赤穂浪士

今朝は久しぶりに寒いと思ったら、何か白いものが降ったようである。初雪か?
有名な赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日ということで、この時期になると、何かと話題が多い。
さて、ここで、常陸と赤穂浪士の意外な関係を少し紹介してみたいと思う。
赤穂浪士は大石内蔵助をはじめ四十七士が主君の仇討をするのであり、皆播州赤穂の出身と思われているようですが、実は半数近くが常陸国真壁、笠間、麻生、東海村などの出身者なのです。
これは、主君浅野家が最初に立藩したのが「真壁藩」でした。そして加増して笠間藩へ移ります。
もう少し詳しく書くと、豊臣秀吉の妻「ねね」の妹が嫁いだ浅野長政は関ヶ原の合戦で家康側につき、和歌山で37万6千石を有したが、家督を子供たちに譲り、この浅野家本家は広島の藩主となります。長政は隠居して真壁藩5万石の藩主となります。
その後、真岡藩2万石の三男(長重)が真壁藩を継ぎ、大坂の役での戦功が認められて真壁藩から笠間藩5万3千5百石に転出しました。
しかし、その子(長直)の時、佐白山頂にあった城への往復が大変であり、麓に藩庁を建てたのが、新城を築いたとして武家諸法度にふれ、正保2年(1645年)赤穂藩5万3千石に転封となったのです。
討ち入りが行われたのはこの57年後であり、討ち入りに加わった年配の方はこの笠間・真壁の出身者が多かったといわれています。
堀部安兵衛の父、堀部弥兵衛は笠間の生まれで、義士の最年長の77歳でした。

 どうですか? 意外に身近に関係者がいるかもわかりませんね。
浅野長重の墓は真壁の「伝正寺」にあるといいます。
ちょっとひなびた温泉「伝正寺温泉」(鉱泉)などもありますので、一度探してみては?

  denshouji.jpg

ここは、文豪芥川 龍之介や室生犀星なども泊まった宿としても知られ、日帰り入浴500円?くらいだったと思います。
宿のおかみさんがお茶を入れてくれますのでお話などもできるでしょう。

寺は目の前です。
赤穂浪士四十七士の土人形(益子焼)などもあるとのこと。
昔行った時は気がつかなかったが・・・・。
  

仇討ち | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/12/16 20:06

赤穂浪士(2)

 今朝は久しぶりに冷え込み車も霜で真っ白でした。
こんな日は筑波山がきれいです。
先日書いたように下り坂の先に急に筑波山が見えると美しさにハッとします。

 さて、今日も赤穂浪士討ち入りの話の続きです。
赤穂浪士が討ち入りした吉良邸は元禄14年8月19日に呉服橋内から本所(現両国3丁目)の松平家の屋敷へ屋敷替となったのですが、理由は良くわかりません。
討ち入りをし易くしたのではなどともいわれています。

さて今日は、この引っ越し後の本所吉良邸の隣りにいた土屋逵直(なおみち)と土浦藩の土屋家の関係について調べてみました。
討ち入りの際に、赤穂浪士の求めに対し、吉良家には加勢しないことを約束し、灯りを掲げ、堀を越えてくる者がいたらば矢で射てと命じ討ち入りの手助けをしたということで知られています。

 この土屋家の祖先は武田信玄・勝頼に仕えた「片手千人斬り」の逸話でしられる土屋昌恒なのです。
昌恒は武田勝頼に殉じて亡くなりますが、その子忠直が土屋家の存続を許され、相模3千石を拝領し、その後出世して久留里藩(現千葉県君津市)2万石に出世します。
しかし、その2代後の土屋直樹が狂気の振る舞いがあるとして藩を取り上げられてしまいます。
その長男が吉良邸隣りに住んでいた土屋逵直で、3000石の旗本寄合として家督を継いでいたものです。

では土浦の土屋家との関係ですが、これは分家になります。
久留里藩2代目土屋利直の弟土屋数直(土屋忠直の次男)は徳川家光に仕え、徐々に頭角を現し、出世して若年寄まで出世します。
土浦は戦国時代に小田氏の居城でありましたが、江戸時代に入り藩主は幾度となく変わりました。
そこに1662年に土屋数直が1万石で入り、その後年寄りまで栄進し、4万5千石まで加増されています。
数直はほとんど江戸詰めと言われていますが、かなりの文化人としても知られているようです。

土屋家は2代目で一旦土浦から出ますが、またすぐに再任されて土浦藩はこの土屋家が長い間治めることになりました。

忠臣蔵の映画やドラマを見ていると必ずこの隣りの土屋家が出てくるのですが、こんな関係があったのですね。
色々なことを知ってみるとドラマの面白味も倍増しそうです。

 さて、私は新潟県の生まれですが、母方の里が長岡にあり子供の時には毎年夏に出かけていました。
この長岡藩は牧野家なのですが、笠間の浅野家が赤穂に移動した後に、この牧野家の分家が笠間に入りました。
このことを知ったのはまだ5年ほど前のことです。
意外に関係があるものですね。
 

仇討ち | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/17 19:21

曾我兄弟の仇討

今日は冬の関東らしくカラリと晴れ久しぶりにスッキリした休日となった。
しかし、何処も行かずにノンビリ過ごした。

昨日まで赤穂浪士と常陸の関係を少し書いたが、この中で笠間出身の堀部弥兵衛のことを紹介しました。
この娘婿が堀部安兵衛である。
堀部安兵衛を有名にしたのは高田馬場の決闘で助太刀に駆けつけ数人を切り倒したとして有名になったのですが、この時は中山安兵衛といいました。

