

この神社では毎年7月第3または第4日曜日午後2時から9時まで柿岡最大の祭り「祇園祭」が行われる。

この祭りの由来は、享禄年間(1528~1531)に、柿岡城主が那珂郡から神霊を八坂神社に移した日にちなみ行なわれる祭りとされています。

この時の柿岡城主は、片野に太田三楽(資正)が来る前ですから、まだ小田氏から別れた柿岡氏の時代です。
その頃に那賀郡から神霊を移したというのはどういうことでしょうか。
もう少しまた調べてみないといけなくなりましたが、とりあえずあとにしましょう。

話は飛びますが、ここは瀬戸井街道の話の途中ですので、県道7号線の主街道とはこの八坂神社のところで交差します。
そして新宿の町並みを通って、「柿岡上宿」の信号を左に曲がって行く道になります。

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昨年の祭り(7月)の時に撮った写真を載せておきます。
これが「八坂神社」です。お祭りの始まる少し前の写真です。

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柿岡新宿の通りに山車が出てきました。
通りの片側は屋台の店が並びます。

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この祭りは八坂神社の祇園祭です。
祭りのスタイルは「いしおかのお祭り」とそっくりです。
でもこちらの方が古いのではないかと思います。

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お囃子も伝統のものです。
今回写真にはとっていませんが、この祭りにはからくり人形が出ます。

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(からくり人形の説明はこの先の八幡神社の境内に置かれていました)

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神社の境内には大きなケヤキの木があります。

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神社の彫り物です。鷲でしょうか。
この神社も昔は「天王社」だったのでしょうか?調べていないのでわかりません。

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八坂神社の脇から奥に入る道が有り、裏手に回ると謎の建物を発見しました。
「正観音堂?」よく読めません。
古いお墓もあります。柿岡氏の菩提を弔っているのかもしれませんが、何も説明はありません。

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左手に小さな神社と境内社のような小さな堂宇が二つあります。

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左手奥の堂宇は「子安観音」右手には石の地蔵が置かれていました。

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瀬戸井街道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/12/08 14:07

瀬戸井街道(15)柿岡八幡神社

 柿岡上宿の信号を小幡の方面に曲がった通りが、昔の筑波参詣街道の瀬戸井街道だったと思います。
柿岡宿の次の宿場が「小幡宿」です。昔ながらの宿屋の看板なども残っています。

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柿岡の中心に八坂神社があるのですが、この街道の方に曲がってすぐ「八幡神社」があります。
私なども石岡から柿岡を通っても、こちらの42号線を走ることはめったにありません。

そのため、ここに八幡神社があることをしばらく知りませんでした。
この八幡神社の通りの向かい側は先日紹介した「善慶寺」につながっています。

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ここの神社で中秋の名月の夜に行われる400年ほど前から始まったとされる神楽が有名です。
太々神楽の拍子の音から「じゃかもこじゃん」と言われています。
昔は夜9時ころから始めたようですが、時代の流れで7時ころからに早まったようです。

それでも、神楽は12座あるので、全部終わるのは夜10じころになってしまいます。

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ここにも「棒ささら」が伝わっています。
石岡のお祭りにでる「富田のささら」と同じようにささらの人形に棒を取り付けて、その棒を操作して動かします。

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八幡神社(八幡宮)の鳥居と拝殿です。

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神社拝殿も狛犬もそれほど古い感じはしません。

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境内社です。右はきつねがいますので稲荷社でしょう。左は子安神社でしょうか。

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瀬戸井街道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/12/11 18:59

瀬戸井街道(16)柿岡~小畑

 さて、瀬戸井街道の柿岡宿から小幡宿までの町並みを紹介します。

柿岡
(サムネルです)

昨日紹介した「八幡神社」から小幡までは県道42号線を走ります。
左手は「地磁気研究所」「東大研究施設」などがあり、日本の地磁気の研究メッカなのです。
その少し先にはこんもりした山「富士山」があります
この山は大昔「鼓ヵ嶺(つづみがみね)」と呼ばれ、山の上で地面を足で叩くと、鼓のように振動すると言われたりしたようです。
地磁気研究には適した場所だったのでしょう。
おかげで常磐線が直流電車にできず途中で交流に切り替えていると言われています。
電車に乗っていると突然藤代あたりで電気が消えるので驚きますよね。

