縄文時代を貝塚に見てみました。
今日は霞ケ浦の古代縄文時代の生活の跡を国指定史跡である「陸平(おかだいら)貝塚」(美浦村)へ見学に行ってきました。ここは考古学のルーツともいわれるほどその方面では有名な場所です。陸平というだけあり、丘になって霞ケ浦までの距離も近いですが昔は霞ケ浦も海水であり5000年前は今より2~4m水面が高かったといわれ、この辺で海に接していたと思われます。暑い夏の日差しが注ぎ、貝塚に向かう木々の中はツクツクボウシの大合唱でした。運よく地元の協力による発掘調査(小規模ですが)の最中で、地元の小学生も手伝い貝や土器の破片を選別していました。

陸平は明治のころは岡平と称されていたという。いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されているのです。こんなに長い間人が住んでいたのです。大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。

住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いです。

今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。
陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。

陸平は明治のころは岡平と称されていたという。いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されているのです。こんなに長い間人が住んでいたのです。大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。

住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いです。

今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。
陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。
陸平貝塚(1) - 縄文の丘に吹く風にのって
今日は久しぶりに晴れて、山もくっきりと見えました。
雪も心配しましたが全く問題なしでした。
先週、美浦村の「陸平(おかだいら)文化財センター」で行われた「縄文の森コンサート」を見に行った時に時間があったので、貝塚公園内をのんびり1時間ほど散策をしました。
ここは、昨年夏の終わりに一度訪れたことがあるのですが、その時は貝塚の発掘調査を地元の子供たちを交えて行なっていましたが、この日はまだコンサートの始まりには大分時間があったせいか、広い公園の中は誰もいないでひっそりとしていました。

貝塚はこの広い広場の台地の端部を削れば見ることはできますが、一般の人はもちろん採掘はできません。
まだ定期的に調査を行なっていますので、その時を確認して見学ができるかを訪ねる必要があります。
貝塚がすぐに見られるような場所もあればうれしいのですが・・・。
昨夏に見学した時は貝殻がびっしりでした。

前に来た時には行かなかったところと思って、文化財センターのところから東側の道を散策してみました。
植物や動物なども、冬場は何もありません。しかし縄文の丘を渡る風が気持ち良く吹いていました。

丘の先の方の坂を下りると「ブクブク水」という湧水があります。

公園のはずれに地元も方たちが再現した縄文時代の家があります。この建設時の説明があり、ここ陸平の地元ボランティアなどの活動を知ることができました。とてもうれしくなりました。
詳細はまた明日書きますね。
雪も心配しましたが全く問題なしでした。
先週、美浦村の「陸平(おかだいら)文化財センター」で行われた「縄文の森コンサート」を見に行った時に時間があったので、貝塚公園内をのんびり1時間ほど散策をしました。
ここは、昨年夏の終わりに一度訪れたことがあるのですが、その時は貝塚の発掘調査を地元の子供たちを交えて行なっていましたが、この日はまだコンサートの始まりには大分時間があったせいか、広い公園の中は誰もいないでひっそりとしていました。

貝塚はこの広い広場の台地の端部を削れば見ることはできますが、一般の人はもちろん採掘はできません。
まだ定期的に調査を行なっていますので、その時を確認して見学ができるかを訪ねる必要があります。
貝塚がすぐに見られるような場所もあればうれしいのですが・・・。
昨夏に見学した時は貝殻がびっしりでした。

前に来た時には行かなかったところと思って、文化財センターのところから東側の道を散策してみました。
植物や動物なども、冬場は何もありません。しかし縄文の丘を渡る風が気持ち良く吹いていました。

丘の先の方の坂を下りると「ブクブク水」という湧水があります。

公園のはずれに地元も方たちが再現した縄文時代の家があります。この建設時の説明があり、ここ陸平の地元ボランティアなどの活動を知ることができました。とてもうれしくなりました。
詳細はまた明日書きますね。
陸平貝塚(2) - 地元の活動について
今日は一日小雨交じりの寒い日になりました。昨日は朝車のガラスはすっかり氷ついていましたが、昼間は温かく気持ちが良かったのですが、今夜はまた雪の予報が出ています。
一部で咲き始めた梅もこれではまたつぼみを閉じてしまうかもしれません。
さて、今回のテーマは昨日の「陸平貝塚」の続きです。
「ことば座」が招待された「縄文の森コンサート」は「陸平をヨイショする会」の主催ですが、この会は、陸平(おかだいら)貝塚をヨイショすることを目的に、平成7年3月に結成されたボランティアの会です。
村の住民が一体になって活動している素晴らしいグループだと思いました。
茨城県も村はここ美浦村と東海村の二か所だけになりましたが、共に独自の考え方で行政を推進している地域です。小さいけれど皆が一緒になってこのような地域をヨイショできるのは本当にうらやましいことです。

昨年8月末に訪れた時に、丁度発掘調査が行われていました。規模は小さかったのですが、文化財センターの所に貼られたチラシによると、「規模は小さいけれどが地元参加の発掘調査・・・」と書かれていました。

この夏の日の発掘調査は、4~5人の小学生くらいの子供に、発掘調査員が数人、また補助の方が数人でした。

子供たちも暑い日差しの中、根気よく黙々と掘りだした貝殻の区分け作業を手伝っていました。
このようなことに子供時代参加できることはとても大切なことです。
地元に対する愛着も増し、この場所を大切にしていってくれることでしょう。

広場の外れにある縄文時代の小屋の再現にも地元ボランティアや子供たちが共同で作ったものだということを知りました。

小屋の内部です。この小屋は地元の方が昔を再現するために石斧をつくり、それを使ってクリの木を伐採し、桑の皮を使って縄をつくり、復元の設計もすべて自分たちで行ったものだそうです。
2年かかって、子供たちも手伝って平成15年に完成させました。
昨年夏に訪れた時にはこの木の伐採作業をされた方が、小屋の草取りや整備をされていました。
本当に感心しました。「フレ~、フレ~ ヨイショ・ヨイショ・ヨイショの会」(^。^)~
それから、今回陸平文化財センターの入口に「正調俚謡(りよう)」(日和吟社)の発祥の地なる立派な碑文が作られていました。
「都々逸」と似ているのかもしれませんね。それなら石岡も大いに関係しますね。
なにしろ都々逸の創始者「都々逸扇歌」の墓があるのですから・・・・。

一部で咲き始めた梅もこれではまたつぼみを閉じてしまうかもしれません。
さて、今回のテーマは昨日の「陸平貝塚」の続きです。
「ことば座」が招待された「縄文の森コンサート」は「陸平をヨイショする会」の主催ですが、この会は、陸平(おかだいら)貝塚をヨイショすることを目的に、平成7年3月に結成されたボランティアの会です。
村の住民が一体になって活動している素晴らしいグループだと思いました。
茨城県も村はここ美浦村と東海村の二か所だけになりましたが、共に独自の考え方で行政を推進している地域です。小さいけれど皆が一緒になってこのような地域をヨイショできるのは本当にうらやましいことです。

昨年8月末に訪れた時に、丁度発掘調査が行われていました。規模は小さかったのですが、文化財センターの所に貼られたチラシによると、「規模は小さいけれどが地元参加の発掘調査・・・」と書かれていました。

この夏の日の発掘調査は、4~5人の小学生くらいの子供に、発掘調査員が数人、また補助の方が数人でした。

子供たちも暑い日差しの中、根気よく黙々と掘りだした貝殻の区分け作業を手伝っていました。
このようなことに子供時代参加できることはとても大切なことです。
地元に対する愛着も増し、この場所を大切にしていってくれることでしょう。

広場の外れにある縄文時代の小屋の再現にも地元ボランティアや子供たちが共同で作ったものだということを知りました。

小屋の内部です。この小屋は地元の方が昔を再現するために石斧をつくり、それを使ってクリの木を伐採し、桑の皮を使って縄をつくり、復元の設計もすべて自分たちで行ったものだそうです。
2年かかって、子供たちも手伝って平成15年に完成させました。
昨年夏に訪れた時にはこの木の伐採作業をされた方が、小屋の草取りや整備をされていました。
本当に感心しました。「フレ~、フレ~ ヨイショ・ヨイショ・ヨイショの会」(^。^)~
それから、今回陸平文化財センターの入口に「正調俚謡(りよう)」(日和吟社)の発祥の地なる立派な碑文が作られていました。
「都々逸」と似ているのかもしれませんね。それなら石岡も大いに関係しますね。
なにしろ都々逸の創始者「都々逸扇歌」の墓があるのですから・・・・。

陸平貝塚(3) - 大宮神社
陸平貝塚台地の先端部分に大宮神社という古い神社が建っています。
縄文小屋の所から隣りのゴルフ場との境を奥に進んだところに杉並木の参道が続き、その先に鳥居が建っています。

この陸平台地には昔、城館砦があったと考えられており、この大宮神社は、その中心地にあったものと考えられます。大宮神社の由緒書では、白鳳元年(650)に伊勢にあった社を遷したものであるといいます。

本殿の妻飾り等は、下の説明板にありますが、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作と考えられているそうです。

<現地の案内板より>
大宮神社
大宮神社は、旧信太庄安中二十四ヶ村の総鎮守で、御祭神は天照皇大神、日本武尊、天太玉命の三柱が祀られています。
伝承としては白雉元(650)年の創立を伝え、生田長者満盛が氏神として創建し、伊勢大社の分霊を奉斎したこと、その後奈良時代に、その姓名が安中という地名の由来になったとも言われる安倍仲成が、朝廷の勅許を得て正式に勧請し、安中二十四ヶ村の総鎮守になったことなどが伝えられています。
記録によると、天承二(1575)年と、元禄四(1691)年に社殿の再建が行なわれています。その後、大正九(1920)年の台風により社殿が倒壊したため、翌十年に再建されていますが、現在でも古材を含め再建前の旧状をよく留めているといわれます。現存の本殿は桁行三間、梁間三間の本体に回縁が設けられた規模の大きなもので、村内最大を誇ります。特に本殿の妻飾りは独創的なもので虹梁の唐草分文や頭貫木鼻・組物の拳鼻などの彫刻は、元禄時代特有のものです。このような建築細部の様式から、江戸時代に常陸国を中心に活動し、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作事によると考えられています。
平成十三年三月
美浦村教育委員会
誰もいないひっそりとした境内には、昔からここの生活を見てきたであろう白梅の花が美しく、つつましやかに輝きをはなっていました。
さて、Wikipediaによれば「大宮」という語は神社を敬っていう言い方の一つで、氏子などから「大宮」と呼ばれていた神社が、それに「神社」をつけて社名としたものなどである。となっており、全国各地に大きなものも小さなものも数多く存在します。
地元で長く慕われてきたものでしょう。
ところで、この美浦村には黒坂命(くろさかのみこと)の墓と言われる古墳があります(美浦村大塚の弁天塚古墳)。蝦夷征伐のために、大和政権からやってきた黒坂命はこの地を通って石岡を通り、日立の先の十王町にある黒前山のあたりで亡くなったとされますが、生前に気にいっていたこの美浦の地に遺体を運んで埋葬したといわれるものです。
真偽のほどはわかりませんが、この地が気にいっていたというのはわかるような気がします。
この信太(しだ)とよばれる地はこの遺体を運ぶ列の飾りには五彩の旗がひるがえり、その様子から「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後に「垂(しで)の国」から「信太の国」となったといわれています。
さて、縄文人がこの蝦夷人の祖先とすれば、黒坂命は住居をうばった敵の大将ということですから、考えると複雑な思いですね。陸平のすぐ近くに「牛込」という地名があり、ここから霞ケ浦(昔は海水が来ていた内海)を舟で対岸の「牛渡」辺りに渡っていたとすれば、当時常陸国を平定したといっても、安定した地はまだこの辺りまでだったのかもしれません。
私は学校での歴史という教科はあまり好きではありませんでした。
特に日本史は名前や年号を覚えるのが苦手で、事柄をただ覚えて、それをテストされて苦痛でもありました。
どこか教育が間違っているのではないでしょうか。暗記の苦手なものにはもっと違った面白い事柄を発掘する楽しみを与えてほしかったと今頃になって思うものです。
学者が論文を書こうとすれば、裏付けとなる資料を探し、考察を重ねてまとめなければなりません。一つのことを細かく追及するのでしょう。そしてそれが認められれば「○○説」なるものが大切にされていきます。しかし、文字のない時代は考古学でしかそれを証明したりすることができないのです。
その他に「民俗学」があります。しかし全ての人が学者になるわけではないので、学問はもっと楽しいことを想像したり、考えたりするプロセスが大切なように思います。
子供たちに考えるために必要な引き出しを持つことをたくさん教えてほしいのです。
歴史が政治に利用されるのはどこの国でも同じですが、引き出しを多く持っていれば違った考えも受け入れて自分なりの考えも出来てくると思います。
縄文小屋の所から隣りのゴルフ場との境を奥に進んだところに杉並木の参道が続き、その先に鳥居が建っています。

