有賀神社(水戸)

 今日は昨日行った水戸市の内原町にある「有賀神社」を紹介します。

国道50号線の内原にあるイオンの所を北に行くのだが、この道は昔から何度も通っている道で、この通りから西に少し入ったところに鎮座しています。
通り沿いに矢印の案内看板があり、気になっていたが今まで行ったことがなかったのです。
近くには古墳公園があります。

先日、石岡の茅葺屋根の老舗蕎麦屋さんの紹介記事でコメントをいただいた「椛や(もみじや)」というお店が神社の前にあるというので、近くに行ったついでに食べてもみたいと思ったのです。

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正面の鳥居の奥にもう一つ鳥居がある。木々が茂って薄暗くなっている。

そのわきに「有賀神社としだれ桜」と書かれた石柱が立っている。
どうやらしだれ桜の名所のようだが・・・。

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拝殿です。それ程境内は広くはありませんが落ち着いた雰囲気です。
また、11月11日にこの有賀神社のご神霊が大洗磯前神社に渡御する「磯渡御」という行事が行なわれます。

これは磯前神社の秋の大祭ともされる神事です。

大洗磯前神社のHPを見ると
「当地にはこの祭に関するおもしろい話が伝えられています。
有賀さん(有賀神社)は大洗さまの側室の娘さんで、気立てがよく1年に1度親孝行のためにおみやげをたんと持って大洗に里帰りしてくるというのです。
 有賀の里を朝6時にご出立、水戸市内各所のお旅所をご巡幸して、午前11時に法螺貝を吹き鳴らしてお越しになります。
御神前には有賀の里の米・柚子・里芋をお供えし、大洗の海で獲れた海の幸(鯛・鰯)をお返しします。
 昔から子供の虫切り・虫封じに霊験があるといわれ、わが子の健やかな成長を願う赤ちゃんや小さいお子さんを抱いた人々で賑わいます。」
と書かれています。
この話も面白いですね。どういう関係なのでしょうか。
この有賀神社の祭神は「武甕槌命」と「經津主命」とされ、大洗磯前神社祭神である「少彦名命」は明治になってから疱瘡神社(月読命・少彦名命)を合祀してのものだから同じとは言えない。

それに、式内社であるが、昔は「藤内神社」といわれたといい、この名前が式内社に出てくる。
しかし、もう一つ近くに「藤内神社」があり、こちらも朝房山(常陸風土記に出てくる「くれふし山」とみなされている)のすぐ麓であり、もう一つ近くの「立野神社」と合わせて、お互いの関係が良くわからない。

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ここの狛犬もとても表情いいです。

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本殿は裏の古木ともマッチしてとても美しい。

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神社の由来によると、貞観元年(859年)、那珂国造建借間命によって創祀された古社だといいます。

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神社のすぐ前にある「椛や(もみじや)」さんです。
ここは「たらいうどん」が有名ということで、連休ということもあり、人がいっぱい。
また次から次とお客さんがやってきます。
雰囲気の良いお店ですね。
お客さんは目の前ですが、この神社の方はおまいりには行かれないようです。

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一人で行っていますし、あまり混んでいたので食べずに戻りました。(10月10日午後1時半頃)
でもなんでこんなに込むのでしょうか。
関東の人はあまり知らないようですが、「たらいうどん」は四国徳島の名物です。
ネットで見ても、徳島の「たらいうどん」にそっくりです。
太くて長いうどんで讃岐うどんとは全く違ったうどんです。
徳島でもこれは山の方の清流沿いにあるお店で、たらいうどんとサワガニのから揚げが名物なのです。
さすがに「サワガニ」はここではやっていないようです。

実は私は徳島の「たらいうどん」をたべたことがあるのですが、どちらかというと苦手です。
讃岐のうどんの方が美味しいと思っています。
このお店のうどんも食べていませんし、これだけお客さんが来るのですからきっと美味しいのでしょう。



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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/10/11 07:33

阿多可奈湖(あたかなのみなと)

 今日は3連休の最終日。成人式ですね。昔のように15日と固定されている方が良かったと思うのは天の邪鬼なのかな?

