金色姫伝説
やっと戻ってきました。5月25日2度目のUPです。
筑波の六所神社に行く時に手前の神郡にある「蚕影山(こかげやま)神社」というところに寄ってみた。
この神社もかなり古くからある神社で名前の通り養蚕業のシンボル的な神社で、各地にある蚕影神社の中心になっているところだそうだ。
また入口の社務所というより一般の住居のような建物を覗いてみると、中の机の上にはお守りなどが置かれていたが、壁に映画のポスターが貼ってあった。「ガマの油」である。
役所広司が初監督と主演をしている2009年の映画だ。
この神社の前でガマの油売りの口上を撮影したという。なかなか渋いところで撮影したものだ。
今回も、このような古臭い神社であり、誰も来てる人もいないかと思ったが、ひと組の男女が車でやってきていた。
どうも一般の神社好きな人とはかなりイメージがちがった。
映画のロケ地と知って都会から来たのかもしれない。
一緒に神社への階段を上って上に行くと女性から携帯をさしだされて「写真を撮ってください」と頼まれた。
また「いいところですね」とも。
私はこのような人が訪れないような寺や神社を訪ねまわっているので好きなところではあるが、「よいところですね」といわれると少し首をかしげてしまう。
地元の人ではあまりこのようなことは言わない。
まあそれよりは、神社の由緒などの説明が入口にかかげられていた中に面白いことが書かれていた。
「金色姫伝説」である。これはなかなか面白い。
養蚕はかなり歴史が古く、インド(天竺)から伝わったものであることを示しているのだろうか?
伝説の概略の話は、次のようなものである。
「5世紀頃の話です。天竺(インド)にリンエ王という帝がおり、金色姫(こんじきひめ)という娘がいた。
しかし后はなくなり、後添えにきた皇后はこの金色姫を憎み、帝のいない時に、山の中に金色姫を置き去りにしたり、島に流したりしますがうまくいきません。そこで今度は庭に生き埋めにしてしまいます。しかしこの庭から光がさし、帝が気がついて助け出しますが、行く末を心配して、泣く泣く中が空洞になった桑の木の船に姫を乗せて海に流したのです。
その舟が荒海にもまれながら漂流して日本の茨城県の豊浦(現在の川尻小貝浜)に漂着したところを、地元の漁師夫婦に助けられて大切に育てられました。
しかし、姫は病に罹り、亡くなってしまいました。夫婦は深く悲しんで、清らかな唐びつを創り、姫のなきがらを納めました。
するとある夜、夢の中に姫が現れ、「私に食物をください。後で恩返しをします。」と告げました。
そこで唐びつを開けると、姫のなきがらは無く、たくさんの小さな虫になっていました。
丸木舟が桑の木であったので、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べ、成長しました。
そしてマユを造りました。マユが出来ると、筑波の仙人が現れ、マユから糸を取る方法を教えたといいます。
この漁師夫婦は、この養蚕で栄え、豊浦の河岸に、御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称したといいます。これがこの蚕影山神社のはじめだというのです。」




筑波の六所神社に行く時に手前の神郡にある「蚕影山(こかげやま)神社」というところに寄ってみた。
この神社もかなり古くからある神社で名前の通り養蚕業のシンボル的な神社で、各地にある蚕影神社の中心になっているところだそうだ。
また入口の社務所というより一般の住居のような建物を覗いてみると、中の机の上にはお守りなどが置かれていたが、壁に映画のポスターが貼ってあった。「ガマの油」である。
役所広司が初監督と主演をしている2009年の映画だ。
この神社の前でガマの油売りの口上を撮影したという。なかなか渋いところで撮影したものだ。
今回も、このような古臭い神社であり、誰も来てる人もいないかと思ったが、ひと組の男女が車でやってきていた。
どうも一般の神社好きな人とはかなりイメージがちがった。
映画のロケ地と知って都会から来たのかもしれない。
一緒に神社への階段を上って上に行くと女性から携帯をさしだされて「写真を撮ってください」と頼まれた。
また「いいところですね」とも。
私はこのような人が訪れないような寺や神社を訪ねまわっているので好きなところではあるが、「よいところですね」といわれると少し首をかしげてしまう。
地元の人ではあまりこのようなことは言わない。
まあそれよりは、神社の由緒などの説明が入口にかかげられていた中に面白いことが書かれていた。
「金色姫伝説」である。これはなかなか面白い。
養蚕はかなり歴史が古く、インド(天竺)から伝わったものであることを示しているのだろうか?
伝説の概略の話は、次のようなものである。
「5世紀頃の話です。天竺(インド)にリンエ王という帝がおり、金色姫(こんじきひめ)という娘がいた。
しかし后はなくなり、後添えにきた皇后はこの金色姫を憎み、帝のいない時に、山の中に金色姫を置き去りにしたり、島に流したりしますがうまくいきません。そこで今度は庭に生き埋めにしてしまいます。しかしこの庭から光がさし、帝が気がついて助け出しますが、行く末を心配して、泣く泣く中が空洞になった桑の木の船に姫を乗せて海に流したのです。
その舟が荒海にもまれながら漂流して日本の茨城県の豊浦(現在の川尻小貝浜)に漂着したところを、地元の漁師夫婦に助けられて大切に育てられました。
しかし、姫は病に罹り、亡くなってしまいました。夫婦は深く悲しんで、清らかな唐びつを創り、姫のなきがらを納めました。
するとある夜、夢の中に姫が現れ、「私に食物をください。後で恩返しをします。」と告げました。
そこで唐びつを開けると、姫のなきがらは無く、たくさんの小さな虫になっていました。
丸木舟が桑の木であったので、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べ、成長しました。
そしてマユを造りました。マユが出来ると、筑波の仙人が現れ、マユから糸を取る方法を教えたといいます。
この漁師夫婦は、この養蚕で栄え、豊浦の河岸に、御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称したといいます。これがこの蚕影山神社のはじめだというのです。」




静神社(1)
常陸国二の宮である静神社。佐竹寺の前の道を瓜連(うりづら)方面に行けばすぐだ。
比較的に近いが、何故この場所にあるのかと不思議に感じた。
地図を調べて見るとこの場所は、那珂川沿いにあり、以前紹介した粟、阿波山の川を挟んだ反対側にある。
やはりかなり昔から人が住んでいたものと考えられる。
神社のHPを見ると
「かって、この地は3つの神社が鎮座し、さらに、7つの寺院がこれを囲んで大きな霊地を形成していた。また、水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり、門前町、宿場町として、殷賑をきわめていた。現存している下宿、中宿、門前の地名や藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号はこれを物語っている。」
と書かれている。一般に水戸城下から福島県の棚倉を結ぶ「棚倉街道」は今の国道118号線(常陸大宮を通る)と、もう一つ国道349号線(常陸太田を通る)の2つのルートがあるようだ。
この静地区は国道118号線に近い。この道は水郡線に沿った道で、袋田の滝の道でもある。
常陸国風土記の久慈郡に「郡家の西十里のところに、静織の里がある。ここで初めて倭文を織る機が使はれたことから、名付けられた。北の小川には、青色の瑪瑙がとれ、良い火打石になる。よって玉川と名付けられた。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれている。
倭文は「しず」「しどり」「しずり」などと読み、古代の織物のことで、静織=倭文 からこの神社の名前になった。
祭神は初めて機織をしたという「建葉槌命(たけはづちのみこと)=倭文神」を祀る。ただこれも最初は「手力雄命」を祀っていたという。
風土記に出てくるもう一つの「玉川」は今もこの名の川が静地区の北を流れ、久慈川に注いでいる。
この玉川からは、昔はメノウが採れたという。

静神社の創建は明らかではなく、鹿島神宮に次ぐ二の宮として有名で、特に水戸藩の祈願所と定められ、繁栄した。

例祭は4月2日で、国宝の銅印(奈良時代末期の作)が保管されています。その銅印には「静神宮印」となっており、神宮としての格式があったのかもしれません。

社殿入口の「神門」(唐門)

