稲敷散歩(1)ー茨城百景(江戸崎)
土浦から国道125号線を走り美浦村を過ぎたあたりから成田方面に進むと江戸崎の街を通る。
しかし、中世では城があった場所で中心地の道路はどこもクランクのように曲がっている。
このため、あとからできた県道等の車の多くがこの街の中心地は通らない。
古代の地形や道を調べているとこの江戸崎(現稲敷市)の街はとても興味深いのだが、中心街は一度も行ったことがなかった。
やはり一度探索しておかないとこの辺の様子を理解することができなそうです。
先日やっと念願叶って、一度訪れたので、少しずつ考察しながら景色等を楽しんでみたいと思います。
江戸崎というと「かぼちゃ」が有名ですが、何故ここにかぼちゃが取れるようになったのでしょうか?
このあたりはまた散策を進めていくうちに調べてみたい。
まずは、茨城百景として、この江戸崎が前に紹介した「古渡(ふっと)の湖畔」と並んで「江戸崎の景」が選定されているのです。
美浦の方から成田方面に県道49号線が走っているが、江戸崎の街に行くには途中から左に入っていく道がある。
この道のまだ市街地に行く手前の江戸崎の入口にこの碑が立っています。

道路沿いに石柱の碑が少し離れて二つ置かれている。

ひとつは景勝江戸崎八景「吹上の秋月」とあります。江戸崎の景観の中で八箇所の指定があるようです。
それぞれ八景には歌が添えられていてここは「月色玲瓏(れいろう)たり吹上の秋」です。

向かって右側には「茨城百景 江戸崎の景」となっています。
さて、ではどんなすばらしい景色が見られるのでしょうか?

木々の間から一面の田んぼが広がっています。
これが百景??

この下に広がる一面の田は、「稲波干拓」と言われる場所なのです。
この江戸崎八景も茨城百景も今の姿で考えることができないのです。
名物の松の木も枯れてしまったそうです。
これを昔の姿で捉えてみると、そこには古代のロマンの景色が広がるのです。

茨城百景の碑の裏側には「昭和25年」の文字を読むことができます。
そこで「稲波干拓」が出来た時を調べてみました。
昭和14年(1939)に干拓事業が始まり昭和32年(1955)に完成した一大事業で235haの面積の穀倉地帯ができたそうです。
その前はというとここには大きな「榎の浦」という霞ヶ浦につながる入江のような場所があったのです。

昔の地形を想像するために前にもやっている「Flood Map」で水面を+3mとしてみました。
現在の地図は下に示しますので比較してみてください。
この眼下には穏やかな水面が広がっていたのです。
この「稲波干拓」の場所は今でも貴重な鳥の宝庫だそうです。
特に「オオヒシクイの越冬地」としては関東唯一だそうです。
下に降りて水路脇の道を走りましたが、とてもゆったりとのんびりした風情が広がっていました。
ところで「江戸崎」の名前の謂れが気になりますが、私はここに来る前まで江戸の名前の由来と同じこの小野川が霞ヶ浦に注ぐ戸口で「江戸」そこに飛び出した岬だとばかり思っていました。
しかし、この場所に立って眺めていたらこの考えは違うと思えてきました。
「榎の浦の津」(常陸国風土記)→「榎ヶ浦崎」→「江戸崎」に違いないと考えるようになりました。
まあどれが本当かはわかりませんが、昔ここから水面に映る秋の月を眺めた風情を思い浮かべて佇んでしまいました。
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しかし、中世では城があった場所で中心地の道路はどこもクランクのように曲がっている。
このため、あとからできた県道等の車の多くがこの街の中心地は通らない。
古代の地形や道を調べているとこの江戸崎(現稲敷市)の街はとても興味深いのだが、中心街は一度も行ったことがなかった。
やはり一度探索しておかないとこの辺の様子を理解することができなそうです。
先日やっと念願叶って、一度訪れたので、少しずつ考察しながら景色等を楽しんでみたいと思います。
江戸崎というと「かぼちゃ」が有名ですが、何故ここにかぼちゃが取れるようになったのでしょうか?
このあたりはまた散策を進めていくうちに調べてみたい。
まずは、茨城百景として、この江戸崎が前に紹介した「古渡(ふっと)の湖畔」と並んで「江戸崎の景」が選定されているのです。
美浦の方から成田方面に県道49号線が走っているが、江戸崎の街に行くには途中から左に入っていく道がある。
この道のまだ市街地に行く手前の江戸崎の入口にこの碑が立っています。

道路沿いに石柱の碑が少し離れて二つ置かれている。

ひとつは景勝江戸崎八景「吹上の秋月」とあります。江戸崎の景観の中で八箇所の指定があるようです。
それぞれ八景には歌が添えられていてここは「月色玲瓏(れいろう)たり吹上の秋」です。

向かって右側には「茨城百景 江戸崎の景」となっています。
さて、ではどんなすばらしい景色が見られるのでしょうか?

木々の間から一面の田んぼが広がっています。
これが百景??

この下に広がる一面の田は、「稲波干拓」と言われる場所なのです。
この江戸崎八景も茨城百景も今の姿で考えることができないのです。
名物の松の木も枯れてしまったそうです。
これを昔の姿で捉えてみると、そこには古代のロマンの景色が広がるのです。

茨城百景の碑の裏側には「昭和25年」の文字を読むことができます。
そこで「稲波干拓」が出来た時を調べてみました。
昭和14年(1939)に干拓事業が始まり昭和32年(1955)に完成した一大事業で235haの面積の穀倉地帯ができたそうです。
その前はというとここには大きな「榎の浦」という霞ヶ浦につながる入江のような場所があったのです。

昔の地形を想像するために前にもやっている「Flood Map」で水面を+3mとしてみました。
現在の地図は下に示しますので比較してみてください。
この眼下には穏やかな水面が広がっていたのです。
この「稲波干拓」の場所は今でも貴重な鳥の宝庫だそうです。
特に「オオヒシクイの越冬地」としては関東唯一だそうです。
下に降りて水路脇の道を走りましたが、とてもゆったりとのんびりした風情が広がっていました。
ところで「江戸崎」の名前の謂れが気になりますが、私はここに来る前まで江戸の名前の由来と同じこの小野川が霞ヶ浦に注ぐ戸口で「江戸」そこに飛び出した岬だとばかり思っていました。
しかし、この場所に立って眺めていたらこの考えは違うと思えてきました。
「榎の浦の津」(常陸国風土記)→「榎ヶ浦崎」→「江戸崎」に違いないと考えるようになりました。
まあどれが本当かはわかりませんが、昔ここから水面に映る秋の月を眺めた風情を思い浮かべて佇んでしまいました。


稲敷散歩(2)-羅漢山(江戸崎)
今回旧江戸崎の街を歩いてみたいと思い立ったのは、今日紹介する羅漢山(らかんやま)があるのを知ったことかもしれません。
五百羅漢が山に立っているその姿を想像して行ってみたくなったのです。
近くにもこんな場所があったことをつい最近まで知らなかったのです。
出雲の立久恵峡には岩壁にたくさんの羅漢像が彫られており、昔訪れたことを思い出していました。

江戸崎の街中近くに「瑞祥院」という臨済宗の寺の裏山の上に1780年から24年間にわたって、多くの人が寄進したものだそうです。

現在500に少し足りないくらいの仏像が置かれています。
仏様の名前や寄進者の名前が彫られているものも多いようですが、読み取れなくなっているものも多くあります。

仏像の首が折れたり、折られてしまったものが多いようで、接いだ跡が目につきます。
これは神仏分離の影響なのでしょうか。

色々な表情の羅漢さんが立ち並ぶのもなかなか壮観です。

この羅漢像をここに集めてまつった人の昔話が、こちらにありました。(手堀り江戸崎の昔話)

羅漢山から江戸崎の市街が一望できます。
昔はここからの眺め(榎の浦)は素晴らしかったと思います。

羅漢山へは麓の瑞祥院の裏へ回って石段を登りますが、脇の方に登り口があり、この竹林の先の山を金比羅山といって、金毘羅堂があったそうです。

こちらが脇にある金比羅山への登り口なのですが、この石段の上に金比羅堂があったようですが、地震の影響なのか崩れてしまったようです。
今は重機で整備していました。


ここにも江戸崎八景の碑が置かれています。「羅漢山の夕照」とあり。麓の瑞祥院の山門入口近くに置かれています。 「花光爛漫羅漢山の夕」だそうです。
水面の方向は東側にあるので、夕景はきっと山の後ろから日が差し、水面もキラキラ輝いていたのかもしれません。
この山にたくさんの羅漢像を寄進した人たちはここの景色を眺めながらいろいろなことをお願いしたのでしょう。
自分の分身を置いたものもあるのでしょうね。
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五百羅漢が山に立っているその姿を想像して行ってみたくなったのです。
近くにもこんな場所があったことをつい最近まで知らなかったのです。
出雲の立久恵峡には岩壁にたくさんの羅漢像が彫られており、昔訪れたことを思い出していました。

江戸崎の街中近くに「瑞祥院」という臨済宗の寺の裏山の上に1780年から24年間にわたって、多くの人が寄進したものだそうです。

現在500に少し足りないくらいの仏像が置かれています。
仏様の名前や寄進者の名前が彫られているものも多いようですが、読み取れなくなっているものも多くあります。

仏像の首が折れたり、折られてしまったものが多いようで、接いだ跡が目につきます。
これは神仏分離の影響なのでしょうか。

色々な表情の羅漢さんが立ち並ぶのもなかなか壮観です。

この羅漢像をここに集めてまつった人の昔話が、こちらにありました。(手堀り江戸崎の昔話)

羅漢山から江戸崎の市街が一望できます。
昔はここからの眺め(榎の浦)は素晴らしかったと思います。

羅漢山へは麓の瑞祥院の裏へ回って石段を登りますが、脇の方に登り口があり、この竹林の先の山を金比羅山といって、金毘羅堂があったそうです。

こちらが脇にある金比羅山への登り口なのですが、この石段の上に金比羅堂があったようですが、地震の影響なのか崩れてしまったようです。
今は重機で整備していました。


ここにも江戸崎八景の碑が置かれています。「羅漢山の夕照」とあり。麓の瑞祥院の山門入口近くに置かれています。 「花光爛漫羅漢山の夕」だそうです。
水面の方向は東側にあるので、夕景はきっと山の後ろから日が差し、水面もキラキラ輝いていたのかもしれません。
この山にたくさんの羅漢像を寄進した人たちはここの景色を眺めながらいろいろなことをお願いしたのでしょう。
自分の分身を置いたものもあるのでしょうね。


稲敷散歩(3)-瑞祥院(江戸崎)
現稲敷市となった旧江戸崎町の散歩の3回目です。
この江戸崎は霞ヶ浦の海運で発達した街のようです。
2回目に紹介した(五百)羅漢山の麓にある臨済宗の禅寺「瑞祥院(ずいしょういん)」を紹介します。

瑞祥院入口です。
手前にひょうたん池があり、橋をわたって右手に羅漢山の江戸崎八景の碑が置かれています。

寺の入口にひょうたん池です。寺に入るのに小さな石橋を渡ります。
このひょうたん池は江戸崎城の外堀の名残と言われており、この橋も1843年に架けられたもののようです。
江戸崎城は1387年に美濃国から来た土岐原氏が、この地に入り、城を築き約200年この一帯を収めていたといいます。
土岐原氏も石岡(府中)と同じく天正18年(1590)に佐竹氏の軍勢により落城してしまいました。

この瑞祥院がこの場所に移ったのは戦国時代末期と書かれているので、城が落城した頃かもしれません。
その前は「小角(おずみ)」にあったと書かれています。
地図で調べてみると、ここから2.5~3.0km位北西になるようです。
寺の入口には臨済宗の禅寺であり、「不許葷酒(くんしゅ)入界内」の戒壇石が置かれています。
お酒を飲んで寺には入らないでくださいね。

正面が本堂(大師堂?)。左手が虚空蔵堂です。
さて、この寺では春に「大師講」が行われているようです。
禅宗ですから、大師=だるま大師のことかと思いましたが、弘法大師様とも・・・・。
大師講は一年間に亡くなった人の供養を、十日間にわたって八十八の札所をお参りする事だそうです。
ということはやはり弘法大師(空海)のようですね。
この瑞祥院の大師堂にある八十八体の大師像にお参りしてから八十八カ所の札所参りをして一枚づつお札を貼って歩くのだそうです。

この虚空堂の横に置かれている像は弘法大師のように見えます。

虚空蔵堂です。お札がたくさん貼ってあります。

本堂の前にお宮がひとつ置かれていました。
あとから考えると、隣の山の金比羅山が崩れたために、お宮をここに仮置きしているのだと思います。
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この江戸崎は霞ヶ浦の海運で発達した街のようです。
2回目に紹介した(五百)羅漢山の麓にある臨済宗の禅寺「瑞祥院(ずいしょういん)」を紹介します。

瑞祥院入口です。
手前にひょうたん池があり、橋をわたって右手に羅漢山の江戸崎八景の碑が置かれています。

寺の入口にひょうたん池です。寺に入るのに小さな石橋を渡ります。
このひょうたん池は江戸崎城の外堀の名残と言われており、この橋も1843年に架けられたもののようです。
江戸崎城は1387年に美濃国から来た土岐原氏が、この地に入り、城を築き約200年この一帯を収めていたといいます。
土岐原氏も石岡(府中)と同じく天正18年(1590)に佐竹氏の軍勢により落城してしまいました。

