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お盆風景

 昨日8月13日は旧盆を行っている多くの地方で、先祖のお墓を先祖のお迎えのために多くの人が訪れたと思う。ここ石岡も旧市内には多くのお寺があり、夕方から提灯を持った家族連れが歩いて市内のお墓を訪ねるため行列ができるほどであった。私のふるさとはどこになるのかはっきりしない。企業にいた時も新潟県生まれではあったが県人会には入っていない。しかし、今は東京に父が眠るお墓があり、1週間前にお墓参りをしてきた。お寺の住職に聞くと7月のお盆と8月のお盆の割合が丁度半々くらいだという。また、都会では歩いてお墓に行ける人は少なく、電車や車でいくことになる。そのため、逆にこちらのお盆の風景は私にとっては新鮮である。
お彼岸にもお墓を訪れる人は多く、茨城では、お盆と彼岸の時期が一番お花が売れるらしい。他県の倍くらい売れるようだ。こちらの特徴は、自分の先祖のお墓だけでなく、知り合いの墓にもお花を持っていくので、一人で何束も抱えている人を多く見かける。東京では聞いたことがほとんどない。また、市内にあるお寺やお墓の数もかなり多いと思う。ちょっと路地を入るとお墓がある。お盆には家を離れた家族が戻ってきて、楽しい話も多く語られるのであろう。良く言えば市内は家族的で、近所付き合いも良いが、悪く言えば、よそ者には排他的で近視眼的にしか物事を見ることができない。
街起こしをしたいと、よそから来たものが熱心であっても、なにか白々しさがあるように思うのはこちらの僻み根性かな?他所から来た者には感じられて、中に入っていて当たり前に思ってしまって感じられなくなっている部分がかなりありそうに思う。他所からの人を沢山受け入れていくか、自分たちが海外も含め、他所を見てくることが大切だ。ここで注意が必要なことは旅行者のパックツアーに行ってその土地を知ったことにならないことだ。今の中国人が多く日本に来て買い物をしていくが、これは一昔前の日本の姿でもあった。きっと現地の人の本音は見えていなかったのかもしれない。今のままでは茨城空港に降り立った外国人はこの街を素通りしていくのみであろう。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/14 15:19

丁子屋とかき氷

 石岡の中町通り(昔の水戸街道府中宿)には江戸末期の建築物である丁子屋(ちょうじや)がある。昭和4年の大火の難逃れた唯一の建物と言ってよい。昔は染物屋であったが、今は市の観光用の施設 まち蔵「藍」として使われている。今年の夏は特に暑く、店の前を通ると店の前に出した椅子とテーブルに子供たちが群がっていた。お目当ては「かき氷」で昔ながらの手でハンドルを回して氷を削っていました。なんでも100円という安さですから・・・・。今年の夏にはピッタリですね。また子供たちも私の昔の風情と変わらぬ昔風でした。まだ、石岡には駄菓子屋さんもあります。こんど紹介します。
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街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/17 19:39

製氷店

 お盆が終わったが、暑い日が続いている。今年はセミが少ないとも聞くが、我が家では多いと思う。先日は家の中にミンミンゼミが入ってきて飛び回った。また朝玄関を開けるとアブラゼミが飛んでいく。そのセミもようやくツクツクボウシの鳴き声が聞かれるようになり、秋も近ずいているように感じられる。
さて、石岡の中町商店街(旧水戸街道府中宿)入口の通りの両側に古い製氷店が2軒向かい合っており、何時商売しているのだろうと思って気になっていた。氷一貫目(3.75kg)の標準サイズで400円である。右手が「魚亀仕出し製氷店」という。名前の通り、魚店との取引で成り立っているのであろう。もう一つは藤枝製氷店(本当は酢屋氷店というようだ)は夏場以外は石岡名物の獅子頭の制作をおこなっており、店主藤枝さんはこの道の達人という。弟子も数十人いるようです。今日は店番をしながら居眠りをしていました。夏の一風景ですね。
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街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/18 19:12

交通調査

 今日も暑かったが、夜はクーラを入れなくても過ごせている。秋も近付いてきていることを感じる。今朝最近開通した恋瀬川の府中橋から6号国道につながった道路で交通調査をやっていた。先日も香丸町の通りで調査していたので「よくやるな~」という印象であったが、橋の両側にそれぞれ2-3人ほどの人が日よけのテント張って丸一日かかりでやっていた(朝と夕方に通ったがともにやっていた)。調査の結果、町の発展に寄与してくれればよいなと願うのみだ。府中橋とは恋瀬橋より一つ山側の橋である。近くの田んぼではもう一部で稲刈りが終了していて早いな~と思っていたのだが、気になっているのはこのあたりの恋瀬川の風情である。最近川の浅瀬によくシラサギがとまっている。今までもう少し高浜寄りでは良く見かけたが、この辺りではそれほど見かけていなかったように思う。昨年この橋の上でカワウソのような動物を見かけた。あまり動物に詳しくないのでイタチなどを見誤ったのかもしれない。日本カワウソはほとんど絶滅に近いらしく見かけたとしてもヨーロピアンカワウソとは思うが、交通調査をするなら川に生息する動物なども調査してほしいものだ。年々人の通りも少なくなり、シャッターを下ろす店もかなり出てきている。それなのに、やることは街中という狭い枠だけで物事をとらえ、外への広い視野がない。「茨城の名前発祥の地」などというあやしい内容をもっともらしく看板にして、それも「野バラがたくさん生えていたから」などというのはもう止めにしてもらいたいものだ。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/26 22:46

