縄文時代を貝塚に見てみました。

 今日は霞ケ浦の古代縄文時代の生活の跡を国指定史跡である「陸平(おかだいら)貝塚」(美浦村)へ見学に行ってきました。ここは考古学のルーツともいわれるほどその方面では有名な場所です。陸平というだけあり、丘になって霞ケ浦までの距離も近いですが昔は霞ケ浦も海水であり5000年前は今より2~4m水面が高かったといわれ、この辺で海に接していたと思われます。暑い夏の日差しが注ぎ、貝塚に向かう木々の中はツクツクボウシの大合唱でした。運よく地元の協力による発掘調査(小規模ですが)の最中で、地元の小学生も手伝い貝や土器の破片を選別していました。
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陸平は明治のころは岡平と称されていたという。いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されているのです。こんなに長い間人が住んでいたのです。大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。
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住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いです。
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今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。
陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。

阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/29 17:21

陸平貝塚(1) - 縄文の丘に吹く風にのって

 今日は久しぶりに晴れて、山もくっきりと見えました。
雪も心配しましたが全く問題なしでした。

 先週、美浦村の「陸平(おかだいら)文化財センター」で行われた「縄文の森コンサート」を見に行った時に時間があったので、貝塚公園内をのんびり1時間ほど散策をしました。
ここは、昨年夏の終わりに一度訪れたことがあるのですが、その時は貝塚の発掘調査を地元の子供たちを交えて行なっていましたが、この日はまだコンサートの始まりには大分時間があったせいか、広い公園の中は誰もいないでひっそりとしていました。

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貝塚はこの広い広場の台地の端部を削れば見ることはできますが、一般の人はもちろん採掘はできません。
まだ定期的に調査を行なっていますので、その時を確認して見学ができるかを訪ねる必要があります。
貝塚がすぐに見られるような場所もあればうれしいのですが・・・。
昨夏に見学した時は貝殻がびっしりでした。

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前に来た時には行かなかったところと思って、文化財センターのところから東側の道を散策してみました。
植物や動物なども、冬場は何もありません。しかし縄文の丘を渡る風が気持ち良く吹いていました。

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丘の先の方の坂を下りると「ブクブク水」という湧水があります。

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公園のはずれに地元も方たちが再現した縄文時代の家があります。この建設時の説明があり、ここ陸平の地元ボランティアなどの活動を知ることができました。とてもうれしくなりました。
詳細はまた明日書きますね。
 

阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/13 17:25

陸平貝塚(2) - 地元の活動について

 今日は一日小雨交じりの寒い日になりました。昨日は朝車のガラスはすっかり氷ついていましたが、昼間は温かく気持ちが良かったのですが、今夜はまた雪の予報が出ています。
 一部で咲き始めた梅もこれではまたつぼみを閉じてしまうかもしれません。
 さて、今回のテーマは昨日の「陸平貝塚」の続きです。
「ことば座」が招待された「縄文の森コンサート」は「陸平をヨイショする会」の主催ですが、この会は、陸平(おかだいら)貝塚をヨイショすることを目的に、平成7年3月に結成されたボランティアの会です。
村の住民が一体になって活動している素晴らしいグループだと思いました。
茨城県も村はここ美浦村と東海村の二か所だけになりましたが、共に独自の考え方で行政を推進している地域です。小さいけれど皆が一緒になってこのような地域をヨイショできるのは本当にうらやましいことです。

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昨年8月末に訪れた時に、丁度発掘調査が行われていました。規模は小さかったのですが、文化財センターの所に貼られたチラシによると、「規模は小さいけれどが地元参加の発掘調査・・・」と書かれていました。

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この夏の日の発掘調査は、4~5人の小学生くらいの子供に、発掘調査員が数人、また補助の方が数人でした。

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子供たちも暑い日差しの中、根気よく黙々と掘りだした貝殻の区分け作業を手伝っていました。
このようなことに子供時代参加できることはとても大切なことです。
地元に対する愛着も増し、この場所を大切にしていってくれることでしょう。

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広場の外れにある縄文時代の小屋の再現にも地元ボランティアや子供たちが共同で作ったものだということを知りました。

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小屋の内部です。この小屋は地元の方が昔を再現するために石斧をつくり、それを使ってクリの木を伐採し、桑の皮を使って縄をつくり、復元の設計もすべて自分たちで行ったものだそうです。
2年かかって、子供たちも手伝って平成15年に完成させました。
昨年夏に訪れた時にはこの木の伐採作業をされた方が、小屋の草取りや整備をされていました。
本当に感心しました。「フレ~、フレ~ ヨイショ・ヨイショ・ヨイショの会」(^。^)~

