本牧メルヘン
今日は台風が日本海側を北上している影響で風が強く、暑さの点では助かっている。
韓国へ上陸したはずの台風が日本列島に戻ってきて大きなニュースになっている。
日本のニュースや天気予報も日本列島ばかりで隣国である韓国はニュースにならない。
もし、同じように報道していれば距離感なり我が国の立地と他国との関係などももう少し身近に感じられるに違いない。
ここ石岡も多くの百済人(要人)が自国が滅ぼされた時にやってきて土着したようである。意外に身近なところに大和民族や朝鮮半島人、アイヌ人や縄文人が住んでいたことに驚かされる。
ところで、先日NHKテレビの歌謡番組で鹿内孝が「本牧メルヘン」という歌を歌っていた。
私は生れは新潟県であるが幼い時から小学1年生までこの本牧(横浜市)に住んでいた。
1972年に発売されたこの歌はほどほどのヒットで記憶にある人は多くはないと思うが、変わった歌詞が私の小さかった時の思い出と共に蘇った。
本牧で死んだ娘は鴎(カモメ)になったよ
ペットのブルースに送られて (ペット:トランペット)
踊るのが大好きといってたあの娘が
さびしさに耐えかねて死んだのさ
ジョニーもスミスの泣くのを忘れて
海鳴りに向かって歌っていたよ
本牧で死んだ娘は鴎になったよ
なぜかしら誰でもがそう思う
まったく寂しい歌である。作詞家の阿久悠が「あまり売れなかったが何故か愛しい歌」として選んでいる。
URL:阿久悠「あんでぱんだん」
阿久悠はこの後大ヒットとなった「ジョニーへの伝言」を書き、ジョニーを再登場させているのである。
私が本牧で育った頃は、まだ戦後の貧しい生活があたりまえで、アメリカ兵の後についていけばチョケレートが貰えた。「ギブ・ミー・チョコレート」の英語を知らぬ間に使っていた。
アメリカ兵と付き合って派手な服装をしていた日本娘は「パンパン」などと呼んで蔑みのことばで呼ばれていた。
しかし、当時アメリカ人の屋敷が広大な敷地で一面の芝生の緑が目に焼き付いてもいる。
こちらは粗末な家に住んでいたが、うらやましいとは感じなかった。まだ家がなく海岸沿いの崖に掘られた洞穴や山の上にある御堂に住んでいた人もまだいたし、学校の同級生にもいたのである。
恐らく、ここ石岡では経験することはなかったと思う。阿久悠があえて国籍不明の(無国籍の)歌を作ったのも、またその象徴として本牧を選んだのも何か今となって感じるものがある。やはり阿久悠は天才なのであろう。
ここ石岡に来て、この町を見る感性がきっとこの頃からのものなのかもしれない。
本牧は昔海だったところは埋め立てられてはるか先に行かなければ海がない。昔は海苔などを採る漁師も大勢いたのだが・・・・・。
韓国へ上陸したはずの台風が日本列島に戻ってきて大きなニュースになっている。
日本のニュースや天気予報も日本列島ばかりで隣国である韓国はニュースにならない。
もし、同じように報道していれば距離感なり我が国の立地と他国との関係などももう少し身近に感じられるに違いない。
ここ石岡も多くの百済人(要人)が自国が滅ぼされた時にやってきて土着したようである。意外に身近なところに大和民族や朝鮮半島人、アイヌ人や縄文人が住んでいたことに驚かされる。
ところで、先日NHKテレビの歌謡番組で鹿内孝が「本牧メルヘン」という歌を歌っていた。
私は生れは新潟県であるが幼い時から小学1年生までこの本牧(横浜市)に住んでいた。
1972年に発売されたこの歌はほどほどのヒットで記憶にある人は多くはないと思うが、変わった歌詞が私の小さかった時の思い出と共に蘇った。
本牧で死んだ娘は鴎(カモメ)になったよ
ペットのブルースに送られて (ペット:トランペット)
踊るのが大好きといってたあの娘が
さびしさに耐えかねて死んだのさ
ジョニーもスミスの泣くのを忘れて
海鳴りに向かって歌っていたよ
本牧で死んだ娘は鴎になったよ
なぜかしら誰でもがそう思う
まったく寂しい歌である。作詞家の阿久悠が「あまり売れなかったが何故か愛しい歌」として選んでいる。
URL:阿久悠「あんでぱんだん」
阿久悠はこの後大ヒットとなった「ジョニーへの伝言」を書き、ジョニーを再登場させているのである。
私が本牧で育った頃は、まだ戦後の貧しい生活があたりまえで、アメリカ兵の後についていけばチョケレートが貰えた。「ギブ・ミー・チョコレート」の英語を知らぬ間に使っていた。
アメリカ兵と付き合って派手な服装をしていた日本娘は「パンパン」などと呼んで蔑みのことばで呼ばれていた。
しかし、当時アメリカ人の屋敷が広大な敷地で一面の芝生の緑が目に焼き付いてもいる。
こちらは粗末な家に住んでいたが、うらやましいとは感じなかった。まだ家がなく海岸沿いの崖に掘られた洞穴や山の上にある御堂に住んでいた人もまだいたし、学校の同級生にもいたのである。
恐らく、ここ石岡では経験することはなかったと思う。阿久悠があえて国籍不明の(無国籍の)歌を作ったのも、またその象徴として本牧を選んだのも何か今となって感じるものがある。やはり阿久悠は天才なのであろう。
ここ石岡に来て、この町を見る感性がきっとこの頃からのものなのかもしれない。
本牧は昔海だったところは埋め立てられてはるか先に行かなければ海がない。昔は海苔などを採る漁師も大勢いたのだが・・・・・。
横浜本牧の八聖殿
今日は朝早くからミンミンゼミの合唱がはじまりジリジリと暑さが増してきた。蝉もこの頃になるとなにか過ぎゆく夏を惜しんでいるように忙しく鳴いているように聞こえてくる。このあたりでは蝉はアブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシなどであるが、南の地域静岡以南ではクマゼミがものすごい鳴き方で圧倒してくるようである。小学1年生まで住んでいた横浜の本牧元町ではよく近所の友達や二つ上の兄とセミ取りに夢中であった。セミ取りの網などはなかったのか、長い棒の先に針金で輪をつくりそれに朝早いまだ露が付いているくらいの蜘蛛の巣を沢山つけてから山へのぼってセミを捕まえるのである。蜘蛛の巣は粘着力があって木に止まっているセミの背に押し付けるとくっついて蝉が捕まえられるのである。この方法は今の虫取り網よりも確実で簡単であった。ある夏の日に高い木の上の方でシャンシャンシャンとクマゼミが鳴いていたのを見つけたがあまりの高さに見上げいるしかなかったことを覚えている。その後少し大きくなって伊豆の宿屋に宿泊した時、朝起きるとまわり中クマゼミの大合唱であった。このセミはミンミンゼミのように羽が透き通っているが、少し黒っぽく大きさも一回り大きくて、子供の時は自分の昆虫採集標本に加えたいと探したこともあったが横浜で鳴き声を聞いたのはこの1回だけであった。地球温暖化で今では東京あたりまで進出しているような話も聞いた。

さて、このセミとりの舞台が八聖殿山で、山の上に八角形のお堂があった。これは奈良の法隆寺夢殿の形を模して昭和8年に熊本の政治家が制作したものを昭和12年にこの地に移したものだという。しかし昭和30年当時にはあまり整備はされずにいたように記憶されている。今は横浜の郷土資料館として幕末からの農業・漁業などの展示品を含め無料で公開されているという。周りは本牧市民公園として四季の木々なども美しい市民憩いの場所と紹介されていました。
先日のブログで鹿内孝の「本牧メルヘン」を紹介し、懐かしくなって地図を調べて、昔とはかなり姿がかわり、小さな時の思い出の地が良く分からなくなりそうでした。この八聖殿の街と反対側はすぐ海で崖があり、怖いようでしたし、三渓園や私の通っていた真門小学校もグランドからすぐ海岸に下りられたのですが、今の地図では高速道路が近くを通りその先は石油タンクや工場が広がり、海ははるか先で、歩いてはとてもいけない程先にいってしまっていました。文明の進歩があるのは当然ですが、その変貌ぶりが激しいとどこかにしわ寄せがきます。この文明の技術の進歩が、何千年もの日本の歴史から見て、今後どのような評価が下されるのかはわかりません。でも人間って愚かな生き物か賢い生き物かよくわからなくなっているだな~。

