四つの佐志能神社(1)
石岡市の龍神山の中腹と麓に佐志能(さしのう)神社という古い神社があります。
石岡の方はよくご存知のようですが、二つの佐志能神社として歴史的にも話題となることがよくあります。
歴史の好きな方の興味も多いようですが、その説明をこんなブログで展開するつもりもありません。
今回はこの二箇所を含め、四箇所の佐志能神社があることを紹介したいと思います。

石岡市の龍神山の麓に2箇所。そして旧八郷の柿岡の近くに1箇所。
それと笠間の昔の城跡の山の上にあります。
皆山の中腹や上にあるので山の神を祀っている神社を呼ぶのだと思っていましたが、これは少しちがいそうです。
一つづつ見ていきながら何か感じたりわかってくることもあるかもしれません。
まず石岡の龍神山の中腹にある佐志能神社を先日久しぶりに訪れましたので紹介します。
「染谷佐志能神社」と言われるところです。

風土記の丘公園から少し行ったところにあります。
もう訪れたのは1ヶ月くらい前です。
記事が遅れてしまいましたが、何を書いて良いか迷ってしまっていました。
そう、何か書いてやろうなんて少し肩に力が入ってしまって書けませんでした。
わからないので、ともかくそのまま感じたことを載せておくだけで良いと思い直したのです。
風土記の丘の方からは参道の桜並木を進むと、山への登り口に鳥居が立っています。

入口に置かれた説明版です。
もう一つの村上佐志能神社は明日紹介しますが、二つは元々は一つだったのが、祀っていた村が二つに分かれたので神社も二つ別々になったようです。
そして共に雨乞いの龍神を祀っています。こちらの染谷は高靇(おかみ)神(雌龍)、村上が闇靇(おかみ)神(雄龍)を祀っています。
「おかみ:靇」という字は雨かんむりに龍です。
創建ははっきりしていませんがかなり古いことは確かで、こちらの社殿は文久二年(1862)に消失したと言われています。
こちらの神社に伝わる染谷十二座神楽は石岡市の有形民族文化財ですが、毎年9月の石岡のおまつりの時にも中日に総社宮でも披露されます。
なかなか面白いものだと思います。
地元の小学生が毎年巫女役に選ばれますが、とても可愛らしいです。(ブログでも前に紹介しました)

こちらの手水に水は山から湧き出す水を引いていたはずなのですが、水がほとんど流れていません。
雨乞いの山がいまは削られて泣いています。
特に村上・染谷地区の地下は硬い岩盤で緯度を掘るのも大変だったようです。
この山がもたらした水は古くから枯れることもなく人々の生活を潤してきました。
この水の元を止めてしまっては石岡は枯れてしまったような気になります。
この水が柏原池に流れ、山王川となって霞ヶ浦に注いでいたのでしょう。

一の鳥居からしばらく山道を進んだところに二の鳥居があります。
ここから石段で急坂になります。

階段を上ると、そこに岸壁にしがみつくように神社の拝殿と本殿があります。
この岩は屏風岩といわれる岩肌ですが、しめ縄も張られ岩が信仰の対象です。

この岩場の踊り場となったその向こうに、昔来た時にもう一つ舞台のような建物があったはずなのですが今はなくなっていました。
石段の途中の木も根が掘り起こされたように倒れたものもありました。
地震の影響でしょうか。


岩盤の途中に「滝水路」という石碑が置かれていました。
昭和27年に置かれたもののようですが、当然ここには滝のように水が流れていたように思います。
今は水はありません。

上の写真は、手前が本殿で、奥(右手)が拝殿です。
本殿はスレートの建屋で囲まれてしまって中を見ることができません。
きっと龍の彫刻等が施されているのではないかと思います。
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石岡の方はよくご存知のようですが、二つの佐志能神社として歴史的にも話題となることがよくあります。
歴史の好きな方の興味も多いようですが、その説明をこんなブログで展開するつもりもありません。
今回はこの二箇所を含め、四箇所の佐志能神社があることを紹介したいと思います。

石岡市の龍神山の麓に2箇所。そして旧八郷の柿岡の近くに1箇所。
それと笠間の昔の城跡の山の上にあります。
皆山の中腹や上にあるので山の神を祀っている神社を呼ぶのだと思っていましたが、これは少しちがいそうです。
一つづつ見ていきながら何か感じたりわかってくることもあるかもしれません。
まず石岡の龍神山の中腹にある佐志能神社を先日久しぶりに訪れましたので紹介します。
「染谷佐志能神社」と言われるところです。

