尾花散る師付の田井
今日は朝かなり激しく雨が降ったが昼前から天気になった。
そこで思い出して万葉集に歌われた志筑にある「師付の田井」にいってみた。
ススキの穂があちらこちらで目立つようになったので「尾花散る」と詠われた場所がどのようになっているかを見て見たかったからである。
五百羅漢で知られる、かすみがうら市の志筑の長興寺の脇を通って木々の茂みの道を下ると一面に田んぼが広がる。ここが「師付の田井」です。
万葉集(第九-1757):
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。・・・・

以前来た時は看板のある場所まで道もなく、田んぼのあぜ道を危なっかしい足取りで歩いて行ったが、今はきれいな道が敷かれ、手前には5-6台止められる駐車場も完備されていました。

左側にはきれいな水が絶えず流れ、昔から水の豊富な場所であった証しでもあります。
尾花(ススキ)はこの碑の廻りだけに植えられていたが、やはり尾花と一緒が良いですね。

この場所から筑波の峰は見ることができない。上の写真では左側の木々に隠れているが、もっと先の方にいけば見ることができる。昔はこの上を雁が飛んでいたのでしょうか。

この石碑の裏側にこんこんとわきだしている井戸があります。これは「鹿島やわら」といい、昔から水が湧き出しており底がなく鹿島神宮までつながっているとまでいわれています。
一度長興寺という一風変わったお寺の見物と兼ねて訪ねて見てほしいと思います。
私も、昔「長興寺」の看板を見た時には、「こんな所のお寺なんて」と少し馬鹿にしていたのですが行ってみて驚きました。
とてもユニークなお寺です。今でも鶴見さんという芸術家が石像を彫っています。
かすみがうら市の人にもほとんど知られていないのが残念です。
そこで思い出して万葉集に歌われた志筑にある「師付の田井」にいってみた。
ススキの穂があちらこちらで目立つようになったので「尾花散る」と詠われた場所がどのようになっているかを見て見たかったからである。
五百羅漢で知られる、かすみがうら市の志筑の長興寺の脇を通って木々の茂みの道を下ると一面に田んぼが広がる。ここが「師付の田井」です。
万葉集(第九-1757):
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。・・・・

以前来た時は看板のある場所まで道もなく、田んぼのあぜ道を危なっかしい足取りで歩いて行ったが、今はきれいな道が敷かれ、手前には5-6台止められる駐車場も完備されていました。

左側にはきれいな水が絶えず流れ、昔から水の豊富な場所であった証しでもあります。
尾花(ススキ)はこの碑の廻りだけに植えられていたが、やはり尾花と一緒が良いですね。

この場所から筑波の峰は見ることができない。上の写真では左側の木々に隠れているが、もっと先の方にいけば見ることができる。昔はこの上を雁が飛んでいたのでしょうか。

この石碑の裏側にこんこんとわきだしている井戸があります。これは「鹿島やわら」といい、昔から水が湧き出しており底がなく鹿島神宮までつながっているとまでいわれています。
一度長興寺という一風変わったお寺の見物と兼ねて訪ねて見てほしいと思います。
私も、昔「長興寺」の看板を見た時には、「こんな所のお寺なんて」と少し馬鹿にしていたのですが行ってみて驚きました。
とてもユニークなお寺です。今でも鶴見さんという芸術家が石像を彫っています。
かすみがうら市の人にもほとんど知られていないのが残念です。
笹竜胆
昨日は風邪で休んで家でノンビリ過ごした。
家に一人でいると電話がかかり、出たら「○○保険の××といいますが、73歳までの
保険のご案内をしています。資料をお送りしましたので・・・。ご主人様は何年
生まれでしょうか?」まったく不躾で失礼な電話だ。
話も聞かずに断ったが、電話番号を電話帳に登録しない人の気持ちもわかる。
断ると、何かこちらも後味の悪さが残るのである。困った世の中だ。
さて、今日はタイトルに書いた「笹竜胆」についてである。
竜胆はリンドウのことで中国語のリュウタンがリンドウと聞こえたのでこのリンドウとなったという。
笹竜胆(ささりんどう)はリンドウの葉が笹の葉に似ており、リンドウの花と笹の葉をあしらった
家紋を「笹竜胆」というそうだ。

家紋などに詳しいわけではないので良く分からないのだが、これが源氏の系統を示す紋だという。
私が、このことを知ったのはかすみがうら市の「胎安(たやす)神社」にいった時である。
神社の紋に使われており、このいきさつを紹介されていた。
そのホームページはなかなか詳しく歴史などを紹介しており、宮司の方のブログもあり、熱心さが
伝わってきます。そのホームページから一部を転載させていただきました。
「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」
源義家とは八幡太郎義家のことであり、奥州征伐は2度行きましたが、最初の「前九年の役」です。
この時はまだ源氏に従うものはそれ程多くはなく、大分苦労したようです。
この近くの正月平などの地名の由来などにもなりました。
胎安神社はこのように古くから伝わる神社ですが、あまり知られていません。
名前からわかるように「安産祈願」「子授け祈願」などが主体です。
石岡の誇る「総社宮」でも「はらおび」などはこちらのものがわたされているようです。
ホームページにもありますが、昔鎌倉街道がこの胎安神社と子安神社の間を通り、国分尼寺へ
続いていたと書かれています。
石岡(府中)のどこを通る道が鎌倉街道なのでしょうか。
現在国道6号線があるため、道が良くわかりません。
石岡は平家発祥の地だという。
しかし、昔は平氏と源氏が対立する関係にはなくお互いが仲間になったり敵対したりしていた時代です。
2度目の奥州征伐に源義家が兵を挙げてやってきた時(後三年の役)はかすみがうら市の
草原に四万騎の馬と兵が集まり「四万騎」の名前が地名となり、石岡に来た時は五万に増え
「五万掘」の名前が残ったといわれています。
家に一人でいると電話がかかり、出たら「○○保険の××といいますが、73歳までの
保険のご案内をしています。資料をお送りしましたので・・・。ご主人様は何年
生まれでしょうか?」まったく不躾で失礼な電話だ。
話も聞かずに断ったが、電話番号を電話帳に登録しない人の気持ちもわかる。
断ると、何かこちらも後味の悪さが残るのである。困った世の中だ。
さて、今日はタイトルに書いた「笹竜胆」についてである。
竜胆はリンドウのことで中国語のリュウタンがリンドウと聞こえたのでこのリンドウとなったという。
笹竜胆(ささりんどう)はリンドウの葉が笹の葉に似ており、リンドウの花と笹の葉をあしらった
家紋を「笹竜胆」というそうだ。


家紋などに詳しいわけではないので良く分からないのだが、これが源氏の系統を示す紋だという。
私が、このことを知ったのはかすみがうら市の「胎安(たやす)神社」にいった時である。
神社の紋に使われており、このいきさつを紹介されていた。
そのホームページはなかなか詳しく歴史などを紹介しており、宮司の方のブログもあり、熱心さが
伝わってきます。そのホームページから一部を転載させていただきました。
「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」
源義家とは八幡太郎義家のことであり、奥州征伐は2度行きましたが、最初の「前九年の役」です。
この時はまだ源氏に従うものはそれ程多くはなく、大分苦労したようです。
この近くの正月平などの地名の由来などにもなりました。
胎安神社はこのように古くから伝わる神社ですが、あまり知られていません。
名前からわかるように「安産祈願」「子授け祈願」などが主体です。
石岡の誇る「総社宮」でも「はらおび」などはこちらのものがわたされているようです。
ホームページにもありますが、昔鎌倉街道がこの胎安神社と子安神社の間を通り、国分尼寺へ
続いていたと書かれています。
石岡(府中)のどこを通る道が鎌倉街道なのでしょうか。
現在国道6号線があるため、道が良くわかりません。
石岡は平家発祥の地だという。
しかし、昔は平氏と源氏が対立する関係にはなくお互いが仲間になったり敵対したりしていた時代です。
2度目の奥州征伐に源義家が兵を挙げてやってきた時(後三年の役)はかすみがうら市の
草原に四万騎の馬と兵が集まり「四万騎」の名前が地名となり、石岡に来た時は五万に増え
「五万掘」の名前が残ったといわれています。
巨峰の実がつきました
今日は5月の最終日で今月中のまとめの仕事をやっとこなし、朝から駆けずりまわっていました。
午後からは少し余裕もでき、出かけたついでにかすみがうら市の福田グリーン農園に寄ってみた。
寄った理由はここに江戸時代の一揆をおこして処刑された福田助六の首塚があるためであった。
首塚については明日紹介するが、観光農家もやっているので家の裏に回ってみると、梨や柿だけでなくぶどう棚が広がっていた。

梨や、栗、それに柿とイチゴなどがここかすみがうら市から石岡市にかけてかなり栽培され、観光バスなどもやってくる。
ぶどうは、今はやっと実がつきだして、手入れに余念がない。
収穫時期しか知らないが、こうして訪れると、また農家の人の苦労が見えてくる。

ぶどうは「巨峰」がほとんどだ。デラウェアなどはこの辺りでは見かけない。
これもやっとかわいい実がつき始めた巨峰である。
ちょうど福田農園の御主人がおられ、お話をうかがえた。
とてもにこやかな穏やかな御主人であった。
今度夏から秋になったら食べに来たいものである。本日は時間がないので明日また続きを書きます。
午後からは少し余裕もでき、出かけたついでにかすみがうら市の福田グリーン農園に寄ってみた。
寄った理由はここに江戸時代の一揆をおこして処刑された福田助六の首塚があるためであった。
首塚については明日紹介するが、観光農家もやっているので家の裏に回ってみると、梨や柿だけでなくぶどう棚が広がっていた。

梨や、栗、それに柿とイチゴなどがここかすみがうら市から石岡市にかけてかなり栽培され、観光バスなどもやってくる。
ぶどうは、今はやっと実がつきだして、手入れに余念がない。
収穫時期しか知らないが、こうして訪れると、また農家の人の苦労が見えてくる。

