尾花散る師付の田井

 今日は朝かなり激しく雨が降ったが昼前から天気になった。
そこで思い出して万葉集に歌われた志筑にある「師付の田井」にいってみた。
ススキの穂があちらこちらで目立つようになったので「尾花散る」と詠われた場所がどのようになっているかを見て見たかったからである。
五百羅漢で知られる、かすみがうら市の志筑の長興寺の脇を通って木々の茂みの道を下ると一面に田んぼが広がる。ここが「師付の田井」です。
万葉集(第九-1757):
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。・・・・
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以前来た時は看板のある場所まで道もなく、田んぼのあぜ道を危なっかしい足取りで歩いて行ったが、今はきれいな道が敷かれ、手前には5-6台止められる駐車場も完備されていました。
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左側にはきれいな水が絶えず流れ、昔から水の豊富な場所であった証しでもあります。
尾花(ススキ)はこの碑の廻りだけに植えられていたが、やはり尾花と一緒が良いですね。
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この場所から筑波の峰は見ることができない。上の写真では左側の木々に隠れているが、もっと先の方にいけば見ることができる。昔はこの上を雁が飛んでいたのでしょうか。
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この石碑の裏側にこんこんとわきだしている井戸があります。これは「鹿島やわら」といい、昔から水が湧き出しており底がなく鹿島神宮までつながっているとまでいわれています。
一度長興寺という一風変わったお寺の見物と兼ねて訪ねて見てほしいと思います。
私も、昔「長興寺」の看板を見た時には、「こんな所のお寺なんて」と少し馬鹿にしていたのですが行ってみて驚きました。
とてもユニークなお寺です。今でも鶴見さんという芸術家が石像を彫っています。
かすみがうら市の人にもほとんど知られていないのが残念です。

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/10 15:07

笹竜胆

昨日は風邪で休んで家でノンビリ過ごした。
家に一人でいると電話がかかり、出たら「○○保険の××といいますが、73歳までの
保険のご案内をしています。資料をお送りしましたので・・・。ご主人様は何年
生まれでしょうか?」まったく不躾で失礼な電話だ。
話も聞かずに断ったが、電話番号を電話帳に登録しない人の気持ちもわかる。
断ると、何かこちらも後味の悪さが残るのである。困った世の中だ。

 さて、今日はタイトルに書いた「笹竜胆」についてである。
竜胆はリンドウのことで中国語のリュウタンがリンドウと聞こえたのでこのリンドウとなったという。
笹竜胆(ささりんどう)はリンドウの葉が笹の葉に似ており、リンドウの花と笹の葉をあしらった
家紋を「笹竜胆」というそうだ。

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家紋などに詳しいわけではないので良く分からないのだが、これが源氏の系統を示す紋だという。
私が、このことを知ったのはかすみがうら市の「胎安(たやす)神社」にいった時である。
神社の紋に使われており、このいきさつを紹介されていた。
そのホームページはなかなか詳しく歴史などを紹介しており、宮司の方のブログもあり、熱心さが
伝わってきます。そのホームページから一部を転載させていただきました。

「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。 
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」

源義家とは八幡太郎義家のことであり、奥州征伐は2度行きましたが、最初の「前九年の役」です。
この時はまだ源氏に従うものはそれ程多くはなく、大分苦労したようです。
この近くの正月平などの地名の由来などにもなりました。

胎安神社はこのように古くから伝わる神社ですが、あまり知られていません。
名前からわかるように「安産祈願」「子授け祈願」などが主体です。
石岡の誇る「総社宮」でも「はらおび」などはこちらのものがわたされているようです。

ホームページにもありますが、昔鎌倉街道がこの胎安神社と子安神社の間を通り、国分尼寺へ
続いていたと書かれています。
石岡(府中)のどこを通る道が鎌倉街道なのでしょうか。
現在国道6号線があるため、道が良くわかりません。
石岡は平家発祥の地だという。
しかし、昔は平氏と源氏が対立する関係にはなくお互いが仲間になったり敵対したりしていた時代です。
2度目の奥州征伐に源義家が兵を挙げてやってきた時(後三年の役)はかすみがうら市の
草原に四万騎の馬と兵が集まり「四万騎」の名前が地名となり、石岡に来た時は五万に増え
「五万掘」の名前が残ったといわれています。
 

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/02 19:47

巨峰の実がつきました

 今日は5月の最終日で今月中のまとめの仕事をやっとこなし、朝から駆けずりまわっていました。
午後からは少し余裕もでき、出かけたついでにかすみがうら市の福田グリーン農園に寄ってみた。
寄った理由はここに江戸時代の一揆をおこして処刑された福田助六の首塚があるためであった。
首塚については明日紹介するが、観光農家もやっているので家の裏に回ってみると、梨や柿だけでなくぶどう棚が広がっていた。

