お盆風景

 昨日8月13日は旧盆を行っている多くの地方で、先祖のお墓を先祖のお迎えのために多くの人が訪れたと思う。ここ石岡も旧市内には多くのお寺があり、夕方から提灯を持った家族連れが歩いて市内のお墓を訪ねるため行列ができるほどであった。私のふるさとはどこになるのかはっきりしない。企業にいた時も新潟県生まれではあったが県人会には入っていない。しかし、今は東京に父が眠るお墓があり、1週間前にお墓参りをしてきた。お寺の住職に聞くと7月のお盆と8月のお盆の割合が丁度半々くらいだという。また、都会では歩いてお墓に行ける人は少なく、電車や車でいくことになる。そのため、逆にこちらのお盆の風景は私にとっては新鮮である。
お彼岸にもお墓を訪れる人は多く、茨城では、お盆と彼岸の時期が一番お花が売れるらしい。他県の倍くらい売れるようだ。こちらの特徴は、自分の先祖のお墓だけでなく、知り合いの墓にもお花を持っていくので、一人で何束も抱えている人を多く見かける。東京では聞いたことがほとんどない。また、市内にあるお寺やお墓の数もかなり多いと思う。ちょっと路地を入るとお墓がある。お盆には家を離れた家族が戻ってきて、楽しい話も多く語られるのであろう。良く言えば市内は家族的で、近所付き合いも良いが、悪く言えば、よそ者には排他的で近視眼的にしか物事を見ることができない。
街起こしをしたいと、よそから来たものが熱心であっても、なにか白々しさがあるように思うのはこちらの僻み根性かな?他所から来た者には感じられて、中に入っていて当たり前に思ってしまって感じられなくなっている部分がかなりありそうに思う。他所からの人を沢山受け入れていくか、自分たちが海外も含め、他所を見てくることが大切だ。ここで注意が必要なことは旅行者のパックツアーに行ってその土地を知ったことにならないことだ。今の中国人が多く日本に来て買い物をしていくが、これは一昔前の日本の姿でもあった。きっと現地の人の本音は見えていなかったのかもしれない。今のままでは茨城空港に降り立った外国人はこの街を素通りしていくのみであろう。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/14 15:19

丁子屋とかき氷

 石岡の中町通り(昔の水戸街道府中宿)には江戸末期の建築物である丁子屋(ちょうじや)がある。昭和4年の大火の難逃れた唯一の建物と言ってよい。昔は染物屋であったが、今は市の観光用の施設 まち蔵「藍」として使われている。今年の夏は特に暑く、店の前を通ると店の前に出した椅子とテーブルに子供たちが群がっていた。お目当ては「かき氷」で昔ながらの手でハンドルを回して氷を削っていました。なんでも100円という安さですから・・・・。今年の夏にはピッタリですね。また子供たちも私の昔の風情と変わらぬ昔風でした。まだ、石岡には駄菓子屋さんもあります。こんど紹介します。
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街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/17 19:39

製氷店

 お盆が終わったが、暑い日が続いている。今年はセミが少ないとも聞くが、我が家では多いと思う。先日は家の中にミンミンゼミが入ってきて飛び回った。また朝玄関を開けるとアブラゼミが飛んでいく。そのセミもようやくツクツクボウシの鳴き声が聞かれるようになり、秋も近ずいているように感じられる。
さて、石岡の中町商店街(旧水戸街道府中宿)入口の通りの両側に古い製氷店が2軒向かい合っており、何時商売しているのだろうと思って気になっていた。氷一貫目(3.75kg)の標準サイズで400円である。右手が「魚亀仕出し製氷店」という。名前の通り、魚店との取引で成り立っているのであろう。もう一つは藤枝製氷店(本当は酢屋氷店というようだ)は夏場以外は石岡名物の獅子頭の制作をおこなっており、店主藤枝さんはこの道の達人という。弟子も数十人いるようです。今日は店番をしながら居眠りをしていました。夏の一風景ですね。
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街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/18 19:12

