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小田城跡

今日は一日湿った雪が降ったりやんだり。このまま夜になっても降っているので明日はどれくらい積もっているか? 積雪よりも道路が凍って車は無理かもしれない。
年に何日も雪が積もることはないのでまったく無防備だ。

さて、今日の話は、先日筑波山に行った時に近くの小田城跡に行ってみたので紹介しましょう。
有名ではあるが、本丸跡は広大な広さがそのまま残り、その真中をサイクリング道路が横切っていた。
その大きさは圧巻であった。現在大きな整備工事が進められていた。

歴史的なものとして、大変重要な場所であるが、昨年作成された立派なパンフレットがそこに置かれていたので、表紙のところだけを紹介します。
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    国指定史跡 「小田城跡」   平成22年2月 つくば市教育委員会
小田城跡は、中世とよばれる鎌倉から戦国時代に、常陸国(現在の茨城県の大部分)南部に勢力をもった小田氏の居城跡です。小田城跡は、その歴史的重要性及び依存度の特徴から昭和10年6月7日に約21.5haが国の史跡指定を受けました。
 つくば市では、まちづくりの一環として小田城跡を保存整備する事業を地元とともに進めています。平成8年度から史跡南半分(市街化調整区域)の土地の公有化に着手し、翌9年度から史跡の内容を確認する部分的な調査(確認調査)を、同16年度から整備対象とした本丸跡とその周辺の曲輪跡で面的な本発掘調査を行いました。それらの成果を基に、同21年度から整備工事を行い、中世の小田城を体感できる歴史ひろばとして整備する計画です。
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本丸跡に立てられた説明看板

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城跡の真中をサイクリングロードが真っ直ぐにのびている。最近までは城の掘の跡を通るように迂回していたが、発掘調査が終わり道路も真っ直ぐに整備された。

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小田城跡として昔から立てられていた石碑。ここは本丸の一角にあたる「涼台」といわれる場所で樹齢800年を超える大欅があったと昭和43年の案内石碑に書かれていた。

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城跡から筑波山を望む。周りの原の部分は発掘調査後埋め戻したものです。

この小田氏は歴史的に見ても国府(石岡)にとっても大変重要な関係にあります。小田氏の祖、八田知家が鎌倉幕府(源頼朝)により常陸国の守護職に任じられ、勢力を拡大し、曾我兄弟の仇討事件につけ込んで讒言をめぐらして、常陸(多気)大掾を陥れてしまいます。
しかしその後、狙っていた常陸大掾職は馬場(吉田)氏へ渡り、府中城も築かれ府中(石岡)の町も戦国時代末まで繁栄したのです。

もし、この時八田家(小田氏)に渡っていたらどうなっていたのでしょうか?

 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/11 19:33

小町の里 - 朝日トンネル

 石岡市と土浦市を結ぶ朝日トンネルの工事も大分進んできたようです。
石岡側のトンエル内部の見学会も昨年あったようですが、トンネル全長は1784mで2年後の完成予定とのこと。トンネルは山の岩盤が硬いので掘削機では無理なのだそうです。ダイナマイトを使って掘り進めているようです。
石岡の向こう側の土浦市小野地区にある小町の里へ久しぶりに行ってみました。

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のどかな小町の里の入口部分にトンネルへのとりつき道路の工事が急ピッチで進められていました。
ここは山並みもきれいな場所で小野小町が訪れたという清滝観音の近くをトンネルが通ることになります。
便利になるのは良いのですがこの里山が少し変貌してしまうのは寂しい気もします。

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小町の里には「こまちパラグライダースクール」があり、素人もパラグライダーをすることができます。
山の上からいくつものパラグライダーが気持ちよさそうに大空を飛んでいました。
降りる場所は小町の里の柿園や田圃の中の草原です。

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小町の里は水車やそば処、小町のビデオなどがある施設があるのですが、大型バスなどもきており、この日は素通りして、小町の墓と言われるところを訪ねてみました。
小野家の裏に墓があるのですが、入り口部分の梅も見事でした。

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小野小町の墓と言うところは少し昔より整備がされたようです。最初に訪れたのはもう10年以上前でしょうか?
入口に「お墓の撮影はご遠慮ください」とありましたので、手前から少し遠慮して撮影させていただきました。奥の石段の上の石塔がお墓です。
小野小町はここから山を越えて石岡の北向観音堂に病の祈願に来たのでしょうか?
現実には小町伝説は小野と名のつくところに多く存在します。
ここで亡くなったとの証拠もありません。
でも伝説が生まれるところには何かあるのだと思います。大切にしていきたいと思いますね。
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/21 18:39

平沢官衙 - 筑波郡衙跡

八郷辻のいちご団地から菖蒲沢方面へ入りそのまま進むと筑波山尾根にある「不動峠」にでる。
途中小町伝説の残る「北向観音」を通過する。
この峠を越えると(旧)筑波の街へいくが、山を下ったところに「北条大池」があります。

この大池の反対側に国指定史跡である「平沢官衙(かんが)」遺跡があるので休みの日に訪れてみました。
現在は広々とした公園となっており、昔の建物が3棟再現されて建っています。

一般にはここを紹介する時は、筑波の町側からのアクセスで紹介されますが、ここのサイトの中心は石岡ですから常陸国とのイメージをもっていただきたいと敢えて反対側から峠越えでの道で紹介しました。

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官衙(かんが)とは昔の役所があったところで、ここに奈良・平安時代の「常陸国筑波郡」の役所があったことがわかったのです。1980年に国の史跡として認定され、一般開放されたのは2003年です。

もちろん石岡には常陸国の国衙(こくが)があったことが知られています。現在の石岡小学校の敷地がそれですが、昨年(2010年)ようやく国の史跡に指定されました。しかし、昔の国レベルでの史跡指定は全国初なのです。指定された名称は「常陸国衙跡」ではなく、「常陸国府跡」となりました。国衙というのはあまり一般的でなく難しいからでしょうか?
石岡にはもうひとつとても重要な地下の正倉院ともいわれる「鹿の子C遺跡」がありますが、高速道路の下となって、現在は風土記の丘で、当時の武器製造小屋や住居などが再現され、展示されています。
この展示場所が有料ですので訪れる人が少ないのは問題ですね。あまり高くはないので是非一度見学してくださいね。今度このブログでも紹介しましょう。

