牛込・牛渡

 旧水戸街道は現在の6号とほぼ似たような経路をたどっていますが、その昔の古道東海道の道を検証してみましょう。
石岡は古道東海道の終点の都市でした。
また江戸時代前までは、今の霞ケ浦を舟で渡っていたといわれています。
しかし、現在鎌倉街道の名前のついた道も多くあり、どれがメインの道かが判りません。
しかし、かすみがうら市(旧出島村)に牛渡(うしわた)という地名があり、古墳や神社などがあります。牛渡の鹿島神社では「へいさんぼう(平三坊)」なる変わった祭りが残されています。

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映画「土」の舞台となり、貧しい農村が描かれていますが、昔はここらあたりに対岸から舟で渡ったものでしょう。
牛渡は対岸から牛が渡って泳ぎ着いてこの名前になったと考えられています。

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その対岸ですが、美浦村です。
競馬馬のトレセンで名前は全国区ですが、ここに「陸平(おかだいら)貝塚」があるのです。
先日お邪魔した時は、夏の終わりで、地元の小学生たちも手伝って貝塚の発掘調査を行なっていました。
縄文前期から後期にわたり、5000年以上続いた縄文人の暮らした跡がはっきりと分かる貴重な場所です。
この貝塚のすぐ北側に「牛込(うしごめ)」という地名があります。
この場所から牛を対岸の牛渡に送っていたのでしょうか?
平安時代は貴族の移動は牛車で、馬ではありませんでした。
牛は牛込に残し、人だけが渡ったのでしょうか?

江戸時代の前はこの霞ケ浦は湖ではなく海(内海)でした。香取の海などと呼ばれていました。
現在よりも水面は数十センチ高かったようです。
ヤマトタケルの東方に来た時代の地形は、ぼんやり想像ができるようにも思いますが、縄文人が暮らした時代は現在の地形からは、まったく想像すらできません。
利根川を人工的に銚子の方にもっていき、江戸の治水対策にしたのですから・・・。

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/06 18:23

古東海道

 私が「1300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」というホームページを立ち上げるきっかけとなったのが、この古東海道の終点が「石岡」(常陸国府=常陸府中)であると知ったことでした。
そしてこの事を、友人たちに話すとほとんどの人は知らないのです。
やはり、あまり有名ではないのだとは思ってみるのですが、意外に興味を示す方が多いのです。
そこで、少しその話をさせていただきたいと思います。

 東海道と言えばもちろん、江戸時代の東海道53次(江戸と京都間)を皆さんは思い浮かべるでしょう。
古東海道はそれよりずっと前から整備されていた七道の一つです。
スタートは伊賀上野で、伊賀、志摩、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸の各国を結んでいました。
終点常陸国の国府が現在の石岡です。

現在の東海道とある程度ダブルところもありますが、もっとも大きな違いは当時はまだ江戸はいくつも川が流れ込んでおり、湿地帯が多く歩くにも困難な土地であったことです。
そのため、鎌倉から葉山へ行き、そこから三浦半島を横断して衣笠を通って横須賀へ行き、横須賀の走水(観音岬)より千葉県の富津岬へ東京湾を舟で渡っていたのです。
このためヤマトタケルがここを渡る時に嵐に襲われ、波を静めるために后である弟橘媛が入水して波を静めた話が伝わるのです。

東京湾を舟で渡っていたため、千葉県では渡ったところが上総(かずさ)国(国府:市原市)で、その先が下総国(国府:市川市)と東京に近い方が下となるのです。
また、ヤマトタケルのこの時詠んだ歌(君さらず)から「木更津」や「君津」の地名が生まれたとされています。また弟橘媛の着物の袖が流れ着いたところが「袖ヶ浦」です。

この先は、現在の国道16号に沿って海沿いに北上し、五井駅の近くで右折し、市原市を通り、さらに北上し市川市に入ります。
市川市より北上し国府台を通って、松戸へ出ます。
ここまでは、ある程度道がわかっているのですが、この松戸から石岡までのルートがまだはっきりしていないのです。
現在の6号やその前の水戸街道とはかなり違ったルートであったことはわかっています。

江戸時代前までは利根川は現在のように銚子へ流れるのではなく、東京湾に流れており、霞ヶ浦や手賀沼などは一体の大きな内海(香取の海)でした。
従って、松戸からは東に少し行って、そこから舟で龍ケ崎へ渡り、さらに美浦村の牛込から、かすみがうら市の牛渡へ舟でまた渡り、三村の方から石岡へ向かっていたものと考えられます。

こんなルートを考えて、足を延ばしたりしていると、知らぬ間に古代からお誘いを受けたりしてしまいます。
縄文人がたくさん住んでいたところもたくさんあります(貝塚でわかります)。

皆さんも少しそんなことも考えてみませんか?

