歴史に埋もれた悲劇(香勢堂)
お盆明けの16日に代田のダイダラボッチを見に行った帰り道に偶然探していた場所を発見しました。私が歴史の里石岡ロマン紀行の中で「三村城秘話」で紹介して、その時に見つけられなかった「香勢堂」と六地蔵です。いつも近くは通っていたのにあまり立派な墓地となっていたので気がつかなかったようです。そこは高浜駅から石岡へ向かう上の道ではなく崖に沿った下の道です。昭和36年発行の「図説 石岡市史」に記載されていたので北根本を探したのにわからなかったものです。三村城は1573年に落城し、城主常春も落ち延びようとして城の近くで落馬し切腹し果てました。「南城実録・三村記」によれば三村城の危急を聞きつけ、府中城より軍勢300余が駆けつけたが、近くの中津川台に到着して三村城を望めばすでに城は真赤な炎をあげて燃えていました。義を重んじる軍兵206人はその場で切腹して果てたといいます。後にここに一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれて今に残ると記されています。その後、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に建てられた六地蔵が残るとなっています。高野勢堂は香勢堂とも書かれているが本来は「国府(こう)勢堂」であろうと紹介されていました。

六地蔵(昔は一部倒れたりしていたのを地元の組合できれいにしたとのこと。

上記の文献では206名となっていましたが、地蔵に人数が刻まれており、197名とのことです。

昔は個人所有の墓地であったが、現在は共同墓地として地元で管理されています。

この墓には地元の方で代々受け継がれているが、30代以上続いている墓もあり、少なくても500年は経っているようである。この場所は常磐線の恋瀬川にかかる橋の1本石岡よりの新しい橋のすぐ石岡側です。昔はここに橋(1本橋)がかかっていたとのこと。その橋をまっすぐ中津川方向に向かった突き当りあたりです。昔はこの辺で川を渡ったのでしょう。真っ直ぐ対岸の三村城が良く見える場所です。じもとの組合長さんにお話を聞くことができました。昔はこのあたりは何回も洪水で被害を受けたが、いまは堤防ができ被害はなくなったと。またこの墓も代々続いているが、手入れをするのも大変で、東京に出て行った人でもこちらの墓に入れてほしいと何人かがきているとのことです。お一人で暑い中手入れをされていました。脱帽で~す。頑張ってください。

六地蔵(昔は一部倒れたりしていたのを地元の組合できれいにしたとのこと。

上記の文献では206名となっていましたが、地蔵に人数が刻まれており、197名とのことです。

昔は個人所有の墓地であったが、現在は共同墓地として地元で管理されています。

この墓には地元の方で代々受け継がれているが、30代以上続いている墓もあり、少なくても500年は経っているようである。この場所は常磐線の恋瀬川にかかる橋の1本石岡よりの新しい橋のすぐ石岡側です。昔はここに橋(1本橋)がかかっていたとのこと。その橋をまっすぐ中津川方向に向かった突き当りあたりです。昔はこの辺で川を渡ったのでしょう。真っ直ぐ対岸の三村城が良く見える場所です。じもとの組合長さんにお話を聞くことができました。昔はこのあたりは何回も洪水で被害を受けたが、いまは堤防ができ被害はなくなったと。またこの墓も代々続いているが、手入れをするのも大変で、東京に出て行った人でもこちらの墓に入れてほしいと何人かがきているとのことです。お一人で暑い中手入れをされていました。脱帽で~す。頑張ってください。
三村地区「下ノ宮遺跡展」
今日は一日冷たい雨になりました。
月曜日にイギリスに嫁いだ長女夫婦が帰ってくるので少しは家の中の片づけもしなければなどと思っていましたが、あまりはかどりません。まあ年に1度くらいでも帰ってきてくれるのでそれだけでいいです。
まあ日本食が好きなので日本食を食べに帰るのが目的のようです。
むこうで、来る前から何処に行って何を食べたいなどと計画しているようです。
さて、今日、私のブログにコメントをいただきました。
その中で、市役所で三村の下ノ宮遺跡遺跡のミニ展示会をしていると教えていただいたので早速行って見学してきました。(10/17まで休日も開催、無料)

市役所の玄関を入った正面に小さなショーケースが三つの本当のミニ展示会です。

縄文時代の土器など数点ですが、大変興味を持ちました。。
場所は常磐線を挟んで三村小学校の反対側です。三村常春公の眠る五輪塔の近くです。
この辺りには古墳もいくつかあり、高浜の堤防工事などに古墳も削られたと聞いています。
また、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州征伐にやってきて、正月を迎えたという「正月平」も近くです。
この辺りに5000年程前から人類が住んでいたのですね。
先日、美浦村の陸平(おかだいら)貝塚にいきましたが、霞ケ浦周辺にはまだまだ縄文の遺跡が眠っていることでしょう。発掘調査の方は本当に大変ですが頑張ってください。
月曜日にイギリスに嫁いだ長女夫婦が帰ってくるので少しは家の中の片づけもしなければなどと思っていましたが、あまりはかどりません。まあ年に1度くらいでも帰ってきてくれるのでそれだけでいいです。
まあ日本食が好きなので日本食を食べに帰るのが目的のようです。
むこうで、来る前から何処に行って何を食べたいなどと計画しているようです。
さて、今日、私のブログにコメントをいただきました。
その中で、市役所で三村の下ノ宮遺跡遺跡のミニ展示会をしていると教えていただいたので早速行って見学してきました。(10/17まで休日も開催、無料)

市役所の玄関を入った正面に小さなショーケースが三つの本当のミニ展示会です。

縄文時代の土器など数点ですが、大変興味を持ちました。。
場所は常磐線を挟んで三村小学校の反対側です。三村常春公の眠る五輪塔の近くです。
この辺りには古墳もいくつかあり、高浜の堤防工事などに古墳も削られたと聞いています。
また、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州征伐にやってきて、正月を迎えたという「正月平」も近くです。
この辺りに5000年程前から人類が住んでいたのですね。
先日、美浦村の陸平(おかだいら)貝塚にいきましたが、霞ケ浦周辺にはまだまだ縄文の遺跡が眠っていることでしょう。発掘調査の方は本当に大変ですが頑張ってください。
素十の愛した高浜
高浜に高野素十(すじゅう)の句碑があるというので探してみた。
少しわかりにくいが、高浜の町の通りを愛郷橋へ行く三叉路を過ぎて、左手の高台に登る階段が3つある。
その最初が、爪掻き阿弥陀堂、2番目が、金刀比羅神社(大杉神社)、三番目が高渕寺観音堂である。
素十の句碑はこの観音堂の高台に霞ケ浦を見下ろすような位置に置かれていた。

観音堂への上り階段です。それほど高くは無いのですが、このアプローチもいいですね。
勝手な意見ですが、階段の両脇に室生寺のシャクナゲのような花とか竹林も趣があるのですが・・・。

この観音堂はいつごろ建てられたものだろう。かなり昔からあったもののようなのだが良くわからない。
しかし、地元の方の管理手入れはきれいにされていた。この句碑の存在もあまり知られていない。

高野素十は高浜虚子の一番弟子でした。
藤代(北相馬郡山王村:現取手市神住町)の出身でしたが、ここ高浜を愛ししばしば訪れたといいます。
そして、昭和27年に詠まれた歌がこれです。

湖の月の明るき村に住む
句碑が建てられたのは昭和50年11月で、翌年素十は83歳でなくなったといいます。
石岡市内にも石岡で読まれた歌の句碑を建ててほしいものです。次の一句と牡丹の花を植えて。
牡丹の一花まことに志
(参照 いしおか100物語)
少しわかりにくいが、高浜の町の通りを愛郷橋へ行く三叉路を過ぎて、左手の高台に登る階段が3つある。
その最初が、爪掻き阿弥陀堂、2番目が、金刀比羅神社(大杉神社)、三番目が高渕寺観音堂である。
素十の句碑はこの観音堂の高台に霞ケ浦を見下ろすような位置に置かれていた。

観音堂への上り階段です。それほど高くは無いのですが、このアプローチもいいですね。
勝手な意見ですが、階段の両脇に室生寺のシャクナゲのような花とか竹林も趣があるのですが・・・。

この観音堂はいつごろ建てられたものだろう。かなり昔からあったもののようなのだが良くわからない。
しかし、地元の方の管理手入れはきれいにされていた。この句碑の存在もあまり知られていない。

高野素十は高浜虚子の一番弟子でした。
藤代(北相馬郡山王村:現取手市神住町)の出身でしたが、ここ高浜を愛ししばしば訪れたといいます。
そして、昭和27年に詠まれた歌がこれです。

湖の月の明るき村に住む
句碑が建てられたのは昭和50年11月で、翌年素十は83歳でなくなったといいます。
石岡市内にも石岡で読まれた歌の句碑を建ててほしいものです。次の一句と牡丹の花を植えて。
牡丹の一花まことに志
(参照 いしおか100物語)
高浜金刀比羅神社
今朝、素十の句碑の紹介をしましたが、その観音堂の一つ手前の苔むした石段を上ったところに「金刀比羅神社」があります。
素十の句碑を探して、先にこちらの階段を上ってしまいました。少し紹介しておきましょう。

通りから横道に入ると、右側に「大杉神社」左側に「金刀比羅神社」と書かれた石柱が建っています。

少し進むと左右に灯篭が置かれ、左側の脚部に「船手中」と赤色で彫りこまれています。
恐らく明治まで栄えていた高瀬舟や多くの船主たちの信心を集めていたように思います。

上り階段は最近整備されたものでしょう。きれいに石やコンクリで造り直されていました。
階段の両側には竹林が広がります。
上った先には木造の「金刀比羅殿」のお堂が置かれていますが、少し粗末な感じです。
それにしてもYAHOO地図では「大杉神社」となっており、2つの神社がまとまっているようです。
今日、古書店より「いしおか昭和の肖像」という写真集が届いた。もう少しじっくり眺めたいと思うが、
今更ながら、写真にはその時代の人々の暮らしや、しゃべっている言葉さえ映し出している。
現在はこうして、いくらでも写真が撮れるが、そこに何かその時の人の感情や世相なども映していければいいなと思う。
素十の句碑を探して、先にこちらの階段を上ってしまいました。少し紹介しておきましょう。

通りから横道に入ると、右側に「大杉神社」左側に「金刀比羅神社」と書かれた石柱が建っています。

少し進むと左右に灯篭が置かれ、左側の脚部に「船手中」と赤色で彫りこまれています。
恐らく明治まで栄えていた高瀬舟や多くの船主たちの信心を集めていたように思います。

