石岡の街並み(1)
このブログも常陸国国府石岡を中心にその周りの歴史を掘り起こすことをテーマにして続けているが、今昭和の香りが残る町としてこの都市を見ると実に興味深い。
自分の住む街をどのように紹介するかは結構難しいし、意外に気がつかないことも多い。
現在映画「 ALWAYS三丁目の夕日'64」が公開され、この地でロケが行なわれたこともあるので、少しずつ紹介していけたらと思っている。
昨年の東日本大震災でこの町も大きく被害を受けた。
現在も修理中のところや取り壊されたところなどたくさんあり、もう少し落ち着いてから紹介した方が良いとも思っていましたが、こんな時だからこそ、その姿をありのままに見ていただくのもよさそうです。
この町は明治から昭和の初めにかけて商都として発展を遂げました。
鉄道が敷かれる前は、この先の高浜の港から霞ケ浦の水運が発達し、たくさんの物資が江戸へ運ばれ、また江戸から都会の商品を持ち帰ってきてたいそうにぎわっていました。
特に醤油、酒、製糸などの産業が盛んに行われ、それに伴った物流などでにぎわっていたといいます。
そんな中、昭和4年に市の中心部である中町を中心に大火が発生し、大きな被害を受けました。
しかし、大火後の復興は早く、関東大震災後に東京で急速に広まった「看板建築」を取り入れた商店などが一斉に作られていきました。
そして、その時に建てなおされた街並みが現在国の有形文化財として登録されているのです。
私のホームページ「1300年の歴史の里ロマン紀行」にも記事を載せています(こちら)
これから少しずつこれらの建物や、その他の面白そうなものなどを気が付いたら紹介していこうと思う。
今日は「十七屋はきもの店」さんの建物を紹介します。
(この写真のみサムネルです。クリックで拡大写真を表示します。)

この向かって右側は久松商店さんで、今は店貸ししています。現在は手作り洋品小物などのお店が入っています。
その前には町おこしなどを計画した喫茶店がありましたが、撤退してしまいました。
この久松商店さんは、昭和4年に建てられた時は化粧品と雑貨の店でした。

今日紹介したいのはその隣りの「十七屋商店」さんです。
今も昔と変わらず履物を売っています。
注意して見てほしいのはこの建築様式です。
細かな紹介が少ないので、見どころを紹介します。
私が気にいっているのは屋根の上の方のアーチ型の細かな模様です。
「ロンバルディア帯」というものだそうです。
イタリア北部のロンバリディア地方の石工が11世紀頃に初め、ヨーロッパ各地に広まったものです。
そして、関東大震災後の銀座にもとりいれられた様式名なのです。
現在も一部銀座にも残っているようですが、このクリーム色に統一されたデザインの美しさは特筆する価値があるように思います。
是非建築美術の記念としても残してほしいものです。
(銀座の建物は、銀録館(こちら)、や新田ビル(こちら)などがあるようです。
石岡でも是非このような建築様式の比較なりをきちんとやってほしいものです。)
また、持送風式の柱頭の柱型を中心に縦長の連窓を左右に配しています。
なかでも、この十七屋さんが昭和4年の大火の後に最初に復興した記念すべき建物です。

さて、お店は今も昔ながらの履物、靴などを売っていますが、あまり商品が動いていないようにも思います。
どうやって商売されているんでしょうね。
このお店もおばあさんが一人で店番しているようです。
そしてお話をよくしてくださるそうですので、昔のお話などをお聞きすればきっと教えて下さるでしょう。
← よろしければクリックお願いします。
自分の住む街をどのように紹介するかは結構難しいし、意外に気がつかないことも多い。
現在映画「 ALWAYS三丁目の夕日'64」が公開され、この地でロケが行なわれたこともあるので、少しずつ紹介していけたらと思っている。
昨年の東日本大震災でこの町も大きく被害を受けた。
現在も修理中のところや取り壊されたところなどたくさんあり、もう少し落ち着いてから紹介した方が良いとも思っていましたが、こんな時だからこそ、その姿をありのままに見ていただくのもよさそうです。
この町は明治から昭和の初めにかけて商都として発展を遂げました。
鉄道が敷かれる前は、この先の高浜の港から霞ケ浦の水運が発達し、たくさんの物資が江戸へ運ばれ、また江戸から都会の商品を持ち帰ってきてたいそうにぎわっていました。
特に醤油、酒、製糸などの産業が盛んに行われ、それに伴った物流などでにぎわっていたといいます。
そんな中、昭和4年に市の中心部である中町を中心に大火が発生し、大きな被害を受けました。
しかし、大火後の復興は早く、関東大震災後に東京で急速に広まった「看板建築」を取り入れた商店などが一斉に作られていきました。
そして、その時に建てなおされた街並みが現在国の有形文化財として登録されているのです。
私のホームページ「1300年の歴史の里ロマン紀行」にも記事を載せています(こちら)
これから少しずつこれらの建物や、その他の面白そうなものなどを気が付いたら紹介していこうと思う。
今日は「十七屋はきもの店」さんの建物を紹介します。
(この写真のみサムネルです。クリックで拡大写真を表示します。)

この向かって右側は久松商店さんで、今は店貸ししています。現在は手作り洋品小物などのお店が入っています。
その前には町おこしなどを計画した喫茶店がありましたが、撤退してしまいました。
この久松商店さんは、昭和4年に建てられた時は化粧品と雑貨の店でした。

今日紹介したいのはその隣りの「十七屋商店」さんです。
今も昔と変わらず履物を売っています。
注意して見てほしいのはこの建築様式です。
細かな紹介が少ないので、見どころを紹介します。
私が気にいっているのは屋根の上の方のアーチ型の細かな模様です。
「ロンバルディア帯」というものだそうです。
イタリア北部のロンバリディア地方の石工が11世紀頃に初め、ヨーロッパ各地に広まったものです。
そして、関東大震災後の銀座にもとりいれられた様式名なのです。
現在も一部銀座にも残っているようですが、このクリーム色に統一されたデザインの美しさは特筆する価値があるように思います。
是非建築美術の記念としても残してほしいものです。
(銀座の建物は、銀録館(こちら)、や新田ビル(こちら)などがあるようです。
石岡でも是非このような建築様式の比較なりをきちんとやってほしいものです。)
また、持送風式の柱頭の柱型を中心に縦長の連窓を左右に配しています。
なかでも、この十七屋さんが昭和4年の大火の後に最初に復興した記念すべき建物です。

さて、お店は今も昔ながらの履物、靴などを売っていますが、あまり商品が動いていないようにも思います。
どうやって商売されているんでしょうね。
このお店もおばあさんが一人で店番しているようです。
そしてお話をよくしてくださるそうですので、昔のお話などをお聞きすればきっと教えて下さるでしょう。


石岡の街並み(2)
茨城県石岡市には国の有形文化財に指定された昭和初期の建設(昭和4~5年頃)の看板建築という店舗兼住宅が数多く残されています。
その多くが昔の水戸街道(陸前浜街道)が石岡市街を通りぬけていた通り沿いに建っています。
現在はこの通りは電柱を地中化してスッキリとした趣のある街並みとなっています。
5~6年まえくらいでしょうか、この通りにはいわゆるアーケードが歩道の上にありました。
しかし、汚れも目立ち鳩なども住みついたりしていたために、色々反対もありましたが撤去されました。
そして青空が広がった通りを見渡したら、この看板住宅のみごとな建造物に光がさしたのです。
そして、国の有形文化財として順に指定を受け、一部のお店も改装をしてきれいになりました。
しかし、まだ比較的知られるようになったのも比較的新しいので一般には浸透していません。
こらから少しずつ知られてくると思います。
市としても歴史の宝庫でもある常陸国府とともにこの街並みも保護しながら整備していってほしいと思います。
観光地としてはまだまだ設備も不足しています。駐車場の整備、景観にマッチした公衆トイレの充実、観光案内地図の整備、観光施設での英文併記パンフレットや携帯への音性提供サービスなどいくらでもやらなければいけないことは山積しています。
今はまったくまだよちよち歩きの赤ん坊程度しかありませんが、こうして少しでも知っていただける人が増えてくれば若者も立ち上がってくれると思っています。

電線が地中化され、アーケードを撤去した石岡中町商店会(旧355号・旧水戸街道)

看板建築(国の有形文化財)の店舗(向かって右から福島砂糖店・久松商店・十七屋履物店)
今日はこの有形文化財には登録されていないお店ですが、昭和ロマンの香りのするお店を一つ紹介します。

昨日の久松商店・十七屋商店の通りの反対側の一角にあるお店です。
向かって左は晃玉人形店ですが、今はいつもシャッターが降りてしまっています。
その右側の「しばのや」さんが今日の紹介するお店です。

さて何屋さんでしょうか?
お酒、塩、タバコ、切手、食料品など昔の専売の品物が多いようです。
覗いてみると間口に対して奥行きは長いお店です。間口の3~4倍はありそうです。
本職というのは酒屋さんのようです。

そして、昔懐かしいような不思議なものがたくさん売っています。

地ビールというものが置かれていました。
さて地ビールなんてあまり聞かなかったのですが・・・。
「HITACHINO NEST BEER」と書かれている瓶でフクロウのマークが入っています。
お店の入口にあったフクロウのマークです。
このビール調べて見るとすごいですよ。
世界で一番売れているクラフトビールで、木内酒造さん(那珂市鴻巣)と言うところが造っているそうです。
またキリンの「ハートランドビール(ベルギービール)」の緑色の小瓶もおかれているようです。
また清酒「筑波」も美味しいお酒として名が通っています。こだわりのものばかりありますね。
このようなお店があることも知りませんでした。

お店の中に入って写真を撮らせていただきたいとお願いしましたが、「店の中は撮らないでください」と断られてしまいました。
残念ですが表からみえる部分だけ紹介させていただきました。
さて、このお店が何時頃からあったのかは知りません。
でも昔の地図を見ると「活動常設 第二国文館」という映画館が近くにあったようです。
この映画館も昭和30年代まであったようですが、昔の方なら知っておられるでしょうね。
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その多くが昔の水戸街道(陸前浜街道)が石岡市街を通りぬけていた通り沿いに建っています。
現在はこの通りは電柱を地中化してスッキリとした趣のある街並みとなっています。
5~6年まえくらいでしょうか、この通りにはいわゆるアーケードが歩道の上にありました。
しかし、汚れも目立ち鳩なども住みついたりしていたために、色々反対もありましたが撤去されました。
そして青空が広がった通りを見渡したら、この看板住宅のみごとな建造物に光がさしたのです。
そして、国の有形文化財として順に指定を受け、一部のお店も改装をしてきれいになりました。
しかし、まだ比較的知られるようになったのも比較的新しいので一般には浸透していません。
こらから少しずつ知られてくると思います。
市としても歴史の宝庫でもある常陸国府とともにこの街並みも保護しながら整備していってほしいと思います。
観光地としてはまだまだ設備も不足しています。駐車場の整備、景観にマッチした公衆トイレの充実、観光案内地図の整備、観光施設での英文併記パンフレットや携帯への音性提供サービスなどいくらでもやらなければいけないことは山積しています。
今はまったくまだよちよち歩きの赤ん坊程度しかありませんが、こうして少しでも知っていただける人が増えてくれば若者も立ち上がってくれると思っています。

電線が地中化され、アーケードを撤去した石岡中町商店会(旧355号・旧水戸街道)

看板建築(国の有形文化財)の店舗(向かって右から福島砂糖店・久松商店・十七屋履物店)
今日はこの有形文化財には登録されていないお店ですが、昭和ロマンの香りのするお店を一つ紹介します。

昨日の久松商店・十七屋商店の通りの反対側の一角にあるお店です。
向かって左は晃玉人形店ですが、今はいつもシャッターが降りてしまっています。
その右側の「しばのや」さんが今日の紹介するお店です。

さて何屋さんでしょうか?
お酒、塩、タバコ、切手、食料品など昔の専売の品物が多いようです。
覗いてみると間口に対して奥行きは長いお店です。間口の3~4倍はありそうです。
本職というのは酒屋さんのようです。

そして、昔懐かしいような不思議なものがたくさん売っています。

地ビールというものが置かれていました。
さて地ビールなんてあまり聞かなかったのですが・・・。
「HITACHINO NEST BEER」と書かれている瓶でフクロウのマークが入っています。
お店の入口にあったフクロウのマークです。
このビール調べて見るとすごいですよ。
世界で一番売れているクラフトビールで、木内酒造さん(那珂市鴻巣)と言うところが造っているそうです。
またキリンの「ハートランドビール(ベルギービール)」の緑色の小瓶もおかれているようです。
また清酒「筑波」も美味しいお酒として名が通っています。こだわりのものばかりありますね。
このようなお店があることも知りませんでした。

お店の中に入って写真を撮らせていただきたいとお願いしましたが、「店の中は撮らないでください」と断られてしまいました。
残念ですが表からみえる部分だけ紹介させていただきました。
さて、このお店が何時頃からあったのかは知りません。
でも昔の地図を見ると「活動常設 第二国文館」という映画館が近くにあったようです。
この映画館も昭和30年代まであったようですが、昔の方なら知っておられるでしょうね。