さて、このセミとりの舞台が八聖殿山で、山の上に八角形のお堂があった。これは奈良の法隆寺夢殿の形を模して昭和8年に熊本の政治家が制作したものを昭和12年にこの地に移したものだという。しかし昭和30年当時にはあまり整備はされずにいたように記憶されている。今は横浜の郷土資料館として幕末からの農業・漁業などの展示品を含め無料で公開されているという。周りは本牧市民公園として四季の木々なども美しい市民憩いの場所と紹介されていました。
先日のブログで鹿内孝の「本牧メルヘン」を紹介し、懐かしくなって地図を調べて、昔とはかなり姿がかわり、小さな時の思い出の地が良く分からなくなりそうでした。この八聖殿の街と反対側はすぐ海で崖があり、怖いようでしたし、三渓園や私の通っていた真門小学校もグランドからすぐ海岸に下りられたのですが、今の地図では高速道路が近くを通りその先は石油タンクや工場が広がり、海ははるか先で、歩いてはとてもいけない程先にいってしまっていました。文明の進歩があるのは当然ですが、その変貌ぶりが激しいとどこかにしわ寄せがきます。この文明の技術の進歩が、何千年もの日本の歴史から見て、今後どのような評価が下されるのかはわかりません。でも人間って愚かな生き物か賢い生き物かよくわからなくなっているだな~。
水道道路
前のブログで横浜の本牧で育ったと書いた。ここはアメリカ軍の施設と、昔からの浜っ子と呼ばれる人たちが入り乱れ、そこに横浜というモダンな港町とが不思議にミックスした町であった。
しかし横浜にいたのも小学1年生までで、その後東京都東村山市の萩山というところへ越した。
東村山は志村けんさんの「東村山音頭」で名前は後で有名になったが、東京のはずれの片田舎という雰囲気であった。
今で思えば、アニメ「トトロの森」に出てくるような場所であった。
所沢や村山というところに比べ、一般には「ああ村山ですか?」などと言われたが、あまり村山に近いという印象もなく、小平や国分寺に近い場所である。
萩山はその名前の通り萩の花がたくさん咲き乱れていた林や原を切り開いてできた町であった。
東村山市の中では一番都心寄りで、国分寺や多摩湖への連絡接続駅で小じんまりした町でもあった。
このため歴史的なものはあまりなく、団塊の世代で育った私のような子供たちが一杯いた。
越したばかりは、近くに学校はなく、一駅先の八坂にある小学校に通った。
一駅と言っても1~1.5kmくらいだから意外に近く、子供時代は遊びながら歩くにはちょうど良いくらいの距離だった。
この西武多摩湖線は線路沿いに「水道道路」と呼ばれる道が走っており、道路の下を大きな水道管(村山貯水池、狭山湖、多摩湖~東京都心)が埋設されていて、車の侵入は出来ず、しかもひたすら真っ直ぐに続く道で、歩くにはもってこいであった。
土手の脇には土筆やはこべ、よもぎ、野バラ、ボケ、スミレなど四季折々で楽しめた。
最近気になってホームページで検索してみると「サイクリングロード」として紹介されていた。
そういえば昔(昭和30年代)は自動車は言うに及ばず自転車も少なかったので自転車の道という思い出はない。
多摩湖は東京では桜の花の名所で花見によく訪れる場所として西武園遊園地と共に人気があった。
また中学や高校の頃には、学校で、この多摩湖一周(約7~10km)のマラソン大会に毎年参加した。
さて、小学校の話に戻ると、なにせ団塊世代で子供の数が多く、それも急に2倍近くにも膨れ上がったので、学校建設も必要になり、小学5年になる時に萩山に小学校が建設され、こちらに移ることとなったが、まだ小学6年はなく、分校としてスタートした。
翌年こちらが6年生になる時に正式に小学校として開校された。
そのため、5年・6年と全校での最高学年を2回やった。
そして私たちの学年が記念すべき萩山小学校の第1回卒業生となったのである。
その小学校が開校50周年を迎えている。早いものである。
私は私立中学を受験して、中高一貫校のため、6年間国立(くにたち)に通った。
国立は中央線の国分寺と立川の中間に出来たためにこの名前となったが、その後武蔵野線が開通して西国分寺の駅も出来た。
団塊の世代で受験も大変であったが、学校もクラス数が一挙に増え、対応にてんやわんやであった。
確か1学年5クラスが8クラス位になったように思うが、今から考えると先生方もさぞ大変だったろうと思う。また1クラスは今のように30人などではなく40~50人くらいいたと思う。
大学受験なども団塊世代の前年度の人(2年前)は後ろが大勢いるから皆現役で入学しなければといってあせっていたが、団塊世代の真中の私たちはもうどうにもならなかったのであった。
今から思えば、勉強も競争も、懐かしい思い出である。
その団塊世代がこうして定年を迎え、「やれ年寄りが増えて大変だ」とか騒がれて邪魔者扱いはいくらなんでもないよね。
意外にこれからも日本の救世主になるやもしれませんよ。
皆、まだまだこれからだと思っているのです。
私だって新しいことにもチャレンジ中です。
しかし横浜にいたのも小学1年生までで、その後東京都東村山市の萩山というところへ越した。
東村山は志村けんさんの「東村山音頭」で名前は後で有名になったが、東京のはずれの片田舎という雰囲気であった。
今で思えば、アニメ「トトロの森」に出てくるような場所であった。
所沢や村山というところに比べ、一般には「ああ村山ですか?」などと言われたが、あまり村山に近いという印象もなく、小平や国分寺に近い場所である。
萩山はその名前の通り萩の花がたくさん咲き乱れていた林や原を切り開いてできた町であった。
東村山市の中では一番都心寄りで、国分寺や多摩湖への連絡接続駅で小じんまりした町でもあった。
このため歴史的なものはあまりなく、団塊の世代で育った私のような子供たちが一杯いた。
越したばかりは、近くに学校はなく、一駅先の八坂にある小学校に通った。
一駅と言っても1~1.5kmくらいだから意外に近く、子供時代は遊びながら歩くにはちょうど良いくらいの距離だった。
この西武多摩湖線は線路沿いに「水道道路」と呼ばれる道が走っており、道路の下を大きな水道管(村山貯水池、狭山湖、多摩湖~東京都心)が埋設されていて、車の侵入は出来ず、しかもひたすら真っ直ぐに続く道で、歩くにはもってこいであった。
土手の脇には土筆やはこべ、よもぎ、野バラ、ボケ、スミレなど四季折々で楽しめた。
最近気になってホームページで検索してみると「サイクリングロード」として紹介されていた。
そういえば昔(昭和30年代)は自動車は言うに及ばず自転車も少なかったので自転車の道という思い出はない。
多摩湖は東京では桜の花の名所で花見によく訪れる場所として西武園遊園地と共に人気があった。
また中学や高校の頃には、学校で、この多摩湖一周(約7~10km)のマラソン大会に毎年参加した。
さて、小学校の話に戻ると、なにせ団塊世代で子供の数が多く、それも急に2倍近くにも膨れ上がったので、学校建設も必要になり、小学5年になる時に萩山に小学校が建設され、こちらに移ることとなったが、まだ小学6年はなく、分校としてスタートした。
翌年こちらが6年生になる時に正式に小学校として開校された。
そのため、5年・6年と全校での最高学年を2回やった。
そして私たちの学年が記念すべき萩山小学校の第1回卒業生となったのである。
その小学校が開校50周年を迎えている。早いものである。
私は私立中学を受験して、中高一貫校のため、6年間国立(くにたち)に通った。
国立は中央線の国分寺と立川の中間に出来たためにこの名前となったが、その後武蔵野線が開通して西国分寺の駅も出来た。
団塊の世代で受験も大変であったが、学校もクラス数が一挙に増え、対応にてんやわんやであった。
確か1学年5クラスが8クラス位になったように思うが、今から考えると先生方もさぞ大変だったろうと思う。また1クラスは今のように30人などではなく40~50人くらいいたと思う。
大学受験なども団塊世代の前年度の人(2年前)は後ろが大勢いるから皆現役で入学しなければといってあせっていたが、団塊世代の真中の私たちはもうどうにもならなかったのであった。
今から思えば、勉強も競争も、懐かしい思い出である。
その団塊世代がこうして定年を迎え、「やれ年寄りが増えて大変だ」とか騒がれて邪魔者扱いはいくらなんでもないよね。
意外にこれからも日本の救世主になるやもしれませんよ。
皆、まだまだこれからだと思っているのです。
私だって新しいことにもチャレンジ中です。
武蔵野の俤(おもかげ)
子供の頃の話の続きです。
東村山市萩山町は武蔵野に残った雑木林の一部を切り開いてつくられました。
そのため、あちこちに雑木林が点在し武蔵野の俤(おもかげ)を色濃く残していました。
家から小学校までは5分位でしたが、途中に両側が雑木林でした。
林といっても、こちらのような薄暗いイメージはなく、子供でもその中に入っていくのは何も怖いイメージもありません。それよりも地面にはいろいろな野草やボケの赤い花、野バラの白い可憐な花などが咲いていてとても好きでした。
林の中には小道がいくつもあり、どれをたどっていってもどこか明るい原にでたり、人家のある畑にでたりすれば方角はすぐにわかります。
主に広葉樹で冬は葉は落ちてふっくらとした絨毯になります。
そこにドングリなどの木の実が落ちて目を出す。そんな繰り返しです。
昔読んだ国木田独歩の「武蔵野」にとても感動を覚え、ああこうだったな~などと思い出すのです。
自然主義などと言われますが、文体もそのころの私にはオシャレにも思えて少し真似て見たりもしたのです。
武蔵野の一部を抜粋して載せます。
-----------------------------------------------
九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌(きら)めく、――」
九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日――「秋天拭(ぬぐ)うがごとし、木葉火のごとくかがやく」
十月十九日――「月明らかに林影黒し」
同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出(い)で野を歩み林を訪う」
同二十六日――「午後林を訪(おとな)う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
-------------------------------------------------
まさにこの通りです。
私にも文才があれば、今の石岡も何か表現できるのかもわかりませんが、如何せん才能がないですね。
萩山小学校も創立50周年とのこと。学校の脇は西武所沢線が走り、その向こう側には都営「小平霊園」の敷地が広がります。昔はのどかでこの線路を渡って霊園に良く行きました。
夏はカブトムシやクワガタが良く採れました。秋は野生の栗の実が拾えるのです。
今は開けてきたのでこのようなことも段々出来なくなったと思います。
ところで、萩山は近隣の町に比べてあまり発展を遂げていない。石岡駅と同様に人によっては寂しい町だと思われるかもしれない。でもこの小さな萩山駅の乗降客数でも日に1万人以上です。
一方石岡駅の利用者は年々減って今では日に約5~6千人程度しかいません。
あんな小さな私鉄の駅に及ばないのである。一昔前には1万人程度の乗降客はいたと思うのだが・・・・。
これだけ銀行や郵便局の本局まであるのに、人を呼び込む魅力がない。
情けない話ですね。
ところで、石岡でも昔育った人に聞くと、総社の湧水(おみたらし)でザリガニをとったり、山王川であそんだりした自然豊かであったといいます。
まだモリコーの屋上に象さんの滑り台があった頃といいますから、そんな昔ではないですよね。
私が石岡にやってきた6年前にはもうモリコーの屋上もなく、コーキも西友も無くなっていましたので、昔がわかりませんが、昔は良かったというばかりではどうにもなりません。
東村山市萩山町は武蔵野に残った雑木林の一部を切り開いてつくられました。
そのため、あちこちに雑木林が点在し武蔵野の俤(おもかげ)を色濃く残していました。
家から小学校までは5分位でしたが、途中に両側が雑木林でした。
林といっても、こちらのような薄暗いイメージはなく、子供でもその中に入っていくのは何も怖いイメージもありません。それよりも地面にはいろいろな野草やボケの赤い花、野バラの白い可憐な花などが咲いていてとても好きでした。
林の中には小道がいくつもあり、どれをたどっていってもどこか明るい原にでたり、人家のある畑にでたりすれば方角はすぐにわかります。
主に広葉樹で冬は葉は落ちてふっくらとした絨毯になります。
そこにドングリなどの木の実が落ちて目を出す。そんな繰り返しです。
昔読んだ国木田独歩の「武蔵野」にとても感動を覚え、ああこうだったな~などと思い出すのです。
自然主義などと言われますが、文体もそのころの私にはオシャレにも思えて少し真似て見たりもしたのです。
武蔵野の一部を抜粋して載せます。
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九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌(きら)めく、――」
九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日――「秋天拭(ぬぐ)うがごとし、木葉火のごとくかがやく」
十月十九日――「月明らかに林影黒し」
同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出(い)で野を歩み林を訪う」
同二十六日――「午後林を訪(おとな)う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
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まさにこの通りです。
私にも文才があれば、今の石岡も何か表現できるのかもわかりませんが、如何せん才能がないですね。
萩山小学校も創立50周年とのこと。学校の脇は西武所沢線が走り、その向こう側には都営「小平霊園」の敷地が広がります。昔はのどかでこの線路を渡って霊園に良く行きました。
夏はカブトムシやクワガタが良く採れました。秋は野生の栗の実が拾えるのです。
今は開けてきたのでこのようなことも段々出来なくなったと思います。
ところで、萩山は近隣の町に比べてあまり発展を遂げていない。石岡駅と同様に人によっては寂しい町だと思われるかもしれない。でもこの小さな萩山駅の乗降客数でも日に1万人以上です。
一方石岡駅の利用者は年々減って今では日に約5~6千人程度しかいません。
あんな小さな私鉄の駅に及ばないのである。一昔前には1万人程度の乗降客はいたと思うのだが・・・・。
これだけ銀行や郵便局の本局まであるのに、人を呼び込む魅力がない。
情けない話ですね。
ところで、石岡でも昔育った人に聞くと、総社の湧水(おみたらし)でザリガニをとったり、山王川であそんだりした自然豊かであったといいます。
まだモリコーの屋上に象さんの滑り台があった頃といいますから、そんな昔ではないですよね。
私が石岡にやってきた6年前にはもうモリコーの屋上もなく、コーキも西友も無くなっていましたので、昔がわかりませんが、昔は良かったというばかりではどうにもなりません。
子供の頃の思い出(1)-げっきょくさん
今は地域の埋もれた歴史などに興味を抱いてこうしてブログを書いていますが、子どのの頃にはそんなことは考えたこともなかったように思います。
皆さんは2~3歳くらいの子供の頃の記憶はありますか?
残念ながら私にはほとんどありません。
私の両親は戦時中に結婚して、一時静岡に住んでいましたが、空襲が激しくなって故郷の新潟に帰って終戦を迎えたようです。
そして、戦後2つ上の兄と私の2人が新潟県の小千谷市で生まれたのです。
結構雪の深い地方でしたが2~3歳くらいに横浜に引っ越してきました。
横浜には小学校1年生までいましたが、この新潟で暮らしていた記憶がほとんどありません。
人は小さい時のことを良く覚えている方がおられますが、これはきっとその後に、その記憶が何回も思いだす機会があったので繰り返しインプットされていたからではないかと思います。
その新潟小千谷にいた子供の頃の記憶で1つだけ思いだしたことがありました。
雪道を歩いていたぼんやりとしたものではっきりしないのですが、これがよみがえったきっかけは横浜にいた時に30~40cmくらい雪が積もったことがありました。
この時に子供ですから外を歩きたくてあちこち歩き回っていたと思います。
すると人があるいていない新雪が積もった雪の上に足跡がついていきます。
石ころをおとして見ればすぽっと穴が出来ます。
何かこの時に、この景色は昔見たことがあると思いだしたのです。
田舎(新潟)の景色などはその後も何度か訪れているので家・川・山・田・あぜ道などの景色は思い浮かびます。
しかし自分が住んでいて過ごした記憶というのは環境が変わると忘れていくようです。
私の母方の祖父はこの小千谷にちかい山古志村(現長岡市)の隣りの塩谷(しおだに)村(現長岡市)で学校の校長をしていました。
ここも豪雪地帯で有名ですが、学校の官舎から学校に行くのでさえ竹の環でできた「かんじき」をつけて歩くのですが、すぐ近くでさえ大変だったようです。
その祖父が若い時に東京の学校に勉強に出てきていた時のエピソードです。
「さすが東京には大金持ちがいるもんだな~」
「どうしたの?」
「東京でたくさん土地を持って駐車場にしている人がいるんだ。どこにいっても同じ名前なんだ。」
「何て言う人なの?」
「げっきょくさんと言う名前の人だ」
「げっきょく??」
もうお分かりですね。「月極駐車場」です。
その祖父が勉強に来たところが今の東京理科大。昔の東京物理学校です。
夏目漱石の「坊っちゃん」が卒業した学校としても有名ですが、入学は簡単でしたが、卒業が非常に難しいといわれていました。
祖父も志し半ばで挫折してしまったようです。詳しくは教えてもらっていません。
当時田舎から出てくるのは大変だったのでしょうね。
これから時々、埋もれた歴史の間に思い出話も入れていきます。

いただきものの「いちご」です。とっても美味しいです。
あまり甘ったるくなくて果物の風味が感じられるのが最高です。
茨城県もイチゴ栽培は盛んですが、今年は収穫が悪いようです。天候不順でハウスも大変です。
例年イチゴ狩りなどが盛んですが、5月連休明けくらいまでは徐々に値段も下がって楽しめます。
どうぞ千代田(がすみがうら市)・石岡・鉾田などへお越しくださいね。
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皆さんは2~3歳くらいの子供の頃の記憶はありますか?
残念ながら私にはほとんどありません。
私の両親は戦時中に結婚して、一時静岡に住んでいましたが、空襲が激しくなって故郷の新潟に帰って終戦を迎えたようです。
そして、戦後2つ上の兄と私の2人が新潟県の小千谷市で生まれたのです。
結構雪の深い地方でしたが2~3歳くらいに横浜に引っ越してきました。
横浜には小学校1年生までいましたが、この新潟で暮らしていた記憶がほとんどありません。
人は小さい時のことを良く覚えている方がおられますが、これはきっとその後に、その記憶が何回も思いだす機会があったので繰り返しインプットされていたからではないかと思います。
その新潟小千谷にいた子供の頃の記憶で1つだけ思いだしたことがありました。
雪道を歩いていたぼんやりとしたものではっきりしないのですが、これがよみがえったきっかけは横浜にいた時に30~40cmくらい雪が積もったことがありました。
この時に子供ですから外を歩きたくてあちこち歩き回っていたと思います。
すると人があるいていない新雪が積もった雪の上に足跡がついていきます。
石ころをおとして見ればすぽっと穴が出来ます。
何かこの時に、この景色は昔見たことがあると思いだしたのです。
田舎(新潟)の景色などはその後も何度か訪れているので家・川・山・田・あぜ道などの景色は思い浮かびます。
しかし自分が住んでいて過ごした記憶というのは環境が変わると忘れていくようです。
私の母方の祖父はこの小千谷にちかい山古志村(現長岡市)の隣りの塩谷(しおだに)村(現長岡市)で学校の校長をしていました。
ここも豪雪地帯で有名ですが、学校の官舎から学校に行くのでさえ竹の環でできた「かんじき」をつけて歩くのですが、すぐ近くでさえ大変だったようです。
その祖父が若い時に東京の学校に勉強に出てきていた時のエピソードです。
「さすが東京には大金持ちがいるもんだな~」
「どうしたの?」
「東京でたくさん土地を持って駐車場にしている人がいるんだ。どこにいっても同じ名前なんだ。」
「何て言う人なの?」
「げっきょくさんと言う名前の人だ」
「げっきょく??」
もうお分かりですね。「月極駐車場」です。
その祖父が勉強に来たところが今の東京理科大。昔の東京物理学校です。
夏目漱石の「坊っちゃん」が卒業した学校としても有名ですが、入学は簡単でしたが、卒業が非常に難しいといわれていました。
祖父も志し半ばで挫折してしまったようです。詳しくは教えてもらっていません。
当時田舎から出てくるのは大変だったのでしょうね。
これから時々、埋もれた歴史の間に思い出話も入れていきます。

いただきものの「いちご」です。とっても美味しいです。
あまり甘ったるくなくて果物の風味が感じられるのが最高です。
茨城県もイチゴ栽培は盛んですが、今年は収穫が悪いようです。天候不順でハウスも大変です。
例年イチゴ狩りなどが盛んですが、5月連休明けくらいまでは徐々に値段も下がって楽しめます。
どうぞ千代田(がすみがうら市)・石岡・鉾田などへお越しくださいね。