風土記の丘公園から少し行ったところにあります。
もう訪れたのは1ヶ月くらい前です。
記事が遅れてしまいましたが、何を書いて良いか迷ってしまっていました。
そう、何か書いてやろうなんて少し肩に力が入ってしまって書けませんでした。
わからないので、ともかくそのまま感じたことを載せておくだけで良いと思い直したのです。
風土記の丘の方からは参道の桜並木を進むと、山への登り口に鳥居が立っています。

入口に置かれた説明版です。
もう一つの村上佐志能神社は明日紹介しますが、二つは元々は一つだったのが、祀っていた村が二つに分かれたので神社も二つ別々になったようです。
そして共に雨乞いの龍神を祀っています。こちらの染谷は高靇(おかみ)神(雌龍)、村上が闇靇(おかみ)神(雄龍)を祀っています。
「おかみ:靇」という字は雨かんむりに龍です。
創建ははっきりしていませんがかなり古いことは確かで、こちらの社殿は文久二年(1862)に消失したと言われています。
こちらの神社に伝わる染谷十二座神楽は石岡市の有形民族文化財ですが、毎年9月の石岡のおまつりの時にも中日に総社宮でも披露されます。
なかなか面白いものだと思います。
地元の小学生が毎年巫女役に選ばれますが、とても可愛らしいです。(ブログでも前に紹介しました)

こちらの手水に水は山から湧き出す水を引いていたはずなのですが、水がほとんど流れていません。
雨乞いの山がいまは削られて泣いています。
特に村上・染谷地区の地下は硬い岩盤で緯度を掘るのも大変だったようです。
この山がもたらした水は古くから枯れることもなく人々の生活を潤してきました。
この水の元を止めてしまっては石岡は枯れてしまったような気になります。
この水が柏原池に流れ、山王川となって霞ヶ浦に注いでいたのでしょう。

一の鳥居からしばらく山道を進んだところに二の鳥居があります。
ここから石段で急坂になります。

階段を上ると、そこに岸壁にしがみつくように神社の拝殿と本殿があります。
この岩は屏風岩といわれる岩肌ですが、しめ縄も張られ岩が信仰の対象です。

この岩場の踊り場となったその向こうに、昔来た時にもう一つ舞台のような建物があったはずなのですが今はなくなっていました。
石段の途中の木も根が掘り起こされたように倒れたものもありました。
地震の影響でしょうか。


岩盤の途中に「滝水路」という石碑が置かれていました。
昭和27年に置かれたもののようですが、当然ここには滝のように水が流れていたように思います。
今は水はありません。

上の写真は、手前が本殿で、奥(右手)が拝殿です。
本殿はスレートの建屋で囲まれてしまって中を見ることができません。
きっと龍の彫刻等が施されているのではないかと思います。


四つの佐志能神社(2)
昨日紹介した染谷佐志能神社と対になったもう一つの村上佐志能神社を紹介します。
石岡市史などによると、染谷が高龗神(たかおかみのかみ)で村上が闇龗神(くらおかみのかみ)を祀っているとある。
しかも、高龗神(染谷)は雌龍神、闇龗神(村上)は雄龍神だとある。
何か変なのだがこの神様についてはどうもよくわからない。
wikipediaによれば「龗神=淤加美神」は神話に登場する神で、日本書紀では「龗神」と書き、古事記では
「淤加美神」と書くそうです。
神話ではイザナミ(伊邪那岐神)がカグツチ(迦具土神)を斬り殺した時にその血から生まれた神とも・・・。
この辺になるとよくわからないので正確ではないです。
高は山の上であり、闇は谷間を表しているともいわれ、対の神ではありますが、雌雄の表現はどこかに危うさを感じます。
高龗神は京都の貴船神社の祭神で、奈良県吉野の丹生川上神社には上社が高龗、中社が罔象女神(みずはのめのかみ)、下社が闇龗神を祀っているようです。

こちらが村上にある佐志能神社です。こちらは山の麓で民家の途切れたところの広場に鳥居があります。
しかし、昔はこの鳥居の正面側ももっと参道が伸びていたように思います。
今は横から入るような形になっています。
初めての方は少し地図を調べていかないとわかりにくいですが、一番山側に並んでいる普通の民家をそのまま進むと自然に神社に入っていく感じです。

