横利根閘門と横利根川
私は時々銚子にいきますが、その時に霞ヶ浦から流れる「常陸利根川」と利根川とに挟まれた中洲の道をよく通ります。
利根川の土手沿いの道で、国道51号線が利根川を渡る(渡ると千葉県香取市(佐原))手前でこの土手沿いの中洲道を走ります。
この入口にあるのが「横利根閘門(こうもん)」です。
最初にこの場所に来た時にゆったりと流れ、釣り船がいつもたくさん浮かび、岸でもたくさんの釣り人がいるのに驚かされました。
まさに絵になる風情の場所だったのです。

この横利根川は写真手前は茨城県稲敷市で、川向こうは千葉県香取市ですので、川が県境になっています。

霞ヶ浦の水運も土浦、石岡(高浜)より船で出て、利根川に入ろうとするとこの横利根川を通ると、常陸利根川と利根川の合流地点まで(ここから20km位先)行かずに済みます。
現在横利根川は、霞ヶ浦側(上流側)の入口に水門があり、この利根川側(下流側)の入口にこの水門(閘門)の両側に門があります。
水位調節がされていて、主に洪水の防止などの目的で大正3年から大正10年にかけて作られたそうです。
この利根川側に公園(上の写真の右側の緑地)が設けられていて、そちらに行けばレンガ作りのすてきな閘門が見られるそうです。
また公園は香取市と稲敷市の共同での管理となっているようです。

さて、この横利根川はへら鮒の有名な釣り場となっているといいます。
太公望の人たちならこの場所は知っているのかもしれません。

(サムネルです)
この先の方の右側に見える水門が「横利根閘門」です。
公園側にわたっていないので、閘門は詳しく見ていません。
修理し、文化遺産として保存されているといいます。
上下に開くのではなく、門は前後に開きます。
霞ヶ浦の水運としてたくさんの客船(蒸気船)もこの横利根川を通ったそうです。
しかし、それも昭和10年頃までで、鉄道や車に押されて衰退し、今では時々観光としてこの門を通過する船が時々ある程度だといいます。
(お知らせ)(オカリナ作者・奏者 野口さんのブログより転載します)
11/23(金) 「日本最長 ホワイトアイリス号で行く銚子クルーズ」
~横利根閘門・利根川河口堰通過体験と銚子温泉とグルメの船旅~
土浦 7:00 出発 ~ 銚子ホテル 11:45 到着 ~昼食・温泉タイム~
銚子ホテル 14:15 出発 ~ 土浦 19:20 到着
料金 : 土浦 発・着 大人 8,500円 小人 5,000円
水の郷さわら 発・着 大人 5,500円 小人 3,000円
オカリナコンサートも行います。
問合せ:(株)ラクスマリーナ 茨城県土浦市川口2-13-6
tel 029-822-2437
← よろしければクリックお願いします。
利根川の土手沿いの道で、国道51号線が利根川を渡る(渡ると千葉県香取市(佐原))手前でこの土手沿いの中洲道を走ります。
この入口にあるのが「横利根閘門(こうもん)」です。
最初にこの場所に来た時にゆったりと流れ、釣り船がいつもたくさん浮かび、岸でもたくさんの釣り人がいるのに驚かされました。
まさに絵になる風情の場所だったのです。

この横利根川は写真手前は茨城県稲敷市で、川向こうは千葉県香取市ですので、川が県境になっています。

霞ヶ浦の水運も土浦、石岡(高浜)より船で出て、利根川に入ろうとするとこの横利根川を通ると、常陸利根川と利根川の合流地点まで(ここから20km位先)行かずに済みます。
現在横利根川は、霞ヶ浦側(上流側)の入口に水門があり、この利根川側(下流側)の入口にこの水門(閘門)の両側に門があります。
水位調節がされていて、主に洪水の防止などの目的で大正3年から大正10年にかけて作られたそうです。
この利根川側に公園(上の写真の右側の緑地)が設けられていて、そちらに行けばレンガ作りのすてきな閘門が見られるそうです。
また公園は香取市と稲敷市の共同での管理となっているようです。

さて、この横利根川はへら鮒の有名な釣り場となっているといいます。
太公望の人たちならこの場所は知っているのかもしれません。

(サムネルです)
この先の方の右側に見える水門が「横利根閘門」です。
公園側にわたっていないので、閘門は詳しく見ていません。
修理し、文化遺産として保存されているといいます。
上下に開くのではなく、門は前後に開きます。
霞ヶ浦の水運としてたくさんの客船(蒸気船)もこの横利根川を通ったそうです。
しかし、それも昭和10年頃までで、鉄道や車に押されて衰退し、今では時々観光としてこの門を通過する船が時々ある程度だといいます。
(お知らせ)(オカリナ作者・奏者 野口さんのブログより転載します)
11/23(金) 「日本最長 ホワイトアイリス号で行く銚子クルーズ」
~横利根閘門・利根川河口堰通過体験と銚子温泉とグルメの船旅~
土浦 7:00 出発 ~ 銚子ホテル 11:45 到着 ~昼食・温泉タイム~
銚子ホテル 14:15 出発 ~ 土浦 19:20 到着
料金 : 土浦 発・着 大人 8,500円 小人 5,000円
水の郷さわら 発・着 大人 5,500円 小人 3,000円
オカリナコンサートも行います。
問合せ:(株)ラクスマリーナ 茨城県土浦市川口2-13-6
tel 029-822-2437


神崎神社(1)
茨城県の旧稲敷郡桜川村や江戸崎町(現稲敷市)を稲敷散歩として紹介したことがあります。
この時は、古東海道の面影を追って「我孫子」-「布佐」-「龍ケ崎」-(信太郡)「稲敷市」-「美浦村」-「かすみがうら市」のルートを考えていた。
しかし、旧江戸崎町や桜川村を散策すると利根川を渡って千葉県(下総)側からの影響がかなり感じていた。
そして、香取神宮とともに気になる神社があることに気がついた。
それがこの神崎神社(こうざきじんじゃ)だ。
美浦村から国道125号線を東に走らせると、小野川を古渡(ふっと)でわたり、しばらく行くと阿波(あば)にアンバ様と親しまれている天狗の神社「大杉神社」があります。
この神社も全国の大杉神社の総本山で非常に興味深いのですが、そのまま進むと幸田の信号で県道と合流して左に曲がって、利根川沿いを走り、まっすぐ行くと銚子の方にでる。
しかし、左に曲がってすぐ右に曲がるとそのまま利根川を渡る神崎大橋に出る。
この神社はこの橋を渡った左手の森に鎮座している。
昔、総の国から常陸の国にわたってきた時にはこのあたりが常陸国への入口になったように思う。
この神崎神社という古社には何かあるに違いないという気がしていた。
常陸風土記の信太郡に次のような文章がある。(前にも書いたことがある)
諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。
山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。
葦原は日本の昔の国のことをさすが、この常陸国も葦原と呼ばれていたとも解釈できる。
そして、そこに下総から狩人がやってくる。狩りの獲物はなんだろう。この鹿は?
いろいろな解釈ができそうだが、国境の場所として私が目をつけたのがこの神崎神社というわけです。
江戸時代にはこの下を流れる利根川は水運の大動脈であった。
「ここは神崎 森の下 梶をよくとれ船頭どのよ
主の心と神崎の森 ナンジャモンジャで気が知れぬ」
この神社下を流れる利根川を通る船の船頭には大きな森が目印となっていたのです。
ナンジャモンジャはこの神社にある大きなクスの木の名前で、水戸光圀の言葉でつけられたそうです。
こちらは後から写真でも紹介します。

車の駐車場は神社の左手から回ったところにあるが、神社への入口参道は市街方面(東)に少しいった通り沿いにある。
ここに鳥居と一対の狛犬がいる。神社の拝殿にはこの階段を上って森の中を進む。

森に入って少し行くと開けた広場に出て、左に境内社(三峯神社)があり、また拝殿まで石段を上る。

この階段の途中に古びた狛犬がまたいる。この狛犬は気になる狛犬だ。
沖縄のシーサーなどに近い姿のように思う。

右手の狛犬をアップした写真。

左手の狛犬の姿だ。これはどちらが阿形か吽形かわからない。区別はないのか?

階段を上りきったところにまた左右に狛犬がいる。こちらもかなり貫禄があるおもしろい形だ。

これが拝殿です。右手に「なんじゃもんじゃの木」があります。(紹介は明日へ)
拝殿手前にも狛犬がいます。
4種類の狛犬がすべて違った姿なのも興味を引きます。
調べていたら欄干のところにも隠れたように狛犬が配されていたそうです。見落としました。

神社の説明は上の案内板を読んでください。
白鳳時代については英語の方で673-685年となっています。
神社側の説明によれば「白鳳二年二月朔日、常陸国と下総国の境、大浦沼二つ塚より現在の地に遷座した。」となっています。
大浦沼がよくわかりませんが、利根川と新利根川に挟まれた中洲(茨城県側)に大浦と東大沼という地名が見られるのでこのあたりなのでしょう。
この中洲ではあまり高いところはないと思います。
そこの小山に下総と常陸の境界として神社が祀られたのではないでしょうか。
そしてここから現在地に移された神社も平安時代ころは「子松神社」と呼ばれていたようです。
祭神は天鳥船命(アメノトリフネ)、少彦名命(スクナヒコナ)、大貴己命(オオナムチ)、面足命(オモタル)、惶根命(カシコネ)です。
少彦名が祀られていることに興味が湧きます。また天鳥船は船の安全を祈って祀られたのでしょうか?
昭和10年にこの神崎の森は千葉県の天然記念物に指定されています。
ナンジャモンジャの木は国の天然記念物です。
(明日へ続きます。)
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この時は、古東海道の面影を追って「我孫子」-「布佐」-「龍ケ崎」-(信太郡)「稲敷市」-「美浦村」-「かすみがうら市」のルートを考えていた。
しかし、旧江戸崎町や桜川村を散策すると利根川を渡って千葉県(下総)側からの影響がかなり感じていた。
そして、香取神宮とともに気になる神社があることに気がついた。
それがこの神崎神社(こうざきじんじゃ)だ。
美浦村から国道125号線を東に走らせると、小野川を古渡(ふっと)でわたり、しばらく行くと阿波(あば)にアンバ様と親しまれている天狗の神社「大杉神社」があります。
この神社も全国の大杉神社の総本山で非常に興味深いのですが、そのまま進むと幸田の信号で県道と合流して左に曲がって、利根川沿いを走り、まっすぐ行くと銚子の方にでる。
しかし、左に曲がってすぐ右に曲がるとそのまま利根川を渡る神崎大橋に出る。
この神社はこの橋を渡った左手の森に鎮座している。
昔、総の国から常陸の国にわたってきた時にはこのあたりが常陸国への入口になったように思う。
この神崎神社という古社には何かあるに違いないという気がしていた。
常陸風土記の信太郡に次のような文章がある。(前にも書いたことがある)
諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。
山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。
葦原は日本の昔の国のことをさすが、この常陸国も葦原と呼ばれていたとも解釈できる。
そして、そこに下総から狩人がやってくる。狩りの獲物はなんだろう。この鹿は?
いろいろな解釈ができそうだが、国境の場所として私が目をつけたのがこの神崎神社というわけです。
江戸時代にはこの下を流れる利根川は水運の大動脈であった。
「ここは神崎 森の下 梶をよくとれ船頭どのよ
主の心と神崎の森 ナンジャモンジャで気が知れぬ」
この神社下を流れる利根川を通る船の船頭には大きな森が目印となっていたのです。
ナンジャモンジャはこの神社にある大きなクスの木の名前で、水戸光圀の言葉でつけられたそうです。
こちらは後から写真でも紹介します。

車の駐車場は神社の左手から回ったところにあるが、神社への入口参道は市街方面(東)に少しいった通り沿いにある。
ここに鳥居と一対の狛犬がいる。神社の拝殿にはこの階段を上って森の中を進む。

森に入って少し行くと開けた広場に出て、左に境内社(三峯神社)があり、また拝殿まで石段を上る。

この階段の途中に古びた狛犬がまたいる。この狛犬は気になる狛犬だ。
沖縄のシーサーなどに近い姿のように思う。

右手の狛犬をアップした写真。

左手の狛犬の姿だ。これはどちらが阿形か吽形かわからない。区別はないのか?