この里が昔から「静織(しおり)の里」と呼ばれ、初めて織物が織られたと伝えられていることから、唐門の手前左側にこの「織姫像」が置かれています。東京織物卸商業組合が寄進したものとのこと。
常陸国には古い養蚕の神社も多く、全国の養蚕神社の基になっている。何か関係があるのか。
いつか調べてみたい。
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比較的に近いが、何故この場所にあるのかと不思議に感じた。
地図を調べて見るとこの場所は、那珂川沿いにあり、以前紹介した粟、阿波山の川を挟んだ反対側にある。
やはりかなり昔から人が住んでいたものと考えられる。
神社のHPを見ると
「かって、この地は3つの神社が鎮座し、さらに、7つの寺院がこれを囲んで大きな霊地を形成していた。また、水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり、門前町、宿場町として、殷賑をきわめていた。現存している下宿、中宿、門前の地名や藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号はこれを物語っている。」
と書かれている。一般に水戸城下から福島県の棚倉を結ぶ「棚倉街道」は今の国道118号線(常陸大宮を通る)と、もう一つ国道349号線(常陸太田を通る)の2つのルートがあるようだ。
この静地区は国道118号線に近い。この道は水郡線に沿った道で、袋田の滝の道でもある。
常陸国風土記の久慈郡に「郡家の西十里のところに、静織の里がある。ここで初めて倭文を織る機が使はれたことから、名付けられた。北の小川には、青色の瑪瑙がとれ、良い火打石になる。よって玉川と名付けられた。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれている。
倭文は「しず」「しどり」「しずり」などと読み、古代の織物のことで、静織=倭文 からこの神社の名前になった。
祭神は初めて機織をしたという「建葉槌命(たけはづちのみこと)=倭文神」を祀る。ただこれも最初は「手力雄命」を祀っていたという。
風土記に出てくるもう一つの「玉川」は今もこの名の川が静地区の北を流れ、久慈川に注いでいる。
この玉川からは、昔はメノウが採れたという。

静神社の創建は明らかではなく、鹿島神宮に次ぐ二の宮として有名で、特に水戸藩の祈願所と定められ、繁栄した。

例祭は4月2日で、国宝の銅印(奈良時代末期の作)が保管されています。その銅印には「静神宮印」となっており、神宮としての格式があったのかもしれません。

社殿入口の「神門」(唐門)

この里が昔から「静織(しおり)の里」と呼ばれ、初めて織物が織られたと伝えられていることから、唐門の手前左側にこの「織姫像」が置かれています。東京織物卸商業組合が寄進したものとのこと。
常陸国には古い養蚕の神社も多く、全国の養蚕神社の基になっている。何か関係があるのか。
いつか調べてみたい。


静神社(2)
今日は先日の「静神社」のつづきです。
この前から西山荘、佐竹寺、静神社と書いてきたのだが、西山荘をこの常陸太田の地に建てたのは佐竹氏の残党が多いこの地でその監視を考えて建てたとの話をいただいた。
そして、この前の静神社については馬頭(現那珂川町)にも静神社があると教えていただいた。
それで、私の疑問がかなり解消された。
水戸黄門(光圀)はやはり色々と細かなところにも目を配っていたのがわかりますね。
この静神社も神仏融合の霊場であったのを水戸光圀が神社のみにし、社殿などを新たにまた立派に再建したのです。
一方馬頭は当時は水戸藩の領域で、ここには「武茂(むも)氏」がいて、佐竹氏とともに秋田に移っています。
そして、馬頭の静神社も光圀が昔からあった神社を再建しています。やはり関係がありそうです。
これはこのブログを読んでコメントをいただいた人の情報からハッと気がついたことです。
ブログを書いていると色々な情報を寄せていただいて更に調べてみたくなる。いいですね。
さて、常陸国風土記に書かれていた内容がやはり気になっています。
この静織の里=倭文の里はもちろん興味ありますが、もう一つメノウ(瑪瑙)が採れたという玉川があるのです。
この常陸大宮市を流れる玉川を調べて見ると、江戸時代にはここで採れたメノウが高級火打石の「水戸の火打石」としてかなり有名だったようです。
今でも玉川の近辺で時々見つかるらしく、かなりたくさん採れたようです。
火をおこすのは火打石を鉄などの受け台にこすりつけて火花を飛ばすのだそうだ。
火打石を二つをこすりつけても火花は出ないそうです。
それにしてもこの近辺には金鉱や錫高野なる地名もあるので錫も採れたのだろうと思う。
佐竹氏の隠れ金山などというと、甲斐武田氏の隠れ金山を思い出しますが、同じ源氏の佐竹氏と甲斐武田氏の地がどこか似た地形なのも面白いですね。
さて、静神社に話を戻すと、静神社は水戸藩の祈願所となり、徳川光圀が、寛文七年(1667年)十月仏寺を分離し、神社とし、本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営したという。
しかし、これらの社殿は、天保十二年(1841年)火によって焼失し、多くの神宝、古文書等も失ってしまったそうだ。
現在の社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭によって再建されたものだという。



本殿。

「元御神木」
拝殿向かって左手前にあった杉の御神木。
天保の火災で枯れてしまったが、その前までは”千度杉”と呼ばれ、願い事をして、木の周囲を千回回る習慣があったそうです。
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この前から西山荘、佐竹寺、静神社と書いてきたのだが、西山荘をこの常陸太田の地に建てたのは佐竹氏の残党が多いこの地でその監視を考えて建てたとの話をいただいた。
そして、この前の静神社については馬頭(現那珂川町)にも静神社があると教えていただいた。
それで、私の疑問がかなり解消された。
水戸黄門(光圀)はやはり色々と細かなところにも目を配っていたのがわかりますね。
この静神社も神仏融合の霊場であったのを水戸光圀が神社のみにし、社殿などを新たにまた立派に再建したのです。
一方馬頭は当時は水戸藩の領域で、ここには「武茂(むも)氏」がいて、佐竹氏とともに秋田に移っています。
そして、馬頭の静神社も光圀が昔からあった神社を再建しています。やはり関係がありそうです。
これはこのブログを読んでコメントをいただいた人の情報からハッと気がついたことです。
ブログを書いていると色々な情報を寄せていただいて更に調べてみたくなる。いいですね。
さて、常陸国風土記に書かれていた内容がやはり気になっています。
この静織の里=倭文の里はもちろん興味ありますが、もう一つメノウ(瑪瑙)が採れたという玉川があるのです。
この常陸大宮市を流れる玉川を調べて見ると、江戸時代にはここで採れたメノウが高級火打石の「水戸の火打石」としてかなり有名だったようです。
今でも玉川の近辺で時々見つかるらしく、かなりたくさん採れたようです。
火をおこすのは火打石を鉄などの受け台にこすりつけて火花を飛ばすのだそうだ。
火打石を二つをこすりつけても火花は出ないそうです。
それにしてもこの近辺には金鉱や錫高野なる地名もあるので錫も採れたのだろうと思う。
佐竹氏の隠れ金山などというと、甲斐武田氏の隠れ金山を思い出しますが、同じ源氏の佐竹氏と甲斐武田氏の地がどこか似た地形なのも面白いですね。
さて、静神社に話を戻すと、静神社は水戸藩の祈願所となり、徳川光圀が、寛文七年(1667年)十月仏寺を分離し、神社とし、本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営したという。
しかし、これらの社殿は、天保十二年(1841年)火によって焼失し、多くの神宝、古文書等も失ってしまったそうだ。
現在の社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭によって再建されたものだという。



本殿。

「元御神木」
拝殿向かって左手前にあった杉の御神木。
天保の火災で枯れてしまったが、その前までは”千度杉”と呼ばれ、願い事をして、木の周囲を千回回る習慣があったそうです。


長幡部神社(常陸太田)
先日から常陸太田周辺(西山荘・佐竹寺・静神社)を紹介していますが、実はこの太田の地に行った目的は、今日紹介する「長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」にあります。
あまり一般の人が訪れないと思われる由緒あるところを探していくのが好きです。
ここを訪ねる気になったのは常陸風土記の記載されている内容です。
那珂郡の記載に静の里のあとに
「郡家の東七里のところの、太田の郷に、長幡部の社がある。むかし、すめみまの命が天降ったときに、衣を織るために、ともに降ってきた綺日女(かむはたひめ)の命は、最初に筑紫の日向の二上の峯に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。後のみまきの天皇の御世に、長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。この織物は、裁つことも縫ふこともなく、そのまま着ることができ、全服(うつはた)といふ。別の伝へでは、太絹を織るのに、人目を隠れ家の戸を閉ざし、暗いところで織ったから、烏織といふとも。力自慢の軍人の剣でも、これを裁ち切ることはできない。今でも毎年の良い織物を選んで、長幡部の社に奉納してゐる。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれています。
これはいったい何なのか? 幾つも疑問がわいてくる。
つまり、静神社に祀られている織物(静織=倭文 )とはまた別の織物があって、これは「とても丈夫なので剣でも切れないほど丈夫だ。」というのである。
その織物は初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったというのである。
まず行ってみると、ここは常陸太田市街地の東側を流れる「里川」のすぐ近くであり、川を越えてすぐのところにありました。

手前の幼稚園の裏手に公民館があり、そこに車を止めて、住宅地の間を抜けて神社の入口に到着した。
すると、左右にものすごい切りとおしがあり、その間の石段を登って行きます。

