牛込・牛渡
旧水戸街道は現在の6号とほぼ似たような経路をたどっていますが、その昔の古道東海道の道を検証してみましょう。
石岡は古道東海道の終点の都市でした。
また江戸時代前までは、今の霞ケ浦を舟で渡っていたといわれています。
しかし、現在鎌倉街道の名前のついた道も多くあり、どれがメインの道かが判りません。
しかし、かすみがうら市(旧出島村)に牛渡(うしわた)という地名があり、古墳や神社などがあります。牛渡の鹿島神社では「へいさんぼう(平三坊)」なる変わった祭りが残されています。

映画「土」の舞台となり、貧しい農村が描かれていますが、昔はここらあたりに対岸から舟で渡ったものでしょう。
牛渡は対岸から牛が渡って泳ぎ着いてこの名前になったと考えられています。

その対岸ですが、美浦村です。
競馬馬のトレセンで名前は全国区ですが、ここに「陸平(おかだいら)貝塚」があるのです。
先日お邪魔した時は、夏の終わりで、地元の小学生たちも手伝って貝塚の発掘調査を行なっていました。
縄文前期から後期にわたり、5000年以上続いた縄文人の暮らした跡がはっきりと分かる貴重な場所です。
この貝塚のすぐ北側に「牛込(うしごめ)」という地名があります。
この場所から牛を対岸の牛渡に送っていたのでしょうか?
平安時代は貴族の移動は牛車で、馬ではありませんでした。
牛は牛込に残し、人だけが渡ったのでしょうか?
江戸時代の前はこの霞ケ浦は湖ではなく海(内海)でした。香取の海などと呼ばれていました。
現在よりも水面は数十センチ高かったようです。
ヤマトタケルの東方に来た時代の地形は、ぼんやり想像ができるようにも思いますが、縄文人が暮らした時代は現在の地形からは、まったく想像すらできません。
利根川を人工的に銚子の方にもっていき、江戸の治水対策にしたのですから・・・。
石岡は古道東海道の終点の都市でした。
また江戸時代前までは、今の霞ケ浦を舟で渡っていたといわれています。
しかし、現在鎌倉街道の名前のついた道も多くあり、どれがメインの道かが判りません。
しかし、かすみがうら市(旧出島村)に牛渡(うしわた)という地名があり、古墳や神社などがあります。牛渡の鹿島神社では「へいさんぼう(平三坊)」なる変わった祭りが残されています。

映画「土」の舞台となり、貧しい農村が描かれていますが、昔はここらあたりに対岸から舟で渡ったものでしょう。
牛渡は対岸から牛が渡って泳ぎ着いてこの名前になったと考えられています。

その対岸ですが、美浦村です。
競馬馬のトレセンで名前は全国区ですが、ここに「陸平(おかだいら)貝塚」があるのです。
先日お邪魔した時は、夏の終わりで、地元の小学生たちも手伝って貝塚の発掘調査を行なっていました。
縄文前期から後期にわたり、5000年以上続いた縄文人の暮らした跡がはっきりと分かる貴重な場所です。
この貝塚のすぐ北側に「牛込(うしごめ)」という地名があります。
この場所から牛を対岸の牛渡に送っていたのでしょうか?
平安時代は貴族の移動は牛車で、馬ではありませんでした。
牛は牛込に残し、人だけが渡ったのでしょうか?
江戸時代の前はこの霞ケ浦は湖ではなく海(内海)でした。香取の海などと呼ばれていました。
現在よりも水面は数十センチ高かったようです。
ヤマトタケルの東方に来た時代の地形は、ぼんやり想像ができるようにも思いますが、縄文人が暮らした時代は現在の地形からは、まったく想像すらできません。
利根川を人工的に銚子の方にもっていき、江戸の治水対策にしたのですから・・・。
古東海道
私が「1300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」というホームページを立ち上げるきっかけとなったのが、この古東海道の終点が「石岡」(常陸国府=常陸府中)であると知ったことでした。
そしてこの事を、友人たちに話すとほとんどの人は知らないのです。
やはり、あまり有名ではないのだとは思ってみるのですが、意外に興味を示す方が多いのです。
そこで、少しその話をさせていただきたいと思います。
東海道と言えばもちろん、江戸時代の東海道53次(江戸と京都間)を皆さんは思い浮かべるでしょう。
古東海道はそれよりずっと前から整備されていた七道の一つです。
スタートは伊賀上野で、伊賀、志摩、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸の各国を結んでいました。
終点常陸国の国府が現在の石岡です。
現在の東海道とある程度ダブルところもありますが、もっとも大きな違いは当時はまだ江戸はいくつも川が流れ込んでおり、湿地帯が多く歩くにも困難な土地であったことです。
そのため、鎌倉から葉山へ行き、そこから三浦半島を横断して衣笠を通って横須賀へ行き、横須賀の走水(観音岬)より千葉県の富津岬へ東京湾を舟で渡っていたのです。
このためヤマトタケルがここを渡る時に嵐に襲われ、波を静めるために后である弟橘媛が入水して波を静めた話が伝わるのです。
東京湾を舟で渡っていたため、千葉県では渡ったところが上総(かずさ)国(国府:市原市)で、その先が下総国(国府:市川市)と東京に近い方が下となるのです。
また、ヤマトタケルのこの時詠んだ歌(君さらず)から「木更津」や「君津」の地名が生まれたとされています。また弟橘媛の着物の袖が流れ着いたところが「袖ヶ浦」です。
この先は、現在の国道16号に沿って海沿いに北上し、五井駅の近くで右折し、市原市を通り、さらに北上し市川市に入ります。
市川市より北上し国府台を通って、松戸へ出ます。
ここまでは、ある程度道がわかっているのですが、この松戸から石岡までのルートがまだはっきりしていないのです。
現在の6号やその前の水戸街道とはかなり違ったルートであったことはわかっています。
江戸時代前までは利根川は現在のように銚子へ流れるのではなく、東京湾に流れており、霞ヶ浦や手賀沼などは一体の大きな内海(香取の海)でした。
従って、松戸からは東に少し行って、そこから舟で龍ケ崎へ渡り、さらに美浦村の牛込から、かすみがうら市の牛渡へ舟でまた渡り、三村の方から石岡へ向かっていたものと考えられます。
こんなルートを考えて、足を延ばしたりしていると、知らぬ間に古代からお誘いを受けたりしてしまいます。
縄文人がたくさん住んでいたところもたくさんあります(貝塚でわかります)。
皆さんも少しそんなことも考えてみませんか?
詳細は私のホームページに載せていますので見てください。→こちら
そしてこの事を、友人たちに話すとほとんどの人は知らないのです。
やはり、あまり有名ではないのだとは思ってみるのですが、意外に興味を示す方が多いのです。
そこで、少しその話をさせていただきたいと思います。
東海道と言えばもちろん、江戸時代の東海道53次(江戸と京都間)を皆さんは思い浮かべるでしょう。
古東海道はそれよりずっと前から整備されていた七道の一つです。
スタートは伊賀上野で、伊賀、志摩、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸の各国を結んでいました。
終点常陸国の国府が現在の石岡です。
現在の東海道とある程度ダブルところもありますが、もっとも大きな違いは当時はまだ江戸はいくつも川が流れ込んでおり、湿地帯が多く歩くにも困難な土地であったことです。
そのため、鎌倉から葉山へ行き、そこから三浦半島を横断して衣笠を通って横須賀へ行き、横須賀の走水(観音岬)より千葉県の富津岬へ東京湾を舟で渡っていたのです。
このためヤマトタケルがここを渡る時に嵐に襲われ、波を静めるために后である弟橘媛が入水して波を静めた話が伝わるのです。
東京湾を舟で渡っていたため、千葉県では渡ったところが上総(かずさ)国(国府:市原市)で、その先が下総国(国府:市川市)と東京に近い方が下となるのです。
また、ヤマトタケルのこの時詠んだ歌(君さらず)から「木更津」や「君津」の地名が生まれたとされています。また弟橘媛の着物の袖が流れ着いたところが「袖ヶ浦」です。
この先は、現在の国道16号に沿って海沿いに北上し、五井駅の近くで右折し、市原市を通り、さらに北上し市川市に入ります。
市川市より北上し国府台を通って、松戸へ出ます。
ここまでは、ある程度道がわかっているのですが、この松戸から石岡までのルートがまだはっきりしていないのです。
現在の6号やその前の水戸街道とはかなり違ったルートであったことはわかっています。
江戸時代前までは利根川は現在のように銚子へ流れるのではなく、東京湾に流れており、霞ヶ浦や手賀沼などは一体の大きな内海(香取の海)でした。
従って、松戸からは東に少し行って、そこから舟で龍ケ崎へ渡り、さらに美浦村の牛込から、かすみがうら市の牛渡へ舟でまた渡り、三村の方から石岡へ向かっていたものと考えられます。
こんなルートを考えて、足を延ばしたりしていると、知らぬ間に古代からお誘いを受けたりしてしまいます。
縄文人がたくさん住んでいたところもたくさんあります(貝塚でわかります)。
皆さんも少しそんなことも考えてみませんか?
詳細は私のホームページに載せていますので見てください。→こちら
古東海道官道遺跡(中津川)
私のホームページに石岡が古代東海道の終点の都市で、これが歴史を調べ始めたきっかけであったと書いたことがあります。(詳細はこちらにあります)
律令制が始まった時に各国の国府をつなぐ官道が作られました。これはかなり立派なもので、出来るだけ直線道として整備したのです。
そして16kmおきに駅家(うまや)をつくり、そこに馬を常駐させて都との連絡などに使われたのです。
しかし、これもその後延長され、ここ石岡が終点ではなく、仙台までつながるようになり、あちこちでこの官道の遺構が発見されています。
当時は東京湾を舟で渡り、千葉の市原から市川を通り松戸にでて、我孫子から東に曲、布佐から霞ケ浦を何度も渡りながらこの石岡(常陸国府中)に来たと思われます。
しかし、その後、道は何度も変わり、今の6号線に近い江戸時代の水戸街道の名残をこの古代東海道と思ってしまう人が多いようです。今ではほとんど残っていないので、探すのは容易ではありません。
また、我孫子から舟で高浜辺りまで来たり、海の水位が下がって陸地が増えてくると、現在の国道に近いルートに変わり、そこに集落ができて、大昔の道も集落も廃れてしまったようです。
今日は、6号国道の千代田石岡バイパスが現在ところどころで工事が始まっていますが、このバイパス道を作るに当たって、石岡は古代遺跡の眠るところが道路建設されることになり、数年前から遺跡の発掘調査が行なわれました。

赤い点線が今行われている6号国道のバイパス工事区間ですが、どうもバイパスと言うよりも、茨城空港へのアクセス道路の色合いが強くなっています。
これが石岡の入口恋瀬川に架かる恋瀬橋手前からもう一つ橋をかけています。
今年の正月ごろ紹介しました。(こちら)
これが、旧縄文時代からの遺跡や古墳群を貫く形となり、とても心配な場所なのです。
実際にこの道路工事に先だって、遺跡の調査が行なわれ、姥久保遺跡、田島遺跡、中津川遺蹟などが見つかっています。
中津川遺蹟で見つかった古代官道の跡と思われる遺構は、青い線で示したところですが、今の高浜街道に沿った畑の部分で187mに渡って見つかり2年前の秋に一般公開されました。
道路の幅は6mで両側に側溝があります。
どの記事を見ても石岡と高浜を結ぶ古代の道路跡となっています。

今の中津川遺蹟です。もうすぐ道路になってこの跡も無くなってしまうのでしょう。
しっかりと検証して残してほしいものです。(報告書は今年出ています。まだ読んでいません)

2009年秋に公開された頃の写真。道路は両側に側溝を持った立派なものです。側溝には人の足跡が残されており、昔の人の足跡だろうと大分関心が集まっていました。
しかし、この古代官道が思わぬ方向に出てきて、解釈を間違えているようです。
これは明らかに古代東海道の遺構だと思います。
しかし、何処を見ても、これは石岡から高浜へでて、鹿島へ向かう鹿島路の遺構ではないかと書かれたものばかりです。
私からすれば、「ヤッター」と大喜びなのですが・・・。
昔(今から1000年くらい前まで)は美浦村から対岸のかすみがうら市にわたり、そして三村の方からこの中津川(高浜)に渡ったと考えられる事象がいくつかあります。
まさにその道筋にあるのです。
でもこの道筋は途中から変わってしまい、今ではこのルートも忘れられているようです。
この古代東海道を調べることは面白そうです。
まあいい加減な解釈は良くあるので、何が信じられるのかを見極めるのは難しいですね。
多くが鎌倉街道と一緒になったり、廃れて別な道ができたりでわからなくなりました。
真っ直ぐ国府をつなぐ「大昔の高速道路」と考えればいいのでしょう。
人のいる集落などとは関係なく、出来るだけ最短に結んだようです。
しかし当時の霞ケ浦は大きな内海で、土浦方面は湿地帯として通行困難だったように思います。
この続きはまた時間があった時に検証してみたいと思います。

11月14日朝の恋瀬橋(6号国道)から筑波山を眺める。
恋瀬川には、水鳥もいて、昨日の筑波山は薄らと霞がかかっている。

この橋の筑波山の反対側は高浜方面ですが、このバイパス工事が進んでいます。青い橋がかかり、舟塚山古墳群や田島遺跡などがたくさん眠っている場所を通る計画です。
← よろしければクリックお願いします。
律令制が始まった時に各国の国府をつなぐ官道が作られました。これはかなり立派なもので、出来るだけ直線道として整備したのです。
そして16kmおきに駅家(うまや)をつくり、そこに馬を常駐させて都との連絡などに使われたのです。
しかし、これもその後延長され、ここ石岡が終点ではなく、仙台までつながるようになり、あちこちでこの官道の遺構が発見されています。
当時は東京湾を舟で渡り、千葉の市原から市川を通り松戸にでて、我孫子から東に曲、布佐から霞ケ浦を何度も渡りながらこの石岡(常陸国府中)に来たと思われます。
しかし、その後、道は何度も変わり、今の6号線に近い江戸時代の水戸街道の名残をこの古代東海道と思ってしまう人が多いようです。今ではほとんど残っていないので、探すのは容易ではありません。
また、我孫子から舟で高浜辺りまで来たり、海の水位が下がって陸地が増えてくると、現在の国道に近いルートに変わり、そこに集落ができて、大昔の道も集落も廃れてしまったようです。
今日は、6号国道の千代田石岡バイパスが現在ところどころで工事が始まっていますが、このバイパス道を作るに当たって、石岡は古代遺跡の眠るところが道路建設されることになり、数年前から遺跡の発掘調査が行なわれました。

赤い点線が今行われている6号国道のバイパス工事区間ですが、どうもバイパスと言うよりも、茨城空港へのアクセス道路の色合いが強くなっています。
これが石岡の入口恋瀬川に架かる恋瀬橋手前からもう一つ橋をかけています。
今年の正月ごろ紹介しました。(こちら)
これが、旧縄文時代からの遺跡や古墳群を貫く形となり、とても心配な場所なのです。
実際にこの道路工事に先だって、遺跡の調査が行なわれ、姥久保遺跡、田島遺跡、中津川遺蹟などが見つかっています。
中津川遺蹟で見つかった古代官道の跡と思われる遺構は、青い線で示したところですが、今の高浜街道に沿った畑の部分で187mに渡って見つかり2年前の秋に一般公開されました。
道路の幅は6mで両側に側溝があります。
どの記事を見ても石岡と高浜を結ぶ古代の道路跡となっています。

今の中津川遺蹟です。もうすぐ道路になってこの跡も無くなってしまうのでしょう。
しっかりと検証して残してほしいものです。(報告書は今年出ています。まだ読んでいません)

2009年秋に公開された頃の写真。道路は両側に側溝を持った立派なものです。側溝には人の足跡が残されており、昔の人の足跡だろうと大分関心が集まっていました。
しかし、この古代官道が思わぬ方向に出てきて、解釈を間違えているようです。
これは明らかに古代東海道の遺構だと思います。
しかし、何処を見ても、これは石岡から高浜へでて、鹿島へ向かう鹿島路の遺構ではないかと書かれたものばかりです。
私からすれば、「ヤッター」と大喜びなのですが・・・。
昔(今から1000年くらい前まで)は美浦村から対岸のかすみがうら市にわたり、そして三村の方からこの中津川(高浜)に渡ったと考えられる事象がいくつかあります。
まさにその道筋にあるのです。
でもこの道筋は途中から変わってしまい、今ではこのルートも忘れられているようです。
この古代東海道を調べることは面白そうです。
まあいい加減な解釈は良くあるので、何が信じられるのかを見極めるのは難しいですね。
多くが鎌倉街道と一緒になったり、廃れて別な道ができたりでわからなくなりました。
真っ直ぐ国府をつなぐ「大昔の高速道路」と考えればいいのでしょう。
人のいる集落などとは関係なく、出来るだけ最短に結んだようです。
しかし当時の霞ケ浦は大きな内海で、土浦方面は湿地帯として通行困難だったように思います。
この続きはまた時間があった時に検証してみたいと思います。

11月14日朝の恋瀬橋(6号国道)から筑波山を眺める。
恋瀬川には、水鳥もいて、昨日の筑波山は薄らと霞がかかっている。

この橋の筑波山の反対側は高浜方面ですが、このバイパス工事が進んでいます。青い橋がかかり、舟塚山古墳群や田島遺跡などがたくさん眠っている場所を通る計画です。


霞ケ浦を渡る牛
かすみがうら市牛渡(うしわた)の地名の由来はここに牛が泳ぎついたという伝説が伝わっているのです。
これがとても興味深いのです。
前に、古東海道がここを船で渡っていたのではないかと書いたことがあります。(こちら)
そのことを示す言い伝えとして残されている「牛塚古墳」を紹介します。