木々に囲まれた鳥居をくぐって正面に拝殿があります。

こちらは鳥居の手前にある湧水(御神水)のあった場所。
今ではかっての清らかな水も流れてなく、わずかに水が溜まっているのみです。
歴史がどうのこうのというのだが、この近くではまだ水も湧き出しているところもありそうなので、引いて来たらいいのになどと勝手に思ってしまった。澱んだ水では神様も喜ぶまい。

正面が拝殿です。

拝殿の裏には本殿があります。染谷の方は囲われていて見られなかったが、こちらは龍の彫り物も見ることができます。


この本殿の裏手に更に山の方に入っていくように鳥居があります。
しかし、道は特に整備されていませんので木々や岩につかまって登ることしかできませんが、山の上の方にお宮が祀られています。奥の院ということのようです。

さて、石岡の龍神山ですが、今はこんな姿です。年々左右に別れ、小さくなっていくようです。
砕石業者がこの山を削っています。
昨日みた染谷の屏風岩のように良質の石が採れるそうです。(市が以前業者に売ってしまったものです)
龍神山は昔から雨乞いをする山であったのです。その信仰の山でもあり、清らかなる水を常陸国の国府へ供給してくれるめぐみの場所でした。
そこにまた湧き出した泉には「親は諸白、子は清水」の伝説も生まれて、酒造りにも適した場所だったのです。
明日は、柿岡にある佐志能神社を紹介します。
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石岡市史などによると、染谷が高龗神(たかおかみのかみ)で村上が闇龗神(くらおかみのかみ)を祀っているとある。
しかも、高龗神(染谷)は雌龍神、闇龗神(村上)は雄龍神だとある。
何か変なのだがこの神様についてはどうもよくわからない。
wikipediaによれば「龗神=淤加美神」は神話に登場する神で、日本書紀では「龗神」と書き、古事記では
「淤加美神」と書くそうです。
神話ではイザナミ(伊邪那岐神)がカグツチ(迦具土神)を斬り殺した時にその血から生まれた神とも・・・。
この辺になるとよくわからないので正確ではないです。
高は山の上であり、闇は谷間を表しているともいわれ、対の神ではありますが、雌雄の表現はどこかに危うさを感じます。
高龗神は京都の貴船神社の祭神で、奈良県吉野の丹生川上神社には上社が高龗、中社が罔象女神(みずはのめのかみ)、下社が闇龗神を祀っているようです。

こちらが村上にある佐志能神社です。こちらは山の麓で民家の途切れたところの広場に鳥居があります。
しかし、昔はこの鳥居の正面側ももっと参道が伸びていたように思います。
今は横から入るような形になっています。
初めての方は少し地図を調べていかないとわかりにくいですが、一番山側に並んでいる普通の民家をそのまま進むと自然に神社に入っていく感じです。

木々に囲まれた鳥居をくぐって正面に拝殿があります。

こちらは鳥居の手前にある湧水(御神水)のあった場所。
今ではかっての清らかな水も流れてなく、わずかに水が溜まっているのみです。
歴史がどうのこうのというのだが、この近くではまだ水も湧き出しているところもありそうなので、引いて来たらいいのになどと勝手に思ってしまった。澱んだ水では神様も喜ぶまい。

正面が拝殿です。

拝殿の裏には本殿があります。染谷の方は囲われていて見られなかったが、こちらは龍の彫り物も見ることができます。


この本殿の裏手に更に山の方に入っていくように鳥居があります。
しかし、道は特に整備されていませんので木々や岩につかまって登ることしかできませんが、山の上の方にお宮が祀られています。奥の院ということのようです。

さて、石岡の龍神山ですが、今はこんな姿です。年々左右に別れ、小さくなっていくようです。
砕石業者がこの山を削っています。
昨日みた染谷の屏風岩のように良質の石が採れるそうです。(市が以前業者に売ってしまったものです)
龍神山は昔から雨乞いをする山であったのです。その信仰の山でもあり、清らかなる水を常陸国の国府へ供給してくれるめぐみの場所でした。
そこにまた湧き出した泉には「親は諸白、子は清水」の伝説も生まれて、酒造りにも適した場所だったのです。
明日は、柿岡にある佐志能神社を紹介します。


四つの佐志能神社(3)
石岡市の龍神山にある二つの佐志能(さしのう)神社を簡単に紹介してきましたが、歴史的な経緯は少し置いておいて石岡市の合併した旧八郷町の中心部柿岡の近くにあるもう一つの佐志能神社を紹介しましょう。
説明を書こうと思ったが時間もなく、説明が偏りそうなので敢えて、現地の写真等をそのまま載せます。

