有賀神社(水戸)
今日は昨日行った水戸市の内原町にある「有賀神社」を紹介します。
国道50号線の内原にあるイオンの所を北に行くのだが、この道は昔から何度も通っている道で、この通りから西に少し入ったところに鎮座しています。
通り沿いに矢印の案内看板があり、気になっていたが今まで行ったことがなかったのです。
近くには古墳公園があります。
先日、石岡の茅葺屋根の老舗蕎麦屋さんの紹介記事でコメントをいただいた「椛や(もみじや)」というお店が神社の前にあるというので、近くに行ったついでに食べてもみたいと思ったのです。

正面の鳥居の奥にもう一つ鳥居がある。木々が茂って薄暗くなっている。
そのわきに「有賀神社としだれ桜」と書かれた石柱が立っている。
どうやらしだれ桜の名所のようだが・・・。


拝殿です。それ程境内は広くはありませんが落ち着いた雰囲気です。
また、11月11日にこの有賀神社のご神霊が大洗磯前神社に渡御する「磯渡御」という行事が行なわれます。
これは磯前神社の秋の大祭ともされる神事です。
大洗磯前神社のHPを見ると
「当地にはこの祭に関するおもしろい話が伝えられています。
有賀さん(有賀神社)は大洗さまの側室の娘さんで、気立てがよく1年に1度親孝行のためにおみやげをたんと持って大洗に里帰りしてくるというのです。
有賀の里を朝6時にご出立、水戸市内各所のお旅所をご巡幸して、午前11時に法螺貝を吹き鳴らしてお越しになります。
御神前には有賀の里の米・柚子・里芋をお供えし、大洗の海で獲れた海の幸(鯛・鰯)をお返しします。
昔から子供の虫切り・虫封じに霊験があるといわれ、わが子の健やかな成長を願う赤ちゃんや小さいお子さんを抱いた人々で賑わいます。」
と書かれています。
この話も面白いですね。どういう関係なのでしょうか。
この有賀神社の祭神は「武甕槌命」と「經津主命」とされ、大洗磯前神社祭神である「少彦名命」は明治になってから疱瘡神社(月読命・少彦名命)を合祀してのものだから同じとは言えない。
それに、式内社であるが、昔は「藤内神社」といわれたといい、この名前が式内社に出てくる。
しかし、もう一つ近くに「藤内神社」があり、こちらも朝房山(常陸風土記に出てくる「くれふし山」とみなされている)のすぐ麓であり、もう一つ近くの「立野神社」と合わせて、お互いの関係が良くわからない。

ここの狛犬もとても表情いいです。

本殿は裏の古木ともマッチしてとても美しい。

神社の由来によると、貞観元年(859年)、那珂国造建借間命によって創祀された古社だといいます。

神社のすぐ前にある「椛や(もみじや)」さんです。
ここは「たらいうどん」が有名ということで、連休ということもあり、人がいっぱい。
また次から次とお客さんがやってきます。
雰囲気の良いお店ですね。
お客さんは目の前ですが、この神社の方はおまいりには行かれないようです。

一人で行っていますし、あまり混んでいたので食べずに戻りました。(10月10日午後1時半頃)
でもなんでこんなに込むのでしょうか。
関東の人はあまり知らないようですが、「たらいうどん」は四国徳島の名物です。
ネットで見ても、徳島の「たらいうどん」にそっくりです。
太くて長いうどんで讃岐うどんとは全く違ったうどんです。
徳島でもこれは山の方の清流沿いにあるお店で、たらいうどんとサワガニのから揚げが名物なのです。
さすがに「サワガニ」はここではやっていないようです。
実は私は徳島の「たらいうどん」をたべたことがあるのですが、どちらかというと苦手です。
讃岐のうどんの方が美味しいと思っています。
このお店のうどんも食べていませんし、これだけお客さんが来るのですからきっと美味しいのでしょう。
← よろしければクリックお願いします。
国道50号線の内原にあるイオンの所を北に行くのだが、この道は昔から何度も通っている道で、この通りから西に少し入ったところに鎮座しています。
通り沿いに矢印の案内看板があり、気になっていたが今まで行ったことがなかったのです。
近くには古墳公園があります。
先日、石岡の茅葺屋根の老舗蕎麦屋さんの紹介記事でコメントをいただいた「椛や(もみじや)」というお店が神社の前にあるというので、近くに行ったついでに食べてもみたいと思ったのです。

正面の鳥居の奥にもう一つ鳥居がある。木々が茂って薄暗くなっている。
そのわきに「有賀神社としだれ桜」と書かれた石柱が立っている。
どうやらしだれ桜の名所のようだが・・・。


拝殿です。それ程境内は広くはありませんが落ち着いた雰囲気です。
また、11月11日にこの有賀神社のご神霊が大洗磯前神社に渡御する「磯渡御」という行事が行なわれます。
これは磯前神社の秋の大祭ともされる神事です。
大洗磯前神社のHPを見ると
「当地にはこの祭に関するおもしろい話が伝えられています。
有賀さん(有賀神社)は大洗さまの側室の娘さんで、気立てがよく1年に1度親孝行のためにおみやげをたんと持って大洗に里帰りしてくるというのです。
有賀の里を朝6時にご出立、水戸市内各所のお旅所をご巡幸して、午前11時に法螺貝を吹き鳴らしてお越しになります。
御神前には有賀の里の米・柚子・里芋をお供えし、大洗の海で獲れた海の幸(鯛・鰯)をお返しします。
昔から子供の虫切り・虫封じに霊験があるといわれ、わが子の健やかな成長を願う赤ちゃんや小さいお子さんを抱いた人々で賑わいます。」
と書かれています。
この話も面白いですね。どういう関係なのでしょうか。
この有賀神社の祭神は「武甕槌命」と「經津主命」とされ、大洗磯前神社祭神である「少彦名命」は明治になってから疱瘡神社(月読命・少彦名命)を合祀してのものだから同じとは言えない。
それに、式内社であるが、昔は「藤内神社」といわれたといい、この名前が式内社に出てくる。
しかし、もう一つ近くに「藤内神社」があり、こちらも朝房山(常陸風土記に出てくる「くれふし山」とみなされている)のすぐ麓であり、もう一つ近くの「立野神社」と合わせて、お互いの関係が良くわからない。

ここの狛犬もとても表情いいです。

本殿は裏の古木ともマッチしてとても美しい。

神社の由来によると、貞観元年(859年)、那珂国造建借間命によって創祀された古社だといいます。

神社のすぐ前にある「椛や(もみじや)」さんです。
ここは「たらいうどん」が有名ということで、連休ということもあり、人がいっぱい。
また次から次とお客さんがやってきます。
雰囲気の良いお店ですね。
お客さんは目の前ですが、この神社の方はおまいりには行かれないようです。

一人で行っていますし、あまり混んでいたので食べずに戻りました。(10月10日午後1時半頃)
でもなんでこんなに込むのでしょうか。
関東の人はあまり知らないようですが、「たらいうどん」は四国徳島の名物です。
ネットで見ても、徳島の「たらいうどん」にそっくりです。
太くて長いうどんで讃岐うどんとは全く違ったうどんです。
徳島でもこれは山の方の清流沿いにあるお店で、たらいうどんとサワガニのから揚げが名物なのです。
さすがに「サワガニ」はここではやっていないようです。
実は私は徳島の「たらいうどん」をたべたことがあるのですが、どちらかというと苦手です。
讃岐のうどんの方が美味しいと思っています。
このお店のうどんも食べていませんし、これだけお客さんが来るのですからきっと美味しいのでしょう。


阿多可奈湖(あたかなのみなと)
今日は3連休の最終日。成人式ですね。昔のように15日と固定されている方が良かったと思うのは天の邪鬼なのかな?
昨日は夕方4時過ぎには月が上がり始めていたので、まだ明るいうちに東の方に白い月が出ていて印象的でしたが、今日は暗くなって見上げたら真ん丸の大きな黄色い月が優しく微笑んでいるようでした。
本当に丸いのはなぜかホッとします。
丸い地球を眺めたらどんなに美しいのでしょうね。
さて、今から5~6000年くらい前は今より海面がかなり高く(縄文海進)説によっては7mくらい高かったとされています。(説によっては2~3m)(前回説明しました)
地形的にみると東京下町から埼玉南部と霞ケ浦周辺の地形がかなりドラスティックに変わっています。
ただ現在の歴史が卑弥呼辺りから始まるとすれば、今から1800年くらい前まで遡ればいいことになり、縄文時代は少し違った次元でとらえた方が良いかもしれません。
しかし大化の改新(646年)以降、藤原氏をはじめこの国の歴史をうまく隠して封じ込めてた時代が続いていたようです。
何処まで信じて良い情報なのかなどはこれからいろいろな事実が明らかにしてくれるでしょう。
今はあふれる情報の中からほんの少しの痕跡がある程度にすぎません。
こんなことも掘り起こしていけば面白いこととは思います。これも年寄りの道楽にはもってこいかも・・・・。
この事を理解しないと、1000年以上前のこの国の姿が見えなくなってしまいます。
簡単にこれからいくつかの場所をあげて現在と比べて見たいと思っています。
しかし、この作業は時間もかかりかなり根気が必要ですので、のんびり時々続けようと思います。
まずは、那珂川下流の「阿多可奈湖(あたかなのみなと)」についてです。
常陸風土記には那賀郡と香島郡との境には阿多可奈湖(あたかなのみなと)があったと書かれています。
この阿多可奈湖の位置を涸沼にあてる説(新編常陸国誌など)と那珂湊の古名とする説(日本地名辞典など)があるとされていますが、古代の地形を考えると下のような大きな湖(汽水湖)が浮かび上がってきます。
これは「Flood Maps」というソフトでGOOGLE地図上で誰でも見ることができます。
現在の地図の海面を1m~60mまで変化させて自由にシュミレーションできます。
昔の海面は考古学では貝殻の発掘分布などで時代ごとに高さ分布を調べて推察しますが、実際には堆積物が川の下流や平野にはたまりますのでこの辺りをどう考慮するかで変わりそうです。