少し登って振り返るとこんな感じ。これはいつからこのような切りとおしになっているのだろう。
鎌倉にもたしかあったと思うが・・・。

切りとおしを登りきると開けた原に出て、右手に鳥居と神社が見えてくる。

なかなか古めかしい感じの神社だ。

さて、長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だというので、この風土記の記述と関係してくる。
部(べ)は長幡を織る人達という意味である。
後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社が、「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と説明書きには書かれています。
静神社は倭文(しず)織で、この長幡(ながはた)は紬の原型だと書きましたが、問題は、この長幡を伝えた先祖について、「綺日女(かむはたひめ)の命が、最初に筑紫の日向に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。後に長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。」と伝えられていることです。
日向(ひゅうが)は置いておくにしても、この美濃国の「引津根の丘」とはどこでしょうか?
調べてもあまりはっきりとすることがわからないのですが、美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社があることがわかりました。
しかし、この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれているそうです。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っているそうで、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたと思われます。
この引常明神の由来を調べると「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」と書かれていました。
この引常神社はこの南宮大社に合祀されたもので、どうも近くの何処になるのかはっきりした資料はありません。南宮大社の東側に「綾戸」「表佐(おさ)」などの地名があり、この辺りと考えられます。
昔はこの近くまで海がきていて、この辺りが少し丘になっていたので、引津根の丘と呼ばれたのでしょう。
この織物を伝えたのはどんな氏族だったのでしょうか? 興味はありますが、はっきりしませんのでまた時間を置いて調べてみたいと思います。

長幡部神社の本殿。

神社の入口に展示室?があり、中に機織りの機械などが置かれていました。
お祭りなどで披露するのでしょうか。ほこりをかぶっていますので、あまり使われてはいないようです。

この神社のすぐ近くに幼稚園があり、その裏手に公民館があります。その公民館の隣りに「機初(はたそめ)小学校跡地」の碑が置かれていました。
現在の機初小学校はこの神社から1kmくらい北に移ったようです。この地域全体が「はたそめ」と呼ばれているようです。
岐阜や愛知は機織りが盛んで、今でも多くの地名が残っています。
トヨタ自動車のある愛知県豊田市は元々の地名は「挙母(ころも)」と言う地名でした。
それが、豊田自動織機製作所ができ、その中に1933年自動車部が誕生したのですが、これが自動車の売り上げが伸び1959年に「豊田市」に名前が変わってしまったのです。
この挙母(ころも)は衣のことで「許呂母」とも書いていたようです。もともと生糸の町であったようですが、世界のトヨタに名前まで変わってしまったようです。
1000年以上前からの歴史が忘れ去られていくようですね。
この長幡部神社についても常陸太田市のホームページなどをみても扱いがほとんどなく、歴史が泣いているように思ってしまった。
これは我が石岡にも言える。残念なことだ。
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あまり一般の人が訪れないと思われる由緒あるところを探していくのが好きです。
ここを訪ねる気になったのは常陸風土記の記載されている内容です。
那珂郡の記載に静の里のあとに
「郡家の東七里のところの、太田の郷に、長幡部の社がある。むかし、すめみまの命が天降ったときに、衣を織るために、ともに降ってきた綺日女(かむはたひめ)の命は、最初に筑紫の日向の二上の峯に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。後のみまきの天皇の御世に、長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。この織物は、裁つことも縫ふこともなく、そのまま着ることができ、全服(うつはた)といふ。別の伝へでは、太絹を織るのに、人目を隠れ家の戸を閉ざし、暗いところで織ったから、烏織といふとも。力自慢の軍人の剣でも、これを裁ち切ることはできない。今でも毎年の良い織物を選んで、長幡部の社に奉納してゐる。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれています。
これはいったい何なのか? 幾つも疑問がわいてくる。
つまり、静神社に祀られている織物(静織=倭文 )とはまた別の織物があって、これは「とても丈夫なので剣でも切れないほど丈夫だ。」というのである。
その織物は初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったというのである。
まず行ってみると、ここは常陸太田市街地の東側を流れる「里川」のすぐ近くであり、川を越えてすぐのところにありました。

手前の幼稚園の裏手に公民館があり、そこに車を止めて、住宅地の間を抜けて神社の入口に到着した。
すると、左右にものすごい切りとおしがあり、その間の石段を登って行きます。

少し登って振り返るとこんな感じ。これはいつからこのような切りとおしになっているのだろう。
鎌倉にもたしかあったと思うが・・・。

切りとおしを登りきると開けた原に出て、右手に鳥居と神社が見えてくる。

なかなか古めかしい感じの神社だ。

さて、長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だというので、この風土記の記述と関係してくる。
部(べ)は長幡を織る人達という意味である。
後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社が、「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と説明書きには書かれています。
静神社は倭文(しず)織で、この長幡(ながはた)は紬の原型だと書きましたが、問題は、この長幡を伝えた先祖について、「綺日女(かむはたひめ)の命が、最初に筑紫の日向に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。後に長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。」と伝えられていることです。
日向(ひゅうが)は置いておくにしても、この美濃国の「引津根の丘」とはどこでしょうか?
調べてもあまりはっきりとすることがわからないのですが、美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社があることがわかりました。
しかし、この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれているそうです。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っているそうで、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたと思われます。
この引常明神の由来を調べると「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」と書かれていました。
この引常神社はこの南宮大社に合祀されたもので、どうも近くの何処になるのかはっきりした資料はありません。南宮大社の東側に「綾戸」「表佐(おさ)」などの地名があり、この辺りと考えられます。
昔はこの近くまで海がきていて、この辺りが少し丘になっていたので、引津根の丘と呼ばれたのでしょう。
この織物を伝えたのはどんな氏族だったのでしょうか? 興味はありますが、はっきりしませんのでまた時間を置いて調べてみたいと思います。

長幡部神社の本殿。

神社の入口に展示室?があり、中に機織りの機械などが置かれていました。
お祭りなどで披露するのでしょうか。ほこりをかぶっていますので、あまり使われてはいないようです。

この神社のすぐ近くに幼稚園があり、その裏手に公民館があります。その公民館の隣りに「機初(はたそめ)小学校跡地」の碑が置かれていました。
現在の機初小学校はこの神社から1kmくらい北に移ったようです。この地域全体が「はたそめ」と呼ばれているようです。
岐阜や愛知は機織りが盛んで、今でも多くの地名が残っています。
トヨタ自動車のある愛知県豊田市は元々の地名は「挙母(ころも)」と言う地名でした。
それが、豊田自動織機製作所ができ、その中に1933年自動車部が誕生したのですが、これが自動車の売り上げが伸び1959年に「豊田市」に名前が変わってしまったのです。
この挙母(ころも)は衣のことで「許呂母」とも書いていたようです。もともと生糸の町であったようですが、世界のトヨタに名前まで変わってしまったようです。
1000年以上前からの歴史が忘れ去られていくようですね。
この長幡部神社についても常陸太田市のホームページなどをみても扱いがほとんどなく、歴史が泣いているように思ってしまった。
これは我が石岡にも言える。残念なことだ。


於岐都説神社(行方市)
さて、今日紹介するのは、数日前に記事にした霞ケ浦の砂浜「ほほえみの丘」のすぐ近くに鎮座していた「於岐部説神社」です。
恐らく、これは街道沿いにあり、ここを通る人は車の中から一瞥することはあっても、車を止めてまでして見る価値はないと思い通り過ぎるだけだと思います。
それほど特別なものはないと思うに違いありません。
私も今までなら眼にもとめずに通り過ぎていたと思いますが、この時は何故かなんだろうと車を脇道に止めて歩いて見に行きました。
また、車を止めたので近くの浜辺「ほほえみの丘」の存在も知ったわけです。
門に掲げられた額に書かれている文字が読めずに写真だけ撮って後で調べてみました。
「於岐都説神社=おきつせじんじゃ」と読むようです。

しかし、於岐都説神社(おきつせじんじゃ)っていったって何者だという感じですが、これも調べ始めたら意外に面白いのです。
どんどん広がっていきますがイメージがまとまりません。ブログにも書ききれないようになっていきます。
そこで少しだけ内容を紹介しておきたいと思います。
「於岐都説神社」は西暦901年に成立した歴史書「三代実録」に「於岐都説神」の記述があり、この於岐都説神は今の「息栖(いきす)神社」のことだと新編常陸国誌などに記載されているといいます。
この息栖神社は「鹿島神宮」「香取神宮」と合わせて「東国三社」と言われるほど有名な神社です。
今は他の二社に比べると、交通の便も悪く訪れる人は少ないようですが、とても由緒のある神社です。

しかし、この写真の「於岐都説神社」は行方市沖洲(おきす)という場所にあります。
一方息栖神社の名前の由来は、古くは「於岐都説」(オキツセ)と書き、「沖洲の津」「沖洲瀬」の意味だったとありました。まさに沖洲ですね。

