本牧メルヘン

今日は台風が日本海側を北上している影響で風が強く、暑さの点では助かっている。
韓国へ上陸したはずの台風が日本列島に戻ってきて大きなニュースになっている。
日本のニュースや天気予報も日本列島ばかりで隣国である韓国はニュースにならない。
もし、同じように報道していれば距離感なり我が国の立地と他国との関係などももう少し身近に感じられるに違いない。
ここ石岡も多くの百済人(要人)が自国が滅ぼされた時にやってきて土着したようである。意外に身近なところに大和民族や朝鮮半島人、アイヌ人や縄文人が住んでいたことに驚かされる。
ところで、先日NHKテレビの歌謡番組で鹿内孝が「本牧メルヘン」という歌を歌っていた。
私は生れは新潟県であるが幼い時から小学1年生までこの本牧(横浜市)に住んでいた。
1972年に発売されたこの歌はほどほどのヒットで記憶にある人は多くはないと思うが、変わった歌詞が私の小さかった時の思い出と共に蘇った。
 本牧で死んだ娘は鴎(カモメ)になったよ
 ペットのブルースに送られて  (ペット:トランペット)
 踊るのが大好きといってたあの娘が
 さびしさに耐えかねて死んだのさ
 ジョニーもスミスの泣くのを忘れて
 海鳴りに向かって歌っていたよ
 本牧で死んだ娘は鴎になったよ
 なぜかしら誰でもがそう思う
まったく寂しい歌である。作詞家の阿久悠が「あまり売れなかったが何故か愛しい歌」として選んでいる。
  URL:阿久悠「あんでぱんだん」
阿久悠はこの後大ヒットとなった「ジョニーへの伝言」を書き、ジョニーを再登場させているのである。
私が本牧で育った頃は、まだ戦後の貧しい生活があたりまえで、アメリカ兵の後についていけばチョケレートが貰えた。「ギブ・ミー・チョコレート」の英語を知らぬ間に使っていた。
アメリカ兵と付き合って派手な服装をしていた日本娘は「パンパン」などと呼んで蔑みのことばで呼ばれていた。
しかし、当時アメリカ人の屋敷が広大な敷地で一面の芝生の緑が目に焼き付いてもいる。
こちらは粗末な家に住んでいたが、うらやましいとは感じなかった。まだ家がなく海岸沿いの崖に掘られた洞穴や山の上にある御堂に住んでいた人もまだいたし、学校の同級生にもいたのである。
恐らく、ここ石岡では経験することはなかったと思う。阿久悠があえて国籍不明の(無国籍の)歌を作ったのも、またその象徴として本牧を選んだのも何か今となって感じるものがある。やはり阿久悠は天才なのであろう。
ここ石岡に来て、この町を見る感性がきっとこの頃からのものなのかもしれない。
本牧は昔海だったところは埋め立てられてはるか先に行かなければ海がない。昔は海苔などを採る漁師も大勢いたのだが・・・・・。

子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/12 10:24

横浜本牧の八聖殿

 今日は朝早くからミンミンゼミの合唱がはじまりジリジリと暑さが増してきた。蝉もこの頃になるとなにか過ぎゆく夏を惜しんでいるように忙しく鳴いているように聞こえてくる。このあたりでは蝉はアブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシなどであるが、南の地域静岡以南ではクマゼミがものすごい鳴き方で圧倒してくるようである。小学1年生まで住んでいた横浜の本牧元町ではよく近所の友達や二つ上の兄とセミ取りに夢中であった。セミ取りの網などはなかったのか、長い棒の先に針金で輪をつくりそれに朝早いまだ露が付いているくらいの蜘蛛の巣を沢山つけてから山へのぼってセミを捕まえるのである。蜘蛛の巣は粘着力があって木に止まっているセミの背に押し付けるとくっついて蝉が捕まえられるのである。この方法は今の虫取り網よりも確実で簡単であった。ある夏の日に高い木の上の方でシャンシャンシャンとクマゼミが鳴いていたのを見つけたがあまりの高さに見上げいるしかなかったことを覚えている。その後少し大きくなって伊豆の宿屋に宿泊した時、朝起きるとまわり中クマゼミの大合唱であった。このセミはミンミンゼミのように羽が透き通っているが、少し黒っぽく大きさも一回り大きくて、子供の時は自分の昆虫採集標本に加えたいと探したこともあったが横浜で鳴き声を聞いたのはこの1回だけであった。地球温暖化で今では東京あたりまで進出しているような話も聞いた。
kumazemi.jpg