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この写真のように、この敷地内には幾つもの木の杭が打ち込まれて、それをロープで囲って中に入ることを制限しています。この場所が建物のくいの跡などが見つかったところです。この中に80軒程の建物跡などが見つかっています。この3分の2は高床式の建物で、倉庫の跡だと見られています。
すなわち、税として徴収した穀物を保管した場所だと思われます。

この遺跡の全体の大きさは、発見された溝の大きさで160mx110m程です。

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上の写真は、二号建物で、最大級の建物(正倉)で、法倉と呼ばれるものだそうです。当時の倉を再現するのに奈良の法隆寺の倉を参考にして土壁の倉となったそうです。
また、屋根瓦があまり出土していないので茅葺ではなかったかと推察したものです。

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向かって右が一号建物:校倉、左が三号建物:掘立柱建物(板倉)です。
当時の建物を勉強するにはとても良い資料ですね。

常陸国は、大化改新(645年)により646年(大化2)に設置されました。そして、現在の石岡市に国府と国分寺が置かれたのです。
そののち新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれたとされます。
そのため、この筑波郡が何時制定されたものかははっきりは分かりません。

奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立したとされる「常陸風土記」によると、常陸国ができる前に、この地方にはまだ統一された国はなく、「ただ、新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の小国があり、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されてゐた」(口訳・常陸風土記)となっています。
また、常陸国衙出来た後の11群のうち「新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂」の9郡の説明を古老の話などでまとめたものとなっています。
一度読んでみるのも良いでしょう。

 さて、石岡は茨城郡になるのですが、最初の郡衙は何処にあったかは諸説あります。
石岡では茨城廃寺のあった場所に近い外城(とじょう)(掛札神社のところ)ではないかと言われています。
しかし、どうやらここに郡衙ができる前に茨城と言う名前の地が存在していたといわれています。
その場所が笠間市小原です。ここが那珂郡編入されて、郡衙を石岡に移したというものです。
まあ諸説ありますので、歴史学者によって解釈も分かれているということは知っていて良いのではないでしょうか。絶対となる証拠はまだ見つかっていません。
茨城廃寺は国分寺などができるより前にあった寺で「茨木寺」「茨寺」などと言う墨書銘が見つかっており、茨城郡で国分寺よりも古い寺が見つかっているのはここだけだというのですが・・・。

邪馬台国が大和か北九州かなどというのもまだわかっていないのですから・・・。
私はずっと北九州説が有力だと感じていたのですが、徐々に大和説に傾き始めています。
でもわからずに考えることも楽しいことです。

ここ平沢官衙の入口の北条大池は桜がきれいだそうです。お花見がて見学して見ても良いのではないでしょうか?
せっかく見学するなら、何も知らずに行くよりも少しでも予備知識を持っていく方が得るものが多いようです。
 
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/09 19:12

清滝観音(小町)

 先日朝日トンネルの向こう側「小町の里」を紹介しましたが、ついでということでここに板東三十三ヶ所霊場第二十六番札所である「清滝観音」があり、行ってみました。
小町の里へは何度か行ってお蕎麦を食べたりしておりましたが、古いお寺があることは知っていましたが寄る機会がなかったのです。

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筑波山へのパープルラインと小町の里の分かれ道に「坂東二十六番霊場」の石碑が建っています。
この道を真っ直ぐ奥の方に進めば「清滝観音」です。バックの山は筑波山へ続く尾根道でパープルラインが走っています。

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寺の入口の石段。この上に山門があります。

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江戸時代(天保年間(1830~44))の山門(仁王門)は見ごたえがあります。

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現地の案内板によれば「推古帝15年(607)に竜ヶ峯に創建され、大同年間(806-810)徳一上人により古観音に移されたと伝えられる真言宗の寺です。七堂伽藍を備えた大きな寺は、天正年間(1573-1592)小田氏・佐竹氏の兵火により焼失し、江戸時代に現在地へ再建されたと伝えられているが、昭和44年(1969)本堂、昭和48年(1973)仮堂が火災にあい、現在の本堂は昭和52年(1977)に再建されました。江戸時代に建てられた山門が昔日の面影を残しています。 環境庁・茨城県 」となっています。

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兵火による焼失はやむを得なかったとも思いますが、昭和の火災はとても残念です。
この清滝観音も近くの東城寺(筑波四面観音)もともに火災で文化財が焼失してしまいました。
原因は何だったのでしょうか。不審火による昼火事だというのだが・・・。とても残念ですね。

 この寺の創建は「竜が峯」となっています。この地はここよりも少し東側の青年の家に登る桜並木の辺りでしょうか。この桜も有名です。また徳一上人が移した場所が後から「古観音」と呼ばれるようになったものと思いますが、山の中腹で観音堂の所在を示す礎石が残っているといいます。
どの辺りなのでしょうか?
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/11 19:57

六所神社(跡)

 筑波山神社は山の中腹に建っており、赤い大きな鳥居が下からもよく見える。
しかし神社の奥の院は山の頂上にあるが、麓にあるこの六所神社の存在を知る人は少ない。

 この筑波の六所神社は筑波神社の里宮として由緒正しいものとして栄えてきたという。
夏至と冬至の年2回、筑波神社の山の神をこの里宮に移す御座替えが行なわれてきた。
六所とは筑波山に祀られている男神、女神、素盞鳴命、月読命、蛭子命、天照大神の六神が祀られており、総社と同じくこの1か所でお参りができたのである。
また坂上田村麻呂が東征の際、銅鏡、宝剣、馬具などを奉納したと伝えられているという。

しかし、現在はここには神社は無い。神社の跡地として、今も天皇を中心として菊の紋をつけた石碑が置かれている。また毎日きれいに掃き清められている。

明治になって、神仏分離(廃仏毀釈)の政令により、筑波山の中腹に神社が作られたため、氏子はすべて中腹の神社に合併され、神社の建物は壊されたのである。
この時に、ここの神社の神霊は先日書いた「蚕影山神社」に合祀されたといいます。