息栖神社の祭神は「岐神」(ふなどのかみ)と「鳥船命」が祀られており、私は当然海運に長けた民族が東国にわたってきた時に建てられたものだと思っていました。
これは間違ってはいないのだろうけれど、もう少し面白い事柄が出てきました。
実はこの東国三社(鹿島・香取・息栖)を結ぶと、きれいな直角三角形になり、霊的なトライアングルとしてレイライン(太陽の道)研究などの人達には有名な場所となっているのですが、これはどうやら人工的に考えて作られたようなのです。
この息栖神社は実は最初は、もう少し南東にある「日川地区」にあった神社を大同二年(807年)に遷宮されて現在地に建てられたものなのだといいます。
これは人的に位置を正確に測って(太陽の方向などで)移されたということになります。
もう一つ気になることは「常陸国の三蚕神社」の一つ「蚕霊神社」がこの神栖町日川にあることです。
そして、もう一つの三蚕神社の日立市川尻町にある「蚕養神社」はむかし「於岐都説神社」と呼ばれていたというのです。
前に紹介した筑波山麓の「蚕影神社」(こちら)を含めたこの「三蚕神社」はすべて豊浦と名前のある地にたっており、すべて金色姫伝説が伝わっているのです。
まあ、これも良く調べると「インドから豊浦の地に到着したという「金色姫伝説」の話が先にあって、これらの養蚕神社が豊浦とかかわっていて、それぞれがこの伝説を自分のところと主張していることなのかもしれません。
於岐都説(おきつせ)が養蚕に関係しているのではなく、名前の由来は川の中州のような「沖洲」に建てられた神社を呼ぶのかもしれません。
でも何処かに関係がありそうな気がしています。

東国三社と行方市沖洲の「於岐都説神社」の位置関係。
この神社のすぐ近くに「三昧塚(さんまいづか)古墳」があり、意外にこの神社も由緒のあるものかもしれないですね。
東国三社や常陸国の三蚕神社などについてはいろいろ調べたいことがたくさんあります。
時間があれば少しずつ紐解いてみたいです。
一つの何にもなさそうなことから話が広がる時はとても楽しいのですが、話が発散して、短い時間では表面的なことしか書けませんね。
でもそのうち他の記事を書いていてつながってくるかもしれないので気長に行きたいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
恐らく、これは街道沿いにあり、ここを通る人は車の中から一瞥することはあっても、車を止めてまでして見る価値はないと思い通り過ぎるだけだと思います。
それほど特別なものはないと思うに違いありません。
私も今までなら眼にもとめずに通り過ぎていたと思いますが、この時は何故かなんだろうと車を脇道に止めて歩いて見に行きました。
また、車を止めたので近くの浜辺「ほほえみの丘」の存在も知ったわけです。
門に掲げられた額に書かれている文字が読めずに写真だけ撮って後で調べてみました。
「於岐都説神社=おきつせじんじゃ」と読むようです。

しかし、於岐都説神社(おきつせじんじゃ)っていったって何者だという感じですが、これも調べ始めたら意外に面白いのです。
どんどん広がっていきますがイメージがまとまりません。ブログにも書ききれないようになっていきます。
そこで少しだけ内容を紹介しておきたいと思います。
「於岐都説神社」は西暦901年に成立した歴史書「三代実録」に「於岐都説神」の記述があり、この於岐都説神は今の「息栖(いきす)神社」のことだと新編常陸国誌などに記載されているといいます。
この息栖神社は「鹿島神宮」「香取神宮」と合わせて「東国三社」と言われるほど有名な神社です。
今は他の二社に比べると、交通の便も悪く訪れる人は少ないようですが、とても由緒のある神社です。

しかし、この写真の「於岐都説神社」は行方市沖洲(おきす)という場所にあります。
一方息栖神社の名前の由来は、古くは「於岐都説」(オキツセ)と書き、「沖洲の津」「沖洲瀬」の意味だったとありました。まさに沖洲ですね。

息栖神社の祭神は「岐神」(ふなどのかみ)と「鳥船命」が祀られており、私は当然海運に長けた民族が東国にわたってきた時に建てられたものだと思っていました。
これは間違ってはいないのだろうけれど、もう少し面白い事柄が出てきました。
実はこの東国三社(鹿島・香取・息栖)を結ぶと、きれいな直角三角形になり、霊的なトライアングルとしてレイライン(太陽の道)研究などの人達には有名な場所となっているのですが、これはどうやら人工的に考えて作られたようなのです。
この息栖神社は実は最初は、もう少し南東にある「日川地区」にあった神社を大同二年(807年)に遷宮されて現在地に建てられたものなのだといいます。
これは人的に位置を正確に測って(太陽の方向などで)移されたということになります。
もう一つ気になることは「常陸国の三蚕神社」の一つ「蚕霊神社」がこの神栖町日川にあることです。
そして、もう一つの三蚕神社の日立市川尻町にある「蚕養神社」はむかし「於岐都説神社」と呼ばれていたというのです。
前に紹介した筑波山麓の「蚕影神社」(こちら)を含めたこの「三蚕神社」はすべて豊浦と名前のある地にたっており、すべて金色姫伝説が伝わっているのです。
まあ、これも良く調べると「インドから豊浦の地に到着したという「金色姫伝説」の話が先にあって、これらの養蚕神社が豊浦とかかわっていて、それぞれがこの伝説を自分のところと主張していることなのかもしれません。
於岐都説(おきつせ)が養蚕に関係しているのではなく、名前の由来は川の中州のような「沖洲」に建てられた神社を呼ぶのかもしれません。
でも何処かに関係がありそうな気がしています。

東国三社と行方市沖洲の「於岐都説神社」の位置関係。
この神社のすぐ近くに「三昧塚(さんまいづか)古墳」があり、意外にこの神社も由緒のあるものかもしれないですね。
東国三社や常陸国の三蚕神社などについてはいろいろ調べたいことがたくさんあります。
時間があれば少しずつ紐解いてみたいです。
一つの何にもなさそうなことから話が広がる時はとても楽しいのですが、話が発散して、短い時間では表面的なことしか書けませんね。
でもそのうち他の記事を書いていてつながってくるかもしれないので気長に行きたいと思います。


ねこ神様
前に長興寺の石仏を何回かに分けて紹介しています。
その時に下の石像が何だか分からないと書いていたのですが、ある写真家の方から紹介していただきました。

「この上の猫さんは、蚕の神さまだったと思います。この像は上田から松本へ抜ける所にある修那羅峠の安宮社を開かれた行者さんと関係がある、霊浄山(更埴)にあります。江戸末ー明治のものですが」
と教えていただいた。ありがたいことだ。
これで蚕と猫の関係がわかったのである。
猫好きな方が多いので、少しわかったことを残しておこうと思います。
これは養蚕が盛んになると、各農家では蚕の卵、幼虫、繭玉などを食べてしまうネズミの被害がたくさん起こったといいます。
このため、ネコを飼い神社には「猫神」をまつり、道端などにもネズミ除けのおまじないとしておくようになったそうです。
そのため、養蚕関係の神社では狛犬に代わって猫を置いている所もあるのだそうです。
こちらに写真入りの記事がありました。
「猫 ~ ネ コ 養蚕、蚕神、保食命(ウケモチノミコト)の猫」
「霊諍山(れいしょうざん)の猫」
さて、もう一つ前から調べていて気になっていたものが解決しました。
東京立川に「蚕影神社」(阿豆佐味天神社の境内)があることは前に筑波の蚕影山神社を調べていて知ったのですが、この神社は「猫返し神社」といって、最近は猫がいなくなってしまった時に戻ってくるようにお参りする人が絶えないそうです。
ネズミを採るのも今では猫も忘れてしまっているでしょう。
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その時に下の石像が何だか分からないと書いていたのですが、ある写真家の方から紹介していただきました。

「この上の猫さんは、蚕の神さまだったと思います。この像は上田から松本へ抜ける所にある修那羅峠の安宮社を開かれた行者さんと関係がある、霊浄山(更埴)にあります。江戸末ー明治のものですが」
と教えていただいた。ありがたいことだ。
これで蚕と猫の関係がわかったのである。
猫好きな方が多いので、少しわかったことを残しておこうと思います。
これは養蚕が盛んになると、各農家では蚕の卵、幼虫、繭玉などを食べてしまうネズミの被害がたくさん起こったといいます。
このため、ネコを飼い神社には「猫神」をまつり、道端などにもネズミ除けのおまじないとしておくようになったそうです。
そのため、養蚕関係の神社では狛犬に代わって猫を置いている所もあるのだそうです。
こちらに写真入りの記事がありました。
「猫 ~ ネ コ 養蚕、蚕神、保食命(ウケモチノミコト)の猫」
「霊諍山(れいしょうざん)の猫」
さて、もう一つ前から調べていて気になっていたものが解決しました。
東京立川に「蚕影神社」(阿豆佐味天神社の境内)があることは前に筑波の蚕影山神社を調べていて知ったのですが、この神社は「猫返し神社」といって、最近は猫がいなくなってしまった時に戻ってくるようにお参りする人が絶えないそうです。
ネズミを採るのも今では猫も忘れてしまっているでしょう。