さて、このセミとりの舞台が八聖殿山で、山の上に八角形のお堂があった。これは奈良の法隆寺夢殿の形を模して昭和8年に熊本の政治家が制作したものを昭和12年にこの地に移したものだという。しかし昭和30年当時にはあまり整備はされずにいたように記憶されている。今は横浜の郷土資料館として幕末からの農業・漁業などの展示品を含め無料で公開されているという。周りは本牧市民公園として四季の木々なども美しい市民憩いの場所と紹介されていました。
先日のブログで鹿内孝の「本牧メルヘン」を紹介し、懐かしくなって地図を調べて、昔とはかなり姿がかわり、小さな時の思い出の地が良く分からなくなりそうでした。この八聖殿の街と反対側はすぐ海で崖があり、怖いようでしたし、三渓園や私の通っていた真門小学校もグランドからすぐ海岸に下りられたのですが、今の地図では高速道路が近くを通りその先は石油タンクや工場が広がり、海ははるか先で、歩いてはとてもいけない程先にいってしまっていました。文明の進歩があるのは当然ですが、その変貌ぶりが激しいとどこかにしわ寄せがきます。この文明の技術の進歩が、何千年もの日本の歴史から見て、今後どのような評価が下されるのかはわかりません。でも人間って愚かな生き物か賢い生き物かよくわからなくなっているだな~。

子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/22 11:19

水道道路

前のブログで横浜の本牧で育ったと書いた。ここはアメリカ軍の施設と、昔からの浜っ子と呼ばれる人たちが入り乱れ、そこに横浜というモダンな港町とが不思議にミックスした町であった。
しかし横浜にいたのも小学1年生までで、その後東京都東村山市の萩山というところへ越した。
東村山は志村けんさんの「東村山音頭」で名前は後で有名になったが、東京のはずれの片田舎という雰囲気であった。
今で思えば、アニメ「トトロの森」に出てくるような場所であった。
所沢や村山というところに比べ、一般には「ああ村山ですか?」などと言われたが、あまり村山に近いという印象もなく、小平や国分寺に近い場所である。
萩山はその名前の通り萩の花がたくさん咲き乱れていた林や原を切り開いてできた町であった。
東村山市の中では一番都心寄りで、国分寺や多摩湖への連絡接続駅で小じんまりした町でもあった。
このため歴史的なものはあまりなく、団塊の世代で育った私のような子供たちが一杯いた。
越したばかりは、近くに学校はなく、一駅先の八坂にある小学校に通った。
一駅と言っても1~1.5kmくらいだから意外に近く、子供時代は遊びながら歩くにはちょうど良いくらいの距離だった。
この西武多摩湖線は線路沿いに「水道道路」と呼ばれる道が走っており、道路の下を大きな水道管(村山貯水池、狭山湖、多摩湖~東京都心)が埋設されていて、車の侵入は出来ず、しかもひたすら真っ直ぐに続く道で、歩くにはもってこいであった。
土手の脇には土筆やはこべ、よもぎ、野バラ、ボケ、スミレなど四季折々で楽しめた。
最近気になってホームページで検索してみると「サイクリングロード」として紹介されていた。
そういえば昔(昭和30年代)は自動車は言うに及ばず自転車も少なかったので自転車の道という思い出はない。
多摩湖は東京では桜の花の名所で花見によく訪れる場所として西武園遊園地と共に人気があった。
また中学や高校の頃には、学校で、この多摩湖一周(約7~10km)のマラソン大会に毎年参加した。
 さて、小学校の話に戻ると、なにせ団塊世代で子供の数が多く、それも急に2倍近くにも膨れ上がったので、学校建設も必要になり、小学5年になる時に萩山に小学校が建設され、こちらに移ることとなったが、まだ小学6年はなく、分校としてスタートした。
翌年こちらが6年生になる時に正式に小学校として開校された。
そのため、5年・6年と全校での最高学年を2回やった。
そして私たちの学年が記念すべき萩山小学校の第1回卒業生となったのである。
その小学校が開校50周年を迎えている。早いものである。
私は私立中学を受験して、中高一貫校のため、6年間国立(くにたち)に通った。
国立は中央線の国分寺と立川の中間に出来たためにこの名前となったが、その後武蔵野線が開通して西国分寺の駅も出来た。
団塊の世代で受験も大変であったが、学校もクラス数が一挙に増え、対応にてんやわんやであった。
確か1学年5クラスが8クラス位になったように思うが、今から考えると先生方もさぞ大変だったろうと思う。また1クラスは今のように30人などではなく40~50人くらいいたと思う。
大学受験なども団塊世代の前年度の人(2年前)は後ろが大勢いるから皆現役で入学しなければといってあせっていたが、団塊世代の真中の私たちはもうどうにもならなかったのであった。
今から思えば、勉強も競争も、懐かしい思い出である。
その団塊世代がこうして定年を迎え、「やれ年寄りが増えて大変だ」とか騒がれて邪魔者扱いはいくらなんでもないよね。
意外にこれからも日本の救世主になるやもしれませんよ。
皆、まだまだこれからだと思っているのです。
私だって新しいことにもチャレンジ中です。