(Sea level +5mにてシュミレーション)
上の地図は水戸・大洗・ひたちなか近辺の海面を+5mとした時の地図です。
現在の涸沼がもっと大きくなり那珂川下流と一緒になっているのがわかります。
現在も那珂川とは川で繋がっており、明治初めまでの霞ケ浦北浦水運繁栄の経路でした。
この阿多可奈湖はこの地図で現れた涸沼と那珂川下流域を合わせたような広大な地域になっていたのではないかと思います。
ところで「那珂湊」の地名については地名の本も出ているようですが、読んでいないのでわかりません。
しかし、前に書いたことがありますが、高知県の「奈半利(なはり)」は土佐日記で「那波の泊」と書かれているというので沖縄の「那覇」、大阪の「難波」などと同じで「那珂」=「なは」=「湊」の意味ではないかと漠然に思っています。
これは日本に昔から住んでいた縄文人の言葉=縄文語=アイヌ語と考えてよいのではないでしょうか。
どうですか、自分の住んでいる町の近くが昔どうなっていたかなどをシュミュレーションして見ませんか?
当然西日本、東日本などでも変わって来ると思います。
どうもこのFlood Mapsは衛星からの測定のようですので高い建物があると建物の上が陸地のようになって誤差が出るようです。
今は洪水や津波の影響調査などに主に使われているようです。
もちろん1000~1500年前に5mも海面が高かったとは思えません。しかし、河口の方は川の上流から土砂を堆積させたり、富士山の爆発による火山灰の堆積などで湿地帯や湖の浅いところは埋まってきてしまったと思われます。
とりあえず+5mくらいで考えると、昔の地形が考えやすくなるという程度です。
あくまでも参考ですから、あまり信用しないでくださいね。
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昨日は夕方4時過ぎには月が上がり始めていたので、まだ明るいうちに東の方に白い月が出ていて印象的でしたが、今日は暗くなって見上げたら真ん丸の大きな黄色い月が優しく微笑んでいるようでした。
本当に丸いのはなぜかホッとします。
丸い地球を眺めたらどんなに美しいのでしょうね。
さて、今から5~6000年くらい前は今より海面がかなり高く(縄文海進)説によっては7mくらい高かったとされています。(説によっては2~3m)(前回説明しました)
地形的にみると東京下町から埼玉南部と霞ケ浦周辺の地形がかなりドラスティックに変わっています。
ただ現在の歴史が卑弥呼辺りから始まるとすれば、今から1800年くらい前まで遡ればいいことになり、縄文時代は少し違った次元でとらえた方が良いかもしれません。
しかし大化の改新(646年)以降、藤原氏をはじめこの国の歴史をうまく隠して封じ込めてた時代が続いていたようです。
何処まで信じて良い情報なのかなどはこれからいろいろな事実が明らかにしてくれるでしょう。
今はあふれる情報の中からほんの少しの痕跡がある程度にすぎません。
こんなことも掘り起こしていけば面白いこととは思います。これも年寄りの道楽にはもってこいかも・・・・。
この事を理解しないと、1000年以上前のこの国の姿が見えなくなってしまいます。
簡単にこれからいくつかの場所をあげて現在と比べて見たいと思っています。
しかし、この作業は時間もかかりかなり根気が必要ですので、のんびり時々続けようと思います。
まずは、那珂川下流の「阿多可奈湖(あたかなのみなと)」についてです。
常陸風土記には那賀郡と香島郡との境には阿多可奈湖(あたかなのみなと)があったと書かれています。
この阿多可奈湖の位置を涸沼にあてる説(新編常陸国誌など)と那珂湊の古名とする説(日本地名辞典など)があるとされていますが、古代の地形を考えると下のような大きな湖(汽水湖)が浮かび上がってきます。
これは「Flood Maps」というソフトでGOOGLE地図上で誰でも見ることができます。
現在の地図の海面を1m~60mまで変化させて自由にシュミレーションできます。
昔の海面は考古学では貝殻の発掘分布などで時代ごとに高さ分布を調べて推察しますが、実際には堆積物が川の下流や平野にはたまりますのでこの辺りをどう考慮するかで変わりそうです。

(Sea level +5mにてシュミレーション)
上の地図は水戸・大洗・ひたちなか近辺の海面を+5mとした時の地図です。
現在の涸沼がもっと大きくなり那珂川下流と一緒になっているのがわかります。
現在も那珂川とは川で繋がっており、明治初めまでの霞ケ浦北浦水運繁栄の経路でした。
この阿多可奈湖はこの地図で現れた涸沼と那珂川下流域を合わせたような広大な地域になっていたのではないかと思います。
ところで「那珂湊」の地名については地名の本も出ているようですが、読んでいないのでわかりません。
しかし、前に書いたことがありますが、高知県の「奈半利(なはり)」は土佐日記で「那波の泊」と書かれているというので沖縄の「那覇」、大阪の「難波」などと同じで「那珂」=「なは」=「湊」の意味ではないかと漠然に思っています。
これは日本に昔から住んでいた縄文人の言葉=縄文語=アイヌ語と考えてよいのではないでしょうか。
どうですか、自分の住んでいる町の近くが昔どうなっていたかなどをシュミュレーションして見ませんか?
当然西日本、東日本などでも変わって来ると思います。
どうもこのFlood Mapsは衛星からの測定のようですので高い建物があると建物の上が陸地のようになって誤差が出るようです。
今は洪水や津波の影響調査などに主に使われているようです。
もちろん1000~1500年前に5mも海面が高かったとは思えません。しかし、河口の方は川の上流から土砂を堆積させたり、富士山の爆発による火山灰の堆積などで湿地帯や湖の浅いところは埋まってきてしまったと思われます。
とりあえず+5mくらいで考えると、昔の地形が考えやすくなるという程度です。
あくまでも参考ですから、あまり信用しないでくださいね。


大戸の桜(茨城町)
今日は朝から久しぶりに銚子にでかけてきた。
行きは2時間くらいで行けたが、帰りはやはり車が混んで3時間近くかかってしまった。
やはり少し遠いかな。これから時々また行くことになりそうだ。
そんなわけで先ほど戻ったので何を書くかも決めていない。
最近はネタが少し切れ気味だ。
そこで、先日から紹介している胎安神社・子安神社と同じく昔の式内社で夷針神社の論社と思われる茨城町にある夷針神社に行ってみたのだが、こちらは少し調べないと記事にできないので、すぐ近くに看板があった「大戸(おおど)の桜」を紹介します。
国の天然記念物の山桜だそうですが、昔に比べると大分小さくなってしまったそうです。




やはり今度は桜の時期に行ってみよう。
上の説明を読めば内容はわかるでしょう。
昔は見事だったのだろう。
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行きは2時間くらいで行けたが、帰りはやはり車が混んで3時間近くかかってしまった。
やはり少し遠いかな。これから時々また行くことになりそうだ。
そんなわけで先ほど戻ったので何を書くかも決めていない。
最近はネタが少し切れ気味だ。
そこで、先日から紹介している胎安神社・子安神社と同じく昔の式内社で夷針神社の論社と思われる茨城町にある夷針神社に行ってみたのだが、こちらは少し調べないと記事にできないので、すぐ近くに看板があった「大戸(おおど)の桜」を紹介します。
国の天然記念物の山桜だそうですが、昔に比べると大分小さくなってしまったそうです。




やはり今度は桜の時期に行ってみよう。
上の説明を読めば内容はわかるでしょう。
昔は見事だったのだろう。


夷針神社(1)
先日かすみがうら市にある胎安神社と子安神社はともに延喜式にかかれている式内社である茨城郡ではだだ一社の「夷針(イハリ?)神社」の論社であると書かれていました。
ただもう一社「夷針(イハリ)(イシミ?)神社」という神社が存在するというのでやってきました。
茨城町の大戸(おおど)です。
大戸の桜を先日紹介した場所です。
このブログでも色々な神社を訪ね歩いていますが、この神社については何と書けばよいかがわかりません。
良く理解できないのです。
まあ解釈は、読む方が好きに解釈していただければいいと思います。

神社の入口の一の鳥居です。右手に奥の集落につながる道が並行してついています。

しばらく行くと参道を一つの道が横切っており、ここに二の鳥居があります。
しかし、この鳥居は地震のためでしょうか折れてしまったようです。

結構長い参道でやっと拝殿が見えてきました。参道わきの木は古い木が切り倒されてまた新しく植えられたものなどが混ざっているようです。古木の切り株がたくさんありました。

こちらが拝殿です。右手に御神木と思われる古木が聳えています。

拝殿の後ろに本殿が続いています。

本殿の屋根は藁葺でそれを保護するために別な屋根(トタン)で覆っています。

これが現地に書かれていた由緒書きです。
これを読んで全く分からなくなりました。
わからなければほおっておくのですが、気になります。
まあ後からわかってくるかもしれません。明日少し続きを書きます。
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ただもう一社「夷針(イハリ)(イシミ?)神社」という神社が存在するというのでやってきました。
茨城町の大戸(おおど)です。
大戸の桜を先日紹介した場所です。
このブログでも色々な神社を訪ね歩いていますが、この神社については何と書けばよいかがわかりません。
良く理解できないのです。
まあ解釈は、読む方が好きに解釈していただければいいと思います。

神社の入口の一の鳥居です。右手に奥の集落につながる道が並行してついています。

しばらく行くと参道を一つの道が横切っており、ここに二の鳥居があります。
しかし、この鳥居は地震のためでしょうか折れてしまったようです。

結構長い参道でやっと拝殿が見えてきました。参道わきの木は古い木が切り倒されてまた新しく植えられたものなどが混ざっているようです。古木の切り株がたくさんありました。

こちらが拝殿です。右手に御神木と思われる古木が聳えています。

拝殿の後ろに本殿が続いています。

本殿の屋根は藁葺でそれを保護するために別な屋根(トタン)で覆っています。

これが現地に書かれていた由緒書きです。
これを読んで全く分からなくなりました。
わからなければほおっておくのですが、気になります。
まあ後からわかってくるかもしれません。明日少し続きを書きます。


夷針神社(2)
昨日アクセスカウンターをみたら11万を越えていた。10万をこえたのが今年1月初めだった。
最近毎日書くのが多少苦になってきた。
少し追い立てられているようだ。ブログも毎日書こうと思い立って1年半が過ぎ、まだ1日もまだ欠けたことが無い。それだけが自慢だ。
またアクセスが多いことより、時々昔の記事にコメントや拍手をいただくことがあり、こちらの方が嬉しい。
書いている時は恐らくこんなマイナーな記事は飽きられてしまうだろうと思っていたし、一部の人しか興味のない記事が多いと思いながらも続けてきたことが大きいようだ。
昨日・今日の記事など本当につまらない記事なのだが、最初はただ単に紹介していただけであったものが、最近は記事を残しておかなければ、眠っているものが見えないように感じてしまっている。
そのうちに何か関連する事柄が出てきて一気にその場所とつながりが出て来るのではないかと思うようになった。
色々な方のブログを拝見しているうちに、こちらもずいぶん参考になり、自分のスタイルも影響を受けながら方向性が見えてきている。
しかし、もう少しいろいろなスタイルも試しながら続けていきたい。他の方のブログも真似させてもらおう。
さて、昨日紹介した夷針神社であるが、どうも本当にこの神社が延喜式式内社であげられている夷針(イハリ)神社なのであろうか?

