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池花池

 今日は雨でしたが気温は高く、立春を過ぎてこのまま春になればとも思いましたが、また寒くなるらしいです。
私は昨日から少し風邪気味で風邪薬を飲んで今朝は気が付いたらいつもより1時間以上遅い時間でした。
それでも出勤には間にあう時間でしたので、少しバタバタして出かけてきました。

午後会議があったのでそれを済ませて早く帰宅して今日も早めに寝ます。

 今日は、この前の日曜日に撮った小美玉市にある池花池の白鳥を載せます。

写真愛好の方々が素晴らしい写真を載せてくれていますが、餌を食べる時間などをちゃんと知っていかなければいけないのですね。

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あまり大きくない池ですが、白鳥は30羽ほどやってきていました。

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みんな実におとなしく争いもなく、時々鳴き声をあげる程度です。

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白鳥に混ざって他の鳥ものんびりしています。

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白鳥を見るために作られた池に突き出たこの観鳥台の上にもやってきました。

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山をバックにしていい感じです。



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小美玉・行方地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2012/02/07 17:39

貴布禰神社(小美玉市堅倉)1

 昨日は久しぶりに良く寝たので大分風邪も良くなりました。熱もなくなりましたが、もう少しのんびりやっていきます。

 今日もこのブログ途中まで書いていた記事を保存せずに閉じてしまって、また途中から書いていますが、同じことを書くのは苦痛ですね。
ネタも大分なくなってきましたのであせらずにやっていこうと思います。

 この前の日曜日に6号国道を通っていた時に小美玉市堅倉の交差点のところにひときわ大きな「貴布禰神社」の石柱が建っていたので立ち寄りました。

神社としては古くからあったようですが、平成8年に近くの金刀毘羅神社を合祀して社殿を新築したようです。

京都鞍馬の「貴船神社」から祭神「高龗(おかみ)神」を分霊して祀っています。

この堅倉という場所も江戸時代の街道沿いということで興味はありますが、何故「高龗(おかみ)神」なのか不思議でした。

この高龗(おかみ)は石岡にも龍神山の麓に古くからある佐志能神社で祀られています。
染谷の佐志能神社が高龗(おかみ)神(雌龍)、村上の佐志能神社が闇(やみ)龗(おかみ)神(雄龍)が祀られています。

雨乞いの神様です。水をもたらしてくれる龍神様ですね。
でもこの貴布禰神社の場所は山はありません。少し変な感じです。

調べて見ると昔は「貴船神社」と書いており、日本武尊(やまとためる)を祀っていたようです。
大正2年(1913年)に京都鞍馬の貴船神社より高龗(おかみ)神を分霊して名前を「貴布禰神社」と改めたと書かれていました。

京都の貴船神社のHPを見て見ると「貴布禰総本宮」と書かれています。全国の貴船神社を取りまとめているようです。

また、境内に「金刀毘羅神社」があって、こちらも建物が傷んでいたので合祀して神様も「高龗(おかみ)神」に金刀毘羅神社の「大物主神(おおものぬしのかみ)」と「崇徳天皇(すとくてんのう)」も一緒に祀ったようです。(平成8年)

大物主神は大和の三輪山に祀られた農耕の神様です。

ですから、雨乞いに五穀豊穣の神様ですね。
でもやはり山のないところに龍神様は合いませんね。

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拝殿と本殿です。しっかりした立派な神殿です。

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拝殿の入口には龍の彫り物がありました。
これは社殿を新しくした時のものでしょうから平成8年のものでしょう。

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境内に大きな欅の古木が数本ある。
これは特に大きくて目立つが、調べて見たら樹齢は300年以上だといいます。

境内には少し面白いものがあったので明日紹介します。



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小美玉・行方地区 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2012/02/08 21:40

貴布禰神社(2)

 昨日書いた小美玉市堅倉にある「貴布禰神社」には樹齢が300年以上の欅の木が聳えている。

社殿などは平成になって建てなおしたものなので新しいのだが、恐らくこの地は江戸時代には水戸街道(陸前浜街道)が通っていたと思われるので、ここに合祀された「金刀比羅神社」はやはり石岡の金刀比羅神社と関係があるのかもしれない。

昨日は農耕の守り神と言ったが船・水産関係も関係しているに違いない。

石岡の金刀比羅神社は昔は大いににぎわって笠間の稲荷か府中のこんぴらさんかというように参拝客が絶えなかったようなのだ。

そして、少しこの堅倉の貴布禰神社(金刀比羅神社)の境内をみてみると、興味深いものが結構ある。

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さて、この石標は何でしょうか?
「一田三反四歩」とは一体どういう意味でしょう。

昔一反歩(たんぶ)などと耳にしたことはありますが、一石の米がとれる田圃の大きさが大体一反(たん)で約300坪。300歩=一反(江戸時代)らしいので、田圃の大きさでしょうか?

