代田のダイダラボッチ
今日も1日中暑い日が続いた。例年高浜・三村地区の先にある井関地区代田の入口に藁に杉をつけてダイダラボッチを飾って無病息災を祈願する催しが行われており、今年も見に夕方出かけてきた。しかし今日はあまりの暑さで作業が遅れてしまったようで、夕方の5時前にはまだ藁人形しか完成していなかった。1年間飾られた人形は焼いているところで、これから杉を体に刺して大人形の形に作るのである。写真は昨日のものと、昔採ったほぼ完成した時のものを載せた。

ダイダラボッチの話は全国各地にあるが、ここの地域の名前が代田であり、何かいわくがありそうでもある。大足などという地名が水戸の方にあり、ダイダラボッチの話が尾ひれをつけて広がっていく。ここの井関地区は昔水戸藩の領地で独特の習慣などがあるようである。代田、長者峰、梶和崎、古酒の各地域に人形を飾る風習がそのまま残っているのも面白い。

ダイダラボッチの話は全国各地にあるが、ここの地域の名前が代田であり、何かいわくがありそうでもある。大足などという地名が水戸の方にあり、ダイダラボッチの話が尾ひれをつけて広がっていく。ここの井関地区は昔水戸藩の領地で独特の習慣などがあるようである。代田、長者峰、梶和崎、古酒の各地域に人形を飾る風習がそのまま残っているのも面白い。
歴史に埋もれた悲劇(香勢堂)
お盆明けの16日に代田のダイダラボッチを見に行った帰り道に偶然探していた場所を発見しました。私が歴史の里石岡ロマン紀行の中で「三村城秘話」で紹介して、その時に見つけられなかった「香勢堂」と六地蔵です。いつも近くは通っていたのにあまり立派な墓地となっていたので気がつかなかったようです。そこは高浜駅から石岡へ向かう上の道ではなく崖に沿った下の道です。昭和36年発行の「図説 石岡市史」に記載されていたので北根本を探したのにわからなかったものです。三村城は1573年に落城し、城主常春も落ち延びようとして城の近くで落馬し切腹し果てました。「南城実録・三村記」によれば三村城の危急を聞きつけ、府中城より軍勢300余が駆けつけたが、近くの中津川台に到着して三村城を望めばすでに城は真赤な炎をあげて燃えていました。義を重んじる軍兵206人はその場で切腹して果てたといいます。後にここに一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれて今に残ると記されています。その後、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に建てられた六地蔵が残るとなっています。高野勢堂は香勢堂とも書かれているが本来は「国府(こう)勢堂」であろうと紹介されていました。

六地蔵(昔は一部倒れたりしていたのを地元の組合できれいにしたとのこと。

上記の文献では206名となっていましたが、地蔵に人数が刻まれており、197名とのことです。

昔は個人所有の墓地であったが、現在は共同墓地として地元で管理されています。

この墓には地元の方で代々受け継がれているが、30代以上続いている墓もあり、少なくても500年は経っているようである。この場所は常磐線の恋瀬川にかかる橋の1本石岡よりの新しい橋のすぐ石岡側です。昔はここに橋(1本橋)がかかっていたとのこと。その橋をまっすぐ中津川方向に向かった突き当りあたりです。昔はこの辺で川を渡ったのでしょう。真っ直ぐ対岸の三村城が良く見える場所です。じもとの組合長さんにお話を聞くことができました。昔はこのあたりは何回も洪水で被害を受けたが、いまは堤防ができ被害はなくなったと。またこの墓も代々続いているが、手入れをするのも大変で、東京に出て行った人でもこちらの墓に入れてほしいと何人かがきているとのことです。お一人で暑い中手入れをされていました。脱帽で~す。頑張ってください。

六地蔵(昔は一部倒れたりしていたのを地元の組合できれいにしたとのこと。

上記の文献では206名となっていましたが、地蔵に人数が刻まれており、197名とのことです。

昔は個人所有の墓地であったが、現在は共同墓地として地元で管理されています。

この墓には地元の方で代々受け継がれているが、30代以上続いている墓もあり、少なくても500年は経っているようである。この場所は常磐線の恋瀬川にかかる橋の1本石岡よりの新しい橋のすぐ石岡側です。昔はここに橋(1本橋)がかかっていたとのこと。その橋をまっすぐ中津川方向に向かった突き当りあたりです。昔はこの辺で川を渡ったのでしょう。真っ直ぐ対岸の三村城が良く見える場所です。じもとの組合長さんにお話を聞くことができました。昔はこのあたりは何回も洪水で被害を受けたが、いまは堤防ができ被害はなくなったと。またこの墓も代々続いているが、手入れをするのも大変で、東京に出て行った人でもこちらの墓に入れてほしいと何人かがきているとのことです。お一人で暑い中手入れをされていました。脱帽で~す。頑張ってください。
縄文時代を貝塚に見てみました。
今日は霞ケ浦の古代縄文時代の生活の跡を国指定史跡である「陸平(おかだいら)貝塚」(美浦村)へ見学に行ってきました。ここは考古学のルーツともいわれるほどその方面では有名な場所です。陸平というだけあり、丘になって霞ケ浦までの距離も近いですが昔は霞ケ浦も海水であり5000年前は今より2~4m水面が高かったといわれ、この辺で海に接していたと思われます。暑い夏の日差しが注ぎ、貝塚に向かう木々の中はツクツクボウシの大合唱でした。運よく地元の協力による発掘調査(小規模ですが)の最中で、地元の小学生も手伝い貝や土器の破片を選別していました。

陸平は明治のころは岡平と称されていたという。いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されているのです。こんなに長い間人が住んでいたのです。大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。

住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いです。

今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。
陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。

陸平は明治のころは岡平と称されていたという。いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されているのです。こんなに長い間人が住んでいたのです。大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。

住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いです。

今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。
陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。
鹿子の木(カゴノキ)
昨日から急に寒くなった。
暑いときは寝不足を嘆いていたが、寒くなると体が疲れた感じになる。
なかなか丁度良い具合にはいかないものだ。
水不足は解消されたが、果物の産地としてはまだ心配だ。
さて、今日は「矢口家のカゴノキ」を紹介しよう。
場所は石岡市山崎風ヶ沢1383であるが、地元の人以外は現在あまり通らない場所だ。
ここは、昔は瓦会、部原地区と真家、岩間方面とを結ぶ街道であったという。
この場所で矢口家は茶屋を営んでおり、旅人の労をねぎらったという。

このカゴノキは樹齢約250年も経つもので、道路に斜めに張り出したようになっている。奇妙だが、昔は周りに、他の木があって邪魔をしていたためのようだ。

カゴノキは「鹿子の木」と書く。鹿の子(バンビ)の体の模様に似ているためについた名前だ。
木が大きくなるときに表皮が割れて模様になるという。
主に温暖な気候のところに生える樹木で、茨城では珍しいそうだ。
樹木もそうだが、馬滝(真家)から鳴滝(瓦会)へ山伝いの道を通っていた時に見つけた。
昔の街道であったと聞くと何か懐かしくなってきたので紹介してみた。
先日柴間の丘の上にあるギター文化館から、この方面を眺めた。
のどかな風景が広がり、その先に鐘転山(かねころばしやま)からの山並みが続いていた。
暑いときは寝不足を嘆いていたが、寒くなると体が疲れた感じになる。
なかなか丁度良い具合にはいかないものだ。
水不足は解消されたが、果物の産地としてはまだ心配だ。
さて、今日は「矢口家のカゴノキ」を紹介しよう。
場所は石岡市山崎風ヶ沢1383であるが、地元の人以外は現在あまり通らない場所だ。
ここは、昔は瓦会、部原地区と真家、岩間方面とを結ぶ街道であったという。
この場所で矢口家は茶屋を営んでおり、旅人の労をねぎらったという。