階段を上りきったところにまた左右に狛犬がいる。こちらもかなり貫禄があるおもしろい形だ。

これが拝殿です。右手に「なんじゃもんじゃの木」があります。(紹介は明日へ)
拝殿手前にも狛犬がいます。
4種類の狛犬がすべて違った姿なのも興味を引きます。
調べていたら欄干のところにも隠れたように狛犬が配されていたそうです。見落としました。

神社の説明は上の案内板を読んでください。
白鳳時代については英語の方で673-685年となっています。
神社側の説明によれば「白鳳二年二月朔日、常陸国と下総国の境、大浦沼二つ塚より現在の地に遷座した。」となっています。
大浦沼がよくわかりませんが、利根川と新利根川に挟まれた中洲(茨城県側)に大浦と東大沼という地名が見られるのでこのあたりなのでしょう。
この中洲ではあまり高いところはないと思います。
そこの小山に下総と常陸の境界として神社が祀られたのではないでしょうか。
そしてここから現在地に移された神社も平安時代ころは「子松神社」と呼ばれていたようです。
祭神は天鳥船命(アメノトリフネ)、少彦名命(スクナヒコナ)、大貴己命(オオナムチ)、面足命(オモタル)、惶根命(カシコネ)です。
少彦名が祀られていることに興味が湧きます。また天鳥船は船の安全を祈って祀られたのでしょうか?
昭和10年にこの神崎の森は千葉県の天然記念物に指定されています。
ナンジャモンジャの木は国の天然記念物です。
(明日へ続きます。)


神崎神社(2)
今日は立冬だそうですね。
朝はかなり霧が濃くたちこめて幻想的でした。気温が上がったのでしょうか?
比較的昼間は暖かかったですね。私はどうも体調不十分です。
まあ、早めに暖かくして寝たいと思います。
さて、神崎(こうざき)神社の2回目です。
神社の森は昔はすぐ下を利根川が流れていたと考えられますが、今は川の土手に新しい利根水郷ラインの道が走っています。昔の水郷ライン(356号線)は神社脇から街中を走り、佐原で合流します。

神崎神社の拝殿。三つ巴の紋がついてます。 これは火災よけ?

(サムネルです)
これが神社で有名な国の天然記念物である「神崎の大グス」=なんじゃもんじゃです。

名前の由来の説明は上の説明文を読んでください。


(サムネルです)
かなり大きいです。途中で切ったそうですが、そこ脇から今ではこんなにも大きな木になっています。

(サムネルです)

こちらが本殿。

この神社はこの森の頂上に作られたものです。
いつからこの山にあるのかはよくわかりませんでした。
平安時代かもしれません。

明治40年に火災にあった跡が見て取れます。
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朝はかなり霧が濃くたちこめて幻想的でした。気温が上がったのでしょうか?
比較的昼間は暖かかったですね。私はどうも体調不十分です。
まあ、早めに暖かくして寝たいと思います。
さて、神崎(こうざき)神社の2回目です。
神社の森は昔はすぐ下を利根川が流れていたと考えられますが、今は川の土手に新しい利根水郷ラインの道が走っています。昔の水郷ライン(356号線)は神社脇から街中を走り、佐原で合流します。

神崎神社の拝殿。三つ巴の紋がついてます。 これは火災よけ?

(サムネルです)
これが神社で有名な国の天然記念物である「神崎の大グス」=なんじゃもんじゃです。

名前の由来の説明は上の説明文を読んでください。


(サムネルです)
かなり大きいです。途中で切ったそうですが、そこ脇から今ではこんなにも大きな木になっています。

(サムネルです)

こちらが本殿。

この神社はこの森の頂上に作られたものです。
いつからこの山にあるのかはよくわかりませんでした。
平安時代かもしれません。

明治40年に火災にあった跡が見て取れます。


神崎神社(3)
神崎神社(こうざき)のある神崎町は隣の香取市や成田市とは合併しない小さな町です。
合併した隣接の市の面積は10分の1以下で、人口も6~7千人程度です。
そして、この町には成田線の「下総神崎」駅があります。
この駅は成田線が開業した明治31年から昭和32年まで「郡駅(こおりえき)」と言いました。
香取神宮や佐原からは30km位は離れています。香取郡の東端に位置します。
今でも「郡(こおり)」という地名が残ります。
神崎神社を巻くように東側の道をはいると駐車場があり、こちらからも登ることができます。
その駐車場手前に神社がありました。

「八坂神社」と書かれています。

昔はやはり天王社と言っていたようです。
スサノオとクシナダヒメを祀る神社とも書かれていますが、これも明治維新の廃仏毀釈で八坂神社に改称した時にこのようになったのでしょう。
昔は牛頭天王を祭っていたのでしょうか。
あちこちの神社で同じような事象が見受けられます。

神崎神社の雰囲気に合わせたためか、かなり凝った屋根構えです。

上の神社境内の隅に置かれた歌碑
「新酒のかをり・・・・・・・・??」
この地も酒造りが盛んだったのでしょう。
調べてみると元禄二年(1689)創業の酒屋(鍋店株式会社)がこの神崎(神崎酒造蔵)にあり、成田山新勝寺の前に店を出していた。(清酒「仁勇・不動」)
酒造蔵見学もできるようです。

駐車場からの参道です。こちらは車がはいれるようになっているのでしょう。

昨日紹介した狛犬のいる階段手前にある境内社「三峯神社」です。
さて、この神崎町は千葉県香取郡ですが、利根川が県境になっています。
そのため橋を渡るとそこは茨城県になります。
すぐそばに十三間戸(じゅうさんまど)という地名が、川のこちら側と向こう側にあります。
これは利根川の流れを変えた時に町が分断されてしまったようです。
茨城県側は河内町となっていますが、この河内町昔の地域として千葉県(下総国)だったところと常陸国だったところが混在しているようです。
どうやら県境がこのあたりで行ったり来たりしています。
十三間戸という変わった名前が気になりますが、ここには室町時代の仏像が残されています。
また「間戸(まど)」は今の窓の意味で、日本は昔は柱の間を仕切るのは格子戸や襖戸などで仕切っていました。
十三間戸というと、十三の仕切られた部屋が連なる長屋風の建物があったのではないかと名前からは想像されます。
室町時代に奈良に鎌倉時代に作られた北山十八間戸(けんと)がありますが、これはハンセン病(ライ病)患者をここに隔離して救済するための施設でした。
何か関係しているのか?
今のところ全くわかりません。また調べてわかったら報告したいと思います。
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合併した隣接の市の面積は10分の1以下で、人口も6~7千人程度です。
そして、この町には成田線の「下総神崎」駅があります。
この駅は成田線が開業した明治31年から昭和32年まで「郡駅(こおりえき)」と言いました。
香取神宮や佐原からは30km位は離れています。香取郡の東端に位置します。
今でも「郡(こおり)」という地名が残ります。
神崎神社を巻くように東側の道をはいると駐車場があり、こちらからも登ることができます。
その駐車場手前に神社がありました。

「八坂神社」と書かれています。

昔はやはり天王社と言っていたようです。
スサノオとクシナダヒメを祀る神社とも書かれていますが、これも明治維新の廃仏毀釈で八坂神社に改称した時にこのようになったのでしょう。
昔は牛頭天王を祭っていたのでしょうか。
あちこちの神社で同じような事象が見受けられます。

神崎神社の雰囲気に合わせたためか、かなり凝った屋根構えです。

上の神社境内の隅に置かれた歌碑
「新酒のかをり・・・・・・・・??」
この地も酒造りが盛んだったのでしょう。
調べてみると元禄二年(1689)創業の酒屋(鍋店株式会社)がこの神崎(神崎酒造蔵)にあり、成田山新勝寺の前に店を出していた。(清酒「仁勇・不動」)
酒造蔵見学もできるようです。

駐車場からの参道です。こちらは車がはいれるようになっているのでしょう。

昨日紹介した狛犬のいる階段手前にある境内社「三峯神社」です。
さて、この神崎町は千葉県香取郡ですが、利根川が県境になっています。
そのため橋を渡るとそこは茨城県になります。
すぐそばに十三間戸(じゅうさんまど)という地名が、川のこちら側と向こう側にあります。
これは利根川の流れを変えた時に町が分断されてしまったようです。
茨城県側は河内町となっていますが、この河内町昔の地域として千葉県(下総国)だったところと常陸国だったところが混在しているようです。
どうやら県境がこのあたりで行ったり来たりしています。
十三間戸という変わった名前が気になりますが、ここには室町時代の仏像が残されています。
また「間戸(まど)」は今の窓の意味で、日本は昔は柱の間を仕切るのは格子戸や襖戸などで仕切っていました。
十三間戸というと、十三の仕切られた部屋が連なる長屋風の建物があったのではないかと名前からは想像されます。
室町時代に奈良に鎌倉時代に作られた北山十八間戸(けんと)がありますが、これはハンセン病(ライ病)患者をここに隔離して救済するための施設でした。
何か関係しているのか?
今のところ全くわかりません。また調べてわかったら報告したいと思います。


大戸神社(香取市)
鹿島神宮には元鹿島と言われる古社「大生(おおう)神社」を紹介しましたので、今度は香取神宮です。
香取神宮に対しての古社として考えられるのは「側高(そばたか)神社」と今回紹介する香取市にある古社「大戸神社」だと思う。
ここを訪れたのは、昨年12月半ばです。忘れないうちに記事を残しておかないとわからなくなってしまいます。
大戸神社は成田線の大戸駅に近く、香取神宮の5kmほど西。 佐原の町が真ん中にある。
または、香取神宮から見ると東に息栖神社が有り、西にあるのがこの大戸神社がある。
これも見方を変えれば何とでも読めるが、かなりの古社である。
祭神は天の岩戸をこじ開けた「天手力男命」。創建は日本武尊が東征時に戦勝を祈願して建てたとされる。
明治6年に県社に列せられた。
香取神宮の第一末社であった。
しかし、神主、大禰宜なども別々にいて、領域を区別して取り仕切っていたようです。

神社のある大戸はのんびりとした田舎町だが、古代の歴史を感じさせてくれる佇まいを見せる。
上の写真は神社の入口にある民家の柿の木。


拝殿前の御神木の杉の木は樹齢600年ほどと言われています。



スタジイの大木。

拝殿です。
正応2年(1289)、明徳4年(1396)、寛文4年(1665)に社殿を造営したことが記録にあり、現在の社殿は宝永4年(1707)に徳川将軍綱吉によって改築されたものと伝えられています。
江戸時代には香取神宮の御朱印地1,000石の内から100石を分配されていたという。