石岡の杉並木

 やっとこのブログも1ヶ月目となった。
まあ「継続は・・・・・」とのことで、そのうちに意味を持ってくると思う。
まあそういってもまだやっと1カ月である。
何年も書かれている皆さんはすごいな~などとも思いながら今日も少し書いて行こうと思う。

無題



この写真は旧水戸街道の泉町の一里塚を少しすぎたあたりである。
地名は杉並という。
地元の人には杉並小学校があり、ドラッグストアなども並び比較的にぎやかな通りであるが、本屋さんや回転すし屋さんが撤退して少しさびしくもなってきた感もある。
実はここは旧水戸街道では珍しい杉並木が両側に続いていたのである。
ここ石岡(府中)は松平2万石であり、水戸(徳川)藩とは親戚関係があるので杉並木が許されたという。
一般には杉並木は日光などのように徳川と関係がないとあまり許可されなかったらしい。
 明治~大正にかけて石岡は醸造の大きな煙突が目印であったという。
今では醤油などはすっかり廃れてしまったが、銚子や野田は今でも盛んだ。
何が原因だったのだろうか? 今の石岡の衰退と何か共通点がありそうに思う。
もう少し掘り下げてみてみなければならないだろう。
この写真の手前(一里塚の手前)を少し右に曲がった所に、昔アルコール工場があったが、今はスーパーを中心としたショッピングモールにかわっている。
 ここ杉並の杉並木は通りの両側に続き、遠くからも良く見えたという。
しかし、暗く、追剥まがいの被害などもあったようで、近代化には邪魔と切られてしまった。
確かに明るくなったと思うが、もう少しこの並木の特徴を活かす工夫はなかったのだろうか。
写真の先の方に行くと「茶屋場住宅前」という信号がある。
ここは水戸藩の殿様などが来たときに接待した「茶屋場」があったらしい。
「延齢の松」などというものも歴史に埋もれてしまっているようである。
天狗党の処刑も近くで行われたことなどもあり、イメージを一新したい思いもあるようだが、旧水戸街道の景観を残す場所でもあるのだから、通りの構成などにも少し工夫がほしいと思っている。

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この看板は常磐線の上を跨ぐ旧水戸街道の橋のガードにとりつけられている。

水戸街道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/10 21:34

ギター文化館通り(宇都宮街道)

 石岡市若松町の交差点に石の道標(追分)が置かれています。
ここに「右 うつのみやかわらい道」と書かれています。
この道は国分尼寺を通って瓦会を経て板敷峠を越え宇都宮・日光へと続いていたといわれます。
しかし、昔の面影を残しているところは少なく、はっきりとしていません。
道をたどって進むと、まず常磐高速道にぶつかります。
ここには「鹿の子遺跡」の看板があります。
そして常磐高速を超えて進むと柏原工業団地の中で完全に道は断たれてしまいます。
しかし、工業団地の先のそれらしき道をたどると、医師会病院の脇の道に出ます。
この道を真っ直ぐ進むと「ふらの」という美味しいパスタやそば懐石のお店があります。
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とても美味しいですので一度行ってみてください。
「うらら」ちゃんという大きな犬が迎えてくれますので、犬好きの方は良いでしょう。
そこを過ぎると、右側に山並みが見えます。この山は右端が鐘転山(かねころがしやま)、左側が難台山で南北朝時代に壮絶な攻防があった山です。
山の向こう側は旧岩間町で天狗の山の愛宕山は少しだけ頭が出ていますがかくれています。
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この高台の道の右下を走っている道は瓦会より部原(ヘバラ)を通る道です。
左手は木々の林が続きますが、「嘉良寿理(からすり)左」の表示のあるT字路があります。
ここを左に少し登ったところに貴船神社の鳥居があり、奥に小さな神社のお宮があります。
ほとんど訪れる人はおりませんが、ここにとても大きなスタジイの大木があります。
これは本当に見事な木です。
説明文では「この近くを宇都宮街道が通っており、旅人の目印になった」というような記述があります。
やはりこの道が宇都宮かわらい道なのでしょう。この神社以外には昔を偲ぶものは見当たりません。
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ところがこの神社の先に少し行くと左右が畑となり開け、その先に加波山の山並みが見えてきます。
右手は先に見た難台山の山並み。正面と左手側が筑波山~加波山の山並みです。
とても良い景色です。もちろん山に登れば反対側の山並みや八郷地区の街並みなども見えますが、登らなくてもこんなに見晴らしの良いところも少ないでしょう。
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元の道(宇都宮街道)へ戻って、先に進むといくつかの別荘風の建物を過ぎた所に「ギター文化館」があります。
ここはギターをやられる方はもちろんですが、労音が気にいってこの地に建てたもので、世界的に有名なアーチストもみえます。惜しむらくは地元の方にあまり知っておられる人が少ないことですね。
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そこで私はこの宇都宮街道を今後「ギーター文化館通り」と呼ぶことにしたいと思います。
すべて通りの名前は通称で、皆がそう言っていればそのようになるものらしいのでそのうちに認知されるかもしれませんね。
 さて、昔の宇都宮街道は真っ直ぐ進むと「豊後荘病院」へ行くが、その手前から右に下る道があり、「池の端」というバス停で下の街道にでます。
そのまま瓦会を通って大覚寺のある板敷峠を越えて羽黒経由で宇都宮へつながっていたのでしょう。
親鸞聖人が稲田の草庵から府中(石岡)へ出る時もこの道を通っていたのでしょうか?
そして神社で休憩したのでしょうか? 思いが広がっていきます。
もちろん柿岡の町などを通って行く道もたくさんありますので、750~800年位前に道がどのようになっていたのかはわからないですね。でも神社の大木を見ると歴史を語ってくれるように思います。
しかし、知る人はほとんどいない。
歴史も埋もれたままでは、このような感情もなかなか共有できないですね。