子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/06 21:36

武蔵野の俤(おもかげ)

 子供の頃の話の続きです。
東村山市萩山町は武蔵野に残った雑木林の一部を切り開いてつくられました。
そのため、あちこちに雑木林が点在し武蔵野の俤(おもかげ)を色濃く残していました。
家から小学校までは5分位でしたが、途中に両側が雑木林でした。
林といっても、こちらのような薄暗いイメージはなく、子供でもその中に入っていくのは何も怖いイメージもありません。それよりも地面にはいろいろな野草やボケの赤い花、野バラの白い可憐な花などが咲いていてとても好きでした。
林の中には小道がいくつもあり、どれをたどっていってもどこか明るい原にでたり、人家のある畑にでたりすれば方角はすぐにわかります。
主に広葉樹で冬は葉は落ちてふっくらとした絨毯になります。
そこにドングリなどの木の実が落ちて目を出す。そんな繰り返しです。
昔読んだ国木田独歩の「武蔵野」にとても感動を覚え、ああこうだったな~などと思い出すのです。
自然主義などと言われますが、文体もそのころの私にはオシャレにも思えて少し真似て見たりもしたのです。
武蔵野の一部を抜粋して載せます。
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九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌(きら)めく、――」
九月十九日――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日――「秋天拭(ぬぐ)うがごとし、木葉火のごとくかがやく」
十月十九日――「月明らかに林影黒し」
同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出(い)で野を歩み林を訪う」
同二十六日――「午後林を訪(おとな)う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
-------------------------------------------------
まさにこの通りです。
私にも文才があれば、今の石岡も何か表現できるのかもわかりませんが、如何せん才能がないですね。
萩山小学校も創立50周年とのこと。学校の脇は西武所沢線が走り、その向こう側には都営「小平霊園」の敷地が広がります。昔はのどかでこの線路を渡って霊園に良く行きました。
夏はカブトムシやクワガタが良く採れました。秋は野生の栗の実が拾えるのです。
今は開けてきたのでこのようなことも段々出来なくなったと思います。
ところで、萩山は近隣の町に比べてあまり発展を遂げていない。石岡駅と同様に人によっては寂しい町だと思われるかもしれない。でもこの小さな萩山駅の乗降客数でも日に1万人以上です。
一方石岡駅の利用者は年々減って今では日に約5~6千人程度しかいません。
あんな小さな私鉄の駅に及ばないのである。一昔前には1万人程度の乗降客はいたと思うのだが・・・・。
これだけ銀行や郵便局の本局まであるのに、人を呼び込む魅力がない。
情けない話ですね。
ところで、石岡でも昔育った人に聞くと、総社の湧水(おみたらし)でザリガニをとったり、山王川であそんだりした自然豊かであったといいます。
まだモリコーの屋上に象さんの滑り台があった頃といいますから、そんな昔ではないですよね。
私が石岡にやってきた6年前にはもうモリコーの屋上もなく、コーキも西友も無くなっていましたので、昔がわかりませんが、昔は良かったというばかりではどうにもなりません。

子供のころ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/07 20:42

子供の頃の思い出(1)-げっきょくさん

 今は地域の埋もれた歴史などに興味を抱いてこうしてブログを書いていますが、子どのの頃にはそんなことは考えたこともなかったように思います。

 皆さんは2~3歳くらいの子供の頃の記憶はありますか?
残念ながら私にはほとんどありません。

私の両親は戦時中に結婚して、一時静岡に住んでいましたが、空襲が激しくなって故郷の新潟に帰って終戦を迎えたようです。
そして、戦後2つ上の兄と私の2人が新潟県の小千谷市で生まれたのです。