このカゴノキは樹齢約250年も経つもので、道路に斜めに張り出したようになっている。奇妙だが、昔は周りに、他の木があって邪魔をしていたためのようだ。

カゴノキは「鹿子の木」と書く。鹿の子(バンビ)の体の模様に似ているためについた名前だ。
木が大きくなるときに表皮が割れて模様になるという。
主に温暖な気候のところに生える樹木で、茨城では珍しいそうだ。
樹木もそうだが、馬滝(真家)から鳴滝(瓦会)へ山伝いの道を通っていた時に見つけた。
昔の街道であったと聞くと何か懐かしくなってきたので紹介してみた。
先日柴間の丘の上にあるギター文化館から、この方面を眺めた。
のどかな風景が広がり、その先に鐘転山(かねころばしやま)からの山並みが続いていた。
三光の宮
今日は昨夜からずっと強い雨が降り続いたがようやく夕方になって降りやんだ。
最近は天候も極端になってきた。これも地球温暖化の影響なのだろう。
世界の人口を考えればこの先人類はうまくやっていけるのかと心配になる。
自国の利益優先という間違った愛国心のエゴが地球を破滅に追いやるかも知れない。
中秋の名月はあいにく見られなかったが、前後の月は優しく輝いていた。
月の大きさは地球の1/4だから、月から地球を見たら月の4倍の大きさに見えるはずである。
地球は青いというので、どんなに美しいのだろうか?見てみたいものだ。
その美しい地球で醜いエゴが渦巻いているのはいただけない。
戦後65年が経ち私を含め戦争を知らずに育った人がほとんどになった。
しかし人類の歴史は過ちの繰り返しできた。
さ~て、これからの100年をどう乗り越えていけるのでしょうか?
ロシアへは5-6年前に訪れた時に比べて年々昔に逆戻りしているようで心配になった。
周辺の国々との間でギクシャクしてきて、軍事的な高圧化が目立つようになってきた。
北方領土などもこのままでは進みそうにない。現政権では何もできないようにも思う。
さて、いつもならもうススキの穂も目立ってくると思うのだが、彼岸花と同じく大分遅くなってしまったようである。ススキがなければ中秋の名月も物足りない。
石岡も日天宮、月天宮、星之宮という三光の宮なるものがある。
歴史は1300年程前からあるともいわれ、古そうであるが、あまり紹介されることは少ない。
特に、星之宮は現在なく、総社宮に合祀されている。
元あった場所は、石岡二高のすぐ手前(国分寺の裏手)であり、小さな公園がある。
この三つのお宮が三角形に結ばれトライアングルを形成していた。
昔にこのお宮をこの位置に配置したことは、何か意味を持たせていたはずで今では考察もされていない。
江戸時代に水戸街道(陸前浜街道)ができ、明治に鉄道が敷かれ、昭和になって国道6号線が開通したのである。
鎌倉時代の前にはどのような道があったのだろうか。
こんなことを考えるのはおかしいのかもしれないが、まあ、考えているうちに何か気がつくこともあるでしょう。
三村から中津川で恋瀬川をわたり、田島の方を通って、日天宮と月天宮(貝地)の間を抜けるような道があったのかもしれない。
護身地蔵などもあるが、戦国時代のいわれはあるが、何時からあったものだろうか?
もっとも今の位置は6号国道建設時に移動されているが・・・・。
考古学と書物の歴史以外にも地元に残る伝承などももう少し研究すると面白いのにな~。
最近は天候も極端になってきた。これも地球温暖化の影響なのだろう。
世界の人口を考えればこの先人類はうまくやっていけるのかと心配になる。
自国の利益優先という間違った愛国心のエゴが地球を破滅に追いやるかも知れない。
中秋の名月はあいにく見られなかったが、前後の月は優しく輝いていた。
月の大きさは地球の1/4だから、月から地球を見たら月の4倍の大きさに見えるはずである。
地球は青いというので、どんなに美しいのだろうか?見てみたいものだ。
その美しい地球で醜いエゴが渦巻いているのはいただけない。
戦後65年が経ち私を含め戦争を知らずに育った人がほとんどになった。
しかし人類の歴史は過ちの繰り返しできた。
さ~て、これからの100年をどう乗り越えていけるのでしょうか?
ロシアへは5-6年前に訪れた時に比べて年々昔に逆戻りしているようで心配になった。
周辺の国々との間でギクシャクしてきて、軍事的な高圧化が目立つようになってきた。
北方領土などもこのままでは進みそうにない。現政権では何もできないようにも思う。
さて、いつもならもうススキの穂も目立ってくると思うのだが、彼岸花と同じく大分遅くなってしまったようである。ススキがなければ中秋の名月も物足りない。
石岡も日天宮、月天宮、星之宮という三光の宮なるものがある。
歴史は1300年程前からあるともいわれ、古そうであるが、あまり紹介されることは少ない。
特に、星之宮は現在なく、総社宮に合祀されている。
元あった場所は、石岡二高のすぐ手前(国分寺の裏手)であり、小さな公園がある。
この三つのお宮が三角形に結ばれトライアングルを形成していた。
昔にこのお宮をこの位置に配置したことは、何か意味を持たせていたはずで今では考察もされていない。
江戸時代に水戸街道(陸前浜街道)ができ、明治に鉄道が敷かれ、昭和になって国道6号線が開通したのである。
鎌倉時代の前にはどのような道があったのだろうか。
こんなことを考えるのはおかしいのかもしれないが、まあ、考えているうちに何か気がつくこともあるでしょう。
三村から中津川で恋瀬川をわたり、田島の方を通って、日天宮と月天宮(貝地)の間を抜けるような道があったのかもしれない。
護身地蔵などもあるが、戦国時代のいわれはあるが、何時からあったものだろうか?
もっとも今の位置は6号国道建設時に移動されているが・・・・。
考古学と書物の歴史以外にも地元に残る伝承などももう少し研究すると面白いのにな~。
太田三楽という武将を知っていますか?
今日は日曜日、午前中に応援している風の会の機関誌の印刷、製本の手伝いをしました。
もっとこれだけの内容の濃い会報を毎月出しているのはすごいことだと思うのですが、この地方で受け入れられることが乏しいのはもったいないことです。
さて、今日のタイトルに書いた太田三楽斎資正(すけまさ)という武将を聞いたことがありますか?
この石岡の地に墓もあるのだが地元ではほとんど話題に上ることがない。
それなのに全国には多くの熱狂的なファンがいる。まあ埋もれた人物であろうか。
太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主である戦国武将として名前が知れているが、石岡の片野城の城主として間もなく入道となり、三楽斎を名乗る。
また手這坂の戦いで小田氏治を破った人物であり、はじめて軍用犬を使ったことで知られる。
軍用犬は岩槻城に近い松山城の二か所に犬を飼いならし、片方の城が攻められたときにいち早く犬を放ってもう一方の城の味方に知らせたという。
しかし、自分の城を子供に奪われ、佐竹氏に乞われて府中城と小田城との要の位置の前線で活躍している。
府中城が佐竹氏に攻められた際には、応援の要請には応えず、手出しをしなかったようである。
これは府中の大掾氏とも姻戚関係を結んでもいたことも関係したであろう。
また、落城した後の城をこの太田三楽にあずける話もあったようである。
しかし、この三楽を語る時に岩槻がでてきても石岡や片野、柿岡などがほとんど語られないのは何故なのだろうか。
最後まで上杉謙信への忠臣を貫き、謙信の死後直江兼続も高く評価していた知将して知られ、晩年には豊臣秀吉からは天下一の名将が、一国をとれないのは不思議だと言わせたともいう。
孤独な生涯を送ったともいわれ、また最後まで岩槻を奪還する野心を捨てなかったといわれています。
しかし一度石岡の片野の地を訪れ、城跡とお墓を探してみてください。

ひっそりと山の中に眠る墓は春には桜の花が舞い、ウグイスが鳴くのどかな場所にあります。

戦国時代を戦い抜いた一人の武将も44歳の働き盛りからこの地で戦に明け暮れ、秀吉の天下統一の8年後に69歳でなくなるまでこの片野の地にいたのは確かなのです。最後は静かな境地になっていたのではないかと思わされたのです。
地元の方に聞いてもほとんど知られていないようです。しかし、全国的にもファンが多くいるのですから近いうちに見直される時が来るように感じています。
地元には「片野排禍ばやし」(三楽が地元の禍を取り除くために始めたとされる)を一度見てみませんか。
「片野排禍ばやし」は7月の第3または第4日曜日と10月の第3日曜に地元の八坂神社のお祭りとして行われています。
もっとこれだけの内容の濃い会報を毎月出しているのはすごいことだと思うのですが、この地方で受け入れられることが乏しいのはもったいないことです。
さて、今日のタイトルに書いた太田三楽斎資正(すけまさ)という武将を聞いたことがありますか?
この石岡の地に墓もあるのだが地元ではほとんど話題に上ることがない。
それなのに全国には多くの熱狂的なファンがいる。まあ埋もれた人物であろうか。
太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主である戦国武将として名前が知れているが、石岡の片野城の城主として間もなく入道となり、三楽斎を名乗る。
また手這坂の戦いで小田氏治を破った人物であり、はじめて軍用犬を使ったことで知られる。
軍用犬は岩槻城に近い松山城の二か所に犬を飼いならし、片方の城が攻められたときにいち早く犬を放ってもう一方の城の味方に知らせたという。
しかし、自分の城を子供に奪われ、佐竹氏に乞われて府中城と小田城との要の位置の前線で活躍している。
府中城が佐竹氏に攻められた際には、応援の要請には応えず、手出しをしなかったようである。
これは府中の大掾氏とも姻戚関係を結んでもいたことも関係したであろう。
また、落城した後の城をこの太田三楽にあずける話もあったようである。
しかし、この三楽を語る時に岩槻がでてきても石岡や片野、柿岡などがほとんど語られないのは何故なのだろうか。
最後まで上杉謙信への忠臣を貫き、謙信の死後直江兼続も高く評価していた知将して知られ、晩年には豊臣秀吉からは天下一の名将が、一国をとれないのは不思議だと言わせたともいう。
孤独な生涯を送ったともいわれ、また最後まで岩槻を奪還する野心を捨てなかったといわれています。
しかし一度石岡の片野の地を訪れ、城跡とお墓を探してみてください。

ひっそりと山の中に眠る墓は春には桜の花が舞い、ウグイスが鳴くのどかな場所にあります。

戦国時代を戦い抜いた一人の武将も44歳の働き盛りからこの地で戦に明け暮れ、秀吉の天下統一の8年後に69歳でなくなるまでこの片野の地にいたのは確かなのです。最後は静かな境地になっていたのではないかと思わされたのです。
地元の方に聞いてもほとんど知られていないようです。しかし、全国的にもファンが多くいるのですから近いうちに見直される時が来るように感じています。
地元には「片野排禍ばやし」(三楽が地元の禍を取り除くために始めたとされる)を一度見てみませんか。
「片野排禍ばやし」は7月の第3または第4日曜日と10月の第3日曜に地元の八坂神社のお祭りとして行われています。
三村地区「下ノ宮遺跡展」
今日は一日冷たい雨になりました。
月曜日にイギリスに嫁いだ長女夫婦が帰ってくるので少しは家の中の片づけもしなければなどと思っていましたが、あまりはかどりません。まあ年に1度くらいでも帰ってきてくれるのでそれだけでいいです。
まあ日本食が好きなので日本食を食べに帰るのが目的のようです。
むこうで、来る前から何処に行って何を食べたいなどと計画しているようです。
さて、今日、私のブログにコメントをいただきました。
その中で、市役所で三村の下ノ宮遺跡遺跡のミニ展示会をしていると教えていただいたので早速行って見学してきました。(10/17まで休日も開催、無料)

市役所の玄関を入った正面に小さなショーケースが三つの本当のミニ展示会です。

縄文時代の土器など数点ですが、大変興味を持ちました。。
場所は常磐線を挟んで三村小学校の反対側です。三村常春公の眠る五輪塔の近くです。
この辺りには古墳もいくつかあり、高浜の堤防工事などに古墳も削られたと聞いています。
また、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州征伐にやってきて、正月を迎えたという「正月平」も近くです。
この辺りに5000年程前から人類が住んでいたのですね。
先日、美浦村の陸平(おかだいら)貝塚にいきましたが、霞ケ浦周辺にはまだまだ縄文の遺跡が眠っていることでしょう。発掘調査の方は本当に大変ですが頑張ってください。
月曜日にイギリスに嫁いだ長女夫婦が帰ってくるので少しは家の中の片づけもしなければなどと思っていましたが、あまりはかどりません。まあ年に1度くらいでも帰ってきてくれるのでそれだけでいいです。
まあ日本食が好きなので日本食を食べに帰るのが目的のようです。
むこうで、来る前から何処に行って何を食べたいなどと計画しているようです。
さて、今日、私のブログにコメントをいただきました。
その中で、市役所で三村の下ノ宮遺跡遺跡のミニ展示会をしていると教えていただいたので早速行って見学してきました。(10/17まで休日も開催、無料)