この瑞祥院がこの場所に移ったのは戦国時代末期と書かれているので、城が落城した頃かもしれません。
その前は「小角(おずみ)」にあったと書かれています。
地図で調べてみると、ここから2.5~3.0km位北西になるようです。
寺の入口には臨済宗の禅寺であり、「不許葷酒(くんしゅ)入界内」の戒壇石が置かれています。
お酒を飲んで寺には入らないでくださいね。

正面が本堂(大師堂?)。左手が虚空蔵堂です。
さて、この寺では春に「大師講」が行われているようです。
禅宗ですから、大師=だるま大師のことかと思いましたが、弘法大師様とも・・・・。
大師講は一年間に亡くなった人の供養を、十日間にわたって八十八の札所をお参りする事だそうです。
ということはやはり弘法大師(空海)のようですね。
この瑞祥院の大師堂にある八十八体の大師像にお参りしてから八十八カ所の札所参りをして一枚づつお札を貼って歩くのだそうです。

この虚空堂の横に置かれている像は弘法大師のように見えます。

虚空蔵堂です。お札がたくさん貼ってあります。

本堂の前にお宮がひとつ置かれていました。
あとから考えると、隣の山の金比羅山が崩れたために、お宮をここに仮置きしているのだと思います。


稲敷散歩(4)-不動院(その1)
旧江戸崎(現稲敷市)の街中に大きな寺がある「不動院」である。
実はこの寺は徳川家康の江戸の町作りや風水、家康の墓を日光にしたことなど、大きな影響を与えたとされる「天海」(大僧正)が、1590年(天正18年)から約17年間、住職を勤めていたと言われています。
天海はこの後に、川越喜多院住職、日光山座主、上野寛永寺住職をつとめています。
このような寺に並ぶ由緒ある寺と言えます。
このような話が何気なく残されているのは驚きです。
本当に驚くべき話だと思います。
また、ここの仁王像がとても大きくて驚きます。

「北関東三十六不動尊第三十番霊場」また「関東八ヶ壇林」とあります。
この寺は天台宗の寺で、壇林というのは江戸時代に僧侶がそこで修行するために寝泊りしていたお寺のことで、天台宗としては前に紹介した「月山寺」もそうです。
桜川市羽黒の月山寺は今も僧侶が何人か修行しておりました。こちらの方はわかりません。

立派な仁王門がで~んと構えています。
その入口に江戸崎八景の碑があります。
「医王山の暮雪」と書かれています。「雪時かつて賞す医王山の景」だそうです。
医王山はこの不動院の名称です。正式名称は「医王山東光寺」です。

それにしても大きな仁王像です。

仁王門は、明暦元年(1655)4代将軍家綱の寄進によるもので、仁王尊は関東最大のものといわれているそうです。

明治9年に本堂は消失してしまいましたが、この仁王門は残ったのです。



寺の本堂はこの仁王門から階段を上った上の方にあります。
上から仁王門を眺めたところです。

お寺の方は次回に書きます。
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実はこの寺は徳川家康の江戸の町作りや風水、家康の墓を日光にしたことなど、大きな影響を与えたとされる「天海」(大僧正)が、1590年(天正18年)から約17年間、住職を勤めていたと言われています。
天海はこの後に、川越喜多院住職、日光山座主、上野寛永寺住職をつとめています。
このような寺に並ぶ由緒ある寺と言えます。
このような話が何気なく残されているのは驚きです。
本当に驚くべき話だと思います。
また、ここの仁王像がとても大きくて驚きます。

「北関東三十六不動尊第三十番霊場」また「関東八ヶ壇林」とあります。
この寺は天台宗の寺で、壇林というのは江戸時代に僧侶がそこで修行するために寝泊りしていたお寺のことで、天台宗としては前に紹介した「月山寺」もそうです。
桜川市羽黒の月山寺は今も僧侶が何人か修行しておりました。こちらの方はわかりません。

立派な仁王門がで~んと構えています。
その入口に江戸崎八景の碑があります。
「医王山の暮雪」と書かれています。「雪時かつて賞す医王山の景」だそうです。
医王山はこの不動院の名称です。正式名称は「医王山東光寺」です。

それにしても大きな仁王像です。

仁王門は、明暦元年(1655)4代将軍家綱の寄進によるもので、仁王尊は関東最大のものといわれているそうです。

明治9年に本堂は消失してしまいましたが、この仁王門は残ったのです。



寺の本堂はこの仁王門から階段を上った上の方にあります。
上から仁王門を眺めたところです。

お寺の方は次回に書きます。


稲敷散歩(5)-不動院(その2)
今日は江戸崎不動院(医王山東光寺)の続きです。
寺は嘉祥元年(848)慈覚大師(円仁)の開祖と伝えられると書かれています。
慈覚大師は最後の遣唐使に僧侶として参加し9年半唐で修行した天台宗(総本山:比叡山延暦寺)の高僧です。
これだけ長い期間中国で修行した僧も少ないのではないだろうか。
848年というと円仁が中国(唐)から帰ってきてまもない頃だろうと推測されます。
慈覚大師円仁は平泉の中尊寺や毛越寺(もうつうじ)の開祖としても有名で、平泉の寺は嘉祥3年(850)とされているようですからこちらの方が2年早かったようです。
毛越寺も山号は「医王山」です。平泉とつないで考えてみるのも良さそうです。

仁王門をくぐって、急な階段を上ったところに「菩提樹」の古木があります。
脇に石碑が置かれていますが、これは19世紀末から20世紀初めにインド留学した僧侶・大宮孝潤(こうにん)を記念して昭和5年に建てられたものだそうです。

参道中央の石燈篭は寛保3年(1743)に寄進されたものだそうです。
300年以上前のものが何気なくあります。
この寺は文明2年(1470)に江戸崎城主となった土岐原氏により再興され、その後天正18年(1590)に佐竹氏により滅ぼされた後、芦名盛重(佐竹義宣の弟)が江戸崎城主となり、寺の修復をして「天海」大僧正を8世として迎えています。
このことはもう少し調べたいことがありますのでまた明日にでも書きます。

「北関東三十六不動尊霊場 第三十番札所」となっています。

左側の像に「満願不動尊」、右側の像は「吉祥妙童子」となっています。

延命地蔵? 安産祈願のお地蔵さんで元文4年(1739)の銘があるそうです。

見晴らしの良い東側の山のところに「稲荷社」があります。

この寺から江戸崎の町や小野川がよく眺められます。
昔の大きな「榎の浦の津」と言われた頃はどのような景色だったのか想像すると楽しくなります。
常陸国風土記にでてくる「榎の浦の津」の場所がこの小野川の河口付近であったということは想像できますが、これは想像するのみで確証はされていません。
この川の向こう側(現在の阿波やアンバ様の大杉神社などがある)場所が大きな島のような半島状の形をしており、安婆嶋と呼ばれたようであり、この先の現在の千葉県と茨城県の境をなすおおきな利根川の河口付近を指すという説もあるようです。(江戸時代に利根川を移し替えたので、昔は利根川ではなかった?)
江戸崎散歩の1回目に載せた地図をまた載せます。
これからも考察するうえで何回も使うことになりそうです。

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寺は嘉祥元年(848)慈覚大師(円仁)の開祖と伝えられると書かれています。
慈覚大師は最後の遣唐使に僧侶として参加し9年半唐で修行した天台宗(総本山:比叡山延暦寺)の高僧です。
これだけ長い期間中国で修行した僧も少ないのではないだろうか。
848年というと円仁が中国(唐)から帰ってきてまもない頃だろうと推測されます。
慈覚大師円仁は平泉の中尊寺や毛越寺(もうつうじ)の開祖としても有名で、平泉の寺は嘉祥3年(850)とされているようですからこちらの方が2年早かったようです。
毛越寺も山号は「医王山」です。平泉とつないで考えてみるのも良さそうです。

仁王門をくぐって、急な階段を上ったところに「菩提樹」の古木があります。
脇に石碑が置かれていますが、これは19世紀末から20世紀初めにインド留学した僧侶・大宮孝潤(こうにん)を記念して昭和5年に建てられたものだそうです。

参道中央の石燈篭は寛保3年(1743)に寄進されたものだそうです。
300年以上前のものが何気なくあります。
この寺は文明2年(1470)に江戸崎城主となった土岐原氏により再興され、その後天正18年(1590)に佐竹氏により滅ぼされた後、芦名盛重(佐竹義宣の弟)が江戸崎城主となり、寺の修復をして「天海」大僧正を8世として迎えています。
このことはもう少し調べたいことがありますのでまた明日にでも書きます。

「北関東三十六不動尊霊場 第三十番札所」となっています。

左側の像に「満願不動尊」、右側の像は「吉祥妙童子」となっています。

延命地蔵? 安産祈願のお地蔵さんで元文4年(1739)の銘があるそうです。

見晴らしの良い東側の山のところに「稲荷社」があります。

この寺から江戸崎の町や小野川がよく眺められます。
昔の大きな「榎の浦の津」と言われた頃はどのような景色だったのか想像すると楽しくなります。
常陸国風土記にでてくる「榎の浦の津」の場所がこの小野川の河口付近であったということは想像できますが、これは想像するのみで確証はされていません。
この川の向こう側(現在の阿波やアンバ様の大杉神社などがある)場所が大きな島のような半島状の形をしており、安婆嶋と呼ばれたようであり、この先の現在の千葉県と茨城県の境をなすおおきな利根川の河口付近を指すという説もあるようです。(江戸時代に利根川を移し替えたので、昔は利根川ではなかった?)
江戸崎散歩の1回目に載せた地図をまた載せます。
これからも考察するうえで何回も使うことになりそうです。



稲敷散歩(6)-不動院(その3)
今日も良い天気でした。
青い空に浮かぶ白い雲。風がないせいかふんわりと筑波や加波山の上の方に浮かんでいます。
雲を見ながら幸せな気分になりました。
ここのところ政治もおかしくなっているし、東電の報告書はもうどうしようもないし、関電の株主総会等はやはり思った通り、被災地の人の思いとは全く心の通わない温度差でどうしようもありません。
一昨日また地震雲が出ていると言われていたら、昨日は2度グラグラと大きめの地震がきて、不安がまたよぎりました。
まだ安心するのは早そうです。
温度差はどうしようもないかもしれないけれど、今もまだ仮設ではなく廃学校の教室に暮らしている避難者がたくさんいます。
今日は少し、疲れているので、いつもの記事は少しだけにします。残りはまた明日書きます。

江戸崎散歩の不動院は街中の低地に大きな仁王門が立ち、そこをくぐると寺へ登る石段があります。
「長寿の坂」と名づけられているようです。
なぜでしょう? 書かれてものが見つかりませんでしたが、長寿等という言葉はそう古いことではないでしょう。
きっとこの寺の住職もしていた「天海」が108歳という長寿だったと言われているからでしょう。
石段も108段あるようです。
この寺は文明2年(1470)に江戸崎城主となった土岐原氏により再興され、その後天正17年(1589)に佐竹氏により滅ぼされた後、芦名盛重(佐竹義宣の弟)が江戸崎城主となり、寺の修復をして「天海」大僧正を8世として迎えています。
天海大僧正(慈眼大師)は福島県の会津高田の生まれで、姓は蘆名(あしな)氏となっていました。
この蘆名はここの芦名氏と同じです。
気になりますが詳しいことはわかりません。そのうちにまた調べてみたいと思います。
ただ、芦名氏を調べていたら色々と面白いことがたくさん出てきました。
もう少しまとめてからまた書きましょう。
天海大僧正は家康や家光の絶大なる信頼を得ていた人物ですが、この寺の住職であったことはあまり知られていないようです。
この寺と川越喜多院の住職を兼務していたときもありそうです。
年代別に整理して、喜多院がこの天海僧正と家康との関係より関東における天台宗の総本山の地位を獲得しています。
さて、芦名盛重は兄佐竹義宣の秋田移封に従って、秋田へ移り、角館に入り角館の城主として今の街並み等を整えています。
この角館の街並み(城の移転、道路の拡張など)は芦名氏が築いたようですが、3代で終り、そのあとに佐竹北家の佐竹義隣が入ってから、小京都といわれる街を造ったようです。
この角館の芦名氏をもう少し調べてみたい気がしています。
3代続いたといっても、2代目は早死して、その子が1歳で家督を継ぎ、3歳で転んで死んでしまったのですから・・・。
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青い空に浮かぶ白い雲。風がないせいかふんわりと筑波や加波山の上の方に浮かんでいます。
雲を見ながら幸せな気分になりました。
ここのところ政治もおかしくなっているし、東電の報告書はもうどうしようもないし、関電の株主総会等はやはり思った通り、被災地の人の思いとは全く心の通わない温度差でどうしようもありません。
一昨日また地震雲が出ていると言われていたら、昨日は2度グラグラと大きめの地震がきて、不安がまたよぎりました。
まだ安心するのは早そうです。
温度差はどうしようもないかもしれないけれど、今もまだ仮設ではなく廃学校の教室に暮らしている避難者がたくさんいます。
今日は少し、疲れているので、いつもの記事は少しだけにします。残りはまた明日書きます。