結構雪の深い地方でしたが2~3歳くらいに横浜に引っ越してきました。
横浜には小学校1年生までいましたが、この新潟で暮らしていた記憶がほとんどありません。

人は小さい時のことを良く覚えている方がおられますが、これはきっとその後に、その記憶が何回も思いだす機会があったので繰り返しインプットされていたからではないかと思います。

その新潟小千谷にいた子供の頃の記憶で1つだけ思いだしたことがありました。
雪道を歩いていたぼんやりとしたものではっきりしないのですが、これがよみがえったきっかけは横浜にいた時に30~40cmくらい雪が積もったことがありました。

この時に子供ですから外を歩きたくてあちこち歩き回っていたと思います。
すると人があるいていない新雪が積もった雪の上に足跡がついていきます。
石ころをおとして見ればすぽっと穴が出来ます。

何かこの時に、この景色は昔見たことがあると思いだしたのです。

田舎(新潟)の景色などはその後も何度か訪れているので家・川・山・田・あぜ道などの景色は思い浮かびます。
しかし自分が住んでいて過ごした記憶というのは環境が変わると忘れていくようです。

私の母方の祖父はこの小千谷にちかい山古志村(現長岡市)の隣りの塩谷(しおだに)村(現長岡市)で学校の校長をしていました。

ここも豪雪地帯で有名ですが、学校の官舎から学校に行くのでさえ竹の環でできた「かんじき」をつけて歩くのですが、すぐ近くでさえ大変だったようです。

その祖父が若い時に東京の学校に勉強に出てきていた時のエピソードです。

「さすが東京には大金持ちがいるもんだな~」

「どうしたの?」

「東京でたくさん土地を持って駐車場にしている人がいるんだ。どこにいっても同じ名前なんだ。」

「何て言う人なの?」

「げっきょくさんと言う名前の人だ」

「げっきょく??」

もうお分かりですね。「月極駐車場」です。

その祖父が勉強に来たところが今の東京理科大。昔の東京物理学校です。
夏目漱石の「坊っちゃん」が卒業した学校としても有名ですが、入学は簡単でしたが、卒業が非常に難しいといわれていました。
祖父も志し半ばで挫折してしまったようです。詳しくは教えてもらっていません。

当時田舎から出てくるのは大変だったのでしょうね。

これから時々、埋もれた歴史の間に思い出話も入れていきます。

ichigo.jpg

いただきものの「いちご」です。とっても美味しいです。
あまり甘ったるくなくて果物の風味が感じられるのが最高です。

茨城県もイチゴ栽培は盛んですが、今年は収穫が悪いようです。天候不順でハウスも大変です。
例年イチゴ狩りなどが盛んですが、5月連休明けくらいまでは徐々に値段も下がって楽しめます。

どうぞ千代田(がすみがうら市)・石岡・鉾田などへお越しくださいね。

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子供のころ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/18 14:40

子供の頃の思い出(2)-おもらいさん

昨日の祖父のもう一つの笑い話があります。

その祖父も先生をやめて、新潟の長岡で本屋さんを始めます。
本屋さんも軌道に乗り長岡でも大きな本屋になりました。

そして、その本屋も息子に譲り、毎日碁を打ったりしてのんびりしていた時の話です。

昔は、行商の物売りなどが良く玄関先にきていました。また碁打ちのお仲間が家に来られていました。

ある日祖父だけが家にいて、男の人が一人やってきました。

「あの、どちらさまですか?」

「はあ・・・あの もらいですが・・・」

「さて、どちらのもらい様でしょうか?」

男は、きまずそうに「おもらいですから、何でも結構です。何かいただけるものは・・・・」

そうです。昔はこのように家を訪ねて恵みをいただいている方もおられたのです。

この話もその時の時代を写していた話ですし、格好を見ればだいたい想像がつくでしょうに、まったくそのような事に頓着もなかった祖父の人柄を伝える話で好きです。

私達兄弟も中学生くらいまでは毎年、夏休みに長岡に遊びに行っていました。
(父方の祖父母は私が小学1年の時に相次いで亡くなり、母方の田舎(長岡)へ行く機会が多くなりました)

小学校低学年の頃も上野まで母が送ってくれ、駅のホームで電車にのせて子供だけで長岡まで上越線で行きます。

清水トンネルは出来ていましたが、当時はまだ単線だったように思います。

列車がトンネルの中に長いこと止まってすれ違いの列車待ちや特急?列車の通過待ちなどで1時間近くトンネルの中で待たされるのです。

清水トンネルも山を登っていきますから、トンネルを出て下の方に入ってきたトンネルの入口が見えるのです。

冬でしたら川端康行の「雪国」の駒子のように「国境の長いトンネルをぬけると、そこは雪国であった」ということになるのですが、冬は子供だけで行くことは少なかったと思います。

