歴史に埋もれた悲劇(香勢堂)

 お盆明けの16日に代田のダイダラボッチを見に行った帰り道に偶然探していた場所を発見しました。私が歴史の里石岡ロマン紀行の中で「三村城秘話」で紹介して、その時に見つけられなかった「香勢堂」と六地蔵です。いつも近くは通っていたのにあまり立派な墓地となっていたので気がつかなかったようです。そこは高浜駅から石岡へ向かう上の道ではなく崖に沿った下の道です。昭和36年発行の「図説 石岡市史」に記載されていたので北根本を探したのにわからなかったものです。三村城は1573年に落城し、城主常春も落ち延びようとして城の近くで落馬し切腹し果てました。「南城実録・三村記」によれば三村城の危急を聞きつけ、府中城より軍勢300余が駆けつけたが、近くの中津川台に到着して三村城を望めばすでに城は真赤な炎をあげて燃えていました。義を重んじる軍兵206人はその場で切腹して果てたといいます。後にここに一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれて今に残ると記されています。その後、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に建てられた六地蔵が残るとなっています。高野勢堂は香勢堂とも書かれているが本来は「国府(こう)勢堂」であろうと紹介されていました。
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六地蔵(昔は一部倒れたりしていたのを地元の組合できれいにしたとのこと。
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上記の文献では206名となっていましたが、地蔵に人数が刻まれており、197名とのことです。
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昔は個人所有の墓地であったが、現在は共同墓地として地元で管理されています。
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この墓には地元の方で代々受け継がれているが、30代以上続いている墓もあり、少なくても500年は経っているようである。この場所は常磐線の恋瀬川にかかる橋の1本石岡よりの新しい橋のすぐ石岡側です。昔はここに橋(1本橋)がかかっていたとのこと。その橋をまっすぐ中津川方向に向かった突き当りあたりです。昔はこの辺で川を渡ったのでしょう。真っ直ぐ対岸の三村城が良く見える場所です。じもとの組合長さんにお話を聞くことができました。昔はこのあたりは何回も洪水で被害を受けたが、いまは堤防ができ被害はなくなったと。またこの墓も代々続いているが、手入れをするのも大変で、東京に出て行った人でもこちらの墓に入れてほしいと何人かがきているとのことです。お一人で暑い中手入れをされていました。脱帽で~す。頑張ってください。

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/20 21:47

三村地区「下ノ宮遺跡展」

 今日は一日冷たい雨になりました。
月曜日にイギリスに嫁いだ長女夫婦が帰ってくるので少しは家の中の片づけもしなければなどと思っていましたが、あまりはかどりません。まあ年に1度くらいでも帰ってきてくれるのでそれだけでいいです。
まあ日本食が好きなので日本食を食べに帰るのが目的のようです。
むこうで、来る前から何処に行って何を食べたいなどと計画しているようです。
さて、今日、私のブログにコメントをいただきました。
その中で、市役所で三村の下ノ宮遺跡遺跡のミニ展示会をしていると教えていただいたので早速行って見学してきました。(10/17まで休日も開催、無料)
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市役所の玄関を入った正面に小さなショーケースが三つの本当のミニ展示会です。
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縄文時代の土器など数点ですが、大変興味を持ちました。。
場所は常磐線を挟んで三村小学校の反対側です。三村常春公の眠る五輪塔の近くです。
この辺りには古墳もいくつかあり、高浜の堤防工事などに古墳も削られたと聞いています。
また、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州征伐にやってきて、正月を迎えたという「正月平」も近くです。
この辺りに5000年程前から人類が住んでいたのですね。
先日、美浦村の陸平(おかだいら)貝塚にいきましたが、霞ケ浦周辺にはまだまだ縄文の遺跡が眠っていることでしょう。発掘調査の方は本当に大変ですが頑張ってください。