何故神社にこんな石標があるのでしょう。下の方には何やら人の名前のようなものが書かれています。

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こちらの仏像はなんでしょう。
あまり詳しくないのではっきりしませんが、不動明王でしょうか?
(追記:頭に馬が飾られているので馬頭観音だそうです。お教えいただき感謝です)

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さてこの石像は?2つの石像は共に赤ん坊を抱えています。
そして台座に「女人中」と刻まれています。恐らく「女人講中」と同じだと思います。
とするとこれは「子安観音」でしょう。

昔は女性だけの子育て・出産などを助けあう講中がたくさんあったのだと思います。

子安講と不動明王の関係もあったのかもしれません。
調べて見ると面白いかもしれませんね。
まあ今日はこの辺でお終いです。

何か分かることがありましたら教えてください。

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小美玉・行方地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2012/02/09 19:20

小幡北山埴輪製作遺跡

 さて水戸偕楽園の好文亭は再開され確か明日まで無料開放だったと思うし、今日はひたちなか市の十五郎穴で奈良時代の正倉院と同じ刀子が発見された一般公開されたという。古代のロマンが広がっている。

さて、今日の話は埴輪の製作工房の遺跡です。

 古墳時代に日本の各地に大規模な埴輪を製作する工房があったという。
茨城県にもひたちなか市に「馬渡埴輪製作遺跡」という比較的大規模な工房跡が見つかっており現在は公園として整備されているそうだ。

この馬渡(まわたり)遺跡は昭和44年(1969年)に国の史跡に認定されている。

今回紹介するのは、6号国道沿いに看板を見つけて立ち寄った「小幡北山埴輪製作遺跡」である。
この小幡小山遺跡は行ってみて、馬渡史跡に匹敵する大きな製作工房遺跡なので驚いた。

場所は昔の水戸街道の小幡宿に近い場所だ。
江戸時代の水戸街道は水戸の手前が「長岡」その手前が「小幡」である。
6号国道沿いに「はにわの里」という天狗納豆を売っているドライブインがあり、この少し水戸よりである。

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国道からほんの少し入った場所に史跡公園としてきれいに整備されていた。
入口に駐車場もきちんと完備されていたが、この時期訪れていた人は誰もいなかった。

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公園に足を踏み入れると、ご覧のようなだだ広い少し起伏のある広場に「道順」という矢印がつけられた遊歩道が続いている。
そしてところどころに木が植えられている所と少しこんもりとツツジ(ドウダン?)などでこんもりと筒状に形成したものが点在しています。
これは道順を一回りして何かがわかりました。

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ここは材料の粘土を掘った場所だそうです。直径2~3m、深さが1mくらいの穴の跡が見つかったようです。
この工房が造られた理由は、ここで良質の粘土が採取出来たためでしょう。

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ここは粘土で埴輪の形を作っていた小屋があったと想像されています。
1つの小屋の大きさは3.5m□、4.6mx7.4m長方形など床面積で屋根を三角形に組んでいたのではないかと言われています。
床跡から土器の破片などが見つかっています。

また近くに昔の小屋を再現した建屋が作られていたようですが、今は看板だけで建て物はありませんでした。
撤去してしまったようです。理由はわかりません。

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ここに窯の模型が作られていました。のぼり窯と言うようです。

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これがのぼり窯の模型の断面です。
筒状の窯の中に粘土で作った埴輪を入れ、下の方に薪などで火を焚き、内部の粘土を焼いたようです。
そして上の方から煙を出したのです。

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これでやっと遠くから眺めていた時に筒状のツツジなどでつくられた者が何を意味しているのかわかりました。

このように丘の起伏を利用して斜面に窯が並んでいたようです。
全部で59個発見されていて、数では日本一だそうです。

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この絵のように焼かれていたのですね。


現地案内板より
「小幡北山埴輪製作遺跡は、埴輪という焼き物をつくっていた工場の跡です。材料の粘土を掘った跡、埴輪の形をつくったり、保管しておいた建物の跡、埴輪を焼いた窯の跡が見つかっています。窯の数は59基と全国で一番多く、平成4年(1992)国の指定史跡になりました。
 埴輪は人物や馬、円筒形などいろいろな種類があります。町内からはこの遺跡でつくったと思われるいろいろな埴輪が出ています。前田にある上ノ山古墳から出てきた埴輪も、ここで作られたものです。  茨城町教育委員会」



でもなんでYAHOOはこういう史跡を地図に載せないのだろう??

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小美玉・行方地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/02/11 19:19

上ノ山古墳(茨城町)

今日は午後これから横浜の方に出かけます。帰りは遅くなりそうです。
東京のゲートブリッジが開通したそうですが、混むのでしょうか?
行先は少し内陸寄りなので別な道を行きます。

でもホイットニーヒューストンの死亡のニュースは衝撃ですね。残念です。

 昨日記事にした小幡北山埴輪製作で古墳時代に作られたであろう埴輪が近くの古墳で発見されたと書かれていました。

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埴輪公園の一角に古墳の模型が作られています。
その古墳の上に土器(埴輪)が置かれています。

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この古墳は前田の上の山古墳などを再現したもので、上に置かれている埴輪は、町内の人が体験学習で作ったものだそうです。

そこでその古墳を見に行ってきました。

「上ノ山(かみのやま)古墳」です。埴輪製作工房のある小幡とは涸沼川をはさんで反対側(北西)の前田と言われる場所にあります。

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広い通りに小さな看板があり、その奥の山に古墳があります。

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それほど大きな古墳ではありませんが、前方後円墳です。全長28.5mで石岡の舟塚山古墳の186mから見れば小さなものだが、この涸沼川流域では珍しい前方後円墳です。