石岡の街並み(3)
前回も書きましたがこの石岡の街並みを紹介するのは難しいです。
今や茨城県でも昔は栄えていたのに今はその面影もないシャッター通りになっているなどと揶揄される代表的な町でもあります。
でも、まだ特急も止まる駅でもあり、今のうちに何とかしたいと思う気持ちは強いです。
茨城県でただ一か所「歴史の里」の指定を受け、常陸国分寺跡・国分尼寺跡が国の特別遺跡に指定される歴史遺産が眠る町であり、商都として栄えた名残も昭和ロマンの町としての価値もたくさんある都市です。
今では関東三大祭りとも言われるようになった「石岡のおまつり」も盛大に行われています。
それなのに何故??? シャター街になってしまったのでしょうか。
先日書きましたが、石岡の小さな市街地に郵便ポストがいたるところにあります。
市街地に住んでおられる方はきっと当たり前に思っています。
郵便局の本局もあります。銀行も一部統合されたりしてずいぶん少なくはなっても同じ規模の町に比べて多いと思います。
この当たり前に思っている市街地の便利さも「井の中の蛙」で他所を知らなければどんどん縮小され、もっと住みにくい町になってしまうかもしれません。
この市街地活性化ということで一昨年国の補助金が出ました。
それによって駅前通りに二つの店がオープンしました。
一つが「石岡カフェ」であり、もう一つが「農産物直売所」です。
これも街中の人が生鮮食品の買い物に不便だからという理由が記載されていました。
活性化の計画も市街地の通りの通行人の数の減少を食い止め、少し上向きにしたい程度のものです。
まったくIT時代なのに活性化が図られていません。まだまだPR不足です。
市の観光課のHPを見てみました。一時より少しはなやかになりましたが、町の観光案内や歴史探索のコースに合わせたような地図もダウンロードに入っていません。スピードが何より大切です。
私がこうして毎日空いた時間でブロクを更新しているのですから、出来ないはずがありません。
むかし、長野の「小布施」の活性化について書いたことがあります。
そしてこの紹介本(爆弾娘セーラさんの活動)が図書館にないとも書きました。
最近この小布施見学の話が持ち上がっていました。
情報が遅く、スピード感が感じられないとどんどん取り残されていきます。
お金を書ける問題ではないんです。
国の特別史跡にはきれいな駐車場やトイレがありません。国分寺はトイレも貸してくれません。
尼寺にはかろうじて昔の汚いトイレがあるだけです。
これはこの町の姿勢にかかわる大きな問題だと思います。
いつも行政が見ている先が自分のところの住民だけなんです。
しかし、急がば回れ、情けは人のためならずです。
つい愚痴ぽくなり反省です。無視してください。
さて、街中の紹介の3回目です。
中町の登録有形文化財の一つ「すがや化粧品店」さんを紹介します。

昭和5年に建てられた代表的な看板建築の店舗兼住宅です。
屋号を壁の全面に形作って(ペディメントというそうです)、左右の柱はギリシャの神殿を思わせる円筒形にかたどっています。
ギリシャ神殿の様式ですよね。
柱とその柱頭の飾りはコリント・イオニア様式といわれるものだそうですが、当時の意気込みが伝わってきます。

今は化粧品やさんですが、建物が造られた当時は雑貨屋さんだったそうです。

数年前に登録文化財として指定を受けたところにはこのような石板のモニュメントが置かれるようになりました。

きっと、上の飾りなどの模様も意味があるのだと思います。もう少し知りたいのですがあまり載っているものが無いのでもしわかればまた書きたいと思います。
これからブログの更新の時間があまりとれません。適当に記事を予約しながら何とか更新していきたいと思います。
テーマが時々あちこちに飛ぶと思いますが、ご了承くださいね。
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今や茨城県でも昔は栄えていたのに今はその面影もないシャッター通りになっているなどと揶揄される代表的な町でもあります。
でも、まだ特急も止まる駅でもあり、今のうちに何とかしたいと思う気持ちは強いです。
茨城県でただ一か所「歴史の里」の指定を受け、常陸国分寺跡・国分尼寺跡が国の特別遺跡に指定される歴史遺産が眠る町であり、商都として栄えた名残も昭和ロマンの町としての価値もたくさんある都市です。
今では関東三大祭りとも言われるようになった「石岡のおまつり」も盛大に行われています。
それなのに何故??? シャター街になってしまったのでしょうか。
先日書きましたが、石岡の小さな市街地に郵便ポストがいたるところにあります。
市街地に住んでおられる方はきっと当たり前に思っています。
郵便局の本局もあります。銀行も一部統合されたりしてずいぶん少なくはなっても同じ規模の町に比べて多いと思います。
この当たり前に思っている市街地の便利さも「井の中の蛙」で他所を知らなければどんどん縮小され、もっと住みにくい町になってしまうかもしれません。
この市街地活性化ということで一昨年国の補助金が出ました。
それによって駅前通りに二つの店がオープンしました。
一つが「石岡カフェ」であり、もう一つが「農産物直売所」です。
これも街中の人が生鮮食品の買い物に不便だからという理由が記載されていました。
活性化の計画も市街地の通りの通行人の数の減少を食い止め、少し上向きにしたい程度のものです。
まったくIT時代なのに活性化が図られていません。まだまだPR不足です。
市の観光課のHPを見てみました。一時より少しはなやかになりましたが、町の観光案内や歴史探索のコースに合わせたような地図もダウンロードに入っていません。スピードが何より大切です。
私がこうして毎日空いた時間でブロクを更新しているのですから、出来ないはずがありません。
むかし、長野の「小布施」の活性化について書いたことがあります。
そしてこの紹介本(爆弾娘セーラさんの活動)が図書館にないとも書きました。
最近この小布施見学の話が持ち上がっていました。
情報が遅く、スピード感が感じられないとどんどん取り残されていきます。
お金を書ける問題ではないんです。
国の特別史跡にはきれいな駐車場やトイレがありません。国分寺はトイレも貸してくれません。
尼寺にはかろうじて昔の汚いトイレがあるだけです。
これはこの町の姿勢にかかわる大きな問題だと思います。
いつも行政が見ている先が自分のところの住民だけなんです。
しかし、急がば回れ、情けは人のためならずです。
つい愚痴ぽくなり反省です。無視してください。
さて、街中の紹介の3回目です。
中町の登録有形文化財の一つ「すがや化粧品店」さんを紹介します。

昭和5年に建てられた代表的な看板建築の店舗兼住宅です。
屋号を壁の全面に形作って(ペディメントというそうです)、左右の柱はギリシャの神殿を思わせる円筒形にかたどっています。
ギリシャ神殿の様式ですよね。
柱とその柱頭の飾りはコリント・イオニア様式といわれるものだそうですが、当時の意気込みが伝わってきます。

今は化粧品やさんですが、建物が造られた当時は雑貨屋さんだったそうです。

数年前に登録文化財として指定を受けたところにはこのような石板のモニュメントが置かれるようになりました。

きっと、上の飾りなどの模様も意味があるのだと思います。もう少し知りたいのですがあまり載っているものが無いのでもしわかればまた書きたいと思います。
これからブログの更新の時間があまりとれません。適当に記事を予約しながら何とか更新していきたいと思います。
テーマが時々あちこちに飛ぶと思いますが、ご了承くださいね。


石岡の街並み(4)
今日は雪が降り、やっと少し暖かくなってきたところでしたが、また春が少し遠ざかってしまいました。
水戸の梅もまだもう少し先でしょうか。
今年は茨城は梅の花は3月半ば頃になってからが良いようですね。
先日昔あった映画館のことを書いたら早速情報を教えていただいた。
国文館は「すがや」の横の道をスーパータイヨーの方に少し入った右側の水交館の左の空き地になっている場所あたりで、もうひとつの東宝は金丸町にあったそうです。
実は映画館のことを少し書いたのには理由があって、この石岡の中町通りを歩いていた時に下記の看板を見つけた。

「ぱれっとシネマ1・2」とあり、ここに昔上映されている映画のポスターが貼られていたのだろう。
ところで、このぱれっとシネマは6号国道沿いにあるジャスコ(現イオン)の中に1987年から2008年4月頃まで上映されていた映画館だ。
主に子供向けの映画が多かったようだが、撤退してもう4年近くになる。
この看板はおそらくその時からそのままなのだろうと思う。

場所は中町のメイン通りで、江戸時代には矢口家の本陣のあったすぐ近くである。
このシャッターもきっと4年間下ろされたままなのかもしれない。
何となく気になってしまったのである。
ではここから近くに並びにある建物を少し見て見よう。

国府三丁目の信号のそばに4軒のお店が並んで建っています。
向かって左から「玉川屋本店」「石岡将棋会館」「ヤマモト時計店」「石岡富国社」

玉川屋本店・・・甘納豆などの豆菓子中心のお店

吉田くつ店・・・今は「石岡将棋会館」です。正式な将棋大会なども行われています。

富国社・・・農業用機械販売です。建て物とイメージはあいません。
でもミニュチアセットでも作りたくなるような建物ばかりです。
場所は国府三丁目の信号のすぐ近くです。(地図は「石岡の街並み(3)」の記事に出ています)
昔はこの信号から曲がっていくと「国文館」の映画館があり、総社の下の入口(宮下)へつながっていたのですね。
今は途中にスーパー「タイヨー」があり、大きな欅の木が残っています。
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水戸の梅もまだもう少し先でしょうか。
今年は茨城は梅の花は3月半ば頃になってからが良いようですね。
先日昔あった映画館のことを書いたら早速情報を教えていただいた。
国文館は「すがや」の横の道をスーパータイヨーの方に少し入った右側の水交館の左の空き地になっている場所あたりで、もうひとつの東宝は金丸町にあったそうです。
実は映画館のことを少し書いたのには理由があって、この石岡の中町通りを歩いていた時に下記の看板を見つけた。

「ぱれっとシネマ1・2」とあり、ここに昔上映されている映画のポスターが貼られていたのだろう。
ところで、このぱれっとシネマは6号国道沿いにあるジャスコ(現イオン)の中に1987年から2008年4月頃まで上映されていた映画館だ。
主に子供向けの映画が多かったようだが、撤退してもう4年近くになる。
この看板はおそらくその時からそのままなのだろうと思う。

場所は中町のメイン通りで、江戸時代には矢口家の本陣のあったすぐ近くである。
このシャッターもきっと4年間下ろされたままなのかもしれない。
何となく気になってしまったのである。
ではここから近くに並びにある建物を少し見て見よう。

国府三丁目の信号のそばに4軒のお店が並んで建っています。
向かって左から「玉川屋本店」「石岡将棋会館」「ヤマモト時計店」「石岡富国社」

玉川屋本店・・・甘納豆などの豆菓子中心のお店

吉田くつ店・・・今は「石岡将棋会館」です。正式な将棋大会なども行われています。

富国社・・・農業用機械販売です。建て物とイメージはあいません。
でもミニュチアセットでも作りたくなるような建物ばかりです。
場所は国府三丁目の信号のすぐ近くです。(地図は「石岡の街並み(3)」の記事に出ています)
昔はこの信号から曲がっていくと「国文館」の映画館があり、総社の下の入口(宮下)へつながっていたのですね。
今は途中にスーパー「タイヨー」があり、大きな欅の木が残っています。


石岡の街並み(5)
<予約投稿です>今日・明日はでかけますので記事を予約で入れています。
コメント欄は開けておりますが返信は帰宅後になります。
石岡の横道を少し入ったところに変わった看板のお店があります。
この通りは昨年春までは「朝日屋」という石岡では割と有名なラーメン屋さんがあったところですが、何時もあまり変わらない風情の佇まいの店が並んでいる。

かなり昔からあるようです。

お店の名前は「月泉堂」さんと書かれています。
そして、表のガラスには「大経師」の文字がみえます。

2階の横のウダツのような看板は薄くてよく読めないが「大経師 表具師」と書かれているようです。
さて、何屋さんなのかとガラス越しに中を覗いてみた。
数本の掛け軸に書と絵が半々ぐらい置かれていました。
調べて見ると、大経師とは「だいきょうじ」と読み、昔、朝廷御用の、経巻・仏画などを表装した職人の長のことだそうです。
そして、造暦にあたった賀茂・幸徳井両家から新暦を受け、大経師暦を発行する権利を与えられたという。
なにかとても由緒があり、この土地にはこのようなものが続いてきた証なのかもしれない。
それにしても、今でも石岡はこのような商売が成り立つ地なのだろうか。やはり特殊な土地ですね。
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コメント欄は開けておりますが返信は帰宅後になります。
石岡の横道を少し入ったところに変わった看板のお店があります。
この通りは昨年春までは「朝日屋」という石岡では割と有名なラーメン屋さんがあったところですが、何時もあまり変わらない風情の佇まいの店が並んでいる。

かなり昔からあるようです。

お店の名前は「月泉堂」さんと書かれています。
そして、表のガラスには「大経師」の文字がみえます。

2階の横のウダツのような看板は薄くてよく読めないが「大経師 表具師」と書かれているようです。
さて、何屋さんなのかとガラス越しに中を覗いてみた。
数本の掛け軸に書と絵が半々ぐらい置かれていました。
調べて見ると、大経師とは「だいきょうじ」と読み、昔、朝廷御用の、経巻・仏画などを表装した職人の長のことだそうです。
そして、造暦にあたった賀茂・幸徳井両家から新暦を受け、大経師暦を発行する権利を与えられたという。
なにかとても由緒があり、この土地にはこのようなものが続いてきた証なのかもしれない。
それにしても、今でも石岡はこのような商売が成り立つ地なのだろうか。やはり特殊な土地ですね。


石岡の街並み(6)
<予約投稿です>
今日は金丸寿通りにある「だがし-菅屋菓子店」さんを紹介します。
入口には「だがし」という大きな暖簾がおかれているので駄菓子屋さんだと思いますが、結構立派な店構えです。

結構クラシックな趣のある建物ですね。
このお店は、明治の終わりころから続くお店だそうで、今は4代目だそうです。
売られているのは黒糖・あんこ・麦粉などの自然の甘みの飴玉などで、今でも子供が1個42円のお菓子を買いに来るようです。
あんこ玉は人気で、地方からも注文があるそうで、石岡の隠れた人気商品だそうです。