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/15 19:37

諭吉通り

今日は朝、娘たちを成田空港まで送って行った。
昨夜は早めに寝たが、気になったためか目が覚めたらまだ午前三時前。
六時まで時間があるので、又寝ればよいのだが、考え事をしていたら眠れなくなってしまった。
おかげで、寝不足であまり調子が良くない。
今日は早めに寝よう。明日は寒波がやってくるというので、日本全国雪の便りがあるが、まだ10月である。
もう少し気候の良い秋を満喫したいものだ。
 125号線を美浦村の少し先から成田方面に曲がって真っ直ぐ行くと国道408号線となる。
その街道に標識があり「長豊街道」と書かれている。
長豊は国道408号線が利根川に架かる橋にこの名前が付いているので、この辺りの地名であろう。
しかし、ここで気になったのはのこ街道の名前の下に「諭吉通り」と併記されていたことだ。
はてさて、これは福沢諭吉のことであろうが、この地に何の縁があるのだろうかと気になった。
調べてみると明治5年に印旛県長沼村(現千葉県成田市長沼)で起きた「長沼事件」が関係していることが判った。
江戸時代には、年貢を納めて長沼(ひょうたん型の大きな沼)での漁業権を得ていた長沼村であったが、周辺の村の申請で沼が国有化されそうになった。村の代表たちは必死に漁業を続けていけるように県に訴えたが非常に窮地に陥っていた。
その時ふと手にしたのが福沢諭吉の「学問のすすめ」であった。
その内容に感銘を受けて、諭吉に直接あって窮状を相談したところ、諭吉は請願書の起草や直接の働きかけなどを行なって、官有地ではあったが、村の借地権が認められた。その後さらに活動を続け、明治30年には村に無償払い下げが下されたのである。
地元の人達は、これにより、福沢諭吉への感謝を忘れず、大正7年に「長沼下戻記念碑」を建立したという。
今は干拓がすすみ、豊かな水田地帯となっているそうである。
 やはり、このように道路に名前を付けただけでも、こうして興味を引いて調べてみる人が出るのである。
石岡も街道の名前などを是非工夫してほしいものである。

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/26 20:02

藤原不比等の子孫?

 さて、石岡の町中で自分の祖先の話が良く聞こえてきます。
先日ある方の話として、「先祖が藤原不比等です」といわれたのを又聞きしました。
直接伺ったわけではありませんので「それはすごいですね」とも言いませんでしたが、
またある方は「私の先祖は平安時代に都よりこちらに来た公家です。」などといわれます。
私は昔の祖先がどのような方であるかにはまったく興味がないので、お話は「そうですか」と聞くばかりですが、逆に何かこんな話題が普通に聞かれる環境に驚かされてしまいます。
 私の家系は新潟でその昔、平家方のようですが、本家では家系図を大事にしており、1000年くらい遡れるような話も聞いていますが、一切興味はありませんし、確認したこともありません。
民族はほとんど混血で進化してきました。純潔では却って退化する危険があります。
日本は島国で、単一民族だなどと寝ぼけたようなことを言った国会議員もいたそうです。
 ところで、藤原不比等は藤原鎌足の息子で、藤原家を発展させた祖といわれます。
藤原鎌足は中臣鎌足であり、大化の改新で名前が出てきますね。
この中臣家は九州から大和に登り、そして鹿嶋にやってきたと思われます。
鎌足はその名前からも鉄に関係しているのでしょうか。
鹿嶋の生まれではないかと考えられています。
出生の説はいろいろありますが、奈良の春日大社は鹿島神宮崇拝の象徴でもあり、鹿嶋出生説が正しいように思われます。
藤原不比等の娘が光明皇后(聖武天皇后)で、このあと皇族とかかわり権力を持って行ったと思われます。
しかし、光明皇后は貧しい人に救いの手を差し伸べ、薬草を集めたり、非常にボランティア的な働きをしていますので人間的な魅力もありますね。
光明皇后の亡き後に建てられた「法華寺」は全国の国分尼寺の中心となりました。
法華寺の十一面観音像はこの光明皇后をモデルにしたといわれ、本当に傑作です。
私の大好きな仏像の一つです。学生時代京都にいた私の妻もこれが一番好きだといっていました。
国分寺や国分尼寺などはこの聖武天皇や光明皇后とつながっているので興味がわきますね。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/30 19:10