蚕養神社(日立市豊浦)
誰が何時頃から言いだしたのか「常陸国の三蚕神社」というものがあるそうだ。
今日紹介する日立市の「蚕養神社(こがいじんじゃ)」、以前紹介したつくば市の「蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)」(記事はこちらの金色姫伝説)、もう一つは神栖市の「蚕霊神社(さんれいじんじゃ)」を常陸国の三蚕神社と紹介されている。
どれもそれ程大きな神社ではない。しかし、皆古くからある神社で、創建などはよくわからない。
しかし三ヶ所すべてに、地名として豊浦と呼ばれる場所に有り、金色姫伝説の説明看板が掲げられている。
その中で、もっとも豊浦という地名が広範囲に使われ、小学校・中学校までその名前があるのはこの日立市北部の蚕養神社だけである。
どう説明して良いかわからずにいたが、訪れてみたが少しは感じるかと思ったが、なお更わからなくなってきた。
では少しずつ、写真を見ながら考えてみたい。

6号国道の左右に神社があり、道路で分断されたように見える。
そして右が蚕養神社で、左側は館山神社をはじめいくつかの古い神社の祠が連なる。
この左右の神社の氏子は共通であるようだ。

こちらが西側の館山神社と書かれた神社。上に登る石段が続く。

東側(海側)の神社が「蚕養神社」である。
入口の石柱には「蚕養浜道」と彫られていた。いまこのあたりを小貝浜といっているが、昔は蚕養浜と書いていたのだろう。
奥に見えるのは神社の拝殿ではなく、社務所だ。

社務所の脇に立てられていた看板。少し薄くなっているが、写真をクリックして拡大して頂ければ読むことができると思います。
タイトルは「日本最初 蚕養神社」となっています。
内容もどこまで理解してよいうのか全く不明。
この小貝浜の手前に「日高」という地名があり、このあたりも昔は日高見国と呼ばれていたのではないだろうか?
養蚕に関する神社は日本にたくさんあるが、ここ常陸国の神社がそれらの総本山になっているのはのは確かで、かなり古くから信仰されてきたことは間違いないだろう。

神社へはこの脇の階段を上って行く。

登ったところに、ここにも「金色姫伝説」が書かれていた。
つくば市の蚕影山神社に書かれていたものと内容も少し異なっているがインド(天竺)から船に乗ってやってくるのは皆同一である。
後から神栖市の蚕霊神社にも行ってみたが、同じ伝説の看板が掲げられていた。
調べたところこの話の出処は享和2年(1802)の「養蚕秘録(全三巻)」のなかに書かれている話が元になっているような気がする。
この書物は今の兵庫県(但馬の国)養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が18歳の時に、奥州(今の福島)で蚕種を買い求めて、研究し、蚕の起源から種類、伝説、飼育法等を絵入りで解説したもので、この伝説が載っているというのです。
上垣守国の偉業を記念して兵庫県養父郡大屋町に「上垣守国 養蚕記念館」が建てられています。
また海外でも早くから注目され、オランドやフランス、ドイツ語などに翻訳されて古くからヨーロッパに広まっていたといいます。
どうも私にはこの三ヶ所が、上垣守国が奥州に来て伝説を聞いて書物に表した金色姫のたどり着いたという「豊浦」は自分のところだと行っているように見えます。
真実はどうなのでしょうか?

蚕養神社の拝殿です。この蚕養神社は「日本最初」、つくば市神郡の蚕影山神社は「日本一社」、神栖市の蚕霊神社は「日本養蚕事始」とそれぞれにうたっています。

こちらが本殿です。少し痛みが激しくなっています。
この神社を調べていたら、ここは明治時代のはじめまでは「於岐都説(おきつせ)明神」と言われていたとありました。
常陸国風土記に出てくる於岐都説(おきつせ)神は三大実録では鹿島神宮・香取神宮と並んで東国三社の一つ「息栖神社」のことだとされています。(息栖神社はこちらを参照ください → その1、その2、その3)
この日立の蚕養神社は昔、この息栖神社から分社され於岐都説明神と言われたというのです。
実は息栖神社は大同二年(807)に神栖市日川地区から、鹿島・香取とちょうど直角三角形になるような現在の息栖の地に移されています。
そして、その日川の地にもう一つの常陸三蚕神社である「蚕霊神社」があるんです。
この日立の蚕養神社を「於岐都説明神」と呼んでいたということなら、それはもうきっと1200~1300年以上前かもしれません。
また根拠はありませんがこの常陸の三蚕神社は皆、息栖神社に関係しているのかもしれません。
特につくば市神郡の蚕影(山)神社はどのようにつながるのかはわかりません。
しかし、全国に広まっている蚕影神社の総本山であり、群馬県などには40箇所以上の蚕影神社があるといいます。
常陸国には水戸の静神社や常陸太田の長幡部神社などの機織りの神を祀る古社がありますが、それらは機織りの機械や、布を織る人たちの信仰を集めていますが、こちらの三蚕神社は織物のもととなる蚕(かいこ)育て、繭を作る人々の信仰を集めています。
そして、全国の農家で繭が作られるようになるとそこに、この三蚕神社から分霊して、養蚕の守り神としての神社が作られていったようです。
それが証拠に、全国にこの三蚕神社と同じ名前、似た名前の養蚕神社がたくさんありますがそのほとんどが、常陸国のこれらの神社から分霊されているようです。
(詳しくは調べていませんので、違っているかもしれません。)
東京都立川市の五日市街道沿いに阿豆佐味天神社の境内に「蚕影神社(こかげじんじゃ)」があります。
この神社は猫の像が飾られており、猫返し神社とも言われています。
ここにお参りすると、いなくなったペットの猫が戻ってくると言われています。
養蚕農家にとっては天敵のねずみを捕まえてくれる猫を大切にしていたのです。
しかし、この立川の蚕影神社は名前からして、恐らくつくば市の蚕影山神社から江戸時代初期に分霊されたと思いますが、常陸国の三蚕神社はどこにも猫の像などは見当たらなかったと思います。

祭神の椎産霊命(わくむすびのみこと)は穀物の生育を司る神であり、宇気母智命(うけもちのみこと)も食物全般の神で、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子で「事を知る」神様だという。
これでは息栖神社との関係は推察することはできない。
こうなると息栖神社の境内にある芭蕉の句碑
「この里は 気吹戸主の 風寒し」
の気吹戸主(いぶきとぬし)が気になってきました。
気吹戸主はいざなぎの命が黄泉の国から戻る時に、汚いものなどを洗い流して綺麗に蘇らせてくれた神様です。

神社の裏手から豊浦、川尻、日高の方面が一望できる。
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今日紹介する日立市の「蚕養神社(こがいじんじゃ)」、以前紹介したつくば市の「蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)」(記事はこちらの金色姫伝説)、もう一つは神栖市の「蚕霊神社(さんれいじんじゃ)」を常陸国の三蚕神社と紹介されている。
どれもそれ程大きな神社ではない。しかし、皆古くからある神社で、創建などはよくわからない。
しかし三ヶ所すべてに、地名として豊浦と呼ばれる場所に有り、金色姫伝説の説明看板が掲げられている。
その中で、もっとも豊浦という地名が広範囲に使われ、小学校・中学校までその名前があるのはこの日立市北部の蚕養神社だけである。
どう説明して良いかわからずにいたが、訪れてみたが少しは感じるかと思ったが、なお更わからなくなってきた。
では少しずつ、写真を見ながら考えてみたい。

6号国道の左右に神社があり、道路で分断されたように見える。
そして右が蚕養神社で、左側は館山神社をはじめいくつかの古い神社の祠が連なる。
この左右の神社の氏子は共通であるようだ。

こちらが西側の館山神社と書かれた神社。上に登る石段が続く。

東側(海側)の神社が「蚕養神社」である。
入口の石柱には「蚕養浜道」と彫られていた。いまこのあたりを小貝浜といっているが、昔は蚕養浜と書いていたのだろう。
奥に見えるのは神社の拝殿ではなく、社務所だ。

社務所の脇に立てられていた看板。少し薄くなっているが、写真をクリックして拡大して頂ければ読むことができると思います。
タイトルは「日本最初 蚕養神社」となっています。
内容もどこまで理解してよいうのか全く不明。
この小貝浜の手前に「日高」という地名があり、このあたりも昔は日高見国と呼ばれていたのではないだろうか?
養蚕に関する神社は日本にたくさんあるが、ここ常陸国の神社がそれらの総本山になっているのはのは確かで、かなり古くから信仰されてきたことは間違いないだろう。

神社へはこの脇の階段を上って行く。

登ったところに、ここにも「金色姫伝説」が書かれていた。
つくば市の蚕影山神社に書かれていたものと内容も少し異なっているがインド(天竺)から船に乗ってやってくるのは皆同一である。
後から神栖市の蚕霊神社にも行ってみたが、同じ伝説の看板が掲げられていた。
調べたところこの話の出処は享和2年(1802)の「養蚕秘録(全三巻)」のなかに書かれている話が元になっているような気がする。
この書物は今の兵庫県(但馬の国)養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が18歳の時に、奥州(今の福島)で蚕種を買い求めて、研究し、蚕の起源から種類、伝説、飼育法等を絵入りで解説したもので、この伝説が載っているというのです。
上垣守国の偉業を記念して兵庫県養父郡大屋町に「上垣守国 養蚕記念館」が建てられています。
また海外でも早くから注目され、オランドやフランス、ドイツ語などに翻訳されて古くからヨーロッパに広まっていたといいます。
どうも私にはこの三ヶ所が、上垣守国が奥州に来て伝説を聞いて書物に表した金色姫のたどり着いたという「豊浦」は自分のところだと行っているように見えます。
真実はどうなのでしょうか?