 それから、今回陸平文化財センターの入口に「正調俚謡(りよう)」(日和吟社)の発祥の地なる立派な碑文が作られていました。
「都々逸」と似ているのかもしれませんね。それなら石岡も大いに関係しますね。
なにしろ都々逸の創始者「都々逸扇歌」の墓があるのですから・・・・。

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阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/14 18:58

陸平貝塚(3) - 大宮神社

陸平貝塚台地の先端部分に大宮神社という古い神社が建っています。
縄文小屋の所から隣りのゴルフ場との境を奥に進んだところに杉並木の参道が続き、その先に鳥居が建っています。

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 この陸平台地には昔、城館砦があったと考えられており、この大宮神社は、その中心地にあったものと考えられます。大宮神社の由緒書では、白鳳元年(650)に伊勢にあった社を遷したものであるといいます。

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本殿の妻飾り等は、下の説明板にありますが、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作と考えられているそうです。

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<現地の案内板より>
大宮神社
 大宮神社は、旧信太庄安中二十四ヶ村の総鎮守で、御祭神は天照皇大神、日本武尊、天太玉命の三柱が祀られています。
 伝承としては白雉元(650)年の創立を伝え、生田長者満盛が氏神として創建し、伊勢大社の分霊を奉斎したこと、その後奈良時代に、その姓名が安中という地名の由来になったとも言われる安倍仲成が、朝廷の勅許を得て正式に勧請し、安中二十四ヶ村の総鎮守になったことなどが伝えられています。
 記録によると、天承二(1575)年と、元禄四(1691)年に社殿の再建が行なわれています。その後、大正九(1920)年の台風により社殿が倒壊したため、翌十年に再建されていますが、現在でも古材を含め再建前の旧状をよく留めているといわれます。現存の本殿は桁行三間、梁間三間の本体に回縁が設けられた規模の大きなもので、村内最大を誇ります。特に本殿の妻飾りは独創的なもので虹梁の唐草分文や頭貫木鼻・組物の拳鼻などの彫刻は、元禄時代特有のものです。このような建築細部の様式から、江戸時代に常陸国を中心に活動し、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作事によると考えられています。
 平成十三年三月
 美浦村教育委員会


 誰もいないひっそりとした境内には、昔からここの生活を見てきたであろう白梅の花が美しく、つつましやかに輝きをはなっていました。

さて、Wikipediaによれば「大宮」という語は神社を敬っていう言い方の一つで、氏子などから「大宮」と呼ばれていた神社が、それに「神社」をつけて社名としたものなどである。となっており、全国各地に大きなものも小さなものも数多く存在します。
地元で長く慕われてきたものでしょう。
ところで、この美浦村には黒坂命(くろさかのみこと)の墓と言われる古墳があります(美浦村大塚の弁天塚古墳)。蝦夷征伐のために、大和政権からやってきた黒坂命はこの地を通って石岡を通り、日立の先の十王町にある黒前山のあたりで亡くなったとされますが、生前に気にいっていたこの美浦の地に遺体を運んで埋葬したといわれるものです。
真偽のほどはわかりませんが、この地が気にいっていたというのはわかるような気がします。
この信太(しだ)とよばれる地はこの遺体を運ぶ列の飾りには五彩の旗がひるがえり、その様子から「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後に「垂(しで)の国」から「信太の国」となったといわれています。

 さて、縄文人がこの蝦夷人の祖先とすれば、黒坂命は住居をうばった敵の大将ということですから、考えると複雑な思いですね。陸平のすぐ近くに「牛込」という地名があり、ここから霞ケ浦(昔は海水が来ていた内海)を舟で対岸の「牛渡」辺りに渡っていたとすれば、当時常陸国を平定したといっても、安定した地はまだこの辺りまでだったのかもしれません。

私は学校での歴史という教科はあまり好きではありませんでした。
特に日本史は名前や年号を覚えるのが苦手で、事柄をただ覚えて、それをテストされて苦痛でもありました。
どこか教育が間違っているのではないでしょうか。暗記の苦手なものにはもっと違った面白い事柄を発掘する楽しみを与えてほしかったと今頃になって思うものです。

学者が論文を書こうとすれば、裏付けとなる資料を探し、考察を重ねてまとめなければなりません。一つのことを細かく追及するのでしょう。そしてそれが認められれば「○○説」なるものが大切にされていきます。しかし、文字のない時代は考古学でしかそれを証明したりすることができないのです。
その他に「民俗学」があります。しかし全ての人が学者になるわけではないので、学問はもっと楽しいことを想像したり、考えたりするプロセスが大切なように思います。
子供たちに考えるために必要な引き出しを持つことをたくさん教えてほしいのです。
歴史が政治に利用されるのはどこの国でも同じですが、引き出しを多く持っていれば違った考えも受け入れて自分なりの考えも出来てくると思います。 
 