この陸平台地には昔、城館砦があったと考えられており、この大宮神社は、その中心地にあったものと考えられます。大宮神社の由緒書では、白鳳元年(650)に伊勢にあった社を遷したものであるといいます。

本殿の妻飾り等は、下の説明板にありますが、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作と考えられているそうです。

<現地の案内板より>
大宮神社
大宮神社は、旧信太庄安中二十四ヶ村の総鎮守で、御祭神は天照皇大神、日本武尊、天太玉命の三柱が祀られています。
伝承としては白雉元(650)年の創立を伝え、生田長者満盛が氏神として創建し、伊勢大社の分霊を奉斎したこと、その後奈良時代に、その姓名が安中という地名の由来になったとも言われる安倍仲成が、朝廷の勅許を得て正式に勧請し、安中二十四ヶ村の総鎮守になったことなどが伝えられています。
記録によると、天承二(1575)年と、元禄四(1691)年に社殿の再建が行なわれています。その後、大正九(1920)年の台風により社殿が倒壊したため、翌十年に再建されていますが、現在でも古材を含め再建前の旧状をよく留めているといわれます。現存の本殿は桁行三間、梁間三間の本体に回縁が設けられた規模の大きなもので、村内最大を誇ります。特に本殿の妻飾りは独創的なもので虹梁の唐草分文や頭貫木鼻・組物の拳鼻などの彫刻は、元禄時代特有のものです。このような建築細部の様式から、江戸時代に常陸国を中心に活動し、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作事によると考えられています。
平成十三年三月
美浦村教育委員会
誰もいないひっそりとした境内には、昔からここの生活を見てきたであろう白梅の花が美しく、つつましやかに輝きをはなっていました。
さて、Wikipediaによれば「大宮」という語は神社を敬っていう言い方の一つで、氏子などから「大宮」と呼ばれていた神社が、それに「神社」をつけて社名としたものなどである。となっており、全国各地に大きなものも小さなものも数多く存在します。
地元で長く慕われてきたものでしょう。
ところで、この美浦村には黒坂命(くろさかのみこと)の墓と言われる古墳があります(美浦村大塚の弁天塚古墳)。蝦夷征伐のために、大和政権からやってきた黒坂命はこの地を通って石岡を通り、日立の先の十王町にある黒前山のあたりで亡くなったとされますが、生前に気にいっていたこの美浦の地に遺体を運んで埋葬したといわれるものです。
真偽のほどはわかりませんが、この地が気にいっていたというのはわかるような気がします。
この信太(しだ)とよばれる地はこの遺体を運ぶ列の飾りには五彩の旗がひるがえり、その様子から「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後に「垂(しで)の国」から「信太の国」となったといわれています。
さて、縄文人がこの蝦夷人の祖先とすれば、黒坂命は住居をうばった敵の大将ということですから、考えると複雑な思いですね。陸平のすぐ近くに「牛込」という地名があり、ここから霞ケ浦(昔は海水が来ていた内海)を舟で対岸の「牛渡」辺りに渡っていたとすれば、当時常陸国を平定したといっても、安定した地はまだこの辺りまでだったのかもしれません。
私は学校での歴史という教科はあまり好きではありませんでした。
特に日本史は名前や年号を覚えるのが苦手で、事柄をただ覚えて、それをテストされて苦痛でもありました。
どこか教育が間違っているのではないでしょうか。暗記の苦手なものにはもっと違った面白い事柄を発掘する楽しみを与えてほしかったと今頃になって思うものです。
学者が論文を書こうとすれば、裏付けとなる資料を探し、考察を重ねてまとめなければなりません。一つのことを細かく追及するのでしょう。そしてそれが認められれば「○○説」なるものが大切にされていきます。しかし、文字のない時代は考古学でしかそれを証明したりすることができないのです。
その他に「民俗学」があります。しかし全ての人が学者になるわけではないので、学問はもっと楽しいことを想像したり、考えたりするプロセスが大切なように思います。
子供たちに考えるために必要な引き出しを持つことをたくさん教えてほしいのです。
歴史が政治に利用されるのはどこの国でも同じですが、引き出しを多く持っていれば違った考えも受け入れて自分なりの考えも出来てくると思います。
古渡の湖畔
グラミー賞の4部門に日本人のアーチストが選ばれたとニュースで言っていた。
日本では名前も有名ではないアーチストがその評価をアメリカで得たことになる。
アメリカは歴史では日本に比べ浅いが芸術や文化の成熟度がまったく違っている。
どこに原因があるのだろうか・・・・。考えても答えがないので、今日の話題に移ることにします。
先日「古渡」(ふっと)の地名についてこのブログで紹介しました。
その時、この場所が茨城百景に選ばれている場所だと知って、確認のために出かけてきました。
場所は125号線を美浦村を過ぎて少し行ったところに「信太古渡(しだふっと)」の信号があり、この先「新古渡橋」の手前で旧道が左に曲がっています。こちらの青い橋が「古渡橋(ふっとばし)」で、この橋を超えた所に茨城百景の石標が立っていました。

この石標の近くに広場があり駐車できました。歩いて川岸に下りてみました。

この橋のところの上流側が小野川で、下流側は霞ケ浦です。

流れはほとんどなく、どちらに流れているかわかりません。湖側から風が吹いてくるので川の表面はまるで逆に流れているように感じます。小舟が数隻つながれ、本当にのどかな風景です。

天気が良ければきっと向こう側に筑波山が見えることでしょう。上の写真の向こう岸が「陸平貝塚」です。

霞ケ浦側は広く開けて、先の方に水鳥が少し。これなら昔はお祭りで湖に入ったというのもわかります。
しかし、祭りの頃の夜8時では、明かりが少ないのできっと真っ暗でしょう。

まったくのどかですね。125号線を走っているだけだとこの風景にはまったく気がつきません。
とても素晴らしいところです。
さて、この小野川の上流をたどると、2つに分かれ、一つは乙戸沼から流れている乙戸川であり、もうひとつは小野川の本流でつくば学園都市の松代辺りから流れてきています。
日本では名前も有名ではないアーチストがその評価をアメリカで得たことになる。
アメリカは歴史では日本に比べ浅いが芸術や文化の成熟度がまったく違っている。
どこに原因があるのだろうか・・・・。考えても答えがないので、今日の話題に移ることにします。
先日「古渡」(ふっと)の地名についてこのブログで紹介しました。
その時、この場所が茨城百景に選ばれている場所だと知って、確認のために出かけてきました。
場所は125号線を美浦村を過ぎて少し行ったところに「信太古渡(しだふっと)」の信号があり、この先「新古渡橋」の手前で旧道が左に曲がっています。こちらの青い橋が「古渡橋(ふっとばし)」で、この橋を超えた所に茨城百景の石標が立っていました。

この石標の近くに広場があり駐車できました。歩いて川岸に下りてみました。

この橋のところの上流側が小野川で、下流側は霞ケ浦です。

流れはほとんどなく、どちらに流れているかわかりません。湖側から風が吹いてくるので川の表面はまるで逆に流れているように感じます。小舟が数隻つながれ、本当にのどかな風景です。

天気が良ければきっと向こう側に筑波山が見えることでしょう。上の写真の向こう岸が「陸平貝塚」です。

霞ケ浦側は広く開けて、先の方に水鳥が少し。これなら昔はお祭りで湖に入ったというのもわかります。
しかし、祭りの頃の夜8時では、明かりが少ないのできっと真っ暗でしょう。

まったくのどかですね。125号線を走っているだけだとこの風景にはまったく気がつきません。
とても素晴らしいところです。
さて、この小野川の上流をたどると、2つに分かれ、一つは乙戸沼から流れている乙戸川であり、もうひとつは小野川の本流でつくば学園都市の松代辺りから流れてきています。
楯縫神社(美浦村)ー物部氏の残した足跡
美浦村木原にある楯縫神社(たてぬい)神社を紹介します。
常陸国風土記に信太郡(しだぐん)のところに出てくる話が元になっている神社だ。
「碓井から西に行くと高来(たかく)の里がある。昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふつの)大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。」
この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様です。物部(もののべ)氏の神といわれています。
神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
この神がこの地を平定して帰る時に身につけていた楯や剣などを全てこの地に残していったと伝えられているのです。
「楯脱ぎ」というのが「楯縫」になったといわれています。
その残された楯や剣などをお祀りしたのがこの楯縫神社というわけです。
しかし、この楯縫神社は美浦村に2か所あるそうです。1か所は今回紹介する美浦村木原にあるが、もう一つ美浦村信太にあるという。こちらの信太にある楯縫神社には「信太郡惣社」と書かれているという。
まだこちらは行っていない。木原の方は信太郡一の宮というしこちらの方が大きいというのでとにかくこちらだけでも確認しておきたいと思ったのです。
香取神宮のあたりからこの美浦・阿見辺りまでは昔、物部氏の勢力範囲となっていたと考えてもいいでしょう。
延喜式の神社名簿にはこの楯縫神社と阿見町竹来(たかく)にある阿弥神社の2社となります。常陸国風土記の中に出てくる「高来の里」というのがこの竹来(たかく)のことではないかといわれています。
また碓井(うすい)は浮島(美浦村の東)にあり、景行天皇がここに来られ雄栗の地を掘ったらきれいな湧水が湧きこの泉を碓井というということです。浮島は今は陸続きですが昔は島で、海苔が採れたとなっています。
竹来にある阿弥神社は信太郡の二の宮と言われています。
信太郡の郡衙(ぐんが)が何処にあったのかが諸説あるようで未だに特定されていません。
現在の解釈では大昔はこの竹来にあり、その後美浦村の信太地区に移り、その後律令制の始まる頃に江戸崎の下君山地区(小野川ほとり)に移ったのではないかと私は漠然と考えています。

場所は旧125号線の美浦村中心地を通過してバイパスと交わる少し手前である。
ここは何度も通っていたが通りからかなり奥に鳥居があり気をつけていないとわからない。
今回もこちらからではなく少し裏道に回って裏から行った。

