経塚

経塚(きょうづか)とは一般には、仏教の経典を筒などに入れて、土の中に埋めた場所を言うといいます。
それはまた、末法思想が流行った時に経典の紛失を恐れて始まったといわれています。

しかし、ここ石岡地区に残された経塚という場所が2か所あります。
いずれも親鸞上人に関係しているのですが、1か所は12月7日にブログ(親鸞750回忌)の中で紹介した「喜八阿弥陀」に係る「経塚」です。

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場所は小美玉市与沢地区で、難産で亡くなった喜八の妻の霊を静めるために、親鸞上人が経典の梵字を小石に一字ずつ書いてそれを塚に埋めさせたところだといいます。
それ以来霊が現れなくなったと伝えられているところです。

もう一か所は石岡市貝地の高浜街道沿いにあります。「茨城の地名発祥の地」の看板のほんの少し手前です。

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現地には説明看板はありません。
誰か個人が建てたものかと不思議に思いながら前を通っていました。

ここにも「聖跡御経塚」と記されています。

ネットで調べてみると内容を紹介しているものを発見しました。

茨石通信「わくわく通信」2010年12月号の「わくわくふるさと紀行」の記事です。

その概要は

「その昔、文字の書かれた小石がザクザクと出てくる畑があり、「府中経塚」と呼ばれていました。
その場所は、石岡市の小目代で、ここに親鸞聖人の伝説が残されていたのです。

 その昔この近くに農家があり、そこの嫁さんが親鸞聖人の教えを受けて、毎晩講中に出かけていました。あまりにも続くので、そこの舅は嫁に男ができたものと早合点して、ついには言い争いになり、挙句の果てには、刀で嫁を袈裟がけに切りつけました。
からくも一命を取り留めましたが、その傷がもとで後に亡くなりました。

その後、不吉なことがいくつも続くようになり、ある時に嫁が信仰していた名号「南無不可思議光如来」の掛け軸を開いてみると、掛け軸は見事に袈裟がけに切れていたといいます。

それが今、本浄寺の寺宝として伝わる掛け軸「袈裟懸け名号」です。

また、江戸時代後期、春の日に巡礼がやって来て、経塚から経石を掘り出し持ち帰りました。

それを知った農夫たちも石を掘るようになりました。

領主がそれを聞き、みだりに掘ることを禁じました。

大正時代になり、街道の道路改修工事が行われ、この経塚が道路にかかることが分かり、この遺跡を新道の脇に移すこととなり、「親鸞聖人御旧蹟」と刻まれた大きな石碑が建てられました。

右には「聖跡御経塚」、左には「聖徳太子尊」、中央の前には小さな石が置かれ、仏説無量寿経が記されています。

建設には、本浄寺のほか9ヵ寺、400名近くの信徒たちが名を連ね、大正14年2月1日の完成だといいます。」

となっています。

経塚は最初の方に書いたように経典を埋めたところが多いようですが、このように「阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経」の全二万六千六百字あまりを、小石に一文字ずつ書いて埋めることも行なわれていたのです。

一字一石経と呼ばれているようです。

  


経塚の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/30 18:39

経塚(2)

 1月に親鸞聖人の経塚を2か所紹介しましたが、調べてみるとここ石岡市にもう2か所一般的に言われている経塚(きょうづか)があることが判明しました。
場所は北谷経塚と嘉良寿理で、ともに歴史学上重要なものと言われています。

北谷経塚の出土品(金銅経筒)は上野の国立博物館の考古展示室に展示されているようです。
この資料によれば、室町時代・大永2年(1522) のものとのこと。

経塚というのは、平安時代にひろまった末法思想の影響で造られるようになったといわれ、大切なお経を金属製の筒などにいれて、土の中に埋めた場所と言います。
末法とは、釈迦の死後2000年たつと訪れる、仏の教えが廃れ、世の中が乱れる時代のことです。
その後、56億7000万年後に弥勒如来が現れ、再び仏教が栄える時代がやってくると信じられていました。その時まで経典を保存するために、経典を容器に収め、地中に埋納したのです。