色々な疑問が出てくる。
1)まずここは現在茨城町であるが延喜式の記された時代(平安時代10世紀)には那珂郡になっていたと思われる。
夷針神社は茨城郡の神社として数えられている唯一の神社である。
しかし、この地はそのもっと前(300年以上前?)は茨城郡であったのではないか?
(これは茨城の県名の話で小原神社を紹介した時に書いた。こちら)
ということは別な場所から移ってきたのかも・・・・。
由緒書きには聖武帝神亀2年乙丑9月29日(725)の創建となっていた。

2)この神社は江戸時代は「武隈明神社」と言っていたらしい。これはこの石岡とも大いに関係しており、常陸大掾(だいじょう)氏の家臣であった水戸馬場城が落城した時に、鯉渕城の城主で根小屋(根古矢、根古屋)にいた武隈氏がこの大戸(おおど)に逃げてきて移り住み、この神社に合祀したという。
ということは昔鯉渕にあった神社をこの時にこちらに移したものかもしれない。
このブログでも筑波詣での道として栄えた瀬戸井街道を検証する中で鯉渕宿(こちら)を見て調べていた時に記事は見つけて気になっていた。
まあ書かれている内容は大掾氏の平氏として続く正当性を書いてあるので石岡の歴史に書かれているものとあまり変わらない。話は半分程度と解釈しておこう。
3)それよりここの祭神は興津日子命(オキツヒコノカミ)・興津比売命(オキツヒメノカミ)だといいます。
これは竈(カマド)を司る神だといいます。民間信仰の神様ですね。
昔は竈(カマド)は大切にされ、火を使う台所に神聖な神が宿ると神棚を祀ったり、お札を貼ったりしていたので、天皇の先祖を祀った神社の神様に比べると庶民の神様と言う気がします。
調べていたら、興津比売命(または奥津比売命)は別名で大戸比売神(オオベヒメノカミ)とも書かれていました。
この地が大戸(おおど)というのと関係があるのでしょうか?
それにしても「夷針」とはどんな意味でしょうか?
筑波山の周辺地帯の呼び名として長いことあちこち点々と使われている「新治(ニイハリ)」とも関係しているのでしょうか。発音は似ていますね。
でも夷針の夷は征夷大将軍の「夷」です。これは東国の異民族を指す言葉です。
何故この「夷」が使われるのでしょうか? わからないですね。
では長たらしい文の口直しに神社の入口にあった火の見櫓です。

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最近毎日書くのが多少苦になってきた。
少し追い立てられているようだ。ブログも毎日書こうと思い立って1年半が過ぎ、まだ1日もまだ欠けたことが無い。それだけが自慢だ。
またアクセスが多いことより、時々昔の記事にコメントや拍手をいただくことがあり、こちらの方が嬉しい。
書いている時は恐らくこんなマイナーな記事は飽きられてしまうだろうと思っていたし、一部の人しか興味のない記事が多いと思いながらも続けてきたことが大きいようだ。
昨日・今日の記事など本当につまらない記事なのだが、最初はただ単に紹介していただけであったものが、最近は記事を残しておかなければ、眠っているものが見えないように感じてしまっている。
そのうちに何か関連する事柄が出てきて一気にその場所とつながりが出て来るのではないかと思うようになった。
色々な方のブログを拝見しているうちに、こちらもずいぶん参考になり、自分のスタイルも影響を受けながら方向性が見えてきている。
しかし、もう少しいろいろなスタイルも試しながら続けていきたい。他の方のブログも真似させてもらおう。
さて、昨日紹介した夷針神社であるが、どうも本当にこの神社が延喜式式内社であげられている夷針(イハリ)神社なのであろうか?

色々な疑問が出てくる。
1)まずここは現在茨城町であるが延喜式の記された時代(平安時代10世紀)には那珂郡になっていたと思われる。
夷針神社は茨城郡の神社として数えられている唯一の神社である。
しかし、この地はそのもっと前(300年以上前?)は茨城郡であったのではないか?
(これは茨城の県名の話で小原神社を紹介した時に書いた。こちら)
ということは別な場所から移ってきたのかも・・・・。
由緒書きには聖武帝神亀2年乙丑9月29日(725)の創建となっていた。

2)この神社は江戸時代は「武隈明神社」と言っていたらしい。これはこの石岡とも大いに関係しており、常陸大掾(だいじょう)氏の家臣であった水戸馬場城が落城した時に、鯉渕城の城主で根小屋(根古矢、根古屋)にいた武隈氏がこの大戸(おおど)に逃げてきて移り住み、この神社に合祀したという。
ということは昔鯉渕にあった神社をこの時にこちらに移したものかもしれない。
このブログでも筑波詣での道として栄えた瀬戸井街道を検証する中で鯉渕宿(こちら)を見て調べていた時に記事は見つけて気になっていた。
まあ書かれている内容は大掾氏の平氏として続く正当性を書いてあるので石岡の歴史に書かれているものとあまり変わらない。話は半分程度と解釈しておこう。
3)それよりここの祭神は興津日子命(オキツヒコノカミ)・興津比売命(オキツヒメノカミ)だといいます。
これは竈(カマド)を司る神だといいます。民間信仰の神様ですね。
昔は竈(カマド)は大切にされ、火を使う台所に神聖な神が宿ると神棚を祀ったり、お札を貼ったりしていたので、天皇の先祖を祀った神社の神様に比べると庶民の神様と言う気がします。
調べていたら、興津比売命(または奥津比売命)は別名で大戸比売神(オオベヒメノカミ)とも書かれていました。
この地が大戸(おおど)というのと関係があるのでしょうか?
それにしても「夷針」とはどんな意味でしょうか?
筑波山の周辺地帯の呼び名として長いことあちこち点々と使われている「新治(ニイハリ)」とも関係しているのでしょうか。発音は似ていますね。
でも夷針の夷は征夷大将軍の「夷」です。これは東国の異民族を指す言葉です。
何故この「夷」が使われるのでしょうか? わからないですね。
では長たらしい文の口直しに神社の入口にあった火の見櫓です。



福性寺(茨城町)
今日は茨城町の福性寺(ふくしょうじ)を紹介します。
石岡の方から355号線のバイパスをまっすぐ笠間方面に進み、岩間駅近くで常磐高速の岩間のIC方向に曲がってまっすぐ進むと石塚街道(石岡~城里町石塚)と交差する交差点が「俎倉(まないたくら)」という地名になっている。
これもまた面白い地名だと気になっているがいわれはわからない。
この俎倉をそのまま進み次のコンビニより左折するとそこが県道59号線(玉里~水戸)になる。
近くに「ポケットファームどきどき」という施設があるので、知っておられる方も多いと思う。
この道を水戸方面に進むと北関東道の北茨城西ICへ行くが、現在このIC近くは工業団地計画が進められている。
東京までの高速バスもIC近くに駐車場がありここに車をおいてバスに乗ることができる。
今日紹介するのは、この道を水戸方面に用事があり車で出かけた時に偶然信号で停車したところに案内板がでていたのでよってみることにしたのである。
この寺は思わぬ収穫であった。

寺の正式名称は「三池山普門院福性寺」という天台宗の寺だ。

天台宗開宗1200年慶賛記念事業として、2007年に本堂・客殿が新築され新しくなっていました。
あまり新しいものは写真に残しませんでしたが、周りはとても趣のある寺です。
これは入口山門手前に置かれた六地蔵です。

本堂には平安時代の一木造りの如来像が安置されているというので室町時代にはこの寺はあったのだろうと思います。
境内には鎌倉時代の板碑や南北朝時代の五輪塔が町の文化財としてあるそうです。

観音堂。この寺の向かい側に「飯沼城跡」がある。
こちらはまた紹介するが、中世の城である。
この城の奥方の安産を祈願して建てたと伝えられる。

こちらが御神木でしょうか。

こちらの木(杉?)もかなり大きく枝ぶりも立派ですが、このように枝は支え棒で保護されています。

鐘楼です。奥に見えるのは右手が観音堂で左手が本堂です。
もう少しよく調べてみたいが、よくわからない。
まずは紹介だけとしよう。そのうちにまたわかってくるかもしれない。
でもこんなところにと思われるくらい雰囲気の良い寺です。
お近くを通ったら寄ってみてください。
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石岡の方から355号線のバイパスをまっすぐ笠間方面に進み、岩間駅近くで常磐高速の岩間のIC方向に曲がってまっすぐ進むと石塚街道(石岡~城里町石塚)と交差する交差点が「俎倉(まないたくら)」という地名になっている。
これもまた面白い地名だと気になっているがいわれはわからない。
この俎倉をそのまま進み次のコンビニより左折するとそこが県道59号線(玉里~水戸)になる。
近くに「ポケットファームどきどき」という施設があるので、知っておられる方も多いと思う。
この道を水戸方面に進むと北関東道の北茨城西ICへ行くが、現在このIC近くは工業団地計画が進められている。
東京までの高速バスもIC近くに駐車場がありここに車をおいてバスに乗ることができる。
今日紹介するのは、この道を水戸方面に用事があり車で出かけた時に偶然信号で停車したところに案内板がでていたのでよってみることにしたのである。
この寺は思わぬ収穫であった。

寺の正式名称は「三池山普門院福性寺」という天台宗の寺だ。

天台宗開宗1200年慶賛記念事業として、2007年に本堂・客殿が新築され新しくなっていました。
あまり新しいものは写真に残しませんでしたが、周りはとても趣のある寺です。
これは入口山門手前に置かれた六地蔵です。

本堂には平安時代の一木造りの如来像が安置されているというので室町時代にはこの寺はあったのだろうと思います。
境内には鎌倉時代の板碑や南北朝時代の五輪塔が町の文化財としてあるそうです。

観音堂。この寺の向かい側に「飯沼城跡」がある。
こちらはまた紹介するが、中世の城である。
この城の奥方の安産を祈願して建てたと伝えられる。

こちらが御神木でしょうか。

こちらの木(杉?)もかなり大きく枝ぶりも立派ですが、このように枝は支え棒で保護されています。

鐘楼です。奥に見えるのは右手が観音堂で左手が本堂です。
もう少しよく調べてみたいが、よくわからない。
まずは紹介だけとしよう。そのうちにまたわかってくるかもしれない。
でもこんなところにと思われるくらい雰囲気の良い寺です。
お近くを通ったら寄ってみてください。


飯沼城跡(茨城町)
昨日紹介した「福性寺」の入口前の通りの反対側に小山があり、飯沼城跡と書かれています。
あまり聞いたことのない中世の城の名前だ。

茨城町史跡となっています。入口はきれいに整備されています。
中世の城跡はあまり整備されていないところがほとんどですからここはきれいです。

階段を上ると、上は公園風な台地になっており、真ん中に説明看板が置かれていました。
書かれたものが少し読みにくいのでここに転載します。
「飯沼城は、通称飯沼館あるいは桜井氏の館跡とも呼ばれている。戦国時代ころには、図のように三つの郭があったが、現在は本丸だけが、当時のようすを伝えている。
広さは約五十メートル四方で、郭の周囲や、その外側にも土塁がめぐらされていた。
東北の邦楽(鬼門)にある鹿島神社は、城の鎮護のために祀られ、また下門(げもん)の地名は、南側の城域を示していると思われる。
城域などから発見された三筋壺(さんきんこ 平安時代)や五輪塔(南北朝~室町時代初期)などから、福性寺との密接なつながりが想像される。
福性寺の記録によると、南北朝時代には南朝方に属し、また戦国時代の城主として桜園氏の名が記されている。
文明年間(1500年頃)には江戸氏の影響下に入り、天正十八年(1590)佐竹氏に滅ぼされた。
茨城町教育委員会」
少し歴史を知りたい人には物足りない書き方ですね。