冬は上野駅などに入ってくる列車の屋根に雪が積もっていて雪国とつながっているのを感じたものです。

もちろん夏休みに子供の兄弟だけで乗るのは鈍行列車ですから、上野から長岡まで7時間半くらいかかりました。

でも子供は列車に乗るのが楽しみで、途中の各駅の名前を暗記し、途中の高崎駅で「とりめし弁当」を買うのが楽しみでした。上野駅では買わずに、高崎につくとホームに下りて買ったり、窓から弁当売りが来るのを待ちます。
しかし停車時間もあまりなく、ホームでの弁当売りも忙しく、動き出してもまだお釣りを渡したりギリギリまで売っていました。
今ではこういう風情もなくなりましたね。

また上野駅で冷凍のミカン(4~5個くらいがネットに入っている冷凍されたミカン)を買ってもらって、途中で食べるのです。
昔の列車時はたぶんクーラなどなかったと思います。
夏は暑いので冷たいミカンが気持ちよかったのです。

昭和30年代に駅の売店ではブームとなっていて良く売れたそうです。
これも今のような冷凍とは違い、中までは凍っていません。皮の部分までが凍っているのです。
何回にもわけて水をかけながら凍らせていたそうです。

子供だけの長い旅は良いですね。是非今の子供たちにも経験させていただきたいものです。

我が家の下の2人の子供(女の子と男の子)が小学生の時に、子どもだけで東京の母(祖母)に家に電車で行かせたことがあります。
上野駅の乗り換え、東京駅の乗り換え、降りる駅の確認などを一生懸命に覚えて、出かけました。

そして、目的駅までいって、祖母の家に電話して、
「じゃあ、おばあちゃんはこれから迎えに行くから、駅から真っ直ぐ歩いて来て頂戴。途中で会おうね」
と電話でして、子どもたちは意気揚々と歩き始めました。

でも途中で会えなかったんです。
子供たちがあるいていた道は、真っ直ぐというのですが、駅を降りて通りに出てそこの広い通りを真っ直ぐ行くのですが、子どもたちは真っ直ぐと言われて広い通りを突きぬけて曲らずに商店会の中の道を真っ直ぐ進んでしまったのです。

そして、歩いてとうとう隣り駅まで歩いてしまいました。
携帯電話などありませんので、そこで公衆電話から電話してやっと何処にいるかわかって無事にたどり着いたというのです。

いまは物騒ですから、なかなか冒険もさせられませんね。
でもいつまでも親の庇護のもとにはいられませんので、どこかで自立させなければダメですね。

そんな中で、へき地や戦争地帯などに一人で行って、現地の人の家に泊めてもらい、その人たちの笑顔を撮り続けているカメラマンの方がおられます。ブログなども時々拝見します。

本当にすごいですね。日本人にも雑草魂がまだあるとほっとするんです。

最近の小さな家族主義では世界に負けることは必定です。考えさせられます。

企業は今後海外に生産拠点だけでなく、ソフト部門も移転していくことでしょう。
海外の人もたくさん企業に入ってくるようになりました。
中国人・フィリピン人・アラブ人たくさんになりました。

このような人とも競争していくことになります。

さて、道を間違えて隣り駅まで行ってしまった娘も来月結婚します。
4月からは娘婿となる方の海外赴任が決まっていて、一緒に3年くらいはオーストリアのウィーンに行くようです。

また冒頭に書いた長岡の祖父母から始まった本屋さんは残念ながら、時代の波に翻弄されて今はありません。
出版業界の非情も見えたりもして言いたいこともたくさんありますが、これも時代の流れですね。

koori.jpg

昨日も少し雪が降りましたが溶けてしまいました。今朝は久しぶりに氷点下になったようです。
車のフロントガラスにも氷の結晶が一面に出来ました。
日が出てきたらすぐに溶けてしまいました。・ 春よ来い!

simobasira.jpg

霜柱も少なくなりましたね。昔は庭などに10cmくらいの霜柱が立ったのですが、今ではすっかり少なくなりました。

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この前書いた蝋梅(ロウバイ)の花は結構長く咲いています。でもその花の下にはご覧のように散った花がたくさん散らばっています。 このように花が次々咲いては散っていくのを繰り返しているのです。

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子供のころ | コメント(10) | トラックバック(0) | 2012/02/19 14:15