子供の頃の思い出(2)-おもらいさん
昨日の祖父のもう一つの笑い話があります。
その祖父も先生をやめて、新潟の長岡で本屋さんを始めます。
本屋さんも軌道に乗り長岡でも大きな本屋になりました。
そして、その本屋も息子に譲り、毎日碁を打ったりしてのんびりしていた時の話です。
昔は、行商の物売りなどが良く玄関先にきていました。また碁打ちのお仲間が家に来られていました。
ある日祖父だけが家にいて、男の人が一人やってきました。
「あの、どちらさまですか?」
「はあ・・・あの もらいですが・・・」
「さて、どちらのもらい様でしょうか?」
男は、きまずそうに「おもらいですから、何でも結構です。何かいただけるものは・・・・」
そうです。昔はこのように家を訪ねて恵みをいただいている方もおられたのです。
この話もその時の時代を写していた話ですし、格好を見ればだいたい想像がつくでしょうに、まったくそのような事に頓着もなかった祖父の人柄を伝える話で好きです。
私達兄弟も中学生くらいまでは毎年、夏休みに長岡に遊びに行っていました。
(父方の祖父母は私が小学1年の時に相次いで亡くなり、母方の田舎(長岡)へ行く機会が多くなりました)
小学校低学年の頃も上野まで母が送ってくれ、駅のホームで電車にのせて子供だけで長岡まで上越線で行きます。
清水トンネルは出来ていましたが、当時はまだ単線だったように思います。
列車がトンネルの中に長いこと止まってすれ違いの列車待ちや特急?列車の通過待ちなどで1時間近くトンネルの中で待たされるのです。
清水トンネルも山を登っていきますから、トンネルを出て下の方に入ってきたトンネルの入口が見えるのです。
冬でしたら川端康行の「雪国」の駒子のように「国境の長いトンネルをぬけると、そこは雪国であった」ということになるのですが、冬は子供だけで行くことは少なかったと思います。
冬は上野駅などに入ってくる列車の屋根に雪が積もっていて雪国とつながっているのを感じたものです。
もちろん夏休みに子供の兄弟だけで乗るのは鈍行列車ですから、上野から長岡まで7時間半くらいかかりました。
でも子供は列車に乗るのが楽しみで、途中の各駅の名前を暗記し、途中の高崎駅で「とりめし弁当」を買うのが楽しみでした。上野駅では買わずに、高崎につくとホームに下りて買ったり、窓から弁当売りが来るのを待ちます。
しかし停車時間もあまりなく、ホームでの弁当売りも忙しく、動き出してもまだお釣りを渡したりギリギリまで売っていました。
今ではこういう風情もなくなりましたね。
また上野駅で冷凍のミカン(4~5個くらいがネットに入っている冷凍されたミカン)を買ってもらって、途中で食べるのです。
昔の列車時はたぶんクーラなどなかったと思います。
夏は暑いので冷たいミカンが気持ちよかったのです。
昭和30年代に駅の売店ではブームとなっていて良く売れたそうです。
これも今のような冷凍とは違い、中までは凍っていません。皮の部分までが凍っているのです。
何回にもわけて水をかけながら凍らせていたそうです。
子供だけの長い旅は良いですね。是非今の子供たちにも経験させていただきたいものです。
我が家の下の2人の子供(女の子と男の子)が小学生の時に、子どもだけで東京の母(祖母)に家に電車で行かせたことがあります。
上野駅の乗り換え、東京駅の乗り換え、降りる駅の確認などを一生懸命に覚えて、出かけました。
そして、目的駅までいって、祖母の家に電話して、
「じゃあ、おばあちゃんはこれから迎えに行くから、駅から真っ直ぐ歩いて来て頂戴。途中で会おうね」
と電話でして、子どもたちは意気揚々と歩き始めました。
でも途中で会えなかったんです。
子供たちがあるいていた道は、真っ直ぐというのですが、駅を降りて通りに出てそこの広い通りを真っ直ぐ行くのですが、子どもたちは真っ直ぐと言われて広い通りを突きぬけて曲らずに商店会の中の道を真っ直ぐ進んでしまったのです。
そして、歩いてとうとう隣り駅まで歩いてしまいました。
携帯電話などありませんので、そこで公衆電話から電話してやっと何処にいるかわかって無事にたどり着いたというのです。
いまは物騒ですから、なかなか冒険もさせられませんね。
でもいつまでも親の庇護のもとにはいられませんので、どこかで自立させなければダメですね。
そんな中で、へき地や戦争地帯などに一人で行って、現地の人の家に泊めてもらい、その人たちの笑顔を撮り続けているカメラマンの方がおられます。ブログなども時々拝見します。
本当にすごいですね。日本人にも雑草魂がまだあるとほっとするんです。
最近の小さな家族主義では世界に負けることは必定です。考えさせられます。
企業は今後海外に生産拠点だけでなく、ソフト部門も移転していくことでしょう。
海外の人もたくさん企業に入ってくるようになりました。
中国人・フィリピン人・アラブ人たくさんになりました。
このような人とも競争していくことになります。
さて、道を間違えて隣り駅まで行ってしまった娘も来月結婚します。
4月からは娘婿となる方の海外赴任が決まっていて、一緒に3年くらいはオーストリアのウィーンに行くようです。
また冒頭に書いた長岡の祖父母から始まった本屋さんは残念ながら、時代の波に翻弄されて今はありません。
出版業界の非情も見えたりもして言いたいこともたくさんありますが、これも時代の流れですね。

昨日も少し雪が降りましたが溶けてしまいました。今朝は久しぶりに氷点下になったようです。
車のフロントガラスにも氷の結晶が一面に出来ました。
日が出てきたらすぐに溶けてしまいました。・ 春よ来い!

霜柱も少なくなりましたね。昔は庭などに10cmくらいの霜柱が立ったのですが、今ではすっかり少なくなりました。

この前書いた蝋梅(ロウバイ)の花は結構長く咲いています。でもその花の下にはご覧のように散った花がたくさん散らばっています。 このように花が次々咲いては散っていくのを繰り返しているのです。
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その祖父も先生をやめて、新潟の長岡で本屋さんを始めます。
本屋さんも軌道に乗り長岡でも大きな本屋になりました。
そして、その本屋も息子に譲り、毎日碁を打ったりしてのんびりしていた時の話です。
昔は、行商の物売りなどが良く玄関先にきていました。また碁打ちのお仲間が家に来られていました。
ある日祖父だけが家にいて、男の人が一人やってきました。
「あの、どちらさまですか?」
「はあ・・・あの もらいですが・・・」
「さて、どちらのもらい様でしょうか?」
男は、きまずそうに「おもらいですから、何でも結構です。何かいただけるものは・・・・」
そうです。昔はこのように家を訪ねて恵みをいただいている方もおられたのです。
この話もその時の時代を写していた話ですし、格好を見ればだいたい想像がつくでしょうに、まったくそのような事に頓着もなかった祖父の人柄を伝える話で好きです。
私達兄弟も中学生くらいまでは毎年、夏休みに長岡に遊びに行っていました。
(父方の祖父母は私が小学1年の時に相次いで亡くなり、母方の田舎(長岡)へ行く機会が多くなりました)
小学校低学年の頃も上野まで母が送ってくれ、駅のホームで電車にのせて子供だけで長岡まで上越線で行きます。
清水トンネルは出来ていましたが、当時はまだ単線だったように思います。
列車がトンネルの中に長いこと止まってすれ違いの列車待ちや特急?列車の通過待ちなどで1時間近くトンネルの中で待たされるのです。
清水トンネルも山を登っていきますから、トンネルを出て下の方に入ってきたトンネルの入口が見えるのです。
冬でしたら川端康行の「雪国」の駒子のように「国境の長いトンネルをぬけると、そこは雪国であった」ということになるのですが、冬は子供だけで行くことは少なかったと思います。
冬は上野駅などに入ってくる列車の屋根に雪が積もっていて雪国とつながっているのを感じたものです。
もちろん夏休みに子供の兄弟だけで乗るのは鈍行列車ですから、上野から長岡まで7時間半くらいかかりました。
でも子供は列車に乗るのが楽しみで、途中の各駅の名前を暗記し、途中の高崎駅で「とりめし弁当」を買うのが楽しみでした。上野駅では買わずに、高崎につくとホームに下りて買ったり、窓から弁当売りが来るのを待ちます。
しかし停車時間もあまりなく、ホームでの弁当売りも忙しく、動き出してもまだお釣りを渡したりギリギリまで売っていました。
今ではこういう風情もなくなりましたね。
また上野駅で冷凍のミカン(4~5個くらいがネットに入っている冷凍されたミカン)を買ってもらって、途中で食べるのです。
昔の列車時はたぶんクーラなどなかったと思います。
夏は暑いので冷たいミカンが気持ちよかったのです。
昭和30年代に駅の売店ではブームとなっていて良く売れたそうです。
これも今のような冷凍とは違い、中までは凍っていません。皮の部分までが凍っているのです。
何回にもわけて水をかけながら凍らせていたそうです。
子供だけの長い旅は良いですね。是非今の子供たちにも経験させていただきたいものです。
我が家の下の2人の子供(女の子と男の子)が小学生の時に、子どもだけで東京の母(祖母)に家に電車で行かせたことがあります。
上野駅の乗り換え、東京駅の乗り換え、降りる駅の確認などを一生懸命に覚えて、出かけました。
そして、目的駅までいって、祖母の家に電話して、
「じゃあ、おばあちゃんはこれから迎えに行くから、駅から真っ直ぐ歩いて来て頂戴。途中で会おうね」
と電話でして、子どもたちは意気揚々と歩き始めました。
でも途中で会えなかったんです。
子供たちがあるいていた道は、真っ直ぐというのですが、駅を降りて通りに出てそこの広い通りを真っ直ぐ行くのですが、子どもたちは真っ直ぐと言われて広い通りを突きぬけて曲らずに商店会の中の道を真っ直ぐ進んでしまったのです。
そして、歩いてとうとう隣り駅まで歩いてしまいました。
携帯電話などありませんので、そこで公衆電話から電話してやっと何処にいるかわかって無事にたどり着いたというのです。
いまは物騒ですから、なかなか冒険もさせられませんね。
でもいつまでも親の庇護のもとにはいられませんので、どこかで自立させなければダメですね。
そんな中で、へき地や戦争地帯などに一人で行って、現地の人の家に泊めてもらい、その人たちの笑顔を撮り続けているカメラマンの方がおられます。ブログなども時々拝見します。
本当にすごいですね。日本人にも雑草魂がまだあるとほっとするんです。
最近の小さな家族主義では世界に負けることは必定です。考えさせられます。
企業は今後海外に生産拠点だけでなく、ソフト部門も移転していくことでしょう。
海外の人もたくさん企業に入ってくるようになりました。
中国人・フィリピン人・アラブ人たくさんになりました。
このような人とも競争していくことになります。
さて、道を間違えて隣り駅まで行ってしまった娘も来月結婚します。
4月からは娘婿となる方の海外赴任が決まっていて、一緒に3年くらいはオーストリアのウィーンに行くようです。
また冒頭に書いた長岡の祖父母から始まった本屋さんは残念ながら、時代の波に翻弄されて今はありません。
出版業界の非情も見えたりもして言いたいこともたくさんありますが、これも時代の流れですね。

昨日も少し雪が降りましたが溶けてしまいました。今朝は久しぶりに氷点下になったようです。
車のフロントガラスにも氷の結晶が一面に出来ました。
日が出てきたらすぐに溶けてしまいました。・ 春よ来い!

霜柱も少なくなりましたね。昔は庭などに10cmくらいの霜柱が立ったのですが、今ではすっかり少なくなりました。

この前書いた蝋梅(ロウバイ)の花は結構長く咲いています。でもその花の下にはご覧のように散った花がたくさん散らばっています。 このように花が次々咲いては散っていくのを繰り返しているのです。


子供の頃の思い出(3)-ニシキヘビ
今日は横浜にいた頃の思い出です。
3歳くらいから小学1年生くらいまで住んでいたのですが、小さな家です。
その時に雪が降った時に玄関を開けていたら野良犬が家の中にノコノコと迷い込んできました。
玄関が高くなっていればそんなこともないのでしょうが、子どもにとっては家の大きさなどどうでもよいことで何とも思ったことはないのですが、母が一言言った言葉がまだ忘れられません。
「いやだよ。この犬、外と間違って家に入ってきてしまって・・・・」
小さな家で外と区別もできないほどのバラックのような家だったのです。
そんな家でも子供にとってはどんな家でも恥ずかしいなんてことはありません。近くの山(八聖殿)の上にキリスト系の保育園(高風保育園→こちら)がありました。
当時はまだ幼稚園や保育園に行くのはそれ程多くはなく、小学校からと言う人も普通におりました。
そこに1年だか半年だったか通ったのですが、卒園式に私ともう一人の女の子で卒園の答辞を読むことになり、そんな家の中で一生懸命練習していたといっていました。答辞を読むなんてすごいでしょ。
何で選ばれたのかはわかりません。
入園の当日はいやで家に逃げようと山道でころんで保育園に連れ戻されたドジな男の子です。
2年前に兄は見事に逃げ帰りに成功したのに・・・。
その女の子は今どうしているかなど顔も全く思い出せません。
しかし私はその女の子のリードされるままに読んでいたようです。そんな時男の子は頼りないですね。
オネショタレの鼻水小僧でした。
さて、横浜に「野毛山動物園」がありました。
そこには小動物がいて、大した動物はいなかったようなのですが、ニシキヘビがいるというので楽しみに見に行きました。
ニシキヘビの小屋の前で私と兄は怪訝な顔をしてのぞき込んでいたようです。
「ねえ、かあさん このへび二匹いないよ。なんでニヒキヘビなのに1匹しかいないの?」
大笑いですよね。横浜も東京と同じく「ヒ」と「シ」の区別ができません。
兄弟2人してニシキヘビは「二匹へび」だと思い込んでいたのです。
こんなヘビかと思って見ていたんですね。
野毛山の動物園のことも「下の動物園」と言っていました。
「上野動物園」に対して「下の動物園」です。
これはまったく信じ切っていたようです。
「ねえ、お母さん 下の動物園連れてって!」とよくせがんだんです。
そしてある時事件が起こりました。
母と子供二人で動物園に来て、夕方帰ろうとしたら母があわててサイフがないというのです。
その頃は結構スリがいましたので、盗まれてしまったのでしょう。帰りの市電の電車賃が無いのです。
動物園の入口近くに交番がありました。
母はわけを行って交番で電車賃を貸してもらって無事に帰ってこれたのです。
今でも交番では言えば貸してもらえるかもしれませんが、借りたのはその時だけです。
子供の頃の交番と言えば10円(昔のことですから1円だったかもしれません)拾って届けたことがある位ですね。
その時おまわりさんは何と言ってくれたのか思いだせないのですが、今では小さな子供が拾った10円は遺失物として受け取り、ポケットマネーで子供に10円を出すと聞いたことがあります。
私が横浜にいた頃はまだ1円札と言うのがありました。10銭、50銭なんていうのもあったようです。
お菓子と言えば駄菓子屋さんで、飴玉を買っていたように思います。
おまわりさんも大変ですね。正直な子供を育てるのもお仕事かもしれません。