ぶどうは「巨峰」がほとんどだ。デラウェアなどはこの辺りでは見かけない。
これもやっとかわいい実がつき始めた巨峰である。
ちょうど福田農園の御主人がおられ、お話をうかがえた。
とてもにこやかな穏やかな御主人であった。
今度夏から秋になったら食べに来たいものである。本日は時間がないので明日また続きを書きます。
義人助六(1)
昨日は月末の処理で追われて一息つき、このブログにある助六の首塚を見にいったのだが、そして今日は仕事でいつもの様に朝、車で仕事場に行った。
そしてあることに気がついた。
「そうだ今日は○○さんの定年祝賀会だった」と
何ということだ。すっかりボjケが来てしまった。
どうも曜日を1日勘違いしたらしい。明日が祝賀会と思いこんでいたのである。
それでも、予定通り出席して、今電車で帰って来た。
ということで、今日のテーマは明日と分けて書く事にしたい。
実は、このブログのテーを書くのに調べなければならないことが結構ある。
何時もそうだが、ホームページではできるだけ史実と思われる一般的なことを書き、このブログはそこにかかわる周りの人や景色、道やそこに咲く花などについて書きたいと思っている。
約2年くらい調べながらホームページを立ち上げてそこの歴史などを紹介してきたが、これでは単なる歴史案内、観光案内でしかないのである。
そこに行った時に感じるもの、伝わってくるもの。人との触れ合いなどを残していきたいと思うようになった。
そこでブログを活用させてもらい書き始めた。
しかし、これも続けると結構大変だ。
簡単な写真紹介などならいいのだが、それではこのブログの意味がない。
嘘も書けないし、なかなか面倒なものである。

これが、福田家の屋敷である。この辺りはかなりの旧家が多い。

屋敷の門をくぐって中に入ってみたが、普通の屋敷で、犬にも吠えられてすぐに出てきた。門の入り口には「助六の首塚」の説明看板が掲げてあるのだが、何処に行ったらよいかわからない。
屋敷の左側から裏の畑の方に行く横道があるのでそちらへまわってみた。
うろうろしているとそこに福田家の御主人らしき人が作業をしていた。
場所をおたずねして、見学のお許しを頂いた。とても人のよさそうな方で、ニコニコとして
「あそこの畑の先にある桜の木の所です。どうぞ見て行って下さい」という返事。
かすみがうら市の観光案内の説明には「見学の際は福田家の許可が必要」と書かれていたが、これは帰ってきてから調べてわかったもので、訪ねた時は気にもしていなかったのである。
その首塚は屋敷の裏手であり、福田家の墓所の中に置かれているので、そこにいかれたら家人に一声かけていかれた方がよさそうである。
御主人は訪れてくれたことがとてもうれしそうであった。
この助六一揆(百姓一揆)についてはあまり知られていないが、この地に長く根づき伝えられてきた「義人助六」を少し知っていなければならないことのように感じた。
石岡の人も少しこのようなことを掘り起こして伝えて行く大切さを感じてほしいと思っている。
詳細はまた明日にでも書きたいと思います。
そしてあることに気がついた。
「そうだ今日は○○さんの定年祝賀会だった」と
何ということだ。すっかりボjケが来てしまった。
どうも曜日を1日勘違いしたらしい。明日が祝賀会と思いこんでいたのである。
それでも、予定通り出席して、今電車で帰って来た。
ということで、今日のテーマは明日と分けて書く事にしたい。
実は、このブログのテーを書くのに調べなければならないことが結構ある。
何時もそうだが、ホームページではできるだけ史実と思われる一般的なことを書き、このブログはそこにかかわる周りの人や景色、道やそこに咲く花などについて書きたいと思っている。
約2年くらい調べながらホームページを立ち上げてそこの歴史などを紹介してきたが、これでは単なる歴史案内、観光案内でしかないのである。
そこに行った時に感じるもの、伝わってくるもの。人との触れ合いなどを残していきたいと思うようになった。
そこでブログを活用させてもらい書き始めた。
しかし、これも続けると結構大変だ。
簡単な写真紹介などならいいのだが、それではこのブログの意味がない。
嘘も書けないし、なかなか面倒なものである。

これが、福田家の屋敷である。この辺りはかなりの旧家が多い。

屋敷の門をくぐって中に入ってみたが、普通の屋敷で、犬にも吠えられてすぐに出てきた。門の入り口には「助六の首塚」の説明看板が掲げてあるのだが、何処に行ったらよいかわからない。
屋敷の左側から裏の畑の方に行く横道があるのでそちらへまわってみた。
うろうろしているとそこに福田家の御主人らしき人が作業をしていた。
場所をおたずねして、見学のお許しを頂いた。とても人のよさそうな方で、ニコニコとして
「あそこの畑の先にある桜の木の所です。どうぞ見て行って下さい」という返事。
かすみがうら市の観光案内の説明には「見学の際は福田家の許可が必要」と書かれていたが、これは帰ってきてから調べてわかったもので、訪ねた時は気にもしていなかったのである。
その首塚は屋敷の裏手であり、福田家の墓所の中に置かれているので、そこにいかれたら家人に一声かけていかれた方がよさそうである。
御主人は訪れてくれたことがとてもうれしそうであった。
この助六一揆(百姓一揆)についてはあまり知られていないが、この地に長く根づき伝えられてきた「義人助六」を少し知っていなければならないことのように感じた。
石岡の人も少しこのようなことを掘り起こして伝えて行く大切さを感じてほしいと思っている。
詳細はまた明日にでも書きたいと思います。
義人助六(2)
さて、今日は昨日の続きで、江戸時代におきた百姓一揆「助六一揆」の話である。
皆さんには恐らく興味もないと思うのですが、私にとって、歴史の見方が変ってくる出来事でもありますので、少しばかりお付き合いください。
まず、現地の福田家の前に掲げられた案内板で概要はおわかりになると思います。

1778年というと江戸中期後半で、10代将軍、徳川家治の時代であります。
私が興味を抱くのは、この志筑(しづく)藩の歴史的な背景です。
常陸の国は戦国時代に源氏の直系「佐竹氏」により統一されましたが、家康の命で秋田へ転封となりました。
そこへ、本堂氏が秋田(出羽国)本堂(美郷郡)からこの志筑の地に8983石から8500石に減封された形でやってきます。2代目の時に500石を分けてしまいますので8000石となります。
この佐竹氏の国替は、関ヶ原の戦いで徳川への態度が曖昧であったためで、これはいわば左遷です。
しかし、この本堂氏は普通ならば多少の上乗せがあってもよいはずです。
しかし、本堂氏はこの地が気に入ったようで、減封でもやってきました。
本堂氏の家紋は源氏直系のしるし「笹竜胆(ささりんどう)」です。
さて、徳川の世では1万石に満たないと大名にはなれませんでした。
そのため、この本堂氏は交代寄合衆の身分(いわゆる旗本です)でしたが、江戸に屋敷を構え、志筑には家老を置き、参勤交代が義務付けられていました。
(一般の旗本は義務ではなかったようですが、本堂氏は寄合衆の中でも上の方で義務となったようです)
また、この地には水戸街道の稲吉宿があり17軒も旅館が並んでおり、この助郷役を科せられ、かなりの負担があったようです。
このため、度々一揆がおこり、何とかなだめてきていたが、この助六一揆の少し前にもたびたび一揆が起こりました。
その時、他領の26ヶ村で200両を集め、これを元にして宿場の人馬を雇う和解が成立します。
しかし、この和解金を財政が厳しい藩は農民には渡さなかったと言います。
とうとう我慢できずに窮状および和解金の返還をもとめて江戸屋敷に直訴に及び、その結果、義にかられての直訴でしたが、当然重罪が科せられました。
裁きは、首謀者福田助六(下佐谷村の与惣左衛門)は獄門さらし首、三人が永牢、二人が手鎖となりました。
しかし、この事件はこの地の郷人にとって、皆に代わって訴えてくれたものであり義人としてたたえられたのです。
またさらし首となった所に水戸藩主が通りかかり、これを不憫に思い、首は福田家に帰され、懇ろに弔われたといいます。

さて、まだ続きがあります。
この時の本堂氏は、直系がとだえて、大名であった板倉家から当主を迎えていました。
どうもこの変更が藩体制を強化して、農民を締め付けて行ったようです。
本堂氏の志筑が藩となったのは江戸幕府が大政奉還をした後です。
戊辰戦争の功労で2010石加増されて、1万110石となり、大名に列するようになるのですが、廃藩置県は明治4年ですから藩として存続したのは4年くらいです。
さて、興味があるのはこの藩から「伊東甲子太郎」「鈴木三樹三郎」の兄弟がでます。
新撰組などに興味のある方にはよく知られた名前だと思います。
何か江戸末期に藩になりたくて、勤王色を強めて行ったように思います。
身近なところの歴史も背景を読むことも必要ですね。
少し長文になってしまいました。ご容赦を・・・。
皆さんには恐らく興味もないと思うのですが、私にとって、歴史の見方が変ってくる出来事でもありますので、少しばかりお付き合いください。
まず、現地の福田家の前に掲げられた案内板で概要はおわかりになると思います。

1778年というと江戸中期後半で、10代将軍、徳川家治の時代であります。
私が興味を抱くのは、この志筑(しづく)藩の歴史的な背景です。
常陸の国は戦国時代に源氏の直系「佐竹氏」により統一されましたが、家康の命で秋田へ転封となりました。
そこへ、本堂氏が秋田(出羽国)本堂(美郷郡)からこの志筑の地に8983石から8500石に減封された形でやってきます。2代目の時に500石を分けてしまいますので8000石となります。
この佐竹氏の国替は、関ヶ原の戦いで徳川への態度が曖昧であったためで、これはいわば左遷です。
しかし、この本堂氏は普通ならば多少の上乗せがあってもよいはずです。
しかし、本堂氏はこの地が気に入ったようで、減封でもやってきました。
本堂氏の家紋は源氏直系のしるし「笹竜胆(ささりんどう)」です。
さて、徳川の世では1万石に満たないと大名にはなれませんでした。
そのため、この本堂氏は交代寄合衆の身分(いわゆる旗本です)でしたが、江戸に屋敷を構え、志筑には家老を置き、参勤交代が義務付けられていました。
(一般の旗本は義務ではなかったようですが、本堂氏は寄合衆の中でも上の方で義務となったようです)
また、この地には水戸街道の稲吉宿があり17軒も旅館が並んでおり、この助郷役を科せられ、かなりの負担があったようです。
このため、度々一揆がおこり、何とかなだめてきていたが、この助六一揆の少し前にもたびたび一揆が起こりました。
その時、他領の26ヶ村で200両を集め、これを元にして宿場の人馬を雇う和解が成立します。
しかし、この和解金を財政が厳しい藩は農民には渡さなかったと言います。
とうとう我慢できずに窮状および和解金の返還をもとめて江戸屋敷に直訴に及び、その結果、義にかられての直訴でしたが、当然重罪が科せられました。
裁きは、首謀者福田助六(下佐谷村の与惣左衛門)は獄門さらし首、三人が永牢、二人が手鎖となりました。
しかし、この事件はこの地の郷人にとって、皆に代わって訴えてくれたものであり義人としてたたえられたのです。
またさらし首となった所に水戸藩主が通りかかり、これを不憫に思い、首は福田家に帰され、懇ろに弔われたといいます。