交通調査

 今日も暑かったが、夜はクーラを入れなくても過ごせている。秋も近付いてきていることを感じる。今朝最近開通した恋瀬川の府中橋から6号国道につながった道路で交通調査をやっていた。先日も香丸町の通りで調査していたので「よくやるな~」という印象であったが、橋の両側にそれぞれ2-3人ほどの人が日よけのテント張って丸一日かかりでやっていた(朝と夕方に通ったがともにやっていた)。調査の結果、町の発展に寄与してくれればよいなと願うのみだ。府中橋とは恋瀬橋より一つ山側の橋である。近くの田んぼではもう一部で稲刈りが終了していて早いな~と思っていたのだが、気になっているのはこのあたりの恋瀬川の風情である。最近川の浅瀬によくシラサギがとまっている。今までもう少し高浜寄りでは良く見かけたが、この辺りではそれほど見かけていなかったように思う。昨年この橋の上でカワウソのような動物を見かけた。あまり動物に詳しくないのでイタチなどを見誤ったのかもしれない。日本カワウソはほとんど絶滅に近いらしく見かけたとしてもヨーロピアンカワウソとは思うが、交通調査をするなら川に生息する動物なども調査してほしいものだ。年々人の通りも少なくなり、シャッターを下ろす店もかなり出てきている。それなのに、やることは街中という狭い枠だけで物事をとらえ、外への広い視野がない。「茨城の名前発祥の地」などというあやしい内容をもっともらしく看板にして、それも「野バラがたくさん生えていたから」などというのはもう止めにしてもらいたいものだ。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/26 22:46

石岡の杉並木

 やっとこのブログも1ヶ月目となった。
まあ「継続は・・・・・」とのことで、そのうちに意味を持ってくると思う。
まあそういってもまだやっと1カ月である。
何年も書かれている皆さんはすごいな~などとも思いながら今日も少し書いて行こうと思う。

無題



この写真は旧水戸街道の泉町の一里塚を少しすぎたあたりである。
地名は杉並という。
地元の人には杉並小学校があり、ドラッグストアなども並び比較的にぎやかな通りであるが、本屋さんや回転すし屋さんが撤退して少しさびしくもなってきた感もある。
実はここは旧水戸街道では珍しい杉並木が両側に続いていたのである。
ここ石岡(府中)は松平2万石であり、水戸(徳川)藩とは親戚関係があるので杉並木が許されたという。
一般には杉並木は日光などのように徳川と関係がないとあまり許可されなかったらしい。
 明治~大正にかけて石岡は醸造の大きな煙突が目印であったという。
今では醤油などはすっかり廃れてしまったが、銚子や野田は今でも盛んだ。
何が原因だったのだろうか? 今の石岡の衰退と何か共通点がありそうに思う。
もう少し掘り下げてみてみなければならないだろう。
この写真の手前(一里塚の手前)を少し右に曲がった所に、昔アルコール工場があったが、今はスーパーを中心としたショッピングモールにかわっている。
 ここ杉並の杉並木は通りの両側に続き、遠くからも良く見えたという。
しかし、暗く、追剥まがいの被害などもあったようで、近代化には邪魔と切られてしまった。
確かに明るくなったと思うが、もう少しこの並木の特徴を活かす工夫はなかったのだろうか。
写真の先の方に行くと「茶屋場住宅前」という信号がある。
ここは水戸藩の殿様などが来たときに接待した「茶屋場」があったらしい。
「延齢の松」などというものも歴史に埋もれてしまっているようである。
天狗党の処刑も近くで行われたことなどもあり、イメージを一新したい思いもあるようだが、旧水戸街道の景観を残す場所でもあるのだから、通りの構成などにも少し工夫がほしいと思っている。

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この看板は常磐線の上を跨ぐ旧水戸街道の橋のガードにとりつけられている。

水戸街道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/10 21:34

ギター文化館通り(宇都宮街道)