北谷となっていますが、昔の地名では尼寺ヶ原の北の方に「北谷」とあるので今の「北の谷」地区でしょう。石岡二高の少し北側の方です。

もうひとつの嘉良寿理(からすり)経塚についても国立博物館にて展示されたようですが現在は石岡市中央公民館(柿岡の市役所支部のとなり)で展示されているそうです。
石岡市のHPに写真が載っていました。 
 これらは、花崗岩製の石櫃(いしびつ)の中に経典を入れた筒を収め、塚を築いて埋納したものです。
結構立派なものですね。筒の表面に「大永3年(1523)、甲州高屋住道善 小聖善貞」と刻まれているとのことです。北谷のものとほとんど同じ時期ですね。

調べてみると近くにもうひとつ立派な場所がありました。土浦市の東城寺の裏山です。この寺は筑波四面薬師の一つです。
大分興味が湧いてきましたので行ってみることにしました。
そのレポートはまた明日に紹介しましょう。 
 

経塚の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/23 19:10

経塚(3)

 今日は土浦市の東城寺の経塚です。場所は小町の里の少し西側です。
東城寺についてもとても面白かったので、また後で紹介しますが、筑波四面薬師の一つです。
さて、今回のテーマは経塚はこの寺の裏山100m奥にありました。
訪れたのは先週の土曜日です。東城寺の石段を上ってやっと境内に到着。すると7~8人位の年配の団体さんが来ていました。
「今日はこれだけお参りしたから、きっとさぞご利益があるよね」などと言っていましたので数か所を回ってきたのでしょうか。
私は一通り見てお参りを済ませて早速裏山へ。山道を登ること約100mとすぐです。

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そこには番号がふられた12か所の経塚群がありました。日本三大経塚だそうです。
私が登ったので、何かあると後から団体さんがふうふういいながら登ってきました。
そして一言「なんだ。これだけか。」
そうなのです。たったこれだけの場所なのです。100mとはいえ山道を登ってこられて御苦労さまでした。
興味のない方にとっては何の変哲もない広場に過ぎません。少し余計なお世話とは思いましたが、経塚の説明を少しばかり披露しておきました。

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筒に書かれた「天治元年」は1124年。「保安三年」は1122年。でしょうか。
石岡の親鸞の経塚はこれより約100年後であり、その他の北谷経塚などは約400年後となります。
末法思想の元年となるのは1052年(釈迦の死後1500年とされる)ともいわれているようですので、北谷・嘉良寿理経塚は、釈迦の死後2000年に大分近いことになりますね。

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12か所の経塚は約20m四方くらいの山の斜面に点在しています。

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12か所の中でもNo.1の経塚は「大塚」といわれ、柵で囲って保護しておりました。(下)

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この経塚の施主は常陸大掾である平(多気)致幹(むねもと)といわれており、石岡とも大いに関係しています。
致幹は北条(つくば市)にあった多気城を拠点としていたと思われますが、勢力を拡大し財力、文化力に優れていたといわれています。ここ東城寺は当時天台宗(現在は真言宗)で、この平致幹がこの寺を外護(げご)(特別に寺院などを保護すること)していたといわれています。
平致幹の娘と源氏の祖といわれる源頼義が一夜を共にして娘をもうけた(前九年の役の時)とされており、後三年の役の引き金にもなったというのも面白いですね。
また平致幹の孫の代で下妻氏や真壁氏が誕生します。

石岡にいると「常陸大掾」平氏の話は良く聞くのですが、この多気大掾時代の平氏はあまり話題になりません。もう少し大きく括って眺めてみないと全体像が見えないですね。
 

経塚の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/24 19:28

雷電山古墳と経塚(玉里)

 もうだいぶ前になりますが、経塚(きょうづか)という場所をいくつか紹介してきました。(こちら

小美玉市の旧玉里村地区を散策していて、また一つ見つけました。

玉里の旧役場の方から先日紹介した素鷲神社の方に曲がってすぐです。

幼稚園等も経営する大きな寺「照光寺」の入口にあります。

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中心地から少し素鷲神社の方に行くと直ぐに左手にこんもりとした木々の生い茂る場所があり、そこに地蔵像等が置かれています。

この辺は(玉里)船塚古墳という6世紀前半の古墳がある場所です。、

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その反対側(右側)には大きなお寺があります。「照光寺」と書かれており大きな観音像が置かれていました。

今日のテーマはこの入口の門の右手にこんもりとした山があります。
これが雷電山と言われる古墳だそうです。

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小山の上にお宮があり、鳥居をくぐって石段を登るようになっています。
しかし、5~6年前の写真を見るとこの鳥居は無いようですので、最近作られたもののようです。