江戸崎散歩の不動院は街中の低地に大きな仁王門が立ち、そこをくぐると寺へ登る石段があります。
「長寿の坂」と名づけられているようです。
なぜでしょう? 書かれてものが見つかりませんでしたが、長寿等という言葉はそう古いことではないでしょう。
きっとこの寺の住職もしていた「天海」が108歳という長寿だったと言われているからでしょう。
石段も108段あるようです。
この寺は文明2年(1470)に江戸崎城主となった土岐原氏により再興され、その後天正17年(1589)に佐竹氏により滅ぼされた後、芦名盛重(佐竹義宣の弟)が江戸崎城主となり、寺の修復をして「天海」大僧正を8世として迎えています。
天海大僧正(慈眼大師)は福島県の会津高田の生まれで、姓は蘆名(あしな)氏となっていました。
この蘆名はここの芦名氏と同じです。
気になりますが詳しいことはわかりません。そのうちにまた調べてみたいと思います。
ただ、芦名氏を調べていたら色々と面白いことがたくさん出てきました。
もう少しまとめてからまた書きましょう。
天海大僧正は家康や家光の絶大なる信頼を得ていた人物ですが、この寺の住職であったことはあまり知られていないようです。
この寺と川越喜多院の住職を兼務していたときもありそうです。
年代別に整理して、喜多院がこの天海僧正と家康との関係より関東における天台宗の総本山の地位を獲得しています。
さて、芦名盛重は兄佐竹義宣の秋田移封に従って、秋田へ移り、角館に入り角館の城主として今の街並み等を整えています。
この角館の街並み(城の移転、道路の拡張など)は芦名氏が築いたようですが、3代で終り、そのあとに佐竹北家の佐竹義隣が入ってから、小京都といわれる街を造ったようです。
この角館の芦名氏をもう少し調べてみたい気がしています。
3代続いたといっても、2代目は早死して、その子が1歳で家督を継ぎ、3歳で転んで死んでしまったのですから・・・。


稲敷散歩(7)ー(江戸崎)街中(1)
旧江戸崎町(現稲敷市)の市街地を散策してみました。
この街は中心部の道路が入り組んでいて、街道は脇に出来ているため、この街に用事があるかその先の小野川を超えた先に用事がないとあまり通ることがありません。
そのため、近くに行ってもその街の様子を知らなかったのですが、水辺に出来た古代・中世・江戸とそれなりに特色のある街だったようです。
しかし、鉄道からは離れ、高速もようやく近くまで伸びてきていますがまだまだ不便な場所という印象を持っています。

町の中心街に作られた「笑遊館」という施設です。
昭和初期に建てられた旅館を改築して町のPR施設として使われています。

笑遊館の裏手に「チャレンジスペース」という建物が最近オープンしたようです。
ここでは各種イベント(落語など)のホールと厨房施設も付いているようです。
各種イベントに借りて利用ができるようです。
石岡も「まちかど情報センター」等がありますが、これくらいのイベントホールがあればいいなあ~と思います。もっとも石岡はNPOですが・・・。

さて、こちらが江戸崎のメイン商店街? 人通りは少ないですね。
石岡よりももっと寂しいです。でもなかなか古めかしい趣のある街並みなんですよ。

どこも町の活性化には苦労しているようです。
皆同じようなことをやって嘆いているだけかもしれませんが、この町が好きな人も沢山いるように思います。

どうですか? 懐かしい? どうしようもない?
私は、この街をよく知りませんが、行ってみてもっともっと知りたいと思える街でした。
風光明媚というものの考え方なのでしょうが、綺麗に飾られた創られたお店が並んでいることが良いことだとも思われません。
昔ながらの暮らし、お年寄りが楽しくゆったりと暮らせる街などでもそこに暮らす人たちが幸せに思える場所が良い街だとも思います。

変わらないよさもありますよね。
この街のために行っておきますが、中心街ではなく街の周りには大型のスーパーやお店等もあります。
しかし、この街中の商店会が寂れた感じとなっているのはまったくここ石岡と同じ構図です。

明日はもう少しちがった江戸崎の街を紹介したいと思います。
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この街は中心部の道路が入り組んでいて、街道は脇に出来ているため、この街に用事があるかその先の小野川を超えた先に用事がないとあまり通ることがありません。
そのため、近くに行ってもその街の様子を知らなかったのですが、水辺に出来た古代・中世・江戸とそれなりに特色のある街だったようです。
しかし、鉄道からは離れ、高速もようやく近くまで伸びてきていますがまだまだ不便な場所という印象を持っています。

町の中心街に作られた「笑遊館」という施設です。
昭和初期に建てられた旅館を改築して町のPR施設として使われています。

笑遊館の裏手に「チャレンジスペース」という建物が最近オープンしたようです。
ここでは各種イベント(落語など)のホールと厨房施設も付いているようです。
各種イベントに借りて利用ができるようです。
石岡も「まちかど情報センター」等がありますが、これくらいのイベントホールがあればいいなあ~と思います。もっとも石岡はNPOですが・・・。

さて、こちらが江戸崎のメイン商店街? 人通りは少ないですね。
石岡よりももっと寂しいです。でもなかなか古めかしい趣のある街並みなんですよ。

どこも町の活性化には苦労しているようです。
皆同じようなことをやって嘆いているだけかもしれませんが、この町が好きな人も沢山いるように思います。

どうですか? 懐かしい? どうしようもない?
私は、この街をよく知りませんが、行ってみてもっともっと知りたいと思える街でした。
風光明媚というものの考え方なのでしょうが、綺麗に飾られた創られたお店が並んでいることが良いことだとも思われません。
昔ながらの暮らし、お年寄りが楽しくゆったりと暮らせる街などでもそこに暮らす人たちが幸せに思える場所が良い街だとも思います。

変わらないよさもありますよね。
この街のために行っておきますが、中心街ではなく街の周りには大型のスーパーやお店等もあります。
しかし、この街中の商店会が寂れた感じとなっているのはまったくここ石岡と同じ構図です。

明日はもう少しちがった江戸崎の街を紹介したいと思います。




稲敷散歩(8)ー(江戸崎)街中(2)
江戸崎の街中をもう少し歩いてみました。
古い建物が残っています。
「えどさき街並み遺産」として保存活動をされているようです。
霞ケ浦の水運で栄え、霞ヶ浦周辺の小麦と大豆を原料に醤油醸造業が栄えたそうです。
これは石岡、高浜、土浦なども同じです。

山口商店さん。野菜の種等が置いてあります。もとは何屋さんかはわかりませんが出桁造りですね。
場所は「切通し」となっています。

山口商店さんのとなりには「鰯屋薬局」さんです。土浦などにもある見世蔵作りというのでしょうか。

面白い文字の看板が掲げられたお店です。「江戸家猫八??」と思ったら・・・

「江戸文字職人梅八(うめはち)」さんでした。梅八さんは大学の落研の時に江戸文字を書いていていつの間にか独特の江戸文字の職人になってしまったようです。
昨日紹介した「笑遊館」の番頭さん役を週3日やっているそうです。
元は山口邸でしたが、今は「笑遊館」の施設の一部となっているのかもしれません。

このお店も石岡にも残る石蔵造りですね。

高尾米屋さんです。クリーニングの取次もされているようです。

「飯野屋旅館」さん。

「酒のいとう」さん。

さて、江戸崎は鉄道が通っていません。
しかし街の中心部に「江戸崎駅」があります。
JRバスで土浦と結ばれており、朝晩は2本/時、昼間は1本/時のバスが走っています。
駅と名前がつくのは鉄道ばかりではなく自動車駅といわれているもので、本来はここにキップを発売したりする職員や設備もあったようですが、今では無人で、クリーニング店?が併設されていました。
土浦まで美浦トレセン経由で50分だそうです。
佐倉方面もあったようですが、別なバス停も少し離れたところにもあるようですので詳しいことはわかりません。
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古い建物が残っています。
「えどさき街並み遺産」として保存活動をされているようです。
霞ケ浦の水運で栄え、霞ヶ浦周辺の小麦と大豆を原料に醤油醸造業が栄えたそうです。
これは石岡、高浜、土浦なども同じです。

山口商店さん。野菜の種等が置いてあります。もとは何屋さんかはわかりませんが出桁造りですね。
場所は「切通し」となっています。

山口商店さんのとなりには「鰯屋薬局」さんです。土浦などにもある見世蔵作りというのでしょうか。

面白い文字の看板が掲げられたお店です。「江戸家猫八??」と思ったら・・・

「江戸文字職人梅八(うめはち)」さんでした。梅八さんは大学の落研の時に江戸文字を書いていていつの間にか独特の江戸文字の職人になってしまったようです。
昨日紹介した「笑遊館」の番頭さん役を週3日やっているそうです。
元は山口邸でしたが、今は「笑遊館」の施設の一部となっているのかもしれません。

このお店も石岡にも残る石蔵造りですね。

高尾米屋さんです。クリーニングの取次もされているようです。

「飯野屋旅館」さん。

「酒のいとう」さん。

さて、江戸崎は鉄道が通っていません。
しかし街の中心部に「江戸崎駅」があります。
JRバスで土浦と結ばれており、朝晩は2本/時、昼間は1本/時のバスが走っています。
駅と名前がつくのは鉄道ばかりではなく自動車駅といわれているもので、本来はここにキップを発売したりする職員や設備もあったようですが、今では無人で、クリーニング店?が併設されていました。
土浦まで美浦トレセン経由で50分だそうです。
佐倉方面もあったようですが、別なバス停も少し離れたところにもあるようですので詳しいことはわかりません。


稲敷散歩(9)-水辺の街(江戸崎)
江戸崎町(現稲敷市)は古代から中世、江戸、明治などにそれぞれ独特の文化が花開いた場所だと思う。
このように書くと、今の江戸崎を知っているだけの人はきっと不思議に思われるかもしれない。
私もつい最近までこの街をまともに見てこなかった。
古代縄文時代には霞ヶ浦(流海)による豊富な魚介類、製塩などで豊かな暮らしがあった。
律令制に入ると、そこには新たな人たちがやってきて支配した。
付近一帯は大きな入江のように静かな湖面(海面:昔は霞ヶ浦は海)が広がっていた。
古渡(ふっと)なんて珍しい地名にも首をフットフットと狩って付いたなどという話が残され、その本来の意味する縄文語(多分?)もちがった意味になっていった(個人的な想像です)。
この場所が下総国と常陸国の境をなす場所であって、物部氏の残した足跡などがそこらじゅうに散らばっている。
また平将門の孫が住み、相馬氏となったなどという話も伝わる。
戦国末期には芦名氏(佐竹氏の次男)が入り、天海僧正にまつわる話も多い。
霞ヶ浦水運により醤油産業が発達し、大豆問屋などで大きくなった問屋も多いようだ。
じっくり掘り起こせばいろいろなものがきっと出てくるに違いない。
この場所を知らない人も多いのだから、水辺の町の景色も紹介しましょう。

江戸崎市街地はすぐ小野川の分流川(正式には沼里川)に接しています。

右側の青い橋が「大正橋」で、その川の向こう側が旧市街地に当たります。

上の写真から見る角度をそのまま左に振ったところです。
写真に見える古めかしい建物は「稲敷市役所」です。

きっとこのあたりは大昔(1000年以上前)に「榎の浦」と呼ばれた場所なのでしょう。
もっともっと大きな水面が一面に広がっていたと思われます。
写真は「江戸崎総合運動公園」側から稲敷市役所側を見ています。
この運動公園内に江戸崎八景の一つ「高田の落雁」(高田の落雁芳洲を渡る)の碑があるとありましたが気が付きませんでした。この景色に近いのでしょう。
また、市役所の敷地内にも八景の碑「浜河岸の帰帆」(浜河岸(はまがし)の帰帆高楼に映ず)というのがあるそうです。
この大正橋あたりのことを詠んだものでしょう。
霞ヶ浦の水運が発達していた時には川岸がこの橋の近辺にあって賑わったのでしょう。

市街地から大正橋を渡って東に来ると小野川の本流があり、「高田橋」という橋があります。
この橋から眺めた小野川もゆったりと流れています。
上の写真は高田橋側より霞ヶ浦方面を見ています。
古渡(ふっと)を経由して霞ヶ浦に注ぎます。

こちらは少し下流から川の上流側を見たところです。この橋が「高田橋」です。

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このように書くと、今の江戸崎を知っているだけの人はきっと不思議に思われるかもしれない。
私もつい最近までこの街をまともに見てこなかった。
古代縄文時代には霞ヶ浦(流海)による豊富な魚介類、製塩などで豊かな暮らしがあった。
律令制に入ると、そこには新たな人たちがやってきて支配した。
付近一帯は大きな入江のように静かな湖面(海面:昔は霞ヶ浦は海)が広がっていた。
古渡(ふっと)なんて珍しい地名にも首をフットフットと狩って付いたなどという話が残され、その本来の意味する縄文語(多分?)もちがった意味になっていった(個人的な想像です)。
この場所が下総国と常陸国の境をなす場所であって、物部氏の残した足跡などがそこらじゅうに散らばっている。
また平将門の孫が住み、相馬氏となったなどという話も伝わる。
戦国末期には芦名氏(佐竹氏の次男)が入り、天海僧正にまつわる話も多い。
霞ヶ浦水運により醤油産業が発達し、大豆問屋などで大きくなった問屋も多いようだ。
じっくり掘り起こせばいろいろなものがきっと出てくるに違いない。
この場所を知らない人も多いのだから、水辺の町の景色も紹介しましょう。