昨日は夕方4時過ぎには月が上がり始めていたので、まだ明るいうちに東の方に白い月が出ていて印象的でしたが、今日は暗くなって見上げたら真ん丸の大きな黄色い月が優しく微笑んでいるようでした。
本当に丸いのはなぜかホッとします。
丸い地球を眺めたらどんなに美しいのでしょうね。

さて、今から5~6000年くらい前は今より海面がかなり高く(縄文海進)説によっては7mくらい高かったとされています。(説によっては2~3m)(前回説明しました)

地形的にみると東京下町から埼玉南部と霞ケ浦周辺の地形がかなりドラスティックに変わっています。

ただ現在の歴史が卑弥呼辺りから始まるとすれば、今から1800年くらい前まで遡ればいいことになり、縄文時代は少し違った次元でとらえた方が良いかもしれません。

しかし大化の改新(646年)以降、藤原氏をはじめこの国の歴史をうまく隠して封じ込めてた時代が続いていたようです。

何処まで信じて良い情報なのかなどはこれからいろいろな事実が明らかにしてくれるでしょう。
今はあふれる情報の中からほんの少しの痕跡がある程度にすぎません。

こんなことも掘り起こしていけば面白いこととは思います。これも年寄りの道楽にはもってこいかも・・・・。

この事を理解しないと、1000年以上前のこの国の姿が見えなくなってしまいます。
簡単にこれからいくつかの場所をあげて現在と比べて見たいと思っています。

しかし、この作業は時間もかかりかなり根気が必要ですので、のんびり時々続けようと思います。

まずは、那珂川下流の「阿多可奈湖(あたかなのみなと)」についてです。

常陸風土記には那賀郡と香島郡との境には阿多可奈湖(あたかなのみなと)があったと書かれています。

この阿多可奈湖の位置を涸沼にあてる説(新編常陸国誌など)と那珂湊の古名とする説(日本地名辞典など)があるとされていますが、古代の地形を考えると下のような大きな湖(汽水湖)が浮かび上がってきます。

これは「Flood Maps」というソフトでGOOGLE地図上で誰でも見ることができます。

現在の地図の海面を1m~60mまで変化させて自由にシュミレーションできます。

昔の海面は考古学では貝殻の発掘分布などで時代ごとに高さ分布を調べて推察しますが、実際には堆積物が川の下流や平野にはたまりますのでこの辺りをどう考慮するかで変わりそうです。

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(Sea level +5mにてシュミレーション)

上の地図は水戸・大洗・ひたちなか近辺の海面を+5mとした時の地図です。
現在の涸沼がもっと大きくなり那珂川下流と一緒になっているのがわかります。

現在も那珂川とは川で繋がっており、明治初めまでの霞ケ浦北浦水運繁栄の経路でした。

この阿多可奈湖はこの地図で現れた涸沼と那珂川下流域を合わせたような広大な地域になっていたのではないかと思います。

ところで「那珂湊」の地名については地名の本も出ているようですが、読んでいないのでわかりません。

しかし、前に書いたことがありますが、高知県の「奈半利(なはり)」は土佐日記で「那波の泊」と書かれているというので沖縄の「那覇」、大阪の「難波」などと同じで「那珂」=「なは」=「湊」の意味ではないかと漠然に思っています。

これは日本に昔から住んでいた縄文人の言葉=縄文語=アイヌ語と考えてよいのではないでしょうか。

どうですか、自分の住んでいる町の近くが昔どうなっていたかなどをシュミュレーションして見ませんか?
当然西日本、東日本などでも変わって来ると思います。

どうもこのFlood Mapsは衛星からの測定のようですので高い建物があると建物の上が陸地のようになって誤差が出るようです。

今は洪水や津波の影響調査などに主に使われているようです。

もちろん1000~1500年前に5mも海面が高かったとは思えません。しかし、河口の方は川の上流から土砂を堆積させたり、富士山の爆発による火山灰の堆積などで湿地帯や湖の浅いところは埋まってきてしまったと思われます。

