お盆風景
昨日8月13日は旧盆を行っている多くの地方で、先祖のお墓を先祖のお迎えのために多くの人が訪れたと思う。ここ石岡も旧市内には多くのお寺があり、夕方から提灯を持った家族連れが歩いて市内のお墓を訪ねるため行列ができるほどであった。私のふるさとはどこになるのかはっきりしない。企業にいた時も新潟県生まれではあったが県人会には入っていない。しかし、今は東京に父が眠るお墓があり、1週間前にお墓参りをしてきた。お寺の住職に聞くと7月のお盆と8月のお盆の割合が丁度半々くらいだという。また、都会では歩いてお墓に行ける人は少なく、電車や車でいくことになる。そのため、逆にこちらのお盆の風景は私にとっては新鮮である。
お彼岸にもお墓を訪れる人は多く、茨城では、お盆と彼岸の時期が一番お花が売れるらしい。他県の倍くらい売れるようだ。こちらの特徴は、自分の先祖のお墓だけでなく、知り合いの墓にもお花を持っていくので、一人で何束も抱えている人を多く見かける。東京では聞いたことがほとんどない。また、市内にあるお寺やお墓の数もかなり多いと思う。ちょっと路地を入るとお墓がある。お盆には家を離れた家族が戻ってきて、楽しい話も多く語られるのであろう。良く言えば市内は家族的で、近所付き合いも良いが、悪く言えば、よそ者には排他的で近視眼的にしか物事を見ることができない。
街起こしをしたいと、よそから来たものが熱心であっても、なにか白々しさがあるように思うのはこちらの僻み根性かな?他所から来た者には感じられて、中に入っていて当たり前に思ってしまって感じられなくなっている部分がかなりありそうに思う。他所からの人を沢山受け入れていくか、自分たちが海外も含め、他所を見てくることが大切だ。ここで注意が必要なことは旅行者のパックツアーに行ってその土地を知ったことにならないことだ。今の中国人が多く日本に来て買い物をしていくが、これは一昔前の日本の姿でもあった。きっと現地の人の本音は見えていなかったのかもしれない。今のままでは茨城空港に降り立った外国人はこの街を素通りしていくのみであろう。
お彼岸にもお墓を訪れる人は多く、茨城では、お盆と彼岸の時期が一番お花が売れるらしい。他県の倍くらい売れるようだ。こちらの特徴は、自分の先祖のお墓だけでなく、知り合いの墓にもお花を持っていくので、一人で何束も抱えている人を多く見かける。東京では聞いたことがほとんどない。また、市内にあるお寺やお墓の数もかなり多いと思う。ちょっと路地を入るとお墓がある。お盆には家を離れた家族が戻ってきて、楽しい話も多く語られるのであろう。良く言えば市内は家族的で、近所付き合いも良いが、悪く言えば、よそ者には排他的で近視眼的にしか物事を見ることができない。
街起こしをしたいと、よそから来たものが熱心であっても、なにか白々しさがあるように思うのはこちらの僻み根性かな?他所から来た者には感じられて、中に入っていて当たり前に思ってしまって感じられなくなっている部分がかなりありそうに思う。他所からの人を沢山受け入れていくか、自分たちが海外も含め、他所を見てくることが大切だ。ここで注意が必要なことは旅行者のパックツアーに行ってその土地を知ったことにならないことだ。今の中国人が多く日本に来て買い物をしていくが、これは一昔前の日本の姿でもあった。きっと現地の人の本音は見えていなかったのかもしれない。今のままでは茨城空港に降り立った外国人はこの街を素通りしていくのみであろう。
丁子屋とかき氷
石岡の中町通り(昔の水戸街道府中宿)には江戸末期の建築物である丁子屋(ちょうじや)がある。昭和4年の大火の難逃れた唯一の建物と言ってよい。昔は染物屋であったが、今は市の観光用の施設 まち蔵「藍」として使われている。今年の夏は特に暑く、店の前を通ると店の前に出した椅子とテーブルに子供たちが群がっていた。お目当ては「かき氷」で昔ながらの手でハンドルを回して氷を削っていました。なんでも100円という安さですから・・・・。今年の夏にはピッタリですね。また子供たちも私の昔の風情と変わらぬ昔風でした。まだ、石岡には駄菓子屋さんもあります。こんど紹介します。


製氷店
お盆が終わったが、暑い日が続いている。今年はセミが少ないとも聞くが、我が家では多いと思う。先日は家の中にミンミンゼミが入ってきて飛び回った。また朝玄関を開けるとアブラゼミが飛んでいく。そのセミもようやくツクツクボウシの鳴き声が聞かれるようになり、秋も近ずいているように感じられる。
さて、石岡の中町商店街(旧水戸街道府中宿)入口の通りの両側に古い製氷店が2軒向かい合っており、何時商売しているのだろうと思って気になっていた。氷一貫目(3.75kg)の標準サイズで400円である。右手が「魚亀仕出し製氷店」という。名前の通り、魚店との取引で成り立っているのであろう。もう一つは藤枝製氷店(本当は酢屋氷店というようだ)は夏場以外は石岡名物の獅子頭の制作をおこなっており、店主藤枝さんはこの道の達人という。弟子も数十人いるようです。今日は店番をしながら居眠りをしていました。夏の一風景ですね。

さて、石岡の中町商店街(旧水戸街道府中宿)入口の通りの両側に古い製氷店が2軒向かい合っており、何時商売しているのだろうと思って気になっていた。氷一貫目(3.75kg)の標準サイズで400円である。右手が「魚亀仕出し製氷店」という。名前の通り、魚店との取引で成り立っているのであろう。もう一つは藤枝製氷店(本当は酢屋氷店というようだ)は夏場以外は石岡名物の獅子頭の制作をおこなっており、店主藤枝さんはこの道の達人という。弟子も数十人いるようです。今日は店番をしながら居眠りをしていました。夏の一風景ですね。