市役所の玄関を入った正面に小さなショーケースが三つの本当のミニ展示会です。

縄文時代の土器など数点ですが、大変興味を持ちました。。
場所は常磐線を挟んで三村小学校の反対側です。三村常春公の眠る五輪塔の近くです。
この辺りには古墳もいくつかあり、高浜の堤防工事などに古墳も削られたと聞いています。
また、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州征伐にやってきて、正月を迎えたという「正月平」も近くです。
この辺りに5000年程前から人類が住んでいたのですね。
先日、美浦村の陸平(おかだいら)貝塚にいきましたが、霞ケ浦周辺にはまだまだ縄文の遺跡が眠っていることでしょう。発掘調査の方は本当に大変ですが頑張ってください。
尾花散る師付の田井
今日は朝かなり激しく雨が降ったが昼前から天気になった。
そこで思い出して万葉集に歌われた志筑にある「師付の田井」にいってみた。
ススキの穂があちらこちらで目立つようになったので「尾花散る」と詠われた場所がどのようになっているかを見て見たかったからである。
五百羅漢で知られる、かすみがうら市の志筑の長興寺の脇を通って木々の茂みの道を下ると一面に田んぼが広がる。ここが「師付の田井」です。
万葉集(第九-1757):
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。・・・・

以前来た時は看板のある場所まで道もなく、田んぼのあぜ道を危なっかしい足取りで歩いて行ったが、今はきれいな道が敷かれ、手前には5-6台止められる駐車場も完備されていました。

左側にはきれいな水が絶えず流れ、昔から水の豊富な場所であった証しでもあります。
尾花(ススキ)はこの碑の廻りだけに植えられていたが、やはり尾花と一緒が良いですね。

この場所から筑波の峰は見ることができない。上の写真では左側の木々に隠れているが、もっと先の方にいけば見ることができる。昔はこの上を雁が飛んでいたのでしょうか。

この石碑の裏側にこんこんとわきだしている井戸があります。これは「鹿島やわら」といい、昔から水が湧き出しており底がなく鹿島神宮までつながっているとまでいわれています。
一度長興寺という一風変わったお寺の見物と兼ねて訪ねて見てほしいと思います。
私も、昔「長興寺」の看板を見た時には、「こんな所のお寺なんて」と少し馬鹿にしていたのですが行ってみて驚きました。
とてもユニークなお寺です。今でも鶴見さんという芸術家が石像を彫っています。
かすみがうら市の人にもほとんど知られていないのが残念です。
そこで思い出して万葉集に歌われた志筑にある「師付の田井」にいってみた。
ススキの穂があちらこちらで目立つようになったので「尾花散る」と詠われた場所がどのようになっているかを見て見たかったからである。
五百羅漢で知られる、かすみがうら市の志筑の長興寺の脇を通って木々の茂みの道を下ると一面に田んぼが広がる。ここが「師付の田井」です。
万葉集(第九-1757):
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。・・・・

以前来た時は看板のある場所まで道もなく、田んぼのあぜ道を危なっかしい足取りで歩いて行ったが、今はきれいな道が敷かれ、手前には5-6台止められる駐車場も完備されていました。

左側にはきれいな水が絶えず流れ、昔から水の豊富な場所であった証しでもあります。
尾花(ススキ)はこの碑の廻りだけに植えられていたが、やはり尾花と一緒が良いですね。

この場所から筑波の峰は見ることができない。上の写真では左側の木々に隠れているが、もっと先の方にいけば見ることができる。昔はこの上を雁が飛んでいたのでしょうか。

この石碑の裏側にこんこんとわきだしている井戸があります。これは「鹿島やわら」といい、昔から水が湧き出しており底がなく鹿島神宮までつながっているとまでいわれています。
一度長興寺という一風変わったお寺の見物と兼ねて訪ねて見てほしいと思います。
私も、昔「長興寺」の看板を見た時には、「こんな所のお寺なんて」と少し馬鹿にしていたのですが行ってみて驚きました。
とてもユニークなお寺です。今でも鶴見さんという芸術家が石像を彫っています。
かすみがうら市の人にもほとんど知られていないのが残念です。
柿岡曲馬団
先日キグレサーカスの倒産が新聞に載った。
日本三大サーカスの一つが終わりを告げたのだ。
昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
私も小さい時に木下サーカスを見に行った記憶があり、いくつか見た記憶があるのでキグレサーカスも見たかもしれない。
またボリショイサーカスなどが来た時にも見にいった記憶もある。
さて、皆さんは柿岡曲馬団というサーカス団を御存知でしょうか。
私は名前も聞いたことはなかったのですが、八郷町史に載っていたのを思い出したのです。
そこで、今日仕事帰りに図書館によって確認してきました。
柿岡の名前と八郷町史ですから、この地元で作られたサーカス団なのかと思いましたが、違っていました。
柿岡春二郎(本名:荒川治二郎?)が率いた曲芸団で、明治後期から昭和初期までの間で非常に大きなサーカス団だったようです。
春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来たといいます。
若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。
そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になったといわれます。
大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。
ネットで検索して、面白いものを見つけました。
古書の中にこの柿岡曲馬団の絵葉書(カード)が売り出されており、3枚で12,000円の値が付いていましたのでびっくりですね。
内容は「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」「団員数十人の集合写真」でした。面白いですね。
さて、そのほかどのような出し物があったのでしょうか。
「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などの名前が載っています。
大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップに柿岡曲馬の名前があります。
さて、八郷の柿岡市の名前が出てきませんでしたが、はっきりしたことが分からないのですが。柿岡春二郎は大正三年に分家して柿岡に戸籍が移ります。
屋敷も持つのですが住んでいたところは宇都宮のようです。
ただ、吉生から養女をもらっており、戦後になってこの柿岡に移ってきたようです。
またそのころは、一座はほぼ活動は終わっていたようです。
昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石ですぐわかるようです。

善慶寺は柿岡小学校(柿岡城跡)の麓にあります。写真は桜並木と善慶寺です。
参考までにロシア(モスクワ)に行ったときに見たボリショウサーカスの写真も紹介しましょう。

上の写真はショーのラストに近い演技です。さすが本場ですね。観客はほぼ満員でした。

ボリショイサーカスの入場券を手に入れていなかったため、午前中に会場で購入しようとしたら、入口におばあさんが「良い席があるよ」と呼び込み。いわるるダフ屋ですが、正規の券は買えないので、少し高めのようでしたが、午後の券を購入できました。
友達がモスクワ大学に留学していたので会話ができ助かりました。
また、これとは別に、現地の人にボリショイバレーの公演の券を前もってお願いして取ってもらいましたが、こちらはさすがに当日に券を購入するのは無理なようです。なかなか取ることができないといっていました。
とてもすてきなバレーを見学でき良い思い出ができました。
(こちらバレー公演は撮影禁止のようです。セキュリティチェックもうるさく、持ち物などは全て預けなければなりませんでした。)
日本三大サーカスの一つが終わりを告げたのだ。
昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
私も小さい時に木下サーカスを見に行った記憶があり、いくつか見た記憶があるのでキグレサーカスも見たかもしれない。
またボリショイサーカスなどが来た時にも見にいった記憶もある。
さて、皆さんは柿岡曲馬団というサーカス団を御存知でしょうか。
私は名前も聞いたことはなかったのですが、八郷町史に載っていたのを思い出したのです。
そこで、今日仕事帰りに図書館によって確認してきました。
柿岡の名前と八郷町史ですから、この地元で作られたサーカス団なのかと思いましたが、違っていました。
柿岡春二郎(本名:荒川治二郎?)が率いた曲芸団で、明治後期から昭和初期までの間で非常に大きなサーカス団だったようです。
春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来たといいます。
若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。
そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になったといわれます。
大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。
ネットで検索して、面白いものを見つけました。
古書の中にこの柿岡曲馬団の絵葉書(カード)が売り出されており、3枚で12,000円の値が付いていましたのでびっくりですね。
内容は「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」「団員数十人の集合写真」でした。面白いですね。
さて、そのほかどのような出し物があったのでしょうか。
「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などの名前が載っています。
大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップに柿岡曲馬の名前があります。
さて、八郷の柿岡市の名前が出てきませんでしたが、はっきりしたことが分からないのですが。柿岡春二郎は大正三年に分家して柿岡に戸籍が移ります。
屋敷も持つのですが住んでいたところは宇都宮のようです。
ただ、吉生から養女をもらっており、戦後になってこの柿岡に移ってきたようです。
またそのころは、一座はほぼ活動は終わっていたようです。
昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石ですぐわかるようです。

善慶寺は柿岡小学校(柿岡城跡)の麓にあります。写真は桜並木と善慶寺です。
参考までにロシア(モスクワ)に行ったときに見たボリショウサーカスの写真も紹介しましょう。

上の写真はショーのラストに近い演技です。さすが本場ですね。観客はほぼ満員でした。

ボリショイサーカスの入場券を手に入れていなかったため、午前中に会場で購入しようとしたら、入口におばあさんが「良い席があるよ」と呼び込み。いわるるダフ屋ですが、正規の券は買えないので、少し高めのようでしたが、午後の券を購入できました。
友達がモスクワ大学に留学していたので会話ができ助かりました。
また、これとは別に、現地の人にボリショイバレーの公演の券を前もってお願いして取ってもらいましたが、こちらはさすがに当日に券を購入するのは無理なようです。なかなか取ることができないといっていました。
とてもすてきなバレーを見学でき良い思い出ができました。
(こちらバレー公演は撮影禁止のようです。セキュリティチェックもうるさく、持ち物などは全て預けなければなりませんでした。)
天王崎の夕日
昨日霞ケ浦大橋の「道の駅たまつくり」などのことに触れた。
訪れたのは21日の日曜日の午前中で、調べてみるとこの道の駅から麻生の白帆までサイクリングツアーが行われたようだ。
霞ケ浦に沿ってサイクルロードができているようだ。
この白帆には旧麻生町町営の白帆の湯と国民宿舎「白帆荘」があり、その風光明媚と温泉が売り物です。
私も時々温泉にお邪魔をしています。
午後5時には半額になるので何時もこの時間以降ですが、昨年夏に訪れた時にこの温泉の下が天王崎公園があり、ここから霞ケ浦に沈む夕日がとても素晴らしいのです。
あまり知られていないようですので、是非紹介しておきます。