さて、まだ続きがあります。
この時の本堂氏は、直系がとだえて、大名であった板倉家から当主を迎えていました。
どうもこの変更が藩体制を強化して、農民を締め付けて行ったようです。
本堂氏の志筑が藩となったのは江戸幕府が大政奉還をした後です。
戊辰戦争の功労で2010石加増されて、1万110石となり、大名に列するようになるのですが、廃藩置県は明治4年ですから藩として存続したのは4年くらいです。
さて、興味があるのはこの藩から「伊東甲子太郎」「鈴木三樹三郎」の兄弟がでます。
新撰組などに興味のある方にはよく知られた名前だと思います。
何か江戸末期に藩になりたくて、勤王色を強めて行ったように思います。
身近なところの歴史も背景を読むことも必要ですね。
少し長文になってしまいました。ご容赦を・・・。
助六地蔵
今日もまた続きです。(^。^)~
福田グリーン農園の御主人と話した時に、「向こうに地蔵も有りますよ。行かれましたか? あの閑居山です。」
とおっしゃってこられた。
そう、閑居山の上に「助六地蔵」が立っていると、前に「藝文」に載っていたのを読んでいたが、2年程前に、閑居山の磨崖仏を見に行った時に確か近くで見かけたのだが、その地蔵には寄らずに引き挙げてきたことがあった。
たしか、日差しが暑く、汗をかきながら登った記憶があった。
「確か、地蔵があることは聞いていましたが、まだよく見ていないのです。しかし、あの山道は途中に車が乗り捨ててあったり、野仏の首が落とされたり、道があまり良くなかったですが大丈夫ですか?」ときいた。
「最近、志筑の地元の方がきれいに整備したので大丈夫ですよ」との返事。
ではこれから行ってみようと閑居山(昔は志筑山)へ車でまわった。森林総合研究所の敷地の中を突っ切るように案内の看板に従って進むと閑居山の登山口に出た。
車を近くに止めて山道に入ると、小川が流れ脇水も豊富だ。そのまま磨崖仏への案内の矢印に従って、ほんの10分ほど登ると「磨崖仏」の所に出る。壁面の仏の像も大分薄くなっている。
こちらの紹介はまた後でするとして、助六地蔵はこの磨崖仏の場所から目と鼻の先にあった。
山を巻くように道がついておりすぐに地蔵が見えた。

この地蔵さまには「助六地蔵」と木の立て札が掲げられていた。
丁度山の中腹から、村々を見下ろすようにひっそりと立っているのである。

この地蔵は何時頃建てられたものか何も書かれていない。説明文もないので、知らない人は一揆のことも知らずに帰って行くのだろう。
江戸時代にしては新しいように思う。もう少し後なのかもしれない。
またこの地蔵のすぐ近くに小さな滝があり、杉沢の滝と名前がつけられていた。
この山は水も豊富で、郷にも近い。茨城百景にも選ばれるくらい眺めもよい(磨崖仏側ではなくもう少し東側)。
昔から神々しい土地とされて来たのだろう。
弘法大師がここに籠ったとか、徳一法師が籠ったなどと言われているが。どうもこれはあてにならない。
福田グリーン農園の御主人と話した時に、「向こうに地蔵も有りますよ。行かれましたか? あの閑居山です。」
とおっしゃってこられた。
そう、閑居山の上に「助六地蔵」が立っていると、前に「藝文」に載っていたのを読んでいたが、2年程前に、閑居山の磨崖仏を見に行った時に確か近くで見かけたのだが、その地蔵には寄らずに引き挙げてきたことがあった。
たしか、日差しが暑く、汗をかきながら登った記憶があった。
「確か、地蔵があることは聞いていましたが、まだよく見ていないのです。しかし、あの山道は途中に車が乗り捨ててあったり、野仏の首が落とされたり、道があまり良くなかったですが大丈夫ですか?」ときいた。
「最近、志筑の地元の方がきれいに整備したので大丈夫ですよ」との返事。
ではこれから行ってみようと閑居山(昔は志筑山)へ車でまわった。森林総合研究所の敷地の中を突っ切るように案内の看板に従って進むと閑居山の登山口に出た。
車を近くに止めて山道に入ると、小川が流れ脇水も豊富だ。そのまま磨崖仏への案内の矢印に従って、ほんの10分ほど登ると「磨崖仏」の所に出る。壁面の仏の像も大分薄くなっている。
こちらの紹介はまた後でするとして、助六地蔵はこの磨崖仏の場所から目と鼻の先にあった。
山を巻くように道がついておりすぐに地蔵が見えた。

この地蔵さまには「助六地蔵」と木の立て札が掲げられていた。
丁度山の中腹から、村々を見下ろすようにひっそりと立っているのである。

この地蔵は何時頃建てられたものか何も書かれていない。説明文もないので、知らない人は一揆のことも知らずに帰って行くのだろう。
江戸時代にしては新しいように思う。もう少し後なのかもしれない。
またこの地蔵のすぐ近くに小さな滝があり、杉沢の滝と名前がつけられていた。
この山は水も豊富で、郷にも近い。茨城百景にも選ばれるくらい眺めもよい(磨崖仏側ではなくもう少し東側)。
昔から神々しい土地とされて来たのだろう。
弘法大師がここに籠ったとか、徳一法師が籠ったなどと言われているが。どうもこれはあてにならない。
志筑(しづく)の街並み
かすみがうら市志筑(しづく)地区は昔の武家屋敷の面影を今も残す貴重な土地だ。
佐竹氏が秋田に移封となり、かわりに秋田からこの地に8500石(後8000石)で転居となった本堂家が治めていた町である。
本堂家当主は江戸詰の旗本。この土地は家老「横手氏」が主に預かっており、陣屋は昔の志筑城址であった現志筑小学校のところに置かれていた。
しかし、小さいながらも江戸末期の騒乱の時代に、その存在感が高まった時があった。
大政奉還後に功績を認められ、10,110石に加増され本堂家は大名の仲間入りを果たし、ほんの数年間だけ志筑藩が成立します。
そして廃藩置県で1度志筑県となります。
新撰組参謀の伊藤甲子太郎(後に新撰組によって暗殺)、9番組組長であった弟の鈴木三樹三郎(後に御陵衛士から赤報隊)の兄弟を排出します。(志筑藩は脱藩しています)
どのような町か、訪ねてみると驚くほど小さな町です。
石岡の隣り町の1集落にすぎません。
石岡からは下志筑を通って、隣りに小さな池のある坂道を登ると中志筑(なかしづく)の街並みが続きます。
しかし、200m程で街並みは尽きてしまいます。

この時季、通りの家々には、百日紅(サルスベリ)の花が咲いていました。

このような立派な武家屋敷の門があります。


このような茅葺屋根の家が通りにあります。この屋根はこの通りのイメージを強いものにしているようです。

茅葺屋根は茅の並べ方で、このような数段の模様ができます。葺き直したばかりならきれいな模様が見えますが、時間とともに色あせてきます。
上の写真は2年ほど前のものです。

麓の池にはハスの葉がびっしり。池の中では時々ボコボコというような音がします。
魚かカエルかなどと見ていたら、カメが顔を出し、また池の中に潜っていきました。
河童がいても不思議ではないようなところです。

地方の家庭にはこのような雨水を蓄え、防火用水などとしても使ったと思われる用水鉢などがあります。
都会では見かけませんね。
佐竹氏が秋田に移封となり、かわりに秋田からこの地に8500石(後8000石)で転居となった本堂家が治めていた町である。
本堂家当主は江戸詰の旗本。この土地は家老「横手氏」が主に預かっており、陣屋は昔の志筑城址であった現志筑小学校のところに置かれていた。
しかし、小さいながらも江戸末期の騒乱の時代に、その存在感が高まった時があった。
大政奉還後に功績を認められ、10,110石に加増され本堂家は大名の仲間入りを果たし、ほんの数年間だけ志筑藩が成立します。
そして廃藩置県で1度志筑県となります。
新撰組参謀の伊藤甲子太郎(後に新撰組によって暗殺)、9番組組長であった弟の鈴木三樹三郎(後に御陵衛士から赤報隊)の兄弟を排出します。(志筑藩は脱藩しています)
どのような町か、訪ねてみると驚くほど小さな町です。
石岡の隣り町の1集落にすぎません。
石岡からは下志筑を通って、隣りに小さな池のある坂道を登ると中志筑(なかしづく)の街並みが続きます。
しかし、200m程で街並みは尽きてしまいます。

この時季、通りの家々には、百日紅(サルスベリ)の花が咲いていました。

このような立派な武家屋敷の門があります。


このような茅葺屋根の家が通りにあります。この屋根はこの通りのイメージを強いものにしているようです。

茅葺屋根は茅の並べ方で、このような数段の模様ができます。葺き直したばかりならきれいな模様が見えますが、時間とともに色あせてきます。
上の写真は2年ほど前のものです。

麓の池にはハスの葉がびっしり。池の中では時々ボコボコというような音がします。
魚かカエルかなどと見ていたら、カメが顔を出し、また池の中に潜っていきました。
河童がいても不思議ではないようなところです。