霞ケ浦の湖側に近いところを走る道路に沿って土浦側から牛渡に向かう途中にこじんまりした丸い塚がある。
これが「牛塚古墳です」
塚には松の木と小さなお宮さん(中に石の観音様が安置)が置かれています。
その場に書かれた説明板の内容を下記します。
「霞ケ浦沿岸の低地、房中(ぼうじゅう)集落の西に位置し、市内で最も低いところにある古墳で、形は円墳です。常陸国府に下向途中、この地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力つきてこの地で亡くなり、土地の人々がこれに感動して塚をつくり牛塚と名付けたという伝説があります。五世紀に築いたものと推定されています。 かすみがうら市教育委員会」
多くの方が、この事を単なる物語ととらえているようですが、まさかこんなところに古東海道の道(船道)があったとは考えないようです。
律令制の始まる前からある道で、奈良時代になり律令制の施行された時に各国府を結ぶ官道を整備したのですが、これは10世紀には良くわからなく廃れてしまったのです。
源氏物語が書かれたのは1001年?頃で、ここに常陸介が何回も登場します。
空蝉の夫は常陸介ですよね。
常陸介が常陸国国府(現石岡)にいくのには牛車でゆっくりと進みます。
この頃の道は舗装もされていませんのでスピードは出ません。
なぜ、馬でないのか?などと言う人もいますが、当時の馬は数も少なく、とても小さかったようです。
また去勢などの処置もされていませんので、とても扱い辛かったようです。
都からこのような遠い国にいくのも馬車ではなく牛車で優雅に進んだのです。
(それにしても、選ばれて下向するのは大変だったでしょうね。そのうち時代が経つと役職も名目だけで、実際には下向しなくなってしまうのです。)
ここの古墳に書かれている話は勅使がこの地で亡くなり、慕って後を追ってきた牛が力つきたとなっていますが、話は2つあります。
1)対岸の美浦村(牛込)より勅使は船に牛も載せて牛渡地区の沖合で船を止め、この地の神社(鹿島神社?)にお参りするために勅使が小舟に乗り換え上陸しますが、牛が後を追って湖に飛び込んでしまった。
2)牛は牛込に残して勅使が船で国府に向かった。しかし、残された牛が後を追いかけて湖を渡った。
どちらかかよくわかりませんが、このような話が残っていることはとても興味深いのです。
石岡の三村地区に「鷲塚」「鰻塚」という塚が昔あったそうです(この塚は埋め立てに削られてしまったようです)。室町時代末期に三村城主常春が滅ぼされた時に伝わる「鷲と鰻の大決闘」の話などとどことなくつながっているのかもしれません。
こちらの鷲塚・鰻塚も5世紀頃の古墳で人骨と石館が出てきたそうなので、古墳が先で、話は後からついたものかもしれません。
ただこんなことを考えるのも面白いと思っています。今年もこの道を追いかけることになるのか??
← よろしければクリックお願いします。
これがとても興味深いのです。
前に、古東海道がここを船で渡っていたのではないかと書いたことがあります。(こちら)
そのことを示す言い伝えとして残されている「牛塚古墳」を紹介します。

霞ケ浦の湖側に近いところを走る道路に沿って土浦側から牛渡に向かう途中にこじんまりした丸い塚がある。
これが「牛塚古墳です」
塚には松の木と小さなお宮さん(中に石の観音様が安置)が置かれています。
その場に書かれた説明板の内容を下記します。
「霞ケ浦沿岸の低地、房中(ぼうじゅう)集落の西に位置し、市内で最も低いところにある古墳で、形は円墳です。常陸国府に下向途中、この地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力つきてこの地で亡くなり、土地の人々がこれに感動して塚をつくり牛塚と名付けたという伝説があります。五世紀に築いたものと推定されています。 かすみがうら市教育委員会」
多くの方が、この事を単なる物語ととらえているようですが、まさかこんなところに古東海道の道(船道)があったとは考えないようです。
律令制の始まる前からある道で、奈良時代になり律令制の施行された時に各国府を結ぶ官道を整備したのですが、これは10世紀には良くわからなく廃れてしまったのです。
源氏物語が書かれたのは1001年?頃で、ここに常陸介が何回も登場します。
空蝉の夫は常陸介ですよね。
常陸介が常陸国国府(現石岡)にいくのには牛車でゆっくりと進みます。
この頃の道は舗装もされていませんのでスピードは出ません。
なぜ、馬でないのか?などと言う人もいますが、当時の馬は数も少なく、とても小さかったようです。
また去勢などの処置もされていませんので、とても扱い辛かったようです。
都からこのような遠い国にいくのも馬車ではなく牛車で優雅に進んだのです。
(それにしても、選ばれて下向するのは大変だったでしょうね。そのうち時代が経つと役職も名目だけで、実際には下向しなくなってしまうのです。)
ここの古墳に書かれている話は勅使がこの地で亡くなり、慕って後を追ってきた牛が力つきたとなっていますが、話は2つあります。
1)対岸の美浦村(牛込)より勅使は船に牛も載せて牛渡地区の沖合で船を止め、この地の神社(鹿島神社?)にお参りするために勅使が小舟に乗り換え上陸しますが、牛が後を追って湖に飛び込んでしまった。
2)牛は牛込に残して勅使が船で国府に向かった。しかし、残された牛が後を追いかけて湖を渡った。
どちらかかよくわかりませんが、このような話が残っていることはとても興味深いのです。
石岡の三村地区に「鷲塚」「鰻塚」という塚が昔あったそうです(この塚は埋め立てに削られてしまったようです)。室町時代末期に三村城主常春が滅ぼされた時に伝わる「鷲と鰻の大決闘」の話などとどことなくつながっているのかもしれません。
こちらの鷲塚・鰻塚も5世紀頃の古墳で人骨と石館が出てきたそうなので、古墳が先で、話は後からついたものかもしれません。
ただこんなことを考えるのも面白いと思っています。今年もこの道を追いかけることになるのか??


縄文海進
律令制の始まった頃から全国的に七つの官道が整備されました。
これは主に各地と都との連絡や租庸調の徴収などのために必要とされたようです。
大化の改新(646年)以降、畿内から東には三つの官道が整備されました。
その道は各国の国府を繋いでいたのです。奈良時代初頭にはかなり整備されていたと思われます。
海寄りを進むのが東の海道で東海道(中路)
本州の真中を走る東の山道で東山道(中路)
日本海側を越後(または佐渡)まで行く北陸道(小路)
東山道は陸奥国国府(多賀城市)まで続き、東海道は常陸国国府(石岡市)まで続いていました。
そして16km毎に駅家(うまや)をおいてそこに馬(中路は10疋、小路は5疋)を置き、各国府との連絡に馬で乗り継いで連絡する仕組みができていたようです。
中路となった東海道、東山道は幅員が6~12m位あったようです。
東京の所属する武蔵国は771年に東山道の国から東海道の国に編入されたのです。
これは東京湾の下町から埼玉南部にかけて大きな湿原が存在しており、最初の頃には東海道も武蔵国は通らずに東京湾を船で渡っていました。
また東山道も武蔵国国府(東京都府中市)を通ると全くの時間ロスになっていたといいます。
このため、武蔵国は東海道に組みかえられたというわけです。
また甲斐国(国府:笛吹市)も東海道に組み込まれていますが、箱根を越えて山中湖~河口湖を経由して峠越えで行きますので武蔵国を通らなくても良かったのでしょう。
この武蔵国が東海道に組み込まれてから色々なルートができてきたように思います。
武蔵府中から松戸などとがつながるルートも出来てきたのではないかと思います。
しかし、10世紀から11世紀には廃れてしまい、幾つもの生活道路が出来て、鎌倉時代に鎌倉街道と呼ばれる各地の道とダブってきてしまったようです。
しかしこの古代の官道のルートを理解する上で、この縄文海進を少し理解しておいた方が良いと思います。
あまりにも現在と地形の様子が違ってくるからです。
今から6千年ほど前が海面上昇のピークと言われていますが、今よりも海面がかなり高い時代があったのです。
これは地域によっても違うし、その後の土砂の蓄積などで地面が高くなったところもあり明らかにはなっていません。
各地に残された貝塚などの分布を基に今より6~7mくらい高かったという説と、2~3mくらい高いという考え方があるようです、
しかし、この数mの海面の上昇がもっとも大きく地形を変えている場所がここの霞ケ浦周辺だと思います。

(日経BP社の海進シュミュレーションより)
これは海面が5m高かった場合の地図ですが、霞ケ浦はとても大きな内海でした。
この呼び名も各地名をとって○○の流海(ながれうみ)、香取海(かとりのうみ)など様々です。
そして、東海道も常陸国府(石岡)には東京湾を渡った後に川を下り、何度もこの流海を渡ってきたようです。
湿地帯や山岳地帯を歩くよりも意外にこちらの方が楽だったのかもしれません。
← よろしければクリックお願いします。
これは主に各地と都との連絡や租庸調の徴収などのために必要とされたようです。
大化の改新(646年)以降、畿内から東には三つの官道が整備されました。
その道は各国の国府を繋いでいたのです。奈良時代初頭にはかなり整備されていたと思われます。
海寄りを進むのが東の海道で東海道(中路)
本州の真中を走る東の山道で東山道(中路)
日本海側を越後(または佐渡)まで行く北陸道(小路)
東山道は陸奥国国府(多賀城市)まで続き、東海道は常陸国国府(石岡市)まで続いていました。
そして16km毎に駅家(うまや)をおいてそこに馬(中路は10疋、小路は5疋)を置き、各国府との連絡に馬で乗り継いで連絡する仕組みができていたようです。
中路となった東海道、東山道は幅員が6~12m位あったようです。
東京の所属する武蔵国は771年に東山道の国から東海道の国に編入されたのです。
これは東京湾の下町から埼玉南部にかけて大きな湿原が存在しており、最初の頃には東海道も武蔵国は通らずに東京湾を船で渡っていました。
また東山道も武蔵国国府(東京都府中市)を通ると全くの時間ロスになっていたといいます。
このため、武蔵国は東海道に組みかえられたというわけです。
また甲斐国(国府:笛吹市)も東海道に組み込まれていますが、箱根を越えて山中湖~河口湖を経由して峠越えで行きますので武蔵国を通らなくても良かったのでしょう。
この武蔵国が東海道に組み込まれてから色々なルートができてきたように思います。
武蔵府中から松戸などとがつながるルートも出来てきたのではないかと思います。
しかし、10世紀から11世紀には廃れてしまい、幾つもの生活道路が出来て、鎌倉時代に鎌倉街道と呼ばれる各地の道とダブってきてしまったようです。
しかしこの古代の官道のルートを理解する上で、この縄文海進を少し理解しておいた方が良いと思います。
あまりにも現在と地形の様子が違ってくるからです。
今から6千年ほど前が海面上昇のピークと言われていますが、今よりも海面がかなり高い時代があったのです。
これは地域によっても違うし、その後の土砂の蓄積などで地面が高くなったところもあり明らかにはなっていません。
各地に残された貝塚などの分布を基に今より6~7mくらい高かったという説と、2~3mくらい高いという考え方があるようです、
しかし、この数mの海面の上昇がもっとも大きく地形を変えている場所がここの霞ケ浦周辺だと思います。

(日経BP社の海進シュミュレーションより)
これは海面が5m高かった場合の地図ですが、霞ケ浦はとても大きな内海でした。
この呼び名も各地名をとって○○の流海(ながれうみ)、香取海(かとりのうみ)など様々です。
そして、東海道も常陸国府(石岡)には東京湾を渡った後に川を下り、何度もこの流海を渡ってきたようです。
湿地帯や山岳地帯を歩くよりも意外にこちらの方が楽だったのかもしれません。


古東海道と富士山噴火
今年の箱根駅伝は東洋大の圧勝でした。それにしても柏原選手の山登りはすごかったですね。
もう30年以上も前ですが、箱根のホテル小湧園に正月泊まったことがあり、その時目の前の坂をものすごいスピードで下っていく駅伝選手をホテル前で見ていたことがあります。
あの坂ですから普通だったら恐くてスピードなど出ませんね。登りも普通の駅伝とはあまりにも違います。
昔の江戸時代の東海道は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」などと言われておりますが、やはり東海道では難所の一つでしょう。
この箱根路は塔の沢-宮野下を通る道ですが、江戸時代の東海道は箱根湯本からもう少し南側の現在の箱根新道に沿った旧道でした。
箱根の関所近くには、お玉が処刑されたという「お玉ヶ池」などがあります。
(箱根湯本~箱根峠間:13.2km、標高差最大:771m)
一般には江戸時代の東海道を旧東海道と言っていますので、この東海道五十三次の道しか思いつきませんね。
しかし今の1号国道(東海道)側もまた、曾我兄弟(鎌倉初期)の墓などがある富士山麓を通っていますので、こちらも部分的には使われてはいたのだと思います。
私が興味を持っているのはその前の東海道で、古東海道ですからこの道ではないのです。
ヤマトタケルも源義家(八幡太郎)も源義光(新羅三郎)も足柄峠を通っています。
この足柄峠に多くの物語が残されて伝わっています。
その道は沼津から今の御殿場線に沿って御殿場に北上してそこから足柄峠を越えて小田原に下る道です。
足柄峠から見る富士は絶景だといいます。
(参考写真 → こちら :ウィキメディア・コモンズ)

さて、古東海道がこの足柄峠を越えていたのは確かでしょうが、過去に富士山が大噴火をしてこの峠が通れなくなった記録が残されているといいます。
1万年以上前の話は置いておくにして、3000年ほど前から富士山の火山としては何度も爆発的な噴火を起こしているようですが、大和朝廷の成立後の記録に残っているものとしては
800~802年:延歴大噴火・・・これにより足柄峠越えが一時閉鎖され箱根峠越えの道が使われた。しかしこの足柄峠の道は復旧されて復活。
864~866年:貞観(じょうがん)大噴火・・・これにより青木ヶ原が形成され、富士北麓にあった「剗の海(せのうみ)」が埋まって、その一部が精進湖、西湖になった。
(この貞観大噴火は貞観地震の5年前です)
その後も何度も噴火を繰り返しています。937年(承平噴火)、1033年、1083年、1435年、1511年、・・・
最近の大きな噴火は江戸時代で1707年の宝永大噴火です。
この時は富士の中間部が大きく崩落し、江戸市街に大量の火山灰が降ってきたといわれています。
延歴大噴火で足柄峠が通れなくなったようですが、それでもこの道が復活してからはまだこちらがメインの通りとなっていたようです。
足柄峠にまつわるお話を一つ紹介します。
足柄峠笛祭りのお話:
群雄割拠の時代にあって新羅三郎義光は風流な笙(しょう)の名人といわれ、笙は豊原時元に学びました。
時元は並び無き笙の名人でありましたが、一子時秋がまだ幼少のため、家伝の秘曲を新羅三郎義光に授けました。
その後、三郎義光は奥州で苦戦(後三年役)していた兄八幡太郎義家を助けるために京を立って奥州へ向かいます。(1087年)
まだ若き時元の子時秋は、義光の戦死による秘伝の秘曲が永遠に伝わらなくなることを恐れ、義光の後を追いかけ、足柄山でついに追いつきます。
この時義光はその志を察して、時元より伝えられた秘曲・大食調とハ長曲の二曲を中秋朧月夜の元で時秋に授けるのです。
この時の笙の音色を、無念無想ただ嫋嫋(じょうじょう)と表現されています。新羅三郎義光はこの時、時秋に「我は武のため、貴殿はこの道のため」と諭し、笛の秘曲の奥義を伝えたとされています。
この故事にちなみ毎年9月の第2日曜日に足柄峠笛まつりが開かれています。
さて、この新羅三郎(源義光)は常陸介となり常陸国にやってきます。そして常陸平氏との関係も結んでその子孫として「佐竹氏」「甲斐武田氏」を生むことになります。
まあもっとも、前九年の役(陸奥征伐)にやってきたときの中心人物は八幡太郎・新羅三郎の父源頼義は常陸平致幹の娘と一夜を共にして娘が生まれています。
(この時の源頼義は63歳を越えていますので、昔でもこんな盛んな人もいたのですね。87歳で亡くなっています)
後で常陸大掾(だいじょう)氏を継ぐことになる吉田氏の娘が、出羽清原氏の家督を継いだ海道平氏出身の成衡の妻となり、この婚姻が後三年の役の原因となったようです。
また常陸平氏系の吉田氏の祖、平(吉田)清幹の娘が、この新羅三郎の長男の妻となっています。
まったく何処がどうなっているのかこんがらがってきますね。
まあ誰と誰が結婚してといっても、昔は政略的な婚姻が多かったでしょうからあまり考えて見てもわからなくなるだけですね。
← よろしければクリックお願いします。
もう30年以上も前ですが、箱根のホテル小湧園に正月泊まったことがあり、その時目の前の坂をものすごいスピードで下っていく駅伝選手をホテル前で見ていたことがあります。
あの坂ですから普通だったら恐くてスピードなど出ませんね。登りも普通の駅伝とはあまりにも違います。
昔の江戸時代の東海道は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」などと言われておりますが、やはり東海道では難所の一つでしょう。
この箱根路は塔の沢-宮野下を通る道ですが、江戸時代の東海道は箱根湯本からもう少し南側の現在の箱根新道に沿った旧道でした。
箱根の関所近くには、お玉が処刑されたという「お玉ヶ池」などがあります。
(箱根湯本~箱根峠間:13.2km、標高差最大:771m)
一般には江戸時代の東海道を旧東海道と言っていますので、この東海道五十三次の道しか思いつきませんね。
しかし今の1号国道(東海道)側もまた、曾我兄弟(鎌倉初期)の墓などがある富士山麓を通っていますので、こちらも部分的には使われてはいたのだと思います。
私が興味を持っているのはその前の東海道で、古東海道ですからこの道ではないのです。
ヤマトタケルも源義家(八幡太郎)も源義光(新羅三郎)も足柄峠を通っています。
この足柄峠に多くの物語が残されて伝わっています。
その道は沼津から今の御殿場線に沿って御殿場に北上してそこから足柄峠を越えて小田原に下る道です。
足柄峠から見る富士は絶景だといいます。
(参考写真 → こちら :ウィキメディア・コモンズ)