交通調査
今日も暑かったが、夜はクーラを入れなくても過ごせている。秋も近付いてきていることを感じる。今朝最近開通した恋瀬川の府中橋から6号国道につながった道路で交通調査をやっていた。先日も香丸町の通りで調査していたので「よくやるな~」という印象であったが、橋の両側にそれぞれ2-3人ほどの人が日よけのテント張って丸一日かかりでやっていた(朝と夕方に通ったがともにやっていた)。調査の結果、町の発展に寄与してくれればよいなと願うのみだ。府中橋とは恋瀬橋より一つ山側の橋である。近くの田んぼではもう一部で稲刈りが終了していて早いな~と思っていたのだが、気になっているのはこのあたりの恋瀬川の風情である。最近川の浅瀬によくシラサギがとまっている。今までもう少し高浜寄りでは良く見かけたが、この辺りではそれほど見かけていなかったように思う。昨年この橋の上でカワウソのような動物を見かけた。あまり動物に詳しくないのでイタチなどを見誤ったのかもしれない。日本カワウソはほとんど絶滅に近いらしく見かけたとしてもヨーロピアンカワウソとは思うが、交通調査をするなら川に生息する動物なども調査してほしいものだ。年々人の通りも少なくなり、シャッターを下ろす店もかなり出てきている。それなのに、やることは街中という狭い枠だけで物事をとらえ、外への広い視野がない。「茨城の名前発祥の地」などというあやしい内容をもっともらしく看板にして、それも「野バラがたくさん生えていたから」などというのはもう止めにしてもらいたいものだ。
藤原不比等の子孫?
さて、石岡の町中で自分の祖先の話が良く聞こえてきます。
先日ある方の話として、「先祖が藤原不比等です」といわれたのを又聞きしました。
直接伺ったわけではありませんので「それはすごいですね」とも言いませんでしたが、
またある方は「私の先祖は平安時代に都よりこちらに来た公家です。」などといわれます。
私は昔の祖先がどのような方であるかにはまったく興味がないので、お話は「そうですか」と聞くばかりですが、逆に何かこんな話題が普通に聞かれる環境に驚かされてしまいます。
私の家系は新潟でその昔、平家方のようですが、本家では家系図を大事にしており、1000年くらい遡れるような話も聞いていますが、一切興味はありませんし、確認したこともありません。
民族はほとんど混血で進化してきました。純潔では却って退化する危険があります。
日本は島国で、単一民族だなどと寝ぼけたようなことを言った国会議員もいたそうです。
ところで、藤原不比等は藤原鎌足の息子で、藤原家を発展させた祖といわれます。
藤原鎌足は中臣鎌足であり、大化の改新で名前が出てきますね。
この中臣家は九州から大和に登り、そして鹿嶋にやってきたと思われます。
鎌足はその名前からも鉄に関係しているのでしょうか。
鹿嶋の生まれではないかと考えられています。
出生の説はいろいろありますが、奈良の春日大社は鹿島神宮崇拝の象徴でもあり、鹿嶋出生説が正しいように思われます。
藤原不比等の娘が光明皇后(聖武天皇后)で、このあと皇族とかかわり権力を持って行ったと思われます。
しかし、光明皇后は貧しい人に救いの手を差し伸べ、薬草を集めたり、非常にボランティア的な働きをしていますので人間的な魅力もありますね。
光明皇后の亡き後に建てられた「法華寺」は全国の国分尼寺の中心となりました。
法華寺の十一面観音像はこの光明皇后をモデルにしたといわれ、本当に傑作です。
私の大好きな仏像の一つです。学生時代京都にいた私の妻もこれが一番好きだといっていました。
国分寺や国分尼寺などはこの聖武天皇や光明皇后とつながっているので興味がわきますね。
先日ある方の話として、「先祖が藤原不比等です」といわれたのを又聞きしました。
直接伺ったわけではありませんので「それはすごいですね」とも言いませんでしたが、
またある方は「私の先祖は平安時代に都よりこちらに来た公家です。」などといわれます。
私は昔の祖先がどのような方であるかにはまったく興味がないので、お話は「そうですか」と聞くばかりですが、逆に何かこんな話題が普通に聞かれる環境に驚かされてしまいます。
私の家系は新潟でその昔、平家方のようですが、本家では家系図を大事にしており、1000年くらい遡れるような話も聞いていますが、一切興味はありませんし、確認したこともありません。
民族はほとんど混血で進化してきました。純潔では却って退化する危険があります。
日本は島国で、単一民族だなどと寝ぼけたようなことを言った国会議員もいたそうです。
ところで、藤原不比等は藤原鎌足の息子で、藤原家を発展させた祖といわれます。
藤原鎌足は中臣鎌足であり、大化の改新で名前が出てきますね。
この中臣家は九州から大和に登り、そして鹿嶋にやってきたと思われます。
鎌足はその名前からも鉄に関係しているのでしょうか。
鹿嶋の生まれではないかと考えられています。
出生の説はいろいろありますが、奈良の春日大社は鹿島神宮崇拝の象徴でもあり、鹿嶋出生説が正しいように思われます。
藤原不比等の娘が光明皇后(聖武天皇后)で、このあと皇族とかかわり権力を持って行ったと思われます。
しかし、光明皇后は貧しい人に救いの手を差し伸べ、薬草を集めたり、非常にボランティア的な働きをしていますので人間的な魅力もありますね。
光明皇后の亡き後に建てられた「法華寺」は全国の国分尼寺の中心となりました。
法華寺の十一面観音像はこの光明皇后をモデルにしたといわれ、本当に傑作です。
私の大好きな仏像の一つです。学生時代京都にいた私の妻もこれが一番好きだといっていました。
国分寺や国分尼寺などはこの聖武天皇や光明皇后とつながっているので興味がわきますね。
恋瀬橋と6号バイパス
今日はクリスマス。
昨夜はイブであったが、今は子供も離れているので祝うこともなかった。
子供が小さな時は仕事も忙しく、毎晩夜中の帰宅でクリスマスも子供のプレゼントだけが楽しみなことだったように思う。
我が家の3人の子供に夜中にそっとプレゼントを枕元においてサンタさんを演じていた。
比較的大きくなるまで子供たちもサンタさんを信じて楽しみにしていた。
朝起きた時のうれしそうな顔を見るのが楽しみだった。
その子供たちも大きくなり、来年春には末の息子も社会人。
どうにか親の責任を果たしたことになるかな?
昨日、府中城を名古城といった赤穂の山鹿(やまが)素行の話を紹介しました。
また今夜テレビで赤穂浪士が放送されるとか。
その中で、大石内蔵助が討ち入りの時に打ち鳴らされる太鼓は「山鹿流陣太鼓」と言われて、どのドラマ、演劇などでも必ず使われます。
これは山鹿素行の山鹿流兵法に由来しているのですが、実際にはこのような陣太鼓はなかったそうです。
後の創作ですね。でもこれがないと話がしまりませんね。
討ち入りは12月14日ということですが、今の暦(西暦)では1月30日とのこと。
和歴が西暦(太陽暦)に変わったのは明治5年12月3日で、この日が明治6年1月1日になったそうです。
ですから昔は月の動きがとても大事だったのですね。
人々も敏感に月の満ち欠けなどを気にしていたのでしょう。
今日は朝から天気が良いので恋瀬橋に筑波山を見てみたくなり8時半頃出かけてきた。

ここからの筑波山の眺めはいつ見ても素晴らしいですね。

しかし、この橋の東側は現在6号バイパス道路という名の道路と橋の工事中です。
現在は橋の陸上部の土台となる土盛りができて、しばらく風雨にさらして固まるのを待っているところのようです。工事再開はもう少し先なのでしょう。

新しい橋は青(緑)色に塗られて川の水の上だけはすでに架けられています。
橋の反対側(東側)に回ってみると橋の上に筑波山が見えました。

この橋の北東側(下り方向)は舟船塚山古墳や中津川遺跡の方向です。
古代(縄文・弥生時代)の豊富な遺跡の残る貴重な場所なのです。
毎年のように調査が繰り返されていますが、その都度新しい発見があるような場所です。
遺跡が壊されないかとても心配です。
道路ができれば、恋瀬橋の混雑は解消されるでしょう。
しかし、石岡と言う古都は益々衰弱してしまうのではないでしょうか。
仕事量が増え、暮らしに役立つという見方も当然あります。
同時に、将来を見据え、子供たちが笑顔がはじけるような町作りを進めてほしいですね。
この続きはまた明日書きます。
昨夜はイブであったが、今は子供も離れているので祝うこともなかった。
子供が小さな時は仕事も忙しく、毎晩夜中の帰宅でクリスマスも子供のプレゼントだけが楽しみなことだったように思う。
我が家の3人の子供に夜中にそっとプレゼントを枕元においてサンタさんを演じていた。
比較的大きくなるまで子供たちもサンタさんを信じて楽しみにしていた。
朝起きた時のうれしそうな顔を見るのが楽しみだった。
その子供たちも大きくなり、来年春には末の息子も社会人。
どうにか親の責任を果たしたことになるかな?
昨日、府中城を名古城といった赤穂の山鹿(やまが)素行の話を紹介しました。
また今夜テレビで赤穂浪士が放送されるとか。
その中で、大石内蔵助が討ち入りの時に打ち鳴らされる太鼓は「山鹿流陣太鼓」と言われて、どのドラマ、演劇などでも必ず使われます。
これは山鹿素行の山鹿流兵法に由来しているのですが、実際にはこのような陣太鼓はなかったそうです。
後の創作ですね。でもこれがないと話がしまりませんね。
討ち入りは12月14日ということですが、今の暦(西暦)では1月30日とのこと。
和歴が西暦(太陽暦)に変わったのは明治5年12月3日で、この日が明治6年1月1日になったそうです。
ですから昔は月の動きがとても大事だったのですね。
人々も敏感に月の満ち欠けなどを気にしていたのでしょう。
今日は朝から天気が良いので恋瀬橋に筑波山を見てみたくなり8時半頃出かけてきた。