牛込・牛渡

 旧水戸街道は現在の6号とほぼ似たような経路をたどっていますが、その昔の古道東海道の道を検証してみましょう。
石岡は古道東海道の終点の都市でした。
また江戸時代前までは、今の霞ケ浦を舟で渡っていたといわれています。
しかし、現在鎌倉街道の名前のついた道も多くあり、どれがメインの道かが判りません。
しかし、かすみがうら市(旧出島村)に牛渡(うしわた)という地名があり、古墳や神社などがあります。牛渡の鹿島神社では「へいさんぼう(平三坊)」なる変わった祭りが残されています。

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映画「土」の舞台となり、貧しい農村が描かれていますが、昔はここらあたりに対岸から舟で渡ったものでしょう。
牛渡は対岸から牛が渡って泳ぎ着いてこの名前になったと考えられています。

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その対岸ですが、美浦村です。
競馬馬のトレセンで名前は全国区ですが、ここに「陸平(おかだいら)貝塚」があるのです。
先日お邪魔した時は、夏の終わりで、地元の小学生たちも手伝って貝塚の発掘調査を行なっていました。
縄文前期から後期にわたり、5000年以上続いた縄文人の暮らした跡がはっきりと分かる貴重な場所です。
この貝塚のすぐ北側に「牛込(うしごめ)」という地名があります。
この場所から牛を対岸の牛渡に送っていたのでしょうか?
平安時代は貴族の移動は牛車で、馬ではありませんでした。
牛は牛込に残し、人だけが渡ったのでしょうか?

江戸時代の前はこの霞ケ浦は湖ではなく海(内海)でした。香取の海などと呼ばれていました。
現在よりも水面は数十センチ高かったようです。
ヤマトタケルの東方に来た時代の地形は、ぼんやり想像ができるようにも思いますが、縄文人が暮らした時代は現在の地形からは、まったく想像すらできません。
利根川を人工的に銚子の方にもっていき、江戸の治水対策にしたのですから・・・。

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/06 18:23

恋瀬橋と6号バイパス

 今日はクリスマス。
昨夜はイブであったが、今は子供も離れているので祝うこともなかった。
子供が小さな時は仕事も忙しく、毎晩夜中の帰宅でクリスマスも子供のプレゼントだけが楽しみなことだったように思う。
我が家の3人の子供に夜中にそっとプレゼントを枕元においてサンタさんを演じていた。
比較的大きくなるまで子供たちもサンタさんを信じて楽しみにしていた。
朝起きた時のうれしそうな顔を見るのが楽しみだった。

 その子供たちも大きくなり、来年春には末の息子も社会人。
どうにか親の責任を果たしたことになるかな?

昨日、府中城を名古城といった赤穂の山鹿(やまが)素行の話を紹介しました。
また今夜テレビで赤穂浪士が放送されるとか。
その中で、大石内蔵助が討ち入りの時に打ち鳴らされる太鼓は「山鹿流陣太鼓」と言われて、どのドラマ、演劇などでも必ず使われます。
これは山鹿素行の山鹿流兵法に由来しているのですが、実際にはこのような陣太鼓はなかったそうです。
後の創作ですね。でもこれがないと話がしまりませんね。
討ち入りは12月14日ということですが、今の暦(西暦)では1月30日とのこと。
和歴が西暦(太陽暦)に変わったのは明治5年12月3日で、この日が明治6年1月1日になったそうです。
ですから昔は月の動きがとても大事だったのですね。
人々も敏感に月の満ち欠けなどを気にしていたのでしょう。

 今日は朝から天気が良いので恋瀬橋に筑波山を見てみたくなり8時半頃出かけてきた。

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ここからの筑波山の眺めはいつ見ても素晴らしいですね。

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しかし、この橋の東側は現在6号バイパス道路という名の道路と橋の工事中です。
現在は橋の陸上部の土台となる土盛りができて、しばらく風雨にさらして固まるのを待っているところのようです。工事再開はもう少し先なのでしょう。

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新しい橋は青(緑)色に塗られて川の水の上だけはすでに架けられています。
橋の反対側(東側)に回ってみると橋の上に筑波山が見えました。

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この橋の北東側(下り方向)は舟船塚山古墳や中津川遺跡の方向です。
古代(縄文・弥生時代)の豊富な遺跡の残る貴重な場所なのです。
毎年のように調査が繰り返されていますが、その都度新しい発見があるような場所です。
遺跡が壊されないかとても心配です。