この図は上記の説明看板に書かれていた図です。三つの郭の内、北側(左側)は現在小学校があります。
また南側(右側)には福性寺の墓地があります。
残っているのは真ん中の本丸部分ですが、高さが約5mくらいの台地です。
この真ん中近くに(看板の後ろ)に木で囲まれた一角があり下の写真のように祀られた場所があります。

現地に「大日様」と書かれています。現地の説明文を載せます。
「大日様(だいにちさま) 密教の本尊である「大日如来」を、一般に大日様と読んでいる。もとは北の郭にあったが、川根小学校敷地造成に伴い、現在地に移された。 茨城町教育委員会」
小学校のグランドの整備拡張のためこちらに持って祀っているようです。
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あまり聞いたことのない中世の城の名前だ。

茨城町史跡となっています。入口はきれいに整備されています。
中世の城跡はあまり整備されていないところがほとんどですからここはきれいです。

階段を上ると、上は公園風な台地になっており、真ん中に説明看板が置かれていました。
書かれたものが少し読みにくいのでここに転載します。
「飯沼城は、通称飯沼館あるいは桜井氏の館跡とも呼ばれている。戦国時代ころには、図のように三つの郭があったが、現在は本丸だけが、当時のようすを伝えている。
広さは約五十メートル四方で、郭の周囲や、その外側にも土塁がめぐらされていた。
東北の邦楽(鬼門)にある鹿島神社は、城の鎮護のために祀られ、また下門(げもん)の地名は、南側の城域を示していると思われる。
城域などから発見された三筋壺(さんきんこ 平安時代)や五輪塔(南北朝~室町時代初期)などから、福性寺との密接なつながりが想像される。
福性寺の記録によると、南北朝時代には南朝方に属し、また戦国時代の城主として桜園氏の名が記されている。
文明年間(1500年頃)には江戸氏の影響下に入り、天正十八年(1590)佐竹氏に滅ぼされた。
茨城町教育委員会」
少し歴史を知りたい人には物足りない書き方ですね。

この図は上記の説明看板に書かれていた図です。三つの郭の内、北側(左側)は現在小学校があります。
また南側(右側)には福性寺の墓地があります。
残っているのは真ん中の本丸部分ですが、高さが約5mくらいの台地です。
この真ん中近くに(看板の後ろ)に木で囲まれた一角があり下の写真のように祀られた場所があります。

現地に「大日様」と書かれています。現地の説明文を載せます。
「大日様(だいにちさま) 密教の本尊である「大日如来」を、一般に大日様と読んでいる。もとは北の郭にあったが、川根小学校敷地造成に伴い、現在地に移された。 茨城町教育委員会」
小学校のグランドの整備拡張のためこちらに持って祀っているようです。


水戸祇園寺(1)
今日はまだ佐志能神社の続きを書こうと思っていたが、どうにもまとまらない。
まあ少しまた後で書きたいと思う。
そこで今日は水戸にある祇園寺に行ってきたのでその時の写真を中心に何回かに分けて紹介します。

大きな玉を持った狛犬。
中国の曹洞宗を踏襲していますので、向こうのものでしょうか。
日本の各地に玉を持った狛犬や獅子の像が神社にはあるといいます。
これも色々な意味があるようですので調べてみるのも面白そうですね。

心越禅師の像?
木に隠れるように置かれています。

祇園寺は水戸光圀の時に、中国(明)から渡ってきた曹洞宗の禅僧「心越禅師」を水戸に招いてこの地の寺(天徳寺)で過ごしました。
心越禅師の死(1695年)後、1712年に天徳寺を河和田村に移して、ここに祇園寺を建て、心越禅師を開祖としました。
何故、この寺に来たくなったのかは、旧小川町の「天聖寺」(今は墓地しかない)に行った時に、この寺との関係を知り、見てみたくなったのです。
時間がないので説明はまた次にします。
でもとても立派なお寺です。
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まあ少しまた後で書きたいと思う。
そこで今日は水戸にある祇園寺に行ってきたのでその時の写真を中心に何回かに分けて紹介します。

大きな玉を持った狛犬。
中国の曹洞宗を踏襲していますので、向こうのものでしょうか。
日本の各地に玉を持った狛犬や獅子の像が神社にはあるといいます。
これも色々な意味があるようですので調べてみるのも面白そうですね。

心越禅師の像?
木に隠れるように置かれています。

祇園寺は水戸光圀の時に、中国(明)から渡ってきた曹洞宗の禅僧「心越禅師」を水戸に招いてこの地の寺(天徳寺)で過ごしました。
心越禅師の死(1695年)後、1712年に天徳寺を河和田村に移して、ここに祇園寺を建て、心越禅師を開祖としました。
何故、この寺に来たくなったのかは、旧小川町の「天聖寺」(今は墓地しかない)に行った時に、この寺との関係を知り、見てみたくなったのです。
時間がないので説明はまた次にします。
でもとても立派なお寺です。


水戸祇園寺(2)
先ほど外来植物の注意喚起を載せています。読んでいない方は下にある記事も読んでくださいね。
さて、昨日に続いて水戸の祇園寺の写真を載せます。
今日もあまり説明は省きます。

祇園寺の入口です。
この左隣には進学校「茨城高校」があります。

立派な山門です。
禅寺ですので、このブログでも数回出てきている「不許葷酒入山門」(葷酒(くんしゅ)の山門に入ることを許さず)の戒壇石です。



徳川家の三葉葵でしょうね。
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さて、昨日に続いて水戸の祇園寺の写真を載せます。
今日もあまり説明は省きます。

祇園寺の入口です。
この左隣には進学校「茨城高校」があります。

立派な山門です。
禅寺ですので、このブログでも数回出てきている「不許葷酒入山門」(葷酒(くんしゅ)の山門に入ることを許さず)の戒壇石です。




徳川家の三葉葵でしょうね。


水戸祇園寺(3)
今日も水戸の祇園寺の続きです。
この祇園寺へ行く途中に三の丸の水戸城の跡やその先の芸術館などを横目で見ながら素通りでした。
確認したかったのは今日紹介する「穢積(えしゃく)金剛尊天堂」を見たかったからです。

この堂は、境内の鐘楼の近くに建っていました。

このお堂は心越禅師が中国から持ってきた穢積(えしゃく)金剛像を祀るために光圀が建てさせたもので1694年のものでこの寺では唯一火災をまぬがれて当時のものとして残った建物だそうです。

それにしても、この穢積(えしゃく)金剛って何? と思った訳でして、調べてみました。
ネットで検索すると中国語のサイトがたくさん出てきます。日本のサイトはあまりありません。
この場所に置かれた説明板(下記)にもあまりよく見えない状態になっています。
唯一の記録品という割には説明もあまりされていません。
調べると、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)のことだとなっています。また「火頭金剛」ともいわれ、汚れを清めてくれる明王だそうです。
この汚れは心の汚れというのではなく、物質的な汚れを清めてくれるというので、日本ではトイレの神様として祀られているようです。

どうやら烏枢沙摩明王はもっと古くから仏教に取り入れられてきたが、こちらの同じ明王も江戸時代になって中国から渡ってきた「穢積金剛」はあまり日本では受け入れられていないように思います。
もちろんトイレの神様だけではありません。
不浄なものを大地に変えたり、焼き払ってしまう力があるようです。
そして、お腹の中にいる赤ん坊を女の子から男の子に変える力も持っていたのです。
昔は世継ぎは男子ですから、この神様も大切にされたのでしょう。
それにしてもよくわからない建物です。
これと全く同じ建物が茨城町にもあるんです。
それはまた明日にでも紹介しましょう。
さて、明日から3日間石岡市柴間のギター文化館で「ことば座」の定期公演があります。
美浦村に伝わる平将門伝説を取り上げて、耳の聞こえない舞姫「小林幸枝」と伊藤道郎の門下生である美浦のモダンダンスの柏木久美子さんの踊りが見ものです。
NHKの水戸放送局が練習から取材に来ており、6月21日の18時~19時の間に紹介されるそうです。
今年は8月にマカオでの公演も決まっており、大いに飛躍してもらいたいものです。
見に行かれる方は → こちら のHPを参照してください。
またギター館のNHKの取材の紹介はギター館のブログで確認してください。→ こちら
私は「ことば座」の勝手に応援団です!!
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この祇園寺へ行く途中に三の丸の水戸城の跡やその先の芸術館などを横目で見ながら素通りでした。
確認したかったのは今日紹介する「穢積(えしゃく)金剛尊天堂」を見たかったからです。

この堂は、境内の鐘楼の近くに建っていました。

このお堂は心越禅師が中国から持ってきた穢積(えしゃく)金剛像を祀るために光圀が建てさせたもので1694年のものでこの寺では唯一火災をまぬがれて当時のものとして残った建物だそうです。

それにしても、この穢積(えしゃく)金剛って何? と思った訳でして、調べてみました。
ネットで検索すると中国語のサイトがたくさん出てきます。日本のサイトはあまりありません。
この場所に置かれた説明板(下記)にもあまりよく見えない状態になっています。
唯一の記録品という割には説明もあまりされていません。
調べると、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)のことだとなっています。また「火頭金剛」ともいわれ、汚れを清めてくれる明王だそうです。
この汚れは心の汚れというのではなく、物質的な汚れを清めてくれるというので、日本ではトイレの神様として祀られているようです。

どうやら烏枢沙摩明王はもっと古くから仏教に取り入れられてきたが、こちらの同じ明王も江戸時代になって中国から渡ってきた「穢積金剛」はあまり日本では受け入れられていないように思います。
もちろんトイレの神様だけではありません。
不浄なものを大地に変えたり、焼き払ってしまう力があるようです。
そして、お腹の中にいる赤ん坊を女の子から男の子に変える力も持っていたのです。
昔は世継ぎは男子ですから、この神様も大切にされたのでしょう。
それにしてもよくわからない建物です。
これと全く同じ建物が茨城町にもあるんです。
それはまた明日にでも紹介しましょう。
さて、明日から3日間石岡市柴間のギター文化館で「ことば座」の定期公演があります。
美浦村に伝わる平将門伝説を取り上げて、耳の聞こえない舞姫「小林幸枝」と伊藤道郎の門下生である美浦のモダンダンスの柏木久美子さんの踊りが見ものです。
NHKの水戸放送局が練習から取材に来ており、6月21日の18時~19時の間に紹介されるそうです。
今年は8月にマカオでの公演も決まっており、大いに飛躍してもらいたいものです。
見に行かれる方は → こちら のHPを参照してください。
またギター館のNHKの取材の紹介はギター館のブログで確認してください。→ こちら
私は「ことば座」の勝手に応援団です!!