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/09 17:10

素十の愛した高浜

 高浜に高野素十(すじゅう)の句碑があるというので探してみた。
少しわかりにくいが、高浜の町の通りを愛郷橋へ行く三叉路を過ぎて、左手の高台に登る階段が3つある。
その最初が、爪掻き阿弥陀堂、2番目が、金刀比羅神社(大杉神社)、三番目が高渕寺観音堂である。
素十の句碑はこの観音堂の高台に霞ケ浦を見下ろすような位置に置かれていた。

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観音堂への上り階段です。それほど高くは無いのですが、このアプローチもいいですね。
勝手な意見ですが、階段の両脇に室生寺のシャクナゲのような花とか竹林も趣があるのですが・・・。

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この観音堂はいつごろ建てられたものだろう。かなり昔からあったもののようなのだが良くわからない。
しかし、地元の方の管理手入れはきれいにされていた。この句碑の存在もあまり知られていない。

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高野素十は高浜虚子の一番弟子でした。
藤代(北相馬郡山王村:現取手市神住町)の出身でしたが、ここ高浜を愛ししばしば訪れたといいます。
そして、昭和27年に詠まれた歌がこれです。

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 湖の月の明るき村に住む

句碑が建てられたのは昭和50年11月で、翌年素十は83歳でなくなったといいます。

石岡市内にも石岡で読まれた歌の句碑を建ててほしいものです。次の一句と牡丹の花を植えて。

 牡丹の一花まことに志

(参照 いしおか100物語)



高浜・三村地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/06/26 07:45

高浜金刀比羅神社

 今朝、素十の句碑の紹介をしましたが、その観音堂の一つ手前の苔むした石段を上ったところに「金刀比羅神社」があります。

素十の句碑を探して、先にこちらの階段を上ってしまいました。少し紹介しておきましょう。

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通りから横道に入ると、右側に「大杉神社」左側に「金刀比羅神社」と書かれた石柱が建っています。

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少し進むと左右に灯篭が置かれ、左側の脚部に「船手中」と赤色で彫りこまれています。
恐らく明治まで栄えていた高瀬舟や多くの船主たちの信心を集めていたように思います。

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上り階段は最近整備されたものでしょう。きれいに石やコンクリで造り直されていました。
階段の両側には竹林が広がります。
上った先には木造の「金刀比羅殿」のお堂が置かれていますが、少し粗末な感じです。
それにしてもYAHOO地図では「大杉神社」となっており、2つの神社がまとまっているようです。

 今日、古書店より「いしおか昭和の肖像」という写真集が届いた。もう少しじっくり眺めたいと思うが、
今更ながら、写真にはその時代の人々の暮らしや、しゃべっている言葉さえ映し出している。
現在はこうして、いくらでも写真が撮れるが、そこに何かその時の人の感情や世相なども映していければいいなと思う。
 

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/26 16:22

鬼沢大海の墓(高浜)

さて、昨日記した素十の句碑のある観音堂の裏手の墓地に幕末の国文学者「鬼沢大海(おにざわおおみ)」の墓がある。石岡市の史跡に指定されている。

鬼沢大海という人は1793年に高浜で生まれ、本居宣長の養子本居太平に学んだ石岡を代表する国文学者である。
安政4年(1857)60歳で笠間藩に、文久3年(1863)には志筑藩に招かれて国学と和歌を講じている。
志筑藩から新撰組の参謀となり、後に内部対立で暗殺された伊藤甲子太郎と弟の鈴木三樹三郎兄弟がでるが、この鬼沢大海との関係は不明である。
二人は志筑藩を脱藩しており、兄弟の姉妹は門下生に名前が残っているという。

最初、この大海と志筑藩の関係をもう少し調べたかったが、よくわからないのでとりあえず、頭にとどめておくだけにしよう。

大海は笠間稲荷神社、常陸総社宮、佐志能神社の神官を務めている。

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観音堂の素十の碑の奥に進むと「史跡 鬼沢大海の墓」の文字が・・・。