国道355線の天王崎の反対側の山側には「羽黒山公園」があり、ここは常陸大掾氏の一族行方忠幹の孫、家幹が築いた麻生城の城跡があり、ここから霞ケ浦を展望することができます。
石岡の大掾氏とは親類ですので関係が深かったといえますね。
行方忠幹の子景幹が義経に従って屋島の戦いで戦死し、4人の子供が「行方」「島崎」「麻生」「玉造」にそれぞれ所領を得て「行方四頭」と呼ばれるようになったといいます。
義経は源氏です。面白いですね。
麻生の歴史を少し調べて、白帆の湯(一番上の階が温泉で、霞ケ浦を展望できる露天風呂がついています)につかり、外へ出て霞ケ浦に沈む夕日を眺める。
とてもロマンがあります。
また、温泉の入口で売られている手作りパンも美味しかったです。
石岡ばかりではなく、少しまわりも見渡してみないと、ここ石岡の良さが見えなくなります。
これからは周辺も含めて紹介していけたらよいと思っています。
訪れたのは21日の日曜日の午前中で、調べてみるとこの道の駅から麻生の白帆までサイクリングツアーが行われたようだ。
霞ケ浦に沿ってサイクルロードができているようだ。
この白帆には旧麻生町町営の白帆の湯と国民宿舎「白帆荘」があり、その風光明媚と温泉が売り物です。
私も時々温泉にお邪魔をしています。
午後5時には半額になるので何時もこの時間以降ですが、昨年夏に訪れた時にこの温泉の下が天王崎公園があり、ここから霞ケ浦に沈む夕日がとても素晴らしいのです。
あまり知られていないようですので、是非紹介しておきます。

国道355線の天王崎の反対側の山側には「羽黒山公園」があり、ここは常陸大掾氏の一族行方忠幹の孫、家幹が築いた麻生城の城跡があり、ここから霞ケ浦を展望することができます。
石岡の大掾氏とは親類ですので関係が深かったといえますね。
行方忠幹の子景幹が義経に従って屋島の戦いで戦死し、4人の子供が「行方」「島崎」「麻生」「玉造」にそれぞれ所領を得て「行方四頭」と呼ばれるようになったといいます。
義経は源氏です。面白いですね。
麻生の歴史を少し調べて、白帆の湯(一番上の階が温泉で、霞ケ浦を展望できる露天風呂がついています)につかり、外へ出て霞ケ浦に沈む夕日を眺める。
とてもロマンがあります。
また、温泉の入口で売られている手作りパンも美味しかったです。
石岡ばかりではなく、少しまわりも見渡してみないと、ここ石岡の良さが見えなくなります。
これからは周辺も含めて紹介していけたらよいと思っています。
座禅体験
昨日はクッキリ見えていた筑波山は今朝は少し霞んでいました。
気温が少し高いのでしょうか? 明日はもう少し高い予想です。
今日は石岡で座禅体験ができることを紹介しておきましょう。
場所は根小屋にある「泰寧寺(たいねいじ)」です。
根小屋は常陸風土記の丘の先から畜産センターを通ってフラワーパークの方に向かった道の曲がり角にあります。「山形大弐(だいに)の墓」の看板が目を引きます。
ここで、人数がまとまれば座禅体験と写経の体験ができます。
今は「やさと里山クラブ」や朝日里山学校で5人以上から申し込めるそうです。
一度試してみられるのは如何でしょうか?

前のブログで「片野城城主である太田三楽資正」について書いたことがありました。
この片野地区と根小屋は隣りあっており、柿岡城と共に思い出してほしい場所です。
また、泰寧寺の脇から上の方に登って行ったところに「楓」という蕎麦屋さんがあります。
新しいお店できれいで美味しいというので一度行きました。
十割そばがとても美味しかったです。
一度お試しください。
道はくねくねして、畑の中に建っているような店ですが旗が立っていますのですぐわかります。
気温が少し高いのでしょうか? 明日はもう少し高い予想です。
今日は石岡で座禅体験ができることを紹介しておきましょう。
場所は根小屋にある「泰寧寺(たいねいじ)」です。
根小屋は常陸風土記の丘の先から畜産センターを通ってフラワーパークの方に向かった道の曲がり角にあります。「山形大弐(だいに)の墓」の看板が目を引きます。
ここで、人数がまとまれば座禅体験と写経の体験ができます。
今は「やさと里山クラブ」や朝日里山学校で5人以上から申し込めるそうです。
一度試してみられるのは如何でしょうか?

前のブログで「片野城城主である太田三楽資正」について書いたことがありました。
この片野地区と根小屋は隣りあっており、柿岡城と共に思い出してほしい場所です。
また、泰寧寺の脇から上の方に登って行ったところに「楓」という蕎麦屋さんがあります。
新しいお店できれいで美味しいというので一度行きました。
十割そばがとても美味しかったです。
一度お試しください。
道はくねくねして、畑の中に建っているような店ですが旗が立っていますのですぐわかります。
国府と国衙(こくが)
今日は気温が比較的高いとの予報であったが、一日中冷たい雨が降ったりやんだり。
仕事に出かけ昼ごろから少し調子が悪く、風邪を引いたのかもしれない。
早めに帰宅し、少しの間横になっていた。
このブログも100日を過ぎ、読んでいただける方も少し増えたようだ。
毎回何かテーマを決めて続いて書くのも楽しくもあるいのだが苦しみも増えてきている。
私は好き勝手なことを書いているにすぎないが、書かれて気分を害される人もおられると思う。
しかし、全体を通して見ていただければ、この常世の国を愛してやまない一人であることはわかってもらえると思う。
今日はこんな調子であるのでブログの内容は1週間ほど前に書きためていたものを公開という形となることをお許し願いたい。
今月の市報に現石岡小学校の敷地内にある「常陸国衙跡」が正式に国指定史跡に登録されたという。
登録の名称では「常陸国府跡」と国衙という難しい漢字は使われないようだ。
これで、国分寺跡・国分尼寺跡・国府跡の3つの史跡が登録されその確認がされている全国唯一の都市
となった。これは画期的なことである。
市では出土品や写真などを近くの民俗資料館で展示するという。
しかし、ご存知の方も多いが、この資料館は小さくて展示内容も中途半端である。
昔からこのスタイルでやってきた・・・・。これはこの資料館の設立に関係するのかもしれない。
天狗党の残した柱の刀傷と国分寺や国衙からの出土品が同じフロアに広げられたイメージ。
現在開館も金・土・日(祝日)のみ。無料なのはありがたいが歴史の町が泣いているようにも思われます。
市民会館と一緒に運営管理し、風土記の丘の有料展示室と一緒の管理が望まれます。
「何か古いものがあるぞ!」とばかり自慢し、自分よがりに見えてなりません。
現代はいろいろなことをオープンにして、情報をいかに多くの人に知らしめて行くかということに
その知恵と能力を発揮していける人が必要だと思っています。
イベント広場に新たなものを建設しても、今のような意識ではろくなものができないとあきらめも
顔をのぞかせてきています。
現在水戸の近代美術館で「さよなら滝平二郎~はるかなるふるさとへ」展を開催しています。
切り絵作家として名高いですが、絵本の挿し絵は独特の郷愁が感じられますね。
時間がありましたら一度見学にお出かけください。(水戸千波湖脇です)
仕事に出かけ昼ごろから少し調子が悪く、風邪を引いたのかもしれない。
早めに帰宅し、少しの間横になっていた。
このブログも100日を過ぎ、読んでいただける方も少し増えたようだ。
毎回何かテーマを決めて続いて書くのも楽しくもあるいのだが苦しみも増えてきている。
私は好き勝手なことを書いているにすぎないが、書かれて気分を害される人もおられると思う。
しかし、全体を通して見ていただければ、この常世の国を愛してやまない一人であることはわかってもらえると思う。
今日はこんな調子であるのでブログの内容は1週間ほど前に書きためていたものを公開という形となることをお許し願いたい。
今月の市報に現石岡小学校の敷地内にある「常陸国衙跡」が正式に国指定史跡に登録されたという。
登録の名称では「常陸国府跡」と国衙という難しい漢字は使われないようだ。
これで、国分寺跡・国分尼寺跡・国府跡の3つの史跡が登録されその確認がされている全国唯一の都市
となった。これは画期的なことである。
市では出土品や写真などを近くの民俗資料館で展示するという。
しかし、ご存知の方も多いが、この資料館は小さくて展示内容も中途半端である。
昔からこのスタイルでやってきた・・・・。これはこの資料館の設立に関係するのかもしれない。
天狗党の残した柱の刀傷と国分寺や国衙からの出土品が同じフロアに広げられたイメージ。
現在開館も金・土・日(祝日)のみ。無料なのはありがたいが歴史の町が泣いているようにも思われます。
市民会館と一緒に運営管理し、風土記の丘の有料展示室と一緒の管理が望まれます。
「何か古いものがあるぞ!」とばかり自慢し、自分よがりに見えてなりません。
現代はいろいろなことをオープンにして、情報をいかに多くの人に知らしめて行くかということに
その知恵と能力を発揮していける人が必要だと思っています。
イベント広場に新たなものを建設しても、今のような意識ではろくなものができないとあきらめも
顔をのぞかせてきています。
現在水戸の近代美術館で「さよなら滝平二郎~はるかなるふるさとへ」展を開催しています。
切り絵作家として名高いですが、絵本の挿し絵は独特の郷愁が感じられますね。
時間がありましたら一度見学にお出かけください。(水戸千波湖脇です)
笹竜胆
昨日は風邪で休んで家でノンビリ過ごした。
家に一人でいると電話がかかり、出たら「○○保険の××といいますが、73歳までの
保険のご案内をしています。資料をお送りしましたので・・・。ご主人様は何年
生まれでしょうか?」まったく不躾で失礼な電話だ。
話も聞かずに断ったが、電話番号を電話帳に登録しない人の気持ちもわかる。
断ると、何かこちらも後味の悪さが残るのである。困った世の中だ。
さて、今日はタイトルに書いた「笹竜胆」についてである。
竜胆はリンドウのことで中国語のリュウタンがリンドウと聞こえたのでこのリンドウとなったという。
笹竜胆(ささりんどう)はリンドウの葉が笹の葉に似ており、リンドウの花と笹の葉をあしらった
家紋を「笹竜胆」というそうだ。