佐志能神社は山の中腹にあり、丸山古墳と共に一体が公園風になっています。
車でこの神社のところまで登れるのだが、道を知らないと少し狭い山道なので登って良いか躊躇してしまいそうです。
車の場合西側からの道が少し広くて入り易いです。
神社への入口は麓に鳥居があり石段で登るようになっていますが、あまり使われていないようです。

神社の隣に丸山古墳があり、この古墳と一体となった神社のようです。
説明では「豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)」の奥津城と書かれています。
豊城入彦命は古墳時代に東国の平定のためにやってきて戦った人物とされますが、この墳墓としてはここの丸山古墳以外にも群馬県前橋市にある総社二子山古墳などが考えられています。
初期の大和朝廷が東国に進出した時の話ですので、この辺に墓があっても不思議ではない気がします。
4世紀末~5世紀初のころの築造と書かれていますので、かなり古いものです。

佐志能神社の入口です。(山の中腹の道路からの登り口です)

神社の境内に置かれていた石仏。

本殿です。やはり囲われていてよく見ることができません。

こちらが丸山古墳の前に置かれている説明文です。こちらでは5世紀初めとなっています。

丸山古墳は全体を金網フェンスで囲っていますが、扉があり解放されていましたので、中に入って写真を撮らせていただきました。
前方後円墳です。

古墳の前方の広場に万葉歌碑が立てられています。
「庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女あづまをみなを忘れたまふな」常陸娘子
これは石岡小学校にある歌碑と一緒ですね。

この神社に行ったのは約1ヶ月前です。その頃は山ツツジが綺麗でした。
山の花はどこか可憐でいいですね。
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説明を書こうと思ったが時間もなく、説明が偏りそうなので敢えて、現地の写真等をそのまま載せます。

佐志能神社は山の中腹にあり、丸山古墳と共に一体が公園風になっています。
車でこの神社のところまで登れるのだが、道を知らないと少し狭い山道なので登って良いか躊躇してしまいそうです。
車の場合西側からの道が少し広くて入り易いです。
神社への入口は麓に鳥居があり石段で登るようになっていますが、あまり使われていないようです。

神社の隣に丸山古墳があり、この古墳と一体となった神社のようです。
説明では「豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)」の奥津城と書かれています。
豊城入彦命は古墳時代に東国の平定のためにやってきて戦った人物とされますが、この墳墓としてはここの丸山古墳以外にも群馬県前橋市にある総社二子山古墳などが考えられています。
初期の大和朝廷が東国に進出した時の話ですので、この辺に墓があっても不思議ではない気がします。
4世紀末~5世紀初のころの築造と書かれていますので、かなり古いものです。

佐志能神社の入口です。(山の中腹の道路からの登り口です)

神社の境内に置かれていた石仏。

本殿です。やはり囲われていてよく見ることができません。

こちらが丸山古墳の前に置かれている説明文です。こちらでは5世紀初めとなっています。

丸山古墳は全体を金網フェンスで囲っていますが、扉があり解放されていましたので、中に入って写真を撮らせていただきました。
前方後円墳です。

古墳の前方の広場に万葉歌碑が立てられています。
「庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女あづまをみなを忘れたまふな」常陸娘子
これは石岡小学校にある歌碑と一緒ですね。

この神社に行ったのは約1ヶ月前です。その頃は山ツツジが綺麗でした。
山の花はどこか可憐でいいですね。


四つの佐志能神社(4)
雪が積もってここ数日出かけることもないので、過去の記事などを整理していたら1年半ほど前に書いていた下書き記事が出て来た。
これはもう1年半ほど前に書いていた4回シリーズの最後にあたるのだが結局書きかけで終わってしまっていた。
前に書いた記事などを続けて読みたい方は →こちら にまとまっていますのでクリックして見て下さい。
では以下1年半前の続きです。・・・
石岡市にある佐志能神社を3箇所紹介しましたが、もう一つの笠間にある佐志能神社を紹介します。
これは2011年9月に笠間城跡をシリーズで紹介をした時、最後に紹介しております(こちら)ので同じことをまた紹介することになりますがご容赦ください。