道路ができれば、恋瀬橋の混雑は解消されるでしょう。
しかし、石岡と言う古都は益々衰弱してしまうのではないでしょうか。
仕事量が増え、暮らしに役立つという見方も当然あります。
同時に、将来を見据え、子供たちが笑顔がはじけるような町作りを進めてほしいですね。

 この続きはまた明日書きます。

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/25 18:20

恋瀬橋ロードパーク

 昨夜はテレビで赤穂浪士が放送されたが、あまり面白くはなった。
やはりバタバタと撮影されたためかあまり深さを感じられなかった。
視聴率ばかり気にするテレビではこんなものかもしれないが・・・。

 今日は昨日の恋瀬橋の続きです。
現在の6号国道に架かる恋瀬橋は、平成13年に建て替えられたものです。
その前は今より少し西側にありました。
この橋ができたため、橋のたもとにあった店は道路が行き止まりとなり廃れてしまいました。

しかし、この旧道と新6号との間のポケット部分に「恋瀬橋ロードパーク」が建設されています。
地元の人間にとってはあまり利用しないのですが、他所から来られた方は時々立ち寄られているようです。

駐車場ときれいなトイレ、それに観光案内板。
この地が石岡市とかすみがうら市の境に位置するため、地図、見どころ案内などが両市のものが載せられています。

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両市の共同となっているのは面白いですね。さてどちらの方が魅力的でしょうか?
どちらも分かれるのではなく、同じところに混ざり合う方が本当は歴史などの理解にはありがたいのですが・・・。

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ロードパークのトイレと小型車の駐車場です。この手前に大型車の駐車場があります。

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平成13年に作られた橋の欄干入口部に立てられた石板には恋瀬川と筑波山の絵が描かれていました。

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ロードパークにはその前まで使われていた橋の親柱と欄干の一部が残され、展示されていました。
私も何度かここを通っているのですが、気がつかずにいました。
現地の説明板によると。「昭和6年から70年間使われた」となっていました。

石岡の大火が昭和4年。すぐに復興して昭和天皇がこられたのが同じ年でした。
この頃はまだ自動車などはほとんどなかったのですから、どんな風になっていたのでしょうか。
ただし、上の写真は橋の幅や長さが実際よりかなり小さくなっていますね。
 

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/26 18:22

府中橋連絡道路の工事

昨日まで書いてきた恋瀬橋は現在バイパス道路の工事中ですが、その逆の山側の恋瀬川に架かる橋は「府中橋」という名前がついています。
常陸総社宮を下りた(昔はこちらが入口で、ここに下池があった。今は小さな広場)宮の下から志筑(しずく)へ向かう道路の恋瀬川に架かる橋です。

この橋を渡って道路は右折していたのですが、真っ直ぐ山を切り開いて6号国道とつながる道路が今年完成しました。
今、更に今度は橋の手前から355号バイパス(旧有料道路)の昔料金所があった辺りまで真っ直ぐ結ぶ道路を工事中です。
今まで少しまわり道になっていたのを最短で結ぶことになります。

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工事中の写真も残しておかないとそのうち当たり前になって、忘れてしまいますから・・。

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道路工事にしては何か高い機械がたくさん。 どうもこれはこの場所が田圃であったためのようです。
きっと地面にパイルを打ち込んでいるのではないでしょうか?

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何か意外にも周りの雰囲気と違って、不思議な景色が生まれていますね。
何時完成かわかりませんが、結構急ピッチです。
 

街中の様子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/27 19:38

みかん

 今日はもう28日だ。今年もわずかになった。
海外と仕事をしていると、クリスマス休みから正月1日か2日まで休むところが多い。
クリスマス前頃には逆に日本には休みの間の見積もり依頼なども多い。
夏休みなども同様である。
逆に日本のゴールデンウィークは海外でも有名で、日本の休みが多いと良く指摘される。
中国は1月末から2月が正月休みだ。

日本でゴールデンウィークを分散させる話があった。
まったくナンセンスだと思う。
今やある地域だけで取引している会社など少ない。発想が貧弱だと思う。

もう、年末のこの時期になれば皆バタバタとしてのんびりブログどころではなくなりそうだ。
従って、地域の紹介などもある程度少なめに留めておきたいと思う。

我が家の庭にミカンの木があるが、今年は「たわわ」に多くにミカンの実がついた。
前にも書いたが「たわわ」は「撓む(たわむ)」からきているが、この言葉は縄文語で、山と山の間の低い部分、すなわち峠のことだという。言葉も知れば面白くなる。

いままでに何回も採って食べてきたが、今回は残りを全部取ってみたら100個くらいまだあった。
少し小粒で酸っぱさもまだ残っているが、それでも十分美味しい。

実のなる木が庭にあるのも良いものです。おなかがすいたらミカンでも多少は腹が膨れる。
昔、私の母が戦時中に静岡に住んでいて、「ミカンばかり食べて手も顔も黄色くなった」と言っていたのを思い出した。
 

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こんな写真を載せてもしょうがないのだが、記念に残しておこう。