さて、古東海道がこの足柄峠を越えていたのは確かでしょうが、過去に富士山が大噴火をしてこの峠が通れなくなった記録が残されているといいます。
1万年以上前の話は置いておくにして、3000年ほど前から富士山の火山としては何度も爆発的な噴火を起こしているようですが、大和朝廷の成立後の記録に残っているものとしては
800~802年:延歴大噴火・・・これにより足柄峠越えが一時閉鎖され箱根峠越えの道が使われた。しかしこの足柄峠の道は復旧されて復活。
864~866年:貞観(じょうがん)大噴火・・・これにより青木ヶ原が形成され、富士北麓にあった「剗の海(せのうみ)」が埋まって、その一部が精進湖、西湖になった。
(この貞観大噴火は貞観地震の5年前です)
その後も何度も噴火を繰り返しています。937年(承平噴火)、1033年、1083年、1435年、1511年、・・・
最近の大きな噴火は江戸時代で1707年の宝永大噴火です。
この時は富士の中間部が大きく崩落し、江戸市街に大量の火山灰が降ってきたといわれています。
延歴大噴火で足柄峠が通れなくなったようですが、それでもこの道が復活してからはまだこちらがメインの通りとなっていたようです。
足柄峠にまつわるお話を一つ紹介します。
足柄峠笛祭りのお話:
群雄割拠の時代にあって新羅三郎義光は風流な笙(しょう)の名人といわれ、笙は豊原時元に学びました。
時元は並び無き笙の名人でありましたが、一子時秋がまだ幼少のため、家伝の秘曲を新羅三郎義光に授けました。
その後、三郎義光は奥州で苦戦(後三年役)していた兄八幡太郎義家を助けるために京を立って奥州へ向かいます。(1087年)
まだ若き時元の子時秋は、義光の戦死による秘伝の秘曲が永遠に伝わらなくなることを恐れ、義光の後を追いかけ、足柄山でついに追いつきます。
この時義光はその志を察して、時元より伝えられた秘曲・大食調とハ長曲の二曲を中秋朧月夜の元で時秋に授けるのです。
この時の笙の音色を、無念無想ただ嫋嫋(じょうじょう)と表現されています。新羅三郎義光はこの時、時秋に「我は武のため、貴殿はこの道のため」と諭し、笛の秘曲の奥義を伝えたとされています。
この故事にちなみ毎年9月の第2日曜日に足柄峠笛まつりが開かれています。
さて、この新羅三郎(源義光)は常陸介となり常陸国にやってきます。そして常陸平氏との関係も結んでその子孫として「佐竹氏」「甲斐武田氏」を生むことになります。
まあもっとも、前九年の役(陸奥征伐)にやってきたときの中心人物は八幡太郎・新羅三郎の父源頼義は常陸平致幹の娘と一夜を共にして娘が生まれています。
(この時の源頼義は63歳を越えていますので、昔でもこんな盛んな人もいたのですね。87歳で亡くなっています)
後で常陸大掾(だいじょう)氏を継ぐことになる吉田氏の娘が、出羽清原氏の家督を継いだ海道平氏出身の成衡の妻となり、この婚姻が後三年の役の原因となったようです。
また常陸平氏系の吉田氏の祖、平(吉田)清幹の娘が、この新羅三郎の長男の妻となっています。
まったく何処がどうなっているのかこんがらがってきますね。
まあ誰と誰が結婚してといっても、昔は政略的な婚姻が多かったでしょうからあまり考えて見てもわからなくなるだけですね。


古東海道(1)
今日は青空が広がり久しぶりに気持ちの良い日となった。
梅の花もあちらこちらで急にほころび始め、今週末には満開を迎えそうだ。
そうなると一気に春が訪れるのだが、花粉も飛び始めるのだけはどうにもいただけない。
せっかく見て下さいとばかりに花も咲き始めるのに、外を散策するのが億劫になってしまう。
困ったな。
さて話は変わって、私の住む茨城県石岡市は常陸国の国府があった地である。
そのために、江戸時代になる前までは長年にわたって大国常陸の中心都市として栄えてきました。
しかし、現在はその栄華も単なる自己満足の呪文のように唱えるだけで、他所の人から見れば「何か変なたわごとをつぶやいている」というくらいにしか映らないでしょう。
私もこの土地に来るまで、歴史的なものに特に興味もなく、長い間隣り町に住んでいたのですが、ほとんど興味もなく、内容も全く知りませんでした。
そしてこの地に越してきてはじめて「平氏発祥の地」「茨城の県名発祥の地」などということも聞いたのです。
隣り町にいても、祭り好きが多く、馬鹿騒ぎするお祭りがあることくらいしか話は聞こえてこなかったのです。
まあここで聞いたといっても、特に印象に残るものではなく、「この町に生まれ育った人には大切なものかもしれませんがそれ程大した話ではないよね」程度です。
そして引っ越してきて1年程過ぎてから、この石岡は古東海道の終点都市だと何かで読んでから興味を持ったのです。
まして「大掾(だいじょう)氏」などといわれても、そんな名前聞いたこともないし、ましてこんな漢字は読めませんでした。
どんな活躍した戦国武将なの?と調べて見ても、茨城で活躍したのは「佐竹氏」くらいしか名前も出てきません。
何故なのでしょうか? この土地の歴史は何時消えて眠ってしまったのでしょうか。
歴史はそこに住む人たちが継続して伝え語り、遺跡を保護し、庶民の中にいくつもの伝承された話が伝わりながら作られていくものではないでしょうか。
現在NHKでは平清盛が放送されています。石岡では平家発祥の地としてこの放送に期待する声があります。
しかし、平清盛は伊勢平氏であり、その先祖をたどると平国香(くにか)や高望王になるわけですが、この人達がここ石岡に住んで活躍していたと信じられています。
この石岡は国府があったので、お役所があった場所です。
平国香の館は「石田館」と呼ばれ、旧明野(あけの)町にありました。
墓も明野(筑西市東池田)にあります。
しかし石岡の平福寺にある五輪塔の一つが国香だと石岡の人は言っています。
もっともこの頃の人は墓もはっきりしないことが多いですね。
国香が平将門に攻められて死んだのは西暦935年ですので、はるか遠い昔です。
でも色々な資料や意見を聞いて、読んでどちらが本当らしいのかとか、それがどんな意味を持っているのかなども理解していく必要があるように思います。
山岡鉄舟が臨終のときに奥様に書いて渡したという司馬温公の家訓があります。
「金(こがね)を積み もって子孫に残す 子孫未だ必ずしも守らず
書を積みもって子孫に残す 子孫未だ必ずしも読まず
しかず陰徳を冥々のうちに積み もって子孫長久の計となさんには
これ先哲の格言にして すなわち後人の亀鑑なり 」
過去の遺産の上にあぐらをかいていても、財産を譲られた放蕩息子がその財産を使い果たせば何も残りません。
「陰徳」とは人のために陰ひなた関係なく良いことをなすことだと思います。
何かをやってあげた、ましてや見返りを望んで何かをするなどと言うのは陰徳ではありません。
陰徳を積めば、子孫が困った時にもまわりの人もよろこんで手を貸してくれる。これが子孫繁栄の基になるのだといいます。
私もこれからは色々な人のためになることを骨身を惜しまずに出来る人になりたいと思っています。
しかし、まだまだ生活もしなければならないし、物欲もありますので、これを実践するのは難しいです。
山岡鉄舟は貧乏を苦としていなかったようです。勝海舟に頼まれて徳川慶喜の家来として駿府に到着した西郷隆盛に会いに出かけた時には自分の刀はなく、人から借りていったとも聞いています。
でも、ここ石岡は地元発展だけを望んでもどうにもならないように思います。
まわりの市町村とも連携して、ともに発展することが大切だと思います。
まして旧市内と八郷地区など意識がまだ離れているようではだめですね。
私がこの地の歴史に興味を抱いたきっかけとなった「古東海道の終点都市=茨城県石岡市」の魅力をこの街道を調べながらわかる範囲を少しずつ書いていきたいと思います。
では次回から週に1回ずつ程度で5~6回位に分けて述べたいと思いますが、まだあまり知られていないし、こちらもわかっていませんのでさわりだけを書きたいと思います。

1月中旬に石岡のイベント広場横にコンビニが出来ました。
ここは赤レンガ特集で載せたところ(こちら)ですが、今回地震で塀も一部崩れ、一部の建物も取り壊してコンビニができました。

この敷地内にあった欅の古木が2本コンビニの駐車場の中に残され、天に向かって枝がのびています。

このコンビニは比較的近いので利用もします。開店前にはチラシを持って家にも来られました。
しかし、この欅の存在は他の方のブログで知りました。
笠間市の飯田で「青葉農園」をされている「ようこそ里山へ 茨城笠間・青葉って永遠」さんです。
情報ありがとうございました。こちらにも載せさせていただきました。
(このブログもリンクさせていただいています)
石岡市内にあるスーパー「タイヨー」さんにも大きな欅の木が残されています。
是非大切に残していきたいですね。
← よろしければクリックお願いします。
梅の花もあちらこちらで急にほころび始め、今週末には満開を迎えそうだ。
そうなると一気に春が訪れるのだが、花粉も飛び始めるのだけはどうにもいただけない。
せっかく見て下さいとばかりに花も咲き始めるのに、外を散策するのが億劫になってしまう。
困ったな。
さて話は変わって、私の住む茨城県石岡市は常陸国の国府があった地である。
そのために、江戸時代になる前までは長年にわたって大国常陸の中心都市として栄えてきました。
しかし、現在はその栄華も単なる自己満足の呪文のように唱えるだけで、他所の人から見れば「何か変なたわごとをつぶやいている」というくらいにしか映らないでしょう。
私もこの土地に来るまで、歴史的なものに特に興味もなく、長い間隣り町に住んでいたのですが、ほとんど興味もなく、内容も全く知りませんでした。
そしてこの地に越してきてはじめて「平氏発祥の地」「茨城の県名発祥の地」などということも聞いたのです。
隣り町にいても、祭り好きが多く、馬鹿騒ぎするお祭りがあることくらいしか話は聞こえてこなかったのです。
まあここで聞いたといっても、特に印象に残るものではなく、「この町に生まれ育った人には大切なものかもしれませんがそれ程大した話ではないよね」程度です。
そして引っ越してきて1年程過ぎてから、この石岡は古東海道の終点都市だと何かで読んでから興味を持ったのです。
まして「大掾(だいじょう)氏」などといわれても、そんな名前聞いたこともないし、ましてこんな漢字は読めませんでした。
どんな活躍した戦国武将なの?と調べて見ても、茨城で活躍したのは「佐竹氏」くらいしか名前も出てきません。
何故なのでしょうか? この土地の歴史は何時消えて眠ってしまったのでしょうか。
歴史はそこに住む人たちが継続して伝え語り、遺跡を保護し、庶民の中にいくつもの伝承された話が伝わりながら作られていくものではないでしょうか。
現在NHKでは平清盛が放送されています。石岡では平家発祥の地としてこの放送に期待する声があります。
しかし、平清盛は伊勢平氏であり、その先祖をたどると平国香(くにか)や高望王になるわけですが、この人達がここ石岡に住んで活躍していたと信じられています。
この石岡は国府があったので、お役所があった場所です。
平国香の館は「石田館」と呼ばれ、旧明野(あけの)町にありました。
墓も明野(筑西市東池田)にあります。
しかし石岡の平福寺にある五輪塔の一つが国香だと石岡の人は言っています。
もっともこの頃の人は墓もはっきりしないことが多いですね。
国香が平将門に攻められて死んだのは西暦935年ですので、はるか遠い昔です。
でも色々な資料や意見を聞いて、読んでどちらが本当らしいのかとか、それがどんな意味を持っているのかなども理解していく必要があるように思います。
山岡鉄舟が臨終のときに奥様に書いて渡したという司馬温公の家訓があります。
「金(こがね)を積み もって子孫に残す 子孫未だ必ずしも守らず
書を積みもって子孫に残す 子孫未だ必ずしも読まず
しかず陰徳を冥々のうちに積み もって子孫長久の計となさんには
これ先哲の格言にして すなわち後人の亀鑑なり 」
過去の遺産の上にあぐらをかいていても、財産を譲られた放蕩息子がその財産を使い果たせば何も残りません。
「陰徳」とは人のために陰ひなた関係なく良いことをなすことだと思います。
何かをやってあげた、ましてや見返りを望んで何かをするなどと言うのは陰徳ではありません。
陰徳を積めば、子孫が困った時にもまわりの人もよろこんで手を貸してくれる。これが子孫繁栄の基になるのだといいます。
私もこれからは色々な人のためになることを骨身を惜しまずに出来る人になりたいと思っています。
しかし、まだまだ生活もしなければならないし、物欲もありますので、これを実践するのは難しいです。
山岡鉄舟は貧乏を苦としていなかったようです。勝海舟に頼まれて徳川慶喜の家来として駿府に到着した西郷隆盛に会いに出かけた時には自分の刀はなく、人から借りていったとも聞いています。
でも、ここ石岡は地元発展だけを望んでもどうにもならないように思います。
まわりの市町村とも連携して、ともに発展することが大切だと思います。
まして旧市内と八郷地区など意識がまだ離れているようではだめですね。
私がこの地の歴史に興味を抱いたきっかけとなった「古東海道の終点都市=茨城県石岡市」の魅力をこの街道を調べながらわかる範囲を少しずつ書いていきたいと思います。
では次回から週に1回ずつ程度で5~6回位に分けて述べたいと思いますが、まだあまり知られていないし、こちらもわかっていませんのでさわりだけを書きたいと思います。

1月中旬に石岡のイベント広場横にコンビニが出来ました。
ここは赤レンガ特集で載せたところ(こちら)ですが、今回地震で塀も一部崩れ、一部の建物も取り壊してコンビニができました。

この敷地内にあった欅の古木が2本コンビニの駐車場の中に残され、天に向かって枝がのびています。

このコンビニは比較的近いので利用もします。開店前にはチラシを持って家にも来られました。
しかし、この欅の存在は他の方のブログで知りました。
笠間市の飯田で「青葉農園」をされている「ようこそ里山へ 茨城笠間・青葉って永遠」さんです。
情報ありがとうございました。こちらにも載せさせていただきました。
(このブログもリンクさせていただいています)
石岡市内にあるスーパー「タイヨー」さんにも大きな欅の木が残されています。
是非大切に残していきたいですね。


安居千日堂
少し昔の子供の頃の話が続きましたので、このブログの元のネタに戻ります。
本当は古東海道のネタを書いていきたいのだけれど、その前に少し他の記事を混ぜながら進めたいと思っています。
今日は笠間市安居にある「千日堂」を紹介します。
何故このお堂を取り上げるのかと言うと、私が書こうとしている古東海道にこの辺りの土地が関係しているのです。
「安居」は「あご」と読みます。
私のいる石岡が常陸国の国府があった土地で、常陸国は律令制の敷かれた時代に東海道に属する国の最北(最東)の国になりますので、その時代に作られたといわれる古東海道は各国の国府を最短距離で結ぶように作られていたようですので、その終点は国府「石岡」と考えられます。
しかし、それからしばらくしてから(900年代前半)書かれた「延喜式」には16km置きに馬を常駐させていた場所(中継場所)駅家(うまや)の名前が載っているのですが、石岡が終点ではなく、常陸府中(石岡)の次の駅家が「安居(安侯)駅」で水戸の「河内駅」へ続いていたのです。
そしてそこから海岸線沿いの道と美和や鷲子などの方を通る道に分かれ、「東山道」と合流して仙台の先の多賀城まで続いていたのでしょう。
それを証拠つけるのは石岡からこの安居へ向かう途中に「五万堀」という土地がありますが(小美玉市)、ここで古代官道の跡が見つかっています。
この五万堀や納場、また近くにある「泥障塚古墳」などの名前は源義家が奥州征伐の時に通った道であることを示しているようです。そんなことを考えていくのも楽しそうです。
今日はそんなことを考えながらこの千日堂を見て見ましょう。
石岡から県道52号線(石塚街道)を進むと、前に白鳥などを紹介した「池花池」(こちら)があります。
その池の西北側が五万堀地区になります。
そのまま街道を進むと納場、安居、下安居となります。

恐らく昔の駅家(うまや)は涸沼川の手前のこの地区近くではないかと漠然と考えています。
何も調べていないのでわかりません。
それにしてもバスは走っているようですが、1日に何本もありません。

千日堂への入口はこの街道の十字路の信号のところにあります。なかなか形のいいお堂です。

お堂の入口わきに「市指定文化財 安居灯籠念仏」の石碑が建てられています。
笠間市のHPより説明文をそのまま掲載させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「新仏の往生安楽を祈って行われる古くから伝わる盆行事である。記録によれば寛文年間(1661~1673)より千日堂前庭で念仏供養を行い、近郷53か村1200戸の念仏道場として盛んであったという。
戦後中断されていたが、昭和50年に念仏講並びに地区内の有志の方々(念仏講の法眼様と地区の中老様)の依頼により、青年会が中心となって保存会が結成され再開されて今日に至っている。
笛と太鼓、鼓の奏でる音曲に合わせて新仏の年齢や地位に応じた讃が唱えられる。
また、讃の前後には「南無阿弥陀仏」が唱えられるという特徴がある。
かつては13日に菩提寺の妙行院で「笠ぞろい」をして、讃歌と新仏迎えの念仏が唱えられた。
15日、16日の晩、千日堂に勢ぞろいした念仏衆は、高燈籠を立てて待つ新仏の家に「道行き(流し)」と呼ばれる曲を奏して行進する。高灯楼を囲んで庭念仏と讃歌が唱えられる。
現在は千日堂に新仏の位牌を祀り、遺族を招いて「寄せ念仏」という形式で行われている。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まあ、350年前頃より、近隣の53か所の村が集まり、念仏道場としてこの千日堂が造られ継承されてきたようです。そしてお盆に新盆の家の供養が行なわれてきたのです。

千日堂の名前は、寛保年間(1741~44)に庵王弁的という僧が千体の仏像を彫り祀ったために、千日堂と言われるようになったそうで、現在でも890体程の仏像が残っているそうです。

