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筑波四面薬師(1) - 菖蒲沢薬師

 奈良時代の後期に、法相宗を学んだ徳一法師は若干20歳位の若い時に、京都から東国にやってきた。
そして、常陸国などの主に山岳やその麓に多くの寺を創建していった。
その後会津に行き恵日寺を興し、空海など思想論争などをした優れた高僧ですが、今では東国に建てた寺はほとんど別の宗派になっている。

 延暦元年(782年)に、徳一法師が筑波山に中禅寺を創建し、この寺が筑波神社の隣りにある「大御堂」に発展していったとされます。
徳一法師は、万民安楽の祈願として、この筑波山の「中禅寺」の守護のために筑波山の四面に薬師如来を安置しました。

石岡地区には2つの薬師が配置されました。意外にこの歴史は知られていないようです。少しですが調べた内容と訪れた時の記憶などを残しておきたいと思います。

まず、最初は菖蒲沢薬師です。最近は市のホームページや観光案内などのパンフレットにも登場していますので知られるようになってきました。
私が最初に訪れたのはこの「薬師古道」を地元の森林組合などのボランティアの方が整備されたのを知ってからです。
その前に訪れた人の話を聞くと、山道をかき分け登っていくとその「薬師堂」の佇まいに息を飲んだといいます。本当にそのような雰囲気を持っています。

私が二度目に訪れた時は丁度薬師堂の改修と中の薬師像の修理をしている時でしたので、薬師様はお留守でした。この山道を大きな薬師様を大八車?などで運ぶのはさぞ大変だったと思います。
運ぶために山の周りに道路まで造って行なわれたようです。最初の時になかったお堂への脇道が造られていました。

三度目に訪ねた時は修理も終わり、案内板も増え、きれいになっていました。しかし、昔を知っている人やこの薬師堂の歴史を知っている人にとっては多分違和感のある姿に変わりつつあるようにも思います。
観光として、訪れる人が増えることはとても良いことですが、筑波四面薬師の歴史を是非知ってから行ってほしいものだと思うようになりました。

 さて、菖蒲沢の薬師古道へは、八郷地区の辻のイチゴ団地の所を山側に入っていくとすぐに材木の製材所などがあります。
ここに「薬師古道入口」の看板があり、案内看板に沿って細い上り坂を一気に登ると菖蒲沢の公民館に出ます。ここまで車で入ることもできますが、朝日里山学校に車を置いてハイキング気分で行くのが良いと思います。

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公民館から少し急な山道(丸太などで階段状にしてかなり登りやすくなっています)を約15分程登ると菖蒲沢の薬師堂が見えます。
この少し上から弁天池と薬師堂を見下ろす景色は石岡の景色の中でも1-2を争うほど美しい風景です。
是非新緑の中弁当でも持参して、この古道を散策し、更に上にある龍神岩から見える石岡の町の景色を見ながらノンビリされることをお勧めします。

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上の写真はお堂の修復前のもので、山の中にあるお堂と池のコントラストは新緑の頃などは圧巻です。
今はお堂の登り階段の入口に石灯篭などが置かれています。(最後に載せたスライドの写真は後からのものです)

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お堂のすぐ手前にある石燈籠は、前の写真を撮った山側のところに「のぞき灯篭」などと銘打って置かれています。

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この薬師さまは修復前のものです。かなり大きな立派な像です。本格的な修理を行なっています。

この薬師古道はハイキングなどにはもってこいとということですので、私のHPにUPしたスライドを紹介しておきます。こちらをクリック:スライド(BGM付き)

これから、数日間にわたって、他の四面薬師を紹介します。

筑波四面薬師 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/27 18:15

筑波四面薬師(2) - 北面薬師(山寺)跡(その1)

今日は雨に雪が混じるなど寒い日でした。先日の暑さは何処へ行ったのでしょう。
 さて、先週の土曜日に石岡市にあるもう一つの筑波四面薬師を訪れました。今は廃寺です。
この寺は小幡地区の山中にあった山寺と呼ばれたお寺でありましたが、今はその痕跡もほとんど埋もれてしまい忘れかけています。

 寺があった場所を訪ねて行ってみることにしました。小幡地区を過ぎて十三塚の果樹団地に進みます。
この道は筑波山の昔の筑波神社参道の道でそのまま登っていくと風返峠に到達します。

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 前方に筑波山の二つの頂がチョコンとのぞいています。

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四面薬師の北面にあたる山寺があったとされる場所が良くわからずに近くの山へ何箇所かウロウロ。奥の方まで入って行っては引き返しを繰り返しました。