笠間の佐白山の城跡の天守閣のあたり、山の一番高い岩の上にこの神社が祀られています。

岩場の上なので神社も地震などで危うくなりまわりに近付けなくなってしまいましたが、これももう2年以上前の事。
最近は行っていないのでどうなったであろうか。
鎌倉時代の初め、笠間の佐白山には正福寺という寺があり、百坊と呼ばれた数の僧兵を抱えていたそうです。
これが七会村(城里町)の徳蔵寺(記事はこちら)の三百坊の僧兵と争いを繰り返しておりました。
そこに宇都宮の藤原家より藤原時朝が乗り込んできて、徳蔵寺の僧兵を滅ぼし、佐白山に城を築きます。
そして時朝は笠間時朝となり、笠間氏が誕生しました。
これは1220年頃のことです。
そしてこれも前に書きましたが、この佐志能神社は、ここに笠間城が建てられた時に、祠を下市毛字田宿(黒袴)に遷されたといいます。ですから1220年より前にこの山の上にあったことになります。
そして、明治になり笠間城が廃城となってから元の位置に戻されたそうです。(明治5年)
さて茨城県に28座の神社がのっている延喜式(927年)の式内社に佐志能神社があります。
これが4つ(笠間、村上、染谷、柿岡)のうちどれをさしているのかは定かではありませんがそれぞれ元は一つなのかもしれません。
どれも山の頂上や中腹にありますが村上は山の麓です(但し奥宮が山の中腹にある)。
最初はこれらの4つの神社の共通点を見て見たいとブログ記事を書き出していたことを思い出しました。
そして書き続けることが出来なくなり、最後のまとめが出来ずに1年半も放置してしまったのです。
これだけ時間が経ちましたがやはり書く事が出来ません。そのためこの記事は一旦終了させて戴きましょう。
さて、最後にこの記事を書きはじめる時になんとなく頭に浮かんでいた気になっているお話をさせていただこうと思います。
それは常陸風土記の那賀郡のところに書かれている「くれふし山の蛇」という説話です。
「茨城の里は、北に高い丘があり、くれふしの山といふ。
この里に、昔、ヌカヒコ・ヌカヒメといふ兄妹がゐた。
ある夜、ヌカヒメが寝床にゐると、名も知らぬ男がゐて求婚し、朝帰っていった。
一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。
ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。
ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになってゐた。
そこで、もっと大きな平瓮に移しかへたが、次の夜には更に大きくなってゐた。
こんなことを何度も繰り返してゐるうちに、家にあるどの器も合はなくなってしまった。
ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見てゐると神の子なのだといふことがよくわかります。
わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」
と蛇の子にいふと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭ひながら「おっしゃるとほりですので、お言葉にしたがひます。
けれど一人で旅をするのはかなはぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」
といった。
ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかゐません。
見ればわかるでせう。あいにく誰も一緒には行けません。」
といふと、蛇の子はうらめしさうに口をつぐんだ。
別れのときになって、蛇の子は怒りを押さへきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。
蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」(口訳・常陸国風土記より)
実はこの話と全くそっくりな話がこの石岡に伝わっています。龍神山の麓の「片岡」地区です。
この石岡の片岡に伝わる話はくれふし山が龍神山になります。
今ではくれふし山は水戸市の「朝房山」と考える意見が主流ですが、石岡の竜神山もその候補地の一つなのです。
茨城の名前の起こりが笠間市小原であったと考えているが、これが6~7世紀頃に現在の石岡市茨城(ばらき)の地に移った時に、この佐志能神社もまた龍神山を囲む地に移ってきたのではないかと思う。
村上の佐志能神社は昔は村上神社といい、龍神山も村上山と言っていたともいう。
どのような経緯で行政の中心地を移したのか? またそれに伴って文化や習慣なども移転したのだと考えている。
これを茨城の県名発祥の地などということだけを大々的に自慢するようなことは私には恥ずかしくてできない。
そのような事を何時までも行っていたら、どのように文化が継承されてきたのかなどを考えることもできない事になってしまう。
まあきれいなバラ(茨)が咲いていた素敵な地であると思いたいなら、特にそれに対して私から言うことは何もない。
ゴーストライターの作った音楽も良い音楽かどうかは私はわからないが、「広島、原爆、耳が聞こえないなどのごまかしの要素で判断が下されたと」わかって見ればとんだ茶番劇であった。
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これはもう1年半ほど前に書いていた4回シリーズの最後にあたるのだが結局書きかけで終わってしまっていた。
前に書いた記事などを続けて読みたい方は →こちら にまとまっていますのでクリックして見て下さい。
では以下1年半前の続きです。・・・
石岡市にある佐志能神社を3箇所紹介しましたが、もう一つの笠間にある佐志能神社を紹介します。
これは2011年9月に笠間城跡をシリーズで紹介をした時、最後に紹介しております(こちら)ので同じことをまた紹介することになりますがご容赦ください。