(小美玉市「池花池」)(サムネルです。クリックで大きな写真となります)
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3歳くらいから小学1年生くらいまで住んでいたのですが、小さな家です。
その時に雪が降った時に玄関を開けていたら野良犬が家の中にノコノコと迷い込んできました。
玄関が高くなっていればそんなこともないのでしょうが、子どもにとっては家の大きさなどどうでもよいことで何とも思ったことはないのですが、母が一言言った言葉がまだ忘れられません。
「いやだよ。この犬、外と間違って家に入ってきてしまって・・・・」
小さな家で外と区別もできないほどのバラックのような家だったのです。
そんな家でも子供にとってはどんな家でも恥ずかしいなんてことはありません。近くの山(八聖殿)の上にキリスト系の保育園(高風保育園→こちら)がありました。
当時はまだ幼稚園や保育園に行くのはそれ程多くはなく、小学校からと言う人も普通におりました。
そこに1年だか半年だったか通ったのですが、卒園式に私ともう一人の女の子で卒園の答辞を読むことになり、そんな家の中で一生懸命練習していたといっていました。答辞を読むなんてすごいでしょ。
何で選ばれたのかはわかりません。
入園の当日はいやで家に逃げようと山道でころんで保育園に連れ戻されたドジな男の子です。
2年前に兄は見事に逃げ帰りに成功したのに・・・。
その女の子は今どうしているかなど顔も全く思い出せません。
しかし私はその女の子のリードされるままに読んでいたようです。そんな時男の子は頼りないですね。
オネショタレの鼻水小僧でした。
さて、横浜に「野毛山動物園」がありました。
そこには小動物がいて、大した動物はいなかったようなのですが、ニシキヘビがいるというので楽しみに見に行きました。
ニシキヘビの小屋の前で私と兄は怪訝な顔をしてのぞき込んでいたようです。
「ねえ、かあさん このへび二匹いないよ。なんでニヒキヘビなのに1匹しかいないの?」
大笑いですよね。横浜も東京と同じく「ヒ」と「シ」の区別ができません。
兄弟2人してニシキヘビは「二匹へび」だと思い込んでいたのです。

野毛山の動物園のことも「下の動物園」と言っていました。
「上野動物園」に対して「下の動物園」です。
これはまったく信じ切っていたようです。
「ねえ、お母さん 下の動物園連れてって!」とよくせがんだんです。
そしてある時事件が起こりました。
母と子供二人で動物園に来て、夕方帰ろうとしたら母があわててサイフがないというのです。
その頃は結構スリがいましたので、盗まれてしまったのでしょう。帰りの市電の電車賃が無いのです。
動物園の入口近くに交番がありました。
母はわけを行って交番で電車賃を貸してもらって無事に帰ってこれたのです。
今でも交番では言えば貸してもらえるかもしれませんが、借りたのはその時だけです。
子供の頃の交番と言えば10円(昔のことですから1円だったかもしれません)拾って届けたことがある位ですね。
その時おまわりさんは何と言ってくれたのか思いだせないのですが、今では小さな子供が拾った10円は遺失物として受け取り、ポケットマネーで子供に10円を出すと聞いたことがあります。
私が横浜にいた頃はまだ1円札と言うのがありました。10銭、50銭なんていうのもあったようです。
お菓子と言えば駄菓子屋さんで、飴玉を買っていたように思います。
おまわりさんも大変ですね。正直な子供を育てるのもお仕事かもしれません。

(小美玉市「池花池」)(サムネルです。クリックで大きな写真となります)


子供の頃(ザリガニ採り)
今日は小学校1年生まで住んでいた横浜の時の記憶を少し思いだしてみた。
場所は本牧で、近くには三溪園という大きな公園がありました。
この公園は、現在きれいに整備されて横浜名所の一つになっていると思いますが、実業家原三溪が京都や鎌倉の建造物などを移築して整備されていった庭園です。
私が遊んだ頃(昭和29~30年頃)は、すでに現在にの公園のシンボルである三重塔はあったが、第二次大戦の影響を受けて被害を受け、横浜市に昭和28年に寄贈された直後でしたので、まだ復興の始まったばかりの頃でした。
そのため、比較的のどかでまだまわりに草が生えた小川なども流れていたと思います。
この小川の脇の泥に小さな穴がところどころに開いていて、これがザリガニの巣でした。
子供たちは夕方集まってこのザリガニ取りをするのです。
採り方は穴に手を入れたり、棒を差し込んだりして、ハサミにかまれないように引き出して捕獲するのです。
出来るだけ赤くて格好のいいザリガニを捕まえるのが自慢になるのです。
この真っ赤なザリガニは確か「マッカチ」などと呼んでいたように思います。
下にちょっとしたアニメを作って見ましたが、嫌いな人には不快な思いをさせてごめんなさい。
でも男の子はこんなのが格好いいと思うんです。

まあ10回くらい繰り返したら止まると思うのでご勘弁ください。
なぜこのようなザリガニ採りを思い出として載せたのかと言うと、この三溪園も昔夕方6時頃に門が閉まってしまいます。
ある時子供たちが夢中になっていて、門限を過ぎてしまったのです。
帰ろうと門に行くとすでにしまっていました。
このようなことは何度か経験している子もいて、平気で門をよじ登って外に出たのです。
良い子は真似してはいけないのだけれど、私もよじ登りましたよ。小学1年生です。
きっとそのころは門や塀もそんなには高くはなかったのでしょうね。
こんなことがなつかしく思い出されるのです。
もちろん近くの山の竹やぶに秘密基地なんかも作って遊んでいました。
格好のいいナイフなんかを買ってもらって竹を切ったりするのも好きでした。
今では危ないからといって持たせてもらえないでしょうね。
でもそのおかげでしょうか、小学校の家庭科でジャガイモの皮むき(昔は皮むき器なんてありません)も包丁で器用に剥くことができ、クラスで女の子より上手でしたよ。
さて、その後横浜から東京郊外に引っ越したわけですが、そこでもザリガニを採って遊びました。
しかし、捕まえる方法が全然違います。
場所は、東京郊外の多摩湖と言う貯水池があり、その近くに小さな池が2つありました。
この池にザリガニがいて、これをサキイカを餌に釣るんです。
「ザリガニ釣り」ですね。
こんな具合です。

今日は少しアニメで遊んでみましたが、60歳過ぎのおやじがやることではないですね。
またアニメに不快な思いをされた方にはお詫びいたします。
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場所は本牧で、近くには三溪園という大きな公園がありました。
この公園は、現在きれいに整備されて横浜名所の一つになっていると思いますが、実業家原三溪が京都や鎌倉の建造物などを移築して整備されていった庭園です。
私が遊んだ頃(昭和29~30年頃)は、すでに現在にの公園のシンボルである三重塔はあったが、第二次大戦の影響を受けて被害を受け、横浜市に昭和28年に寄贈された直後でしたので、まだ復興の始まったばかりの頃でした。
そのため、比較的のどかでまだまわりに草が生えた小川なども流れていたと思います。
この小川の脇の泥に小さな穴がところどころに開いていて、これがザリガニの巣でした。
子供たちは夕方集まってこのザリガニ取りをするのです。
採り方は穴に手を入れたり、棒を差し込んだりして、ハサミにかまれないように引き出して捕獲するのです。
出来るだけ赤くて格好のいいザリガニを捕まえるのが自慢になるのです。
この真っ赤なザリガニは確か「マッカチ」などと呼んでいたように思います。
下にちょっとしたアニメを作って見ましたが、嫌いな人には不快な思いをさせてごめんなさい。
でも男の子はこんなのが格好いいと思うんです。

まあ10回くらい繰り返したら止まると思うのでご勘弁ください。
なぜこのようなザリガニ採りを思い出として載せたのかと言うと、この三溪園も昔夕方6時頃に門が閉まってしまいます。
ある時子供たちが夢中になっていて、門限を過ぎてしまったのです。
帰ろうと門に行くとすでにしまっていました。
このようなことは何度か経験している子もいて、平気で門をよじ登って外に出たのです。
良い子は真似してはいけないのだけれど、私もよじ登りましたよ。小学1年生です。
きっとそのころは門や塀もそんなには高くはなかったのでしょうね。
こんなことがなつかしく思い出されるのです。
もちろん近くの山の竹やぶに秘密基地なんかも作って遊んでいました。
格好のいいナイフなんかを買ってもらって竹を切ったりするのも好きでした。
今では危ないからといって持たせてもらえないでしょうね。
でもそのおかげでしょうか、小学校の家庭科でジャガイモの皮むき(昔は皮むき器なんてありません)も包丁で器用に剥くことができ、クラスで女の子より上手でしたよ。
さて、その後横浜から東京郊外に引っ越したわけですが、そこでもザリガニを採って遊びました。
しかし、捕まえる方法が全然違います。
場所は、東京郊外の多摩湖と言う貯水池があり、その近くに小さな池が2つありました。
この池にザリガニがいて、これをサキイカを餌に釣るんです。
「ザリガニ釣り」ですね。
こんな具合です。

今日は少しアニメで遊んでみましたが、60歳過ぎのおやじがやることではないですね。
またアニメに不快な思いをされた方にはお詫びいたします。


子供の頃(のぎさんはえらいひと)
さて、今回も横浜にいた時の遊びの話です。
これは横浜の地方だけのようなのですが、一般には「だるまさんがころんだ」というところを、「のぎさんはえらいひと」といって遊んでいたのです。
この遊びも、1から10まで数を数えるのに地方によって違いがあるようです。
子供ですから「のぎさん」って誰だか知るはずもありません。
横浜では旅順攻略(203高地)、日露戦争の立役者?である乃木大将のことが崇拝されていたのかもしれません。
しかし坂の上の雲でも「乃木希典」についてはあまり評価はされていないようです。意見が2分しています。
しかし戦前の教科書にも載っており、明治天皇の死を受けて夫婦で自害した乃木希典伯爵を慕っていた人々がたくさんいたのだと思います。
乃木さんが東郷さんに変わっている地方もあると聞きましたが、関西などでは別な言い方になっているようです。
こんな遊びです。
はじめのいっぽ!

今回もアニメを作ってみました。地方によってどんな言い方があるのかな?
東京に来てからは「だるまさんがころんだ」が主流だったと思います。
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これは横浜の地方だけのようなのですが、一般には「だるまさんがころんだ」というところを、「のぎさんはえらいひと」といって遊んでいたのです。
この遊びも、1から10まで数を数えるのに地方によって違いがあるようです。
子供ですから「のぎさん」って誰だか知るはずもありません。
横浜では旅順攻略(203高地)、日露戦争の立役者?である乃木大将のことが崇拝されていたのかもしれません。
しかし坂の上の雲でも「乃木希典」についてはあまり評価はされていないようです。意見が2分しています。
しかし戦前の教科書にも載っており、明治天皇の死を受けて夫婦で自害した乃木希典伯爵を慕っていた人々がたくさんいたのだと思います。
乃木さんが東郷さんに変わっている地方もあると聞きましたが、関西などでは別な言い方になっているようです。
こんな遊びです。


今回もアニメを作ってみました。地方によってどんな言い方があるのかな?
東京に来てからは「だるまさんがころんだ」が主流だったと思います。


子供の頃(新諸国物語)
先週土曜日までは天気も悪く寒い日が続いたのでいつになったら春が来るのだろうと思っていました。
ところが今週になって、天気予報ではまだ寒い日が続き冬に戻るようなことも言っていましたが、もうそんなことはありません。
いつもと同じ時間に、いつもと同じ道を車で走っています。今週から見える風景も、吹く風も、差してくる日差しや木々の影の長さまで「もう春ですよ」とささやいています。
畑に貼られた色紙テープに日が当ってキラキラ輝いています。
筑波山の頂の色も春らしくなりました。
恋瀬川を眺めれば、春の日差しで水面(みなも)がきらきら輝きます。
そこに水鳥が楽しそうに泳いでいます。
昨日まで硬く閉ざしていた梅のつぼみがパッと開いて野山に明るい彩りがつけられました。
雪の降る地方はまだ春が実感されていないようですが、あと1~2週間でそちらにも届きそうです。
土の中から虫が這い出てきますね。(啓蟄は3月6日でしたから、暦の上ではもう過ぎてしまいましたね)
さて、石岡の街並みや古東海道などを順に紹介する予定ですが、毎日書いているとどうしてもネタが切れてくるんです。
そのため時々子供の頃の思い出話などを混ぜて見たのだけれど、これはこれで結構大変ですね。
でも、若い人にとっては私の話もすでに歴史ですね。(笑)
私の小さい子供の時(まだ横浜にいた小学1年生までの頃)にはまだテレビはありませんでした。
その頃はラジオとたまに見る映画が娯楽の中心で、マンガはありました。
漫画では「幼年ブック」があり、「さいころコロ助」など夢中で読んでいた記憶があります。
また映画ではディズニーのダンボが昭和29年に公開され、きれいな色にとても驚いた記憶があります。
日本の映画は時代劇が多く、ちょうどその頃にカラー映画が始まったのではないでしょうか。
必ずカラー映画は「総天然色」と銘うって宣伝されていました。
今日は、ラジオドラマのお話を少しさせてください。
当時NHKラジオで子供向けに放送されたのが「新諸国物語」シリーズで、「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「怪人二十面相」「黄金バット」「赤胴鈴之助」などと続くのですが、もっとも記憶に残っているのは笛吹童子と紅孔雀です。
夕方この放送があるから遊んでいても必ずみんな家に帰りました。
笛吹童子は昭和28年の1年間。
紅孔雀は昭和29年の1年間。
放送時間は日曜日を除く夕方6:30~6:45の15分間です。
4歳の終わり頃から2年間聞いたのですが、今でもこの主題歌はおぼえています。
でも胸躍らせて聞いたお話の内容はほとんど覚えていません。
まだ小さかったので忘れてしまっても不思議ではないでしょう。
でもこの主題歌は今でもかなり歌えるんですよ。
♪ヒャラーリヒャラリコ、ヒャリーコヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ。:笛吹童子
♪まだ見ぬ国に住むという紅き翼の孔雀どり、秘めし願いを知ると言う秘めし宝を知ると言う:紅孔雀
(横浜でしたので覚えていたのは 「秘めし宝」などは「しめし宝」と歌っておりました。(笑))
その後映画になったり、テレビでも製作されたようですが、このラジオの世界は独特でした。
想像力をいっぱいにふくらませて聞くことができるのです。
もちろん私より少し後の世代は「赤胴鈴之助」などを思い浮かべるでしょう。
これには吉永小百合が千葉周作の娘の声を担当していました。
真空斬りなどと言うのが男の子ではブームになったのです。
小説を読んで感じたものが映画となって見た時にがっかりすることが良くありますが、それと同じようなものかもしれません。
テレビで育った子供は想像力が限られてしまって楽しさも半減でしょう。
もちろん映像による楽しさは別な楽しさが加わりますので、楽しみ方は違って当然かもしれません。
でも、テレビがないから可哀そうなどと言うことはありません。
逆にテレビがない時代を知らないことは少しつまらないんじゃないかと思ってしまいます。
テレビがないと、子どもたちは外で走り回って遊んで、この時間(6時頃)には決まって家にみんな帰っていたんです。
貧しいけれど楽しい時代でした。砂糖などは高級でサッカリンなどと言うも使っていました。
その後ダイエットに砂糖の代わりに使われたりしたようですが、今では発がん性の疑いが少しあるかもしれないといわれて使用されていないようです。
牛肉などはあまり食べられませんが、イワシは安く手に入りました。
それをすりこぎですりつぶして丸めてお団子にして揚げたり、みそ汁に入れれば、とても美味しく骨も丈夫になったに違いありません。
先日雛まつりが過ぎてからお人形店の前を通ると、今まで飾ってあった雛人形はすべてなくなり、代わりに端午の節句に合わせて、武者人形や兜がたくさん並べられていました。
ああもうすぐ5月が来るのかなどと、まだ先なのに思わされました。
男の子はやはりチャンバラごっこですよね。簡単なアニメを作ってみました。
イラスト画像も左右反転や円周方向に回転することはすぐできるのだけれど、横向けたりは三次元でないので無理ですね。3D画像でなければまあ無理ですね。
アニメももう終わりです。(あまり単純すぎますね)