 石岡市若松町の交差点に石の道標(追分)が置かれています。
ここに「右 うつのみやかわらい道」と書かれています。
この道は国分尼寺を通って瓦会を経て板敷峠を越え宇都宮・日光へと続いていたといわれます。
しかし、昔の面影を残しているところは少なく、はっきりとしていません。
道をたどって進むと、まず常磐高速道にぶつかります。
ここには「鹿の子遺跡」の看板があります。
そして常磐高速を超えて進むと柏原工業団地の中で完全に道は断たれてしまいます。
しかし、工業団地の先のそれらしき道をたどると、医師会病院の脇の道に出ます。
この道を真っ直ぐ進むと「ふらの」という美味しいパスタやそば懐石のお店があります。
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とても美味しいですので一度行ってみてください。
「うらら」ちゃんという大きな犬が迎えてくれますので、犬好きの方は良いでしょう。
そこを過ぎると、右側に山並みが見えます。この山は右端が鐘転山(かねころがしやま)、左側が難台山で南北朝時代に壮絶な攻防があった山です。
山の向こう側は旧岩間町で天狗の山の愛宕山は少しだけ頭が出ていますがかくれています。
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この高台の道の右下を走っている道は瓦会より部原(ヘバラ)を通る道です。
左手は木々の林が続きますが、「嘉良寿理(からすり)左」の表示のあるT字路があります。
ここを左に少し登ったところに貴船神社の鳥居があり、奥に小さな神社のお宮があります。
ほとんど訪れる人はおりませんが、ここにとても大きなスタジイの大木があります。
これは本当に見事な木です。
説明文では「この近くを宇都宮街道が通っており、旅人の目印になった」というような記述があります。
やはりこの道が宇都宮かわらい道なのでしょう。この神社以外には昔を偲ぶものは見当たりません。
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ところがこの神社の先に少し行くと左右が畑となり開け、その先に加波山の山並みが見えてきます。
右手は先に見た難台山の山並み。正面と左手側が筑波山~加波山の山並みです。
とても良い景色です。もちろん山に登れば反対側の山並みや八郷地区の街並みなども見えますが、登らなくてもこんなに見晴らしの良いところも少ないでしょう。
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元の道(宇都宮街道)へ戻って、先に進むといくつかの別荘風の建物を過ぎた所に「ギター文化館」があります。
ここはギターをやられる方はもちろんですが、労音が気にいってこの地に建てたもので、世界的に有名なアーチストもみえます。惜しむらくは地元の方にあまり知っておられる人が少ないことですね。
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そこで私はこの宇都宮街道を今後「ギーター文化館通り」と呼ぶことにしたいと思います。
すべて通りの名前は通称で、皆がそう言っていればそのようになるものらしいのでそのうちに認知されるかもしれませんね。
 さて、昔の宇都宮街道は真っ直ぐ進むと「豊後荘病院」へ行くが、その手前から右に下る道があり、「池の端」というバス停で下の街道にでます。
そのまま瓦会を通って大覚寺のある板敷峠を越えて羽黒経由で宇都宮へつながっていたのでしょう。
親鸞聖人が稲田の草庵から府中(石岡)へ出る時もこの道を通っていたのでしょうか?
そして神社で休憩したのでしょうか? 思いが広がっていきます。
もちろん柿岡の町などを通って行く道もたくさんありますので、750~800年位前に道がどのようになっていたのかはわからないですね。でも神社の大木を見ると歴史を語ってくれるように思います。
しかし、知る人はほとんどいない。
歴史も埋もれたままでは、このような感情もなかなか共有できないですね。