子供の頃の思い出(3)-ニシキヘビ

 今日は横浜にいた頃の思い出です。
3歳くらいから小学1年生くらいまで住んでいたのですが、小さな家です。

その時に雪が降った時に玄関を開けていたら野良犬が家の中にノコノコと迷い込んできました。

玄関が高くなっていればそんなこともないのでしょうが、子どもにとっては家の大きさなどどうでもよいことで何とも思ったことはないのですが、母が一言言った言葉がまだ忘れられません。

「いやだよ。この犬、外と間違って家に入ってきてしまって・・・・」

小さな家で外と区別もできないほどのバラックのような家だったのです。

そんな家でも子供にとってはどんな家でも恥ずかしいなんてことはありません。近くの山(八聖殿)の上にキリスト系の保育園(高風保育園→こちら)がありました。

当時はまだ幼稚園や保育園に行くのはそれ程多くはなく、小学校からと言う人も普通におりました。

そこに1年だか半年だったか通ったのですが、卒園式に私ともう一人の女の子で卒園の答辞を読むことになり、そんな家の中で一生懸命練習していたといっていました。答辞を読むなんてすごいでしょ。
何で選ばれたのかはわかりません。
入園の当日はいやで家に逃げようと山道でころんで保育園に連れ戻されたドジな男の子です。
2年前に兄は見事に逃げ帰りに成功したのに・・・。

その女の子は今どうしているかなど顔も全く思い出せません。
しかし私はその女の子のリードされるままに読んでいたようです。そんな時男の子は頼りないですね。
オネショタレの鼻水小僧でした。

さて、横浜に「野毛山動物園」がありました。

そこには小動物がいて、大した動物はいなかったようなのですが、ニシキヘビがいるというので楽しみに見に行きました。

ニシキヘビの小屋の前で私と兄は怪訝な顔をしてのぞき込んでいたようです。

「ねえ、かあさん このへび二匹いないよ。なんでニキヘビなのに1匹しかいないの?」

大笑いですよね。横浜も東京と同じく「ヒ」と「シ」の区別ができません。
兄弟2人してニシキヘビは「二匹へび」だと思い込んでいたのです。

  tc1_search_naver_jp.jpg  こんなヘビかと思って見ていたんですね。

野毛山の動物園のことも「下の動物園」と言っていました。
「上野動物園」に対して「下の動物園」です。
これはまったく信じ切っていたようです。

「ねえ、お母さん 下の動物園連れてって!」とよくせがんだんです。

そしてある時事件が起こりました。

母と子供二人で動物園に来て、夕方帰ろうとしたら母があわててサイフがないというのです。

その頃は結構スリがいましたので、盗まれてしまったのでしょう。帰りの市電の電車賃が無いのです。

動物園の入口近くに交番がありました。
母はわけを行って交番で電車賃を貸してもらって無事に帰ってこれたのです。

今でも交番では言えば貸してもらえるかもしれませんが、借りたのはその時だけです。

子供の頃の交番と言えば10円(昔のことですから1円だったかもしれません)拾って届けたことがある位ですね。

その時おまわりさんは何と言ってくれたのか思いだせないのですが、今では小さな子供が拾った10円は遺失物として受け取り、ポケットマネーで子供に10円を出すと聞いたことがあります。

私が横浜にいた頃はまだ1円札と言うのがありました。10銭、50銭なんていうのもあったようです。
お菓子と言えば駄菓子屋さんで、飴玉を買っていたように思います。

おまわりさんも大変ですね。正直な子供を育てるのもお仕事かもしれません。

kanchoudai.jpg
(小美玉市「池花池」)(サムネルです。クリックで大きな写真となります)

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子供のころ | コメント(8) | トラックバック(0) | 2012/02/20 19:02

子供の頃(ザリガニ採り)

今日は小学校1年生まで住んでいた横浜の時の記憶を少し思いだしてみた。

場所は本牧で、近くには三溪園という大きな公園がありました。

この公園は、現在きれいに整備されて横浜名所の一つになっていると思いますが、実業家原三溪が京都や鎌倉の建造物などを移築して整備されていった庭園です。

私が遊んだ頃(昭和29~30年頃)は、すでに現在にの公園のシンボルである三重塔はあったが、第二次大戦の影響を受けて被害を受け、横浜市に昭和28年に寄贈された直後でしたので、まだ復興の始まったばかりの頃でした。