上り階段は最近整備されたものでしょう。きれいに石やコンクリで造り直されていました。
階段の両側には竹林が広がります。
上った先には木造の「金刀比羅殿」のお堂が置かれていますが、少し粗末な感じです。
それにしてもYAHOO地図では「大杉神社」となっており、2つの神社がまとまっているようです。
今日、古書店より「いしおか昭和の肖像」という写真集が届いた。もう少しじっくり眺めたいと思うが、
今更ながら、写真にはその時代の人々の暮らしや、しゃべっている言葉さえ映し出している。
現在はこうして、いくらでも写真が撮れるが、そこに何かその時の人の感情や世相なども映していければいいなと思う。
鬼沢大海の墓(高浜)
さて、昨日記した素十の句碑のある観音堂の裏手の墓地に幕末の国文学者「鬼沢大海(おにざわおおみ)」の墓がある。石岡市の史跡に指定されている。
鬼沢大海という人は1793年に高浜で生まれ、本居宣長の養子本居太平に学んだ石岡を代表する国文学者である。
安政4年(1857)60歳で笠間藩に、文久3年(1863)には志筑藩に招かれて国学と和歌を講じている。
志筑藩から新撰組の参謀となり、後に内部対立で暗殺された伊藤甲子太郎と弟の鈴木三樹三郎兄弟がでるが、この鬼沢大海との関係は不明である。
二人は志筑藩を脱藩しており、兄弟の姉妹は門下生に名前が残っているという。
最初、この大海と志筑藩の関係をもう少し調べたかったが、よくわからないのでとりあえず、頭にとどめておくだけにしよう。
大海は笠間稲荷神社、常陸総社宮、佐志能神社の神官を務めている。

観音堂の素十の碑の奥に進むと「史跡 鬼沢大海の墓」の文字が・・・。

一般の墓地の一番奥に大きな墓石が3つ建っており、その真中が大海の墓である。
この墓碑は門弟たちにより粟田石を使って建てられたものだそうである。
この粟田は志筑と石岡市染谷の間の風土記の丘にも近い「かすみがうら市粟田」であろうか。
龍神山にも近いし、粟田の石塔などの史跡もあるから、そうなのかもしれない。

観音堂を裏手から撮影した。 向こうには高浜の町の先に霞ケ浦が広がって見える。
石岡を代表する画家に鬼澤小蘭と熊岡美彦がいるが、小蘭はこの鬼澤大海の息子の嫁であり、熊岡美彦はこの小蘭に絵を習っている。
石岡もこの二人の画家や書いた絵を是非大切にしていただきたいものです。
郷土を代表する画家や文化人などを大切にする心を植え付けていただきたいものです。
鬼沢大海という人は1793年に高浜で生まれ、本居宣長の養子本居太平に学んだ石岡を代表する国文学者である。
安政4年(1857)60歳で笠間藩に、文久3年(1863)には志筑藩に招かれて国学と和歌を講じている。
志筑藩から新撰組の参謀となり、後に内部対立で暗殺された伊藤甲子太郎と弟の鈴木三樹三郎兄弟がでるが、この鬼沢大海との関係は不明である。
二人は志筑藩を脱藩しており、兄弟の姉妹は門下生に名前が残っているという。
最初、この大海と志筑藩の関係をもう少し調べたかったが、よくわからないのでとりあえず、頭にとどめておくだけにしよう。
大海は笠間稲荷神社、常陸総社宮、佐志能神社の神官を務めている。

観音堂の素十の碑の奥に進むと「史跡 鬼沢大海の墓」の文字が・・・。

一般の墓地の一番奥に大きな墓石が3つ建っており、その真中が大海の墓である。
この墓碑は門弟たちにより粟田石を使って建てられたものだそうである。
この粟田は志筑と石岡市染谷の間の風土記の丘にも近い「かすみがうら市粟田」であろうか。
龍神山にも近いし、粟田の石塔などの史跡もあるから、そうなのかもしれない。

観音堂を裏手から撮影した。 向こうには高浜の町の先に霞ケ浦が広がって見える。
石岡を代表する画家に鬼澤小蘭と熊岡美彦がいるが、小蘭はこの鬼澤大海の息子の嫁であり、熊岡美彦はこの小蘭に絵を習っている。
石岡もこの二人の画家や書いた絵を是非大切にしていただきたいものです。
郷土を代表する画家や文化人などを大切にする心を植え付けていただきたいものです。
鈴木三樹三郎の塾
今日は6月29日。朝から天気であるが、まだ梅雨の前線は不安定なので、またぐずつくかもしれない。
先日鬼沢大海(おおみ)と志筑藩出身の伊藤・鈴木兄弟にどのように関係しているかを少し調べてみた。
特に伊藤甲子太郎と、鈴木三樹三郎のことは、興味を持たれている方が多く、沢山の記事が出てくる。
伊藤、鈴木兄弟の父鈴木専右衛門忠明は志筑藩の郷目付であったが、家老横手氏と対立し、謹慎謫居となり、その後脱藩してしまいます。
その後許されたといいますが、いろいろの理由があって、藩を離れて、近くで塾を開いたと書かれています。
この塾の場所は、資料によると「高浜村」となっている資料が出ていましたが、正確には「高浜町」です。
石岡市史下巻に次のように記載されています。
「東大橋の三井寺では志筑藩士鈴木忠明が私塾を開き漢籍を教えた。
忠明は専衛門とも称し志筑藩の郷目付であった。
ゆえあって大橋に移り、寺をかりて私塾を開いた。
小井戸にも支塾を設けたという。嘉永五年(1852)2月23日、48歳で没した。
門弟有志は忠明の墓碑「嘉永五子年実専明導居士」をたてた。
墓はのちに石岡市の東耀寺に移された。忠明没後私塾は次男の三樹三郎にひきつがれた。
長兄は新撰組参謀となった伊藤甲子太郎である。
三樹三郎は手習いを早々に切上げ戦いの真似ばかりしていたので父兄は次々に子弟を退塾させたため、ついに閉塾となった。
三樹三郎は兄のあとを追って上京、新撰組九番隊長となった。
のち兄にしたがって隊を脱け孝明天皇の御陵衛士となった。
兄甲子太郎が暗殺(油小路事件)されたため近藤勇を狙撃したが失敗した。
戊辰戦争に参加し赤報隊を結成、罪を得たが許されて明治政府に仕え、伊奈県小属・山形県警部・酒田警察署長・福島県学務課長等を歴任した。
明治18年(1885)石岡市元真地に隠退、大正8年(1919)7月11日、83歳で没した。墓は東耀寺にある。」
となっています。
高浜町の町制の歴史を見てみると、明治22年に「北根本村」「中津川村」「東大橋村」「東田中村」「小井戸村」「高浜村」の6村が合併して「高浜町」になっています。
すなわち塾は「大橋村(後に東大橋村)」にあり、支塾が「小井戸村」にあったと考えられます。
これが高浜町となり、昭和28年に石岡市に編入されています。
しかしこの合併についての記述も、石岡市史にありますが、
それぞれの人数が少ないので一緒になったが、「高浜村・北根本村・中津川村」は人情風情も同じであったが、「東大橋村・小井戸村・東田中村」は徳川時代は旗本の地で少し違っていたようです。
今のイメージでも全く同じですね。場所が少し離れているし、その歴史がまったく違います。
東大橋は石岡の人は良く知っていると思います。小井戸は東大橋から南東に約2kmくらい離れています。
いずれにしても今の石岡市内で塾をやっていたのです。これを考えると正に石岡に関係しますね。
三井寺は当時すでに廃寺だったところを使ったようです。
地元の人でないとピンと来ないでしょうが、高浜に塾と聞いた時に思い浮かべた場所とはかなり違います。
高浜の中心部よりも石岡の方が近いですね。
従って、鬼沢大海との接点がもう少し近いかもしれないと思ったのですが、接点がないとも思いませんが直接には強いものではなかったように感じます。
幕末には天狗党が府中で火をつけて大騒ぎの中、志筑藩は兵士を集め、この天狗党と対立しました。
しかし、ほとんどこれはポーズで手出しせず、内々に協定を結びお互いが争うことは避けたようです。
このようなことは身近な人がいる世界ですので程々にしておきましょう。
ところで、志筑藩の横手家老の家は廃藩置県後、養蚕農家となり、石岡で「石岡製糸」を創業します。
一方石岡での2大製糸会社であるもうひとつの「熊岡製糸」がありますが、画家熊岡美彦はこの熊岡製糸の次男として生まれています。
何か関係がつながっていそうですが・・・・。
これ以上は調べるのは止めておきましょう。私の興味からズレてきましたので。
先日鬼沢大海(おおみ)と志筑藩出身の伊藤・鈴木兄弟にどのように関係しているかを少し調べてみた。
特に伊藤甲子太郎と、鈴木三樹三郎のことは、興味を持たれている方が多く、沢山の記事が出てくる。
伊藤、鈴木兄弟の父鈴木専右衛門忠明は志筑藩の郷目付であったが、家老横手氏と対立し、謹慎謫居となり、その後脱藩してしまいます。
その後許されたといいますが、いろいろの理由があって、藩を離れて、近くで塾を開いたと書かれています。
この塾の場所は、資料によると「高浜村」となっている資料が出ていましたが、正確には「高浜町」です。
石岡市史下巻に次のように記載されています。
「東大橋の三井寺では志筑藩士鈴木忠明が私塾を開き漢籍を教えた。
忠明は専衛門とも称し志筑藩の郷目付であった。
ゆえあって大橋に移り、寺をかりて私塾を開いた。
小井戸にも支塾を設けたという。嘉永五年(1852)2月23日、48歳で没した。
門弟有志は忠明の墓碑「嘉永五子年実専明導居士」をたてた。
墓はのちに石岡市の東耀寺に移された。忠明没後私塾は次男の三樹三郎にひきつがれた。
長兄は新撰組参謀となった伊藤甲子太郎である。
三樹三郎は手習いを早々に切上げ戦いの真似ばかりしていたので父兄は次々に子弟を退塾させたため、ついに閉塾となった。
三樹三郎は兄のあとを追って上京、新撰組九番隊長となった。
のち兄にしたがって隊を脱け孝明天皇の御陵衛士となった。
兄甲子太郎が暗殺(油小路事件)されたため近藤勇を狙撃したが失敗した。
戊辰戦争に参加し赤報隊を結成、罪を得たが許されて明治政府に仕え、伊奈県小属・山形県警部・酒田警察署長・福島県学務課長等を歴任した。
明治18年(1885)石岡市元真地に隠退、大正8年(1919)7月11日、83歳で没した。墓は東耀寺にある。」
となっています。
高浜町の町制の歴史を見てみると、明治22年に「北根本村」「中津川村」「東大橋村」「東田中村」「小井戸村」「高浜村」の6村が合併して「高浜町」になっています。
すなわち塾は「大橋村(後に東大橋村)」にあり、支塾が「小井戸村」にあったと考えられます。
これが高浜町となり、昭和28年に石岡市に編入されています。
しかしこの合併についての記述も、石岡市史にありますが、
それぞれの人数が少ないので一緒になったが、「高浜村・北根本村・中津川村」は人情風情も同じであったが、「東大橋村・小井戸村・東田中村」は徳川時代は旗本の地で少し違っていたようです。
今のイメージでも全く同じですね。場所が少し離れているし、その歴史がまったく違います。
東大橋は石岡の人は良く知っていると思います。小井戸は東大橋から南東に約2kmくらい離れています。
いずれにしても今の石岡市内で塾をやっていたのです。これを考えると正に石岡に関係しますね。
三井寺は当時すでに廃寺だったところを使ったようです。
地元の人でないとピンと来ないでしょうが、高浜に塾と聞いた時に思い浮かべた場所とはかなり違います。
高浜の中心部よりも石岡の方が近いですね。
従って、鬼沢大海との接点がもう少し近いかもしれないと思ったのですが、接点がないとも思いませんが直接には強いものではなかったように感じます。
幕末には天狗党が府中で火をつけて大騒ぎの中、志筑藩は兵士を集め、この天狗党と対立しました。
しかし、ほとんどこれはポーズで手出しせず、内々に協定を結びお互いが争うことは避けたようです。
このようなことは身近な人がいる世界ですので程々にしておきましょう。
ところで、志筑藩の横手家老の家は廃藩置県後、養蚕農家となり、石岡で「石岡製糸」を創業します。
一方石岡での2大製糸会社であるもうひとつの「熊岡製糸」がありますが、画家熊岡美彦はこの熊岡製糸の次男として生まれています。
何か関係がつながっていそうですが・・・・。
これ以上は調べるのは止めておきましょう。私の興味からズレてきましたので。
八木干拓
高浜の産業として醤油醸造で財をなした「羽成卯兵衛」さんの記録をみていた。
すると、対岸の関川地区に作られた「八木干拓」の事業に巨額の私財を投入されたことが載っていた。
高浜の繁栄、船の流通が鉄道に変わって、また海外の大豆などの流通に翻弄されたとしても、そこに昔一時代を築いた人達がおり、生活があって物流があった。その時代の流れが見えてくる思いであった。
では、「私財を投入してしまったという八木干拓を見なくては私のブログは先に進めない」ということで見に行った。
場所は高浜からは愛郷橋(現在新橋に工事中)から関川、井関の方に霞ケ浦に沿って進むと関川小学校に方に登らずに左の湖に沿って道は続いている。こちらに一面に広がる水田地帯が八木干拓地である。
地図で見ると丁度飛行場の滑走路のように真っ直ぐに道が続いている。