とりあえず+5mくらいで考えると、昔の地形が考えやすくなるという程度です。
あくまでも参考ですから、あまり信用しないでくださいね。

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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/01/09 15:53

大戸の桜(茨城町)

 今日は朝から久しぶりに銚子にでかけてきた。
行きは2時間くらいで行けたが、帰りはやはり車が混んで3時間近くかかってしまった。

やはり少し遠いかな。これから時々また行くことになりそうだ。

そんなわけで先ほど戻ったので何を書くかも決めていない。
最近はネタが少し切れ気味だ。

そこで、先日から紹介している胎安神社・子安神社と同じく昔の式内社で夷針神社の論社と思われる茨城町にある夷針神社に行ってみたのだが、こちらは少し調べないと記事にできないので、すぐ近くに看板があった「大戸(おおど)の桜」を紹介します。

国の天然記念物の山桜だそうですが、昔に比べると大分小さくなってしまったそうです。

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やはり今度は桜の時期に行ってみよう。
上の説明を読めば内容はわかるでしょう。

昔は見事だったのだろう。



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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/02/10 20:25

夷針神社(1)

 先日かすみがうら市にある胎安神社と子安神社はともに延喜式にかかれている式内社である茨城郡ではだだ一社の「夷針(イハリ?)神社」の論社であると書かれていました。

ただもう一社「夷針(イハリ)(イシミ?)神社」という神社が存在するというのでやってきました。
茨城町の大戸(おおど)です。

大戸の桜を先日紹介した場所です。

このブログでも色々な神社を訪ね歩いていますが、この神社については何と書けばよいかがわかりません。
良く理解できないのです。

まあ解釈は、読む方が好きに解釈していただければいいと思います。

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神社の入口の一の鳥居です。右手に奥の集落につながる道が並行してついています。

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しばらく行くと参道を一つの道が横切っており、ここに二の鳥居があります。
しかし、この鳥居は地震のためでしょうか折れてしまったようです。

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結構長い参道でやっと拝殿が見えてきました。参道わきの木は古い木が切り倒されてまた新しく植えられたものなどが混ざっているようです。古木の切り株がたくさんありました。

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こちらが拝殿です。右手に御神木と思われる古木が聳えています。

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拝殿の後ろに本殿が続いています。

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本殿の屋根は藁葺でそれを保護するために別な屋根(トタン)で覆っています。

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これが現地に書かれていた由緒書きです。
これを読んで全く分からなくなりました。
わからなければほおっておくのですが、気になります。

まあ後からわかってくるかもしれません。明日少し続きを書きます。

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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/15 20:46

夷針神社(2)

 昨日アクセスカウンターをみたら11万を越えていた。10万をこえたのが今年1月初めだった。
最近毎日書くのが多少苦になってきた。

少し追い立てられているようだ。ブログも毎日書こうと思い立って1年半が過ぎ、まだ1日もまだ欠けたことが無い。それだけが自慢だ。

またアクセスが多いことより、時々昔の記事にコメントや拍手をいただくことがあり、こちらの方が嬉しい。

書いている時は恐らくこんなマイナーな記事は飽きられてしまうだろうと思っていたし、一部の人しか興味のない記事が多いと思いながらも続けてきたことが大きいようだ。

昨日・今日の記事など本当につまらない記事なのだが、最初はただ単に紹介していただけであったものが、最近は記事を残しておかなければ、眠っているものが見えないように感じてしまっている。
そのうちに何か関連する事柄が出てきて一気にその場所とつながりが出て来るのではないかと思うようになった。

色々な方のブログを拝見しているうちに、こちらもずいぶん参考になり、自分のスタイルも影響を受けながら方向性が見えてきている。

しかし、もう少しいろいろなスタイルも試しながら続けていきたい。他の方のブログも真似させてもらおう。

 さて、昨日紹介した夷針神社であるが、どうも本当にこの神社が延喜式式内社であげられている夷針(イハリ)神社なのであろうか?