かつては祭事も年間45回も行われていた記録があります。
明治中期に奉納された大絵馬2枚。

天の岩戸神話をあらわしたもの

宝物殿です。この神社の特徴とも言える県指定有形文化財「羅龍王面」「納曽利面」などの特徴ある古面が伝わって残されています。
「羅龍王面」は嘉歴3年(1328)3月在銘があります。
また和鏡3面(鎌倉、室町時代)、千葉県の伝世品で最古と考えられる「籠目太刀(かごめのたち)」1口などがあります。


(大戸神社HPより借用)上が「羅龍王面(らりょうおうめん)」、下が「納曽利面(なそりめん)」。
ともに鎌倉時代の作とされ舞楽に用いられたもの。

本殿です。

神楽殿です。
拝殿手前の建屋にこのような神輿がガラス越しに見えました。
元禄十五年(1703)8月の銘がある神輿です。
この神楽の奥から昭和63年に刀剣が発見され、平安時代末期のころのものと切られているそうです。

境内末社18座(道祖神三社・浅間神社二社・水神大神・高房神社・白幡神社・稲荷大神二社・大天神社・側高神社・神明神社・豊受皇大神宮・日大神社・疱瘡神社・足尾神社・日吉神社)


「縁結夫婦杉」
この下が繋がった夫婦杉は香取神宮にもあったし、側高(そばたか)神社にもあったような気がする。
さて、香取神宮はタケミカヅチと同様に武人である経津主(ふつぬす)大神を祀る。
こちらの神もやはり春日大社(藤原氏=中臣氏)にも祀られている。
鹿島神宮のタケミカヅチが多氏一族であったが、この香取神宮のフツヌシは物部氏だ。
するとこの大戸神社は? これはもう二つは融合してしまったのか?
ヤマトタケルが建てたというのだ。
まだまだわからないことが多い神社です。またゆっくりと調べていくのも楽しいかもしれません。
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香取神宮に対しての古社として考えられるのは「側高(そばたか)神社」と今回紹介する香取市にある古社「大戸神社」だと思う。
ここを訪れたのは、昨年12月半ばです。忘れないうちに記事を残しておかないとわからなくなってしまいます。
大戸神社は成田線の大戸駅に近く、香取神宮の5kmほど西。 佐原の町が真ん中にある。
または、香取神宮から見ると東に息栖神社が有り、西にあるのがこの大戸神社がある。
これも見方を変えれば何とでも読めるが、かなりの古社である。
祭神は天の岩戸をこじ開けた「天手力男命」。創建は日本武尊が東征時に戦勝を祈願して建てたとされる。
明治6年に県社に列せられた。
香取神宮の第一末社であった。
しかし、神主、大禰宜なども別々にいて、領域を区別して取り仕切っていたようです。

神社のある大戸はのんびりとした田舎町だが、古代の歴史を感じさせてくれる佇まいを見せる。
上の写真は神社の入口にある民家の柿の木。


拝殿前の御神木の杉の木は樹齢600年ほどと言われています。



スタジイの大木。

拝殿です。
正応2年(1289)、明徳4年(1396)、寛文4年(1665)に社殿を造営したことが記録にあり、現在の社殿は宝永4年(1707)に徳川将軍綱吉によって改築されたものと伝えられています。
江戸時代には香取神宮の御朱印地1,000石の内から100石を分配されていたという。

かつては祭事も年間45回も行われていた記録があります。
明治中期に奉納された大絵馬2枚。

天の岩戸神話をあらわしたもの

宝物殿です。この神社の特徴とも言える県指定有形文化財「羅龍王面」「納曽利面」などの特徴ある古面が伝わって残されています。
「羅龍王面」は嘉歴3年(1328)3月在銘があります。
また和鏡3面(鎌倉、室町時代)、千葉県の伝世品で最古と考えられる「籠目太刀(かごめのたち)」1口などがあります。


(大戸神社HPより借用)上が「羅龍王面(らりょうおうめん)」、下が「納曽利面(なそりめん)」。
ともに鎌倉時代の作とされ舞楽に用いられたもの。

本殿です。

神楽殿です。
拝殿手前の建屋にこのような神輿がガラス越しに見えました。
元禄十五年(1703)8月の銘がある神輿です。
この神楽の奥から昭和63年に刀剣が発見され、平安時代末期のころのものと切られているそうです。

境内末社18座(道祖神三社・浅間神社二社・水神大神・高房神社・白幡神社・稲荷大神二社・大天神社・側高神社・神明神社・豊受皇大神宮・日大神社・疱瘡神社・足尾神社・日吉神社)


「縁結夫婦杉」
この下が繋がった夫婦杉は香取神宮にもあったし、側高(そばたか)神社にもあったような気がする。
さて、香取神宮はタケミカヅチと同様に武人である経津主(ふつぬす)大神を祀る。
こちらの神もやはり春日大社(藤原氏=中臣氏)にも祀られている。
鹿島神宮のタケミカヅチが多氏一族であったが、この香取神宮のフツヌシは物部氏だ。
するとこの大戸神社は? これはもう二つは融合してしまったのか?
ヤマトタケルが建てたというのだ。
まだまだわからないことが多い神社です。またゆっくりと調べていくのも楽しいかもしれません。


そばたか神社(1)-側高神
側高神社(そばたかじんじゃ)という変わった名前の神社が香取神宮の北東(鬼門)の位置にある。
場所は国道356号(利根水郷ライン)が東関東自動車道が上を通る場所(佐原サービスエリア)の近くである。
ここが香取神宮の第一摂社であり、香取神宮と密接なつながりはあるはずであるが、どうも我には神宮の鬼門の位置にあるにもかかわらずそっぽを向いているように感じるのは考えすぎなのか?
この神社のことは1月号の会報「ふるさと風」に書いた。写真を載せていないので改めてこちらにも書かせていただくことにした。
「そばたか」という名前の神社は、調べただけで千葉県14ヶ所、茨城県3ヶ所、埼玉県2ヶ所のみだ。
その他の県には見当たらない。
漢字は「側高」「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」などまちまちである。それらの中心となっているのが香取市大倉にあるこの側高神社である。
私が興味を持ったのは、この神社の神様は昔は長いあいだ名前が秘匿とされていたというのだ。
今では「側高大神」となっている。

神社の入口に「國土浄化の祖神」という大きな看板が掲げられています。
創建は神武天皇18年。これは香取神宮と同じ年である。
日本の歴史もこの年代は紀元前になるが、これをまともに信じる人も今では少ないでしょう。
ここを訪れたのは昨年12月のはじめです。写真が古くなってしまい季節感がありません。

鬱蒼とした森の中に神社へ上り階段があります。

階段を上ったところに手水舎、鳥居、古木の先に神社の拝殿が見えます。

拝殿は中に明かりが灯されており、神聖な気持ちになります。

幕につけられている紋は皇室の「桐紋」です。
これは私の中高校の時の校紋にも使われていましたので、学生帽にいつも付いていました。
今は近くの筑波大がこのマークです。

こちらが本殿です。


本殿は慶長年間(1596~1614)に造られたと考えられていますが、この説明で気になる記述があります。
この神社が香取神宮の第一摂社であるのは良いとして、建てられた場所が昔の「香取郡」と「海上郡」の境界にあると書かれています。
海上(かいじょう)郡の名前は2005年に消滅するまで使われていた郡名で、飯岡町と海上(うみかみ)町が属していました。
古代においては下海上国(しもつうなかみのくに)という大きな領域で、一部(鹿島郡の領域も入っていた)あったものが、6世紀前半に物部小事(もののべ の おごと)の活躍で、この地域に「匝瑳(そうさ)郡」が造られ、鹿島神宮・香取神宮の神域を分離したことのようだ。
香取神宮が物部氏の権力の中心として祭られたと考えると、この下総の地で少し前からいたかもしれない多氏(おおし)の一族が、この側高(そばたか)神社を建てて、香取大神の下に入る形で、全体を治める形にしたのか?
でも、多氏の一族は自分たちの神を別に祀って、その名前を秘匿として敢えて表示しなかったのではないのか。
現在残っているその他の「そばたか神社」を見るとその多くが、中世に千葉氏が自分の城内の鬼門にこの「そばたか神社」を祀ってきた経緯が読み取れるのです。
(次回に続きます)
場所は国道356号(利根水郷ライン)が東関東自動車道が上を通る場所(佐原サービスエリア)の近くである。
ここが香取神宮の第一摂社であり、香取神宮と密接なつながりはあるはずであるが、どうも我には神宮の鬼門の位置にあるにもかかわらずそっぽを向いているように感じるのは考えすぎなのか?
この神社のことは1月号の会報「ふるさと風」に書いた。写真を載せていないので改めてこちらにも書かせていただくことにした。
「そばたか」という名前の神社は、調べただけで千葉県14ヶ所、茨城県3ヶ所、埼玉県2ヶ所のみだ。
その他の県には見当たらない。
漢字は「側高」「側鷹」「脇鷹」「蘇羽鷹」「素羽鷹」「隣高」「相馬高」「祖波鷹」「蕎高」などまちまちである。それらの中心となっているのが香取市大倉にあるこの側高神社である。
私が興味を持ったのは、この神社の神様は昔は長いあいだ名前が秘匿とされていたというのだ。
今では「側高大神」となっている。

神社の入口に「國土浄化の祖神」という大きな看板が掲げられています。
創建は神武天皇18年。これは香取神宮と同じ年である。
日本の歴史もこの年代は紀元前になるが、これをまともに信じる人も今では少ないでしょう。
ここを訪れたのは昨年12月のはじめです。写真が古くなってしまい季節感がありません。

鬱蒼とした森の中に神社へ上り階段があります。

階段を上ったところに手水舎、鳥居、古木の先に神社の拝殿が見えます。

拝殿は中に明かりが灯されており、神聖な気持ちになります。

幕につけられている紋は皇室の「桐紋」です。
これは私の中高校の時の校紋にも使われていましたので、学生帽にいつも付いていました。
今は近くの筑波大がこのマークです。

こちらが本殿です。


本殿は慶長年間(1596~1614)に造られたと考えられていますが、この説明で気になる記述があります。
この神社が香取神宮の第一摂社であるのは良いとして、建てられた場所が昔の「香取郡」と「海上郡」の境界にあると書かれています。
海上(かいじょう)郡の名前は2005年に消滅するまで使われていた郡名で、飯岡町と海上(うみかみ)町が属していました。
古代においては下海上国(しもつうなかみのくに)という大きな領域で、一部(鹿島郡の領域も入っていた)あったものが、6世紀前半に物部小事(もののべ の おごと)の活躍で、この地域に「匝瑳(そうさ)郡」が造られ、鹿島神宮・香取神宮の神域を分離したことのようだ。
香取神宮が物部氏の権力の中心として祭られたと考えると、この下総の地で少し前からいたかもしれない多氏(おおし)の一族が、この側高(そばたか)神社を建てて、香取大神の下に入る形で、全体を治める形にしたのか?
でも、多氏の一族は自分たちの神を別に祀って、その名前を秘匿として敢えて表示しなかったのではないのか。
現在残っているその他の「そばたか神社」を見るとその多くが、中世に千葉氏が自分の城内の鬼門にこの「そばたか神社」を祀ってきた経緯が読み取れるのです。
(次回に続きます)
そばたか神社(2)
この「そばたか神社」は香取市大倉にある「側高神社」が中心なのですが、もう一つこの神社の特徴を象徴していると思うのが、成田空港の入口にある「側高神社」です。
こちらは成田市取香(とっこう)という地名です。
江戸時代から続く神楽「三番叟(さんばそう)」が行われることで知られています。
でもこの取香(とっこう)というのは日本の地名らしくない不自然な名前ですよね。
でもこの感じを逆さまにすると「香取」になります。
香取に逆らってもじって名付けられた地名とも言われていますので、この神社の性格を表しているのかもしれません。
さて、話を戻して、香取市にある「側高神社」の紹介をもう少し続けます。