詳細は私のホームページに載せていますので見てください。→こちら
 

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/20 19:17

古東海道官道遺跡(中津川)

 私のホームページに石岡が古代東海道の終点の都市で、これが歴史を調べ始めたきっかけであったと書いたことがあります。(詳細はこちらにあります)

律令制が始まった時に各国の国府をつなぐ官道が作られました。これはかなり立派なもので、出来るだけ直線道として整備したのです。
そして16kmおきに駅家(うまや)をつくり、そこに馬を常駐させて都との連絡などに使われたのです。

しかし、これもその後延長され、ここ石岡が終点ではなく、仙台までつながるようになり、あちこちでこの官道の遺構が発見されています。

当時は東京湾を舟で渡り、千葉の市原から市川を通り松戸にでて、我孫子から東に曲、布佐から霞ケ浦を何度も渡りながらこの石岡(常陸国府中)に来たと思われます。

しかし、その後、道は何度も変わり、今の6号線に近い江戸時代の水戸街道の名残をこの古代東海道と思ってしまう人が多いようです。今ではほとんど残っていないので、探すのは容易ではありません。

また、我孫子から舟で高浜辺りまで来たり、海の水位が下がって陸地が増えてくると、現在の国道に近いルートに変わり、そこに集落ができて、大昔の道も集落も廃れてしまったようです。

今日は、6号国道の千代田石岡バイパスが現在ところどころで工事が始まっていますが、このバイパス道を作るに当たって、石岡は古代遺跡の眠るところが道路建設されることになり、数年前から遺跡の発掘調査が行なわれました。

石岡バイパスA

赤い点線が今行われている6号国道のバイパス工事区間ですが、どうもバイパスと言うよりも、茨城空港へのアクセス道路の色合いが強くなっています。

これが石岡の入口恋瀬川に架かる恋瀬橋手前からもう一つ橋をかけています。
今年の正月ごろ紹介しました。(こちら

これが、旧縄文時代からの遺跡や古墳群を貫く形となり、とても心配な場所なのです。

実際にこの道路工事に先だって、遺跡の調査が行なわれ、姥久保遺跡、田島遺跡、中津川遺蹟などが見つかっています。

中津川遺蹟で見つかった古代官道の跡と思われる遺構は、青い線で示したところですが、今の高浜街道に沿った畑の部分で187mに渡って見つかり2年前の秋に一般公開されました。

道路の幅は6mで両側に側溝があります。
どの記事を見ても石岡と高浜を結ぶ古代の道路跡となっています。

nakatsugawa01.jpg

今の中津川遺蹟です。もうすぐ道路になってこの跡も無くなってしまうのでしょう。
しっかりと検証して残してほしいものです。(報告書は今年出ています。まだ読んでいません)

中津川遺跡

2009年秋に公開された頃の写真。道路は両側に側溝を持った立派なものです。側溝には人の足跡が残されており、昔の人の足跡だろうと大分関心が集まっていました。

しかし、この古代官道が思わぬ方向に出てきて、解釈を間違えているようです。
これは明らかに古代東海道の遺構だと思います。

しかし、何処を見ても、これは石岡から高浜へでて、鹿島へ向かう鹿島路の遺構ではないかと書かれたものばかりです。

私からすれば、「ヤッター」と大喜びなのですが・・・。

昔(今から1000年くらい前まで)は美浦村から対岸のかすみがうら市にわたり、そして三村の方からこの中津川(高浜)に渡ったと考えられる事象がいくつかあります。
まさにその道筋にあるのです。
でもこの道筋は途中から変わってしまい、今ではこのルートも忘れられているようです。

この古代東海道を調べることは面白そうです。
まあいい加減な解釈は良くあるので、何が信じられるのかを見極めるのは難しいですね。

多くが鎌倉街道と一緒になったり、廃れて別な道ができたりでわからなくなりました。
真っ直ぐ国府をつなぐ「大昔の高速道路」と考えればいいのでしょう。
人のいる集落などとは関係なく、出来るだけ最短に結んだようです。