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古墳は名前の通り少し小山になっている上に作られています。
古墳から下を眺めると、昔恐らくこの辺りは涸沼川が広がっていたのだろうと容易に推察が出来ます。
こちらの記事参照)



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小美玉・行方地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/12 14:01

みみっちょ様

 石岡市から355線を小美玉市に入ったばかりのところに全国的にも珍しい耳の病にご利益のあるという神社がある。
耳守(みみもり)神社というが、通称「耳っちょ様」と呼ばれている。

近くを通った時に立ち寄ってみた

この神社のある場所は「栗又四ケ」(くりまたしか)という。まったく驚くような名前です。
四ケとは昔4つの村が合併して四箇村(しかむら)という名前になったのが箇をケとも書いていたのでいつの間にかこの名前が残った。大分今では田舎っぽい名前だが、これも文化の香りがする。

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この神社は石岡の人は大掾氏のことはよく話をするが、この神社については行政が異なっているので歴史の本に出てこない。おかしなものだ。

高浜が石岡ならばこのあたりも石岡の文化圏として続いていなければならない。

前にホームページに載せているがここでもう一度書いておきたい。

「第3代常陸大掾繁盛(平国香の直孫)の五男・五郎左衛門兼忠(後に飯塚氏)の千代姫が7歳になっても耳が聞こえないため、夫婦は熊野神社に娘の耳が治るよう願をかけたところ、満願を迎えた朝に千代姫の耳が聞こえるようになったという。

 しかし千代姫は33歳の時に、風邪を悪化させて明日をも知れぬ身となってしまった。その時千代姫は「われ亡き後に社を建てて、耳の病を守護せん」と言い遺して息を引きとった。千代姫の遺言に従って両親は千代姫愛用の鏡をご神体として社壇を設けて「耳守」と号して祭礼を続けた。

しかし、それから500-600年後の1590年(天正18)に大掾氏は滅び、一族である飯塚氏も同じ運命をたどった。このため耳守神社も無くなり祭礼も断絶してしまった。その後、地元の人たちが神社を建て直し、姫の命日の9月9日に祭礼も行われている。」

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但しこの頃の大掾氏は多気大掾氏であるので筑波山の尾根を超えた現在のつくば市北条または水守に屋敷を構えていた。
この千代姫もその近くにいたのだろうか。

しかしこの飯塚氏はこの社を守ってこの近くに移っていた。そして府中大掾氏に小川の園部氏が水戸の江戸氏に味方して反旗を翻したとき、この近く田木谷砦を築き、ここで警護にあたっていた。
しかし、その後の佐竹氏が勢力をもって府中を攻めてきた時に、この砦で敵を迎え撃ち全滅したようだ。

先月末にこの頃の遺構の発掘調査の現地説明会が行われた。
「取手山館」となっているがこの田木谷砦のことではないかと思う。(砦山=取手山?)

壕を巡らしたような遺構が見て取れるという。

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前に訪れた時も神社にはたくさんの千羽鶴が吊るされていた。
耳の病に悩んでいる方は多いのだろう。
耳鳴りに悩んでいる方は結構多いように思う。

この神社は戦国時代に飯塚氏が滅んだ時に神社もなくなってしまったらしいが、今から30~40年前に地元の熱心な希望で再建されたようだ。

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この千羽鶴も前見たときより新しく多くなった。

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神社は無人ですが、御札は自由にもって帰れます。記帳のノートも置かれていました。

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青森から台湾まで広いところから噂を聞いてやってくるといいます。

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境内の古木の根元に子安講の石蔵が置かれていました。その隣には昔の衆議院議員「赤城宗徳」の石碑が建てられています。息子の大臣は絆創膏で少し評判を落としてしまいましたね。

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「上郷女人中」とありますが、この地元の女人講の方たちなのでしょう。
この近くに(栗又)上郷という地域があります。

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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/05 19:03

栗原掃部衛門碑

 小美玉市の希望ヶ丘公園にこの「栗原掃部衛門碑(くりはらかもえもんひ」があるとtroyさんのブログで知って見に行ってきました。

先日常陸大掾(だいじょう)氏の滅亡した頃の事を書いてきましたが、小川の手前の取手山館の攻防では、北方の江戸氏の侵入を防ぐために大掾氏四男が竹原に城を築くと共にこの取手山でも小川の園部氏と対立していた。

この竹原氏の部下で四天王の一人と言われたという栗原氏が永禄4年(1561年)に父母の供養のために阿弥陀如来三尊の石碑を建立したものだという。

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石碑とその隣の栗原慈母観音堂

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板碑の釈迦如来三尊像の線刻は長い年月で割れたりして修理されてはいるが良く読むことが出来る。

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竹原氏については良く分かっていないことが多く1590年の大掾氏滅亡の時に一緒に滅んだと考えられている。
しかし、その後の豊臣秀吉の朝鮮出兵に名前が出てくるともいわれており、佐竹氏側に付いたのかもしれない。