上の写真の奥にある建物が、拝殿。 その裏手(手前の建物に隠れて見えません)に本殿があります。
本殿は昨日紹介しましたが、千葉県の有形文化財です。

境内にはいくつか境内社がありますが、この写真は「毘沙門天」となっています。

こちらは御神木の千年杉です。大きさから見ると茨城北部山間部などにある千年杉などに比べて細いですね。
境内の裏手の方に樹齢500年と書かれた夫婦杉が置かれています。
こちらは根元の部分で2本の杉が合体しています。
神社に行くと最近目にする機会が増えました。

この神社には少し変わったお祭りが伝わっています。
詳細は上の写真の説明を読んでいただければわかりますが、氏子の当番が交代する引き継ぎの時にヒゲを撫でて酒をすすめるという変わった行事です。
髭を逆さになでると、酒を三杯追加して飲むというのですから、昔も大酒飲みはいいが飲めない人は大変ですね。
私も昔は酒をよく飲みました。週末にはいつも真夜中まで飲んでいました。
しかし、肝臓も数値があまりよくないのと、あることをきっかけにほとんど飲まなくなりました。
最初は何か寂しさもありましたが、夜調べ物をしたりするには飲まないほうがいいです。
人間関係のコミュニカーションとしては付き合うこともありますが、晩酌はしていません。
先日少し飲んだだけで、ブログの更新が難しくなりました。

さて、この香取市大倉の側高神社に伝わる興味深い話を最後に載せます。
「側高神が香取神の命で、陸奥の馬を二千匹捕まえて霞ヶ浦(香取海)の浮島まで戻ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたという。そこで側高神は浦を千潮にして馬を下総に渡らせ、続いて満潮にして陸奥神が渡れないようにした。」
というのです。それぞれ神と表現されていますが、ここでは豪族と読み替えてみてください。
この頃の話は全て神話として、ヤマト王朝の豪族の長は神と書かれていますので、史実の焦点がぼやけてしまいます。
面白いのはまだ霞ヶ浦が海で海面の高さが数m高かったので、浮島(現稲敷市浮島)は潮が満ちてくると島になり、引くとまた地続きになる状態だったということが一つ。
また、馬を陸奥国から連れてきたと言っていますが、律令制の始まる頃にはこのあいだに「常陸国(現茨城県)」が入っていることです。
ですから、この話は黒坂命(くろさかのみこと)が美浦村から府中(石岡)を通って日立市(十王町)の竪破山(たつわれやま) まで攻めていった時代よりも少し前の話と考えられます。
当時は常陸国も陸奥国も区別がつかなかった蝦夷地だったのではないかと思います。
この当時は今の美浦村が「日高見国」の入口だったのでしょう。
鹿島神宮の神「タケミカヅチ」、香取神宮の神「フツヌシ」がどのような豪族の神様なのかよくわかりません。
歴史から消えてしまった物部氏、その後に台頭した藤原氏(中臣氏)などですが、それよりも前に多氏がいます。
それらの大和王朝の豪族たちが歴史を塗り替えたのか?
この側高神社を祀る「千葉氏」も桓武平氏系統の氏族とされていますが、この神社を見ると少し違うのではないかと感じています。
もちろん長い年月の間に同じような民族ですから交わってきてもおかしくありません。
区別する方が無理かも知れませんね。
明日は茨城県の「そばたか神社」を少しだけ紹介します。
← よろしければクリックお願いします。
こちらは成田市取香(とっこう)という地名です。
江戸時代から続く神楽「三番叟(さんばそう)」が行われることで知られています。
でもこの取香(とっこう)というのは日本の地名らしくない不自然な名前ですよね。
でもこの感じを逆さまにすると「香取」になります。
香取に逆らってもじって名付けられた地名とも言われていますので、この神社の性格を表しているのかもしれません。
さて、話を戻して、香取市にある「側高神社」の紹介をもう少し続けます。

上の写真の奥にある建物が、拝殿。 その裏手(手前の建物に隠れて見えません)に本殿があります。
本殿は昨日紹介しましたが、千葉県の有形文化財です。

境内にはいくつか境内社がありますが、この写真は「毘沙門天」となっています。

こちらは御神木の千年杉です。大きさから見ると茨城北部山間部などにある千年杉などに比べて細いですね。
境内の裏手の方に樹齢500年と書かれた夫婦杉が置かれています。
こちらは根元の部分で2本の杉が合体しています。
神社に行くと最近目にする機会が増えました。

この神社には少し変わったお祭りが伝わっています。
詳細は上の写真の説明を読んでいただければわかりますが、氏子の当番が交代する引き継ぎの時にヒゲを撫でて酒をすすめるという変わった行事です。
髭を逆さになでると、酒を三杯追加して飲むというのですから、昔も大酒飲みはいいが飲めない人は大変ですね。
私も昔は酒をよく飲みました。週末にはいつも真夜中まで飲んでいました。
しかし、肝臓も数値があまりよくないのと、あることをきっかけにほとんど飲まなくなりました。
最初は何か寂しさもありましたが、夜調べ物をしたりするには飲まないほうがいいです。
人間関係のコミュニカーションとしては付き合うこともありますが、晩酌はしていません。
先日少し飲んだだけで、ブログの更新が難しくなりました。

さて、この香取市大倉の側高神社に伝わる興味深い話を最後に載せます。
「側高神が香取神の命で、陸奥の馬を二千匹捕まえて霞ヶ浦(香取海)の浮島まで戻ってきたところ、陸奥の神が追跡してきたという。そこで側高神は浦を千潮にして馬を下総に渡らせ、続いて満潮にして陸奥神が渡れないようにした。」
というのです。それぞれ神と表現されていますが、ここでは豪族と読み替えてみてください。
この頃の話は全て神話として、ヤマト王朝の豪族の長は神と書かれていますので、史実の焦点がぼやけてしまいます。
面白いのはまだ霞ヶ浦が海で海面の高さが数m高かったので、浮島(現稲敷市浮島)は潮が満ちてくると島になり、引くとまた地続きになる状態だったということが一つ。
また、馬を陸奥国から連れてきたと言っていますが、律令制の始まる頃にはこのあいだに「常陸国(現茨城県)」が入っていることです。
ですから、この話は黒坂命(くろさかのみこと)が美浦村から府中(石岡)を通って日立市(十王町)の竪破山(たつわれやま) まで攻めていった時代よりも少し前の話と考えられます。
当時は常陸国も陸奥国も区別がつかなかった蝦夷地だったのではないかと思います。
この当時は今の美浦村が「日高見国」の入口だったのでしょう。
鹿島神宮の神「タケミカヅチ」、香取神宮の神「フツヌシ」がどのような豪族の神様なのかよくわかりません。
歴史から消えてしまった物部氏、その後に台頭した藤原氏(中臣氏)などですが、それよりも前に多氏がいます。
それらの大和王朝の豪族たちが歴史を塗り替えたのか?
この側高神社を祀る「千葉氏」も桓武平氏系統の氏族とされていますが、この神社を見ると少し違うのではないかと感じています。
もちろん長い年月の間に同じような民族ですから交わってきてもおかしくありません。
区別する方が無理かも知れませんね。
明日は茨城県の「そばたか神社」を少しだけ紹介します。


そばたか神社(3)-側鷹神社(行方市)
今日テレビを見ていたら、前から気になるコマシャルが流れた。トップバリューの「骨のない魚」だ。
子供が魚嫌いなのは骨があるからだと若い子育て世代のママたちを煽っている。
見ていてとても気分が悪くなってくる。そんな気になるのは私くらいなのだろうか。
魚の骨を取る方法が機械化されたならともかく、人件費の安い東南アジアや中国で手作業で骨をとっている。
これって明らかにおかしいよ。
そんな人手をかけて骨を抜いた魚を食べている日本人ってどんな風に見られているのだろう。
そっちの方が気になる。
病院食やお年寄りの方の食事に骨なし魚を使うのならまだ許せるが、若い主婦相手のコマーシャルだから余計に気になってしまう。
日本人も生活が豊かになったものだ。
この借金大国で何時国債が暴落するかわからない。
本当に心配しなければならない時が近づいているのかもしれない。
まあ、ちょっと大げさかな。
さて、今日は2日前まで書いてきた「そばたか神社」でも茨城県にある「そばたか神社」を紹介します。
三社ありますが、その中でも最も特異な神社は行方市小高にある「側鷹神社」です。
常陸国風土記の行方郡に
「郡より南へ七里のところに、男高(をだか)の里がある。昔、この地に住んでゐた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれています。
この小高という地名は小高という佐伯の名前から付いたとなっています。
佐伯というのは蝦夷人のことです。
この行方地方は4~5世紀頃?順にヤマト人に制圧されていった時に、一番後の方にヤマト(話では日本武尊)によって平定されたと考えられます。
それと、鯨岡という地名もありますが、これは鯨が霞ヶ浦が海であった時にこの浜辺に打ち上げられたのだそうです。
霞ヶ浦にも昔は鯨が泳いでいたのでしょうか?
でもわざわざ風土記に書くくらいですから、8世紀にはもういなかったのかもしれません。
さて、この風土記に出てくる「香取の神の社」というのが、今回紹介する「側鷹神社」と言われているところです。
すなわち、風土記が書かれた8世紀初めにはすでに香取の神を祀る神社として存在していたことになります。

神社は小高小学校のすぐ南側にあります。あまり車の多く通る道でもありませんが、ちゃんとした道路沿いに鎮座しています。
鬱蒼とした木々が茂る一角にあります。

大きな鳥居と広い参道が奥の拝殿につながっています。

神社の入口近くに掲げられていた説明板です。意味深な?書き方ですね。
香取神宮に祀られているフツヌシが、霞ヶ浦(流れ海)を越えて、この地よりも東に向け軍を進めたのでしょうか。
物部のフツヌシがこの鹿島の地に近い常陸国にやってきたのでしょうか?