地元には「筑波みかん」というものがある。
八郷の山側から行方あたりまで栽培されているようだ。
皮が薄く、昔ながらの味がするという。
しかし、一般的な温州ミカンがやはり一般的で、最近は甘く食べやすいものが増えた。
筑波ミカンは別名フクレミカンともいうそうでフクレは「福来」と書き、この皮を干して細かく切って唐辛子に混ぜて使われるといいます。

この唐辛子はまだ試したことはない。
 
 

街中の様子 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/12/28 19:21

上曽峠と上曽宿

 石岡(府中)から柿岡の街を通り、真っ直ぐ真壁の町に続く県道7号線は、昔の主要な通りであった。
真壁側から石岡(府中)に行くにはこの上曽峠峠を越えていく必要があったのである。
その峠を越えた所にできた宿場町が上曽宿で、古い町並みが今でも残されており、旅籠の看板も2件そのまま残っている。
歴史を調べてみると、かなり古くから重要な街道であったという。
昔は霞ケ浦の高浜から柿岡までは恋瀬川を使って舟運が発達していたようで、柿岡から真壁・下館方面への荷物の運搬はこの柿岡まではこの上曽峠を越えて馬で運びました。
このため、この上曽宿には多くの旅籠があり、馬止もありました。
また山中に、鎌倉時代の猿壁(さっかべ)城跡があり、小田氏の子が上曽氏を名乗ったといいます。

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宿場から上曽峠に向かう。 ここから道がくねくねとした上りとなる。冬場は凍結して危ない。
現在この峠にトンネルを作る計画が進行しているが、筑波方面と結ぶ「朝日トンネル」は工事が大分すすんでいるが、こちらはまだ着工に至っていないようである。

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今でも立派な塀と門をを持った家が多くみられる。

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旅籠「えびすや」さんの看板をそのまま残している。

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「えびすや」の建物もそのまま残され、昔の宿場が思われる。

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昔の街道の面影が残る通りである。長屋門の立派な構えの屋敷です。

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上曽宿の中程に「一言稲荷神社」があり、赤い旗が目を引きます。
神社には「筑西市」や「下館市」などの奉納者のお名前が多い。こちらの方面の信仰の神社なのか?

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宿場の中に「足尾神社の鳥居」が残されています。写真の後ろの方に見えるのが「足尾山(万葉集では葦穂山)」です。
この鳥居の横の大きな石標は昔の道標で正面に「西まかべ道」右側には「あしを道」と書かれており、裏には「享和甲子歳三月」と書かれています。調べると享和4年(1804)3月に作られたものだそうです。かなり立派なものですね。
足尾神社は山頂に神社があり、足の病に効くと言われていおり、筑波山と加波山の中間に位置する神社だ。
この神社も天狗でも知られ、面白そうなのでまた別途調べてみたい。
 

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/01 19:29

小幡宿

 昨日が少し暖かかったが、やはり今日は寒くなってしまった。オーストラリアではハリケーンが猛威をふるいそうだ。穀物の価格が心配になる。気候変動は毎年異常さが増すようなので、今後どうなるのだろう。
ガソリン価格も急に上がってこの先もっと上がるような気がしている。
景気が上向いたような気は全然しない。
 さて、今日は「小幡宿」を紹介しましょう。小幡宿といっても旧水戸街道や中山道の宿ではない。八郷地区にある小幡である。
この集落は昨日紹介した隣り集落の上曽地区よりもかなりおおきな集落であったといいます。
ここが発達したのは、府中(石岡)の町から柿岡を通り、筑波神社への参拝の街道途中にあった町のためと、色々な産業が行なわれてきたためであろう。
筑波山に登ることはかなり昔から行われていたようだが、この道がもっとも古いようである。
筑波への参拝の街道については別途紹介するとして、この小幡にも古い家並みが残っています。

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1月の雪がまだ残っている時に写真を取ったので、この時はこの先の十三塚から筑波への道は急坂で少し狭いので凍結しているので危険と思ったのでいかなかった。

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ここも宿場として宿屋もあったと思うが、現在その形をそのまま残しているところは少ない。
石蔵もあり、大きな家も多い。この先の十三塚は果樹団地といわれ、八郷地区一番の果樹栽培地である。
また右に曲がれば湯袋峠を越えて真壁の町に出られる。

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 長屋門であろうか、昔はこの門には門番用の用人の住む部屋や馬の納屋もある門だったのだろう。

昔ながらの家並みが残っていると、とても懐かしくホッとするのは何故なのだろう。
日本の各地に知られざる家並みが多く残っている。
そこには、そこの生活や歴史が詰まっている。
そんなところにスポットを当ててみたいと数年前から考えてもいるが未だに実現していない。
身近にも多くの家並みが壊されずに残っているとうれしいですね。

石岡の特産品として水車製法でつくる「杉線香」や「弓の矢」の製造など昔からの伝統を受け継いでいるところもこの小幡地区である。またの機会に紹介したいと思います。

 明日はまた仕事で銚子に行く予定です。
 
 

街道その他 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/02 19:42

筑波古道-府中街道(東山地区)