家紋などに詳しいわけではないので良く分からないのだが、これが源氏の系統を示す紋だという。
私が、このことを知ったのはかすみがうら市の「胎安(たやす)神社」にいった時である。
神社の紋に使われており、このいきさつを紹介されていた。
そのホームページはなかなか詳しく歴史などを紹介しており、宮司の方のブログもあり、熱心さが
伝わってきます。そのホームページから一部を転載させていただきました。
「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」
源義家とは八幡太郎義家のことであり、奥州征伐は2度行きましたが、最初の「前九年の役」です。
この時はまだ源氏に従うものはそれ程多くはなく、大分苦労したようです。
この近くの正月平などの地名の由来などにもなりました。
胎安神社はこのように古くから伝わる神社ですが、あまり知られていません。
名前からわかるように「安産祈願」「子授け祈願」などが主体です。
石岡の誇る「総社宮」でも「はらおび」などはこちらのものがわたされているようです。
ホームページにもありますが、昔鎌倉街道がこの胎安神社と子安神社の間を通り、国分尼寺へ
続いていたと書かれています。
石岡(府中)のどこを通る道が鎌倉街道なのでしょうか。
現在国道6号線があるため、道が良くわかりません。
石岡は平家発祥の地だという。
しかし、昔は平氏と源氏が対立する関係にはなくお互いが仲間になったり敵対したりしていた時代です。
2度目の奥州征伐に源義家が兵を挙げてやってきた時(後三年の役)はかすみがうら市の
草原に四万騎の馬と兵が集まり「四万騎」の名前が地名となり、石岡に来た時は五万に増え
「五万掘」の名前が残ったといわれています。
家に一人でいると電話がかかり、出たら「○○保険の××といいますが、73歳までの
保険のご案内をしています。資料をお送りしましたので・・・。ご主人様は何年
生まれでしょうか?」まったく不躾で失礼な電話だ。
話も聞かずに断ったが、電話番号を電話帳に登録しない人の気持ちもわかる。
断ると、何かこちらも後味の悪さが残るのである。困った世の中だ。
さて、今日はタイトルに書いた「笹竜胆」についてである。
竜胆はリンドウのことで中国語のリュウタンがリンドウと聞こえたのでこのリンドウとなったという。
笹竜胆(ささりんどう)はリンドウの葉が笹の葉に似ており、リンドウの花と笹の葉をあしらった
家紋を「笹竜胆」というそうだ。


家紋などに詳しいわけではないので良く分からないのだが、これが源氏の系統を示す紋だという。
私が、このことを知ったのはかすみがうら市の「胎安(たやす)神社」にいった時である。
神社の紋に使われており、このいきさつを紹介されていた。
そのホームページはなかなか詳しく歴史などを紹介しており、宮司の方のブログもあり、熱心さが
伝わってきます。そのホームページから一部を転載させていただきました。
「天喜2年(1055年) 鎮守府将軍陸奥守・源頼義、義家父子が、奥州征討の時、隣村の下雫村(下志筑)在陣中に、胎内安全、安産子育守護の霊験著大なることを聞き、都にいる御内室の懐胎を遥想されて、神主を招き、安産祈願を執り行いました。
康平6年(1064年) 大任遂行の帰路、当社と子安神社に奉賽(ほうさい)すなわち、お礼参りをされました。この時の「太刀一振り」の奉納札が残っています。
その後、義家の嫡男誕生の9月9日を記念日として祭日に定めたとされています。
尚、この時以来、義家の家紋である笹竜胆 (ささりんどう)の紋章の使用を許されました。」
源義家とは八幡太郎義家のことであり、奥州征伐は2度行きましたが、最初の「前九年の役」です。
この時はまだ源氏に従うものはそれ程多くはなく、大分苦労したようです。
この近くの正月平などの地名の由来などにもなりました。
胎安神社はこのように古くから伝わる神社ですが、あまり知られていません。
名前からわかるように「安産祈願」「子授け祈願」などが主体です。
石岡の誇る「総社宮」でも「はらおび」などはこちらのものがわたされているようです。
ホームページにもありますが、昔鎌倉街道がこの胎安神社と子安神社の間を通り、国分尼寺へ
続いていたと書かれています。
石岡(府中)のどこを通る道が鎌倉街道なのでしょうか。
現在国道6号線があるため、道が良くわかりません。
石岡は平家発祥の地だという。
しかし、昔は平氏と源氏が対立する関係にはなくお互いが仲間になったり敵対したりしていた時代です。
2度目の奥州征伐に源義家が兵を挙げてやってきた時(後三年の役)はかすみがうら市の
草原に四万騎の馬と兵が集まり「四万騎」の名前が地名となり、石岡に来た時は五万に増え
「五万掘」の名前が残ったといわれています。
舟塚山古墳
昨夜から今朝は大雨で大変であったが、昼から天気となった。
しかし気温が生温かく何か変な陽気である。
茨城には竜巻注意報がでたとか。今も風が結構強く吹いている。
今日は石岡が誇る「舟塚山古墳」について、少し書いてみたい。
石岡の名所案内には必ず出てくる名前なのだが、私が隣町に長く住んでいた時には
一度も聞いたことがなかった。地元では有名でもそんなものなのだろう。
この古墳は東日本で2番目の大きさだとなっている。しかし1番目がどこか、また
日本でどのくらいの規模かは何処にも記載されていない。
ネットで調べてみると、東日本での1番目は群馬県太田市の太田天神山古墳で全長210m
で日本全体では27位。舟塚山古墳は全長186mで日本では46番目だという。
さすがに関西が多く、1位は仁徳天皇陵で486mなのでかなり規模は違います。
ただ、100mを超えた古墳は東日本ではそれ程なく、かなりの豪族のものと考えて良いでしょう。
また5世紀後半のものと推定され、仁徳天皇御陵などと似た特徴があるという。

<舟塚山古墳は霞ケ浦に漕ぎだすような形から「入船」と呼ばれ、上からは筑波山が良く見える>
さて、この時代にこの地を支配していた豪族が大和朝廷とつながっていた??
これを裏付けるためには、内部を発掘すべきですが、現地に書かれた案内板には気になる記述があります。
「舟塚山の発掘調査はなされていないが、地元には、多数の刀が出土したという伝えがある。」
一体どういうこと??
この舟塚山古墳の周りには沢山の古墳があり、古墳群となっています。
昭和47年に周辺の確認調査が行われ、円筒埴輪や、木棺、短甲、直刀、盾などが出土し
これらは風土記の丘の有料資料館の中に展示されています。

舟塚山古墳本体の発掘調査はどうやら出来ないでいるようですね。
やっても、もう何も出ないことがわかっているのでしょう。
実は盗掘も穴が見つかったりしているそうです。
また、地元も人に掘らせて、酒を与えて蓄えこんでいる人がいるのでは?
などという噂も聞こえてきます。
歴史的にこの地がどのような豪族が住んでいたのかを知るとても貴重な国民の財産です。
噂だけなら良いのですが・・・・。
地元の歴史ボランティアの方などに伺っても、あまりはっきりした回答はありません。
しかし、古墳に詳しい人に聞けば、全国で盗掘の被害がない古墳は少ないらしいです。
中世に掘られ、装飾品や刀などは売り飛ばされたり、溶かして再利用され無くなった
場合も多いとも聞きます。
さて、残念ながら舟塚山も被害にあっていると考える方が一般的な考えでしょう。
今、この古墳近くを国道のバイパスが通るための工事が進められています。
昔舟塚山の上は松林だったといいます。松くい虫でやられ、すべて切り倒されて
今のような芝生で覆い、筑波山や霞ケ浦が眺められるようになっています。
一度登って昔をいろいろと想像してみてください。
昔は霞ケ浦は海だったのですよ。海水が入ってきていたはずです。
イルカやサメ、クジラもいたかもしれませんね???
白井啓治さんの「霞ケ浦の紅い鯨」(クリックするとpdfが開きます)を読んでみてください。
しかし気温が生温かく何か変な陽気である。
茨城には竜巻注意報がでたとか。今も風が結構強く吹いている。
今日は石岡が誇る「舟塚山古墳」について、少し書いてみたい。
石岡の名所案内には必ず出てくる名前なのだが、私が隣町に長く住んでいた時には
一度も聞いたことがなかった。地元では有名でもそんなものなのだろう。
この古墳は東日本で2番目の大きさだとなっている。しかし1番目がどこか、また
日本でどのくらいの規模かは何処にも記載されていない。
ネットで調べてみると、東日本での1番目は群馬県太田市の太田天神山古墳で全長210m
で日本全体では27位。舟塚山古墳は全長186mで日本では46番目だという。
さすがに関西が多く、1位は仁徳天皇陵で486mなのでかなり規模は違います。
ただ、100mを超えた古墳は東日本ではそれ程なく、かなりの豪族のものと考えて良いでしょう。
また5世紀後半のものと推定され、仁徳天皇御陵などと似た特徴があるという。

<舟塚山古墳は霞ケ浦に漕ぎだすような形から「入船」と呼ばれ、上からは筑波山が良く見える>
さて、この時代にこの地を支配していた豪族が大和朝廷とつながっていた??
これを裏付けるためには、内部を発掘すべきですが、現地に書かれた案内板には気になる記述があります。
「舟塚山の発掘調査はなされていないが、地元には、多数の刀が出土したという伝えがある。」
一体どういうこと??
この舟塚山古墳の周りには沢山の古墳があり、古墳群となっています。
昭和47年に周辺の確認調査が行われ、円筒埴輪や、木棺、短甲、直刀、盾などが出土し
これらは風土記の丘の有料資料館の中に展示されています。