しかし当時の霞ケ浦は大きな内海で、土浦方面は湿地帯として通行困難だったように思います。

この続きはまた時間があった時に検証してみたいと思います。

003.jpg

11月14日朝の恋瀬橋(6号国道)から筑波山を眺める。 
恋瀬川には、水鳥もいて、昨日の筑波山は薄らと霞がかかっている。

002.jpg

この橋の筑波山の反対側は高浜方面ですが、このバイパス工事が進んでいます。青い橋がかかり、舟塚山古墳群や田島遺跡などがたくさん眠っている場所を通る計画です。

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古東海道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/11/15 06:55

霞ケ浦を渡る牛

 かすみがうら市牛渡(うしわた)の地名の由来はここに牛が泳ぎついたという伝説が伝わっているのです。
これがとても興味深いのです。
前に、古東海道がここを船で渡っていたのではないかと書いたことがあります。(こちら

そのことを示す言い伝えとして残されている「牛塚古墳」を紹介します。

ushiduka01.jpg

霞ケ浦の湖側に近いところを走る道路に沿って土浦側から牛渡に向かう途中にこじんまりした丸い塚がある。
これが「牛塚古墳です」
塚には松の木と小さなお宮さん(中に石の観音様が安置)が置かれています。
その場に書かれた説明板の内容を下記します。

「霞ケ浦沿岸の低地、房中(ぼうじゅう)集落の西に位置し、市内で最も低いところにある古墳で、形は円墳です。常陸国府に下向途中、この地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力つきてこの地で亡くなり、土地の人々がこれに感動して塚をつくり牛塚と名付けたという伝説があります。五世紀に築いたものと推定されています。 かすみがうら市教育委員会」

多くの方が、この事を単なる物語ととらえているようですが、まさかこんなところに古東海道の道(船道)があったとは考えないようです。

律令制の始まる前からある道で、奈良時代になり律令制の施行された時に各国府を結ぶ官道を整備したのですが、これは10世紀には良くわからなく廃れてしまったのです。

源氏物語が書かれたのは1001年?頃で、ここに常陸介が何回も登場します。
空蝉の夫は常陸介ですよね。

常陸介が常陸国国府(現石岡)にいくのには牛車でゆっくりと進みます。
この頃の道は舗装もされていませんのでスピードは出ません。

なぜ、馬でないのか?などと言う人もいますが、当時の馬は数も少なく、とても小さかったようです。
また去勢などの処置もされていませんので、とても扱い辛かったようです。

都からこのような遠い国にいくのも馬車ではなく牛車で優雅に進んだのです。
(それにしても、選ばれて下向するのは大変だったでしょうね。そのうち時代が経つと役職も名目だけで、実際には下向しなくなってしまうのです。)

ここの古墳に書かれている話は勅使がこの地で亡くなり、慕って後を追ってきた牛が力つきたとなっていますが、話は2つあります。

1)対岸の美浦村(牛込)より勅使は船に牛も載せて牛渡地区の沖合で船を止め、この地の神社(鹿島神社?)にお参りするために勅使が小舟に乗り換え上陸しますが、牛が後を追って湖に飛び込んでしまった。

2)牛は牛込に残して勅使が船で国府に向かった。しかし、残された牛が後を追いかけて湖を渡った。

どちらかかよくわかりませんが、このような話が残っていることはとても興味深いのです。

石岡の三村地区に「鷲塚」「鰻塚」という塚が昔あったそうです(この塚は埋め立てに削られてしまったようです)。室町時代末期に三村城主常春が滅ぼされた時に伝わる「鷲と鰻の大決闘」の話などとどことなくつながっているのかもしれません。
こちらの鷲塚・鰻塚も5世紀頃の古墳で人骨と石館が出てきたそうなので、古墳が先で、話は後からついたものかもしれません。

ただこんなことを考えるのも面白いと思っています。今年もこの道を追いかけることになるのか??

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古東海道 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2012/01/06 21:00

縄文海進

 律令制の始まった頃から全国的に七つの官道が整備されました。
これは主に各地と都との連絡や租庸調の徴収などのために必要とされたようです。

大化の改新(646年)以降、畿内から東には三つの官道が整備されました。
その道は各国の国府を繋いでいたのです。奈良時代初頭にはかなり整備されていたと思われます。

海寄りを進むのが東の海道で東海道(中路)
本州の真中を走る東の山道で東山道(中路)
日本海側を越後(または佐渡)まで行く北陸道(小路)