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神宮跡への石段。辺りは木に覆われ、ひっそりとしています。
この六所神社への案内板は途中にほとんどありません。
入口に最近個人で「六所大仏」の大きな石像を曲がり角に設置していますのでそれが目印です。

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六所皇大神宮跡と書かれた石碑が置かれている。


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2年ほど前に地元の方が、ここから筑波神社まで登る道を復活整備しました。
「白滝道」と名付けられたこの登山道はむかし、徳一法師が中禅寺(現:大御堂)を建てた時に切り開いた道とされ、途中の白滝へ続く道です。

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この神社跡地の近くに「六所の滝」という小さな滝がありました。
この滝はこの白滝道を整備する時に、草木がなくなり良く見えるようになって、名前を公募してつけられたといいます。
1時間くらいあれば上の白滝まで登れそうなのですが、時間もなく登りませんでした。


筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/30 20:22

うな丼発祥の地「牛久沼」

 「常陽藝文」6月号には茨城うなぎ探訪という特集号を出している。
天然うなぎの産地としての「涸沼」「霞ケ浦」「利根川」などの話や、各地のうなぎにまつわる民話など大変面白く、詳しく書かれていた。良く調べられていると思う。

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その中におもしろい記事を一つ紹介させていただこう。
「牛久沼のうな丼発祥」説である。検証もされておりかなり有力だという。
牛久沼では、これを宣伝に使わない手は無いでしょう。

概要を下記に紹介しましょう。

「江戸日本橋の芝居の金方であった大久保今助が、生まれ故郷の常陸太田へ向かう途中、水戸街道の牛久沼の渡し場にある茶店で好物の鰻の蒲焼と丼めしを頼んだ。ところが、注文の品が出てきたとき「舟がでるよー」の声。
 あわてた今助は、丼めしの上に蒲焼ののった皿をそのまま逆さにかぶせて舟に持ち込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べることにした。すると、蒲焼がめしの熱に蒸されてよりやわらかくなり、めしにはタレがほどよくしみこんで、それまでに味わったことがないうまさの食べ物になっていた。
 数日後、今助は江戸に戻る途中、再び茶店に寄り、今度は初めから蒲焼ののった丼めしを作ってもらった。その後、茶店でこれを売りだしたところ大当たりして、牛久沼の名物となった。
江戸では、今助が芝居見物につきものの重詰め弁当の代わりに、熱いめしの上に鰻の蒲焼をのせた重箱を取り寄せるようになり、こらがうな重の始まりになった。」(藝文2011/6月号より)

さて、まだ高速道路などない頃は6号国道を良く通った。
そして、牛久沼に近付くと「うなぎ」の看板が良く目立った。
そして、少し小粒の茨城産コシヒカリを使った、うな重を食べるのが楽しみだった。
茨城産のコメとよく合うのだ。

今は東京へ行くのも高速を使うので、鰻屋さんの数がどうなったかはわからない。
きっと、昔より減ってしまったのではと思う。
「うな丼発祥の地 牛久沼」
いいですね。

うなぎといえば浜松などを思い浮かべるが、天然のシラスウナギがいなければ養殖もままならない。
シラスウナギは茨城では「はさき漁協」と「常陸川漁協」が許可を得て行なっているそうだが、その漁獲量が大きく減少しているそうだ。
この茨城で採れたシラスウナギが静岡や愛知のウナギ養殖業者に出荷されているのである。

また、涸沼や霞ケ浦でも採れるようだが、こちらは近隣のうなぎ料理専門店に卸されているようです。
 


筑波・土浦・牛久地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/31 20:34

旧土浦中学校本館(国重要文化財)

 今やっているNHKの朝の連続テレビ小説「おひさま」の撮影場所にもなった国の重要文化財「旧土浦中学校校舎」を見てきた。
現在の県立土浦第一高等学校の敷地内に保存されている。

高校は何度かお邪魔したことがあるが裏の方の古い校舎は見ていなかった。
明治の建築だが、とてもモダンな西洋建築をふんだんに取り入れとても素晴らしいものだった。

明治37年の施行だが、設計者駒杵勤治は当時わずか25歳で東京帝国大学を卒業して日も浅い青年であったといいます。
驚嘆の出来栄えですね。
同じ設計者が常陸太田の太田中学(現太田一校)も手掛けており、その講堂が保存されている。こちらも同時に国の重要文化財に登録された。

内部の公開は月1度程度のようですので、確認してからお出かけください。
この日は扉は閉まっていました。

さて、この学校も県内屈指の進学校として有名で、卒業生もたくさんおられると思うが学生時代を振りかえって、
「そんな素敵だったかな?」
などという声も耳にする。
当然お色直しなども行なわれているとは思うが、身近にある時は意外に気がつかないものですね。

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ワイドのカメラではないので、2枚の写真をくっつけています。

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本館玄関。

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中に入れませんでしたので、外から教室の方を・・・。

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教室の建物だけではなく、庭もかなり凝った設計になっています。

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こちらは現在の自転車置き場の横の建物です。
何かに使われているようです。

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石岡の街も昔はこのような凝ったモダンで斬新な建物があった。
今残っていればなどとため息のつくような建造物だった。

石岡駅もモダンなのだが、どこかインパクトがないと思うのは私だけだろうか。
自らの存在感を主張しているものでなければ人の目に留まらない。
  

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/08/01 18:35

旧筑波鉄道の駅案内板

 昨日、この週末神戸に出かけていた妻を迎えに茨城空港へ行った。
驚いたことに大勢の人が訪れていた。昼時だったせいもあるが、2Fの食堂も満席に近い状態。
駐車場も8割くらい埋まっていた。
理由は1週間ほど前から自衛隊のF4ファントム戦闘機が2機展示され見学・写真撮影が可能になったから。
私はあまり興味がないので通りの外から眺めただけだが、これでもこんなに集客ができるのに驚いた。
しかし土産物屋はあまり買う人はいない。また、石岡の物はパンフレッドも土産物も何もない。
茨城のお酒などと言っても石岡ではないようだ。テナントに参加しなかった??
何か違和感があります。