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/15 19:37

諭吉通り

今日は朝、娘たちを成田空港まで送って行った。
昨夜は早めに寝たが、気になったためか目が覚めたらまだ午前三時前。
六時まで時間があるので、又寝ればよいのだが、考え事をしていたら眠れなくなってしまった。
おかげで、寝不足であまり調子が良くない。
今日は早めに寝よう。明日は寒波がやってくるというので、日本全国雪の便りがあるが、まだ10月である。
もう少し気候の良い秋を満喫したいものだ。
 125号線を美浦村の少し先から成田方面に曲がって真っ直ぐ行くと国道408号線となる。
その街道に標識があり「長豊街道」と書かれている。
長豊は国道408号線が利根川に架かる橋にこの名前が付いているので、この辺りの地名であろう。
しかし、ここで気になったのはのこ街道の名前の下に「諭吉通り」と併記されていたことだ。
はてさて、これは福沢諭吉のことであろうが、この地に何の縁があるのだろうかと気になった。
調べてみると明治5年に印旛県長沼村(現千葉県成田市長沼)で起きた「長沼事件」が関係していることが判った。
江戸時代には、年貢を納めて長沼(ひょうたん型の大きな沼)での漁業権を得ていた長沼村であったが、周辺の村の申請で沼が国有化されそうになった。村の代表たちは必死に漁業を続けていけるように県に訴えたが非常に窮地に陥っていた。
その時ふと手にしたのが福沢諭吉の「学問のすすめ」であった。
その内容に感銘を受けて、諭吉に直接あって窮状を相談したところ、諭吉は請願書の起草や直接の働きかけなどを行なって、官有地ではあったが、村の借地権が認められた。その後さらに活動を続け、明治30年には村に無償払い下げが下されたのである。
地元の人達は、これにより、福沢諭吉への感謝を忘れず、大正7年に「長沼下戻記念碑」を建立したという。
今は干拓がすすみ、豊かな水田地帯となっているそうである。
 やはり、このように道路に名前を付けただけでも、こうして興味を引いて調べてみる人が出るのである。
石岡も街道の名前などを是非工夫してほしいものである。

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/26 20:02

藤原不比等の子孫?

 さて、石岡の町中で自分の祖先の話が良く聞こえてきます。
先日ある方の話として、「先祖が藤原不比等です」といわれたのを又聞きしました。
直接伺ったわけではありませんので「それはすごいですね」とも言いませんでしたが、
またある方は「私の先祖は平安時代に都よりこちらに来た公家です。」などといわれます。
私は昔の祖先がどのような方であるかにはまったく興味がないので、お話は「そうですか」と聞くばかりですが、逆に何かこんな話題が普通に聞かれる環境に驚かされてしまいます。
 私の家系は新潟でその昔、平家方のようですが、本家では家系図を大事にしており、1000年くらい遡れるような話も聞いていますが、一切興味はありませんし、確認したこともありません。
民族はほとんど混血で進化してきました。純潔では却って退化する危険があります。
日本は島国で、単一民族だなどと寝ぼけたようなことを言った国会議員もいたそうです。
 ところで、藤原不比等は藤原鎌足の息子で、藤原家を発展させた祖といわれます。
藤原鎌足は中臣鎌足であり、大化の改新で名前が出てきますね。
この中臣家は九州から大和に登り、そして鹿嶋にやってきたと思われます。
鎌足はその名前からも鉄に関係しているのでしょうか。
鹿嶋の生まれではないかと考えられています。
出生の説はいろいろありますが、奈良の春日大社は鹿島神宮崇拝の象徴でもあり、鹿嶋出生説が正しいように思われます。
藤原不比等の娘が光明皇后(聖武天皇后)で、このあと皇族とかかわり権力を持って行ったと思われます。
しかし、光明皇后は貧しい人に救いの手を差し伸べ、薬草を集めたり、非常にボランティア的な働きをしていますので人間的な魅力もありますね。
光明皇后の亡き後に建てられた「法華寺」は全国の国分尼寺の中心となりました。
法華寺の十一面観音像はこの光明皇后をモデルにしたといわれ、本当に傑作です。
私の大好きな仏像の一つです。学生時代京都にいた私の妻もこれが一番好きだといっていました。
国分寺や国分尼寺などはこの聖武天皇や光明皇后とつながっているので興味がわきますね。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/30 19:10

牛込・牛渡

 旧水戸街道は現在の6号とほぼ似たような経路をたどっていますが、その昔の古道東海道の道を検証してみましょう。
石岡は古道東海道の終点の都市でした。
また江戸時代前までは、今の霞ケ浦を舟で渡っていたといわれています。
しかし、現在鎌倉街道の名前のついた道も多くあり、どれがメインの道かが判りません。
しかし、かすみがうら市(旧出島村)に牛渡(うしわた)という地名があり、古墳や神社などがあります。牛渡の鹿島神社では「へいさんぼう(平三坊)」なる変わった祭りが残されています。