舟塚山古墳本体の発掘調査はどうやら出来ないでいるようですね。
やっても、もう何も出ないことがわかっているのでしょう。
実は盗掘も穴が見つかったりしているそうです。
また、地元も人に掘らせて、酒を与えて蓄えこんでいる人がいるのでは?
などという噂も聞こえてきます。
歴史的にこの地がどのような豪族が住んでいたのかを知るとても貴重な国民の財産です。
噂だけなら良いのですが・・・・。
地元の歴史ボランティアの方などに伺っても、あまりはっきりした回答はありません。
しかし、古墳に詳しい人に聞けば、全国で盗掘の被害がない古墳は少ないらしいです。
中世に掘られ、装飾品や刀などは売り飛ばされたり、溶かして再利用され無くなった
場合も多いとも聞きます。
さて、残念ながら舟塚山も被害にあっていると考える方が一般的な考えでしょう。
今、この古墳近くを国道のバイパスが通るための工事が進められています。
昔舟塚山の上は松林だったといいます。松くい虫でやられ、すべて切り倒されて
今のような芝生で覆い、筑波山や霞ケ浦が眺められるようになっています。
一度登って昔をいろいろと想像してみてください。
昔は霞ケ浦は海だったのですよ。海水が入ってきていたはずです。
イルカやサメ、クジラもいたかもしれませんね???
白井啓治さんの「霞ケ浦の紅い鯨」(クリックするとpdfが開きます)を読んでみてください。
富士山
さて、今日は富士山についてであるが、日本一のあの富士山ではない。
石岡の八郷地区にある標高152mと日本一の山などと比べるまでもない小さな山である。
私は、あちらこちらを探索して歩くため、結構地図を良く見る機会が多いが、この富士山(ふじやま)はどの地図にも載っていて気になっていた。
しかし、特に特徴もなく何で富士山と名付けたのどろうか程度に地図をながめていたのである。
昨日ブログに観光案内の看板を紹介したが、実は筑波山を眺められる絶景ポイントは無いかを探していたのである。そこで眼にとまったのがこの富士山なのです。
場所は片野地区とフラワーパークの間にあるこんもりとした小山がそうです。
このあたり一帯は平野となっており、その平野の真中に小山があるといった格好です。
そして有名な地磁気研究所や東大の研究施設などがこの山の北側にひっそりと隠れるようにあります。
頂上もはっきりしないが2つあるようで、フラワーパークよりの頂上には「浅間神社」という神社があり、下から30分くらいで登れるという。

この山の位置は絶景のビューポイントになる位置なのですが、登山道はあまり整備されてなく、また山頂の見晴らしは木々が多くまったく期待できません。

でも、この山の頂上の木々を少し切って、休憩ベンチでも置いたら左手に筑波山、右手に加波山そして北側には吾国山連山、後ろは片野城のあった山や「すりばち山」「鬼越峠」「龍神山」などがすべて見てとれる位置にあります。
片野地区の観光(片野排禍囃子、泰寧寺の座禅、戦国武将太田三楽資正の墓など)も組み合わせればもっと歴史にもふれることができるのですが・・・。

上の写真は2つの写真を合成したものです。見事な位置に山がありますね。
さて、この富士山ですが、調べてみるとこの山は昔「鼓ヵ峰(つつかみね)」と呼ばれ、古くから愛された場所であったという。地面を踏むと響く鼓のような場所があるといいます。
この山の麓を流れる川は川又川といい恋瀬川に流れていきます。
川又の地名についても昔は鎌田といいヤマトタケルの時にこの地を愛した・・・・
などと言い伝えが残されているようです。
今、忘れ去られている物語を紐解いてみても面白そうですね。
石岡の八郷地区にある標高152mと日本一の山などと比べるまでもない小さな山である。
私は、あちらこちらを探索して歩くため、結構地図を良く見る機会が多いが、この富士山(ふじやま)はどの地図にも載っていて気になっていた。
しかし、特に特徴もなく何で富士山と名付けたのどろうか程度に地図をながめていたのである。
昨日ブログに観光案内の看板を紹介したが、実は筑波山を眺められる絶景ポイントは無いかを探していたのである。そこで眼にとまったのがこの富士山なのです。
場所は片野地区とフラワーパークの間にあるこんもりとした小山がそうです。
このあたり一帯は平野となっており、その平野の真中に小山があるといった格好です。
そして有名な地磁気研究所や東大の研究施設などがこの山の北側にひっそりと隠れるようにあります。
頂上もはっきりしないが2つあるようで、フラワーパークよりの頂上には「浅間神社」という神社があり、下から30分くらいで登れるという。

この山の位置は絶景のビューポイントになる位置なのですが、登山道はあまり整備されてなく、また山頂の見晴らしは木々が多くまったく期待できません。

でも、この山の頂上の木々を少し切って、休憩ベンチでも置いたら左手に筑波山、右手に加波山そして北側には吾国山連山、後ろは片野城のあった山や「すりばち山」「鬼越峠」「龍神山」などがすべて見てとれる位置にあります。
片野地区の観光(片野排禍囃子、泰寧寺の座禅、戦国武将太田三楽資正の墓など)も組み合わせればもっと歴史にもふれることができるのですが・・・。

上の写真は2つの写真を合成したものです。見事な位置に山がありますね。
さて、この富士山ですが、調べてみるとこの山は昔「鼓ヵ峰(つつかみね)」と呼ばれ、古くから愛された場所であったという。地面を踏むと響く鼓のような場所があるといいます。
この山の麓を流れる川は川又川といい恋瀬川に流れていきます。
川又の地名についても昔は鎌田といいヤマトタケルの時にこの地を愛した・・・・
などと言い伝えが残されているようです。
今、忘れ去られている物語を紐解いてみても面白そうですね。
関東の清水寺
私が石岡に越してくる前ですが、真壁から石岡に来るまで上曽峠を超えてきたことがあります。
その途中に「関東の清水寺」の看板があり、寄ってみることにしたのです。
正式には峰寺山西光院という寺で山の中腹に建てられたとても眺めの良い場所にあります。
清水寺の名前は寺の本堂が京都の清水寺と同じような懸造りで建てられていることからだ。
これは県の文化財(建造物)に指定されており、廻廊からの眺めがすばらしい。

この寺の名前の西光院(さいこういん)は平安時代の初期に徳一法師がこの地で西から光が差すのを見て、西方極楽浄土を祈願して、ここに寺を建てたことに由来するようです。

ここの景色は茨城百景にも選ばれ、昔から風光明媚で知られるようですが、昔はここまでの山道が寂しく、車がすれ違うのが厳しいようでもあり、天気の悪い日や、夕方は嫌われるようです。
しかし、八郷の一帯が手に取るように見ることができるのでこれからは人も訪れるようになると思います。

「関東の清水寺」をアピールしていってほしいですね。フルーツラインなどの標識はかなり整備されているようです。
道路を一方通行などにして通行の心配がないようにしてほしいですね。
この地の地名は吉生(よしう)村といわれ、いろいろな名前のいわれもあるようだ。
また、昔から牛馬などの信仰の寺として、正月の市が開かれ、近隣からこの山を牛馬などで登ってきたといいます。
しかし、農機具に牛・馬が使われなくなりそれに伴って大分静寂になったといいます。
この寺の入口に東筑波ユートピアという動物園があります。
私は入ったことがないのですが、良く商売として続けていけると感心はしています。
寺の入口の山桜、竹林などは趣があります。


その途中に「関東の清水寺」の看板があり、寄ってみることにしたのです。
正式には峰寺山西光院という寺で山の中腹に建てられたとても眺めの良い場所にあります。
清水寺の名前は寺の本堂が京都の清水寺と同じような懸造りで建てられていることからだ。
これは県の文化財(建造物)に指定されており、廻廊からの眺めがすばらしい。

この寺の名前の西光院(さいこういん)は平安時代の初期に徳一法師がこの地で西から光が差すのを見て、西方極楽浄土を祈願して、ここに寺を建てたことに由来するようです。

ここの景色は茨城百景にも選ばれ、昔から風光明媚で知られるようですが、昔はここまでの山道が寂しく、車がすれ違うのが厳しいようでもあり、天気の悪い日や、夕方は嫌われるようです。
しかし、八郷の一帯が手に取るように見ることができるのでこれからは人も訪れるようになると思います。

「関東の清水寺」をアピールしていってほしいですね。フルーツラインなどの標識はかなり整備されているようです。
道路を一方通行などにして通行の心配がないようにしてほしいですね。
この地の地名は吉生(よしう)村といわれ、いろいろな名前のいわれもあるようだ。
また、昔から牛馬などの信仰の寺として、正月の市が開かれ、近隣からこの山を牛馬などで登ってきたといいます。
しかし、農機具に牛・馬が使われなくなりそれに伴って大分静寂になったといいます。
この寺の入口に東筑波ユートピアという動物園があります。
私は入ったことがないのですが、良く商売として続けていけると感心はしています。
寺の入口の山桜、竹林などは趣があります。


常陸高野
昨日は「関東の清水寺」こと峰寺山西光院について紹介しました。
もう少し似たようなネーミングをしているところはないかと考えてみたのがこの「常陸高野」こと行方市の西蓮寺というところです。
この寺は天台宗であり、高野山といえば金剛峯寺であり、真言宗ということになります。
宗派が異なるのに「高野」と呼ばれるのにはそれなりの意味があるといいます。
お寺に書かれた説明文では市の無形民俗文化財に指定されている「常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)」の行事に書かれていました。

ここには、「この法要が宗派に関係なく近隣、遠隔地からも新仏の供養に参拝者が訪れる」とあります。
しかし、このような「常陸高野」というネーミングも人を惹きつけますね。
この寺の歴史は古く、境内の大イチョウは1000年以上の樹齢の大木が数本あり一度訪れてみることをお勧めします。