蚕養神社の拝殿です。この蚕養神社は「日本最初」、つくば市神郡の蚕影山神社は「日本一社」、神栖市の蚕霊神社は「日本養蚕事始」とそれぞれにうたっています。

こちらが本殿です。少し痛みが激しくなっています。
この神社を調べていたら、ここは明治時代のはじめまでは「於岐都説(おきつせ)明神」と言われていたとありました。
常陸国風土記に出てくる於岐都説(おきつせ)神は三大実録では鹿島神宮・香取神宮と並んで東国三社の一つ「息栖神社」のことだとされています。(息栖神社はこちらを参照ください → その1、その2、その3)
この日立の蚕養神社は昔、この息栖神社から分社され於岐都説明神と言われたというのです。
実は息栖神社は大同二年(807)に神栖市日川地区から、鹿島・香取とちょうど直角三角形になるような現在の息栖の地に移されています。
そして、その日川の地にもう一つの常陸三蚕神社である「蚕霊神社」があるんです。
この日立の蚕養神社を「於岐都説明神」と呼んでいたということなら、それはもうきっと1200~1300年以上前かもしれません。
また根拠はありませんがこの常陸の三蚕神社は皆、息栖神社に関係しているのかもしれません。
特につくば市神郡の蚕影(山)神社はどのようにつながるのかはわかりません。
しかし、全国に広まっている蚕影神社の総本山であり、群馬県などには40箇所以上の蚕影神社があるといいます。
常陸国には水戸の静神社や常陸太田の長幡部神社などの機織りの神を祀る古社がありますが、それらは機織りの機械や、布を織る人たちの信仰を集めていますが、こちらの三蚕神社は織物のもととなる蚕(かいこ)育て、繭を作る人々の信仰を集めています。
そして、全国の農家で繭が作られるようになるとそこに、この三蚕神社から分霊して、養蚕の守り神としての神社が作られていったようです。
それが証拠に、全国にこの三蚕神社と同じ名前、似た名前の養蚕神社がたくさんありますがそのほとんどが、常陸国のこれらの神社から分霊されているようです。
(詳しくは調べていませんので、違っているかもしれません。)
東京都立川市の五日市街道沿いに阿豆佐味天神社の境内に「蚕影神社(こかげじんじゃ)」があります。
この神社は猫の像が飾られており、猫返し神社とも言われています。
ここにお参りすると、いなくなったペットの猫が戻ってくると言われています。
養蚕農家にとっては天敵のねずみを捕まえてくれる猫を大切にしていたのです。
しかし、この立川の蚕影神社は名前からして、恐らくつくば市の蚕影山神社から江戸時代初期に分霊されたと思いますが、常陸国の三蚕神社はどこにも猫の像などは見当たらなかったと思います。

祭神の椎産霊命(わくむすびのみこと)は穀物の生育を司る神であり、宇気母智命(うけもちのみこと)も食物全般の神で、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子で「事を知る」神様だという。
これでは息栖神社との関係は推察することはできない。
こうなると息栖神社の境内にある芭蕉の句碑
「この里は 気吹戸主の 風寒し」
の気吹戸主(いぶきとぬし)が気になってきました。
気吹戸主はいざなぎの命が黄泉の国から戻る時に、汚いものなどを洗い流して綺麗に蘇らせてくれた神様です。

神社の裏手から豊浦、川尻、日高の方面が一望できる。


蚕養神社(2)_館山神社(日立市川尻)
6号国道の日立市の旧十王町に入る堺にこんもりとした小山があり、この山を一部削り取って6号国道の建設がされたと思われる。
国道は坂をゆっくり登ってゆくが、右手(東)に昨日紹介した蚕養神社(こがいじんじゃ)と小貝浜緑地が広がり、左手(西)に館山神社の看板が見える。
蚕養神社側に神社の社務所があるが、これは館山神社の社務所でもあるようだ。
道路の両側の神社は一体に維持管理されていると思われます。
蚕養神社を見に来たついでに立ち寄ってみたのだが、結構興味を持つ事柄があった。

この館山神社だが、戦国時代?に館山館という城があった場所らしい。
6号国道で山が削られてしまったので、城がどの程度のものかはよくわからない。
すぐ裏手が豊浦中学校があり、この学校あたりが城の遺構なのかもしれない。
上の写真の右側階段の上に館山神社があり、左手の半分位の長さの階段上には白山神社という境内社が祀られている。その他にいくつか境内社がみられる。

館山神社の入口鳥居の階段入口に昭和3年作られた狛犬が置かれています。
なかなか特徴のある顔ですね。

館山神社の拝殿です。 素朴な造りです。

館山神社本殿です。

拝殿前に置かれた狛犬です。こちらは昭和14年製だといいます。

白山神社です。こちらは館山神社の上り階段の途中からも行けるように、館山神社の境内社となっています。
こじんまりした祠ですが、この神社を調べてみると、意外に面白いのです。
この白山神社は文明年間(1472)に俊意法印によって勧請されたもののようです。
そして、日立市川尻町に伝わるむかしばなし「伊福部岳の雷神」の話(茨城いすゞのいばらきの昔ばなし→ こちら)話に関係していたのです。
この川尻町に伝わる「この地方で雉を食べなくなった」話は、この白山神社が「お雉さま」として祭られてきたことによります。
この話は常陸国風土記の逸文に出てくる伊福部山の話しと同じである。
概略は
妹が伊福部の神(雷)に殺されたので、兄は仇を討とうとする。しかしその居場所がわからない。
するとそこに、一羽の雌雉が飛んできて、肩にとまります。
兄は麻糸を巻いた積麻(へそ)の端を雉の尾につけたところ、雉は飛んで伊福部の岳に飛んでいきます。
兄が積麻をたどっていくと、雷が寝ている石屋にたどり着きます。
この雷が妹の敵と悟った兄は太刀を抜いて雷を斬ろうとします。
しかし、雷は命乞いをします。
「もし助けてくれれば百年後まで子孫に落雷のおそれがないようにします。でももしこれに反したら病気になり不幸が訪れるでしょう」と言うのです。
兄は雷を許してやり、それからこの地方では雉を大切にして雉を食べないようになったと言うのである。
この伊福部の神の話は、どこの場所であるかは定説はありません。
その候補として、「八瓶山」、石岡市(旧八郷町)上曽(葺山?、きのこ山)、旧十王町伊師浜に天然記念物のいぶき山イブキ樹叢がありこれを伊福部山とする説などがあるという。
この川尻にある白山神社は最後の伊師浜のすぐ手前である。
一方クレフシ山も今では水戸市の朝房山と定着しつつあるようだが、私のいる石岡の龍神山もその話がある。
山も市が民間(砕石業者)に売り払ってしまったのでは、いくら主張しても虚しくなるだけである。




豊浦中学校がすぐ裏手(高台)にあります。

さて蚕養神社としてはここ以外にたくさんあるのでしょうが、会津若松にある「蚕養國神社」は大きさでも有名ですね。
会津の神社は「日本一社」をうたっています。日立の神社は「日本最初」です。
日本一社を歌っているのはつくば市神郡にある蚕影山神社ですね。
今日は節分ですね。昔は年越しの行事(旧暦)だったらしいですね。
恵方巻も関東でもすっかり定着してしまったみたいですね。
どこに行ってもたくさん売っていましたし、飛ぶように売れていました。
大阪人はきっと商売上手なのでしょうね。
私には何が何だかわからないけど縁起物ということでこれからお付き合いでいただきます。
え~と 南南東を向いて・・・。
← よろしければクリックお願いします。
国道は坂をゆっくり登ってゆくが、右手(東)に昨日紹介した蚕養神社(こがいじんじゃ)と小貝浜緑地が広がり、左手(西)に館山神社の看板が見える。
蚕養神社側に神社の社務所があるが、これは館山神社の社務所でもあるようだ。
道路の両側の神社は一体に維持管理されていると思われます。
蚕養神社を見に来たついでに立ち寄ってみたのだが、結構興味を持つ事柄があった。