← よろしければクリックお願いします。
本当は古東海道のネタを書いていきたいのだけれど、その前に少し他の記事を混ぜながら進めたいと思っています。
今日は笠間市安居にある「千日堂」を紹介します。
何故このお堂を取り上げるのかと言うと、私が書こうとしている古東海道にこの辺りの土地が関係しているのです。
「安居」は「あご」と読みます。
私のいる石岡が常陸国の国府があった土地で、常陸国は律令制の敷かれた時代に東海道に属する国の最北(最東)の国になりますので、その時代に作られたといわれる古東海道は各国の国府を最短距離で結ぶように作られていたようですので、その終点は国府「石岡」と考えられます。
しかし、それからしばらくしてから(900年代前半)書かれた「延喜式」には16km置きに馬を常駐させていた場所(中継場所)駅家(うまや)の名前が載っているのですが、石岡が終点ではなく、常陸府中(石岡)の次の駅家が「安居(安侯)駅」で水戸の「河内駅」へ続いていたのです。
そしてそこから海岸線沿いの道と美和や鷲子などの方を通る道に分かれ、「東山道」と合流して仙台の先の多賀城まで続いていたのでしょう。
それを証拠つけるのは石岡からこの安居へ向かう途中に「五万堀」という土地がありますが(小美玉市)、ここで古代官道の跡が見つかっています。
この五万堀や納場、また近くにある「泥障塚古墳」などの名前は源義家が奥州征伐の時に通った道であることを示しているようです。そんなことを考えていくのも楽しそうです。
今日はそんなことを考えながらこの千日堂を見て見ましょう。
石岡から県道52号線(石塚街道)を進むと、前に白鳥などを紹介した「池花池」(こちら)があります。
その池の西北側が五万堀地区になります。
そのまま街道を進むと納場、安居、下安居となります。

恐らく昔の駅家(うまや)は涸沼川の手前のこの地区近くではないかと漠然と考えています。
何も調べていないのでわかりません。
それにしてもバスは走っているようですが、1日に何本もありません。

千日堂への入口はこの街道の十字路の信号のところにあります。なかなか形のいいお堂です。

お堂の入口わきに「市指定文化財 安居灯籠念仏」の石碑が建てられています。
笠間市のHPより説明文をそのまま掲載させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「新仏の往生安楽を祈って行われる古くから伝わる盆行事である。記録によれば寛文年間(1661~1673)より千日堂前庭で念仏供養を行い、近郷53か村1200戸の念仏道場として盛んであったという。
戦後中断されていたが、昭和50年に念仏講並びに地区内の有志の方々(念仏講の法眼様と地区の中老様)の依頼により、青年会が中心となって保存会が結成され再開されて今日に至っている。
笛と太鼓、鼓の奏でる音曲に合わせて新仏の年齢や地位に応じた讃が唱えられる。
また、讃の前後には「南無阿弥陀仏」が唱えられるという特徴がある。
かつては13日に菩提寺の妙行院で「笠ぞろい」をして、讃歌と新仏迎えの念仏が唱えられた。
15日、16日の晩、千日堂に勢ぞろいした念仏衆は、高燈籠を立てて待つ新仏の家に「道行き(流し)」と呼ばれる曲を奏して行進する。高灯楼を囲んで庭念仏と讃歌が唱えられる。
現在は千日堂に新仏の位牌を祀り、遺族を招いて「寄せ念仏」という形式で行われている。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まあ、350年前頃より、近隣の53か所の村が集まり、念仏道場としてこの千日堂が造られ継承されてきたようです。そしてお盆に新盆の家の供養が行なわれてきたのです。

千日堂の名前は、寛保年間(1741~44)に庵王弁的という僧が千体の仏像を彫り祀ったために、千日堂と言われるようになったそうで、現在でも890体程の仏像が残っているそうです。




岡見氏と牛久城
牛久(正確には龍ケ崎市)の女化神社を見た帰り、県道48号線を土浦に向けて北上しました。
女化神社のところも綺麗なバイパス道路が出来ていて、その先もまた二股に分けれ、西側の旧道を圏央道の「牛久阿見インター」方面に向かいました。
途中で「つくば」と成田をむすぶ県道408号線と交わる交差点は「岡見」と書かれていました。
このような人の名前と思える地名で少し調べてみました。
するとこの交差点の近くに「岡見城跡」と地図に書かれています。
交差点のまわりが大きな竹林がところどころにあってどこか不思議な雰囲気の場所です。
牛久の人はきっと「岡見」という地名はおなじみかもしれませんが、近隣まで知られた名前ではありません。

調べてみると、岡見氏は出生はあまりはっきりしていない。
小田治久の二男がここに居を構えたという説が強いようです。
そして天文年間(1550年頃)に牛久沼の北方に牛久城を築いてこの一帯を支配したといいます。
私には戦国武将もあまりよくわかりませんが、この城があったのは県道48号線の横。
牛久城は現在の6号国道近くで、江戸時代前までは佐竹街道といい常陸太田までつながっていました。
問題なのはこの当時は我孫子から利根川を東に行き「布佐」=総(麻のこと)から川を利根町の布川の方に渡って北上していました。
牛久沼付近は洪水が多く、道はいくつかあったようです。
地図を見て気になるのは、現在の県道48号線(龍ケ崎から土浦へ行く道)はきっと室町時代前の古東海道の一つかもしれないと思ったのです。
奈良時代にはもっと東寄りの道を通っており、前に書いたように美浦村牛込から出島(かすみがうら氏)の牛渡へ渡っていたようです。
きっとこの48号線もかなり重要な時期があったように思います。
今では車もすれ違うのに苦労しそうなところもある狭い道です。
でも土浦でも広いバイパス道が出来、旧道は本当に忘れ去られようとしています。
私の知っている年月でもこれだけ変わるのですから、昔の100年単位ではきっとわからなくなってしまうのも無理ないのかもしれません。
この岡見の信号近くに「八坂神社」がありました。

八坂神社とありますが、間に「八幡・剣」とはいっています。
3つの神社が合祀された神社ということのようです。

市の指定の古木などの説明がありますが、この神社にこの岡見氏についての由緒が書かれていました。

(サムネルです。読みたい時はクリックして見てください)
あまりよく読めず、とりあえず写真をUPしました。
どうやら岡見=尾上からきたようですね。
← よろしければクリックお願いします。
女化神社のところも綺麗なバイパス道路が出来ていて、その先もまた二股に分けれ、西側の旧道を圏央道の「牛久阿見インター」方面に向かいました。
途中で「つくば」と成田をむすぶ県道408号線と交わる交差点は「岡見」と書かれていました。
このような人の名前と思える地名で少し調べてみました。
するとこの交差点の近くに「岡見城跡」と地図に書かれています。
交差点のまわりが大きな竹林がところどころにあってどこか不思議な雰囲気の場所です。
牛久の人はきっと「岡見」という地名はおなじみかもしれませんが、近隣まで知られた名前ではありません。

調べてみると、岡見氏は出生はあまりはっきりしていない。
小田治久の二男がここに居を構えたという説が強いようです。
そして天文年間(1550年頃)に牛久沼の北方に牛久城を築いてこの一帯を支配したといいます。
私には戦国武将もあまりよくわかりませんが、この城があったのは県道48号線の横。
牛久城は現在の6号国道近くで、江戸時代前までは佐竹街道といい常陸太田までつながっていました。
問題なのはこの当時は我孫子から利根川を東に行き「布佐」=総(麻のこと)から川を利根町の布川の方に渡って北上していました。
牛久沼付近は洪水が多く、道はいくつかあったようです。
地図を見て気になるのは、現在の県道48号線(龍ケ崎から土浦へ行く道)はきっと室町時代前の古東海道の一つかもしれないと思ったのです。
奈良時代にはもっと東寄りの道を通っており、前に書いたように美浦村牛込から出島(かすみがうら氏)の牛渡へ渡っていたようです。
きっとこの48号線もかなり重要な時期があったように思います。
今では車もすれ違うのに苦労しそうなところもある狭い道です。
でも土浦でも広いバイパス道が出来、旧道は本当に忘れ去られようとしています。
私の知っている年月でもこれだけ変わるのですから、昔の100年単位ではきっとわからなくなってしまうのも無理ないのかもしれません。
この岡見の信号近くに「八坂神社」がありました。

八坂神社とありますが、間に「八幡・剣」とはいっています。
3つの神社が合祀された神社ということのようです。

市の指定の古木などの説明がありますが、この神社にこの岡見氏についての由緒が書かれていました。

(サムネルです。読みたい時はクリックして見てください)
あまりよく読めず、とりあえず写真をUPしました。
どうやら岡見=尾上からきたようですね。


古東海道の終点
私がここ石岡の歴史に興味を持ったのは「古東海道の終点」がこの石岡の地にあったことでした。
しかし、茨城郡の郡衙が貝地の南側にある茨城廃寺あたりではないかということと、常陸国の国府が石岡小学校のところにあったことは知られていますが、律令制が始まって16km置きに設置されたという駅家(うまや)がどこにあったのか長い間知りませんでした。
駅鈴に使われていた鈴を奉納したのが始まりという鈴の宮神社(天狗党の決起したところとしても知られています)などは分かるのですが・・・・。
それが、昨年の茨石の広報紙「ワクワク通信」の8月号の記事に載っていました。(こちらです)
場所は、風の会でも使っている国府にある教室のすぐ裏です。
この間もここで機関紙の印刷を手伝ったばかりです。灯台もと暗しですね。

狭い裏通りの脇にあるわずかな空き地に「月読神」と「庚申塔」の石碑が2つぽつんと置かれています。
前にも前を通ったのですが、なぜこんな碑がここにあるのだろうとぼんやりと眺めただけでした。

今は草が生い茂り、トンボがのんびりと飛んでいました。

すぐ横には6号国道が走ります。貝地の交差点の近くです。
この場所には高浜の方から道が続いていました。土浦の方からではありません。
そして霞ヶ浦(当時は内海)を船でわたり、対岸の出島を通ったり、または美浦村や江戸崎の方に道は続いていました。
この道を追いかけて、江戸崎の街や出島の散策をする気になったのです。
もっとも、この常陸府中(常府)その頃呼ばれていたのかもわかりません。
武蔵国(東京府中)は最初は東海道の国ではなく、東山道に属していましたが、いつか東海道に組み込まれて、道も霞ヶ浦の水上から徐々に陸路に切り替わっていったのでしょう。
さらに、ここが終点だったのもそのうちに北にも伸びて東山道(仙台まで続いていた)とも結ぶ連絡道や日立や十王の方を通る海寄りのルートもできていったようです。
こんなことを感じさせてくれる駅家(うまや)がこんな形で知られずにいるのは残念なことです。
← よろしければクリックお願いします。
しかし、茨城郡の郡衙が貝地の南側にある茨城廃寺あたりではないかということと、常陸国の国府が石岡小学校のところにあったことは知られていますが、律令制が始まって16km置きに設置されたという駅家(うまや)がどこにあったのか長い間知りませんでした。
駅鈴に使われていた鈴を奉納したのが始まりという鈴の宮神社(天狗党の決起したところとしても知られています)などは分かるのですが・・・・。
それが、昨年の茨石の広報紙「ワクワク通信」の8月号の記事に載っていました。(こちらです)
場所は、風の会でも使っている国府にある教室のすぐ裏です。
この間もここで機関紙の印刷を手伝ったばかりです。灯台もと暗しですね。

狭い裏通りの脇にあるわずかな空き地に「月読神」と「庚申塔」の石碑が2つぽつんと置かれています。
前にも前を通ったのですが、なぜこんな碑がここにあるのだろうとぼんやりと眺めただけでした。

今は草が生い茂り、トンボがのんびりと飛んでいました。

すぐ横には6号国道が走ります。貝地の交差点の近くです。
この場所には高浜の方から道が続いていました。土浦の方からではありません。
そして霞ヶ浦(当時は内海)を船でわたり、対岸の出島を通ったり、または美浦村や江戸崎の方に道は続いていました。
この道を追いかけて、江戸崎の街や出島の散策をする気になったのです。
もっとも、この常陸府中(常府)その頃呼ばれていたのかもわかりません。
武蔵国(東京府中)は最初は東海道の国ではなく、東山道に属していましたが、いつか東海道に組み込まれて、道も霞ヶ浦の水上から徐々に陸路に切り替わっていったのでしょう。
さらに、ここが終点だったのもそのうちに北にも伸びて東山道(仙台まで続いていた)とも結ぶ連絡道や日立や十王の方を通る海寄りのルートもできていったようです。
こんなことを感じさせてくれる駅家(うまや)がこんな形で知られずにいるのは残念なことです。


「古代のみち」特別展
今土浦市の上高津貝塚ふるさと歴史広場で「古代の道-常陸を通る東海道駅路」という展示会をやっている。
先週の日曜日に風の会の会報を北条と小町の里に置かせてもらいに行き、土浦市市民会館まで足を伸ばしてみた。
その展示物のチラシの中にこの展示会の案内が有り、前に土浦にいる友人に聞いていたこともあり、行ってみることにした。
上高津貝塚は縄文時代後期の貝塚が見つかり、国指定史跡に指定され、公園があることは知っていたが行くのは初めてだった。
市内からは少し離れたところであるが、行ってみると立派な建物ができていた。

考古資料館というそうだが、思っていたより立派な建物だ。
入ると受付があり入館料105円を払い、「ふるさと風」の会報が少し残っていたのでおいていただけるか聞いてみた。
係りの女性は少し考えるようでしたが少し会報に目をやりながら「ダメです」と。
「博物館では前に置いていただいたのですが・・・」というと、
「いま講演会が2階でやっていて、担当の係りがいないので終わったら聞いてみます」と。
「その講演会は今からでも聞くことができますか?」
「はい、大丈夫です。2階に上がって係りがおります。」
「では、そちらを聞かせていただきます。それからこの会報は、おいていただけないなら処分していただいても構いません。部数も少ないですから」
何か言っていましたが、構わず2階に上がっていきました。
なんの講演会かも分からず、もう始まっている部屋の前に行くと、中から係りの人が出てきて、講演資料をいただき、また講演会用にさらに50円を支払って、そっと入りました。
あらまあ、展示会が「古代の道」ですから、これに関する講演会かと思ったら土浦市博物館の茂木館長さんの館長講話でした。
でも途中から入ったし、抜け出すわけにも行きません。それから1時間半の間、おとなしく聞いてきました。
講話のタイトルは「2012年度陵墓限定公開と立入り観察について」という内容です。
宮内庁の管理する古墳(12箇所)に関して、考古学会などが主体になって中に調査に入らせて欲しいとの要望で、やっとのこと30年かかって16名(16団体)に限っての限定公開が行われるようになったそうです。
そして2008年2月~毎年1~2ヶ所ずつ中には入って調査をし、今年2月にやっと卑弥呼の墓ではないかと言われている「箸墓古墳」に入ることができたということでした。
新聞などでも大きく取り上げられましたが、入ったのは16人で柵から1~2m中の周囲を観察しながら1時間ほどかけて周りに埴輪などがないかなどを見ながら1周しただけだそうです。掘れないので見つけるのは難しいですよね。
この箸墓古墳が時代が最も古いと思われるので卑弥呼と関連付けて報じられているのですが、証拠は見つかっていないですね。
新聞やテレビの報道で、「卑弥呼の墓が発見か?」なんて言っていましたが、まだまだ九州説もまったく死んでいませんよ。
聞いている方は考古学に携わっている方ばかりのようで、内容的には私には少しついていけないという気がしました。
これは風の会報を置く場所としてはふさわしくないな? 受付で返してよこすかな?などと考えて、公演終了後に1階に展示している「古代のみち」の展示物を一通り見てから、先ほどの1F受付に行き、下記の特別展用に作られた冊子を500円で買いました。
何か会報の話があるかと思いきや、係りの方はニコニコして私がカメラをぶら下げていたのを見て、いま外の景色が素晴らしいですよ。行ってみてください。写真に撮ってね。・・・。
公園にベンチがありますのでそこに座って眺めてみてください。と勧めてきました。
そうそうここに来る前にも八郷や筑波、小町の里でも素晴らしい若葉の色合いを楽しんできたのもお話して、この公園の景色も見せてもらいに外に出ました。

確かに素晴らしい木々の葉の色です。広々とした広場の奥に縄文時代の住居が復元されています。

一面芝生の公園の手前の片隅にはベンチに暖かな日差しが降り注いでいましたが、誰も座っていません。
3~4人位の見物客と数人の子供が遊んでいました。

公園の一角にこのような貝塚の一部切り取ったものを展示して見られるようになっています。
現地の説明板:
「上高津貝塚は、1906年(明治39年)に大衆小説家江見水蔭によって発掘されてから、考古学の世界に知られるようになりました。・・・・・・・その後、1977年に国の史跡指定を受け、・・・・・
貝塚は、1981~1986年に市が指定地を購入し、1991~1995にかけて文化庁などの補助を受けて現在のように整備されました。・・・・」
となっています。
土浦の博物館が最近元気になったように感じています。
25周年記念行事として、特別展「婆娑羅たちの武装-戦国を駆け抜けた武将たちの甲冑と刀剣」が3月16日~5月6日に開催されているのです。
ゲームソフトの「戦国BASARA」とタイアップして宣伝もしたし、全国から実存する武将たちの甲冑などを借り集めて展示しているのです。
市内ではスタンプラリーもやっていて、今まで見たこともない若者で溢れているんです。
さて、もう一つが古代のみちの展示と、講演会の開催です。
講演会もかなり人気が有り、毎週土曜日に開催されているようです。
それも人数が多くて、会場を変更して次回(4/27)は土浦市生涯学習館1Fで午後2時からだそうです。
(詳細は → こちら)

こちらが今回購入した資料です(500円)
欲しい人は(こちら)に申し込むと送ってもらえます。

今回の資料はかなり詳しく書かれています。
資料としては充実して良いものです。しかし、私の追いかけてきた道とは違いがあります。
資料は常陸風土記に出てくる信太郡の郡衙のある近くにあるとされる「榎浦津駅」を新利根町の新宿」あたりに想定しています。そしてここに下総の現成田市荒海にある「荒海駅」から船で渡ったと推定しています。
どうもこの感覚が現地を訪れて感じなかったのですが・・・・。
また、石岡の中津川(高浜街道沿い)で発見された官道跡がどこにも載っていません。
この資料の鹿島神宮への道にこのような広い官道を作ったと考えるのもおかしなことだし、想定のルートからも外れています。
都合の悪い資料を載せないのはやはりおかしいと感じます。

でも欲しいと思っていた資料がかなり載っていてとても参考になります。
欲しいと思っている方はぜひ読んでみてください。
← よろしければクリックお願いします。
先週の日曜日に風の会の会報を北条と小町の里に置かせてもらいに行き、土浦市市民会館まで足を伸ばしてみた。
その展示物のチラシの中にこの展示会の案内が有り、前に土浦にいる友人に聞いていたこともあり、行ってみることにした。
上高津貝塚は縄文時代後期の貝塚が見つかり、国指定史跡に指定され、公園があることは知っていたが行くのは初めてだった。
市内からは少し離れたところであるが、行ってみると立派な建物ができていた。

