ギター文化館通り(宇都宮街道)

 石岡市若松町の交差点に石の道標(追分)が置かれています。
ここに「右 うつのみやかわらい道」と書かれています。
この道は国分尼寺を通って瓦会を経て板敷峠を越え宇都宮・日光へと続いていたといわれます。
しかし、昔の面影を残しているところは少なく、はっきりとしていません。
道をたどって進むと、まず常磐高速道にぶつかります。
ここには「鹿の子遺跡」の看板があります。
そして常磐高速を超えて進むと柏原工業団地の中で完全に道は断たれてしまいます。
しかし、工業団地の先のそれらしき道をたどると、医師会病院の脇の道に出ます。
この道を真っ直ぐ進むと「ふらの」という美味しいパスタやそば懐石のお店があります。
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とても美味しいですので一度行ってみてください。
「うらら」ちゃんという大きな犬が迎えてくれますので、犬好きの方は良いでしょう。
そこを過ぎると、右側に山並みが見えます。この山は右端が鐘転山(かねころがしやま)、左側が難台山で南北朝時代に壮絶な攻防があった山です。
山の向こう側は旧岩間町で天狗の山の愛宕山は少しだけ頭が出ていますがかくれています。
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この高台の道の右下を走っている道は瓦会より部原(ヘバラ)を通る道です。
左手は木々の林が続きますが、「嘉良寿理(からすり)左」の表示のあるT字路があります。
ここを左に少し登ったところに貴船神社の鳥居があり、奥に小さな神社のお宮があります。
ほとんど訪れる人はおりませんが、ここにとても大きなスタジイの大木があります。
これは本当に見事な木です。
説明文では「この近くを宇都宮街道が通っており、旅人の目印になった」というような記述があります。
やはりこの道が宇都宮かわらい道なのでしょう。この神社以外には昔を偲ぶものは見当たりません。
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ところがこの神社の先に少し行くと左右が畑となり開け、その先に加波山の山並みが見えてきます。
右手は先に見た難台山の山並み。正面と左手側が筑波山~加波山の山並みです。
とても良い景色です。もちろん山に登れば反対側の山並みや八郷地区の街並みなども見えますが、登らなくてもこんなに見晴らしの良いところも少ないでしょう。
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元の道(宇都宮街道)へ戻って、先に進むといくつかの別荘風の建物を過ぎた所に「ギター文化館」があります。
ここはギターをやられる方はもちろんですが、労音が気にいってこの地に建てたもので、世界的に有名なアーチストもみえます。惜しむらくは地元の方にあまり知っておられる人が少ないことですね。
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そこで私はこの宇都宮街道を今後「ギーター文化館通り」と呼ぶことにしたいと思います。
すべて通りの名前は通称で、皆がそう言っていればそのようになるものらしいのでそのうちに認知されるかもしれませんね。
 さて、昔の宇都宮街道は真っ直ぐ進むと「豊後荘病院」へ行くが、その手前から右に下る道があり、「池の端」というバス停で下の街道にでます。
そのまま瓦会を通って大覚寺のある板敷峠を越えて羽黒経由で宇都宮へつながっていたのでしょう。
親鸞聖人が稲田の草庵から府中(石岡)へ出る時もこの道を通っていたのでしょうか?
そして神社で休憩したのでしょうか? 思いが広がっていきます。
もちろん柿岡の町などを通って行く道もたくさんありますので、750~800年位前に道がどのようになっていたのかはわからないですね。でも神社の大木を見ると歴史を語ってくれるように思います。
しかし、知る人はほとんどいない。
歴史も埋もれたままでは、このような感情もなかなか共有できないですね。

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/15 19:37

諭吉通り

今日は朝、娘たちを成田空港まで送って行った。
昨夜は早めに寝たが、気になったためか目が覚めたらまだ午前三時前。
六時まで時間があるので、又寝ればよいのだが、考え事をしていたら眠れなくなってしまった。
おかげで、寝不足であまり調子が良くない。
今日は早めに寝よう。明日は寒波がやってくるというので、日本全国雪の便りがあるが、まだ10月である。
もう少し気候の良い秋を満喫したいものだ。
 125号線を美浦村の少し先から成田方面に曲がって真っ直ぐ行くと国道408号線となる。
その街道に標識があり「長豊街道」と書かれている。
長豊は国道408号線が利根川に架かる橋にこの名前が付いているので、この辺りの地名であろう。
しかし、ここで気になったのはのこ街道の名前の下に「諭吉通り」と併記されていたことだ。
はてさて、これは福沢諭吉のことであろうが、この地に何の縁があるのだろうかと気になった。
調べてみると明治5年に印旛県長沼村(現千葉県成田市長沼)で起きた「長沼事件」が関係していることが判った。
江戸時代には、年貢を納めて長沼(ひょうたん型の大きな沼)での漁業権を得ていた長沼村であったが、周辺の村の申請で沼が国有化されそうになった。村の代表たちは必死に漁業を続けていけるように県に訴えたが非常に窮地に陥っていた。
その時ふと手にしたのが福沢諭吉の「学問のすすめ」であった。
その内容に感銘を受けて、諭吉に直接あって窮状を相談したところ、諭吉は請願書の起草や直接の働きかけなどを行なって、官有地ではあったが、村の借地権が認められた。その後さらに活動を続け、明治30年には村に無償払い下げが下されたのである。
地元の人達は、これにより、福沢諭吉への感謝を忘れず、大正7年に「長沼下戻記念碑」を建立したという。
今は干拓がすすみ、豊かな水田地帯となっているそうである。
 やはり、このように道路に名前を付けただけでも、こうして興味を引いて調べてみる人が出るのである。
石岡も街道の名前などを是非工夫してほしいものである。

