夏の日差しが傾く中で
はじめまして。企業を定年退職して2年が過ぎ、新しい挑戦にもチャレンジ中です。
常陸の旧国府である石岡市に越してきて6年が過ぎました。
歴史などに何の興味もなかった私が、この場所に来て何か古いものがとても懐かしく感じいろいろ場所を訪れるようになりました。
今は埋もれた古道を探索中です。
昨日、銚子に用事があっていってきましたが途中の大杉神社には「天狗のふるさと」の看板があり、阿波(あば)神社なども徳島阿波の関係を感じます。
また利根川の水門は朝方は海側は激しく波が渦巻いて鳴門の渦潮のようでしたが、反対側の川の流れはとても穏やかに流れ、穀倉地帯の稲も大分穂が実ってきていました。
とてものどかな風景でした。
利根川とともに常陸川の標識板がとても印象に残りました。
鹿嶋・香取に挟まれた水郷地帯はきっと昔は水運が盛んで多くの物資が運ばれたに違いありません。
成田線にある木下(きおろし)駅は昔材木を川に下ろす場所が名前の由来です。
URL:1300年の歴史の里石岡ロマン紀行
常陸の旧国府である石岡市に越してきて6年が過ぎました。
歴史などに何の興味もなかった私が、この場所に来て何か古いものがとても懐かしく感じいろいろ場所を訪れるようになりました。
今は埋もれた古道を探索中です。
昨日、銚子に用事があっていってきましたが途中の大杉神社には「天狗のふるさと」の看板があり、阿波(あば)神社なども徳島阿波の関係を感じます。
また利根川の水門は朝方は海側は激しく波が渦巻いて鳴門の渦潮のようでしたが、反対側の川の流れはとても穏やかに流れ、穀倉地帯の稲も大分穂が実ってきていました。
とてものどかな風景でした。
利根川とともに常陸川の標識板がとても印象に残りました。
鹿嶋・香取に挟まれた水郷地帯はきっと昔は水運が盛んで多くの物資が運ばれたに違いありません。
成田線にある木下(きおろし)駅は昔材木を川に下ろす場所が名前の由来です。
URL:1300年の歴史の里石岡ロマン紀行
新年おめでとうございます。
時間は止まってくれませんね。
今年も始まりました。毎年同じようなことを繰り返しながら時は過ぎていきます。
進歩をしていく過程に何時もありたいと願います。
年も感じるようになり、若い時に比べれば時間的には余裕はできてきたのだが、正月は日本人にとっては特別な時かもしれません。
でも、まず健康が一番。
身体が健康でないと、心も沈みます。
ボランティアどころでもなくなります。
今年は、末の子供も社会人になります。
私も新たな生きがいを見つけて、邁進していけそうです。
新たな出会いも生まれるような気もします。
毎日、充実した日々が過ごせるように頑張っていこう!
さあ、新しい年のスタートです。

我が家の蝋梅の花も咲きました。(2011.1.1撮影)
昨年末に地元八郷産のおいしいもち米でもちをつきました。
ついたといっても機械の「もちつき機」ですが、正月の雑煮にして食べたらとても美味しいかったです。
昨年のお正月には越後の美味しい餅をいただきましたが、やはり自分のところの方が美味しいですね。
純粋な良いもち米を使えば誰にでも美味しい餅ができるそうです。
今年も地元の美味しいものも探していきますね。
朝スコットランドから娘の電話がありました。スコットランドは旦那さんの実家です。
家族皆が集まり、一杯飲んでいるとのこと。時間は現地の元旦の0時半頃でした。
イギリスの寒波を心配していましたが今はそれ程でもないとのこと。
逆に日本の各地で大雪の便りがあり、車が立往生事故が多発しているとか。
正月なのに皆さん大変です。
今年もよろしくお付き合いください。
今年も始まりました。毎年同じようなことを繰り返しながら時は過ぎていきます。
進歩をしていく過程に何時もありたいと願います。
年も感じるようになり、若い時に比べれば時間的には余裕はできてきたのだが、正月は日本人にとっては特別な時かもしれません。
でも、まず健康が一番。
身体が健康でないと、心も沈みます。
ボランティアどころでもなくなります。
今年は、末の子供も社会人になります。
私も新たな生きがいを見つけて、邁進していけそうです。
新たな出会いも生まれるような気もします。
毎日、充実した日々が過ごせるように頑張っていこう!
さあ、新しい年のスタートです。

我が家の蝋梅の花も咲きました。(2011.1.1撮影)
昨年末に地元八郷産のおいしいもち米でもちをつきました。
ついたといっても機械の「もちつき機」ですが、正月の雑煮にして食べたらとても美味しいかったです。
昨年のお正月には越後の美味しい餅をいただきましたが、やはり自分のところの方が美味しいですね。
純粋な良いもち米を使えば誰にでも美味しい餅ができるそうです。
今年も地元の美味しいものも探していきますね。
朝スコットランドから娘の電話がありました。スコットランドは旦那さんの実家です。
家族皆が集まり、一杯飲んでいるとのこと。時間は現地の元旦の0時半頃でした。
イギリスの寒波を心配していましたが今はそれ程でもないとのこと。
逆に日本の各地で大雪の便りがあり、車が立往生事故が多発しているとか。
正月なのに皆さん大変です。
今年もよろしくお付き合いください。
初詣
今日は午後から近くの総社宮に初詣に行ってきました。

夜中は混んでいると思って、ノンビリ出かけたのですが、午後から並び始めたようです。
列は100mくらいでしょうか。

お参りは2~3人ずつですからなかなか進まないですね。
今までは実家の方に帰っていくことが多いので、総社宮での初詣も二度目です。
良いことがありますように!

夜中は混んでいると思って、ノンビリ出かけたのですが、午後から並び始めたようです。
列は100mくらいでしょうか。

お参りは2~3人ずつですからなかなか進まないですね。
今までは実家の方に帰っていくことが多いので、総社宮での初詣も二度目です。
良いことがありますように!
本年もよろしくお願いします
今年はウサギ年。
どうかウサギのように飛躍の年になりますように。
昔作ったウサギのアニメを載せてみました。

食べているのは地元八郷産の有機ニンジンです。
とても味が濃くてにおいがとても強いです。
あきらかにスーパーの人参とは違うんですよ。
人参ジュースにすると人参だけで、甘くミルクのような味が増します。
今年もよろしくお願いします。
明日は東京の実家へ行きますが、夜には帰ります。
どうかウサギのように飛躍の年になりますように。
昔作ったウサギのアニメを載せてみました。