穢跡金剛
水戸祇園寺にあるお堂に纏われている穢跡(えしゃく)金剛尊が穢れ(けがれ)を取り除いてくれる金剛だというのだが、今まで見たことがない。
この存在を知ったのは、先日訪れている旧小川町の天聖寺の跡地があまりにも不思議な空間だったので、関連の場所を調べていた。
そして、この水戸の祇園寺はもちろんのこと、茨城町にある「慈雲寺」の存在を知った。
ネットで調べてもほとんど紹介もされていない寺で、墓地の管理はされているようなので廃寺ではないようなのだが、寺院好きの方も結構おられるが、紹介されたものを見かけない。
この慈雲寺は江戸時代に小川の天聖寺の末寺の一つだったらしく、ここに住んでいた住職が天狗和尚と呼ばれるようになった話が、茨城いすゞの「いばらきの昔ばなし」シリーズに紹介されていた。(こちら)
この和尚が岩間の愛宕神社で行われた十人抜きの奉納相撲大会で大男を投げ飛ばして優勝して消えてしまった坊主というのも面白い。
こちらの話はもう少し関係を調べてみたいが、今日は「穢跡金剛堂」を見に行った。
場所は6号国道の涸沼川のところに架かる橋の手前「奥谷」の信号を西に入って、北関東道の高速を通り越したすぐ近くであるが、こんなところに何かあるの?といった感じだ。


まったく、水戸の穢跡金剛尊天堂とそっくりです。(2つ前の記事を見て下さい)
水戸祇園寺のお堂は1694年の建立だとされていますが、こちらは文化財の一覧から見ると1810(文化7年)の建築とされています。
恐らく水戸の祇園寺のお堂を模して作られたものだと思います。

この寺は寺と名がついていますが、お寺の本堂というような建物はありません。
あるのはこの金剛堂と手前に少し小さなお宮があり、お寺は地方の民家か公民館のような建物が建っています。
墓地やお墓の案内はネットで見ることができますので、無住ではないのでしょう。
ただし、お墓と思われる場所は多分ここに作られた北関東道に間を分断された向こう側にあるように思います。
少し遠回りをして高速上の橋を渡っていくことになります。


穢跡金剛と書いてあり、ふりがなが「えせき」となっています。
水戸の祇園寺では「えじゃく」となっていました。
またネットでは一般に「えしゃく」が普通のようです。この違いはなんなのでしょうか。
お堂の中は確認できませんでしたが、恐らく穢跡金剛尊がまつられて残っているようです。
立像と書かれているので、どんなお姿なのでしょうか?
周りにを炎で囲まれているのでしょうか。

それにしても、わからない場所です。
寺への入口はこんな竹林の横を入っていきます。
すぐ隣に「息栖神社」という古い神社があります。
この右の竹林の奥が「慈雲寺」で右側の木々の茂みは息栖神社です。
昔は涸沼がこのあたりまで広くなっていて、沖の洲の神社というような場所だったのかもしれません。
いろいろなブログも探していますが、このお堂の紹介は見たことがありません。
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この存在を知ったのは、先日訪れている旧小川町の天聖寺の跡地があまりにも不思議な空間だったので、関連の場所を調べていた。
そして、この水戸の祇園寺はもちろんのこと、茨城町にある「慈雲寺」の存在を知った。
ネットで調べてもほとんど紹介もされていない寺で、墓地の管理はされているようなので廃寺ではないようなのだが、寺院好きの方も結構おられるが、紹介されたものを見かけない。
この慈雲寺は江戸時代に小川の天聖寺の末寺の一つだったらしく、ここに住んでいた住職が天狗和尚と呼ばれるようになった話が、茨城いすゞの「いばらきの昔ばなし」シリーズに紹介されていた。(こちら)
この和尚が岩間の愛宕神社で行われた十人抜きの奉納相撲大会で大男を投げ飛ばして優勝して消えてしまった坊主というのも面白い。
こちらの話はもう少し関係を調べてみたいが、今日は「穢跡金剛堂」を見に行った。
場所は6号国道の涸沼川のところに架かる橋の手前「奥谷」の信号を西に入って、北関東道の高速を通り越したすぐ近くであるが、こんなところに何かあるの?といった感じだ。


まったく、水戸の穢跡金剛尊天堂とそっくりです。(2つ前の記事を見て下さい)
水戸祇園寺のお堂は1694年の建立だとされていますが、こちらは文化財の一覧から見ると1810(文化7年)の建築とされています。
恐らく水戸の祇園寺のお堂を模して作られたものだと思います。

この寺は寺と名がついていますが、お寺の本堂というような建物はありません。
あるのはこの金剛堂と手前に少し小さなお宮があり、お寺は地方の民家か公民館のような建物が建っています。
墓地やお墓の案内はネットで見ることができますので、無住ではないのでしょう。
ただし、お墓と思われる場所は多分ここに作られた北関東道に間を分断された向こう側にあるように思います。
少し遠回りをして高速上の橋を渡っていくことになります。


穢跡金剛と書いてあり、ふりがなが「えせき」となっています。
水戸の祇園寺では「えじゃく」となっていました。
またネットでは一般に「えしゃく」が普通のようです。この違いはなんなのでしょうか。
お堂の中は確認できませんでしたが、恐らく穢跡金剛尊がまつられて残っているようです。
立像と書かれているので、どんなお姿なのでしょうか?
周りにを炎で囲まれているのでしょうか。

それにしても、わからない場所です。
寺への入口はこんな竹林の横を入っていきます。
すぐ隣に「息栖神社」という古い神社があります。
この右の竹林の奥が「慈雲寺」で右側の木々の茂みは息栖神社です。
昔は涸沼がこのあたりまで広くなっていて、沖の洲の神社というような場所だったのかもしれません。
いろいろなブログも探していますが、このお堂の紹介は見たことがありません。


息栖神社(茨城町)
今日は昼から東京に行っていましたが、台風が夜来るというので用事を早めに切り上げて雨があまり大降りにならないうちに帰ってきました。
今外は強い雨と風の吹き荒れる音がしています。早く帰ってよかった。
みなさんのところに被害がありませんように!
さて、穢跡金剛堂のある茨城町下土師にある慈雲寺のすぐ向かいに「息栖神社」があります。
この神社がいつ頃建ったのかはわかりませんが、東国三社と言われる息栖神社の流れを汲むものかもしれません。
前に出島散歩をした時の出島地区や石岡周辺は「鹿島神社」「香取神社」は多いのですが「息栖神社」というのはあまりありませんでした。
沖の洲という程度の意味ならここの地形も沖洲なのかというと、あまりその雰囲気はしません。
しかし、すぐ近くを涸沼川が流れ、少し水位が高かったら大きな湖のようになっていた時もありそうです。

土師(はし)という名前も気になるところですが、土器を焼いている人たちが集まっていたのかもしれません。
「かわらけ」などという言葉よりも古そうです。
神社の正面の鳥居は南側にあり、神社は涸沼川を背にして建っています。

神社の拝殿です。

こちらは本殿です。囲われているので良くわかりませんが、屋根などは大分古くて傷んでいるようです。

本殿横から裏からの参拝の道があり、そちらにも鳥居があります。今は草がぼうぼうでした。
こちらの鳥居は先日書いた慈雲寺とつながっています。
この寺と神社はどこかつながっているのでしょう。
詳しいことは何もわかりませんでした。
時間もないので今日は調べることもしていません。わからないままでも記事は残しておきたいと思います。
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今外は強い雨と風の吹き荒れる音がしています。早く帰ってよかった。
みなさんのところに被害がありませんように!
さて、穢跡金剛堂のある茨城町下土師にある慈雲寺のすぐ向かいに「息栖神社」があります。
この神社がいつ頃建ったのかはわかりませんが、東国三社と言われる息栖神社の流れを汲むものかもしれません。
前に出島散歩をした時の出島地区や石岡周辺は「鹿島神社」「香取神社」は多いのですが「息栖神社」というのはあまりありませんでした。
沖の洲という程度の意味ならここの地形も沖洲なのかというと、あまりその雰囲気はしません。
しかし、すぐ近くを涸沼川が流れ、少し水位が高かったら大きな湖のようになっていた時もありそうです。

土師(はし)という名前も気になるところですが、土器を焼いている人たちが集まっていたのかもしれません。
「かわらけ」などという言葉よりも古そうです。
神社の正面の鳥居は南側にあり、神社は涸沼川を背にして建っています。

神社の拝殿です。

こちらは本殿です。囲われているので良くわかりませんが、屋根などは大分古くて傷んでいるようです。

本殿横から裏からの参拝の道があり、そちらにも鳥居があります。今は草がぼうぼうでした。
こちらの鳥居は先日書いた慈雲寺とつながっています。
この寺と神社はどこかつながっているのでしょう。
詳しいことは何もわかりませんでした。
時間もないので今日は調べることもしていません。わからないままでも記事は残しておきたいと思います。


舟塚古墳(水戸)
水戸内原のイオンモールに近い場所に舟塚古墳がある。
この場所は「水戸市大足町」という地名である。
古墳の全長は約75mで6世紀頃のものと見られています。
石岡にある東関東で2番目に大きい舟塚山古墳は全長186mで5世紀後半というので比べれば小さいが、この周辺に点在する古墳群の中では中核を占めるものだ。

昔からダイダラボッチ伝説がついてまわる「大足」だが、読みは「おおだら」である。
石岡の八郷地区の善光寺のある太田地区に近いところにも大足という地名がある。
この地名の解釈は今まで色々なところに書かれていることはだいたい共通していて、昔の製鉄のあった場所ではないかと言われる。
ヤマトタケルの父とされる「景行天皇」は「大足彦命(おおたらしひこのみこと)」ともいう。
これと製鉄技術などを結びつけるのもまた面白そうだ。

案内看板には「古代のロマンをかきたてる舟塚古墳」とある。
この看板だけでは古代のロマンを掻き立てるとは思われない。古墳の説明は現地には置かれていないようだ。
さて、水戸市大足町にある「舟塚古墳」だが、この近くはくれふし山と言われる朝房山も近く、またたくさんの古墳が集まる古墳公園がある。
また、この道を北に進むと「木葉下」(アボッケ)という変わった名前の場所に出る。
私はこの道をよく通る。狭く少し回れば広い道にも出るのだが、何か感じるものがあり通りたくなる。
この木葉下(あぼっけ)については、私も今まで、アイヌ語だと長いこと思っていた。
ボッケ=パッケ=ハケ=崖 のような地形がこの名前になったものと思い込んでいた。崖地とは思えないのに。
しかし、最近は少し違うような気がしている。
韓国の南部の昔方の方言によって解釈ができるという。意味は「陶器を焼く人々の里」というような意味らしい。
ここの大足(オオダル)と木葉下(アボッケ)はきっとこの地に朝鮮半島から渡ってきた人たちが住んでいたのではないか?
たくさんの古墳は何を物語っているのか?