神社入り口の1の鳥居から2の鳥居に進み真っ直ぐ正面に神社の拝殿が見える。
古木に囲まれて進むと気持ちも神聖な気分になる。

もう10日くらい前に訪れたので紅葉もきれいだった。
しかしやはり一人もいない。静かでひっそりとした神社がいい。あまり騒がしいのはどうも落ち着かない。

現地の案内板によればこの神社には木製の狛犬があり村の文化財だというが、やはり阿吽の対になった狛犬だというが狛犬を屋外に置くようになったのは江戸時代になってからだそうで、ここの狛犬は屋内に置かれているのだという。姿を見て見たかったが内部は見えなかった。

こちらが本殿。

本殿も良く見るとかなり凝った彫刻が彫られている。

ひっそりと佇むこの古代を思わせる神社も一度知ってほしいと思います。
この地の地名が「木原」といい、中世には木原城などもあったところで、この名前の由来はこの神社にあった杉の巨木(根幹周が6mくらいあった)だといいます。
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常陸国風土記に信太郡(しだぐん)のところに出てくる話が元になっている神社だ。
「碓井から西に行くと高来(たかく)の里がある。昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふつの)大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。」
この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様です。物部(もののべ)氏の神といわれています。
神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
この神がこの地を平定して帰る時に身につけていた楯や剣などを全てこの地に残していったと伝えられているのです。
「楯脱ぎ」というのが「楯縫」になったといわれています。
その残された楯や剣などをお祀りしたのがこの楯縫神社というわけです。
しかし、この楯縫神社は美浦村に2か所あるそうです。1か所は今回紹介する美浦村木原にあるが、もう一つ美浦村信太にあるという。こちらの信太にある楯縫神社には「信太郡惣社」と書かれているという。
まだこちらは行っていない。木原の方は信太郡一の宮というしこちらの方が大きいというのでとにかくこちらだけでも確認しておきたいと思ったのです。
香取神宮のあたりからこの美浦・阿見辺りまでは昔、物部氏の勢力範囲となっていたと考えてもいいでしょう。
延喜式の神社名簿にはこの楯縫神社と阿見町竹来(たかく)にある阿弥神社の2社となります。常陸国風土記の中に出てくる「高来の里」というのがこの竹来(たかく)のことではないかといわれています。
また碓井(うすい)は浮島(美浦村の東)にあり、景行天皇がここに来られ雄栗の地を掘ったらきれいな湧水が湧きこの泉を碓井というということです。浮島は今は陸続きですが昔は島で、海苔が採れたとなっています。
竹来にある阿弥神社は信太郡の二の宮と言われています。
信太郡の郡衙(ぐんが)が何処にあったのかが諸説あるようで未だに特定されていません。
現在の解釈では大昔はこの竹来にあり、その後美浦村の信太地区に移り、その後律令制の始まる頃に江戸崎の下君山地区(小野川ほとり)に移ったのではないかと私は漠然と考えています。

場所は旧125号線の美浦村中心地を通過してバイパスと交わる少し手前である。
ここは何度も通っていたが通りからかなり奥に鳥居があり気をつけていないとわからない。
今回もこちらからではなく少し裏道に回って裏から行った。

神社入り口の1の鳥居から2の鳥居に進み真っ直ぐ正面に神社の拝殿が見える。
古木に囲まれて進むと気持ちも神聖な気分になる。

もう10日くらい前に訪れたので紅葉もきれいだった。
しかしやはり一人もいない。静かでひっそりとした神社がいい。あまり騒がしいのはどうも落ち着かない。

現地の案内板によればこの神社には木製の狛犬があり村の文化財だというが、やはり阿吽の対になった狛犬だというが狛犬を屋外に置くようになったのは江戸時代になってからだそうで、ここの狛犬は屋内に置かれているのだという。姿を見て見たかったが内部は見えなかった。

こちらが本殿。

本殿も良く見るとかなり凝った彫刻が彫られている。

ひっそりと佇むこの古代を思わせる神社も一度知ってほしいと思います。
この地の地名が「木原」といい、中世には木原城などもあったところで、この名前の由来はこの神社にあった杉の巨木(根幹周が6mくらいあった)だといいます。


木原城跡(美浦村)
今朝は霧が発生して幻想的でしたがやはり昼間は暖かくなりました。
15℃くらいあったようですが、明日はまた5℃くらい下がり、週末にはもっと寒くなるそうです。
今日は少し前に行った所を記録として残しておきたいので紹介します。
信太郡(しだぐん)の地域を少し散策していて木原の地名が気になって動き回っていたら偶然この史跡公園を見つけた。
木原城は特に有名な城跡でもないが、ここは美浦村の地域保存活動が良く現れた場所の一つだと思う。陸平(おかだいら)貝塚遺跡がもっともすぐれたものではあるが、この中世の城跡も当時の物としては良く保存されていると思う。
このような中世の城跡を探して歩いておられる方もいるが是非一度いかれて見てほしい。
この木原城は西暦1400年頃から1500年頃(15世紀代)に築城されたようではっきりとはしていない。
すぐ近くに永源寺という寺があり、この寺が1394年(応永元年)の開祖とされるのでこの頃に城が建てられていたのかもしれない。
しかし、近くの江戸崎城の支城で、永禄5年(1562)に江戸崎城の土岐治英が木原城を修築して近藤義勝に守らせたとあるので、その頃には現在の規模になっていたのだろう。
結果としては小田氏側についていたため佐竹氏によって最後は滅ぼされたものと考えられます。

この土塁がこの残された広場の全体を2重に囲むように残されている。

当時の土塁の構造がよく示されていて興味深い。

現在はこのように公園として保存され、遊具もあって子供の遊び場になっています。
現地の説明にもある通り、この地には古代の集落跡なども発見されている場所だそうです。

現地に建てられた「木原城址土塁保全地」の看板。ここの土塁は2重に巡らされており、そのあとがはっきりわかる。

土塁の外側はこのような深い堀がめぐらされその当時の城の規模をしる貴重な城跡です。
石岡の府中城の土塁なども残されているが一部のみで全体をめぐらしたままの姿では残されていない。
当時の城の構造などを知るにはとても貴重ないい場所だと思います。

城の復元図。看板も見にくいのですが載せておきます。

この保全地区の一角にこじんまりとした稲荷神社がありました。
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15℃くらいあったようですが、明日はまた5℃くらい下がり、週末にはもっと寒くなるそうです。
今日は少し前に行った所を記録として残しておきたいので紹介します。
信太郡(しだぐん)の地域を少し散策していて木原の地名が気になって動き回っていたら偶然この史跡公園を見つけた。
木原城は特に有名な城跡でもないが、ここは美浦村の地域保存活動が良く現れた場所の一つだと思う。陸平(おかだいら)貝塚遺跡がもっともすぐれたものではあるが、この中世の城跡も当時の物としては良く保存されていると思う。
このような中世の城跡を探して歩いておられる方もいるが是非一度いかれて見てほしい。
この木原城は西暦1400年頃から1500年頃(15世紀代)に築城されたようではっきりとはしていない。
すぐ近くに永源寺という寺があり、この寺が1394年(応永元年)の開祖とされるのでこの頃に城が建てられていたのかもしれない。
しかし、近くの江戸崎城の支城で、永禄5年(1562)に江戸崎城の土岐治英が木原城を修築して近藤義勝に守らせたとあるので、その頃には現在の規模になっていたのだろう。
結果としては小田氏側についていたため佐竹氏によって最後は滅ぼされたものと考えられます。

この土塁がこの残された広場の全体を2重に囲むように残されている。

当時の土塁の構造がよく示されていて興味深い。

現在はこのように公園として保存され、遊具もあって子供の遊び場になっています。
現地の説明にもある通り、この地には古代の集落跡なども発見されている場所だそうです。

現地に建てられた「木原城址土塁保全地」の看板。ここの土塁は2重に巡らされており、そのあとがはっきりわかる。

土塁の外側はこのような深い堀がめぐらされその当時の城の規模をしる貴重な城跡です。
石岡の府中城の土塁なども残されているが一部のみで全体をめぐらしたままの姿では残されていない。
当時の城の構造などを知るにはとても貴重ないい場所だと思います。

城の復元図。看板も見にくいのですが載せておきます。

この保全地区の一角にこじんまりとした稲荷神社がありました。


永巌寺(美浦村木原)
さて今日は先日紹介した木原城主の近藤利貞が応永元年(1394)に建てたとされる実照山永巌寺(えいがんじ)を紹介します。
これも通りを偶然通りかかって見付けたものですが、曹洞宗のお寺です。
寺には県の文化財である「虎の刺繍(絹本)」が保管されていると書かれていました。
これは城主利貞の娘時姫が16歳の時に2頭の虎の夢を見て絹地で刺繍をしたといわれるものだそうです。
室町時代と言うので貴重なものだそうです。残念ながら実物は見ていません。

訪れたのは11月末ですが、まだ紅葉もいい感じでした。

寺では檀家の方でしょうか法要が営まれていたようです。

落ち着いた素敵なお寺でした。

このような寺には一般の方の見学などはあまり行われないのでしょう。
しかし、このように室町末期からの時代を受け継いでこの寺はここにあります。
そして、それを守ってきた方々がいます。

そういった人々の思いを考えながら見学させていただきました。
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これも通りを偶然通りかかって見付けたものですが、曹洞宗のお寺です。
寺には県の文化財である「虎の刺繍(絹本)」が保管されていると書かれていました。
これは城主利貞の娘時姫が16歳の時に2頭の虎の夢を見て絹地で刺繍をしたといわれるものだそうです。
室町時代と言うので貴重なものだそうです。残念ながら実物は見ていません。

訪れたのは11月末ですが、まだ紅葉もいい感じでした。

寺では檀家の方でしょうか法要が営まれていたようです。

落ち着いた素敵なお寺でした。

このような寺には一般の方の見学などはあまり行われないのでしょう。
しかし、このように室町末期からの時代を受け継いでこの寺はここにあります。
そして、それを守ってきた方々がいます。

そういった人々の思いを考えながら見学させていただきました。


土屋稲荷神社(美浦村)
美浦村のJRAトレーニングセンターの素晴らしい広大な敷地を見て驚いたが、入口は警備のゲートがあり中には一切入れなかった。
ここもウロウロしていて道を間違って進入してしまったので特に見たかったものではなかったが、競走馬を運ぶトラックや大型バスなどがたくさん並んでいた。
この帰りに通ったところでこの神社を見つけた。
特に変わったところもないい普通のお稲荷さんであったが、「土屋」の名前が気になった。
土屋はこの地域の名前であった。
このような人の名前が住所になっているのにはわけがあるはずで早速調べて見た。
土屋は土浦藩の藩主「土屋家」と関係があった。
最後の土浦城主土屋挙直(しげなお)の子土屋正直(まさなお)が経営する農場がここにあったのだという。
最後の藩主の子供ということで時代は明治である。この土屋稲荷神社付近にこの土屋農場の社務所があったという。
明治維新になって、土屋農場を作り、この地域の開墾を進めて、大農場を営み、地域の開墾入植者を募って人々に働く場などの提供をしてきたようです。
このため、この地では土屋正直は土屋の殿様などと慕って地域のきずなが強いようです。

車が通る道路わきに鳥居があり、そこから参道が真っ直ぐに続きます。
黄葉した木の葉が下に落ちて参道を埋めていました。
向かって左手は地域の公園になっており、その隣りには「土屋地区農村集落センター」の建物があります。

この「土屋稲荷神社」などの名前で立ち寄ったのです。少し変わっているでしょうか?
「なんでこんなところに寄るの?」などと言わそうですので、このようなところに行くのはいつも一人です。