東山道は陸奥国国府(多賀城市)まで続き、東海道は常陸国国府(石岡市)まで続いていました。

そして16km毎に駅家(うまや)をおいてそこに馬(中路は10疋、小路は5疋)を置き、各国府との連絡に馬で乗り継いで連絡する仕組みができていたようです。

中路となった東海道、東山道は幅員が6~12m位あったようです。

東京の所属する武蔵国は771年に東山道の国から東海道の国に編入されたのです。
これは東京湾の下町から埼玉南部にかけて大きな湿原が存在しており、最初の頃には東海道も武蔵国は通らずに東京湾を船で渡っていました。

また東山道も武蔵国国府(東京都府中市)を通ると全くの時間ロスになっていたといいます。
このため、武蔵国は東海道に組みかえられたというわけです。

また甲斐国(国府:笛吹市)も東海道に組み込まれていますが、箱根を越えて山中湖~河口湖を経由して峠越えで行きますので武蔵国を通らなくても良かったのでしょう。

この武蔵国が東海道に組み込まれてから色々なルートができてきたように思います。
武蔵府中から松戸などとがつながるルートも出来てきたのではないかと思います。

しかし、10世紀から11世紀には廃れてしまい、幾つもの生活道路が出来て、鎌倉時代に鎌倉街道と呼ばれる各地の道とダブってきてしまったようです。

しかしこの古代の官道のルートを理解する上で、この縄文海進を少し理解しておいた方が良いと思います。
あまりにも現在と地形の様子が違ってくるからです。

今から6千年ほど前が海面上昇のピークと言われていますが、今よりも海面がかなり高い時代があったのです。
これは地域によっても違うし、その後の土砂の蓄積などで地面が高くなったところもあり明らかにはなっていません。
各地に残された貝塚などの分布を基に今より6~7mくらい高かったという説と、2~3mくらい高いという考え方があるようです、

しかし、この数mの海面の上昇がもっとも大きく地形を変えている場所がここの霞ケ浦周辺だと思います。

海進03
(日経BP社の海進シュミュレーションより)

これは海面が5m高かった場合の地図ですが、霞ケ浦はとても大きな内海でした。
この呼び名も各地名をとって○○の流海(ながれうみ)、香取海(かとりのうみ)など様々です。

そして、東海道も常陸国府(石岡)には東京湾を渡った後に川を下り、何度もこの流海を渡ってきたようです。
湿地帯や山岳地帯を歩くよりも意外にこちらの方が楽だったのかもしれません。

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古東海道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/01/08 17:00

古東海道と富士山噴火

 今年の箱根駅伝は東洋大の圧勝でした。それにしても柏原選手の山登りはすごかったですね。

もう30年以上も前ですが、箱根のホテル小湧園に正月泊まったことがあり、その時目の前の坂をものすごいスピードで下っていく駅伝選手をホテル前で見ていたことがあります。

あの坂ですから普通だったら恐くてスピードなど出ませんね。登りも普通の駅伝とはあまりにも違います。

昔の江戸時代の東海道は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」などと言われておりますが、やはり東海道では難所の一つでしょう。

この箱根路は塔の沢-宮野下を通る道ですが、江戸時代の東海道は箱根湯本からもう少し南側の現在の箱根新道に沿った旧道でした。
箱根の関所近くには、お玉が処刑されたという「お玉ヶ池」などがあります。
(箱根湯本~箱根峠間:13.2km、標高差最大:771m)

一般には江戸時代の東海道を旧東海道と言っていますので、この東海道五十三次の道しか思いつきませんね。
しかし今の1号国道(東海道)側もまた、曾我兄弟(鎌倉初期)の墓などがある富士山麓を通っていますので、こちらも部分的には使われてはいたのだと思います。

私が興味を持っているのはその前の東海道で、古東海道ですからこの道ではないのです。

ヤマトタケルも源義家(八幡太郎)も源義光(新羅三郎)も足柄峠を通っています。
この足柄峠に多くの物語が残されて伝わっています。

その道は沼津から今の御殿場線に沿って御殿場に北上してそこから足柄峠を越えて小田原に下る道です。
足柄峠から見る富士は絶景だといいます。
(参考写真 → こちら :ウィキメディア・コモンズ)

箱根道

さて、古東海道がこの足柄峠を越えていたのは確かでしょうが、過去に富士山が大噴火をしてこの峠が通れなくなった記録が残されているといいます。

1万年以上前の話は置いておくにして、3000年ほど前から富士山の火山としては何度も爆発的な噴火を起こしているようですが、大和朝廷の成立後の記録に残っているものとしては