考古資料館というそうだが、思っていたより立派な建物だ。
入ると受付があり入館料105円を払い、「ふるさと風」の会報が少し残っていたのでおいていただけるか聞いてみた。
係りの女性は少し考えるようでしたが少し会報に目をやりながら「ダメです」と。
「博物館では前に置いていただいたのですが・・・」というと、
「いま講演会が2階でやっていて、担当の係りがいないので終わったら聞いてみます」と。
「その講演会は今からでも聞くことができますか?」
「はい、大丈夫です。2階に上がって係りがおります。」
「では、そちらを聞かせていただきます。それからこの会報は、おいていただけないなら処分していただいても構いません。部数も少ないですから」
何か言っていましたが、構わず2階に上がっていきました。
なんの講演会かも分からず、もう始まっている部屋の前に行くと、中から係りの人が出てきて、講演資料をいただき、また講演会用にさらに50円を支払って、そっと入りました。
あらまあ、展示会が「古代の道」ですから、これに関する講演会かと思ったら土浦市博物館の茂木館長さんの館長講話でした。
でも途中から入ったし、抜け出すわけにも行きません。それから1時間半の間、おとなしく聞いてきました。
講話のタイトルは「2012年度陵墓限定公開と立入り観察について」という内容です。
宮内庁の管理する古墳(12箇所)に関して、考古学会などが主体になって中に調査に入らせて欲しいとの要望で、やっとのこと30年かかって16名(16団体)に限っての限定公開が行われるようになったそうです。
そして2008年2月~毎年1~2ヶ所ずつ中には入って調査をし、今年2月にやっと卑弥呼の墓ではないかと言われている「箸墓古墳」に入ることができたということでした。
新聞などでも大きく取り上げられましたが、入ったのは16人で柵から1~2m中の周囲を観察しながら1時間ほどかけて周りに埴輪などがないかなどを見ながら1周しただけだそうです。掘れないので見つけるのは難しいですよね。
この箸墓古墳が時代が最も古いと思われるので卑弥呼と関連付けて報じられているのですが、証拠は見つかっていないですね。
新聞やテレビの報道で、「卑弥呼の墓が発見か?」なんて言っていましたが、まだまだ九州説もまったく死んでいませんよ。
聞いている方は考古学に携わっている方ばかりのようで、内容的には私には少しついていけないという気がしました。
これは風の会報を置く場所としてはふさわしくないな? 受付で返してよこすかな?などと考えて、公演終了後に1階に展示している「古代のみち」の展示物を一通り見てから、先ほどの1F受付に行き、下記の特別展用に作られた冊子を500円で買いました。
何か会報の話があるかと思いきや、係りの方はニコニコして私がカメラをぶら下げていたのを見て、いま外の景色が素晴らしいですよ。行ってみてください。写真に撮ってね。・・・。
公園にベンチがありますのでそこに座って眺めてみてください。と勧めてきました。
そうそうここに来る前にも八郷や筑波、小町の里でも素晴らしい若葉の色合いを楽しんできたのもお話して、この公園の景色も見せてもらいに外に出ました。

確かに素晴らしい木々の葉の色です。広々とした広場の奥に縄文時代の住居が復元されています。

一面芝生の公園の手前の片隅にはベンチに暖かな日差しが降り注いでいましたが、誰も座っていません。
3~4人位の見物客と数人の子供が遊んでいました。

公園の一角にこのような貝塚の一部切り取ったものを展示して見られるようになっています。
現地の説明板:
「上高津貝塚は、1906年(明治39年)に大衆小説家江見水蔭によって発掘されてから、考古学の世界に知られるようになりました。・・・・・・・その後、1977年に国の史跡指定を受け、・・・・・
貝塚は、1981~1986年に市が指定地を購入し、1991~1995にかけて文化庁などの補助を受けて現在のように整備されました。・・・・」
となっています。
土浦の博物館が最近元気になったように感じています。
25周年記念行事として、特別展「婆娑羅たちの武装-戦国を駆け抜けた武将たちの甲冑と刀剣」が3月16日~5月6日に開催されているのです。
ゲームソフトの「戦国BASARA」とタイアップして宣伝もしたし、全国から実存する武将たちの甲冑などを借り集めて展示しているのです。
市内ではスタンプラリーもやっていて、今まで見たこともない若者で溢れているんです。
さて、もう一つが古代のみちの展示と、講演会の開催です。
講演会もかなり人気が有り、毎週土曜日に開催されているようです。
それも人数が多くて、会場を変更して次回(4/27)は土浦市生涯学習館1Fで午後2時からだそうです。
(詳細は → こちら)

こちらが今回購入した資料です(500円)
欲しい人は(こちら)に申し込むと送ってもらえます。

今回の資料はかなり詳しく書かれています。
資料としては充実して良いものです。しかし、私の追いかけてきた道とは違いがあります。
資料は常陸風土記に出てくる信太郡の郡衙のある近くにあるとされる「榎浦津駅」を新利根町の新宿」あたりに想定しています。そしてここに下総の現成田市荒海にある「荒海駅」から船で渡ったと推定しています。
どうもこの感覚が現地を訪れて感じなかったのですが・・・・。
また、石岡の中津川(高浜街道沿い)で発見された官道跡がどこにも載っていません。
この資料の鹿島神宮への道にこのような広い官道を作ったと考えるのもおかしなことだし、想定のルートからも外れています。
都合の悪い資料を載せないのはやはりおかしいと感じます。

でも欲しいと思っていた資料がかなり載っていてとても参考になります。
欲しいと思っている方はぜひ読んでみてください。


五万掘古道(1)
土浦市で始まった古代の道の展示会と講演会が行われている。
私は上高津貝塚公園の展示を前回見てきて、「古代の道」の冊子を買ってきたが、常陸の奈良平安時代の官道に対する考察でいくつも疑問が出てきた。
講演会には出席していないが、この分野はまだわかっていないことが多いらしい。
今まで調べて感じてきたことだが、どうも時代によって道がかなり変化したのではないかという感がさらに深まった。
常陸国府(石岡)が古東海道は終点であったが、平安時代中期に作成された延喜式(927年完成)には古東海道の駅家(うまや)として常陸国府(石岡)から先にも駅家が記されている。
常陸国府 - 安侯 - 河内 と続く。
この安侯は、笠間市安居(あご)あたりであり、河内は水戸市の那珂川手前の渡里町と川の向こう側の上河内・中河内あたりの2箇所にあったとされています。
河内駅家(こうちのうまや)については常陸国風土記に粟川(=那珂川)の両側にあったことが記されています。
さて、この安居(あご)に近いところに五万掘という地名がいくつか残されています。
この五万掘で古代東海道の官道跡と思われる遺跡が発見されたという記事を昔読んだのだが、場所がよくわからなかったのですが、冊子「古代の道」に場所が詳しく載っていたので見に行ってきました。
石岡からは石塚街道(県道52号線)で涸沼川を「仁古田」の橋を渡り、その先の十字路の信号を左折すると、常磐高速の友部サービスエリア(スマートインター併設)に出るが、この信号から南西方向に斜めに細い道が続いている。

入口はこのように林や民家の庭の中を通過するようになっている。
この先が五万掘の古道は見つかった道だ。

すぐに広い空き地に出る。恐らく発掘もされたところだろう。

しばらくこのような草地が続く。左手はエレベータなどの巻上機を制作している工場がある。

工場を過ぎると古道らしい道が真っ直ぐに続く。
このあたりの発掘によって、室町時代ころの道路跡の見つかった。
道路の両側には側溝が掘られ、側溝中心間の幅で6~11mで、7世紀後半のものから10世紀にわたって数種類の道路が跡が見られるという。
幅の広い程時代が古いそうだ。

一部の側溝部分はこのように水路になっている箇所もありました。

道路跡は南南西方向にまっすぐ続きます。

この調査はこの道路と交わるところの先で、やめたようです。その先には栗林が広がっています。
この道を真っ直ぐに石岡方面と水戸方面をつなぐと、この官道のルートがほぼ見えてきます。
明日に続きます。
← よろしければクリックお願いします。
私は上高津貝塚公園の展示を前回見てきて、「古代の道」の冊子を買ってきたが、常陸の奈良平安時代の官道に対する考察でいくつも疑問が出てきた。
講演会には出席していないが、この分野はまだわかっていないことが多いらしい。
今まで調べて感じてきたことだが、どうも時代によって道がかなり変化したのではないかという感がさらに深まった。
常陸国府(石岡)が古東海道は終点であったが、平安時代中期に作成された延喜式(927年完成)には古東海道の駅家(うまや)として常陸国府(石岡)から先にも駅家が記されている。
常陸国府 - 安侯 - 河内 と続く。
この安侯は、笠間市安居(あご)あたりであり、河内は水戸市の那珂川手前の渡里町と川の向こう側の上河内・中河内あたりの2箇所にあったとされています。
河内駅家(こうちのうまや)については常陸国風土記に粟川(=那珂川)の両側にあったことが記されています。
さて、この安居(あご)に近いところに五万掘という地名がいくつか残されています。
この五万掘で古代東海道の官道跡と思われる遺跡が発見されたという記事を昔読んだのだが、場所がよくわからなかったのですが、冊子「古代の道」に場所が詳しく載っていたので見に行ってきました。
石岡からは石塚街道(県道52号線)で涸沼川を「仁古田」の橋を渡り、その先の十字路の信号を左折すると、常磐高速の友部サービスエリア(スマートインター併設)に出るが、この信号から南西方向に斜めに細い道が続いている。

入口はこのように林や民家の庭の中を通過するようになっている。
この先が五万掘の古道は見つかった道だ。

すぐに広い空き地に出る。恐らく発掘もされたところだろう。

しばらくこのような草地が続く。左手はエレベータなどの巻上機を制作している工場がある。

工場を過ぎると古道らしい道が真っ直ぐに続く。
このあたりの発掘によって、室町時代ころの道路跡の見つかった。
道路の両側には側溝が掘られ、側溝中心間の幅で6~11mで、7世紀後半のものから10世紀にわたって数種類の道路が跡が見られるという。
幅の広い程時代が古いそうだ。

一部の側溝部分はこのように水路になっている箇所もありました。

道路跡は南南西方向にまっすぐ続きます。

この調査はこの道路と交わるところの先で、やめたようです。その先には栗林が広がっています。
この道を真っ直ぐに石岡方面と水戸方面をつなぐと、この官道のルートがほぼ見えてきます。
明日に続きます。


五万掘古道(2)-鹿の子・河内ルート
笠間市の五万掘古道を見て、かなりの確信を覚えた。
五万掘と名づいているところに古代の官道があるのではないかと。
この道路は笠間市仁古田(にこだ)と長菟路(ながとろ)の町の境界になっている。
この二つの地名もとても興味深い。
仁古田(にこだ)という地名は東京なら西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」が駅の元になっているが読み方が違う。
もう一つかすみがうら市の神立にちかいところに「江後田(えごた)」という地名がある。
昔、鎌倉街道がこのあたりを通っていたのではないかということを子安神社の宮司さんに伺ったことがある。
多分川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所だったのではないかと思う。
それもそれほど大きな川ではない。
江古田は江古田川、仁古田は涸沼川、江後田は霞ヶ浦に注ぐ菱木川のそれぞれ上・中流部にある。
名前もよくわからないほどの比較的小さな川である。しかし、昔の舟での移動を考えると意外に重要な場所だったのかもしれない。
さて、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名だが、「古代の道」冊子ではこの古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論している方がおられるが、これはどうも違うだろう。
長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・など漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんある。
これは川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈している。
秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべるが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っている。
さて、この道を南南西に延長すると小美玉市の五万掘や五万窪を通り、石岡の国分尼寺の300m程北の鹿の子(C)遺跡の場所(高速道路下)にでる。また北北東に延長すると、河内駅家(こうちうまや)のある渡里町と河内町に真っすぐにつながる。

(クリックして大きい画像を見てください。表示された画像が小さい時はもう一度クリック)
そして、五万掘や渡里町などに八幡太郎義家の伝説が伝わっている。
八幡太郎義家が蝦夷征伐に通った時(後三年の役)に源氏の呼びかけに我も我もと武士が集まり、かすみがうら市の四万騎農園のある広大な草原で4万騎が集まり、この場所で馬の訓練をし、石岡に来た時には5万騎に膨れ上がり、鹿の子遺跡そばに五万掘の名前となった。
この鹿の子近くの五万掘の名前は消えてしまったが、小美玉市に五万掘という地名となり、さらにその先の涸沼川近くの笠間市の五万掘の名前も残った。
また台渡里廃寺の近辺ではここの一番の長者(一盛長者)が滅ぼされた話が伝わっている。(こちらを参照)
面白いことに、この話とそっくりな話が行方市の西連寺にも伝わっています。
西連寺で昔から行われている伝統行事「常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)」の始まりの話とそっくりなのだ。
西連寺は鹿島神宮までと常陸国府を結ぶ中間に有り「曾尼(そね)の駅家(うまや)」の推定値に近い場所にあります。
小美玉市の旧玉里の高崎にも昔五万掘という場所があったそうだ。
この玉里地区にも八幡太郎伝説がいくつも残っている。
今まで考えてもみなかったがここも通ったのだろうか?
考えてみればいくつものルートを通って国府(石岡)に集結したかもしれない。集結した場所が国府跡(石岡小学校敷地)ではなく、鹿の子遺跡の軍事拠点ということになりそうだ。
前九年の役は1051年から、後三年の役は1083年からだ。
この後に奥州藤原氏が台頭することになる。
やはり鹿の子(かのこ)の地名の由来は鹿ではなく鹿島神宮を意識していたようでもあるが、鹿は鉄のことを指していたとする方がすっきりした解釈になれそうだ。
石岡に生板池という池があるが、この場所で炊事をした「まないた」から「生板池」の名前となり、この近くに6万という地名まである。
かすみがうら市の四万騎(しまき)原は江戸時代の文献では嶋木ヶ原と出てくる。
古東海道のルートもいろいろな事実に基づき考察し直さねばならないだろう。
従って、道路があって名前ができ、そこに鎌倉時代になって八幡太郎の伝説が生まれたのだろう。
さて、この古道の途中、小美玉市の五万掘ととなりあった場所(羽鳥駅の東側)に五万窪という地名がある。
ここで、東工大の発掘調査により、古代の遺跡が見つかっている。
五万窪遺跡と呼ばれているが、古代製鉄炉(たたら製鉄)跡とみられ、室町時代の遺跡だと考えられている。
これはすべて古代官道が道路として掘りこまれて窪、掘と呼ばれる広大な低地がまっすぐに続いていたのを表したものだ考えるとかなりスッキリする。恐らくこの官道の両側で昔の行政区が変わったりするのもわかる気がする。
平成の大合併で名前が消えてしまった地域も多いのだろう。
消えてしまっても地図や記録にはぜひ残して欲しいと思う。
もう一つ、特徴的なことがある。鹿の子遺跡は高速道路建設の時の発掘調査で見つかったものだが、10万平方メートルの広い遺跡で奈良時代後期から平安時代前期のものとされています。
多くの住居跡の他、武器や農具などを制作していたと思われる工房跡などがみつかり、多くの漆紙文字が残されているために当時の行政の統計に関する資料などたくさんの貴重な資料が発見されています。
一部は風土記の丘公園の有料エリアの展示室で見ることができます。
しかし、この展示エリアの公開して書かれている内容などを見ても、これらの時代に蝦夷との関わりなどは読み解くことができません。
今回の五万掘古道を考えて、一気にその姿が浮かび上がってくるように感じました。
各国府をつなぐ道で、行政の連絡道とばかり思っていたのですが、蝦夷との関わりが重要だったのではないかと思えてきました。
坂上田村麻呂が阿弖流為を滅ぼし、胆沢(いさわ)城を築いたのが西暦802年です。
今残されている鹿の子遺跡には昔の西暦780年にあたる暦(具注暦)が発見されています。
この鹿の子が武器供給の拠点であり、道を整備する必要もあったのだと思います。
当然この道の先は高萩などの海岸通りへも続きますが、水戸市の河内からまっすぐ北上して福島県の田村市(三春)に続いていたのだと思います。
常陸国風土記が編纂されたのが西暦713年ということで、今年は1300年記念の行事が茨城県の各地で行われています。
高萩市の風間市長さんは熱心ですね。
明日は常陸国府周りの古官道などの情報を述べてみたいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
五万掘と名づいているところに古代の官道があるのではないかと。
この道路は笠間市仁古田(にこだ)と長菟路(ながとろ)の町の境界になっている。
この二つの地名もとても興味深い。
仁古田(にこだ)という地名は東京なら西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」が駅の元になっているが読み方が違う。
もう一つかすみがうら市の神立にちかいところに「江後田(えごた)」という地名がある。
昔、鎌倉街道がこのあたりを通っていたのではないかということを子安神社の宮司さんに伺ったことがある。
多分川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所だったのではないかと思う。
それもそれほど大きな川ではない。
江古田は江古田川、仁古田は涸沼川、江後田は霞ヶ浦に注ぐ菱木川のそれぞれ上・中流部にある。
名前もよくわからないほどの比較的小さな川である。しかし、昔の舟での移動を考えると意外に重要な場所だったのかもしれない。
さて、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名だが、「古代の道」冊子ではこの古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論している方がおられるが、これはどうも違うだろう。
長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・など漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんある。
これは川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈している。
秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべるが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っている。
さて、この道を南南西に延長すると小美玉市の五万掘や五万窪を通り、石岡の国分尼寺の300m程北の鹿の子(C)遺跡の場所(高速道路下)にでる。また北北東に延長すると、河内駅家(こうちうまや)のある渡里町と河内町に真っすぐにつながる。