稲荷神社の拝殿のすぐ横に立派な石碑が3つ置かれていました。
何だと思います?
美浦村村長の碑文が彫られています。すこし紹介します。
「土屋集落在住の還暦をこえる先達長命者を銘記し長寿を祝う記念碑の建立の偉業を讃え深甚の敬意を表しつつここに碑文を寄せるものである。
・・・・・当土屋集落は、その先陣を切り、今や二千数百の民を有する最大地区に飛躍をとげた。これは古い歴史とフロンティア開拓精神にあふれた土屋地区の魅力の賜であり、素朴にして善良な人々の連帯的地域づくりの成果である。・・・・」
そして「米寿」「喜寿」「古稀」「還暦」の人の名前が刻まれています。
10年ごとに作られているようです。
なにか美浦村の地域おこしの一角を見たような気がします。

少し見ていただけなのにもう日が沈んでしまいました。
見る場所により夕日の色合いも違って見えますね。
先日書いたように茨城県では東海村と美浦村だけが村のままで独自路線を歩んでいます。
今ではこの村も都会から多くの人が移り住んだりしているようです。
でもみんなが一緒になって村を守っていきたいと思っているようです。
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ここもウロウロしていて道を間違って進入してしまったので特に見たかったものではなかったが、競走馬を運ぶトラックや大型バスなどがたくさん並んでいた。
この帰りに通ったところでこの神社を見つけた。
特に変わったところもないい普通のお稲荷さんであったが、「土屋」の名前が気になった。
土屋はこの地域の名前であった。
このような人の名前が住所になっているのにはわけがあるはずで早速調べて見た。
土屋は土浦藩の藩主「土屋家」と関係があった。
最後の土浦城主土屋挙直(しげなお)の子土屋正直(まさなお)が経営する農場がここにあったのだという。
最後の藩主の子供ということで時代は明治である。この土屋稲荷神社付近にこの土屋農場の社務所があったという。
明治維新になって、土屋農場を作り、この地域の開墾を進めて、大農場を営み、地域の開墾入植者を募って人々に働く場などの提供をしてきたようです。
このため、この地では土屋正直は土屋の殿様などと慕って地域のきずなが強いようです。

車が通る道路わきに鳥居があり、そこから参道が真っ直ぐに続きます。
黄葉した木の葉が下に落ちて参道を埋めていました。
向かって左手は地域の公園になっており、その隣りには「土屋地区農村集落センター」の建物があります。

この「土屋稲荷神社」などの名前で立ち寄ったのです。少し変わっているでしょうか?
「なんでこんなところに寄るの?」などと言わそうですので、このようなところに行くのはいつも一人です。

稲荷神社の拝殿のすぐ横に立派な石碑が3つ置かれていました。
何だと思います?
美浦村村長の碑文が彫られています。すこし紹介します。
「土屋集落在住の還暦をこえる先達長命者を銘記し長寿を祝う記念碑の建立の偉業を讃え深甚の敬意を表しつつここに碑文を寄せるものである。
・・・・・当土屋集落は、その先陣を切り、今や二千数百の民を有する最大地区に飛躍をとげた。これは古い歴史とフロンティア開拓精神にあふれた土屋地区の魅力の賜であり、素朴にして善良な人々の連帯的地域づくりの成果である。・・・・」
そして「米寿」「喜寿」「古稀」「還暦」の人の名前が刻まれています。
10年ごとに作られているようです。
なにか美浦村の地域おこしの一角を見たような気がします。

少し見ていただけなのにもう日が沈んでしまいました。
見る場所により夕日の色合いも違って見えますね。
先日書いたように茨城県では東海村と美浦村だけが村のままで独自路線を歩んでいます。
今ではこの村も都会から多くの人が移り住んだりしているようです。
でもみんなが一緒になって村を守っていきたいと思っているようです。


阿弥神社(阿見町)(1)-物部氏の残した足跡
信太郡(しだぐん)の二ノ宮といわれる阿見町竹来(たけく)に鎮座する「阿弥(阿彌)(あみ)神社」に行ってみました。
先日美浦村の楯縫神社を紹介しましたが、この楯縫神社が一宮でこちらの阿弥(あみ)神社が二ノ宮というようだ。
常陸国風土記に「高来の里」と出てくるところだ。高来=竹来です。
「碓氷から西に行くと高来(たかく)の里がある。昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふつ)の大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った」(口訳・常陸国風土記)
普都大神=経津主神(ふつぬしのかみ)はこの地にやってきてこの一帯を支配したのでしょう。
そして香取神社に祭神として祀られているのです。
この経津主神は物部氏で海運にも長けていた武族だと思います。
厳の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉をすべて脱ぎ捨てていったのを祀ったのが先日紹介した「楯縫神社」だということになります。
やはりこの風土記に出てくる古くからの神社を踏破しておかなければ片手落ちだ。
ここ阿見町は土浦市のとなりにあり、霞ケ浦の陸上自衛隊霞ケ浦・土浦駐屯地や飛行場、また武器学校などがあります。
特に太平洋戦争中の特攻隊の予科練があったところで、今は「予科練平和記念館」が建っています。
また昭和初期にリンドバーク夫妻が飛行船でやってきた記念すべき場所でもあります。
この阿弥神社は県社でもあり格式の高い神社です。阿見町の名前の由来となっていると感じました。
銀杏の木が神社拝殿前にあるのですが、訪れる人も少なく、銀杏の葉のじゅうたんが出来ていました。
(訪れたのは12月10日です)



神楽殿。昔の神宮寺らしい

境内社。このほかに参道の途中から小道がのびており、幾つもの小さな祠が置かれている。
とても特徴的である。
(2011.12.10 撮影)
<明日へ続く>
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先日美浦村の楯縫神社を紹介しましたが、この楯縫神社が一宮でこちらの阿弥(あみ)神社が二ノ宮というようだ。
常陸国風土記に「高来の里」と出てくるところだ。高来=竹来です。
「碓氷から西に行くと高来(たかく)の里がある。昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふつ)の大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った」(口訳・常陸国風土記)
普都大神=経津主神(ふつぬしのかみ)はこの地にやってきてこの一帯を支配したのでしょう。
そして香取神社に祭神として祀られているのです。
この経津主神は物部氏で海運にも長けていた武族だと思います。
厳の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉をすべて脱ぎ捨てていったのを祀ったのが先日紹介した「楯縫神社」だということになります。
やはりこの風土記に出てくる古くからの神社を踏破しておかなければ片手落ちだ。
ここ阿見町は土浦市のとなりにあり、霞ケ浦の陸上自衛隊霞ケ浦・土浦駐屯地や飛行場、また武器学校などがあります。
特に太平洋戦争中の特攻隊の予科練があったところで、今は「予科練平和記念館」が建っています。
また昭和初期にリンドバーク夫妻が飛行船でやってきた記念すべき場所でもあります。
この阿弥神社は県社でもあり格式の高い神社です。阿見町の名前の由来となっていると感じました。
銀杏の木が神社拝殿前にあるのですが、訪れる人も少なく、銀杏の葉のじゅうたんが出来ていました。
(訪れたのは12月10日です)



神楽殿。昔の神宮寺らしい

境内社。このほかに参道の途中から小道がのびており、幾つもの小さな祠が置かれている。
とても特徴的である。
(2011.12.10 撮影)
<明日へ続く>


阿弥神社(阿見町)(2)-物部氏の残した足跡
ここ阿見町竹来(たかく)にある阿弥(阿彌)神社の続きです。
この神社の創建は607年、推古天皇(593-629)の年代と伝えられています。
昨日述べたようにここは物部の「普都大神」の降臨した地であり、中世では庄内第一の惣廟(そうびょう)として二の宮と呼ばれていたが、近世になって(明治6年10月)「阿弥神社」と改めたという。
この神社の祭神は「武甕槌命」となっており、香取の神ではなく鹿島の神である。
これはどういうことを表しているのだろうか。
藤原氏が天下をとるとその神(春日大社)は鹿島の神(武甕槌命タケミカヅチ)で、物部氏の足跡が消えていったのだと思います。
消えたというよりも取り込まれていってしまったのではないでしょうか。
(もう一つ阿見町には阿見地区に阿弥神社があります。こちらの祭神は、豊城入彦命です)

県社阿弥神社入口

両側には鬱蒼とした木々が聳えます。
ここは阿見町指定天然記念物の「阿弥神社樹叢(じゅそう)」です。
この神社神域の日本杉はいつからあるのかは文献は明らかではないそうで、300年以上前からあることは切り株などからわかっているだけだそうです。
しかし、この千数百年前からの歴史ある地域の樹叢を天然記念物に指定しています。

それにしてもこの神社も忘れられたように鎮座しています。
不思議です。

狛犬(阿型)

狛犬(吽型)

本殿。元禄4年(1691)の棟札がある。阿見町内では最古の建築だそうです。

吉田麦翠の句碑『湖の風も通うて夏木立』。
麦翠は地元竹来の人で、近世後期の町域農民に広く俳句を普及させました人です。
入口鳥居のすぐ近くの木の茂みの中に置かれています。
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この神社の創建は607年、推古天皇(593-629)の年代と伝えられています。
昨日述べたようにここは物部の「普都大神」の降臨した地であり、中世では庄内第一の惣廟(そうびょう)として二の宮と呼ばれていたが、近世になって(明治6年10月)「阿弥神社」と改めたという。
この神社の祭神は「武甕槌命」となっており、香取の神ではなく鹿島の神である。
これはどういうことを表しているのだろうか。
藤原氏が天下をとるとその神(春日大社)は鹿島の神(武甕槌命タケミカヅチ)で、物部氏の足跡が消えていったのだと思います。
消えたというよりも取り込まれていってしまったのではないでしょうか。
(もう一つ阿見町には阿見地区に阿弥神社があります。こちらの祭神は、豊城入彦命です)

県社阿弥神社入口

両側には鬱蒼とした木々が聳えます。
ここは阿見町指定天然記念物の「阿弥神社樹叢(じゅそう)」です。
この神社神域の日本杉はいつからあるのかは文献は明らかではないそうで、300年以上前からあることは切り株などからわかっているだけだそうです。
しかし、この千数百年前からの歴史ある地域の樹叢を天然記念物に指定しています。

それにしてもこの神社も忘れられたように鎮座しています。
不思議です。

狛犬(阿型)

狛犬(吽型)

本殿。元禄4年(1691)の棟札がある。阿見町内では最古の建築だそうです。

吉田麦翠の句碑『湖の風も通うて夏木立』。
麦翠は地元竹来の人で、近世後期の町域農民に広く俳句を普及させました人です。
入口鳥居のすぐ近くの木の茂みの中に置かれています。


山王山古墳(美浦村)
前に黒坂命(くろさかのみこと)の古墳かもしれないという所を紹介しました。(こちら)
この古墳は霞ケ浦のすぐ近くであり、海抜もそれほど高くなく、築造年代も5世紀半ばということで、黒坂命の古墳と考えるのは無理ではないかと書きました。
もっとも黒坂命は古墳時代より少し前のように考えていますので、どのように埋葬されたかはわかりません。
この古墳の近くに少し山の方にもう少し大きな古墳があります。「山王山古墳」です。

この山王山古墳は前に書いた黒坂命古墳(弁天塚古墳)よりもかなり大きいくて立派です。
名前の通り少し高台の山になっており、道はわかりにくいが、鳥居の横にも花が植えられ、地元の人がきれいに守ろうと活動されている。
とても気持ちが良い。