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梨や、栗、それに柿とイチゴなどがここかすみがうら市から石岡市にかけてかなり栽培され、観光バスなどもやってくる。
ぶどうは、今はやっと実がつきだして、手入れに余念がない。
収穫時期しか知らないが、こうして訪れると、また農家の人の苦労が見えてくる。

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ぶどうは「巨峰」がほとんどだ。デラウェアなどはこの辺りでは見かけない。

これもやっとかわいい実がつき始めた巨峰である。
ちょうど福田農園の御主人がおられ、お話をうかがえた。
とてもにこやかな穏やかな御主人であった。

今度夏から秋になったら食べに来たいものである。本日は時間がないので明日また続きを書きます。



 

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/05/31 20:08

義人助六(1)

昨日は月末の処理で追われて一息つき、このブログにある助六の首塚を見にいったのだが、そして今日は仕事でいつもの様に朝、車で仕事場に行った。
そしてあることに気がついた。
「そうだ今日は○○さんの定年祝賀会だった」と
何ということだ。すっかりボjケが来てしまった。
どうも曜日を1日勘違いしたらしい。明日が祝賀会と思いこんでいたのである。
それでも、予定通り出席して、今電車で帰って来た。

ということで、今日のテーマは明日と分けて書く事にしたい。
実は、このブログのテーを書くのに調べなければならないことが結構ある。
何時もそうだが、ホームページではできるだけ史実と思われる一般的なことを書き、このブログはそこにかかわる周りの人や景色、道やそこに咲く花などについて書きたいと思っている。
約2年くらい調べながらホームページを立ち上げてそこの歴史などを紹介してきたが、これでは単なる歴史案内、観光案内でしかないのである。

そこに行った時に感じるもの、伝わってくるもの。人との触れ合いなどを残していきたいと思うようになった。
そこでブログを活用させてもらい書き始めた。
しかし、これも続けると結構大変だ。
簡単な写真紹介などならいいのだが、それではこのブログの意味がない。
嘘も書けないし、なかなか面倒なものである。

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これが、福田家の屋敷である。この辺りはかなりの旧家が多い。

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屋敷の門をくぐって中に入ってみたが、普通の屋敷で、犬にも吠えられてすぐに出てきた。門の入り口には「助六の首塚」の説明看板が掲げてあるのだが、何処に行ったらよいかわからない。

屋敷の左側から裏の畑の方に行く横道があるのでそちらへまわってみた。
うろうろしているとそこに福田家の御主人らしき人が作業をしていた。
場所をおたずねして、見学のお許しを頂いた。とても人のよさそうな方で、ニコニコとして
「あそこの畑の先にある桜の木の所です。どうぞ見て行って下さい」という返事。

かすみがうら市の観光案内の説明には「見学の際は福田家の許可が必要」と書かれていたが、これは帰ってきてから調べてわかったもので、訪ねた時は気にもしていなかったのである。

その首塚は屋敷の裏手であり、福田家の墓所の中に置かれているので、そこにいかれたら家人に一声かけていかれた方がよさそうである。
御主人は訪れてくれたことがとてもうれしそうであった。

この助六一揆(百姓一揆)についてはあまり知られていないが、この地に長く根づき伝えられてきた「義人助六」を少し知っていなければならないことのように感じた。

石岡の人も少しこのようなことを掘り起こして伝えて行く大切さを感じてほしいと思っている。

詳細はまた明日にでも書きたいと思います。
 

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/01 22:36

義人助六(2)

 さて、今日は昨日の続きで、江戸時代におきた百姓一揆「助六一揆」の話である。
皆さんには恐らく興味もないと思うのですが、私にとって、歴史の見方が変ってくる出来事でもありますので、少しばかりお付き合いください。

まず、現地の福田家の前に掲げられた案内板で概要はおわかりになると思います。

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1778年というと江戸中期後半で、10代将軍、徳川家治の時代であります。
私が興味を抱くのは、この志筑(しづく)藩の歴史的な背景です。
常陸の国は戦国時代に源氏の直系「佐竹氏」により統一されましたが、家康の命で秋田へ転封となりました。
そこへ、本堂氏が秋田(出羽国)本堂(美郷郡)からこの志筑の地に8983石から8500石に減封された形でやってきます。2代目の時に500石を分けてしまいますので8000石となります。