さて、昨日の土浦一校の続きです。
旧土浦中学の校舎の裏側は部活などの小屋がありますが、その角に昭和62年に廃止となった筑波鉄道の「土浦駅ホームにあった案内板」置かれていた。
「あ、こんなところに・・・」
といった感じだ。

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さて、昨日紹介した旧土浦中学の本館校舎の左となりに同じような洒落た建物があります。
「進修学習館」と看板が掛けられています。
この建物は創立100周年記念事業で建設されたもののようです。
2Fも灯りがついており、夏休みにも何回か使われるような計画表が貼ってありました。

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外へ出て真鍋小学校側の通りから眺めてみました。真鍋小学校も桜で有名ですが、現在工事中で見られませんでした。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/08/02 07:30

子授け地蔵

本日3本目です。街道シリーズ続いているので、一息入れます。

 昨日も今日も家の庭の木にもミンミンゼミが鳴いていました。
セミの声と名前がわからないなんて方がいますが、私くらいの年輩の男性はほとんど知っていると思います。

なにしろ、昭和30年代頃までは昆虫採集セットなんて残酷なものがたくさん売られていて、学校の夏休みの課題に持っていったりした思い出があります。


 筑波山の尾根をはしる表筑波スカイライン。昔は有料だったが今は無料である。
この不動峠からつつじヶ丘(ロープウェイ乗り場)下の風返り峠に向かう途中に「子授け地蔵」がある。

もともとここは姥ヶ峰(ばあがみね)といわれたところで、以前ブログで姥捨山(姨捨山)(こちら)の記事に書いたところだ。
もともと地名として残った姥ヶ峰、爺ヶ峰の由来話としてちょっと物騒な話が残されている。

姥ヶ峰、爺ヶ峰伝説が、筑波山の東側、石岡市の旧八郷町小幡の十三塚に残されており、八郷町誌などでも紹介されている。その内容は「昔、この場所を通った婆さんと爺さんが追い剥ぎにあい、必死に逃げたが殺されてしまった。そこで村人が石仏を作り、春と秋の彼岸に供養法要を営んだ。そしてこの石仏を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えが残っている。このため抱き石とも呼ばれる」
というものだ。

この話の説明も現地にあったが、この「子授け地蔵」のロケーションは素晴らしいところにある。
筑波山の絶景ポイントでもあり、町の方も見える場所なのだ。

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姥ヶ峰駐車場の奥にこの地蔵は置かれている。
赤い鳥居が目立ち、筑波山を背景にいい具合に配置されている。

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世の中には子宝に恵まれない方がたくさんいます。
この木の札は300円で、そこに願いを書いて置いて行きます。

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そして、この先を少し登ったところに子授け地蔵が筑波山をバックに立っています。

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筑波山に登られる人は多くなりましたが、この子授け地蔵から山を眺められる方はまだ少ないようです。
私も、このスカイラインを何度かはしったのですが、いつもここは素通りでした。
是非お立ち寄りください。
 

筑波・土浦・牛久地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/08/26 19:10

筑波山神社

 筑波山にきたのでやはり筑波山神社もお参りしないといけません。
日曜日の夕方でしたが昔に比べ神社に来る人がとても多くなってきました。
これもTXのおかげかも・・・。

もう紅葉は終わっていると思ったのですが、結構まだ見れました。
今年は遅くまで紅葉が楽しめますね。

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神社入り口にある「御神橋(ごしんきょう)」を上から眺める。

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御神橋の先には階段を登った中間に山門が控えている。
江戸時代に徳川家康・家光によりこの筑波山神社は保護され、非常に栄えた。
この御神橋は寛永10年11月(1633)に三代将軍家光公が寄進したもので県の文化財になっています。
また毎年4月1日、11月1日、2月10・11日に参拝者が渡ることができます。

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筑波山といえば「ガマの油売りの口上」でしょう。
神社の境内などで修業を兼ねてよく口上が披露されています。新人の登竜門みたいですよ。
これも師範の免許まであるそうです。

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もう正月の準備で「謹賀新年」の案内がすでに掲げられていました。
この楼門(2階形式の門)は脚が8本ですから八脚楼門(一般には随神門)というようです。
これは、御神橋と同じく、寛永10年11月(1633)三代将軍家光公が寄進したものですが、宝暦4年(1757)焼失し、すぐに再建されたのですが、直後の明和4年(1767)に再び焼失し、文化8年(1811)再建されたものです。とても立派な大きな山門です。

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西日があたってきました。やはり風情は冬ですね。

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弁財天社(厳島神社):寛永10年(1633)徳川家光寄進したもの。正面蟇股には蛇が彫られている。
中禅寺の遺構として残してほしい。

拝殿などは前に紹介しているので省略です。最後に入口の狛犬を紹介しましょう。

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狛犬と言うのは「高麗犬」だというのですが、高麗国の犬と言いながら地方地方でかなり表情やスタイルが違います。
石像として外に置かれるようになったのは比較的新しいようだがいつごろからなのか。
昔は室内に木製で置かれていたようで、その後金属製になり、多くは石像にとって代わって行ったのではないかと思う。
こんなことも調べると面白いのだろうけど、あまりにも種類が多い。



筑波・土浦・牛久地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/12/13 18:38

大御堂(筑波山)

 筑波山神社は観光客が多く訪れていますが、隣りの大御堂(おおみどう)を訪れる人はまばらなようです。
私も何度かこの神社を訪れていますが、大御堂は初めてです。

徳一法師が筑波山に「中禅寺」を建てたのは延暦元年(782)といわれています。
その後、弘法大師により真言密教の霊場(これは言い伝えで真実は不明?)として栄えてきました。

江戸時代には徳川幕府の庇護を受けて神社と一体となって栄えてきました。
特に徳川家光は随神門や御神橋などを寄進したため、江戸時代は非常に栄え、筑波詣でが盛んに行われました。

しかし、明治になり神仏分離令により寺(中禅寺)は一度は破却されてしまったのです。
破却というより破壊されてしまったようです。
いきさつは色々あるようですがこの辺のことはなにも伝わっていないですね。