さて、駄菓子屋といえば、前に府中小の前にあるお店を紹介したことがありますが(こちら)、やはり私のイメージする駄菓子屋さんはこんな感じだったな。
でもこちらの菅屋さんにも、幼稚園の子供たちが買い物に来ているのかな?
さて、この通りは駅前の御幸通り(八間通り)から中町の通り(355線)に出る一つ手前の道を左に曲った通りで、一方通行になっています。
突き当りに「富田の北向観音堂」があります。9月のおまつりでも祭りの総社宮からの行列がこの道を通ります。
前に、このような通りに名前(金丸寿通り?)がついているのだから表示をちゃんとつけてほしいと書いたことがあります。
横道にも愛称の込めた名前を是非つけて表示もしてくれたら、観光客の人にも説明しやすいと思うのだが・・・。
町に住んでいるとみんな知っていたりするので意外に気がつかないものかもしれない。
是非公共のトイレの充実とともに予算をつけて実現してほしいものだ。
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今日は金丸寿通りにある「だがし-菅屋菓子店」さんを紹介します。
入口には「だがし」という大きな暖簾がおかれているので駄菓子屋さんだと思いますが、結構立派な店構えです。

結構クラシックな趣のある建物ですね。
このお店は、明治の終わりころから続くお店だそうで、今は4代目だそうです。
売られているのは黒糖・あんこ・麦粉などの自然の甘みの飴玉などで、今でも子供が1個42円のお菓子を買いに来るようです。
あんこ玉は人気で、地方からも注文があるそうで、石岡の隠れた人気商品だそうです。

さて、駄菓子屋といえば、前に府中小の前にあるお店を紹介したことがありますが(こちら)、やはり私のイメージする駄菓子屋さんはこんな感じだったな。
でもこちらの菅屋さんにも、幼稚園の子供たちが買い物に来ているのかな?
さて、この通りは駅前の御幸通り(八間通り)から中町の通り(355線)に出る一つ手前の道を左に曲った通りで、一方通行になっています。
突き当りに「富田の北向観音堂」があります。9月のおまつりでも祭りの総社宮からの行列がこの道を通ります。
前に、このような通りに名前(金丸寿通り?)がついているのだから表示をちゃんとつけてほしいと書いたことがあります。
横道にも愛称の込めた名前を是非つけて表示もしてくれたら、観光客の人にも説明しやすいと思うのだが・・・。
町に住んでいるとみんな知っていたりするので意外に気がつかないものかもしれない。
是非公共のトイレの充実とともに予算をつけて実現してほしいものだ。


石岡の街並み(7)
昨日は東京赤坂近くにいましたが、朝6時頃から雪が降り始め2時間くらい結構強く降りました。
寒い日になってしまいましたが、今日は太陽も照ってきて気持ちが良い日になりましたね。
今日3月11日で震災後1年経ち、テレビでも映像がたくさん流されていました。
これをみるとまた、色々に複雑な思いがわいてきます。
どうも日本人は日本人としてのアイデンティティを持たなくなった人も多くなってきたようで少し寂しい気がしますが、これも戦後教育のなせるわざかもしれません。
原発事故で考え方のまったく異なる人たちが存在します。
どちらが正しいかなどと答えが決まるならいいのですが、この問題は生理的な感情論と同じで多数決で決める民主主義で解決することがほとんど出来ないように思います。
ですからここでこっちがいいんじゃないかなどと叫んでみても意味がありません。
例えば原発の100km以上離れていても、不安でどうしようもなく遠くに一時避難をした人はたくさんいます。
(石岡は福島第1原発から約150km離れていますが、関西方面へ避難した人もいるようです。)
放射能などほとんどない原発から離れた場所の津波被害で出たガレキ処理さえ受け入れると、反対住民が泣き叫ぶ。
これは生理的な感情論です。話し合いなどできないのです。
頭でわかっても生理的に受け入れられない人がいるという気がします。
また、福島の原発で町ごと避難して、場所を転々として、仮設住宅に9月頃から多くの人が住んでいます。
原発事故のため、仮設に入っている人は賠償金(10万円/月)が支給されています。
でも仮設を出れば打ち切りです。家に帰れば賠償金はもらえません。
でも受け取っている人も口は重いんです。
これでは戻ることができる地域の人も仮設から出るに出られない。年寄りなら尚更です。
皆さん口が重く、コミュニティも築けないようです。
仮設は2~3年と言われていますが、今後帰れる場所の見通しが無い人もたくさんいます。
先日いわきの仮設に避難している人の話で、放射性物質の中間置き場の設置の説明会が行なわれたそうです。
そこに参加された人の話をお聞きしました。
その方は、その設置場所が自分の家のすぐ目の前だったそうで、すっかり元気を無くされていました。
私達は日本人としてどのようにこの事故の復興に向き合っていけばよいのでしょうか。
生理的に受け入れられない人を説得することはほとんど期待できないですね。
これもゴミの償却などが小さな市町村単位でしかないことも障害になっています。
市町村のゴミ焼却場の設置や火葬場の設置などもどこか似た構図がありますね。
そんなことをしているうちに、どこかでまた大きな災害が起こるかもしれません。
何時自分の身に降りかかるかわからないですね。
震災後1年のこの日に1年前を思い出しておりましたが、あまり意見を書くのは止めておきましょう。
さて、今日は石岡の中町通りにあるお菓子屋さん「あさ川」さんです。

震災前の「あさ川」さんです。屋根は瓦屋根でした。

震災後に修理した「あさ川」さんです。屋根の瓦が大量に落下し、壁も一部は新しました。
このため屋根がスレートでしょうか変更されていました。
復旧も早くこれも登録文化財に指定されていない強みかもしれません。
このお店の向かい側斜め先にドラックストアができて、景観はすっかり変わってしまいましたが、これも市議会で景観法が成立していないためだろうと思います。
景観法についても市民にアンケートをとり、私にも依頼があったのでそれなりに一生懸命に書いた。
しかし、それを何に使ったのかと調べたら、アンケート結果をグラフにして発表したほかは各種の国の申請の報告書のネタとして使われただけ。虚しさのみが残ります。
さて、話が飛びましたが、このドラックストアの隣りが文化財指定を受けている「福島砂糖店」です。
屋根も大分震災でダメージを受け、こちらは文化財として修理を現在行なっています。
この福島砂糖店さんとあさ川菓子屋さんは現在も店の奥と結ぶトロッコの軌道跡があり、福島砂糖店さんは現在も使っています。
この福島屋さんのトロッコレールは通りを歩いていても見えるのでわかりますが、あさ川さんのレールは奥にあって、他の方のブログで知りました。(こちら)
もともと石岡の店は京都などと同じく間口が狭く、奥が深いとても細長い敷地に建っています。
間口税の影響だとも思いますが、奥に置かれた重い商品や材料などを店の方に持ってくるのにこのトロッコが使われたのでしょう。
こんなところを見るのも石岡散策の楽しみかもしれません。
おまけに、この福島砂糖店さんにはおもちゃのフィギュアが置かれています。
またあさ川お菓子やさんはもとは石油店(細谷商店?)さんをしていたようです。
2階に昔の品などを展示されており、お茶なども飲めたようですが、震災後の情報は聞いていません。
昭和4年の石岡の大火災の時にも油タンクなどの炎上もあったようですので、震災は忌まわしい思い出かもしれません。
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寒い日になってしまいましたが、今日は太陽も照ってきて気持ちが良い日になりましたね。
今日3月11日で震災後1年経ち、テレビでも映像がたくさん流されていました。
これをみるとまた、色々に複雑な思いがわいてきます。
どうも日本人は日本人としてのアイデンティティを持たなくなった人も多くなってきたようで少し寂しい気がしますが、これも戦後教育のなせるわざかもしれません。
原発事故で考え方のまったく異なる人たちが存在します。
どちらが正しいかなどと答えが決まるならいいのですが、この問題は生理的な感情論と同じで多数決で決める民主主義で解決することがほとんど出来ないように思います。
ですからここでこっちがいいんじゃないかなどと叫んでみても意味がありません。
例えば原発の100km以上離れていても、不安でどうしようもなく遠くに一時避難をした人はたくさんいます。
(石岡は福島第1原発から約150km離れていますが、関西方面へ避難した人もいるようです。)
放射能などほとんどない原発から離れた場所の津波被害で出たガレキ処理さえ受け入れると、反対住民が泣き叫ぶ。
これは生理的な感情論です。話し合いなどできないのです。
頭でわかっても生理的に受け入れられない人がいるという気がします。
また、福島の原発で町ごと避難して、場所を転々として、仮設住宅に9月頃から多くの人が住んでいます。
原発事故のため、仮設に入っている人は賠償金(10万円/月)が支給されています。
でも仮設を出れば打ち切りです。家に帰れば賠償金はもらえません。
でも受け取っている人も口は重いんです。
これでは戻ることができる地域の人も仮設から出るに出られない。年寄りなら尚更です。
皆さん口が重く、コミュニティも築けないようです。
仮設は2~3年と言われていますが、今後帰れる場所の見通しが無い人もたくさんいます。
先日いわきの仮設に避難している人の話で、放射性物質の中間置き場の設置の説明会が行なわれたそうです。
そこに参加された人の話をお聞きしました。
その方は、その設置場所が自分の家のすぐ目の前だったそうで、すっかり元気を無くされていました。
私達は日本人としてどのようにこの事故の復興に向き合っていけばよいのでしょうか。
生理的に受け入れられない人を説得することはほとんど期待できないですね。
これもゴミの償却などが小さな市町村単位でしかないことも障害になっています。
市町村のゴミ焼却場の設置や火葬場の設置などもどこか似た構図がありますね。
そんなことをしているうちに、どこかでまた大きな災害が起こるかもしれません。
何時自分の身に降りかかるかわからないですね。
震災後1年のこの日に1年前を思い出しておりましたが、あまり意見を書くのは止めておきましょう。
さて、今日は石岡の中町通りにあるお菓子屋さん「あさ川」さんです。

震災前の「あさ川」さんです。屋根は瓦屋根でした。

震災後に修理した「あさ川」さんです。屋根の瓦が大量に落下し、壁も一部は新しました。
このため屋根がスレートでしょうか変更されていました。
復旧も早くこれも登録文化財に指定されていない強みかもしれません。
このお店の向かい側斜め先にドラックストアができて、景観はすっかり変わってしまいましたが、これも市議会で景観法が成立していないためだろうと思います。
景観法についても市民にアンケートをとり、私にも依頼があったのでそれなりに一生懸命に書いた。
しかし、それを何に使ったのかと調べたら、アンケート結果をグラフにして発表したほかは各種の国の申請の報告書のネタとして使われただけ。虚しさのみが残ります。
さて、話が飛びましたが、このドラックストアの隣りが文化財指定を受けている「福島砂糖店」です。
屋根も大分震災でダメージを受け、こちらは文化財として修理を現在行なっています。
この福島砂糖店さんとあさ川菓子屋さんは現在も店の奥と結ぶトロッコの軌道跡があり、福島砂糖店さんは現在も使っています。
この福島屋さんのトロッコレールは通りを歩いていても見えるのでわかりますが、あさ川さんのレールは奥にあって、他の方のブログで知りました。(こちら)
もともと石岡の店は京都などと同じく間口が狭く、奥が深いとても細長い敷地に建っています。
間口税の影響だとも思いますが、奥に置かれた重い商品や材料などを店の方に持ってくるのにこのトロッコが使われたのでしょう。
こんなところを見るのも石岡散策の楽しみかもしれません。
おまけに、この福島砂糖店さんにはおもちゃのフィギュアが置かれています。
またあさ川お菓子やさんはもとは石油店(細谷商店?)さんをしていたようです。
2階に昔の品などを展示されており、お茶なども飲めたようですが、震災後の情報は聞いていません。
昭和4年の石岡の大火災の時にも油タンクなどの炎上もあったようですので、震災は忌まわしい思い出かもしれません。


石岡の街並み(8)
以前書いていた石岡市内の街並み紹介で記事を書きかけていてUPしていないものがありましたので紹介します。
今回は「栗山呉服店」さんです。
ここも国の登録有形文化財「看板住宅・店舗」の一つです。
場所は中町の通りから「すがや化粧品店」前の路地を駅の方へ少し入ってところにあります。
この道の角に以前市のモデルショップ「夢市場」という店舗がありました。
活性化のモデルとして他所から見学まであったのですが、残念ながら撤退してしまいました。
理由はいろいろありそうですが、あまり書くのは控えましょう。

昭和4年の大火で焼けたあとの昭和7年頃の建築だそうです。
木造2階建ての商家建築です。

2階正面のガラス戸の組子は、明治以降における日本建築の近代化の特徴が表われており、ガラスもキリコ風の飾りが彫られている。
今回の地震でこの2階のガラス戸が一部破損してしまい、修理したのですが昔のガラスはもう入れることができないので普通のガラスに一部がなっているそうです。
外の通りからもよく見るとこの模様が見れますが、内部から見ないとあまりよくわからないようです。

さて、この店舗は呉服店となっていますが、現在は和様小物(特に京都風)を中心に扱われているようです。

女性等は喜びそうな小物が置かれていますので来られたら、一度覗いていかれると良いと思います。
もっとも商品は駅横の観光案内所にもおいているようです。
また多くは京都の方から仕入れられているようですが、一部手作りのものもあるようです。


上の写真は、石岡のお祭りで各町内の名前の入ったストラップです。

右上の毛糸の靴下、5本指ソックスなどもあり、履き心地はよさそうです。
最も秋冬用でしょうが・・・。

このようなお店はこの辺では少ないので、探しておられる方などにはいいでしょう。
この路地は道路にタイルを2006年にはり、イメージチェンジしています。
隣の村山漬物屋さんと2軒が主体ですが、どこかホットできる路地の雰囲気があります。
私も好きな通りの一つですが前にこの路地も含め、通りに愛称の名前をつけたり、決まっている名前の表示をもっとわかるようにして欲しいと市に要望したのですが、どうなったのかな。
仙台など通りの名前がよく載っていて、その通りごとに文化が育っているのです。
地元の人は名前がわかったとしても他所から来た人はわかりません。
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地元の人と話したりするときに通りに愛称があるととても身近に感じるものです。
今回は「栗山呉服店」さんです。
ここも国の登録有形文化財「看板住宅・店舗」の一つです。
場所は中町の通りから「すがや化粧品店」前の路地を駅の方へ少し入ってところにあります。
この道の角に以前市のモデルショップ「夢市場」という店舗がありました。
活性化のモデルとして他所から見学まであったのですが、残念ながら撤退してしまいました。
理由はいろいろありそうですが、あまり書くのは控えましょう。