この佐竹氏の国替は、関ヶ原の戦いで徳川への態度が曖昧であったためで、これはいわば左遷です。
しかし、この本堂氏は普通ならば多少の上乗せがあってもよいはずです。
しかし、本堂氏はこの地が気に入ったようで、減封でもやってきました。
本堂氏の家紋は源氏直系のしるし「笹竜胆(ささりんどう)」です。

さて、徳川の世では1万石に満たないと大名にはなれませんでした。
そのため、この本堂氏は交代寄合衆の身分(いわゆる旗本です)でしたが、江戸に屋敷を構え、志筑には家老を置き、参勤交代が義務付けられていました。
(一般の旗本は義務ではなかったようですが、本堂氏は寄合衆の中でも上の方で義務となったようです)

また、この地には水戸街道の稲吉宿があり17軒も旅館が並んでおり、この助郷役を科せられ、かなりの負担があったようです。
このため、度々一揆がおこり、何とかなだめてきていたが、この助六一揆の少し前にもたびたび一揆が起こりました。

その時、他領の26ヶ村で200両を集め、これを元にして宿場の人馬を雇う和解が成立します。
しかし、この和解金を財政が厳しい藩は農民には渡さなかったと言います。

とうとう我慢できずに窮状および和解金の返還をもとめて江戸屋敷に直訴に及び、その結果、義にかられての直訴でしたが、当然重罪が科せられました。
裁きは、首謀者福田助六(下佐谷村の与惣左衛門)は獄門さらし首、三人が永牢、二人が手鎖となりました。

しかし、この事件はこの地の郷人にとって、皆に代わって訴えてくれたものであり義人としてたたえられたのです。
またさらし首となった所に水戸藩主が通りかかり、これを不憫に思い、首は福田家に帰され、懇ろに弔われたといいます。

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さて、まだ続きがあります。
この時の本堂氏は、直系がとだえて、大名であった板倉家から当主を迎えていました。
どうもこの変更が藩体制を強化して、農民を締め付けて行ったようです。

本堂氏の志筑が藩となったのは江戸幕府が大政奉還をした後です。
戊辰戦争の功労で2010石加増されて、1万110石となり、大名に列するようになるのですが、廃藩置県は明治4年ですから藩として存続したのは4年くらいです。

さて、興味があるのはこの藩から「伊東甲子太郎」「鈴木三樹三郎」の兄弟がでます。
新撰組などに興味のある方にはよく知られた名前だと思います。
何か江戸末期に藩になりたくて、勤王色を強めて行ったように思います。

身近なところの歴史も背景を読むことも必要ですね。

少し長文になってしまいました。ご容赦を・・・。
 
 

志筑・かすみがうら地区 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2011/06/02 20:09

助六地蔵

 今日もまた続きです。(^。^)~

福田グリーン農園の御主人と話した時に、「向こうに地蔵も有りますよ。行かれましたか? あの閑居山です。」
とおっしゃってこられた。
そう、閑居山の上に「助六地蔵」が立っていると、前に「藝文」に載っていたのを読んでいたが、2年程前に、閑居山の磨崖仏を見に行った時に確か近くで見かけたのだが、その地蔵には寄らずに引き挙げてきたことがあった。
たしか、日差しが暑く、汗をかきながら登った記憶があった。

「確か、地蔵があることは聞いていましたが、まだよく見ていないのです。しかし、あの山道は途中に車が乗り捨ててあったり、野仏の首が落とされたり、道があまり良くなかったですが大丈夫ですか?」ときいた。

「最近、志筑の地元の方がきれいに整備したので大丈夫ですよ」との返事。

ではこれから行ってみようと閑居山(昔は志筑山)へ車でまわった。森林総合研究所の敷地の中を突っ切るように案内の看板に従って進むと閑居山の登山口に出た。

車を近くに止めて山道に入ると、小川が流れ脇水も豊富だ。そのまま磨崖仏への案内の矢印に従って、ほんの10分ほど登ると「磨崖仏」の所に出る。壁面の仏の像も大分薄くなっている。
こちらの紹介はまた後でするとして、助六地蔵はこの磨崖仏の場所から目と鼻の先にあった。
山を巻くように道がついておりすぐに地蔵が見えた。

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この地蔵さまには「助六地蔵」と木の立て札が掲げられていた。
丁度山の中腹から、村々を見下ろすようにひっそりと立っているのである。

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この地蔵は何時頃建てられたものか何も書かれていない。説明文もないので、知らない人は一揆のことも知らずに帰って行くのだろう。
江戸時代にしては新しいように思う。もう少し後なのかもしれない。
またこの地蔵のすぐ近くに小さな滝があり、杉沢の滝と名前がつけられていた。
この山は水も豊富で、郷にも近い。茨城百景にも選ばれるくらい眺めもよい(磨崖仏側ではなくもう少し東側)。
昔から神々しい土地とされて来たのだろう。
弘法大師がここに籠ったとか、徳一法師が籠ったなどと言われているが。どうもこれはあてにならない。
 