これは麓にある六所神社(跡)を訪れた時に知った。
この大御堂はこの中禅寺を継ぐ形で再建(仮堂)されたのは1930年(昭和5年)になってからだそうです。

この筑波神社と大御堂の歴史をどう見るかは難しい。

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この大御堂は坂東三十三霊場の25番札所となっている。本堂は戦後に再建された(民家を移築した)ものと言う。
仁王門(随神門)は元々この寺の山門であった。
2度の災難(火災・山津波)にも本尊(千手観音)は無事で今でも拝むことができる。(奇跡の御本尊)
この本尊は民家に保管されていたようで、後にこちらに民家を移築して大御堂として保存するようになったようです。

本来はこちらが筑波の古来の霊場を踏襲しているともいえる。しかし一度皆壊されてしまったらしい。

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鐘楼。徳川家光が鐘楼も寄進しているが、この家光の鐘楼は寺が廃止された明治になって、つくば市内の慶龍寺に移築されたそうです。
現在の鐘楼はよくわからない。説明が書かれたものがない。現地には木の立て看板に手書きの大きさなどの説明があるが、雨などでにじんで読めない。
しかし、この鐘楼の風情はとても素晴らしい。ここから麓の方まで見下ろせる。

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本来の筑波の中禅寺には三重塔もあったという。現在は礎石として推定されている石が残されている。
これも何時頃まで存在したのかはよく分からなかった。

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鐘楼脇に建てられた地蔵等の石像のすぐ後ろには三笠宮陛下のお手植えのヒマラヤ杉が植えられています。
(写真の少し右側ですが写っていません。上から2枚目の写真に写っています。)

筑波神社は多くの人が訪れます。しかし意外にそれぞれの施設などの説明が少ない気がします。
大御堂との関係もほとんど何も書かれていない。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/12/14 18:29

女化神社(牛久・龍ヶ崎)(1)

 先月末に行ったところですが、記事がかけずにUPするのが遅くなってしまいました。

「女化(おなばけ)神社」です。それにしてもすごい名前ですね。

そして、この神社がある場所は牛久市女化町にあるのですが、神社の敷地だけは龍ケ崎市馴馬町という飛び地となっています。

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神社の参道は立派な鳥居が並んでいます。
正式には「与福惣社 女化稲荷神社(旧名:女化稲荷社)」というようです。

でも与福というのはこの辺の地名でもないようですので「福を与える」ということなのでしょうか。

正月と旧暦2月の初牛は大変賑わうそうです。

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お稲荷のこんな鳥居をくぐっていくと気持ちがよくなっていくようです。

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訪れたのは4月の末。近くのお宅に用事があって出かけたのです。

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そして鳥居をくぐり終えると待っているのはキツネさんですが、親子のキツネ像です。(向かって左側)

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こちらは右側のキツネです。こちらは子供が一匹ですので両側合わせて3匹です。この狛キツネは明治2年に制作されたものだそうです。

このキツネはこの女化ヶ原に伝わるお話(白狐の恩返し)が元になっているようです。

話の内容を龍ケ崎のHPで見てみましょう(こちら

鶴の恩返しと似た話ですが、猟師に狙われていた白狐が忠七という農夫に助けられます。そしてこの白狐が娘に化けて忠七の家に来て泊めてもらい、よく働くので忠七の嫁になります。

子供が3人(女・男・男)が生まれ幸せに暮らしていましたが、うっかり寝ていた時にしっぽを出してしまいそれを子供に見られて、いることができなくなり姿を消してしまいました。

そしてその姿を消したあたりがこの神社の奥の院のあたりだといいます。(奥の院はあす紹介します)

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神社拝殿の上にあるキツネの彫刻。

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この神社は室町時代の永正6年(1509)に創建されたと伝えられる古い神社で、京都伏見稲荷から御霊をこの地に分霊して稲荷信仰が広まったといいます。

しかし、「龍ケ崎市の公式HPでは建久年間(1190~1198)に創立されたといわれ、・・・」と書かれていました。
このような稲荷信仰は五穀豊穣・商売繁盛を願って地域に密着して広がっていますので、創建もあまりはっきりしないのでしょう。

全国の多くの稲荷神社も伏見稲荷が中心ですね。そして正一位を名乗っています。

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神社の拝殿は平成14年3月に改築された比較的新しい建物ですが、この竣工記念碑にはその前の神社拝殿は文久2年(1862)に建てられたものが老朽化したために建て直したものだそうです。

近所のお宅を訪問したのですが、その家でも近所のみなさんで寄付をされたようです。

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こちらは文久2年(1862)に拝殿が建てられた時の記念碑です。



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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2012/05/18 20:56

女化神社(2)-奥の院

 昨日紹介した女化(おなばけ)神社の続きです。
昨日書きましたが、この神社があるのは牛久市のなかにある龍ケ崎市の飛び地です。
(地図は昨日の記事を見てください)

馴馬(なれうま)町という龍ケ崎市の地名にあるが、ここにも中世には「馴馬城」という城があった。
戦国期は江戸崎の土岐氏の勢力下となり、佐竹氏部下の多賀谷氏に攻められ領地が多賀谷氏に渡るが、佐竹氏の秋田移封で、しばらく後にこの辺り一帯(龍ヶ崎)は仙台の伊達政宗の領地になった。

仙台藩ですから、これこそ本当に飛び地ですね。この辺の領地区分と関係しているのかもしれません。

さて、地図を見ると「女化神社」の位置がこの神社のある位置よりかなり北に示されています。
その場所は牛久市です。

調べてみると、そこには女化神社の奥の院が置かれているというので、日を改めて訪れてみました。

神社の拝殿裏側にもう一つ大きな鳥居があり、通りに面しています。
そしてその先に細い道が畑から住宅地の方に続いています。

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こちらが神社の後ろ側(通り側)の鳥居。この鳥居をくぐって奥の院とつながっていたのでしょう。

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神社から400mほど北に行ったところに少しこんもりとした木が茂った場所があり、その入口に写真のような鳥居と狐像が置かれています。

この鳥居は大きなものではありません。人が一人くぐるのがやっとといった小さなものです。

地図に女化神社と大きく表示された場所の割には質素なものです。

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そして、鳥居をくぐり林の中に入っていくと少し開けた場所の木々の周りにたくさんの狐たちがいました。