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ところが今週になって、天気予報ではまだ寒い日が続き冬に戻るようなことも言っていましたが、もうそんなことはありません。
いつもと同じ時間に、いつもと同じ道を車で走っています。今週から見える風景も、吹く風も、差してくる日差しや木々の影の長さまで「もう春ですよ」とささやいています。
畑に貼られた色紙テープに日が当ってキラキラ輝いています。
筑波山の頂の色も春らしくなりました。
恋瀬川を眺めれば、春の日差しで水面(みなも)がきらきら輝きます。
そこに水鳥が楽しそうに泳いでいます。
昨日まで硬く閉ざしていた梅のつぼみがパッと開いて野山に明るい彩りがつけられました。
雪の降る地方はまだ春が実感されていないようですが、あと1~2週間でそちらにも届きそうです。
土の中から虫が這い出てきますね。(啓蟄は3月6日でしたから、暦の上ではもう過ぎてしまいましたね)
さて、石岡の街並みや古東海道などを順に紹介する予定ですが、毎日書いているとどうしてもネタが切れてくるんです。
そのため時々子供の頃の思い出話などを混ぜて見たのだけれど、これはこれで結構大変ですね。
でも、若い人にとっては私の話もすでに歴史ですね。(笑)
私の小さい子供の時(まだ横浜にいた小学1年生までの頃)にはまだテレビはありませんでした。
その頃はラジオとたまに見る映画が娯楽の中心で、マンガはありました。
漫画では「幼年ブック」があり、「さいころコロ助」など夢中で読んでいた記憶があります。
また映画ではディズニーのダンボが昭和29年に公開され、きれいな色にとても驚いた記憶があります。
日本の映画は時代劇が多く、ちょうどその頃にカラー映画が始まったのではないでしょうか。
必ずカラー映画は「総天然色」と銘うって宣伝されていました。
今日は、ラジオドラマのお話を少しさせてください。
当時NHKラジオで子供向けに放送されたのが「新諸国物語」シリーズで、「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「怪人二十面相」「黄金バット」「赤胴鈴之助」などと続くのですが、もっとも記憶に残っているのは笛吹童子と紅孔雀です。
夕方この放送があるから遊んでいても必ずみんな家に帰りました。
笛吹童子は昭和28年の1年間。
紅孔雀は昭和29年の1年間。
放送時間は日曜日を除く夕方6:30~6:45の15分間です。
4歳の終わり頃から2年間聞いたのですが、今でもこの主題歌はおぼえています。
でも胸躍らせて聞いたお話の内容はほとんど覚えていません。
まだ小さかったので忘れてしまっても不思議ではないでしょう。
でもこの主題歌は今でもかなり歌えるんですよ。
♪ヒャラーリヒャラリコ、ヒャリーコヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ。:笛吹童子
♪まだ見ぬ国に住むという紅き翼の孔雀どり、秘めし願いを知ると言う秘めし宝を知ると言う:紅孔雀
(横浜でしたので覚えていたのは 「秘めし宝」などは「しめし宝」と歌っておりました。(笑))
その後映画になったり、テレビでも製作されたようですが、このラジオの世界は独特でした。
想像力をいっぱいにふくらませて聞くことができるのです。
もちろん私より少し後の世代は「赤胴鈴之助」などを思い浮かべるでしょう。
これには吉永小百合が千葉周作の娘の声を担当していました。
真空斬りなどと言うのが男の子ではブームになったのです。
小説を読んで感じたものが映画となって見た時にがっかりすることが良くありますが、それと同じようなものかもしれません。
テレビで育った子供は想像力が限られてしまって楽しさも半減でしょう。
もちろん映像による楽しさは別な楽しさが加わりますので、楽しみ方は違って当然かもしれません。
でも、テレビがないから可哀そうなどと言うことはありません。
逆にテレビがない時代を知らないことは少しつまらないんじゃないかと思ってしまいます。
テレビがないと、子どもたちは外で走り回って遊んで、この時間(6時頃)には決まって家にみんな帰っていたんです。
貧しいけれど楽しい時代でした。砂糖などは高級でサッカリンなどと言うも使っていました。
その後ダイエットに砂糖の代わりに使われたりしたようですが、今では発がん性の疑いが少しあるかもしれないといわれて使用されていないようです。
牛肉などはあまり食べられませんが、イワシは安く手に入りました。
それをすりこぎですりつぶして丸めてお団子にして揚げたり、みそ汁に入れれば、とても美味しく骨も丈夫になったに違いありません。
先日雛まつりが過ぎてからお人形店の前を通ると、今まで飾ってあった雛人形はすべてなくなり、代わりに端午の節句に合わせて、武者人形や兜がたくさん並べられていました。
ああもうすぐ5月が来るのかなどと、まだ先なのに思わされました。
男の子はやはりチャンバラごっこですよね。簡単なアニメを作ってみました。
イラスト画像も左右反転や円周方向に回転することはすぐできるのだけれど、横向けたりは三次元でないので無理ですね。3D画像でなければまあ無理ですね。
アニメももう終わりです。(あまり単純すぎますね)



子供の頃-ボケ、木瓜、草木瓜
1年8ヶ月前にこのブログを立ち上げ、今日まで休むことなく記事を書いてきました。
そして今回が800回目の記念すべき記事です。(笑)
平均すると1日当たり1.3件記事を書いてきたことになります。
過去の1年半分位をまとめて本を発行することにしました。
もちろん自己(自費)出版です。
全部で4巻にもなってしまいましたが、まとめてみると一つの達成感があります。
自己満足の領域は出ていないのですが、興味がありましたら左のプロフィールの最後にショップへのリンクを貼ってあります。
興味がありましたらのぞいてみてください。
さて、昨日の朝出かける前に、庭でモクレンの写真を撮りました。
その前の夕方から夜は大変な雷が怖いくらいで、桜も散ってしまったかと思いましたが、葉桜となってまだ残っていましたね。
「夜来風雨の声、花落つること知んぬ 多少ぞ」
漢詩も読み見方は時代により異なるかもしれませんね。「春眠暁を覚えず」は変わらないでしょうが。
さて、我が家の庭のモクレンですが、雨が上がった後、朝日を浴びて輝いていました。
このモクレンですが、昨年夏(7月下旬)に年に2度咲くモクレンと紹介した花です。(こちら)

朝日はいいですね。なんでも輝いて見えます。

前に子供の頃の思い出話も何回かしており、拙いアニメ等を作ってみたりもしました。
堺屋太一氏が「団塊の世代」という言葉を使いましたが、私はこの団塊の世代の真ん中でまさに産声をあげました。
最近、近くでも小学校等が統廃合され、古い思い出の学校がなくなってしまった人もきっと多いと思います。
しかし、私が子供の頃は新しい学校がどんどん建設されていました。でも追いつかなくて1クラスの人数は50人位いたのです。
そして、教室が足りなくて音楽教室がなくなって普通の教室になったりしていました。
私は小学校は3箇所に通いました。
ひとつは横浜で小学校1年生まで。
次は東京郊外に引っ越したのですが、近くに学校がなく1駅先の小学校に歩いて通っていました。
5年生からは家の近くに新しい小学校ができ、そちらに通ったのです。
最初は6年生がいませんでしたので、私たちが記念すべき第1回目の卒業生でした。
その頃の思い出話です。
新しくできた学校は、武蔵野の雑木林に囲まれた草原を切り開いて建てられたところでした。
家からはすぐ近くで5分位で行ける距離でしたが、周りには典型的な武蔵野の雑木林が点在していました。
今頃の時期に雑木林に入っていくと、必ずボケの赤やオレンジの花や青紫のスミレの可愛らしい花、また白い野ばらが咲いていました。
私はこの木瓜(ボケ)を採ってきて庭に植えたら庭木のボケのような大きな木になるのかと思っていましたが、これは種類が違うようですね。
野ボケ、草ボケ、山ボケ・・・まあ呼び名はたくさんありそうですが、こんな(草)木瓜にまた出会いたいと思っています。
こちらの方に来てからはあまり出会わないんです。
今はこの近くの梨畑には少し花の芽が出ています。
もう少ししたら白い梨の花でいっぱいになるでしょう。
こんなブログも20ヶ月続いてきたので、何とかボケずに続けて、1000回を達成したいものだと思っています。
でも毎日続けるのって結構大変なんですよ。
昨日も実はピンチでした。パソコンのインターネットが接続されなくなってしまったのです。
新しいウィルス駆除ソフトを入れようと前のものを削除しようと操作し、再起動したらインターネットの装置が認識されなくなってしまったのです。
確か自動認識されたはずなのに・・・(汗)
そして電源を何度か入れ直したり・・・でもダメ。
夜遅かったののですが、プロバイダに電話してみて色々操作したけど結局ダメで「明日の担当がいる営業時間に連絡を取ってほしい」と言われたのです。
でもよく考えたら、前に間違った操作をして
パソコンへの個人権限を削除して立ち上げからできなくなったことがあったのです。
その時教えてもらったある一定期間前の状態にパソコンを戻すことができる方法です。
これを思い出して、2日ほど前の状態に戻せたので無事に元の状態に戻りました。
最近は便利ですね。
一般のファイルなどは変更されませんのでシステム関連のみむかしの状態に戻せます。
こんなことも知っておくと便利です。(Windows7だけ?)
大震災の時の停電もピンチでしたが、これからもこんなピンチがまたやってくるかもしれません。
個人の意思とは関係なく・・・。継続も難しいものです。
← よろしければクリックお願いします。
そして今回が800回目の記念すべき記事です。(笑)
平均すると1日当たり1.3件記事を書いてきたことになります。
過去の1年半分位をまとめて本を発行することにしました。
もちろん自己(自費)出版です。
全部で4巻にもなってしまいましたが、まとめてみると一つの達成感があります。
自己満足の領域は出ていないのですが、興味がありましたら左のプロフィールの最後にショップへのリンクを貼ってあります。
興味がありましたらのぞいてみてください。
さて、昨日の朝出かける前に、庭でモクレンの写真を撮りました。
その前の夕方から夜は大変な雷が怖いくらいで、桜も散ってしまったかと思いましたが、葉桜となってまだ残っていましたね。
「夜来風雨の声、花落つること知んぬ 多少ぞ」
漢詩も読み見方は時代により異なるかもしれませんね。「春眠暁を覚えず」は変わらないでしょうが。
さて、我が家の庭のモクレンですが、雨が上がった後、朝日を浴びて輝いていました。
このモクレンですが、昨年夏(7月下旬)に年に2度咲くモクレンと紹介した花です。(こちら)

朝日はいいですね。なんでも輝いて見えます。

前に子供の頃の思い出話も何回かしており、拙いアニメ等を作ってみたりもしました。
堺屋太一氏が「団塊の世代」という言葉を使いましたが、私はこの団塊の世代の真ん中でまさに産声をあげました。
最近、近くでも小学校等が統廃合され、古い思い出の学校がなくなってしまった人もきっと多いと思います。
しかし、私が子供の頃は新しい学校がどんどん建設されていました。でも追いつかなくて1クラスの人数は50人位いたのです。
そして、教室が足りなくて音楽教室がなくなって普通の教室になったりしていました。
私は小学校は3箇所に通いました。
ひとつは横浜で小学校1年生まで。
次は東京郊外に引っ越したのですが、近くに学校がなく1駅先の小学校に歩いて通っていました。
5年生からは家の近くに新しい小学校ができ、そちらに通ったのです。
最初は6年生がいませんでしたので、私たちが記念すべき第1回目の卒業生でした。
その頃の思い出話です。
新しくできた学校は、武蔵野の雑木林に囲まれた草原を切り開いて建てられたところでした。
家からはすぐ近くで5分位で行ける距離でしたが、周りには典型的な武蔵野の雑木林が点在していました。
今頃の時期に雑木林に入っていくと、必ずボケの赤やオレンジの花や青紫のスミレの可愛らしい花、また白い野ばらが咲いていました。
私はこの木瓜(ボケ)を採ってきて庭に植えたら庭木のボケのような大きな木になるのかと思っていましたが、これは種類が違うようですね。
野ボケ、草ボケ、山ボケ・・・まあ呼び名はたくさんありそうですが、こんな(草)木瓜にまた出会いたいと思っています。
こちらの方に来てからはあまり出会わないんです。
今はこの近くの梨畑には少し花の芽が出ています。
もう少ししたら白い梨の花でいっぱいになるでしょう。
こんなブログも20ヶ月続いてきたので、何とかボケずに続けて、1000回を達成したいものだと思っています。
でも毎日続けるのって結構大変なんですよ。
昨日も実はピンチでした。パソコンのインターネットが接続されなくなってしまったのです。
新しいウィルス駆除ソフトを入れようと前のものを削除しようと操作し、再起動したらインターネットの装置が認識されなくなってしまったのです。
確か自動認識されたはずなのに・・・(汗)
そして電源を何度か入れ直したり・・・でもダメ。
夜遅かったののですが、プロバイダに電話してみて色々操作したけど結局ダメで「明日の担当がいる営業時間に連絡を取ってほしい」と言われたのです。
でもよく考えたら、前に間違った操作をして
パソコンへの個人権限を削除して立ち上げからできなくなったことがあったのです。
その時教えてもらったある一定期間前の状態にパソコンを戻すことができる方法です。
これを思い出して、2日ほど前の状態に戻せたので無事に元の状態に戻りました。
最近は便利ですね。
一般のファイルなどは変更されませんのでシステム関連のみむかしの状態に戻せます。
こんなことも知っておくと便利です。(Windows7だけ?)
大震災の時の停電もピンチでしたが、これからもこんなピンチがまたやってくるかもしれません。
個人の意思とは関係なく・・・。継続も難しいものです。