八木地区のはずれから高浜方面に真っ直ぐに堤防が続いている。
右側が霞ケ浦、左手は干拓地。真っ正面に筑波山が見える。あまり天気が良くなかったので少し霞んでいる。

霞ケ浦の右岸・左岸・中岸、北浦の右岸・左岸などと呼ぶのですね。あまりなじみのある言い方ではないので写真を撮ってみました。昔の霞ケ浦町(出島町)と呼ばれていたところはこの中岸に入るようです。

この辺りは細い川のようになっていて、向こう側が左岸です。そしてこの湖の先端に高浜があります。

この堤防の途中に、このような看板がかかっていました。
タイトルは「湖岸植生保全の取り組み(石川地区)」となっています。
目的は「オニバス等浮草植物を復元し、オニバス・ヨシ原などから広がりのある景観を取り戻す」とあります。

現在大分復元されたのでしょうか? ヨシ原などが増えているようでもあります。
このあたり、太公望には隠れたメッカのようです。私は釣りをしませんのでわかりません。
この狭い堤防の道路に数台の車が止まって、下では釣り糸を垂れていました。
さて、何故この八木干拓を取り上げる必要があったのか?
歴史的な背景や、この地の洪水などの歴史も見て行かなければなりません。
高浜河岸の繁栄ぶりや、この八木干拓についても石岡市史下巻にかなり詳しく書かれています。
しかし、その全部を読むのは大変なのでつまみ食いをしながら少しずつ理解していきたい。
まずは手始めにこの八木干拓事業のさわりを少し。
大正八年に、「開墾助成法」が制定され、開墾にかなりの助成金が出されることになった。これは当時食糧不足で米価の高騰がおきており、米作りが盛んに奨励されたことが背景にあった。
そこに手を挙げたのがこの高浜で醤油醸造で財をなしていた羽成卯兵衛氏と真壁町の猪瀬蔵太郎氏であった。
大正9年に埋立免許を取得し、10年に着工したが、「堤防を築くのに打ち込んだ長さ10mの松の杭数千本もほとんど倒され、山のように投入した土塊は一夜で沖に流されてしまいました。
当初の予算約24万円に対し、かかった費用は44万円強。しかしこれ以外の公簿外費用が39万円以上もかかったのです。助成金が26万円強ありましたが、私財として59万円程かかってしまいました」と息子の同名の羽成卯兵衛さんが後に書かれています。当時の価格を今の価値に換算すると約600倍くらいということなので、今の価格で3億6千万円位でしょうか。
この場所は三又沖からは大分奥に入っていますが、国分寺の鐘伝説にでてくる三又沖とからんで、工事の途中では「羽成の財産は何倍あっても三又沖に呑まれてしまう」などといわれたとも書かれていますが、わかるような気がします。
この干拓の完成は堤防が大正15年。耕作地は昭和3年に完成しました。
しかし、その後昭和10年、13年、16年、24年に堤防が決壊する被害が出ています。
今の東北の津波ではありませんが、風水害での被害は何回もこの地を襲っています。
今は水門ができ、忘れたようになっていますが、農家にとっては塩害を防ぎ、水害を無くす門が、生態系を変えてそこに住んでいた生き物たちを追いやってしまったということもまた事実です。
長崎の諫早湾の干拓でたくさんの意見が出ていますが、中途半端にやったり、途中での変更などは大きな問題を残すということも忘れてはいけないでしょう。
私達は色々な事実を知らないと判断はできません。また、環境保全の取り組みもたくさんあります。
一方的に意見を聞いてもわからない事が多いです。霞ケ浦も一時期に比べればきれいになってきました。
昔、娘の夏休みの自由研究で各地の水の濁り具合を調べてまわりました。
もう15年以上前ですが、当時土浦港は緑のアオコが大量発生して水も汚くて大変でした。
皆さんの努力で少しずつ改善され、また泳げるくらいの湖に戻ってほしいですね。
もう少し勉強してみたいと思います。
すると、対岸の関川地区に作られた「八木干拓」の事業に巨額の私財を投入されたことが載っていた。
高浜の繁栄、船の流通が鉄道に変わって、また海外の大豆などの流通に翻弄されたとしても、そこに昔一時代を築いた人達がおり、生活があって物流があった。その時代の流れが見えてくる思いであった。
では、「私財を投入してしまったという八木干拓を見なくては私のブログは先に進めない」ということで見に行った。
場所は高浜からは愛郷橋(現在新橋に工事中)から関川、井関の方に霞ケ浦に沿って進むと関川小学校に方に登らずに左の湖に沿って道は続いている。こちらに一面に広がる水田地帯が八木干拓地である。
地図で見ると丁度飛行場の滑走路のように真っ直ぐに道が続いている。

八木地区のはずれから高浜方面に真っ直ぐに堤防が続いている。
右側が霞ケ浦、左手は干拓地。真っ正面に筑波山が見える。あまり天気が良くなかったので少し霞んでいる。

霞ケ浦の右岸・左岸・中岸、北浦の右岸・左岸などと呼ぶのですね。あまりなじみのある言い方ではないので写真を撮ってみました。昔の霞ケ浦町(出島町)と呼ばれていたところはこの中岸に入るようです。

この辺りは細い川のようになっていて、向こう側が左岸です。そしてこの湖の先端に高浜があります。

この堤防の途中に、このような看板がかかっていました。
タイトルは「湖岸植生保全の取り組み(石川地区)」となっています。
目的は「オニバス等浮草植物を復元し、オニバス・ヨシ原などから広がりのある景観を取り戻す」とあります。

