小田城跡

今日は一日湿った雪が降ったりやんだり。このまま夜になっても降っているので明日はどれくらい積もっているか? 積雪よりも道路が凍って車は無理かもしれない。
年に何日も雪が積もることはないのでまったく無防備だ。

さて、今日の話は、先日筑波山に行った時に近くの小田城跡に行ってみたので紹介しましょう。
有名ではあるが、本丸跡は広大な広さがそのまま残り、その真中をサイクリング道路が横切っていた。
その大きさは圧巻であった。現在大きな整備工事が進められていた。

歴史的なものとして、大変重要な場所であるが、昨年作成された立派なパンフレットがそこに置かれていたので、表紙のところだけを紹介します。
--------------------------------------------------------
    国指定史跡 「小田城跡」   平成22年2月 つくば市教育委員会
小田城跡は、中世とよばれる鎌倉から戦国時代に、常陸国(現在の茨城県の大部分)南部に勢力をもった小田氏の居城跡です。小田城跡は、その歴史的重要性及び依存度の特徴から昭和10年6月7日に約21.5haが国の史跡指定を受けました。
 つくば市では、まちづくりの一環として小田城跡を保存整備する事業を地元とともに進めています。平成8年度から史跡南半分(市街化調整区域)の土地の公有化に着手し、翌9年度から史跡の内容を確認する部分的な調査(確認調査)を、同16年度から整備対象とした本丸跡とその周辺の曲輪跡で面的な本発掘調査を行いました。それらの成果を基に、同21年度から整備工事を行い、中世の小田城を体感できる歴史ひろばとして整備する計画です。
---------------------------------------------------------
odajyou01.jpg
本丸跡に立てられた説明看板

odajyou02.jpg

odajyou03.jpg

odajyou04.jpg

城跡の真中をサイクリングロードが真っ直ぐにのびている。最近までは城の掘の跡を通るように迂回していたが、発掘調査が終わり道路も真っ直ぐに整備された。

odajyou05.jpg

小田城跡として昔から立てられていた石碑。ここは本丸の一角にあたる「涼台」といわれる場所で樹齢800年を超える大欅があったと昭和43年の案内石碑に書かれていた。

odajyou06.jpg

城跡から筑波山を望む。周りの原の部分は発掘調査後埋め戻したものです。

この小田氏は歴史的に見ても国府(石岡)にとっても大変重要な関係にあります。小田氏の祖、八田知家が鎌倉幕府(源頼朝)により常陸国の守護職に任じられ、勢力を拡大し、曾我兄弟の仇討事件につけ込んで讒言をめぐらして、常陸(多気)大掾を陥れてしまいます。
しかしその後、狙っていた常陸大掾職は馬場(吉田)氏へ渡り、府中城も築かれ府中(石岡)の町も戦国時代末まで繁栄したのです。

もし、この時八田家(小田氏)に渡っていたらどうなっていたのでしょうか?

 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/11 19:33

小町の里 - 朝日トンネル

 石岡市と土浦市を結ぶ朝日トンネルの工事も大分進んできたようです。
石岡側のトンエル内部の見学会も昨年あったようですが、トンネル全長は1784mで2年後の完成予定とのこと。トンネルは山の岩盤が硬いので掘削機では無理なのだそうです。ダイナマイトを使って掘り進めているようです。
石岡の向こう側の土浦市小野地区にある小町の里へ久しぶりに行ってみました。

komachi01.jpg

のどかな小町の里の入口部分にトンネルへのとりつき道路の工事が急ピッチで進められていました。
ここは山並みもきれいな場所で小野小町が訪れたという清滝観音の近くをトンネルが通ることになります。
便利になるのは良いのですがこの里山が少し変貌してしまうのは寂しい気もします。

komachi02.jpg

小町の里には「こまちパラグライダースクール」があり、素人もパラグライダーをすることができます。
山の上からいくつものパラグライダーが気持ちよさそうに大空を飛んでいました。
降りる場所は小町の里の柿園や田圃の中の草原です。

komachi03.jpg

小町の里は水車やそば処、小町のビデオなどがある施設があるのですが、大型バスなどもきており、この日は素通りして、小町の墓と言われるところを訪ねてみました。
小野家の裏に墓があるのですが、入り口部分の梅も見事でした。