ここからの筑波山の眺めはいつ見ても素晴らしいですね。

しかし、この橋の東側は現在6号バイパス道路という名の道路と橋の工事中です。
現在は橋の陸上部の土台となる土盛りができて、しばらく風雨にさらして固まるのを待っているところのようです。工事再開はもう少し先なのでしょう。

新しい橋は青(緑)色に塗られて川の水の上だけはすでに架けられています。
橋の反対側(東側)に回ってみると橋の上に筑波山が見えました。

この橋の北東側(下り方向)は舟船塚山古墳や中津川遺跡の方向です。
古代(縄文・弥生時代)の豊富な遺跡の残る貴重な場所なのです。
毎年のように調査が繰り返されていますが、その都度新しい発見があるような場所です。
遺跡が壊されないかとても心配です。
道路ができれば、恋瀬橋の混雑は解消されるでしょう。
しかし、石岡と言う古都は益々衰弱してしまうのではないでしょうか。
仕事量が増え、暮らしに役立つという見方も当然あります。
同時に、将来を見据え、子供たちが笑顔がはじけるような町作りを進めてほしいですね。
この続きはまた明日書きます。
恋瀬橋ロードパーク
昨夜はテレビで赤穂浪士が放送されたが、あまり面白くはなった。
やはりバタバタと撮影されたためかあまり深さを感じられなかった。
視聴率ばかり気にするテレビではこんなものかもしれないが・・・。
今日は昨日の恋瀬橋の続きです。
現在の6号国道に架かる恋瀬橋は、平成13年に建て替えられたものです。
その前は今より少し西側にありました。
この橋ができたため、橋のたもとにあった店は道路が行き止まりとなり廃れてしまいました。
しかし、この旧道と新6号との間のポケット部分に「恋瀬橋ロードパーク」が建設されています。
地元の人間にとってはあまり利用しないのですが、他所から来られた方は時々立ち寄られているようです。
駐車場ときれいなトイレ、それに観光案内板。
この地が石岡市とかすみがうら市の境に位置するため、地図、見どころ案内などが両市のものが載せられています。

両市の共同となっているのは面白いですね。さてどちらの方が魅力的でしょうか?
どちらも分かれるのではなく、同じところに混ざり合う方が本当は歴史などの理解にはありがたいのですが・・・。

ロードパークのトイレと小型車の駐車場です。この手前に大型車の駐車場があります。

平成13年に作られた橋の欄干入口部に立てられた石板には恋瀬川と筑波山の絵が描かれていました。

ロードパークにはその前まで使われていた橋の親柱と欄干の一部が残され、展示されていました。
私も何度かここを通っているのですが、気がつかずにいました。
現地の説明板によると。「昭和6年から70年間使われた」となっていました。
石岡の大火が昭和4年。すぐに復興して昭和天皇がこられたのが同じ年でした。
この頃はまだ自動車などはほとんどなかったのですから、どんな風になっていたのでしょうか。
ただし、上の写真は橋の幅や長さが実際よりかなり小さくなっていますね。
やはりバタバタと撮影されたためかあまり深さを感じられなかった。
視聴率ばかり気にするテレビではこんなものかもしれないが・・・。
今日は昨日の恋瀬橋の続きです。
現在の6号国道に架かる恋瀬橋は、平成13年に建て替えられたものです。
その前は今より少し西側にありました。
この橋ができたため、橋のたもとにあった店は道路が行き止まりとなり廃れてしまいました。
しかし、この旧道と新6号との間のポケット部分に「恋瀬橋ロードパーク」が建設されています。
地元の人間にとってはあまり利用しないのですが、他所から来られた方は時々立ち寄られているようです。
駐車場ときれいなトイレ、それに観光案内板。
この地が石岡市とかすみがうら市の境に位置するため、地図、見どころ案内などが両市のものが載せられています。

両市の共同となっているのは面白いですね。さてどちらの方が魅力的でしょうか?
どちらも分かれるのではなく、同じところに混ざり合う方が本当は歴史などの理解にはありがたいのですが・・・。

ロードパークのトイレと小型車の駐車場です。この手前に大型車の駐車場があります。

平成13年に作られた橋の欄干入口部に立てられた石板には恋瀬川と筑波山の絵が描かれていました。

ロードパークにはその前まで使われていた橋の親柱と欄干の一部が残され、展示されていました。
私も何度かここを通っているのですが、気がつかずにいました。
現地の説明板によると。「昭和6年から70年間使われた」となっていました。
石岡の大火が昭和4年。すぐに復興して昭和天皇がこられたのが同じ年でした。
この頃はまだ自動車などはほとんどなかったのですから、どんな風になっていたのでしょうか。
ただし、上の写真は橋の幅や長さが実際よりかなり小さくなっていますね。
府中橋連絡道路の工事
昨日まで書いてきた恋瀬橋は現在バイパス道路の工事中ですが、その逆の山側の恋瀬川に架かる橋は「府中橋」という名前がついています。
常陸総社宮を下りた(昔はこちらが入口で、ここに下池があった。今は小さな広場)宮の下から志筑(しずく)へ向かう道路の恋瀬川に架かる橋です。
この橋を渡って道路は右折していたのですが、真っ直ぐ山を切り開いて6号国道とつながる道路が今年完成しました。
今、更に今度は橋の手前から355号バイパス(旧有料道路)の昔料金所があった辺りまで真っ直ぐ結ぶ道路を工事中です。
今まで少しまわり道になっていたのを最短で結ぶことになります。

工事中の写真も残しておかないとそのうち当たり前になって、忘れてしまいますから・・。

道路工事にしては何か高い機械がたくさん。 どうもこれはこの場所が田圃であったためのようです。
きっと地面にパイルを打ち込んでいるのではないでしょうか?

何か意外にも周りの雰囲気と違って、不思議な景色が生まれていますね。
何時完成かわかりませんが、結構急ピッチです。
常陸総社宮を下りた(昔はこちらが入口で、ここに下池があった。今は小さな広場)宮の下から志筑(しずく)へ向かう道路の恋瀬川に架かる橋です。
この橋を渡って道路は右折していたのですが、真っ直ぐ山を切り開いて6号国道とつながる道路が今年完成しました。
今、更に今度は橋の手前から355号バイパス(旧有料道路)の昔料金所があった辺りまで真っ直ぐ結ぶ道路を工事中です。
今まで少しまわり道になっていたのを最短で結ぶことになります。

工事中の写真も残しておかないとそのうち当たり前になって、忘れてしまいますから・・。

道路工事にしては何か高い機械がたくさん。 どうもこれはこの場所が田圃であったためのようです。
きっと地面にパイルを打ち込んでいるのではないでしょうか?

何か意外にも周りの雰囲気と違って、不思議な景色が生まれていますね。
何時完成かわかりませんが、結構急ピッチです。
みかん
今日はもう28日だ。今年もわずかになった。
海外と仕事をしていると、クリスマス休みから正月1日か2日まで休むところが多い。
クリスマス前頃には逆に日本には休みの間の見積もり依頼なども多い。
夏休みなども同様である。
逆に日本のゴールデンウィークは海外でも有名で、日本の休みが多いと良く指摘される。
中国は1月末から2月が正月休みだ。
日本でゴールデンウィークを分散させる話があった。
まったくナンセンスだと思う。
今やある地域だけで取引している会社など少ない。発想が貧弱だと思う。
もう、年末のこの時期になれば皆バタバタとしてのんびりブログどころではなくなりそうだ。
従って、地域の紹介などもある程度少なめに留めておきたいと思う。
我が家の庭にミカンの木があるが、今年は「たわわ」に多くにミカンの実がついた。
前にも書いたが「たわわ」は「撓む(たわむ)」からきているが、この言葉は縄文語で、山と山の間の低い部分、すなわち峠のことだという。言葉も知れば面白くなる。
いままでに何回も採って食べてきたが、今回は残りを全部取ってみたら100個くらいまだあった。
少し小粒で酸っぱさもまだ残っているが、それでも十分美味しい。
実のなる木が庭にあるのも良いものです。おなかがすいたらミカンでも多少は腹が膨れる。
昔、私の母が戦時中に静岡に住んでいて、「ミカンばかり食べて手も顔も黄色くなった」と言っていたのを思い出した。