ここは山の上にある日枝神社で、創建は不明だ。
恐らく古墳が先にあって、その後に建てられたものであろう。

この神社の裏山一帯が古墳のようだ。かなり大きいと感じた。

現地説明看板「霞ケ浦を見渡す段丘先端部に築かれた円墳。未調査のため詳細は不明であるが、南側裾部には名前の由来となった日枝神社(祭神 大山咋神)が祭祀されている。そのため地形の改編変が認められるものの、自然地形を利用したと思われる範囲を加えると、径70mを越える村内最大級の円墳となり、本地域の盟主的な墳墓と考えられる。本古墳より北西約800mの位置には、古墳時代中期(5世紀)に比定される大型円墳を中心とした大塚古墳群が存在し、規模・立地に共通した傾向が認められることからその関係が注目される。 平成17(2005)年3月 美浦村教育委員会」とあります。

<黒坂命古墳、陸平貝塚などとの位置関係>(サムネルです。クリックで拡大します)
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この古墳は霞ケ浦のすぐ近くであり、海抜もそれほど高くなく、築造年代も5世紀半ばということで、黒坂命の古墳と考えるのは無理ではないかと書きました。
もっとも黒坂命は古墳時代より少し前のように考えていますので、どのように埋葬されたかはわかりません。
この古墳の近くに少し山の方にもう少し大きな古墳があります。「山王山古墳」です。

この山王山古墳は前に書いた黒坂命古墳(弁天塚古墳)よりもかなり大きいくて立派です。
名前の通り少し高台の山になっており、道はわかりにくいが、鳥居の横にも花が植えられ、地元の人がきれいに守ろうと活動されている。
とても気持ちが良い。

ここは山の上にある日枝神社で、創建は不明だ。
恐らく古墳が先にあって、その後に建てられたものであろう。

この神社の裏山一帯が古墳のようだ。かなり大きいと感じた。

現地説明看板「霞ケ浦を見渡す段丘先端部に築かれた円墳。未調査のため詳細は不明であるが、南側裾部には名前の由来となった日枝神社(祭神 大山咋神)が祭祀されている。そのため地形の改編変が認められるものの、自然地形を利用したと思われる範囲を加えると、径70mを越える村内最大級の円墳となり、本地域の盟主的な墳墓と考えられる。本古墳より北西約800mの位置には、古墳時代中期(5世紀)に比定される大型円墳を中心とした大塚古墳群が存在し、規模・立地に共通した傾向が認められることからその関係が注目される。 平成17(2005)年3月 美浦村教育委員会」とあります。

<黒坂命古墳、陸平貝塚などとの位置関係>(サムネルです。クリックで拡大します)


景行天皇行在所跡(お伊勢の台)
霞ケ浦の南側湖岸を旅すると、この地の古い遺跡が多く眠っているのに驚かされると思います。
しかし、そのほとんどが感心も持たれずにひっそりと眠っています。
確かに貝塚などの遺跡を除けばお話に登場する程度で、本当かどうかも疑われるようなものかもしれません。
今日は常陸国風土記に出てくる稲敷市の浮島に眠る遺跡です。
名前の通り、昔は霞ケ浦に浮かぶ島だったところです。
茨城の県名のいわれという黒坂命(くろさかのみこと)はこの地にやってきてここから北の方を制圧していき、日立市北部の竪破山までいって死んだとされます。
そしてこの霞ケ浦が見える地に埋葬されたと伝えられるのです。
さて黒坂命の多分数十年後だと推察されるのですが、景行天皇の第2皇子といわれるヤマトタケル(日本武尊)がこの地にやってきます。
そして、この湖を渡り対岸の行方を含め、東国の地を平定して故郷に戻る途中(伊勢)で病で亡くなったといわれています。
さて、常陸国風土記には、この地に息子ヤマトタケルの辿った跡を偲んで景行天皇がこの地にやってきたと記されています。
信太郡の条に「郡より北十里のところに、碓氷がある。昔、大足日子(おほたらしひこ)の天皇(景行天皇)が浮島(うきしま)の帳(とばり)の宮に行幸されたときに、飲み水に困った。そこで占部(うらべ)をして占ひをさせて、井戸を掘らしめた。その井戸は、今も雄栗(をぐり)の村にある」(口訳・常陸国風土記)
と書かれています。
さてこれだけだとよくわかりませんね。
景行天皇は、この浮島に来て帳(とばり)の宮(仮宮)に行き、そこにしばらく滞在したと思われます。
その場所が今回紹介する「景行天皇行在所(あんざいしょ)跡」でお伊勢の台と呼ばれる丘なのです。
風土記の逸文では、この行宮に三十日(みそか)滞在したとあり、この島にいる「賀久賀鳥(かくがどり)」のさえずる声が可愛らしかったので伊賀理命を遣わして網を張ってこの鳥を捕まえさせたといいます。
そして、この鳥を捕まえた伊賀理命に「鳥取」という名前を与えたのです。
どうして出雲の国とつながる話がこの地に出てくるのか不思議です。
景行天皇は西暦71年~130年となっていますが、これはサバを読み過ぎで、実際には4世紀初め頃の話だと思います。

浮島地区に入り右側に小山が見えてきたのでここが浮島かと思ったが、辺りには何もない・・・。
店舗やガソリンスタンドも閉鎖されたところが多い。

そのまま進むと真っ直ぐ行く道の両側は田圃や畑など一面の平地となる。
昔はこの辺り一帯が海(湖)であったのだろうと想像しながら、その先に見える丘(多分浮島)を目指す。

浮島に入り、浮島小学校の少し先の左側に「景行天皇行在所」の看板が見えた。
すぐ手前が農家の直売所のような建物があり駐車もできるが、店はやっておらず、辺りにはだれもいない。

階段を登ると少し広くなった小山の上に石碑が置かれていた。
さて、このような話は何処まで信じることができるかはどちらかというとあまり関心はないのですが、何故ここにこのような話が伝わっているのかが面白いのです。
東京墨田区堤通に「隅田川神社」が鎮座しています。この神社は昔「浮島宮」と言われたそうです。
浮島宮はこの景行天皇の行宮のことで、それが隅田川に移されたものだと伝えられています。
でも、この浮島の現地にはそんなことは何処にも書かれていないのです。
まだまだわからないことがたくさんありそうです。
この隅田川神社(浮島宮)は鳥石楠船命(とりのいわくすふね)を祀っているそうです。
まえに那珂川を少しさかのぼった旧桂村の粟、阿波地方にある石船神社を紹介しましたが、どこかでつながっていそうです。
天狗の大杉神社(通称あんば様)もすぐ近くです。やはり物部氏とかかわっていたのでしょうか。
香取神宮にもすぐ行けます。
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しかし、そのほとんどが感心も持たれずにひっそりと眠っています。
確かに貝塚などの遺跡を除けばお話に登場する程度で、本当かどうかも疑われるようなものかもしれません。
今日は常陸国風土記に出てくる稲敷市の浮島に眠る遺跡です。
名前の通り、昔は霞ケ浦に浮かぶ島だったところです。
茨城の県名のいわれという黒坂命(くろさかのみこと)はこの地にやってきてここから北の方を制圧していき、日立市北部の竪破山までいって死んだとされます。
そしてこの霞ケ浦が見える地に埋葬されたと伝えられるのです。
さて黒坂命の多分数十年後だと推察されるのですが、景行天皇の第2皇子といわれるヤマトタケル(日本武尊)がこの地にやってきます。
そして、この湖を渡り対岸の行方を含め、東国の地を平定して故郷に戻る途中(伊勢)で病で亡くなったといわれています。
さて、常陸国風土記には、この地に息子ヤマトタケルの辿った跡を偲んで景行天皇がこの地にやってきたと記されています。
信太郡の条に「郡より北十里のところに、碓氷がある。昔、大足日子(おほたらしひこ)の天皇(景行天皇)が浮島(うきしま)の帳(とばり)の宮に行幸されたときに、飲み水に困った。そこで占部(うらべ)をして占ひをさせて、井戸を掘らしめた。その井戸は、今も雄栗(をぐり)の村にある」(口訳・常陸国風土記)
と書かれています。
さてこれだけだとよくわかりませんね。
景行天皇は、この浮島に来て帳(とばり)の宮(仮宮)に行き、そこにしばらく滞在したと思われます。
その場所が今回紹介する「景行天皇行在所(あんざいしょ)跡」でお伊勢の台と呼ばれる丘なのです。
風土記の逸文では、この行宮に三十日(みそか)滞在したとあり、この島にいる「賀久賀鳥(かくがどり)」のさえずる声が可愛らしかったので伊賀理命を遣わして網を張ってこの鳥を捕まえさせたといいます。
そして、この鳥を捕まえた伊賀理命に「鳥取」という名前を与えたのです。
どうして出雲の国とつながる話がこの地に出てくるのか不思議です。
景行天皇は西暦71年~130年となっていますが、これはサバを読み過ぎで、実際には4世紀初め頃の話だと思います。

浮島地区に入り右側に小山が見えてきたのでここが浮島かと思ったが、辺りには何もない・・・。
店舗やガソリンスタンドも閉鎖されたところが多い。

そのまま進むと真っ直ぐ行く道の両側は田圃や畑など一面の平地となる。
昔はこの辺り一帯が海(湖)であったのだろうと想像しながら、その先に見える丘(多分浮島)を目指す。

浮島に入り、浮島小学校の少し先の左側に「景行天皇行在所」の看板が見えた。
すぐ手前が農家の直売所のような建物があり駐車もできるが、店はやっておらず、辺りにはだれもいない。

階段を登ると少し広くなった小山の上に石碑が置かれていた。
さて、このような話は何処まで信じることができるかはどちらかというとあまり関心はないのですが、何故ここにこのような話が伝わっているのかが面白いのです。
東京墨田区堤通に「隅田川神社」が鎮座しています。この神社は昔「浮島宮」と言われたそうです。
浮島宮はこの景行天皇の行宮のことで、それが隅田川に移されたものだと伝えられています。
でも、この浮島の現地にはそんなことは何処にも書かれていないのです。
まだまだわからないことがたくさんありそうです。
この隅田川神社(浮島宮)は鳥石楠船命(とりのいわくすふね)を祀っているそうです。
まえに那珂川を少しさかのぼった旧桂村の粟、阿波地方にある石船神社を紹介しましたが、どこかでつながっていそうです。
天狗の大杉神社(通称あんば様)もすぐ近くです。やはり物部氏とかかわっていたのでしょうか。
香取神宮にもすぐ行けます。


浮島と製塩(広畑貝塚)
ここ数日前から縄文海進で5000年ほど前には海面が5mくらい高かったのではないかと書いてきました。
これは、色々な文献にも書いてあることですし貝塚などの分布でもある程度推察できるようです。
しかし、最近この高さがもう少し低く+2~3m程度ではないかとも言われています。
前に紹介したFlood Mapsというソフトで+5mくらい海面が高いとして地形を眺めて見ると、むかしのことが書かれている風土記などの書物や、その地に残っている地名、言い伝えなどの話との辻褄が合ってくると考えていました。
これを+2mくらいかもしれないという事象が今回紹介する「広畑貝塚」という場所の存在です。
先日、稲敷市浮島を散策して偶然にその場所の存在がわかったところですが、国の史跡に認定されているそうです。