笠間の佐白山の城跡の天守閣のあたり、山の一番高い岩の上にこの神社が祀られています。

岩場の上なので神社も地震などで危うくなりまわりに近付けなくなってしまいましたが、これももう2年以上前の事。
最近は行っていないのでどうなったであろうか。
鎌倉時代の初め、笠間の佐白山には正福寺という寺があり、百坊と呼ばれた数の僧兵を抱えていたそうです。
これが七会村(城里町)の徳蔵寺(記事はこちら)の三百坊の僧兵と争いを繰り返しておりました。
そこに宇都宮の藤原家より藤原時朝が乗り込んできて、徳蔵寺の僧兵を滅ぼし、佐白山に城を築きます。
そして時朝は笠間時朝となり、笠間氏が誕生しました。
これは1220年頃のことです。
そしてこれも前に書きましたが、この佐志能神社は、ここに笠間城が建てられた時に、祠を下市毛字田宿(黒袴)に遷されたといいます。ですから1220年より前にこの山の上にあったことになります。
そして、明治になり笠間城が廃城となってから元の位置に戻されたそうです。(明治5年)
さて茨城県に28座の神社がのっている延喜式(927年)の式内社に佐志能神社があります。
これが4つ(笠間、村上、染谷、柿岡)のうちどれをさしているのかは定かではありませんがそれぞれ元は一つなのかもしれません。
どれも山の頂上や中腹にありますが村上は山の麓です(但し奥宮が山の中腹にある)。
最初はこれらの4つの神社の共通点を見て見たいとブログ記事を書き出していたことを思い出しました。
そして書き続けることが出来なくなり、最後のまとめが出来ずに1年半も放置してしまったのです。
これだけ時間が経ちましたがやはり書く事が出来ません。そのためこの記事は一旦終了させて戴きましょう。
さて、最後にこの記事を書きはじめる時になんとなく頭に浮かんでいた気になっているお話をさせていただこうと思います。
それは常陸風土記の那賀郡のところに書かれている「くれふし山の蛇」という説話です。
「茨城の里は、北に高い丘があり、くれふしの山といふ。
この里に、昔、ヌカヒコ・ヌカヒメといふ兄妹がゐた。
ある夜、ヌカヒメが寝床にゐると、名も知らぬ男がゐて求婚し、朝帰っていった。
一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。
ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。
ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになってゐた。
そこで、もっと大きな平瓮に移しかへたが、次の夜には更に大きくなってゐた。
こんなことを何度も繰り返してゐるうちに、家にあるどの器も合はなくなってしまった。
ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見てゐると神の子なのだといふことがよくわかります。
わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」
と蛇の子にいふと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭ひながら「おっしゃるとほりですので、お言葉にしたがひます。
けれど一人で旅をするのはかなはぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」
といった。
ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかゐません。
見ればわかるでせう。あいにく誰も一緒には行けません。」
といふと、蛇の子はうらめしさうに口をつぐんだ。
別れのときになって、蛇の子は怒りを押さへきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。
蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」(口訳・常陸国風土記より)
実はこの話と全くそっくりな話がこの石岡に伝わっています。龍神山の麓の「片岡」地区です。
この石岡の片岡に伝わる話はくれふし山が龍神山になります。
今ではくれふし山は水戸市の「朝房山」と考える意見が主流ですが、石岡の竜神山もその候補地の一つなのです。
茨城の名前の起こりが笠間市小原であったと考えているが、これが6~7世紀頃に現在の石岡市茨城(ばらき)の地に移った時に、この佐志能神社もまた龍神山を囲む地に移ってきたのではないかと思う。
村上の佐志能神社は昔は村上神社といい、龍神山も村上山と言っていたともいう。
どのような経緯で行政の中心地を移したのか? またそれに伴って文化や習慣なども移転したのだと考えている。
これを茨城の県名発祥の地などということだけを大々的に自慢するようなことは私には恥ずかしくてできない。
そのような事を何時までも行っていたら、どのように文化が継承されてきたのかなどを考えることもできない事になってしまう。
まあきれいなバラ(茨)が咲いていた素敵な地であると思いたいなら、特にそれに対して私から言うことは何もない。
ゴーストライターの作った音楽も良い音楽かどうかは私はわからないが、「広島、原爆、耳が聞こえないなどのごまかしの要素で判断が下されたと」わかって見ればとんだ茶番劇であった。


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