食べているのは地元八郷産の有機ニンジンです。
とても味が濃くてにおいがとても強いです。
あきらかにスーパーの人参とは違うんですよ。
人参ジュースにすると人参だけで、甘くミルクのような味が増します。
今年もよろしくお願いします。
明日は東京の実家へ行きますが、夜には帰ります。
感謝のメールをいただきました。
今日は4日目。お休みも今日までです。
昨日は東京小金井の実家に行ってきました。
帰省ラッシュなどを心配していたのですが、行き帰りともに、混雑もなく良い1日でした。
しかし、向こうの土地独自の古い神社がどこも行列ができていました。
神社にお参りする人がとても多くなっているようにも思いました。
昨日のブログの続きはこの後にまたUPしますが、昨夜ある女性の方から私の運営しているホームページ「1300年の歴史の里石岡ロマン紀行」に登録されているアドレスに感謝のメールをいただきました。
少し内容を紹介したいと思います。
-----------------------------------------
こんにちは
とても嬉しいことがあって、メールさせていただきました。
1月3日の今日、昨年嫁の安産祈念のお守りのお礼参りと観光を兼ね、初詣客が多くて道が混んでいるかと思い、今回は電車で参りました。
電車の待ち合わせが多く、石岡に着いたのが10時過ぎ。
駅前の観光案内で、常陸国分尼僧寺跡の行き方やその他歴史の諸々を尋ね、地図等頂き出発しました。
一本早く曲がりすぎたため、道に迷い戻ったりでつくまでに1時間くらいかかってしまいました。
やっと府中小学校を右に曲がり、そこで立ち話しているご高齢のおばあちゃんに尼僧寺のことを尋ねると、近くだからと杖をつきながら、道案内してくださいました。
無事、尼僧寺に着き見学させていただきました。
1300年前の跡地がそのまま残されていることに感動しました。
その隣の集会場でお祭り仲間との新年会の準備をなさっていた方が、桜が咲いている季節はいいですよ!とお声をかけてくださいました。
そして見ず知らずの私たち夫婦が歩いて来たことを知り、次に行こうとする、総社宮まで車で送ってくださいました。
お蔭様で、無事嫁の安産のお札もお返ししお礼参りができました。
夫と、石岡の方たちの温かさ優しさがとても嬉しく、拙い文章ではありますがメールさせていただきました。
-----------------------------------------
内容は石岡の市民の皆さん宛てと思い、市長さんのオフィシャルサイトへ転送しています。
さて、何か反応があるでしょうか?
御投稿された方には了解もなく公開させていただいたことはお詫び申し上げます。
メールの内容にもあるように、曲がり角などにももう少し親切な案内矢印などがあれば良いとも感じています。
小さなことのようですが、池に落とした小石の波紋が広がるようにほのぼのとした気持ちも広がる。
このことは、私がこのブログを開設している目的でもあります。
昨日は東京小金井の実家に行ってきました。
帰省ラッシュなどを心配していたのですが、行き帰りともに、混雑もなく良い1日でした。
しかし、向こうの土地独自の古い神社がどこも行列ができていました。
神社にお参りする人がとても多くなっているようにも思いました。
昨日のブログの続きはこの後にまたUPしますが、昨夜ある女性の方から私の運営しているホームページ「1300年の歴史の里石岡ロマン紀行」に登録されているアドレスに感謝のメールをいただきました。
少し内容を紹介したいと思います。
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こんにちは
とても嬉しいことがあって、メールさせていただきました。
1月3日の今日、昨年嫁の安産祈念のお守りのお礼参りと観光を兼ね、初詣客が多くて道が混んでいるかと思い、今回は電車で参りました。
電車の待ち合わせが多く、石岡に着いたのが10時過ぎ。
駅前の観光案内で、常陸国分尼僧寺跡の行き方やその他歴史の諸々を尋ね、地図等頂き出発しました。
一本早く曲がりすぎたため、道に迷い戻ったりでつくまでに1時間くらいかかってしまいました。
やっと府中小学校を右に曲がり、そこで立ち話しているご高齢のおばあちゃんに尼僧寺のことを尋ねると、近くだからと杖をつきながら、道案内してくださいました。
無事、尼僧寺に着き見学させていただきました。
1300年前の跡地がそのまま残されていることに感動しました。
その隣の集会場でお祭り仲間との新年会の準備をなさっていた方が、桜が咲いている季節はいいですよ!とお声をかけてくださいました。
そして見ず知らずの私たち夫婦が歩いて来たことを知り、次に行こうとする、総社宮まで車で送ってくださいました。
お蔭様で、無事嫁の安産のお札もお返ししお礼参りができました。
夫と、石岡の方たちの温かさ優しさがとても嬉しく、拙い文章ではありますがメールさせていただきました。
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内容は石岡の市民の皆さん宛てと思い、市長さんのオフィシャルサイトへ転送しています。
さて、何か反応があるでしょうか?
御投稿された方には了解もなく公開させていただいたことはお詫び申し上げます。
メールの内容にもあるように、曲がり角などにももう少し親切な案内矢印などがあれば良いとも感じています。
小さなことのようですが、池に落とした小石の波紋が広がるようにほのぼのとした気持ちも広がる。
このことは、私がこのブログを開設している目的でもあります。
6万アクセス達成
昨年8月からこのブログをスタートさせ、あと3週間で目標の1年が経過するまでになりました。
本日アクセスカウントが59999です。

6万カウント目はこうしているうちに達成されるでしょう。
記念すべき6万件です。
スタート時は1年で1万件に行けるかどうかでと思っていました。
皆さんのご訪問心より感謝申し上げます。
本日アクセスカウントが59999です。

6万カウント目はこうしているうちに達成されるでしょう。
記念すべき6万件です。
スタート時は1年で1万件に行けるかどうかでと思っていました。
皆さんのご訪問心より感謝申し上げます。
残暑お見舞い申し上げます。(鳴滝)
石岡にも滝がいくつかある。
旧盆の間が節電で出勤となり、夏の休暇が早まって家にいたのだが、この暑さで涼しいところへ行きたいと選んだのが、ここ「鳴滝」だ。
昔国分寺などの瓦を焼いたとされる「瓦会」地区の山にこの滝がある。山の登りは少し狭くて急なのであまり気持ちは良くないが、滝までは舗装され時間も5分位だ。

滝に着くと、2組の人が来ていた。やはり暑い時に考えるのは同じか?
滝の近くは2~3度くらいは低いと思う。ひんやりして気持ちが良い。

滝の上に不動堂があり、奇岩が連なっています。
この場所は愛宕山へ通じる山であるが、この辺りを「江戸壁」というそうです。

滝の横にも「不動明王」の像が置かれていた。
鳴滝(なるたき)の名前は、大雨などで危険な時に滝が鳴って教えてくれたので、つけられたといいます。
滝の音で天気予報にもなっていたようですね。
この川は恋瀬川に注ぎます。源流の1つです。
旧盆の間が節電で出勤となり、夏の休暇が早まって家にいたのだが、この暑さで涼しいところへ行きたいと選んだのが、ここ「鳴滝」だ。
昔国分寺などの瓦を焼いたとされる「瓦会」地区の山にこの滝がある。山の登りは少し狭くて急なのであまり気持ちは良くないが、滝までは舗装され時間も5分位だ。

滝に着くと、2組の人が来ていた。やはり暑い時に考えるのは同じか?
滝の近くは2~3度くらいは低いと思う。ひんやりして気持ちが良い。

滝の上に不動堂があり、奇岩が連なっています。
この場所は愛宕山へ通じる山であるが、この辺りを「江戸壁」というそうです。

滝の横にも「不動明王」の像が置かれていた。
鳴滝(なるたき)の名前は、大雨などで危険な時に滝が鳴って教えてくれたので、つけられたといいます。
滝の音で天気予報にもなっていたようですね。
この川は恋瀬川に注ぎます。源流の1つです。
風に乗って1年が経ちました。
昨年夏に、石岡・霞ケ浦などを中心に活動されている「ふるさと風の会」の主査でり、脚本・演出家である白井啓治さんと、ブログなども少しやってみましょうかとの話になり、
「ではこちらも考えていたところですから、まず先に作ってみましょう」
と安請け合いして、このブログを立ち上げたのでした。
他のブログなどもあまり読んでいるわけでもなく、日記風に何かを書いてみたいという漠然とした気持ちしかもっていなかったので、何を書いたらよいかも試行錯誤でスタイルをつくっていくという悪戦苦闘の連続でした。

トンボ(撮影日:2011年8月8日 石岡市龍明(狢内)にて)
タイトルを決めたのも何となく頭の片隅にあったものを漠然と決めたのです。
ここ常陸国の中心都市であった石岡の歴史をなんとなく調べ、その場所を訪れていると、そこで受けた自分の思いが観光案内ガイド書のような説明と写真のホームページでは表せないのです。
そこで、この場所に昔から吹いている風の音や香りなどをとらえて表現していければ自分の記録となり楽しそうだと考えたのです。
1年間毎日ブログを更新するということはなんとか守れたようです。
でも大変ですね。多くの継続されている先輩方には頭が下がります。
1年365日、発信件数468件、掲載写真1,150枚、アクセス総数64,600件。
これで十分です。継続できたということだけでとてもうれしいです。
途中3月11日は震災で停電になり、ネットなどまったくできずピンチでしたが、偶然記事を予約していたので途切れることはありませんでした。
また、震災直後は全く今までの内容では記事が書け無くなりました。
何を書けば・・・。困ったなー。
そんな時、全く入ってこない災害やインフラの情報にイライラして、他の人も同じはずだと「石岡の地震後情報」を発信していきました。
そうすると、このブログのアクセス数が急激にUPし始め多い時には1日5千件もアクセスがあったのです。
その時から、このブログを読んでいただいている方も多いと思います。
絵でも写真でもその人の考えや気持ちが観る人に伝わります。
でも、これも観る人の感性で受け止め方が違ってきます。
私には伝える術となる絵や写真で表現する能力も腕もないので、気持ちをできるだけ伝えるために、どうしても文章が長くなってしまいます。もっと簡潔に自分を表現できたらいいですね。
脚本・演出家である白井啓治さんから、当ブログについて、下記の詩が今月(8月)号の「ふるさと風」という機関誌の「風の談話室」欄に掲載されました。(会報8月号はこちら。PDF 860kB)
「少し前のこと、ブログ「まほらの風に吹く風に乗って」の添付写真を見ていてふと下記の詩が口をついて出た。」との前置きで。
-----------------------------------------------
『風のこえ』
何時も呼んでいるのに
なぜ聞こえないふりをするのですか。
あなたがきっとわかる様にと
私の言葉を文字にも書いて風に声しているのに
あなたは何時も聞こえないふりをしてしまう。
それは私の事を嫌いだという事ですか。
かまいませんよ。
あなたに嫌われても私はあなたを呼び続けます。
そして、
私の呼ぶ声を風に運んでもらいますから
(ひろぢ)
----------------------------
白井さんは、東京で映画監督などもされて活躍されていたが、ここ石岡で「ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考える」ということを基調とした「ふるさと風の会」という会の活動を支えておられます。
この会も2年間の助走期間を経て、結成5年が経過してようやく活動が認められつつあるように思われます。
わたしも、微力ですが、途中からホームページの作成などの手伝いをさせていただいています。
メンバーの皆さんは、能力の高い素晴らしい方たちばかりです。
私にもまだやることがたくさんあるような気がしています。
これからも時々私のブログを覗いてください。
私はもうしばらく、あなたを呼び続けたいと思います。
そして、いつかブログが更新され無くなったら笑って受け流してくださいね。
これからは、また1日1件のUPに戻します。
「ではこちらも考えていたところですから、まず先に作ってみましょう」
と安請け合いして、このブログを立ち上げたのでした。
他のブログなどもあまり読んでいるわけでもなく、日記風に何かを書いてみたいという漠然とした気持ちしかもっていなかったので、何を書いたらよいかも試行錯誤でスタイルをつくっていくという悪戦苦闘の連続でした。