江戸氏が堅倉に砦を築き、それに対抗して竹原に城を築いたのが永禄2年(1559年)といわれるようなので、この石板碑が作られたのはその2年後ということになる。

1590年12月に府中大掾氏が佐竹氏に滅ぼされたときに、この竹原城も陥落したはずである。
この板碑がどのようにして残されてきたのか興味は尽きないが・・・・。

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この希望ヶ丘公園は高台にあり恐らく竹原氏が城を築いた場所ではないかと思う。
広い運動場なども整備され、大きな団地も出来、憩いの場所にもなっている。

またコスモス畑も有名らしい。
以前は通りからも一面のコスモス畑が広がっていたのだが最近はあまり見ていない気もする。



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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/25 20:56

息栖神社(小美玉市)

 ここのところ体調不良で思わしくブログもはかどりません。

先日キャノンのプリンタが突然故障しました。
使おうと電源を入れたら故障ランプで作動しません。修理依頼をしてくれとの表示。

たたいたりしてたら全く動かなくなりました。保証期間の過ぎたプリンタなど修理に出したら高くつくだけです。

ネットでとりあえず安い複合機を購入しました。
前のプリンタインクがまだ大分残っているんだけどこれがもったいない。
そういえばその前のプリンタのインクも残っていたし、まだ使えたプリンタだったけど何処に行ってしまったのか?

家内が間違って処分してしまったようです。インクジェットのプリンタは完全に消耗品ですね。
結構大量に印刷することもあったのでしょうがないのかもしれません。

 さて、小美玉市(旧小川町)の茨城空港に近いところに息栖神社があります。

茨城県には10か所くらいは息栖神社と名のつく神社が存在するようです。(前に書いた茨城町にある息栖神社はこちら
皆、川などの水際にあるようですが、ここは大分山の方に入っています。

しかし水面を6~7mくらい上昇させると近くまで霞ヶ浦の入江が伸びています。
そして霞ヶ浦沿いの地名は「沖洲」です。

前に紹介した行方市の「於岐部説神社」(記事はこちら)も比較的近いです。

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今までこちらの道は通ったことはなかったのですが、地図を見て探して行ってきました。

この神社のすぐ隣に大きな地区の公民館が建っています。

参道入り口は通りの反対側(南側)から続いています。

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参道入口の大きなケヤキ?の木の根元に道祖神でしょうか石の碑が置かれていますがこれに藁で屋根が付けられて守られていました。
信仰の深さを感じます。

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参道はこのように右に曲がって社殿に向かっています。
右側の建物が地区の公民館(山野公民館)です。

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鳥居の上に息栖神社の扁額が掲げられています。

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この神社が鹿島神宮と関係が深いことがわかります。鹿島神宮の宮司の手書きのようです。

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拝殿の造りはこの辺りでは良く見かける形です。

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説明によれば元禄9年(1697年)の造営だったが、破損が激しくなったので昭和39年に修理をした。
その時に本殿は銅板葺きとし、拝殿は瓦葺きにしたのだそうです。

でもこの拝殿は瓦葺きなのかな?表面は別なもので覆っているのか。

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上の説明によれば

祭神は岐神(ふなどのかみ)と天鳥船命の2神。これは神栖の息栖神社と同じ。

およそ540年前 応永年間(1394~1427年)に創立。
天文年間(1532~1555年)の頃 村内に火災あり、社殿もこの災に罹らんとす。
時にたまたま狗あり走りて心礼の池に入り身を浸し、社殿に至り身振ること数十百千度 ために全きを得たりと社殿の類焼を免れし神徳を 狗の功に託して・・・・・。

現在の社殿は元禄九年268年前の造営なり・・・・・。

良く読めませんが天狗が出てくる話がこんなところにもあったのかと不思議に思いますが、このような事が残っているのはうれしいです。



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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/17 20:24

こんなところにもあった洋風建築(旧小川町)

 大分前ですが国の登録文化財に指定されている土浦一校の旧校舎を紹介しました。(記事はこちら

この土浦の校舎は明治37年に若き設計者駒杵勤治氏の手によるものだが、県の役人であったので公共施設が中心となっていて当時の旧制中学校舎や講堂、郵便局、役場などに同じ設計方が使われて残されています。

このブログでも昭和12年建築の笠間歴史民俗資料館(旧宍戸役場)(こちら

一般の住宅としては明治35年建築の高部の間宮家(こちら)があり、石岡にも似た感じのものは残されている。(関東鉄道労働組合:こちら


この壁板の色を浅黄色や肌色などにするとまた格別に輝くのはうれしいですね。

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やはり窓は上下に開ける方式です。

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この建物は旧小川町の中心部の安達石油さんの個人宅のようです。
隣はガソリンスタンドとなっています。

何時建てられたものかは書かれたものは見つかりませんでした。

明治後期から昭和初期の間の建築だろうと思われます。



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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/04/18 20:46

竹原神社(小美玉市)

 石岡から6号国道を北上し、園部川を渡ると旧美野里町(現小美玉市)に入ります。
その入口が竹原になります。

昔の水戸街道は石岡の一里塚から杉並(昔杉並木があった)から行里川(なめりがわ)を経由してからしばらくして旧道を通りながら東に向かいこの竹原で6号国道と交わりますが、旧街道は今度は国道の東側を通ります。

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この竹原の交差点手前の少し高くなった台地の上に竹原神社があります。

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この神社には「アワアワ祇園」という祭りが継承されています。