住宅や畑が広がる中にポツンと小山がある。
そこに桜の木が植わっている。
訪れたのは4月はじめ。桜が美しいと思って立寄ったのだ。

前方後円分の一番高い部分に、このような碑置かれていた。
まあこれはどこもよくあることなのでしょうがないか。
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この場所は「水戸市大足町」という地名である。
古墳の全長は約75mで6世紀頃のものと見られています。
石岡にある東関東で2番目に大きい舟塚山古墳は全長186mで5世紀後半というので比べれば小さいが、この周辺に点在する古墳群の中では中核を占めるものだ。

昔からダイダラボッチ伝説がついてまわる「大足」だが、読みは「おおだら」である。
石岡の八郷地区の善光寺のある太田地区に近いところにも大足という地名がある。
この地名の解釈は今まで色々なところに書かれていることはだいたい共通していて、昔の製鉄のあった場所ではないかと言われる。
ヤマトタケルの父とされる「景行天皇」は「大足彦命(おおたらしひこのみこと)」ともいう。
これと製鉄技術などを結びつけるのもまた面白そうだ。

案内看板には「古代のロマンをかきたてる舟塚古墳」とある。
この看板だけでは古代のロマンを掻き立てるとは思われない。古墳の説明は現地には置かれていないようだ。
さて、水戸市大足町にある「舟塚古墳」だが、この近くはくれふし山と言われる朝房山も近く、またたくさんの古墳が集まる古墳公園がある。
また、この道を北に進むと「木葉下」(アボッケ)という変わった名前の場所に出る。
私はこの道をよく通る。狭く少し回れば広い道にも出るのだが、何か感じるものがあり通りたくなる。
この木葉下(あぼっけ)については、私も今まで、アイヌ語だと長いこと思っていた。
ボッケ=パッケ=ハケ=崖 のような地形がこの名前になったものと思い込んでいた。崖地とは思えないのに。
しかし、最近は少し違うような気がしている。
韓国の南部の昔方の方言によって解釈ができるという。意味は「陶器を焼く人々の里」というような意味らしい。
ここの大足(オオダル)と木葉下(アボッケ)はきっとこの地に朝鮮半島から渡ってきた人たちが住んでいたのではないか?
たくさんの古墳は何を物語っているのか?

住宅や畑が広がる中にポツンと小山がある。
そこに桜の木が植わっている。
訪れたのは4月はじめ。桜が美しいと思って立寄ったのだ。

前方後円分の一番高い部分に、このような碑置かれていた。
まあこれはどこもよくあることなのでしょうがないか。


大串貝塚公園(水戸)
今日は3連休の最終日。といっても毎週3連休のような仕事になっているので変わり映えしたものはない。
逆にどこかに行く時に混む心配をしなければならない。
現役時代は時間に追われていたように思うが、今から思えばもう少し自分の時間を持つべきだった。
でも仕事が中心だとそのようなことも考える余裕がなかった。
今も同じように仕事を中心に頑張っている方も多いだろう。
でも。ちょっと立ち止まって後々のことも考えておく必要はあったのではないかと思う。
「今の生活に満足か?」って問われたら何と答えようか・・・・
今週半ば過ぎにイギリスから娘が初孫を連れてくる。
1カ月くらいいられるようなので、ブログは適当にしておこう。
孫の話題も楽しいかもしれないね。
さて、先日水戸に用事があって行き、帰りに大洗の方を廻って帰ってきました。
当然寿司ランチが目当てです。
途中「大串貝塚ふれあい公園」案内板が目につき立寄って見ました。
常陸国風土記にこの貝塚の話が出てくるのですから、日本の考古学が縄文時代の貝塚を知るずっと前から貝塚の存在を知っていたのです。
でも奈良時代の事、大男のダイダラボウが貝を食べたのだというお話となりました。

常陸国風土記の那賀郡の記述に
「平津の駅家の西一、二里のところに、大櫛といふ名の岡がある。昔、大男がゐて、岡の上に立ったまま手をのばして海辺の砂浜の大蛤をほじって(くじって)食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。大男の足跡は、長さ四十歩以上、幅二十歩以上で、小便の跡の穴は、直径二十歩以上ある。」(口訳・常陸国風土記より)
この話の大櫛となっているところが今の「大串」だ。この大男がダイダラボウと言うことになる。

(クリックすると拡大します)
きれいな公園です。

(クリックすると拡大します)
地元の小学校の低学年生でしょうか。ここに遠足のようです。
皆、ここに荷物を置いて向こうに見える縄文時代の再現建物(無料)などを見学に行っていました。
このような施設が何時までも大切にしていってほしいものです。

これがダイダラボウです。公園側からみると後ろ姿です。
この内部から中2階部分に階段で登れます。

(クリックすると拡大します)
正面に回って見ました。大きいですね。遠くからもよく見ることが出来ます。

像の内部にはいろいろな資料が展示してありました。
この全国の巨人伝説が集められておりおもしろかったですよ。
石岡も八郷地区に印がついていました。多分「大足(おおだら)」という地名の所だと思います。
水戸にも同じ大足町というところがありますが、多分古代の産鉄場の跡なのかもしれません。

(クリックすると拡大します)

(クリックすると拡大します)

(クリックすると拡大します)
大串貝塚も公園のはずれで近かったのですが、今回は子供たちのはしゃぐ声を聞いただけで帰ることにしました。
← よろしければクリックお願いします。
逆にどこかに行く時に混む心配をしなければならない。
現役時代は時間に追われていたように思うが、今から思えばもう少し自分の時間を持つべきだった。
でも仕事が中心だとそのようなことも考える余裕がなかった。
今も同じように仕事を中心に頑張っている方も多いだろう。
でも。ちょっと立ち止まって後々のことも考えておく必要はあったのではないかと思う。
「今の生活に満足か?」って問われたら何と答えようか・・・・
今週半ば過ぎにイギリスから娘が初孫を連れてくる。
1カ月くらいいられるようなので、ブログは適当にしておこう。
孫の話題も楽しいかもしれないね。
さて、先日水戸に用事があって行き、帰りに大洗の方を廻って帰ってきました。
当然寿司ランチが目当てです。
途中「大串貝塚ふれあい公園」案内板が目につき立寄って見ました。
常陸国風土記にこの貝塚の話が出てくるのですから、日本の考古学が縄文時代の貝塚を知るずっと前から貝塚の存在を知っていたのです。
でも奈良時代の事、大男のダイダラボウが貝を食べたのだというお話となりました。

常陸国風土記の那賀郡の記述に
「平津の駅家の西一、二里のところに、大櫛といふ名の岡がある。昔、大男がゐて、岡の上に立ったまま手をのばして海辺の砂浜の大蛤をほじって(くじって)食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。大男の足跡は、長さ四十歩以上、幅二十歩以上で、小便の跡の穴は、直径二十歩以上ある。」(口訳・常陸国風土記より)
この話の大櫛となっているところが今の「大串」だ。この大男がダイダラボウと言うことになる。

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きれいな公園です。

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地元の小学校の低学年生でしょうか。ここに遠足のようです。
皆、ここに荷物を置いて向こうに見える縄文時代の再現建物(無料)などを見学に行っていました。
このような施設が何時までも大切にしていってほしいものです。

これがダイダラボウです。公園側からみると後ろ姿です。
この内部から中2階部分に階段で登れます。

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正面に回って見ました。大きいですね。遠くからもよく見ることが出来ます。

像の内部にはいろいろな資料が展示してありました。
この全国の巨人伝説が集められておりおもしろかったですよ。
石岡も八郷地区に印がついていました。多分「大足(おおだら)」という地名の所だと思います。
水戸にも同じ大足町というところがありますが、多分古代の産鉄場の跡なのかもしれません。

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大串貝塚も公園のはずれで近かったのですが、今回は子供たちのはしゃぐ声を聞いただけで帰ることにしました。


めんたいパーク(大洗)
今朝の地震で飛び起きてしまいました。
嫌な揺れ方で急いでテレビをつけました。また福島県沖ですね。
津波もあまり大したことがなくて良かったです。
また、台風はあまりこちらに被害がなくてひと安心。
でも前線で雨が降り続いています。いやですね。
ここ数日、雨がシトシト降り続いていましたが、台風が来ないうちにと娘と孫を連れて、大洗へまた寿司ランチを食べに行きました。
森田水産です。(前の記事はこちら)
これで3度目ですから今回は私は別なランチ定食にしてみました。

刺身と天ぷら、ハンバーグのセットです。ハンバーグは肉ではなく鮪(マグロ)を使っています。
味噌汁の具は貝です。
これも美味しいのですが、やはり寿司か海鮮丼の方が安くて良いように思います。
食後、ここで見つけたパンフレットで「かねふく めんたいパーク」と言うところに行ってみました。
かねふくといえば福岡ですよね。しかし大洗に工場があるんです。
それも工場見学も試食もできます。
当然試食に誘われたのですが、やはり美味しそうでたくさん買ってしまいました。
ここでは生の出来立てを買えるんです。ふつうは作ったものは冷凍されて運ばれます。

広い駐車場があり、雨模様でしたが団体さんも次から次へたくさん来ています。
かわいらしい赤い明太子のシンボルが目印です。

すぐ隣は大洗港で北海道とのフェリー「サンフラワー号」が入港するところでした。
でもこの場所は3.11東日本大震災で津波の被害を受けました。
ここの場所も人間の背の高さ近くまで津波が押し寄せ、浸水し、工場もしばらく休止となったようです。
この「めんたいパーク」は2009年9月にこの工場とパークをオープンさせたのですが、この震災を教訓に「東京かねふく」では愛知県常滑に工場とめんたいパークを作って、リスクの分散をはかったそうです。
「かねふく」は福岡が本社ですが、九州での生産は西日本向けに限られ、東日本向けの明太子は「東京かねふく」が受け持っているのだそうです。

明太子の試食に、軍艦寿司まで無料です。
そして、コーヒーなど好きな飲み物も無料の自動販売機があります。

入口の赤い明太子ちゃんと孫で記念撮影。


工場もガラス越しに見学できます。
お姉さんもおばさんも孫を見つけて手を振ってくれました。
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嫌な揺れ方で急いでテレビをつけました。また福島県沖ですね。
津波もあまり大したことがなくて良かったです。
また、台風はあまりこちらに被害がなくてひと安心。
でも前線で雨が降り続いています。いやですね。
ここ数日、雨がシトシト降り続いていましたが、台風が来ないうちにと娘と孫を連れて、大洗へまた寿司ランチを食べに行きました。
森田水産です。(前の記事はこちら)
これで3度目ですから今回は私は別なランチ定食にしてみました。

刺身と天ぷら、ハンバーグのセットです。ハンバーグは肉ではなく鮪(マグロ)を使っています。
味噌汁の具は貝です。
これも美味しいのですが、やはり寿司か海鮮丼の方が安くて良いように思います。
食後、ここで見つけたパンフレットで「かねふく めんたいパーク」と言うところに行ってみました。
かねふくといえば福岡ですよね。しかし大洗に工場があるんです。
それも工場見学も試食もできます。
当然試食に誘われたのですが、やはり美味しそうでたくさん買ってしまいました。
ここでは生の出来立てを買えるんです。ふつうは作ったものは冷凍されて運ばれます。