トンボ(撮影日:2011年8月8日 石岡市龍明(狢内)にて)
タイトルを決めたのも何となく頭の片隅にあったものを漠然と決めたのです。
ここ常陸国の中心都市であった石岡の歴史をなんとなく調べ、その場所を訪れていると、そこで受けた自分の思いが観光案内ガイド書のような説明と写真のホームページでは表せないのです。
そこで、この場所に昔から吹いている風の音や香りなどをとらえて表現していければ自分の記録となり楽しそうだと考えたのです。
1年間毎日ブログを更新するということはなんとか守れたようです。
でも大変ですね。多くの継続されている先輩方には頭が下がります。
1年365日、発信件数468件、掲載写真1,150枚、アクセス総数64,600件。
これで十分です。継続できたということだけでとてもうれしいです。
途中3月11日は震災で停電になり、ネットなどまったくできずピンチでしたが、偶然記事を予約していたので途切れることはありませんでした。
また、震災直後は全く今までの内容では記事が書け無くなりました。
何を書けば・・・。困ったなー。
そんな時、全く入ってこない災害やインフラの情報にイライラして、他の人も同じはずだと「石岡の地震後情報」を発信していきました。
そうすると、このブログのアクセス数が急激にUPし始め多い時には1日5千件もアクセスがあったのです。
その時から、このブログを読んでいただいている方も多いと思います。
絵でも写真でもその人の考えや気持ちが観る人に伝わります。
でも、これも観る人の感性で受け止め方が違ってきます。
私には伝える術となる絵や写真で表現する能力も腕もないので、気持ちをできるだけ伝えるために、どうしても文章が長くなってしまいます。もっと簡潔に自分を表現できたらいいですね。
脚本・演出家である白井啓治さんから、当ブログについて、下記の詩が今月(8月)号の「ふるさと風」という機関誌の「風の談話室」欄に掲載されました。(会報8月号はこちら。PDF 860kB)
「少し前のこと、ブログ「まほらの風に吹く風に乗って」の添付写真を見ていてふと下記の詩が口をついて出た。」との前置きで。
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『風のこえ』
何時も呼んでいるのに
なぜ聞こえないふりをするのですか。
あなたがきっとわかる様にと
私の言葉を文字にも書いて風に声しているのに
あなたは何時も聞こえないふりをしてしまう。
それは私の事を嫌いだという事ですか。
かまいませんよ。
あなたに嫌われても私はあなたを呼び続けます。
そして、
私の呼ぶ声を風に運んでもらいますから
(ひろぢ)
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白井さんは、東京で映画監督などもされて活躍されていたが、ここ石岡で「ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考える」ということを基調とした「ふるさと風の会」という会の活動を支えておられます。
この会も2年間の助走期間を経て、結成5年が経過してようやく活動が認められつつあるように思われます。
わたしも、微力ですが、途中からホームページの作成などの手伝いをさせていただいています。
メンバーの皆さんは、能力の高い素晴らしい方たちばかりです。
私にもまだやることがたくさんあるような気がしています。
これからも時々私のブログを覗いてください。
私はもうしばらく、あなたを呼び続けたいと思います。
そして、いつかブログが更新され無くなったら笑って受け流してくださいね。
これからは、また1日1件のUPに戻します。
まだまだ暑いです。
今日8月15日は66回目の終戦記念日です。
戦後の生まれですので、戦争体験は無いのですが、縄文時代を除けば、これだけ平和が続いたことも歴史から見れば数少ないようです。
平和とは何か考えてみたいですね。

名古屋から息子が帰ってきているので、本日は休みを取って自宅にいます。
先ほど、少し出かけたら汗びっしょり。
何か涼しくなるものは無いか??
昨年秋に行った袋田の滝の写真を載せますね。
四段で流れ落ちるので、四度の滝。日本三大瀑布と言われているようです。
残りは日光華厳の滝と那智の滝だそうです。
一見する価値はありますので、是非行ってみてください。
アユの塩焼き、さしみコンニャクに秋はリンゴ狩りも楽しめます。
さて、家でゴロゴロ寝ていたらこんなことを思い出しました。
むかしよく「食べてすぐ寝ると牛になる」と言われたことがありますが、
牛久沼の名前の由来を調べたら、こんな話が出ていました。
「食べて寝てばかりいたお寺の小僧さんが、とうとう牛になってしまい。
牛になった小僧さんは、悲観して近くの沼に入っていこうとしました。
和尚さんがあわてて尻尾をつかむとプツンと切れて、牛は沼に呑みこまれてしまいました。
そしてこの沼の名前
「牛を食う沼」とよぶようになり、いつしか「牛久沼」となったのです。
そして、のこされた牛の尻尾はお寺の払子(ほっす)となり、使われたといいます。」
この昔話は、そんな話か? 程度ですね。
でも、金龍寺は群馬県太田に新田義貞が創建し、こちらに移されたもので、新田義貞の墓もあります。
太田にもあるのでこの辺りの関係は興味がわいてきます。
皆さま、暑さの中お体ご自愛ください。
戦後の生まれですので、戦争体験は無いのですが、縄文時代を除けば、これだけ平和が続いたことも歴史から見れば数少ないようです。
平和とは何か考えてみたいですね。

名古屋から息子が帰ってきているので、本日は休みを取って自宅にいます。
先ほど、少し出かけたら汗びっしょり。
何か涼しくなるものは無いか??
昨年秋に行った袋田の滝の写真を載せますね。
四段で流れ落ちるので、四度の滝。日本三大瀑布と言われているようです。
残りは日光華厳の滝と那智の滝だそうです。
一見する価値はありますので、是非行ってみてください。
アユの塩焼き、さしみコンニャクに秋はリンゴ狩りも楽しめます。
さて、家でゴロゴロ寝ていたらこんなことを思い出しました。
むかしよく「食べてすぐ寝ると牛になる」と言われたことがありますが、
牛久沼の名前の由来を調べたら、こんな話が出ていました。
「食べて寝てばかりいたお寺の小僧さんが、とうとう牛になってしまい。
牛になった小僧さんは、悲観して近くの沼に入っていこうとしました。
和尚さんがあわてて尻尾をつかむとプツンと切れて、牛は沼に呑みこまれてしまいました。
そしてこの沼の名前
「牛を食う沼」とよぶようになり、いつしか「牛久沼」となったのです。
そして、のこされた牛の尻尾はお寺の払子(ほっす)となり、使われたといいます。」
この昔話は、そんな話か? 程度ですね。
でも、金龍寺は群馬県太田に新田義貞が創建し、こちらに移されたもので、新田義貞の墓もあります。
太田にもあるのでこの辺りの関係は興味がわいてきます。
皆さま、暑さの中お体ご自愛ください。
あけましておめでとうございます。
2012年になりました。本年もよろしくお願いいたします。
霞ケ浦から上る初日の出を見に出かけましたが、曇っていて太陽は顔を出してくれませんでした。
でも雲の間から差す日差しを少し見ながら今年が良い年であることを願ってきました。
帰りがけに筑波山を1枚。今年もその姿をまた何回か紹介することになるかもしれません。

(石岡市高浜の平和橋からの筑波山)

(石岡の獅子さん 今年もよろしく)
← よろしければクリックお願いします。
霞ケ浦から上る初日の出を見に出かけましたが、曇っていて太陽は顔を出してくれませんでした。
でも雲の間から差す日差しを少し見ながら今年が良い年であることを願ってきました。
帰りがけに筑波山を1枚。今年もその姿をまた何回か紹介することになるかもしれません。

(石岡市高浜の平和橋からの筑波山)

(石岡の獅子さん 今年もよろしく)


おや、月見草・・・
8月11日を迎えました。
このブログもやっと2年経過し3年目に突入しました。
Romanなどというキザなハンドルネームもただの偶然の産物。
最初はそんなつもりもなく登録するときになんでもいいだろうと決めたこと。
しかし、まあこれも2年も経てば何となくそれらしくなってくるので不思議。
1年目:365日、発信件数468件、掲載写真1,150枚、アクセス総数64,600件。(この時の記事:こちら)
2年目:365日、発信件数446件、掲載写真2,130枚、アクセス総数86,900件(合計151,500件)。
これからも忘れられ、打ち捨てられている身近な歴史や風土にできるだけスポットを当てていければいいなと思います。