昭和4年の大火で焼けたあとの昭和7年頃の建築だそうです。
木造2階建ての商家建築です。

2階正面のガラス戸の組子は、明治以降における日本建築の近代化の特徴が表われており、ガラスもキリコ風の飾りが彫られている。
今回の地震でこの2階のガラス戸が一部破損してしまい、修理したのですが昔のガラスはもう入れることができないので普通のガラスに一部がなっているそうです。
外の通りからもよく見るとこの模様が見れますが、内部から見ないとあまりよくわからないようです。

さて、この店舗は呉服店となっていますが、現在は和様小物(特に京都風)を中心に扱われているようです。

女性等は喜びそうな小物が置かれていますので来られたら、一度覗いていかれると良いと思います。
もっとも商品は駅横の観光案内所にもおいているようです。
また多くは京都の方から仕入れられているようですが、一部手作りのものもあるようです。


上の写真は、石岡のお祭りで各町内の名前の入ったストラップです。

右上の毛糸の靴下、5本指ソックスなどもあり、履き心地はよさそうです。
最も秋冬用でしょうが・・・。

このようなお店はこの辺では少ないので、探しておられる方などにはいいでしょう。
この路地は道路にタイルを2006年にはり、イメージチェンジしています。
隣の村山漬物屋さんと2軒が主体ですが、どこかホットできる路地の雰囲気があります。
私も好きな通りの一つですが前にこの路地も含め、通りに愛称の名前をつけたり、決まっている名前の表示をもっとわかるようにして欲しいと市に要望したのですが、どうなったのかな。
仙台など通りの名前がよく載っていて、その通りごとに文化が育っているのです。
地元の人は名前がわかったとしても他所から来た人はわかりません。


地元の人と話したりするときに通りに愛称があるととても身近に感じるものです。
石岡の街並み(9)
今日は東京銀座にアンテナショップ「茨城マルシェ」がオープンしました。
まえの有楽町(銀座)の店(黄門マルシェ)より少し東京駅に近くなり、他県のアンテナショップも揃っているので前よりいいと思います。
そして、茨城食材を使ったレストランは夜11時までやっています。(売店は8時まで)
常陸牛も置いてあるし、何といっても「干し芋」がたくさんあるようですよ。
先程、石岡の温泉施設「ゆりの郷」に行って今帰ったところです。
朝日トンネルが開通し、これから良くなりそうです。
リニューアル後2度目なのですが、中にある食事のメニューが大分変わりました。
しゃも鍋セットと地元産豚のステーキセットを注文しました。(二人で)
さて、石岡街中散歩を以前に少し載せましたが、少しずつ追加していきたいと思います。
(写真はサムネルです)

石岡郵便局近くにある「関東鉄道労働組合」の建物です。
随分レトロな建物です。右側の円筒部分は新しく増設したようです。
関東鉄道の本社は土浦市真鍋にあります。

なんでここにこんなレトロな組合の建物があるのでしょう。
それを探ると石岡の歴史も見えてきそうです。

関東鉄道は「かしてつ」の愛称で親しまれた鹿島鉄道と明治45年に設立した常総筑波鉄道が昭和40年に合併してできました。
鹿島鉄道の前進は鹿島参宮鉄道で大正11年に設立され、石岡に本社が置かれていました。
この建物はその本社の建物と似ていますので、これが一部増設や修理して今の組合の建物として使われているのかもしれません。
労働組合の建物はこの石岡と水海道(みつかいどう)の2箇所にあるようです。
いつも朝はタクシーが何台も停まっていますが、この写真はいない時に撮りました。
昔の地図と比べてみましょう。

上の地図は昭和10年頃のものです。
この地図では「鹿島参宮鉄道会社」となっており、現在の「石岡簡易裁判所」などや駐車場となっている場所もこの会社の敷地だったようです。
もう一つ隣に「石岡繭糸市場」と書かれている場所があります。
この場所は現在「石岡冷蔵」の場所のように思います。
この頃は石岡も現在のイベント広場やボーリング場のあたりには大手の「小口製糸」の工場がありました。
たくさんの女工さんもいたのです。
しかし、昭和10年頃は絹はだいぶ苦しくなっていたようです。
小口組(製糸)も神栄に変わった頃かもしれません。
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まえの有楽町(銀座)の店(黄門マルシェ)より少し東京駅に近くなり、他県のアンテナショップも揃っているので前よりいいと思います。
そして、茨城食材を使ったレストランは夜11時までやっています。(売店は8時まで)
常陸牛も置いてあるし、何といっても「干し芋」がたくさんあるようですよ。
先程、石岡の温泉施設「ゆりの郷」に行って今帰ったところです。
朝日トンネルが開通し、これから良くなりそうです。
リニューアル後2度目なのですが、中にある食事のメニューが大分変わりました。
しゃも鍋セットと地元産豚のステーキセットを注文しました。(二人で)
さて、石岡街中散歩を以前に少し載せましたが、少しずつ追加していきたいと思います。
(写真はサムネルです)

石岡郵便局近くにある「関東鉄道労働組合」の建物です。
随分レトロな建物です。右側の円筒部分は新しく増設したようです。
関東鉄道の本社は土浦市真鍋にあります。

なんでここにこんなレトロな組合の建物があるのでしょう。
それを探ると石岡の歴史も見えてきそうです。

関東鉄道は「かしてつ」の愛称で親しまれた鹿島鉄道と明治45年に設立した常総筑波鉄道が昭和40年に合併してできました。
鹿島鉄道の前進は鹿島参宮鉄道で大正11年に設立され、石岡に本社が置かれていました。
この建物はその本社の建物と似ていますので、これが一部増設や修理して今の組合の建物として使われているのかもしれません。
労働組合の建物はこの石岡と水海道(みつかいどう)の2箇所にあるようです。
いつも朝はタクシーが何台も停まっていますが、この写真はいない時に撮りました。
昔の地図と比べてみましょう。

上の地図は昭和10年頃のものです。
この地図では「鹿島参宮鉄道会社」となっており、現在の「石岡簡易裁判所」などや駐車場となっている場所もこの会社の敷地だったようです。
もう一つ隣に「石岡繭糸市場」と書かれている場所があります。
この場所は現在「石岡冷蔵」の場所のように思います。
この頃は石岡も現在のイベント広場やボーリング場のあたりには大手の「小口製糸」の工場がありました。
たくさんの女工さんもいたのです。
しかし、昭和10年頃は絹はだいぶ苦しくなっていたようです。
小口組(製糸)も神栄に変わった頃かもしれません。


石岡の街並み(10)
昨日に続いて石岡の街並みを紹介します。
今日は常陸国分寺入口にある「青柳新兵衛商店」さんです。
旧国道355号線は石岡の旧市街を通る道であるが、この道は旧水戸街道の通りでもありました。
そして、国分町の信号の先に千手院という大きなお寺が有り、水戸街道は右に曲がり、泉町を通って一里塚があり、日光のような両側に杉並木が続く道になっていました。
そして、この国分町の信号より北側へは千手院を巻くようにして岩間や笠間の方にも道が続いていました。
その後、千手院は廃れてしまい、常陸国分寺の跡に国分寺という寺と千手院の山門が残されました。

国分寺前の通り。お釈迦様の誕生日4月8に花祭りが開かれると、昔はこの通りも屋台が出ていっぱいになったようです。
今でもその名残が残り、境内にも、またこの通りにも少し屋台が立ちます。
正面が国分寺で、常陸国分寺の跡があります。
そしてその入口に大きな仁王門が建っていました。

この仁王門は明治41年に火災で消失してしまいました。
そして国分寺の鐘伝説として銘菓「釣鐘最中」にもなった伝説の鐘は、江戸時代はじめころに雌鐘が盗難にあい(霞ヶ浦で眠っているといわれる)、残された雄鐘もこの火災で焼けてしまったといいます。
いまでもここに残っていればこの街のシンボルとして、奈良時代を想像する大きな手がかりともなったと思います。(この写真は石岡の歴史などに掲載されていますものをお借りしています)
国分寺の鐘伝説は石岡駅の下りホームにきれいなモザイク壁画があります。
前にホームページにアップしていますので → こちら を参照下さい。

今日の紹介する建物は、この国分寺前の通りの入口左側にある「青柳新兵衛商店」さんの建物です。

大きな蔵がいくつもある立派なお屋敷です。今回の地震で大きな被害もあったようです。
蔵でクリスマスコンサートのようなこともやっていましたが、今年はどうなのでしょうか。

今はどこまで商売をされているかはよくわかりません。
外にある街灯に取り付けられた看板が昔の名前を残しています。(「×印 青柳新兵衛商店」さん)

一つ隣の街灯に残された看板です。「石岡食糧企業組合」とあります。
昨年くらいまで、屋敷の通りに面した建屋の屋根に大きく古びたこの名前の看板があったと記憶していますが、今は気がつかなかったのでなくなったのかもしれません。

大きな門の入口には「剣道・合気道 指南青柳道場」という看板が掲げられています。

屋敷の広さはかなり大きく、通り近くの石蔵も現在このように修理中のようでした。

国分寺前の通りに曲がらずに図書館やイベント広場の方に進むと、このような赤レンガの塀が続きます。
1年ほど前まで、このレンガ塀の前はガレージとなっていて、レンガ塀をよく見ることができませんでした。
しかし、今回の震災でヒビも入り、屋根に使われた瓦もかなり損傷を受けました。
一番西側にあった一部の塀と通用門の場所を壊して、現在はコンビニができています。
こちらはまた後日に一部紹介します。

(サムネルです)
この国分寺の入口が栄えたのは、昔馬市がここや泉町の方で行われたようです。
米俵を馬の背の両側にかけ、岩間方面や、柿岡方面などから府中(石岡)にコメを運んできたのでしょう。
そして、この「石岡食糧企業組合」などが、この米に関して取引をする企業の集まり的な場所だったのだと思います。

(サムネルです。クリックすると大きな図を表示します。)
昭和10年頃の地図と対比しながら見てください。いろいろな違いが見て取れますよ。
← よろしければクリックお願いします。
今日は常陸国分寺入口にある「青柳新兵衛商店」さんです。
旧国道355号線は石岡の旧市街を通る道であるが、この道は旧水戸街道の通りでもありました。
そして、国分町の信号の先に千手院という大きなお寺が有り、水戸街道は右に曲がり、泉町を通って一里塚があり、日光のような両側に杉並木が続く道になっていました。
そして、この国分町の信号より北側へは千手院を巻くようにして岩間や笠間の方にも道が続いていました。
その後、千手院は廃れてしまい、常陸国分寺の跡に国分寺という寺と千手院の山門が残されました。

国分寺前の通り。お釈迦様の誕生日4月8に花祭りが開かれると、昔はこの通りも屋台が出ていっぱいになったようです。
今でもその名残が残り、境内にも、またこの通りにも少し屋台が立ちます。
正面が国分寺で、常陸国分寺の跡があります。
そしてその入口に大きな仁王門が建っていました。

この仁王門は明治41年に火災で消失してしまいました。
そして国分寺の鐘伝説として銘菓「釣鐘最中」にもなった伝説の鐘は、江戸時代はじめころに雌鐘が盗難にあい(霞ヶ浦で眠っているといわれる)、残された雄鐘もこの火災で焼けてしまったといいます。
いまでもここに残っていればこの街のシンボルとして、奈良時代を想像する大きな手がかりともなったと思います。(この写真は石岡の歴史などに掲載されていますものをお借りしています)
国分寺の鐘伝説は石岡駅の下りホームにきれいなモザイク壁画があります。
前にホームページにアップしていますので → こちら を参照下さい。

今日の紹介する建物は、この国分寺前の通りの入口左側にある「青柳新兵衛商店」さんの建物です。

大きな蔵がいくつもある立派なお屋敷です。今回の地震で大きな被害もあったようです。
蔵でクリスマスコンサートのようなこともやっていましたが、今年はどうなのでしょうか。

今はどこまで商売をされているかはよくわかりません。
外にある街灯に取り付けられた看板が昔の名前を残しています。(「×印 青柳新兵衛商店」さん)

一つ隣の街灯に残された看板です。「石岡食糧企業組合」とあります。
昨年くらいまで、屋敷の通りに面した建屋の屋根に大きく古びたこの名前の看板があったと記憶していますが、今は気がつかなかったのでなくなったのかもしれません。

大きな門の入口には「剣道・合気道 指南青柳道場」という看板が掲げられています。

屋敷の広さはかなり大きく、通り近くの石蔵も現在このように修理中のようでした。

国分寺前の通りに曲がらずに図書館やイベント広場の方に進むと、このような赤レンガの塀が続きます。
1年ほど前まで、このレンガ塀の前はガレージとなっていて、レンガ塀をよく見ることができませんでした。
しかし、今回の震災でヒビも入り、屋根に使われた瓦もかなり損傷を受けました。
一番西側にあった一部の塀と通用門の場所を壊して、現在はコンビニができています。
こちらはまた後日に一部紹介します。

(サムネルです)
この国分寺の入口が栄えたのは、昔馬市がここや泉町の方で行われたようです。
米俵を馬の背の両側にかけ、岩間方面や、柿岡方面などから府中(石岡)にコメを運んできたのでしょう。
そして、この「石岡食糧企業組合」などが、この米に関して取引をする企業の集まり的な場所だったのだと思います。

(サムネルです。クリックすると大きな図を表示します。)
昭和10年頃の地図と対比しながら見てください。いろいろな違いが見て取れますよ。


石岡の街並み(11)
さて、昨日紹介した国分寺手前の入口にある「青柳新兵衛商店」さんの赤レンガ塀は前に一度紹介しています。(こちら)(赤レンガ特集はこちら)
この時は手前にガレージ用の屋根があり、塀も目立たなかったのですが、このガレージは取り払われました。しかし、地震での損傷も多いようです。修復していつまでも残して欲しいと願っています。