江戸崎市街地はすぐ小野川の分流川(正式には沼里川)に接しています。

右側の青い橋が「大正橋」で、その川の向こう側が旧市街地に当たります。

上の写真から見る角度をそのまま左に振ったところです。
写真に見える古めかしい建物は「稲敷市役所」です。

きっとこのあたりは大昔(1000年以上前)に「榎の浦」と呼ばれた場所なのでしょう。
もっともっと大きな水面が一面に広がっていたと思われます。
写真は「江戸崎総合運動公園」側から稲敷市役所側を見ています。
この運動公園内に江戸崎八景の一つ「高田の落雁」(高田の落雁芳洲を渡る)の碑があるとありましたが気が付きませんでした。この景色に近いのでしょう。
また、市役所の敷地内にも八景の碑「浜河岸の帰帆」(浜河岸(はまがし)の帰帆高楼に映ず)というのがあるそうです。
この大正橋あたりのことを詠んだものでしょう。
霞ヶ浦の水運が発達していた時には川岸がこの橋の近辺にあって賑わったのでしょう。

市街地から大正橋を渡って東に来ると小野川の本流があり、「高田橋」という橋があります。
この橋から眺めた小野川もゆったりと流れています。
上の写真は高田橋側より霞ヶ浦方面を見ています。
古渡(ふっと)を経由して霞ヶ浦に注ぎます。

こちらは少し下流から川の上流側を見たところです。この橋が「高田橋」です。



稲敷散歩(10)-リバーサイドパーク(江戸崎)
江戸崎駅から少し入ったところに「かぼちゃ公園」という案内矢印を見つけたので行ってみた。
地図には「リバーサイドパーク」となっている。
確かに川沿いなのでリバーサイドに違いない。
洒落たネーミングなのに「かぼちゃ公園」と案内にはあった。

駐車場脇にある入口の広場に丸い石のモニュメント。この上に登って遊ぶのだろう。
案内図には「かぼちゃ広場」となっています。

公園の周りに散策路があり、花も咲いています。

でもこの公園の特徴はここから直ぐに川が見えることです。
「展望デッキ」だそうです。
この日はお年寄り2人がのんびりと川から吹く風も気持ちよさそうにベンチに座っておりました。

ベンチの先は川沿いの道路がありその先は小野川(沼里川)です。
船が何艘も留っていました。
この川沿いの道もこの先を少し行くと車は通れなくなります。
江戸崎八景「洲崎の晴嵐」(遙かに望む洲崎晴嵐の後)という洲崎という昔は川に飛び出していた岬があるようですが(地図で洲崎が確認できませんでした)、今は干拓の田んぼが広がっています。
さて、「江戸崎かぼちゃ」としてブランド化されているかぼちゃ。
歴史をたどると40年ほどだといいます。
関東ローム層の畑で完熟してから収穫をするもので、美味しいのはもちろんですが、ブランド化されているのでお値段もそれなりにします。
何故この場所で「かぼちゃ」なのでしょうか?
どうやら近くにある美浦トレセン(競走馬トレーニングセンター)が関係していそうです。
このトレセンには競走馬が2000頭近く飼育されているようです。
そして、栄養たっぷりの餌で元気に飼育されている馬糞も栄養価も高く、トレセン内で微生物で発酵処理されて有機肥料に生まれ変わります。
この有機肥料が様々な農作物にとても良いそうです。
野菜、米、マッシュルーム栽培などにも使われているといいます。
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地図には「リバーサイドパーク」となっている。
確かに川沿いなのでリバーサイドに違いない。
洒落たネーミングなのに「かぼちゃ公園」と案内にはあった。

駐車場脇にある入口の広場に丸い石のモニュメント。この上に登って遊ぶのだろう。
案内図には「かぼちゃ広場」となっています。

公園の周りに散策路があり、花も咲いています。

でもこの公園の特徴はここから直ぐに川が見えることです。
「展望デッキ」だそうです。
この日はお年寄り2人がのんびりと川から吹く風も気持ちよさそうにベンチに座っておりました。

ベンチの先は川沿いの道路がありその先は小野川(沼里川)です。
船が何艘も留っていました。
この川沿いの道もこの先を少し行くと車は通れなくなります。
江戸崎八景「洲崎の晴嵐」(遙かに望む洲崎晴嵐の後)という洲崎という昔は川に飛び出していた岬があるようですが(地図で洲崎が確認できませんでした)、今は干拓の田んぼが広がっています。
さて、「江戸崎かぼちゃ」としてブランド化されているかぼちゃ。
歴史をたどると40年ほどだといいます。
関東ローム層の畑で完熟してから収穫をするもので、美味しいのはもちろんですが、ブランド化されているのでお値段もそれなりにします。
何故この場所で「かぼちゃ」なのでしょうか?
どうやら近くにある美浦トレセン(競走馬トレーニングセンター)が関係していそうです。
このトレセンには競走馬が2000頭近く飼育されているようです。
そして、栄養たっぷりの餌で元気に飼育されている馬糞も栄養価も高く、トレセン内で微生物で発酵処理されて有機肥料に生まれ変わります。
この有機肥料が様々な農作物にとても良いそうです。
野菜、米、マッシュルーム栽培などにも使われているといいます。


稲敷散歩(11)-管天寺(土岐原氏の寺)
一昨日書いたリバーサイドパーク(かぼちゃ公園)のところを川沿いに少し北上(霞ヶ浦方面)した比較的低地にこの管天寺(かんてんじ)がある。
山号は「江崎山(こうきざん)」という曹洞宗の禅寺である。
この寺は江戸崎城主の土岐原景成(土岐原氏というが、土岐氏の方が一般的のようだ)が創建した寺だ。
この土岐氏は美濃に勢力を張った清和源氏系の土岐氏の一族で、南北朝時代の末期1423年に足利持氏の常陸小栗氏(旧協和町あたり?)討伐に関東に進出してこの江戸崎(信太荘)に入った。
その頃の話としては、このあたりは霞ヶ浦(内海)の一部で水運が発達しており、海賊も出没していたという。土岐氏はこの海賊も取締り、海の実権もにぎっていったようです。
少しそのような時代背景も見ないといけないでしょう。

この寺は、創建された時(1490年)は現在の場所ではなく、前に書いた五百羅漢山のある寺(瑞祥院)のその南側、今の鹿島神社があるところだそうです。
この鹿島神社は、市街地にある結構大きな神社です。また後で紹介します。

寺の入口に江戸崎八景の碑「江崎山の晩鐘」(江崎山の晩鐘幽壑(ゆうがく)に響き)があります。
この管天寺は、江戸崎城で戦国時代末期迄160~170年続いた土岐原氏の菩提寺(管天寺の名前も土岐原景成の法名からきています)として栄えますが、1590年に豊臣方(佐竹氏)により江戸崎城・龍ケ崎城とともに焼け落ちました。
上の句はこの時の想いを歌ったものでしょうか?
その後(いつ頃か明確でない?)現在の地に再建し、七堂伽藍も整備して元禄10年(1697)には郡内の中心寺院となりました。
しかし、1809年に寺堂は焼失し、1820年に再建されたそうです。

この寺は曹洞宗の禅寺です。「不許葷酒入山門」の戒壇石が置かれていました。
(1822年に、湯殿山・月山・羽黒山、西国・秩父・坂東巡礼供養塔として建立されたものだそうです。)

寺の裏手です。

竹林が綺麗です。

寺の歴代住職の墓が、裏手の墓地にあります。そこに行く道の脇にはたくさんの石仏が置かれています。

寺の境内に石が2つ置かれています。どうやら力石のようです。
力持ちが力比べをしたのでしょうか。持ち上げてみようとも思ったのですが石は見かけよりもとても重いのです。動かすことも出来そうにありません。
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山号は「江崎山(こうきざん)」という曹洞宗の禅寺である。
この寺は江戸崎城主の土岐原景成(土岐原氏というが、土岐氏の方が一般的のようだ)が創建した寺だ。
この土岐氏は美濃に勢力を張った清和源氏系の土岐氏の一族で、南北朝時代の末期1423年に足利持氏の常陸小栗氏(旧協和町あたり?)討伐に関東に進出してこの江戸崎(信太荘)に入った。
その頃の話としては、このあたりは霞ヶ浦(内海)の一部で水運が発達しており、海賊も出没していたという。土岐氏はこの海賊も取締り、海の実権もにぎっていったようです。
少しそのような時代背景も見ないといけないでしょう。

この寺は、創建された時(1490年)は現在の場所ではなく、前に書いた五百羅漢山のある寺(瑞祥院)のその南側、今の鹿島神社があるところだそうです。
この鹿島神社は、市街地にある結構大きな神社です。また後で紹介します。

寺の入口に江戸崎八景の碑「江崎山の晩鐘」(江崎山の晩鐘幽壑(ゆうがく)に響き)があります。
この管天寺は、江戸崎城で戦国時代末期迄160~170年続いた土岐原氏の菩提寺(管天寺の名前も土岐原景成の法名からきています)として栄えますが、1590年に豊臣方(佐竹氏)により江戸崎城・龍ケ崎城とともに焼け落ちました。
上の句はこの時の想いを歌ったものでしょうか?
その後(いつ頃か明確でない?)現在の地に再建し、七堂伽藍も整備して元禄10年(1697)には郡内の中心寺院となりました。
しかし、1809年に寺堂は焼失し、1820年に再建されたそうです。

この寺は曹洞宗の禅寺です。「不許葷酒入山門」の戒壇石が置かれていました。
(1822年に、湯殿山・月山・羽黒山、西国・秩父・坂東巡礼供養塔として建立されたものだそうです。)

寺の裏手です。

竹林が綺麗です。

寺の歴代住職の墓が、裏手の墓地にあります。そこに行く道の脇にはたくさんの石仏が置かれています。

寺の境内に石が2つ置かれています。どうやら力石のようです。
力持ちが力比べをしたのでしょうか。持ち上げてみようとも思ったのですが石は見かけよりもとても重いのです。動かすことも出来そうにありません。


稲敷散歩(12)-大念寺(江戸崎)
さて今日は江戸崎市内にあるもうひとつの寺大念寺を紹介します。
ここには徳川家康の植えたという「逆さ銀杏」があり、寺の紋にも三つ葉葵が使われています。
正式には正定山知光院と号する浄土宗の寺院で、この江戸崎に戦国時代末期に入ってきた佐竹氏の実弟である芦名重盛(義広改め)により天正18年(1590)に(もう少し湖岸よりの浜地区?)に建てられました。
正式には浄土宗の高僧(肥前国(佐賀県)生れ)源誉慶厳の開山といわれ、この僧も小田氏の下でつくばに大念寺を建てましたが、小田氏が戦いに敗れたため、下総松崎(しもうさまんさき)や隣の阿見町にも移り大念寺を建てたようです。しかし芦名重盛に請われてここ江戸崎に寺を建てたようです。
(恐らくそれだけ名前の通った高僧だったのでしょうね。)
しかし、寺は10年後の1600年に火災で焼け、1602年に現在地に再建されたものの、翌年の1603年には佐竹氏の秋田転封に伴って芦名重盛も秋田角館に移されました。
そして角館ではまた名前を変え、芦名義勝と改名しています。
芦名(蘆名)氏についてはまたの機会としますが、天台宗の不動院とこの浄土宗の大念寺を芦名氏が帰依することにより発展を遂げますが、この期間は13年間と短いものとなってしまいました。
これは石岡の場合と全く同じです。
しかし、この短い期間に寺院は大切にされたようで、戦国時代の中でかなり真剣に街並みの復興等を行なったように見えます。
石岡でも佐竹氏は町や寺を焼いてしまった張本人と思われ、どこかに不人気となっている感が拭えませんが、かなり寺や街並みの復旧に力を注いだように思われます。

大念寺の山門です。かなり大きな楼門です。
芦名氏が秋田に移ると、徳川家康から寺領(河内郡東条庄内、後に信太郡蒲ヶ山村)として50石の御朱印地の寄贈を受け、大いに発展を遂げます。
江戸時代には浄土宗の関東18壇林の一つとして、多くの浄土僧の修行の場として栄えていきました。
末寺は15ヵ寺数えたといいます。
また寺の住職も(江戸)芝の増上寺の伴頭の中から選ばれたといいます。結構格式が高かったようです。

この楼門は江戸時代に建てられたものというが、年代ははっきりしたものがなかった。
しかし、江戸崎の町の9割が焼けた大火事「大仏火事と呼ばれる)が文化6年(1809)に起こるが、この時にはここは焼けなかったそうである。

これが徳川家康が手植えしたという銀杏の木(逆さ銀杏)です。
現地にも説明板はなく、本当かどうかについても書かれたものはありませんでした。
しかし、この寺にはかなり貴重なものが残されており、本当と考えてもまあ良いのかな?などと思います。

これは?