この館山神社だが、戦国時代?に館山館という城があった場所らしい。
6号国道で山が削られてしまったので、城がどの程度のものかはよくわからない。
すぐ裏手が豊浦中学校があり、この学校あたりが城の遺構なのかもしれない。
上の写真の右側階段の上に館山神社があり、左手の半分位の長さの階段上には白山神社という境内社が祀られている。その他にいくつか境内社がみられる。


館山神社の入口鳥居の階段入口に昭和3年作られた狛犬が置かれています。
なかなか特徴のある顔ですね。

館山神社の拝殿です。 素朴な造りです。

館山神社本殿です。


拝殿前に置かれた狛犬です。こちらは昭和14年製だといいます。

白山神社です。こちらは館山神社の上り階段の途中からも行けるように、館山神社の境内社となっています。
こじんまりした祠ですが、この神社を調べてみると、意外に面白いのです。
この白山神社は文明年間(1472)に俊意法印によって勧請されたもののようです。
そして、日立市川尻町に伝わるむかしばなし「伊福部岳の雷神」の話(茨城いすゞのいばらきの昔ばなし→ こちら)話に関係していたのです。
この川尻町に伝わる「この地方で雉を食べなくなった」話は、この白山神社が「お雉さま」として祭られてきたことによります。
この話は常陸国風土記の逸文に出てくる伊福部山の話しと同じである。
概略は
妹が伊福部の神(雷)に殺されたので、兄は仇を討とうとする。しかしその居場所がわからない。
するとそこに、一羽の雌雉が飛んできて、肩にとまります。
兄は麻糸を巻いた積麻(へそ)の端を雉の尾につけたところ、雉は飛んで伊福部の岳に飛んでいきます。
兄が積麻をたどっていくと、雷が寝ている石屋にたどり着きます。
この雷が妹の敵と悟った兄は太刀を抜いて雷を斬ろうとします。
しかし、雷は命乞いをします。
「もし助けてくれれば百年後まで子孫に落雷のおそれがないようにします。でももしこれに反したら病気になり不幸が訪れるでしょう」と言うのです。
兄は雷を許してやり、それからこの地方では雉を大切にして雉を食べないようになったと言うのである。
この伊福部の神の話は、どこの場所であるかは定説はありません。
その候補として、「八瓶山」、石岡市(旧八郷町)上曽(葺山?、きのこ山)、旧十王町伊師浜に天然記念物のいぶき山イブキ樹叢がありこれを伊福部山とする説などがあるという。
この川尻にある白山神社は最後の伊師浜のすぐ手前である。
一方クレフシ山も今では水戸市の朝房山と定着しつつあるようだが、私のいる石岡の龍神山もその話がある。
山も市が民間(砕石業者)に売り払ってしまったのでは、いくら主張しても虚しくなるだけである。




豊浦中学校がすぐ裏手(高台)にあります。

さて蚕養神社としてはここ以外にたくさんあるのでしょうが、会津若松にある「蚕養國神社」は大きさでも有名ですね。
会津の神社は「日本一社」をうたっています。日立の神社は「日本最初」です。
日本一社を歌っているのはつくば市神郡にある蚕影山神社ですね。
今日は節分ですね。昔は年越しの行事(旧暦)だったらしいですね。
恵方巻も関東でもすっかり定着してしまったみたいですね。
どこに行ってもたくさん売っていましたし、飛ぶように売れていました。
大阪人はきっと商売上手なのでしょうね。
私には何が何だかわからないけど縁起物ということでこれからお付き合いでいただきます。
え~と 南南東を向いて・・・。


蚕霊神社(神栖市)
つくば市神郡の蚕影山神社と日立市川尻の蚕養神社と並んで常陸国の三蚕神社である神栖市日川にある蚕霊神社(これいじんじゃ)に行ってみました。
日立市の蚕養神社が東国三社の一つ「息栖神社」から分霊されたようだと2~3日前に書きました。
この息栖神社も大同二年(807)に神栖市日川地区から現在地に移されています。(これは前に書いた)
この神栖市日川にある蚕霊神社がある場所は、国道260の常陸利根川沿いの利根川との合流点に近く、こんもりした木々が生い茂っている場所だが、ほぼ低地にある。
他の蚕神社と少し趣が違う。
息栖神社があった日川の場所も近いのだろうか?範囲が広いのでどの辺りかはわからない。

街道からの入口に看板もないので少しわかりづらいが、木が茂っている場所なので見当をつけて行けばたどり着ける。
それ程大きな神社ではないが、木々に囲まれひっそり佇んでいた。
境内はちょうど箒ではいている女性がおられたが、神社の近くに住んでおられて、神社を管理されているようだ。

入口には神社の由来として例の金色姫伝説が書かれていた。

鳥居をくぐると神社の拝殿が見えますが、この赤い色は目立ちますね。
狛犬なども比較的新しそうです。

拝殿の壁と屋根の裏側の色は皆赤です。

奥にある本殿です。 脇を囲っているのであまり中を覗うことができません。

ぐるりととりかこんでいます。でも反対側に回ると本殿に入る口がありました。

拝殿と本殿をつなぐ廊下の屋根下から本殿もみな赤が目立ちます。
彫刻の彩色も綺麗です。

この色合いは昔からなのでしょうか? それとも途中でこのように変えたのだろうか?


この神社についてはまた調べているうちに何かわかってくるかもしれない。
全国に蚕霊神社はたくさんあるようだが、「これいじんじゃ」とは言わず、「こだまじんじゃ」というところが多いように思う。
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日立市の蚕養神社が東国三社の一つ「息栖神社」から分霊されたようだと2~3日前に書きました。
この息栖神社も大同二年(807)に神栖市日川地区から現在地に移されています。(これは前に書いた)
この神栖市日川にある蚕霊神社がある場所は、国道260の常陸利根川沿いの利根川との合流点に近く、こんもりした木々が生い茂っている場所だが、ほぼ低地にある。
他の蚕神社と少し趣が違う。
息栖神社があった日川の場所も近いのだろうか?範囲が広いのでどの辺りかはわからない。

街道からの入口に看板もないので少しわかりづらいが、木が茂っている場所なので見当をつけて行けばたどり着ける。
それ程大きな神社ではないが、木々に囲まれひっそり佇んでいた。
境内はちょうど箒ではいている女性がおられたが、神社の近くに住んでおられて、神社を管理されているようだ。

入口には神社の由来として例の金色姫伝説が書かれていた。

鳥居をくぐると神社の拝殿が見えますが、この赤い色は目立ちますね。
狛犬なども比較的新しそうです。

拝殿の壁と屋根の裏側の色は皆赤です。

奥にある本殿です。 脇を囲っているのであまり中を覗うことができません。

ぐるりととりかこんでいます。でも反対側に回ると本殿に入る口がありました。

拝殿と本殿をつなぐ廊下の屋根下から本殿もみな赤が目立ちます。
彫刻の彩色も綺麗です。

この色合いは昔からなのでしょうか? それとも途中でこのように変えたのだろうか?


この神社についてはまた調べているうちに何かわかってくるかもしれない。
全国に蚕霊神社はたくさんあるようだが、「これいじんじゃ」とは言わず、「こだまじんじゃ」というところが多いように思う。


蚕霊山星福寺(神栖市)
神栖町日川の蚕霊神社(これいじんじゃ)の参道を手前に延長していくと200mくらい離れたところに「星福寺」がある。この寺の正式な名称は「真言宗智山派蚕霊山千手院星福寺」となっています。
この寺のとなりに大きな保育園があり、寺が経営していると思われます。

寺の入口の山門や石柱も比較的に最近立て直したものでしょうか。新しくてきれいです。
この寺がどのように蚕霊神社と関わっているのか、寺を見ただけではわかりませんでした。
でも位置関係から見ても 名前に蚕霊山と付けているところからもこの寺と蚕霊神社は昔一体だったと思われます。

こちらが本堂です。
向かって左側に立つ像は「南無大師遍照金剛」ですので弘法大師さんです。

寺の境内に墓地がありますが、この入口に近いところに古びた五輪塔や墓石が集まった墓所がありました。
お墓そのものの写真はあまり載せるのは控えたいのですが、恐らくここはこの寺の住職の歴代の墓だと思われます。
実はこの寺を蚕霊神社の関連した場所として紹介しようと思ったのは、南総里見八犬伝を書いた滝沢馬琴がこの寺を調査していた記録があるのです。
何故調べたのかというとこの寺に蚕霊尊があり、この像が各地に巡行されて各地で蚕産業が奨励されていたタメもあり、多くの地方の「お蚕様」信仰につながっているようなのです。
これはつくば市蚕影(山)神社にもにたような話があり、全国の蚕影神社が分社として建てられたということのようです。
確かに全国を調べると「蚕影神社」はたくさん有り、その総本山がつくば市神郡の蚕影山神社となっています。
しかし、こちらの蚕霊(これい)神社と同じ名前「蚕霊(こだま)神社」なども確かにありますが、それよりも富岡製糸などで有名な群馬県の蚕神社は、蚕影神社が40箇所以上あり、それより少ないけれど同じくらい「絹笠神社」があるのですが、この絹笠神の出処が不明でよくわからないらしいのですが、それがこちらの蚕霊神ではないかということらしいです。
この寺にあるという蚕霊尊はこの寺に現在あるという「馬鳴菩薩」のことだと言われています。
養蚕が各地で行われるようになったのは江戸時代で、西暦1800年代初めの頃からのようです。
馬琴が里見八犬伝を書いたのは1814年~1842年の28年間書き続けてものだといいますのですごいですね。
結果的にはこの書いているあいだに全国に養蚕は広まっていた時期でもあったようです。