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一般の墓地の一番奥に大きな墓石が3つ建っており、その真中が大海の墓である。
この墓碑は門弟たちにより粟田石を使って建てられたものだそうである。
この粟田は志筑と石岡市染谷の間の風土記の丘にも近い「かすみがうら市粟田」であろうか。
龍神山にも近いし、粟田の石塔などの史跡もあるから、そうなのかもしれない。

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観音堂を裏手から撮影した。 向こうには高浜の町の先に霞ケ浦が広がって見える。

石岡を代表する画家に鬼澤小蘭と熊岡美彦がいるが、小蘭はこの鬼澤大海の息子の嫁であり、熊岡美彦はこの小蘭に絵を習っている。
石岡もこの二人の画家や書いた絵を是非大切にしていただきたいものです。
郷土を代表する画家や文化人などを大切にする心を植え付けていただきたいものです。
 

高浜・三村地区 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2011/06/27 19:50

鈴木三樹三郎の塾

今日は6月29日。朝から天気であるが、まだ梅雨の前線は不安定なので、またぐずつくかもしれない。

 先日鬼沢大海(おおみ)と志筑藩出身の伊藤・鈴木兄弟にどのように関係しているかを少し調べてみた。
特に伊藤甲子太郎と、鈴木三樹三郎のことは、興味を持たれている方が多く、沢山の記事が出てくる。

伊藤、鈴木兄弟の父鈴木専右衛門忠明は志筑藩の郷目付であったが、家老横手氏と対立し、謹慎謫居となり、その後脱藩してしまいます。
その後許されたといいますが、いろいろの理由があって、藩を離れて、近くで塾を開いたと書かれています。
この塾の場所は、資料によると「高浜村」となっている資料が出ていましたが、正確には「高浜町」です。

 石岡市史下巻に次のように記載されています。
「東大橋の三井寺では志筑藩士鈴木忠明が私塾を開き漢籍を教えた。
忠明は専衛門とも称し志筑藩の郷目付であった。
ゆえあって大橋に移り、寺をかりて私塾を開いた。
小井戸にも支塾を設けたという。嘉永五年(1852)2月23日、48歳で没した。
門弟有志は忠明の墓碑「嘉永五子年実専明導居士」をたてた。
墓はのちに石岡市の東耀寺に移された。忠明没後私塾は次男の三樹三郎にひきつがれた。
長兄は新撰組参謀となった伊藤甲子太郎である。
三樹三郎は手習いを早々に切上げ戦いの真似ばかりしていたので父兄は次々に子弟を退塾させたため、ついに閉塾となった。
三樹三郎は兄のあとを追って上京、新撰組九番隊長となった。
のち兄にしたがって隊を脱け孝明天皇の御陵衛士となった。
兄甲子太郎が暗殺(油小路事件)されたため近藤勇を狙撃したが失敗した。
戊辰戦争に参加し赤報隊を結成、罪を得たが許されて明治政府に仕え、伊奈県小属・山形県警部・酒田警察署長・福島県学務課長等を歴任した。
明治18年(1885)石岡市元真地に隠退、大正8年(1919)7月11日、83歳で没した。墓は東耀寺にある。」
となっています。



高浜町の町制の歴史を見てみると、明治22年に「北根本村」「中津川村」「東大橋村」「東田中村」「小井戸村」「高浜村」の6村が合併して「高浜町」になっています。
すなわち塾は「大橋村(後に東大橋村)」にあり、支塾が「小井戸村」にあったと考えられます。
これが高浜町となり、昭和28年に石岡市に編入されています。

しかしこの合併についての記述も、石岡市史にありますが、
それぞれの人数が少ないので一緒になったが、「高浜村・北根本村・中津川村」は人情風情も同じであったが、「東大橋村・小井戸村・東田中村」は徳川時代は旗本の地で少し違っていたようです。
今のイメージでも全く同じですね。場所が少し離れているし、その歴史がまったく違います。

東大橋は石岡の人は良く知っていると思います。小井戸は東大橋から南東に約2kmくらい離れています。
いずれにしても今の石岡市内で塾をやっていたのです。これを考えると正に石岡に関係しますね。
三井寺は当時すでに廃寺だったところを使ったようです。