現在大分復元されたのでしょうか? ヨシ原などが増えているようでもあります。
このあたり、太公望には隠れたメッカのようです。私は釣りをしませんのでわかりません。
この狭い堤防の道路に数台の車が止まって、下では釣り糸を垂れていました。
さて、何故この八木干拓を取り上げる必要があったのか?
歴史的な背景や、この地の洪水などの歴史も見て行かなければなりません。
高浜河岸の繁栄ぶりや、この八木干拓についても石岡市史下巻にかなり詳しく書かれています。
しかし、その全部を読むのは大変なのでつまみ食いをしながら少しずつ理解していきたい。
まずは手始めにこの八木干拓事業のさわりを少し。
大正八年に、「開墾助成法」が制定され、開墾にかなりの助成金が出されることになった。これは当時食糧不足で米価の高騰がおきており、米作りが盛んに奨励されたことが背景にあった。
そこに手を挙げたのがこの高浜で醤油醸造で財をなしていた羽成卯兵衛氏と真壁町の猪瀬蔵太郎氏であった。
大正9年に埋立免許を取得し、10年に着工したが、「堤防を築くのに打ち込んだ長さ10mの松の杭数千本もほとんど倒され、山のように投入した土塊は一夜で沖に流されてしまいました。
当初の予算約24万円に対し、かかった費用は44万円強。しかしこれ以外の公簿外費用が39万円以上もかかったのです。助成金が26万円強ありましたが、私財として59万円程かかってしまいました」と息子の同名の羽成卯兵衛さんが後に書かれています。当時の価格を今の価値に換算すると約600倍くらいということなので、今の価格で3億6千万円位でしょうか。
この場所は三又沖からは大分奥に入っていますが、国分寺の鐘伝説にでてくる三又沖とからんで、工事の途中では「羽成の財産は何倍あっても三又沖に呑まれてしまう」などといわれたとも書かれていますが、わかるような気がします。
この干拓の完成は堤防が大正15年。耕作地は昭和3年に完成しました。
しかし、その後昭和10年、13年、16年、24年に堤防が決壊する被害が出ています。
今の東北の津波ではありませんが、風水害での被害は何回もこの地を襲っています。
今は水門ができ、忘れたようになっていますが、農家にとっては塩害を防ぎ、水害を無くす門が、生態系を変えてそこに住んでいた生き物たちを追いやってしまったということもまた事実です。
長崎の諫早湾の干拓でたくさんの意見が出ていますが、中途半端にやったり、途中での変更などは大きな問題を残すということも忘れてはいけないでしょう。
私達は色々な事実を知らないと判断はできません。また、環境保全の取り組みもたくさんあります。
一方的に意見を聞いてもわからない事が多いです。霞ケ浦も一時期に比べればきれいになってきました。
昔、娘の夏休みの自由研究で各地の水の濁り具合を調べてまわりました。
もう15年以上前ですが、当時土浦港は緑のアオコが大量発生して水も汚くて大変でした。
皆さんの努力で少しずつ改善され、また泳げるくらいの湖に戻ってほしいですね。
もう少し勉強してみたいと思います。
幻に終わった加波山鉄道
玉里の湖畔から高浜駅に戻って、急に昔の加波山鉄道ができるはずだった跡を見てみたくなった。
この鉄道は高浜から柿岡までをまず鉄道を敷き、その後、水戸線の福原までをつなぐ計画でした。
そして、高浜-柿岡間の認可がおりたのが昭和2年で、用地買収もし、一部工事も始まったようですが、資金繰りで頓挫して鉄道は敷かれずに幻で終わりました。
詳細は私のホームページ(こちら)を見てください。
計画がスタートしたのは関東大震災(大正12年)で東京に建築用木材がたくさん必要になったからでした。
この木材を加波山や筑波山の麓から鉄道で高浜まで運び、そこから東京まで常磐線、または船で運ぶ計画だったようです。
なんでもそうですが、計画を始めた時はまだ石岡の製糸産業も景気が良かったのですが、昭和2年に金融恐慌が起こり、昭和4年に石岡中町を中心とした大火災が発生し、同じ年の10月に政界大恐慌がおこります。
この鉄道を支援する財力も計画を実行に移す時にはなくなってしまったというのが正しいのでしょう。

高浜駅の下りホームの裏側が広く空いています。
私はここに加波山鉄道のホームができるはずだったのではないかと思いました。
高浜駅は駅前にもほとんどお店も何もありません。
駅の名所案内も釣り場の案内くらいしか書いてありません。
でも霞ヶ浦の船運が発達していた時には、蒸気船も発着し、米相場も「高浜相場」などと言われて、ここで相場も決まったりしていたそうです。
そのため、加波山鉄道もここ高浜から発車させる計画だったのです。
これは今は廃止になった鹿島鉄道の前身「鹿島参宮鉄道」も石岡ではなく高浜を基点とする計画でした。

この駅の構内の裏手に数年前にできたまっすぐ筑波山の方に向かう道ができました。
周りは田んぼや畑ばかりですから低い低地を1本のまっすぐな道が続いています。
これがおそらくその鉄道が通るはずだった場所だと思っています。
この道を真っ直ぐいくと恋瀬橋のところで6号国道を横切ります。
そこから先は、今の恋瀬川沿いの土手の上を走るサイクリングロードとなっているところを通る計画だったと思います。そして、川を亘って志筑地区を通ってまた川を渡りなおし、根小屋のところをやはりまっすぐ走る道路が作られています。この道は通称「汽車道」と呼ばれたりしているようです。
この道路がきれいに整備されたのもまだ数年前のことです。
もちろん鉄道が出来ていたとしてもこのご時世ですのでいち早く廃止となった可能性が高いと思います。
でもこのような鉄道の道が出来ていたとしたら、今見る景色はおそらく違ったものになっていたと思います。
また何もない田舎駅と思える高浜の駅にもこのような歴史があったということも覚えていても良いことだと思います。
また、高浜からの上り電車はすぐに恋瀬川をわたります。
この川の上を差し掛かった電車の窓からみる筑波山の姿がとても美しいのです。

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この鉄道は高浜から柿岡までをまず鉄道を敷き、その後、水戸線の福原までをつなぐ計画でした。
そして、高浜-柿岡間の認可がおりたのが昭和2年で、用地買収もし、一部工事も始まったようですが、資金繰りで頓挫して鉄道は敷かれずに幻で終わりました。
詳細は私のホームページ(こちら)を見てください。
計画がスタートしたのは関東大震災(大正12年)で東京に建築用木材がたくさん必要になったからでした。
この木材を加波山や筑波山の麓から鉄道で高浜まで運び、そこから東京まで常磐線、または船で運ぶ計画だったようです。
なんでもそうですが、計画を始めた時はまだ石岡の製糸産業も景気が良かったのですが、昭和2年に金融恐慌が起こり、昭和4年に石岡中町を中心とした大火災が発生し、同じ年の10月に政界大恐慌がおこります。
この鉄道を支援する財力も計画を実行に移す時にはなくなってしまったというのが正しいのでしょう。

高浜駅の下りホームの裏側が広く空いています。
私はここに加波山鉄道のホームができるはずだったのではないかと思いました。
高浜駅は駅前にもほとんどお店も何もありません。
駅の名所案内も釣り場の案内くらいしか書いてありません。
でも霞ヶ浦の船運が発達していた時には、蒸気船も発着し、米相場も「高浜相場」などと言われて、ここで相場も決まったりしていたそうです。
そのため、加波山鉄道もここ高浜から発車させる計画だったのです。
これは今は廃止になった鹿島鉄道の前身「鹿島参宮鉄道」も石岡ではなく高浜を基点とする計画でした。

この駅の構内の裏手に数年前にできたまっすぐ筑波山の方に向かう道ができました。
周りは田んぼや畑ばかりですから低い低地を1本のまっすぐな道が続いています。
これがおそらくその鉄道が通るはずだった場所だと思っています。
この道を真っ直ぐいくと恋瀬橋のところで6号国道を横切ります。
そこから先は、今の恋瀬川沿いの土手の上を走るサイクリングロードとなっているところを通る計画だったと思います。そして、川を亘って志筑地区を通ってまた川を渡りなおし、根小屋のところをやはりまっすぐ走る道路が作られています。この道は通称「汽車道」と呼ばれたりしているようです。
この道路がきれいに整備されたのもまだ数年前のことです。
もちろん鉄道が出来ていたとしてもこのご時世ですのでいち早く廃止となった可能性が高いと思います。
でもこのような鉄道の道が出来ていたとしたら、今見る景色はおそらく違ったものになっていたと思います。
また何もない田舎駅と思える高浜の駅にもこのような歴史があったということも覚えていても良いことだと思います。
また、高浜からの上り電車はすぐに恋瀬川をわたります。
この川の上を差し掛かった電車の窓からみる筑波山の姿がとても美しいのです。



須賀神社(石岡市三村)
地域に眠る歴史シリーズで石岡がまだまとまっていないので、今年はこちらを手掛けてみたいと正月明けてから考えるようになった。
しかし、意外に難しい。どうまとめてよいのか地元だとまとめやすいようで逆にうまくまとまらない。
書きたいことが多くなり過ぎたということでもあるし、まだ知らないことがたくさんあるということでもあるし、書くとどう思われるか心配だということもある。
まあでも少しずつ過去の記事などをまとめて行きたいと思う。
そこでまず高浜や三村、石川地区などをまとめ始めたが、記事にしていないで書いておかねばならないこともでてきた。
今日はその中で夏祭りが盛んな三村の須賀神社へ行ってみた。

須賀神社や素鵞神社は明治時代の廃仏毀釈で神・仏分離というよりは仏を壊せという命令によりそれまでの天王社などインドの牛頭天王(ごずてんおう)を祀っていたところがスサノオなどを祀る神社になった時につけられた名前のところがほとんどのはずだと思う。

ここも昔から祇園祭がさかんに行われていた。
いまも毎年7月に神輿が出て、夜になると神社に戻ろうとする神輿を上から何度も押し返して、壮絶な争いが行われる。
その迫力を楽しみにしている人も多いという。

この神社の祭りが何時ごろから行われてきたのかはよくわからないが、昔は神輿の御渚下りなども行われ、「三村の祇園」は近郊で一番の盛んな祭りだったといわれています。
石岡囃子などもこの三村流がかなり取り込まれています。
この欅の大木は見事です。


本殿。

子安等の地蔵

神社脇に建てられた鳥居と「不動明王」と書かれた殿。

中にはこんな像が置かれていた。
不動明王というよりもインドの人形といった感じ。
牛頭天王にやはりかかわっているのか?
この神社にはこのほかにも変わったインド風の建物があった。
三村地区は上郷と下郷に分かれてそれぞれ村社がある。
上郷の村社が須賀神社であり、下郷には鹿島神社がある。
しかし、意外に難しい。どうまとめてよいのか地元だとまとめやすいようで逆にうまくまとまらない。
書きたいことが多くなり過ぎたということでもあるし、まだ知らないことがたくさんあるということでもあるし、書くとどう思われるか心配だということもある。
まあでも少しずつ過去の記事などをまとめて行きたいと思う。
そこでまず高浜や三村、石川地区などをまとめ始めたが、記事にしていないで書いておかねばならないこともでてきた。
今日はその中で夏祭りが盛んな三村の須賀神社へ行ってみた。

須賀神社や素鵞神社は明治時代の廃仏毀釈で神・仏分離というよりは仏を壊せという命令によりそれまでの天王社などインドの牛頭天王(ごずてんおう)を祀っていたところがスサノオなどを祀る神社になった時につけられた名前のところがほとんどのはずだと思う。

ここも昔から祇園祭がさかんに行われていた。
いまも毎年7月に神輿が出て、夜になると神社に戻ろうとする神輿を上から何度も押し返して、壮絶な争いが行われる。
その迫力を楽しみにしている人も多いという。

この神社の祭りが何時ごろから行われてきたのかはよくわからないが、昔は神輿の御渚下りなども行われ、「三村の祇園」は近郊で一番の盛んな祭りだったといわれています。
石岡囃子などもこの三村流がかなり取り込まれています。
この欅の大木は見事です。