(クリックして大きい画像を見てください。表示された画像が小さい時はもう一度クリック)
そして、五万掘や渡里町などに八幡太郎義家の伝説が伝わっている。
八幡太郎義家が蝦夷征伐に通った時(後三年の役)に源氏の呼びかけに我も我もと武士が集まり、かすみがうら市の四万騎農園のある広大な草原で4万騎が集まり、この場所で馬の訓練をし、石岡に来た時には5万騎に膨れ上がり、鹿の子遺跡そばに五万掘の名前となった。
この鹿の子近くの五万掘の名前は消えてしまったが、小美玉市に五万掘という地名となり、さらにその先の涸沼川近くの笠間市の五万掘の名前も残った。
また台渡里廃寺の近辺ではここの一番の長者(一盛長者)が滅ぼされた話が伝わっている。(こちらを参照)
面白いことに、この話とそっくりな話が行方市の西連寺にも伝わっています。
西連寺で昔から行われている伝統行事「常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)」の始まりの話とそっくりなのだ。
西連寺は鹿島神宮までと常陸国府を結ぶ中間に有り「曾尼(そね)の駅家(うまや)」の推定値に近い場所にあります。
小美玉市の旧玉里の高崎にも昔五万掘という場所があったそうだ。
この玉里地区にも八幡太郎伝説がいくつも残っている。
今まで考えてもみなかったがここも通ったのだろうか?
考えてみればいくつものルートを通って国府(石岡)に集結したかもしれない。集結した場所が国府跡(石岡小学校敷地)ではなく、鹿の子遺跡の軍事拠点ということになりそうだ。
前九年の役は1051年から、後三年の役は1083年からだ。
この後に奥州藤原氏が台頭することになる。
やはり鹿の子(かのこ)の地名の由来は鹿ではなく鹿島神宮を意識していたようでもあるが、鹿は鉄のことを指していたとする方がすっきりした解釈になれそうだ。
石岡に生板池という池があるが、この場所で炊事をした「まないた」から「生板池」の名前となり、この近くに6万という地名まである。
かすみがうら市の四万騎(しまき)原は江戸時代の文献では嶋木ヶ原と出てくる。
古東海道のルートもいろいろな事実に基づき考察し直さねばならないだろう。
従って、道路があって名前ができ、そこに鎌倉時代になって八幡太郎の伝説が生まれたのだろう。
さて、この古道の途中、小美玉市の五万掘ととなりあった場所(羽鳥駅の東側)に五万窪という地名がある。
ここで、東工大の発掘調査により、古代の遺跡が見つかっている。
五万窪遺跡と呼ばれているが、古代製鉄炉(たたら製鉄)跡とみられ、室町時代の遺跡だと考えられている。
これはすべて古代官道が道路として掘りこまれて窪、掘と呼ばれる広大な低地がまっすぐに続いていたのを表したものだ考えるとかなりスッキリする。恐らくこの官道の両側で昔の行政区が変わったりするのもわかる気がする。
平成の大合併で名前が消えてしまった地域も多いのだろう。
消えてしまっても地図や記録にはぜひ残して欲しいと思う。
もう一つ、特徴的なことがある。鹿の子遺跡は高速道路建設の時の発掘調査で見つかったものだが、10万平方メートルの広い遺跡で奈良時代後期から平安時代前期のものとされています。
多くの住居跡の他、武器や農具などを制作していたと思われる工房跡などがみつかり、多くの漆紙文字が残されているために当時の行政の統計に関する資料などたくさんの貴重な資料が発見されています。
一部は風土記の丘公園の有料エリアの展示室で見ることができます。
しかし、この展示エリアの公開して書かれている内容などを見ても、これらの時代に蝦夷との関わりなどは読み解くことができません。
今回の五万掘古道を考えて、一気にその姿が浮かび上がってくるように感じました。
各国府をつなぐ道で、行政の連絡道とばかり思っていたのですが、蝦夷との関わりが重要だったのではないかと思えてきました。
坂上田村麻呂が阿弖流為を滅ぼし、胆沢(いさわ)城を築いたのが西暦802年です。
今残されている鹿の子遺跡には昔の西暦780年にあたる暦(具注暦)が発見されています。
この鹿の子が武器供給の拠点であり、道を整備する必要もあったのだと思います。
当然この道の先は高萩などの海岸通りへも続きますが、水戸市の河内からまっすぐ北上して福島県の田村市(三春)に続いていたのだと思います。
常陸国風土記が編纂されたのが西暦713年ということで、今年は1300年記念の行事が茨城県の各地で行われています。
高萩市の風間市長さんは熱心ですね。
明日は常陸国府周りの古官道などの情報を述べてみたいと思います。


五万掘古道(3)-国府周辺
笠間市の涸沼川上流にある五万掘の平安時代の官道跡から見えてきた全体像を勝手な解釈で、2度にわたり書いてしまいました。
あまり根拠のないものが多いので、こんなこともあるのかな?程度に聞き流しておいてください。
ここは学術論文の発表の場ではないので、反対意見などもあっても、意見はご自由ですから聞くことは聞きますが、特に反論する気もありません。
さて、鹿の子遺跡のことを考えているとやはり奈良平安時代の国府(石岡)の周りに残された数々の伝承などをもとに今思っていることを書いてみたいと思います。
これもほとんど根拠がありませんので、実にくだらない妄想かもしれません。

(クリックして拡大して見てください)
常陸国の国府は石岡小学校の敷地の調査でほぼ判明したとされています。
(まだ異論を唱える方もいるようですが、とりあえずここが国府と国に認められました。)
この国府の入口門は石岡駅側(東側)を向いています。従って、奈良平安時代の官道は当然国府跡の東側にあったことでしょう。
この国府があったとされている場所には1346年に大掾氏が府中城を築き1590年まで続きました。
この場所に城を築く前は、後に外城(とじょう)と呼ばれる場所(岡田稲荷神社)に城(1214年築城?)がありました。
この外城というのが茨城郡の郡衙(ぐんが)があった場所ではないかと言われ、近くに大きな茨城廃寺の遺跡が見つかっています。
この茨城廃寺の建立された時期が不明ですが、西暦752年に完成したとされる常陸国分寺よりも古く、8世紀初頭の頃と思われます。
一方の国府跡も7世紀後半ころからの遺構もあるので、国府の建物と、茨城郡衙の建物が少し離れてあったものと思われます。
2年程前に6号国道のバイパス道路建築のために通過地点となる場所の遺跡発掘調査が行われました。
この時に、石岡と高浜を結ぶ通称「高浜街道」沿いの中津川で旧東海道のものではないかと思われる官道の跡が見つかりました。
この道を延長すると石岡の国府跡の東側を通り、国分尼寺から鹿の子遺跡につながります。
国分尼寺横の道は昔国分寺の瓦を焼いた「瓦会」を通り宇都宮まで続く「宇都宮街道」と言われた道になります。
この道はその後の変革でほとんど忘れ去られ、消えてしまっています。
では中津川遺跡である官道の遺跡は何を語っているのでしょうか?
今まで古東海道を調べていた学芸員さんや学者の間で想像していた場所とはかけ離れていた所だったようなのです。
私は、やはり古代の道は海(現霞ヶ浦)を抜きには考えられない証拠だと思っています。
常陸国風土記にはこの高浜の浜については次のように書かれている。
-------------------------------------------
「花香る春に、また落葉散る秋に、乗り物を走らせ、舟を漕いで出かける。春には浦の花が千々に彩り、秋には岸の紅葉が百々に色づく。野辺に鴬は歌ひ、水辺に鶴は舞ふ。山里の男たちや海浜の娘たちが、次々に集まり、商人や農夫たちも舟を急がせて通ふ。夏には、朝夕に友を呼び、下僕を連れ、浜辺で海を眺めて過ごす。波を蹴立てて寄せる風に、暑さや気怠さを忘れ、岡の陰が長く伸びるころになると、涼しさもひとしほである。歌はれる歌は、
高浜に来寄する浪の沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば
(高浜に寄せ来る波が、どんなに沖から寄せ来ても(他の女が寄って来ても)、私の心が動かないのは、あの娘に心を寄せてるからだ。)
高浜の下風 ( したかぜ ) さやぐ妹を恋ひ 妻と言はばや しこと召しつも
(高浜の浜辺の下を騒がしく吹く風ではないが、恋するあの娘を妻と呼びたい気持ちがこみあげてくる。こんな私だのに。)
-------------------------------------
常陸国に赴任した国司たちはこの高浜から舟で鹿島神宮にお参りに行ったのです。
しかしこの昔の霞ヶ浦は海でしたので風が強ければかなり波が荒れて船が出せません。
そのために陸路で行く道も作られたのでしょう。
国府から高浜(国府(こう)の浜が高浜になった?)を経て行方の曾尼駅、潮来(板来)駅を経由して鹿島神宮へ続いたのでしょう。
ですから、古東海道はこちらではないのです。海を渡ったのです。
信太郡の美浦村あたりから船で対岸のかすみがうら市へ渡るのが最短ですが、波が少し静かなら、高浜にまで行かずに菱木川を遡上したのかもしれません。
なにしろ、馬での移動などはあまりなく、奈良平安の乗り物と言ったら「牛車」です。
悪路でも牛がのんびり引く車に揺られてやって来たのでしょう。
その後、前九年の役で源頼義と源義家(八幡太郎)親子がやってきたのは「正月平」を通ったことになっているので(これは私が信じているだけかもしれない)かすみがうら市の出島地区を横断しているように思う。
一方、子安神社と胎安神社の間を鎌倉街道と呼ばれた道があったというが、これを古東海道の道との紹介があちこちに載っている。
しかし、この間にあった道は現在のまっすぐな舗装道路より少し東側に旧道があり、この先は江後田を通りやはり霞ヶ浦を渡ったと考えるべきであろう。
なぜなら、天の川に架かる橋が、壊れて通れなくなっていたので、子安・胎安神社にやってきた八幡太郎義家たちがこの橋を修復したと神社での記録には残されており(言い伝えかもしれぬが)、この神社に来るときにはこの川を軍勢はわたっていない。
また今の天の川より南の土浦までの道は今から39年前の昭和49年に、茨城県で国体が行われた時に整備した「国体道路」であるのだから。
笄崎(こうがいさき)の地名も、弟橘媛(おとたちばなひめ)の笄(こうがい)が流れ着いたとの話からもし来ているのだとすると、菱木川を上ってきたということも十分に考えられる。(地名の記事はこちら)
なんともロマンが広がる。
それと、前に書いたが国府の駅家(うまや)は6号国道の貝地の交差点の少し北側にあったのではないかと考えています。(記事はこちら)
この近くには府中六井の一つで平景清が産湯をつかったという言い伝えまである「室ヶ井」があった。
駅家としてはこの井戸が役に立ったのかもしれない。
好きなことを書いたが、今の土浦で行われている古代の道のルートとはかなり違うので、解釈は今後の発掘調査などで次第にはっきりしてくるでしょう。
← よろしければクリックお願いします。
あまり根拠のないものが多いので、こんなこともあるのかな?程度に聞き流しておいてください。
ここは学術論文の発表の場ではないので、反対意見などもあっても、意見はご自由ですから聞くことは聞きますが、特に反論する気もありません。
さて、鹿の子遺跡のことを考えているとやはり奈良平安時代の国府(石岡)の周りに残された数々の伝承などをもとに今思っていることを書いてみたいと思います。
これもほとんど根拠がありませんので、実にくだらない妄想かもしれません。

(クリックして拡大して見てください)
常陸国の国府は石岡小学校の敷地の調査でほぼ判明したとされています。
(まだ異論を唱える方もいるようですが、とりあえずここが国府と国に認められました。)
この国府の入口門は石岡駅側(東側)を向いています。従って、奈良平安時代の官道は当然国府跡の東側にあったことでしょう。
この国府があったとされている場所には1346年に大掾氏が府中城を築き1590年まで続きました。
この場所に城を築く前は、後に外城(とじょう)と呼ばれる場所(岡田稲荷神社)に城(1214年築城?)がありました。
この外城というのが茨城郡の郡衙(ぐんが)があった場所ではないかと言われ、近くに大きな茨城廃寺の遺跡が見つかっています。
この茨城廃寺の建立された時期が不明ですが、西暦752年に完成したとされる常陸国分寺よりも古く、8世紀初頭の頃と思われます。
一方の国府跡も7世紀後半ころからの遺構もあるので、国府の建物と、茨城郡衙の建物が少し離れてあったものと思われます。
2年程前に6号国道のバイパス道路建築のために通過地点となる場所の遺跡発掘調査が行われました。
この時に、石岡と高浜を結ぶ通称「高浜街道」沿いの中津川で旧東海道のものではないかと思われる官道の跡が見つかりました。
この道を延長すると石岡の国府跡の東側を通り、国分尼寺から鹿の子遺跡につながります。
国分尼寺横の道は昔国分寺の瓦を焼いた「瓦会」を通り宇都宮まで続く「宇都宮街道」と言われた道になります。
この道はその後の変革でほとんど忘れ去られ、消えてしまっています。
では中津川遺跡である官道の遺跡は何を語っているのでしょうか?
今まで古東海道を調べていた学芸員さんや学者の間で想像していた場所とはかけ離れていた所だったようなのです。
私は、やはり古代の道は海(現霞ヶ浦)を抜きには考えられない証拠だと思っています。
常陸国風土記にはこの高浜の浜については次のように書かれている。
-------------------------------------------
「花香る春に、また落葉散る秋に、乗り物を走らせ、舟を漕いで出かける。春には浦の花が千々に彩り、秋には岸の紅葉が百々に色づく。野辺に鴬は歌ひ、水辺に鶴は舞ふ。山里の男たちや海浜の娘たちが、次々に集まり、商人や農夫たちも舟を急がせて通ふ。夏には、朝夕に友を呼び、下僕を連れ、浜辺で海を眺めて過ごす。波を蹴立てて寄せる風に、暑さや気怠さを忘れ、岡の陰が長く伸びるころになると、涼しさもひとしほである。歌はれる歌は、
高浜に来寄する浪の沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば
(高浜に寄せ来る波が、どんなに沖から寄せ来ても(他の女が寄って来ても)、私の心が動かないのは、あの娘に心を寄せてるからだ。)
高浜の下風 ( したかぜ ) さやぐ妹を恋ひ 妻と言はばや しこと召しつも
(高浜の浜辺の下を騒がしく吹く風ではないが、恋するあの娘を妻と呼びたい気持ちがこみあげてくる。こんな私だのに。)
-------------------------------------
常陸国に赴任した国司たちはこの高浜から舟で鹿島神宮にお参りに行ったのです。
しかしこの昔の霞ヶ浦は海でしたので風が強ければかなり波が荒れて船が出せません。
そのために陸路で行く道も作られたのでしょう。
国府から高浜(国府(こう)の浜が高浜になった?)を経て行方の曾尼駅、潮来(板来)駅を経由して鹿島神宮へ続いたのでしょう。
ですから、古東海道はこちらではないのです。海を渡ったのです。
信太郡の美浦村あたりから船で対岸のかすみがうら市へ渡るのが最短ですが、波が少し静かなら、高浜にまで行かずに菱木川を遡上したのかもしれません。
なにしろ、馬での移動などはあまりなく、奈良平安の乗り物と言ったら「牛車」です。
悪路でも牛がのんびり引く車に揺られてやって来たのでしょう。
その後、前九年の役で源頼義と源義家(八幡太郎)親子がやってきたのは「正月平」を通ったことになっているので(これは私が信じているだけかもしれない)かすみがうら市の出島地区を横断しているように思う。
一方、子安神社と胎安神社の間を鎌倉街道と呼ばれた道があったというが、これを古東海道の道との紹介があちこちに載っている。
しかし、この間にあった道は現在のまっすぐな舗装道路より少し東側に旧道があり、この先は江後田を通りやはり霞ヶ浦を渡ったと考えるべきであろう。
なぜなら、天の川に架かる橋が、壊れて通れなくなっていたので、子安・胎安神社にやってきた八幡太郎義家たちがこの橋を修復したと神社での記録には残されており(言い伝えかもしれぬが)、この神社に来るときにはこの川を軍勢はわたっていない。
また今の天の川より南の土浦までの道は今から39年前の昭和49年に、茨城県で国体が行われた時に整備した「国体道路」であるのだから。
笄崎(こうがいさき)の地名も、弟橘媛(おとたちばなひめ)の笄(こうがい)が流れ着いたとの話からもし来ているのだとすると、菱木川を上ってきたということも十分に考えられる。(地名の記事はこちら)
なんともロマンが広がる。
それと、前に書いたが国府の駅家(うまや)は6号国道の貝地の交差点の少し北側にあったのではないかと考えています。(記事はこちら)
この近くには府中六井の一つで平景清が産湯をつかったという言い伝えまである「室ヶ井」があった。
駅家としてはこの井戸が役に立ったのかもしれない。
好きなことを書いたが、今の土浦で行われている古代の道のルートとはかなり違うので、解釈は今後の発掘調査などで次第にはっきりしてくるでしょう。


五万掘古道(4)-安侯駅家
1週間ほど前に書いていた古代の道の続き記事です。
910年頃になってまとめられた延喜式には、その当時の神社の名前や大きさ、さらに各国を結んでいた街道(官道)に設けられた駅家(うまや)の名前が記されています。
畿内から全国に向かう七道のうち東海道の国に属していた「常陸国」は国府が今の石岡ですから、主要道としては石岡が終点になります。
奈良時代に、それまで人が通っていた道は地形に合わせてくねくね曲がっていたものを、できるだけ平に、直線となるように広い道路を作ることが、それぞれの国に課せられようです。
これは実際に各地で、両側に広い側溝を持った官道と思われる遺跡が発見され、いろいろな憶測を交えながら議論がされ始めています。
しかし、この官道の意味するものがこの五万掘古道のルートを見ていて違って見えてきたのです。
国府石岡から北に伸びるこの古代官道の出発点となっているのは「鹿の子遺跡」と思われます。
鹿の子遺跡は石岡の少し外れにあります。
国府や郡衙(ぐんが)などは恐らくこの常陸国府の中心であり、この奈良時代の始め頃は、まだ東北の蝦夷の脅威に備えていなければならなかったのです。
そのため、この陸奥国の蝦夷への城柵が最初の頃はこのあたりにも設けられたのだと思います。
畿内の回りにも各主要官道に関が設けられました。
それが時代とともに北に移動し、ある程度の大和朝廷の律令制が浸透して来て、その必要性がなくなり、東北地方との境にある「鼠ヶ関」「白河関」「勿来関」の役割が大きくなり、それも次第に北へ北へと小さな城柵が作られて行ったのでしょう。
奈良時代のはじめ頃は、この鹿の子では広大な土地にいくつもの武具や農具などを作る工場群があったのです。
そこではすでに、各種の人口統計や税の台帳なども作られていたようです。
いってみれば武器や食糧の供給基地であり、人馬についても管理がされていたと思われます。
当時の様子をなかなか想像することが困難なのですが、古東海道の道を探求するにはきっとこの時代背景を考えずに推測すると見えるものも見えなくなるように思います。
では鹿の子(常陸国府の官道駅ではなく、軍事拠点)から次の駅は延喜式では「安侯」と書かれています。
これは笠間市(旧岩間町)安居(あご)として地名に残っているあたりだろうと言われています。
この安居という地名もどういう意味なのかはわかりませんが、各地に似た地名があります。
地図で見たら静岡の久能山の麓にも「安居」「根小屋」「古宿」などの地名が並んでいました。
根小屋などは昔の城があった時に家臣などが住んでいたところがその名前で呼ばれているので古いお城の周りによく見かける地名です。
以前「安居千日堂」を紹介した(こちら)時にも、このあたりに駅家(うまや)があったのだろうかと思いを馳せていたのです。
しかし、今回の五万掘古道で見えてきた場所は、もう少し西寄りで、安居の一番北側涸沼川の手前あたりだと思われます。