komachi04.jpg

小野小町の墓と言うところは少し昔より整備がされたようです。最初に訪れたのはもう10年以上前でしょうか?
入口に「お墓の撮影はご遠慮ください」とありましたので、手前から少し遠慮して撮影させていただきました。奥の石段の上の石塔がお墓です。
小野小町はここから山を越えて石岡の北向観音堂に病の祈願に来たのでしょうか?
現実には小町伝説は小野と名のつくところに多く存在します。
ここで亡くなったとの証拠もありません。
でも伝説が生まれるところには何かあるのだと思います。大切にしていきたいと思いますね。
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/21 18:39

平沢官衙 - 筑波郡衙跡

八郷辻のいちご団地から菖蒲沢方面へ入りそのまま進むと筑波山尾根にある「不動峠」にでる。
途中小町伝説の残る「北向観音」を通過する。
この峠を越えると(旧)筑波の街へいくが、山を下ったところに「北条大池」があります。

この大池の反対側に国指定史跡である「平沢官衙(かんが)」遺跡があるので休みの日に訪れてみました。
現在は広々とした公園となっており、昔の建物が3棟再現されて建っています。

一般にはここを紹介する時は、筑波の町側からのアクセスで紹介されますが、ここのサイトの中心は石岡ですから常陸国とのイメージをもっていただきたいと敢えて反対側から峠越えでの道で紹介しました。

hirasawa01.jpg

官衙(かんが)とは昔の役所があったところで、ここに奈良・平安時代の「常陸国筑波郡」の役所があったことがわかったのです。1980年に国の史跡として認定され、一般開放されたのは2003年です。

もちろん石岡には常陸国の国衙(こくが)があったことが知られています。現在の石岡小学校の敷地がそれですが、昨年(2010年)ようやく国の史跡に指定されました。しかし、昔の国レベルでの史跡指定は全国初なのです。指定された名称は「常陸国衙跡」ではなく、「常陸国府跡」となりました。国衙というのはあまり一般的でなく難しいからでしょうか?
石岡にはもうひとつとても重要な地下の正倉院ともいわれる「鹿の子C遺跡」がありますが、高速道路の下となって、現在は風土記の丘で、当時の武器製造小屋や住居などが再現され、展示されています。
この展示場所が有料ですので訪れる人が少ないのは問題ですね。あまり高くはないので是非一度見学してくださいね。今度このブログでも紹介しましょう。

hirasawa02.jpg

この写真のように、この敷地内には幾つもの木の杭が打ち込まれて、それをロープで囲って中に入ることを制限しています。この場所が建物のくいの跡などが見つかったところです。この中に80軒程の建物跡などが見つかっています。この3分の2は高床式の建物で、倉庫の跡だと見られています。
すなわち、税として徴収した穀物を保管した場所だと思われます。

この遺跡の全体の大きさは、発見された溝の大きさで160mx110m程です。

hirasawa03.jpg

上の写真は、二号建物で、最大級の建物(正倉)で、法倉と呼ばれるものだそうです。当時の倉を再現するのに奈良の法隆寺の倉を参考にして土壁の倉となったそうです。
また、屋根瓦があまり出土していないので茅葺ではなかったかと推察したものです。

hirasawa04.jpg

向かって右が一号建物:校倉、左が三号建物:掘立柱建物(板倉)です。
当時の建物を勉強するにはとても良い資料ですね。

常陸国は、大化改新(645年)により646年(大化2)に設置されました。そして、現在の石岡市に国府と国分寺が置かれたのです。
そののち新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれたとされます。
そのため、この筑波郡が何時制定されたものかははっきりは分かりません。

奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立したとされる「常陸風土記」によると、常陸国ができる前に、この地方にはまだ統一された国はなく、「ただ、新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の小国があり、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されてゐた」(口訳・常陸風土記)となっています。
また、常陸国衙出来た後の11群のうち「新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂」の9郡の説明を古老の話などでまとめたものとなっています。
一度読んでみるのも良いでしょう。