地方の家庭にはこのような雨水を蓄え、防火用水などとしても使ったと思われる用水鉢などがあります。
都会では見かけませんね。
二又大根
正月も3が日があっという間に過ぎました。
仕事は明日からですが、気を引き締めていないと休みモードを脱却できません。
ブログも元のテーマなどに戻そうと思います。
昨年の1月のブログのテーマを見直して見ましたが、「天狗の話」「カラスの話」「鷲の話」「狢の話」など日本神話に絡めた記事を書いていたのですが、あれから1年経ちました。
今年のテーマはどうしようかなどと迷っています。
特別テーマを決めなくても自然と1年経つと何かまとまったものに膨らんでくれたら嬉しいのですが・・・。
さて、今日の記事は神社に奉納された「二又大根」です。
下の写真は先日かすみがうら市の旧出島地区(霞ケ浦に飛び出た地区)を散策していたら、地元の小さな神社(加茂神社?)の入口に置いてありました。
みんな二又大根です。
このような習慣は全国にあるようですが、それぞれ夫婦円満、五穀豊穣、健康増進などの意味があるそうです。
女性の足のようでもあるのでその意味合いでの言い伝えが多いのでしょう。
ここの牛渡(うしわた)地区ににある「鹿島神社」に「へいさんぼう」という変わった、昔ながらのおおらかな祭りが行なわれています。
ブログで紹介するのにためらわれるような昔ながらのおおらかな祭りです。
平さんの女房が詰まって「へいさんぼう」と言うとあるのですが、どうもそのまま納得できないでいます。
お祭りの詳細はここでは省きます。

二又の大根は何処でもあるもののようですが、やはりその姿が・・・・。
今年はこんな話からノンビリおおらかにいきたいと思います。
前々からこの牛渡(うしわた)地区と霞ケ浦をはさんだ対岸の美浦村牛込地区との繋がりとその痕跡を探しています。
こんなテーマでもまわりから少しずつ調べたり書いたりしているうちに何か見つかるかもしれません。
← よろしければクリックお願いします。
仕事は明日からですが、気を引き締めていないと休みモードを脱却できません。
ブログも元のテーマなどに戻そうと思います。
昨年の1月のブログのテーマを見直して見ましたが、「天狗の話」「カラスの話」「鷲の話」「狢の話」など日本神話に絡めた記事を書いていたのですが、あれから1年経ちました。
今年のテーマはどうしようかなどと迷っています。
特別テーマを決めなくても自然と1年経つと何かまとまったものに膨らんでくれたら嬉しいのですが・・・。
さて、今日の記事は神社に奉納された「二又大根」です。
下の写真は先日かすみがうら市の旧出島地区(霞ケ浦に飛び出た地区)を散策していたら、地元の小さな神社(加茂神社?)の入口に置いてありました。
みんな二又大根です。
このような習慣は全国にあるようですが、それぞれ夫婦円満、五穀豊穣、健康増進などの意味があるそうです。
女性の足のようでもあるのでその意味合いでの言い伝えが多いのでしょう。
ここの牛渡(うしわた)地区ににある「鹿島神社」に「へいさんぼう」という変わった、昔ながらのおおらかな祭りが行なわれています。
ブログで紹介するのにためらわれるような昔ながらのおおらかな祭りです。
平さんの女房が詰まって「へいさんぼう」と言うとあるのですが、どうもそのまま納得できないでいます。
お祭りの詳細はここでは省きます。

二又の大根は何処でもあるもののようですが、やはりその姿が・・・・。
今年はこんな話からノンビリおおらかにいきたいと思います。
前々からこの牛渡(うしわた)地区と霞ケ浦をはさんだ対岸の美浦村牛込地区との繋がりとその痕跡を探しています。
こんなテーマでもまわりから少しずつ調べたり書いたりしているうちに何か見つかるかもしれません。


霞ケ浦の鯉養殖
今晩2件目の記事です。さっきのは記事ではないので・・・。
霞ケ浦は日本一の鯉の養殖の産地でした。ここで養殖された鯉が生きたまま全国へ送られていました。
しかし、2003年に発生した鯉ヘルペスはこの養殖産業に大打撃を与えました。
鯉のヘルペスはどこか外部(海外?)からの菌が伝染したと思われ、菌を保有しても発症する場合と発症しない場合があるようです。
ただ一旦発症するとその死亡率は100%という鯉にとっては恐ろしい病気です。
このため、ここ霞ケ浦の鯉の養殖が全面禁止され、多くの鯉の養殖業者が廃業に追い込まれてしまいました。
その後、ヘルペスに耐性のある鯉が試験場で開発され、また移動もエラを取り除いて移動すればヘルペス菌は伝染しないことが確認され、2009年に養殖の再開が許可されました。
現在では半数程度の養殖業者が再開にこぎつけたようですが、すでに撤退した業者も多くいるといいます。

(かすみがうら市牛渡付近)
ここは霞ケ浦に飛びだしているかすみがうら市旧出島の先端近くの牛渡地区の「鯉養殖いけす」です。

この牛渡地区ではこのように湖の中にいけすを作り、そこに餌をまいて養殖しています。
最初の私もこのタンクが何をするものなのかが不思議でした。
この小屋にはきっと餌となる飼料が置いてあるのか、自動的に操作して餌をまいているのかどちらかでしょう。

(かすみがうら市歩崎公園付近)
霞ケ浦沿岸ではこのようなタンクはこの牛渡地区と歩崎の2か所位です。
いけすもこのようないけすではなく、内陸側に池を作って「陸いけす」という方法があるといいます。
昨年のNHK「きっちんが走る」で放送された鯉料理のレシピは → こちら
この鯉料理美味しそうだったです。
現在は生きた鯉を移動する場合はエラを切除するそうです。その他は地元で料理されるものはOKです。
他の県の鯉にウイルスが移らないためにしかたないのでしょうが、地元での料理にもたくさん使わるといいですね。
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霞ケ浦は日本一の鯉の養殖の産地でした。ここで養殖された鯉が生きたまま全国へ送られていました。
しかし、2003年に発生した鯉ヘルペスはこの養殖産業に大打撃を与えました。
鯉のヘルペスはどこか外部(海外?)からの菌が伝染したと思われ、菌を保有しても発症する場合と発症しない場合があるようです。
ただ一旦発症するとその死亡率は100%という鯉にとっては恐ろしい病気です。
このため、ここ霞ケ浦の鯉の養殖が全面禁止され、多くの鯉の養殖業者が廃業に追い込まれてしまいました。
その後、ヘルペスに耐性のある鯉が試験場で開発され、また移動もエラを取り除いて移動すればヘルペス菌は伝染しないことが確認され、2009年に養殖の再開が許可されました。
現在では半数程度の養殖業者が再開にこぎつけたようですが、すでに撤退した業者も多くいるといいます。

(かすみがうら市牛渡付近)
ここは霞ケ浦に飛びだしているかすみがうら市旧出島の先端近くの牛渡地区の「鯉養殖いけす」です。

この牛渡地区ではこのように湖の中にいけすを作り、そこに餌をまいて養殖しています。
最初の私もこのタンクが何をするものなのかが不思議でした。
この小屋にはきっと餌となる飼料が置いてあるのか、自動的に操作して餌をまいているのかどちらかでしょう。

(かすみがうら市歩崎公園付近)
霞ケ浦沿岸ではこのようなタンクはこの牛渡地区と歩崎の2か所位です。
いけすもこのようないけすではなく、内陸側に池を作って「陸いけす」という方法があるといいます。
昨年のNHK「きっちんが走る」で放送された鯉料理のレシピは → こちら
この鯉料理美味しそうだったです。
現在は生きた鯉を移動する場合はエラを切除するそうです。その他は地元で料理されるものはOKです。
他の県の鯉にウイルスが移らないためにしかたないのでしょうが、地元での料理にもたくさん使わるといいですね。


胎安神社(かすみがうら市)
先日、古渡(ふっと)の興禅寺で安産・子育てにご利益がある「延命地蔵」の話を書きました。
そこで連想ですが、かすみがうら市にある二つの子育て・安産神社を紹介します。
今日紹介するのは「胎安(たやす)神社」です。
名前ですぐにわかると思いますが、安産祈願の神社で、延喜式式内社です。
創建が763年と伝えられていますが、詳細ははっきりしません。
元々は香取神宮の経津主命を祀っていましたが、山城国葛野郡(京都嵐山)の梅宮大社の分霊を祀って、胎内神(木花咲耶姫命)を祀るようになったそうです。
この神社のいわれとしては家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」は源氏の印ですが、前九年の役の時の天喜2年(1055)源頼義、義家父子が、隣村の下雫村(下志筑)に滞在していた時に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の安産祈願を行いました。
康平6年(1064) 奥州からの帰路、お礼参りをし、この時の「太刀一振り」の奉納札が残っているそうです。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。
また、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されたそうです。
(注:神社の書かれたものにはこのようになっていますが、前九年の役に下雫村に滞在したということは私は確認していません。本堂家が志筑藩に入ってきてからの話が少し混ざっているように思います。)

入口の「神門」です。

拝殿です。拝殿前の左側の杉の木は「不老長寿の杉」といい、杉皮の一片を衣服に縫い入れ着用すると、長寿を得られると言い伝えられているそうです。もっと大木と思いましたが意外に普通の太さの木です。
説明では根元が硬く成長が遅いのだといいます。

拝殿の正面に「笹竜胆」のマークとその下には龍の彫り物が鮮やかです。
笹竜胆は源氏の印ですが、この寺を保護した志筑藩の本堂家が使っていた家紋です。

この龍の彫り物も見事です。

寺の横から裏の方に回ると「子持ち松」という枯れ木が置かれています。
樹齢が500年程だといいますが、明治時代に枯れてしまったそうです。

本殿に彫られた彫刻。

境内にたくさんの祠が置かれていました。
全国から集まったものでしょうか。みな境内社になるのでしょうか?