こんな写真を載せてもしょうがないのだが、記念に残しておこう。
地元には「筑波みかん」というものがある。
八郷の山側から行方あたりまで栽培されているようだ。
皮が薄く、昔ながらの味がするという。
しかし、一般的な温州ミカンがやはり一般的で、最近は甘く食べやすいものが増えた。
筑波ミカンは別名フクレミカンともいうそうでフクレは「福来」と書き、この皮を干して細かく切って唐辛子に混ぜて使われるといいます。
この唐辛子はまだ試したことはない。
海外と仕事をしていると、クリスマス休みから正月1日か2日まで休むところが多い。
クリスマス前頃には逆に日本には休みの間の見積もり依頼なども多い。
夏休みなども同様である。
逆に日本のゴールデンウィークは海外でも有名で、日本の休みが多いと良く指摘される。
中国は1月末から2月が正月休みだ。
日本でゴールデンウィークを分散させる話があった。
まったくナンセンスだと思う。
今やある地域だけで取引している会社など少ない。発想が貧弱だと思う。
もう、年末のこの時期になれば皆バタバタとしてのんびりブログどころではなくなりそうだ。
従って、地域の紹介などもある程度少なめに留めておきたいと思う。
我が家の庭にミカンの木があるが、今年は「たわわ」に多くにミカンの実がついた。
前にも書いたが「たわわ」は「撓む(たわむ)」からきているが、この言葉は縄文語で、山と山の間の低い部分、すなわち峠のことだという。言葉も知れば面白くなる。
いままでに何回も採って食べてきたが、今回は残りを全部取ってみたら100個くらいまだあった。
少し小粒で酸っぱさもまだ残っているが、それでも十分美味しい。
実のなる木が庭にあるのも良いものです。おなかがすいたらミカンでも多少は腹が膨れる。
昔、私の母が戦時中に静岡に住んでいて、「ミカンばかり食べて手も顔も黄色くなった」と言っていたのを思い出した。

こんな写真を載せてもしょうがないのだが、記念に残しておこう。
地元には「筑波みかん」というものがある。
八郷の山側から行方あたりまで栽培されているようだ。
皮が薄く、昔ながらの味がするという。
しかし、一般的な温州ミカンがやはり一般的で、最近は甘く食べやすいものが増えた。
筑波ミカンは別名フクレミカンともいうそうでフクレは「福来」と書き、この皮を干して細かく切って唐辛子に混ぜて使われるといいます。
この唐辛子はまだ試したことはない。
梨の花が咲いてます
桜の花が散ったと思ったら、あちこちの梨園に白い花がいっぱい咲いています。
ネットで覆われているので花がすぐに目に飛び込んで来ないのですが、もうそこらじゅうで咲いていました。
茨城県は梨の生産高は全国2位だそうです。
では1位はどこでしょう? 二十世紀梨が有名な鳥取県と思ったら、千葉県だそうです。
鳥取県は平成13年まで1位でしたが、幸水・豊水におされて三位に後退してしまったのだそうです。
茨城県でもこの辺りは梨園がとても多いところです。今この時期に雹が降ったりするとその年の生産に悪い影響があるようです。
今年は大丈夫でしょうか。8月~9月の収穫に向けて、甘い梨の実をつけてくれるでしょう。

歌舞伎界を「梨園」と呼びますが、唐の玄宗皇帝の時代に芸術家を集めて芸を磨いた場所が梨の植えられた梨園であったことに由来するそうです。
私などは三国志の最初の方に出てくる劉備・関羽・張飛の兄弟の契りを結んだ桃園の方がすぐに浮かんできます。

このあたりの梨は「幸水」「豊水」が主体で、袋をかぶせない無袋栽培がほとんどです。幸水は8月中旬~下旬の2週間。豊水も9月初め~中旬の2~3週間です。短いですね。

梨の花も良く見るととてもかわいい花ですね。
ネットで覆われているので花がすぐに目に飛び込んで来ないのですが、もうそこらじゅうで咲いていました。
茨城県は梨の生産高は全国2位だそうです。
では1位はどこでしょう? 二十世紀梨が有名な鳥取県と思ったら、千葉県だそうです。
鳥取県は平成13年まで1位でしたが、幸水・豊水におされて三位に後退してしまったのだそうです。
茨城県でもこの辺りは梨園がとても多いところです。今この時期に雹が降ったりするとその年の生産に悪い影響があるようです。
今年は大丈夫でしょうか。8月~9月の収穫に向けて、甘い梨の実をつけてくれるでしょう。

歌舞伎界を「梨園」と呼びますが、唐の玄宗皇帝の時代に芸術家を集めて芸を磨いた場所が梨の植えられた梨園であったことに由来するそうです。
私などは三国志の最初の方に出てくる劉備・関羽・張飛の兄弟の契りを結んだ桃園の方がすぐに浮かんできます。

このあたりの梨は「幸水」「豊水」が主体で、袋をかぶせない無袋栽培がほとんどです。幸水は8月中旬~下旬の2週間。豊水も9月初め~中旬の2~3週間です。短いですね。

梨の花も良く見るととてもかわいい花ですね。
大粒の雹が・・・
昨日梨の花の写真をUPしましたが、その時に雹が降らなければいいのだが・・・と書いたのです。
ところが今日の夕方から急に曇ったと思ったら大粒の雹がたたきつけるように降ってきました。
雷も鳴り、この辺りよりも山間部側はもっと大きな雹だったようです。
あっというまに地面は真っ白になりました。

まだ、梨は花の段階ですが大丈夫か心配です。
雹の害を防ぐために梨園の天井部には細かなネットをしているところが多いのです。
特に、少し実ができた時に降られると良い梨ができないようです。
この時期にはよく雹が降ります。作物に影響がないことを祈ります。
ところが今日の夕方から急に曇ったと思ったら大粒の雹がたたきつけるように降ってきました。
雷も鳴り、この辺りよりも山間部側はもっと大きな雹だったようです。
あっというまに地面は真っ白になりました。

まだ、梨は花の段階ですが大丈夫か心配です。
雹の害を防ぐために梨園の天井部には細かなネットをしているところが多いのです。
特に、少し実ができた時に降られると良い梨ができないようです。
この時期にはよく雹が降ります。作物に影響がないことを祈ります。
駄菓子屋
今日は少し大きめの地震があった。これもドスンとくるのではなく、横にゆらゆらと動く。
早く余震も終息してほしいものだ。
さて、私は昭和31年春まで横浜に住んでいたが、この時は親戚の家の離れを借りて住んでいた。
この親戚の家は勤め人であったが、近所の子供に駄菓子なども売っていた。
わずかな広さではあったが、丸い瓶や四角の瓶などに飴玉やらお菓子を入れ、バラで売っていた。
当時まだ1円札があったので、10円は高かったかもしれない。いくらくらいであったのだろうか覚えていないが、小銭をもって買いにも行った。
昔はこのような子供向けの駄菓子屋さんが結構あちこちにあった。
しかし、その後駄菓子に縁がなくなったせいもあるが、気がつかないうちに、新興住宅街などでは駄菓子屋さんはほとんど見かけなくなった。
また紙芝居屋さんが消えたのも同じような時期であるが、これは家庭にテレビが入ってきた昭和34-35年頃から減ってきたのだと思う。
東京も下町ではまだ色々と楽しい駄菓子屋さんがあるようであるが、ここ石岡にも残っていた。
最初に目についたのは「駄菓子」の大きな暖簾がある金丸寿通りの「菅谷菓子店」さんであるが、構えも立派で老舗のお菓子屋さんといった雰囲気の店である。
ここは昔ながらの黒糖菓子などを扱っており、結構有名らしいが、駄菓子と呼ぶにはイメージが合わない。
こんな洒落た店ではなく、おばちゃんが片手間にやっているような店が私のイメージする駄菓子屋である。
そんな店が府中小の前の通りに残っていた。