こちらが拝殿です。質素な造りです。
でも千葉県香取市大倉の側高神社を見てきた感想から、この神社を眺めてみると、ここに掲げられた「香取の神子」という表現は少し違和感があります。

境内にはかなりの年代を経たと思われる古木があります。 写真の奥に映るのは神社の本殿です。
先に述べたように、香取の神(フツヌシ=物部?)の下に組み込まれたソバタカ神=多氏?=千葉氏の先祖?の一部がここにいた蝦夷人を平定してこの地に住んだ。
そして自らの神をここに祀ったのだと考えても良いのではないでしょうか。
でもそれは、当時の常陸国風土記では香取の神の子供(分神)と表現されていたとしたら・・・・。

これが本殿です。
この神社の周りにその痕跡を探して地図を開いてみました。
側鷹神社を東北の鬼門に祀っていたとしたら、一族の城、住居のあったと思われる場所がありました。
この神社から南西方向に「皇徳寺」という寺がありますが、その裏山に「皇徳寺古墳群」があるのです。
きっとこのあたりにこの側鷹神社を祀っていた部族が住んでいたのではないかと思われます。
これは考古学的な根拠もありませんので、あくまで推論です。
でもそうとでも考えないと、この地に「そばたか神社」がある理由がわからないのです。

境内にはいくつかの境内社があります。
上の写真は「大山阿夫利(あふり)神社」です。神奈川県伊勢原市の神社の分霊でしょうか。
このへんではあまり見かけない気がします。
江戸時代に大山に参詣する講が盛んに行われていたようなので、その頃のものかもしれません。

こちらが御神木です。かなり大きな古い木です。


こちらの神社のすぐ北に行方(なめがた)市立小高小学校がありました。
今も建物は立派に残っていますが、学校は昨年春に廃校になりました。
このように立派な建物が活用されずに、各地で廃校が進んでいます。
有効利用をぜひ考えていただきたいですね。
石岡の朝日里山学校のような観光施設として活用する方法もありますが、このような場所ではそれよりもトマトやキノコなどの栽培プラントなどに活用する道がないのでしょうか。
今は土植えでなくとも、水耕栽培など工場設備のような場所に活用し、屋上は太陽熱パネルを並べるというような本格的な利用法を全国レベルで考えていただきたいものです。

その他の茨城県の「そばたか神社」は、浮島の製塩土器の発掘された広畑貝塚のすぐ上に「脇鷹神社」があります。もう一箇所は河内町金江津の利根川の茨城県側の岸に「側高神社」があります。
これらはどちらも恐らく香取市大倉の「側高神社」から分霊されたものと思われます。
近くに千葉氏に関わる氏族が住んでいたのかもしれません。
これらはどちらも下総国から利根川渡ったすぐ近くです。
なんとなく下総国と常陸国とは少し民族的な違いがありそうです。
常陸国風土記の信太郡のところに
「昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふ つ)の大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。(略)
諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」(口訳・常陸国風土記)
と書かれている表現がわかってきそうに思われます。

上の写真は浮島の側鷹神社ですが、あまり神社という形をなしていません。
広場に「弘法大師逆さ杖」という看板がありました。
説明によれば、弘法大師が巡錫の途次、ここで休憩し杖を逆さにさしたまま忘れていった。
その杖から芽が出て無花果(いちじく)の木になった。
という伝説が残されていると書かれていました。
← よろしければクリックお願いします。
子供が魚嫌いなのは骨があるからだと若い子育て世代のママたちを煽っている。
見ていてとても気分が悪くなってくる。そんな気になるのは私くらいなのだろうか。
魚の骨を取る方法が機械化されたならともかく、人件費の安い東南アジアや中国で手作業で骨をとっている。
これって明らかにおかしいよ。
そんな人手をかけて骨を抜いた魚を食べている日本人ってどんな風に見られているのだろう。
そっちの方が気になる。
病院食やお年寄りの方の食事に骨なし魚を使うのならまだ許せるが、若い主婦相手のコマーシャルだから余計に気になってしまう。
日本人も生活が豊かになったものだ。
この借金大国で何時国債が暴落するかわからない。
本当に心配しなければならない時が近づいているのかもしれない。
まあ、ちょっと大げさかな。
さて、今日は2日前まで書いてきた「そばたか神社」でも茨城県にある「そばたか神社」を紹介します。
三社ありますが、その中でも最も特異な神社は行方市小高にある「側鷹神社」です。
常陸国風土記の行方郡に
「郡より南へ七里のところに、男高(をだか)の里がある。昔、この地に住んでゐた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。」(口訳・常陸国風土記より)
と書かれています。
この小高という地名は小高という佐伯の名前から付いたとなっています。
佐伯というのは蝦夷人のことです。
この行方地方は4~5世紀頃?順にヤマト人に制圧されていった時に、一番後の方にヤマト(話では日本武尊)によって平定されたと考えられます。
それと、鯨岡という地名もありますが、これは鯨が霞ヶ浦が海であった時にこの浜辺に打ち上げられたのだそうです。
霞ヶ浦にも昔は鯨が泳いでいたのでしょうか?
でもわざわざ風土記に書くくらいですから、8世紀にはもういなかったのかもしれません。
さて、この風土記に出てくる「香取の神の社」というのが、今回紹介する「側鷹神社」と言われているところです。
すなわち、風土記が書かれた8世紀初めにはすでに香取の神を祀る神社として存在していたことになります。

神社は小高小学校のすぐ南側にあります。あまり車の多く通る道でもありませんが、ちゃんとした道路沿いに鎮座しています。
鬱蒼とした木々が茂る一角にあります。

大きな鳥居と広い参道が奥の拝殿につながっています。

神社の入口近くに掲げられていた説明板です。意味深な?書き方ですね。
香取神宮に祀られているフツヌシが、霞ヶ浦(流れ海)を越えて、この地よりも東に向け軍を進めたのでしょうか。
物部のフツヌシがこの鹿島の地に近い常陸国にやってきたのでしょうか?

こちらが拝殿です。質素な造りです。
でも千葉県香取市大倉の側高神社を見てきた感想から、この神社を眺めてみると、ここに掲げられた「香取の神子」という表現は少し違和感があります。

境内にはかなりの年代を経たと思われる古木があります。 写真の奥に映るのは神社の本殿です。
先に述べたように、香取の神(フツヌシ=物部?)の下に組み込まれたソバタカ神=多氏?=千葉氏の先祖?の一部がここにいた蝦夷人を平定してこの地に住んだ。
そして自らの神をここに祀ったのだと考えても良いのではないでしょうか。
でもそれは、当時の常陸国風土記では香取の神の子供(分神)と表現されていたとしたら・・・・。

これが本殿です。
この神社の周りにその痕跡を探して地図を開いてみました。
側鷹神社を東北の鬼門に祀っていたとしたら、一族の城、住居のあったと思われる場所がありました。
この神社から南西方向に「皇徳寺」という寺がありますが、その裏山に「皇徳寺古墳群」があるのです。
きっとこのあたりにこの側鷹神社を祀っていた部族が住んでいたのではないかと思われます。
これは考古学的な根拠もありませんので、あくまで推論です。
でもそうとでも考えないと、この地に「そばたか神社」がある理由がわからないのです。

境内にはいくつかの境内社があります。
上の写真は「大山阿夫利(あふり)神社」です。神奈川県伊勢原市の神社の分霊でしょうか。
このへんではあまり見かけない気がします。
江戸時代に大山に参詣する講が盛んに行われていたようなので、その頃のものかもしれません。

こちらが御神木です。かなり大きな古い木です。


こちらの神社のすぐ北に行方(なめがた)市立小高小学校がありました。
今も建物は立派に残っていますが、学校は昨年春に廃校になりました。
このように立派な建物が活用されずに、各地で廃校が進んでいます。
有効利用をぜひ考えていただきたいですね。
石岡の朝日里山学校のような観光施設として活用する方法もありますが、このような場所ではそれよりもトマトやキノコなどの栽培プラントなどに活用する道がないのでしょうか。
今は土植えでなくとも、水耕栽培など工場設備のような場所に活用し、屋上は太陽熱パネルを並べるというような本格的な利用法を全国レベルで考えていただきたいものです。

その他の茨城県の「そばたか神社」は、浮島の製塩土器の発掘された広畑貝塚のすぐ上に「脇鷹神社」があります。もう一箇所は河内町金江津の利根川の茨城県側の岸に「側高神社」があります。
これらはどちらも恐らく香取市大倉の「側高神社」から分霊されたものと思われます。
近くに千葉氏に関わる氏族が住んでいたのかもしれません。
これらはどちらも下総国から利根川渡ったすぐ近くです。
なんとなく下総国と常陸国とは少し民族的な違いがありそうです。
常陸国風土記の信太郡のところに
「昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふ つ)の大神といひ、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。(略)
諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。」(口訳・常陸国風土記)
と書かれている表現がわかってきそうに思われます。

上の写真は浮島の側鷹神社ですが、あまり神社という形をなしていません。
広場に「弘法大師逆さ杖」という看板がありました。
説明によれば、弘法大師が巡錫の途次、ここで休憩し杖を逆さにさしたまま忘れていった。
その杖から芽が出て無花果(いちじく)の木になった。
という伝説が残されていると書かれていました。


多田朝日森稲荷神社(香取市)(1)
先日このブログの読者に教えていただいた「多田朝日森神社」を紹介します。
先日また銚子に行ったのですが、その途中で立寄ってきました。
佐原インターチェンジのすぐ近くで。佐原と小見川の中間くらいの場所です。
行ってみてまず驚く事は鳥居の数が多いことです。
確かに1000本鳥居といわれる程鳥居の数の多い稲荷神社の総本山の伏見稲荷大社程ではないのですが、赤い木の鳥居がたくさん並んでいるのは圧巻です。

神社に書かれていた説明書きによれば、
この神社は綱原千軒といわれた大集落の守護神として「加室稲荷神社」として祀られていた(古老の伝承)が、1351年に朝廷の命により一夜にして焼き討ちされ、住民は四散した。
その後多田地区に移っていた住民が1749年に多田村西地区に「多田の西稲荷神社」として伏見稲荷の勧請を受けて再建され、その後1854年に朝日のいずる現在の地(朝日の森)に遷座されたという。

名前が「多田朝日森稲荷神社」となったのは比較的新しいようで、多田村の西から朝日の森に移ったことで多田朝日森稲荷となったのではないかと考えます。
最初にこの名前を聞いた時は長ったらしい名前で謂れを知りたくなったのですが、この程度しか考えられませんでした。
やはり森の鎮守の神様ですね。

石の鳥居の先にたくさんの木の奉納鳥居がびっしり三列か四列連なっています。

木の鳥居は数年で朽ちてしまう為にまた建て変えられます。
ほとんどの鳥居に奉納者、町名の他に寄進した年が印されています。
そしてそこに初午(ハツウマ)(2月の最初の午の日)=稲荷祭 が記されています。

神社の森の片隅には役目を終えた鳥居がたくさん並べられていました。

明日にもう少し続きます。
← よろしければクリックお願いします。
先日また銚子に行ったのですが、その途中で立寄ってきました。
佐原インターチェンジのすぐ近くで。佐原と小見川の中間くらいの場所です。
行ってみてまず驚く事は鳥居の数が多いことです。
確かに1000本鳥居といわれる程鳥居の数の多い稲荷神社の総本山の伏見稲荷大社程ではないのですが、赤い木の鳥居がたくさん並んでいるのは圧巻です。

神社に書かれていた説明書きによれば、
この神社は綱原千軒といわれた大集落の守護神として「加室稲荷神社」として祀られていた(古老の伝承)が、1351年に朝廷の命により一夜にして焼き討ちされ、住民は四散した。
その後多田地区に移っていた住民が1749年に多田村西地区に「多田の西稲荷神社」として伏見稲荷の勧請を受けて再建され、その後1854年に朝日のいずる現在の地(朝日の森)に遷座されたという。

名前が「多田朝日森稲荷神社」となったのは比較的新しいようで、多田村の西から朝日の森に移ったことで多田朝日森稲荷となったのではないかと考えます。
最初にこの名前を聞いた時は長ったらしい名前で謂れを知りたくなったのですが、この程度しか考えられませんでした。
やはり森の鎮守の神様ですね。

石の鳥居の先にたくさんの木の奉納鳥居がびっしり三列か四列連なっています。

木の鳥居は数年で朽ちてしまう為にまた建て変えられます。
ほとんどの鳥居に奉納者、町名の他に寄進した年が印されています。
そしてそこに初午(ハツウマ)(2月の最初の午の日)=稲荷祭 が記されています。