さて、この赤レンガ塀の一番端に「青柳倉庫南通用門」と書かれた門がありました。
この部分を一部取り去って、ここに今年1月にコンビニができました。

そして、屋敷内にあった大きな木を切らずに残しています。
コンビニ駐車場の一部にこのように残った木を大切にして保存していきたいですね。
木の奥に見えるのは青柳さんの倉庫の建物だと思います。

コンビニの反対側はやはり石蔵のような建物があります。比較的新しいかもしれません。
その向こうに見える工事中のところは「茨石商事」さんの駐車場をきれいにしていました。
この茨石さんの手前に細長い空き地がありますが、ここには「塚本製綿練炭店」の工場があり、少し前まで看板の一部が残っていたように思います。

真ん中右側に見える木がコンビニ駐車場に残された木です。
手前の車がたくさん止まっている場所は「イベント広場」と呼ばれている場所です。
ここに「小口製糸」の大きな工場がありました。
前にイベント広場の変遷として紹介しています。(こちら)

この通りを西方面に見たところです。
「ミナミボウル」の大きな建物が見えます。昭和53年にオープンした22レーンを持つ明るいボーリング場でしたが、震災の影響で建物が大きく損傷を受け、平成23年3月で営業終了しています。
ボーリングは2階で、1階はコインランドリーなどがあります。こちらは営業しているかもしれません。
建物の修理もしているようです。外壁塗装も綺麗になっています。
(訂正:確認したところこの建物はすべて閉鎖されていました。従ってコインランドリーも閉鎖されています。)
ボーリング場の前は少しこじんまりしていますが青果市場があります。
突き当りは柿岡街道です。
しかし、昭和10年の地図を見ると、この道はまだできていなかったようです。道は細く今の路地のようにクランク状に曲がりながら十一面観音堂(馬頭観音)の方に続いていました。
このまっすぐな道は破線で示されていますので、計画中だったのかもしれません。

イベント広場の斜め前にある「石岡市立中央図書館」です。
これがなかなかすごい歴史のある図書館なんです。
明治22年に私設の図書館としてオープンしたそうです。当時の石岡がかなりの街として栄えていた証拠でもあります。
茨城県の図書館では最も古い図書館です。茨城県立図書館より14年も早かったのです。
また私設図書館として後に公立の図書館に受け継がれた図書館でいまでも現存するのは日本で2箇所のみだそうです。
もっとも、図書館は最初は設立者「手塚正太郎」氏が校長をしていた現石岡小学校の校長室に作ったそうです。
石岡もこの図書館を新しくする動きもありますが、是非この輝かしい歴史をもっとアピールするように素晴らしい図書館や歴史資料館などを造っていただきたいと思います。

イベント広場の駐車場から見た、コンビニと青柳家の塀。

青柳家の塀を拡大してみました。
震災後修理をしていましたので、とりあえず取り壊しはまぬがれたのでしょう。
この駐車場は今回の震災で出た屋根瓦や大谷石などのガレキを砕いで地面に埋め込みました。
我が家の屋根瓦もきっとこの下に眠っていると思います。
ここの駐車場の整備前に史跡調査のためにこの地面を掘り返しています。
出てきたのは小口製糸工場で女工さんが使ったと思われる練り歯磨きの入れ物などだそうです。
また昔の国分寺関連の建物の跡なども見つかっているようです。(詳しくは知りません)

駐車場整備後に出来た綺麗なトイレです。
国分寺に見学にこられたときは、境内にトイレがありませんので、こちらを利用してください。
また来るまで来られた時にも、ここはしばらく無料でおけますのでぜひ利用ください。

イベント広場はお祭りの時には駐車場になり、時々各種の市が立ちます。先日はB級グルメ大会のあり盛り上がったようです。
遠くに見えるのは筑波山です。
この時は手前にガレージ用の屋根があり、塀も目立たなかったのですが、このガレージは取り払われました。しかし、地震での損傷も多いようです。修復していつまでも残して欲しいと願っています。

さて、この赤レンガ塀の一番端に「青柳倉庫南通用門」と書かれた門がありました。
この部分を一部取り去って、ここに今年1月にコンビニができました。

そして、屋敷内にあった大きな木を切らずに残しています。
コンビニ駐車場の一部にこのように残った木を大切にして保存していきたいですね。
木の奥に見えるのは青柳さんの倉庫の建物だと思います。

コンビニの反対側はやはり石蔵のような建物があります。比較的新しいかもしれません。
その向こうに見える工事中のところは「茨石商事」さんの駐車場をきれいにしていました。
この茨石さんの手前に細長い空き地がありますが、ここには「塚本製綿練炭店」の工場があり、少し前まで看板の一部が残っていたように思います。

真ん中右側に見える木がコンビニ駐車場に残された木です。
手前の車がたくさん止まっている場所は「イベント広場」と呼ばれている場所です。
ここに「小口製糸」の大きな工場がありました。
前にイベント広場の変遷として紹介しています。(こちら)

この通りを西方面に見たところです。
「ミナミボウル」の大きな建物が見えます。昭和53年にオープンした22レーンを持つ明るいボーリング場でしたが、震災の影響で建物が大きく損傷を受け、平成23年3月で営業終了しています。
ボーリングは2階で、1階はコインランドリーなどがあります。
(訂正:確認したところこの建物はすべて閉鎖されていました。従ってコインランドリーも閉鎖されています。)
ボーリング場の前は少しこじんまりしていますが青果市場があります。
突き当りは柿岡街道です。
しかし、昭和10年の地図を見ると、この道はまだできていなかったようです。道は細く今の路地のようにクランク状に曲がりながら十一面観音堂(馬頭観音)の方に続いていました。
このまっすぐな道は破線で示されていますので、計画中だったのかもしれません。

イベント広場の斜め前にある「石岡市立中央図書館」です。
これがなかなかすごい歴史のある図書館なんです。
明治22年に私設の図書館としてオープンしたそうです。当時の石岡がかなりの街として栄えていた証拠でもあります。
茨城県の図書館では最も古い図書館です。茨城県立図書館より14年も早かったのです。
また私設図書館として後に公立の図書館に受け継がれた図書館でいまでも現存するのは日本で2箇所のみだそうです。
もっとも、図書館は最初は設立者「手塚正太郎」氏が校長をしていた現石岡小学校の校長室に作ったそうです。
石岡もこの図書館を新しくする動きもありますが、是非この輝かしい歴史をもっとアピールするように素晴らしい図書館や歴史資料館などを造っていただきたいと思います。

イベント広場の駐車場から見た、コンビニと青柳家の塀。

青柳家の塀を拡大してみました。
震災後修理をしていましたので、とりあえず取り壊しはまぬがれたのでしょう。
この駐車場は今回の震災で出た屋根瓦や大谷石などのガレキを砕いで地面に埋め込みました。
我が家の屋根瓦もきっとこの下に眠っていると思います。
ここの駐車場の整備前に史跡調査のためにこの地面を掘り返しています。
出てきたのは小口製糸工場で女工さんが使ったと思われる練り歯磨きの入れ物などだそうです。
また昔の国分寺関連の建物の跡なども見つかっているようです。(詳しくは知りません)

駐車場整備後に出来た綺麗なトイレです。
国分寺に見学にこられたときは、境内にトイレがありませんので、こちらを利用してください。
また来るまで来られた時にも、ここはしばらく無料でおけますのでぜひ利用ください。

イベント広場はお祭りの時には駐車場になり、時々各種の市が立ちます。先日はB級グルメ大会のあり盛り上がったようです。
遠くに見えるのは筑波山です。
石岡の街並み(12)
石岡イベント広場(図書館前)の壁に取り付けられている、街の観光案あない地図を紹介します。
平成の大合併で八郷町と合併しましたので、案内板も2つに分かれています。

(サムネルです。クリックで大きくなります)
八郷町の登録文化財一覧表です。

こちらは旧石岡市内の登録文化財一覧表です。

この案内板のある壁の通路に敷かれた石畳には常陸国分寺で使われたとみられる瓦の紋様が描かれています。
さて、先日紹介したこのイベント広場の敷地に隣接して二つのタバコ関連の建物があります。
あまりこのあたりを通らないとわからないと思います。

一つは「茨城県たばこ耕作組合」の建物です。

ほどほどに広い綺麗な建物です。あまり人の出入りは多くはない様に思います。
基本的には茨城県のたばこ生産者の経営が安定するように各種の取り組みをしている組合です。
もちろん補助金が投入されています。
石岡はたばこ生産者が多いのです。これからどうなっていくのでしょうね。
私はまったく吸わないのでなくなることを願っているのですが・・・・。

さて、耕作組合に隣接して「社団法人 日本たばこ協会 分析センター」という建物があります。
何をしているかは詳しいことはわかりませんが、分析センターでは一般にタバコに含まれるニコチンやタールの量を定期的に測定している機関のようです。
基本的にタバコを吸わない人間から見たら、タバコを吸う人は税金を65%も払っていただいているありがたい人です。
でも本当は徐々にでもいいので世の中からなくなっていってもらいたいのです。

さて、たばこには関係ありませんが、我が家のみかんも今年は豊作です。
去年はあまり実が少なかったので隔年のようですね。味もまずまず。
しばらくはみかんも買わずに済みそうです。
← よろしければクリックお願いします。
平成の大合併で八郷町と合併しましたので、案内板も2つに分かれています。

(サムネルです。クリックで大きくなります)
八郷町の登録文化財一覧表です。

こちらは旧石岡市内の登録文化財一覧表です。

この案内板のある壁の通路に敷かれた石畳には常陸国分寺で使われたとみられる瓦の紋様が描かれています。
さて、先日紹介したこのイベント広場の敷地に隣接して二つのタバコ関連の建物があります。
あまりこのあたりを通らないとわからないと思います。

一つは「茨城県たばこ耕作組合」の建物です。

ほどほどに広い綺麗な建物です。あまり人の出入りは多くはない様に思います。
基本的には茨城県のたばこ生産者の経営が安定するように各種の取り組みをしている組合です。
もちろん補助金が投入されています。
石岡はたばこ生産者が多いのです。これからどうなっていくのでしょうね。
私はまったく吸わないのでなくなることを願っているのですが・・・・。

さて、耕作組合に隣接して「社団法人 日本たばこ協会 分析センター」という建物があります。
何をしているかは詳しいことはわかりませんが、分析センターでは一般にタバコに含まれるニコチンやタールの量を定期的に測定している機関のようです。
基本的にタバコを吸わない人間から見たら、タバコを吸う人は税金を65%も払っていただいているありがたい人です。
でも本当は徐々にでもいいので世の中からなくなっていってもらいたいのです。

さて、たばこには関係ありませんが、我が家のみかんも今年は豊作です。
去年はあまり実が少なかったので隔年のようですね。味もまずまず。
しばらくはみかんも買わずに済みそうです。


石岡の街並み(13)
今日も国分寺方面入口のところを紹介します。
駅の方面から355号に突き当たり右折し、香丸通りを進むと「国分町」の信号があります。
昔の水戸街道はここを右折します。
逆に左折してすぐに右に曲がったところに常陸国分寺(跡)があります。
この信号のところの角に大きなビルが建っています。「青柳鐵店」の文字が見えます。
この大きなビルは残念ながら今は使われていないようです。
そしてその手前には「塚本寝具店」と書かれた看板があります。
お店の中は布団・寝具などが置かれています。
こちらは昭和10年の地図では「塚本打綿練炭店」となっており、この先の少し西に行ったあたりに工場があったようです。

このような立派なコンクリート造りのビルも窓は皆閉じられています。
この会社は今では珍しい合名会社です。
おそらく同じような考え方を持った数人の人が社長などおかずに同列で事業を起こす時のやり方です。
昭和10年頃の地図では「矢口鉄店」「青柳米穀店」などがあったようです。
いまでも会社は少し離れた場所にありますので、ビルが傷んだ為そのままになっているのだと思います。

この頃のコンクリートのビルは見た目は大丈夫でも、雨漏りなどで使えなくなることが多いようです。

ビルに並んで石の倉庫があります。

その隣にも倉庫があります。

この倉庫の作りを見ると中町の登録文化財である「看板建築」(昭和4~8年頃)とよく似ています。

昔のギリシャの建築様式を真似たものが見て取れます。

この石岡の町にはこのような石の倉庫もたくさん点在しています。
これらもここを訪れる観光客には町並みとして整備されていればもう少し趣のある街になると考えられます。
町並みを保存するというのはとても大切なことだと思いますが、生活が便利になることにばかり目がいってしまうのは残念なことだと思います。
私がこの街で一番最初に感じたのはこの石蔵の多さでした。
また敷地が細長く、間口が狭い京都などと同じ区割りがされていることです。
空き地となった場所が駐車場になっていても、細長い敷地の一部に蔵が残されていたりします。
しかし、この大震災で多くの蔵にも被害が及び、今ではなくなってしまったところもいくつもあります。
誰かが記録としても残す努力をしなければそのうちに消えてしまうのでしょう。
少しずつこのブログにも取り上げていきたいと思います。
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駅の方面から355号に突き当たり右折し、香丸通りを進むと「国分町」の信号があります。
昔の水戸街道はここを右折します。
逆に左折してすぐに右に曲がったところに常陸国分寺(跡)があります。
この信号のところの角に大きなビルが建っています。「青柳鐵店」の文字が見えます。
この大きなビルは残念ながら今は使われていないようです。
そしてその手前には「塚本寝具店」と書かれた看板があります。
お店の中は布団・寝具などが置かれています。
こちらは昭和10年の地図では「塚本打綿練炭店」となっており、この先の少し西に行ったあたりに工場があったようです。

