代田のダイダラボッチ

 今日も1日中暑い日が続いた。例年高浜・三村地区の先にある井関地区代田の入口に藁に杉をつけてダイダラボッチを飾って無病息災を祈願する催しが行われており、今年も見に夕方出かけてきた。しかし今日はあまりの暑さで作業が遅れてしまったようで、夕方の5時前にはまだ藁人形しか完成していなかった。1年間飾られた人形は焼いているところで、これから杉を体に刺して大人形の形に作るのである。写真は昨日のものと、昔採ったほぼ完成した時のものを載せた。
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ダイダラボッチの話は全国各地にあるが、ここの地域の名前が代田であり、何かいわくがありそうでもある。大足などという地名が水戸の方にあり、ダイダラボッチの話が尾ひれをつけて広がっていく。ここの井関地区は昔水戸藩の領地で独特の習慣などがあるようである。代田、長者峰、梶和崎、古酒の各地域に人形を飾る風習がそのまま残っているのも面白い。

ダイダラボッチの里 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2010/08/16 18:49

歴史に埋もれた悲劇(香勢堂)

 お盆明けの16日に代田のダイダラボッチを見に行った帰り道に偶然探していた場所を発見しました。私が歴史の里石岡ロマン紀行の中で「三村城秘話」で紹介して、その時に見つけられなかった「香勢堂」と六地蔵です。いつも近くは通っていたのにあまり立派な墓地となっていたので気がつかなかったようです。そこは高浜駅から石岡へ向かう上の道ではなく崖に沿った下の道です。昭和36年発行の「図説 石岡市史」に記載されていたので北根本を探したのにわからなかったものです。三村城は1573年に落城し、城主常春も落ち延びようとして城の近くで落馬し切腹し果てました。「南城実録・三村記」によれば三村城の危急を聞きつけ、府中城より軍勢300余が駆けつけたが、近くの中津川台に到着して三村城を望めばすでに城は真赤な炎をあげて燃えていました。義を重んじる軍兵206人はその場で切腹して果てたといいます。後にここに一宇が建てられ「高野勢堂(こうのぜいどう)」といわれて今に残ると記されています。その後、堂宇はなくなり、元禄年間(1688-1703)に建てられた六地蔵が残るとなっています。高野勢堂は香勢堂とも書かれているが本来は「国府(こう)勢堂」であろうと紹介されていました。
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六地蔵(昔は一部倒れたりしていたのを地元の組合できれいにしたとのこと。
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上記の文献では206名となっていましたが、地蔵に人数が刻まれており、197名とのことです。
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昔は個人所有の墓地であったが、現在は共同墓地として地元で管理されています。
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この墓には地元の方で代々受け継がれているが、30代以上続いている墓もあり、少なくても500年は経っているようである。この場所は常磐線の恋瀬川にかかる橋の1本石岡よりの新しい橋のすぐ石岡側です。昔はここに橋(1本橋)がかかっていたとのこと。その橋をまっすぐ中津川方向に向かった突き当りあたりです。昔はこの辺で川を渡ったのでしょう。真っ直ぐ対岸の三村城が良く見える場所です。じもとの組合長さんにお話を聞くことができました。昔はこのあたりは何回も洪水で被害を受けたが、いまは堤防ができ被害はなくなったと。またこの墓も代々続いているが、手入れをするのも大変で、東京に出て行った人でもこちらの墓に入れてほしいと何人かがきているとのことです。お一人で暑い中手入れをされていました。脱帽で~す。頑張ってください。

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/20 21:47

縄文時代を貝塚に見てみました。

 今日は霞ケ浦の古代縄文時代の生活の跡を国指定史跡である「陸平(おかだいら)貝塚」(美浦村)へ見学に行ってきました。ここは考古学のルーツともいわれるほどその方面では有名な場所です。陸平というだけあり、丘になって霞ケ浦までの距離も近いですが昔は霞ケ浦も海水であり5000年前は今より2~4m水面が高かったといわれ、この辺で海に接していたと思われます。暑い夏の日差しが注ぎ、貝塚に向かう木々の中はツクツクボウシの大合唱でした。運よく地元の協力による発掘調査(小規模ですが)の最中で、地元の小学生も手伝い貝や土器の破片を選別していました。
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陸平は明治のころは岡平と称されていたという。いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されているのです。こんなに長い間人が住んでいたのです。大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。
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住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いです。
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今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。
陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。

阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/29 17:21

鹿子の木(カゴノキ)