花もきれいで、隣りの山では山百合祭りが毎年行われています。
さて、このように「○○高野」というと「女人高野」といわれる奈良の室生寺が有名ですが、この山里にたたずむ室生寺の美しさは他を寄せ付けないものがあります。
特にシャクナゲの咲く5月頃は多くの人が押し掛けます。清楚な五重塔とマッチして訪れた人の心を打つものがあります。この女人高野とは高野山が女人禁制であったのに対し、女性も受け入れていたことから名前がついたとされますが、もともと室生寺は奈良興福寺からわかれたといわれます。
興福寺は法相宗の本山で、昨年東京に来た「阿修羅像」が有名ですね。
徳一法師が関東から会津まで沢山のお寺を建立しましたが、現在は法相宗のままで続いているところは少ないです。
石岡にも沢山の寺があったのです。こんなものも掘り下げていくのも面白そうです。
もう少し似たようなネーミングをしているところはないかと考えてみたのがこの「常陸高野」こと行方市の西蓮寺というところです。
この寺は天台宗であり、高野山といえば金剛峯寺であり、真言宗ということになります。
宗派が異なるのに「高野」と呼ばれるのにはそれなりの意味があるといいます。
お寺に書かれた説明文では市の無形民俗文化財に指定されている「常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)」の行事に書かれていました。

ここには、「この法要が宗派に関係なく近隣、遠隔地からも新仏の供養に参拝者が訪れる」とあります。
しかし、このような「常陸高野」というネーミングも人を惹きつけますね。
この寺の歴史は古く、境内の大イチョウは1000年以上の樹齢の大木が数本あり一度訪れてみることをお勧めします。

花もきれいで、隣りの山では山百合祭りが毎年行われています。
さて、このように「○○高野」というと「女人高野」といわれる奈良の室生寺が有名ですが、この山里にたたずむ室生寺の美しさは他を寄せ付けないものがあります。
特にシャクナゲの咲く5月頃は多くの人が押し掛けます。清楚な五重塔とマッチして訪れた人の心を打つものがあります。この女人高野とは高野山が女人禁制であったのに対し、女性も受け入れていたことから名前がついたとされますが、もともと室生寺は奈良興福寺からわかれたといわれます。
興福寺は法相宗の本山で、昨年東京に来た「阿修羅像」が有名ですね。
徳一法師が関東から会津まで沢山のお寺を建立しましたが、現在は法相宗のままで続いているところは少ないです。
石岡にも沢山の寺があったのです。こんなものも掘り下げていくのも面白そうです。
小町伝説
今年も残り少なくなり時の経つのが年々早くなるような気がするのは年をとった証拠なのかもしれない。
しかし、毎日ブログを書いていると時間の無さが辛いと感じることも多い。
昼間は時間いっぱいまだ仕事もしており、町おこしなどといっても独りよがりだということもわかっている。
そのうちに、このようなブログなどあってもなくても雨後の竹の子のように情報があふれるようになってくれればこの役目を終えることができるのだが・・・。
この調子では数年まだダメかもしれないが、何か少しづつ変わってきそうな気もしている。
石岡という昔の国府が埋もれていくのだけは避けたいものである。
今晩も上を見上げれば真ん丸の月が照らしている。気温もあまり寒くはない。
明日は月食だというが・・・。
さて、今日は「小町伝説」について少し知っていることを書いてみたい。
もう知っている人にとってはつまらない内容だが、情報もまだ少ないので書く価値はありそうだ。
フラワーセンター方面からフルーツラインを土浦方面に進み、辻のイチゴ団地の交差点を右に曲がります。
少し行くと「薬師古道入口」の看板がありますが、そのまま直進すると田圃の左手に「北向観音堂」があります。
ここは地元の方(ふるさとの史跡まもり隊)によって整備され、きれいになりました。
ここに小町伝説が伝わっているのです。

花を植えて「小町花街道」と名付けてPR。私は山里の雰囲気がとても好きです。

この「北向観音堂」は手前にきれいな川が流れ、古びた石段がとても景色にマッチしています。
以前NHKの「武蔵」の撮影にも使われ、お通がこの階段を駆け登ったとか・・・。

ここのお堂の先の山を越えた向こう側が、かすみがうら市の「小町の里」があり、ここの小野家に昔、小野小町が滞在し、病になって、当時病にご利益があるという、この北向観音堂にお参りし病が治ったと伝えられています。
しかし、別な病で亡くなってしまい、小町の里の小野家に小町の墓があるのです。
また、この小町が山を越えてきた道がこの北向観音堂の裏山に残っており、少し登ったところに「小町の腰掛石」があります。
小野小町は全国数え切らないくらい伝説が残され、その墓も数え切れないくらいありそうです。
しかし、その伝説をさぐってみるのもよし、またこの山里ののどかな景色を楽しむのもよしですね。
また、この北向観音についての歴史にも目を向けてほしいですね。
この堂は、聖武天皇(奈良時代)の時代に行基菩薩によって創建されたと伝えられています。
またこの辺りの地名も小野越、仏生寺などといわれており、こんなことも紐解いても面白そうです。
ただ、この場所には駐車場がないのは残念です。
山向こうの小町の里は大型駐車場や、そば打ち施設、水車、小町のビデオ放映(市原悦子のナレーション)などがありますので、もう少し考えてもよさそうです。
もっとも、今の雰囲気を壊さないようにしてほしいですね。この山里の雰囲気はとても貴重ですよ。

北向観音といえば、石岡の町中にもありますね。「富田北向観音」です。
大掾氏の墓所のある「平福寺」の隣りで、市民に愛されている観音様です。子供の健康を祈願するところとして知られているようです。
観音様が北を向くと、お参りする人が南向きになります。
南はインド(天竺)の方向をさしており、現世御利益を願うものとされますので、今の生活を良くすることなどを願ってみては如何ですか?
しかし、毎日ブログを書いていると時間の無さが辛いと感じることも多い。
昼間は時間いっぱいまだ仕事もしており、町おこしなどといっても独りよがりだということもわかっている。
そのうちに、このようなブログなどあってもなくても雨後の竹の子のように情報があふれるようになってくれればこの役目を終えることができるのだが・・・。
この調子では数年まだダメかもしれないが、何か少しづつ変わってきそうな気もしている。
石岡という昔の国府が埋もれていくのだけは避けたいものである。
今晩も上を見上げれば真ん丸の月が照らしている。気温もあまり寒くはない。
明日は月食だというが・・・。
さて、今日は「小町伝説」について少し知っていることを書いてみたい。
もう知っている人にとってはつまらない内容だが、情報もまだ少ないので書く価値はありそうだ。
フラワーセンター方面からフルーツラインを土浦方面に進み、辻のイチゴ団地の交差点を右に曲がります。
少し行くと「薬師古道入口」の看板がありますが、そのまま直進すると田圃の左手に「北向観音堂」があります。
ここは地元の方(ふるさとの史跡まもり隊)によって整備され、きれいになりました。
ここに小町伝説が伝わっているのです。

花を植えて「小町花街道」と名付けてPR。私は山里の雰囲気がとても好きです。

この「北向観音堂」は手前にきれいな川が流れ、古びた石段がとても景色にマッチしています。
以前NHKの「武蔵」の撮影にも使われ、お通がこの階段を駆け登ったとか・・・。

ここのお堂の先の山を越えた向こう側が、かすみがうら市の「小町の里」があり、ここの小野家に昔、小野小町が滞在し、病になって、当時病にご利益があるという、この北向観音堂にお参りし病が治ったと伝えられています。
しかし、別な病で亡くなってしまい、小町の里の小野家に小町の墓があるのです。
また、この小町が山を越えてきた道がこの北向観音堂の裏山に残っており、少し登ったところに「小町の腰掛石」があります。
小野小町は全国数え切らないくらい伝説が残され、その墓も数え切れないくらいありそうです。
しかし、その伝説をさぐってみるのもよし、またこの山里ののどかな景色を楽しむのもよしですね。
また、この北向観音についての歴史にも目を向けてほしいですね。
この堂は、聖武天皇(奈良時代)の時代に行基菩薩によって創建されたと伝えられています。
またこの辺りの地名も小野越、仏生寺などといわれており、こんなことも紐解いても面白そうです。
ただ、この場所には駐車場がないのは残念です。
山向こうの小町の里は大型駐車場や、そば打ち施設、水車、小町のビデオ放映(市原悦子のナレーション)などがありますので、もう少し考えてもよさそうです。
もっとも、今の雰囲気を壊さないようにしてほしいですね。この山里の雰囲気はとても貴重ですよ。

北向観音といえば、石岡の町中にもありますね。「富田北向観音」です。
大掾氏の墓所のある「平福寺」の隣りで、市民に愛されている観音様です。子供の健康を祈願するところとして知られているようです。
観音様が北を向くと、お参りする人が南向きになります。
南はインド(天竺)の方向をさしており、現世御利益を願うものとされますので、今の生活を良くすることなどを願ってみては如何ですか?
石岡城と府中城
今日は天皇誕生日で世の中は皆さん休みだというのにわが社は仕事。
さすがに車は少なかったです。
ブログも半分くらいは休みに書いたり、夜書いたりしているのだが、公開するのも結構時間的にきつい。
紹介の内容も乏しくなってくるがお許し願いたい。
今日は石岡の歴史の紹介で良く間違えてしまう二つの城の話です。
歴史を紐解いていて、私もよくわからないので間違っているかもしれません。
平国香を祖とする桓武平氏の血を引き継いだ常陸大掾氏。
平将門の乱が平定されたあと、大掾職についた多気維幹(これもと)はつくばの水守(みもり)城にいたが、この時(西暦990年頃)多気城(つくば市)を築いたという説がある。
私の理解もあやふやだが・・・。
すなわち、この頃は石岡の地に城はなく、石岡は政務をつかさどる官庁のような場所であったと思われます。
ところが、前にも書いたように曾我兄弟の仇討事件を利用した八田知家の換言で多気大掾6代目で失脚し、大掾職は水戸の吉田氏に渡ります。
吉田氏も元々同族ではありますが、水戸の馬場の近くに住んでいたので馬場氏と呼ばれるようになります。
この初代馬場大掾資幹(すけとも)は1195年頃に水戸に今の水戸城の元となる馬場城を築きます。
この後、1214年に鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えました。
これが「石岡城」であり、場所は貝地の霞ケ浦寄りになります。

この城が馬場大掾氏の居城となったわけですが、最初は馬場城(水戸城)と2か所の居城を有しており、政務は主にこちらの石岡城が中心となり、水戸とは行ったり来たりをしていたものと思われます。
規模もかなり大きなもので水戸と同じくらいであったといわれ、城郭なども作られたといいます。
しかし、馬場大掾8代目馬場詮国が正平年中(1346~51)に国衙の地(現石岡小学校敷地)に府中城を築きます。これは大変強固なもので当時の足利将軍との関係を強化し、兵力も増強したようです。