志筑・かすみがうら地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/06/03 18:38

志筑(しづく)の街並み

 かすみがうら市志筑(しづく)地区は昔の武家屋敷の面影を今も残す貴重な土地だ。
佐竹氏が秋田に移封となり、かわりに秋田からこの地に8500石(後8000石)で転居となった本堂家が治めていた町である。
本堂家当主は江戸詰の旗本。この土地は家老「横手氏」が主に預かっており、陣屋は昔の志筑城址であった現志筑小学校のところに置かれていた。

しかし、小さいながらも江戸末期の騒乱の時代に、その存在感が高まった時があった。
大政奉還後に功績を認められ、10,110石に加増され本堂家は大名の仲間入りを果たし、ほんの数年間だけ志筑藩が成立します。
そして廃藩置県で1度志筑県となります。

新撰組参謀の伊藤甲子太郎(後に新撰組によって暗殺)、9番組組長であった弟の鈴木三樹三郎(後に御陵衛士から赤報隊)の兄弟を排出します。(志筑藩は脱藩しています)

どのような町か、訪ねてみると驚くほど小さな町です。
石岡の隣り町の1集落にすぎません。

石岡からは下志筑を通って、隣りに小さな池のある坂道を登ると中志筑(なかしづく)の街並みが続きます。
しかし、200m程で街並みは尽きてしまいます。


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この時季、通りの家々には、百日紅(サルスベリ)の花が咲いていました。

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このような立派な武家屋敷の門があります。

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このような茅葺屋根の家が通りにあります。この屋根はこの通りのイメージを強いものにしているようです。

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茅葺屋根は茅の並べ方で、このような数段の模様ができます。葺き直したばかりならきれいな模様が見えますが、時間とともに色あせてきます。
上の写真は2年ほど前のものです。

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麓の池にはハスの葉がびっしり。池の中では時々ボコボコというような音がします。
魚かカエルかなどと見ていたら、カメが顔を出し、また池の中に潜っていきました。
河童がいても不思議ではないようなところです。

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地方の家庭にはこのような雨水を蓄え、防火用水などとしても使ったと思われる用水鉢などがあります。
都会では見かけませんね。
 

志筑・かすみがうら地区 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/08/21 07:30

二又大根

 正月も3が日があっという間に過ぎました。
仕事は明日からですが、気を引き締めていないと休みモードを脱却できません。
ブログも元のテーマなどに戻そうと思います。

昨年の1月のブログのテーマを見直して見ましたが、「天狗の話」「カラスの話」「鷲の話」「狢の話」など日本神話に絡めた記事を書いていたのですが、あれから1年経ちました。
今年のテーマはどうしようかなどと迷っています。

 特別テーマを決めなくても自然と1年経つと何かまとまったものに膨らんでくれたら嬉しいのですが・・・。

さて、今日の記事は神社に奉納された「二又大根」です。

下の写真は先日かすみがうら市の旧出島地区(霞ケ浦に飛び出た地区)を散策していたら、地元の小さな神社(加茂神社?)の入口に置いてありました。

みんな二又大根です。

このような習慣は全国にあるようですが、それぞれ夫婦円満、五穀豊穣、健康増進などの意味があるそうです。

女性の足のようでもあるのでその意味合いでの言い伝えが多いのでしょう。

ここの牛渡(うしわた)地区ににある「鹿島神社」に「へいさんぼう」という変わった、昔ながらのおおらかな祭りが行なわれています。

ブログで紹介するのにためらわれるような昔ながらのおおらかな祭りです。

平さんの女房が詰まって「へいさんぼう」と言うとあるのですが、どうもそのまま納得できないでいます。

お祭りの詳細はここでは省きます。

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二又の大根は何処でもあるもののようですが、やはりその姿が・・・・。

今年はこんな話からノンビリおおらかにいきたいと思います。

前々からこの牛渡(うしわた)地区と霞ケ浦をはさんだ対岸の美浦村牛込地区との繋がりとその痕跡を探しています。

こんなテーマでもまわりから少しずつ調べたり書いたりしているうちに何か見つかるかもしれません。



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志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/01/04 19:58