 昨日から急に寒くなった。
暑いときは寝不足を嘆いていたが、寒くなると体が疲れた感じになる。
なかなか丁度良い具合にはいかないものだ。
水不足は解消されたが、果物の産地としてはまだ心配だ。
さて、今日は「矢口家のカゴノキ」を紹介しよう。
場所は石岡市山崎風ヶ沢1383であるが、地元の人以外は現在あまり通らない場所だ。
ここは、昔は瓦会、部原地区と真家、岩間方面とを結ぶ街道であったという。
この場所で矢口家は茶屋を営んでおり、旅人の労をねぎらったという。
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このカゴノキは樹齢約250年も経つもので、道路に斜めに張り出したようになっている。奇妙だが、昔は周りに、他の木があって邪魔をしていたためのようだ。
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カゴノキは「鹿子の木」と書く。鹿の子(バンビ)の体の模様に似ているためについた名前だ。
木が大きくなるときに表皮が割れて模様になるという。
主に温暖な気候のところに生える樹木で、茨城では珍しいそうだ。
樹木もそうだが、馬滝(真家)から鳴滝(瓦会)へ山伝いの道を通っていた時に見つけた。
昔の街道であったと聞くと何か懐かしくなってきたので紹介してみた。
先日柴間の丘の上にあるギター文化館から、この方面を眺めた。
のどかな風景が広がり、その先に鐘転山(かねころばしやま)からの山並みが続いていた。


八郷地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/24 20:44

三光の宮

今日は昨夜からずっと強い雨が降り続いたがようやく夕方になって降りやんだ。
最近は天候も極端になってきた。これも地球温暖化の影響なのだろう。
世界の人口を考えればこの先人類はうまくやっていけるのかと心配になる。
自国の利益優先という間違った愛国心のエゴが地球を破滅に追いやるかも知れない。
中秋の名月はあいにく見られなかったが、前後の月は優しく輝いていた。
月の大きさは地球の1/4だから、月から地球を見たら月の4倍の大きさに見えるはずである。
地球は青いというので、どんなに美しいのだろうか?見てみたいものだ。
その美しい地球で醜いエゴが渦巻いているのはいただけない。
戦後65年が経ち私を含め戦争を知らずに育った人がほとんどになった。
しかし人類の歴史は過ちの繰り返しできた。
さ~て、これからの100年をどう乗り越えていけるのでしょうか?
ロシアへは5-6年前に訪れた時に比べて年々昔に逆戻りしているようで心配になった。
周辺の国々との間でギクシャクしてきて、軍事的な高圧化が目立つようになってきた。
北方領土などもこのままでは進みそうにない。現政権では何もできないようにも思う。
さて、いつもならもうススキの穂も目立ってくると思うのだが、彼岸花と同じく大分遅くなってしまったようである。ススキがなければ中秋の名月も物足りない。
石岡も日天宮、月天宮、星之宮という三光の宮なるものがある。
歴史は1300年程前からあるともいわれ、古そうであるが、あまり紹介されることは少ない。
特に、星之宮は現在なく、総社宮に合祀されている。
元あった場所は、石岡二高のすぐ手前(国分寺の裏手)であり、小さな公園がある。
この三つのお宮が三角形に結ばれトライアングルを形成していた。
昔にこのお宮をこの位置に配置したことは、何か意味を持たせていたはずで今では考察もされていない。
江戸時代に水戸街道(陸前浜街道)ができ、明治に鉄道が敷かれ、昭和になって国道6号線が開通したのである。
鎌倉時代の前にはどのような道があったのだろうか。
こんなことを考えるのはおかしいのかもしれないが、まあ、考えているうちに何か気がつくこともあるでしょう。
三村から中津川で恋瀬川をわたり、田島の方を通って、日天宮と月天宮(貝地)の間を抜けるような道があったのかもしれない。
護身地蔵などもあるが、戦国時代のいわれはあるが、何時からあったものだろうか?
もっとも今の位置は6号国道建設時に移動されているが・・・・。
考古学と書物の歴史以外にも地元に残る伝承などももう少し研究すると面白いのにな~。

石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/28 21:36

太田三楽という武将を知っていますか?