地元の人でないとピンと来ないでしょうが、高浜に塾と聞いた時に思い浮かべた場所とはかなり違います。
高浜の中心部よりも石岡の方が近いですね。
従って、鬼沢大海との接点がもう少し近いかもしれないと思ったのですが、接点がないとも思いませんが直接には強いものではなかったように感じます。

幕末には天狗党が府中で火をつけて大騒ぎの中、志筑藩は兵士を集め、この天狗党と対立しました。
しかし、ほとんどこれはポーズで手出しせず、内々に協定を結びお互いが争うことは避けたようです。
このようなことは身近な人がいる世界ですので程々にしておきましょう。

ところで、志筑藩の横手家老の家は廃藩置県後、養蚕農家となり、石岡で「石岡製糸」を創業します。
一方石岡での2大製糸会社であるもうひとつの「熊岡製糸」がありますが、画家熊岡美彦はこの熊岡製糸の次男として生まれています。
何か関係がつながっていそうですが・・・・。
これ以上は調べるのは止めておきましょう。私の興味からズレてきましたので。
 
 

高浜・三村地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/06/29 06:09

八木干拓

 高浜の産業として醤油醸造で財をなした「羽成卯兵衛」さんの記録をみていた。
すると、対岸の関川地区に作られた「八木干拓」の事業に巨額の私財を投入されたことが載っていた。
高浜の繁栄、船の流通が鉄道に変わって、また海外の大豆などの流通に翻弄されたとしても、そこに昔一時代を築いた人達がおり、生活があって物流があった。その時代の流れが見えてくる思いであった。

では、「私財を投入してしまったという八木干拓を見なくては私のブログは先に進めない」ということで見に行った。
場所は高浜からは愛郷橋(現在新橋に工事中)から関川、井関の方に霞ケ浦に沿って進むと関川小学校に方に登らずに左の湖に沿って道は続いている。こちらに一面に広がる水田地帯が八木干拓地である。
地図で見ると丁度飛行場の滑走路のように真っ直ぐに道が続いている。



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八木地区のはずれから高浜方面に真っ直ぐに堤防が続いている。
右側が霞ケ浦、左手は干拓地。真っ正面に筑波山が見える。あまり天気が良くなかったので少し霞んでいる。

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霞ケ浦の右岸・左岸・中岸、北浦の右岸・左岸などと呼ぶのですね。あまりなじみのある言い方ではないので写真を撮ってみました。昔の霞ケ浦町(出島町)と呼ばれていたところはこの中岸に入るようです。

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この辺りは細い川のようになっていて、向こう側が左岸です。そしてこの湖の先端に高浜があります。

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 この堤防の途中に、このような看板がかかっていました。
タイトルは「湖岸植生保全の取り組み(石川地区)」となっています。
目的は「オニバス等浮草植物を復元し、オニバス・ヨシ原などから広がりのある景観を取り戻す」とあります。

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現在大分復元されたのでしょうか? ヨシ原などが増えているようでもあります。
このあたり、太公望には隠れたメッカのようです。私は釣りをしませんのでわかりません。
この狭い堤防の道路に数台の車が止まって、下では釣り糸を垂れていました。

さて、何故この八木干拓を取り上げる必要があったのか?
歴史的な背景や、この地の洪水などの歴史も見て行かなければなりません。

高浜河岸の繁栄ぶりや、この八木干拓についても石岡市史下巻にかなり詳しく書かれています。
しかし、その全部を読むのは大変なのでつまみ食いをしながら少しずつ理解していきたい。