太宰治は河口湖から甲府に向かう途中にある御坂峠の茶屋に逗留していた友人井伏鱒二のところにやってきてしばらく逗留しました。
郵便物は自分で麓の河口局まで時々取りに行かねばならなかったのです。
そしてつぎの文章だ。
「河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、
濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、
女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、
また自分ひとりの咏嘆ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、
リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、
口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、
一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、
やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。
けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、
富士には一瞥も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、
私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、
私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、
その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、
と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、
老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、
私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、
金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。
富士には、月見草がよく似合ふ。」(太宰治 富嶽百景より)
そうです。富士山などという(知らない人はいない)俗な山など見たくもないなどとのたまいながら、富士の圧倒的な姿に嫉妬をしていたのでしょう。
そして、道の傍らに咲く月見草が富士と比べても何の遜色もないその存在感を感じたのです。
でもこれは太宰流の計算された文章ですね。
計算されたところが嫌いだという人もいるでしょう。
でも言葉がぐさりと心に飛び込んでくる。
御坂峠は今は下をトンネルが通り、峠道を走ることはほとんどなくなりましたが、この道は古東海道からの分かれ道で甲斐国府中(一宮御坂IC近く)へ行く「御坂みち」でした。
このことも小説には出てきます。
そんなことを思いながらこの道を通る人もほとんどいないでしょうね。
私は、富士を眺めるのは、この近くの三つ峠山が一番と密かに思っています。

まだ暑い日がぶり返してきていますが、お盆で帰省される方も多いでしょう。
皆さんまだ暑い夏を乗り切っていきましょう。
残暑お見舞申し上げます。
「なは愛(いと)しきもの」の歌がCDになりました。(こちらで聞けます)
名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです
名もない花の可愛さを
私が知らないだけなのです
側溝にしがみついて咲く小花
名は何とたずぬるも 応えの見えず
(作 詞 : 白井 啓治 作 曲 : 野口 喜広)
9月9日(日)ギター文化館でニューアルバムリリース コンサートがあります。(こちら)
いわき市の仮設住宅にいる福島県楢葉町の方たちも、この夏のお盆に合わせて、やっと警戒区域の指定が緩められ、昼間は自由に出入りできるようになりました。
旧盆のこの時期にお墓参りに帰れるようになりました。しかし除染はまだ終わっていません。
マスクをしてお墓掃除におとづれる人が多いでしょう。
いつになったら昔の生活に戻れるのでしょうか?
この人たちがいったい何をしたというのでしょうか?
じっと耐えるしかないのですか? 仮設住宅も暑くて狭いです。
もっともっと政治は心が折れそうな人々に寄り添って考えて欲しいものです。
← よろしければクリックお願いします。
このブログもやっと2年経過し3年目に突入しました。
Romanなどというキザなハンドルネームもただの偶然の産物。
最初はそんなつもりもなく登録するときになんでもいいだろうと決めたこと。
しかし、まあこれも2年も経てば何となくそれらしくなってくるので不思議。
1年目:365日、発信件数468件、掲載写真1,150枚、アクセス総数64,600件。(この時の記事:こちら)
2年目:365日、発信件数446件、掲載写真2,130枚、アクセス総数86,900件(合計151,500件)。
これからも忘れられ、打ち捨てられている身近な歴史や風土にできるだけスポットを当てていければいいなと思います。

太宰治は河口湖から甲府に向かう途中にある御坂峠の茶屋に逗留していた友人井伏鱒二のところにやってきてしばらく逗留しました。
郵便物は自分で麓の河口局まで時々取りに行かねばならなかったのです。
そしてつぎの文章だ。
「河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、
濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、
女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、
また自分ひとりの咏嘆ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、
リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、
口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、
一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、
やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。
けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、
富士には一瞥も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、
私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、
私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、
その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、
と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、
老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、
私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、
金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。
富士には、月見草がよく似合ふ。」(太宰治 富嶽百景より)
そうです。富士山などという(知らない人はいない)俗な山など見たくもないなどとのたまいながら、富士の圧倒的な姿に嫉妬をしていたのでしょう。
そして、道の傍らに咲く月見草が富士と比べても何の遜色もないその存在感を感じたのです。
でもこれは太宰流の計算された文章ですね。
計算されたところが嫌いだという人もいるでしょう。
でも言葉がぐさりと心に飛び込んでくる。
御坂峠は今は下をトンネルが通り、峠道を走ることはほとんどなくなりましたが、この道は古東海道からの分かれ道で甲斐国府中(一宮御坂IC近く)へ行く「御坂みち」でした。
このことも小説には出てきます。
そんなことを思いながらこの道を通る人もほとんどいないでしょうね。
私は、富士を眺めるのは、この近くの三つ峠山が一番と密かに思っています。

まだ暑い日がぶり返してきていますが、お盆で帰省される方も多いでしょう。
皆さんまだ暑い夏を乗り切っていきましょう。
残暑お見舞申し上げます。
「なは愛(いと)しきもの」の歌がCDになりました。(こちらで聞けます)
名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです
名もない花の可愛さを
私が知らないだけなのです
側溝にしがみついて咲く小花
名は何とたずぬるも 応えの見えず
(作 詞 : 白井 啓治 作 曲 : 野口 喜広)
9月9日(日)ギター文化館でニューアルバムリリース コンサートがあります。(こちら)
いわき市の仮設住宅にいる福島県楢葉町の方たちも、この夏のお盆に合わせて、やっと警戒区域の指定が緩められ、昼間は自由に出入りできるようになりました。
旧盆のこの時期にお墓参りに帰れるようになりました。しかし除染はまだ終わっていません。
マスクをしてお墓掃除におとづれる人が多いでしょう。
いつになったら昔の生活に戻れるのでしょうか?
この人たちがいったい何をしたというのでしょうか?
じっと耐えるしかないのですか? 仮設住宅も暑くて狭いです。
もっともっと政治は心が折れそうな人々に寄り添って考えて欲しいものです。


1000回記念
このブログも今回でとうとう1000回(815日)目の記事になった。
自分探しの旅の一つとして始めたこのブログの二つ目の目標が達成できました。

最初の目標は「1年間欠かさずに何か書いてみること」、2番目が「1000件の記事を続けて書くこと」です。
そして次の目標は「3年間の連続投稿記録」です。これでブログは目標達成です。
でも、これは来年8月10日までやらねばならないといけないので、まだ大分ある。
”頑張れ! ファイト!”(汗)

そうなんだよね。
こんなのって全くの自己満足だよね。
「1年間の皆勤賞」「1000回続けたら良いことが起こるかも」「石の上にも三年!」
武者小路実篤の「馬鹿一」みたいなのって今ではもう陳腐化したことばだよ。
コツコツやることなんか馬鹿らしくてやっていられない時代になっているのは分かっている。
でも。
自分が書いていることに少しでも関心を持つ人が どこかに一人でもいてくれたらそれでいい。
普段あまり振り向かれることのない場所に行ってみて「ハッ」とすることがないかな。
そうするとね。
「何か書いてくれ!」って言われてるみたいなんだ。
なんだかな~
こんな気持ちは、家族の事などあまり振り向かず、毎晩遅くまでガムシャラに働いてきた若い時には感じなかったよ。
今はこんな時間が持てることに感謝だ。
まだまだ第二・第三の自分探しの旅の途中さ。
きっとまた新たな自分が見つかるかもしれないから。
これからも 明日に希望を持って次の目標を目指して行きたいな(♡)。

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自分探しの旅の一つとして始めたこのブログの二つ目の目標が達成できました。

最初の目標は「1年間欠かさずに何か書いてみること」、2番目が「1000件の記事を続けて書くこと」です。
そして次の目標は「3年間の連続投稿記録」です。これでブログは目標達成です。
でも、これは来年8月10日までやらねばならないといけないので、まだ大分ある。
”頑張れ! ファイト!”(汗)

そうなんだよね。
こんなのって全くの自己満足だよね。
「1年間の皆勤賞」「1000回続けたら良いことが起こるかも」「石の上にも三年!」
武者小路実篤の「馬鹿一」みたいなのって今ではもう陳腐化したことばだよ。
コツコツやることなんか馬鹿らしくてやっていられない時代になっているのは分かっている。
でも。
自分が書いていることに少しでも関心を持つ人が どこかに一人でもいてくれたらそれでいい。
普段あまり振り向かれることのない場所に行ってみて「ハッ」とすることがないかな。
そうするとね。
「何か書いてくれ!」って言われてるみたいなんだ。
なんだかな~
こんな気持ちは、家族の事などあまり振り向かず、毎晩遅くまでガムシャラに働いてきた若い時には感じなかったよ。
今はこんな時間が持てることに感謝だ。
まだまだ第二・第三の自分探しの旅の途中さ。
きっとまた新たな自分が見つかるかもしれないから。
これからも 明日に希望を持って次の目標を目指して行きたいな(♡)。