800~802年:延歴大噴火・・・これにより足柄峠越えが一時閉鎖され箱根峠越えの道が使われた。しかしこの足柄峠の道は復旧されて復活。

864~866年:貞観(じょうがん)大噴火・・・これにより青木ヶ原が形成され、富士北麓にあった「剗の海(せのうみ)」が埋まって、その一部が精進湖、西湖になった。
(この貞観大噴火は貞観地震の5年前です)

その後も何度も噴火を繰り返しています。937年(承平噴火)、1033年、1083年、1435年、1511年、・・・
最近の大きな噴火は江戸時代で1707年の宝永大噴火です。
この時は富士の中間部が大きく崩落し、江戸市街に大量の火山灰が降ってきたといわれています。

延歴大噴火で足柄峠が通れなくなったようですが、それでもこの道が復活してからはまだこちらがメインの通りとなっていたようです。

足柄峠にまつわるお話を一つ紹介します。

足柄峠笛祭りのお話:

 群雄割拠の時代にあって新羅三郎義光は風流な笙(しょう)の名人といわれ、笙は豊原時元に学びました。
時元は並び無き笙の名人でありましたが、一子時秋がまだ幼少のため、家伝の秘曲を新羅三郎義光に授けました。
 その後、三郎義光は奥州で苦戦(後三年役)していた兄八幡太郎義家を助けるために京を立って奥州へ向かいます。(1087年)
まだ若き時元の子時秋は、義光の戦死による秘伝の秘曲が永遠に伝わらなくなることを恐れ、義光の後を追いかけ、足柄山でついに追いつきます。
この時義光はその志を察して、時元より伝えられた秘曲・大食調とハ長曲の二曲を中秋朧月夜の元で時秋に授けるのです。
この時の笙の音色を、無念無想ただ嫋嫋(じょうじょう)と表現されています。新羅三郎義光はこの時、時秋に「我は武のため、貴殿はこの道のため」と諭し、笛の秘曲の奥義を伝えたとされています。
この故事にちなみ毎年9月の第2日曜日に足柄峠笛まつりが開かれています。

さて、この新羅三郎(源義光)は常陸介となり常陸国にやってきます。そして常陸平氏との関係も結んでその子孫として「佐竹氏」「甲斐武田氏」を生むことになります。

まあもっとも、前九年の役(陸奥征伐)にやってきたときの中心人物は八幡太郎・新羅三郎の父源頼義は常陸平致幹の娘と一夜を共にして娘が生まれています。
(この時の源頼義は63歳を越えていますので、昔でもこんな盛んな人もいたのですね。87歳で亡くなっています)
後で常陸大掾(だいじょう)氏を継ぐことになる吉田氏の娘が、出羽清原氏の家督を継いだ海道平氏出身の成衡の妻となり、この婚姻が後三年の役の原因となったようです。

また常陸平氏系の吉田氏の祖、平(吉田)清幹の娘が、この新羅三郎の長男の妻となっています。
まったく何処がどうなっているのかこんがらがってきますね。

まあ誰と誰が結婚してといっても、昔は政略的な婚姻が多かったでしょうからあまり考えて見てもわからなくなるだけですね。


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古東海道 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/01/10 18:43

古東海道(1)

 今日は青空が広がり久しぶりに気持ちの良い日となった。
梅の花もあちらこちらで急にほころび始め、今週末には満開を迎えそうだ。
そうなると一気に春が訪れるのだが、花粉も飛び始めるのだけはどうにもいただけない。
せっかく見て下さいとばかりに花も咲き始めるのに、外を散策するのが億劫になってしまう。
困ったな。

 さて話は変わって、私の住む茨城県石岡市は常陸国の国府があった地である。
そのために、江戸時代になる前までは長年にわたって大国常陸の中心都市として栄えてきました。

しかし、現在はその栄華も単なる自己満足の呪文のように唱えるだけで、他所の人から見れば「何か変なたわごとをつぶやいている」というくらいにしか映らないでしょう。

私もこの土地に来るまで、歴史的なものに特に興味もなく、長い間隣り町に住んでいたのですが、ほとんど興味もなく、内容も全く知りませんでした。

そしてこの地に越してきてはじめて「平氏発祥の地」「茨城の県名発祥の地」などということも聞いたのです。
隣り町にいても、祭り好きが多く、馬鹿騒ぎするお祭りがあることくらいしか話は聞こえてこなかったのです。