こちらは井戸です。この辺の寺によくこの屋根のある井戸が置かれています。
楼門の近くには鐘楼が造られていたようですが、現在は残っていません。

こちらが楼門と本堂の全景です。なかなかいい風情ですよね。
さて、先ほど書いた200年ほど前の大火「大仏火事」というのが気になりました。
調べた結果、
「この大念寺の末寺の寿経寺で寺の普請中に火事が起こったそうです。
当時かなりの強風が吹いており、瞬く間に火が燃え広がり、この寺(寿経寺)には立派な大仏様が置かれていて、何とか持ち出そうとしましたが重くて持ち出せなくなり、首と胴を切り離して何とか持ち出したのだそうです。
その後この大念寺にも火が迫ったが風の向きが変わりなんとか大念寺は焼けずに済んだが、町の600戸や管天寺などが焼けてしまったそうです。
話はこれだけでは終わりません。この大仏様は元々鎌倉の寺で火災がおきて、筑波の寺に安置されたが、ここでも火事にあって焼け出され、この寿経寺に移されたのですが、ここでもこの大火が起こってしまったのだそうです。
そのため、この火事は大仏火事と呼ばれるようになったようです。
しかし、この大仏様はその後大念寺に安置されて、いまだ火事は起きていないそうです。
平成になってこの大仏様も大修理を終え、まばゆいほどの光彩を放っているそうです。
この大念寺には「大念寺文書」という貴重な古文書が残されているそうです。
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ここには徳川家康の植えたという「逆さ銀杏」があり、寺の紋にも三つ葉葵が使われています。
正式には正定山知光院と号する浄土宗の寺院で、この江戸崎に戦国時代末期に入ってきた佐竹氏の実弟である芦名重盛(義広改め)により天正18年(1590)に(もう少し湖岸よりの浜地区?)に建てられました。
正式には浄土宗の高僧(肥前国(佐賀県)生れ)源誉慶厳の開山といわれ、この僧も小田氏の下でつくばに大念寺を建てましたが、小田氏が戦いに敗れたため、下総松崎(しもうさまんさき)や隣の阿見町にも移り大念寺を建てたようです。しかし芦名重盛に請われてここ江戸崎に寺を建てたようです。
(恐らくそれだけ名前の通った高僧だったのでしょうね。)
しかし、寺は10年後の1600年に火災で焼け、1602年に現在地に再建されたものの、翌年の1603年には佐竹氏の秋田転封に伴って芦名重盛も秋田角館に移されました。
そして角館ではまた名前を変え、芦名義勝と改名しています。
芦名(蘆名)氏についてはまたの機会としますが、天台宗の不動院とこの浄土宗の大念寺を芦名氏が帰依することにより発展を遂げますが、この期間は13年間と短いものとなってしまいました。
これは石岡の場合と全く同じです。
しかし、この短い期間に寺院は大切にされたようで、戦国時代の中でかなり真剣に街並みの復興等を行なったように見えます。
石岡でも佐竹氏は町や寺を焼いてしまった張本人と思われ、どこかに不人気となっている感が拭えませんが、かなり寺や街並みの復旧に力を注いだように思われます。

大念寺の山門です。かなり大きな楼門です。
芦名氏が秋田に移ると、徳川家康から寺領(河内郡東条庄内、後に信太郡蒲ヶ山村)として50石の御朱印地の寄贈を受け、大いに発展を遂げます。
江戸時代には浄土宗の関東18壇林の一つとして、多くの浄土僧の修行の場として栄えていきました。
末寺は15ヵ寺数えたといいます。
また寺の住職も(江戸)芝の増上寺の伴頭の中から選ばれたといいます。結構格式が高かったようです。

この楼門は江戸時代に建てられたものというが、年代ははっきりしたものがなかった。
しかし、江戸崎の町の9割が焼けた大火事「大仏火事と呼ばれる)が文化6年(1809)に起こるが、この時にはここは焼けなかったそうである。

これが徳川家康が手植えしたという銀杏の木(逆さ銀杏)です。
現地にも説明板はなく、本当かどうかについても書かれたものはありませんでした。
しかし、この寺にはかなり貴重なものが残されており、本当と考えてもまあ良いのかな?などと思います。

これは?

こちらは井戸です。この辺の寺によくこの屋根のある井戸が置かれています。
楼門の近くには鐘楼が造られていたようですが、現在は残っていません。

こちらが楼門と本堂の全景です。なかなかいい風情ですよね。
さて、先ほど書いた200年ほど前の大火「大仏火事」というのが気になりました。
調べた結果、
「この大念寺の末寺の寿経寺で寺の普請中に火事が起こったそうです。
当時かなりの強風が吹いており、瞬く間に火が燃え広がり、この寺(寿経寺)には立派な大仏様が置かれていて、何とか持ち出そうとしましたが重くて持ち出せなくなり、首と胴を切り離して何とか持ち出したのだそうです。
その後この大念寺にも火が迫ったが風の向きが変わりなんとか大念寺は焼けずに済んだが、町の600戸や管天寺などが焼けてしまったそうです。
話はこれだけでは終わりません。この大仏様は元々鎌倉の寺で火災がおきて、筑波の寺に安置されたが、ここでも火事にあって焼け出され、この寿経寺に移されたのですが、ここでもこの大火が起こってしまったのだそうです。
そのため、この火事は大仏火事と呼ばれるようになったようです。
しかし、この大仏様はその後大念寺に安置されて、いまだ火事は起きていないそうです。
平成になってこの大仏様も大修理を終え、まばゆいほどの光彩を放っているそうです。
この大念寺には「大念寺文書」という貴重な古文書が残されているそうです。


稲敷散歩(13)-鹿島神社(江戸崎)
江戸崎の市街地に大きな神社がある。これが鹿島神社だが、どのような歴史があるものなのだろうか?

商店街などのある通りに面しているところに一の鳥居がある。

少し進んだところに上り階段がありその先に二の鳥居がある。

鳥居の脇には古くからの狛犬が置かれている。
いかにも神社に権威付けをしていると思われるような文字が鳥居に彫られている。
「東宮殿下渡欧祈念」(大正10年造立)のようです。
東宮殿下とは皇太子のことですから当時の皇太子は昭和天皇のことでしょうか?
鹿島神社は、旧江戸崎町内に10ヶ所あるそうで、その代表格がこの街中神社である。
元々この地区は物部氏の香取神が中心だと思ってきたが、どうやらこの街中にはその足跡は残されていないようだ。
先日紹介した江戸崎城主土岐原氏の菩提樹である「管天寺」がこの鹿島神社の場所にあったと紹介しました。
この鹿島神社は江戸崎城主6代目土岐治英(ときはるふさ)が、江戸崎城の守護神として鹿島神宮から勧請した神社だといいます。
やはりその時代のものなのだと変に納得です。

この神社には江戸時代の扁額なども残されており、ちょっと変わったところでは神紋が「さくら」の花のようです。
(訂正)この紋は土岐氏の家紋「土岐桔梗」だそうです。

本殿です。立派な造りです。

拝殿脇には欅の木でしょうか、かなりの古木が残されています。

境内に相撲の土俵がありました。毎年9月1日に奉納相撲大会が行われるようです。
石岡の総社宮の相撲大会は高校の相撲選手権というものですが、どうもこちらは地元の子供たちが参加して楽しく行う昔ながらの地区相撲大会のようです。

歴史については上の説明板を読んで頂ければよいとおもいます。
先日訪れた時には近くに7月末に行われる「祇園祭」のポスターが貼られていました。
地元ではかなり大きなお祭りのようです。
でも祇園祭は八坂神社や天王社などと思っておりましたが、鹿島神社でも行われるのですね。
(追記:この江戸崎祇園祭はここ鹿島神社と南西側に少し行った旧天王地区にある「八坂神社」との共同のお祭りだといいます。400年くらいの伝統のある祭りだそうです。)
調べると全国各地の鹿島神社でも祇園祭と称した祭りは多いようです。
ところで「いしおかのお祭り」を祇園祭というと、何故かキョトンとされてしまうようですが、基本構成は同じですね。

境内には「忠魂碑」などが置かれていますが、いろいろな神社を合祀してお祀りしているようです。
場所は江戸崎小学校のグランドと隣接しており、小学校の敷地は多分昔の江戸崎城の場所ではないかと思います。
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商店街などのある通りに面しているところに一の鳥居がある。

少し進んだところに上り階段がありその先に二の鳥居がある。

鳥居の脇には古くからの狛犬が置かれている。
いかにも神社に権威付けをしていると思われるような文字が鳥居に彫られている。
「東宮殿下渡欧祈念」(大正10年造立)のようです。
東宮殿下とは皇太子のことですから当時の皇太子は昭和天皇のことでしょうか?
鹿島神社は、旧江戸崎町内に10ヶ所あるそうで、その代表格がこの街中神社である。
元々この地区は物部氏の香取神が中心だと思ってきたが、どうやらこの街中にはその足跡は残されていないようだ。
先日紹介した江戸崎城主土岐原氏の菩提樹である「管天寺」がこの鹿島神社の場所にあったと紹介しました。
この鹿島神社は江戸崎城主6代目土岐治英(ときはるふさ)が、江戸崎城の守護神として鹿島神宮から勧請した神社だといいます。
やはりその時代のものなのだと変に納得です。

この神社には江戸時代の扁額なども残されており、
(訂正)この紋は土岐氏の家紋「土岐桔梗」だそうです。

本殿です。立派な造りです。

拝殿脇には欅の木でしょうか、かなりの古木が残されています。

境内に相撲の土俵がありました。毎年9月1日に奉納相撲大会が行われるようです。
石岡の総社宮の相撲大会は高校の相撲選手権というものですが、どうもこちらは地元の子供たちが参加して楽しく行う昔ながらの地区相撲大会のようです。

歴史については上の説明板を読んで頂ければよいとおもいます。
先日訪れた時には近くに7月末に行われる「祇園祭」のポスターが貼られていました。
地元ではかなり大きなお祭りのようです。
でも祇園祭は八坂神社や天王社などと思っておりましたが、鹿島神社でも行われるのですね。
(追記:この江戸崎祇園祭はここ鹿島神社と南西側に少し行った旧天王地区にある「八坂神社」との共同のお祭りだといいます。400年くらいの伝統のある祭りだそうです。)
調べると全国各地の鹿島神社でも祇園祭と称した祭りは多いようです。
ところで「いしおかのお祭り」を祇園祭というと、何故かキョトンとされてしまうようですが、基本構成は同じですね。

境内には「忠魂碑」などが置かれていますが、いろいろな神社を合祀してお祀りしているようです。
場所は江戸崎小学校のグランドと隣接しており、小学校の敷地は多分昔の江戸崎城の場所ではないかと思います。


稲敷散歩(14)ー歴史の足跡(江戸崎)
今日は暑かったし、どうも調子がよくない。
今日書こうとしていたことがまとまらないので、少しあとに回して、せっかく江戸崎の街レポートを始めたので、この町の歴史を少しだけ紐解いておきたい。
この水辺の中心地を見てきたが、ここには古代の歴史が感じられない。
もう少し何か出てくるかと思ったのだが・・・・・。
古代はもっと山寄りの方が栄えたのだろう。少しずつこちらも紐解かねばならない。
私はどちらかというと1000年ほど前の方が興味がある。
ではこの都市は?
今まで歩いたところではやはり美濃(岐阜)の土岐氏(土岐原氏)が嘉慶1年(1387)室町幕府の関東管領上杉氏の求めにより、常陸大掾氏系の小栗氏(小栗判官(ほうがん)の話で有名な小栗氏です)の討伐に関東にやってきてこの江戸崎の地を得て、江戸崎城を築いたことが始まりのようです。
その城があったのは江戸崎小学校の場所で、土岐氏の菩提寺である「管天寺」が今の鹿島神社のところにあったようです。
そしてこの土岐氏による支配は戦国時代末期まで、約200年続きます。
しかし、私のいる石岡と同じく豊臣秀吉に常陸国を任せられた佐竹氏の軍勢に滅ぼされてしまいました。
当時佐竹氏は各地に血縁を送っており、佐竹氏の実弟が会津の芦名家を継いでおりました。
しかし、会津は伊達政宗に攻められて、会津芦名氏は常陸国の佐竹氏のもとに逃げてきていたのです。
そして、この江戸崎攻めに加わり、秀吉より江戸崎4万5千石をもらい、ここに入ることになります。
天正17年(1589)のことです。
そして芦名氏は会津より高僧「随風」(後の天海大僧正)を迎え入れ、不動院の僧正に迎えたのです。
しかし、徳川家康により佐竹氏が秋田に転封になると、ここの芦名氏も秋田の角館に移ることになります。
1602年(慶長7年)のことです。
(それまで角館にいたのは戸沢氏で、この時に常陸国茨城郡小河城(4万石)へ移り、少しして出羽新庄藩に移っています。)
このため、江戸崎の芦名氏は12年くらいしかいなかったことになりますが、今の街並み等の多くがこの時に作られたものと考えられます。
芦名盛重もこうして見ると角館の街作りも合わせて、大した人物だと思います。
随風(天海)はまだこの寺に残りますが、その頃の話はまた後でしましょう。
江戸時代には徳川家臣の青山氏が入り、老中まで栄進して石を増やし、1620年に武蔵国岩槻藩に行ったため、そのあとは古渡藩より丹羽氏が入るが1622年に棚倉藩に移動となって、ここの江戸崎藩は廃藩となってしまいます。
しかし、霞ヶ浦による水運が発達して醤油や問屋などが大いに発展を遂げていったのです。