本殿。

子安等の地蔵

神社脇に建てられた鳥居と「不動明王」と書かれた殿。

中にはこんな像が置かれていた。
不動明王というよりもインドの人形といった感じ。
牛頭天王にやはりかかわっているのか?
この神社にはこのほかにも変わったインド風の建物があった。
三村地区は上郷と下郷に分かれてそれぞれ村社がある。
上郷の村社が須賀神社であり、下郷には鹿島神社がある。
鹿島神社(石岡市三村)
石岡の高浜の対岸である三村地区を数回にわたって書いていきます。
前回は上郷地区の旧村社である須賀神社を紹介しましたが、石岡の人にもこの神社の存在はかなり浸透していそうです。
理由はこの神社の祇園祭がかなり激しいの三村の祇園に伝わるお囃子が石岡のお祭りに踏襲されているからだと思います。
しかし、私がこの町に抱くイメージは次の2つです。
1)平安時代後期の前九年の役と呼ばれる、源頼義と(八幡太郎)義家の親子が奥州に安部氏討伐に向かった途中にこの地を通っただろうこと。(11世紀半ば)
2)この地の山の上(現三村小学校)に天正年間(1573~1592)の初期に府中を守る大掾慶幹が南の小田氏防衛のために三村城を築城し、次男の常春を城主としたが、小田氏や小川の園部氏との争いの中、城は陥落し、若き25歳の常春が逃げ延びる途中自害して果てたということ。
これが府中大掾氏の滅亡につながっているということ。(16世紀後半)

あまりこのようなことを考える人が少ないようなので、少し国土地理院地図で考えてみたい。
上の地図で見てわかるように、三村は府中(石岡)の高浜とは恋瀬川をはさんで反対側(南側)にあります。
前九年の役で奥州に向かう源頼義親子たちの軍勢は地図にある「正月平」で正月を迎えることになりました。
わずかな住民はこの親子たちに自分たちでできる限りのもてなしをして正月を祝ったそうです。
このため、戦い終わって都に帰って親子から感謝の気持ちを込めて「黄金のはたし」が贈られたと石岡市史などには書かれています。
この地名もそれにあやかってめでたい「正月平」となりました。
もちろんこれがどこまで真実かはよくわかりません。
各地に鎌倉時代などにいろいろな伝説が作られました。
でも私はこの話を少し信じています。
「黄金のはたし」とは何でしょうか? 正確に書かれた記事は見かけません。
ただこの「ハタシ」といわれるものはこの部落より霞ヶ浦先端にある歩崎観音へ寄進されたといわれています。
この歩崎観音も長い間33年に1度しか開帳されずにきたので、このはたしも眠ったままでした。
しかし、数年前より8月の歩崎祭りの期間中に毎年開帳されるようになりました。
しかし「黄金のはたし」はありません。
昔あったといわれているのは竜女が安産祈願で無事子どもが生まれて寄進したと伝わる「黄金のはたおり機」でした。
昭和の戦争中?東京に展示で持ち出してから帰ってきていないで行方不明だそうです。
源頼義親子たちの軍勢はここから常陸国府(府中=石岡)にこの恋瀬川を馬で渡りました。
しかし沼のようにぬかるんでいて馬は足を取られて前に進めません。
そこで川岸に生えていた茅などを刈り取ってたくさんぬかるみに敷き詰めて川を渡ることができたといわれています。
古東海道の跡をおいかけてこのような話に遭遇すると、このあたりで昔は川を渡ったのかもしれないとつい話に耳を傾けてしまうのです。
今日はそんな中、三村の下郷地区の村社であった「鹿島神社」を探して行ってみました。
高浜から愛郷橋を渡って進み、突き当たり脇の道を左方向(石川の方向)に曲がりますが、すぐにまた右に曲がった、高浜からほぼまっすぐ進んだ位置にあります。

この神社については古いようですが、現地にも何もかかれたものは置かれていません。神社名も記されていません。

本殿です。
鹿島神社というのでタケミカヅチを祀っていると思います。
しかしこの神社と別に「香取神社」「息栖神社」も近くにあったようです。
明治になり香取・息栖の両社はこの鹿島神社に合祀されたようです。

神社の古さはこの古木を見てもわかります。
さて、この神社には神主さんは常駐していないようです。
この神社というよりはこの近くに「羽成子」という地名があり気になっています。
羽成子=はなし と読むようですが、「羽梨」に通じます。
延喜式に書かれた常陸国式内社(茨城郡 3座)に「羽梨山神社」があり、平安時代の三代実録には羽梨神が書かれています。
これは現在笠間市(岩間)の羽梨山神社とされています。
しかし、小田氏が羽梨宮に集結して海を渡って小川の園部氏をせめたとなると、この羽梨宮はここの「羽成子」という名前と地形が一致します。
もしかしたらこの鹿島神社が延喜式式内社なのかもしれません。
前に書いた「三村城秘話」などと合わせて読んでみると何か面白そうですね。
前回は上郷地区の旧村社である須賀神社を紹介しましたが、石岡の人にもこの神社の存在はかなり浸透していそうです。
理由はこの神社の祇園祭がかなり激しいの三村の祇園に伝わるお囃子が石岡のお祭りに踏襲されているからだと思います。
しかし、私がこの町に抱くイメージは次の2つです。
1)平安時代後期の前九年の役と呼ばれる、源頼義と(八幡太郎)義家の親子が奥州に安部氏討伐に向かった途中にこの地を通っただろうこと。(11世紀半ば)
2)この地の山の上(現三村小学校)に天正年間(1573~1592)の初期に府中を守る大掾慶幹が南の小田氏防衛のために三村城を築城し、次男の常春を城主としたが、小田氏や小川の園部氏との争いの中、城は陥落し、若き25歳の常春が逃げ延びる途中自害して果てたということ。
これが府中大掾氏の滅亡につながっているということ。(16世紀後半)

あまりこのようなことを考える人が少ないようなので、少し国土地理院地図で考えてみたい。
上の地図で見てわかるように、三村は府中(石岡)の高浜とは恋瀬川をはさんで反対側(南側)にあります。
前九年の役で奥州に向かう源頼義親子たちの軍勢は地図にある「正月平」で正月を迎えることになりました。
わずかな住民はこの親子たちに自分たちでできる限りのもてなしをして正月を祝ったそうです。
このため、戦い終わって都に帰って親子から感謝の気持ちを込めて「黄金のはたし」が贈られたと石岡市史などには書かれています。
この地名もそれにあやかってめでたい「正月平」となりました。
もちろんこれがどこまで真実かはよくわかりません。
各地に鎌倉時代などにいろいろな伝説が作られました。
でも私はこの話を少し信じています。
「黄金のはたし」とは何でしょうか? 正確に書かれた記事は見かけません。
ただこの「ハタシ」といわれるものはこの部落より霞ヶ浦先端にある歩崎観音へ寄進されたといわれています。
この歩崎観音も長い間33年に1度しか開帳されずにきたので、このはたしも眠ったままでした。
しかし、数年前より8月の歩崎祭りの期間中に毎年開帳されるようになりました。
しかし「黄金のはたし」はありません。
昔あったといわれているのは竜女が安産祈願で無事子どもが生まれて寄進したと伝わる「黄金のはたおり機」でした。
昭和の戦争中?東京に展示で持ち出してから帰ってきていないで行方不明だそうです。
源頼義親子たちの軍勢はここから常陸国府(府中=石岡)にこの恋瀬川を馬で渡りました。
しかし沼のようにぬかるんでいて馬は足を取られて前に進めません。
そこで川岸に生えていた茅などを刈り取ってたくさんぬかるみに敷き詰めて川を渡ることができたといわれています。
古東海道の跡をおいかけてこのような話に遭遇すると、このあたりで昔は川を渡ったのかもしれないとつい話に耳を傾けてしまうのです。
今日はそんな中、三村の下郷地区の村社であった「鹿島神社」を探して行ってみました。
高浜から愛郷橋を渡って進み、突き当たり脇の道を左方向(石川の方向)に曲がりますが、すぐにまた右に曲がった、高浜からほぼまっすぐ進んだ位置にあります。

この神社については古いようですが、現地にも何もかかれたものは置かれていません。神社名も記されていません。

本殿です。
鹿島神社というのでタケミカヅチを祀っていると思います。
しかしこの神社と別に「香取神社」「息栖神社」も近くにあったようです。
明治になり香取・息栖の両社はこの鹿島神社に合祀されたようです。

神社の古さはこの古木を見てもわかります。
さて、この神社には神主さんは常駐していないようです。
この神社というよりはこの近くに「羽成子」という地名があり気になっています。
羽成子=はなし と読むようですが、「羽梨」に通じます。
延喜式に書かれた常陸国式内社(茨城郡 3座)に「羽梨山神社」があり、平安時代の三代実録には羽梨神が書かれています。
これは現在笠間市(岩間)の羽梨山神社とされています。
しかし、小田氏が羽梨宮に集結して海を渡って小川の園部氏をせめたとなると、この羽梨宮はここの「羽成子」という名前と地形が一致します。
もしかしたらこの鹿島神社が延喜式式内社なのかもしれません。
前に書いた「三村城秘話」などと合わせて読んでみると何か面白そうですね。
常春寺(三村)
高浜の対岸にあたる「三村」地区を散策しています。
昨日書いたようにこの三村小学校がある高台には府中城の大掾(だいじょう)貞国の弟の大掾常春(つねはる)が小田氏の進入を防ぐために恋瀬川の対岸にあるこの地の城主となって守っていたが、1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた。

その大掾(平)常春(つねはる)が開いたといわれるのがこの常春寺(じょうしゅんじ)である。

入り口山門前の参道には古木の梅ノ木が並ぶ。

奥にある「カヤ」の木は樹齢は500年ほどと見られており、寺が建てられたときにはすでにあったとも考えられている。
常春がこの地を治めていたのはわずか1571年から1573年の2年間ほどの短い期間であった。
しかし、この地で滅んだ時の数々の伝説を残し、こうして菩提をともらう寺が今も立派に存在しうるというのもなかなか無いと思う。
どの程度地元に愛されたかは今では思い図ることもできないが、この寺や常春公の五輪搭などを見るとむかしがふっと昨日のようによみがえってくるから不思議である。
常春公が自害したとされる場所は、寺の前の田んぼのあぜ道をまっすぐ東に進み、少し登って常磐線の橋を超えてすぐその先を右に下った麓にある。

(三村常春(つねはる)公の五輪塔と椿の木)
昨日書いたようにこの三村小学校がある高台には府中城の大掾(だいじょう)貞国の弟の大掾常春(つねはる)が小田氏の進入を防ぐために恋瀬川の対岸にあるこの地の城主となって守っていたが、1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた。