神社で参拝していると社務所の方から巫女さん?が出てこられて暖かいお茶を1缶いただきました。
ここを訪れたのは4回目でしょうか。これでお茶をいただいたのは2度目です。
寒い日でしたので手を温めながらいただきました。
安産を願う方は一度おまいりして見てはいかがですか。
意外に知られていませんが、由緒のある神社です。
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そこで連想ですが、かすみがうら市にある二つの子育て・安産神社を紹介します。
今日紹介するのは「胎安(たやす)神社」です。
名前ですぐにわかると思いますが、安産祈願の神社で、延喜式式内社です。
創建が763年と伝えられていますが、詳細ははっきりしません。
元々は香取神宮の経津主命を祀っていましたが、山城国葛野郡(京都嵐山)の梅宮大社の分霊を祀って、胎内神(木花咲耶姫命)を祀るようになったそうです。
この神社のいわれとしては家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」は源氏の印ですが、前九年の役の時の天喜2年(1055)源頼義、義家父子が、隣村の下雫村(下志筑)に滞在していた時に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の安産祈願を行いました。
康平6年(1064) 奥州からの帰路、お礼参りをし、この時の「太刀一振り」の奉納札が残っているそうです。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。
また、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されたそうです。
(注:神社の書かれたものにはこのようになっていますが、前九年の役に下雫村に滞在したということは私は確認していません。本堂家が志筑藩に入ってきてからの話が少し混ざっているように思います。)

入口の「神門」です。

拝殿です。拝殿前の左側の杉の木は「不老長寿の杉」といい、杉皮の一片を衣服に縫い入れ着用すると、長寿を得られると言い伝えられているそうです。もっと大木と思いましたが意外に普通の太さの木です。
説明では根元が硬く成長が遅いのだといいます。

拝殿の正面に「笹竜胆」のマークとその下には龍の彫り物が鮮やかです。
笹竜胆は源氏の印ですが、この寺を保護した志筑藩の本堂家が使っていた家紋です。

この龍の彫り物も見事です。

寺の横から裏の方に回ると「子持ち松」という枯れ木が置かれています。
樹齢が500年程だといいますが、明治時代に枯れてしまったそうです。

本殿に彫られた彫刻。

境内にたくさんの祠が置かれていました。
全国から集まったものでしょうか。みな境内社になるのでしょうか?

神社で参拝していると社務所の方から巫女さん?が出てこられて暖かいお茶を1缶いただきました。
ここを訪れたのは4回目でしょうか。これでお茶をいただいたのは2度目です。
寒い日でしたので手を温めながらいただきました。
安産を願う方は一度おまいりして見てはいかがですか。
意外に知られていませんが、由緒のある神社です。


子安神社(1)
かすみがうら市の胎安神社を紹介しましたが、今日はすぐ近くにある「子安神社」の紹介です。
延喜式の式内社としては茨城郡に「夷針(イハリ?)神社」が載っているのだが、昨日の胎安(タヤス)神社もこの子安神社もこの式内社の論社とみなされている。
もう一つ茨城町大戸に夷針(いしみ)神社」があるのだがすべて論社なのだどという。
もともと筑波の周りはニイバリ(新治)と呼ばれていた。この名前のもとになった言葉だと思うのだが意味は良くわからない。
漢字は当て字だろうから理解する助けにならない。
もっとも新治と各地名は各地にあり、群馬県では「にいはる」とよむ。
(写真はサムネルです。クリックで大きな写真が見られます)

街道から少し入ったところに神社参道入り口がある。

少し進むと鳥居が建っています。
木々はかなり古木があります。この鳥居の先から椿の古木(大木)が続きます。
椿の花の時期にはこの花を目当てに訪れる人もいるそうです。

拝殿前には大きな古木がありその歴史を感じさせてくれます。

拝殿です。この裏に江戸時代の本殿があります。
この拝殿の入口上にも立派な龍の彫刻があります。胎安神社の彫刻と対になっているようです。
源氏の紋である「笹竜胆(ささりんどう)」の紋も同じです。

この子安神社はこの周辺の子安講の中心的神社でした。9月の例祭は昔はかなり盛大に行われ参道の周囲には屋台もたくさん出たそうです。
いまは面影がありませんが、子安信仰の由緒ある神社です。
今日は時間もないので、もう少し掘り下げた内容は明日に書きたいと思います。
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延喜式の式内社としては茨城郡に「夷針(イハリ?)神社」が載っているのだが、昨日の胎安(タヤス)神社もこの子安神社もこの式内社の論社とみなされている。
もう一つ茨城町大戸に夷針(いしみ)神社」があるのだがすべて論社なのだどという。
もともと筑波の周りはニイバリ(新治)と呼ばれていた。この名前のもとになった言葉だと思うのだが意味は良くわからない。
漢字は当て字だろうから理解する助けにならない。
もっとも新治と各地名は各地にあり、群馬県では「にいはる」とよむ。
(写真はサムネルです。クリックで大きな写真が見られます)

街道から少し入ったところに神社参道入り口がある。

少し進むと鳥居が建っています。
木々はかなり古木があります。この鳥居の先から椿の古木(大木)が続きます。
椿の花の時期にはこの花を目当てに訪れる人もいるそうです。

拝殿前には大きな古木がありその歴史を感じさせてくれます。

拝殿です。この裏に江戸時代の本殿があります。
この拝殿の入口上にも立派な龍の彫刻があります。胎安神社の彫刻と対になっているようです。
源氏の紋である「笹竜胆(ささりんどう)」の紋も同じです。

この子安神社はこの周辺の子安講の中心的神社でした。9月の例祭は昔はかなり盛大に行われ参道の周囲には屋台もたくさん出たそうです。
いまは面影がありませんが、子安信仰の由緒ある神社です。
今日は時間もないので、もう少し掘り下げた内容は明日に書きたいと思います。


子安神社(2)
今日は昨日の子安神社の続きです。
この神社の本殿の紹介をします。

拝殿の裏へ回ると本殿が木の枠で囲われています。
立派な本殿なのですが、かなり時代が建ったものなので雨風に耐えられるようにおおっているものと思います。

この本殿は江戸初期の建立といわれ、途中で建て替えなどが行なわれていないことから貴重な建物だと思います。

なかなか凝った彫刻が施されています。
神社の由緒としては大同2年(807年)に富士浅間神社より木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を、また鹿島より武甕槌命(たけみかづちのみこと)を分霊して祀っています。
胎安(たやす)神社は763年の創建としていますので、胎安神社の方が44年古いことになります。
また同じ木花開耶姫命ですが、胎安神社は山城国葛野郡(京都嵐山)梅宮大社より分霊しています。
また胎安神社は鹿島ではなく香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)を祀っているのです。
この両者の違いは何なのでしょうか。
どうやら元は一つだったと思われる記録もあるようですが、別れてからかなり経っており訪れて見るとその雰囲気は全く違っています。
胎安神社の宮司は現在36代目らしいので数百年~1000年前くらいに遡るようです。
源頼義、義家親子が前九年の役にこの近くで宿泊しこの両方の神社にお参りしたといわれていますが、その伝わり方も少し違います。(行きは1055年、帰還は1064年の両方ともに訪れたということは両方で同じです)
胎安神社では近くの下雫村に陣をはり、義家(八幡太郎)の都に残した妻の安産を祈願して、無事安産であったお礼に「太刀一振り」を奉納したので、この義家の嫡男の誕生日9月9日を祭日としたとなっています。
(下雫村は江戸時代に秋田より移ってきた本堂氏の志筑(しづく)藩の場所が昔、下雫村であるのでこの場所に八幡太郎が滞在したという話になってしまったものと思います。胎安神社は本堂氏の保護を受けていました。)
一方子安神社では宿泊したのはこの神社の近くであり下雫村とは言っていません。
実はこの近くの石岡市正月平(しょうがつだいら)というところに、この親子が正月に宿泊したという記録が残されています。(正月平については以前地名の話として書いています。→こちら)
宿泊が正月になったのでその地が「正月平」というおめでたい地名になったというものです。
当時戸数も少なく大変であったにもかかわらず、総出でもてなしたため非常に感謝されたと記録があるようです。(正確には読んでいませんので未確認です)
そしてこの時に子安神社でお祭りがあり人々が神社に集まっていたので、その由緒を聞き頼義、義家親子がこの子安神社にお参りしたといいます。そして近くの川に架かる橋が通れないのを武士たちが橋をかけ直してくれたといわれています。
この川は今は天の川という洒落た名前になっています。高浜で恋瀬川に注いで霞ケ浦に流れています。
ここに架かる橋は建て替え工事を3年以上前からやっていて(臨時のバイパス橋で通行していた)今年になってやっと通れるようになった場所です。
それほど大きな橋でもないのに時間がかかりすぎです。昔はすぐに架けてしまったのですから・・・。
今の子安神社の例大祭は3月3日に行われています。
少し話が長くなってしまいましたが、この続きはまた明日へ。
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この神社の本殿の紹介をします。