江戸崎不動院

不動院の「吉祥妙童子像」
さて、ここで今日は終わりですが、芦名氏は会津と書いたが、その元をたどると三浦半島の三浦氏である。
常陸太田の1000年杉「三浦杉」の名前のもととなった那須の九尾の狐退治の三浦大介の弟の血筋である。
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今日書こうとしていたことがまとまらないので、少しあとに回して、せっかく江戸崎の街レポートを始めたので、この町の歴史を少しだけ紐解いておきたい。
この水辺の中心地を見てきたが、ここには古代の歴史が感じられない。
もう少し何か出てくるかと思ったのだが・・・・・。
古代はもっと山寄りの方が栄えたのだろう。少しずつこちらも紐解かねばならない。
私はどちらかというと1000年ほど前の方が興味がある。
ではこの都市は?
今まで歩いたところではやはり美濃(岐阜)の土岐氏(土岐原氏)が嘉慶1年(1387)室町幕府の関東管領上杉氏の求めにより、常陸大掾氏系の小栗氏(小栗判官(ほうがん)の話で有名な小栗氏です)の討伐に関東にやってきてこの江戸崎の地を得て、江戸崎城を築いたことが始まりのようです。
その城があったのは江戸崎小学校の場所で、土岐氏の菩提寺である「管天寺」が今の鹿島神社のところにあったようです。
そしてこの土岐氏による支配は戦国時代末期まで、約200年続きます。
しかし、私のいる石岡と同じく豊臣秀吉に常陸国を任せられた佐竹氏の軍勢に滅ぼされてしまいました。
当時佐竹氏は各地に血縁を送っており、佐竹氏の実弟が会津の芦名家を継いでおりました。
しかし、会津は伊達政宗に攻められて、会津芦名氏は常陸国の佐竹氏のもとに逃げてきていたのです。
そして、この江戸崎攻めに加わり、秀吉より江戸崎4万5千石をもらい、ここに入ることになります。
天正17年(1589)のことです。
そして芦名氏は会津より高僧「随風」(後の天海大僧正)を迎え入れ、不動院の僧正に迎えたのです。
しかし、徳川家康により佐竹氏が秋田に転封になると、ここの芦名氏も秋田の角館に移ることになります。
1602年(慶長7年)のことです。
(それまで角館にいたのは戸沢氏で、この時に常陸国茨城郡小河城(4万石)へ移り、少しして出羽新庄藩に移っています。)
このため、江戸崎の芦名氏は12年くらいしかいなかったことになりますが、今の街並み等の多くがこの時に作られたものと考えられます。
芦名盛重もこうして見ると角館の街作りも合わせて、大した人物だと思います。
随風(天海)はまだこの寺に残りますが、その頃の話はまた後でしましょう。
江戸時代には徳川家臣の青山氏が入り、老中まで栄進して石を増やし、1620年に武蔵国岩槻藩に行ったため、そのあとは古渡藩より丹羽氏が入るが1622年に棚倉藩に移動となって、ここの江戸崎藩は廃藩となってしまいます。
しかし、霞ヶ浦による水運が発達して醤油や問屋などが大いに発展を遂げていったのです。

江戸崎不動院

不動院の「吉祥妙童子像」
さて、ここで今日は終わりですが、芦名氏は会津と書いたが、その元をたどると三浦半島の三浦氏である。
常陸太田の1000年杉「三浦杉」の名前のもととなった那須の九尾の狐退治の三浦大介の弟の血筋である。


稲敷散歩(15)-へっぴり坂
徳川家康、家光などの信仰を集め、江戸の町作りから日光の墓所までいろいろな影響力を持ったといわれている「天海」大僧正がおります。
この天海僧正は謎めいたところも多く、筆跡が非常に似通っているということで明智光秀ではないかとも歴史ミステリーなどでは紹介されています。
しかし、ここ江戸崎不動院の住職をしていたことはほとんど紹介されていません。
なぜなのでしょう。
ここ江戸崎には昔話を丹念に残されて公開しているサイトがあります。
(江戸崎の昔話 → こちら)
このような取り組みを1985年からされているようですがとても素晴らしいことだと思います。
この話の中で、天海僧正について書かれているものが3つ載っていました。
二つは干ばつが続いて困っていた時に雨乞いのお祈りをして雨を降らせたというもので、これは「そんな話もありなん」と読みましたが、面白い話がもう一つの話なのです。(こちらに原文)
一部を抜粋させていただきます。
-------------------------------------------
不動院の院主になるには、あるしきたりがあった。不動院が本寺でその下に格が一番上で古渡の円密院、二番目阿波崎の満願寺、そして三番目沼田の吉祥院と末寺が三つあり、・・・院主は末寺の円密院と満願寺から選ばれるしきたりになっていたのだ。これは土岐の殿様がつくったしきたりだった。
ところが芦名の殿様はこのしきたりを無視し、ほかから連れてきた天海僧正を院主にしてしまった。さあ、おもしろくないのが円密院と満願寺のお坊さんたち。奇跡を起こしてますます名声を上げている天海へのねたみも手伝って、天海を殺そうか追放しようかという動きが日に日に強まっていった。
そんなとき、突然芦名の殿様が秋田へ国替えすることになった。円密院と満願寺の坊さんたちが小躍りして喜んだのはいうまでもなかった。
芦名の殿様が行列を従えて江戸崎を離れた日の夜。天海は昼間の疲れから早めに床に入り、うとうとし始めた時だった。カシャカシャという変な物音に気づき、雨戸を細めに開けて外を見るとびっくり仰天。十人ほどの男たちが手に手になぎなたや刀を持ち、今押し入ろうとしていた時だった。天海は腰を抜かしそうになり、あわてて裏門から寝間着姿のまま飛び出した。裸足のままだった。ひたすら西の吉祥院へ向かって駆け出した。すぐそこに坂があり震える足で下り始めたとき、なんとおならが、プッ。人はあまりの恐怖に小便を漏らす事があるが、天海はおならが出てしまった。その後その坂は「へっぴり坂」と呼ばれるようになったとか。
---------------------------------------
さて、面白いと思ったのはいくつかあります。
1)天海ともあろう有名な修行を積んだ僧侶が、なぜ逃げ出したのか?
石岡の板敷山の麓にある大覚寺には「親鸞法難の遺跡」という碑が置かれています。
山伏弁円が親鸞の名声を妬み、板敷山で親鸞をおそうと待ち構えていました。
しかし親鸞がいつまでたってもやってこないので稲田の草庵に押しかけます。
親鸞は穏やかな話し方で弁円を諭し、その姿に弁円は親鸞の弟子になります。
そして親鸞と布教に出かけていくのですが、ある日この板敷峠の道を二人で通った時に弁円はハラハラと涙を落とし「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」と詠んでいます。
今では弁円懺悔の地と石碑が立てたれています。
ずいぶんと違いますね。
でもこれは恐らくこの地にまだ200年続いた「土岐の殿様」への思慕があり、新たにその土岐氏を滅ぼした佐竹派の「芦名氏」が連れてきた随風(後の天海)を快く思っていなかった人がかなりいたのでしょう。
2)もう一つ面白いと思ったのは「へっぴり坂」です。
石岡には府中城が焼け落ちた時、馬に乗った武士が焼ける城を眺めて「ああ残念!」といったという「残念坂」というところがあるそうです。ところがこの場所がよくわからない。
まあそれは良いけれどおもわず「屁」をしてしまったという「へっぴり坂」って何か面白くありませんか?
あまり下品でいただけないですが・・・・。
全国の「へっぴり坂」やそれに類似の名前の坂を調べてみましたよ。
こんなことをしていると時間がいくらあっても足りませんので少しだけお知らせします。
少し長いので興味があったら読んでみてください。
1)屁っぷり坂:神奈川県三浦市・・・北原白秋ゆかりの坂、源頼朝を村人がこの坂上から拝んだ。
「屁の神を 赤き旗立て祭れるところ」(白秋)
この三浦市は三浦氏が治めていたところで、この三浦氏の親族が会津に渡り芦名氏を興す。
その芦名氏は伊達政宗に攻められて江戸崎に入る。(つながりがありますね)
2)へっぴり坂:神奈川県横須賀市芦名・・・上の三浦氏から分かれた氏族で同じ芦名氏を名乗っている氏族がいたところです。このあたりでは最も急な坂だそうです。
3)屁っぷり坂:新潟県赤塚・・・寛延4年(1751)に開通した坂、江戸時代、あまりの急斜面で切な屁(せつなべ)が出るほどであったため、この名前で呼ばれていると説明にありました。
地元で、この坂を観光に看板を出そうとして坂のそばの人に反対された。
その人いわく「今までこの名前の坂のそばだったのでどれだけ馬鹿にされて呼ばれたものか。こんな名前はやめてくれ」・・・もっともです。
4)へっぴり坂:金谷から掛川の東海道・・・徳川家康が戦いに敗れ、敵に追われてこの坂を越える時、「セツナ屁」を放ったのでこう呼ぶようになったとか、「兵放ち坂」が訛って呼ばれたとも。
5)へっぴり坂:常陸太宮市大山愛宕山・・・室町時代に石塚氏、木場氏が組んで大山氏を愛宕山に追い込み下から火を放ちました。しかし火防の神を祀る愛宕山により火は山の上から下に向かって吹き荒れます。
小場の坂まで逃げもどった兵士たちは、ここで追ってきた大山方に最後っぺを放ちました。
6)へっぴり坂:栃木県益子・・・お殿様がこの坂が急すぎて馬では登れず、徒歩ではあはあ言いながら登っていたそうです。そして殿様が通り過ぎるのを平伏して待っていたら、お殿様「御屁」をぶっ放したそうで、その音が遠くまで響き渡るくらい大きかったんだそうだ。
7)へっぴり坂:東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘・・・急な坂で屁が出るほどだそうで、
「へっぴり坂でへをしって 百草、倉沢暗やんで 耕地、落川粉が降る」
なんて歌まで残るという。
その他、
へっぴり坂:保土ヶ谷区月見台、神奈川県海老名市、厚木市など
屁っぷり坂:千葉県流山市
屁っぴり坂:伊勢原大山街道
幣振坂(へいふりざか):長崎県筑後町
屈振坂遺跡(へっぷりざか):新潟県柏崎市
などがありました。
この呼び名は、主に街道の道であるが、昔は舗装等されていないので馬では登れず滑るような急坂のため「へっぴり腰」で登らざるを得ない坂をいつの間にか「へっぴり坂」と呼ばれるようになり、徳川家康や、その地の殿様が屁をしたなどと、いつの間にか面白半分に言い伝えたたわいもない話だったようです。
つまらぬ話をしてしまいましたね。お食事中の人はごめんなさい。
でもその時代に娯楽もありませんから、こんな話をして憂さ晴らしもあったのだと思います。
天海僧正の話も、その時代の地元の人々の思いが表れていそうで面白く思ったのです。
下に、不動院の天海僧正を襲った円蜜寺、と満願寺の位置、および天海が逃げ込んだという吉祥院の位置を地図に表しました。