子供の頃-雨戸
「お母さん 夢じゃないよね」
私は小学校1年生が終わった春休みに横浜市から東京都東村山市に引っ越した。
その最初の日に私が母に言った言葉だという。
その後、事あるごとに母は「あの頃は可愛かった」などとよく言うので忘れずに覚えているようになった。
それは、庭付きの1棟が2軒長屋風の建屋が何十棟かが集まった都営住宅に移った日のことだ。
1軒毎に生垣の垣根で囲われていてプライバシー保護はされていた。
その庭に面した部屋の外には濡れ縁があって、窓に木の雨戸がついていた。
越してきてすぐにその雨戸を開けて、その雨戸があることが不思議であり、子供にとっては面白くて、何度も出し入れしながら言った言葉だという。
「あの頃は可愛かった。」ということは今はかわいくないってこと?などと少し大きくなるまで思った。
まあ確かに可愛くはなくなって小憎らしくなっていったことは確かだが。
横浜にいた時は、海が埋め立てられる前で、漁師の家なども多く、本当に小さな掘立小屋のような家であった。
もちろん雨戸などはなかった。
でもそれも懐かしい思い出しかないのだが、子供にとっては楽しい我が家であった。
横浜にいた時は、まだ戦後まもない時期だから、砂糖の替りにサッカリンなどを使っていた。
今では庭付き1戸建の住まいに住んでいるが、人間の幸せとはなんだろうかと思うことがある。
確かに衣食住に事欠けば考えも卑屈になりがちだから、最低限の余裕は必要だろう。
でも心が豊かであることと、金持ちであることはイコールにはならないだろう。
心の貧しい金持ちはたくさんいるもの・・・・。
今のアベノミックスでまたこのお金だけを動かして金儲けをしようとする人たちがたくさんいる。
また、なんとなく憂鬱だ。
やはり、モノを作って買っていただいて喜んでもらうことが原点だ。それにより対価は後から付いてくる。
もちろんサービス業だって良いサービスを提供して喜んでいただくということが原点だ。
定年過ぎてもまだ汗水たらして働かねばならないのも事実だが、今では働けるという気持ちの張りが、お金を得るという対価以上に精神的には大切になっている。
いつまで働けるかはわからないが、アクセクせずに無理なく働き続けることができるならこれはこれで十分幸せだと感じている。
もちろん若い人の仕事を奪うつもりはないので、真に必要とされていると感じられなくなればさっさとその職場は離れよう。
「すべての物・人に感謝する」この気持ちがいつまで保てるかな?
しかし、こうしている間も、すぐ妻に愚痴を言ったりしてしまう。
まあ人間がまだまだできていないな~。
これは死ぬまで治らんかもしれないな。

シランの花(玄関の横で長く咲いている)
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私は小学校1年生が終わった春休みに横浜市から東京都東村山市に引っ越した。
その最初の日に私が母に言った言葉だという。
その後、事あるごとに母は「あの頃は可愛かった」などとよく言うので忘れずに覚えているようになった。
それは、庭付きの1棟が2軒長屋風の建屋が何十棟かが集まった都営住宅に移った日のことだ。
1軒毎に生垣の垣根で囲われていてプライバシー保護はされていた。
その庭に面した部屋の外には濡れ縁があって、窓に木の雨戸がついていた。
越してきてすぐにその雨戸を開けて、その雨戸があることが不思議であり、子供にとっては面白くて、何度も出し入れしながら言った言葉だという。
「あの頃は可愛かった。」ということは今はかわいくないってこと?などと少し大きくなるまで思った。
まあ確かに可愛くはなくなって小憎らしくなっていったことは確かだが。
横浜にいた時は、海が埋め立てられる前で、漁師の家なども多く、本当に小さな掘立小屋のような家であった。
もちろん雨戸などはなかった。
でもそれも懐かしい思い出しかないのだが、子供にとっては楽しい我が家であった。
横浜にいた時は、まだ戦後まもない時期だから、砂糖の替りにサッカリンなどを使っていた。
今では庭付き1戸建の住まいに住んでいるが、人間の幸せとはなんだろうかと思うことがある。
確かに衣食住に事欠けば考えも卑屈になりがちだから、最低限の余裕は必要だろう。
でも心が豊かであることと、金持ちであることはイコールにはならないだろう。
心の貧しい金持ちはたくさんいるもの・・・・。
今のアベノミックスでまたこのお金だけを動かして金儲けをしようとする人たちがたくさんいる。
また、なんとなく憂鬱だ。
やはり、モノを作って買っていただいて喜んでもらうことが原点だ。それにより対価は後から付いてくる。
もちろんサービス業だって良いサービスを提供して喜んでいただくということが原点だ。
定年過ぎてもまだ汗水たらして働かねばならないのも事実だが、今では働けるという気持ちの張りが、お金を得るという対価以上に精神的には大切になっている。
いつまで働けるかはわからないが、アクセクせずに無理なく働き続けることができるならこれはこれで十分幸せだと感じている。
もちろん若い人の仕事を奪うつもりはないので、真に必要とされていると感じられなくなればさっさとその職場は離れよう。
「すべての物・人に感謝する」この気持ちがいつまで保てるかな?
しかし、こうしている間も、すぐ妻に愚痴を言ったりしてしまう。
まあ人間がまだまだできていないな~。
これは死ぬまで治らんかもしれないな。

シランの花(玄関の横で長く咲いている)


子供の頃-記憶
今日は午前中に「ふるさと風」の会報の印刷。午後になってそれを石岡のまち蔵(丁子屋)に置きに行き、その足で、つくば市北条のふれあい館(田村家)に行きまた少し置かせてもらってきた。
ふれあい館で田村さんとお話をしていたら、紅茶をご馳走になってしまいました。
話は竜巻の話や、壊れた瓦で作った「竜の子ゴブリン」の見学もしてきました。
先日「いい旅・夢気分」(6月5日夜の放送)でここが紹介されたそうです。
そして、この私が座った場所に「新山千春さんと島谷ひとみさん」が座ったのだそうです。
あらま~です。
そして、その後に小町の里と土浦市民会館に寄ってきました。
結構遠いんですよね。車で行って帰ってくるまで1時間半くらいかかりましたね。
さて、これからは子供の頃の話です。
人は幼かった頃のことをどの程度さかのぼって覚えているものなのだろうか?
私はもともと記憶力が良くなく、人の名前や顔なども覚えられずに、昔あった人などに声をかけられたりして思い出せずに困ることがよくある。
昔子供の頃に、母から「お前は赤ん坊の時こうだった。」などと言われることがあったが、「そんなこといわれても記憶にないよ」と思うのだが、それも何回もそう言われるとそんなこともあったかななんていう気になってくる。
人の脳の海馬の構造がどうなっているかは知らないが、繰り返しインプットされると記憶が本物になるのかもしれない。
私が生まれたのは新潟県小千谷市で雪深い場所だ。
しかし、2歳くらいの時に家族で横浜に引越した。
そのため、この小千谷で生活した記憶が全くない。
そのな中、小学校に上がる前の冬に横浜でも珍しく大雪が降った年があった。
ネットで調べてみたら昭和29年に東京でも大雪が降ったとあるのでこの年だと思う。
この時はまだ5歳くらいだったわけだが、この積もった雪道を歩いた記憶が結構鮮明に残っている。
もちろん5歳の頃を覚えているのは当たり前なのだが、この積もりたての雪の上に石ころか何かを落として、それがズブっと沈む感触が、昔同じことを経験したという感覚を覚えていたのだ。
それは当然横浜時代ではなく、新潟の雪に違いないのだ。
そして、その記憶が私の海馬に蓄積されて記憶となって刻み込まれている。
このため、幼い頃の自分の記憶がある人は、記憶を思い出す環境があって、きっとそのことをあとから思い出し、記憶の定着となるのではないだろうかと考えるのだが、どうだろうか?
まあ、「♪ 柱の傷はおととしの五月五日の背比べ ♪」などと何度も繰り返せば昔のことも忘れないのだろうと思う。
さて話は変わるが、梅雨に入ってなかなか雨が降らず、昨夜に少し降ったがそれもほんのお湿り程度。
今朝は寒いくらいだとおもったら、昼間は湿度も高く暑さもぶり返してきた。
家内は毎週土曜日にいわきの仮設住宅へにまだ行っているが、向こうは雨がだいぶ降ってこまったようだ。
原発の避難も長期化して年寄りも多いし、今後どうなるんだろうとまだまだ心配しているが、訪れる人はめっきり少なくなっているようだ。
今日は、急にまた暑くなってきたので家の中に「蠅」が出て飛び回った。それを「ハエたたき」でやっつけてやった。
たった一匹だが「五月蝿い(うるさい)」ものだ。
この五月蝿いというのは夏目漱石が書いたことが言葉の始めだそうだが、やはりこの五月は今の六月の梅雨(五月雨)のころなのだろう。
これで、急に昔の童話を思い出してしまった。
「一打ちで七匹」という爽快なお話だ。
昔読んだこんな話が大好きで、おおぼらふきの話だの、地獄耳の話などの話ばかりが載った本だった。
しかし、何という本だったかがわからず、また読みたいと思って東京の大きな書店を探したがわからなかったことがあった。
一打ちで七匹というのはある若い仕立て屋がうるさいハエを布で叩いたら1度に7匹もやっつけてしまった。
これは世の中に知らせなければと、「一打ち七つ」と刺繍した帯を腰に巻いて冒険の旅に出る話で、最後はお姫様を嫁にしてめでたしめでたしだったと思う。
小さなことにこだわらずに知恵と勇気で夢を実現することはいつの時代も子どもの心をワクワクさせてくれます。
ピーターパンも同じですよね。

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ふれあい館で田村さんとお話をしていたら、紅茶をご馳走になってしまいました。
話は竜巻の話や、壊れた瓦で作った「竜の子ゴブリン」の見学もしてきました。
先日「いい旅・夢気分」(6月5日夜の放送)でここが紹介されたそうです。
そして、この私が座った場所に「新山千春さんと島谷ひとみさん」が座ったのだそうです。
あらま~です。
そして、その後に小町の里と土浦市民会館に寄ってきました。
結構遠いんですよね。車で行って帰ってくるまで1時間半くらいかかりましたね。
さて、これからは子供の頃の話です。
人は幼かった頃のことをどの程度さかのぼって覚えているものなのだろうか?
私はもともと記憶力が良くなく、人の名前や顔なども覚えられずに、昔あった人などに声をかけられたりして思い出せずに困ることがよくある。
昔子供の頃に、母から「お前は赤ん坊の時こうだった。」などと言われることがあったが、「そんなこといわれても記憶にないよ」と思うのだが、それも何回もそう言われるとそんなこともあったかななんていう気になってくる。
人の脳の海馬の構造がどうなっているかは知らないが、繰り返しインプットされると記憶が本物になるのかもしれない。
私が生まれたのは新潟県小千谷市で雪深い場所だ。
しかし、2歳くらいの時に家族で横浜に引越した。
そのため、この小千谷で生活した記憶が全くない。
そのな中、小学校に上がる前の冬に横浜でも珍しく大雪が降った年があった。
ネットで調べてみたら昭和29年に東京でも大雪が降ったとあるのでこの年だと思う。
この時はまだ5歳くらいだったわけだが、この積もった雪道を歩いた記憶が結構鮮明に残っている。
もちろん5歳の頃を覚えているのは当たり前なのだが、この積もりたての雪の上に石ころか何かを落として、それがズブっと沈む感触が、昔同じことを経験したという感覚を覚えていたのだ。
それは当然横浜時代ではなく、新潟の雪に違いないのだ。
そして、その記憶が私の海馬に蓄積されて記憶となって刻み込まれている。
このため、幼い頃の自分の記憶がある人は、記憶を思い出す環境があって、きっとそのことをあとから思い出し、記憶の定着となるのではないだろうかと考えるのだが、どうだろうか?
まあ、「♪ 柱の傷はおととしの五月五日の背比べ ♪」などと何度も繰り返せば昔のことも忘れないのだろうと思う。
さて話は変わるが、梅雨に入ってなかなか雨が降らず、昨夜に少し降ったがそれもほんのお湿り程度。
今朝は寒いくらいだとおもったら、昼間は湿度も高く暑さもぶり返してきた。
家内は毎週土曜日にいわきの仮設住宅へにまだ行っているが、向こうは雨がだいぶ降ってこまったようだ。
原発の避難も長期化して年寄りも多いし、今後どうなるんだろうとまだまだ心配しているが、訪れる人はめっきり少なくなっているようだ。
今日は、急にまた暑くなってきたので家の中に「蠅」が出て飛び回った。それを「ハエたたき」でやっつけてやった。
たった一匹だが「五月蝿い(うるさい)」ものだ。
この五月蝿いというのは夏目漱石が書いたことが言葉の始めだそうだが、やはりこの五月は今の六月の梅雨(五月雨)のころなのだろう。
これで、急に昔の童話を思い出してしまった。
「一打ちで七匹」という爽快なお話だ。
昔読んだこんな話が大好きで、おおぼらふきの話だの、地獄耳の話などの話ばかりが載った本だった。
しかし、何という本だったかがわからず、また読みたいと思って東京の大きな書店を探したがわからなかったことがあった。
一打ちで七匹というのはある若い仕立て屋がうるさいハエを布で叩いたら1度に7匹もやっつけてしまった。
これは世の中に知らせなければと、「一打ち七つ」と刺繍した帯を腰に巻いて冒険の旅に出る話で、最後はお姫様を嫁にしてめでたしめでたしだったと思う。
小さなことにこだわらずに知恵と勇気で夢を実現することはいつの時代も子どもの心をワクワクさせてくれます。
ピーターパンも同じですよね。