浮島の真中を走る街道にも近く、ただの空地に案内板が置かれています。

特に目立って特徴的なものはありません。こんなところでも貝塚が発見されたのだと思う程度です。
ただの平地に見えます。

でもとても不思議なことが書かれています。
上の現地案内板に書かれている内容がわかりますか?
最初に読んでもよくわからないのですが、これはとんでもないことが書かれているように感じています。
1)日本の製塩技術は何時頃から行なわれてきたのか?
2)何処から伝えられたのか?
3)この場所はこの土器が使われていた時に陸地であったのか?
これらの疑問を解く時に、まず最初に常陸国風土記の内容を少し理解してから話を進めましょう。
常陸国風土記の信太郡のところに
「昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜(のりはま)に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。(略)
乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしてゐる。」(口訳・常陸国風土記より)
という記述があります。
倭武の天皇は天皇と書かれていますが、ヤマトタケルのことです。
昨日書いた「景行天皇」はこの日本武尊(ヤマトタケル)の父親とみなされています。
また浮島の村の人家は十五軒とありますが、昔は1軒(竈が1個)で10人近くが生活していたようなので100人以上いたのではないかと思われます。
常陸国風土記が書かれたのは奈良時代初期の713年頃に編纂されたもので、この日本武尊が浮島に来たのはそれより400年くらい前の4世紀初め頃ではないかと思われます。
ここに書かれている製塩の事象が事実なら4世紀には製塩が行なわれていたことになります。
まあ、考古学者でもないのでこれ以上調べる根気もないので、話は問題提起だけにしておきますが、考古学上はこの製塩土器というのは皆さん知っていることらしいのです。
でも一般にはほとんど知られていないですね。
製塩用の土器に海藻を利用して採ったかん水を入れ煮つめて塩を作るもののようです。
ここの浮島は風土記には海苔が採れたとも書いてあります。
ではいったい何時頃から行なわれてきたのでしょう。
全国に製塩土器が発見されているようなのですが、ここの常陸国(茨城)がもっとも古いようです。
(たばこと塩の博物館より塩の歴史→こちらを参考にしました)
さて、現地の説明板によれば、この広畑貝塚からは縄文時代と弥生時代の遺跡が階層的に見つかっているようで、ここに書いた製塩土器は縄文時代のものだというのです。
そうすると、もしかしたらこの貝塚が製塩土器の最古のものかもしれません。
紀元前1000年頃の物になりそうです。
今から3000年ほど前のことになりますね。
しかし、この発見された場所は説明にある通り海抜が+1.5~2mくらいのところにあります。
ということは、3000年前はこの辺りの海面は今より1.5~2mくらい高い程度であったと考えられます。
また良くわからなくなりました。地形的には今から+2mも+5mも大きく変化はありません。
このあたりも水田やレンコン畑などは皆低地に作られており、その場所が昔海(湖)であったというのはごく当たり前のように考えられます。
(下の地図はサムネルです。クリックすれば大きくなります)

(海面が今より+5mとした時の地図)

(海面が今より+2mとした時の地図)
上の2つの地図を比べてもあまり大きな違いはありません。
(+2mでは川と思われるところがところどころが陸のようになってしまいますが、実際は土がもられたり、建物があるので白く陸地のようになっているだけでそこは水面になるはずだと思われます。)
しかし、昔の道をたどっていくと+5mくらい海面が高い状態と考えるとつじつまがあってくるのです。
ここはただのブログの1ページにすぎませんので、興味があったら学術的なことは別なところを調べてくださいね。
これだけでも論文になるテーマでしょう。
場所は浮島と言うよりも古渡(ふっと)に近い方で、常陸風土記に書かれている「乗浜」の近くではないかと思われます。
問題提起だけでしたが、長文になってしまいました。失礼しました。
← よろしければクリックお願いします。
これは、色々な文献にも書いてあることですし貝塚などの分布でもある程度推察できるようです。
しかし、最近この高さがもう少し低く+2~3m程度ではないかとも言われています。
前に紹介したFlood Mapsというソフトで+5mくらい海面が高いとして地形を眺めて見ると、むかしのことが書かれている風土記などの書物や、その地に残っている地名、言い伝えなどの話との辻褄が合ってくると考えていました。
これを+2mくらいかもしれないという事象が今回紹介する「広畑貝塚」という場所の存在です。
先日、稲敷市浮島を散策して偶然にその場所の存在がわかったところですが、国の史跡に認定されているそうです。

浮島の真中を走る街道にも近く、ただの空地に案内板が置かれています。

特に目立って特徴的なものはありません。こんなところでも貝塚が発見されたのだと思う程度です。
ただの平地に見えます。

でもとても不思議なことが書かれています。
上の現地案内板に書かれている内容がわかりますか?
最初に読んでもよくわからないのですが、これはとんでもないことが書かれているように感じています。
1)日本の製塩技術は何時頃から行なわれてきたのか?
2)何処から伝えられたのか?
3)この場所はこの土器が使われていた時に陸地であったのか?
これらの疑問を解く時に、まず最初に常陸国風土記の内容を少し理解してから話を進めましょう。
常陸国風土記の信太郡のところに
「昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜(のりはま)に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。(略)
乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしてゐる。」(口訳・常陸国風土記より)
という記述があります。
倭武の天皇は天皇と書かれていますが、ヤマトタケルのことです。
昨日書いた「景行天皇」はこの日本武尊(ヤマトタケル)の父親とみなされています。
また浮島の村の人家は十五軒とありますが、昔は1軒(竈が1個)で10人近くが生活していたようなので100人以上いたのではないかと思われます。
常陸国風土記が書かれたのは奈良時代初期の713年頃に編纂されたもので、この日本武尊が浮島に来たのはそれより400年くらい前の4世紀初め頃ではないかと思われます。
ここに書かれている製塩の事象が事実なら4世紀には製塩が行なわれていたことになります。
まあ、考古学者でもないのでこれ以上調べる根気もないので、話は問題提起だけにしておきますが、考古学上はこの製塩土器というのは皆さん知っていることらしいのです。
でも一般にはほとんど知られていないですね。
製塩用の土器に海藻を利用して採ったかん水を入れ煮つめて塩を作るもののようです。
ここの浮島は風土記には海苔が採れたとも書いてあります。
ではいったい何時頃から行なわれてきたのでしょう。
全国に製塩土器が発見されているようなのですが、ここの常陸国(茨城)がもっとも古いようです。
(たばこと塩の博物館より塩の歴史→こちらを参考にしました)
さて、現地の説明板によれば、この広畑貝塚からは縄文時代と弥生時代の遺跡が階層的に見つかっているようで、ここに書いた製塩土器は縄文時代のものだというのです。
そうすると、もしかしたらこの貝塚が製塩土器の最古のものかもしれません。
紀元前1000年頃の物になりそうです。
今から3000年ほど前のことになりますね。
しかし、この発見された場所は説明にある通り海抜が+1.5~2mくらいのところにあります。
ということは、3000年前はこの辺りの海面は今より1.5~2mくらい高い程度であったと考えられます。
また良くわからなくなりました。地形的には今から+2mも+5mも大きく変化はありません。
このあたりも水田やレンコン畑などは皆低地に作られており、その場所が昔海(湖)であったというのはごく当たり前のように考えられます。
(下の地図はサムネルです。クリックすれば大きくなります)

(海面が今より+5mとした時の地図)

(海面が今より+2mとした時の地図)
上の2つの地図を比べてもあまり大きな違いはありません。
(+2mでは川と思われるところがところどころが陸のようになってしまいますが、実際は土がもられたり、建物があるので白く陸地のようになっているだけでそこは水面になるはずだと思われます。)
しかし、昔の道をたどっていくと+5mくらい海面が高い状態と考えるとつじつまがあってくるのです。
ここはただのブログの1ページにすぎませんので、興味があったら学術的なことは別なところを調べてくださいね。
これだけでも論文になるテーマでしょう。
場所は浮島と言うよりも古渡(ふっと)に近い方で、常陸風土記に書かれている「乗浜」の近くではないかと思われます。
問題提起だけでしたが、長文になってしまいました。失礼しました。


予科練平和公園と武器学校
土浦の隣りの阿見町には陸上自衛隊の広大な施設が広がっている。
そして、太平洋戦争の時の「予科練(海軍飛行予科練習生)」の飛行訓練場(霞ケ浦海軍航空隊)があったことで知られている。
航空隊は元々は横須賀の追浜にあったが、手狭になって昭和14年にこの霞ケ浦に移ってきたものだ。
日本が太平洋戦争に参戦したのはその2年半後であった。
しかし、戦争末期にはこの予科練を卒業した多くの若者が特攻隊として飛び立っていった。
今から思えば、いやな思い出だ。皆お国のために・・・と志願していったものが多い。
戦後65年以上が経ち、2010年2月に、この場所に「予科練平和祈念館」が建設された。
昔の写真などや資料などが展示され、有料(一般500円)だが一度訪れて見てもいいのではないだろうか。
(内容はこちら)(学芸員の方のブログはこちら)
この記念館の建設と同時に、となりの敷地に比較的広々とした公園が出来、芝生の山や、子どもの遊具もあり市民の憩いの広場になっています。

平和記念館の建物は空をイメージするガラス張りの窓が多いきれいな建物となっています。

私は中に入らなかったのですが、7つボタンにちなんで7つの展示室があるといいます。
土門拳氏の写真などを含め、貴重な写真や資料が展示され、二度と悲惨な戦争を繰り返さないように念じられて建設されたものです。

隣りの公園には小さな子供連れの親子がたくさん来ていました。
この小山では小さな子供がボールを転がしてニコニコ遊んでいました。

公園の遊具の向こうに青い霞ケ浦の湖面が光っています。

空には凧が泳いでいます。とてものどかで、昔の悲惨なイメージは何処にもありません。

平和記念館の公園と反対側は「陸上自衛隊土浦駐屯地」で通称「武器学校」というちょっと物騒な名前がついています。
この記念館側から内部の施設を見学できるようです。
見学の出来る内部の建物「雄翔館」は、予科練出身者の方によって昭和41年に建てられたもので、当時の遺品など貴重な資料が展示されているようです。
こちらの見学は無料のようですが、一人だと入るのに勇気が必要ですね。
残念ながら入口で引き返してしまいました。(この公園は通り道に寄っただけで、その先に探索すべき場所がたくさんあったので先を急いでいたと言い訳しておきます。(汗))

こちらが昔からの武器学校の入口門です。記念館がお休みの日はこちらから見学できるそうです。
内部には戦車や対戦車砲などかなり見ることができるようです。(何処まで見せていただけるかはわかりません)
興味のおありになる方は見学されては如何でしょうか。
私の関心を抱いている古代の話とはかけ離れておりますが、このような場所があることも知っておくべきでしょうね。
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そして、太平洋戦争の時の「予科練(海軍飛行予科練習生)」の飛行訓練場(霞ケ浦海軍航空隊)があったことで知られている。
航空隊は元々は横須賀の追浜にあったが、手狭になって昭和14年にこの霞ケ浦に移ってきたものだ。
日本が太平洋戦争に参戦したのはその2年半後であった。
しかし、戦争末期にはこの予科練を卒業した多くの若者が特攻隊として飛び立っていった。
今から思えば、いやな思い出だ。皆お国のために・・・と志願していったものが多い。
戦後65年以上が経ち、2010年2月に、この場所に「予科練平和祈念館」が建設された。
昔の写真などや資料などが展示され、有料(一般500円)だが一度訪れて見てもいいのではないだろうか。
(内容はこちら)(学芸員の方のブログはこちら)
この記念館の建設と同時に、となりの敷地に比較的広々とした公園が出来、芝生の山や、子どもの遊具もあり市民の憩いの広場になっています。

平和記念館の建物は空をイメージするガラス張りの窓が多いきれいな建物となっています。

私は中に入らなかったのですが、7つボタンにちなんで7つの展示室があるといいます。
土門拳氏の写真などを含め、貴重な写真や資料が展示され、二度と悲惨な戦争を繰り返さないように念じられて建設されたものです。