この時以前の「石岡城」もまた大掾氏の城の一部として使われ、外城(とじょう)と呼ばれています。
なぜ、くどくどと紹介する気になったのかはどうもこの府中城&石岡城についてもう少し評価が高くてもよいはずだと思えるためです。
そして、府中城と石岡城の関係も少し認識を新たにした方が良いように思います。
もっとも石岡城については「石岡の歴史」などの書物ではあまりふれられていません。記録があいまいな部分が多いようなので・・・。また石岡城という名前もあまりはっきりしません。
記録には少し出てくるようなので、明治維新で石岡の名前が使われたのでしょう。
石岡の地名については諸説あり、この石岡城という名前もあてにならないが、外城(とじょう)と呼ばれる前の城に名前がないのも困るのでとりあえず「石岡城」と呼んでいる程度に考えておくしかないでしょう。
地名の方は「こくふ」→「石阜」→「石岡」だという説が正しいとも伺ったことがありますが、これも本当といえるかどうかはわかりません。
地元でも、もう少し研究を深めて、当時の城の規模がどのようなものであったのかを検証すべきだと思っています。
今のままでは府中城を石岡城と言っても特に何も疑問に思わない人があふれてしまうでしょう。
府中城は県下唯一の都城式形態の備えを持つ名城といわれ、町全体が城壁、掘りで守られたような形となっており、城内がすなわち町内となっていたものと思われます。
このため、街全体が平和に長く暮らせたものと解釈できます。
このような城は他にはほとんどないのです。
馬場大掾氏は水戸城(馬場城)を江戸氏に奪われ、中心となった府中城も段々と包囲網が厳しくなって最後は佐竹氏に滅ぼされます。
ここ石岡(府中)は1590年まで長い間、常陸の中心の都市として光を放っていたはずなのです。
「昔をことだから関係ない」などとせずに、もう少し誇って、皆に知ってもらっても良いのではないでしょうか。
さすがに車は少なかったです。
ブログも半分くらいは休みに書いたり、夜書いたりしているのだが、公開するのも結構時間的にきつい。
紹介の内容も乏しくなってくるがお許し願いたい。
今日は石岡の歴史の紹介で良く間違えてしまう二つの城の話です。
歴史を紐解いていて、私もよくわからないので間違っているかもしれません。
平国香を祖とする桓武平氏の血を引き継いだ常陸大掾氏。
平将門の乱が平定されたあと、大掾職についた多気維幹(これもと)はつくばの水守(みもり)城にいたが、この時(西暦990年頃)多気城(つくば市)を築いたという説がある。
私の理解もあやふやだが・・・。
すなわち、この頃は石岡の地に城はなく、石岡は政務をつかさどる官庁のような場所であったと思われます。
ところが、前にも書いたように曾我兄弟の仇討事件を利用した八田知家の換言で多気大掾6代目で失脚し、大掾職は水戸の吉田氏に渡ります。
吉田氏も元々同族ではありますが、水戸の馬場の近くに住んでいたので馬場氏と呼ばれるようになります。
この初代馬場大掾資幹(すけとも)は1195年頃に水戸に今の水戸城の元となる馬場城を築きます。
この後、1214年に鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、府中に居館を構えました。
これが「石岡城」であり、場所は貝地の霞ケ浦寄りになります。

この城が馬場大掾氏の居城となったわけですが、最初は馬場城(水戸城)と2か所の居城を有しており、政務は主にこちらの石岡城が中心となり、水戸とは行ったり来たりをしていたものと思われます。
規模もかなり大きなもので水戸と同じくらいであったといわれ、城郭なども作られたといいます。
しかし、馬場大掾8代目馬場詮国が正平年中(1346~51)に国衙の地(現石岡小学校敷地)に府中城を築きます。これは大変強固なもので当時の足利将軍との関係を強化し、兵力も増強したようです。


この時以前の「石岡城」もまた大掾氏の城の一部として使われ、外城(とじょう)と呼ばれています。
なぜ、くどくどと紹介する気になったのかはどうもこの府中城&石岡城についてもう少し評価が高くてもよいはずだと思えるためです。
そして、府中城と石岡城の関係も少し認識を新たにした方が良いように思います。
もっとも石岡城については「石岡の歴史」などの書物ではあまりふれられていません。記録があいまいな部分が多いようなので・・・。また石岡城という名前もあまりはっきりしません。
記録には少し出てくるようなので、明治維新で石岡の名前が使われたのでしょう。
石岡の地名については諸説あり、この石岡城という名前もあてにならないが、外城(とじょう)と呼ばれる前の城に名前がないのも困るのでとりあえず「石岡城」と呼んでいる程度に考えておくしかないでしょう。
地名の方は「こくふ」→「石阜」→「石岡」だという説が正しいとも伺ったことがありますが、これも本当といえるかどうかはわかりません。
地元でも、もう少し研究を深めて、当時の城の規模がどのようなものであったのかを検証すべきだと思っています。
今のままでは府中城を石岡城と言っても特に何も疑問に思わない人があふれてしまうでしょう。
府中城は県下唯一の都城式形態の備えを持つ名城といわれ、町全体が城壁、掘りで守られたような形となっており、城内がすなわち町内となっていたものと思われます。
このため、街全体が平和に長く暮らせたものと解釈できます。
このような城は他にはほとんどないのです。
馬場大掾氏は水戸城(馬場城)を江戸氏に奪われ、中心となった府中城も段々と包囲網が厳しくなって最後は佐竹氏に滅ぼされます。
ここ石岡(府中)は1590年まで長い間、常陸の中心の都市として光を放っていたはずなのです。
「昔をことだから関係ない」などとせずに、もう少し誇って、皆に知ってもらっても良いのではないでしょうか。
府中城は名古城?
今朝は思ったより車は少ない気がしました。7時半頃、東から日が少し高いところまで昇り、昨夜東の空から黄色の鮮やかな輝きを見せていた月は白くなって徐々に薄れ、筑波山の少し南側の上にまだ見えていました。
「月は西に、日は東に」ですね。
昨日は2つの城の話をしました。
今日はその府中城が何故日本三大名古城と言われたのかを知りたいと思い、山鹿素行の「謫居童問(たっきょどうもん)」を読んでみようかと思いたちました。
そして、ネットでも読めることが判りトライすること1~2時間。
どうやら私には簡単に理解できる本ではなかった。
山鹿(やまが)素行は、江戸時代の儒教学者・兵法家であるが、知れば知るほど凄さが伝わってくるように思う。
「中朝事実」で中国より本朝の方が優れているとしたことが、朱子学を批判したとして赤穂藩に謫居(たっきょ)されられます。ここで著したのが「謫居童問」です。
童問とは読んで字のごとく子供の問いに答えるというのだけれど、そんな子供らしい問いなどどこにもない。
この思想が赤穂浪士の思想に大きな影響を及ぼし、吉田松陰へ伝っていったのです。
今日はこのような思想の話はさておき、この本に、ここ常陸国の府中城を古城として優れていたと書かれているというのですから確認したかったのですが、今日はギブアップです。

この地図は石岡小学校の敷地内の府中城の土塁の説明看板に掲載された図です。
出典は「図説石岡市史」となっています。
特徴は現在の小学校から総社宮及びその奥の山側を土塁と堀で囲み、北側を池で、南側は鯉川(現恋瀬川)が流れています。
最大の特徴は、その東側の街の外側に「から掘」が廻らされ、町を含めた全体で城を形成していたのです。
現在はその掘りのあったところは鉄道が走って、面影をたどるのは困難なようです。
城中にあったという池や掘りは、ほとんど埋め立てられたり、田や畑に変わってしまっています。
面影を求めて、まわりをまわってみましたが、土塁や竹林などが少し残っているばかりでした。

城山中などといわれたところにあった鈴ヶ池などを復活させ、公園にでもしたら鈴姫の物語も復活するのでしょうか?
最近、予算を組んで「上池」を公園風に整備しましたが、他所から来られた方には何処にあるのかさえわかりません。
地元の方でも意外に知られていないようですね。「上池」「下池」があったのですが・・・。
「月は西に、日は東に」ですね。
昨日は2つの城の話をしました。
今日はその府中城が何故日本三大名古城と言われたのかを知りたいと思い、山鹿素行の「謫居童問(たっきょどうもん)」を読んでみようかと思いたちました。
そして、ネットでも読めることが判りトライすること1~2時間。
どうやら私には簡単に理解できる本ではなかった。
山鹿(やまが)素行は、江戸時代の儒教学者・兵法家であるが、知れば知るほど凄さが伝わってくるように思う。
「中朝事実」で中国より本朝の方が優れているとしたことが、朱子学を批判したとして赤穂藩に謫居(たっきょ)されられます。ここで著したのが「謫居童問」です。
童問とは読んで字のごとく子供の問いに答えるというのだけれど、そんな子供らしい問いなどどこにもない。
この思想が赤穂浪士の思想に大きな影響を及ぼし、吉田松陰へ伝っていったのです。
今日はこのような思想の話はさておき、この本に、ここ常陸国の府中城を古城として優れていたと書かれているというのですから確認したかったのですが、今日はギブアップです。

この地図は石岡小学校の敷地内の府中城の土塁の説明看板に掲載された図です。
出典は「図説石岡市史」となっています。
特徴は現在の小学校から総社宮及びその奥の山側を土塁と堀で囲み、北側を池で、南側は鯉川(現恋瀬川)が流れています。
最大の特徴は、その東側の街の外側に「から掘」が廻らされ、町を含めた全体で城を形成していたのです。
現在はその掘りのあったところは鉄道が走って、面影をたどるのは困難なようです。
城中にあったという池や掘りは、ほとんど埋め立てられたり、田や畑に変わってしまっています。
面影を求めて、まわりをまわってみましたが、土塁や竹林などが少し残っているばかりでした。

城山中などといわれたところにあった鈴ヶ池などを復活させ、公園にでもしたら鈴姫の物語も復活するのでしょうか?
最近、予算を組んで「上池」を公園風に整備しましたが、他所から来られた方には何処にあるのかさえわかりません。
地元の方でも意外に知られていないようですね。「上池」「下池」があったのですが・・・。