まあここで聞いたといっても、特に印象に残るものではなく、「この町に生まれ育った人には大切なものかもしれませんがそれ程大した話ではないよね」程度です。

そして引っ越してきて1年程過ぎてから、この石岡は古東海道の終点都市だと何かで読んでから興味を持ったのです。

まして「大掾(だいじょう)氏」などといわれても、そんな名前聞いたこともないし、ましてこんな漢字は読めませんでした。
どんな活躍した戦国武将なの?と調べて見ても、茨城で活躍したのは「佐竹氏」くらいしか名前も出てきません。

何故なのでしょうか? この土地の歴史は何時消えて眠ってしまったのでしょうか。

歴史はそこに住む人たちが継続して伝え語り、遺跡を保護し、庶民の中にいくつもの伝承された話が伝わりながら作られていくものではないでしょうか。

現在NHKでは平清盛が放送されています。石岡では平家発祥の地としてこの放送に期待する声があります。
しかし、平清盛は伊勢平氏であり、その先祖をたどると平国香(くにか)や高望王になるわけですが、この人達がここ石岡に住んで活躍していたと信じられています。

この石岡は国府があったので、お役所があった場所です。
平国香の館は「石田館」と呼ばれ、旧明野(あけの)町にありました。

墓も明野(筑西市東池田)にあります。

しかし石岡の平福寺にある五輪塔の一つが国香だと石岡の人は言っています。
もっともこの頃の人は墓もはっきりしないことが多いですね。

国香が平将門に攻められて死んだのは西暦935年ですので、はるか遠い昔です。

でも色々な資料や意見を聞いて、読んでどちらが本当らしいのかとか、それがどんな意味を持っているのかなども理解していく必要があるように思います。

山岡鉄舟が臨終のときに奥様に書いて渡したという司馬温公の家訓があります。

 「金(こがね)を積み  もって子孫に残す  子孫未だ必ずしも守らず
 書を積みもって子孫に残す  子孫未だ必ずしも読まず
 しかず陰徳を冥々のうちに積み  もって子孫長久の計となさんには
 これ先哲の格言にして  すなわち後人の亀鑑なり 」

過去の遺産の上にあぐらをかいていても、財産を譲られた放蕩息子がその財産を使い果たせば何も残りません。
「陰徳」とは人のために陰ひなた関係なく良いことをなすことだと思います。

何かをやってあげた、ましてや見返りを望んで何かをするなどと言うのは陰徳ではありません。

陰徳を積めば、子孫が困った時にもまわりの人もよろこんで手を貸してくれる。これが子孫繁栄の基になるのだといいます。

私もこれからは色々な人のためになることを骨身を惜しまずに出来る人になりたいと思っています。
しかし、まだまだ生活もしなければならないし、物欲もありますので、これを実践するのは難しいです。

山岡鉄舟は貧乏を苦としていなかったようです。勝海舟に頼まれて徳川慶喜の家来として駿府に到着した西郷隆盛に会いに出かけた時には自分の刀はなく、人から借りていったとも聞いています。

でも、ここ石岡は地元発展だけを望んでもどうにもならないように思います。
まわりの市町村とも連携して、ともに発展することが大切だと思います。
まして旧市内と八郷地区など意識がまだ離れているようではだめですね。

私がこの地の歴史に興味を抱いたきっかけとなった「古東海道の終点都市=茨城県石岡市」の魅力をこの街道を調べながらわかる範囲を少しずつ書いていきたいと思います。

では次回から週に1回ずつ程度で5~6回位に分けて述べたいと思いますが、まだあまり知られていないし、こちらもわかっていませんのでさわりだけを書きたいと思います。

keyaki.jpg

1月中旬に石岡のイベント広場横にコンビニが出来ました。
ここは赤レンガ特集で載せたところ(こちら)ですが、今回地震で塀も一部崩れ、一部の建物も取り壊してコンビニができました。

keyaki02.jpg

この敷地内にあった欅の古木が2本コンビニの駐車場の中に残され、天に向かって枝がのびています。

mon.jpg

このコンビニは比較的近いので利用もします。開店前にはチラシを持って家にも来られました。

しかし、この欅の存在は他の方のブログで知りました。
笠間市の飯田で「青葉農園」をされている「ようこそ里山へ 茨城笠間・青葉って永遠」さんです。
情報ありがとうございました。こちらにも載せさせていただきました。
(このブログもリンクさせていただいています)