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柿岡に近い場所はまだ大きな門などの家も目立ちます。

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でも、少し行くと田んぼと右手は筑波山からの山並みが見え、左手もこんもりした山があります。

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遠くに見えるのは筑波山~足尾山~加波山などの山並みです。

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やはり里山の雰囲気が漂う道が続きます。

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新しい道路などが出来たところの塀は立派ですね。
いつもどうやってこのような立派な平野屋敷を維持しているのか不思議でした。

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富士山の中腹にも洋風の建物が出来ています。
ここからも夕日が綺麗に見えるのでしょうね。
テラスで夕日を眺めて一杯なんていうのも羨ましいですね。

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須釜の集落に入ると立派なお屋敷が目立ってきます。
この信号を右に曲がって小幡方面に行きます。

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写真の先の方に見える交通信号の通りはフルーツラインと呼ばれている道です。
まっすぐ行くと小幡宿から十三塚の果樹団地を通って筑波山の風返峠への急坂になります。
冬場はこの山の登り道は通行止めです。(車は右側に広い道が出来ています)

天狗党が筑波山で決起した時に藤田小四郎などはこの道から筑波山に登ったのでしょう。
結果はご存知のように、国を憂いて集まった優秀な若者?がすべて死んでしまったという悲劇が生まれたのです。

小幡宿はこちらこちらに記事を載せています。

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瀬戸井街道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/12/12 18:30

旧瀬戸井街道の真家のお休み処

 私がこのブログで瀬戸井街道のことを書いたのは、もう6年も前。(記事は ⇒ こちら
水戸から筑波山への参詣の街道であり、天狗党が筑波へ向かった道でもあった。

その時「瀬戸井」とは群馬県千代田町瀬戸井であると思っていたし、多くの文献でそう書いてあった。
しかし、この瀬戸井にはもう1か所候補があった。

 茨城県結城郡八千代町瀬戸井

である。確かにここも候補としては「アリ」だと思う。
江戸時代に水戸藩が中心として地図は整備され、街道などの名前も付けられた。
その水戸藩の領域にここらあたりまで含まれるが、群馬県は意外に遠い。

6年前の記事だが2案あることを追記しておきたい。

もう一つ確認したいことがあり、今日、瓦会へ行った時に途中で立ち寄った。
厚茂峠(あづもとうげ)の道である。
石岡市真家集落から部原(へばら)、瓦塚へ出る峠道だ。

歩くにはこの道が近かった。
今日車で6年ぶりに走ったが、以外に道が狭く対向車がないことを願いひやひやしながら走った。
対向車も歩く人も誰もいなかったが、前来た時より意外に高い峠だと思った。
何位も問題はないが、あまり車で通ることはお勧めしない。

なぜこの道を通ったかというと「谷口家のかごの木」というのをもう一度確かめておきたかったのだ。

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真家地区から厚茂峠への登り口の手前に昔のお休みどころであった「谷口家」があった。

石岡市認定保存樹「谷口家のカゴノキ(鹿子の木)」

推定樹齢250年

 この道をそのまま西進すると厚茂峠を越えて部原に至る。かつては瓦会・部原と真家・岩間の両地区を結ぶ人馬用の街道であった。これを示す道標が道のすぐ北側に残っている。
この大木は行き交う人々にとってよい目印であったようで」、谷口家の祖先はここに茶店を構え、旅人たちの労をねぎらったという。
・・・・・・・・

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だが前に見た時の木は根元の方の一部を残し切り取られていた。
道をまたぐように上に斜めに伸びていた「カゴノキ=鹿子の木」だったが、やはり危険になって切られてしまったのだろう。

鹿子の木というのは、木の肌が鹿の子供=バンビのような模様が付くのでそう呼ばれている。

昔の写真を探したので紹介しておきましょう。

kagonoki01_201710012334198d3.jpg
(7年前:2010年9月 撮影)
この時は斜めに道路をふさぐばかりにのびていた。

kagonoki_20171001233418e9e.jpg
(7年前:2010年9月 撮影)
鹿の子のような模様が特徴

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厚茂峠の入り口(真家地区)
ここから山道になる。それほど距離はないが木々がおおい茂る山道だ。
道路は舗装はされている。

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部原(へばら)地区側から峠側を眺める。




瀬戸井街道 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2017/10/01 23:42
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