 さて、石岡は茨城郡になるのですが、最初の郡衙は何処にあったかは諸説あります。
石岡では茨城廃寺のあった場所に近い外城(とじょう)(掛札神社のところ)ではないかと言われています。
しかし、どうやらここに郡衙ができる前に茨城と言う名前の地が存在していたといわれています。
その場所が笠間市小原です。ここが那珂郡編入されて、郡衙を石岡に移したというものです。
まあ諸説ありますので、歴史学者によって解釈も分かれているということは知っていて良いのではないでしょうか。絶対となる証拠はまだ見つかっていません。
茨城廃寺は国分寺などができるより前にあった寺で「茨木寺」「茨寺」などと言う墨書銘が見つかっており、茨城郡で国分寺よりも古い寺が見つかっているのはここだけだというのですが・・・。

邪馬台国が大和か北九州かなどというのもまだわかっていないのですから・・・。
私はずっと北九州説が有力だと感じていたのですが、徐々に大和説に傾き始めています。
でもわからずに考えることも楽しいことです。

ここ平沢官衙の入口の北条大池は桜がきれいだそうです。お花見がて見学して見ても良いのではないでしょうか?
せっかく見学するなら、何も知らずに行くよりも少しでも予備知識を持っていく方が得るものが多いようです。
 
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/09 19:12

清滝観音(小町)

 先日朝日トンネルの向こう側「小町の里」を紹介しましたが、ついでということでここに板東三十三ヶ所霊場第二十六番札所である「清滝観音」があり、行ってみました。
小町の里へは何度か行ってお蕎麦を食べたりしておりましたが、古いお寺があることは知っていましたが寄る機会がなかったのです。

kiyotaki01.jpg

筑波山へのパープルラインと小町の里の分かれ道に「坂東二十六番霊場」の石碑が建っています。
この道を真っ直ぐ奥の方に進めば「清滝観音」です。バックの山は筑波山へ続く尾根道でパープルラインが走っています。

kiyotaki 6

寺の入口の石段。この上に山門があります。

kiyotaki02.jpg

江戸時代(天保年間(1830~44))の山門(仁王門)は見ごたえがあります。

kiyotaki03.jpg

現地の案内板によれば「推古帝15年(607)に竜ヶ峯に創建され、大同年間(806-810)徳一上人により古観音に移されたと伝えられる真言宗の寺です。七堂伽藍を備えた大きな寺は、天正年間(1573-1592)小田氏・佐竹氏の兵火により焼失し、江戸時代に現在地へ再建されたと伝えられているが、昭和44年(1969)本堂、昭和48年(1973)仮堂が火災にあい、現在の本堂は昭和52年(1977)に再建されました。江戸時代に建てられた山門が昔日の面影を残しています。 環境庁・茨城県 」となっています。

kiyotaki04.jpg

kiyotaki05.jpg

兵火による焼失はやむを得なかったとも思いますが、昭和の火災はとても残念です。
この清滝観音も近くの東城寺(筑波四面観音)もともに火災で文化財が焼失してしまいました。
原因は何だったのでしょうか。不審火による昼火事だというのだが・・・。とても残念ですね。

 この寺の創建は「竜が峯」となっています。この地はここよりも少し東側の青年の家に登る桜並木の辺りでしょうか。この桜も有名です。また徳一上人が移した場所が後から「古観音」と呼ばれるようになったものと思いますが、山の中腹で観音堂の所在を示す礎石が残っているといいます。
どの辺りなのでしょうか?
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/11 19:57

六所神社(跡)

 筑波山神社は山の中腹に建っており、赤い大きな鳥居が下からもよく見える。
しかし神社の奥の院は山の頂上にあるが、麓にあるこの六所神社の存在を知る人は少ない。

 この筑波の六所神社は筑波神社の里宮として由緒正しいものとして栄えてきたという。
夏至と冬至の年2回、筑波神社の山の神をこの里宮に移す御座替えが行なわれてきた。
六所とは筑波山に祀られている男神、女神、素盞鳴命、月読命、蛭子命、天照大神の六神が祀られており、総社と同じくこの1か所でお参りができたのである。
また坂上田村麻呂が東征の際、銅鏡、宝剣、馬具などを奉納したと伝えられているという。