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若葉の碧がきれいにはえて、気持ちがいいです。最近整備したようです。

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お宮の入口の左右には風神・雷神像が置かれています。これも新しいようです。

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絵馬もたくさん置かれています。

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石階段の登り口にあった看板に、ここの「経塚」の説明が載っていました。
とても興味深い内容です。

末法思想が流行った室町時代に各地でお経を筒などに入れて、世の中が復活した時まで残しておこうとしたものです。

面白いのはお経を経筒に入れ、更に壺の中に入れて埋めたということですね。
常滑は有名なので焼き物は知っていますが、渥美の壺というのはあまり聞いたことがありません。
調べてみると、この渥美の古窯というのは、とても大変なもののようです。

国宝もあるそうですので、こんなところに何故あるのかが不思議です。

村(今では小美玉市)の文化財とのことですがもう少し詳しく調べたほうが良いのではないかと思います。

鎌倉時代初期ということで、室町より前ですのでかなり貴重なものではないかと思われます。

この辺の豪族が渥美半島の窯元に壺を作ってもらったのでしょう。看板の写真では壺の模様がよくわからないので、いつか調べてみたくなりました。

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さて、ここにある照光寺は浄土宗の寺院で、古い山門が残されています。

現地の説明文によれば

「平成9年の解体修理工事の時に、墨書が発見され、江戸時代の寛文2年(1662)に府中町(現石岡市)の大工竹澤茂太夫が建て、その23年後に修理されたことがわかる」

となっています。大工の名前がわかる珍しいものだそうです。

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本堂は再建しているのか、工事中でした。



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経塚の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/05/24 19:33

経筒出土地

 石岡市柴間のギター文化館の前の畑に 県指定考古資料「経筒(石櫃付き)」出土地 という立て看板が置かれている。

通り沿いにあるのだが、ギター館に来た人もおそらくあまり目にしていないかもしれない。

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土浦市の東城寺裏山などの経塚について今までにいくつか記事を書いてきたが、嘉良寿理(からすり)でも発見されたという情報は前から聞いていた。

そしてこれが柿岡の中央公民館で展示保管されていると説明されていたのはHPなどで見ていたが、この場所がギター文化館の真正面の位置であることは、ギター館に何度も足を運んでいても今まで気が付かなかった。

今年6月のふるさと風の会10周年記念展の時に初めて気が付いた。

ここで発見された経筒には「大永3年(1523)、甲州高屋住道善 小聖善貞」と刻まれているそうです。

石岡ではそのほかに北谷経塚があり、こちらの経筒は東京国立博物館に保管されているようです。

経塚の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/20 23:22

かすみがうら市文化財一般公開(3)-文殊院(2)

 今日も志筑の文殊院さんの展示品の紹介です。

経塚から発見された経筒と経石。
一般には博物館などに保管されることが多く、お寺で保管してあるものを見るのは初めてでした。

末法思想が流行った平安時代後半から鎌倉時代にかけて仏教の経典を後世に残そうと紙などに書いた経典を金属製の筒に入れ、さらに陶器などの筒にそれを入れ土に埋めた。

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これは左が渥美焼きの外壺、右の小さな筒が銅製の筒。
平安時代のものだそうです。
かなり古いですね。

石岡の嘉良寿理で発見された経筒は八郷の中央公民館?で保管展示されていますが、1523年のものです。
もう一つ北谷経塚で見つかった経筒は室町時代・大永2年(1522) のものとのことで、こちらは東京上野の国立博物館の考古展示室に展示されていると聞いています。

ここのはそれよりだいぶ古そうです。(年代は正確に書かれていなかったが・・・)


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上の写真の右側は安元2年(1176)と銘のある経筒の外壺(土製)
(安元二丙申年正月二十三日)

左側の小さな石塔は 室町時代 伝熱田市出土の五輪塔と書かれていました。
正面に梵字でキャ・カ・バ・アと線刻されていると説明があります。

何故このお寺にこのように古いものが何気なくあるのだろうか?

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こちらも経塚と同じくくりだが、経典の字を1字1石で書いて埋めたもの。

石岡でも貝地に親鸞聖人の碑があるし、小美玉にも喜八阿弥陀近くに親鸞聖人の経塚がある。
平べったい石に書いた文字が消えずに残っている。
説明書きはありませんでした。

経塚の話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/11/15 08:46
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