そのため、比較的のどかでまだまわりに草が生えた小川なども流れていたと思います。

この小川の脇の泥に小さな穴がところどころに開いていて、これがザリガニの巣でした。

子供たちは夕方集まってこのザリガニ取りをするのです。
採り方は穴に手を入れたり、棒を差し込んだりして、ハサミにかまれないように引き出して捕獲するのです。

出来るだけ赤くて格好のいいザリガニを捕まえるのが自慢になるのです。
この真っ赤なザリガニは確か「マッカチ」などと呼んでいたように思います。

下にちょっとしたアニメを作って見ましたが、嫌いな人には不快な思いをさせてごめんなさい。
でも男の子はこんなのが格好いいと思うんです。

zarigani2.gif

まあ10回くらい繰り返したら止まると思うのでご勘弁ください。

なぜこのようなザリガニ採りを思い出として載せたのかと言うと、この三溪園も昔夕方6時頃に門が閉まってしまいます。
ある時子供たちが夢中になっていて、門限を過ぎてしまったのです。

帰ろうと門に行くとすでにしまっていました。

このようなことは何度か経験している子もいて、平気で門をよじ登って外に出たのです。

良い子は真似してはいけないのだけれど、私もよじ登りましたよ。小学1年生です。

きっとそのころは門や塀もそんなには高くはなかったのでしょうね。
こんなことがなつかしく思い出されるのです。

もちろん近くの山の竹やぶに秘密基地なんかも作って遊んでいました。
格好のいいナイフなんかを買ってもらって竹を切ったりするのも好きでした。
今では危ないからといって持たせてもらえないでしょうね。

でもそのおかげでしょうか、小学校の家庭科でジャガイモの皮むき(昔は皮むき器なんてありません)も包丁で器用に剥くことができ、クラスで女の子より上手でしたよ。

さて、その後横浜から東京郊外に引っ越したわけですが、そこでもザリガニを採って遊びました。

しかし、捕まえる方法が全然違います。

場所は、東京郊外の多摩湖と言う貯水池があり、その近くに小さな池が2つありました。
この池にザリガニがいて、これをサキイカを餌に釣るんです。
「ザリガニ釣り」ですね。

こんな具合です。

tsuri.gif

今日は少しアニメで遊んでみましたが、60歳過ぎのおやじがやることではないですね。

またアニメに不快な思いをされた方にはお詫びいたします。

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子供のころ | コメント(12) | トラックバック(0) | 2012/03/08 19:22

子供の頃(のぎさんはえらいひと)

 さて、今回も横浜にいた時の遊びの話です。

これは横浜の地方だけのようなのですが、一般には「だるまさんがころんだ」というところを、「のぎさんはえらいひと」といって遊んでいたのです。

この遊びも、1から10まで数を数えるのに地方によって違いがあるようです。
子供ですから「のぎさん」って誰だか知るはずもありません。

横浜では旅順攻略(203高地)、日露戦争の立役者?である乃木大将のことが崇拝されていたのかもしれません。
しかし坂の上の雲でも「乃木希典」についてはあまり評価はされていないようです。意見が2分しています。

しかし戦前の教科書にも載っており、明治天皇の死を受けて夫婦で自害した乃木希典伯爵を慕っていた人々がたくさんいたのだと思います。

乃木さんが東郷さんに変わっている地方もあると聞きましたが、関西などでは別な言い方になっているようです。

こんな遊びです。

onnnanoko1.jpg はじめのいっぽ!

nogisan.gif

今回もアニメを作ってみました。地方によってどんな言い方があるのかな?
東京に来てからは「だるまさんがころんだ」が主流だったと思います。

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子供のころ | コメント(10) | トラックバック(0) | 2012/03/13 19:37

子供の頃(新諸国物語)

 先週土曜日までは天気も悪く寒い日が続いたのでいつになったら春が来るのだろうと思っていました。
ところが今週になって、天気予報ではまだ寒い日が続き冬に戻るようなことも言っていましたが、もうそんなことはありません。

いつもと同じ時間に、いつもと同じ道を車で走っています。今週から見える風景も、吹く風も、差してくる日差しや木々の影の長さまで「もう春ですよ」とささやいています。

畑に貼られた色紙テープに日が当ってキラキラ輝いています。
筑波山の頂の色も春らしくなりました。
恋瀬川を眺めれば、春の日差しで水面(みなも)がきらきら輝きます。
そこに水鳥が楽しそうに泳いでいます。