この記事から、そこに載っていた3つの寺院に行ってみました。
とても興味深い寺でしたので、続けてまた明日以降に載せます。
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この天海僧正は謎めいたところも多く、筆跡が非常に似通っているということで明智光秀ではないかとも歴史ミステリーなどでは紹介されています。
しかし、ここ江戸崎不動院の住職をしていたことはほとんど紹介されていません。
なぜなのでしょう。
ここ江戸崎には昔話を丹念に残されて公開しているサイトがあります。
(江戸崎の昔話 → こちら)
このような取り組みを1985年からされているようですがとても素晴らしいことだと思います。
この話の中で、天海僧正について書かれているものが3つ載っていました。
二つは干ばつが続いて困っていた時に雨乞いのお祈りをして雨を降らせたというもので、これは「そんな話もありなん」と読みましたが、面白い話がもう一つの話なのです。(こちらに原文)
一部を抜粋させていただきます。
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不動院の院主になるには、あるしきたりがあった。不動院が本寺でその下に格が一番上で古渡の円密院、二番目阿波崎の満願寺、そして三番目沼田の吉祥院と末寺が三つあり、・・・院主は末寺の円密院と満願寺から選ばれるしきたりになっていたのだ。これは土岐の殿様がつくったしきたりだった。
ところが芦名の殿様はこのしきたりを無視し、ほかから連れてきた天海僧正を院主にしてしまった。さあ、おもしろくないのが円密院と満願寺のお坊さんたち。奇跡を起こしてますます名声を上げている天海へのねたみも手伝って、天海を殺そうか追放しようかという動きが日に日に強まっていった。
そんなとき、突然芦名の殿様が秋田へ国替えすることになった。円密院と満願寺の坊さんたちが小躍りして喜んだのはいうまでもなかった。
芦名の殿様が行列を従えて江戸崎を離れた日の夜。天海は昼間の疲れから早めに床に入り、うとうとし始めた時だった。カシャカシャという変な物音に気づき、雨戸を細めに開けて外を見るとびっくり仰天。十人ほどの男たちが手に手になぎなたや刀を持ち、今押し入ろうとしていた時だった。天海は腰を抜かしそうになり、あわてて裏門から寝間着姿のまま飛び出した。裸足のままだった。ひたすら西の吉祥院へ向かって駆け出した。すぐそこに坂があり震える足で下り始めたとき、なんとおならが、プッ。人はあまりの恐怖に小便を漏らす事があるが、天海はおならが出てしまった。その後その坂は「へっぴり坂」と呼ばれるようになったとか。
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さて、面白いと思ったのはいくつかあります。
1)天海ともあろう有名な修行を積んだ僧侶が、なぜ逃げ出したのか?
石岡の板敷山の麓にある大覚寺には「親鸞法難の遺跡」という碑が置かれています。
山伏弁円が親鸞の名声を妬み、板敷山で親鸞をおそうと待ち構えていました。
しかし親鸞がいつまでたってもやってこないので稲田の草庵に押しかけます。
親鸞は穏やかな話し方で弁円を諭し、その姿に弁円は親鸞の弟子になります。
そして親鸞と布教に出かけていくのですが、ある日この板敷峠の道を二人で通った時に弁円はハラハラと涙を落とし「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」と詠んでいます。
今では弁円懺悔の地と石碑が立てたれています。
ずいぶんと違いますね。
でもこれは恐らくこの地にまだ200年続いた「土岐の殿様」への思慕があり、新たにその土岐氏を滅ぼした佐竹派の「芦名氏」が連れてきた随風(後の天海)を快く思っていなかった人がかなりいたのでしょう。
2)もう一つ面白いと思ったのは「へっぴり坂」です。
石岡には府中城が焼け落ちた時、馬に乗った武士が焼ける城を眺めて「ああ残念!」といったという「残念坂」というところがあるそうです。ところがこの場所がよくわからない。
まあそれは良いけれどおもわず「屁」をしてしまったという「へっぴり坂」って何か面白くありませんか?
あまり下品でいただけないですが・・・・。
全国の「へっぴり坂」やそれに類似の名前の坂を調べてみましたよ。
こんなことをしていると時間がいくらあっても足りませんので少しだけお知らせします。
少し長いので興味があったら読んでみてください。
1)屁っぷり坂:神奈川県三浦市・・・北原白秋ゆかりの坂、源頼朝を村人がこの坂上から拝んだ。
「屁の神を 赤き旗立て祭れるところ」(白秋)
この三浦市は三浦氏が治めていたところで、この三浦氏の親族が会津に渡り芦名氏を興す。
その芦名氏は伊達政宗に攻められて江戸崎に入る。(つながりがありますね)
2)へっぴり坂:神奈川県横須賀市芦名・・・上の三浦氏から分かれた氏族で同じ芦名氏を名乗っている氏族がいたところです。このあたりでは最も急な坂だそうです。
3)屁っぷり坂:新潟県赤塚・・・寛延4年(1751)に開通した坂、江戸時代、あまりの急斜面で切な屁(せつなべ)が出るほどであったため、この名前で呼ばれていると説明にありました。
地元で、この坂を観光に看板を出そうとして坂のそばの人に反対された。
その人いわく「今までこの名前の坂のそばだったのでどれだけ馬鹿にされて呼ばれたものか。こんな名前はやめてくれ」・・・もっともです。
4)へっぴり坂:金谷から掛川の東海道・・・徳川家康が戦いに敗れ、敵に追われてこの坂を越える時、「セツナ屁」を放ったのでこう呼ぶようになったとか、「兵放ち坂」が訛って呼ばれたとも。
5)へっぴり坂:常陸太宮市大山愛宕山・・・室町時代に石塚氏、木場氏が組んで大山氏を愛宕山に追い込み下から火を放ちました。しかし火防の神を祀る愛宕山により火は山の上から下に向かって吹き荒れます。
小場の坂まで逃げもどった兵士たちは、ここで追ってきた大山方に最後っぺを放ちました。
6)へっぴり坂:栃木県益子・・・お殿様がこの坂が急すぎて馬では登れず、徒歩ではあはあ言いながら登っていたそうです。そして殿様が通り過ぎるのを平伏して待っていたら、お殿様「御屁」をぶっ放したそうで、その音が遠くまで響き渡るくらい大きかったんだそうだ。
7)へっぴり坂:東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘・・・急な坂で屁が出るほどだそうで、
「へっぴり坂でへをしって 百草、倉沢暗やんで 耕地、落川粉が降る」
なんて歌まで残るという。
その他、
へっぴり坂:保土ヶ谷区月見台、神奈川県海老名市、厚木市など
屁っぷり坂:千葉県流山市
屁っぴり坂:伊勢原大山街道
幣振坂(へいふりざか):長崎県筑後町
屈振坂遺跡(へっぷりざか):新潟県柏崎市
などがありました。
この呼び名は、主に街道の道であるが、昔は舗装等されていないので馬では登れず滑るような急坂のため「へっぴり腰」で登らざるを得ない坂をいつの間にか「へっぴり坂」と呼ばれるようになり、徳川家康や、その地の殿様が屁をしたなどと、いつの間にか面白半分に言い伝えたたわいもない話だったようです。
つまらぬ話をしてしまいましたね。お食事中の人はごめんなさい。
でもその時代に娯楽もありませんから、こんな話をして憂さ晴らしもあったのだと思います。
天海僧正の話も、その時代の地元の人々の思いが表れていそうで面白く思ったのです。
下に、不動院の天海僧正を襲った円蜜寺、と満願寺の位置、および天海が逃げ込んだという吉祥院の位置を地図に表しました。

この記事から、そこに載っていた3つの寺院に行ってみました。
とても興味深い寺でしたので、続けてまた明日以降に載せます。


稲敷散歩(16)-吉祥院(江戸崎)
さて、昨日の話の続きです。江戸崎の不動院の院主として会津からやってきた随風(天海)を快く思っていなかった古渡の円蜜院や阿波崎の満願寺の僧侶たちにより襲われて、逃げ出した天海は不動院から西南方向に7~800m位離れた吉祥院に逃げました。

この天台宗の吉祥院は不動院の末寺としては一番近くで天海も心を許せるところだったのでしょう。
当時はこの山門は茅葺きの綺麗な門だったようです。

立派な屋根の本堂ですが、寺の屋根の上の寺紋は徳川の「三葉葵」のようです。

境内に置かれた石仏の一番左に「慈眼井」とあります。
慈眼大師=天海のことですね。
この「空井戸」の中に身を潜めて逃れたのだとか。
昔話によると江戸崎不動院の末寺の順位がこの事件で変わり、ここ吉祥院が上に来たことになっています。
でもこの寺を見る限り本当なのかは疑わしく思っています。
江戸崎の街を探索するとどうも古渡から阿波、香取の方とのつながりを強く感じてしまいます。
信太郡の流れがやはり下総と常陸の国境であるからかもしれない。
少なくても江戸崎の高台から美浦村、阿見町、利根町などの歴史の流れとは少しちがったものが混じっていそうなのです。
そちらの方に少し取材範囲を広げる必要がありそうです。
昔あったとされる「菟上之国」(海上之国)、安婆嶋などが気になります。
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この天台宗の吉祥院は不動院の末寺としては一番近くで天海も心を許せるところだったのでしょう。
当時はこの山門は茅葺きの綺麗な門だったようです。

立派な屋根の本堂ですが、寺の屋根の上の寺紋は徳川の「三葉葵」のようです。

境内に置かれた石仏の一番左に「慈眼井」とあります。
慈眼大師=天海のことですね。
この「空井戸」の中に身を潜めて逃れたのだとか。
昔話によると江戸崎不動院の末寺の順位がこの事件で変わり、ここ吉祥院が上に来たことになっています。
でもこの寺を見る限り本当なのかは疑わしく思っています。
江戸崎の街を探索するとどうも古渡から阿波、香取の方とのつながりを強く感じてしまいます。
信太郡の流れがやはり下総と常陸の国境であるからかもしれない。
少なくても江戸崎の高台から美浦村、阿見町、利根町などの歴史の流れとは少しちがったものが混じっていそうなのです。
そちらの方に少し取材範囲を広げる必要がありそうです。
昔あったとされる「菟上之国」(海上之国)、安婆嶋などが気になります。


稲敷散歩(17)-円蜜院
江戸崎城の土岐氏を滅ぼしてやってきた佐竹氏派の芦名氏は会津から随風(後の天海大僧正)を招いて不動院の院主に据えた。
天台宗の寺院としてはそれまで200年続いた土岐原氏(土岐氏)の庇護を受けていた不動院の末寺であったここ円蜜院の僧侶たちは不平不満を募らせ不動院の天海を襲撃した。
襲撃は失敗したというが、その後の歴史はどうなったのだろうか?
昨日は天海をかくまったという吉祥院を見たのだが、寺紋に徳川の三葉葵が使われている他には歴史もあまり感じられなかった。
さて、では円蜜院を見てみよう。
県道125号線を土浦・美浦を過ぎて佐原、銚子の方に進むと稲敷市の看板をすぎ、信太古渡(ふっと)という信号がある。
この信号のすぐ近くに変わった看板が目を引く。
年に何回もここは通っているので看板は見ていたが、それほどのものとも思わずに通り過ぎていた。
今回不動院の昔話で興味を持って見に来たのだが、とても面白く、歴史も感じられる寺だった。

県道沿いに「大聖歓喜天」という少し派手な看板が目に付く。ここが円蜜寺なのだ。

歓喜天の方が興味はあるが、まずはその隣にある「天台宗東光山 円蜜院」という寺から見てみよう。
歓喜天とは別に隣に入口が分かれている。

寺そのものは特別に大きなものではない。でもここの寺紋が気になる。
まず寺院の入口上に掲げられた紋は「笹竜胆(りんどう)」だ。これは源氏のマークだ。
確かに江戸崎城の城主土岐氏は美濃の出身で源氏の血筋だが、まえに江戸崎の鹿島神社で見かけたように「土岐桔梗」が家紋となっているので、源頼朝の源氏が使うのはこの笹竜胆だと思う。
またガラス戸についているのは菊の御紋のようなのだが・・・・。

市の教育委員会が掲げている説明文によれば西暦849年に「佐倉」の地に建てられたとある。
この佐倉はこの古渡のすぐ上の台地の方にあり、信太小太郎伝説等が残る古い場所だ。
こちらはもう少しあとに説明したい。

こちらが「大聖歓喜天」(だいしょうかんぎてん)の入口で、円蜜院の寺院とは奥で隣同士に並んでいる。
古くて立派な堂宇が目を引く。

「聖天堂」
大聖歓喜天はどんな願いも叶えてくれるというインドの秘仏で、ここでは特に安産子育ての神様として有名らしいです(密教)。
でも無茶な願いも聞き届けてくれるが生半可だとバチが当たることも中途半端ではないそうだ。


「歓喜天」の番犬です。不審者がこないように見張っています。
「おい、おまえどこの者だ?」というような顔をしていますが、こちらは雨の中なので構っていられません。
知らんぷりして「よしよしお利口だね」といって写真を撮らせていただきました。

なかなか姿のよい堂ですよね。
ここには密教の秘物といわれる「歓喜天」さんがおられるのですね。

こちらは不動明王の石柱でしょうか。このような塔に掘られたのは珍しいのかもしれません。
地図は2日前の記事を見てください。
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天台宗の寺院としてはそれまで200年続いた土岐原氏(土岐氏)の庇護を受けていた不動院の末寺であったここ円蜜院の僧侶たちは不平不満を募らせ不動院の天海を襲撃した。
襲撃は失敗したというが、その後の歴史はどうなったのだろうか?
昨日は天海をかくまったという吉祥院を見たのだが、寺紋に徳川の三葉葵が使われている他には歴史もあまり感じられなかった。
さて、では円蜜院を見てみよう。
県道125号線を土浦・美浦を過ぎて佐原、銚子の方に進むと稲敷市の看板をすぎ、信太古渡(ふっと)という信号がある。
この信号のすぐ近くに変わった看板が目を引く。
年に何回もここは通っているので看板は見ていたが、それほどのものとも思わずに通り過ぎていた。
今回不動院の昔話で興味を持って見に来たのだが、とても面白く、歴史も感じられる寺だった。

県道沿いに「大聖歓喜天」という少し派手な看板が目に付く。ここが円蜜寺なのだ。

歓喜天の方が興味はあるが、まずはその隣にある「天台宗東光山 円蜜院」という寺から見てみよう。
歓喜天とは別に隣に入口が分かれている。

寺そのものは特別に大きなものではない。でもここの寺紋が気になる。
まず寺院の入口上に掲げられた紋は「笹竜胆(りんどう)」だ。これは源氏のマークだ。
確かに江戸崎城の城主土岐氏は美濃の出身で源氏の血筋だが、まえに江戸崎の鹿島神社で見かけたように「土岐桔梗」が家紋となっているので、源頼朝の源氏が使うのはこの笹竜胆だと思う。
またガラス戸についているのは菊の御紋のようなのだが・・・・。

市の教育委員会が掲げている説明文によれば西暦849年に「佐倉」の地に建てられたとある。
この佐倉はこの古渡のすぐ上の台地の方にあり、信太小太郎伝説等が残る古い場所だ。
こちらはもう少しあとに説明したい。

こちらが「大聖歓喜天」(だいしょうかんぎてん)の入口で、円蜜院の寺院とは奥で隣同士に並んでいる。
古くて立派な堂宇が目を引く。

「聖天堂」
大聖歓喜天はどんな願いも叶えてくれるというインドの秘仏で、ここでは特に安産子育ての神様として有名らしいです(密教)。
でも無茶な願いも聞き届けてくれるが生半可だとバチが当たることも中途半端ではないそうだ。