そして当たりをつけていた右手の小山の麓に埋もれるように看板が・・・・。
場所は、通りから「鈴木観光果樹園」さんの看板を目指して右に入っていきます。通りの左手側にもお店の看板がありますので間違えないように。果樹園の脇を抜けて山の方に真っ直ぐと登ると「筑波霊園」の場所に出ます。
そこに山寺入口の看板が草に隠れていました。しかし、ここから山へ登るのではありません。手前の霊園の手前を右に入るとすぐに開けた広場があり、そこが山寺の跡地です。
私は間違えて山へ15分の登って行って、おかしいと思い引き返し。30分のロスで、足はガクガクになっていました。年には敵いません。昔の遺跡などはよくこういうことがありますので、あまり苦にはなりません。
聞く人も近くにいないことが多いため、もし行かれる方があればと、少し丁寧に場所を説明するようにしています。

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入口に椿の古木が数本。広場の中に入ると周りにはもみじ、竹林などが並んで、そこに古い石塔などが迎えてくれます。

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山寺跡地の看板の山側は霊園となっていますが、造成したままでお墓はほとんどありません。かなり経ったようで、苔むしたりしたままの広場(造成地)が広がっていました。

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やはり、一度行ってみないと何もわからないですね。とても面白いこともわかってきました。

ここ十三塚山寺跡地からの眺めも素晴らしいので、またこの続きは明日書きます。

筑波四面薬師 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/28 19:15

筑波四面薬師(3) - 北面薬師(山寺)跡(その2)

今日は昨日の続きです。今日は雨ですが、山寺を訪れたのは先週の土曜日です。
まずは、周りの景色から・・・。
山寺入口の果樹園と梅の花。先に見えるのは小幡の街です。(下)

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梅もすっかり咲いて素晴らしい里山の風情です。

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十三塚地区も少し登っただけですが景色が素晴らしいです。十三塚から筑波への道は結構急坂となり、一気に視界が開けてくるので、楽しみたいのですが、冬は車は通行止めとなっています。

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さて、この北面薬師(山寺)が廃寺となっているというので何ももうなくなっているのかと思いましたが、違っていました。
この寺にあった薬師様は、現在、麓の小幡地区にある「薬王院」に安置されています。薬王院は小幡の街から、「ゆりの里」の方に右折するすぐ手前右側です。

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では、ここにあったお堂はどうしたのでしょうか?
実は府中(石岡)の街にあった国分寺が1908年に大火にあって焼けてしまいました。そこで、この山寺の山中薬師堂を1910年に移設したのです。意外に知られていないですね。

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 常陸国分寺跡に建てられた薬師堂(十三塚山寺から1910年に移設)。とても立派な薬師堂ですね。
国分寺ではお釈迦様の誕生日(4月8日)に花まつりが行なわれ、桜の満開の中で、この薬師堂の前も大変にぎわいます。こちらで大事にされているのです。

最後に、ここ十三塚の名前の謂れについて言い伝えとして残っている話を紹介します。
言い伝えの内容はいろいろとあっていくつもの話を読みましたが、その中で特に記憶に残った内容を紹介します。記憶をたどって書きますので、幾分違っているかもしれません。
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 昔、筑波山を越えて、この地に一人の旅の僧侶が下ってまいりました。辺りも大分暗くなってきましたので、僧侶は近くにいた里人に「この辺りで泊めてくれる寺などはないだろうか?」と尋ねました。
里人は、「寺はこの先にあるが、今は無住で荒れ果てているので、この先の小幡の街まですぐだからそちらに泊まった方が良い」と勧めたのでした。
しかし、旅の僧侶は「そのようなところこそ私が泊まるのに適しているところだ」と山の寺に泊まることにしました。
僧侶が寺で眠りにつくと、枕元に大きな猫が現れて、「この寺には化け物の大ネズミが住んでおります。このネズミが人を食い殺したり悪さをしており困っておりますが、私一匹ではとても敵いません。私もネズミの言うことをきかないと殺されてしまいそうです。どうかお坊様の力で、他に11匹の猫を集めてきていただきたいのです。12匹の猫でこの化けネズミを退治したいと思います。そして、お坊様の法力を12匹の猫にお授けください。」
と告げます。そこで坊主は翌日、近くから大きな猫を11匹集め、寺に連れて戻りました。そして次の夜を迎えました。
すると、夜中にものすごい大きなうなり声やドタンバタンの大音響が響き渡りました。
これがしばらく続いたのですがやがて辺りは静かになりました。
朝になって見てみると、お寺の中にそれはそれは大きな一匹のネズミと12匹の猫が死んでいました。
僧侶は12匹の猫と1匹のネズミを丁寧に葬って塚を築いたのでした。