阿見・美浦・稲敷 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/02/15 18:48

古渡の湖畔

グラミー賞の4部門に日本人のアーチストが選ばれたとニュースで言っていた。
日本では名前も有名ではないアーチストがその評価をアメリカで得たことになる。
アメリカは歴史では日本に比べ浅いが芸術や文化の成熟度がまったく違っている。
どこに原因があるのだろうか・・・・。考えても答えがないので、今日の話題に移ることにします。

 先日「古渡」(ふっと)の地名についてこのブログで紹介しました。
その時、この場所が茨城百景に選ばれている場所だと知って、確認のために出かけてきました。
場所は125号線を美浦村を過ぎて少し行ったところに「信太古渡(しだふっと)」の信号があり、この先「新古渡橋」の手前で旧道が左に曲がっています。こちらの青い橋が「古渡橋(ふっとばし)」で、この橋を超えた所に茨城百景の石標が立っていました。

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この石標の近くに広場があり駐車できました。歩いて川岸に下りてみました。

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この橋のところの上流側が小野川で、下流側は霞ケ浦です。

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流れはほとんどなく、どちらに流れているかわかりません。湖側から風が吹いてくるので川の表面はまるで逆に流れているように感じます。小舟が数隻つながれ、本当にのどかな風景です。

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天気が良ければきっと向こう側に筑波山が見えることでしょう。上の写真の向こう岸が「陸平貝塚」です。

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霞ケ浦側は広く開けて、先の方に水鳥が少し。これなら昔はお祭りで湖に入ったというのもわかります。
しかし、祭りの頃の夜8時では、明かりが少ないのできっと真っ暗でしょう。

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まったくのどかですね。125号線を走っているだけだとこの風景にはまったく気がつきません。
とても素晴らしいところです。
さて、この小野川の上流をたどると、2つに分かれ、一つは乙戸沼から流れている乙戸川であり、もうひとつは小野川の本流でつくば学園都市の松代辺りから流れてきています。
 

阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/16 18:47

楯縫神社(美浦村)ー物部氏の残した足跡

 美浦村木原にある楯縫神社(たてぬい)神社を紹介します。
常陸国風土記に信太郡(しだぐん)のところに出てくる話が元になっている神社だ。

「碓井から西に行くと高来(たかく)の里がある。昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふつの)大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。」

この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様です。物部(もののべ)氏の神といわれています。
神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
この神がこの地を平定して帰る時に身につけていた楯や剣などを全てこの地に残していったと伝えられているのです。
「楯脱ぎ」というのが「楯縫」になったといわれています。

その残された楯や剣などをお祀りしたのがこの楯縫神社というわけです。
しかし、この楯縫神社は美浦村に2か所あるそうです。1か所は今回紹介する美浦村木原にあるが、もう一つ美浦村信太にあるという。こちらの信太にある楯縫神社には「信太郡惣社」と書かれているという。
まだこちらは行っていない。木原の方は信太郡一の宮というしこちらの方が大きいというのでとにかくこちらだけでも確認しておきたいと思ったのです。

香取神宮のあたりからこの美浦・阿見辺りまでは昔、物部氏の勢力範囲となっていたと考えてもいいでしょう。

延喜式の神社名簿にはこの楯縫神社と阿見町竹来(たかく)にある阿弥神社の2社となります。常陸国風土記の中に出てくる「高来の里」というのがこの竹来(たかく)のことではないかといわれています。
また碓井(うすい)は浮島(美浦村の東)にあり、景行天皇がここに来られ雄栗の地を掘ったらきれいな湧水が湧きこの泉を碓井というということです。浮島は今は陸続きですが昔は島で、海苔が採れたとなっています。
竹来にある阿弥神社は信太郡の二の宮と言われています。

信太郡の郡衙(ぐんが)が何処にあったのかが諸説あるようで未だに特定されていません。
現在の解釈では大昔はこの竹来にあり、その後美浦村の信太地区に移り、その後律令制の始まる頃に江戸崎の下君山地区(小野川ほとり)に移ったのではないかと私は漠然と考えています。

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場所は旧125号線の美浦村中心地を通過してバイパスと交わる少し手前である。
ここは何度も通っていたが通りからかなり奥に鳥居があり気をつけていないとわからない。
今回もこちらからではなく少し裏道に回って裏から行った。