説明では:
正保二年(1645)に園部川上流の旧大谷村を中心に伝染病が流行し、その原因が「大谷村の牛頭天王が人を食うからだ」、との噂が広まった為、大谷村の人々は怒って牛頭天王の御神体である金幣を園部川に流してしまいました。そのご神体が流れ着いた竹原村では、神の怒りを恐れ、水中から金幣を引き上げた後に、洗い清め、焚火で温めて、乾かしてから祠を建ててお祀りしました。
そのご神体が「アワアワ」と寒さでふるえていたとの言い伝えから「アワアワ祇園」と名づけられました。

と書かれています。
でも私はこのような名前の謂れはあまり信用しません。
きっと別な意味があるような気がします。

説明にあるように「牛頭天王」を祀っているので八幡神社などと同じで祇園祭が行なわれているのでしょう。

石岡のお祭りも基本的には祇園祭だと思います。
元は中町にあった天王社(今は総社宮に合祀)が行なっていた祇園祭を明治に変形させて造り出したものでしょう。

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狛犬

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拝殿

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本殿

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本殿の彫刻

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神社横から裏側の山は紫陽花の木が植えられています。
この神社のアジサイもきれいだと言います。今度は梅雨時に来て見ましょう。

アワアワ祇園祭は7月の第3土・日に行われています。

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祇園祭に使われる神輿は石岡の総社宮の神輿とほぼ同じような形だそうですが、これは石岡とこの竹原が文化的にはつながっているようです。

石岡のおまつりも富田町のささら(棒ささら)がでてきますが、これと同じような原型がここにもあります。
また木之地町のみろく人形も今では残っているものが少なく、ここ竹原に残されていたみろく人形をもとに復元されたりしています。
(木之地のみろくについては前に書いた記事を参照ください:こちら

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神社の入り口横にある「大乗妙典塔」
(大乗妙典についてはこちらの記事を参照: こちら

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「金剛般若経壱千部塔」です。

戦国時代に石岡(府中)は平氏の大掾氏(だいじょうし)が治めていました。
そして園部川の北のこの竹原には竹原義国(大掾貞国の弟)が治めていました。
北の江戸氏や佐竹氏に対抗するために城が築かれました。

しかし、大掾貞国が戦死するとまだ5歳だった清幹(きよもと)が家督を継ぎ、その補佐をしたのがこの竹原義国です。

府中は北はこの竹原、東は園部氏(小川)に対抗するために田木谷に砦を築いて敵地対抗していました。
義国もこの田木谷が危うくなると応援に行っていたようです。

それも両方が破られ不滅とも言われた府中城は消滅しました。

そういう意味でも石岡の文化圏は竹原や玉里などは同じ様なつながりを感じます。

歴史を見て行くとこの小美玉市との境は本当は線などは無いのかもしれません。
行政はそれとは関係なく、区分けされてしまいました。
そのため、色々知らせるべき事柄もお互いに忘れて行くようで淋しい気がします。


この竹原神社や耳守神社などは是非石岡の教育委員会などでも調査し記録を残していってほしいものです。



小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/07 21:45

舘山(稲荷)神社

 昨夜、日が沈んだ頃に東の空の上にきれいな満月が輝いていました。

そして、そのすぐ上の方にキラキラ輝く星が光っていました。

かなり明るかったのですがカメラを構えてもうまく撮れません。

調べたら木星だったそうです。
今日(満月)も見られるということでしたが曇っていて見えません。

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 旧玉里村の生涯学習センター(玉里資料館)コスモスは高崎地区の裏山の高台にありますが、地図で見ていたらこの建物の裏に神社がある事がわかりました。

地図には舘山神社となっています。

入口は高崎地区の内陸側にあるようですがはっきりした道がわからないのでこのコスモスの駐車場に車を置いて回って見ました。

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学習センター建屋の裏手に回るとすぐに神社は見つかりました。
赤い屋根が印象的です。

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拝殿手前にかわいい狛犬が置かれているのですが、どういう訳か左右対のはずが右側のみしかありません。
地震か何かで倒れてしまったのかもしれません。

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拝殿の後ろには立派な本殿があります。

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神社の入口は学習センターとは反対側で西側から登ってくるようです。
上と下に2つの鳥居があり、急な階段があります。

稲荷神社とはなっていますが、赤い鳥居がたくさんあるわけでもなくまたキツネさんも置かれていません。
館山神社という名前で思い出すのは日立市北部の旧十王町との境に鎮座する蚕養神社と対になった舘山神社です。
(記事はこちら

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この辺りも昔は多くの人々がお参りに来たのかもしれません。
霞ケ浦が展望できるように山をまくような道が昔はあって、途中に展望台のような跡もありますが、今は藪が生い茂っていて全く整備はされなくなってしまったようです。

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神社の下側の鳥居位置から高崎の部落を見下ろしたところです。

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この神社の立て看板に書かれている応安元年(1368年)というと南北朝時代になります。
府中(石岡)では大掾詮国が今の石岡小学校の昔常陸国国衙があった場所に府中城を築いた20年後くらいになります。

今の学習センターコスモスのある高台の地域一帯には「高崎館」があったようで、神社を最初に祀ったという「鶴町三河守照光」が治めていたようだ。

鶴町三河守照光は常陸大掾13代高幹(詮国の父)の一族というから、詮国とは当時どのような関係があったのだろうか。
戦国末期にここも佐竹氏一派や小川の園部氏などにより攻め落とされたのだろう。