しかし、現在はここには神社は無い。神社の跡地として、今も天皇を中心として菊の紋をつけた石碑が置かれている。また毎日きれいに掃き清められている。

明治になって、神仏分離(廃仏毀釈)の政令により、筑波山の中腹に神社が作られたため、氏子はすべて中腹の神社に合併され、神社の建物は壊されたのである。
この時に、ここの神社の神霊は先日書いた「蚕影山神社」に合祀されたといいます。

rokusho01.jpg

神宮跡への石段。辺りは木に覆われ、ひっそりとしています。
この六所神社への案内板は途中にほとんどありません。
入口に最近個人で「六所大仏」の大きな石像を曲がり角に設置していますのでそれが目印です。

rokusho02.jpg

rokusho03.jpg

rokusho04.jpg

六所皇大神宮跡と書かれた石碑が置かれている。


rokusho05.jpg

2年ほど前に地元の方が、ここから筑波神社まで登る道を復活整備しました。
「白滝道」と名付けられたこの登山道はむかし、徳一法師が中禅寺(現:大御堂)を建てた時に切り開いた道とされ、途中の白滝へ続く道です。

rokusho06.jpg

この神社跡地の近くに「六所の滝」という小さな滝がありました。
この滝はこの白滝道を整備する時に、草木がなくなり良く見えるようになって、名前を公募してつけられたといいます。
1時間くらいあれば上の白滝まで登れそうなのですが、時間もなく登りませんでした。


筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/30 20:22

うな丼発祥の地「牛久沼」

 「常陽藝文」6月号には茨城うなぎ探訪という特集号を出している。
天然うなぎの産地としての「涸沼」「霞ケ浦」「利根川」などの話や、各地のうなぎにまつわる民話など大変面白く、詳しく書かれていた。良く調べられていると思う。

geibun201106.jpg


その中におもしろい記事を一つ紹介させていただこう。
「牛久沼のうな丼発祥」説である。検証もされておりかなり有力だという。
牛久沼では、これを宣伝に使わない手は無いでしょう。

概要を下記に紹介しましょう。

「江戸日本橋の芝居の金方であった大久保今助が、生まれ故郷の常陸太田へ向かう途中、水戸街道の牛久沼の渡し場にある茶店で好物の鰻の蒲焼と丼めしを頼んだ。ところが、注文の品が出てきたとき「舟がでるよー」の声。
 あわてた今助は、丼めしの上に蒲焼ののった皿をそのまま逆さにかぶせて舟に持ち込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べることにした。すると、蒲焼がめしの熱に蒸されてよりやわらかくなり、めしにはタレがほどよくしみこんで、それまでに味わったことがないうまさの食べ物になっていた。
 数日後、今助は江戸に戻る途中、再び茶店に寄り、今度は初めから蒲焼ののった丼めしを作ってもらった。その後、茶店でこれを売りだしたところ大当たりして、牛久沼の名物となった。
江戸では、今助が芝居見物につきものの重詰め弁当の代わりに、熱いめしの上に鰻の蒲焼をのせた重箱を取り寄せるようになり、こらがうな重の始まりになった。」(藝文2011/6月号より)

さて、まだ高速道路などない頃は6号国道を良く通った。
そして、牛久沼に近付くと「うなぎ」の看板が良く目立った。
そして、少し小粒の茨城産コシヒカリを使った、うな重を食べるのが楽しみだった。
茨城産のコメとよく合うのだ。

今は東京へ行くのも高速を使うので、鰻屋さんの数がどうなったかはわからない。
きっと、昔より減ってしまったのではと思う。
「うな丼発祥の地 牛久沼」
いいですね。

うなぎといえば浜松などを思い浮かべるが、天然のシラスウナギがいなければ養殖もままならない。
シラスウナギは茨城では「はさき漁協」と「常陸川漁協」が許可を得て行なっているそうだが、その漁獲量が大きく減少しているそうだ。
この茨城で採れたシラスウナギが静岡や愛知のウナギ養殖業者に出荷されているのである。

また、涸沼や霞ケ浦でも採れるようだが、こちらは近隣のうなぎ料理専門店に卸されているようです。
 


筑波・土浦・牛久地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/31 20:34

旧土浦中学校本館(国重要文化財)