このような立派なコンクリート造りのビルも窓は皆閉じられています。
この会社は今では珍しい合名会社です。
おそらく同じような考え方を持った数人の人が社長などおかずに同列で事業を起こす時のやり方です。
昭和10年頃の地図では「矢口鉄店」「青柳米穀店」などがあったようです。
いまでも会社は少し離れた場所にありますので、ビルが傷んだ為そのままになっているのだと思います。

この頃のコンクリートのビルは見た目は大丈夫でも、雨漏りなどで使えなくなることが多いようです。

ビルに並んで石の倉庫があります。

その隣にも倉庫があります。

この倉庫の作りを見ると中町の登録文化財である「看板建築」(昭和4~8年頃)とよく似ています。

昔のギリシャの建築様式を真似たものが見て取れます。

この石岡の町にはこのような石の倉庫もたくさん点在しています。
これらもここを訪れる観光客には町並みとして整備されていればもう少し趣のある街になると考えられます。
町並みを保存するというのはとても大切なことだと思いますが、生活が便利になることにばかり目がいってしまうのは残念なことだと思います。
私がこの街で一番最初に感じたのはこの石蔵の多さでした。
また敷地が細長く、間口が狭い京都などと同じ区割りがされていることです。
空き地となった場所が駐車場になっていても、細長い敷地の一部に蔵が残されていたりします。
しかし、この大震災で多くの蔵にも被害が及び、今ではなくなってしまったところもいくつもあります。
誰かが記録としても残す努力をしなければそのうちに消えてしまうのでしょう。
少しずつこのブログにも取り上げていきたいと思います。


石岡の街並み(14)
石岡市街地も他のブログの方が時々紹介してくださっていますが、身近な人が自分の近くの街並みとして紹介するのは意外に抵抗があります。
あまり書くときっと快く思わない人もいるのだと思います。
でも、私から見れば昔の栄華にしがみついているだけではこの街の発展は望めないと思っています。
石岡駅を橋上駅に新しくする案が進んでおります。
しかし、この駅からの乗車客は2010年の調べで1日に約5710人だといいます。
1万人いた頃を懐かしむばかりでは常磐線の特急が止まらなくなるのは時間の問題です。
都会に行けば地方の私鉄の小さな駅でも1万人以下のところなどほとんどないのではないかと思います。
このような現実をしっかり見ることが大切だと思います。
そして、何をすべきなのか。
私が、ブログやホームページで地域の情報を発信する気になったのは、この町が、あまりにも情報発信力が少ないことでした。
情報を操作するのではなく、そのままでいいのでまずは石岡という名前をポピュラーにしなければその先の戦術などいくら立てても進むことができないと思います。
ですから、街中情報もあまり歯に衣を着せず書いていきたいと思います。
さて、今日は香丸町にある立派な蔵です。

石岡市街を通る旧国道355号線(昔の水戸街道)沿いには中町を中心に昭和初期建築のロマン建築の建物がたくさんあります。
これらは国の登録文化財に指定され、一般には「看板建築」と呼ばれる非常に貴重なものです。
しかし、この香丸町(現府中2丁目)のこの土蔵(石蔵?)造りの店舗風の建物は何も書かれたものがありません。
この街のシンボル的な建物でもありますが、説明がされたものをほとんど見かけません。

この建物は「浜総業(株)」の本社として使われていました。
昭和9年に浜平右衛門氏が昭和4年に起きた石岡の大火の教訓を踏まえ、火災にも強いものを建築するという意図で作られたものだといいます。
浜平右衛門氏は当時の茨城の財界の有力者で鹿島鉄道の前進である「鹿島参宮鉄道」の社長にもなった人です。

現在はこの土蔵をどのように使っているのかはわかりません。
普段は表が開いていることは見かけません。
でも、外から来てこの建物を見ると石岡のよき時代の名残を感じるものです。
石岡は昭和4年に中町を中心に多くの家屋が火災で消失しました。
当時のもので残っているものはまち蔵として利用している「丁子屋」(江戸時代の染物屋)が残るだけです。

そしてその後街道の幅を広げる意味合いからも軒を張り出さない看板建築が建てられました。
その後、こちら側の香丸町側も道幅を広げる工事がされたのです。
その時に私は詳細を知りませんが、いくつも昔の建物が壊されたりしたようです。
この建物はその後に作られたものです。

こちらは通りの反対側にある空き地ですが、細長い駐車場です。
この街の敷地の区割りがこのような細長い形となっています。
そして、石蔵などをそのまま残しています。
やはり一度石蔵マップなどを作成しないといけないかもしれませんね。
(家の敷地の奥にあったりするので、個人的に作るのはやはり限界がありそうです)
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あまり書くときっと快く思わない人もいるのだと思います。
でも、私から見れば昔の栄華にしがみついているだけではこの街の発展は望めないと思っています。
石岡駅を橋上駅に新しくする案が進んでおります。
しかし、この駅からの乗車客は2010年の調べで1日に約5710人だといいます。
1万人いた頃を懐かしむばかりでは常磐線の特急が止まらなくなるのは時間の問題です。
都会に行けば地方の私鉄の小さな駅でも1万人以下のところなどほとんどないのではないかと思います。
このような現実をしっかり見ることが大切だと思います。
そして、何をすべきなのか。
私が、ブログやホームページで地域の情報を発信する気になったのは、この町が、あまりにも情報発信力が少ないことでした。
情報を操作するのではなく、そのままでいいのでまずは石岡という名前をポピュラーにしなければその先の戦術などいくら立てても進むことができないと思います。
ですから、街中情報もあまり歯に衣を着せず書いていきたいと思います。
さて、今日は香丸町にある立派な蔵です。

石岡市街を通る旧国道355号線(昔の水戸街道)沿いには中町を中心に昭和初期建築のロマン建築の建物がたくさんあります。
これらは国の登録文化財に指定され、一般には「看板建築」と呼ばれる非常に貴重なものです。
しかし、この香丸町(現府中2丁目)のこの土蔵(石蔵?)造りの店舗風の建物は何も書かれたものがありません。
この街のシンボル的な建物でもありますが、説明がされたものをほとんど見かけません。

この建物は「浜総業(株)」の本社として使われていました。
昭和9年に浜平右衛門氏が昭和4年に起きた石岡の大火の教訓を踏まえ、火災にも強いものを建築するという意図で作られたものだといいます。
浜平右衛門氏は当時の茨城の財界の有力者で鹿島鉄道の前進である「鹿島参宮鉄道」の社長にもなった人です。

現在はこの土蔵をどのように使っているのかはわかりません。
普段は表が開いていることは見かけません。
でも、外から来てこの建物を見ると石岡のよき時代の名残を感じるものです。
石岡は昭和4年に中町を中心に多くの家屋が火災で消失しました。
当時のもので残っているものはまち蔵として利用している「丁子屋」(江戸時代の染物屋)が残るだけです。

そしてその後街道の幅を広げる意味合いからも軒を張り出さない看板建築が建てられました。
その後、こちら側の香丸町側も道幅を広げる工事がされたのです。
その時に私は詳細を知りませんが、いくつも昔の建物が壊されたりしたようです。
この建物はその後に作られたものです。

こちらは通りの反対側にある空き地ですが、細長い駐車場です。
この街の敷地の区割りがこのような細長い形となっています。
そして、石蔵などをそのまま残しています。
やはり一度石蔵マップなどを作成しないといけないかもしれませんね。
(家の敷地の奥にあったりするので、個人的に作るのはやはり限界がありそうです)


石岡の街並み(15)
昨日の香丸通りの浜総業さんの立派な土蔵(店舗)から少し駅の方に戻ります。
酒の「冷水」さんがあります。

この横にやはり大きな土蔵があります。この酒屋さんは昭和10年の地図では「角蔵酒造」となっています。

立派な土蔵ですよね。ここで酒作りが行われていたようです。

昨年撮った写真です。この時にはまだレンガ造りの煙突が立っていました。
酒造りの煙突は、酒造りで出た抽出の残りカスを燃やしたものらしいです。
今の酒造りは、これらのカスも別な用途に還元するので煙突はいらなくなっています。

石岡市内には300年ほど前からいくつもの酒造所がありました。
関東の灘といわれる酒処でした。
この小さな酒造会社は昭和34年に合同で「石岡銘醸株式会社」を設立しました。
そして、これが昭和47年に、今の「筑波」などの名酒を製造している「石岡酒造株式会社」(石岡市東大橋)になったのです。
この写真のところの信号は「柿岡街道入口」だったと思います。今はその曲がった通りから振り返って撮った写真です。
この柿岡街道は正面突き当りに「若宮八幡宮」があり、「八幡通り」ともいうようです。
途中のバス停に名前が残っています。こちらはまた後で紹介したいと思います。

そのまま駅の方に少しもどると、通り沿いにギンザ美容室と松倉書店の看板があります。
この書店は営業していません。
でもこの2軒の店の場所に昔「石岡銀行」がありました。
そして隣が「灰吹屋山口薬局」さんがあります。
このお店の看板に「創業慶安元年」と書かれています。
慶安元年は1648年です。徳川家光の時代なんです。
ほかの県にも灰吹屋さんという名前の薬屋さんがありますが、ここが本家なのでしょうか?
漢方薬を取り扱っています。
ここは昔「紫金草」(花大根、諸喝菜)として一度紹介しました(こちら)

灰吹屋さんのとなりは「ホテル橋本楼」さんです。こちらも古くからやっています。
昔は「橋本旅館」さんです。
そのとなりは日本蕎麦屋さんです。

通りの反対側には「浜近商店」さんがあります。
この建物も土蔵作りです。今回の震災で一部補修して直したようです。
お米などを取り扱っています。

昭和10年の思い出の地図には
(A)が昔の橋本旅館さんと、この浜近商店さんの隣にあったという(C)のえびすや呉服店さんの姿を描いた絵の写真を下記に示します。
時代の流れで、道路も拡張したので、店も壊してしまったりしたのも多かったのかもしれませんがもったいなかったですね。
一部は別な場所に移築したりもしたのかもしれません。


酒の「冷水」さんがあります。

この横にやはり大きな土蔵があります。この酒屋さんは昭和10年の地図では「角蔵酒造」となっています。

立派な土蔵ですよね。ここで酒作りが行われていたようです。

昨年撮った写真です。この時にはまだレンガ造りの煙突が立っていました。
酒造りの煙突は、酒造りで出た抽出の残りカスを燃やしたものらしいです。
今の酒造りは、これらのカスも別な用途に還元するので煙突はいらなくなっています。

石岡市内には300年ほど前からいくつもの酒造所がありました。
関東の灘といわれる酒処でした。
この小さな酒造会社は昭和34年に合同で「石岡銘醸株式会社」を設立しました。
そして、これが昭和47年に、今の「筑波」などの名酒を製造している「石岡酒造株式会社」(石岡市東大橋)になったのです。
この写真のところの信号は「柿岡街道入口」だったと思います。今はその曲がった通りから振り返って撮った写真です。
この柿岡街道は正面突き当りに「若宮八幡宮」があり、「八幡通り」ともいうようです。
途中のバス停に名前が残っています。こちらはまた後で紹介したいと思います。

そのまま駅の方に少しもどると、通り沿いにギンザ美容室と松倉書店の看板があります。
この書店は営業していません。
でもこの2軒の店の場所に昔「石岡銀行」がありました。
そして隣が「灰吹屋山口薬局」さんがあります。
このお店の看板に「創業慶安元年」と書かれています。
慶安元年は1648年です。徳川家光の時代なんです。
ほかの県にも灰吹屋さんという名前の薬屋さんがありますが、ここが本家なのでしょうか?
漢方薬を取り扱っています。
ここは昔「紫金草」(花大根、諸喝菜)として一度紹介しました(こちら)

灰吹屋さんのとなりは「ホテル橋本楼」さんです。こちらも古くからやっています。
昔は「橋本旅館」さんです。
そのとなりは日本蕎麦屋さんです。

通りの反対側には「浜近商店」さんがあります。
この建物も土蔵作りです。今回の震災で一部補修して直したようです。
お米などを取り扱っています。

昭和10年の思い出の地図には
(A)が昔の橋本旅館さんと、この浜近商店さんの隣にあったという(C)のえびすや呉服店さんの姿を描いた絵の写真を下記に示します。
時代の流れで、道路も拡張したので、店も壊してしまったりしたのも多かったのかもしれませんがもったいなかったですね。
一部は別な場所に移築したりもしたのかもしれません。


石岡の街並み(16)
石岡市の市街地の町並みを紹介していますが、本来は登録文化財になっている建物や駅周辺を紹介するべきかもしれません。
これはまた後から少しずつ紹介していきたいと思います。
まずはあまり紹介されることがない所を回っています。
昨日冷水さんの酒屋さんを紹介しましたが、ここのT字路(実際は一方通行の昔からの道があるから十字路)の信号は「柿岡街道入口」となっています。
駅から来てこの道を左折しますと、ここが正面に「若宮八幡宮」がある昔の「八幡通り」と呼ばれていた道のようです。
現在の柿岡街道は正面の八幡神社手前でL字型に90°カーブして柿岡方面に向かいます。

(サムネルです。クリックして大きくしてご覧下さい)
これは昭和10年の石岡の地図に柿岡街道などの文字を加えています。
現在の地図と比べてみると、この通りを知っている人は気がつきますね。
歩道の幅くらいは道が広くなっています。
また、八幡神社手前から新たに北側の柿岡方面からの道と結ぶL字道が造られています。
昔の地図を見る限りこの道は「八幡通り」と呼ぶのがふさわしいと思います。
さて、古い地図では(K)の記号のある場所に「川崎第百銀行石岡支店」の建物がありました。

こんな素敵な建物です。この銀行は昭和2年に川崎銀行と第百銀行が5:9の株式比率で合併して出来た川崎財閥の銀行でした。
その後銀行は昭和18年に三菱銀行に吸収合併されました。
佐原に三菱銀行の古い建物が残っていますが、その建物を彷彿させるものです。
今も残っていたら素敵でしょうね。

上の写真は千葉県香取市佐原に残る「佐原三菱館」です。そっくりです。
これは大正3年に川崎銀行の佐原支店として建てられたものです。
その後同じように川崎第百銀行となり、昭和18年に三菱銀行となったものです。千葉県の有形文化財です。
現在の佐原の町並みと石岡の街並み似ているようですが、少し方向性が違っていたようです。
佐原では電線の地中化や歩道の整備などは石岡に比べ遅れています。
でもこのように古い町並みや洋風ロマネスク建築の建物などを大事に保存しています。
皆さんはどちらを望みますか?
当然この両方を取り入れてうまくやる方法だってありますよね。

正面が若宮八幡宮です。
1~2年前にこの通り沿いの歩道を整備しました。
歩きやすいのですが、縁石が無くなりバリアフリーというのも聞こえは良いのですが、少し危険だとも思われます。
たまに右折車などがいたときに左の歩道まで乗り上げて追い越す車を見たことがあり、ヒヤリとします。
しかし、街の景観は綺麗になりました。
道に沿って若松八幡宮の方に進みます。

右手に「おじま」菓子店さんがあります。「いしおかサンド」加盟店です。
通りに面したところに店舗があったのですが、今回の地震の影響で壊してしまいました。
店は奥の屋敷の一部を改装して行っています。

手前を駐車場などに広くして、綺麗になったようにも思います。
先日どこかのテレビ局が取材をしていました。
お米などをご亭主が持ち上げたりしていましたので米粉を使ったお菓子なのかな?