広い駐車場があり、雨模様でしたが団体さんも次から次へたくさん来ています。
かわいらしい赤い明太子のシンボルが目印です。

すぐ隣は大洗港で北海道とのフェリー「サンフラワー号」が入港するところでした。
でもこの場所は3.11東日本大震災で津波の被害を受けました。
ここの場所も人間の背の高さ近くまで津波が押し寄せ、浸水し、工場もしばらく休止となったようです。
この「めんたいパーク」は2009年9月にこの工場とパークをオープンさせたのですが、この震災を教訓に「東京かねふく」では愛知県常滑に工場とめんたいパークを作って、リスクの分散をはかったそうです。
「かねふく」は福岡が本社ですが、九州での生産は西日本向けに限られ、東日本向けの明太子は「東京かねふく」が受け持っているのだそうです。

明太子の試食に、軍艦寿司まで無料です。
そして、コーヒーなど好きな飲み物も無料の自動販売機があります。

入口の赤い明太子ちゃんと孫で記念撮影。


工場もガラス越しに見学できます。
お姉さんもおばさんも孫を見つけて手を振ってくれました。


くれふしの里 古墳公園(水戸)
今日は冷たい雨が降っています。所によっては雪になったところもあるそうですが、私の所では降っていません。
先日、自転車に乗っていて車と接触し、足を怪我した友人が明日手術をすることになり夕方病院に見舞いに行ってきました。
年末はとくに交通事故に気をつけたいものです。
夜、暗くなるのが早く、気持ちもあわただしくなって特にこのような寒くて薄暗い時は危ないですね。
さて、先週水戸市大足(おおだる)近くの「くれふしの里 古墳公園」に立寄りました。
正式な地名は水戸市牛伏町です。
常陸国府(石岡)から真直ぐに北へ行った内原に近い場所です。
この辺りにもかなり古い謂れのある場所がたくさんあります。
大足(おおだる)もいろいろ言われます。ダイダラボッチの足あとだとか、製鉄の発掘跡だとか・・・・
しかしなんといってもこの「くれふし」という言葉が表している朝房山(あさぼうやま)が近くにあることです。
常陸国風土記に「晡時臥山」(クレフシヤマ)とかかれている古くからの信仰の山とされているのです。
石岡の人間がこんなことを書いてはいけないかもしれませんが、晡時臥山は石岡にある竜神山の事だと言う説もあります。
何しろまったく同じ伝説が両方に伝わっているのです。
そして茨城の難読地名に必ず出てくる「木葉下」=あぼっけ もすぐ近くにあります。
ここの古墳公園にはたくさんの古墳(全部で16基)があります。前方後円墳・円噴などたくさんあります。
年代がはっきりしていないものも多く、4世紀頃から6世紀松頃までの200年間くらいに次々と古墳が築かれていったようです。
(写真はすべてクリックすると大きな画像を表示します)

公園内は落ち葉を燃やしていたため煙が漂っていました。
そこに日差しが・・・・。ちょっと幻想的でした。

古墳からはたくさんの埴輪なども出土しています。
この大きな前方後円墳は牛伏4号墳で、全長が72mです。6世紀後半の築造と推定されています。


公園の広場には大きな埴輪のモニュメントが置かれています。大きいですね。
下では親子づれが野球をしたりして遊んでいました。


公園から出たところに無造作に置かれた二十三夜塔と庚申塔(見ざる、言わざる、聞かざると青面金剛)
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先日、自転車に乗っていて車と接触し、足を怪我した友人が明日手術をすることになり夕方病院に見舞いに行ってきました。
年末はとくに交通事故に気をつけたいものです。
夜、暗くなるのが早く、気持ちもあわただしくなって特にこのような寒くて薄暗い時は危ないですね。
さて、先週水戸市大足(おおだる)近くの「くれふしの里 古墳公園」に立寄りました。
正式な地名は水戸市牛伏町です。
常陸国府(石岡)から真直ぐに北へ行った内原に近い場所です。
この辺りにもかなり古い謂れのある場所がたくさんあります。
大足(おおだる)もいろいろ言われます。ダイダラボッチの足あとだとか、製鉄の発掘跡だとか・・・・
しかしなんといってもこの「くれふし」という言葉が表している朝房山(あさぼうやま)が近くにあることです。
常陸国風土記に「晡時臥山」(クレフシヤマ)とかかれている古くからの信仰の山とされているのです。
石岡の人間がこんなことを書いてはいけないかもしれませんが、晡時臥山は石岡にある竜神山の事だと言う説もあります。
何しろまったく同じ伝説が両方に伝わっているのです。
そして茨城の難読地名に必ず出てくる「木葉下」=あぼっけ もすぐ近くにあります。
ここの古墳公園にはたくさんの古墳(全部で16基)があります。前方後円墳・円噴などたくさんあります。
年代がはっきりしていないものも多く、4世紀頃から6世紀松頃までの200年間くらいに次々と古墳が築かれていったようです。
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公園内は落ち葉を燃やしていたため煙が漂っていました。
そこに日差しが・・・・。ちょっと幻想的でした。

古墳からはたくさんの埴輪なども出土しています。
この大きな前方後円墳は牛伏4号墳で、全長が72mです。6世紀後半の築造と推定されています。


公園の広場には大きな埴輪のモニュメントが置かれています。大きいですね。
下では親子づれが野球をしたりして遊んでいました。


公園から出たところに無造作に置かれた二十三夜塔と庚申塔(見ざる、言わざる、聞かざると青面金剛)


立野神社(谷津の明神さま)
石岡から城里町の石塚を結ぶ通称石塚街道(県道52号線)は赤塚のイーオン脇を抜け先日紹介した「くれふしの里古墳公園」近くから山間の細い道を通って「木葉下(あぼっけ)」の信号に出ます。
この山の中に隠れたようにこの神社がありました。
この辺りを通るとなんだか変な霊感を感じるような場所です。
案内も何も置かれていないので通りからわずかに見えた神社の建物らしきところへ行ってみました。
(写真はクリックすると拡大します)

「立野神社」(たてのじんじゃ)と書かれています。
この名前で思い出しました。
この道をどんどん進んで桂大橋で那珂川を渡ってさらに北に進んだ緒川というところに同じ名前の神社があることを。
こちらは式内社と言われているのです。(昔書いた記事:こちら)

この緒川の立野神社は「物部氏の族立野の連が御鎮斎したと伝えられる」と書いたのです。
式内社が本当はどこなのかとか、途中で二つや三つに分かれたりすることも多いので、かなり離れていますが元は同じ神社だったのかもしれません。

この説明ではまったくよくわかりません。
大同二年九月の創建と伝えられ、緒川の立野神社と同じように「鹿島社」と呼ばれたともいう。
那賀郡の式内社としては「藤内神社」があり、新編常陸國誌ではこちらの立野神社も式内社「藤内神社」の論社(後裔と推定される神社)だとされている。
もちろん藤内神社は水戸市藤井町に鎮座しているが、この立野神社や近くの有賀神社なども論社と言われる。
この辺りをもう少し調べると「藤井」がヘビ?なのかとか、木葉下(あぼっけ)がどういう意味なのかとかがわかってきそうでもある。
良く言われるアボッケの発音からパッケ、ポッケなどアイヌ語での崖地を表す言葉というのは現地に行ってみるとあたっていないように思う。
朝鮮半島からやってきた種族がこの辺りで焼き物を焼いていたのかもしれないということも発掘調査などをしないとはっきりしないだろう。(朝鮮半島南部の昔の言葉で「焼き物を焼く人が住む里」ということとの説がある)
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この山の中に隠れたようにこの神社がありました。
この辺りを通るとなんだか変な霊感を感じるような場所です。
案内も何も置かれていないので通りからわずかに見えた神社の建物らしきところへ行ってみました。
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「立野神社」(たてのじんじゃ)と書かれています。
この名前で思い出しました。
この道をどんどん進んで桂大橋で那珂川を渡ってさらに北に進んだ緒川というところに同じ名前の神社があることを。
こちらは式内社と言われているのです。(昔書いた記事:こちら)

この緒川の立野神社は「物部氏の族立野の連が御鎮斎したと伝えられる」と書いたのです。
式内社が本当はどこなのかとか、途中で二つや三つに分かれたりすることも多いので、かなり離れていますが元は同じ神社だったのかもしれません。

この説明ではまったくよくわかりません。
大同二年九月の創建と伝えられ、緒川の立野神社と同じように「鹿島社」と呼ばれたともいう。
那賀郡の式内社としては「藤内神社」があり、新編常陸國誌ではこちらの立野神社も式内社「藤内神社」の論社(後裔と推定される神社)だとされている。
もちろん藤内神社は水戸市藤井町に鎮座しているが、この立野神社や近くの有賀神社なども論社と言われる。
この辺りをもう少し調べると「藤井」がヘビ?なのかとか、木葉下(あぼっけ)がどういう意味なのかとかがわかってきそうでもある。
良く言われるアボッケの発音からパッケ、ポッケなどアイヌ語での崖地を表す言葉というのは現地に行ってみるとあたっていないように思う。
朝鮮半島からやってきた種族がこの辺りで焼き物を焼いていたのかもしれないということも発掘調査などをしないとはっきりしないだろう。(朝鮮半島南部の昔の言葉で「焼き物を焼く人が住む里」ということとの説がある)


大洗磯前神社(1)
1月7日に正月の混雑も大分減って静かになった大洗磯前(いそさき)神社に行きました。
最近ブログに使う時間が少なくなり、記事もバタバタと書いています。
今回も書きたいのだけれどどうしたものか気分がのれません。
しょうがないので写真をつないで少しずつやっていきたいと思います。
昨年の10月中旬から落ち着かない日々が続いて疲れているようです。
少し休みながらまたやって行きましょう。

この神社の創建や祭神などについてももう少し調べて書いてみたいと思っている。
よくわからない所がたくさんある。

延喜式では「常陸国鹿嶋郡 大洗礒前薬師菩薩明神社」とあり、分類は名神大社で、常陸国では鹿島神宮(一の宮)、静神社(二の宮)、吉田神社(三の宮)、筑波山神社、稲田神社とこの那賀川を挟んだ両側の大洗・酒列磯前神社だけだ。

社殿は元禄3年(1690年)に徳川光圀により造営の起工がなされ、水戸藩3代・綱條の代に本殿・拝殿・随神門が完成したものという。

正月の三が日はかなり人も多かったと言うが、この日は平日でもあり駐車で困ることもなかった。
この神社についても知りたいことがたくさんあるのだが、調べてただ紹介するだけならだれが書いても同じであるが、少し違った思いがするのでなかなか書く事が出来ないでいる。
それにしても今日は成人式だ。
テレビなどで映し出されるどう見てもチンドン屋のような姿の男女がいるのは見ていて気分が悪い。
お祭り騒ぎが好きならこんなところでやるべきではないだろう。
テレビなどでは写さないようにしてほしいと思っている。
成人年齢は18歳に早く引き下げ、成人式など行政でやるのなど止めたらどうか。
こんなお祭り騒ぎなどならやらない方がましだ。
最近ブログに使う時間が少なくなり、記事もバタバタと書いています。
今回も書きたいのだけれどどうしたものか気分がのれません。
しょうがないので写真をつないで少しずつやっていきたいと思います。
昨年の10月中旬から落ち着かない日々が続いて疲れているようです。
少し休みながらまたやって行きましょう。