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神社入り口の1の鳥居から2の鳥居に進み真っ直ぐ正面に神社の拝殿が見える。
古木に囲まれて進むと気持ちも神聖な気分になる。

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もう10日くらい前に訪れたので紅葉もきれいだった。
しかしやはり一人もいない。静かでひっそりとした神社がいい。あまり騒がしいのはどうも落ち着かない。

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現地の案内板によればこの神社には木製の狛犬があり村の文化財だというが、やはり阿吽の対になった狛犬だというが狛犬を屋外に置くようになったのは江戸時代になってからだそうで、ここの狛犬は屋内に置かれているのだという。姿を見て見たかったが内部は見えなかった。

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こちらが本殿。

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本殿も良く見るとかなり凝った彫刻が彫られている。

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ひっそりと佇むこの古代を思わせる神社も一度知ってほしいと思います。
この地の地名が「木原」といい、中世には木原城などもあったところで、この名前の由来はこの神社にあった杉の巨木(根幹周が6mくらいあった)だといいます。



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阿見・美浦・稲敷 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/12/04 09:06

木原城跡(美浦村)

今朝は霧が発生して幻想的でしたがやはり昼間は暖かくなりました。
15℃くらいあったようですが、明日はまた5℃くらい下がり、週末にはもっと寒くなるそうです。

今日は少し前に行った所を記録として残しておきたいので紹介します。

信太郡(しだぐん)の地域を少し散策していて木原の地名が気になって動き回っていたら偶然この史跡公園を見つけた。

木原城は特に有名な城跡でもないが、ここは美浦村の地域保存活動が良く現れた場所の一つだと思う。陸平(おかだいら)貝塚遺跡がもっともすぐれたものではあるが、この中世の城跡も当時の物としては良く保存されていると思う。
このような中世の城跡を探して歩いておられる方もいるが是非一度いかれて見てほしい。

この木原城は西暦1400年頃から1500年頃(15世紀代)に築城されたようではっきりとはしていない。
すぐ近くに永源寺という寺があり、この寺が1394年(応永元年)の開祖とされるのでこの頃に城が建てられていたのかもしれない。
しかし、近くの江戸崎城の支城で、永禄5年(1562)に江戸崎城の土岐治英が木原城を修築して近藤義勝に守らせたとあるので、その頃には現在の規模になっていたのだろう。

結果としては小田氏側についていたため佐竹氏によって最後は滅ぼされたものと考えられます。

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この土塁がこの残された広場の全体を2重に囲むように残されている。

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当時の土塁の構造がよく示されていて興味深い。

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現在はこのように公園として保存され、遊具もあって子供の遊び場になっています。
現地の説明にもある通り、この地には古代の集落跡なども発見されている場所だそうです。

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現地に建てられた「木原城址土塁保全地」の看板。ここの土塁は2重に巡らされており、そのあとがはっきりわかる。

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土塁の外側はこのような深い堀がめぐらされその当時の城の規模をしる貴重な城跡です。
石岡の府中城の土塁なども残されているが一部のみで全体をめぐらしたままの姿では残されていない。
当時の城の構造などを知るにはとても貴重ないい場所だと思います。

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城の復元図。看板も見にくいのですが載せておきます。

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この保全地区の一角にこじんまりとした稲荷神社がありました。



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阿見・美浦・稲敷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/12/15 18:49

永巌寺(美浦村木原)

 さて今日は先日紹介した木原城主の近藤利貞が応永元年(1394)に建てたとされる実照山永巌寺(えいがんじ)を紹介します。

これも通りを偶然通りかかって見付けたものですが、曹洞宗のお寺です。
寺には県の文化財である「虎の刺繍(絹本)」が保管されていると書かれていました。
これは城主利貞の娘時姫が16歳の時に2頭の虎の夢を見て絹地で刺繍をしたといわれるものだそうです。
室町時代と言うので貴重なものだそうです。残念ながら実物は見ていません。

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訪れたのは11月末ですが、まだ紅葉もいい感じでした。

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寺では檀家の方でしょうか法要が営まれていたようです。

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落ち着いた素敵なお寺でした。

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このような寺には一般の方の見学などはあまり行われないのでしょう。
しかし、このように室町末期からの時代を受け継いでこの寺はここにあります。
そして、それを守ってきた方々がいます。

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そういった人々の思いを考えながら見学させていただきました。



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阿見・美浦・稲敷 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/12/20 05:46

土屋稲荷神社(美浦村)