決闘のうわさがたちまち江戸中に知れ渡り、これを聞いた堀部弥兵衛が娘の婿に迎えたのです。
しかし、この決闘の話は後に尾ひれがついて美化されたり、親の敵であったり話はいろいろに変化していきます。
元をたどると伊予西条藩の二人が喧嘩をして決闘をすることになり、助っ人が足りなくなり友人の手助けしたようです。
でもさぞかし強かったのでしょうね。少なくても3人は切り倒しているようです。

話は変わりますが、今日は富士の裾野での曾我兄弟の仇討ちと石岡の関係を少し紹介しましょう。
これは、赤穂浪士の仇討、伊賀越えの仇討と並ぶ日本三大仇討事件というそうです。
私も、昔子供の頃の読み物で読んだことがある程度しか知りません。

時代は鎌倉時代初期、源頼朝が富士に巻狩りに行った時に起きました。
「工藤祐経との所領争い雇った刺客に襲撃され、父を殺された兄弟が源頼朝の家臣となっていた工藤祐経を富士裾野で行われた頼朝の巻狩り(鹿や猪の狩りであるが、軍事訓練が目的)の時に親の仇討をした」
という内容ですが、この時にここ石岡が関係してくるのです。

常陸国には大掾(だいじょう)職(常陸介の下の位だが実質の統治職)を代々多気氏(義幹)が就いていたが、これを欲しい守護職八田氏(知家)がこの事件をきっかけに源頼朝に義幹に謀反の疑いがあると換言したのです。
曾我兄弟の仇討の後、源頼朝は自分も狙われたとのうわさもあり、また鎌倉に残っていた弟に野心の疑いがあったりし、大分疑心暗鬼になっていた時であり、すぐに大掾(多気)義幹は鎌倉に呼びつけられました。
義幹は申し開きがうまくできず、また八田の仕掛けた罠にはまって領地と大掾職を取り上げられてしまいます。
しかし、この職をねらっていた八田知家に大掾職はいかず、水戸の同じ家系の馬場氏に大掾職が渡りました。

石岡の人達はこの大掾氏が平国香より始まった、平家の子孫であると良く言います。
しかし、この平大掾職も一族ではなく、この時に変わっているのです。
もっとも平国香が没した後、家系を引き継いだ多気大掾の時代は約220年くらいですし、その後の大掾職についた馬場資幹がこの石岡の地(貝地)に「石岡城(外城)」を築き、約200年後に馬場詮国が旧国衙に府中城を築いて滅びるまで、馬場大掾は380年近く続いたのです。

ところで、多気義幹は曾我兄弟の仇討事件後に失脚しましたが、次男茂幹は芹沢氏(新撰組の芹沢鴨はこの一族)の祖となったというのも何か知ると面白いですね。
 

仇討ち | コメント(1) | トラックバック(0) | 2010/12/18 19:19

若松町の仇討事件

このブログも130回程になり、過去のブログを読みたいという方もでてきた。
うれしいことだ。 そこで、自分の整理もかねて今までのものを一覧表にまとめてみた。
左の項目のプロフィールの最後にURLへのリンクを貼ったので、もし興味がおありの方はクリックください。
一覧表が出ますので、興味のあるタイトル等がありましたらクリックして見てくださいね。

さて、昨日は赤穂浪士、曾我兄弟の仇討事件を書いたので、もうひとつここ石岡で起きた仇討事件について紹介しましょう。
この大事件は、幕末の安政三年(1856年)1月に府中平村若松町で起こりました。

ことのいきさつは越後(新潟県)新発田藩(10万石)で起きた事件がきっかけでした。
仇討事件の前年10月に新発田藩の飯島量平の母(49歳)が傍輩の飯島惣吉により殺害され、姉も深手の傷を負ってしまったのです。
そして惣吉は行方をくらまし逃げてしまったのです。
そこでまだ16歳であった飯島量平は母の仇討を藩に申し出て許可されます。
また当時江戸詰め藩士であった伯父榎本周吾も助太刀を申し出ます。
こうして、敵を探す旅に出るのです。
新発田から会津方面へ敵の消息を求めていきます。
そのうち、敵は米沢から仙台に行き、そこからまたいなくなったとの情報を聞き、三春、相馬、岩城、上田宿などを探しまわったといいます。
更に小名浜、中村、仙台、白石、福島、二本松、須賀川、棚倉、水戸と探してようやく手がかりを得たのです。
敵の惣吉が府中(石岡)宿香丸町で髪結床菊蔵のところに髪床職人になって身を隠していたことが判明したのです。

相手を確認して、見張っていると、追手に気がついた惣吉が夜中に逃げ出したため、町はずれで切り殺したのです。
この殺人は新発田藩の仇討許可証を持参していたため、仇討として認められ、丁寧に扱われたといいます。
相手の確認には新発田藩江戸の上屋敷から三人の使者が来たといいます。

また、その後、仇討をとげた飯島量平は新発田へ戻り、出世を果たしたといいます。
新発田藩から府中へは関係者に謝礼の金や礼状が届いたとそうです。

 仇討事件はテレビでは時々でてきますが、実際にはあまり多くはなかったのでしょうね。
このように遠いところから探しまわって本懐を遂げたのですから、話としては日の目を見ても面白いだろうと思います。

今日は仇討事件ついでに身近な事件を紹介しました。(石岡市史 下巻を参考にしました)
 

仇討ち | コメント(1) | トラックバック(0) | 2010/12/19 18:50
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