この神社の創建や祭神などについてももう少し調べて書いてみたいと思っている。
よくわからない所がたくさんある。

延喜式では「常陸国鹿嶋郡 大洗礒前薬師菩薩明神社」とあり、分類は名神大社で、常陸国では鹿島神宮(一の宮)、静神社(二の宮)、吉田神社(三の宮)、筑波山神社、稲田神社とこの那賀川を挟んだ両側の大洗・酒列磯前神社だけだ。

社殿は元禄3年(1690年)に徳川光圀により造営の起工がなされ、水戸藩3代・綱條の代に本殿・拝殿・随神門が完成したものという。

正月の三が日はかなり人も多かったと言うが、この日は平日でもあり駐車で困ることもなかった。
この神社についても知りたいことがたくさんあるのだが、調べてただ紹介するだけならだれが書いても同じであるが、少し違った思いがするのでなかなか書く事が出来ないでいる。
それにしても今日は成人式だ。
テレビなどで映し出されるどう見てもチンドン屋のような姿の男女がいるのは見ていて気分が悪い。
お祭り騒ぎが好きならこんなところでやるべきではないだろう。
テレビなどでは写さないようにしてほしいと思っている。
成人年齢は18歳に早く引き下げ、成人式など行政でやるのなど止めたらどうか。
こんなお祭り騒ぎなどならやらない方がましだ。
大洗磯前神社(2)
大洗のガルバン(ガールズ&パンツァー)ブームはかなりのものらしい。
私にはよく分からないのだが、とうとうこの神社に巨大な絵馬が出現してしまった。

この絵馬は神社拝殿のすぐ左側に。

そして右側には午年の絵馬が。

この神社の拝殿から少し駐車場側に行ったところに「軍艦那珂忠魂碑」があります。

「那珂」はこの近くを流れる那珂川から名づけられた軽巡洋艦で、太平洋戦争の1944年2月トラック島近くで米軍の魚雷と空襲を受け沈没し240人が戦死した。
今や漫画やアニメが主体となっては神様は驚いていることだろう。

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私にはよく分からないのだが、とうとうこの神社に巨大な絵馬が出現してしまった。

この絵馬は神社拝殿のすぐ左側に。

そして右側には午年の絵馬が。

この神社の拝殿から少し駐車場側に行ったところに「軍艦那珂忠魂碑」があります。

「那珂」はこの近くを流れる那珂川から名づけられた軽巡洋艦で、太平洋戦争の1944年2月トラック島近くで米軍の魚雷と空襲を受け沈没し240人が戦死した。
今や漫画やアニメが主体となっては神様は驚いていることだろう。



大洗磯前神社(3)
今日は満月です。それも最も小さい(地球との距離が最も遠い)そうです。
暗くなった5時半頃に東側の方にオレンジ色の真丸な月が現われるとその美しさに寒さも忘れて眺めていました。
大洗磯前(いそさき)神社は那珂川を挟んだ北側にある酒列磯前(さかつらいそさき)神社と二つは対になった神社と言われている。
この二つの共通点はその祭神が共に大国主神と少彦名命で神話では日本の国造りを成し遂げた神と言われている。
もう少し各神社のホームページなどで調べてみると
・大洗磯前神社:大己貴命 少彦名命・・・だいこく様と医学の祖神
・酒列磯前神社:少彦名命 大己貴命・・・医療医学の祖神とだいこく様
このように主祭神が逆になっているだけで、同じ神様を祭っています。
謂れとしては(酒列磯前神社のHPより)、「『文徳実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になり、塩焼き(塩を精製する者)の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、当社「酒列磯前神社」が創建され、また現在の東茨城郡大洗町には「大洗磯前神社」が祀られました。」
と書かれています。
そして、大洗磯前神社に書かれている説明を読んでみました。

大洗磯前神社の説明板です。どうですか不思議に思いませんか?
どうもおかしなことが書かれているのです。
大国主(おおくにぬし)が七福神のインドの神であるだいこく(大国)様と一体化して祀られていることはよくありますが、少彦名(スクナビコナ)が恵比寿様というのはあまり知りません。
この地が漁業が盛んであり大漁船に飾られる恵比寿様といつのまにか一体化しているのです。
さて、二つの神社の位置関係について少し気になりましたので、例によってFlood Mapsを使って海面の高さを+7mで地形を見てみました。
ここには前にも書きましたが涸沼と那珂川の下流が一体となった大きな汽水湖が出現します。
これは霞ヶ浦が昔、香取海とか流海と呼ばれていた大きな内海であった時にその入口の両側に「鹿島神宮」と「「香取神宮」が置かれたのと良く似ています。

(Flood Maps 海面を現状+7mで表示)
さて、「常陸国風土記」の香島郡のところに香島郡の北限は「阿多可奈湖」があり、この北が那賀郡だと書かれています。
「阿多可奈湖」は「アタカナコ」ではなく「アタカナノミナト」と訓むのが通説だとの説明もありました。
そしてこの阿多可奈湖の場所が涸沼説と那珂港説(ミナトと訓ませるのはこのためか?)とがあるのだそうです。
でもこのFlood Mapsを使って表した地形にはくっきりとこの阿多可奈湖が出現するのです。

古事記や日本書紀ではこの少彦名(スクナビコナ)はオオクニヌシが国造りが思うように進まず出雲の海岸に立って、沖を眺めていたら、波の彼方から天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(ガガイモの実)にのってこの小人のようなスクナビコナがやってきます。
しかしこのスクナビコナは言葉がわかりませでしたので渡来人と思われるのですが、大国主と力を合わせて国造りを行います。
それに医学の知識が豊富で温泉(道後温泉もスクナビコナが掘りあてたとされる)を広め、さらに酒造りもこのスクナビコナが教えたとされます。
当時とても文明の進んだ土地からやってきた人物なのでしょう。そして国造りが終わると和歌山の加太神社(淡島神社)にいって、稲穂によじ登ってその弾力ではじけて常世の国に飛んで行った事になっています。
この常世の国がここ常陸の国と考えればつじつまが合います。

この二つの神社以外にはこの那珂川を上って行ったところにある「阿波山上神社」にもこの少彦名が神社のご神木に舞い降りたといわれています。
昔の桂村(今の城里町)の粟と言われている場所です。
那珂川のことは常陸風土記では「粟川」と書かれています。

この大国主と少彦名は、鹿島神宮や香取神宮などとは違って出雲系の神様でしょう。
でも粟=阿波=安房などと考えれば黒潮に乗ってやってきた四国の阿波忌部氏(布佐、総、麻など・・・)との関係は?
昔どのような国造りが行われてきたのでしょうか。
争いなどなかった縄文人たちはどのように弥生人と同化していったり、佐伯(逆らう人たち)とされて追われていったりしたのでしょうか。
興味は尽きませんが、わからないことばかりです。
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暗くなった5時半頃に東側の方にオレンジ色の真丸な月が現われるとその美しさに寒さも忘れて眺めていました。
大洗磯前(いそさき)神社は那珂川を挟んだ北側にある酒列磯前(さかつらいそさき)神社と二つは対になった神社と言われている。
この二つの共通点はその祭神が共に大国主神と少彦名命で神話では日本の国造りを成し遂げた神と言われている。
もう少し各神社のホームページなどで調べてみると
・大洗磯前神社:大己貴命 少彦名命・・・だいこく様と医学の祖神
・酒列磯前神社:少彦名命 大己貴命・・・医療医学の祖神とだいこく様
このように主祭神が逆になっているだけで、同じ神様を祭っています。
謂れとしては(酒列磯前神社のHPより)、「『文徳実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になり、塩焼き(塩を精製する者)の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、当社「酒列磯前神社」が創建され、また現在の東茨城郡大洗町には「大洗磯前神社」が祀られました。」
と書かれています。
そして、大洗磯前神社に書かれている説明を読んでみました。

大洗磯前神社の説明板です。どうですか不思議に思いませんか?
どうもおかしなことが書かれているのです。
大国主(おおくにぬし)が七福神のインドの神であるだいこく(大国)様と一体化して祀られていることはよくありますが、少彦名(スクナビコナ)が恵比寿様というのはあまり知りません。
この地が漁業が盛んであり大漁船に飾られる恵比寿様といつのまにか一体化しているのです。
さて、二つの神社の位置関係について少し気になりましたので、例によってFlood Mapsを使って海面の高さを+7mで地形を見てみました。
ここには前にも書きましたが涸沼と那珂川の下流が一体となった大きな汽水湖が出現します。
これは霞ヶ浦が昔、香取海とか流海と呼ばれていた大きな内海であった時にその入口の両側に「鹿島神宮」と「「香取神宮」が置かれたのと良く似ています。

(Flood Maps 海面を現状+7mで表示)
さて、「常陸国風土記」の香島郡のところに香島郡の北限は「阿多可奈湖」があり、この北が那賀郡だと書かれています。
「阿多可奈湖」は「アタカナコ」ではなく「アタカナノミナト」と訓むのが通説だとの説明もありました。
そしてこの阿多可奈湖の場所が涸沼説と那珂港説(ミナトと訓ませるのはこのためか?)とがあるのだそうです。
でもこのFlood Mapsを使って表した地形にはくっきりとこの阿多可奈湖が出現するのです。

古事記や日本書紀ではこの少彦名(スクナビコナ)はオオクニヌシが国造りが思うように進まず出雲の海岸に立って、沖を眺めていたら、波の彼方から天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(ガガイモの実)にのってこの小人のようなスクナビコナがやってきます。
しかしこのスクナビコナは言葉がわかりませでしたので渡来人と思われるのですが、大国主と力を合わせて国造りを行います。
それに医学の知識が豊富で温泉(道後温泉もスクナビコナが掘りあてたとされる)を広め、さらに酒造りもこのスクナビコナが教えたとされます。
当時とても文明の進んだ土地からやってきた人物なのでしょう。そして国造りが終わると和歌山の加太神社(淡島神社)にいって、稲穂によじ登ってその弾力ではじけて常世の国に飛んで行った事になっています。
この常世の国がここ常陸の国と考えればつじつまが合います。

この二つの神社以外にはこの那珂川を上って行ったところにある「阿波山上神社」にもこの少彦名が神社のご神木に舞い降りたといわれています。
昔の桂村(今の城里町)の粟と言われている場所です。
那珂川のことは常陸風土記では「粟川」と書かれています。

この大国主と少彦名は、鹿島神宮や香取神宮などとは違って出雲系の神様でしょう。
でも粟=阿波=安房などと考えれば黒潮に乗ってやってきた四国の阿波忌部氏(布佐、総、麻など・・・)との関係は?
昔どのような国造りが行われてきたのでしょうか。
争いなどなかった縄文人たちはどのように弥生人と同化していったり、佐伯(逆らう人たち)とされて追われていったりしたのでしょうか。
興味は尽きませんが、わからないことばかりです。