美浦村のJRAトレーニングセンターの素晴らしい広大な敷地を見て驚いたが、入口は警備のゲートがあり中には一切入れなかった。

ここもウロウロしていて道を間違って進入してしまったので特に見たかったものではなかったが、競走馬を運ぶトラックや大型バスなどがたくさん並んでいた。

この帰りに通ったところでこの神社を見つけた。
特に変わったところもないい普通のお稲荷さんであったが、「土屋」の名前が気になった。

土屋はこの地域の名前であった。
このような人の名前が住所になっているのにはわけがあるはずで早速調べて見た。

土屋は土浦藩の藩主「土屋家」と関係があった。

 最後の土浦城主土屋挙直(しげなお)の子土屋正直(まさなお)が経営する農場がここにあったのだという。

最後の藩主の子供ということで時代は明治である。この土屋稲荷神社付近にこの土屋農場の社務所があったという。

明治維新になって、土屋農場を作り、この地域の開墾を進めて、大農場を営み、地域の開墾入植者を募って人々に働く場などの提供をしてきたようです。

このため、この地では土屋正直は土屋の殿様などと慕って地域のきずなが強いようです。

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車が通る道路わきに鳥居があり、そこから参道が真っ直ぐに続きます。
黄葉した木の葉が下に落ちて参道を埋めていました。
向かって左手は地域の公園になっており、その隣りには「土屋地区農村集落センター」の建物があります。

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この「土屋稲荷神社」などの名前で立ち寄ったのです。少し変わっているでしょうか?
「なんでこんなところに寄るの?」などと言わそうですので、このようなところに行くのはいつも一人です。

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稲荷神社の拝殿のすぐ横に立派な石碑が3つ置かれていました。

何だと思います?

美浦村村長の碑文が彫られています。すこし紹介します。
「土屋集落在住の還暦をこえる先達長命者を銘記し長寿を祝う記念碑の建立の偉業を讃え深甚の敬意を表しつつここに碑文を寄せるものである。
・・・・・当土屋集落は、その先陣を切り、今や二千数百の民を有する最大地区に飛躍をとげた。これは古い歴史とフロンティア開拓精神にあふれた土屋地区の魅力の賜であり、素朴にして善良な人々の連帯的地域づくりの成果である。・・・・」
そして「米寿」「喜寿」「古稀」「還暦」の人の名前が刻まれています。
10年ごとに作られているようです。

なにか美浦村の地域おこしの一角を見たような気がします。

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少し見ていただけなのにもう日が沈んでしまいました。
見る場所により夕日の色合いも違って見えますね。

先日書いたように茨城県では東海村と美浦村だけが村のままで独自路線を歩んでいます。
今ではこの村も都会から多くの人が移り住んだりしているようです。
でもみんなが一緒になって村を守っていきたいと思っているようです。



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阿見・美浦・稲敷 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/12/21 07:07

阿弥神社(阿見町)(1)-物部氏の残した足跡

 信太郡(しだぐん)の二ノ宮といわれる阿見町竹来(たけく)に鎮座する「阿弥(阿彌)(あみ)神社」に行ってみました。

先日美浦村の楯縫神社を紹介しましたが、この楯縫神社が一宮でこちらの阿弥(あみ)神社が二ノ宮というようだ。

常陸国風土記に「高来の里」と出てくるところだ。高来=竹来です。

「碓氷から西に行くと高来(たかく)の里がある。昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふつ)の大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った」(口訳・常陸国風土記)

普都大神=経津主神(ふつぬしのかみ)はこの地にやってきてこの一帯を支配したのでしょう。
そして香取神社に祭神として祀られているのです。
この経津主神は物部氏で海運にも長けていた武族だと思います。

厳の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉をすべて脱ぎ捨てていったのを祀ったのが先日紹介した「楯縫神社」だということになります。

やはりこの風土記に出てくる古くからの神社を踏破しておかなければ片手落ちだ。

ここ阿見町は土浦市のとなりにあり、霞ケ浦の陸上自衛隊霞ケ浦・土浦駐屯地や飛行場、また武器学校などがあります。
特に太平洋戦争中の特攻隊の予科練があったところで、今は「予科練平和記念館」が建っています。
また昭和初期にリンドバーク夫妻が飛行船でやってきた記念すべき場所でもあります。

この阿弥神社は県社でもあり格式の高い神社です。阿見町の名前の由来となっていると感じました。

銀杏の木が神社拝殿前にあるのですが、訪れる人も少なく、銀杏の葉のじゅうたんが出来ていました。
(訪れたのは12月10日です)

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神楽殿。昔の神宮寺らしい

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境内社。このほかに参道の途中から小道がのびており、幾つもの小さな祠が置かれている。
とても特徴的である。

(2011.12.10 撮影)

<明日へ続く>



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阿見・美浦・稲敷 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/12/25 13:31
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