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これが奥の院です。狐像に守られて鳥居があり、その隣には「天照大神」の石柱が建っていました。
これはこの地を開拓した徳島の人たちが立てたようです。(明日、この開拓者の話をしましょう)

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そして、そのすぐ隣の土がこんもりとした場所の周りにはいくつもの狐像がこの場所を守っています。

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それにしても、おかしな空間です。もしかしたらこれが女化神社の元の姿なのかもしれません。

昔からこの辺は「女化ヶ原」と言われていました。しっぽを出してしまい姿を知られた狐はこの奥の院あたりの茂みの中に消えていったのでしょう。
(狐の恩返しとか狐の嫁入りなどと言われる話です)

この女化ヶ原は明治に入って広い敷地が広がっていたので陸軍の実弾発砲訓練場となります。

その後徳島県から入植者が何人も入ってきて開墾したそうです。

一見するとその昔には何もない広々したところのように思われますが、とても気になるところがたくさんあります。

この女化町は、土浦から龍ケ崎に行くのに6号国道を通らずに行く道(県道48号線)が通っています。
今は新しい道路ができたり、バイパス道路などが次々に出来て、この旧48号線は通らなくなりましたが、今から30年ほど前には牛久や龍ケ崎に行くのに何度も通りました。

道が狭く車もすれ違うのがやっとのところも多く、地元の方以外にはあまり使われなくなりましたが、昔の街道を理解する上にはとても重要な道だと思います。

前から宿題になっている「古東海道」や「佐竹街道」、そして「若柴宿」、「布施街道」などもこの道を考慮しておかないと理解できないように思います。

このことはまたあらためて紹介したいと思います。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/05/19 18:34

女化青年研修所-徳島の開拓者たち

 女化神社とその奥の院の紹介をしていて、ある事実に気がついてその跡を見に行ってきました。

女化青年研修所という建物です。

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上の写真で左側の道路は県道48号線の旧道です。新しい48号線はこの写真の右側少し離れたところに広い綺麗な道路が完成しています。

正面の黄色い建物が「女化区民会館」という綺麗な建物があり、その右手(西側)に隣接して「女化青年研修所」があります。

昨日紹介した「女化神社奥の院」はこの黄色の建物のところを逆に左手に入ってすぐです。

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昔は、ここのあたりは女化ヶ原という荒涼とした草原地帯で、明治に陸軍の実弾発泡訓練が行われた場所でもあります。

また、明治11年(1878)に大規模農場経営の津田農場の第七農場として開発が始まったが、経営は破綻し、土地は日本全国からの入植者に払い下げられたといいます。

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そんな中、この女化の地に徳島から47名の開拓者が入りました。
元々作物が育たない不毛の地というところへやってきた開拓者たちがこの地を開拓していったのです。
女化神社の奥の院にあった石柱はこの開拓者たちが立てたものだといいます。

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開拓の中心人物が杉本民蔵という人物で、この地に読み書きのできる学校を立てたいと、明治24年(1891)に「化成学館」という学校を建てて、近所の子供たちに読み書きソロバンを教えました。
校長1名、先生1名の学校だったそうです。

でもキリスト教の教えを説いていたので反発され、学校は2年後に廃止されてしまったそうです。
しかし、杉本は諦めずに寄付を集めて私立の尋常小学校を建てました。
国の尋常小学校まで4kmほど離れていたのだそうです。

その後明治40年(1907)にこの学校が正式に国の小学校の分校となり今から40年くらい前まで続いてきたといいます。
女化の人たちの努力で松の木を植えたり、校舎を直したりしてきたといいます。

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当時は茅葺き屋根の校舎だったようですが、昭和12年にこの写真の様な校舎になったといいます。

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昭和47年に学校は閉校となり、その後この分教場の建物を青年研修所として残し、今も使われているのです。

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研修所の内部。どこか懐かしい匂いがします。

不毛の地などと言われたこの女化で、今は落花生が名物のようです。

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新しい県道48号線沿いにできた「楽花亭」というお蕎麦屋さんと落花生専門店「いしじま」さん。

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広い駐車場を持ち大きな落花生のモニュメントが目印になっています。

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そして、すぐ裏の旧道側には「石島商店」さんの大きな落花生工場があります。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/05/20 17:20

牛久大仏

 連休明け頃に成田へ行くときに高速道路をつくばJCTから圏央道で終点の「稲敷IC」まで走りました。
途中阿見のアウトレットの少し手前の右手に牛久大仏が目の前にそびえるように見えてきます。

高速からは大仏の後ろ側を通るので、帰りには一般道を走って大仏見物をしてきました。

1993年に完成した時に世界最大の高さと確か聞いていましたが、調べるとブロンズ像では世界一で、立像としては世界3位だそうです。

高さ120mで奈良の大仏(約15m)が手のひらに乗ってしまうそうです。

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大仏の近くの通りから頭を出した大仏像を写真に撮ってみましたが、かなり大きいです。
家からこんな大きな大仏さんに見下ろされていたら落ち着かないのでは??

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大仏があるのは牛久浄苑という墓地が中心の施設だと昔見たときは思っていたのですが、大仏に来るのはもう15年以上振りでしょうか。
このように入口から街路樹の綺麗な道が続きます。

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大仏の入口近くの藤棚と一緒に撮ってみましたが大きさがわかりますか?