子供の頃-台風
昨日、夜になって郵便局にイギリスへの国際小包をもっていった。
今は24時間受け付けてくれるので助かるのだが、宛名や内容物など規定のラベル用紙を貰ってきて書きこんで持っていった。
夜間窓口で対応者が若い娘さんで、すぐに別な方に変わった。そしてまた「少し待って」とまた別な方が出てきた。
一応確認して受け付けてくれ、待っていると重量と「3400円」くらいの表示がでた。
確か調べて航空便でも1500円以下だったはずなので、確認すると「間違えました。別なところを見てました」と
「1410円」ですとのこと。
こちらが調べていなければ2倍以上の金額を取られるところでした。危ないですね。
都会と違って、海外に送る荷物も少ないのでしょうね。
SAL便なら880円くらいなので、次回は急がなければこちらにしたいと思います。
船便が一番安いのですが時間がかかりすぎます。
さて、子供の頃の話を一つ。
昭和34年、35年、36年と三年続けて大型の台風が日本列島を襲った。
昭和34年の伊勢湾台風だったかもしれないが、小学校高学年になっていた私は、仕事でいない父に代わって、母と窓の雨戸を閉め、木の板を斜め十字にわたして、釘を打って固定した。
たしかこの頃数回このように雨戸を固定したことがあったが、それ以来やった記憶はない。
台風が近づき、暴風雨が来て、しばらく静かになった。
外に出ると多少風はあったが青空が見えた。
この時初めて台風の目を見た。
そしてまたしばらくして風雨が強くなったが、夜のうちに去っていった。
翌朝、近所の雑木林の木々の小枝が散らばり、水溜りができた道を面白くなり歩き回った。
すると1匹の亀が道路をノロノロと歩いていた。
どこかで飼っていたものだろうが、庭などの池の水も溢れたりして逃げ出したものだろうと思い、家の庭の池に入れてしばらく飼った。
人の家のものを勝手に飼ったのだから良いことではないが、誰のかわからないし、亀がかわいそうなので仕方がない。
この亀もしばらく池で泳いだり石の上に乗っかってじっとしていたりしたが、いつの間にかいなくなった。
池に柵もしていないので逃げてもしょうがないが、持ち主のところへ戻ったなら良いが、どうなったかわからない。

(我が家の額アジサイ)

(風土記の丘のアヤメと大賀ハス(古代ハス):ハスの花はは7月末頃かな)
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今は24時間受け付けてくれるので助かるのだが、宛名や内容物など規定のラベル用紙を貰ってきて書きこんで持っていった。
夜間窓口で対応者が若い娘さんで、すぐに別な方に変わった。そしてまた「少し待って」とまた別な方が出てきた。
一応確認して受け付けてくれ、待っていると重量と「3400円」くらいの表示がでた。
確か調べて航空便でも1500円以下だったはずなので、確認すると「間違えました。別なところを見てました」と
「1410円」ですとのこと。
こちらが調べていなければ2倍以上の金額を取られるところでした。危ないですね。
都会と違って、海外に送る荷物も少ないのでしょうね。
SAL便なら880円くらいなので、次回は急がなければこちらにしたいと思います。
船便が一番安いのですが時間がかかりすぎます。
さて、子供の頃の話を一つ。
昭和34年、35年、36年と三年続けて大型の台風が日本列島を襲った。
昭和34年の伊勢湾台風だったかもしれないが、小学校高学年になっていた私は、仕事でいない父に代わって、母と窓の雨戸を閉め、木の板を斜め十字にわたして、釘を打って固定した。
たしかこの頃数回このように雨戸を固定したことがあったが、それ以来やった記憶はない。
台風が近づき、暴風雨が来て、しばらく静かになった。
外に出ると多少風はあったが青空が見えた。
この時初めて台風の目を見た。
そしてまたしばらくして風雨が強くなったが、夜のうちに去っていった。
翌朝、近所の雑木林の木々の小枝が散らばり、水溜りができた道を面白くなり歩き回った。
すると1匹の亀が道路をノロノロと歩いていた。
どこかで飼っていたものだろうが、庭などの池の水も溢れたりして逃げ出したものだろうと思い、家の庭の池に入れてしばらく飼った。
人の家のものを勝手に飼ったのだから良いことではないが、誰のかわからないし、亀がかわいそうなので仕方がない。
この亀もしばらく池で泳いだり石の上に乗っかってじっとしていたりしたが、いつの間にかいなくなった。
池に柵もしていないので逃げてもしょうがないが、持ち主のところへ戻ったなら良いが、どうなったかわからない。

(我が家の額アジサイ)

(風土記の丘のアヤメと大賀ハス(古代ハス):ハスの花はは7月末頃かな)


子供の頃-転校
私が小学校1年生の終業式が終わって(昭和31年春)、一家で横浜から東京都下の東村山市萩山という田舎町に越した。
横浜から見ると、とても田舎であった。
萩山などという名前も、この武蔵野の野原や多摩湖水道道路脇などに萩の花が多かったという程度のことで名前が付いた振興地域であった。
そのため、小学校がなく、1駅離れた八坂というところに歩いて通った。
1駅といってもそれほど遠いことはなく1km少しくらいしか離れてはいないし、子供の頃はこの通学時間はなんとも楽しい時間でもあった。
そのため、2年生から新しい学校に転向生として迎えられたのだが、たしかクラス分けが2年間同じだったようで、もうみんな馴染んだ友達ばかりがいる中に1人加わった転校生であった。
転校日の最初の日に、教室の前の方に立たされて、先生から紹介されて、何かを喋ったが、何をしゃべったのかこの辺は記憶が曖昧だ。
このクラス(確かその頃は40人くらいだったかな?)に馴染むには時間はあまりかからなかった。
何しろまだ小学2年生だし、習っている教科書の内容は横浜の方が進んでいて、最初は習ったことの復習のようだったのだ。
ただし、その後も小学生のうちに何人かの転校生がいたが、そんなこの気持ちがよく分かり、すぐに仲良くなったりしたと思う。
そうそう。横浜にいた時は家で良くハーモニカをふいていた。
低学年でたしか音楽の時間にもハーモニカがあったと思うが、転校後にまだ学校になじむ前に、昼休みに何かの事でハーモニカをふいた。
先生がそれを聞いて、皆の前でふくように言われ、恥ずかしかったがふいてみると意外に気持ちが良く友達もすぐにできた。

(我が家の庭で)

(柏原池公園にてひつじ草?)
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横浜から見ると、とても田舎であった。
萩山などという名前も、この武蔵野の野原や多摩湖水道道路脇などに萩の花が多かったという程度のことで名前が付いた振興地域であった。
そのため、小学校がなく、1駅離れた八坂というところに歩いて通った。
1駅といってもそれほど遠いことはなく1km少しくらいしか離れてはいないし、子供の頃はこの通学時間はなんとも楽しい時間でもあった。
そのため、2年生から新しい学校に転向生として迎えられたのだが、たしかクラス分けが2年間同じだったようで、もうみんな馴染んだ友達ばかりがいる中に1人加わった転校生であった。
転校日の最初の日に、教室の前の方に立たされて、先生から紹介されて、何かを喋ったが、何をしゃべったのかこの辺は記憶が曖昧だ。
このクラス(確かその頃は40人くらいだったかな?)に馴染むには時間はあまりかからなかった。
何しろまだ小学2年生だし、習っている教科書の内容は横浜の方が進んでいて、最初は習ったことの復習のようだったのだ。
ただし、その後も小学生のうちに何人かの転校生がいたが、そんなこの気持ちがよく分かり、すぐに仲良くなったりしたと思う。
そうそう。横浜にいた時は家で良くハーモニカをふいていた。
低学年でたしか音楽の時間にもハーモニカがあったと思うが、転校後にまだ学校になじむ前に、昼休みに何かの事でハーモニカをふいた。
先生がそれを聞いて、皆の前でふくように言われ、恥ずかしかったがふいてみると意外に気持ちが良く友達もすぐにできた。

(我が家の庭で)

(柏原池公園にてひつじ草?)


子供の頃-夢
小学校の5年生くらいだったと思うが、学校で自分の見た夢の内容を作文に書くように宿題が出た。
しかし、この夢というのが曲者で、あまり夢などを見ないのだ。いや見ないことはないのだが、見ても朝になると、それはことごとく内容もすぐに忘れて消えてしまう。
これは今でも同じで、余程記憶力が弱いのかもしれない。
忘れっぽいのか、インパクトがない夢なのか。
でもまた続きがみたかったなどと思うことがあるのだが、内容はすっかり忘れてしまう。
だから「見た夢を書け!」なんて言われても・・・・。
確かに追いかけられるような夢を何度か続けて見たような記憶もかすかにあったりはしたが、すっかり忘れていて文章になるようなことは何も思い出せない。
でも宿題は書かなければならないので、何か夢らしき内容を作り上げて、それらしい創作話を作文に書いて担任の先生に提出した。
そうしたら、先生は書いてきた作文の中からよさそうなものを数点選んで、教室の前に呼び出して他の生徒の前で自分の作文を読むように言われた。私も選ばれてしまった。
創作したものだから他の人よりまとまっていたのかもしれない。
夢なんて取り留めもない内容で支離滅裂なことも多いだろう。
「わあ、困ったな。本当のことじゃないのに・・・・」
今更ウソを書きましたとも言えないし・・・・。
恥ずかしくなったが、しょうがないのでそのまま読んだ。
でもこの時読んだ作文の内容もすっかり忘れてしまい、今ではこんなことがあったということをおぼえているだけだ。
最近テレビで芸能人が見た夢でその夢がどのような意味なのかを占う番組が放送されている。
私は夢を見ないのではなく、いまだに見た夢を全てと言ってよいほどすぐに忘れる。
寝ている時に見た夢をほとんど覚えていないというのは平和なことなのかもしれない。
会社に入社後、数年して仕事も増え、夜中遅く帰る日が続いた。
会社では仕事が輻輳して、「まだあれができていない」「このままでは納期に間に合わない」などと会社に行くのがいやになりそうな頃があった。
早くやらなければいけないことは分かっているが、新人ではどうやったらいいのかがわからず、一人悩む。
そうするとまず出来ることを先にやり、気にはなるが自分にとって難しいことが先延ばしになりどんどん精神的に追い詰められていく。
夜遅く家に帰って寝る時間も少なくなるのだが、夢は良く見ていたようだ。
何かに追われていたらしく、寝言で独り言をしゃべっていた。
そうこうするうちに朝起きるとすぐに腕や足の腿、それに背中などに赤いたくさんの発疹がでて、30分くらいすると消え、またしばらくすると出てくるということが繰り返されてきた。
近くの皮膚科の医者にいったら、何かのストレスがあり、自分の意思と体のバランスが崩れると起こると、実例を写真付きで紹介してもらった。
薬を飲んだら症状は収まったので、この診断はあっていたのだと思うが、要はやらなければとあせる気持ちと裏腹に体は休めと危険信号を鳴らしてくれたようだ。
これなどは個人差があり特に感じない人もいれば、もっと敏感に感じてしまう人もいる。
こんな自分の経験からも、部下を持つようになった時は、部下がそんな困っていないかを見るようにはしてきたがこれもまた難しい。
子供のころから夏休みの始まりや新学期の始まりなどに扁桃腺が腫れて高熱を出すことが多かった。
何か緊張した事が続いたり、疲れたりするとよくこんなことがあったので、これを健康のバロメータや安全弁ととらえる様になった。
それでも小学校で休んだのは年に数日あったかどうか。皆勤の年もあった。
そんなことして大人になったらこんな安全弁は働くなった。健康になったのならよいが、どこかに無理が行くこともあったのかもしれない。
でももう65歳じゃ、こんなことも思い出話になってしまった。
最近やっとメンタルヘルスなどという言葉が使われ、本人はもとより上長に対しての啓蒙がすすんでいる。
しかし、これは経験したものでないとこんな講座を受けてもあまり効果はない。
「頑張れ!」と言ってはいけないとか、職場を変わるのはストレスとなるなどと言われるが、もともと企業は生産・利益至上主義で本音で何処まで考えているのかわからない所がある。
基本事項はマニュアルを整備し、単純仕事は出来るだけ合理化して繰り返し業務を追放する。
私は、これをどんどんPDCA(Plan-Do-Check-Act)でまわしていけば合理化は進むと信じているが、なんとも日本は遅れている。働く人も優秀な人が多いから程ほどにやっていけるに違いない。

(家の庭で)
お~い。のんびり行こうね!

(柏原池の亀)・・・誰かがここに放したものか?
← よろしければクリックお願いします。
しかし、この夢というのが曲者で、あまり夢などを見ないのだ。いや見ないことはないのだが、見ても朝になると、それはことごとく内容もすぐに忘れて消えてしまう。
これは今でも同じで、余程記憶力が弱いのかもしれない。
忘れっぽいのか、インパクトがない夢なのか。
でもまた続きがみたかったなどと思うことがあるのだが、内容はすっかり忘れてしまう。
だから「見た夢を書け!」なんて言われても・・・・。
確かに追いかけられるような夢を何度か続けて見たような記憶もかすかにあったりはしたが、すっかり忘れていて文章になるようなことは何も思い出せない。
でも宿題は書かなければならないので、何か夢らしき内容を作り上げて、それらしい創作話を作文に書いて担任の先生に提出した。
そうしたら、先生は書いてきた作文の中からよさそうなものを数点選んで、教室の前に呼び出して他の生徒の前で自分の作文を読むように言われた。私も選ばれてしまった。
創作したものだから他の人よりまとまっていたのかもしれない。
夢なんて取り留めもない内容で支離滅裂なことも多いだろう。
「わあ、困ったな。本当のことじゃないのに・・・・」
今更ウソを書きましたとも言えないし・・・・。
恥ずかしくなったが、しょうがないのでそのまま読んだ。
でもこの時読んだ作文の内容もすっかり忘れてしまい、今ではこんなことがあったということをおぼえているだけだ。
最近テレビで芸能人が見た夢でその夢がどのような意味なのかを占う番組が放送されている。
私は夢を見ないのではなく、いまだに見た夢を全てと言ってよいほどすぐに忘れる。
寝ている時に見た夢をほとんど覚えていないというのは平和なことなのかもしれない。
会社に入社後、数年して仕事も増え、夜中遅く帰る日が続いた。
会社では仕事が輻輳して、「まだあれができていない」「このままでは納期に間に合わない」などと会社に行くのがいやになりそうな頃があった。
早くやらなければいけないことは分かっているが、新人ではどうやったらいいのかがわからず、一人悩む。
そうするとまず出来ることを先にやり、気にはなるが自分にとって難しいことが先延ばしになりどんどん精神的に追い詰められていく。
夜遅く家に帰って寝る時間も少なくなるのだが、夢は良く見ていたようだ。
何かに追われていたらしく、寝言で独り言をしゃべっていた。
そうこうするうちに朝起きるとすぐに腕や足の腿、それに背中などに赤いたくさんの発疹がでて、30分くらいすると消え、またしばらくすると出てくるということが繰り返されてきた。
近くの皮膚科の医者にいったら、何かのストレスがあり、自分の意思と体のバランスが崩れると起こると、実例を写真付きで紹介してもらった。
薬を飲んだら症状は収まったので、この診断はあっていたのだと思うが、要はやらなければとあせる気持ちと裏腹に体は休めと危険信号を鳴らしてくれたようだ。
これなどは個人差があり特に感じない人もいれば、もっと敏感に感じてしまう人もいる。
こんな自分の経験からも、部下を持つようになった時は、部下がそんな困っていないかを見るようにはしてきたがこれもまた難しい。
子供のころから夏休みの始まりや新学期の始まりなどに扁桃腺が腫れて高熱を出すことが多かった。
何か緊張した事が続いたり、疲れたりするとよくこんなことがあったので、これを健康のバロメータや安全弁ととらえる様になった。
それでも小学校で休んだのは年に数日あったかどうか。皆勤の年もあった。
そんなことして大人になったらこんな安全弁は働くなった。健康になったのならよいが、どこかに無理が行くこともあったのかもしれない。
でももう65歳じゃ、こんなことも思い出話になってしまった。
最近やっとメンタルヘルスなどという言葉が使われ、本人はもとより上長に対しての啓蒙がすすんでいる。
しかし、これは経験したものでないとこんな講座を受けてもあまり効果はない。
「頑張れ!」と言ってはいけないとか、職場を変わるのはストレスとなるなどと言われるが、もともと企業は生産・利益至上主義で本音で何処まで考えているのかわからない所がある。
基本事項はマニュアルを整備し、単純仕事は出来るだけ合理化して繰り返し業務を追放する。
私は、これをどんどんPDCA(Plan-Do-Check-Act)でまわしていけば合理化は進むと信じているが、なんとも日本は遅れている。働く人も優秀な人が多いから程ほどにやっていけるに違いない。

(家の庭で)
お~い。のんびり行こうね!