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色々な疑問が出てくる。

1)まずここは現在茨城町であるが延喜式の記された時代(平安時代10世紀)には那珂郡になっていたと思われる。
夷針神社は茨城郡の神社として数えられている唯一の神社である。
しかし、この地はそのもっと前(300年以上前?)は茨城郡であったのではないか?
(これは茨城の県名の話で小原神社を紹介した時に書いた。こちら
ということは別な場所から移ってきたのかも・・・・。
由緒書きには聖武帝神亀2年乙丑9月29日(725)の創建となっていた。

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2)この神社は江戸時代は「武隈明神社」と言っていたらしい。これはこの石岡とも大いに関係しており、常陸大掾(だいじょう)氏の家臣であった水戸馬場城が落城した時に、鯉渕城の城主で根小屋(根古矢、根古屋)にいた武隈氏がこの大戸(おおど)に逃げてきて移り住み、この神社に合祀したという。
ということは昔鯉渕にあった神社をこの時にこちらに移したものかもしれない。
このブログでも筑波詣での道として栄えた瀬戸井街道を検証する中で鯉渕宿(こちら)を見て調べていた時に記事は見つけて気になっていた。

まあ書かれている内容は大掾氏の平氏として続く正当性を書いてあるので石岡の歴史に書かれているものとあまり変わらない。話は半分程度と解釈しておこう。

3)それよりここの祭神は興津日子命(オキツヒコノカミ)・興津比売命(オキツヒメノカミ)だといいます。
これは竈(カマド)を司る神だといいます。民間信仰の神様ですね。
昔は竈(カマド)は大切にされ、火を使う台所に神聖な神が宿ると神棚を祀ったり、お札を貼ったりしていたので、天皇の先祖を祀った神社の神様に比べると庶民の神様と言う気がします。

調べていたら、興津比売命(または奥津比売命)は別名で大戸比売神(オオベヒメノカミ)とも書かれていました。
この地が大戸(おおど)というのと関係があるのでしょうか?

それにしても「夷針」とはどんな意味でしょうか?
筑波山の周辺地帯の呼び名として長いことあちこち点々と使われている「新治(ニイハリ)」とも関係しているのでしょうか。発音は似ていますね。

でも夷針の夷は征夷大将軍の「夷」です。これは東国の異民族を指す言葉です。
何故この「夷」が使われるのでしょうか? わからないですね。

では長たらしい文の口直しに神社の入口にあった火の見櫓です。

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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/02/16 19:30

福性寺(茨城町)

 今日は茨城町の福性寺(ふくしょうじ)を紹介します。

石岡の方から355号線のバイパスをまっすぐ笠間方面に進み、岩間駅近くで常磐高速の岩間のIC方向に曲がってまっすぐ進むと石塚街道(石岡~城里町石塚)と交差する交差点が「俎倉(まないたくら)」という地名になっている。

これもまた面白い地名だと気になっているがいわれはわからない。
この俎倉をそのまま進み次のコンビニより左折するとそこが県道59号線(玉里~水戸)になる。

近くに「ポケットファームどきどき」という施設があるので、知っておられる方も多いと思う。

この道を水戸方面に進むと北関東道の北茨城西ICへ行くが、現在このIC近くは工業団地計画が進められている。
東京までの高速バスもIC近くに駐車場がありここに車をおいてバスに乗ることができる。

今日紹介するのは、この道を水戸方面に用事があり車で出かけた時に偶然信号で停車したところに案内板がでていたのでよってみることにしたのである。

この寺は思わぬ収穫であった。

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寺の正式名称は「三池山普門院福性寺」という天台宗の寺だ。