おおつごもり
本年も残すところわずかとなりました。
大晦日(おおみそか)も大晦(おおつごもり)も同じ意味ですが、ニュアンスが違いますね。
旧暦の月の暦でつごもりは月隠と月が隠れる日を表したのだとか。
いまだに旧暦を使っている中国などにはその意味が伝わっているのでしょうか。
旧暦の年の暮れだとまだ1ヶ月くらいありますね。その名残が豆まき「鬼は外、福は内」だそうです。
先日フィリピンから日本に来ている同僚が自国に里帰りしました。
向こうで大晦日とニューイヤーを迎えるのです。
どんなことをするのかを聞いてみました。
大晦日の晩は各家庭の庭や空き地でどこでも花火を上げてカウントダウンで正月を迎えるのだそうです。
日本では一部でカウントダウンイベントなどで盛り上がっていますが、私はこれにはついていけません。
何事も新しいものを取り入れたい人は必ずいますが・・・
日本の伝統的な行事は残していってほしいですね。
日本の伝統的な「おおつごもり」の過ごし方には花火の輝きや爆竹の音は合いませんよね。
さて、私のブログも三度目の大晦日を迎えました。
これも皆様に支えていただいてここまで続けてこられたと思っています。
大変ありがとうございました。
このブログも始めてから1度も休むことなく今日まで続けてこられたことは幸運でした。
しかし、なにごとも続けるには根気も必要です。
このような年寄りになれば、今の時代の移り変わりの速さについていくことはできません。
行列のできるような人気店などに並ぶ気にはなれませんし、新発売の新製品などなんの興味も湧きません。
テレビではどこの局でも同じように数百人が並んだ映像を流していますが・・・。
しかしブログも始めたからには3年継続しないと、きっと後から後悔するに違いないとの思いが強くあります。
しつこい性格なのだと思います。
「もっと気楽にやればいいのに」とも自分にいい聞かせることもあります。
今年もブログには色々な方々にアクセスいただき、温かいコメントをたくさん頂戴しました。
また黙って拍手をしていただいている方もおられます。
ありがたいことです。
Rom専の方のほうがずっと多いとも思いますが、見てますよなどとたまに言われると嬉しくなってしまいます。
ちょこっとコメントいただけると大変励みになりますが、もちろんRom専のままでも構いません。
これからは町おこしなどにも参加していければいいとも思っています。
「言うだけなら簡単だ」とどこかできっと言われているように感じてもいます。
来年8月に念願のブログ継続3年がやってきます。それまで恙無く過ごせるでしょうか。
暇になると思っていた定年後の世界が思ったより忙しくなってきてしまいました。
本当に馬鹿だよねなんて自身では思っています。
でも妻には「やることがあってよかったじゃない」などとも言われています。
この前も、「年末年始にブログも休もうかな?」と言うと、「せっかくやってきたのだから、続けたら」だそうです。
家の中では何もやらないでいれば、口うるさいだけの粗大ゴミに違いありませんからね。
ブログを読んだ知り合いからは
「文章がとても面白い。理数系の人の文章とは思われない。」
と言われたことがあります。
私は工学部の出身です。ですから数学や物理は大好きでした。
嫌いな学科は英語と国語や歴史など社会科です。
ブログ仲間の方からも、
・文章が面白い。私も真似をしたい。
・ドーパミンがでまくって読み進んだ。
・内容も然ることながら書き方が参考になった。
・違った視点で紹介しているのでユニークだ。
・実際にその場所に行かれて書いたものなのでわかりやすい。
・石岡のブラタモリだ。
などという言葉をいただいたりしました。
今年春にはそれまでの1年半分のブログを4冊の本にまとめました。
何か自分の書いたものが本になるのって素敵だとは思いませんか。
とても自費出版で業者にお願いする力も資金もないので、自分で手作りした本です。
こうしてまとめてみないと方向性も定まりません。
毎年、仕事でもプライベートでも、少しでも自分を成長させなければつまらないですよね。
この本を取り上げて地元の茨石商事さんの通信誌の中の「ワクワクふるさと紀行」に取り上げていただきました。
「全文を通して、作者の居住地・石岡への思いや尽きない好奇心が感じ取れ、さわやかな読後感が印象的です。」
と書いていただきました。ありがとうございました。
また、これは私のブログの特徴でもあるのですが、過去もうずいぶん前に書いた記事に時々拍手があります。
つい先日も一度に20件近くも拍手いただきました。
それだけ前の記事をたどって読んでいただけたことですので大変嬉しいです。
拍手をいただくと、私もまたそのブログを読み返しています。
こんなことに関心を持ってくれたのだと思わず唸ってしまうことも・・・。
結構どうでも良いと思って書いたことも多いのです。
しかし、これが結構参考になります。でもその記事のどこかに興味を持っていただいたに違いありません。
自分の意見を述べているところに多く拍手いただいけているように思います。
やはり「たとえ間違っていても自分の意見を堂々と主張する」ことが大切なのだと気がつかされました。
自分の意見が主張できるようになればきっと「鬼に金棒」なのでしょう。
また少し遠くの場所を紹介する記事を書いた時に、その場所の近くに住む方やその場所の関係者の方からコメントいただくこともあります。
少し冷や汗も書きますが、とてもうれしいです。
この年末も1年間にいただいたコメントを読み返しておりました。
数時間もかかりましたので、妻からは呆れられています。家の中が何も片付いていないと・・・・
来年は皆様にとって良い年になることをお祈りしております。
どうぞ良いお年をお迎えください。
2012年12月31日
大晦日(おおみそか)も大晦(おおつごもり)も同じ意味ですが、ニュアンスが違いますね。
旧暦の月の暦でつごもりは月隠と月が隠れる日を表したのだとか。
いまだに旧暦を使っている中国などにはその意味が伝わっているのでしょうか。
旧暦の年の暮れだとまだ1ヶ月くらいありますね。その名残が豆まき「鬼は外、福は内」だそうです。
先日フィリピンから日本に来ている同僚が自国に里帰りしました。
向こうで大晦日とニューイヤーを迎えるのです。
どんなことをするのかを聞いてみました。
大晦日の晩は各家庭の庭や空き地でどこでも花火を上げてカウントダウンで正月を迎えるのだそうです。
日本では一部でカウントダウンイベントなどで盛り上がっていますが、私はこれにはついていけません。
何事も新しいものを取り入れたい人は必ずいますが・・・
日本の伝統的な行事は残していってほしいですね。
日本の伝統的な「おおつごもり」の過ごし方には花火の輝きや爆竹の音は合いませんよね。
さて、私のブログも三度目の大晦日を迎えました。
これも皆様に支えていただいてここまで続けてこられたと思っています。
大変ありがとうございました。
このブログも始めてから1度も休むことなく今日まで続けてこられたことは幸運でした。
しかし、なにごとも続けるには根気も必要です。
このような年寄りになれば、今の時代の移り変わりの速さについていくことはできません。
行列のできるような人気店などに並ぶ気にはなれませんし、新発売の新製品などなんの興味も湧きません。
テレビではどこの局でも同じように数百人が並んだ映像を流していますが・・・。
しかしブログも始めたからには3年継続しないと、きっと後から後悔するに違いないとの思いが強くあります。
しつこい性格なのだと思います。
「もっと気楽にやればいいのに」とも自分にいい聞かせることもあります。
今年もブログには色々な方々にアクセスいただき、温かいコメントをたくさん頂戴しました。
また黙って拍手をしていただいている方もおられます。
ありがたいことです。
Rom専の方のほうがずっと多いとも思いますが、見てますよなどとたまに言われると嬉しくなってしまいます。
ちょこっとコメントいただけると大変励みになりますが、もちろんRom専のままでも構いません。
これからは町おこしなどにも参加していければいいとも思っています。
「言うだけなら簡単だ」とどこかできっと言われているように感じてもいます。
来年8月に念願のブログ継続3年がやってきます。それまで恙無く過ごせるでしょうか。
暇になると思っていた定年後の世界が思ったより忙しくなってきてしまいました。
本当に馬鹿だよねなんて自身では思っています。
でも妻には「やることがあってよかったじゃない」などとも言われています。
この前も、「年末年始にブログも休もうかな?」と言うと、「せっかくやってきたのだから、続けたら」だそうです。
家の中では何もやらないでいれば、口うるさいだけの粗大ゴミに違いありませんからね。
ブログを読んだ知り合いからは
「文章がとても面白い。理数系の人の文章とは思われない。」
と言われたことがあります。
私は工学部の出身です。ですから数学や物理は大好きでした。
嫌いな学科は英語と国語や歴史など社会科です。
ブログ仲間の方からも、
・文章が面白い。私も真似をしたい。
・ドーパミンがでまくって読み進んだ。
・内容も然ることながら書き方が参考になった。
・違った視点で紹介しているのでユニークだ。
・実際にその場所に行かれて書いたものなのでわかりやすい。
・石岡のブラタモリだ。
などという言葉をいただいたりしました。
今年春にはそれまでの1年半分のブログを4冊の本にまとめました。
何か自分の書いたものが本になるのって素敵だとは思いませんか。
とても自費出版で業者にお願いする力も資金もないので、自分で手作りした本です。
こうしてまとめてみないと方向性も定まりません。
毎年、仕事でもプライベートでも、少しでも自分を成長させなければつまらないですよね。
この本を取り上げて地元の茨石商事さんの通信誌の中の「ワクワクふるさと紀行」に取り上げていただきました。
「全文を通して、作者の居住地・石岡への思いや尽きない好奇心が感じ取れ、さわやかな読後感が印象的です。」
と書いていただきました。ありがとうございました。
また、これは私のブログの特徴でもあるのですが、過去もうずいぶん前に書いた記事に時々拍手があります。
つい先日も一度に20件近くも拍手いただきました。
それだけ前の記事をたどって読んでいただけたことですので大変嬉しいです。
拍手をいただくと、私もまたそのブログを読み返しています。
こんなことに関心を持ってくれたのだと思わず唸ってしまうことも・・・。
結構どうでも良いと思って書いたことも多いのです。
しかし、これが結構参考になります。でもその記事のどこかに興味を持っていただいたに違いありません。
自分の意見を述べているところに多く拍手いただいけているように思います。
やはり「たとえ間違っていても自分の意見を堂々と主張する」ことが大切なのだと気がつかされました。
自分の意見が主張できるようになればきっと「鬼に金棒」なのでしょう。
また少し遠くの場所を紹介する記事を書いた時に、その場所の近くに住む方やその場所の関係者の方からコメントいただくこともあります。
少し冷や汗も書きますが、とてもうれしいです。
この年末も1年間にいただいたコメントを読み返しておりました。
数時間もかかりましたので、妻からは呆れられています。家の中が何も片付いていないと・・・・
来年は皆様にとって良い年になることをお祈りしております。
どうぞ良いお年をお迎えください。
2012年12月31日
明けましておめでとうございます。