このため十三塚と呼ばれるようになったといいます。
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私がこの話を読んだ時は、この寺がどこの寺かなどと言うことは考えもしませんでした。
また伝わる話としては寺ではなく納屋であったり、廃屋であったりします。
しかし、この北面薬師の山寺にまつわる話ではないかと考えるようになりました。
どこにも書かれたものはありません。しかし、この山寺がもっともこの話にふさわしいと感じます。
この寺が何時ごろ無住の寺になったのかは知りません。矛盾もあると思います。
でもお話ですから、そんなに厳密に考えてはつまりません。伝説を生む地にふさわしいと思っただけです。
皆さんも一度訪れてみませんか?
奈良・平安からの風が頬にやさしく吹いてきますよ。
 

筑波四面薬師 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/03/01 19:40

筑波四面薬師(4) - 東城寺(土浦)

徳一法師が筑波山のまわりに配置した四面薬師。石岡の薬師二か所を紹介してきましたが、残りの二か所は土浦市ぼ東城寺と桜川市の椎尾薬師(薬王院)です。

 今日は土浦市の朝望山東城寺を紹介します。先日東城寺の経塚を紹介しましたが、今日は筑波四面薬師としての東城寺です。
場所は現在トンネル工事中の朝日トンネルが開通すればすぐ近くになります。今は上の峠を越えるか、山を廻っていかねばなりません。
土浦市といいますが、昔の新治村です。小町の里からすぐに行けます。

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<朝望山東城寺の山門(仁王門)>

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山門をくぐって進むと、両脇の木々の根がむき出しとなって連なっていました。多くの人が歩いて道が沈んだ歴史が見えてきます。

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そのまま行くと、寺の境内に続く古い石段が続きます。今は脇に車が通れる道もついていますが、やはりこの石段を登らなければ趣がなくなってしまいますね。

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石段を登ると、すぐに寺の鐘楼が見えます。

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寺伝によれば、延暦15年(796年)に桓武天皇の勅願によって、最仙(最澄の高弟)が天台宗の寺として創建したといいます。
その後、鎌倉時代になり小田氏の庇護を受け、真言宗に改宗しました。
江戸時代に土浦藩の土屋氏の庇護を受けて、寺の名前を「東成寺」から「東城寺」に改めたといいます。

本殿は平成9年(1997年)に火災で焼失し、7年後に建て直されました。
平安時代中期の作といわれる薬師如来坐像と日光・月光菩薩(薬師三尊坐像)が県の指定文化財になっていたのですが、今はどこにも案内がありません。一緒に焼失してしまったのでしょう。とても残念ですね。
聞いてみるとどうやら放火による火災であったとも聞きました。

しかし、寺の本尊は今も薬師如来です。新しく造られたといいます。

寺には別に鎌倉時代の作と言われる「広智上人坐像」が寺を再興したとして祀られていました。

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 さて、筑波四面観音は徳一法師が配したものと考えていましたが、ここ東城寺は徳一法師の名前は出てきません。創建が796年です。
徳一法師の筑波山中禅寺を開いたのが782年ということでしたが、会津の恵日寺を建立した(弘仁五年(814)といわれる)後に常陸国にやってきたという説もあるので、もっと時代が遅かったのかもしれません。
また、この薬師についても、山の中腹に、小さな堂宇でも建てたのかもしれませんね。

この近くの古寺「清滝寺」は竜ヶ峰(中央青年の家へ上る桜並木のある場所)に徳一法師により創建され、後に古観音(山の中腹)に移され、戦国期に焼失したが、享保年間に今の場所(小町の里入口奥)にて再建されたといわれています。また後で写真なども紹介します。

それにしても徳一法師については謎が多いです。これは山岳信仰に基づいていることに関係があるのかもしれません。
 

筑波四面薬師 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/02 19:41

筑波四面薬師(5) - 椎尾薬師(桜川市)

筑波四面薬師の最後は、桜川市の薬王院です。昨日UPする予定でしたが時間がなく今日になりました。

場所は(桜川市)真壁町の椎尾(しいお)です。名前の通り椎の木が生い茂る山です。
この椎尾山薬王院は桓武天皇の勅願所として、延暦元年(782年)最仙上人が天台宗の寺として創建したといわれています。
一昨日のブログで書いた土浦市の東城寺と同じ最仙上人ですが、こちら方が14年程前になります。
こちらも鎌倉時代に小田家の庇護を受けて真言宗に改宗しています。

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椎尾山薬王院の入口。ここから道は山へ、いくつものカーブを登っていきます。道は舗装されており車もすれ違えるので、比較的走りやすいです。

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この地は昔から椎の木が多かったようで、樹齢500年近いスタジイの樹叢は県の天然記念物に指定されています。現地の説明看板によると椎尾は昔「志いのを」といわれたといいます。どういう意味でしょうか?