このほかに愛宕神社辺りにも館があったようで結構昔は交通の要となった場所らしい。
今では全く考えられないが、どんな道路や流通があったのだろうか。



小美玉・行方地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2016/03/23 20:43

日限地蔵尊と地蔵塚古墳(小川)

 玉里地区の古墳を見てきたが、小美玉市として他の古墳の場所を調べて見た。
その中に面白いものを見つけた。

地蔵塚古墳というのだが、場所は小川の街から幡谷方面にすこし行った小川南中の少し先になる。

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この地蔵塚古墳といわれるのはここに茨城では珍しい日限地蔵尊 (ひぎりじぞうそん)がまつられているからだ。
日を限って願い事をすれば(何月何日に何かを成し遂げたい)その願いがかなえられると言われる地蔵さんで、特に子供の誕生を願うことが多いようだ。

今でも旧暦の毎月24日に願い事のある人がお参りに集まる(近くの公民館?)という。

江戸初期(1656年)の徳蔵寺22代住職の印があると言うので、もう少し古いものかもしれない。
この徳蔵寺はどこ?  近くに天台宗の寺である徳蔵寺があるが、そんなに古い寺なのか?

徳蔵寺というと、昔行った城里町の寺を思い出す。

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このような小山の上に地蔵が置かれていたようだが、ここは前方後円墳の地蔵塚古墳の上だという。

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このような階段で上に登れるようになっており、階段の右側に石造地蔵菩薩立像(日限地蔵)の説明板があり、左側に地蔵塚古墳の説明板が置かれている。

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この階段を上ったところに地蔵尊の建屋があるが、この場所が古墳の後円部分で高さは7.2mあり、前方側は高さ3mというのでかなり段差がある。

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こちらが古墳の前方側だ。全長は46m。6世紀の築造とみられる。

昭和56年の調査で、後円部を全周する埴輪列が見つかり、この埴輪は現在小川資料館で展示されている。

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現在も地域の女性たちで毎月24日(旧暦)にあつまっているとのことだ。
こんな千羽鶴なども願い事の思いが伝わる。
「みみっちょさん(耳守神社)」などと共通な願いの思いが伝わってくる。

この日限地蔵を調べると全国にかなりあるらしい。
しかしその始まりは会津若松の西光寺だといい、天正時代(戦国末期)の黒川城(会津城、若松城)の城主(蘆名盛氏)が城の堀から見つかった3体の地蔵菩薩像を寺に日限地蔵として祀ったことに始まるのだそうだ。

この蘆名氏というと江戸崎不動院を調べていた時にかなり教えられた。

三浦氏から興った桓武平氏系列の武将で、三浦半島の三浦氏は常陸大宮の巨木「三浦杉」にその名前を残すと共に、源頼朝が最初に兵を起こした時に味方となって頼朝を房総に逃がして自らは城で討ち死にした。

そしてこの会津の蘆名氏は東北では伊達氏と婚姻関係を結んだり、争ったり、かなり力を持っていたのだが、蘆名盛氏が死去すると嫡男がいないため、二階堂からその子供が蘆名氏を継ぎ(蘆名盛隆)、内部の分裂もあって殺されてしまう。
そしてその子が家督を継ぐがまだ3歳で亡くなってしまい、後を継いだのがこの常陸国の佐竹氏(佐竹義重)の子供であった。

蘆名氏を継承して、蘆名義広を名乗った。

しかしこれも伊達政宗に攻められて会津を逃げ出し常陸国の佐竹氏を頼って、佐竹氏が滅ぼした江戸崎の地をもらって不動院に天海僧正を会津から迎えた。

天海僧正は徳川家康の信頼を受け江戸の街づくりや上野寛永寺から日光の墓所選定や川越の喜多院などと多くの業績を残している。

色々なものがつながってくる。

歴史もあまり詳しくは知らないし、何処までが本当かはわからないが、教科書的な記述に載っていないことにかなり面白い事がいっぱいある。




小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/26 22:04

鹿島神社(元郷社、旧小川町下馬場)

 昨日紹介した地蔵塚古墳のすぐ近くにかなり大きな神社があった。
「鹿島神社」であるが、長い参道を持ち駐車場もある神社で元郷社であったという。

場所は旧小川町下馬場。
旧小川j高校に近い。

小川と幡谷の方に進んで、幡谷に近い場所になる。
戦国時代までは小川には園部氏が入っており、幡谷にも幡谷氏がいたが、幡谷氏も親鸞を調べていた時にこの幡谷の殿様が親鸞に帰依して弟子(唯信)となったことが知られている。(前に書いた記事参照:二人の唯信房(2)

この辺りでも戦国末期には争いがあったようだ。

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霞ケ浦側(南側)に神社の入口がある。
街道は反対の北側。

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入口部は二股に分かれた中間にある。
上の写真の左へ少し行った場所に地蔵塚古墳がある。

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長い、広い参道を進む。
この参道沿いは「下馬場緑地環境保全地域」に指定されている。