拝殿の裏へ回ると本殿が木の枠で囲われています。
立派な本殿なのですが、かなり時代が建ったものなので雨風に耐えられるようにおおっているものと思います。

この本殿は江戸初期の建立といわれ、途中で建て替えなどが行なわれていないことから貴重な建物だと思います。

なかなか凝った彫刻が施されています。
神社の由緒としては大同2年(807年)に富士浅間神社より木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を、また鹿島より武甕槌命(たけみかづちのみこと)を分霊して祀っています。
胎安(たやす)神社は763年の創建としていますので、胎安神社の方が44年古いことになります。
また同じ木花開耶姫命ですが、胎安神社は山城国葛野郡(京都嵐山)梅宮大社より分霊しています。
また胎安神社は鹿島ではなく香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)を祀っているのです。
この両者の違いは何なのでしょうか。
どうやら元は一つだったと思われる記録もあるようですが、別れてからかなり経っており訪れて見るとその雰囲気は全く違っています。
胎安神社の宮司は現在36代目らしいので数百年~1000年前くらいに遡るようです。
源頼義、義家親子が前九年の役にこの近くで宿泊しこの両方の神社にお参りしたといわれていますが、その伝わり方も少し違います。(行きは1055年、帰還は1064年の両方ともに訪れたということは両方で同じです)
胎安神社では近くの下雫村に陣をはり、義家(八幡太郎)の都に残した妻の安産を祈願して、無事安産であったお礼に「太刀一振り」を奉納したので、この義家の嫡男の誕生日9月9日を祭日としたとなっています。
(下雫村は江戸時代に秋田より移ってきた本堂氏の志筑(しづく)藩の場所が昔、下雫村であるのでこの場所に八幡太郎が滞在したという話になってしまったものと思います。胎安神社は本堂氏の保護を受けていました。)
一方子安神社では宿泊したのはこの神社の近くであり下雫村とは言っていません。
実はこの近くの石岡市正月平(しょうがつだいら)というところに、この親子が正月に宿泊したという記録が残されています。(正月平については以前地名の話として書いています。→こちら)
宿泊が正月になったのでその地が「正月平」というおめでたい地名になったというものです。
当時戸数も少なく大変であったにもかかわらず、総出でもてなしたため非常に感謝されたと記録があるようです。(正確には読んでいませんので未確認です)
そしてこの時に子安神社でお祭りがあり人々が神社に集まっていたので、その由緒を聞き頼義、義家親子がこの子安神社にお参りしたといいます。そして近くの川に架かる橋が通れないのを武士たちが橋をかけ直してくれたといわれています。
この川は今は天の川という洒落た名前になっています。高浜で恋瀬川に注いで霞ケ浦に流れています。
ここに架かる橋は建て替え工事を3年以上前からやっていて(臨時のバイパス橋で通行していた)今年になってやっと通れるようになった場所です。
それほど大きな橋でもないのに時間がかかりすぎです。昔はすぐに架けてしまったのですから・・・。
今の子安神社の例大祭は3月3日に行われています。
少し話が長くなってしまいましたが、この続きはまた明日へ。


子安神社(3)
昨日載せようとしていましたが、別な記事を挟みましたので今日になりました。
ところで、土浦の駅前のウララに入っているイトーヨーカドーが来年2月に撤退だそうです。
その空いたフロアを土浦市で買い取る交渉をしているそうです。
市役所も建て直すので、この跡地になどと言う話もあるようですが止めた方がいいですね。
駅前はやはり活気がなければだめです。
今日は子安神社の3回目です。胎安神社と合わせれば4回目です。
まあ、この神社に3回も4回もかけて書く人もまずいないでしょう。
訪れて見れば特になんでもない神社です。子安神社は参道に大きな山椿の木が並びますので、この椿を見に行く人はいるようです。今月には見られるようになるのでしょうか。
さて、この2つの神社は出産・子育ての神社です。
胎安神社では再選を0円入れてお参りしたのにお茶をいただき申し訳ない思いでした。
さてここで祀っている神様は鹿島香取の神と「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祀っているのですが、この神様は伊勢神宮内宮の子安神社でも祀られていて「木華開耶姫命」と書かれていますが、読み方は一緒です。
「木の花(桜や梅)が咲くように美しい姫」の神様です。良い名前ですよね。木花之佐久毘売とも書かれます。
神様になってしまうと何だか美しさがわからないですよね。
神話を読めばわかるのですが、簡単にお話ししておきます。
日向の地(高千穂)に降り立ったニギニギのところに天の大山津見神より二人の姉妹が送られてきます。
姉は醜く、ニギニギは妹の木花開耶姫命だけを妻にし、姉は送り返してしまいます。
妹は子孫繁栄の子宝に恵まれる娘であり、姉も妻にしていれば永遠の命をもたらされたというのです。
妹だけを妻にしたために人間には寿命ができて、人は皆死ぬ運命になったというのです。
さて、このニギニギと1晩過ごした木華開耶姫は身ごもったので、身ごもったのは自分の子供ではないかもしれないとニギニギは疑いを持ちます。
そこで、木華開耶姫はもしあなたの子供でなければ、火の中では無事にお産は出来ないだろうと自ら産屋に火をつけてその中で3人の子供を産みます。
その3番目の子供の子孫が天照大神です。
この話はこれくらいにして、この子安神社の拝殿を少し見ておきましょう。
一昨日の記事に龍の彫り物があったところです。

拝殿の中には正面に2枚の「正一位子安大明神」の額があり、そのまわりに、たくさんの奉納された絵馬がかかっています。
みな古びていて読むことができません。

子安神社の新しいHP(昨年末?)に紹介されていましたのでサンプルとして一つ紹介します。
これは「寛延三巳巳年(1750年)9月吉日 土浦横町田町鉄砲宿 男女講中」だそうです。
その他に「寛保三年 鳥羽田村内増山 同行二拾六人」など江戸時代の講中で訪れたことが記録されています。
絵馬には1700年~1900年頃の様子が描かれており結構興味深いです。
まあこんなところにまで興味を持つの少ないかもしれませんね。
この神社も昔はもっと色々な飾りなどがあったそうですが、盗人にあってかなり失われてしまったといいます。
皆さん大切に後世に残していきましょう。
実はこの子安・胎安神社の間の通りが鎌倉時代に「鎌倉街道」と呼ばれていたというのです。
そして、この道が土浦の方につながっていたのではなく霞ケ浦の方に向かっていたようなのです。
やはり美浦村から舟に乗り牛渡の方にわたり、こちらへつながっていたのでしょう。
それが江戸時代になり全く違う道になって廃れて今では道さえあやふやになってしまったようです。

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ところで、土浦の駅前のウララに入っているイトーヨーカドーが来年2月に撤退だそうです。
その空いたフロアを土浦市で買い取る交渉をしているそうです。
市役所も建て直すので、この跡地になどと言う話もあるようですが止めた方がいいですね。
駅前はやはり活気がなければだめです。
今日は子安神社の3回目です。胎安神社と合わせれば4回目です。
まあ、この神社に3回も4回もかけて書く人もまずいないでしょう。
訪れて見れば特になんでもない神社です。子安神社は参道に大きな山椿の木が並びますので、この椿を見に行く人はいるようです。今月には見られるようになるのでしょうか。
さて、この2つの神社は出産・子育ての神社です。
胎安神社では再選を0円入れてお参りしたのにお茶をいただき申し訳ない思いでした。
さてここで祀っている神様は鹿島香取の神と「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祀っているのですが、この神様は伊勢神宮内宮の子安神社でも祀られていて「木華開耶姫命」と書かれていますが、読み方は一緒です。
「木の花(桜や梅)が咲くように美しい姫」の神様です。良い名前ですよね。木花之佐久毘売とも書かれます。
神様になってしまうと何だか美しさがわからないですよね。
神話を読めばわかるのですが、簡単にお話ししておきます。
日向の地(高千穂)に降り立ったニギニギのところに天の大山津見神より二人の姉妹が送られてきます。
姉は醜く、ニギニギは妹の木花開耶姫命だけを妻にし、姉は送り返してしまいます。
妹は子孫繁栄の子宝に恵まれる娘であり、姉も妻にしていれば永遠の命をもたらされたというのです。
妹だけを妻にしたために人間には寿命ができて、人は皆死ぬ運命になったというのです。
さて、このニギニギと1晩過ごした木華開耶姫は身ごもったので、身ごもったのは自分の子供ではないかもしれないとニギニギは疑いを持ちます。
そこで、木華開耶姫はもしあなたの子供でなければ、火の中では無事にお産は出来ないだろうと自ら産屋に火をつけてその中で3人の子供を産みます。
その3番目の子供の子孫が天照大神です。
この話はこれくらいにして、この子安神社の拝殿を少し見ておきましょう。
一昨日の記事に龍の彫り物があったところです。

拝殿の中には正面に2枚の「正一位子安大明神」の額があり、そのまわりに、たくさんの奉納された絵馬がかかっています。
みな古びていて読むことができません。

子安神社の新しいHP(昨年末?)に紹介されていましたのでサンプルとして一つ紹介します。
これは「寛延三巳巳年(1750年)9月吉日 土浦横町田町鉄砲宿 男女講中」だそうです。
その他に「寛保三年 鳥羽田村内増山 同行二拾六人」など江戸時代の講中で訪れたことが記録されています。
絵馬には1700年~1900年頃の様子が描かれており結構興味深いです。
まあこんなところにまで興味を持つの少ないかもしれませんね。
この神社も昔はもっと色々な飾りなどがあったそうですが、盗人にあってかなり失われてしまったといいます。
皆さん大切に後世に残していきましょう。
実はこの子安・胎安神社の間の通りが鎌倉時代に「鎌倉街道」と呼ばれていたというのです。
そして、この道が土浦の方につながっていたのではなく霞ケ浦の方に向かっていたようなのです。
やはり美浦村から舟に乗り牛渡の方にわたり、こちらへつながっていたのでしょう。
それが江戸時代になり全く違う道になって廃れて今では道さえあやふやになってしまったようです。



師付(志筑)の田井-稲刈り間近
今日も結構残暑が厳しかったです。
しかし午後に一雨きましたがすぐに上がってしまいました。
雨が上がったあとつくばの方にまた出かけたのですが、舗装された通りから白い蒸気が立ち上っていました。
道路が暑くて、降った雨がすぐに蒸発しているのです。
しかし、これは道路ばかりでなく穂がたわわに実って刈られるのを待っているばかりの田んぼからもうっすらと白く立ち昇っていました。
(下の写真はサムネルです。よければクリックして見てください)

万葉集に歌われた師付の田居は、ここ石岡を流れる恋瀬川を昔、志筑川といわれていたため、この流域に広がる田んぼを筑波山から眺めて詠んだものと思われますが、今はかすみがうら市中志筑の長興寺の裏の田んぼに湧き出す井戸を指すとされています。
近くを通るとこの「師付(志筑)の田井」の場所から白いもやが立ち昇っていました。

もう来週にはこのあたりも稲刈りが終わっているかもしれません。
この風情ももう少しです。
明日は石岡市柴間のギター文化館で「里山と風の声コンサート」があります。
友達を連れて行く予定です。
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しかし午後に一雨きましたがすぐに上がってしまいました。
雨が上がったあとつくばの方にまた出かけたのですが、舗装された通りから白い蒸気が立ち上っていました。
道路が暑くて、降った雨がすぐに蒸発しているのです。
しかし、これは道路ばかりでなく穂がたわわに実って刈られるのを待っているばかりの田んぼからもうっすらと白く立ち昇っていました。
(下の写真はサムネルです。よければクリックして見てください)