看板は無いが、子どもたちは自転車で集まって、ここで買い物をして遊びに行く相談などをしていた。
もしかしたら塾やスイミングなどの話もあるかもしれないが、子どもの世界には入って行っていないのでわからない。

店の中では、品のよさそうなお婆さんが一人で店番をしていた。
売っているものは、本当に昔からの駄菓子のようです。
「チョコボール」「きなこ棒」「ポテトフライ」「BIGカツ」「さくらんぼゼリー」など、ほとんどが当たりくじ付きのようです。最近は占い付きの駄菓子もあるようです。
みんな30円とか50円位のようです。
子どもたちも、とても子供らしいので、昔の自分を思いだしました。
中町の丁子屋さんも、観光施設ではありますが、売っているものは駄菓子が多いです。
時々子どもが集まっていました。しかし、この地震で屋根瓦が落ちて現在使えません。
早い復旧を願っています。
早く余震も終息してほしいものだ。
さて、私は昭和31年春まで横浜に住んでいたが、この時は親戚の家の離れを借りて住んでいた。
この親戚の家は勤め人であったが、近所の子供に駄菓子なども売っていた。
わずかな広さではあったが、丸い瓶や四角の瓶などに飴玉やらお菓子を入れ、バラで売っていた。
当時まだ1円札があったので、10円は高かったかもしれない。いくらくらいであったのだろうか覚えていないが、小銭をもって買いにも行った。
昔はこのような子供向けの駄菓子屋さんが結構あちこちにあった。
しかし、その後駄菓子に縁がなくなったせいもあるが、気がつかないうちに、新興住宅街などでは駄菓子屋さんはほとんど見かけなくなった。
また紙芝居屋さんが消えたのも同じような時期であるが、これは家庭にテレビが入ってきた昭和34-35年頃から減ってきたのだと思う。
東京も下町ではまだ色々と楽しい駄菓子屋さんがあるようであるが、ここ石岡にも残っていた。
最初に目についたのは「駄菓子」の大きな暖簾がある金丸寿通りの「菅谷菓子店」さんであるが、構えも立派で老舗のお菓子屋さんといった雰囲気の店である。
ここは昔ながらの黒糖菓子などを扱っており、結構有名らしいが、駄菓子と呼ぶにはイメージが合わない。
こんな洒落た店ではなく、おばちゃんが片手間にやっているような店が私のイメージする駄菓子屋である。
そんな店が府中小の前の通りに残っていた。

看板は無いが、子どもたちは自転車で集まって、ここで買い物をして遊びに行く相談などをしていた。
もしかしたら塾やスイミングなどの話もあるかもしれないが、子どもの世界には入って行っていないのでわからない。

店の中では、品のよさそうなお婆さんが一人で店番をしていた。
売っているものは、本当に昔からの駄菓子のようです。
「チョコボール」「きなこ棒」「ポテトフライ」「BIGカツ」「さくらんぼゼリー」など、ほとんどが当たりくじ付きのようです。最近は占い付きの駄菓子もあるようです。
みんな30円とか50円位のようです。
子どもたちも、とても子供らしいので、昔の自分を思いだしました。
中町の丁子屋さんも、観光施設ではありますが、売っているものは駄菓子が多いです。
時々子どもが集まっていました。しかし、この地震で屋根瓦が落ちて現在使えません。
早い復旧を願っています。
雪のおもしろう降りたる朝
今朝は昨夜から降った雪がうっすらと積もり、道路はツルツル状態です。
いつもと同じ時刻に車で出かけようかと思いましたが、通りに出ると車はノロノロで数珠つなぎ。
これでは時間に間に合わないし、せっかく自由な仕事で時間に追われないので今日はノンビリ行くことにしました。
雪景色もあまりないので、普段雪が降らないところに趣のある景色が出現したのであくせくしなければこれも楽しめます。
兼好法師にならって「雪のおもしろう降りたる朝(あした)」にはブログで書かないなんて風情が無いですから、少しまわりの景色を載せますね。

車を置いて、常陸国分寺に歩いて行ってきました。
昨年雪の時に行きましたが、今朝はそれ程雪はありません。
でも静寂の世界はいいですね。
(薬師堂)

(千手院山門)
この手前の右側に七重の塔の礎石(1個)が置かれている。かなり大きな石です。
この石はトラックにも載らず、この場所に移すのに大変だったようです。
少しずつコロの上を曳いてきたようです。

(都々逸坊扇歌の扇歌堂)

この国分寺の薬師堂はいいですね(筑波四面観音の一つ山寺のものを移設)

国分寺の前の通りから筑波山を見たものです。(少し望遠です。実際はこんなに大きくは見えません。)
ここ電線が無ければかなりいい感じに見えるのですが・・・・。
雪化粧した筑波山も美しいですね。

誰の足跡もまだ無いところに足跡をつけるのがためらわれたのですが、足跡をつける前にパチリ。
← よろしければクリックお願いします。
いつもと同じ時刻に車で出かけようかと思いましたが、通りに出ると車はノロノロで数珠つなぎ。
これでは時間に間に合わないし、せっかく自由な仕事で時間に追われないので今日はノンビリ行くことにしました。
雪景色もあまりないので、普段雪が降らないところに趣のある景色が出現したのであくせくしなければこれも楽しめます。
兼好法師にならって「雪のおもしろう降りたる朝(あした)」にはブログで書かないなんて風情が無いですから、少しまわりの景色を載せますね。

車を置いて、常陸国分寺に歩いて行ってきました。
昨年雪の時に行きましたが、今朝はそれ程雪はありません。
でも静寂の世界はいいですね。
(薬師堂)

(千手院山門)
この手前の右側に七重の塔の礎石(1個)が置かれている。かなり大きな石です。
この石はトラックにも載らず、この場所に移すのに大変だったようです。
少しずつコロの上を曳いてきたようです。

(都々逸坊扇歌の扇歌堂)

この国分寺の薬師堂はいいですね(筑波四面観音の一つ山寺のものを移設)

国分寺の前の通りから筑波山を見たものです。(少し望遠です。実際はこんなに大きくは見えません。)
ここ電線が無ければかなりいい感じに見えるのですが・・・・。
雪化粧した筑波山も美しいですね。

誰の足跡もまだ無いところに足跡をつけるのがためらわれたのですが、足跡をつける前にパチリ。


「あした会えるさ」忠犬タロー物語
茨城新聞社から石岡駅で17年間わかれた飼い主を待ち続けた犬のタローの本が出版されました。
これは昭和39年~昭和56年まで毎日石岡駅に朝晩の2回通い続けた犬のお話です。
NHKでも放映され、志村けんの「天才!志村動物園」で2年前にとりあげられ反響を呼び、それがきっかけで飼い主が見つかった感動のお話です。

でも、この物語を読むとその頃の町の様子が浮かんでくるのです。
みんな温かな心をもって暮らしていた様子です。
こんな町に住みたいときっと思う人が大勢いるのではないかと思います。
昭和39年(1964年)は東京オリンピックの年で、三丁目の夕日の時代です。
この石岡も駅前は発達していき、人々がたくさん歩いていました。今の10倍もいたそうです。
私はまだその頃東京の武蔵野の面影が残る多摩地区に住んでいましたので、この町の想い出はありません。
この町でその頃すごしていた方はきっとこの本で昔の思い出がよみがえるのではないかと思います。
一度読んでみてください。
この本の作者は、このブログのリンク先でもある「今泉文彦の星くず日記」の方です。
そちらには、この本の取材の話が載っていますので、興味がある方はそちらも見てください。
この忠犬タローの飼い主だった当時の幼稚園生が通う「善隣幼稚園」の園長さんでもあります。
坂本九さんの長女「大島花子」さんが作詞作曲した「ここで君を待ってるよ」を幼稚園児と歌う歌がYou-Tubeにアップされています。
← よろしければクリックお願いします。
これは昭和39年~昭和56年まで毎日石岡駅に朝晩の2回通い続けた犬のお話です。
NHKでも放映され、志村けんの「天才!志村動物園」で2年前にとりあげられ反響を呼び、それがきっかけで飼い主が見つかった感動のお話です。