(サムネルです)
新年明けましておめでとうございます。
今日の霞ヶ浦の日の出です。(歩崎公園)
残念ながら少し雲があり綺麗には日の出も見られませんでしたが、気分も爽快になりました。
「今年も頑張るぞ!」という気持ちになれました。太陽の光は本当にありがたい。
皆様におかれましても健康で明るい年になるといいですね。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。




いよいよこれから。
私ごとで恐縮だが、昨日が誕生日でした。
オーストリア(ウィーン)にいる娘から誕生日おめでとうカードが送られてきました。

オーストリアの言語はドイツ語だそうだ。
四葉のクローバは幸せの象徴なのでしょうね。
最近は65歳以上の高齢者と呼ぶようですから正真正銘の高齢者の仲間入りです。
しかしやらなければいけないこともまだたくさんあるからね。
まほらに風する声を届けることもまだまだ中途半端だし。
娘からの手紙の中に「こちらは冬がなかなかしぶとくて・・・・・石岡のぼたん桜はこれからだよね」とあった。
ウィーンにも日本の庭園が有り桜の木があるのだけれどまだ咲かないようだ。
そうそう、風土記の丘のしだれ桜は終わったがぼたん桜がまだ残っている。
早速行ってみました。
おおっ。 綺麗に咲いていました。



風土記の丘の桜は種類が多く1ヶ月ちかく楽しめるのです。

今日はポカポカ陽気で桜もまだ楽しめたし、山の若葉が萌えて綺麗だ。
陽に照らされてキラキラ輝いていた。
この若葉の美しさはこれから段々北上していく。山が萌えるのこの時期が一番いい。
新しいことが始まるのにエネルギーをもらえる気がする。
会社の新入社員も、中学や小学校でも1年生が輝いている。
この輝きを忘れずに行って欲しいものだ。
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オーストリア(ウィーン)にいる娘から誕生日おめでとうカードが送られてきました。

オーストリアの言語はドイツ語だそうだ。
四葉のクローバは幸せの象徴なのでしょうね。
最近は65歳以上の高齢者と呼ぶようですから正真正銘の高齢者の仲間入りです。
しかしやらなければいけないこともまだたくさんあるからね。
まほらに風する声を届けることもまだまだ中途半端だし。
娘からの手紙の中に「こちらは冬がなかなかしぶとくて・・・・・石岡のぼたん桜はこれからだよね」とあった。
ウィーンにも日本の庭園が有り桜の木があるのだけれどまだ咲かないようだ。
そうそう、風土記の丘のしだれ桜は終わったがぼたん桜がまだ残っている。
早速行ってみました。
おおっ。 綺麗に咲いていました。



風土記の丘の桜は種類が多く1ヶ月ちかく楽しめるのです。

今日はポカポカ陽気で桜もまだ楽しめたし、山の若葉が萌えて綺麗だ。
陽に照らされてキラキラ輝いていた。
この若葉の美しさはこれから段々北上していく。山が萌えるのこの時期が一番いい。
新しいことが始まるのにエネルギーをもらえる気がする。
会社の新入社員も、中学や小学校でも1年生が輝いている。
この輝きを忘れずに行って欲しいものだ。


国のまほら
この「まほらに吹く風に乗って」というブログもいよいよ今日から4年目のスタートです。
またこのまほらの地を訪ねながらそこに吹く風の香りをお届けできればと思います。
少しだけご挨拶させてくださいね。まほらという言葉についてです。
「まほら」というのはあまり使われる言葉ではないですよね。一般には「まほろば」「まほろま」などの方がつかわれる場合が多いですね。
4年目のスタートにと思ってこのテーマで気がついたことなどを記事に綴ってみたいと思います。
でも今日も暑くてなかなか記事に取り掛かれませんでした。先ほどから雷が鳴り雨も降ってきたのですが今は少し落ち着いてきました。
倭(やまと)は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる 倭(やまと)しうるはし
この歌が最も有名でしょうか?
これは古事記に書かれている倭建命の歌とされています。
もちろん古事記では倭建命と書きますが、日本書紀などでは「日本武尊」とかかれている伝説の英雄「ヤマトタケル」のことです。
この人物が実在の人物かどうかは解釈が分かれますが、架空の人物と見る方が自然です。
上の歌も大和朝廷の治める地(主に大和地方?)が素晴らしい場所であると言っているのでしょう。
同じような歌はその他にもあります。
山上憶良が万葉集に載せた「迷える情を反さしむる歌」というのがあります。
父母を 見れば貴し 妻子(めこ)見れば めぐし愛し
遁ろえぬ 兄弟(はらから)親族(うがら) 遁ろえぬ 老いみ幼(いとけ)み
朋友(ともかき)の 言問ひ交はす 世の中は かくぞことわり
もち鳥の かからはしもよ 早川の ゆくへ知らねば
穿沓(うけぐつ)を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は
石木より 成りてし人か 汝が名告(の)らさね
天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大王います
この照らす 日月の下は 天雲の 向伏(むかふ)す極み
蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ
かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか (万葉集 800)
これは、この時代(8世紀初め?)に大和朝廷の意向をもう大切にしない人々が増えていて、これを嘆いて詠んだのではないかと思われます。
「蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ」
この意味は、「ヒキガエルが這い回る地の果てまで、天皇のお治めになるすぐれた国土だ」という意味です。
中国の唐に渡って儒教の思想を強めていた山上憶良は親子や国家の情を大切に思っていたのでしょう。
こららは大和というのは日本の事だったり、大和地方(奈良)の事だったりしていますが、この常陸国はどうなのでしょうか?
実は、縄文人の住んでいた霞ヶ浦周辺や筑波山周辺は、大和朝廷が成立した初期の段階ではそれ程素晴らしい所だとは思われていなかったのかもしれません。
日本書紀ではこの辺りの土地はまだ「日高見国」と言われていたようです。
景行天皇27年に、この地を探査して都に帰った武内宿禰は 「東の夷の中、日高見国がある。其の国の人は男も女も身に入れ墨をし、人となりは勇敢である。また、土地は肥沃で広大である。征服してとるべきだ。」 と報告しています。
こんな言葉を日本書紀に残したのは、その他の歴史を消し去ってしまったその後の権力者たちとしてはミスだったのかもしれませんね。
そうでなければこの蝦夷人たちとの争いが文章としてあまりにも残っていないですから。
これにより大和朝廷から蝦夷征伐に軍人が送られます。
その中の一人の英雄としてヤマトタケルは作られた人物像(景行天皇の皇子)だと思われます。
大和朝廷の圧倒的な武器や人数によりこの地で数万年にもわたって仲良く暮らしていた現地人(暮らしは非文明?)は次第にそれらの軍人たちの云う事を聞いたり、さらに北へ逃げていったりしたのでしょう。
逆らって奴隷となった人びとは佐伯といわれ、奈良の都や四国の方に送られて労働を強いられました。
さて、制圧され、大和朝廷の仲間入りを果たした常陸国も次第に中国をまねた律令制の中央集権的な一翼を担うようになり、まだ朝廷に逆らっていた東北の蝦夷征伐の拠点になって行きました。
いくら制圧されたとはいえ、大和朝廷のもたらす文化は素晴らしく、人びとは喜んで受け入れていったのでしょう。
そしてこの地にも文化が開けてきます。
藤原不比等の三男であった藤原宇合(うまかい)が常陸国国守として都より赴任してきたのは西暦719年です。
この時はまだ東北地方の蝦夷とは争いが絶えませんでした。
不比等はこの重要な任務を遣唐使として唐から帰った息子「宇合」に託したのです。
そしてそこに「高橋虫麻呂」という優秀な人物を共に遣わしたのです。
そしてこの2人の人物を中心にして、この国の言い伝えなどをまとめた「常陸国風土記」が編纂されました。
この2人は常陸国国府であるこの石岡に赴任しているのですが、この地に来てすぐに、この地がかなり気に入ったようです。
まあはっきりはわかりませんが、風土記などの書かれている文体を追っていくとそのように感じます。