神社の森の片隅には役目を終えた鳥居がたくさん並べられていました。

明日にもう少し続きます。


多田朝日森稲荷神社(2)(香取市)
千葉県香取市の多田朝日森稲荷神社の続きです。
この神社の拝殿前に「日本一の眷属(きつね)」が置かれています。
まあ「大きいことはいいことだ」と言うのはどこにでもありますね。
私のいる石岡には「日本一の獅子頭」が風土記の丘公園に作られています。
これを同じに扱っては問題かもしれませんがこの狐像はあまり興味が湧きません。
狐が大きくなって少し怖い気がしますね。
そういえばフクロウ神社と言われる美和の「鷲子(とりのこ)山上神社」には巨大な黄金のフクロウ像が出来てましたね。

また、このお稲荷さんはここの地元では関東三大稲荷の一つと言うようです。
関東三大稲荷は、笠間稲荷(笠間)・装束稲荷(王子)・白笹稲荷(秦野)と言うのがどうも一般的なようですが、この稲荷ももう少し調べないとよく理解できません。
多田というのも京都にあるようだし、朝日森もあります。色々どこかでつながっているのかもわかりません。

稲荷神社拝殿内部です。
この稲荷神社の後ろにいくつか神社が置かれています。
境内社と言うには大きな神社の建物がいくつかあります。

(上の写真)稲荷神社の裏手の本殿でしょう。
そしてその先にも鳥居がいくつも並び裏手の神社につながります。

裏手の鳥居の左手の建物は「權殿(ごんでん)」と書かれています。

この權殿は稲荷神社の一部のようです。狐を祀っています。

本殿裏からこのようにまた石の鳥居と赤い木の鳥居が連なっています。(少しまばらですが)

こちらの神社は学問の神様である菅原道真公を祀っているようです。天神様です。

神社拝殿前の右手に「御神牛」の像が奉納されています。牛は道真が丑年生まれということもあり色々信仰されているようです。
お稲荷さんは初午(うま)で天神さんは牛なんですね。
二つが同じ敷地にあると少し変な気がします。
← よろしければクリックお願いします。
この神社の拝殿前に「日本一の眷属(きつね)」が置かれています。
まあ「大きいことはいいことだ」と言うのはどこにでもありますね。
私のいる石岡には「日本一の獅子頭」が風土記の丘公園に作られています。
これを同じに扱っては問題かもしれませんがこの狐像はあまり興味が湧きません。
狐が大きくなって少し怖い気がしますね。
そういえばフクロウ神社と言われる美和の「鷲子(とりのこ)山上神社」には巨大な黄金のフクロウ像が出来てましたね。

また、このお稲荷さんはここの地元では関東三大稲荷の一つと言うようです。
関東三大稲荷は、笠間稲荷(笠間)・装束稲荷(王子)・白笹稲荷(秦野)と言うのがどうも一般的なようですが、この稲荷ももう少し調べないとよく理解できません。
多田というのも京都にあるようだし、朝日森もあります。色々どこかでつながっているのかもわかりません。

稲荷神社拝殿内部です。
この稲荷神社の後ろにいくつか神社が置かれています。
境内社と言うには大きな神社の建物がいくつかあります。

(上の写真)稲荷神社の裏手の本殿でしょう。
そしてその先にも鳥居がいくつも並び裏手の神社につながります。

裏手の鳥居の左手の建物は「權殿(ごんでん)」と書かれています。

この權殿は稲荷神社の一部のようです。狐を祀っています。

本殿裏からこのようにまた石の鳥居と赤い木の鳥居が連なっています。(少しまばらですが)

こちらの神社は学問の神様である菅原道真公を祀っているようです。天神様です。

神社拝殿前の右手に「御神牛」の像が奉納されています。牛は道真が丑年生まれということもあり色々信仰されているようです。
お稲荷さんは初午(うま)で天神さんは牛なんですね。
二つが同じ敷地にあると少し変な気がします。


久保神社(香取市)
先日紹介した「府馬の大くす」と「阿玉台貝塚」の麓に近いところに気になる神社があった。
名前は「久保神社」とありふれたような名前なのだが、この久保というのはおそらくこの辺りが昔谷の窪地になっていて「窪神社」が「久保神社」になったものと思われる。
場所は窪地の少し高台となった場所だ。
創建は平安時代の長徳元年(995年)と伝えられる。
祭神は高皇産霊神で、に陰陽師の安倍晴明が諸国巡視の折、 疫病救済のために勧請したと伝えられているという。
また昔は「大六王宮」と呼ばれていたようです。
(写真はクリックすると拡大します)

案内に従って、麓の部落から狭い脇道を登ります。
でも100~200mくらいで神社前の空き地に車が止められました。




この本殿は嘉永5年(1852)の建立です。

この神社の近くに神社の別当であった光明山最勝院という寺があったそうですが、今は廃寺となり無くなったそうです。
でもこの神社と寺の両者を行き来する祭礼(神幸行列)の様子を描いた絵巻物(彩色)(香取市文化財)が残されているそうです。
神仏混合を示すものとして注目されています。
この絵巻物を見ると石岡で行われているお祭りの神幸祭で行われている供奉行列とよく似ています。
こんなものを真似したのでしょうか。
名前は「久保神社」とありふれたような名前なのだが、この久保というのはおそらくこの辺りが昔谷の窪地になっていて「窪神社」が「久保神社」になったものと思われる。
場所は窪地の少し高台となった場所だ。
創建は平安時代の長徳元年(995年)と伝えられる。
祭神は高皇産霊神で、に陰陽師の安倍晴明が諸国巡視の折、 疫病救済のために勧請したと伝えられているという。
また昔は「大六王宮」と呼ばれていたようです。
(写真はクリックすると拡大します)

案内に従って、麓の部落から狭い脇道を登ります。
でも100~200mくらいで神社前の空き地に車が止められました。




この本殿は嘉永5年(1852)の建立です。

この神社の近くに神社の別当であった光明山最勝院という寺があったそうですが、今は廃寺となり無くなったそうです。
でもこの神社と寺の両者を行き来する祭礼(神幸行列)の様子を描いた絵巻物(彩色)(香取市文化財)が残されているそうです。
神仏混合を示すものとして注目されています。
この絵巻物を見ると石岡で行われているお祭りの神幸祭で行われている供奉行列とよく似ています。
こんなものを真似したのでしょうか。
久保神社(香取市)(2)
一昨日書いた久保神社だが、こんな場所を訪れる人は少ないだろう。
大分内陸に入ったところであるし、特別な興味をそそられるようなところでもない。
もちろん神社の名前も平凡だ。それなのに何か気になる。
そこで、先日書いたこの神社にノこされている祭礼の行列絵巻を少しアーカイブからお借りして下記に示す。
絵巻を数枚に分けたものを適当につなげて見た。
パソコンで見ておられたらクリックして拡大して見てほしい。

行列の先頭は猿田彦で天狗の格好をしている。
その後ろを貴族?法螺貝を吹いているようにも見えるし、刀を差した武士かもしれない。
この辺は石岡のお祭りと変わらない。猿田彦に続くのは四神旗や祭礼委員会、氏子会長などだ。
(昔書いたこちらの記事や写真を参照)
異なるのはその後ろに僧侶の列が続く事だ。
僧侶が供奉行列をするのは行方市の西蓮寺の仏立て(常行三昧会)がある。
こちらも前に書いた(こちら)
この久保神社の行列絵巻は確かに神仏一体である。
神社は昔、神仏を分けろと命令されて神社の境内などに神宮寺を建て、神・仏を分離した。
しかし、このように祭りや儀式を一体にやっていたのかもしれない。興味深い。
そしてこう一つこの寺は「大六天宮」と呼ばれており、陰陽師の安倍晴明の話が伝わることだ。
大六天(第六天)は仏教の修行を妨げる魔王であり、他化自在天(たけじざいてん)ともいわれ、人の欲をみな吸い取ってしまう魔王だ。
織田信長が自分を第六天魔王と称したとして知られている。
Wikipediaによれば
「第六天神社は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)に祭神を変更した」
と書かれている。
この久保神社も神仏習合の性格を持つ神社として創建された第(大)六天神社が、明治の神仏分離により天照大神とともに高天原の至上神である「高皇産霊神」を祀る神社となったものと思われる。
これは牛頭天王を祀る全国の天王社(寺)(総本山は津島)の多くが、同じ祇園祭を行っている八坂神社に名前を変えて、今でも多くの街で祇園祭を行っているのと構図は同じだ。
明治の神仏分離令が結果的に廃仏毀釈となり、多くの寺が壊されてしまい、今ではその前の事が想像しづらくなってしまったため、このような今の神社で行われている供奉行列が神仏一体で行われていたのは想像できなくなっているのでしょう。
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大分内陸に入ったところであるし、特別な興味をそそられるようなところでもない。
もちろん神社の名前も平凡だ。それなのに何か気になる。
そこで、先日書いたこの神社にノこされている祭礼の行列絵巻を少しアーカイブからお借りして下記に示す。
絵巻を数枚に分けたものを適当につなげて見た。
パソコンで見ておられたらクリックして拡大して見てほしい。

行列の先頭は猿田彦で天狗の格好をしている。
その後ろを貴族?法螺貝を吹いているようにも見えるし、刀を差した武士かもしれない。
この辺は石岡のお祭りと変わらない。猿田彦に続くのは四神旗や祭礼委員会、氏子会長などだ。
(昔書いたこちらの記事や写真を参照)
異なるのはその後ろに僧侶の列が続く事だ。
僧侶が供奉行列をするのは行方市の西蓮寺の仏立て(常行三昧会)がある。
こちらも前に書いた(こちら)
この久保神社の行列絵巻は確かに神仏一体である。
神社は昔、神仏を分けろと命令されて神社の境内などに神宮寺を建て、神・仏を分離した。
しかし、このように祭りや儀式を一体にやっていたのかもしれない。興味深い。
そしてこう一つこの寺は「大六天宮」と呼ばれており、陰陽師の安倍晴明の話が伝わることだ。
大六天(第六天)は仏教の修行を妨げる魔王であり、他化自在天(たけじざいてん)ともいわれ、人の欲をみな吸い取ってしまう魔王だ。
織田信長が自分を第六天魔王と称したとして知られている。
Wikipediaによれば
「第六天神社は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)に祭神を変更した」
と書かれている。
この久保神社も神仏習合の性格を持つ神社として創建された第(大)六天神社が、明治の神仏分離により天照大神とともに高天原の至上神である「高皇産霊神」を祀る神社となったものと思われる。
これは牛頭天王を祀る全国の天王社(寺)(総本山は津島)の多くが、同じ祇園祭を行っている八坂神社に名前を変えて、今でも多くの街で祇園祭を行っているのと構図は同じだ。
明治の神仏分離令が結果的に廃仏毀釈となり、多くの寺が壊されてしまい、今ではその前の事が想像しづらくなってしまったため、このような今の神社で行われている供奉行列が神仏一体で行われていたのは想像できなくなっているのでしょう。


西蔵院(香取市大根)
昨日書いた頭白上人の入定塚はこの近くの「西蔵院」(さいぞういん)という寺の名前が書かれていた。
少し手前にこの寺があったことを思い出して佐原方向に少し戻った。

少し古そうな寺であり気にはなっていたが保育園も中にあるので見学は遠慮していたのだが・・・
やはり気になり中に入って見た。

真言宗豊山派の寺院であるが何時頃の創建なのかよく分からない。1483年の頭白上人入定とあり、第五世であるというので室町時代前期~中期か? 南北朝時代?