でも、この物語を読むとその頃の町の様子が浮かんでくるのです。
みんな温かな心をもって暮らしていた様子です。
こんな町に住みたいときっと思う人が大勢いるのではないかと思います。
昭和39年(1964年)は東京オリンピックの年で、三丁目の夕日の時代です。
この石岡も駅前は発達していき、人々がたくさん歩いていました。今の10倍もいたそうです。
私はまだその頃東京の武蔵野の面影が残る多摩地区に住んでいましたので、この町の想い出はありません。
この町でその頃すごしていた方はきっとこの本で昔の思い出がよみがえるのではないかと思います。
一度読んでみてください。
この本の作者は、このブログのリンク先でもある「今泉文彦の星くず日記」の方です。
そちらには、この本の取材の話が載っていますので、興味がある方はそちらも見てください。
この忠犬タローの飼い主だった当時の幼稚園生が通う「善隣幼稚園」の園長さんでもあります。
坂本九さんの長女「大島花子」さんが作詞作曲した「ここで君を待ってるよ」を幼稚園児と歌う歌がYou-Tubeにアップされています。


石岡ひな巡り
各地のひな祭りが盛んらしいです。
この近くでは真壁のひなまつりが有名ですが、それに対抗してかどうかわかりませんが、石岡の商店街では数年前から「ひな巡り」をおこなっています。
去年も記事を載せましたが(こちら)、今年も今日夕方にまちかど情報センターに立ち寄りました。

ここの今年のテーマは「平家の棟梁」~平太、故郷に帰る~ だそうです。
何か分かりますか?

置いてあったパンフレットの内容を転載します。
----------------------------------------------
きらびやかな一行が、龍に導かれて旅に出る
雲上人と称された平家の公達が訪れたのは
東国一の常世の国と謳われた常陸国
時は春
常陸国府石岡では、ひな祭りの宴たけなわ
ここは都かと見まごうほど
この国は、雅やかな空気に包まれている
従者が囁く
「清盛様 この国府を治める大掾こそ 平氏の祖にして、 桓武天皇の血を引き継ぐものです」
清盛の目下で 軽やかに舞う漢
この漢もまた一人の平家の棟梁であろう
-----------------------------------------
ごめんなさい。 良くわからない。
でも皆さんに知ってもらいたく、見てもらいたくて一生懸命頑張って飾り付けもしたと思います。
NHKの大河ドラマにあやかって、ここが平家の祖のいたところだと言ったところで、なんか上滑り??
みなさ~ん。 ここ石岡は常陸国の国府で、平家の祖先の本流がいたんですよ。
伊勢平氏から出た清盛(平家)の祖先は桓武系の高望王とその子供の平国香で、伊勢平氏はここから分かれて伊勢に行ったんです。
そして残った本流がこの常陸国国府(石岡)にいた「大掾(だいじょう)氏」で~す。
でもこんなこと叫んでみても風が吹き抜けるだけのような・・・。
でも知っていただけるだけでもうれしいですので、まあこれからも時々叫んでも見ましょう。
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この近くでは真壁のひなまつりが有名ですが、それに対抗してかどうかわかりませんが、石岡の商店街では数年前から「ひな巡り」をおこなっています。
去年も記事を載せましたが(こちら)、今年も今日夕方にまちかど情報センターに立ち寄りました。

ここの今年のテーマは「平家の棟梁」~平太、故郷に帰る~ だそうです。
何か分かりますか?

置いてあったパンフレットの内容を転載します。
----------------------------------------------
きらびやかな一行が、龍に導かれて旅に出る
雲上人と称された平家の公達が訪れたのは
東国一の常世の国と謳われた常陸国
時は春
常陸国府石岡では、ひな祭りの宴たけなわ
ここは都かと見まごうほど
この国は、雅やかな空気に包まれている
従者が囁く
「清盛様 この国府を治める大掾こそ 平氏の祖にして、 桓武天皇の血を引き継ぐものです」
清盛の目下で 軽やかに舞う漢
この漢もまた一人の平家の棟梁であろう
-----------------------------------------
ごめんなさい。 良くわからない。
でも皆さんに知ってもらいたく、見てもらいたくて一生懸命頑張って飾り付けもしたと思います。
NHKの大河ドラマにあやかって、ここが平家の祖のいたところだと言ったところで、なんか上滑り??
みなさ~ん。 ここ石岡は常陸国の国府で、平家の祖先の本流がいたんですよ。
伊勢平氏から出た清盛(平家)の祖先は桓武系の高望王とその子供の平国香で、伊勢平氏はここから分かれて伊勢に行ったんです。
そして残った本流がこの常陸国国府(石岡)にいた「大掾(だいじょう)氏」で~す。
でもこんなこと叫んでみても風が吹き抜けるだけのような・・・。
でも知っていただけるだけでもうれしいですので、まあこれからも時々叫んでも見ましょう。


石岡ひな巡り(2)
昨日は石岡情報センターのお雛様をお伝えしましたが、今日は常設センターが出来ているというので行ってきました。
今年は力を入れていますね。
ゆっくりとお友達と会話でもしながら是非足を運んでください。
結構いいですよ。
同時に昭和レトロの街並みを眺めていってください。
そちらは時間があればまた紹介します。雛巡りは3月3日までです。

常設展示場(常陸国府館)が設置され、ここに飾られたお雛様は、昨年の大震災の時に、被災にあった蔵を整理して見つかったものです。
是非小道具や着物などとも合わせて、昔のお雛様をじっくりご覧ください。





上の地図にある「コヒーマツ」は映画三丁目の夕日のロケが行なわれたところです。
食事(軽食)メニューもありますのでお立ち寄りください。
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今年は力を入れていますね。
ゆっくりとお友達と会話でもしながら是非足を運んでください。
結構いいですよ。
同時に昭和レトロの街並みを眺めていってください。
そちらは時間があればまた紹介します。雛巡りは3月3日までです。

常設展示場(常陸国府館)が設置され、ここに飾られたお雛様は、昨年の大震災の時に、被災にあった蔵を整理して見つかったものです。
是非小道具や着物などとも合わせて、昔のお雛様をじっくりご覧ください。





上の地図にある「コヒーマツ」は映画三丁目の夕日のロケが行なわれたところです。
食事(軽食)メニューもありますのでお立ち寄りください。


石岡ひな巡り(3)
昨日2月22日はニャンニャンニャンで猫の日だったようです。
何かごろ合わせにはまってしまって、昨日は猫のお雛様をUPしました。
今日は天気が悪かったですね。
石岡のひな巡り記事も3回も書く予定ではなかったのですが、のぞいてみたら面白いし、熱心にやっているのに見物客が少ない。
これは何でかと思ったが、宣伝不足でしょうかね。
地元にいてもあまり良くわからないのですから。メインの通りなどに旗でもたくさん出してほしいですね。
会場を覗いていると、皆さんニコニコと対応してくれてとても良いのですが、おとなしいですね。
積極的に声はかけてきません。奥ゆかしいと言えば聞こえはいいのですが、パワーは不足気味ですね。
私のような一人で訪れるのは少ないのでしょうが、遠慮しがちで、声をかけるのをためらっておられるようです。
今日は、まちかど情報センターがタイアップして飾り付けた「鉄子の雛まつり」を紹介します。
これは皆さんにも見ていただきたいですね。
良くできています。鉄道ファンやちびっこはもとより昔の街並みの再現が良いです。
場所は「みんなの広場」(更生女性の会)です。

鉄道模型は実際に動かせますが、見た時は停止中でした。
夕方遅かったのか??
サブタイトル「シンデレラエクスプレス」だそうです。

ひな人形と鉄道模型の組み合わせはともかくとして、じっくり見いてしまいたくなります。

この昔の建物の模型はどこから手に入れたのでしょうか?
石岡の町だけではないようです。

「吉田質屋」「共和病院」「ホテル山海館」「昇仙峡 旅館すぎやま」・・・
どうやら石岡ではないようです。
石岡の昔(昭和)の建物の写真もありますし、地図もあるのだから是非ミニチア版を正確に作ったらきっと面白いものになりそうです。
鹿島鉄道も復活してほしい。ミニュチアでもいいので・・・。

OMEGAの建物のとなりの建物につりさげられた幕には「ひたち野高速鉄道フリーパス発売中大人千円」「茨城空港線開業・秋葉原~茨城空港間59分」です。
これって希望??