昨日まで硬く閉ざしていた梅のつぼみがパッと開いて野山に明るい彩りがつけられました。

雪の降る地方はまだ春が実感されていないようですが、あと1~2週間でそちらにも届きそうです。
土の中から虫が這い出てきますね。(啓蟄は3月6日でしたから、暦の上ではもう過ぎてしまいましたね)

 さて、石岡の街並みや古東海道などを順に紹介する予定ですが、毎日書いているとどうしてもネタが切れてくるんです。
そのため時々子供の頃の思い出話などを混ぜて見たのだけれど、これはこれで結構大変ですね。
でも、若い人にとっては私の話もすでに歴史ですね。(笑)

 私の小さい子供の時(まだ横浜にいた小学1年生までの頃)にはまだテレビはありませんでした。
その頃はラジオとたまに見る映画が娯楽の中心で、マンガはありました。

漫画では「幼年ブック」があり、「さいころコロ助」など夢中で読んでいた記憶があります。
また映画ではディズニーのダンボが昭和29年に公開され、きれいな色にとても驚いた記憶があります。

日本の映画は時代劇が多く、ちょうどその頃にカラー映画が始まったのではないでしょうか。
必ずカラー映画は「総天然色」と銘うって宣伝されていました。

今日は、ラジオドラマのお話を少しさせてください。
当時NHKラジオで子供向けに放送されたのが「新諸国物語」シリーズで、「白鳥の騎士」「笛吹童子」「紅孔雀」「怪人二十面相」「黄金バット」「赤胴鈴之助」などと続くのですが、もっとも記憶に残っているのは笛吹童子と紅孔雀です。

夕方この放送があるから遊んでいても必ずみんな家に帰りました。

笛吹童子は昭和28年の1年間。
紅孔雀は昭和29年の1年間。

放送時間は日曜日を除く夕方6:30~6:45の15分間です。

4歳の終わり頃から2年間聞いたのですが、今でもこの主題歌はおぼえています。
でも胸躍らせて聞いたお話の内容はほとんど覚えていません。
まだ小さかったので忘れてしまっても不思議ではないでしょう。
でもこの主題歌は今でもかなり歌えるんですよ。

♪ヒャラーリヒャラリコ、ヒャリーコヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ。:笛吹童子

♪まだ見ぬ国に住むという紅き翼の孔雀どり、秘めし願いを知ると言う秘めし宝を知ると言う:紅孔雀

(横浜でしたので覚えていたのは 「秘めし宝」などは「しめし宝」と歌っておりました。(笑))

その後映画になったり、テレビでも製作されたようですが、このラジオの世界は独特でした。
想像力をいっぱいにふくらませて聞くことができるのです。

もちろん私より少し後の世代は「赤胴鈴之助」などを思い浮かべるでしょう。
これには吉永小百合が千葉周作の娘の声を担当していました。
真空斬りなどと言うのが男の子ではブームになったのです。

小説を読んで感じたものが映画となって見た時にがっかりすることが良くありますが、それと同じようなものかもしれません。

テレビで育った子供は想像力が限られてしまって楽しさも半減でしょう。
もちろん映像による楽しさは別な楽しさが加わりますので、楽しみ方は違って当然かもしれません。

でも、テレビがないから可哀そうなどと言うことはありません。
逆にテレビがない時代を知らないことは少しつまらないんじゃないかと思ってしまいます。

テレビがないと、子どもたちは外で走り回って遊んで、この時間(6時頃)には決まって家にみんな帰っていたんです。

貧しいけれど楽しい時代でした。砂糖などは高級でサッカリンなどと言うも使っていました。
その後ダイエットに砂糖の代わりに使われたりしたようですが、今では発がん性の疑いが少しあるかもしれないといわれて使用されていないようです。

牛肉などはあまり食べられませんが、イワシは安く手に入りました。
それをすりこぎですりつぶして丸めてお団子にして揚げたり、みそ汁に入れれば、とても美味しく骨も丈夫になったに違いありません。

先日雛まつりが過ぎてからお人形店の前を通ると、今まで飾ってあった雛人形はすべてなくなり、代わりに端午の節句に合わせて、武者人形や兜がたくさん並べられていました。

ああもうすぐ5月が来るのかなどと、まだ先なのに思わされました。

男の子はやはりチャンバラごっこですよね。簡単なアニメを作ってみました。
イラスト画像も左右反転や円周方向に回転することはすぐできるのだけれど、横向けたりは三次元でないので無理ですね。3D画像でなければまあ無理ですね。
アニメももう終わりです。(あまり単純すぎますね)

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子供のころ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/03/14 19:18
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