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映画「土」の舞台となり、貧しい農村が描かれていますが、昔はここらあたりに対岸から舟で渡ったものでしょう。
牛渡は対岸から牛が渡って泳ぎ着いてこの名前になったと考えられています。

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その対岸ですが、美浦村です。
競馬馬のトレセンで名前は全国区ですが、ここに「陸平(おかだいら)貝塚」があるのです。
先日お邪魔した時は、夏の終わりで、地元の小学生たちも手伝って貝塚の発掘調査を行なっていました。
縄文前期から後期にわたり、5000年以上続いた縄文人の暮らした跡がはっきりと分かる貴重な場所です。
この貝塚のすぐ北側に「牛込(うしごめ)」という地名があります。
この場所から牛を対岸の牛渡に送っていたのでしょうか?
平安時代は貴族の移動は牛車で、馬ではありませんでした。
牛は牛込に残し、人だけが渡ったのでしょうか?

江戸時代の前はこの霞ケ浦は湖ではなく海(内海)でした。香取の海などと呼ばれていました。
現在よりも水面は数十センチ高かったようです。
ヤマトタケルの東方に来た時代の地形は、ぼんやり想像ができるようにも思いますが、縄文人が暮らした時代は現在の地形からは、まったく想像すらできません。
利根川を人工的に銚子の方にもっていき、江戸の治水対策にしたのですから・・・。

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/06 18:23

恋瀬橋と6号バイパス

 今日はクリスマス。
昨夜はイブであったが、今は子供も離れているので祝うこともなかった。
子供が小さな時は仕事も忙しく、毎晩夜中の帰宅でクリスマスも子供のプレゼントだけが楽しみなことだったように思う。
我が家の3人の子供に夜中にそっとプレゼントを枕元においてサンタさんを演じていた。
比較的大きくなるまで子供たちもサンタさんを信じて楽しみにしていた。
朝起きた時のうれしそうな顔を見るのが楽しみだった。

 その子供たちも大きくなり、来年春には末の息子も社会人。
どうにか親の責任を果たしたことになるかな?

昨日、府中城を名古城といった赤穂の山鹿(やまが)素行の話を紹介しました。
また今夜テレビで赤穂浪士が放送されるとか。
その中で、大石内蔵助が討ち入りの時に打ち鳴らされる太鼓は「山鹿流陣太鼓」と言われて、どのドラマ、演劇などでも必ず使われます。
これは山鹿素行の山鹿流兵法に由来しているのですが、実際にはこのような陣太鼓はなかったそうです。
後の創作ですね。でもこれがないと話がしまりませんね。
討ち入りは12月14日ということですが、今の暦(西暦)では1月30日とのこと。
和歴が西暦(太陽暦)に変わったのは明治5年12月3日で、この日が明治6年1月1日になったそうです。
ですから昔は月の動きがとても大事だったのですね。
人々も敏感に月の満ち欠けなどを気にしていたのでしょう。

 今日は朝から天気が良いので恋瀬橋に筑波山を見てみたくなり8時半頃出かけてきた。

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ここからの筑波山の眺めはいつ見ても素晴らしいですね。

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しかし、この橋の東側は現在6号バイパス道路という名の道路と橋の工事中です。
現在は橋の陸上部の土台となる土盛りができて、しばらく風雨にさらして固まるのを待っているところのようです。工事再開はもう少し先なのでしょう。

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新しい橋は青(緑)色に塗られて川の水の上だけはすでに架けられています。
橋の反対側(東側)に回ってみると橋の上に筑波山が見えました。

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この橋の北東側(下り方向)は舟船塚山古墳や中津川遺跡の方向です。
古代(縄文・弥生時代)の豊富な遺跡の残る貴重な場所なのです。
毎年のように調査が繰り返されていますが、その都度新しい発見があるような場所です。
遺跡が壊されないかとても心配です。

道路ができれば、恋瀬橋の混雑は解消されるでしょう。
しかし、石岡と言う古都は益々衰弱してしまうのではないでしょうか。
仕事量が増え、暮らしに役立つという見方も当然あります。
同時に、将来を見据え、子供たちが笑顔がはじけるような町作りを進めてほしいですね。

 この続きはまた明日書きます。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/25 18:20
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