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天台宗開宗1200年慶賛記念事業として、2007年に本堂・客殿が新築され新しくなっていました。
あまり新しいものは写真に残しませんでしたが、周りはとても趣のある寺です。
これは入口山門手前に置かれた六地蔵です。

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本堂には平安時代の一木造りの如来像が安置されているというので室町時代にはこの寺はあったのだろうと思います。

境内には鎌倉時代の板碑や南北朝時代の五輪塔が町の文化財としてあるそうです。

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観音堂。この寺の向かい側に「飯沼城跡」がある。
こちらはまた紹介するが、中世の城である。
この城の奥方の安産を祈願して建てたと伝えられる。

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こちらが御神木でしょうか。

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こちらの木(杉?)もかなり大きく枝ぶりも立派ですが、このように枝は支え棒で保護されています。

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鐘楼です。奥に見えるのは右手が観音堂で左手が本堂です。

もう少しよく調べてみたいが、よくわからない。
まずは紹介だけとしよう。そのうちにまたわかってくるかもしれない。

でもこんなところにと思われるくらい雰囲気の良い寺です。
お近くを通ったら寄ってみてください。



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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/05 19:15

飯沼城跡(茨城町)

 昨日紹介した「福性寺」の入口前の通りの反対側に小山があり、飯沼城跡と書かれています。

あまり聞いたことのない中世の城の名前だ。

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茨城町史跡となっています。入口はきれいに整備されています。
中世の城跡はあまり整備されていないところがほとんどですからここはきれいです。

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階段を上ると、上は公園風な台地になっており、真ん中に説明看板が置かれていました。
書かれたものが少し読みにくいのでここに転載します。

「飯沼城は、通称飯沼館あるいは桜井氏の館跡とも呼ばれている。戦国時代ころには、図のように三つの郭があったが、現在は本丸だけが、当時のようすを伝えている。
 広さは約五十メートル四方で、郭の周囲や、その外側にも土塁がめぐらされていた。
東北の邦楽(鬼門)にある鹿島神社は、城の鎮護のために祀られ、また下門(げもん)の地名は、南側の城域を示していると思われる。
 城域などから発見された三筋壺(さんきんこ 平安時代)や五輪塔(南北朝~室町時代初期)などから、福性寺との密接なつながりが想像される。
福性寺の記録によると、南北朝時代には南朝方に属し、また戦国時代の城主として桜園氏の名が記されている。
文明年間(1500年頃)には江戸氏の影響下に入り、天正十八年(1590)佐竹氏に滅ぼされた。
   茨城町教育委員会」

少し歴史を知りたい人には物足りない書き方ですね。

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この図は上記の説明看板に書かれていた図です。三つの郭の内、北側(左側)は現在小学校があります。
また南側(右側)には福性寺の墓地があります。

残っているのは真ん中の本丸部分ですが、高さが約5mくらいの台地です。
この真ん中近くに(看板の後ろ)に木で囲まれた一角があり下の写真のように祀られた場所があります。

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現地に「大日様」と書かれています。現地の説明文を載せます。

「大日様(だいにちさま) 密教の本尊である「大日如来」を、一般に大日様と読んでいる。もとは北の郭にあったが、川根小学校敷地造成に伴い、現在地に移された。  茨城町教育委員会」

小学校のグランドの整備拡張のためこちらに持って祀っているようです。

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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/06 19:20

水戸祇園寺(1)

 今日はまだ佐志能神社の続きを書こうと思っていたが、どうにもまとまらない。
まあ少しまた後で書きたいと思う。

そこで今日は水戸にある祇園寺に行ってきたのでその時の写真を中心に何回かに分けて紹介します。

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大きな玉を持った狛犬。
中国の曹洞宗を踏襲していますので、向こうのものでしょうか。
日本の各地に玉を持った狛犬や獅子の像が神社にはあるといいます。