隣りの公園には小さな子供連れの親子がたくさん来ていました。
この小山では小さな子供がボールを転がしてニコニコ遊んでいました。

公園の遊具の向こうに青い霞ケ浦の湖面が光っています。

空には凧が泳いでいます。とてものどかで、昔の悲惨なイメージは何処にもありません。

平和記念館の公園と反対側は「陸上自衛隊土浦駐屯地」で通称「武器学校」というちょっと物騒な名前がついています。
この記念館側から内部の施設を見学できるようです。
見学の出来る内部の建物「雄翔館」は、予科練出身者の方によって昭和41年に建てられたもので、当時の遺品など貴重な資料が展示されているようです。
こちらの見学は無料のようですが、一人だと入るのに勇気が必要ですね。
残念ながら入口で引き返してしまいました。(この公園は通り道に寄っただけで、その先に探索すべき場所がたくさんあったので先を急いでいたと言い訳しておきます。(汗))

こちらが昔からの武器学校の入口門です。記念館がお休みの日はこちらから見学できるそうです。
内部には戦車や対戦車砲などかなり見ることができるようです。(何処まで見せていただけるかはわかりません)
興味のおありになる方は見学されては如何でしょうか。
私の関心を抱いている古代の話とはかけ離れておりますが、このような場所があることも知っておくべきでしょうね。


毘沙門堂(浮島)
稲敷市浮島へ行ってみて、このブログを始める前の私だったらきっと「なんだ、何にもないところだな!」と思って通り過ぎていたことだと思います。
それがこのブログを書くようになって、そこに眠っているものに目を向けるようになると、ここが宝の山になってくるのですから不思議です。
まあ興味のない方にとっては「つまんね~」といったものなのですが・・・
自分にとっては何故か面白くてしょうがないのです。
今日は昔、霞ケ浦(流れ海、香取の海)に浮かんだ島であったという浮島で偶然通りかかった時に見つけた古びたお堂についてです。

お堂の前には古びた狛犬がいます。なかなか趣のある参道です。これは何という神社か?

お堂の入口にはしめ縄が。やはり神社か?
お堂に架かっている額には「多聞天」と読めます。
多聞天は仏教で言う四天王の1尊で、普通「毘沙門」と呼ばれているのでここは「毘沙門堂」のようです。

境内の何処にも書かれたものはありません。ただあちこちに古びた石像や石碑が置かれています
大杉明神などと書かれた祠のようなものもあります。

石灯篭の模様もかなり凝ったものです。

この狛犬もいい感じです。頭の上がくぼんだ変わった狛犬です。

さてこれは誰の像でしょうか?
毘沙門堂の縁の左隅に置かれていました。

新四国八十八とは?
調べると各地に新四国霊場があるようです。

これは何でしょうか。
手が6本ですから「愛染明王」でしょうか。
それではこの愛染明王の下には人間が踏みつけられたようになっていて、その下にはこれは「見ざる・聞かざる・言わざる」の3人(3匹)が彫られています。
追記:2012年4月9日
この像について同じものを見つけました。
その説明書きで内容がわかりました
これは庚申塔といい60日に1度めぐってくる庚申(かのえさる)の日に、長寿を願って徹夜で過ごす庚申待ちの行事が江戸時代に庶民の間で行われたそうです。この時に庚申講中によってこのような塔が建てられたといいます。
青面金剛像の下が邪鬼と三猿(見ざる、聞かざる。言わざる)が彫られており、体内に住む三尺(さんし)という虫が人間の寿命を縮めるという道教の教えに従って、寝ないで見張るという。

これは大乗妙典の記念碑でしょう。日本各地に仏教の経典を配り終えた記念でしょうか。
何か色々なものが雑多にあるようにも思います。
しかし一番気になるのはこの浮島は香取神宮にも近く物部氏族がやってきたところでしょう。
そこに四天王の一尊である多聞天(毘沙門天)が祀られているのです。
聖徳太子は仏教を広め、蘇我馬子と共に物部守屋をやっつけ、四天王寺を建立し物部氏を滅亡に追い込んだのです。
毘沙門天というと旗印にもしている上杉謙信がおります。
また坂上田村麻呂が平泉にある達谷窟(たっこくのいわや)でアテルイなどが率いた蝦夷を制圧した場所に、田村麻呂が建てたのは「毘沙門堂」でした。
これは聖徳太子が物部守屋との戦いの中で、ヌリデの木から四天王の像を作り、束髪の上にのせ、戦勝を誓って願掛けし、「敵に勝つことができたら四天王のために寺塔を建てよう」と誓ったことが、これらの武人立ちのよりどころになっていたと思われます。
聖徳太子はこの祈願が成就されたことで四天王寺を建立したといわれているそうです。
でも何故この地に毘沙門堂が建てられたのでしょうか?
今はわかりません。そのうちにわかるかもしれませんね。
地図を貼りつけようと見ていたらやはり毘沙門堂とあります。そばに多聞院も書かれています。
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それがこのブログを書くようになって、そこに眠っているものに目を向けるようになると、ここが宝の山になってくるのですから不思議です。
まあ興味のない方にとっては「つまんね~」といったものなのですが・・・
自分にとっては何故か面白くてしょうがないのです。
今日は昔、霞ケ浦(流れ海、香取の海)に浮かんだ島であったという浮島で偶然通りかかった時に見つけた古びたお堂についてです。

お堂の前には古びた狛犬がいます。なかなか趣のある参道です。これは何という神社か?

お堂の入口にはしめ縄が。やはり神社か?
お堂に架かっている額には「多聞天」と読めます。
多聞天は仏教で言う四天王の1尊で、普通「毘沙門」と呼ばれているのでここは「毘沙門堂」のようです。

境内の何処にも書かれたものはありません。ただあちこちに古びた石像や石碑が置かれています
大杉明神などと書かれた祠のようなものもあります。

石灯篭の模様もかなり凝ったものです。

この狛犬もいい感じです。頭の上がくぼんだ変わった狛犬です。

さてこれは誰の像でしょうか?
毘沙門堂の縁の左隅に置かれていました。

新四国八十八とは?
調べると各地に新四国霊場があるようです。

これは何でしょうか。
手が6本ですから「愛染明王」でしょうか。
それではこの愛染明王の下には人間が踏みつけられたようになっていて、その下にはこれは「見ざる・聞かざる・言わざる」の3人(3匹)が彫られています。
追記:2012年4月9日
この像について同じものを見つけました。
その説明書きで内容がわかりました
これは庚申塔といい60日に1度めぐってくる庚申(かのえさる)の日に、長寿を願って徹夜で過ごす庚申待ちの行事が江戸時代に庶民の間で行われたそうです。この時に庚申講中によってこのような塔が建てられたといいます。
青面金剛像の下が邪鬼と三猿(見ざる、聞かざる。言わざる)が彫られており、体内に住む三尺(さんし)という虫が人間の寿命を縮めるという道教の教えに従って、寝ないで見張るという。

これは大乗妙典の記念碑でしょう。日本各地に仏教の経典を配り終えた記念でしょうか。
何か色々なものが雑多にあるようにも思います。
しかし一番気になるのはこの浮島は香取神宮にも近く物部氏族がやってきたところでしょう。
そこに四天王の一尊である多聞天(毘沙門天)が祀られているのです。
聖徳太子は仏教を広め、蘇我馬子と共に物部守屋をやっつけ、四天王寺を建立し物部氏を滅亡に追い込んだのです。
毘沙門天というと旗印にもしている上杉謙信がおります。
また坂上田村麻呂が平泉にある達谷窟(たっこくのいわや)でアテルイなどが率いた蝦夷を制圧した場所に、田村麻呂が建てたのは「毘沙門堂」でした。
これは聖徳太子が物部守屋との戦いの中で、ヌリデの木から四天王の像を作り、束髪の上にのせ、戦勝を誓って願掛けし、「敵に勝つことができたら四天王のために寺塔を建てよう」と誓ったことが、これらの武人立ちのよりどころになっていたと思われます。
聖徳太子はこの祈願が成就されたことで四天王寺を建立したといわれているそうです。
でも何故この地に毘沙門堂が建てられたのでしょうか?
今はわかりません。そのうちにわかるかもしれませんね。
地図を貼りつけようと見ていたらやはり毘沙門堂とあります。そばに多聞院も書かれています。


茨城百景古渡の湖畔
今日は寒いですね。こちらは雪にはならなかったようですが、都心は少し白くなったみたいですね。
ただ今夜あたり少し降るかもしれませんね。
でも寒いのはやはり嫌です。家の中で暖かくして居ようと思います。
この古渡(ふっと)については今までに縄文語の地名ではないかと紹介したことがありました(こちら)。
また、この湖畔の写真も一度(昨年2月)紹介したように思います。
でもまた浮島の手前のこの湖畔も再度載せておきたくなりました。

「茨城百景古渡の湖畔」の石碑は傾いているようですね。

小野川は昔はこの辺りは結構広かったと思います。
この少し上流を「常陸国風土記」では「榎(え)の浦の津」といい「駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神を遥拝し、そののちに国に入ることができる」(口訳・常陸国風土記)と書かれています。

この緑の橋は旧道側の橋なのです。新しい橋のように感じます。
国道125号線からこの橋を渡って古渡の町に入ります。

この湖畔からも筑波山が良く見えます。
古東海道が霞ケ浦を渡ったとしたら、「榎の浦の津」から小舟に乗りこの古渡からそのまま霞ケ浦に漕ぎだして対岸に渡ったのかもしれません。
高浜(石岡市)の湊にそのまま漕いで行けたのかもしれません。
天気が悪く三叉沖(みつまたおき)が荒れた時は牛渡地区に上陸したのかもしれません。
古渡=ふっと、牛渡=うしわた ですから読みも難しいし奈良朝の頃の時代に何があったのか・・・・
古に想いが行ってしまいます。
そういえば昨日書いた「毘沙門堂」のある場所は 馬渡=まわたり といいます。
色々なことが想像されます。

小野川から霞ケ浦につながる景観。
この古渡(ふっと)は縄文語(アイヌ語)とも思いますが、この小野川が霞ケ浦に注ぐところなので「ふっと」の「と」は「江戸」の「戸」と同じかもしれません。
この川を少し上ったところに「江戸崎」というこのあたりの中心地があります。

この古渡橋のところで管理区分が変わります。霞ケ浦は国の管理、川は県の管理です。
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ただ今夜あたり少し降るかもしれませんね。
でも寒いのはやはり嫌です。家の中で暖かくして居ようと思います。
この古渡(ふっと)については今までに縄文語の地名ではないかと紹介したことがありました(こちら)。
また、この湖畔の写真も一度(昨年2月)紹介したように思います。
でもまた浮島の手前のこの湖畔も再度載せておきたくなりました。

「茨城百景古渡の湖畔」の石碑は傾いているようですね。

小野川は昔はこの辺りは結構広かったと思います。
この少し上流を「常陸国風土記」では「榎(え)の浦の津」といい「駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神を遥拝し、そののちに国に入ることができる」(口訳・常陸国風土記)と書かれています。

この緑の橋は旧道側の橋なのです。新しい橋のように感じます。
国道125号線からこの橋を渡って古渡の町に入ります。

この湖畔からも筑波山が良く見えます。
古東海道が霞ケ浦を渡ったとしたら、「榎の浦の津」から小舟に乗りこの古渡からそのまま霞ケ浦に漕ぎだして対岸に渡ったのかもしれません。
高浜(石岡市)の湊にそのまま漕いで行けたのかもしれません。
天気が悪く三叉沖(みつまたおき)が荒れた時は牛渡地区に上陸したのかもしれません。
古渡=ふっと、牛渡=うしわた ですから読みも難しいし奈良朝の頃の時代に何があったのか・・・・
古に想いが行ってしまいます。
そういえば昨日書いた「毘沙門堂」のある場所は 馬渡=まわたり といいます。
色々なことが想像されます。