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往古、鹿島の大神東海より霞ヶ浦に入り園部川を遡って馬場村の金輪田に来臨された。
里人ら、これを九殿の森に奉祀したが神慮にかなわず羽木上成山等を経て大同2年現在地に鎮座されたという。
長禄元年(1457年)に小河の城主園部兼房公神田を寄進されて以来,歴代の城主みな先例にならわされた。
慶長17年(1612年)城主戸澤右京大夫安盛公は天正末の兵火で消失した社殿を再建し、続いて三代将軍家光公からは御朱印状が下賜された。
以来小河十二郷大鎮守として尊崇され江戸時代当初は元道神官十一人の社人が常住し、慶安元年制定の祭礼日限帳に基づいて大の祭り小の祭りが連日斎行された。
明治5年郷社に列した。現在の社殿は明治16年改築されて更に昭和2年社殿を銅板に葺替えされた。
(現地看板)

小河=小川

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看板の説明ではよくわからないが大同2年(807年)はわからない古い神社は皆この年だからそれ程意味を持たない。
坂上田村麻呂が蝦夷を征伐して都に戻ったのが802年、その後全国に神社が創建されていく。

清水寺も富士の浅間神社も大同1~2年。

鹿島神社もこの蝦夷征伐後のながらの中でその役割が作られたものだろう。

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毎日記事を書くのもやはりくたびれる。
もう少し書きたいこともあるので続きはまた明日にでも書きます。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/28 21:22

鹿島神社(元郷社、旧小川町下馬場)-2

小美玉市旧小川町から少し東に行った幡谷の手前にある旧郷社の鹿島神社にはかなりの古木がある。

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境内にある「けやき」は樹齢が500年程だという。
ケヤキとしては1000年ほどの古木もあるが500年でもかなり古い。
根本のこぶがかなりごつごつしている。

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こちらは神社の御神木で樹齢約800年という杉の木は上の方で二股に分かれている。

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こちらはケヤキのこぶ。

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こちらの狛犬は備前焼だそうだ。
阿形は明治8年製だという。

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吽形は昭和15年製だそうだ。
何故こんなに製作年代が違うのか?
片方が破損して作りなおしたものだろうか。

この近くに小川高校が2013年に閉校となった。
しかしこの廃校となった高校が映画撮影などで使われたという。

そしてこの神社手前の小川南中がこの小川高校の後に入り、小川小学校と橘小学が統合されてこの小川南中の場所に入るのだそうだ。

小川高校の近くには鹿島鉄道の駅(小川高校下)があったが、鉄道も廃止され、虚しく駅舎だけが残った。(記事:こちら
走っていたジーゼル車がこの近くの小川南病院の敷地に置かれているのも昔を少し偲ぶことができる。
(記事:こちら

歴史も動いている。

鉄道が亡くなると小川などと石岡の距離も遠くなるし、お互いを繋ぐ文化も途絶えてしまう。
残念なことだ。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/03/29 21:57

中野谷の熊野神社(小美玉市)

 6号国道を北上し、園部川を超えると石岡市から小美玉市に入ります。
その先を少し行ったところに「中野谷」という信号があります。

この信号を右折して茨城空港の方に少しいくと道路沿いに菜の花がきれいに咲いていました。

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そして畑の中には花桃? 日差しの中でピンクと黄色のコントラストに見とれて車を止め撮影しました。

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そしてこのとおりの北側に神社があるので立ち寄ってみることにしました。

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とおりから少し入ったところにこんもりとした森があります。隣は運動場のような広場があります。

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神社は新緑で覆われ美しいです。
私はどうも信仰心はあまり薄いのですが、何か古いものがありそうなところは立ち寄って何があるか見てみたくなります。

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入り口鳥居には「熊野神社」と扁額に書かれています。
熊野権現を祭る神社なのでしょうか。
祭神は伊弉册命(イザナミ)だそうです。
伊弉諾(イザナギ)は祭られていないのでしょうか。

では女性の神様「イザナミ」にご挨拶していきます。

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参道の雰囲気もいいですね。
年代は江戸時代ころでしょうか。調べても創建がいつかはわかりません。
堅倉、竹原とは比較的近いので室町末期にも何か信仰されていたものがあったのかもしれません。

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二の鳥居は真っ赤です。

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この狛犬は比較的新しそうです。

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本殿。

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境内にはいろいろな祠や石塔などが置かれています。

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これらとは別に子安観音様が小さなお堂の中に祀られていました。
地元の子安講が盛んに行われてきたのでしょうか。

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さて、この境内の祠に変わったものがつるされていました。
2つの竹筒に縄をかけて、石の祠の屋根に吊るしています。

これは見たことがあります。

岩間の愛宕神社の裏手にある飯綱神社の奇祭「悪態まつり」で、その神社の十三天狗の祠に同じようなものが吊るされていました。
そのときは竹筒の中には甘酒を入れていました。
この竹筒のことをオバンドーとよんでいました。

これもきっと同じようなものを入れているのでしょう。

悪態まつりではそのほかに霞ヶ浦で取れた鯉、フナなども吊るして見物客が奪い合って持って変える風習でしたが、ここには生の魚はつるされていません。

前に紹介した愛宕山の悪態祭りの記事は → こちら

小美玉・行方地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/04/25 11:32

みみっちょ様

 先日、銚子に向かう途中で耳守神社(通称みみっちょ様)に立ち寄りました。

耳の病に効くとの霊験あらたかな神社として知られています。

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場所は石岡市から355号線で小美玉市に入ってすぐの石岡脳外科病院のところを少し左に入ったところです。