石岡市内にあるスーパー「タイヨー」さんにも大きな欅の木が残されています。
是非大切に残していきたいですね。

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古東海道 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/03/12 19:23

安居千日堂

 少し昔の子供の頃の話が続きましたので、このブログの元のネタに戻ります。

本当は古東海道のネタを書いていきたいのだけれど、その前に少し他の記事を混ぜながら進めたいと思っています。

今日は笠間市安居にある「千日堂」を紹介します。

何故このお堂を取り上げるのかと言うと、私が書こうとしている古東海道にこの辺りの土地が関係しているのです。
「安居」は「あご」と読みます。

私のいる石岡が常陸国の国府があった土地で、常陸国は律令制の敷かれた時代に東海道に属する国の最北(最東)の国になりますので、その時代に作られたといわれる古東海道は各国の国府を最短距離で結ぶように作られていたようですので、その終点は国府「石岡」と考えられます。

しかし、それからしばらくしてから(900年代前半)書かれた「延喜式」には16km置きに馬を常駐させていた場所(中継場所)駅家(うまや)の名前が載っているのですが、石岡が終点ではなく、常陸府中(石岡)の次の駅家が「安居(安侯)駅」で水戸の「河内駅」へ続いていたのです。

そしてそこから海岸線沿いの道と美和や鷲子などの方を通る道に分かれ、「東山道」と合流して仙台の先の多賀城まで続いていたのでしょう。

それを証拠つけるのは石岡からこの安居へ向かう途中に「五万堀」という土地がありますが(小美玉市)、ここで古代官道の跡が見つかっています。

この五万堀や納場、また近くにある「泥障塚古墳」などの名前は源義家が奥州征伐の時に通った道であることを示しているようです。そんなことを考えていくのも楽しそうです。

今日はそんなことを考えながらこの千日堂を見て見ましょう。

石岡から県道52号線(石塚街道)を進むと、前に白鳥などを紹介した「池花池」(こちら)があります。
その池の西北側が五万堀地区になります。

そのまま街道を進むと納場、安居、下安居となります。

ago01.jpg

恐らく昔の駅家(うまや)は涸沼川の手前のこの地区近くではないかと漠然と考えています。
何も調べていないのでわかりません。
それにしてもバスは走っているようですが、1日に何本もありません。

ago02.jpg

千日堂への入口はこの街道の十字路の信号のところにあります。なかなか形のいいお堂です。

ago03.jpg

お堂の入口わきに「市指定文化財 安居灯籠念仏」の石碑が建てられています。

笠間市のHPより説明文をそのまま掲載させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「新仏の往生安楽を祈って行われる古くから伝わる盆行事である。記録によれば寛文年間(1661~1673)より千日堂前庭で念仏供養を行い、近郷53か村1200戸の念仏道場として盛んであったという。

戦後中断されていたが、昭和50年に念仏講並びに地区内の有志の方々(念仏講の法眼様と地区の中老様)の依頼により、青年会が中心となって保存会が結成され再開されて今日に至っている。

 笛と太鼓、鼓の奏でる音曲に合わせて新仏の年齢や地位に応じた讃が唱えられる。
また、讃の前後には「南無阿弥陀仏」が唱えられるという特徴がある。

 かつては13日に菩提寺の妙行院で「笠ぞろい」をして、讃歌と新仏迎えの念仏が唱えられた。
15日、16日の晩、千日堂に勢ぞろいした念仏衆は、高燈籠を立てて待つ新仏の家に「道行き(流し)」と呼ばれる曲を奏して行進する。高灯楼を囲んで庭念仏と讃歌が唱えられる。

現在は千日堂に新仏の位牌を祀り、遺族を招いて「寄せ念仏」という形式で行われている。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まあ、350年前頃より、近隣の53か所の村が集まり、念仏道場としてこの千日堂が造られ継承されてきたようです。そしてお盆に新盆の家の供養が行なわれてきたのです。

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千日堂の名前は、寛保年間(1741~44)に庵王弁的という僧が千体の仏像を彫り祀ったために、千日堂と言われるようになったそうで、現在でも890体程の仏像が残っているそうです。

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古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/03/15 20:41

岡見氏と牛久城

 牛久(正確には龍ケ崎市)の女化神社を見た帰り、県道48号線を土浦に向けて北上しました。
女化神社のところも綺麗なバイパス道路が出来ていて、その先もまた二股に分けれ、西側の旧道を圏央道の「牛久阿見インター」方面に向かいました。