万葉集に歌われた師付の田居は、ここ石岡を流れる恋瀬川を昔、志筑川といわれていたため、この流域に広がる田んぼを筑波山から眺めて詠んだものと思われますが、今はかすみがうら市中志筑の長興寺の裏の田んぼに湧き出す井戸を指すとされています。
近くを通るとこの「師付(志筑)の田井」の場所から白いもやが立ち昇っていました。

もう来週にはこのあたりも稲刈りが終わっているかもしれません。
この風情ももう少しです。
明日は石岡市柴間のギター文化館で「里山と風の声コンサート」があります。
友達を連れて行く予定です。


子安神社
昨日は春一番ということで南風で暖かくなり、今日も気温はそれほど下がりません。
風は強いですがポカポカとした陽気に梅の花も誘われて咲きはじたようです。
でも日本海側には雪マークで吹雪いているようなこともニュースではいっています。
昨日夜に成田からの帰りに立ち寄ったという息子も早々と出張の議事録をまとめるので帰ると東京行きの高速バスに乗って帰りました。
大きな旅行ケースに重いほどの荷物。
「これ皆んなおみやげなんだ」
「家にはなにかあるの?」
「なんにも買ってないよ」
だそうです。
でも顔が少し見れただけで十分なんですね。どこの親もそんなものなのでしょう。
また、夫婦ふたりの生活に戻りました。
さて、今日は1週間前に立ち寄った子安神社を少し紹介します。
石岡のとなりのかすみがうら市東野寺、西野寺にある「胎安(たやす)神社」と「子安神社」は、ともに古くからある対となった神社である。
近くをいつも通るのだが、ふと少し寄ってみようと思った。
立ち寄ったのは子安神社である。入口参道に野生の大きな椿の木がたくさんあったのを思い出したのである。

ここは子授け祈願が多いが、
・子供が授かりますように!
・どうか無事赤ちゃんが生まれますように!
・子供が丈夫に育ちますように!
・家族が皆笑顔で過ごせますように!
親の願いはいつも一緒です。

孫が無事生まれますように!
遠くに行ってしまった娘ですが、無事生まれることをお願いしました。

この立派な龍の彫刻の下にある神紋の「笹竜胆(ささりんどう)」は源氏のマークです。

拝殿前の御神木は既に上の方はありませんが、かなりの太さです。いつまでこの状態が残せるでしょうか。

参道の椿の木は花がほとんど咲いていませんでした。つぼみはありましたので咲くのが遅れているのでしょう。
(撮影は1週間前です)

参道に椿の木があるのは珍しいですね。この花を本当は見に来たのですが・・・・。
さて、明日は胎安神社の祭礼があります。久しぶりに出かけてみようかな。

(上の写真:3月3日の写真を追加でUPしました)
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風は強いですがポカポカとした陽気に梅の花も誘われて咲きはじたようです。
でも日本海側には雪マークで吹雪いているようなこともニュースではいっています。
昨日夜に成田からの帰りに立ち寄ったという息子も早々と出張の議事録をまとめるので帰ると東京行きの高速バスに乗って帰りました。
大きな旅行ケースに重いほどの荷物。
「これ皆んなおみやげなんだ」
「家にはなにかあるの?」
「なんにも買ってないよ」
だそうです。
でも顔が少し見れただけで十分なんですね。どこの親もそんなものなのでしょう。
また、夫婦ふたりの生活に戻りました。
さて、今日は1週間前に立ち寄った子安神社を少し紹介します。
石岡のとなりのかすみがうら市東野寺、西野寺にある「胎安(たやす)神社」と「子安神社」は、ともに古くからある対となった神社である。
近くをいつも通るのだが、ふと少し寄ってみようと思った。
立ち寄ったのは子安神社である。入口参道に野生の大きな椿の木がたくさんあったのを思い出したのである。

ここは子授け祈願が多いが、
・子供が授かりますように!
・どうか無事赤ちゃんが生まれますように!
・子供が丈夫に育ちますように!
・家族が皆笑顔で過ごせますように!
親の願いはいつも一緒です。

孫が無事生まれますように!
遠くに行ってしまった娘ですが、無事生まれることをお願いしました。

この立派な龍の彫刻の下にある神紋の「笹竜胆(ささりんどう)」は源氏のマークです。

拝殿前の御神木は既に上の方はありませんが、かなりの太さです。いつまでこの状態が残せるでしょうか。

参道の椿の木は花がほとんど咲いていませんでした。つぼみはありましたので咲くのが遅れているのでしょう。
(撮影は1週間前です)

参道に椿の木があるのは珍しいですね。この花を本当は見に来たのですが・・・・。
さて、明日は胎安神社の祭礼があります。久しぶりに出かけてみようかな。

(上の写真:3月3日の写真を追加でUPしました)


胎安神社(春の祭礼)
3月3日はひな祭りであるが、かすみがうら市の胎安(たやす)神社の祭礼日だというので出かけてみた。
昨日紹介した子安神社の祭礼は9月で、こちらは3月と春・秋に分かれて祭礼を行っている。
この神社の由来などはよくわかっていないが、子安神社が鹿島の神(タケミカズチ)を祀り、こちらの胎安神社は香取の神(フツヌシ)を祀っている。
そして両方共に笹竜胆(ささりんどう)の源氏の紋を使っている。
謂れも八幡太郎義家が前九年の役、後三年の役で蝦夷征伐にやってきた時にここで祈願したり、神社や橋を修理したなどと言われている。
しかし、この近くの志筑(しづく)藩である本堂家が佐竹氏が秋田にいったために、逆に秋田からやってきたが、これが源氏の家系であるいうことで、笹竜胆の家紋を掲げており、神社も本堂家により庇護されたのとも関係しているかもしれない。
この両神社の間を通る道も「鎌倉街道」(地元の人は茨城県で国体が開かれた時に整備されたので、国体道路という)とこの両神社では呼ぶ。

(サムネルです)
祭礼は午前9時から午後3時の間に行われます。
祈祷を希望される人が記帳を済ませ、拝殿の中で神主よりお祓いを受け、玉串を奉納します。

もう少し多くの方がこられるのかと思いましたが、9時に祈祷にこられた方は10人くらいでしたでしょうか。

境内では氏子さん達により甘酒が振舞われていました。
9時前に行くと神主さんから優しく甘酒を勧められましたが、車だと断ると、お酒は入っていないとのこと。
でも遠慮しました。
この神社は前に行った時も祭りではなかったのですが、お茶のホット缶をいただいたこともあります。
あとから考えると戌(いぬ)の日だったのかもしれません。
子宝に恵まれ、安産と言われる犬にあやかってのことだと思いますが、戌の日にも祭礼が行われています。

ここは全国的のも珍しい「胎安神社」といいます。
八幡太郎が蝦夷に行くときにこの神社で妻の安産を祈願し、無事に生まれたので、その後、都に戻ってからこの神社に寄進をしたと伝わっています。


屋台は昔はたくさん出たらしいですが、今は2つだけです。前の時も出ていたように思いますので、最近はこの状態なのでしょう。

神社の裏手、本殿脇に「子持ち松」という御神木があります。
根元に大きな石を抱き込むように育っていた樹齢500年くらいの松でしたが、明治時代に枯れてしまったそうです。
今は根元部分だけを残しています。

入口の随神門。左右に像が祀られることが多いのだが・・・。

神社に向かって右側には「日光宮」

左側は「八幡宮」となっています。それぞれに武者絵が描かれています。

そして真ん中上には龍の絵が描かれていました。
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昨日紹介した子安神社の祭礼は9月で、こちらは3月と春・秋に分かれて祭礼を行っている。
この神社の由来などはよくわかっていないが、子安神社が鹿島の神(タケミカズチ)を祀り、こちらの胎安神社は香取の神(フツヌシ)を祀っている。
そして両方共に笹竜胆(ささりんどう)の源氏の紋を使っている。
謂れも八幡太郎義家が前九年の役、後三年の役で蝦夷征伐にやってきた時にここで祈願したり、神社や橋を修理したなどと言われている。
しかし、この近くの志筑(しづく)藩である本堂家が佐竹氏が秋田にいったために、逆に秋田からやってきたが、これが源氏の家系であるいうことで、笹竜胆の家紋を掲げており、神社も本堂家により庇護されたのとも関係しているかもしれない。
この両神社の間を通る道も「鎌倉街道」(地元の人は茨城県で国体が開かれた時に整備されたので、国体道路という)とこの両神社では呼ぶ。

(サムネルです)
祭礼は午前9時から午後3時の間に行われます。
祈祷を希望される人が記帳を済ませ、拝殿の中で神主よりお祓いを受け、玉串を奉納します。

もう少し多くの方がこられるのかと思いましたが、9時に祈祷にこられた方は10人くらいでしたでしょうか。

境内では氏子さん達により甘酒が振舞われていました。
9時前に行くと神主さんから優しく甘酒を勧められましたが、車だと断ると、お酒は入っていないとのこと。
でも遠慮しました。
この神社は前に行った時も祭りではなかったのですが、お茶のホット缶をいただいたこともあります。
あとから考えると戌(いぬ)の日だったのかもしれません。
子宝に恵まれ、安産と言われる犬にあやかってのことだと思いますが、戌の日にも祭礼が行われています。

ここは全国的のも珍しい「胎安神社」といいます。
八幡太郎が蝦夷に行くときにこの神社で妻の安産を祈願し、無事に生まれたので、その後、都に戻ってからこの神社に寄進をしたと伝わっています。


屋台は昔はたくさん出たらしいですが、今は2つだけです。前の時も出ていたように思いますので、最近はこの状態なのでしょう。

神社の裏手、本殿脇に「子持ち松」という御神木があります。
根元に大きな石を抱き込むように育っていた樹齢500年くらいの松でしたが、明治時代に枯れてしまったそうです。
今は根元部分だけを残しています。