 筑波山登山の古道はいくつかあった。
現在北条から神社へ真っ直ぐに登る「つくば道」が「日本の道百選」に選ばれ脚光を浴びているが、これはまた後に紹介するとして、今回はもっとも古くからあったという「府中街道」を紹介したい。
 常陸の国府石岡(旧府中)の町から筑波山に登るもっとも近い道で、万葉の頃から通っていた道であった。
これは、石岡(府中)から柿岡宿→小幡宿→十三塚→風返し峠→東山→筑波神社のルートであった。
現在パープルラインができ、この道の筑波山側は道を辿ることも難しく、今では東山地区に僅かな面影を残すばかりである。
下の地図で東大地震研究所前からパープルラインへ行く道は現在なさそうだ。またパープルラインを横切って風返し峠までの道は途中に白滝神社があり一部は辿ることもできそうだが私にはその根気はなかった。

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神社の正面から東側の日枝神社へまわりその横の石段を東に下りるとそこが東山地区である。
昔この地区はこの府中街道があった時までは筑波神社参拝者でにぎわったという。
府中街道は天狗党が筑波で挙兵した時に藤田小四郎などが府中(石岡)からこの道を通ってきたというので、明治の初めまでは結構人が通っていたのであろう。

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上の写真が神社から見た府中街道入口である。左に行けば筑波山(女体山)山頂に行ける(白雲橋コース)。

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入口部の道しるべ

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この「女体山」の石標が入口部に残してあった。

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東山地区は道は狭いが石畳のきれいな道が続く。

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昔の面影を残す家並みも多い。

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梅の木などもあり、一度散策されるのも良いと思う。しかし、道が狭く車でくると置くところに苦労しそうである。
また、この先は段々と山道に入る。また東大の地震研究所の観測所が近くにあるが、何の標識もなく現在観測が行なわれているのかもよくわからない。
途中に興味のあるスポットもあったので、また明日に続きを書きます。
 

筑波古道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/08 19:27

筑波古道 - 府中街道(2)

 今日は朝からまた寒くなりました。雪はそれ程でもないのですが、それでも筑波山は登山には向かない日です。
今、会社へ実習に来ている外人さん数人が、今度の休みに筑波山に下から歩いて登りたいといっていましたが、止めたほうがよさそうですね。

さて、昨日は筑波府中街道の東山地区の街並みをお伝えしましたが、この道を歩いてみると今まで筑波神社に来た時とは違った景色が見えてきました。
今日はこのことを中心に少し紹介します。

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東山集落の先を行くと東大地震研究所筑波観測所のところに出る。この観測所は看板も消えて読めない。
石段が山の方に続いているが、鎖で通行止めとなっている。
この入口の横に石碑が置かれている。

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ここ東山出身の方がこの府中街道の記憶を残す目的で建立したようで、その経緯などが書かれている。

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街道の途中に「筑波六井」である「香の井」があった。今は井戸を残すために屋根が付けられ、扉が付けられていた。

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扉をあけると中に井戸があり、きれいな水がたたえられていた。
しかし、その説明板には、水を飲料とするには煮沸することを勧めていた。

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石碑の先を少し行くと「稲荷大明神神社(稲荷宮)」がありました。入口にはたくさんの鳥居が並んでいます。きっと、願いがかなったことを感謝して鳥居を寄進したのでしょう。 

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稲荷神社は大きな石の上に鎮座し、手前には狐の石像が両脇にあります。

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また、鳥居の入口にもかわいらしい狐と二十三夜尊が置かれていました。

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鳥居は古くなると根元が腐ってくるのでこれを切って短くしたり、また新しくしたり、多くの鳥居の柱の残骸が置かれていました。

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この神社の先の府中街道は山道に入り、山の中腹まで続いています。
ここで引きかえしました。
 

筑波古道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/09 19:12

筑波古道 - つくば道 -

筑波神社への参拝の古道として江戸時代はこの道がメインであったという。
つくばエキスプレスの開通で筑波山も急に注目が集まるようになり、今では土日を問わずかなりの観光客が集まっている。
その中でこの徳川家光によって筑波山参詣の道として解放された「つくば道」がある。

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北条の辻に大きな追分石が置かれていた。「ここよりつくば道」である。

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道は「北条」から「神部」を通り「白井」を抜けて神社に真っ直ぐに向かっている。

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「右(東)つちうら、きよたき、加し満(鹿島)」。「にし(西)おふそね(大曽根)いちのや(一ノ矢)江戸」裏を見ると、この追分は正徳五年(1715)五月十七日に建てられ寛政十年(1798)に再建されたものとなっています。

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途中にある 真言宗「普門寺」。この寺は鎌倉時代末に建てられ、つくばで大勢力を持った小田氏の祈願寺として栄えたという。山門の佇まいも筑波山の景色にマッチして美しい。

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そのまま進むと、住宅街の向こうに大きな筑波山と中腹の筑波山神社の大きな赤い鳥居が良く見える。

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白井地区に「一の鳥居」が立つ。ここから先はは神社の神域になる。
この鳥居は宝暦九年(1759年)に造立され、昔は、嵯峨大覚寺門跡寛深法親王御筆「天地開闇 筑波神社」の額がかかっていたという。