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寺の入口部に建つ仁王門は、1687年に大工棟梁桜井瀬兵衛に完成したものです。立派な造りで見ごたえがあります。市指定文化財です。この門の両サイドには大きな履物が飾られていました。この寺に参拝する時に関係した履物?とも思いましたが、ここは先日ブログで紹介した足尾山の足尾神社と大いに関係があるのかもしれません。
また門の中央の頭上部分には、大きな龍の彫り物があります。

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この薬王院はこのスタジイの自然豊かな中に美しく聳える三重塔がやはりシンボルです。
本当に美しいと思います。
江戸時代 宝永元年(1704年)の建立で銅板葺で、高さは25mです。県の文化財に指定されています。

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本尊である薬師瑠璃光如来像(鋳造)は鎌倉時代の作で三重の塔と共に県の文化財に指定されています。

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本堂は1680年の建立で、市の文化財です。病気平癒、眼病平癒、子授けなどにご利益があるとされています。

この薬師も現地に行って徳一法師の名前は何処にもありません。しかし、関係があったとする伝聞もあるようです。なかなかわからないですね。
 
この椎尾山からは筑波山への登山道(男体山へ)があります。とても美しい寺だと思います。

 

筑波四面薬師 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/04 19:13

筑波四面薬師(6) - 椎尾薬師(2)

 毎年花粉症で悩まされ、この時季がくると活動ができなくなるのは困ったものだ。
あと1カ月くらいはおとなしくして居るしかない。
今日は確定申告書を作成して電子申告をやっと済ますことができた。
去年からe-Taxを導入したが、その後パソコンを新しくしたのでソフトをダウンロードしたり、去年のデータを探したり半日以上かかってしまった。
また去年と今年で同じトラブルが起こった。データ送信でICカードの読み取りにエラーがでた。パソコンを立ち上げなおして、再送信したらうまくいった。何故か?
簡単なようで年に1回しか操作しないので覚えていられない。

 さて今日は、そのなことでいつもなら休みの日にデータを少し書きためているのだが、あまりストックもないので、昨日最後といって紹介した椎尾薬師の続きを書きます。
この薬師(薬王院)はその山門や三重塔も素晴らしいのですが、少しまわりに気になるところがありました。

まずは鐘楼です。写真のバックに見えるのが三重塔(きれいですね)、右手が本堂で瑠璃殿です。
この鐘楼について「土井晩翠」の漢詩の碑があります。
暁鳴鐘鼕鼕梵刹清 綈袍戀戀有故人意
(暁に打つ鐘の音はとうとうと響いて、寺が清らかである。その音色は故人の温情と恋慕う意がある。)

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本堂の手前の建て屋側に「ふどうの水」なる湧水があります。恐らく昔から清らかな水がわき出ていたのでしょう。不動明王を祀っています。(ひらがなでかかれていますが不動の水?でしょうか)

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さて、山門から下りずに脇の道から下りたら面白い碑が立っていました。

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原石(あらいし)を七曲り越え 不動越え 馬車で運んで 手造り仕上げ  要一

昭和十三年本堂東の軒下で要一がお寺の仕事をしていた頃、お寺の墓の上り口に七寸丸位の杉の木がありました。 それはいつも虫に食われやにを流している可哀そうな杉の木でした。 ところがそれから五十余年の歳月がたち、今では見事な大杉になりました。
私達はその杉の木を見るたびに少年の日を思い出し、杉の木様と呼びたくなります。  要一文
  (昭和十三年当時   石工要一 十七才)

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この寺をこよなく愛したという「平良兼公」の碑がありました。平良兼は上総の介としてやってきた平高望の次男です。高望の長男は国香です。また良兼は将門の伯父にあたります。
真壁町羽鳥にこの平良兼の城(館)があったといわれています。

平将門はこの伯父良兼の娘良子を掠奪し、それが将門の対立につながっていったなどとする話もあった。
海音寺潮五郎の将門を描いた小説「風と雲と虹と」にもこの辺りの話もでてきたような・・・。
また菅原道真の第三子である菅原景行がこの椎尾の里に住んでいたとか・・・・。
また菅原景行が父道真をひそかに羽鳥の地に埋葬した(天神塚古墳)とかいろいろと伝わっています。

明日はギター文化館に行きます。職場に来ているフィリピン人を一人誘っています。
どんな感想を持つか知りたいので・・・。本人は喜んでいたが、いい迷惑かな?
ことばの理解が少なくてもある程度感じるところがあると思っています。
 

筑波四面薬師 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/03/05 17:24
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