入口の随神門。左右に像が祀られることが多いのだが・・・。

神社に向かって右側には「日光宮」

左側は「八幡宮」となっています。それぞれに武者絵が描かれています。

そして真ん中上には龍の絵が描かれていました。


今年も御仏に会いに来ました。
かすみがうら市の出島地区の先端に歩崎観音が祀られています。
33年に一度しか開帳して来なかったものが昨年から「あゆみ祭り」の開催日に公開されるようになりました。
昨年に見て、素晴らしい仏像をまた見に行ってきました。
お盆休み明けの8月16日に決まって行われます。
この日はかすみがうら市郷土資料館(お城)の入館料も無料となります。
(こちらは現在「理想郷とよばれた常陸国 古代茨城の魅力と実力」の特別展が行われています。
ここに鹿島神宮の国宝の剣のレプリカが飾られていました。
珍しい貴重な展示物も置いてありましたので数は多くありませんが興味深いものがありました。)




今回はまあじっくりこの長谷寺式の十一面観音をご覧ください。


詳細は去年の記事を参照してください。(こちら)
今年も地元の取り纏めの方とお話ししました。
黄金の機織り機についてです。
個人の所有であったのをここで預かっていたもので、戦時中くらいに東京に持ち出された。
そして前回の33年ご開帳の時(昭和56年?)には、借りてきて展示したようだと話されていました。
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33年に一度しか開帳して来なかったものが昨年から「あゆみ祭り」の開催日に公開されるようになりました。
昨年に見て、素晴らしい仏像をまた見に行ってきました。
お盆休み明けの8月16日に決まって行われます。
この日はかすみがうら市郷土資料館(お城)の入館料も無料となります。
(こちらは現在「理想郷とよばれた常陸国 古代茨城の魅力と実力」の特別展が行われています。
ここに鹿島神宮の国宝の剣のレプリカが飾られていました。
珍しい貴重な展示物も置いてありましたので数は多くありませんが興味深いものがありました。)




今回はまあじっくりこの長谷寺式の十一面観音をご覧ください。


詳細は去年の記事を参照してください。(こちら)
今年も地元の取り纏めの方とお話ししました。
黄金の機織り機についてです。
個人の所有であったのをここで預かっていたもので、戦時中くらいに東京に持ち出された。
そして前回の33年ご開帳の時(昭和56年?)には、借りてきて展示したようだと話されていました。


粟田の石塔
石岡と隣のかすみがうら市との境界は恋瀬川であるが、どういうわけか染谷地区の隣のこの粟田地区は恋瀬川の石岡寄りにあるが、ここだけがかすみがうら市(旧千代田村)に組み込まれている。
なにか旧志筑藩に組み込まれた歴史的な背景があるのだろう。
昔の常陸国府(石岡)から筑波山への登り口はおそらくこの辺り(五輪堂橋)で通り恋瀬川を渡って行ったもの特異論している。(前に府中街道として書いた)
ここにかなり古い珍しい石塔がある。
あまり見向きもされないが先日志筑方面から風土記の丘方面に行く時に思い出して立寄った。

特に銅と言うこともない石の塔だが、大きな五輪塔などを見慣れてくるとあまり迫力は感じない。

製作年代は安土桃山時代と考えられています。

高さ158cmからなる六地蔵型石幢で、竿石・中台・幢・宝珠からなっている。
灯籠とされることが多いが、火袋部にあたるものがなく幢を意味する六面の幢に地蔵が彫り出されている。
安土・桃山時代頃の作品と考えられ、主に県南地域によくみられるもので、完全な形を保っているのは少なく貴重な石幢(せきどう)である。平成15年10月1日に町(旧千代田町)の指定文化財となる。
(上から宝珠・請花・笠・幢・中台・竿・基礎となる)
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なにか旧志筑藩に組み込まれた歴史的な背景があるのだろう。
昔の常陸国府(石岡)から筑波山への登り口はおそらくこの辺り(五輪堂橋)で通り恋瀬川を渡って行ったもの特異論している。(前に府中街道として書いた)
ここにかなり古い珍しい石塔がある。
あまり見向きもされないが先日志筑方面から風土記の丘方面に行く時に思い出して立寄った。

特に銅と言うこともない石の塔だが、大きな五輪塔などを見慣れてくるとあまり迫力は感じない。

製作年代は安土桃山時代と考えられています。

高さ158cmからなる六地蔵型石幢で、竿石・中台・幢・宝珠からなっている。
灯籠とされることが多いが、火袋部にあたるものがなく幢を意味する六面の幢に地蔵が彫り出されている。
安土・桃山時代頃の作品と考えられ、主に県南地域によくみられるもので、完全な形を保っているのは少なく貴重な石幢(せきどう)である。平成15年10月1日に町(旧千代田町)の指定文化財となる。
(上から宝珠・請花・笠・幢・中台・竿・基礎となる)


山本の五輪塔
昨日に続いて忘れられたような石の塔を紹介します。
ここも偶然見つけたのですが、もう1カ月以上前の写真です。
最近少し疲れ気味で、写真もあまりとりに行っていないので前のものから載せなかったものをUPしています。

かすみがうら市山本と言ってもあまり知る人もいませんが、通りからバイパスする人が車で良く通ります。
そして「関東ふれあいの道」の看板も立っています。

天文14年(1545年)制作された五輪塔です。
県指定の文化財に指定されています。

「奉造立逆修」とあるのは説明にもある通り、生前に建てたものだそうです。

別冊ブログ(こちら)の方に石岡地方の昔話を少しアレンジして載せて行こうと思っています。
なかなかこのようなものをまとめるのは大変ですが、残していかないといけない話ばかりだと思います。
(第1話は「柏原池の美少女」です。)
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ここも偶然見つけたのですが、もう1カ月以上前の写真です。
最近少し疲れ気味で、写真もあまりとりに行っていないので前のものから載せなかったものをUPしています。

かすみがうら市山本と言ってもあまり知る人もいませんが、通りからバイパスする人が車で良く通ります。
そして「関東ふれあいの道」の看板も立っています。

天文14年(1545年)制作された五輪塔です。
県指定の文化財に指定されています。

「奉造立逆修」とあるのは説明にもある通り、生前に建てたものだそうです。

別冊ブログ(こちら)の方に石岡地方の昔話を少しアレンジして載せて行こうと思っています。
なかなかこのようなものをまとめるのは大変ですが、残していかないといけない話ばかりだと思います。
(第1話は「柏原池の美少女」です。)


天皇陛下が陸軍軍事演習の統括に立った御野立所は眺めの良い山の上だった。
昭和4年の3月14日の風の強い日に石岡市内で起こった火災は瞬く間に市街地の半分近くを焼きつくす記録的大火となった。
まだ今の6号国道は通っていない時であり、現在の街中を走る355号線が水戸街道のメイン通りであったが、この通り沿いの商家が出荷して北西側からの強風にあおられて多くの家が灰となった。
商都でもあった石岡の町は復興も早かったが、同じ年の11月に四万騎ヶ原から広がる草原などで陸軍の大演習を行うこととなり、そこを統括するために昭和天皇が来ることになった。
石岡の街はまだ焼け野原でてんやわんやであったが、石岡駅前通りは前年から用地買収などで道路拡張が決まっていたため、この天皇が大火見舞いと合わせて石岡にやってくるということで、約1か月前の10月に広い大通り(八間通り)の舗装が完成した。
そして名前も「御幸通り」と呼ばれるようになった。
焼け跡などは大急ぎで布で覆ったりしてあまり見せないようにしたらしい。
この時に昭和天皇が陸軍の演習の見た場所が今回紹介する「御野立所跡」である。

場所は石岡市とかすみがうら市との市境の小さな山で雪入りの山から続いて尾根の先端部で「権現山」である。
標高は99.5mと100mにも満たない。
しかし、登って見ると実に見晴らしが良い。
こんなに町が見えるとは思ってもいなかった。

今はここに御野立所の石碑が立つ。
なかなかこの場所に来る機会がなかったが麓の果樹園近くに車を停めて登った。
運動していないのですぐに息が切れてしまった。
まったくだらしない・・・・ でも思っていた以上に見晴らしがよくて驚いた。

この場所は御野立所の碑があるだけかと思っていたが意外に面白かった。
もう少し記事を明日に続けます。
今日はふるさと風の会会報の今年初めての印刷日で、今回で116号になった。
毎月1回発行していて、今年5月で120号=10年となる。
10年を記念して何かやろうとしているが、そうなればまた誰かに原稿をお願いしなければならない。
まだ今の6号国道は通っていない時であり、現在の街中を走る355号線が水戸街道のメイン通りであったが、この通り沿いの商家が出荷して北西側からの強風にあおられて多くの家が灰となった。
商都でもあった石岡の町は復興も早かったが、同じ年の11月に四万騎ヶ原から広がる草原などで陸軍の大演習を行うこととなり、そこを統括するために昭和天皇が来ることになった。
石岡の街はまだ焼け野原でてんやわんやであったが、石岡駅前通りは前年から用地買収などで道路拡張が決まっていたため、この天皇が大火見舞いと合わせて石岡にやってくるということで、約1か月前の10月に広い大通り(八間通り)の舗装が完成した。
そして名前も「御幸通り」と呼ばれるようになった。
焼け跡などは大急ぎで布で覆ったりしてあまり見せないようにしたらしい。
この時に昭和天皇が陸軍の演習の見た場所が今回紹介する「御野立所跡」である。

場所は石岡市とかすみがうら市との市境の小さな山で雪入りの山から続いて尾根の先端部で「権現山」である。
標高は99.5mと100mにも満たない。
しかし、登って見ると実に見晴らしが良い。
こんなに町が見えるとは思ってもいなかった。

今はここに御野立所の石碑が立つ。
なかなかこの場所に来る機会がなかったが麓の果樹園近くに車を停めて登った。
運動していないのですぐに息が切れてしまった。
まったくだらしない・・・・ でも思っていた以上に見晴らしがよくて驚いた。

この場所は御野立所の碑があるだけかと思っていたが意外に面白かった。
もう少し記事を明日に続けます。
今日はふるさと風の会会報の今年初めての印刷日で、今回で116号になった。
毎月1回発行していて、今年5月で120号=10年となる。
10年を記念して何かやろうとしているが、そうなればまた誰かに原稿をお願いしなければならない。