まずは手始めにこの八木干拓事業のさわりを少し。
大正八年に、「開墾助成法」が制定され、開墾にかなりの助成金が出されることになった。これは当時食糧不足で米価の高騰がおきており、米作りが盛んに奨励されたことが背景にあった。
そこに手を挙げたのがこの高浜で醤油醸造で財をなしていた羽成卯兵衛氏と真壁町の猪瀬蔵太郎氏であった。
大正9年に埋立免許を取得し、10年に着工したが、「堤防を築くのに打ち込んだ長さ10mの松の杭数千本もほとんど倒され、山のように投入した土塊は一夜で沖に流されてしまいました。
当初の予算約24万円に対し、かかった費用は44万円強。しかしこれ以外の公簿外費用が39万円以上もかかったのです。助成金が26万円強ありましたが、私財として59万円程かかってしまいました」と息子の同名の羽成卯兵衛さんが後に書かれています。当時の価格を今の価値に換算すると約600倍くらいということなので、今の価格で3億6千万円位でしょうか。

この場所は三又沖からは大分奥に入っていますが、国分寺の鐘伝説にでてくる三又沖とからんで、工事の途中では「羽成の財産は何倍あっても三又沖に呑まれてしまう」などといわれたとも書かれていますが、わかるような気がします。

この干拓の完成は堤防が大正15年。耕作地は昭和3年に完成しました。
しかし、その後昭和10年、13年、16年、24年に堤防が決壊する被害が出ています。
今の東北の津波ではありませんが、風水害での被害は何回もこの地を襲っています。
今は水門ができ、忘れたようになっていますが、農家にとっては塩害を防ぎ、水害を無くす門が、生態系を変えてそこに住んでいた生き物たちを追いやってしまったということもまた事実です。
長崎の諫早湾の干拓でたくさんの意見が出ていますが、中途半端にやったり、途中での変更などは大きな問題を残すということも忘れてはいけないでしょう。

私達は色々な事実を知らないと判断はできません。また、環境保全の取り組みもたくさんあります。
一方的に意見を聞いてもわからない事が多いです。霞ケ浦も一時期に比べればきれいになってきました。
昔、娘の夏休みの自由研究で各地の水の濁り具合を調べてまわりました。
もう15年以上前ですが、当時土浦港は緑のアオコが大量発生して水も汚くて大変でした。
皆さんの努力で少しずつ改善され、また泳げるくらいの湖に戻ってほしいですね。
 
もう少し勉強してみたいと思います。
 

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/06/29 19:42

幻に終わった加波山鉄道

 玉里の湖畔から高浜駅に戻って、急に昔の加波山鉄道ができるはずだった跡を見てみたくなった。
この鉄道は高浜から柿岡までをまず鉄道を敷き、その後、水戸線の福原までをつなぐ計画でした。

そして、高浜-柿岡間の認可がおりたのが昭和2年で、用地買収もし、一部工事も始まったようですが、資金繰りで頓挫して鉄道は敷かれずに幻で終わりました。

詳細は私のホームページ(こちら)を見てください。

計画がスタートしたのは関東大震災(大正12年)で東京に建築用木材がたくさん必要になったからでした。
この木材を加波山や筑波山の麓から鉄道で高浜まで運び、そこから東京まで常磐線、または船で運ぶ計画だったようです。

なんでもそうですが、計画を始めた時はまだ石岡の製糸産業も景気が良かったのですが、昭和2年に金融恐慌が起こり、昭和4年に石岡中町を中心とした大火災が発生し、同じ年の10月に政界大恐慌がおこります。

この鉄道を支援する財力も計画を実行に移す時にはなくなってしまったというのが正しいのでしょう。

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高浜駅の下りホームの裏側が広く空いています。
私はここに加波山鉄道のホームができるはずだったのではないかと思いました。

高浜駅は駅前にもほとんどお店も何もありません。
駅の名所案内も釣り場の案内くらいしか書いてありません。
でも霞ヶ浦の船運が発達していた時には、蒸気船も発着し、米相場も「高浜相場」などと言われて、ここで相場も決まったりしていたそうです。