途中で「つくば」と成田をむすぶ県道408号線と交わる交差点は「岡見」と書かれていました。
このような人の名前と思える地名で少し調べてみました。

するとこの交差点の近くに「岡見城跡」と地図に書かれています。
交差点のまわりが大きな竹林がところどころにあってどこか不思議な雰囲気の場所です。

牛久の人はきっと「岡見」という地名はおなじみかもしれませんが、近隣まで知られた名前ではありません。

岡見

調べてみると、岡見氏は出生はあまりはっきりしていない。
小田治久の二男がここに居を構えたという説が強いようです。

そして天文年間(1550年頃)に牛久沼の北方に牛久城を築いてこの一帯を支配したといいます。

私には戦国武将もあまりよくわかりませんが、この城があったのは県道48号線の横。
牛久城は現在の6号国道近くで、江戸時代前までは佐竹街道といい常陸太田までつながっていました。

問題なのはこの当時は我孫子から利根川を東に行き「布佐」=総(麻のこと)から川を利根町の布川の方に渡って北上していました。

牛久沼付近は洪水が多く、道はいくつかあったようです。

地図を見て気になるのは、現在の県道48号線(龍ケ崎から土浦へ行く道)はきっと室町時代前の古東海道の一つかもしれないと思ったのです。

奈良時代にはもっと東寄りの道を通っており、前に書いたように美浦村牛込から出島(かすみがうら氏)の牛渡へ渡っていたようです。

きっとこの48号線もかなり重要な時期があったように思います。

今では車もすれ違うのに苦労しそうなところもある狭い道です。

でも土浦でも広いバイパス道が出来、旧道は本当に忘れ去られようとしています。

私の知っている年月でもこれだけ変わるのですから、昔の100年単位ではきっとわからなくなってしまうのも無理ないのかもしれません。

この岡見の信号近くに「八坂神社」がありました。

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八坂神社とありますが、間に「八幡・剣」とはいっています。
3つの神社が合祀された神社ということのようです。

okami01.jpg

市の指定の古木などの説明がありますが、この神社にこの岡見氏についての由緒が書かれていました。

okami02.jpg
(サムネルです。読みたい時はクリックして見てください)

あまりよく読めず、とりあえず写真をUPしました。

どうやら岡見=尾上からきたようですね。

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古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/05/26 19:20

古東海道の終点

 私がここ石岡の歴史に興味を持ったのは「古東海道の終点」がこの石岡の地にあったことでした。
しかし、茨城郡の郡衙が貝地の南側にある茨城廃寺あたりではないかということと、常陸国の国府が石岡小学校のところにあったことは知られていますが、律令制が始まって16km置きに設置されたという駅家(うまや)がどこにあったのか長い間知りませんでした。

駅鈴に使われていた鈴を奉納したのが始まりという鈴の宮神社(天狗党の決起したところとしても知られています)などは分かるのですが・・・・。

それが、昨年の茨石の広報紙「ワクワク通信」の8月号の記事に載っていました。(こちらです)

場所は、風の会でも使っている国府にある教室のすぐ裏です。
この間もここで機関紙の印刷を手伝ったばかりです。灯台もと暗しですね。

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狭い裏通りの脇にあるわずかな空き地に「月読神」と「庚申塔」の石碑が2つぽつんと置かれています。
前にも前を通ったのですが、なぜこんな碑がここにあるのだろうとぼんやりと眺めただけでした。

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今は草が生い茂り、トンボがのんびりと飛んでいました。

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すぐ横には6号国道が走ります。貝地の交差点の近くです。

この場所には高浜の方から道が続いていました。土浦の方からではありません。
そして霞ヶ浦(当時は内海)を船でわたり、対岸の出島を通ったり、または美浦村や江戸崎の方に道は続いていました。

この道を追いかけて、江戸崎の街や出島の散策をする気になったのです。

もっとも、この常陸府中(常府)その頃呼ばれていたのかもわかりません。
武蔵国(東京府中)は最初は東海道の国ではなく、東山道に属していましたが、いつか東海道に組み込まれて、道も霞ヶ浦の水上から徐々に陸路に切り替わっていったのでしょう。

さらに、ここが終点だったのもそのうちに北にも伸びて東山道(仙台まで続いていた)とも結ぶ連絡道や日立や十王の方を通る海寄りのルートもできていったようです。

こんなことを感じさせてくれる駅家(うまや)がこんな形で知られずにいるのは残念なことです。



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古東海道 | コメント(2) | トラックバック(1) | 2012/07/11 21:25
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