その大掾(平)常春(つねはる)が開いたといわれるのがこの常春寺(じょうしゅんじ)である。

入り口山門前の参道には古木の梅ノ木が並ぶ。

奥にある「カヤ」の木は樹齢は500年ほどと見られており、寺が建てられたときにはすでにあったとも考えられている。
常春がこの地を治めていたのはわずか1571年から1573年の2年間ほどの短い期間であった。
しかし、この地で滅んだ時の数々の伝説を残し、こうして菩提をともらう寺が今も立派に存在しうるというのもなかなか無いと思う。
どの程度地元に愛されたかは今では思い図ることもできないが、この寺や常春公の五輪搭などを見るとむかしがふっと昨日のようによみがえってくるから不思議である。
常春公が自害したとされる場所は、寺の前の田んぼのあぜ道をまっすぐ東に進み、少し登って常磐線の橋を超えてすぐその先を右に下った麓にある。

(三村常春(つねはる)公の五輪塔と椿の木)
普門寺(三村)
石岡市三村はかつては新治郡三村という名前の村であった。
昭和29年に隣の関川村とともに石岡市に合併されたが三村というのがそのまま地名に残った。
ただ一部は千代田村に編入されかすみがうら市になった。
その三村小学校のある高台には戦国末期に府中(常陸)大掾氏の支城「三村城」があったが、小田氏に滅ぼされた。
まるで敵の中に城を築いたかのような出城に思える。
この城の主「常春(つねはる)」が興した曹洞宗万隆山常春寺(じょうしゅんじ)が城跡の東の麓にあるが、今日紹介するのは城跡の西側の少し高台にある「普門寺」という真言宗豊山派の寺である。
正式名称は醫王山吉祥院普門寺。

この寺の創建は永禄2年(1559)に源海法師により開基されたといわれている。
1559年といえばまだ小田氏の支配下とはなっていないはずだ。
なにしろこのあたりで「普門寺」といえばつくば市北条にある「普門寺」を思い浮かべる。
ここは小田氏の勢力下にあった寺で、1374(応安7)年に、小田孝朝が小田城の守りとして定めた小田領4ケ寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)の一つといわれた大きな寺であった。
こちらの普門寺も4カ寺のひとつである「南円寺」の末寺であったという。
室町の頃には(つくば市)普門寺は僧兵五百、(かすみがうら市)南円寺は僧兵三百もいたというのでかなり大きな規模の寺であったようだ。
その末寺なので当然小田氏との関係が強く感じるが、創建当時はどんな関係があったのだろうか。
こちらの山門は元文(げんぶん)5年(1740)の建立と書かれていたが、だいぶ修理したのだろうか屋根もきれいであった。


鐘楼は大正時代。
手前の宝篋印塔?はいつのものだろうか。
時代を感じさせる。

大きな本堂。昭和53年に再建されたものだそうだ。

本堂入り口に「三光松」と石碑があったが、いきさつはわからない。
つくばの三光院普門寺から持ってきたものなのかもしれない。
昭和29年に隣の関川村とともに石岡市に合併されたが三村というのがそのまま地名に残った。
ただ一部は千代田村に編入されかすみがうら市になった。
その三村小学校のある高台には戦国末期に府中(常陸)大掾氏の支城「三村城」があったが、小田氏に滅ぼされた。
まるで敵の中に城を築いたかのような出城に思える。
この城の主「常春(つねはる)」が興した曹洞宗万隆山常春寺(じょうしゅんじ)が城跡の東の麓にあるが、今日紹介するのは城跡の西側の少し高台にある「普門寺」という真言宗豊山派の寺である。
正式名称は醫王山吉祥院普門寺。

この寺の創建は永禄2年(1559)に源海法師により開基されたといわれている。
1559年といえばまだ小田氏の支配下とはなっていないはずだ。
なにしろこのあたりで「普門寺」といえばつくば市北条にある「普門寺」を思い浮かべる。
ここは小田氏の勢力下にあった寺で、1374(応安7)年に、小田孝朝が小田城の守りとして定めた小田領4ケ寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)の一つといわれた大きな寺であった。
こちらの普門寺も4カ寺のひとつである「南円寺」の末寺であったという。
室町の頃には(つくば市)普門寺は僧兵五百、(かすみがうら市)南円寺は僧兵三百もいたというのでかなり大きな規模の寺であったようだ。
その末寺なので当然小田氏との関係が強く感じるが、創建当時はどんな関係があったのだろうか。
こちらの山門は元文(げんぶん)5年(1740)の建立と書かれていたが、だいぶ修理したのだろうか屋根もきれいであった。


鐘楼は大正時代。
手前の宝篋印塔?はいつのものだろうか。
時代を感じさせる。

大きな本堂。昭和53年に再建されたものだそうだ。

本堂入り口に「三光松」と石碑があったが、いきさつはわからない。
つくばの三光院普門寺から持ってきたものなのかもしれない。
今年もダイダラボッチの里へ
石岡市の東南にある井関地区の方に私がダイダラボッチの里と呼んで毎年訪れる場所があります。
今年も1日遅くなってしまいましたが8月17日午後に出かけてきました。
ここは江戸時代は水戸藩の領地でした。
全国で厄病が流行った時に部落の入り口に大人形を飾って厄病の進入を防ぐためにはじめられたといわれています。

代田地区の大人形。
乳、へそ、男根などにナスを使いますが、男根の根元はトウモロコシでつくられています。

梶和崎の大人形。
ここだけが16日ではなく少し早く飾られる。

古酒(ふるさき)の大人形

長者峰の大人形。 個々のものが一番大きいようだ。
森の入り口にあり少し不気味だ。

千葉や新潟・秋田などには大きな藁人形を飾る風習が残っていて、これは「鹿島様」と呼ばれている。
しかしこちらは地元では大人形と呼んでいる。
しかし代田にあることもあり、またこのあたりにも水戸の大串貝塚に伝わるダイダラボッチ伝説と同じようにダイダラボッチの足跡というのも残されていて製鉄の跡などとの関連も言われて面白い。
また今年もこの大人形に会えてうれしかった。
今年も1日遅くなってしまいましたが8月17日午後に出かけてきました。
ここは江戸時代は水戸藩の領地でした。
全国で厄病が流行った時に部落の入り口に大人形を飾って厄病の進入を防ぐためにはじめられたといわれています。

代田地区の大人形。
乳、へそ、男根などにナスを使いますが、男根の根元はトウモロコシでつくられています。

梶和崎の大人形。
ここだけが16日ではなく少し早く飾られる。

古酒(ふるさき)の大人形

長者峰の大人形。 個々のものが一番大きいようだ。
森の入り口にあり少し不気味だ。

千葉や新潟・秋田などには大きな藁人形を飾る風習が残っていて、これは「鹿島様」と呼ばれている。
しかしこちらは地元では大人形と呼んでいる。
しかし代田にあることもあり、またこのあたりにも水戸の大串貝塚に伝わるダイダラボッチ伝説と同じようにダイダラボッチの足跡というのも残されていて製鉄の跡などとの関連も言われて面白い。
また今年もこの大人形に会えてうれしかった。
三村の地名
私が最近疑問に思っていた地名に地元石岡市の「三村」がある。
地元なのだから何か知っているのではないかとの問い合わせも受けた事がある。
その理由は戦国時代に備中(岡山県)で名をはせた武将の「三村氏」が、その氏族の出は常陸国の筑波郡三村郷だということにある。
しかし、現在この筑波郡地域には「三村」という地名は残されておらず、石岡の三村ではないかと尋ねて来るのだ。
また常陸国筑波郡の隣りが新治郡で、この新治郡が古代から検地や行政区分時にかなり広い範囲で変遷しており、この現在石岡市の三村も昔は新治郡にあり、近くに新治(にいはり)地名があり、新治小学校もあるから複雑だ。
戦国時代の武家を調査しているサイトでも、この三村氏を新治郡の三村だとしているものも多い。
ただ、平安時代の辞書ともいえる「倭名類聚抄(和名抄)」には、筑波郡の中に9つの郷名(大貫、筑波、水守、三村、栗原、諸蒲、清水、佐野、方穂)があり、その中に「三村郷」が記載されており、新治郡には三村という郷名はない。

そこで思い付いたのが、つくば市北条近くの現在登山(ハイキング)で賑わっている「宝篋山(ほうきょうさん)」が昔は三村山と呼ばれていた事だ。
近くを通っていて突然ひらめいた。 ああここの事なのだと・・・
鎌倉時代初期に鎌倉御家人で関東守護をしていた「小田氏(八田知家)」の招きで、この地にやって来た「忍性」が大きな「極楽寺」という寺をこの山の麓に建てた。
極楽寺は別名「三村寺」とも呼ばれていて、正式名称は「三村山清冷院極楽寺」という。
そして坂東における律宗布教の拠点としてここに寺を建てたと考えられている。
しかし、その後忍性は鎌倉に拠点を移したこともあり、次第にこの寺は衰退し、現在大きな五輪塔などが残されているだけで、寺の伽藍などはすべて消えうせ、宝篋山登山の一ルートとして「極楽寺コース」なあり、多くの登山客が訪れるが、三村という地名にあまり気をつける人はいないようだ。

(宝篋山の麓少し登った所に残された極楽寺の大きな五輪搭)
恐らく、この山の麓から小田にかけては昔「三村郷」と呼ばれていたに違いない。
備中三村氏はこの筑波郡三村郷の出身と見てよいと思う。
常陸国は平国香からの平氏が進出して開拓を進めていきましたが、一方源氏は奥州征伐でやって来た八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光(源義光)の影響が大きい。
後三年の役の後、常陸介として常陸国にやって来た源義光(よしみつ)が武田郷(ひたちなか市)に住み、その後、子の源義清(武田冠者)と共に甲斐国に移って、子孫が甲斐武田氏に成るが、源義光の長男は常陸国を制した佐竹氏となっている。
一方調べてみると、備中三村氏もこの義光の子孫の「信濃小笠原氏」から出ている。
この小笠原氏も甲斐国巨摩郡(山梨県)にある地名から来ており、備中三村氏は、この小笠原氏からわかれているとされる。
少し複雑だが、常陸国から追放された源義光(新羅三郎)が移り住んだのは甲斐国(山梨県)で、源義清(武田冠者)の孫が甲斐国巨麻郡加賀美郷に住して「加賀美 遠光(かがみ とおみつ)」となり、その次男が甲斐国巨摩郡の小笠原荘に住して「小笠原氏」となった。
その小笠原氏の子孫が戦国時代に常陸国筑波郡三村に住して三村氏と名乗るようになったのではないか。
当時この三村の近くは小田氏が勢力をはっていたので、三村氏はこの小田氏と関係が深かったのかもしれない。
しかし、すぐ近くには多気大掾もいたが、鎌倉初期に滅ぼされてしまい当時は小田氏の支配地域であったろう。
地元石岡の三村は明治以降の町村合併などで出来た地名ではない。
一般に3つの村(邑)が一緒になって「三村」という名になるのは解るが、三村の名はもっと昔からあって、石岡市と合併するまでは新治郡の三村であったようだ。
石岡市史によると、その昔の室町時代に「上郷(上ノ宮地区)」、下郷(下ノ宮地区)」、「中郷谷(二子塚・江後田地区)」が合して三村という村が現れたと書かれている。
この新治郡にあった三村から筑波山の麓に士族が移ったという記録は残念ながら発見できなかった。
戦国時代末期には常陸国府(府中)を支配していた大掾氏がこの三村の地に小田氏と対峙する出城(三村城)を築いて、そこに弟の「平常春(つねはる)」を配した。
しかし、これも小田に攻め滅ぼされて落城した(1573年)。
このとき城の外で自害したとされる平常春の五輪塔が椿の木の下にひっそりと眠っています。
私が前に書いた話を収録した
茨城の民話Webアーカイブ ⇒ 三村城秘話
などもご参考まで