そのため、加波山鉄道もここ高浜から発車させる計画だったのです。
これは今は廃止になった鹿島鉄道の前身「鹿島参宮鉄道」も石岡ではなく高浜を基点とする計画でした。

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この駅の構内の裏手に数年前にできたまっすぐ筑波山の方に向かう道ができました。
周りは田んぼや畑ばかりですから低い低地を1本のまっすぐな道が続いています。
これがおそらくその鉄道が通るはずだった場所だと思っています。

この道を真っ直ぐいくと恋瀬橋のところで6号国道を横切ります。
そこから先は、今の恋瀬川沿いの土手の上を走るサイクリングロードとなっているところを通る計画だったと思います。そして、川を亘って志筑地区を通ってまた川を渡りなおし、根小屋のところをやはりまっすぐ走る道路が作られています。この道は通称「汽車道」と呼ばれたりしているようです。
この道路がきれいに整備されたのもまだ数年前のことです。

もちろん鉄道が出来ていたとしてもこのご時世ですのでいち早く廃止となった可能性が高いと思います。
でもこのような鉄道の道が出来ていたとしたら、今見る景色はおそらく違ったものになっていたと思います。

また何もない田舎駅と思える高浜の駅にもこのような歴史があったということも覚えていても良いことだと思います。
また、高浜からの上り電車はすぐに恋瀬川をわたります。
この川の上を差し掛かった電車の窓からみる筑波山の姿がとても美しいのです。

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高浜・三村地区 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/02/18 19:47

須賀神社(石岡市三村)

 地域に眠る歴史シリーズで石岡がまだまとまっていないので、今年はこちらを手掛けてみたいと正月明けてから考えるようになった。
しかし、意外に難しい。どうまとめてよいのか地元だとまとめやすいようで逆にうまくまとまらない。
書きたいことが多くなり過ぎたということでもあるし、まだ知らないことがたくさんあるということでもあるし、書くとどう思われるか心配だということもある。

まあでも少しずつ過去の記事などをまとめて行きたいと思う。

そこでまず高浜や三村、石川地区などをまとめ始めたが、記事にしていないで書いておかねばならないこともでてきた。

今日はその中で夏祭りが盛んな三村の須賀神社へ行ってみた。

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須賀神社や素鵞神社は明治時代の廃仏毀釈で神・仏分離というよりは仏を壊せという命令によりそれまでの天王社などインドの牛頭天王(ごずてんおう)を祀っていたところがスサノオなどを祀る神社になった時につけられた名前のところがほとんどのはずだと思う。

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ここも昔から祇園祭がさかんに行われていた。
いまも毎年7月に神輿が出て、夜になると神社に戻ろうとする神輿を上から何度も押し返して、壮絶な争いが行われる。
その迫力を楽しみにしている人も多いという。

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この神社の祭りが何時ごろから行われてきたのかはよくわからないが、昔は神輿の御渚下りなども行われ、「三村の祇園」は近郊で一番の盛んな祭りだったといわれています。

石岡囃子などもこの三村流がかなり取り込まれています。
この欅の大木は見事です。


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本殿。

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子安等の地蔵

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神社脇に建てられた鳥居と「不動明王」と書かれた殿。

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中にはこんな像が置かれていた。
不動明王というよりもインドの人形といった感じ。
牛頭天王にやはりかかわっているのか?

この神社にはこのほかにも変わったインド風の建物があった。

三村地区は上郷と下郷に分かれてそれぞれ村社がある。
上郷の村社が須賀神社であり、下郷には鹿島神社がある。

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/01/23 20:22

鹿島神社(石岡市三村)

 石岡の高浜の対岸である三村地区を数回にわたって書いていきます。
前回は上郷地区の旧村社である須賀神社を紹介しましたが、石岡の人にもこの神社の存在はかなり浸透していそうです。

理由はこの神社の祇園祭がかなり激しいの三村の祇園に伝わるお囃子が石岡のお祭りに踏襲されているからだと思います。

しかし、私がこの町に抱くイメージは次の2つです。

1)平安時代後期の前九年の役と呼ばれる、源頼義と(八幡太郎)義家の親子が奥州に安部氏討伐に向かった途中にこの地を通っただろうこと。(11世紀半ば)