「歓喜天」の番犬です。不審者がこないように見張っています。
「おい、おまえどこの者だ?」というような顔をしていますが、こちらは雨の中なので構っていられません。
知らんぷりして「よしよしお利口だね」といって写真を撮らせていただきました。

なかなか姿のよい堂ですよね。
ここには密教の秘物といわれる「歓喜天」さんがおられるのですね。

こちらは不動明王の石柱でしょうか。このような塔に掘られたのは珍しいのかもしれません。
地図は2日前の記事を見てください。


稲敷散歩(18)-満願寺1
旧江戸崎町中心に書いてきたが、この満願寺は少し離れている。不動院の末寺の有力寺院だったということで流れとしてここを紹介します。
場所は阿波崎(あばさき)という。阿波(アンバ)さんとして親しまれる天狗の神社大杉神社の少し先にある。
しかし、通りから霞ヶ浦の方にしばらく入ったところなのだが、何でこんな立派な寺が何もないような(失礼)この場所に立っているのだろうというのが最初の感想だ。

「天台宗北須賀山嘉福院 満願寺」仁王門
「満願寺は天平12年(740年)4月8日 大僧正行基菩薩の開基にて、大同6年(811年)7月8日伝教大師天台宗に改め、文禄4年(1596年)2月江戸崎不動院末寺となる。
当寺は初め阿波崎字中妻にありしも天正18年(1590年)の戦火にて焼失し、元禄4年(1691年)不動院住職天海大僧正の法孫音海大僧都の中興によるも明治14年1月3日再度の火災に逢い本堂は焼失せしも境内の薬師堂、地蔵堂、仁王門等は其の尽なり、仁王門の金剛力士は元禄4年阿波村の仏師木村万之の作という。
星霜幾年 風雨の中にあり甚だしく老朽したる為、この度仁王門並びに金剛力士の修繕塗装を行なった。
昭和53年5月吉日」
(現地の看板より)
これによると、かなり古くからある寺のようだが、江戸崎城の土岐氏が滅ぼされて城が焼かれたときにこちらも焼けたとある。
この阿波崎にも阿波崎城と言うのがあったようなのでこちらも攻め滅ぼされたのだろう。
しかし、その後、昨日紹介した円密院の僧侶とともに不動院天海僧正を襲ったとする昔話はどの程度の信ぴょう性を持っているのか?
焼けた後、100年後に天海の後を継いだ僧正により中興されたとある。その間はどのような状況にあったのか?

この金剛力士像は寺が中興された時(1691年)に地元も仏師により彫られたもののようです。
色を塗りなおしていたりするので昔の姿はどのようなものかはわからない。
貫禄としては少し見劣りする。

仁王門をくぐると緑の中に赤い柱のお堂が見える。 なかなか素晴らしい眺めだ。

堂は薬師堂のようだ。明日もう少しこちらは紹介します。

「延命地蔵尊」 坐像三尺 室町時代
案内板によれば承久2年に北条政子が鹿島神宮にお参りに来てこの寺に寄った際、運慶に像を彫らせてここに安置したものだそうだ。(本当ならばかなりの価値があるのだが・・・)
家康はこの寺に源氏に所縁があるということで20石の御朱印を授けたそうだ。
この堂宇の中に地蔵尊があるのだろうと思うが中はみえなかった。

明日に続きます。
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場所は阿波崎(あばさき)という。阿波(アンバ)さんとして親しまれる天狗の神社大杉神社の少し先にある。
しかし、通りから霞ヶ浦の方にしばらく入ったところなのだが、何でこんな立派な寺が何もないような(失礼)この場所に立っているのだろうというのが最初の感想だ。

「天台宗北須賀山嘉福院 満願寺」仁王門
「満願寺は天平12年(740年)4月8日 大僧正行基菩薩の開基にて、大同6年(811年)7月8日伝教大師天台宗に改め、文禄4年(1596年)2月江戸崎不動院末寺となる。
当寺は初め阿波崎字中妻にありしも天正18年(1590年)の戦火にて焼失し、元禄4年(1691年)不動院住職天海大僧正の法孫音海大僧都の中興によるも明治14年1月3日再度の火災に逢い本堂は焼失せしも境内の薬師堂、地蔵堂、仁王門等は其の尽なり、仁王門の金剛力士は元禄4年阿波村の仏師木村万之の作という。
星霜幾年 風雨の中にあり甚だしく老朽したる為、この度仁王門並びに金剛力士の修繕塗装を行なった。
昭和53年5月吉日」
(現地の看板より)
これによると、かなり古くからある寺のようだが、江戸崎城の土岐氏が滅ぼされて城が焼かれたときにこちらも焼けたとある。
この阿波崎にも阿波崎城と言うのがあったようなのでこちらも攻め滅ぼされたのだろう。
しかし、その後、昨日紹介した円密院の僧侶とともに不動院天海僧正を襲ったとする昔話はどの程度の信ぴょう性を持っているのか?
焼けた後、100年後に天海の後を継いだ僧正により中興されたとある。その間はどのような状況にあったのか?

この金剛力士像は寺が中興された時(1691年)に地元も仏師により彫られたもののようです。
色を塗りなおしていたりするので昔の姿はどのようなものかはわからない。
貫禄としては少し見劣りする。

仁王門をくぐると緑の中に赤い柱のお堂が見える。 なかなか素晴らしい眺めだ。

堂は薬師堂のようだ。明日もう少しこちらは紹介します。

「延命地蔵尊」 坐像三尺 室町時代
案内板によれば承久2年に北条政子が鹿島神宮にお参りに来てこの寺に寄った際、運慶に像を彫らせてここに安置したものだそうだ。(本当ならばかなりの価値があるのだが・・・)
家康はこの寺に源氏に所縁があるということで20石の御朱印を授けたそうだ。
この堂宇の中に地蔵尊があるのだろうと思うが中はみえなかった。

明日に続きます。


稲敷散歩(19)-満願寺2
とうとう梅雨明けのようですね。ここのところ暑くてたまりません。
さて、稲敷市阿波崎(あばさき)にある満願寺。この寺は約1300年前の740年頃の創建と言われ、その当時の本尊と言われる釈迦如来立像(18.77cm)(飛鳥時代)が残されているという。
茨城県最古の仏像がこんなところにあるなんて・・・・。
見たかったのだが何処におかれているのかわからない。
また天正18年(1590年)の佐竹氏の攻撃による戦火でこの像も焼けて全身に鍍金(メッキ)を失い古代の微笑を損傷しているという。

薬師堂は入り口の仁王門と同じ、元禄4年(1691)に建てられたものだと見られます。

堂の入り口上には龍の彫りものです。

堂の中は肉眼では暗くてよくわからないので写真のシャッタースピ-ドを遅くして撮ってみた。
座禅を組んだ如来座像のようだ。かなり大きい。
何時頃のものかわからないが痛みも大分あるようだ。

このお堂から山門側を眺めたところです。かなり良い雰囲気を持っています。

境内にはいろいろな石仏があります。


この薬師堂を囲むようにこのような石仏が並んでいます。
これらは何を意味するのでしょうか? あまり見かけないように思います。

仁王門近くには「子安地蔵」やその他「六地蔵」などもあります。
やはり「阿波崎」は昔の地形を彷彿させてくれるものが残されているようです。
今度時間があれば、昔の地形と対比してみて見たいと思います。
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さて、稲敷市阿波崎(あばさき)にある満願寺。この寺は約1300年前の740年頃の創建と言われ、その当時の本尊と言われる釈迦如来立像(18.77cm)(飛鳥時代)が残されているという。
茨城県最古の仏像がこんなところにあるなんて・・・・。
見たかったのだが何処におかれているのかわからない。
また天正18年(1590年)の佐竹氏の攻撃による戦火でこの像も焼けて全身に鍍金(メッキ)を失い古代の微笑を損傷しているという。

薬師堂は入り口の仁王門と同じ、元禄4年(1691)に建てられたものだと見られます。

堂の入り口上には龍の彫りものです。

堂の中は肉眼では暗くてよくわからないので写真のシャッタースピ-ドを遅くして撮ってみた。
座禅を組んだ如来座像のようだ。かなり大きい。
何時頃のものかわからないが痛みも大分あるようだ。

このお堂から山門側を眺めたところです。かなり良い雰囲気を持っています。

境内にはいろいろな石仏があります。


この薬師堂を囲むようにこのような石仏が並んでいます。
これらは何を意味するのでしょうか? あまり見かけないように思います。

仁王門近くには「子安地蔵」やその他「六地蔵」などもあります。
やはり「阿波崎」は昔の地形を彷彿させてくれるものが残されているようです。
今度時間があれば、昔の地形と対比してみて見たいと思います。


稲敷散歩(20)-龍神蛇神
今まで江戸崎散歩と題して19回に渡って記事を載せてきましたが、関連した地域にまで興味の対象が広がってしまい誤解を生じやすくなってきましたのでタイトルを「稲敷散歩」に訂正させていただきました。
稲敷市は平成の大合併で「江戸崎町・新利根町・東町・桜川村」が合併してできた市ですが、それまで稲敷郡としてまとまった地域の真ん中地域が合併し、北側の阿見町・美浦村と南側の河内町が稲敷郡として分離してしまいました。
昔の信太郡が一部竜ヶ崎市も含みますが、概ねそのまま稲敷郡に入っているように思います。
さて今日は昨日紹介した満願寺近くで見つけた龍と蛇の信仰についてです。

国道125号線を神宮寺の信号を少し行って「阿波小」「大杉神社」を過ぎて左側に朱色の橋がある公園があります。
「阿波水辺公園」というそうです。
土浦の方から水郷方面に来ているので「あら、もう水郷にきたの?」という感じのところです。
ここは先日の阿波崎(あばさき)の入り口です。
この公園の裏手の古い杉の大木の処に大きな龍の像が置かれています。

こんな大きな像も珍しいです。
神社などの彫りものはほとんど横向きですから、このように縦に置かれたものはあまり見たことがありません。

この杉の木の奥に広がっているのが阿波水辺公園で奥の方に朱色の太鼓橋が見えます。

しかし、この時期は手入れがされていないので草が生い茂ってどこが公園なのかわからないくらいです。
すぐ脇をきれいな川がいきよいよく霞ヶ浦に向かって流れています。

この公園から満願寺へ行く途中に「永楽寺」という寺があり、アジサイなどがきれいに咲いていました。
この寺の池に上のような蛇が剣を呑み込む像が置かれていました。
ではこの様な場所の地形を例によってFlood Map により考察してみました。

現在のGoole Map の地図です。

同じ場所をFlood Mapで水面が5m高かったとした場合の地図です。
どうですか? まったく違った地形が見えてきますね。
常陸風土記には浮島は霞ヶ浦(流れ海)に浮かぶ島で、15戸の家があり、製塩を営んでおり九つの社があり、手前の乗浜にはたくさんの海苔が干してあったと書かれています。
1300年くらい前の地形が目に浮かぶようですね。
このような場所に池や沼によくある弁天さんなどではなく、このような龍や蛇の水辺の神、力を与えてくれる化身としての龍や蛇が祀られているのにただ驚いてしまいました。
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稲敷市は平成の大合併で「江戸崎町・新利根町・東町・桜川村」が合併してできた市ですが、それまで稲敷郡としてまとまった地域の真ん中地域が合併し、北側の阿見町・美浦村と南側の河内町が稲敷郡として分離してしまいました。
昔の信太郡が一部竜ヶ崎市も含みますが、概ねそのまま稲敷郡に入っているように思います。
さて今日は昨日紹介した満願寺近くで見つけた龍と蛇の信仰についてです。

国道125号線を神宮寺の信号を少し行って「阿波小」「大杉神社」を過ぎて左側に朱色の橋がある公園があります。
「阿波水辺公園」というそうです。
土浦の方から水郷方面に来ているので「あら、もう水郷にきたの?」という感じのところです。
ここは先日の阿波崎(あばさき)の入り口です。
この公園の裏手の古い杉の大木の処に大きな龍の像が置かれています。

こんな大きな像も珍しいです。
神社などの彫りものはほとんど横向きですから、このように縦に置かれたものはあまり見たことがありません。

この杉の木の奥に広がっているのが阿波水辺公園で奥の方に朱色の太鼓橋が見えます。

しかし、この時期は手入れがされていないので草が生い茂ってどこが公園なのかわからないくらいです。
すぐ脇をきれいな川がいきよいよく霞ヶ浦に向かって流れています。

この公園から満願寺へ行く途中に「永楽寺」という寺があり、アジサイなどがきれいに咲いていました。
この寺の池に上のような蛇が剣を呑み込む像が置かれていました。
ではこの様な場所の地形を例によってFlood Map により考察してみました。

現在のGoole Map の地図です。

同じ場所をFlood Mapで水面が5m高かったとした場合の地図です。
どうですか? まったく違った地形が見えてきますね。
常陸風土記には浮島は霞ヶ浦(流れ海)に浮かぶ島で、15戸の家があり、製塩を営んでおり九つの社があり、手前の乗浜にはたくさんの海苔が干してあったと書かれています。
1300年くらい前の地形が目に浮かぶようですね。
このような場所に池や沼によくある弁天さんなどではなく、このような龍や蛇の水辺の神、力を与えてくれる化身としての龍や蛇が祀られているのにただ驚いてしまいました。