小野川から霞ケ浦につながる景観。
この古渡(ふっと)は縄文語(アイヌ語)とも思いますが、この小野川が霞ケ浦に注ぐところなので「ふっと」の「と」は「江戸」の「戸」と同じかもしれません。
この川を少し上ったところに「江戸崎」というこのあたりの中心地があります。

この古渡橋のところで管理区分が変わります。霞ケ浦は国の管理、川は県の管理です。


不許葷酒入山門
先日紹介した稲敷市古渡(ふっと)の湖畔の近くに「興禅寺」という禅寺がある。
古渡の町も少し国道がバイパスしてしまったせいか街中はひっそりとしていた。
その旧道の中間ほどに「延命地蔵尊興禅寺」という看板を見つけたので奥まった寺の方に行ってみた。

お寺の入口に古びた山門が迎えてくれた。
地震の影響かロープが張られて山門をくぐることが禁止されていたが、門の入口に「不許葷酒入山」と書かれていた。
これは調べて見ると禅寺で良く書かれているそうで、「葷酒(くんしゅ)の山門に入るを許さず」という意味で、葷酒(くんしゅ)とはニンニクやニラなど臭いの強い食べた者や酒くさい者はここから入ってはいけないという意味だといいます。

この山門も結構趣のある山門です。2階建の楼門形式の門です。

こちらが「地蔵堂(延命地蔵尊)」でしょう。今の寺の本堂はこの先の方に立派な建物が立っています。
書かれた案内板に寄れば
「応保年間、平治の乱に源氏の将来を案じて一族中ただ一人平家と行いを共にした源頼政公が、当時草庵程度の小寺であったものを増建し源氏の繁栄を祈ったのが開基といわれています。 その後嘉禄年間、頼朝の室政子の方が鹿島参拝の折、当寺にも参詣され、その衰微を嘆いて復興を命じ再建されましたが、これを機に真言宗から臨済宗に移りました。この時、後鳥羽院ご下賜の延命地蔵尊を安置して建設されたのが地蔵堂の縁起といわれ、今も安産子育ての守護仏として信仰を集めています。 山号は政子の方の諱(いみな)(長松院殿如実二位禅尼)にちなみ長松山と号し、江戸期以降に曹洞宗に属しています。」
と書かれています。

お堂の後ろ側に回って写真をとりました。山門がちょこんと建っているのがわかるでしょう。

この寺の入口に続く参道は両脇に桜の古木が並んでいます。
春にはきれいな桜並木が出来るといいます。
この寺は「延命地蔵尊」が祀られ、子育て・安産の祈願寺としてにぎわったといいます。
延命地蔵ですから長生きを祈願すると思いましたが、元来の意味は少し違うようです。
安産と生まれてきた子供の長生きを祈願するのだといいます。
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古渡の町も少し国道がバイパスしてしまったせいか街中はひっそりとしていた。
その旧道の中間ほどに「延命地蔵尊興禅寺」という看板を見つけたので奥まった寺の方に行ってみた。

お寺の入口に古びた山門が迎えてくれた。
地震の影響かロープが張られて山門をくぐることが禁止されていたが、門の入口に「不許葷酒入山」と書かれていた。
これは調べて見ると禅寺で良く書かれているそうで、「葷酒(くんしゅ)の山門に入るを許さず」という意味で、葷酒(くんしゅ)とはニンニクやニラなど臭いの強い食べた者や酒くさい者はここから入ってはいけないという意味だといいます。

この山門も結構趣のある山門です。2階建の楼門形式の門です。

こちらが「地蔵堂(延命地蔵尊)」でしょう。今の寺の本堂はこの先の方に立派な建物が立っています。
書かれた案内板に寄れば
「応保年間、平治の乱に源氏の将来を案じて一族中ただ一人平家と行いを共にした源頼政公が、当時草庵程度の小寺であったものを増建し源氏の繁栄を祈ったのが開基といわれています。 その後嘉禄年間、頼朝の室政子の方が鹿島参拝の折、当寺にも参詣され、その衰微を嘆いて復興を命じ再建されましたが、これを機に真言宗から臨済宗に移りました。この時、後鳥羽院ご下賜の延命地蔵尊を安置して建設されたのが地蔵堂の縁起といわれ、今も安産子育ての守護仏として信仰を集めています。 山号は政子の方の諱(いみな)(長松院殿如実二位禅尼)にちなみ長松山と号し、江戸期以降に曹洞宗に属しています。」
と書かれています。

お堂の後ろ側に回って写真をとりました。山門がちょこんと建っているのがわかるでしょう。

この寺の入口に続く参道は両脇に桜の古木が並んでいます。
春にはきれいな桜並木が出来るといいます。
この寺は「延命地蔵尊」が祀られ、子育て・安産の祈願寺としてにぎわったといいます。
延命地蔵ですから長生きを祈願すると思いましたが、元来の意味は少し違うようです。
安産と生まれてきた子供の長生きを祈願するのだといいます。


カエルの楽園
成田空港からの帰りは成田市から北へ伸びている国道408号線をいつも通る。
この街道は千葉県から茨城県にまたがるところの地名から長豊(ながとよ)街道と通りに案内が出ているが、別名「諭吉通り」という名がついていることを以前紹介しました。(こちら)
成田をすぎて利根川を渡ると千葉県から茨城県に入ります。
この利根川にかかる大きな橋を長豊橋と名がついています。
これは千葉県側の豊住村と茨城県側の長竿村を繋ぐことからこの名前になったものと思われます。

これが利根川にかかる長豊(ながとよ)橋です。千葉県から茨城県に入ります。
橋をわたって、3㎞ほど進むと少し小さめの橋を渡ります。これが新利根川です。

こちらは新利根川の流れです。川幅いっぱいに水が溢れんばかりにゆったりと流れています。
利根川の水位を下げるために江戸時代に作られた川だそうですが、水深が浅く水運としては使えず、農業灌漑用の水路として使われてきたといいます。

このあたりは流れも穏やかで草陰では釣り人が糸を垂れていました。

この長豊街道(408号線)が新利根川を渡ってすぐこんな看板が道路端に立っています。
「カエルの楽園 堂前自然公園 しんとねまち」
この新利根町は今は合併して稲敷市となっています。
立っている場所は小さな小川が流れていて木々が生い茂っています。
なんだ「まちおこし」に看板でも立てたのかと思いました。まわりは田んぼが広がっています。
そう。カエルはたくさん鳴いていそうな場所です。
辺から食用ガエル(ウシガエル)のような鳴き声が響いてきます。

この看板から少し入ってみると、その先に駐車場がありトイレなども整備されています。
そして案内板があり、その先に池や水車、水生植物園などの庭園が3つ広がっています。
通りの看板からは想像もしない公園が整備されていました。

こちらは木製の水車が置かれています。

こちらは水生植物園です。カキツバタ?(アヤメ?)の花とあずまやがあります。

花は綺麗ですね。

案内板をじっくり見てこの施設・公園の役目がわかりました。
「水質保全対策事業
この施設は、農業用用排水の水質を浄化する機能を有し、優れた農産物の生産と豊かな田園環境の保全に資するものです。また、農業と環境への理解を深める場として、親水機能を有する公園も整備されています。」
農業用水の水質を高めるための設備がメインで、そこに公園機能を持たせたものだそうです。

この水車小屋の前の池の真ん中から泡がブクブク吹き出しています。

池の名前を見ると「接触酸化池」となっています。
空気をそこから吹き上げているようです。
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この街道は千葉県から茨城県にまたがるところの地名から長豊(ながとよ)街道と通りに案内が出ているが、別名「諭吉通り」という名がついていることを以前紹介しました。(こちら)
成田をすぎて利根川を渡ると千葉県から茨城県に入ります。
この利根川にかかる大きな橋を長豊橋と名がついています。
これは千葉県側の豊住村と茨城県側の長竿村を繋ぐことからこの名前になったものと思われます。

これが利根川にかかる長豊(ながとよ)橋です。千葉県から茨城県に入ります。
橋をわたって、3㎞ほど進むと少し小さめの橋を渡ります。これが新利根川です。

こちらは新利根川の流れです。川幅いっぱいに水が溢れんばかりにゆったりと流れています。
利根川の水位を下げるために江戸時代に作られた川だそうですが、水深が浅く水運としては使えず、農業灌漑用の水路として使われてきたといいます。

このあたりは流れも穏やかで草陰では釣り人が糸を垂れていました。

この長豊街道(408号線)が新利根川を渡ってすぐこんな看板が道路端に立っています。
「カエルの楽園 堂前自然公園 しんとねまち」
この新利根町は今は合併して稲敷市となっています。
立っている場所は小さな小川が流れていて木々が生い茂っています。
なんだ「まちおこし」に看板でも立てたのかと思いました。まわりは田んぼが広がっています。
そう。カエルはたくさん鳴いていそうな場所です。
辺から食用ガエル(ウシガエル)のような鳴き声が響いてきます。

この看板から少し入ってみると、その先に駐車場がありトイレなども整備されています。
そして案内板があり、その先に池や水車、水生植物園などの庭園が3つ広がっています。
通りの看板からは想像もしない公園が整備されていました。

こちらは木製の水車が置かれています。

こちらは水生植物園です。カキツバタ?(アヤメ?)の花とあずまやがあります。

花は綺麗ですね。

案内板をじっくり見てこの施設・公園の役目がわかりました。
「水質保全対策事業
この施設は、農業用用排水の水質を浄化する機能を有し、優れた農産物の生産と豊かな田園環境の保全に資するものです。また、農業と環境への理解を深める場として、親水機能を有する公園も整備されています。」
農業用水の水質を高めるための設備がメインで、そこに公園機能を持たせたものだそうです。

この水車小屋の前の池の真ん中から泡がブクブク吹き出しています。

池の名前を見ると「接触酸化池」となっています。
空気をそこから吹き上げているようです。


御神木にやどり木
牛久大仏から戻るときに、阿見町でいつもと違う道をとおていたら、こんもりとした茂みの中に神社が見えた。
何か知らないが変わったものでもないかと立ち寄ってみた。
この神社には樹齢500年を超える杉の御神木があったが、その御神木に宿を借りた椎ノ木があった。
町の天然記念物に指定されているそうだ。

杉の大木の途中から枝を出しているのは椎ノ木のようです。
杉の幹の途中に空洞となった部分ができ、そこに椎の木の実が落ちて芽を出したのでしょう。
それにしても御神木に宿を借りるとはご立派です。

説明によれば、銀杏や桜も宿っていたようですね。

この御神木は神社拝殿のすぐ手前右側にあります。

これがご神木の杉の木です。

この阿見町吉原の鹿島神社は、弘仁5年(814)の創建と伝えられる古い神社です。

この灯篭も龍の彫り物等があり、立派な灯篭です。


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何か知らないが変わったものでもないかと立ち寄ってみた。
この神社には樹齢500年を超える杉の御神木があったが、その御神木に宿を借りた椎ノ木があった。
町の天然記念物に指定されているそうだ。

杉の大木の途中から枝を出しているのは椎ノ木のようです。
杉の幹の途中に空洞となった部分ができ、そこに椎の木の実が落ちて芽を出したのでしょう。
それにしても御神木に宿を借りるとはご立派です。

説明によれば、銀杏や桜も宿っていたようですね。

この御神木は神社拝殿のすぐ手前右側にあります。

これがご神木の杉の木です。

この阿見町吉原の鹿島神社は、弘仁5年(814)の創建と伝えられる古い神社です。


この灯篭も龍の彫り物等があり、立派な灯篭です。