上の地図で、笠間市安居はこの涸沼川までです。
丁度川が湾曲した場所に近いところに駅家があったのではないかと思います。(確認されていません)

しかし、ここの東西にはしる県道(43号)は比較的新しいもので、あたりもこのような畑などが広がり、何もそれらしきものはありません。
ただ、この道沿いの高速道路に近い場所で昔の建物(倉庫?)跡と思われる遺跡が発掘調査で判明しています。(東平遺跡)
少し南下していくと小さな神社「山倉神社」があります。
神社は古墳と思われる小山の上にあります。

これが神社の入口です。階段を上ると拝殿があり、中には地元の祭りに使われる小さな赤い神輿がありました。
歴史的なものもよくわかりません。

明らかに古墳の上に建てられた神社だと思います。

神社の前の通りは、上の写真のように竹林を持つ大きなお屋敷風の家などがあります。
この神社の前の道を少し東側にいったところの交差点を南に行くと岩間インター近くの東大附属農場や県農業総合センターの前に出ます。

上の写真の正面信号の先の右手こんもりしたところが「山倉神社」です。
左は石岡方面です。

この信号脇に置かれていた供養塔ですが、追分と兼用だったようで右下に「右」左下に「左」と彫られていて、地名が入っているようなのですが、よく読むことができません。比較的新しいものかもしれません。

地図に「墨書土器(騎兵長+)」と書かれた場所近くの写真です。
この場所で「騎兵長+」と墨で底の部分に書かれた土師器杯が発見されました。9世紀前半のものだとされます。
この駅家のあたりにもこれらの騎兵が10人単位以上でいたのではないかと推測されます。
鹿の子遺跡などとの関連や、これより西の涸沼川上流にある笠間市土師(はじ)などの地名との関連を知りたくなりますね。
ああ、やっぱりすぐ近く(北西)の「随分附(なむさんづけ)」などとも隣り合っているのだから、これはすべて関連した名前なのかもしれません。(こちらに書いた記事参照ください)
それからこの前も書きましたが、地図に見える長兎路(ながとろ)はこの官道に関係して付けられた名前ではありません。
漢字を基に古い地名を考えては見えるものが見えてきません。同じ読みの長瀞、長戸路、長土呂、長渡呂、長外路などは皆、川沿いにある地名だと思います。
明日は国指定文化財である「塙家住宅」を紹介します。
ここも私にとってはとても興味深いものでした。
塙(はなわ)という地名もたくさんあります。
塙、小塙などみな少し小高い土地についた名前で、これは漢字そのものがその形状に合わせて作られたものです。
この反対は圷(あくつ)なのですが、どうも崖の下という意味合いばかりではないようです。
すべて川沿いの場所についています。
← よろしければクリックお願いします。
910年頃になってまとめられた延喜式には、その当時の神社の名前や大きさ、さらに各国を結んでいた街道(官道)に設けられた駅家(うまや)の名前が記されています。
畿内から全国に向かう七道のうち東海道の国に属していた「常陸国」は国府が今の石岡ですから、主要道としては石岡が終点になります。
奈良時代に、それまで人が通っていた道は地形に合わせてくねくね曲がっていたものを、できるだけ平に、直線となるように広い道路を作ることが、それぞれの国に課せられようです。
これは実際に各地で、両側に広い側溝を持った官道と思われる遺跡が発見され、いろいろな憶測を交えながら議論がされ始めています。
しかし、この官道の意味するものがこの五万掘古道のルートを見ていて違って見えてきたのです。
国府石岡から北に伸びるこの古代官道の出発点となっているのは「鹿の子遺跡」と思われます。
鹿の子遺跡は石岡の少し外れにあります。
国府や郡衙(ぐんが)などは恐らくこの常陸国府の中心であり、この奈良時代の始め頃は、まだ東北の蝦夷の脅威に備えていなければならなかったのです。
そのため、この陸奥国の蝦夷への城柵が最初の頃はこのあたりにも設けられたのだと思います。
畿内の回りにも各主要官道に関が設けられました。
それが時代とともに北に移動し、ある程度の大和朝廷の律令制が浸透して来て、その必要性がなくなり、東北地方との境にある「鼠ヶ関」「白河関」「勿来関」の役割が大きくなり、それも次第に北へ北へと小さな城柵が作られて行ったのでしょう。
奈良時代のはじめ頃は、この鹿の子では広大な土地にいくつもの武具や農具などを作る工場群があったのです。
そこではすでに、各種の人口統計や税の台帳なども作られていたようです。
いってみれば武器や食糧の供給基地であり、人馬についても管理がされていたと思われます。
当時の様子をなかなか想像することが困難なのですが、古東海道の道を探求するにはきっとこの時代背景を考えずに推測すると見えるものも見えなくなるように思います。
では鹿の子(常陸国府の官道駅ではなく、軍事拠点)から次の駅は延喜式では「安侯」と書かれています。
これは笠間市(旧岩間町)安居(あご)として地名に残っているあたりだろうと言われています。
この安居という地名もどういう意味なのかはわかりませんが、各地に似た地名があります。
地図で見たら静岡の久能山の麓にも「安居」「根小屋」「古宿」などの地名が並んでいました。
根小屋などは昔の城があった時に家臣などが住んでいたところがその名前で呼ばれているので古いお城の周りによく見かける地名です。
以前「安居千日堂」を紹介した(こちら)時にも、このあたりに駅家(うまや)があったのだろうかと思いを馳せていたのです。
しかし、今回の五万掘古道で見えてきた場所は、もう少し西寄りで、安居の一番北側涸沼川の手前あたりだと思われます。

上の地図で、笠間市安居はこの涸沼川までです。
丁度川が湾曲した場所に近いところに駅家があったのではないかと思います。(確認されていません)

しかし、ここの東西にはしる県道(43号)は比較的新しいもので、あたりもこのような畑などが広がり、何もそれらしきものはありません。
ただ、この道沿いの高速道路に近い場所で昔の建物(倉庫?)跡と思われる遺跡が発掘調査で判明しています。(東平遺跡)
少し南下していくと小さな神社「山倉神社」があります。
神社は古墳と思われる小山の上にあります。

これが神社の入口です。階段を上ると拝殿があり、中には地元の祭りに使われる小さな赤い神輿がありました。
歴史的なものもよくわかりません。

明らかに古墳の上に建てられた神社だと思います。

神社の前の通りは、上の写真のように竹林を持つ大きなお屋敷風の家などがあります。
この神社の前の道を少し東側にいったところの交差点を南に行くと岩間インター近くの東大附属農場や県農業総合センターの前に出ます。

上の写真の正面信号の先の右手こんもりしたところが「山倉神社」です。
左は石岡方面です。

この信号脇に置かれていた供養塔ですが、追分と兼用だったようで右下に「右」左下に「左」と彫られていて、地名が入っているようなのですが、よく読むことができません。比較的新しいものかもしれません。

地図に「墨書土器(騎兵長+)」と書かれた場所近くの写真です。
この場所で「騎兵長+」と墨で底の部分に書かれた土師器杯が発見されました。9世紀前半のものだとされます。
この駅家のあたりにもこれらの騎兵が10人単位以上でいたのではないかと推測されます。
鹿の子遺跡などとの関連や、これより西の涸沼川上流にある笠間市土師(はじ)などの地名との関連を知りたくなりますね。
ああ、やっぱりすぐ近く(北西)の「随分附(なむさんづけ)」などとも隣り合っているのだから、これはすべて関連した名前なのかもしれません。(こちらに書いた記事参照ください)
それからこの前も書きましたが、地図に見える長兎路(ながとろ)はこの官道に関係して付けられた名前ではありません。
漢字を基に古い地名を考えては見えるものが見えてきません。同じ読みの長瀞、長戸路、長土呂、長渡呂、長外路などは皆、川沿いにある地名だと思います。
明日は国指定文化財である「塙家住宅」を紹介します。
ここも私にとってはとても興味深いものでした。
塙(はなわ)という地名もたくさんあります。
塙、小塙などみな少し小高い土地についた名前で、これは漢字そのものがその形状に合わせて作られたものです。
この反対は圷(あくつ)なのですが、どうも崖の下という意味合いばかりではないようです。
すべて川沿いの場所についています。


古東海道(足柄峠~上総国~下総国)
今日も2年前に書いていた下書きをUPします。
でも2年前からあまり進歩していないな。
先日作成した古東海道の足柄峠(こちら)の先を少し載せておきます。
昔ヤマトタケルが通ったとされる足柄峠から東側を吾妻の国といったという。
富士山の噴火でこの峠が通れなくなったときはあったが(こちらで書いた記事参照)
さてこの足柄峠から常陸国へのルートであるが、大きく時期によって2つにわかれる。
延喜式に各街道の駅屋(うまや)の名前が載っている。この東海道は現在の東海道と似通った場所を通るとされている。
延喜式が完成したのは平安時代中期の927年のことで、律令制が敷かれた当初(奈良時代の初め710年)からは200年ほど後になる。
現在の東京は湿地帯であり武蔵国に所属していたが、この国府が今の府中市から国分寺市あたりだ。
この武蔵国は最初は東山道の国に属していた。
これが地図でもわかるが東山道から武蔵国府中に行くのではかなり寄り道になってしまう。
そこで宝亀2年(771年)10月27日に「東山道の派遣官吏が上野国、武蔵国、下野国と経由するのは日程が延びて非効率だが、これを東海道に属させて相模、武蔵、下総と経由すると効率的である」との旨の太政官の奏上を天皇が宣下し東海道に移され、陸路が整備された。(Wikipediaより抜粋)
従って延喜式の駅屋(うまや)はこの武蔵国が東海道に編入された後のものだ。

(クリックで拡大します)
見にくいので一部を拡大します。

上の駅屋は推定される場所を示しているに過ぎず全てが確認されたものではない。
大和朝廷と各国の間の馬で伝達のための乗り換えの駅が駅屋(うまや)であり、30里(16km)置きに設置された。
でもヤマトタケルなどが東京湾を渡ったとされて各地にその地名などで名残が見られており、奈良時代の初期までは少なくとも東京湾を舟で渡り上総国(国府:市原市)下総国(国府:市川市)経由で常陸国に入って来ていたはずである。
都(大和)に近いほうが上総で遠い方が下総となるのである。

(クリックで拡大します)
このあたりのルートを追いかけるとかなり面白いのだが、労力も使う。いまだにまとまらないが途中のルートを少し地図に記入して見た。
まずは足柄峠の道から相模国まで。
この相模国は最初は海老名に国府があったというのが一般的だ。しかし未だに確定されておらず4か所くらい候補地があるのだそうだ。
私は大雑把だが、最初海老名にあり、途中で平塚に遷都されたのではないかと考えている。

(クリックで拡大します)
この平塚から先のルートを載せて見る。
葉山から衣笠、走水(横須賀市)ときてここで東京湾を舟で千葉県の富津岬へ渡った。
ここから先は市川まで地図に載せて見たが、これはいろいろな資料から大体の位置は読むことが出来る。
問題はこの先なのだが、これがなかなかわからない。
延喜式のルートを追いかけるのは比較的できそうだが昔の常陸国の入口(榎浦の津)までのルートを追いかけるのが楽しそうなので暇になったらまた始めて見たい。
まあこれも2年前に考えていたのだがまったく進んでいない。何時になったらまとまるのだろうか?
気長にやっていきたい。
記事をまとめておかないと前の記事がお蔵入りとなってしまうのでとりあえずUPだけしまた。
← よろしければクリックお願いします。
でも2年前からあまり進歩していないな。
先日作成した古東海道の足柄峠(こちら)の先を少し載せておきます。
昔ヤマトタケルが通ったとされる足柄峠から東側を吾妻の国といったという。
富士山の噴火でこの峠が通れなくなったときはあったが(こちらで書いた記事参照)
さてこの足柄峠から常陸国へのルートであるが、大きく時期によって2つにわかれる。
延喜式に各街道の駅屋(うまや)の名前が載っている。この東海道は現在の東海道と似通った場所を通るとされている。
延喜式が完成したのは平安時代中期の927年のことで、律令制が敷かれた当初(奈良時代の初め710年)からは200年ほど後になる。
現在の東京は湿地帯であり武蔵国に所属していたが、この国府が今の府中市から国分寺市あたりだ。
この武蔵国は最初は東山道の国に属していた。
これが地図でもわかるが東山道から武蔵国府中に行くのではかなり寄り道になってしまう。
そこで宝亀2年(771年)10月27日に「東山道の派遣官吏が上野国、武蔵国、下野国と経由するのは日程が延びて非効率だが、これを東海道に属させて相模、武蔵、下総と経由すると効率的である」との旨の太政官の奏上を天皇が宣下し東海道に移され、陸路が整備された。(Wikipediaより抜粋)
従って延喜式の駅屋(うまや)はこの武蔵国が東海道に編入された後のものだ。

(クリックで拡大します)
見にくいので一部を拡大します。

上の駅屋は推定される場所を示しているに過ぎず全てが確認されたものではない。
大和朝廷と各国の間の馬で伝達のための乗り換えの駅が駅屋(うまや)であり、30里(16km)置きに設置された。
でもヤマトタケルなどが東京湾を渡ったとされて各地にその地名などで名残が見られており、奈良時代の初期までは少なくとも東京湾を舟で渡り上総国(国府:市原市)下総国(国府:市川市)経由で常陸国に入って来ていたはずである。
都(大和)に近いほうが上総で遠い方が下総となるのである。

(クリックで拡大します)
このあたりのルートを追いかけるとかなり面白いのだが、労力も使う。いまだにまとまらないが途中のルートを少し地図に記入して見た。
まずは足柄峠の道から相模国まで。
この相模国は最初は海老名に国府があったというのが一般的だ。しかし未だに確定されておらず4か所くらい候補地があるのだそうだ。
私は大雑把だが、最初海老名にあり、途中で平塚に遷都されたのではないかと考えている。

(クリックで拡大します)
この平塚から先のルートを載せて見る。
葉山から衣笠、走水(横須賀市)ときてここで東京湾を舟で千葉県の富津岬へ渡った。
ここから先は市川まで地図に載せて見たが、これはいろいろな資料から大体の位置は読むことが出来る。
問題はこの先なのだが、これがなかなかわからない。
延喜式のルートを追いかけるのは比較的できそうだが昔の常陸国の入口(榎浦の津)までのルートを追いかけるのが楽しそうなので暇になったらまた始めて見たい。
まあこれも2年前に考えていたのだがまったく進んでいない。何時になったらまとまるのだろうか?
気長にやっていきたい。
記事をまとめておかないと前の記事がお蔵入りとなってしまうのでとりあえずUPだけしまた。


古東海道常陸ルートの一つの考え
このブロクは、常陸国府としての石岡が古代の東海道の終点であったことから連想される風景、風習などを考えて進めてきました。
でも一向に下総から常陸のルートが見えてきません。
時代により大きくそのルートが変更されたためと思われます。
ですからどんなルートを考えても一部はきっと正解になるのかもしれません。
ここは専門の情報誌でもないので、ここに適当な思いや思いついたことを書いても特に影響もないでしょう。
またこれを信じられても困ります。
その点はご了解のうえ、こんなルートも考えられるという程度にとどめておいてください。
(専門家の方からは多分一笑にふされるかもしれません)

(FloodMapsを使って海面高さを+7mした時の地図にルートを書きこんでいます)
横須賀走水より東京湾を舟で千葉県富津岬近辺に渡り、上総国国府(五井駅近く市川市市役所付近)にやってきます。
ここから下総に行くのですが、上総介などの動向などを見て行くともっと九十九里の方に住んだりしているように思います。
東海道の国司のルートは国道16号、14号と進めば今の道とは当然異なると思うが、下総国国府(市川市国府台付近)にたどりつく事ができる。
さて、そこから先のルートが決まらない。
この原因は、昔は霞ヶ浦、印旛沼、今の利根川などが一体となった大きな内海(香取の海、○○の流れ海などと呼ばれた)となっていて、牛久沼も洪水などで道が変更となり、さらに土浦あたりは古代の東京と同じようにまだ湿地帯となっていたことが挙げられます。
しかし最も大きな要素は、徳川幕府が進めた利根川の東遷工事の影響が大きかったようです。
それまで豊かに稲作や漁業で邑が発達していたところが、洪水が頻繁に起こり、川の上流の土砂が大量に流れてきて地形が大きく変わってしまったことではないかと思います。
そのため、今の街並みなどを見ても昔の流れが見えてきません。
それなら思いきって大胆に推察してみたのが上の地図です。
その考え方のポイントとなったのは「榎浦の津」と場所と「鎌倉街道」および「根本」「牛込・牛渡」「押戸」などの地名です。
市川から北上するルートは松戸、柏、我孫子などを通って布佐へ行くルートを考えるのが一般的です。
戦国時代頃から江戸時代の初めころまではこの布佐から利根町へ渡っていたのはほぼ確実で、そこから北上していたものと考えられています。
牛久沼も時々洪水でこの先のルートもいくつか変更になっています。
しかし、もっと昔の霞ヶ浦を舟で渡ったルートがあったはずなので、このルートを考察する必要があります。
この先は少し考えながらまた2~3回に分けて書いてみたいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
でも一向に下総から常陸のルートが見えてきません。
時代により大きくそのルートが変更されたためと思われます。
ですからどんなルートを考えても一部はきっと正解になるのかもしれません。
ここは専門の情報誌でもないので、ここに適当な思いや思いついたことを書いても特に影響もないでしょう。
またこれを信じられても困ります。
その点はご了解のうえ、こんなルートも考えられるという程度にとどめておいてください。
(専門家の方からは多分一笑にふされるかもしれません)