 今やっているNHKの朝の連続テレビ小説「おひさま」の撮影場所にもなった国の重要文化財「旧土浦中学校校舎」を見てきた。
現在の県立土浦第一高等学校の敷地内に保存されている。

高校は何度かお邪魔したことがあるが裏の方の古い校舎は見ていなかった。
明治の建築だが、とてもモダンな西洋建築をふんだんに取り入れとても素晴らしいものだった。

明治37年の施行だが、設計者駒杵勤治は当時わずか25歳で東京帝国大学を卒業して日も浅い青年であったといいます。
驚嘆の出来栄えですね。
同じ設計者が常陸太田の太田中学(現太田一校)も手掛けており、その講堂が保存されている。こちらも同時に国の重要文化財に登録された。

内部の公開は月1度程度のようですので、確認してからお出かけください。
この日は扉は閉まっていました。

さて、この学校も県内屈指の進学校として有名で、卒業生もたくさんおられると思うが学生時代を振りかえって、
「そんな素敵だったかな?」
などという声も耳にする。
当然お色直しなども行なわれているとは思うが、身近にある時は意外に気がつかないものですね。

gousei01.jpg

ワイドのカメラではないので、2枚の写真をくっつけています。

tsuchichu04.jpg

本館玄関。

tsuchichu05.jpg

tsuchichu06.jpg

中に入れませんでしたので、外から教室の方を・・・。

tsuchichu07.jpg

tsuchichu08.jpg

教室の建物だけではなく、庭もかなり凝った設計になっています。

tsuchichu01.jpg

こちらは現在の自転車置き場の横の建物です。
何かに使われているようです。

tsuchichu02.jpg

tsuchichu03.jpg

石岡の街も昔はこのような凝ったモダンで斬新な建物があった。
今残っていればなどとため息のつくような建造物だった。

石岡駅もモダンなのだが、どこかインパクトがないと思うのは私だけだろうか。
自らの存在感を主張しているものでなければ人の目に留まらない。
  

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/08/01 18:35

旧筑波鉄道の駅案内板

 昨日、この週末神戸に出かけていた妻を迎えに茨城空港へ行った。
驚いたことに大勢の人が訪れていた。昼時だったせいもあるが、2Fの食堂も満席に近い状態。
駐車場も8割くらい埋まっていた。
理由は1週間ほど前から自衛隊のF4ファントム戦闘機が2機展示され見学・写真撮影が可能になったから。
私はあまり興味がないので通りの外から眺めただけだが、これでもこんなに集客ができるのに驚いた。
しかし土産物屋はあまり買う人はいない。また、石岡の物はパンフレッドも土産物も何もない。
茨城のお酒などと言っても石岡ではないようだ。テナントに参加しなかった??
何か違和感があります。

さて、昨日の土浦一校の続きです。
旧土浦中学の校舎の裏側は部活などの小屋がありますが、その角に昭和62年に廃止となった筑波鉄道の「土浦駅ホームにあった案内板」置かれていた。
「あ、こんなところに・・・」
といった感じだ。

ichikou01.jpg

ichikou02.jpg

さて、昨日紹介した旧土浦中学の本館校舎の左となりに同じような洒落た建物があります。
「進修学習館」と看板が掛けられています。
この建物は創立100周年記念事業で建設されたもののようです。
2Fも灯りがついており、夏休みにも何回か使われるような計画表が貼ってありました。

ichikou03.jpg

ichikou04.jpg

外へ出て真鍋小学校側の通りから眺めてみました。真鍋小学校も桜で有名ですが、現在工事中で見られませんでした。

ichikou05.jpg

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/08/02 07:30

子授け地蔵

本日3本目です。街道シリーズ続いているので、一息入れます。

 昨日も今日も家の庭の木にもミンミンゼミが鳴いていました。
セミの声と名前がわからないなんて方がいますが、私くらいの年輩の男性はほとんど知っていると思います。

なにしろ、昭和30年代頃までは昆虫採集セットなんて残酷なものがたくさん売られていて、学校の夏休みの課題に持っていったりした思い出があります。


 筑波山の尾根をはしる表筑波スカイライン。昔は有料だったが今は無料である。
この不動峠からつつじヶ丘(ロープウェイ乗り場)下の風返り峠に向かう途中に「子授け地蔵」がある。