ここからは急坂で車はすれ違うことのできないような道である。迷惑でもあるので、私はここで右に曲がって、筑波温泉ホテルのところへ出た。
筑波の神社周辺の江戸屋などでも十年ほど前に温泉を千メートル以上掘って掘りあて、数件で共同で使っているが、この筑波温泉ホテルはそのずっと前に同じように千メートル以上掘って当時は唯一の温泉ホテルであった。昔、神社横の江戸屋(もっとも古い老舗)さんにも温泉が掘られる前に泊まったが、この筑波温泉ホテルにも泊まったことがある。やはり本物の温泉はいいですね。
最近は日帰り温泉ばかり。温泉はタオル付きで1000円だったかな? しばらく行っていないが・・・。
  

筑波古道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/10 19:24

古東海道

 私が「1300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」というホームページを立ち上げるきっかけとなったのが、この古東海道の終点が「石岡」(常陸国府=常陸府中)であると知ったことでした。
そしてこの事を、友人たちに話すとほとんどの人は知らないのです。
やはり、あまり有名ではないのだとは思ってみるのですが、意外に興味を示す方が多いのです。
そこで、少しその話をさせていただきたいと思います。

 東海道と言えばもちろん、江戸時代の東海道53次(江戸と京都間)を皆さんは思い浮かべるでしょう。
古東海道はそれよりずっと前から整備されていた七道の一つです。
スタートは伊賀上野で、伊賀、志摩、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸の各国を結んでいました。
終点常陸国の国府が現在の石岡です。

現在の東海道とある程度ダブルところもありますが、もっとも大きな違いは当時はまだ江戸はいくつも川が流れ込んでおり、湿地帯が多く歩くにも困難な土地であったことです。
そのため、鎌倉から葉山へ行き、そこから三浦半島を横断して衣笠を通って横須賀へ行き、横須賀の走水(観音岬)より千葉県の富津岬へ東京湾を舟で渡っていたのです。
このためヤマトタケルがここを渡る時に嵐に襲われ、波を静めるために后である弟橘媛が入水して波を静めた話が伝わるのです。

東京湾を舟で渡っていたため、千葉県では渡ったところが上総(かずさ)国(国府:市原市)で、その先が下総国(国府:市川市)と東京に近い方が下となるのです。
また、ヤマトタケルのこの時詠んだ歌(君さらず)から「木更津」や「君津」の地名が生まれたとされています。また弟橘媛の着物の袖が流れ着いたところが「袖ヶ浦」です。

この先は、現在の国道16号に沿って海沿いに北上し、五井駅の近くで右折し、市原市を通り、さらに北上し市川市に入ります。
市川市より北上し国府台を通って、松戸へ出ます。
ここまでは、ある程度道がわかっているのですが、この松戸から石岡までのルートがまだはっきりしていないのです。
現在の6号やその前の水戸街道とはかなり違ったルートであったことはわかっています。

江戸時代前までは利根川は現在のように銚子へ流れるのではなく、東京湾に流れており、霞ヶ浦や手賀沼などは一体の大きな内海(香取の海)でした。
従って、松戸からは東に少し行って、そこから舟で龍ケ崎へ渡り、さらに美浦村の牛込から、かすみがうら市の牛渡へ舟でまた渡り、三村の方から石岡へ向かっていたものと考えられます。

こんなルートを考えて、足を延ばしたりしていると、知らぬ間に古代からお誘いを受けたりしてしまいます。
縄文人がたくさん住んでいたところもたくさんあります(貝塚でわかります)。

皆さんも少しそんなことも考えてみませんか?

詳細は私のホームページに載せていますので見てください。→こちら
 

古東海道 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/04/20 19:17

梨の花が咲いてます

桜の花が散ったと思ったら、あちこちの梨園に白い花がいっぱい咲いています。
ネットで覆われているので花がすぐに目に飛び込んで来ないのですが、もうそこらじゅうで咲いていました。
茨城県は梨の生産高は全国2位だそうです。
では1位はどこでしょう? 二十世紀梨が有名な鳥取県と思ったら、千葉県だそうです。
鳥取県は平成13年まで1位でしたが、幸水・豊水におされて三位に後退してしまったのだそうです。
茨城県でもこの辺りは梨園がとても多いところです。今この時期に雹が降ったりするとその年の生産に悪い影響があるようです。
今年は大丈夫でしょうか。8月~9月の収穫に向けて、甘い梨の実をつけてくれるでしょう。

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歌舞伎界を「梨園」と呼びますが、唐の玄宗皇帝の時代に芸術家を集めて芸を磨いた場所が梨の植えられた梨園であったことに由来するそうです。
私などは三国志の最初の方に出てくる劉備・関羽・張飛の兄弟の契りを結んだ桃園の方がすぐに浮かんできます。

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このあたりの梨は「幸水」「豊水」が主体で、袋をかぶせない無袋栽培がほとんどです。幸水は8月中旬~下旬の2週間。豊水も9月初め~中旬の2~3週間です。短いですね。

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梨の花も良く見るととてもかわいい花ですね。

街中の様子 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/04/23 17:21
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