「FUJIYA」「吉野家」「望月時計店」・・・?? まあいいか。懐かしい景色を探したけど・・・。
どうもどこかの場所のミニュチアをお借りしたのか?
でも何処となく郷愁があり、石岡にも当てはまりそうです。


惜しむらくは現在と過去の町が混在しているので、三丁目の夕日の世界を見たいと思ってじっこり見ると、違うものが混じっていたりします。
今の石岡は混在しているのですからこれでもいいのかもしれません。
今後、これも常設展示してほしいです(借りたものならダメですね)。
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何かごろ合わせにはまってしまって、昨日は猫のお雛様をUPしました。
今日は天気が悪かったですね。
石岡のひな巡り記事も3回も書く予定ではなかったのですが、のぞいてみたら面白いし、熱心にやっているのに見物客が少ない。
これは何でかと思ったが、宣伝不足でしょうかね。
地元にいてもあまり良くわからないのですから。メインの通りなどに旗でもたくさん出してほしいですね。
会場を覗いていると、皆さんニコニコと対応してくれてとても良いのですが、おとなしいですね。
積極的に声はかけてきません。奥ゆかしいと言えば聞こえはいいのですが、パワーは不足気味ですね。
私のような一人で訪れるのは少ないのでしょうが、遠慮しがちで、声をかけるのをためらっておられるようです。
今日は、まちかど情報センターがタイアップして飾り付けた「鉄子の雛まつり」を紹介します。
これは皆さんにも見ていただきたいですね。
良くできています。鉄道ファンやちびっこはもとより昔の街並みの再現が良いです。
場所は「みんなの広場」(更生女性の会)です。

鉄道模型は実際に動かせますが、見た時は停止中でした。
夕方遅かったのか??
サブタイトル「シンデレラエクスプレス」だそうです。

ひな人形と鉄道模型の組み合わせはともかくとして、じっくり見いてしまいたくなります。

この昔の建物の模型はどこから手に入れたのでしょうか?
石岡の町だけではないようです。

「吉田質屋」「共和病院」「ホテル山海館」「昇仙峡 旅館すぎやま」・・・
どうやら石岡ではないようです。
石岡の昔(昭和)の建物の写真もありますし、地図もあるのだから是非ミニチア版を正確に作ったらきっと面白いものになりそうです。
鹿島鉄道も復活してほしい。ミニュチアでもいいので・・・。

OMEGAの建物のとなりの建物につりさげられた幕には「ひたち野高速鉄道フリーパス発売中大人千円」「茨城空港線開業・秋葉原~茨城空港間59分」です。
これって希望??

「FUJIYA」「吉野家」「望月時計店」・・・?? まあいいか。懐かしい景色を探したけど・・・。
どうもどこかの場所のミニュチアをお借りしたのか?
でも何処となく郷愁があり、石岡にも当てはまりそうです。


惜しむらくは現在と過去の町が混在しているので、三丁目の夕日の世界を見たいと思ってじっこり見ると、違うものが混じっていたりします。
今の石岡は混在しているのですからこれでもいいのかもしれません。
今後、これも常設展示してほしいです(借りたものならダメですね)。


桜・さくら・・・
あっという間に桜が満開になった。
全く慌ただしい。遅れた分を取り返すみたいに慌てて咲いている。
今日は近くを散策してきました。
まずは今一番綺麗に咲いていたところから。
(桜の写真は全てサムネル表示です。クリックで拡大画像が見られます)

場所は風土記の丘からも近い「柏原池公園」です。
地元の人の憩いの場といったところですが、今満開です。

池には水鳥もいます。池の周りはウォーキングロードとなっています。
花粉がなくなれば私もまたウォーキングにでも来たいと思っています。

この柏原池はかなりの昔からあったところで、古代の稲作用灌漑の跡なども見つかり、この池の水が稲作に利用されていたようです。
水は龍神山から流れてきて山王川になって霞ヶ浦に注いでいます。
この山が削られて水が流なくなり水の都は遥か遠くになってしまったようです。

それでも、近代的な公園として蘇りました。
昔は池ももっと大きかったと言いますが、あまり余分なものもないすっきりとした公園は気持ちが良いです。
風土記の丘に行かれたら、帰りにでもよってください。
今現在は風土記の丘公園よりは桜は満開でとても綺麗です。
では風土記の丘の様子も載せます。

ソメイヨシノは満開のものとまだつぼみで咲いていない木もありまだら模様です。
それでも十分楽しめますが、もう2~3日あとの方が綺麗だと思います。

入口付近は満開で今日あたりから少しチラチラ散り始めもあります。

お目当ての垂れ桜ですが、6~7分咲き位でしょうか。
きっと来週はじめから半ば位に見頃となるのだと思います。
でも結構綺麗ですよね。
今日家内がカメラを取り出して外で1枚写真を撮っていた。それがこれです。

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全く慌ただしい。遅れた分を取り返すみたいに慌てて咲いている。
今日は近くを散策してきました。
まずは今一番綺麗に咲いていたところから。
(桜の写真は全てサムネル表示です。クリックで拡大画像が見られます)

場所は風土記の丘からも近い「柏原池公園」です。
地元の人の憩いの場といったところですが、今満開です。

池には水鳥もいます。池の周りはウォーキングロードとなっています。
花粉がなくなれば私もまたウォーキングにでも来たいと思っています。

この柏原池はかなりの昔からあったところで、古代の稲作用灌漑の跡なども見つかり、この池の水が稲作に利用されていたようです。
水は龍神山から流れてきて山王川になって霞ヶ浦に注いでいます。
この山が削られて水が流なくなり水の都は遥か遠くになってしまったようです。

それでも、近代的な公園として蘇りました。
昔は池ももっと大きかったと言いますが、あまり余分なものもないすっきりとした公園は気持ちが良いです。
風土記の丘に行かれたら、帰りにでもよってください。
今現在は風土記の丘公園よりは桜は満開でとても綺麗です。
では風土記の丘の様子も載せます。

ソメイヨシノは満開のものとまだつぼみで咲いていない木もありまだら模様です。
それでも十分楽しめますが、もう2~3日あとの方が綺麗だと思います。

入口付近は満開で今日あたりから少しチラチラ散り始めもあります。

お目当ての垂れ桜ですが、6~7分咲き位でしょうか。
きっと来週はじめから半ば位に見頃となるのだと思います。
でも結構綺麗ですよね。
今日家内がカメラを取り出して外で1枚写真を撮っていた。それがこれです。