(クリックすると大きな写真になります)
夕闇に沈んでいく町。(土浦方面)

(クリックすると大きくなります)
この日は女体山の神様がご機嫌が悪く、山頂に雲がかかりました。左側の山頂は筑波の男体山。
この高橋虫麻呂が筑波山を詠んだ歌が万葉集に数多く載っています。
さて、「まほら」という言葉が出てくるものを探してみました。
衣手の 常陸の国の ふたなみの 筑波の山を 見まくほり 君来ませりと あつけきに 汗かきなげき 木の根取り うそむき登り をの上を 君に見すれば 男(お)の神も 許し賜へり 女(め)の神も ちはひ給ひて 時と無く 雲井雨ふる 筑波嶺を 清(さや)に照らして 言ふかりし 国のまほらを つばらかに 示し賜へば うれしみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてぞ遊ぶ 打ち靡く 春みましゆは 夏草の 茂くは有れど 今日の楽しさ
(万葉集 九雑歌)
(原文:衣手 常陸國 二並 筑波乃山乎 欲見 君来座登 熱尓 汗可伎奈氣 木根取 嘯鳴登 <峯>上乎 <公>尓令見者 男神毛 許賜 女神毛 千羽日給而 時登無 雲居雨零 筑波嶺乎 清照 言借石 國之真保良乎 委曲尓 示賜者 歡登 紐之緒解而 家如 解而曽遊 打靡 春見麻之従者 夏草之 茂者雖在 今日之樂者)
さて、この歌の解釈はいろいろありますね。
もっとも一般的なのが、この歌の題詞に「検税使大伴卿(おおとものまえつきみ)が筑波山に登った時の歌一首[ならびに短歌]」と書かれているので、検税使大伴卿=大伴旅人 がこの地を訪れ(西暦722~3年頃?)、こんな会話がされたのではないかと思われます。
旅人:「やっと念願の常陸の国に来れました。筑波山は都でもとても素晴らしい山と伝わっています。ここから見る常世の国の景色を是非見たいのです。」
虫麻呂:「それは、それは、本当に良いところですよ。春にも上っていますが、今は夏で少し登るのも暑くて大変ですが、一緒に登りましょう」
こんな会話の結果、
「木の根っこを捕まえたりしてやっとのことで頂上(女体山)にたどりついたのです。
そうすると、男体山の神も女体山の神もご機嫌が良く、天気に恵まれ、はるかの山並みも、また麓に広がる平野や霞ヶ浦(流れ海)も本当に常世の国のように見てとれて、二人して感激したのです。
そして、暑いので着物のひもを緩め、肌もはだけてさせて家にいる様にくつろげて本当に良い1日だった」
ということだと言います。でも本当はそれだけではなさそうですね。

(クリックで拡大します)
当時、男女の恋愛も自由なところがありました。この筑波山でも春秋には決まった日に男女が集まって歌の掛け合いをやり、気に行った男女が結ばれていったようです。
歌垣とか嬥歌(かがい)という行事が、定期的に行われていたのです。
高橋虫麻呂はこんな歌を読んでいます。
<筑波嶺に登りて嬥歌会かがひをする日に作る歌一首 并せて短歌>
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上へに 率(あども)ひて 娘子壮士(をとめをとこ)の 行き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻(ひとづま)に 我わも交はらむ 我(わが)妻に 人も言問(ことと)へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな(9-1759)
反歌
男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るとも我帰らめや(9-1760)
特に訳は載せません。こんな自由なものであっていいのか?? などとも思いますが、当時の風習を考えればとても健全なものだったのでしょうね。今では考えられませんが・・・
春に来た時より夏草が伸びていて大変だったなどと何故書いたのでしょうね?

(クリックで拡大します)恋瀬川から朝霧に立つ筑波山の景色
藤原宇合が常陸国守を退いて都に帰ったのは西暦724年とされていますので、この地にいたのは5年位だったのでしょうか。
この宇合が都に帰る時にこの地で仲良くなった「常陸娘子(ひたちおとめ)」が詠んだ歌があります。
★ 庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 東女を 忘れたまふな
この歌の碑が石岡小学校の敷地内の「常陸国府跡」の碑の隣におかれています。
またこれからもこんな「国のまほらをつばらかに」していきましょうか。
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またこのまほらの地を訪ねながらそこに吹く風の香りをお届けできればと思います。
少しだけご挨拶させてくださいね。まほらという言葉についてです。
「まほら」というのはあまり使われる言葉ではないですよね。一般には「まほろば」「まほろま」などの方がつかわれる場合が多いですね。
4年目のスタートにと思ってこのテーマで気がついたことなどを記事に綴ってみたいと思います。
でも今日も暑くてなかなか記事に取り掛かれませんでした。先ほどから雷が鳴り雨も降ってきたのですが今は少し落ち着いてきました。
倭(やまと)は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる 倭(やまと)しうるはし
この歌が最も有名でしょうか?
これは古事記に書かれている倭建命の歌とされています。
もちろん古事記では倭建命と書きますが、日本書紀などでは「日本武尊」とかかれている伝説の英雄「ヤマトタケル」のことです。
この人物が実在の人物かどうかは解釈が分かれますが、架空の人物と見る方が自然です。
上の歌も大和朝廷の治める地(主に大和地方?)が素晴らしい場所であると言っているのでしょう。
同じような歌はその他にもあります。
山上憶良が万葉集に載せた「迷える情を反さしむる歌」というのがあります。
父母を 見れば貴し 妻子(めこ)見れば めぐし愛し
遁ろえぬ 兄弟(はらから)親族(うがら) 遁ろえぬ 老いみ幼(いとけ)み
朋友(ともかき)の 言問ひ交はす 世の中は かくぞことわり
もち鳥の かからはしもよ 早川の ゆくへ知らねば
穿沓(うけぐつ)を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は
石木より 成りてし人か 汝が名告(の)らさね
天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大王います
この照らす 日月の下は 天雲の 向伏(むかふ)す極み
蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ
かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか (万葉集 800)
これは、この時代(8世紀初め?)に大和朝廷の意向をもう大切にしない人々が増えていて、これを嘆いて詠んだのではないかと思われます。
「蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ」
この意味は、「ヒキガエルが這い回る地の果てまで、天皇のお治めになるすぐれた国土だ」という意味です。
中国の唐に渡って儒教の思想を強めていた山上憶良は親子や国家の情を大切に思っていたのでしょう。
こららは大和というのは日本の事だったり、大和地方(奈良)の事だったりしていますが、この常陸国はどうなのでしょうか?
実は、縄文人の住んでいた霞ヶ浦周辺や筑波山周辺は、大和朝廷が成立した初期の段階ではそれ程素晴らしい所だとは思われていなかったのかもしれません。
日本書紀ではこの辺りの土地はまだ「日高見国」と言われていたようです。
景行天皇27年に、この地を探査して都に帰った武内宿禰は 「東の夷の中、日高見国がある。其の国の人は男も女も身に入れ墨をし、人となりは勇敢である。また、土地は肥沃で広大である。征服してとるべきだ。」 と報告しています。
こんな言葉を日本書紀に残したのは、その他の歴史を消し去ってしまったその後の権力者たちとしてはミスだったのかもしれませんね。
そうでなければこの蝦夷人たちとの争いが文章としてあまりにも残っていないですから。
これにより大和朝廷から蝦夷征伐に軍人が送られます。
その中の一人の英雄としてヤマトタケルは作られた人物像(景行天皇の皇子)だと思われます。
大和朝廷の圧倒的な武器や人数によりこの地で数万年にもわたって仲良く暮らしていた現地人(暮らしは非文明?)は次第にそれらの軍人たちの云う事を聞いたり、さらに北へ逃げていったりしたのでしょう。
逆らって奴隷となった人びとは佐伯といわれ、奈良の都や四国の方に送られて労働を強いられました。
さて、制圧され、大和朝廷の仲間入りを果たした常陸国も次第に中国をまねた律令制の中央集権的な一翼を担うようになり、まだ朝廷に逆らっていた東北の蝦夷征伐の拠点になって行きました。
いくら制圧されたとはいえ、大和朝廷のもたらす文化は素晴らしく、人びとは喜んで受け入れていったのでしょう。
そしてこの地にも文化が開けてきます。
藤原不比等の三男であった藤原宇合(うまかい)が常陸国国守として都より赴任してきたのは西暦719年です。
この時はまだ東北地方の蝦夷とは争いが絶えませんでした。
不比等はこの重要な任務を遣唐使として唐から帰った息子「宇合」に託したのです。
そしてそこに「高橋虫麻呂」という優秀な人物を共に遣わしたのです。
そしてこの2人の人物を中心にして、この国の言い伝えなどをまとめた「常陸国風土記」が編纂されました。
この2人は常陸国国府であるこの石岡に赴任しているのですが、この地に来てすぐに、この地がかなり気に入ったようです。
まあはっきりはわかりませんが、風土記などの書かれている文体を追っていくとそのように感じます。