(平常春の墓といわれるの五輪搭)
地元なのだから何か知っているのではないかとの問い合わせも受けた事がある。
その理由は戦国時代に備中(岡山県)で名をはせた武将の「三村氏」が、その氏族の出は常陸国の筑波郡三村郷だということにある。
しかし、現在この筑波郡地域には「三村」という地名は残されておらず、石岡の三村ではないかと尋ねて来るのだ。
また常陸国筑波郡の隣りが新治郡で、この新治郡が古代から検地や行政区分時にかなり広い範囲で変遷しており、この現在石岡市の三村も昔は新治郡にあり、近くに新治(にいはり)地名があり、新治小学校もあるから複雑だ。
戦国時代の武家を調査しているサイトでも、この三村氏を新治郡の三村だとしているものも多い。
ただ、平安時代の辞書ともいえる「倭名類聚抄(和名抄)」には、筑波郡の中に9つの郷名(大貫、筑波、水守、三村、栗原、諸蒲、清水、佐野、方穂)があり、その中に「三村郷」が記載されており、新治郡には三村という郷名はない。

そこで思い付いたのが、つくば市北条近くの現在登山(ハイキング)で賑わっている「宝篋山(ほうきょうさん)」が昔は三村山と呼ばれていた事だ。
近くを通っていて突然ひらめいた。 ああここの事なのだと・・・
鎌倉時代初期に鎌倉御家人で関東守護をしていた「小田氏(八田知家)」の招きで、この地にやって来た「忍性」が大きな「極楽寺」という寺をこの山の麓に建てた。
極楽寺は別名「三村寺」とも呼ばれていて、正式名称は「三村山清冷院極楽寺」という。
そして坂東における律宗布教の拠点としてここに寺を建てたと考えられている。
しかし、その後忍性は鎌倉に拠点を移したこともあり、次第にこの寺は衰退し、現在大きな五輪塔などが残されているだけで、寺の伽藍などはすべて消えうせ、宝篋山登山の一ルートとして「極楽寺コース」なあり、多くの登山客が訪れるが、三村という地名にあまり気をつける人はいないようだ。

(宝篋山の麓少し登った所に残された極楽寺の大きな五輪搭)
恐らく、この山の麓から小田にかけては昔「三村郷」と呼ばれていたに違いない。
備中三村氏はこの筑波郡三村郷の出身と見てよいと思う。
常陸国は平国香からの平氏が進出して開拓を進めていきましたが、一方源氏は奥州征伐でやって来た八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光(源義光)の影響が大きい。
後三年の役の後、常陸介として常陸国にやって来た源義光(よしみつ)が武田郷(ひたちなか市)に住み、その後、子の源義清(武田冠者)と共に甲斐国に移って、子孫が甲斐武田氏に成るが、源義光の長男は常陸国を制した佐竹氏となっている。
一方調べてみると、備中三村氏もこの義光の子孫の「信濃小笠原氏」から出ている。
この小笠原氏も甲斐国巨摩郡(山梨県)にある地名から来ており、備中三村氏は、この小笠原氏からわかれているとされる。
少し複雑だが、常陸国から追放された源義光(新羅三郎)が移り住んだのは甲斐国(山梨県)で、源義清(武田冠者)の孫が甲斐国巨麻郡加賀美郷に住して「加賀美 遠光(かがみ とおみつ)」となり、その次男が甲斐国巨摩郡の小笠原荘に住して「小笠原氏」となった。
その小笠原氏の子孫が戦国時代に常陸国筑波郡三村に住して三村氏と名乗るようになったのではないか。
当時この三村の近くは小田氏が勢力をはっていたので、三村氏はこの小田氏と関係が深かったのかもしれない。
しかし、すぐ近くには多気大掾もいたが、鎌倉初期に滅ぼされてしまい当時は小田氏の支配地域であったろう。
地元石岡の三村は明治以降の町村合併などで出来た地名ではない。
一般に3つの村(邑)が一緒になって「三村」という名になるのは解るが、三村の名はもっと昔からあって、石岡市と合併するまでは新治郡の三村であったようだ。
石岡市史によると、その昔の室町時代に「上郷(上ノ宮地区)」、下郷(下ノ宮地区)」、「中郷谷(二子塚・江後田地区)」が合して三村という村が現れたと書かれている。
この新治郡にあった三村から筑波山の麓に士族が移ったという記録は残念ながら発見できなかった。
戦国時代末期には常陸国府(府中)を支配していた大掾氏がこの三村の地に小田氏と対峙する出城(三村城)を築いて、そこに弟の「平常春(つねはる)」を配した。
しかし、これも小田に攻め滅ぼされて落城した(1573年)。
このとき城の外で自害したとされる平常春の五輪塔が椿の木の下にひっそりと眠っています。
私が前に書いた話を収録した
茨城の民話Webアーカイブ ⇒ 三村城秘話
などもご参考まで

(平常春の墓といわれるの五輪搭)
三村の地名(二)- 長見寺の愛宕神社
石岡市の三村の名前について前回書きましたが、この三村城跡のあった三村小学校のある高台の西側にやはり少し高くなった小山がある。
三村小学校も統廃合の対象になってしまったとも聞いたが、この小学校区の地区名(小字名)は、「大塚,大原,正月平,新生,城構内,長見寿(寺),吹上,諸士久保,古道,羽成子,坂井戸,御前山,水内,八幡,今泉,後久保」の16地区がある。
それぞれの地名にとても興味を引かれるものが多く、三村城にかかわる遺稿としての名前が多く残されているようだ。
また、地域も上郷・下郷の内郷とその周りの外郷に別れ、上郷・下郷の総鎮守はこの地方では有名な「須賀神社」(上宮)であり、その他の外郷(羽成子、坂井戸、御前山、大塚、正月平)は羽成子の「鹿島神社」(下宮)のようだ。
上郷地区を見てみると旧三村城のあった高台の回りに「城構内」「今泉」「後久保」「新生」が取り囲んでおり、西に少し離れて「長見寿(寺)」がある。

もともと三村という地名は室町時代ころから呼ばれていたようだが、江戸時代初期の寛文2年(1662年)に三村から新治村が分かれてできた。この新治村は古代の新治郡(旧協和町古郡に郡衙)とは別なものであり、本当に混同してしまう。
江戸末期に高浜地方出身の国文学者である鬼沢大海(おおみ)氏の書かれた「常陸旧地考」では倭名類聚抄」に記載の新治郡は三村の事だと考えていたようである。
まあ旧協和町の郡衙跡の発掘などが行われたのは昭和になってからであり、当時分らなくても当然だと思う。
このなかで、「長見寿(寺)」とあるのは城跡より少し西に離れた小山(台地)であり、先日近くを通ってので少し散策してみた。
三村城よりの小山の先端部に、上まで続く階段があった。

こういうのがあると、すぐに上りたくなるが、結構下の土がもろく、木で作られた階段とはなっていたが一部手を使ってつかまりながら登った。 年寄りには昇り難い。

階段上り口の木の根元には月山など出羽三山講の古びた石碑があった。

小山の上には大きな古木と小さな祠が置かれていた。
かかれたものは何も無い。
地図にも何も書かれていないが、手元にある資料などで調べてみるとこの長見寿地区の鎮守で「愛宕神社」であるらしい。
ここも古墳だったのか? それとも中世の砦があった場所なのだろうか。

ここから恋瀬川の向こうに舟塚山古墳の地域や高浜の町方向がよく見渡せた。
この「長見寿」地名は、国土地理院の地図では「長見寺」とある。
昔寺が在ったものと思うが、今はその名残は発見できなかった。
ところで以前三村城跡近くの「普門寺」を訪れた時に、何故この場所に小田氏の寺とよく言われる普門寺があるのか不思議だったが、今回三村を調べていて、この寺は三村から新治村が分かれた寛文2年(1662年)に西野寺(胎安神社のある地域)から移された事が判明した。
少し暇になったらこの地域を少し探ってみたい。
城構内:弁天社、今泉:不動明王、後久保:息栖明神、諸士久保:薬師堂、吹上:大日如来、古道:岩屋不動・・・・
それに須賀神社(上宮)と鹿島神社(下宮)・・・・何か埋もれていそうにも思う。
参考文献:小野寺淳 「村落の社会組織に及ぼす相給支配の影響」 1991年 筑波大人文地理学研究 XV
三村小学校も統廃合の対象になってしまったとも聞いたが、この小学校区の地区名(小字名)は、「大塚,大原,正月平,新生,城構内,長見寿(寺),吹上,諸士久保,古道,羽成子,坂井戸,御前山,水内,八幡,今泉,後久保」の16地区がある。
それぞれの地名にとても興味を引かれるものが多く、三村城にかかわる遺稿としての名前が多く残されているようだ。
また、地域も上郷・下郷の内郷とその周りの外郷に別れ、上郷・下郷の総鎮守はこの地方では有名な「須賀神社」(上宮)であり、その他の外郷(羽成子、坂井戸、御前山、大塚、正月平)は羽成子の「鹿島神社」(下宮)のようだ。
上郷地区を見てみると旧三村城のあった高台の回りに「城構内」「今泉」「後久保」「新生」が取り囲んでおり、西に少し離れて「長見寿(寺)」がある。