本堂。 なかなかどっしりとした造り。

境内に「まんまる保育園」がある。本堂の左裏手に保育園の建物がある。
境内をウロウロしていたら若い保母さんに挨拶された。

この山門をくぐってすぐ左手に古びた墓石や石造宝篋印塔が置かれている。
この中に鎌倉時代中期の板碑などがあったようだ。(こちら)
ヘンスで囲まれていて、こんな古いものがあることを知らなかったので見落としてしまった。
結構立派なものだ。下総二尊種子(二つの仏の種子を1枚にいれたもの)板碑。
ここの二尊は釈迦種子と阿弥陀種子。

これは阿弥陀堂か?

このお寺についてはもっと調べてみないとわからない。
またいつかどこかで書かれたものにお目にかかることもあるかも知れまい。
その時までお預けです。
ただネットでいろいろと検索していたら「身を清める白蛇」という面白いお話が見つかりました。(こちら)

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少し手前にこの寺があったことを思い出して佐原方向に少し戻った。

少し古そうな寺であり気にはなっていたが保育園も中にあるので見学は遠慮していたのだが・・・
やはり気になり中に入って見た。

真言宗豊山派の寺院であるが何時頃の創建なのかよく分からない。1483年の頭白上人入定とあり、第五世であるというので室町時代前期~中期か? 南北朝時代?

本堂。 なかなかどっしりとした造り。

境内に「まんまる保育園」がある。本堂の左裏手に保育園の建物がある。
境内をウロウロしていたら若い保母さんに挨拶された。

この山門をくぐってすぐ左手に古びた墓石や石造宝篋印塔が置かれている。
この中に鎌倉時代中期の板碑などがあったようだ。(こちら)
ヘンスで囲まれていて、こんな古いものがあることを知らなかったので見落としてしまった。
結構立派なものだ。下総二尊種子(二つの仏の種子を1枚にいれたもの)板碑。
ここの二尊は釈迦種子と阿弥陀種子。

これは阿弥陀堂か?

このお寺についてはもっと調べてみないとわからない。
またいつかどこかで書かれたものにお目にかかることもあるかも知れまい。
その時までお預けです。
ただネットでいろいろと検索していたら「身を清める白蛇」という面白いお話が見つかりました。(こちら)



玉田神社(香取市)1
香取市の佐原から利根水郷ライン(356号線)に沿って香取神宮の一の宮である津の宮を過ぎてしばらく行くと側高神社までいかないところの右手に玉田神社と書かれた鳥居が建っている。
前からここを通るたびに気になっていて前回も近くに車を置いて鳥居をくぐり線路を渡って見たが神社まで少し遠そうなのであきらめていた。
先日は少し時間があったので、道は狭いがこの街道沿いの鳥居を車でくぐり山の方に続く道を登って行った。
この辺りは香取神宮にも近く神宮の北東に当たる。

成田線の踏切を越えると道は山の方に登って行く。
100m程進んだところに石の仏像が何体か置かれていた。
右側の像は如意輪観音のようだ。

左側の地蔵には「文化三年 仲間二十四人 十七夜」と彫られています。
文化三年は1806年です。また十七夜は夕方6時頃出る月です。
東大寺二月堂で十七夜盆踊りがあります。
また隣は「西国十四番 寛政11年」の文字が彫られています。これは1799年です。
西国三十三寺の十四番は大津の三井寺です。
ここも如意輪観音が御本尊です。
今から200年以上前のこの辺りの信仰が偲ばれます。

線路から300mほど山の方に登って行くとようやく玉田神社の鳥居が見えてきました。
その近くに車を置いて参道を歩いていきましたが、この参道先に神社の駐車場がありました。



数十mの参道を進みます。


そして神社の入口に到着です。
この辺りは木々が美しく、社務所も完備した比較的大きな神社です。
(明日に続きます)
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前からここを通るたびに気になっていて前回も近くに車を置いて鳥居をくぐり線路を渡って見たが神社まで少し遠そうなのであきらめていた。
先日は少し時間があったので、道は狭いがこの街道沿いの鳥居を車でくぐり山の方に続く道を登って行った。
この辺りは香取神宮にも近く神宮の北東に当たる。

成田線の踏切を越えると道は山の方に登って行く。
100m程進んだところに石の仏像が何体か置かれていた。
右側の像は如意輪観音のようだ。

左側の地蔵には「文化三年 仲間二十四人 十七夜」と彫られています。
文化三年は1806年です。また十七夜は夕方6時頃出る月です。
東大寺二月堂で十七夜盆踊りがあります。
また隣は「西国十四番 寛政11年」の文字が彫られています。これは1799年です。
西国三十三寺の十四番は大津の三井寺です。
ここも如意輪観音が御本尊です。
今から200年以上前のこの辺りの信仰が偲ばれます。

線路から300mほど山の方に登って行くとようやく玉田神社の鳥居が見えてきました。
その近くに車を置いて参道を歩いていきましたが、この参道先に神社の駐車場がありました。



数十mの参道を進みます。


そして神社の入口に到着です。
この辺りは木々が美しく、社務所も完備した比較的大きな神社です。
(明日に続きます)


玉田神社(香取市)2
香取神宮の近くだし玉田神社という名前だからてっきり祭神は神話のご先祖さんだと思って来て見たら、鳥居の両側にキツネさんが・・・

また少し登ったところにまた鳥居があってここにも立派なキツネ。

上までのぼるとまさにキツネ。ここは稲荷神社です。

キツネと鳥居がたくさん。まさしく稲荷神社ですが、なぜ玉田神社というのでしょうか。
てっきり玉姫神社と同じようなところだと思っていました。

最近のキツネは狛犬のようですが、昔のキツネはどこかなまめかしいですね。
そして子キツネを連れているので母キツネですね。

赤い拝殿。

赤い本殿。

神社の祭神は「倉稲魂神」(宇迦之御魂神 ウカノミタマノカミ)。稲の神様です。
五穀豊穣祈願です。
何と彫られているかはわかりませんでした。



これは力石。
この石で力比べをしたのでしょうか。

この神社の詳しいことはわかりませんでした。
しかしこの山道の奥にこのように佇む神社は美しい木々の木漏れ日の下にありました。
どこやゆっくりと時間が過ぎて行くようです。

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また少し登ったところにまた鳥居があってここにも立派なキツネ。

上までのぼるとまさにキツネ。ここは稲荷神社です。

キツネと鳥居がたくさん。まさしく稲荷神社ですが、なぜ玉田神社というのでしょうか。
てっきり玉姫神社と同じようなところだと思っていました。

最近のキツネは狛犬のようですが、昔のキツネはどこかなまめかしいですね。
そして子キツネを連れているので母キツネですね。

赤い拝殿。

赤い本殿。

神社の祭神は「倉稲魂神」(宇迦之御魂神 ウカノミタマノカミ)。稲の神様です。
五穀豊穣祈願です。
何と彫られているかはわかりませんでした。



これは力石。
この石で力比べをしたのでしょうか。

この神社の詳しいことはわかりませんでした。
しかしこの山道の奥にこのように佇む神社は美しい木々の木漏れ日の下にありました。
どこやゆっくりと時間が過ぎて行くようです。



道の駅くりもと
千葉県香取市の旧栗源(くりもと)町沢に2001年に誕生した「道の駅くりもと」に立ち寄った。
茨城の方にいるとおそらく、なかなか立ち寄る機会もない場所にある。
栗源町は2006年に香取市となったが、合併前も人口は5000人ほどの町であった。
栗源の名前は明治22年に近隣の7村が合併して「栗源村」となったことによるが、やはりここを流れる「栗山川」の上流(源)になることから付けられたものだろう。
「栗」は木の実の栗と思いがちだが、くり=句麗 から来ていると考える説が強い。
この川の川流域からは古代の丸木舟や古墳など数多くの遺跡が見つかっている。
九十九里の屋形(横芝光町)に上陸した古代人たちはこの栗山川を巧みに舟を操って、上流へと進んで行った。
従って、この栗源町は佐原が中心の香取市というよりも多古町などと同じイメージを感じる。

この道の駅はそれ程大きな駅とは言えない。

売店は地元産の米、野菜やお菓子などが置かれていて、地元の方たちの買い物スーパーのような感じだ。
価格もそれほど安いと言う感じではない。
すぐ近くにコンビニ「セブンイレブン」がある。

しかし、この道の駅の特色は何と言っても地元特産の「さつまいも」である。
入口付近に別コーナーがあり、山の様に数種類のサツマイモが積み重ねられていた。
価格も安い。

この道の駅の愛称が「紅小町の郷」であった。
私は最初「紅小町」がサツマイモの種類の名前だとは知らなかった。
小野小町伝説でもあるかなどとまったく的外れな想像をしていた。
ここは焼き芋用サツマイモの生産では日本一ともいわれる地域で、特にこの紅小町はこの旧栗源町でしかつくられていないとかか。
1袋200円前後で店内の他の野菜などに比べて格段に安い。
毎年秋に「栗源のふるさといも祭り」が近くの「日本一の焼きいも広場」で行なわれ、紅小町の焼き芋が無料で食べられる。
総量5トンの焼き芋を150か所で、前夜から籾がらを一晩かけて焼いた「すくも」の中にベニコマチを入れて、2時間かけて焼くのだそうです。
今年は11月20日に予定されています。
いも祭りも年々人気となり来場者が増え祭りを始めた頃は「すくも」は50山だったのが今では3倍の150山です。
来場時間にあわせ数回に分けて焼くようです。
また2トンの紅アズマの「ふかしいも」も無料で配布されます。
食べたくなりましたね。

道の駅ランキングでは比較的規模が小さく、それ程上位にはならない(真ん中くらい?)ようだが、特色のある駅であった。
茨城の方にいるとおそらく、なかなか立ち寄る機会もない場所にある。
栗源町は2006年に香取市となったが、合併前も人口は5000人ほどの町であった。
栗源の名前は明治22年に近隣の7村が合併して「栗源村」となったことによるが、やはりここを流れる「栗山川」の上流(源)になることから付けられたものだろう。
「栗」は木の実の栗と思いがちだが、くり=句麗 から来ていると考える説が強い。
この川の川流域からは古代の丸木舟や古墳など数多くの遺跡が見つかっている。
九十九里の屋形(横芝光町)に上陸した古代人たちはこの栗山川を巧みに舟を操って、上流へと進んで行った。
従って、この栗源町は佐原が中心の香取市というよりも多古町などと同じイメージを感じる。

この道の駅はそれ程大きな駅とは言えない。

売店は地元産の米、野菜やお菓子などが置かれていて、地元の方たちの買い物スーパーのような感じだ。
価格もそれほど安いと言う感じではない。
すぐ近くにコンビニ「セブンイレブン」がある。

しかし、この道の駅の特色は何と言っても地元特産の「さつまいも」である。
入口付近に別コーナーがあり、山の様に数種類のサツマイモが積み重ねられていた。
価格も安い。

この道の駅の愛称が「紅小町の郷」であった。
私は最初「紅小町」がサツマイモの種類の名前だとは知らなかった。
小野小町伝説でもあるかなどとまったく的外れな想像をしていた。
ここは焼き芋用サツマイモの生産では日本一ともいわれる地域で、特にこの紅小町はこの旧栗源町でしかつくられていないとかか。
1袋200円前後で店内の他の野菜などに比べて格段に安い。
毎年秋に「栗源のふるさといも祭り」が近くの「日本一の焼きいも広場」で行なわれ、紅小町の焼き芋が無料で食べられる。
総量5トンの焼き芋を150か所で、前夜から籾がらを一晩かけて焼いた「すくも」の中にベニコマチを入れて、2時間かけて焼くのだそうです。
今年は11月20日に予定されています。
いも祭りも年々人気となり来場者が増え祭りを始めた頃は「すくも」は50山だったのが今では3倍の150山です。
来場時間にあわせ数回に分けて焼くようです。
また2トンの紅アズマの「ふかしいも」も無料で配布されます。
食べたくなりましたね。