(柏原池の亀)・・・誰かがここに放したものか?


子供の頃-大人ってずるい?
今日は銚子まで仕事で行ってちょっと前に帰ってきました。
パソコンを立ち上げようとしたらスタート出来ませんでした。
などと表示され修復プログラムを起動し、どうにか立ち上がりました。
誰か何かいじったかな?
何度かこんなこともあるのであまり焦りませんがブログ更新記録が続いているので少し心配しました。
今日も何とか記事がUP出来ました。
-------------------------------
私は中学校へは電車で通った。
その中学校へ通う途中の出来事です。
学校の最寄りの駅から広い道を行きますが、途中から脇道に入り住宅街を通りぬけていきます。
その住宅街の角に空き地があって、枯草が生い茂っているところがありました。
そして学校の友達と3人ほどで通りかかった時にその草むらから火の手が上がったのです。
このまま燃え広がったら近所の家にも燃え広がってしまったら大変です。
友達とあわてて、何かでたたいたり足で踏み消したりして、近所の人が出て来てくれることを祈りました。
すると目の前の家から女のひと(おばさん?)が出てき来たのです。
何とか火はおさまりましたので、お礼を言ってもらえるものと思っていたのです。
何と言ったと思います。
「ちょっと、あんたたちがやったの!、火をつけたのは!」
まったく思ってもいなかった一言。ショックで口もきけませんでした。
僕らがいくら弁明しても何も聞きません。
陰でタバコでも吸っているとでも思っていたのでしょうか。
ああ、いやだ 大人って。
こういう大人って自分の子供のことしか目がいかない偏視眼で、こういう家の子は外で悪い事をする子が多いですよね。家の中ではおりこうさんなのです。
その後、そんな子供と親をたくさん見てきました。
さて、もうひとつ。もう少し年が上の頃です。
やはり脇道ですが道幅は5~6mくらいあったでしょうか。
その道を数人で歩いていました。
前から自転車に乗った若いお巡りさんがやってきました。
私たちの横を通る時に
「君たち、道路は右側を歩きなさい!」
と声を荒げてそのまま走り去ろうとしました。
でも私たちが歩いていたのは道路の右側だったのです。
「右側ですよ」友達が叫びました。
するとお巡りさん。
「道路は並んで歩かない」ですって。
二人くらいしか横には並んでいなかったしそんなに言われるほどじゃあないのに・・・。
きっと少し気分の悪いことでもあったのかな?
大人っていやだな。
でもそんな大人に今はなってるのかな? 反省!
あっ!もう大人ではなく爺さんになってた。

(ねじり花 柏原池公園にて)
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パソコンを立ち上げようとしたらスタート出来ませんでした。
などと表示され修復プログラムを起動し、どうにか立ち上がりました。
誰か何かいじったかな?
何度かこんなこともあるのであまり焦りませんがブログ更新記録が続いているので少し心配しました。
今日も何とか記事がUP出来ました。
-------------------------------
私は中学校へは電車で通った。
その中学校へ通う途中の出来事です。
学校の最寄りの駅から広い道を行きますが、途中から脇道に入り住宅街を通りぬけていきます。
その住宅街の角に空き地があって、枯草が生い茂っているところがありました。
そして学校の友達と3人ほどで通りかかった時にその草むらから火の手が上がったのです。
このまま燃え広がったら近所の家にも燃え広がってしまったら大変です。
友達とあわてて、何かでたたいたり足で踏み消したりして、近所の人が出て来てくれることを祈りました。
すると目の前の家から女のひと(おばさん?)が出てき来たのです。
何とか火はおさまりましたので、お礼を言ってもらえるものと思っていたのです。
何と言ったと思います。
「ちょっと、あんたたちがやったの!、火をつけたのは!」
まったく思ってもいなかった一言。ショックで口もきけませんでした。
僕らがいくら弁明しても何も聞きません。
陰でタバコでも吸っているとでも思っていたのでしょうか。
ああ、いやだ 大人って。
こういう大人って自分の子供のことしか目がいかない偏視眼で、こういう家の子は外で悪い事をする子が多いですよね。家の中ではおりこうさんなのです。
その後、そんな子供と親をたくさん見てきました。
さて、もうひとつ。もう少し年が上の頃です。
やはり脇道ですが道幅は5~6mくらいあったでしょうか。
その道を数人で歩いていました。
前から自転車に乗った若いお巡りさんがやってきました。
私たちの横を通る時に
「君たち、道路は右側を歩きなさい!」
と声を荒げてそのまま走り去ろうとしました。
でも私たちが歩いていたのは道路の右側だったのです。
「右側ですよ」友達が叫びました。
するとお巡りさん。
「道路は並んで歩かない」ですって。
二人くらいしか横には並んでいなかったしそんなに言われるほどじゃあないのに・・・。
きっと少し気分の悪いことでもあったのかな?
大人っていやだな。
でもそんな大人に今はなってるのかな? 反省!
あっ!もう大人ではなく爺さんになってた。


(ねじり花 柏原池公園にて)


子供の頃-犯人探し
小学校の5~6年生の頃のこと。
教室で物が紛失した。
紛失した物が何だったかは思い出せないが、担任の先生は教室で全生徒を椅子に座らせ、目を閉じさせてこう言った。
「今から皆さん目をつむって、もし心当たりがある人は先生にだけわかるようにそっと手を上げてほしい。決して先生以外にはわからないようにするから。」
そして、私も目を閉じました。
重苦しい空気が流れ、先生の声だけが聞こえてきます。
そのまま5分くらい続いたでしょうか。
早く誰か手を上げてくれないかな・・・・
・・・・・・・・・・・
でも誰も手を上げる子はいないようでした。
なんだか知らないけれど、目を閉じた私の目から涙がこぼれてきました。
涙がこぼれると僕が犯人のようで、必死にこらえるけれどどうにもなりません。
いまでもこの時に何故涙が出たのかがわかりません。
そして、今でもこの時の先生のやり方が良かったかどうかわからずにいます。
でも、この先生は今でもとても好きな先生(男)です。

(石岡市柏原池公園にて)

この池の周囲は700mくらい。
これから天気が良ければメタボ解消に7~8周くらい歩こうかな。
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教室で物が紛失した。
紛失した物が何だったかは思い出せないが、担任の先生は教室で全生徒を椅子に座らせ、目を閉じさせてこう言った。
「今から皆さん目をつむって、もし心当たりがある人は先生にだけわかるようにそっと手を上げてほしい。決して先生以外にはわからないようにするから。」
そして、私も目を閉じました。
重苦しい空気が流れ、先生の声だけが聞こえてきます。
そのまま5分くらい続いたでしょうか。
早く誰か手を上げてくれないかな・・・・
・・・・・・・・・・・
でも誰も手を上げる子はいないようでした。
なんだか知らないけれど、目を閉じた私の目から涙がこぼれてきました。
涙がこぼれると僕が犯人のようで、必死にこらえるけれどどうにもなりません。
いまでもこの時に何故涙が出たのかがわかりません。
そして、今でもこの時の先生のやり方が良かったかどうかわからずにいます。
でも、この先生は今でもとても好きな先生(男)です。

(石岡市柏原池公園にて)

この池の周囲は700mくらい。
これから天気が良ければメタボ解消に7~8周くらい歩こうかな。


赤い靴はいてた女の子
先週末に横浜の方にいました。
朝、時間があったので山下公園に散歩に行ってきました。

この「赤い靴はいてた女の子」の像は何時ごろ置かれたのでしょうか?
昔は無かった。
とはいっても私が横浜の本牧に住んでいたのは昭和31年まで。大昔のことだ。
氷川丸もまだこの場所には無かった。

もちろんこちらのランドマークタワーなどもなかった。
この山下公園は関東大震災の時に出た瓦礫を埋め立ててできた。
それにしてもきれいになった。

この赤い靴を履いた少女の話は実在の話というが・・・・。
野口雨情は宣教師に連れられてアメリカに渡ったと思って作ったのだろう。
独特の詩情を持つ印象深い歌だ。
この山下公園に置かれた像はあまり大きくは無い。
調べて見ると、昭和54年に建てられたという。
朝、時間があったので山下公園に散歩に行ってきました。

この「赤い靴はいてた女の子」の像は何時ごろ置かれたのでしょうか?
昔は無かった。
とはいっても私が横浜の本牧に住んでいたのは昭和31年まで。大昔のことだ。
氷川丸もまだこの場所には無かった。

もちろんこちらのランドマークタワーなどもなかった。
この山下公園は関東大震災の時に出た瓦礫を埋め立ててできた。
それにしてもきれいになった。

この赤い靴を履いた少女の話は実在の話というが・・・・。
野口雨情は宣教師に連れられてアメリカに渡ったと思って作ったのだろう。
独特の詩情を持つ印象深い歌だ。
この山下公園に置かれた像はあまり大きくは無い。
調べて見ると、昭和54年に建てられたという。
懐かしき三渓園
私は幼い頃から小学1年までいた。
場所は本牧で、三渓園のすぐ近くだった。
小学校はこの庭園のすぐ隣にあった「間門(まかど)小学校」へ1年間通った。
子供の頃はこの三渓園は出入り自由で、子供達の遊び場だった。
トンボとり、ザリガニとりなど日の暮れるのも忘れて、門がしまってしまったこともあった。
そんな時は、年長の子供らの案内で、なんとか脱出できたようだが、どうやって出たのか?
あまり記憶に無い。
さて、年をとるとこんな子供の頃が無性に懐かしくなる事がある。
この三渓園は、ご存知の方も多いが、実業家の原富太郎(原三渓)が明治末期から造園してきた庭園を昭和28年に横浜市に寄贈されたために、市の公園となった。
寄贈後、ここは「財団法人 三渓園保存会」が管理運営を行っている。
そして、この財団設立50周年の2003年にある写真集(アルバム)が発行された。
「三渓園・戦後あるばむ -今と昔、変わらないこと・なくなったもの-」
今から20年近くも前のものだが、昔、手にとって見た記憶があり、古本で検索してヒットしたので取り寄せた。

このアルバムには、昭和30年前後の写真をいろいろな方面から集めて、沢山掲載されている。

これらの写真を見ると、自分の子供の頃にタイムスリップしたかのように記憶がよみがえりとても懐かしくなる。
今ではこの三渓園から海の海岸線ははるか遠くなってしまったが、当時は公園の直ぐ先は海で、少しばかりの海岸も広がっていた。
これは隣の間門小学校も同じで、校庭のすぐ先は海に降りることが出来たし、また隣は木々の茂った山でもあった。
私が小学校1年生のときはこの山で山火事があり騒ぎとなったし、運動会には山から取ってきたカラスウリの実を足にこすり付けて少しでも早く走れるようにおまじないをした。
しかし、根岸から本牧あたりは埋め立てられ、海岸ははるか遠のいてしまった。
そして、小学校には海が遠くなった事で、学校内に水族館ができたと聞いている。
なんとも変ってしまったものだ。
その当時の海岸線は、今はその位置の上を高速道路が走っている。

これらの写真は昭和30年頃が多い。
私が小学校に入学した年でもある。
ここに写っている子供達と自分の昔の姿が重なって見えてくる。
自分も年取ったものだと感じてしまう。
場所は本牧で、三渓園のすぐ近くだった。
小学校はこの庭園のすぐ隣にあった「間門(まかど)小学校」へ1年間通った。
子供の頃はこの三渓園は出入り自由で、子供達の遊び場だった。
トンボとり、ザリガニとりなど日の暮れるのも忘れて、門がしまってしまったこともあった。
そんな時は、年長の子供らの案内で、なんとか脱出できたようだが、どうやって出たのか?
あまり記憶に無い。
さて、年をとるとこんな子供の頃が無性に懐かしくなる事がある。
この三渓園は、ご存知の方も多いが、実業家の原富太郎(原三渓)が明治末期から造園してきた庭園を昭和28年に横浜市に寄贈されたために、市の公園となった。
寄贈後、ここは「財団法人 三渓園保存会」が管理運営を行っている。
そして、この財団設立50周年の2003年にある写真集(アルバム)が発行された。
「三渓園・戦後あるばむ -今と昔、変わらないこと・なくなったもの-」
今から20年近くも前のものだが、昔、手にとって見た記憶があり、古本で検索してヒットしたので取り寄せた。

このアルバムには、昭和30年前後の写真をいろいろな方面から集めて、沢山掲載されている。

これらの写真を見ると、自分の子供の頃にタイムスリップしたかのように記憶がよみがえりとても懐かしくなる。
今ではこの三渓園から海の海岸線ははるか遠くなってしまったが、当時は公園の直ぐ先は海で、少しばかりの海岸も広がっていた。
これは隣の間門小学校も同じで、校庭のすぐ先は海に降りることが出来たし、また隣は木々の茂った山でもあった。
私が小学校1年生のときはこの山で山火事があり騒ぎとなったし、運動会には山から取ってきたカラスウリの実を足にこすり付けて少しでも早く走れるようにおまじないをした。
しかし、根岸から本牧あたりは埋め立てられ、海岸ははるか遠のいてしまった。
そして、小学校には海が遠くなった事で、学校内に水族館ができたと聞いている。
なんとも変ってしまったものだ。
その当時の海岸線は、今はその位置の上を高速道路が走っている。

これらの写真は昭和30年頃が多い。
私が小学校に入学した年でもある。
ここに写っている子供達と自分の昔の姿が重なって見えてくる。
自分も年取ったものだと感じてしまう。