もともと三村という地名は室町時代ころから呼ばれていたようだが、江戸時代初期の寛文2年(1662年)に三村から新治村が分かれてできた。この新治村は古代の新治郡(旧協和町古郡に郡衙)とは別なものであり、本当に混同してしまう。
江戸末期に高浜地方出身の国文学者である鬼沢大海(おおみ)氏の書かれた「常陸旧地考」では倭名類聚抄」に記載の新治郡は三村の事だと考えていたようである。
まあ旧協和町の郡衙跡の発掘などが行われたのは昭和になってからであり、当時分らなくても当然だと思う。
このなかで、「長見寿(寺)」とあるのは城跡より少し西に離れた小山(台地)であり、先日近くを通ってので少し散策してみた。
三村城よりの小山の先端部に、上まで続く階段があった。

こういうのがあると、すぐに上りたくなるが、結構下の土がもろく、木で作られた階段とはなっていたが一部手を使ってつかまりながら登った。 年寄りには昇り難い。

階段上り口の木の根元には月山など出羽三山講の古びた石碑があった。

小山の上には大きな古木と小さな祠が置かれていた。
かかれたものは何も無い。
地図にも何も書かれていないが、手元にある資料などで調べてみるとこの長見寿地区の鎮守で「愛宕神社」であるらしい。
ここも古墳だったのか? それとも中世の砦があった場所なのだろうか。

ここから恋瀬川の向こうに舟塚山古墳の地域や高浜の町方向がよく見渡せた。
この「長見寿」地名は、国土地理院の地図では「長見寺」とある。
昔寺が在ったものと思うが、今はその名残は発見できなかった。
ところで以前三村城跡近くの「普門寺」を訪れた時に、何故この場所に小田氏の寺とよく言われる普門寺があるのか不思議だったが、今回三村を調べていて、この寺は三村から新治村が分かれた寛文2年(1662年)に西野寺(胎安神社のある地域)から移された事が判明した。
少し暇になったらこの地域を少し探ってみたい。
城構内:弁天社、今泉:不動明王、後久保:息栖明神、諸士久保:薬師堂、吹上:大日如来、古道:岩屋不動・・・・
それに須賀神社(上宮)と鹿島神社(下宮)・・・・何か埋もれていそうにも思う。
参考文献:小野寺淳 「村落の社会組織に及ぼす相給支配の影響」 1991年 筑波大人文地理学研究 XV
三村の地名(三)羽成子と羽梨の話し
訳のわからないタイトル名「羽成子」と「羽梨」の話しだが、いずれも「はなし」と読む。
以前から気になっている三村地区にある「羽成子」について何か書いておきたいと思い立った。
でも考えるだけで纏まらないので少しわかっていることだけを記載しておきたい。
石岡市高浜の高浜神社側から愛郷橋を渡ってそのまままっすぐ三村側に突き当たった辺りが「羽成子(はなし)」という地名である。
何故このような地名になったのか良くわかっていない。

分っている事といえば、三村城(現三村小学校地)跡の近くの「須賀神社」とこの羽成子の少し高台にある「鹿島神社」の2つがこの地区の郷社で、須賀神社が上の宮、鹿島神社が下の宮と呼ばれたという。
またこの下の宮ではかなり古い縄文時代ころの遺跡も見つかっている。(下の宮遺跡)
また三村城が小田氏によって落城したときに大鷲と大鰻の決闘の話が麓の常春寺に伝わっているが、この鷲と鰻を埋葬したという鷲塚、鰻塚という名前の小山(塚)があったとされるのがこの羽成子の少し高台だという。
もっともこれは古墳で、中から2体を一つの石棺に埋葬していた埋葬方法がわかっている。
ただ、この二つの塚は堤防改修のために削掘されて今はない。
さて、羽成子の話に戻るが、天文年間(1532~1555年)に小川城主・園部宮内大輔が書いたとされる『新国誌』「園部状」という文書に、小田城主・小田政治が「羽梨之宮」に軍勢を集め、渡海して小川に着く・・・というような記載があるとされる。
そのため、この羽梨之宮はこの羽成子にある鹿島神社ではないかと考えられている。
また平安時代に書かれた延喜式の神社名簿には茨城郡に「羽梨山神社」が記されており、現在笠間市(旧岩間町)上郷にある「羽梨山神社」がこの延喜式の式内社として多くの書物に紹介されているが、本来の式内社「羽梨山神社」は、こちらにある神社ということも十分に考えられる。
この三村に大掾氏が小田氏側の守りを固めるための城を築いたのは、天正年間(1573~)の初期とみられ、この城に、府中(石岡)の城主大掾慶幹(のりとも)の次男常春を置いた。大掾氏は名前にほとんど「幹(とも)」の字を使っているので、常春は法号だと思われる。
一方小川には、現在小川小学校のある台地には、古くは鹿島神宮の社領で「小河郷」と呼ばれていたという。そこに鎌倉時代に藤原秀郷の後裔で下総国葛飾郡下河辺荘に住していた下河辺政平が「小河城」を築城し、小河氏を名乗ったのが始まりとされる。
その後、この小川(小河)氏が代々城を守ってきたが、室町時代に京都の室町幕府と関東の諸豪族とが争った結城合戦(1440-41年)で、結城方についた小河常陸介が討たれ、この小川(小河)城は小田方城として存続したようだ。享禄元年(1528)に、小田氏は、府中の大掾氏に備えるために園部兼泰を小川城に遣わし、その後小川城は「園部城」と呼ばれるようになります。
そして小田氏と敵対関係にあった府中の大掾氏とも敵対していきました。
しかし、園部兼泰の子の兼彦の代となり、大掾氏の圧力に屈して自分の娘を大掾慶幹の妻に差し出します。
これに小田正治は怒り、この小川の園部氏を攻撃しました。
そして、園部兼彦は城を追われ、小田正治の弟の左衛門尉が小川の城主となったが、城を追われた園部兼彦は、天文15年(1546)に江戸氏の援護を受け、園部城を奪回したのです。
「羽梨之宮」の記述がある小田氏の出陣の時期はこの天文年間の事であり、この小田氏による園部氏攻撃の時ではなかと思われます。
しかし、元亀2年(1571)に再度小田氏に攻められて園部城はまた小田氏の支配下になったとされています。
三村に常春の城が築かれたのは1573年頃ですので、この小田氏や園部氏、江戸氏などとの争奪戦がこの地で繰り返されていたのです。
佐竹氏は園部氏を見方につけて府中の大掾氏を攻略し1591年に大掾氏は滅亡します。
前に書いた羽成子の「鹿島神社(下の宮)の記事 ⇒ こちら
以前から気になっている三村地区にある「羽成子」について何か書いておきたいと思い立った。
でも考えるだけで纏まらないので少しわかっていることだけを記載しておきたい。
石岡市高浜の高浜神社側から愛郷橋を渡ってそのまままっすぐ三村側に突き当たった辺りが「羽成子(はなし)」という地名である。
何故このような地名になったのか良くわかっていない。

分っている事といえば、三村城(現三村小学校地)跡の近くの「須賀神社」とこの羽成子の少し高台にある「鹿島神社」の2つがこの地区の郷社で、須賀神社が上の宮、鹿島神社が下の宮と呼ばれたという。
またこの下の宮ではかなり古い縄文時代ころの遺跡も見つかっている。(下の宮遺跡)
また三村城が小田氏によって落城したときに大鷲と大鰻の決闘の話が麓の常春寺に伝わっているが、この鷲と鰻を埋葬したという鷲塚、鰻塚という名前の小山(塚)があったとされるのがこの羽成子の少し高台だという。
もっともこれは古墳で、中から2体を一つの石棺に埋葬していた埋葬方法がわかっている。
ただ、この二つの塚は堤防改修のために削掘されて今はない。
さて、羽成子の話に戻るが、天文年間(1532~1555年)に小川城主・園部宮内大輔が書いたとされる『新国誌』「園部状」という文書に、小田城主・小田政治が「羽梨之宮」に軍勢を集め、渡海して小川に着く・・・というような記載があるとされる。
そのため、この羽梨之宮はこの羽成子にある鹿島神社ではないかと考えられている。
また平安時代に書かれた延喜式の神社名簿には茨城郡に「羽梨山神社」が記されており、現在笠間市(旧岩間町)上郷にある「羽梨山神社」がこの延喜式の式内社として多くの書物に紹介されているが、本来の式内社「羽梨山神社」は、こちらにある神社ということも十分に考えられる。
この三村に大掾氏が小田氏側の守りを固めるための城を築いたのは、天正年間(1573~)の初期とみられ、この城に、府中(石岡)の城主大掾慶幹(のりとも)の次男常春を置いた。大掾氏は名前にほとんど「幹(とも)」の字を使っているので、常春は法号だと思われる。
一方小川には、現在小川小学校のある台地には、古くは鹿島神宮の社領で「小河郷」と呼ばれていたという。そこに鎌倉時代に藤原秀郷の後裔で下総国葛飾郡下河辺荘に住していた下河辺政平が「小河城」を築城し、小河氏を名乗ったのが始まりとされる。
その後、この小川(小河)氏が代々城を守ってきたが、室町時代に京都の室町幕府と関東の諸豪族とが争った結城合戦(1440-41年)で、結城方についた小河常陸介が討たれ、この小川(小河)城は小田方城として存続したようだ。享禄元年(1528)に、小田氏は、府中の大掾氏に備えるために園部兼泰を小川城に遣わし、その後小川城は「園部城」と呼ばれるようになります。
そして小田氏と敵対関係にあった府中の大掾氏とも敵対していきました。
しかし、園部兼泰の子の兼彦の代となり、大掾氏の圧力に屈して自分の娘を大掾慶幹の妻に差し出します。
これに小田正治は怒り、この小川の園部氏を攻撃しました。
そして、園部兼彦は城を追われ、小田正治の弟の左衛門尉が小川の城主となったが、城を追われた園部兼彦は、天文15年(1546)に江戸氏の援護を受け、園部城を奪回したのです。
「羽梨之宮」の記述がある小田氏の出陣の時期はこの天文年間の事であり、この小田氏による園部氏攻撃の時ではなかと思われます。
しかし、元亀2年(1571)に再度小田氏に攻められて園部城はまた小田氏の支配下になったとされています。
三村に常春の城が築かれたのは1573年頃ですので、この小田氏や園部氏、江戸氏などとの争奪戦がこの地で繰り返されていたのです。
佐竹氏は園部氏を見方につけて府中の大掾氏を攻略し1591年に大掾氏は滅亡します。
前に書いた羽成子の「鹿島神社(下の宮)の記事 ⇒ こちら
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