もともとここは姥ヶ峰(ばあがみね)といわれたところで、以前ブログで姥捨山(姨捨山)(こちら)の記事に書いたところだ。
もともと地名として残った姥ヶ峰、爺ヶ峰の由来話としてちょっと物騒な話が残されている。

姥ヶ峰、爺ヶ峰伝説が、筑波山の東側、石岡市の旧八郷町小幡の十三塚に残されており、八郷町誌などでも紹介されている。その内容は「昔、この場所を通った婆さんと爺さんが追い剥ぎにあい、必死に逃げたが殺されてしまった。そこで村人が石仏を作り、春と秋の彼岸に供養法要を営んだ。そしてこの石仏を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えが残っている。このため抱き石とも呼ばれる」
というものだ。

この話の説明も現地にあったが、この「子授け地蔵」のロケーションは素晴らしいところにある。
筑波山の絶景ポイントでもあり、町の方も見える場所なのだ。

baagamine04.jpg

姥ヶ峰駐車場の奥にこの地蔵は置かれている。
赤い鳥居が目立ち、筑波山を背景にいい具合に配置されている。

baagamine02.jpg

世の中には子宝に恵まれない方がたくさんいます。
この木の札は300円で、そこに願いを書いて置いて行きます。

baagamine03.jpg

そして、この先を少し登ったところに子授け地蔵が筑波山をバックに立っています。

baagamine01.jpg

筑波山に登られる人は多くなりましたが、この子授け地蔵から山を眺められる方はまだ少ないようです。
私も、このスカイラインを何度かはしったのですが、いつもここは素通りでした。
是非お立ち寄りください。
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/08/26 19:10

筑波山神社

 筑波山にきたのでやはり筑波山神社もお参りしないといけません。
日曜日の夕方でしたが昔に比べ神社に来る人がとても多くなってきました。
これもTXのおかげかも・・・。

もう紅葉は終わっていると思ったのですが、結構まだ見れました。
今年は遅くまで紅葉が楽しめますね。

jinnjya10.jpg

神社入り口にある「御神橋(ごしんきょう)」を上から眺める。

jinnjya02.jpg

jinnjya03.jpg

御神橋の先には階段を登った中間に山門が控えている。
江戸時代に徳川家康・家光によりこの筑波山神社は保護され、非常に栄えた。
この御神橋は寛永10年11月(1633)に三代将軍家光公が寄進したもので県の文化財になっています。
また毎年4月1日、11月1日、2月10・11日に参拝者が渡ることができます。

jinnjya04.jpg

筑波山といえば「ガマの油売りの口上」でしょう。
神社の境内などで修業を兼ねてよく口上が披露されています。新人の登竜門みたいですよ。
これも師範の免許まであるそうです。

jinnjya05.jpg

もう正月の準備で「謹賀新年」の案内がすでに掲げられていました。
この楼門(2階形式の門)は脚が8本ですから八脚楼門(一般には随神門)というようです。
これは、御神橋と同じく、寛永10年11月(1633)三代将軍家光公が寄進したものですが、宝暦4年(1757)焼失し、すぐに再建されたのですが、直後の明和4年(1767)に再び焼失し、文化8年(1811)再建されたものです。とても立派な大きな山門です。

jinnjya06.jpg

西日があたってきました。やはり風情は冬ですね。

jinnjya08.jpg

jinnjya07.jpg

弁財天社(厳島神社):寛永10年(1633)徳川家光寄進したもの。正面蟇股には蛇が彫られている。
中禅寺の遺構として残してほしい。

拝殿などは前に紹介しているので省略です。最後に入口の狛犬を紹介しましょう。

koma01.jpg koma02.jpg

狛犬と言うのは「高麗犬」だというのですが、高麗国の犬と言いながら地方地方でかなり表情やスタイルが違います。
石像として外に置かれるようになったのは比較的新しいようだがいつごろからなのか。
昔は室内に木製で置かれていたようで、その後金属製になり、多くは石像にとって代わって行ったのではないかと思う。
こんなことも調べると面白いのだろうけど、あまりにも種類が多い。



筑波・土浦・牛久地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/12/13 18:38
 | HOME | Next »