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ここに来るまで、、ここが浄土真宗の東本願寺派の重要な場所だとは知りませんでした。

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この牛久大仏も観光化が進み、食べ物・土産物の売店やらが入口にあります。

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大仏の中はエレベータで胸のところまで登ることができます。
胸のところに空いた縦長のスリット部分から外の景色を見ることができます。
その高さは地上85mだそうです。

あまり高いところは苦手ですし、子供連れでもなければ登りませんので、今回もパスです。

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この牛久浄苑の墓地もかなり広いのですが、その一角に親鸞上人の本廟(ほんびょう)がありました。
この親鸞のお墓とされる場所ですが、浄土真宗の各宗派にそれぞれあるのかもしれません。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2012/05/21 19:28

護身地蔵と金龍寺の話しの共通性

 昨日は天狗の話の共通点について気になっていることを書いたが、今日は、牛久・龍ケ崎地区を調べていて見つけたお話と石岡に伝わる話の共通点を少し書いてみたい。

金龍寺は龍ケ崎市の旧水戸街道の宿場町「若柴宿」の街の通りの突き当りにある。
ここにいろいろ面白い話が伝わっている。

有名なのは「牛久沼」の名前の謂れで、
「金龍寺にいた小坊主が、食べてはすぐ寝るぐうたら小坊主で、<食べてすぐ寝ると牛になる>の言い伝え通り牛になってしまったのです。
そして思い余って、近くの沼に入水しようと入っていったそうです。
慌てて引き止めようと住職がその牛のしっぽを掴んで引っ張ったら切れてしまい、牛となった小坊主は沼に飲まれてしまったそうです。それが「牛を食う沼」と呼ばれ、牛久沼となったといかにも最もらしいお話です。
もちろんお話ですが、このしっぽが寺宝としてこの金龍寺に保存されているそうです。

さて、この話は大した話ではないので、これくらいにして今日の話はもう一つの伝説話です。

金龍寺に「藁干観音」という観音様があるそうです。

この話を要約すると
「昔、新田義貞が追っ手に追われてこの地に逃げ込んできたそうです。
そして、農家が干していた藁束の前に娘が現れて、義貞をわらの中に隠してくれたのです。
敵は藁の中に隠れていることに気がつかずに行ってしまいました。
そして藁からでてきたところ娘の姿もなく、これこそ観音様の化身に違いないと感謝して、この金龍寺に観音像を寄進して、厚く祀ったというのです。」

この話と、石岡の6号脇にある「護身地蔵」に伝わる話がダブってくるのです。(詳細はこちら

こちらは「護身地蔵」=「ゴミ地蔵」から来ている話だとは思いますが、戦国時代の話です。

「ある武士が敵に追われて地蔵尊のところに逃げ込んできた。逃げるところもなく困っていると老婆が現れて塵芥(ゴミ)の山の中にその武士を隠します。
そして敵が去るとその老婆は姿が消えてしまいます。助かった武士は感謝して地蔵に堂宇を建てたそうです。」

それが護身地蔵の言われですが、二つの話しはよく似ています。

さて、龍ケ崎の金龍寺は元は群馬県太田市の寺で新田義貞による開祖が伝えられています。
時代は鎌倉時代末から南北朝時代です。

鎌倉攻めを行い、その後武蔵国(分倍河原や久米川など)での戦闘が歴史に名を残しています。
鎌倉を一時占拠してその勢いも盛んであった時もありますね。

この金龍寺には新田家の歴代の墓があります。

しかし、金龍寺が龍ケ崎の方に移ってきたのは、新田家の末裔が天正18年(1590)に牛久に天封となった時に牛久に菩提寺であった金龍寺も移され、寛文6年(1666)に隣の龍ケ崎にい移ったとされています。

すると、龍ケ崎に伝わる藁干観音は群馬県での話がそのまま伝わったのでしょうか。

このような話はたわいもないのですが、背景を考えていくとどこか面白いものも見えてくるようです。

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この護身地蔵尊は、6号国道の建設時に道路に掛かったため、少し西に移動され現在の国道脇に建っている。
昭和4年の中町の大火が風の影響にでこの貝地方面に火が走ったため、この地蔵堂も火災にあったそうです。

6号建設はその後ですから、建物は昭和のものです。

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国道沿いにありますが、気をつけていないと見落としそうです。

金龍寺の方は曹洞宗の大きなお寺で、江戸時代には若柴宿の中心に近いところでもあり、栄えたようです。





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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(2) | トラックバック(1) | 2012/06/21 19:32

泉子育観音(慶龍寺)(1)

 さて、昨日の筑波山、婆ヶ峰の子授け観音を紹介したので、近くで子育てで有名なお寺を紹介しましょう。

私のところでも最初の子供(娘)のお宮参りに訪れたところなんです。

その子も今では立派に成人して結婚してロンドンに住んでいます。

私たち夫婦どちらもこの地は地元ではないので、子供が生まれた時に近所の方にきいたのです。
すると、このお寺が子育てでは有名なお寺だというので行きました。

生後30日くらいの時に赤ん坊を連れて行きました。すると額に何か✖のような印を書かれたように思います。地方によっては男の子は大とか犬、女の子には小と書くところが多いそうです。

魔除けの意味もあるようだが、丈夫に育ってくださいというおまじないでしょう。

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この子育観音のいわれは、「子育出生観世音菩薩」という秘仏がこのお寺にあるのだそうです。

この像は、京都の東寺で、弘法大師が自ら彫ったといわれるもので、出世と名前にあるのは徳川家康が信仰していた仏で、天下を取ったことから出世の文字が加わったそうです。

この秘仏が京都で彫られたのが大同2年(807年)、そして1472年に仁和寺の僧が小田原に観音寺を建ててこの像を祀った。
それを家康が信仰していた。そして東に行って民を救いなさいとのお告げを得て、このつくば山の手前に来て動かなくなったので、ここに寺を建てたのだそうです。

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さて、江戸時代にはこの地は土浦藩の領地で土浦藩主の土屋正直が寺録を献し、貞亨四年(1687)に表門を寄進したそうだ。

門の手前右端には「弘法大師一千五十回遠忌供養塔」と書かれています。
仁和寺での弘法大師1150回遠忌法要は昭和59年5月に行われたようですので、その時と同じ年でしょう。

その左手には「茨城百景(北条泉の観音)」の碑があります。

写真左手の門の前に建てられた左右の柱には「御成婚記念」「土浦市」の文字があります。

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この寺には2つの門があるが、どちらが土屋家から寄贈されたものなのか?
こちら(向かって右手)が主の山門のようです。

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山門の右側には「二十三夜塔」(真夜中の二十三夜の月の出を待った)

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こちらは向かって左手の山門です。どちらにも土屋氏の家紋がついています。

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今日は時間がないので、またあすに続きを書きます。
毎日、オリンピックも忙しいですね。