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なぜこんなところにという感じですが、石岡の大掾氏(だいじょうし)と深くかかわりのある神社です。

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拝殿の前の金網にはたくさんの竹に書かれた願いや、お礼の言葉がつけられています。

「耳の聞こえがよくなりますように」
「左耳の耳鳴りが治りますように」
「両耳の聴力が回復しすこやかに育ちますように」

・・・・・・・・・・・・

それぞれ願いは切実です。


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ここは日本でも数少ない耳の病に効くといわれている神社です。

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本人や、子を想う親がお参りしていくようです。

小美玉・行方地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/07/08 22:29

嵐にもめげず立ち続ける石の仁王像

 江戸時代に霞ケ浦の水運を使って江戸より高瀬舟で運ばれたといわれている大きな石の仁王像が小美玉市の栗又四ケにある。
時々この像を見たくなって立ち寄っている。

それにしてもこれほどの像がこんなところに置かれているのかと驚くばかりである。

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阿形の金剛力士像。
1つの重さが約3トンだそうです。

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吽形の青面金剛像。

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小美玉・行方地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/07/09 22:20

一つのことからいろいろなことがつながって見える

 栗又四ケ(くりまたしか) なんてすごい名前だ。

ここに鹿島鉄道の駅があった時の駅名は「四箇村(しかむら)駅」だった。
これは昔に4つの村が合併してできた名前だと思う。

こうなると名前のいわれを知りたくなるね。

こうしてこの名前を調べだす。
するとそこに昔からの歴史の流れが見えてくる。

そして戦国時代にさかのぼり、このあたりに栗又氏(栗又左近政清)という大掾氏(だいじょうし)の部下のいたことがわかる。

栗又左近政清は小川との境にある取手山館で戦国時代末期に小川の園部氏や佐竹氏と争い鉄砲まで使っていたようだ。
また取手山館に出入りするのにはトンネルを掘っていたこともわかった。

そんなことが自然と私の興味の対象として加わるのです。

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この仁王像は江戸時代だが、霞ケ浦にこの大きな石の仁王像を載せた帆を張った高瀬舟が進んでいる姿も浮かぶ。
何とも壮大だ。

この像のことは「いしおか百物語」に書かれている。

小美玉・行方地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/07/11 22:10

曼珠沙華

 茨城空港から6号国道に出ようとくねくねとした道を適当に車を走らせていたら、彼岸花のきれいに咲いているところに出た。

場所は小美玉市三箇(さんが)

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子安像の脇で曼珠沙華がきれいに咲いていた。

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その奥に三所神社がある。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/26 22:05

三所神社(小美玉市)

 昨日紹介した彼岸花の咲いていた場所には「三所神社」という神社がある。

場所は小美玉市三箇(さんが)という場所で旧美野里町の竹原地区の少し東になる。

この地名が気になって・・・・
どうも私の性格が気になることをそのままほおっておけないのかもしれない。

この三箇(さんが)という地名を検索してみたら、結構たくさん出てきた。みな「さんが」と読む。

1)茨城県小美玉市
2)栃木県那須烏山市
3)埼玉県久喜市菖蒲町
4)千葉県袖ケ浦市
5)新潟県中魚沼郡津南町
6)大阪府大東市

などが見つかった。
千葉県袖ケ浦市には三箇遺跡といわれる旧石器時代からの住居跡などが見つかっています。

もう一つ「三箇の津」「三箇の都」というのがありともに「さんがのつ」と読ませるのだそうですが、三箇(さんが)とはどうも今でいう「三大○○」などというようなことらしい。

三箇の津は三大港ということで、薩摩(さつま)の坊津、筑前の博多津、伊勢の安濃津
三箇の都は三大都(みやこ)ということで京都・江戸・大坂を指したようだ。こちらは江戸時代

さてではここの小美玉市三箇は何か意味があるのか? 良くわからない。
まあ単に3つのむらが一緒になった時の地名かもしれない。
小美玉市には「四箇村(しかむら)」などという村も昔はあった。こちらは大分昔に邑(村)が4つ一緒になった時にできたように思う。

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さて、こちらの三所神社は六所神社などと同様で三つの神社が一緒になってつけられた。

祭神は天御中主命(アメノミナカヌシ). 、伊弉諾尊(イザナミノミコト)、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)の三柱

現地の説明板には古老の伝承として、慶長いぜんより板宮の小祠あり、元禄になって本殿を建設した。
明治6年に村内の熊野神社と鹿島神社を合祀して三所神社と名前を改めたという。

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問題は「板宮」だが、これは「潮宮」と同じことだと思う。
小美玉市の倉数にかなり古い古社で「潮宮神社」がある。
この倉数の潮宮神社の祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)で、創建は古く992年に鹿島神宮の潮宮がこの地に移されたと言われている。

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こちらの板宮との関係はわからないが気になるところだ。

三所神社の板宮は妙見信仰とつながりがありそうなのでこのあたりももう少し調べてみないとわからない。

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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/27 20:52
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