「おじま」さんの一つ先となりは、「東亜事務機商会」さんです。

その先に「滝田整形外科医院」があり、その隣に小さなお宮があります。
なかなか古い神社で「青木稲荷神社」といいます。
しかし地元の紹介ではいつも頭に「正一位」と必ずつけているようです。
伏見稲荷から勧請を受けた全国の稲荷神社はすべて正一位を名乗っています。
(前に石岡市内の稲荷神社を紹介しています。→ こちら)

左側にはお祭りの時に祭礼の道具を売るところや、はっぴなどの祭り衣装を売る店があり、霞ヶ浦の名産品を売ると看板にある「小島商店」さんがあります。
でも一般食料品を主に扱っていると思います。
(あすに続きます)
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これはまた後から少しずつ紹介していきたいと思います。
まずはあまり紹介されることがない所を回っています。
昨日冷水さんの酒屋さんを紹介しましたが、ここのT字路(実際は一方通行の昔からの道があるから十字路)の信号は「柿岡街道入口」となっています。
駅から来てこの道を左折しますと、ここが正面に「若宮八幡宮」がある昔の「八幡通り」と呼ばれていた道のようです。
現在の柿岡街道は正面の八幡神社手前でL字型に90°カーブして柿岡方面に向かいます。

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これは昭和10年の石岡の地図に柿岡街道などの文字を加えています。
現在の地図と比べてみると、この通りを知っている人は気がつきますね。
歩道の幅くらいは道が広くなっています。
また、八幡神社手前から新たに北側の柿岡方面からの道と結ぶL字道が造られています。
昔の地図を見る限りこの道は「八幡通り」と呼ぶのがふさわしいと思います。
さて、古い地図では(K)の記号のある場所に「川崎第百銀行石岡支店」の建物がありました。

こんな素敵な建物です。この銀行は昭和2年に川崎銀行と第百銀行が5:9の株式比率で合併して出来た川崎財閥の銀行でした。
その後銀行は昭和18年に三菱銀行に吸収合併されました。
佐原に三菱銀行の古い建物が残っていますが、その建物を彷彿させるものです。
今も残っていたら素敵でしょうね。

上の写真は千葉県香取市佐原に残る「佐原三菱館」です。そっくりです。
これは大正3年に川崎銀行の佐原支店として建てられたものです。
その後同じように川崎第百銀行となり、昭和18年に三菱銀行となったものです。千葉県の有形文化財です。
現在の佐原の町並みと石岡の街並み似ているようですが、少し方向性が違っていたようです。
佐原では電線の地中化や歩道の整備などは石岡に比べ遅れています。
でもこのように古い町並みや洋風ロマネスク建築の建物などを大事に保存しています。
皆さんはどちらを望みますか?
当然この両方を取り入れてうまくやる方法だってありますよね。

正面が若宮八幡宮です。
1~2年前にこの通り沿いの歩道を整備しました。
歩きやすいのですが、縁石が無くなりバリアフリーというのも聞こえは良いのですが、少し危険だとも思われます。
たまに右折車などがいたときに左の歩道まで乗り上げて追い越す車を見たことがあり、ヒヤリとします。
しかし、街の景観は綺麗になりました。
道に沿って若松八幡宮の方に進みます。

右手に「おじま」菓子店さんがあります。「いしおかサンド」加盟店です。
通りに面したところに店舗があったのですが、今回の地震の影響で壊してしまいました。
店は奥の屋敷の一部を改装して行っています。

手前を駐車場などに広くして、綺麗になったようにも思います。
先日どこかのテレビ局が取材をしていました。
お米などをご亭主が持ち上げたりしていましたので米粉を使ったお菓子なのかな?

「おじま」さんの一つ先となりは、「東亜事務機商会」さんです。

その先に「滝田整形外科医院」があり、その隣に小さなお宮があります。
なかなか古い神社で「青木稲荷神社」といいます。
しかし地元の紹介ではいつも頭に「正一位」と必ずつけているようです。
伏見稲荷から勧請を受けた全国の稲荷神社はすべて正一位を名乗っています。
(前に石岡市内の稲荷神社を紹介しています。→ こちら)

左側にはお祭りの時に祭礼の道具を売るところや、はっぴなどの祭り衣装を売る店があり、霞ヶ浦の名産品を売ると看板にある「小島商店」さんがあります。
でも一般食料品を主に扱っていると思います。
(あすに続きます)


石岡の街並み(17)- 中町
一ヶ月くらい前に石岡の町並みを紹介していました。
もう少し追加で紹介していきたいと思います。
石岡の街は昭和4年3月の強い風が吹く日に大きな火災で被害を受けました。
(石岡の火災の記録は私のホームページ参照 → こちら)
しかし、街には活気が有り、すぐに復興を遂げたのです。
今の駅前の八間通りは当時としては広い通りが整理されました。昭和天皇がこられたのは同じ年の11月です。
「御野立所」で軍事演習が行われたためでもありますが、この時に石岡の復興を見ていったのです。
そのため八間通りは別名「御幸通り」といいます。
この中町を中心にした店舗兼住宅のつくりは、「看板住宅」と一般に言われています。
関東大震災の5年半後の火災ですから、東京の復興が参考にされました。
道路を広くしたいとの考えから、店の前に軒を出して商売したり、看板を掲げたりすることを止めたのです。
店舗の壁面に店名をいれたり、看板のような装飾を施したために「看板住宅」と呼ばれるようになったものだと思います。
全国的にこの時期に多くの建物が建てられたようです。
しかし石岡がもっともその特徴をよく表した街並みになりました。
これだけ残っているものも珍しいのです。
国の有形文化財に指定されています。(詳しくは私のホームページを参照下さい → こちら)

この中町商店街も10年ほど前までは歩道の上に屋根がつけられていました(雪国では雁木ですね)。
しかし、これも鳥が巣をつくり、暗くなってしまうために取り払ったのです。
するそこに現れたのがこの昔の看板住宅の姿でした。
汚れを落とし、化粧直しをしてはいますが、昭和ロマンの趣が伝わってきます。
多くの人に訪れて見ていただきたいと思っています。

通りがスッキリした印象を受けますが、これは電柱がないためです。地中化を石岡は駅前から電線の地中化がすすんでいます。
外部からの観光客を呼び込む必要があります。
魅力ある食事処や駐車場、トイレの整備、パンフレットや案内板、案内本などを順次整備していかねばなりません。
「置かれた場所で咲きなさい」と言われた人がおりました。
生まれ、育った場所は違うところですが、ここで生活をしているのですから何かの役に立てることをこれからも精一杯にやっていければ楽しい人生になると思っています。
そうそう人の「人情み」やおもてなしの「あいさつ」なども大切ですね。
このあたりは私も苦手です。努力あるのみですね。

この通りに昔大きな老舗呉服店「高喜」がありました。
その店も閉店し、取り壊されていましたが、ここにはでなドラッグストアができました。
残念ながら通りの雰囲気を壊していると思います。
この通りに見合った看板を別途考えて立てて欲しいのですが・・・・
景観法が石岡ではなかなか施行されませんでした。やっと今年春に成立したようです。
案を作ってから何年もかかってしまいました。
こういうことも市民である私たちにも責任がありますね。
私も含め、一般の人たちはおとなしすぎるのですよ。
ドラッグストアのとなりに見える風格ある土蔵造りの店は「福島砂糖店」です。

ドラッグストアの駐車場側から店の裏に蔵があるのが見えます。
2つくらいあるようです。

砂糖の倉庫を裏の方においていたため、店まで運ぶのはトロッコを使います。
他のお店の裏手にも軌道の一部が残っている場所もあるようですが、現役で使われているのは、おそらくここだけでしょうか。
上の写真はご主人が見学者を案内しているところです。

こちらは登録文化財ではありませんが、同じような趣を感じさせてくれます。
阿波屋(洋服屋、学生服)、中藤(お米や)さんです。

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もう少し追加で紹介していきたいと思います。
石岡の街は昭和4年3月の強い風が吹く日に大きな火災で被害を受けました。
(石岡の火災の記録は私のホームページ参照 → こちら)
しかし、街には活気が有り、すぐに復興を遂げたのです。
今の駅前の八間通りは当時としては広い通りが整理されました。昭和天皇がこられたのは同じ年の11月です。
「御野立所」で軍事演習が行われたためでもありますが、この時に石岡の復興を見ていったのです。
そのため八間通りは別名「御幸通り」といいます。
この中町を中心にした店舗兼住宅のつくりは、「看板住宅」と一般に言われています。
関東大震災の5年半後の火災ですから、東京の復興が参考にされました。
道路を広くしたいとの考えから、店の前に軒を出して商売したり、看板を掲げたりすることを止めたのです。
店舗の壁面に店名をいれたり、看板のような装飾を施したために「看板住宅」と呼ばれるようになったものだと思います。
全国的にこの時期に多くの建物が建てられたようです。
しかし石岡がもっともその特徴をよく表した街並みになりました。
これだけ残っているものも珍しいのです。
国の有形文化財に指定されています。(詳しくは私のホームページを参照下さい → こちら)

この中町商店街も10年ほど前までは歩道の上に屋根がつけられていました(雪国では雁木ですね)。
しかし、これも鳥が巣をつくり、暗くなってしまうために取り払ったのです。
するそこに現れたのがこの昔の看板住宅の姿でした。
汚れを落とし、化粧直しをしてはいますが、昭和ロマンの趣が伝わってきます。
多くの人に訪れて見ていただきたいと思っています。

通りがスッキリした印象を受けますが、これは電柱がないためです。地中化を石岡は駅前から電線の地中化がすすんでいます。
外部からの観光客を呼び込む必要があります。
魅力ある食事処や駐車場、トイレの整備、パンフレットや案内板、案内本などを順次整備していかねばなりません。
「置かれた場所で咲きなさい」と言われた人がおりました。
生まれ、育った場所は違うところですが、ここで生活をしているのですから何かの役に立てることをこれからも精一杯にやっていければ楽しい人生になると思っています。
そうそう人の「人情み」やおもてなしの「あいさつ」なども大切ですね。
このあたりは私も苦手です。努力あるのみですね。

この通りに昔大きな老舗呉服店「高喜」がありました。
その店も閉店し、取り壊されていましたが、ここにはでなドラッグストアができました。
残念ながら通りの雰囲気を壊していると思います。
この通りに見合った看板を別途考えて立てて欲しいのですが・・・・
景観法が石岡ではなかなか施行されませんでした。やっと今年春に成立したようです。
案を作ってから何年もかかってしまいました。
こういうことも市民である私たちにも責任がありますね。
私も含め、一般の人たちはおとなしすぎるのですよ。
ドラッグストアのとなりに見える風格ある土蔵造りの店は「福島砂糖店」です。

ドラッグストアの駐車場側から店の裏に蔵があるのが見えます。
2つくらいあるようです。

砂糖の倉庫を裏の方においていたため、店まで運ぶのはトロッコを使います。
他のお店の裏手にも軌道の一部が残っている場所もあるようですが、現役で使われているのは、おそらくここだけでしょうか。
上の写真はご主人が見学者を案内しているところです。

こちらは登録文化財ではありませんが、同じような趣を感じさせてくれます。
阿波屋(洋服屋、学生服)、中藤(お米や)さんです。



石岡の街並み(18)-守木町
旧国道355線は石岡市内を走っているが、ここはかっての陸前浜街道(水戸街道)であった。
守木町は坂を上った石岡の入口に当たり、今では町名としてはなくなってしまったが、守木郵便局があるので、このあたりだということがわかる。
私などはもともとこの土地で育っていないので、旧町名もなんだかよくわからない。
でもこのように郵便局の名前としても残れば知らない人でもある程度わかる。
香丸、中町と続いた先の金刀比羅神社あたりからを指すのだと思う。
ここにもそれほど広いエリアでもないが、郵便局やNTTの建物があり、昔は結構栄えたのだろう。
石岡の郵便局はここが一番早かったそうです。(明治6年)
郵便局を始めたのは酒造業をやっていた「村田宗右衛門」だそうです。
村田宗右衛門の酒造業は明治4年の資料では上位に名前が出てきているが、昭和6年には出ていない。
酒造業をやめて郵便局の事業に転身したのだろうか。昔は郵便局も代々世襲でやっていたものと思う。
守木町の名は、常陸大掾氏の家臣・守木氏が住んでいた場所のようだ。これは香丸町や金丸町などと同じだ。