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この手水鉢には「水海道」(みつかいどう)」と書かれています。水海道はここから西にいったところにある地名です。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/07 22:11

泉子育観音(慶龍寺)(2)

 つくば北条近くにある「泉の観音さま」として知られる「勢光山泉子育観音 慶竜寺」の2回目です。

真言宗豊山派の寺院ですので、総本山は奈良の長谷寺です。

京都仁和寺の僧が小田原に観音寺を建て、そしてこの地に移ったとなっていますが、小田原の観音寺がまだ残っているかを確かめようと思いましたが見当たりません。

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本堂です。

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なかなか荘厳な彫刻と屋根の造りです。

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この狛犬は仙台の国分寺にあったオランウータン型の狛犬です。

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こちらは阿型の狛犬ですが、タマを持っています。

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全体の配置はこのようになっていますが、建物には何も書かれたものがないので説明に困ります。

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このお寺は虫封じなどの子育て観音様で有名なのですが、そのほかに2月に行われる豆まきも有名なようです。
また、桜(枝垂れ)でも有名だそうです。

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ここにもフクロウ(不苦労)さんがいました。

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子供が多く訪れることもあり、このような置物も・・・。

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金属フェチの方。こんなのどうですか?

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/08/09 20:28

泉子育観音(慶龍寺)(3)

 毎日オリンピックも盛り上がっていますね。
なでしこの銀も立派ですが、レスリングは金がたくさん。

私は個人的には浜口京子さんに拍手を送ります。
最初で負けてしまいましたが、よく頑張ってくれたと思います。
親思いの優しさが勝負にはホンの少しの差になったのかもしれませんね。
胸を張って帰ってきて欲しいです。

それにしても柔道男子はダメでしたね。日本の伝統技という思いがこの成績になっているように思えます。
根性だけで勝てる世界ではないはずです。
スポーツの世界は今は食事やメンタル手法に、ITを駆使した相手の研究などを絶えず行っています。
指導者にはそれなりの指導者学が必要ですね。

 さて、この泉の観音様の紹介も昨日で終わりのはずでしたが、どうにも後味が悪いのです。
今までは、何か調べると多少なりとも記事になることが見つかるのですが、ネットで調べても「豆まきのお祭り」行事と「桜」の記事ばかりです。

寺のいわれは同じことがどこにも書かれているのですが、ここにある本堂も鐘楼もたいそう立派なのですが詳しいことがわかりません。

そんなことを考えながら、ネットを漁っておりました。
すると筑波山の「大御堂(おおみどう)」文字が・・・・

そうだ、前に大御堂を紹介した時に、筑波神社にある「御神橋」と「随神門」を寛永10年11月(1633)に徳川三代将軍家光が寄進した時に、鐘楼堂も同時に寄進され(筑波神社の前の記事はこちら)(大御堂はこちら)、それが明治の神仏分離令で寺が取り壊されて、この鐘楼堂はつくばの「慶龍寺」に移されたと書かれていたことを思い出したのです。

そうだ。この時の鐘楼がこの鐘楼なのだと。

もちろんそれから修理も改築もされているようですので、当時のものがどの程度変わらずにあるのかはわかりません。

ネットを探しても何も書かれたものがありません。何故なのでしょうか?

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立派な鐘楼ですね。これほどのものはあまり見かけません。

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寺紋は昔とは違っているように思います。左右の紋は土浦藩の土屋氏の家紋に似ています。

さて、この寺は真言宗豊山派の寺院となっていましたので、近くの同じ宗派の寺を探してみました。

すると雨引観音(雨引山楽法寺)も同じであった。
こちらも子供を連れてお参りに行くところとして知られる。

そこの鐘楼堂をこちらのものと比べてみたい。

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雨引観音の鐘楼堂は入口の山門の右手にあるが、全容を写真に撮るのが難しい。
近づくと全部が入らない。離れると木々が邪魔をする。

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この雨引観音の鐘楼堂も立派です。この堂は1254年に建設されたものを1831年に再建したものだそうです。

色々と見て歩いているうちに少し関連性が見えてきたりして、少しづつ楽しさも増すようです。

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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/08/10 19:05

つくば市北条(1)

 昨日、古代筑波郡の郡寺の塔に使われたと思われる露盤を紹介しました。

久しぶりにこの北条地区にやってきました。

ここは江戸時代に筑波参詣の入口の街として栄えた街並みが広がっています。

しかし、今年5月の竜巻の被害は大きなもので、今でも建て直しやブルーシートもかなり目立ちます。

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北条の通りに2つの「市の神」というのが祀られていました。
江戸時代に通りの辻などに置かれたものかもしれないと、調べてみるとこの通りで「市いち」が開かれており、この両端にこの祠をおいて祀ったもののようです。

ですから「市神様=いちかみさま」でしょうか。

こちらは八坂神社の少し東側にありました。「東の市の神」だそうです。

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「西の市の神」はちょうど「つくば道」の大きな追分のすぐ前にありました。
「つくば道」については前に紹介していますので今回は省略です。(筑波古道をまとめたものはこちら

この石の祠の横に、「北条町道路元標」が置かれていました。
前にこの道路元標をまとめて調べていた時に、ここの写真を撮っていなかったので今回載せます。

しかし、この辻の元標の後ろ側が空き地になっています。
前に来た時は家があったと思います。おそらく竜巻の被害で取り壊されたのではないかと思います。

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「北条歴史めぐり絵巻」と書かれた看板があちこちに置かれています。
前にはあまり気がつかなかったように思いますので、比較的新しいものかもしれません。

この中心地の近くに「稲荷神社」と矢印の書かれている看板を見つけて行ってみました。

くねくねと坂道を登っていくと「北条小学校」のグランド裏にそれはありました。
「久保山稲荷」となっています。

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たくさんの狐像が置かれていましたが、特に内容を説明するものはありません。
地元のお稲荷さんでしょうか。

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今日は夕方から空が真っ黒になって風も強くなりました。
家の入口にある百日紅の花も風に煽られて大きく揺れていました。

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富山ではかなり大雨が降ったようです。

皆様のところに被害がありませんようにお祈りしています。

明日はこの北条の八坂神社を紹介したいと思います。



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筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/09/06 19:18
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