 今日は日曜日、午前中に応援している風の会の機関誌の印刷、製本の手伝いをしました。
もっとこれだけの内容の濃い会報を毎月出しているのはすごいことだと思うのですが、この地方で受け入れられることが乏しいのはもったいないことです。
さて、今日のタイトルに書いた太田三楽斎資正(すけまさ)という武将を聞いたことがありますか?
この石岡の地に墓もあるのだが地元ではほとんど話題に上ることがない。
それなのに全国には多くの熱狂的なファンがいる。まあ埋もれた人物であろうか。
太田道灌の曾孫で岩槻(岩付)城の城主である戦国武将として名前が知れているが、石岡の片野城の城主として間もなく入道となり、三楽斎を名乗る。
また手這坂の戦いで小田氏治を破った人物であり、はじめて軍用犬を使ったことで知られる。
軍用犬は岩槻城に近い松山城の二か所に犬を飼いならし、片方の城が攻められたときにいち早く犬を放ってもう一方の城の味方に知らせたという。
しかし、自分の城を子供に奪われ、佐竹氏に乞われて府中城と小田城との要の位置の前線で活躍している。
府中城が佐竹氏に攻められた際には、応援の要請には応えず、手出しをしなかったようである。
これは府中の大掾氏とも姻戚関係を結んでもいたことも関係したであろう。
また、落城した後の城をこの太田三楽にあずける話もあったようである。
しかし、この三楽を語る時に岩槻がでてきても石岡や片野、柿岡などがほとんど語られないのは何故なのだろうか。
最後まで上杉謙信への忠臣を貫き、謙信の死後直江兼続も高く評価していた知将して知られ、晩年には豊臣秀吉からは天下一の名将が、一国をとれないのは不思議だと言わせたともいう。
孤独な生涯を送ったともいわれ、また最後まで岩槻を奪還する野心を捨てなかったといわれています。
しかし一度石岡の片野の地を訪れ、城跡とお墓を探してみてください。
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ひっそりと山の中に眠る墓は春には桜の花が舞い、ウグイスが鳴くのどかな場所にあります。
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戦国時代を戦い抜いた一人の武将も44歳の働き盛りからこの地で戦に明け暮れ、秀吉の天下統一の8年後に69歳でなくなるまでこの片野の地にいたのは確かなのです。最後は静かな境地になっていたのではないかと思わされたのです。
地元の方に聞いてもほとんど知られていないようです。しかし、全国的にもファンが多くいるのですから近いうちに見直される時が来るように感じています。
地元には「片野排禍ばやし」(三楽が地元の禍を取り除くために始めたとされる)を一度見てみませんか。
「片野排禍ばやし」は7月の第3または第4日曜日と10月の第3日曜に地元の八坂神社のお祭りとして行われています。

八郷地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2010/10/03 17:06

三村地区「下ノ宮遺跡展」

 今日は一日冷たい雨になりました。
月曜日にイギリスに嫁いだ長女夫婦が帰ってくるので少しは家の中の片づけもしなければなどと思っていましたが、あまりはかどりません。まあ年に1度くらいでも帰ってきてくれるのでそれだけでいいです。
まあ日本食が好きなので日本食を食べに帰るのが目的のようです。
むこうで、来る前から何処に行って何を食べたいなどと計画しているようです。
さて、今日、私のブログにコメントをいただきました。
その中で、市役所で三村の下ノ宮遺跡遺跡のミニ展示会をしていると教えていただいたので早速行って見学してきました。(10/17まで休日も開催、無料)
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市役所の玄関を入った正面に小さなショーケースが三つの本当のミニ展示会です。
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縄文時代の土器など数点ですが、大変興味を持ちました。。
場所は常磐線を挟んで三村小学校の反対側です。三村常春公の眠る五輪塔の近くです。
この辺りには古墳もいくつかあり、高浜の堤防工事などに古墳も削られたと聞いています。
また、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州征伐にやってきて、正月を迎えたという「正月平」も近くです。
この辺りに5000年程前から人類が住んでいたのですね。
先日、美浦村の陸平(おかだいら)貝塚にいきましたが、霞ケ浦周辺にはまだまだ縄文の遺跡が眠っていることでしょう。発掘調査の方は本当に大変ですが頑張ってください。

高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/09 17:10

尾花散る師付の田井

 今日は朝かなり激しく雨が降ったが昼前から天気になった。
そこで思い出して万葉集に歌われた志筑にある「師付の田井」にいってみた。
ススキの穂があちらこちらで目立つようになったので「尾花散る」と詠われた場所がどのようになっているかを見て見たかったからである。
五百羅漢で知られる、かすみがうら市の志筑の長興寺の脇を通って木々の茂みの道を下ると一面に田んぼが広がる。ここが「師付の田井」です。
万葉集(第九-1757):
草枕、 旅の憂いを 慰もる事もあらんと 筑波嶺に 登りて見れば尾花散る、 師付の田井に雁がねも 寒く来鳴きぬ。・・・・
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以前来た時は看板のある場所まで道もなく、田んぼのあぜ道を危なっかしい足取りで歩いて行ったが、今はきれいな道が敷かれ、手前には5-6台止められる駐車場も完備されていました。
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左側にはきれいな水が絶えず流れ、昔から水の豊富な場所であった証しでもあります。
尾花(ススキ)はこの碑の廻りだけに植えられていたが、やはり尾花と一緒が良いですね。
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この場所から筑波の峰は見ることができない。上の写真では左側の木々に隠れているが、もっと先の方にいけば見ることができる。昔はこの上を雁が飛んでいたのでしょうか。
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この石碑の裏側にこんこんとわきだしている井戸があります。これは「鹿島やわら」といい、昔から水が湧き出しており底がなく鹿島神宮までつながっているとまでいわれています。
一度長興寺という一風変わったお寺の見物と兼ねて訪ねて見てほしいと思います。
私も、昔「長興寺」の看板を見た時には、「こんな所のお寺なんて」と少し馬鹿にしていたのですが行ってみて驚きました。
とてもユニークなお寺です。今でも鶴見さんという芸術家が石像を彫っています。
かすみがうら市の人にもほとんど知られていないのが残念です。