金刀比羅神社駐車場看板。 となりは江戸時代の染物屋「丁子屋」(まち蔵藍)です。
この前の大地震で屋根や壁が相当痛み、どうにか修復しましたが、昔の渋さが消えてしまいました。

金刀比羅神社。
石岡の人は「笠間の稲荷か、石岡(府中)の金刀比羅さんか」と昔言われていた程賑やかだったといいます。
今でも毎年1月と10月の各10日に大祭が行われています。
これも恐らく霞ヶ浦の水運が発達していた時には、これらの関係者もたくさんお参りに来ていたものと推察されます。
陸前浜街道などという名前も懐かしい響きを持っています。
神社は数年前に火災で焼けて、再建されました。
この間の大地震で、入口にある大きな鳥居はヒビが入り修復し、境内横にあった土蔵は取り壊してしまいました。
実はこの高さ10m程もある大鳥居は大正4年に大正天皇の即位を記念して笠間市稲田の花崗岩で建てられたものだといいます。
この鳥居の位置に昔は、立派な楼門(三層)が建っていたそうですが、明治11年の火事で焼けてしまったそうです。
またこの楼門(二天門)はその昔、神官が法螺貝を朝晩に吹いたので法螺堂とも呼ばれていたとあります。
本殿も焼けて再建され、また昭和4年の大火事で焼け、その後に再建されたが、平成12年にまた火災で焼失。
今の本殿(拝殿)は平成19年のものです。
また、この神社に関係した寺が二つあったそうです。森木寺と八大寺と言ったそうですが、これらは府中城の大掾氏の滅んだ天正18年(1590)に一緒に焼けて無くなってしまったそうです。
でも前から森木と呼ばれていたこの神社や寺の名前が「守木」として地名で残ったようです。



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守木町は坂を上った石岡の入口に当たり、今では町名としてはなくなってしまったが、守木郵便局があるので、このあたりだということがわかる。
私などはもともとこの土地で育っていないので、旧町名もなんだかよくわからない。
でもこのように郵便局の名前としても残れば知らない人でもある程度わかる。
香丸、中町と続いた先の金刀比羅神社あたりからを指すのだと思う。
ここにもそれほど広いエリアでもないが、郵便局やNTTの建物があり、昔は結構栄えたのだろう。
石岡の郵便局はここが一番早かったそうです。(明治6年)
郵便局を始めたのは酒造業をやっていた「村田宗右衛門」だそうです。
村田宗右衛門の酒造業は明治4年の資料では上位に名前が出てきているが、昭和6年には出ていない。
酒造業をやめて郵便局の事業に転身したのだろうか。昔は郵便局も代々世襲でやっていたものと思う。
守木町の名は、常陸大掾氏の家臣・守木氏が住んでいた場所のようだ。これは香丸町や金丸町などと同じだ。

金刀比羅神社駐車場看板。 となりは江戸時代の染物屋「丁子屋」(まち蔵藍)です。
この前の大地震で屋根や壁が相当痛み、どうにか修復しましたが、昔の渋さが消えてしまいました。

金刀比羅神社。
石岡の人は「笠間の稲荷か、石岡(府中)の金刀比羅さんか」と昔言われていた程賑やかだったといいます。
今でも毎年1月と10月の各10日に大祭が行われています。
これも恐らく霞ヶ浦の水運が発達していた時には、これらの関係者もたくさんお参りに来ていたものと推察されます。
陸前浜街道などという名前も懐かしい響きを持っています。
神社は数年前に火災で焼けて、再建されました。
この間の大地震で、入口にある大きな鳥居はヒビが入り修復し、境内横にあった土蔵は取り壊してしまいました。
実はこの高さ10m程もある大鳥居は大正4年に大正天皇の即位を記念して笠間市稲田の花崗岩で建てられたものだといいます。
この鳥居の位置に昔は、立派な楼門(三層)が建っていたそうですが、明治11年の火事で焼けてしまったそうです。
またこの楼門(二天門)はその昔、神官が法螺貝を朝晩に吹いたので法螺堂とも呼ばれていたとあります。
本殿も焼けて再建され、また昭和4年の大火事で焼け、その後に再建されたが、平成12年にまた火災で焼失。
今の本殿(拝殿)は平成19年のものです。
また、この神社に関係した寺が二つあったそうです。森木寺と八大寺と言ったそうですが、これらは府中城の大掾氏の滅んだ天正18年(1590)に一緒に焼けて無くなってしまったそうです。
でも前から森木と呼ばれていたこの神社や寺の名前が「守木」として地名で残ったようです。





石岡の街並み(19)-宮下通り
石岡駅から八間通りを直進して突き当たり角に「まちかど情報センター」があります。
そこの通りが旧国道355線で昔の水戸街道です。
突き当たり付近から左側が中町商店会の通りですが、少し進んですぐに右(西)に曲がる道が「神社通り」といいます。
観光でこられた方は多くの人はこの道を通っては、総社や民俗資料館の方に進みます。
そして正面突き当りに江戸時代には常陸府中藩(松平2万石)の陣屋が置かれていて、入口に陣屋門がありました。
下の地図では「実科女学校」となっていますが、これは今の石岡二高の前身の学校です。
ここに今は市民会館が建てられ、陣屋門を石岡小学校の校庭に移築してしまいました。
市民会館の入口には「陣屋門跡」の石碑が置かれています。

(地図はサムネルです。クリックすると大きな画像を表示します)
さて、今日紹介するのはこの神社通りより一つ南側の通り「宮下通り」です。

中町の昭和レトロな街並み手前から右に入ります。
名前の通りお宮=総社宮の下を通る道です。
石岡の街は高台にあり、総社も高台にあります。その総社の麓の入口に続く通りになります。
昔(江戸時代?)はこの総社の入口はこの下から登る道しかなかったようです。

信号を曲がってすぐ右側に駐車場となった空き地があります。(大地震後に駐車場になった?)
このあたりに昔映画館(第一国文館?)があったところのようです。

そのとなりがお寿司屋さん。水車の飾りが目を引きますが、2階は生活感ありますね。

その前が「玉川屋」さんという入り豆のお店です。この出店が中町の通りにもあったように思います。

この通りはすぐにクランクに曲がって下っていきますが、正面突き当りに見えるのはスーパー「タイヨー」さんです。
百円ショップも併設され、安さと品数で人気があります。
一時移転の話もありましたが、ここに残って助かった人も多いようです。

このスーパーも少し高台の方に店があり、下が駐車場になっていたりしますが、昭和10年ころの地図では「久保倉酒造」と書かれています。
こもブログを書くために地図を見ていて初めて知りました。
久保倉酒造さんは大和田三郎左衛門さんのやっていた「大徳」という酒を作っていたようです。
石岡にはたくさんの酒造会社があったようです。
昭和34年にこの中の数店舗が一緒になって「石岡酒造」(大衆酒:白鹿、大吟醸:筑波 など)を設立しています。

スーパーの入口には昔からあるけやきの大木が残されています。
このすぐ裏に「上池」という池がありました。
今では池はありませんが、去年だったか忘れましたが綺麗な公園に整備されました。
地元の人でないとこの公園も陰に隠れていて、あることも知らないのではないでしょうか。
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そこの通りが旧国道355線で昔の水戸街道です。
突き当たり付近から左側が中町商店会の通りですが、少し進んですぐに右(西)に曲がる道が「神社通り」といいます。
観光でこられた方は多くの人はこの道を通っては、総社や民俗資料館の方に進みます。
そして正面突き当りに江戸時代には常陸府中藩(松平2万石)の陣屋が置かれていて、入口に陣屋門がありました。
下の地図では「実科女学校」となっていますが、これは今の石岡二高の前身の学校です。
ここに今は市民会館が建てられ、陣屋門を石岡小学校の校庭に移築してしまいました。
市民会館の入口には「陣屋門跡」の石碑が置かれています。

(地図はサムネルです。クリックすると大きな画像を表示します)
さて、今日紹介するのはこの神社通りより一つ南側の通り「宮下通り」です。

中町の昭和レトロな街並み手前から右に入ります。
名前の通りお宮=総社宮の下を通る道です。
石岡の街は高台にあり、総社も高台にあります。その総社の麓の入口に続く通りになります。
昔(江戸時代?)はこの総社の入口はこの下から登る道しかなかったようです。

信号を曲がってすぐ右側に駐車場となった空き地があります。(大地震後に駐車場になった?)
このあたりに昔映画館(第一国文館?)があったところのようです。

そのとなりがお寿司屋さん。水車の飾りが目を引きますが、2階は生活感ありますね。

その前が「玉川屋」さんという入り豆のお店です。この出店が中町の通りにもあったように思います。

この通りはすぐにクランクに曲がって下っていきますが、正面突き当りに見えるのはスーパー「タイヨー」さんです。
百円ショップも併設され、安さと品数で人気があります。
一時移転の話もありましたが、ここに残って助かった人も多いようです。

このスーパーも少し高台の方に店があり、下が駐車場になっていたりしますが、昭和10年ころの地図では「久保倉酒造」と書かれています。
こもブログを書くために地図を見ていて初めて知りました。
久保倉酒造さんは大和田三郎左衛門さんのやっていた「大徳」という酒を作っていたようです。
石岡にはたくさんの酒造会社があったようです。
昭和34年にこの中の数店舗が一緒になって「石岡酒造」(大衆酒:白鹿、大吟醸:筑波 など)を設立しています。

スーパーの入口には昔からあるけやきの大木が残されています。
このすぐ裏に「上池」という池がありました。
今では池はありませんが、去年だったか忘れましたが綺麗な公園に整備されました。
地元の人でないとこの公園も陰に隠れていて、あることも知らないのではないでしょうか。


石岡の街並み(20)
昨日書いた「富田北向観音のまっすぐ前の道は駅前の八間通り(御幸通り)から一方通行の横道だ。
その正面が北向観音になる。
その通りは地元では「金丸寿通り」または単に「寿通り」というようだ。
通りの歩道部分もきれいに整備して、少し趣が出てきている。

このような造りの家も珍しい。

上の家の隣にある少し洋風な建築。
地図には「氏江商店」とあるが、商店には見えない。

入口の看板には「検察審査会」の文字があった。
またドアに「要注意」の白い紙が貼られていた。
これは地震の時に貼られたものかもしれない。
このあたりのお店などは、全てチェックを受けて、取り壊しになったり、修理が必要となったりしたのだが、色紙だったと思う。

少し進んで、NTTの建て屋(金刀比羅神社の横)の前の横丁を入った。

古い石蔵などが目立つ。この通りは「守横通り」?、「守木通り」? よくわからない。
前にも書いたが、通りの名称(愛称)を是非表示して欲しい。
これは観光客などにも親しみを持っていただくのにも必要なことだ。
東京などもかなり表示が進んできたように思う。


「丸三」そば屋さん。

和風居酒屋「河内屋」さん。
の外壁にたくさんの蔦が・・・・
看板には「おにぎり」と書かれている。
さて、石岡駅前の市街地活性化のために、いろいろ取り組み始めているが、来年駅前に「石岡屋台村」をオープンさせるという。
昨年末より参加店の募集を始めた。
駅前近くにあった「西友」が何年も前に撤退し、ロッテリアが今回の地震で営業をやめてしまった。
駅から1分の場所に屋台村をはじめるという計画だ。
これをやるなら、市役所や商工会などでもぜひ利用するようにして欲しい。
皆車で出勤を考え直したのだが・・・・
でも、私も最近ほとんど酒を飲むのをやめてしまったからな・・・・。
おいしいラーメン屋でも出来たら行きたい。
最近ホームページを立ち上げた。 → こちら
いしおかサンドの次は「屋台」だそうだ。
B級グルメに是非参加して、石岡の新名物を作って欲しい。
八郷のシャモもなかなかお目にかかれない。 いつも提供しているところが少ない。
冷凍技術の進歩がものすごいのだから、いつでも提供できるようにして欲しいものだ。
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その正面が北向観音になる。
その通りは地元では「金丸寿通り」または単に「寿通り」というようだ。
通りの歩道部分もきれいに整備して、少し趣が出てきている。

このような造りの家も珍しい。

上の家の隣にある少し洋風な建築。
地図には「氏江商店」とあるが、商店には見えない。

入口の看板には「検察審査会」の文字があった。
またドアに「要注意」の白い紙が貼られていた。
これは地震の時に貼られたものかもしれない。
このあたりのお店などは、全てチェックを受けて、取り壊しになったり、修理が必要となったりしたのだが、色紙だったと思う。

少し進んで、NTTの建て屋(金刀比羅神社の横)の前の横丁を入った。

古い石蔵などが目立つ。この通りは「守横通り」?、「守木通り」? よくわからない。
前にも書いたが、通りの名称(愛称)を是非表示して欲しい。
これは観光客などにも親しみを持っていただくのにも必要なことだ。
東京などもかなり表示が進んできたように思う。


「丸三」そば屋さん。

和風居酒屋「河内屋」さん。
の外壁にたくさんの蔦が・・・・
看板には「おにぎり」と書かれている。
さて、石岡駅前の市街地活性化のために、いろいろ取り組み始めているが、来年駅前に「石岡屋台村」をオープンさせるという。
昨年末より参加店の募集を始めた。
駅前近くにあった「西友」が何年も前に撤退し、ロッテリアが今回の地震で営業をやめてしまった。
駅から1分の場所に屋台村をはじめるという計画だ。
これをやるなら、市役所や商工会などでもぜひ利用するようにして欲しい。
皆車で出勤を考え直したのだが・・・・
でも、私も最近ほとんど酒を飲むのをやめてしまったからな・・・・。
おいしいラーメン屋でも出来たら行きたい。
最近ホームページを立ち上げた。 → こちら
いしおかサンドの次は「屋台」だそうだ。
B級グルメに是非参加して、石岡の新名物を作って欲しい。
八郷のシャモもなかなかお目にかかれない。 いつも提供しているところが少ない。
冷凍技術の進歩がものすごいのだから、いつでも提供できるようにして欲しいものだ。