山門を潜ったところに置かれていた石像たち

こちらは見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が彫られています。
きっと「庚申塔」ですね。かなり古そうです。
人間の体内にいると信じられていた「三尸(さんし)」(三虫)。
今でも60日に1度の庚申の日に体を抜け出しその人の悪い行いを天帝に報告されているのでしょうか。

これは山門の入口に置かれていました。
五輪塔のようでもありましたが、真ん中の丸い石版は時計の文字盤や方位盤のようにも見えました。
少し変わっているので写真に残しておきました。
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この寺のとなりに大きな保育園があり、寺が経営していると思われます。

寺の入口の山門や石柱も比較的に最近立て直したものでしょうか。新しくてきれいです。
この寺がどのように蚕霊神社と関わっているのか、寺を見ただけではわかりませんでした。
でも位置関係から見ても 名前に蚕霊山と付けているところからもこの寺と蚕霊神社は昔一体だったと思われます。

こちらが本堂です。
向かって左側に立つ像は「南無大師遍照金剛」ですので弘法大師さんです。

寺の境内に墓地がありますが、この入口に近いところに古びた五輪塔や墓石が集まった墓所がありました。
お墓そのものの写真はあまり載せるのは控えたいのですが、恐らくここはこの寺の住職の歴代の墓だと思われます。
実はこの寺を蚕霊神社の関連した場所として紹介しようと思ったのは、南総里見八犬伝を書いた滝沢馬琴がこの寺を調査していた記録があるのです。
何故調べたのかというとこの寺に蚕霊尊があり、この像が各地に巡行されて各地で蚕産業が奨励されていたタメもあり、多くの地方の「お蚕様」信仰につながっているようなのです。
これはつくば市蚕影(山)神社にもにたような話があり、全国の蚕影神社が分社として建てられたということのようです。
確かに全国を調べると「蚕影神社」はたくさん有り、その総本山がつくば市神郡の蚕影山神社となっています。
しかし、こちらの蚕霊(これい)神社と同じ名前「蚕霊(こだま)神社」なども確かにありますが、それよりも富岡製糸などで有名な群馬県の蚕神社は、蚕影神社が40箇所以上あり、それより少ないけれど同じくらい「絹笠神社」があるのですが、この絹笠神の出処が不明でよくわからないらしいのですが、それがこちらの蚕霊神ではないかということらしいです。
この寺にあるという蚕霊尊はこの寺に現在あるという「馬鳴菩薩」のことだと言われています。
養蚕が各地で行われるようになったのは江戸時代で、西暦1800年代初めの頃からのようです。
馬琴が里見八犬伝を書いたのは1814年~1842年の28年間書き続けてものだといいますのですごいですね。
結果的にはこの書いているあいだに全国に養蚕は広まっていた時期でもあったようです。

山門を潜ったところに置かれていた石像たち

こちらは見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が彫られています。
きっと「庚申塔」ですね。かなり古そうです。
人間の体内にいると信じられていた「三尸(さんし)」(三虫)。
今でも60日に1度の庚申の日に体を抜け出しその人の悪い行いを天帝に報告されているのでしょうか。

これは山門の入口に置かれていました。
五輪塔のようでもありましたが、真ん中の丸い石版は時計の文字盤や方位盤のようにも見えました。
少し変わっているので写真に残しておきました。


大桑神社(結城市)-阿波忌部(斎部)が伝えた養蚕の神
過去のブログ記事などをまとめていて、やはり含めておかなければならないのに訪れていないところなども少しずつ出かけています。
この結城市にある大桑神社もその一つです。
この神社は結城市の小森という場所にあります。
鬼怒川に近いため今回この川の上の橋も走ったのですが、もうすでに水量は普段に戻っていました。
しかし広い河原の草木は皆茶色に染まっていました。
何度も今までにもこの近くでは洪水があったようです。
今回紹介する大桑神社も最初は阿波忌部(斎部)(あわいんべ)が大水河原に建てたそうです。
しかし、この大水河原の地名も何時ついたものかは知りませんが、文明11年(1479)に洪水で流されてしまい、現在の地(結城市小森」に移ったと伝わっています。
今の住所ではこの大水河原という地名は出てきませんが、小森の1kmほど北の旧国道50号線の辺りで、田川という川が近くを流れてます。
昔はこの辺りも川が氾濫したりしたのでしょう。
小森の名の由来も「蚕守」からきたという説が有力ですが、中世に結城氏がこの辺りに兵を篭らせたことから「篭(こもり)」となったともいわれます。
この辺り一帯は大昔から「大桑郷(おおくわのさと)」と呼ばれていたようです。
しかし鬼怒川が衣川、小貝川が蚕飼川の名前から来ているとする考え方がありますので、この神社の創建などを考えると養蚕に関係が深いと考えてもよさそうです。

街道のすぐ横に神社があります。
ここが阿波斎部が養蚕を伝えた神社かと思うと少し物足りない気はします。
境内には樹齢350年以上と言われる欅の大木があります。(市指定天然記念物)

この神社が何時頃創建されたかがはっきりしません。
祭神は稚産霊尊(わかむすびのみこと)で、火の神と土の神の間に生まれた子で、頭に蚕と桑が,臍(へそ)の中に五穀が生じたということで養蚕と農業の神とされます。
結城と言えば「結城紬」が有名ですが、この養蚕が盛んであったことが紬産業につながっていったのでしょう。



立派な社殿の裏に覆われたように本殿があります。
少し囲われてしまって良く見えません。
この本殿は享保7年(1722)に建てられたもので今は銅版葺き屋根ですが当初は桧皮葺だったそうです。1848年に銅板葺に変えられた記録が残っています。
彫刻は東西二面が中国の故事、北面は日本神話(天岩戸)を題材とした彫刻が施されています。
本殿は市指定文化財です。
この結城市にある大桑神社もその一つです。
この神社は結城市の小森という場所にあります。
鬼怒川に近いため今回この川の上の橋も走ったのですが、もうすでに水量は普段に戻っていました。
しかし広い河原の草木は皆茶色に染まっていました。
何度も今までにもこの近くでは洪水があったようです。
今回紹介する大桑神社も最初は阿波忌部(斎部)(あわいんべ)が大水河原に建てたそうです。
しかし、この大水河原の地名も何時ついたものかは知りませんが、文明11年(1479)に洪水で流されてしまい、現在の地(結城市小森」に移ったと伝わっています。
今の住所ではこの大水河原という地名は出てきませんが、小森の1kmほど北の旧国道50号線の辺りで、田川という川が近くを流れてます。
昔はこの辺りも川が氾濫したりしたのでしょう。
小森の名の由来も「蚕守」からきたという説が有力ですが、中世に結城氏がこの辺りに兵を篭らせたことから「篭(こもり)」となったともいわれます。
この辺り一帯は大昔から「大桑郷(おおくわのさと)」と呼ばれていたようです。
しかし鬼怒川が衣川、小貝川が蚕飼川の名前から来ているとする考え方がありますので、この神社の創建などを考えると養蚕に関係が深いと考えてもよさそうです。

街道のすぐ横に神社があります。
ここが阿波斎部が養蚕を伝えた神社かと思うと少し物足りない気はします。
境内には樹齢350年以上と言われる欅の大木があります。(市指定天然記念物)

この神社が何時頃創建されたかがはっきりしません。
祭神は稚産霊尊(わかむすびのみこと)で、火の神と土の神の間に生まれた子で、頭に蚕と桑が,臍(へそ)の中に五穀が生じたということで養蚕と農業の神とされます。
結城と言えば「結城紬」が有名ですが、この養蚕が盛んであったことが紬産業につながっていったのでしょう。



立派な社殿の裏に覆われたように本殿があります。
少し囲われてしまって良く見えません。
この本殿は享保7年(1722)に建てられたもので今は銅版葺き屋根ですが当初は桧皮葺だったそうです。1848年に銅板葺に変えられた記録が残っています。
彫刻は東西二面が中国の故事、北面は日本神話(天岩戸)を題材とした彫刻が施されています。
本殿は市指定文化財です。
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