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/10 15:07

柿岡曲馬団

 先日キグレサーカスの倒産が新聞に載った。
日本三大サーカスの一つが終わりを告げたのだ。
昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
私も小さい時に木下サーカスを見に行った記憶があり、いくつか見た記憶があるのでキグレサーカスも見たかもしれない。
またボリショイサーカスなどが来た時にも見にいった記憶もある。
 さて、皆さんは柿岡曲馬団というサーカス団を御存知でしょうか。
私は名前も聞いたことはなかったのですが、八郷町史に載っていたのを思い出したのです。
そこで、今日仕事帰りに図書館によって確認してきました。
柿岡の名前と八郷町史ですから、この地元で作られたサーカス団なのかと思いましたが、違っていました。
柿岡春二郎(本名:荒川治二郎?)が率いた曲芸団で、明治後期から昭和初期までの間で非常に大きなサーカス団だったようです。
春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来たといいます。
若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。
そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になったといわれます。
 大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。
ネットで検索して、面白いものを見つけました。
古書の中にこの柿岡曲馬団の絵葉書(カード)が売り出されており、3枚で12,000円の値が付いていましたのでびっくりですね。
内容は「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」「団員数十人の集合写真」でした。面白いですね。
 さて、そのほかどのような出し物があったのでしょうか。
「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などの名前が載っています。
大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップに柿岡曲馬の名前があります。
 さて、八郷の柿岡市の名前が出てきませんでしたが、はっきりしたことが分からないのですが。柿岡春二郎は大正三年に分家して柿岡に戸籍が移ります。
屋敷も持つのですが住んでいたところは宇都宮のようです。
ただ、吉生から養女をもらっており、戦後になってこの柿岡に移ってきたようです。
またそのころは、一座はほぼ活動は終わっていたようです。
昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石ですぐわかるようです。
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善慶寺は柿岡小学校(柿岡城跡)の麓にあります。写真は桜並木と善慶寺です。
 参考までにロシア(モスクワ)に行ったときに見たボリショウサーカスの写真も紹介しましょう。
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上の写真はショーのラストに近い演技です。さすが本場ですね。観客はほぼ満員でした。
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ボリショイサーカスの入場券を手に入れていなかったため、午前中に会場で購入しようとしたら、入口におばあさんが「良い席があるよ」と呼び込み。いわるるダフ屋ですが、正規の券は買えないので、少し高めのようでしたが、午後の券を購入できました。
友達がモスクワ大学に留学していたので会話ができ助かりました。
また、これとは別に、現地の人にボリショイバレーの公演の券を前もってお願いして取ってもらいましたが、こちらはさすがに当日に券を購入するのは無理なようです。なかなか取ることができないといっていました。
とてもすてきなバレーを見学でき良い思い出ができました。
(こちらバレー公演は撮影禁止のようです。セキュリティチェックもうるさく、持ち物などは全て預けなければなりませんでした。)

八郷地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/22 18:09

座禅体験

 昨日はクッキリ見えていた筑波山は今朝は少し霞んでいました。
気温が少し高いのでしょうか? 明日はもう少し高い予想です。
今日は石岡で座禅体験ができることを紹介しておきましょう。
場所は根小屋にある「泰寧寺(たいねいじ)」です。
根小屋は常陸風土記の丘の先から畜産センターを通ってフラワーパークの方に向かった道の曲がり角にあります。「山形大弐(だいに)の墓」の看板が目を引きます。
ここで、人数がまとまれば座禅体験と写経の体験ができます。
今は「やさと里山クラブ」や朝日里山学校で5人以上から申し込めるそうです。
一度試してみられるのは如何でしょうか?

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前のブログで「片野城城主である太田三楽資正」について書いたことがありました。
この片野地区と根小屋は隣りあっており、柿岡城と共に思い出してほしい場所です。
また、泰寧寺の脇から上の方に登って行ったところに「楓」という蕎麦屋さんがあります。
新しいお店できれいで美味しいというので一度行きました。
十割そばがとても美味しかったです。
一度お試しください。
道はくねくねして、畑の中に建っているような店ですが旗が立っていますのですぐわかります。

 
 

八郷地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/25 21:15
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