道の駅ランキングでは比較的規模が小さく、それ程上位にはならない(真ん中くらい?)ようだが、特色のある駅であった。
澤の大桜
(しばらく留守にしますので予約投稿です。コメントなどは来週返事します)
香取市沢(旧栗源町沢)の道路の真ん中に大きな桜の木(ヤマザクラ)が残されています。

道が左右に分かれその真中にあります。
隣にはコンビニ(セブンイレブン)があります。

元禄時代、眞浄寺の日櫻聖人が植樹したといわれており、樹齢300年以上ですね。
これがこの道の拡張工事で一時伐採されることとなりましたが、区民の保存会が立ちあがり、保存されることになったのだそうです。
大切なことです。
石岡でも柏原池公演前の道路の真ん中に桜並木が残されており、分離帯の役目をしています。
春には桜が楽しめて良いですね。
この場所に来たのはこの少し先にある「眞浄寺」に立ち寄るためです。
こちらはこの後紹介します。
香取市沢(旧栗源町沢)の道路の真ん中に大きな桜の木(ヤマザクラ)が残されています。

道が左右に分かれその真中にあります。
隣にはコンビニ(セブンイレブン)があります。

元禄時代、眞浄寺の日櫻聖人が植樹したといわれており、樹齢300年以上ですね。
これがこの道の拡張工事で一時伐採されることとなりましたが、区民の保存会が立ちあがり、保存されることになったのだそうです。
大切なことです。
石岡でも柏原池公演前の道路の真ん中に桜並木が残されており、分離帯の役目をしています。
春には桜が楽しめて良いですね。
この場所に来たのはこの少し先にある「眞浄寺」に立ち寄るためです。
こちらはこの後紹介します。
真浄寺(香取市沢)
もう数週間前だが香取市沢(旧栗源町)の道の駅(くりもと)や澤の山桜などを紹介しましたが、ここを訪れたのはここに「真浄寺」という古い寺があると聞いてやってきたのでした。
訪れてから3週間くらい経ってしまいましたが、記録ですので載せておきます。
先日紹介した道の駅「くりもと」から山桜の道を通ってすこし行くと寺はありました。

蓮寿山真浄寺。日蓮宗の寺院である。
しかしこの寺があの唐招提寺を建てた唐僧「鑑真和尚」が開山したとも言われている。
わかっているのは永徳元年(1381)平賀本土寺(松戸市)第9世妙高院日意上人を中興の祖としている。
戦国時代末期の天正18年(1590)矢作城が落城した時にすべて灰になったという。
その後再興された。

本堂に向かう階段の左右には立派な杉の大木が聳えている。
美和の三浦杉には及ばないが樹齢300年以上のかなり立派なものだ。

境内は立派なしだれ桜があり、古くから枝垂れ桜の名所として知られ、「房総名勝500選」に選ばれている。

本堂は元文5年(1740)の建築とされ、江戸中期には末寺24ヶ寺を有していたと言う。
また寺の庫裏も平成に建てなおしているがその前は宝暦8年(1758)の建立だったそうだ。


朱塗りの渡り廊下を背景に咲く枝垂れ桜の風景が美しいと言う。
本堂は香取市の文化財に指定されている。
訪れてから3週間くらい経ってしまいましたが、記録ですので載せておきます。
先日紹介した道の駅「くりもと」から山桜の道を通ってすこし行くと寺はありました。

蓮寿山真浄寺。日蓮宗の寺院である。
しかしこの寺があの唐招提寺を建てた唐僧「鑑真和尚」が開山したとも言われている。
わかっているのは永徳元年(1381)平賀本土寺(松戸市)第9世妙高院日意上人を中興の祖としている。
戦国時代末期の天正18年(1590)矢作城が落城した時にすべて灰になったという。
その後再興された。

本堂に向かう階段の左右には立派な杉の大木が聳えている。
美和の三浦杉には及ばないが樹齢300年以上のかなり立派なものだ。

境内は立派なしだれ桜があり、古くから枝垂れ桜の名所として知られ、「房総名勝500選」に選ばれている。

本堂は元文5年(1740)の建築とされ、江戸中期には末寺24ヶ寺を有していたと言う。
また寺の庫裏も平成に建てなおしているがその前は宝暦8年(1758)の建立だったそうだ。


朱塗りの渡り廊下を背景に咲く枝垂れ桜の風景が美しいと言う。
本堂は香取市の文化財に指定されている。
三之分目大塚山古墳(香取市小見川)
先日銚子に行く時に千葉県香取市にある「大塚山古墳」へ立ち寄りました。
場所は国道356号線のすぐ脇ですので、前にも何度もこの近くは通っていたのですが、ここにこのように大きな古墳があるのに気がつきませんでした。
FBで紹介していただいた断腸亭さんに感謝です。
この三之分目は旧小見川町で、成田線の佐原から2駅目の水郷駅から1km程東です。
このような場所に香取の海が広がっていた時に、豪族の墓があったんです。
小見川の辺りは現在の内陸の方にかなり水が入り江のように広がっていたはずです。

全長123mの前方後円墳。
5世紀中葉の築造とみられ、かなり古くて立派なものだ。
東国2位の石岡にある舟塚山古墳は全長が186mである物と比べてもそんなにそん色ない。
舟塚山古墳が5世紀後半の築造と考えられているのでこちらの方が多少早いようだ。

まわりが住宅地で囲まれてしまっているので、全貌がよくわからない。
5世紀の古墳としては
行方市の三昧塚古墳は全長86m。
水戸市の愛宕山古墳は全長136.5m
であるからこれらに匹敵する。かなりなものである。

頭頂部(後円部)への入口登り階段。両側に桜の木が植えられている。
また頂上には一般のお墓がある。

頭頂部から利根川が望める。
かなり近い距離だ。
当時の地形をみようとFlood Mapsで水面を2~3mくらい上昇させてみると、現在の国道辺りまでは香取の海に下になり、この古墳のすぐ近くまで水が迫っていたと思われる。

利根川と古墳との間の町は三之分目(さんおわけめ)という江戸時代?の開拓で一、二、三と分けた区分の最大の町が広がっている。

前方部には小さな石の祠がいくつか置かれている。
住宅がすぐ近くまで迫っている。

前方部側から後円側の頭頂部を振り返ってみた。
形が少しいびつな気がするが、これは自然のものだろう。
なかなか雄大である。
どんな人物の古墳なのだろうか?
「香取海の水上交通を制した5世紀中葉の下海上国の有力首長墓と考えられている。」とあるが・・・・。
なかなか興味が尽きそうにない。
場所は国道356号線のすぐ脇ですので、前にも何度もこの近くは通っていたのですが、ここにこのように大きな古墳があるのに気がつきませんでした。
FBで紹介していただいた断腸亭さんに感謝です。
この三之分目は旧小見川町で、成田線の佐原から2駅目の水郷駅から1km程東です。
このような場所に香取の海が広がっていた時に、豪族の墓があったんです。
小見川の辺りは現在の内陸の方にかなり水が入り江のように広がっていたはずです。

全長123mの前方後円墳。
5世紀中葉の築造とみられ、かなり古くて立派なものだ。
東国2位の石岡にある舟塚山古墳は全長が186mである物と比べてもそんなにそん色ない。
舟塚山古墳が5世紀後半の築造と考えられているのでこちらの方が多少早いようだ。

まわりが住宅地で囲まれてしまっているので、全貌がよくわからない。
5世紀の古墳としては
行方市の三昧塚古墳は全長86m。
水戸市の愛宕山古墳は全長136.5m
であるからこれらに匹敵する。かなりなものである。

頭頂部(後円部)への入口登り階段。両側に桜の木が植えられている。
また頂上には一般のお墓がある。

頭頂部から利根川が望める。
かなり近い距離だ。
当時の地形をみようとFlood Mapsで水面を2~3mくらい上昇させてみると、現在の国道辺りまでは香取の海に下になり、この古墳のすぐ近くまで水が迫っていたと思われる。

利根川と古墳との間の町は三之分目(さんおわけめ)という江戸時代?の開拓で一、二、三と分けた区分の最大の町が広がっている。

前方部には小さな石の祠がいくつか置かれている。
住宅がすぐ近くまで迫っている。

前方部側から後円側の頭頂部を振り返ってみた。
形が少しいびつな気がするが、これは自然のものだろう。
なかなか雄大である。
どんな人物の古墳なのだろうか?
「香取海の水上交通を制した5世紀中葉の下海上国の有力首長墓と考えられている。」とあるが・・・・。
なかなか興味が尽きそうにない。
水郷駅
水郷と言うと茨城県に住んでいるとどうしても潮来辺りを思い浮かべます。
しかし、千葉県側では佐原や利根川と常陸利根川の間の地域などを思い浮かべるのかもしれません。
成田線で佐原から銚子の方に向かって2つ目の駅が「水郷駅」となっています。(佐原-香取-水郷・・・・・・・)
先日この辺りで最も大きな古墳「三之分目大塚山古墳」を見物する前に、目印となる「水郷駅」に行って見た。

とてもかわいいモダンな感じの駅舎だった。
線路は単線でローカルな駅ではあるがもう大分前から無人駅っとなっている。
現在の駅舎は平成5年に立て替えられたそうだ。
水郷の名前の由来はWikipediaによると、建設当時2つの村(豊浦村・大倉村)の境界に駅が作られることになり、協議の結果観光地として名前が知られていた「水郷」となったそうだ。
しかしここから渡し船が出ているわけでもなくイメージではスッキリしない。

駅舎と一体となって隣に「小見川ふれあいセンター」が置かれているが、この日は扉が閉まったままであった。

駅の横の「やさしさの小径」にはに「少女の想い出」という像が置かれている。
他にもいくつかこの小径には子供の像があるようだ。(見なかったが・・・)

童謡詩人「三越左千夫(みつこしさちお)」(童謡・童詩誌「きつつき」を主宰、童話集に「あの町この町,日が暮れる」などがある)がこの近くで生まれたことによるのかもしれない。
しかし、千葉県側では佐原や利根川と常陸利根川の間の地域などを思い浮かべるのかもしれません。
成田線で佐原から銚子の方に向かって2つ目の駅が「水郷駅」となっています。(佐原-香取-水郷・・・・・・・)
先日この辺りで最も大きな古墳「三之分目大塚山古墳」を見物する前に、目印となる「水郷駅」に行って見た。

とてもかわいいモダンな感じの駅舎だった。
線路は単線でローカルな駅ではあるがもう大分前から無人駅っとなっている。
現在の駅舎は平成5年に立て替えられたそうだ。
水郷の名前の由来はWikipediaによると、建設当時2つの村(豊浦村・大倉村)の境界に駅が作られることになり、協議の結果観光地として名前が知られていた「水郷」となったそうだ。
しかしここから渡し船が出ているわけでもなくイメージではスッキリしない。

駅舎と一体となって隣に「小見川ふれあいセンター」が置かれているが、この日は扉が閉まったままであった。

駅の横の「やさしさの小径」にはに「少女の想い出」という像が置かれている。
他にもいくつかこの小径には子供の像があるようだ。(見なかったが・・・)

童謡詩人「三越左千夫(みつこしさちお)」(童謡・童詩誌「きつつき」を主宰、童話集に「あの町この町,日が暮れる」などがある)がこの近くで生まれたことによるのかもしれない。