(FloodMapsを使って海面高さを+7mした時の地図にルートを書きこんでいます)
横須賀走水より東京湾を舟で千葉県富津岬近辺に渡り、上総国国府(五井駅近く市川市市役所付近)にやってきます。
ここから下総に行くのですが、上総介などの動向などを見て行くともっと九十九里の方に住んだりしているように思います。
東海道の国司のルートは国道16号、14号と進めば今の道とは当然異なると思うが、下総国国府(市川市国府台付近)にたどりつく事ができる。
さて、そこから先のルートが決まらない。
この原因は、昔は霞ヶ浦、印旛沼、今の利根川などが一体となった大きな内海(香取の海、○○の流れ海などと呼ばれた)となっていて、牛久沼も洪水などで道が変更となり、さらに土浦あたりは古代の東京と同じようにまだ湿地帯となっていたことが挙げられます。
しかし最も大きな要素は、徳川幕府が進めた利根川の東遷工事の影響が大きかったようです。
それまで豊かに稲作や漁業で邑が発達していたところが、洪水が頻繁に起こり、川の上流の土砂が大量に流れてきて地形が大きく変わってしまったことではないかと思います。
そのため、今の街並みなどを見ても昔の流れが見えてきません。
それなら思いきって大胆に推察してみたのが上の地図です。
その考え方のポイントとなったのは「榎浦の津」と場所と「鎌倉街道」および「根本」「牛込・牛渡」「押戸」などの地名です。
市川から北上するルートは松戸、柏、我孫子などを通って布佐へ行くルートを考えるのが一般的です。
戦国時代頃から江戸時代の初めころまではこの布佐から利根町へ渡っていたのはほぼ確実で、そこから北上していたものと考えられています。
牛久沼も時々洪水でこの先のルートもいくつか変更になっています。
しかし、もっと昔の霞ヶ浦を舟で渡ったルートがあったはずなので、このルートを考察する必要があります。
この先は少し考えながらまた2~3回に分けて書いてみたいと思います。


古東海道常陸ルートの一つの考え(2)
今から1300年前頃の東海道(古東海道)は畿内から海沿いの国を通って終点は常陸国国府(現石岡)であった。
その頃はまだ湿地帯も多く霞ヶ浦も大きな内海で道もそれ程しっかりしたものではなかったと思われる。
その後、唐にならって各国府をできるだけ直線的に結ぶ広い街道が造られた?
でも恐らく山あり谷あり川ありの地形ではこれを完成どころか一部しかできなかったのではないかと思われる。
900年代初頭に作成された延喜式にはこれらの街道に置かれた駅家(うまや)の名前が載っている。
しかし、この頃の下総から常陸間にあったとされる駅家(茜津・於賦・榛谷・曾弥)のルートはどうみても霞ヶ浦を舟で渡るルートではなく土浦側を通っていたものと考えられる。
今の考えでは茜津:柏市藤心、於賦:利根町布川、榛谷:龍ヶ崎市半田、曾弥:土浦市下高津 当たりではないかと見られているが、これも色々な考え方がある。

昔の地形に近い状況の地図で考えないとルートはわからない。
このため上の地図はFloodMapsをつかって海面高さを+7mとして表したものだ。
現在の霞ケ浦周辺を考えるよりももう少し海面を上昇させて考えないとどうも地形が見えてこない。
これはやはり利根川の東遷が大きいのだろう。何回も洪水がおき多量の土砂が上流からながれてきて昔内海であった場所を埋めて行ってしまったということがあったように思う。
さて、今から1100年ほど前には一部陸地も増えて、今の陸側を通れるようになっていたようだ。
それでも下総国府(市川)から柏、我孫子を通り、今の成田線の布佐あたりから布川に舟で渡り、そこから北上したルートであったと考えても良いだろう。(地図の③ルートに近い)
これは少し道は異なるが、後の佐竹街道、初期の水戸街道のルートに近いと考えられる。
また武蔵国(現在の東京)が東山道から東海道の国に組みかえられたのは宝亀2年(771年)の奏上によるので、この組み換え後には武蔵国と下総国府をつなぎルートや柏、松戸あたりから武蔵国に向かうルートなども整備され、どんどん内陸側にルートを変えて行ったものと思われる。
ここではそれより前の8世紀初頭の頃に聖武天皇が各地に律令制を敷き、国分寺を建設させ、都から国司を派遣していた初期の頃の古東海道のルートを考えている。
私の考えているルートは上の地図の黒い波線(①)を想定して考えて見た。

利根町の文間地区には水戸街道とは別にもっと古い道が残されている。
地元では鎌倉海道の一部と言われているが、恐らくこれがその頃の古東海道の一部と考えてよいのではないかと思う。
この道は現在近くまで大型団地が接近しているが、幸い新しい道路建設などが発展するには不便なところで、昔の面影が消えてしまうことが無かったのかもしれない。
この道は何時頃の事かはわからないが、「押戸」に船着き場があり、ここから舟に乗ったことが伝えられている。
(舟を押しだした場所)
右手の山側は文間地区の高台で、昔はこの下の道や田んぼの場所はすべて内海の下になっていたはずである。

押戸の麓のバス停である。
恐らく後の家の1階屋根高さくらいまで水が来ていたものと思われます。

押戸の麓のバス停のあたりから対岸の龍ヶ崎市の方を眺めて見た。
ここから何処へ舟で渡ったんだろう。
対岸の龍ヶ崎市側に向かったと考えるのがもっとも考えやすいのだが、そこから常陸国風土記の信太郡の所に書かれている常陸国の入口「榎浦の津」(駅家もあったそうだ)の湊に行かねばならないのだから、このまま舟で近くまで行ってしまう方が合理的だ。
もっとも「榎浦の津」の場所もはっきりしないので、こちらからではなく成田側から渡ったということも考えられるが、いままで現地に行って感じたことを大切にするので、私にはイメージし難いのである。

(続きます)
その頃はまだ湿地帯も多く霞ヶ浦も大きな内海で道もそれ程しっかりしたものではなかったと思われる。
その後、唐にならって各国府をできるだけ直線的に結ぶ広い街道が造られた?
でも恐らく山あり谷あり川ありの地形ではこれを完成どころか一部しかできなかったのではないかと思われる。
900年代初頭に作成された延喜式にはこれらの街道に置かれた駅家(うまや)の名前が載っている。
しかし、この頃の下総から常陸間にあったとされる駅家(茜津・於賦・榛谷・曾弥)のルートはどうみても霞ヶ浦を舟で渡るルートではなく土浦側を通っていたものと考えられる。
今の考えでは茜津:柏市藤心、於賦:利根町布川、榛谷:龍ヶ崎市半田、曾弥:土浦市下高津 当たりではないかと見られているが、これも色々な考え方がある。

昔の地形に近い状況の地図で考えないとルートはわからない。
このため上の地図はFloodMapsをつかって海面高さを+7mとして表したものだ。
現在の霞ケ浦周辺を考えるよりももう少し海面を上昇させて考えないとどうも地形が見えてこない。
これはやはり利根川の東遷が大きいのだろう。何回も洪水がおき多量の土砂が上流からながれてきて昔内海であった場所を埋めて行ってしまったということがあったように思う。
さて、今から1100年ほど前には一部陸地も増えて、今の陸側を通れるようになっていたようだ。
それでも下総国府(市川)から柏、我孫子を通り、今の成田線の布佐あたりから布川に舟で渡り、そこから北上したルートであったと考えても良いだろう。(地図の③ルートに近い)
これは少し道は異なるが、後の佐竹街道、初期の水戸街道のルートに近いと考えられる。
また武蔵国(現在の東京)が東山道から東海道の国に組みかえられたのは宝亀2年(771年)の奏上によるので、この組み換え後には武蔵国と下総国府をつなぎルートや柏、松戸あたりから武蔵国に向かうルートなども整備され、どんどん内陸側にルートを変えて行ったものと思われる。
ここではそれより前の8世紀初頭の頃に聖武天皇が各地に律令制を敷き、国分寺を建設させ、都から国司を派遣していた初期の頃の古東海道のルートを考えている。
私の考えているルートは上の地図の黒い波線(①)を想定して考えて見た。

利根町の文間地区には水戸街道とは別にもっと古い道が残されている。
地元では鎌倉海道の一部と言われているが、恐らくこれがその頃の古東海道の一部と考えてよいのではないかと思う。
この道は現在近くまで大型団地が接近しているが、幸い新しい道路建設などが発展するには不便なところで、昔の面影が消えてしまうことが無かったのかもしれない。
この道は何時頃の事かはわからないが、「押戸」に船着き場があり、ここから舟に乗ったことが伝えられている。
(舟を押しだした場所)
右手の山側は文間地区の高台で、昔はこの下の道や田んぼの場所はすべて内海の下になっていたはずである。

押戸の麓のバス停である。
恐らく後の家の1階屋根高さくらいまで水が来ていたものと思われます。

押戸の麓のバス停のあたりから対岸の龍ヶ崎市の方を眺めて見た。
ここから何処へ舟で渡ったんだろう。
対岸の龍ヶ崎市側に向かったと考えるのがもっとも考えやすいのだが、そこから常陸国風土記の信太郡の所に書かれている常陸国の入口「榎浦の津」(駅家もあったそうだ)の湊に行かねばならないのだから、このまま舟で近くまで行ってしまう方が合理的だ。
もっとも「榎浦の津」の場所もはっきりしないので、こちらからではなく成田側から渡ったということも考えられるが、いままで現地に行って感じたことを大切にするので、私にはイメージし難いのである。

(続きます)
古東海道常陸ルートの一つの考え(3)
古東海道の初期の頃、もしかしたらまだ律令制が敷かれる前の道を追いかけているのだが、わからないのでとりあえずあまり書物に書かれていないルートを一つ提案しています。
ポイントは
1)水戸街道が江戸時代初期まで「布佐」から対岸の利根町布川に渡っていること。
(布佐=総=麻)
2)芭蕉も鹿島への道はこの布佐から舟で渡っていること。
3)布川から旧文間村へ渡り、そこに鎌倉海道と言われる古道が残されており「押戸」で舟に乗っていること。
4)常陸風土記には信太郡はこの東海道の入口で「榎浦の津」に到着してここが常陸国の入口だと書かれていること。
5)榎の浦も場所が特定されていないが江戸崎が「榎の浦が崎」の名前からきていると考えることができること。
5)信太郡の郡衙が未確定で下君山説が強いが美浦村の「信太(しだ)」にその前の郡衙があったと仮定するといくつかの事象が説明しやすい事。
6)美浦村は昔、「日高見国」といわれ、黒坂命(くろさかのみこと)がここから北を目指したことがうかがえること。
7)陸平(おかだいら)貝塚があり、その近くに「牛込」という地名が残され、対岸のかすみがうら市に「牛渡(うしわた)」地名があり、ここを国司の舟が通った時に残された牛が泳いで渡り力尽きたという伝説が残されていること。
8)石岡の三村地区に「正月平」という地名があり、八幡太郎等の前九年の役でここで正月を迎えたとされること。
9)かすみがうら市の子安神社と胎安神社の間の道(地元では鎌倉街道)が常陸国分尼寺の方からきて、江後田(えごだ)を通り霞ヶ浦につながっていたと伝えられていること。

さて、今回はもう一つルートを考えていたら共通する地名がでてきました。
それは「根本」です。
利根町押戸には「根本寺」がある。 稲敷市にも根本地区がある。 牛込付近に「根本」「根火」地名がある。
かすみがうら市に南根本、石岡側に北根本がある。ここを結ぶと一つのルートができる。
この根本と言う地名や人名は茨城などに特に多い名前で、一般には藤原秀郷の末裔の小野崎氏の一族が、美浦村の根本地区、または稲敷市の根本地区に住み根本氏となり、佐竹氏の秋田転封に伴って秋田にもひろがっていること。
なぜこれが古道と結びつくかははっきりしませんが、根本(ねもと、こんぽん)は仏教伝播、阿弥陀仏のルート、地域で中心になった場所に着いた名前ではないかと勝手に推察したものです。

まあ、これは、他の文献などには書かれたものが無いので私的な推論に過ぎません。
← よろしければクリックお願いします。
ポイントは
1)水戸街道が江戸時代初期まで「布佐」から対岸の利根町布川に渡っていること。
(布佐=総=麻)
2)芭蕉も鹿島への道はこの布佐から舟で渡っていること。
3)布川から旧文間村へ渡り、そこに鎌倉海道と言われる古道が残されており「押戸」で舟に乗っていること。
4)常陸風土記には信太郡はこの東海道の入口で「榎浦の津」に到着してここが常陸国の入口だと書かれていること。
5)榎の浦も場所が特定されていないが江戸崎が「榎の浦が崎」の名前からきていると考えることができること。
5)信太郡の郡衙が未確定で下君山説が強いが美浦村の「信太(しだ)」にその前の郡衙があったと仮定するといくつかの事象が説明しやすい事。
6)美浦村は昔、「日高見国」といわれ、黒坂命(くろさかのみこと)がここから北を目指したことがうかがえること。
7)陸平(おかだいら)貝塚があり、その近くに「牛込」という地名が残され、対岸のかすみがうら市に「牛渡(うしわた)」地名があり、ここを国司の舟が通った時に残された牛が泳いで渡り力尽きたという伝説が残されていること。
8)石岡の三村地区に「正月平」という地名があり、八幡太郎等の前九年の役でここで正月を迎えたとされること。
9)かすみがうら市の子安神社と胎安神社の間の道(地元では鎌倉街道)が常陸国分尼寺の方からきて、江後田(えごだ)を通り霞ヶ浦につながっていたと伝えられていること。

さて、今回はもう一つルートを考えていたら共通する地名がでてきました。
それは「根本」です。
利根町押戸には「根本寺」がある。 稲敷市にも根本地区がある。 牛込付近に「根本」「根火」地名がある。
かすみがうら市に南根本、石岡側に北根本がある。ここを結ぶと一つのルートができる。
この根本と言う地名や人名は茨城などに特に多い名前で、一般には藤原秀郷の末裔の小野崎氏の一族が、美浦村の根本地区、または稲敷市の根本地区に住み根本氏となり、佐竹氏の秋田転封に伴って秋田にもひろがっていること。
なぜこれが古道と結びつくかははっきりしませんが、根本(ねもと、こんぽん)は仏教伝播、阿弥陀仏のルート、地域で中心になった場所に着いた名前ではないかと勝手に推察したものです。

まあ、これは、他の文献などには書かれたものが無いので私的な推論に過ぎません。


東京駅(日本橋)~京橋~銀座通り~新橋 は昔の東海道?
土曜日に銀座に行った時、東京駅まで高速バスでいきました。
最近はJRではなくバスが多いのです。
平日は道路が混んで時間が読めないのですが、土日はほぼ時間どおりです。
帰りも東京八重洲口から1時間で石岡まで来るので楽なのです。

バスは日本橋口に到着です。
多くのバス(到着便)がここに到着します。
八重洲口は出発便です。
駅にはたくさんの高校生? 今頃修学旅行でしょうか?
ここから新幹線に乗るのでしょうか。
最近の修学旅行も海外が多くなったと聞きますが、海外の学校などとの自由な交流を進めた方が有意義だと思います。

銀座の入口は京橋ですが、ここに昔の京橋の石造りの親柱が残されていますが、川はすっかり埋め立てられ、上を高速道路が走ります。
この石造りの橋は明治8年(1875)にアーチ形の橋が架けられたようです。
この京橋の地名も「京都に向かう街道の最初の橋」というような意味とも言われているようですね。
そしてここから新橋まで銀座通りが整備され、煉瓦作りのモダンな街並みができたようです。
まあ江戸の街には水路が張り巡らされ、橋という地名がたくさんありますね。
そのほとんどが埋め立てられたか、または上を高速道路が走ります。

この旧京橋の橋のあった麓に「警察博物館」がありました。

1階にはヘリコプター「はるかぜ1号」と側車付き白バイが展示されていてまたがったりできるようです。

2階から上には今までの警察の歴史などの展示や運転シュミレーターなどもあるそうです。
(撮影は1階のみ可とのこと)


少し先の銀座1丁目入口の「銀座1丁目交番」がありました。
なかなかモダンな建物です。
このとんがった屋根は、京橋のたもとにあった「ガス灯」の頭部を使って残しているそうです。
でも一極集中の東京はやはり問題ですね。
大震災は必ず近いうちにやってきます。
人口や中心官庁を分散させないとひどい目に会いそうです。
最近はJRではなくバスが多いのです。
平日は道路が混んで時間が読めないのですが、土日はほぼ時間どおりです。
帰りも東京八重洲口から1時間で石岡まで来るので楽なのです。

バスは日本橋口に到着です。
多くのバス(到着便)がここに到着します。
八重洲口は出発便です。
駅にはたくさんの高校生? 今頃修学旅行でしょうか?
ここから新幹線に乗るのでしょうか。
最近の修学旅行も海外が多くなったと聞きますが、海外の学校などとの自由な交流を進めた方が有意義だと思います。

銀座の入口は京橋ですが、ここに昔の京橋の石造りの親柱が残されていますが、川はすっかり埋め立てられ、上を高速道路が走ります。
この石造りの橋は明治8年(1875)にアーチ形の橋が架けられたようです。
この京橋の地名も「京都に向かう街道の最初の橋」というような意味とも言われているようですね。
そしてここから新橋まで銀座通りが整備され、煉瓦作りのモダンな街並みができたようです。
まあ江戸の街には水路が張り巡らされ、橋という地名がたくさんありますね。
そのほとんどが埋め立てられたか、または上を高速道路が走ります。

この旧京橋の橋のあった麓に「警察博物館」がありました。

1階にはヘリコプター「はるかぜ1号」と側車付き白バイが展示されていてまたがったりできるようです。

2階から上には今までの警察の歴史などの展示や運転シュミレーターなどもあるそうです。
(撮影は1階のみ可とのこと)


少し先の銀座1丁目入口の「銀座1丁目交番」がありました。
なかなかモダンな建物です。
このとんがった屋根は、京橋のたもとにあった「ガス灯」の頭部を使って残しているそうです。
でも一極集中の東京はやはり問題ですね。
大震災は必ず近いうちにやってきます。
人口や中心官庁を分散させないとひどい目に会いそうです。