(クリックすると大きな写真になります)
夕闇に沈んでいく町。(土浦方面)

(クリックすると大きくなります)
この日は女体山の神様がご機嫌が悪く、山頂に雲がかかりました。左側の山頂は筑波の男体山。
この高橋虫麻呂が筑波山を詠んだ歌が万葉集に数多く載っています。
さて、「まほら」という言葉が出てくるものを探してみました。
衣手の 常陸の国の ふたなみの 筑波の山を 見まくほり 君来ませりと あつけきに 汗かきなげき 木の根取り うそむき登り をの上を 君に見すれば 男(お)の神も 許し賜へり 女(め)の神も ちはひ給ひて 時と無く 雲井雨ふる 筑波嶺を 清(さや)に照らして 言ふかりし 国のまほらを つばらかに 示し賜へば うれしみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてぞ遊ぶ 打ち靡く 春みましゆは 夏草の 茂くは有れど 今日の楽しさ
(万葉集 九雑歌)
(原文:衣手 常陸國 二並 筑波乃山乎 欲見 君来座登 熱尓 汗可伎奈氣 木根取 嘯鳴登 <峯>上乎 <公>尓令見者 男神毛 許賜 女神毛 千羽日給而 時登無 雲居雨零 筑波嶺乎 清照 言借石 國之真保良乎 委曲尓 示賜者 歡登 紐之緒解而 家如 解而曽遊 打靡 春見麻之従者 夏草之 茂者雖在 今日之樂者)
さて、この歌の解釈はいろいろありますね。
もっとも一般的なのが、この歌の題詞に「検税使大伴卿(おおとものまえつきみ)が筑波山に登った時の歌一首[ならびに短歌]」と書かれているので、検税使大伴卿=大伴旅人 がこの地を訪れ(西暦722~3年頃?)、こんな会話がされたのではないかと思われます。
旅人:「やっと念願の常陸の国に来れました。筑波山は都でもとても素晴らしい山と伝わっています。ここから見る常世の国の景色を是非見たいのです。」
虫麻呂:「それは、それは、本当に良いところですよ。春にも上っていますが、今は夏で少し登るのも暑くて大変ですが、一緒に登りましょう」
こんな会話の結果、
「木の根っこを捕まえたりしてやっとのことで頂上(女体山)にたどりついたのです。
そうすると、男体山の神も女体山の神もご機嫌が良く、天気に恵まれ、はるかの山並みも、また麓に広がる平野や霞ヶ浦(流れ海)も本当に常世の国のように見てとれて、二人して感激したのです。
そして、暑いので着物のひもを緩め、肌もはだけてさせて家にいる様にくつろげて本当に良い1日だった」
ということだと言います。でも本当はそれだけではなさそうですね。

(クリックで拡大します)
当時、男女の恋愛も自由なところがありました。この筑波山でも春秋には決まった日に男女が集まって歌の掛け合いをやり、気に行った男女が結ばれていったようです。
歌垣とか嬥歌(かがい)という行事が、定期的に行われていたのです。
高橋虫麻呂はこんな歌を読んでいます。
<筑波嶺に登りて嬥歌会かがひをする日に作る歌一首 并せて短歌>
鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上へに 率(あども)ひて 娘子壮士(をとめをとこ)の 行き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻(ひとづま)に 我わも交はらむ 我(わが)妻に 人も言問(ことと)へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな(9-1759)
反歌
男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るとも我帰らめや(9-1760)
特に訳は載せません。こんな自由なものであっていいのか?? などとも思いますが、当時の風習を考えればとても健全なものだったのでしょうね。今では考えられませんが・・・
春に来た時より夏草が伸びていて大変だったなどと何故書いたのでしょうね?

(クリックで拡大します)恋瀬川から朝霧に立つ筑波山の景色
藤原宇合が常陸国守を退いて都に帰ったのは西暦724年とされていますので、この地にいたのは5年位だったのでしょうか。
この宇合が都に帰る時にこの地で仲良くなった「常陸娘子(ひたちおとめ)」が詠んだ歌があります。
★ 庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 東女を 忘れたまふな
この歌の碑が石岡小学校の敷地内の「常陸国府跡」の碑の隣におかれています。
またこれからもこんな「国のまほらをつばらかに」していきましょうか。


夏日戻る
今日はすっかり真夏の空に逆戻りでした。
空を見ていると雲の形がモクモク雲や綿雲です。

家の庭から見た雲は先日撮ったうろこ雲とはすっかり違っていました。
「お~い。 雲よ 何処まで行くんかい。
今日の俺の気持ちを知ってる? 馬鹿にのんきそうじゃないか」
世の中値上げばかり。これで消費税も上がる。
厚生年金、医療保険、介護保険・・・・・ 上がるものばかり。
まあ いいか。
若い元気な者たちが意欲を持ってやってくれる世の中にしたいね。「お祭り 頑張れ!」

石岡のおまつりは今週土曜日から3日間です。
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世の中値上げばかり。これで消費税も上がる。
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まあ いいか。
若い元気な者たちが意欲を持ってやってくれる世の中にしたいね。「お祭り 頑張れ!」

石岡のおまつりは今週土曜日から3日間です。


本年もありがとうございました。
あわただしくバタバタしておりましたが、いよいよ今年も大晦日となりました。
どうぞ良いお年をお迎えください。


年末に机の中を整理していたら、東日本大震災の前後のこのブログのアクセス数のメモが出てきました。
2011年3月11日の震災で我が家の屋根瓦が落ち、壁にもヒビが入りました。
まる一晩停電でパソコンも使えなかったのですが、このブログも当日が予約投稿をセットしていたために1日も欠かすことなく続けてこられました。
今では、1日のアクセス数も200件前後で推移していますが、震災前までは1日のアクセス数は30前後でした。
それが震災で震災関連の情報発信をするようになるとアッと言う間に500件、1000件、2000件と増え、1ヶ月後に300件程に下がりましたがこの時以来時々本ブログを覗きに来れれている人も多くいるのではないかと思っています。
ブログの更新もたまたま運よく途切れることなく続いてきたので、まだ止めてしまうわけにはいかないと勝手に思い込んでいます。
ブログとはいえ私的なことはあまり具体的に発信することはできません。
気分が高揚している時も落ち込んでいる時もあり、書きたくない時や時間がとれない時もあります。
しかし、ある程度客観的に書いていける様にするのも訓練だと思っています。
これまで皆様からあたたかいコメントをたくさんいただきました事を心一杯感謝申し上げます。
来年も皆様のご多幸をお祈りいたします。
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今では、1日のアクセス数も200件前後で推移していますが、震災前までは1日のアクセス数は30前後でした。
それが震災で震災関連の情報発信をするようになるとアッと言う間に500件、1000件、2000件と増え、1ヶ月後に300件程に下がりましたがこの時以来時々本ブログを覗きに来れれている人も多くいるのではないかと思っています。
ブログの更新もたまたま運よく途切れることなく続いてきたので、まだ止めてしまうわけにはいかないと勝手に思い込んでいます。
ブログとはいえ私的なことはあまり具体的に発信することはできません。
気分が高揚している時も落ち込んでいる時もあり、書きたくない時や時間がとれない時もあります。
しかし、ある程度客観的に書いていける様にするのも訓練だと思っています。
これまで皆様からあたたかいコメントをたくさんいただきました事を心一杯感謝申し上げます。
来年も皆様のご多幸をお祈りいたします。


謹賀新年

新しき年の初めの初春の今日の幸せ長くとぞ思ふ
初日の出を見ようと早寝して、目が覚めてみたら陽はすでに昇っていました。
今年も平凡な日々を積み重ねていきたいと思います。


今年も良い年に!
今日は朝から車で東京の多摩地区に親父の墓参りに行ってきました。
東京にいる母を途中で乗せて、オーストリア(ウィーン)から戻っている次女夫婦と3番目の長男にその彼女も集合してもらって行ってきました。
その長男も3月にアメリカにしばらく行くことになりそうです。
こうして会えるのもあまりないでしょう。
そして皆で食事をして別れ、私は母(先月で90歳)を我が家にそのまま連れてきました。
こうして家族が増え、それぞれに羽ばたいていってくれることをうれしく思います。
昨年はイギリスにいる娘に初孫が生まれ、日本にもやって来てくれました。
今年もきっと良い年になってくれることでしょう。


母の卆寿の祝いに子供たちが相談して送ってくれた胡蝶蘭とコヒーカップ。
その他名前入りの箸などをセットで送ってくれたものです。
やさしい子供たちです。
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その長男も3月にアメリカにしばらく行くことになりそうです。
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そして皆で食事をして別れ、私は母(先月で90歳)を我が家にそのまま連れてきました。
こうして家族が増え、それぞれに羽ばたいていってくれることをうれしく思います。
昨年はイギリスにいる娘に初孫が生まれ、日本にもやって来てくれました。
今年もきっと良い年になってくれることでしょう。


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