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/26 20:02

上曽峠と上曽宿

 石岡(府中)から柿岡の街を通り、真っ直ぐ真壁の町に続く県道7号線は、昔の主要な通りであった。
真壁側から石岡(府中)に行くにはこの上曽峠峠を越えていく必要があったのである。
その峠を越えた所にできた宿場町が上曽宿で、古い町並みが今でも残されており、旅籠の看板も2件そのまま残っている。
歴史を調べてみると、かなり古くから重要な街道であったという。
昔は霞ケ浦の高浜から柿岡までは恋瀬川を使って舟運が発達していたようで、柿岡から真壁・下館方面への荷物の運搬はこの柿岡まではこの上曽峠を越えて馬で運びました。
このため、この上曽宿には多くの旅籠があり、馬止もありました。
また山中に、鎌倉時代の猿壁(さっかべ)城跡があり、小田氏の子が上曽氏を名乗ったといいます。

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宿場から上曽峠に向かう。 ここから道がくねくねとした上りとなる。冬場は凍結して危ない。
現在この峠にトンネルを作る計画が進行しているが、筑波方面と結ぶ「朝日トンネル」は工事が大分すすんでいるが、こちらはまだ着工に至っていないようである。

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今でも立派な塀と門をを持った家が多くみられる。

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旅籠「えびすや」さんの看板をそのまま残している。

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「えびすや」の建物もそのまま残され、昔の宿場が思われる。

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昔の街道の面影が残る通りである。長屋門の立派な構えの屋敷です。

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上曽宿の中程に「一言稲荷神社」があり、赤い旗が目を引きます。
神社には「筑西市」や「下館市」などの奉納者のお名前が多い。こちらの方面の信仰の神社なのか?

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宿場の中に「足尾神社の鳥居」が残されています。写真の後ろの方に見えるのが「足尾山(万葉集では葦穂山)」です。
この鳥居の横の大きな石標は昔の道標で正面に「西まかべ道」右側には「あしを道」と書かれており、裏には「享和甲子歳三月」と書かれています。調べると享和4年(1804)3月に作られたものだそうです。かなり立派なものですね。
足尾神社は山頂に神社があり、足の病に効くと言われていおり、筑波山と加波山の中間に位置する神社だ。
この神社も天狗でも知られ、面白そうなのでまた別途調べてみたい。
 

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/01 19:29

小幡宿

 昨日が少し暖かかったが、やはり今日は寒くなってしまった。オーストラリアではハリケーンが猛威をふるいそうだ。穀物の価格が心配になる。気候変動は毎年異常さが増すようなので、今後どうなるのだろう。
ガソリン価格も急に上がってこの先もっと上がるような気がしている。
景気が上向いたような気は全然しない。
 さて、今日は「小幡宿」を紹介しましょう。小幡宿といっても旧水戸街道や中山道の宿ではない。八郷地区にある小幡である。
この集落は昨日紹介した隣り集落の上曽地区よりもかなりおおきな集落であったといいます。
ここが発達したのは、府中(石岡)の町から柿岡を通り、筑波神社への参拝の街道途中にあった町のためと、色々な産業が行なわれてきたためであろう。
筑波山に登ることはかなり昔から行われていたようだが、この道がもっとも古いようである。
筑波への参拝の街道については別途紹介するとして、この小幡にも古い家並みが残っています。

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1月の雪がまだ残っている時に写真を取ったので、この時はこの先の十三塚から筑波への道は急坂で少し狭いので凍結しているので危険と思ったのでいかなかった。

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ここも宿場として宿屋もあったと思うが、現在その形をそのまま残しているところは少ない。
石蔵もあり、大きな家も多い。この先の十三塚は果樹団地といわれ、八郷地区一番の果樹栽培地である。
また右に曲がれば湯袋峠を越えて真壁の町に出られる。

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 長屋門であろうか、昔はこの門には門番用の用人の住む部屋や馬の納屋もある門だったのだろう。