風土記の丘周辺
先日私の誕生日にチェコのウィーンにいった娘からメールがきた。
もう自分の誕生日も特に何の行事もないのだが、覚えていてくれただけで嬉しい。
向こうで家を探しているのだけれど、来週にでも見てよければ決めたいとか。
少し郊外の治安のよいところにしたいとのこと。
郊外になると結構ドイツ語だけになってしまい言葉が大変らしいが、これも慣れれば楽しいかもしれません。
そういえばその前のメールではお米はイタリア産の「秋田こまち」が売られているそうだ。
でも日本よりかなり高いらしい。
イタリア産というのも面白いですね。
また、ウィーンに「世田谷パーク」という純日本庭園の公園があるそうです。
東京の世田谷と姉妹都市となり世田谷区から寄贈されたとのこと。ここに桜が咲いているのだけれど3月に咲いてしまって今はもう散ってしまったらしいです。
今日は昨日と比べて10度以上気温が下がって寒いです。
最近このあたりでもタケノコのセシウム基準値も厳しく出荷できないところが出てきている。
東電の保障等といっても何もあてにできない。肥料代もままならない。いつまで続くことか。
原発再稼働等という訳のわからない論議をしているが、早く別な電力へのシフトを強力に進めて欲しい。
沖縄といい全く判断がなっていない。
また日本の住民に対し放射能ゼロでない国で生きていかねばならないことを素直に詫びて、これからの進む道を間違わないようにするべきだと思う。
また、人の感情を狂わせてしまったことは簡単には戻せない。
さて、先日からブログ記事を書物にしておこうと大量にインクジェットプリンタでプリントしていたら突然変な音がして、しばらくして動かなくなってしまった。
インクカートリッジを動かしている小さい歯車が取れてしまったようだ。
つい先日替えインクを大量に買い溜めしたばかりなので少しショックだ。結構もろい造りですね。
またなんでこんなにインクが高いのか。
代替えのインクを何とか使ってみているが、これはあまり具合は良くないのだが背に腹は代えられない。
企業がメイン製品では競争激化で利益が出ないので消耗部品で儲けるのは仕方がないが、あまりにも高すぎる。少しは良心的ならプリンタもその企業のものを買いたいのだが。
プリンタはもう1台あるのでとりあえずは困らないのだけれど、こんどはこちらのインクがなくなりネットで注文して今日届いた。とんだ出費となってしまった。
レーザプリンタの方が良いのだが、カラーとなるとこちらもトナー代が馬鹿にならないので買えない。
ここのところ続けてきた出島散歩をあと少し残っているのですが、桜の時期になってしまったので少しの間こちらの記事を載せます。
とはいっても、あまり人のいかないところしか興味がわかないので、有名どころはありません。

これは龍神山の麓。
染谷佐志能神社への入口です。
この先に一の鳥居があり、山へ登ります。
佐志能神社はこの染谷とすぐ隣の村上の2箇所にありますが、大昔は1つだったようです。

こちらは神社入口から横に入ったところにある市営の龍神山霊園の桜です。
本当は龍神山も山の中腹には桜並木があって昔ならお花見も出来たでしょうに、山が砕石で削られ、一般の人は危険で入れません。
(下の写真2枚はサムネルです。クリックで少し大きな画像になります)

場所は八郷地区の根小屋の泰寧寺(たいねいじ)の桜と筑波山です。
ここは何回か前に紹介している。
(座禅体験、彼岸花と筑波山)

(サムネルです)
今回は桜と筑波山です。この組み合わせもいいですね。

この筑波山の手前の桜咲く小山は「県立フラワーパーク」の中にある展望台の山です。

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もう自分の誕生日も特に何の行事もないのだが、覚えていてくれただけで嬉しい。
向こうで家を探しているのだけれど、来週にでも見てよければ決めたいとか。
少し郊外の治安のよいところにしたいとのこと。
郊外になると結構ドイツ語だけになってしまい言葉が大変らしいが、これも慣れれば楽しいかもしれません。
そういえばその前のメールではお米はイタリア産の「秋田こまち」が売られているそうだ。
でも日本よりかなり高いらしい。
イタリア産というのも面白いですね。
また、ウィーンに「世田谷パーク」という純日本庭園の公園があるそうです。
東京の世田谷と姉妹都市となり世田谷区から寄贈されたとのこと。ここに桜が咲いているのだけれど3月に咲いてしまって今はもう散ってしまったらしいです。
今日は昨日と比べて10度以上気温が下がって寒いです。
最近このあたりでもタケノコのセシウム基準値も厳しく出荷できないところが出てきている。
東電の保障等といっても何もあてにできない。肥料代もままならない。いつまで続くことか。
原発再稼働等という訳のわからない論議をしているが、早く別な電力へのシフトを強力に進めて欲しい。
沖縄といい全く判断がなっていない。
また日本の住民に対し放射能ゼロでない国で生きていかねばならないことを素直に詫びて、これからの進む道を間違わないようにするべきだと思う。
また、人の感情を狂わせてしまったことは簡単には戻せない。
さて、先日からブログ記事を書物にしておこうと大量にインクジェットプリンタでプリントしていたら突然変な音がして、しばらくして動かなくなってしまった。
インクカートリッジを動かしている小さい歯車が取れてしまったようだ。
つい先日替えインクを大量に買い溜めしたばかりなので少しショックだ。結構もろい造りですね。
またなんでこんなにインクが高いのか。
代替えのインクを何とか使ってみているが、これはあまり具合は良くないのだが背に腹は代えられない。
企業がメイン製品では競争激化で利益が出ないので消耗部品で儲けるのは仕方がないが、あまりにも高すぎる。少しは良心的ならプリンタもその企業のものを買いたいのだが。
プリンタはもう1台あるのでとりあえずは困らないのだけれど、こんどはこちらのインクがなくなりネットで注文して今日届いた。とんだ出費となってしまった。
レーザプリンタの方が良いのだが、カラーとなるとこちらもトナー代が馬鹿にならないので買えない。
ここのところ続けてきた出島散歩をあと少し残っているのですが、桜の時期になってしまったので少しの間こちらの記事を載せます。
とはいっても、あまり人のいかないところしか興味がわかないので、有名どころはありません。

これは龍神山の麓。
染谷佐志能神社への入口です。
この先に一の鳥居があり、山へ登ります。
佐志能神社はこの染谷とすぐ隣の村上の2箇所にありますが、大昔は1つだったようです。

こちらは神社入口から横に入ったところにある市営の龍神山霊園の桜です。
本当は龍神山も山の中腹には桜並木があって昔ならお花見も出来たでしょうに、山が砕石で削られ、一般の人は危険で入れません。
(下の写真2枚はサムネルです。クリックで少し大きな画像になります)

場所は八郷地区の根小屋の泰寧寺(たいねいじ)の桜と筑波山です。
ここは何回か前に紹介している。
(座禅体験、彼岸花と筑波山)

(サムネルです)
今回は桜と筑波山です。この組み合わせもいいですね。

この筑波山の手前の桜咲く小山は「県立フラワーパーク」の中にある展望台の山です。



薫風
昨日の雨もようやく上がってきて、どんよりと曇った一日となりました。
梨の白い花はすっかり見なくなり青葉が目立ちます。
山々はこの一週間の間にすっかり緑が濃くなってきました。
つい先日まで白っぽく燃えるような淡い緑色だったのですが、青葉というのにふさわしくなってきました。
「薫風」(くんぷう)五月の始まりです。
また、雨が上がった田んぼは一斉に田植えが始まりました。

昔とちがって田植えもみんな機械です。
ここは霞ヶ浦の高浜入り近くの田んぼです。

田んぼの向こう側の緑の土手は霞ヶ浦に続く恋瀬川で、川の向こう側は石岡市。
この田んぼの場所はかすみがうら市東野寺です。
恋瀬川と天の川に挟まれたデルタ地帯。
二つの川が合流したところが中津川で、その先で霞ヶ浦に注ぎます。
コメづくりは盛んですが、昔はよく洪水に悩まされました。
夜になり今は綺麗な月が空に輝いています。
明日は天気でしょうか。
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梨の白い花はすっかり見なくなり青葉が目立ちます。
山々はこの一週間の間にすっかり緑が濃くなってきました。
つい先日まで白っぽく燃えるような淡い緑色だったのですが、青葉というのにふさわしくなってきました。
「薫風」(くんぷう)五月の始まりです。
また、雨が上がった田んぼは一斉に田植えが始まりました。

昔とちがって田植えもみんな機械です。
ここは霞ヶ浦の高浜入り近くの田んぼです。

田んぼの向こう側の緑の土手は霞ヶ浦に続く恋瀬川で、川の向こう側は石岡市。
この田んぼの場所はかすみがうら市東野寺です。
恋瀬川と天の川に挟まれたデルタ地帯。
二つの川が合流したところが中津川で、その先で霞ヶ浦に注ぎます。
コメづくりは盛んですが、昔はよく洪水に悩まされました。
夜になり今は綺麗な月が空に輝いています。
明日は天気でしょうか。