霞ケ浦の鯉養殖

今晩2件目の記事です。さっきのは記事ではないので・・・。

 霞ケ浦は日本一の鯉の養殖の産地でした。ここで養殖された鯉が生きたまま全国へ送られていました。

しかし、2003年に発生した鯉ヘルペスはこの養殖産業に大打撃を与えました。
鯉のヘルペスはどこか外部(海外?)からの菌が伝染したと思われ、菌を保有しても発症する場合と発症しない場合があるようです。
ただ一旦発症するとその死亡率は100%という鯉にとっては恐ろしい病気です。

このため、ここ霞ケ浦の鯉の養殖が全面禁止され、多くの鯉の養殖業者が廃業に追い込まれてしまいました。

その後、ヘルペスに耐性のある鯉が試験場で開発され、また移動もエラを取り除いて移動すればヘルペス菌は伝染しないことが確認され、2009年に養殖の再開が許可されました。

現在では半数程度の養殖業者が再開にこぎつけたようですが、すでに撤退した業者も多くいるといいます。

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(かすみがうら市牛渡付近)

ここは霞ケ浦に飛びだしているかすみがうら市旧出島の先端近くの牛渡地区の「鯉養殖いけす」です。

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この牛渡地区ではこのように湖の中にいけすを作り、そこに餌をまいて養殖しています。
最初の私もこのタンクが何をするものなのかが不思議でした。
この小屋にはきっと餌となる飼料が置いてあるのか、自動的に操作して餌をまいているのかどちらかでしょう。

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 (かすみがうら市歩崎公園付近)

霞ケ浦沿岸ではこのようなタンクはこの牛渡地区と歩崎の2か所位です。
いけすもこのようないけすではなく、内陸側に池を作って「陸いけす」という方法があるといいます。

昨年のNHK「きっちんが走る」で放送された鯉料理のレシピは → こちら

この鯉料理美味しそうだったです。
現在は生きた鯉を移動する場合はエラを切除するそうです。その他は地元で料理されるものはOKです。
他の県の鯉にウイルスが移らないためにしかたないのでしょうが、地元での料理にもたくさん使わるといいですね。



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志筑・かすみがうら地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2012/01/05 21:54

胎安神社(かすみがうら市)

 先日、古渡(ふっと)の興禅寺で安産・子育てにご利益がある「延命地蔵」の話を書きました。

そこで連想ですが、かすみがうら市にある二つの子育て・安産神社を紹介します。
今日紹介するのは「胎安(たやす)神社」です。

名前ですぐにわかると思いますが、安産祈願の神社で、延喜式式内社です。
創建が763年と伝えられていますが、詳細ははっきりしません。
元々は香取神宮の経津主命を祀っていましたが、山城国葛野郡(京都嵐山)の梅宮大社の分霊を祀って、胎内神(木花咲耶姫命)を祀るようになったそうです。

この神社のいわれとしては家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」は源氏の印ですが、前九年の役の時の天喜2年(1055)源頼義、義家父子が、隣村の下雫村(下志筑)に滞在していた時に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の安産祈願を行いました。

康平6年(1064) 奥州からの帰路、お礼参りをし、この時の「太刀一振り」の奉納札が残っているそうです。

その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。 

また、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されたそうです。

(注:神社の書かれたものにはこのようになっていますが、前九年の役に下雫村に滞在したということは私は確認していません。本堂家が志筑藩に入ってきてからの話が少し混ざっているように思います。)

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入口の「神門」です。

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拝殿です。拝殿前の左側の杉の木は「不老長寿の杉」といい、杉皮の一片を衣服に縫い入れ着用すると、長寿を得られると言い伝えられているそうです。もっと大木と思いましたが意外に普通の太さの木です。
説明では根元が硬く成長が遅いのだといいます。

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拝殿の正面に「笹竜胆」のマークとその下には龍の彫り物が鮮やかです。
笹竜胆は源氏の印ですが、この寺を保護した志筑藩の本堂家が使っていた家紋です。

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この龍の彫り物も見事です。

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寺の横から裏の方に回ると「子持ち松」という枯れ木が置かれています。
樹齢が500年程だといいますが、明治時代に枯れてしまったそうです。

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本殿に彫られた彫刻。

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境内にたくさんの祠が置かれていました。
全国から集まったものでしょうか。みな境内社になるのでしょうか?

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神社で参拝していると社務所の方から巫女さん?が出てこられて暖かいお茶を1缶いただきました。

ここを訪れたのは4回目でしょうか。これでお茶をいただいたのは2度目です。
寒い日でしたので手を温めながらいただきました。

安産を願う方は一度おまいりして見てはいかがですか。

意外に知られていませんが、由緒のある神社です。


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志筑・かすみがうら地区 | コメント(7) | トラックバック(0) | 2012/02/02 20:27
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