昔ながらの家並みが残っていると、とても懐かしくホッとするのは何故なのだろう。
日本の各地に知られざる家並みが多く残っている。
そこには、そこの生活や歴史が詰まっている。
そんなところにスポットを当ててみたいと数年前から考えてもいるが未だに実現していない。
身近にも多くの家並みが壊されずに残っているとうれしいですね。

石岡の特産品として水車製法でつくる「杉線香」や「弓の矢」の製造など昔からの伝統を受け継いでいるところもこの小幡地区である。またの機会に紹介したいと思います。

 明日はまた仕事で銚子に行く予定です。
 
 

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/02 19:42

ギター文化館通り(2)

 以前ブログで、柴間のギター文化館と石岡医師会病院を結ぶ通りを「ギター文化館通り」と勝手に名前をつけたが、たまには宣伝しないと忘れられるので、ことば座公演に行く途中の景色を紹介しておきます。
石岡の街中の人にはほとんどなじみのない通りではないかと思います。
柿岡街道(林地区)と園部-部原-瓦会の通りの間の高台を通っています。
(もともとはこの通りは「宇都宮街道」と呼ばれた通りではないかと勝手に想像しています)

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途中の麦畑と向こうの山は「龍神山」です。こちらからみると大きく削られたのはあまり分かりません。
麦は今の時期に実るのですね。本当に秋のようです。
「麦秋」の季語教えていただき感謝。

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 大きくUPしてみると、麦の色はそれ程黄色くないのですが、まとまるとまるで黄金ですね。

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途中、竹を矢倉に組んだつる野菜が植えられていました。これは何の野菜でしょうか?
きぬさや?きゅうり? 良くわかりませんが、まるでこの竹の組み方は弓矢作りの天日干しと似ていて少し驚きでした。この時期には竹ばかりが目立つだけですが(笑)

向こうに見える建物はレストラン「ふらの」です。ここのパスタ、そば懐石美味しいですよ。
ここが北海道の富良野の風景に似ているとのことで名付けたようです。

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ギター文化館の庭から難台山、愛宕山、鐘転山方面を見たところです。
向こうの煙が見える部落は「山崎」または「部原(へばら):変わった読みですね」の方です。雨でけぶっていましたがここの景色もいいですね。

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やはりのんびり落ち着くのはいいですね。都会には無い真の田舎の良さです。
都会からこちらの方に移ってこられる人が結構多いのも頷けます。
ギター文化館はギターの殿堂として大切な建物ですが、一部の方しか知らないようでもあります。
一度この風景を見に来られるのも良いのではないかと思います。
 

街道その他 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/06/19 09:16

千住宿場

 <行春や 鳥啼 魚の目は泪>

 これは芭蕉が「奥の細道」で旅立ちの時に詠んだ句です。

 (千住旅立ち:元禄2年3月27日)

彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、
不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
 
行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

芭蕉蕪村
(蕪村が書いた芭蕉旅立ちの絵)

さて芭蕉は東北への旅立ちで、まず門人たちと船で深川から隅田川をさかのぼり、千住の宿にやってきました。
千住は隅田川と荒川とにはさまれた地帯で当時の江戸では品川に次ぐ大きな宿場でした。
北への玄関口だったのです。

当時のこの宿場町には約2400軒の家屋と、人口は1万人近くもいたといわれています。
本陣が1軒、脇本陣1軒、旅籠は55軒ほどあったそうです。

その本陣跡に先月偶然行ってきました。
友達のライブ会場のすぐそばだったのです。

北千住駅から歩いてすぐです。

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道路にはめ込まれた千住宿の案内タイル。

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北千住駅西口から西にまっすぐ伸びる道を最初の信号の右に一つ入った路地裏に看板があります。
そして地図の緑色の場所が本陣屋敷があった場所です。
かなり広いですね。

ライブ会場はこの本陣跡地に建っていたことになります。
そして、ちずの赤丸の部分が「見番跡」となっています。

なかなか興味深いですね。
説明によると「江戸時代から千住宿は遊女を置いていい旅篭が50軒ほどありました。めいじになりこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正8年以降も昭和18年まで営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横丁」といっていたそうです。」
と書かれています。

まあ岡場所なんていってもう知っている人は少なくなったでしょうね。
政府が公認で遊女を置いてよい宿場は4つあったのだそうです。
「品川宿」「板橋宿」「内藤新宿」とここ「千住宿」です。もちろんこのほかに遊郭として「吉原」がありました。

これらは政府の公認があり、その他の宿や食べ物屋などは禁止されていたのです。
そうはいってももぐりはあって「あいまいや」などというものが存在していたのでしょう。

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この通りが「見番横丁」で、写真奥の左側に「見番」なる芸妓組合の事務所があったようです。
右側は本陣のあった場所です。

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さてもう一つ、この見番通りと交わる通り(一方通行)は「旧日光街道」となっています。
今はいろいろなお店が並んでいます。

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この先が日光や奥州へ繋がっていたようですので、芭蕉も門人「河合曾良」とここを通って行ったのでしょうか。



街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/12/01 22:23
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