2)この地の山の上(現三村小学校)に天正年間(1573~1592)の初期に府中を守る大掾慶幹が南の小田氏防衛のために三村城を築城し、次男の常春を城主としたが、小田氏や小川の園部氏との争いの中、城は陥落し、若き25歳の常春が逃げ延びる途中自害して果てたということ。
これが府中大掾氏の滅亡につながっているということ。(16世紀後半)

三村3

あまりこのようなことを考える人が少ないようなので、少し国土地理院地図で考えてみたい。
上の地図で見てわかるように、三村は府中(石岡)の高浜とは恋瀬川をはさんで反対側(南側)にあります。

前九年の役で奥州に向かう源頼義親子たちの軍勢は地図にある「正月平」で正月を迎えることになりました。
わずかな住民はこの親子たちに自分たちでできる限りのもてなしをして正月を祝ったそうです。

このため、戦い終わって都に帰って親子から感謝の気持ちを込めて「黄金のはたし」が贈られたと石岡市史などには書かれています。
この地名もそれにあやかってめでたい「正月平」となりました。

もちろんこれがどこまで真実かはよくわかりません。
各地に鎌倉時代などにいろいろな伝説が作られました。

でも私はこの話を少し信じています。
「黄金のはたし」とは何でしょうか? 正確に書かれた記事は見かけません。
ただこの「ハタシ」といわれるものはこの部落より霞ヶ浦先端にある歩崎観音へ寄進されたといわれています。
この歩崎観音も長い間33年に1度しか開帳されずにきたので、このはたしも眠ったままでした。

しかし、数年前より8月の歩崎祭りの期間中に毎年開帳されるようになりました。
しかし「黄金のはたし」はありません。
昔あったといわれているのは竜女が安産祈願で無事子どもが生まれて寄進したと伝わる「黄金のはたおり機」でした。

昭和の戦争中?東京に展示で持ち出してから帰ってきていないで行方不明だそうです。

源頼義親子たちの軍勢はここから常陸国府(府中=石岡)にこの恋瀬川を馬で渡りました。
しかし沼のようにぬかるんでいて馬は足を取られて前に進めません。
そこで川岸に生えていた茅などを刈り取ってたくさんぬかるみに敷き詰めて川を渡ることができたといわれています。

古東海道の跡をおいかけてこのような話に遭遇すると、このあたりで昔は川を渡ったのかもしれないとつい話に耳を傾けてしまうのです。


今日はそんな中、三村の下郷地区の村社であった「鹿島神社」を探して行ってみました。

高浜から愛郷橋を渡って進み、突き当たり脇の道を左方向(石川の方向)に曲がりますが、すぐにまた右に曲がった、高浜からほぼまっすぐ進んだ位置にあります。

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この神社については古いようですが、現地にも何もかかれたものは置かれていません。神社名も記されていません。

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本殿です。
鹿島神社というのでタケミカヅチを祀っていると思います。
しかしこの神社と別に「香取神社」「息栖神社」も近くにあったようです。
明治になり香取・息栖の両社はこの鹿島神社に合祀されたようです。


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神社の古さはこの古木を見てもわかります。
さて、この神社には神主さんは常駐していないようです。

この神社というよりはこの近くに「羽成子」という地名があり気になっています。
羽成子=はなし と読むようですが、「羽梨」に通じます。

延喜式に書かれた常陸国式内社(茨城郡 3座)に「羽梨山神社」があり、平安時代の三代実録には羽梨神が書かれています。
これは現在笠間市(岩間)の羽梨山神社とされています。

しかし、小田氏が羽梨宮に集結して海を渡って小川の園部氏をせめたとなると、この羽梨宮はここの「羽成子」という名前と地形が一致します。
もしかしたらこの鹿島神社が延喜式式内社なのかもしれません。

前に書いた「三村城秘話」などと合わせて読んでみると何か面白そうですね。


高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/01/24 17:04
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