これも色々な意味があるようですので調べてみるのも面白そうですね。

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心越禅師の像?
木に隠れるように置かれています。

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祇園寺は水戸光圀の時に、中国(明)から渡ってきた曹洞宗の禅僧「心越禅師」を水戸に招いてこの地の寺(天徳寺)で過ごしました。
心越禅師の死(1695年)後、1712年に天徳寺を河和田村に移して、ここに祇園寺を建て、心越禅師を開祖としました。

何故、この寺に来たくなったのかは、旧小川町の「天聖寺」(今は墓地しかない)に行った時に、この寺との関係を知り、見てみたくなったのです。

時間がないので説明はまた次にします。

でもとても立派なお寺です。



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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/06/12 20:05

水戸祇園寺(2)

 先ほど外来植物の注意喚起を載せています。読んでいない方は下にある記事も読んでくださいね。

さて、昨日に続いて水戸の祇園寺の写真を載せます。
今日もあまり説明は省きます。

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祇園寺の入口です。
この左隣には進学校「茨城高校」があります。

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立派な山門です。
禅寺ですので、このブログでも数回出てきている「不許葷酒入山門」(葷酒(くんしゅ)の山門に入ることを許さず)の戒壇石です。

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徳川家の三葉葵でしょうね。

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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(4) | トラックバック(1) | 2012/06/13 20:43

水戸祇園寺(3)

 今日も水戸の祇園寺の続きです。

この祇園寺へ行く途中に三の丸の水戸城の跡やその先の芸術館などを横目で見ながら素通りでした。

確認したかったのは今日紹介する「穢積(えしゃく)金剛尊天堂」を見たかったからです。

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この堂は、境内の鐘楼の近くに建っていました。

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このお堂は心越禅師が中国から持ってきた穢積(えしゃく)金剛像を祀るために光圀が建てさせたもので1694年のものでこの寺では唯一火災をまぬがれて当時のものとして残った建物だそうです。

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それにしても、この穢積(えしゃく)金剛って何? と思った訳でして、調べてみました。
ネットで検索すると中国語のサイトがたくさん出てきます。日本のサイトはあまりありません。

この場所に置かれた説明板(下記)にもあまりよく見えない状態になっています。
唯一の記録品という割には説明もあまりされていません。

調べると、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)のことだとなっています。また「火頭金剛」ともいわれ、汚れを清めてくれる明王だそうです。

この汚れは心の汚れというのではなく、物質的な汚れを清めてくれるというので、日本ではトイレの神様として祀られているようです。

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どうやら烏枢沙摩明王はもっと古くから仏教に取り入れられてきたが、こちらの同じ明王も江戸時代になって中国から渡ってきた「穢積金剛」はあまり日本では受け入れられていないように思います。

もちろんトイレの神様だけではありません。
不浄なものを大地に変えたり、焼き払ってしまう力があるようです。
そして、お腹の中にいる赤ん坊を女の子から男の子に変える力も持っていたのです。

昔は世継ぎは男子ですから、この神様も大切にされたのでしょう。

それにしてもよくわからない建物です。
これと全く同じ建物が茨城町にもあるんです。

それはまた明日にでも紹介しましょう。

さて、明日から3日間石岡市柴間のギター文化館で「ことば座」の定期公演があります。
美浦村に伝わる平将門伝説を取り上げて、耳の聞こえない舞姫「小林幸枝」と伊藤道郎の門下生である美浦のモダンダンスの柏木久美子さんの踊りが見ものです。

NHKの水戸放送局が練習から取材に来ており、6月21日の18時~19時の間に紹介されるそうです。

今年は8月にマカオでの公演も決まっており、大いに飛躍してもらいたいものです。

見に行かれる方は → こちら のHPを参照してください。

またギター館のNHKの取材の紹介はギター館のブログで確認してください。→ こちら

私は「ことば座」の勝手に応援団です!!

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水戸・茨城・ひたちなか | コメント(4) | トラックバック(1) | 2012/06/14 19:46
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