fc2ブログ

露盤石(付録)

 昨日まで3回に分けて石岡に残された「きんちゃく石」を紐解いてみた。
そしてそれが五重塔の露盤であるということで、いろいろ調べていたら、となりの筑波郡にも残されていることがわかった。

そこで、早速今日夕方に見に行ってきた。

それは古代筑波郡の郡衙とされる「平沢官衙」近くの北条地区の山よりの少し高くなった木々の林の片隅に置かれていた。

さすがにつくば市はこの北条地区も案内板は整備されており、「露盤石」とあちこちに出てくる。

robanseki01.jpg

車を北条の通りから少し入ったところに止めて、案内板に従って上り道を進むと金網で柵のある木々の間にこの石が置かれていた。
その上には石祠が乗せられている。

robanseki02.jpg

近くにこの露盤石の内容を説明するものは一切ない。
何かで読んででもこない限り、見ただけでは何かがわからないと思う。
信仰の石といった感じだ。

北条の通りには石の祠に「市の神」と名前をつけたものが2つあった。
こちらは明日紹介しようと思う。

robanseki03.jpg

この古代筑波郡の郡衙(郡の大昔の中心役場のあるところ)の郡寺として「常陸中台廃寺」とか、「筑波廃寺」または「北条廃寺」などと呼ばれる廃寺があったという。

この寺の五重塔の露盤だとみられている。
大きさは一辺94cmの正方形で、厚さは25cm/35cmの台形、孔径34.5/35.5cmの少しテーパがついている形状だという。
石は花崗岩だそうだ。
これは茨城廃寺より小さい。
また作られたのは奈良後期と見られており、茨城廃寺よりも後のようです。

robannseki04.jpg

こちらは探している人にとっては案内板はしっかりしており(これもおそらく最近)、場所はわかるが、説明は不足していますね。
それに、これもしっかり保存されているとは思えません。

すぐ裏が原っぱのようになっていましたが、建物を建設中でした。
このあたりが「中台廃寺跡」と見られているようです。
筑波山を望む良い位置に建っていたようです。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/09/05 21:24

つくば市北条(2)-五輪塔1

筑波山の麓にある北条地区はここから江戸時代の「つくば道」の起点の街となっている。
そしてそこに市がたち、門前町のような風情が残る。

北条の商店街の東端に「八坂神社」がある。
東端というよりもこの神社のところで道はクランクに曲がっている。

H01.jpg

通りの方から見ると東の正面突き当りに神社がある。
この西側階段もあるが、神社への正面入口階段は、南側から登る。

H06.jpg

石段の左右に、「庚申塔」や「十九夜尊」などいくつか石塔が置かれている。

H05.jpg


H04.jpg

 天喜年間(1053~1057年)の創建といわれ、八幡太郎(源義家)を祀っているという。
(これははっきりしません。あまり本当とは思えないが・・・。祭神は牛頭天王か?)

本殿・鳥居は天保18年(1733)に再建されたものだそうだ。7月に祇園祭りが行われ、各町内からの山車や、神輿が町内を回るにぎやかなものだという。

H03.jpg

この神社のことはさておき、特に私が気になったのは、ここに茨城県内で2番目に古い(銘のあるものとして)戦国時代(1537年)の五輪塔があることです。
高さが2mもありますからかなり大きく見えます。

H02.jpg

この五輪塔は普通のものに比べ下から上まで石の大きさがあまり変わらない。
そのため、全体として大きく立派に見えます。

gorin01.jpg

この説明にあるように一番下の石の上にくぼみをつけて、そこに「経筒」が収められていたという。
これは変わっている。

普通、経筒は末法思想が流行った時に、筒にお経を入れて土に穴を掘って埋めたものがほとんどで、その他にお経を書いた小石を埋めたりもしたと前にも何箇所か説明しました。(経塚の話し

しかし、このような五輪塔に隠されたのは初めて聞きました。
この五輪塔は「八坂神社の別当である吉祥院の境内にあったが、明治の廃仏毀釈の際に現在の八坂神社境内に移された」とどの説明にも出てくるのだが、肝心の吉祥院はどこにあったのか?

分からずじまいだったが、またいつか別な資料でも探してみたい。
そうしないとどうも落ち着かない。そんな性分なのかも・・・・。

最初は少しだけこの北条地区の記事を取り上げるつもりでしたが、ここが常陸大掾氏(多気氏)の本拠地だったのだと今頃気がついて慌てています。

このことはまた後ほど書きたいと思います。

今日は石岡市柴間のギター文化館に「里山と風の声」コンサートに行ってきました。

会場はそれほど広くないので60人くらいで満員です。それも足りなくて椅子を追加して大変盛況でした。
それにとても癒される音で、気持ちもゆったり出来ました。
こちらの紹介もまた後でやりたいと思います。

今日は石岡の街中では夜になってお祭りの練習やら大変賑やかになってきました。
本当にお祭り好きが多いのでしょうね。

石岡のおまつりは今度の三連休の3日間です。午後2時頃から夜9時頃までやります。
是非お出かけください。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/09/09 21:10

つくば市北条(3)-五輪塔(2)

 昨日は北条の商店会の東端にある八坂神社に置かれた大きな五輪塔を紹介しました。

現地のイラストマップには反対側の西側に五輪塔の絵が描かれており、「多気太郎の墓」となっていました。

これを見た時にすぐに気がつかなかったのですが、多気太郎を調べると多気義幹(たけよしもと)のことだとなっています。

うかつにもすぐに気がつかなかったのですが、この多気義幹は石岡の歴史に名を刻んでいる重要人物です。

この北条の裏手の小高い山が多気城山または城山(じょうざん)といって幻の多気城があったところだそうです。

あまりに古いので遺構もはっきりしないようですが、この多気城は多気(平)維幹(これとも)が西暦900年頃に筑波の水守からこの地に移って建てた城とされています。

多気維幹(これとも)はその後常陸大掾(だいじょう)職にに任じられて、石岡の大掾氏の世襲が始まったのだから、石岡から見てもこの地はとても縁の深い土地とも言える。

しかしどういうわけだか、石岡の歴史ではほとんど論じられない。この多気氏が常陸大掾氏と言われたのは6代目の多気(大掾)義幹(よしとも)までで、この義幹が「多気太郎」とこちらでは呼ばれて親しまれているそうだ。

 歴史を紐解くと、多気義幹は八田知家(ともいえ)(小田知家)の曽我兄弟の仇討ち事件の時に、源頼朝に「義幹に謀反の動きあり」との換言で鎌倉に呼びざされ、大掾職を解かれ、所領を没収されて多気氏が滅びてしまいました。

しかし、この大掾(だいじょう)職は八田氏には行かずに、多気氏(平氏)と同族の水戸の吉田氏に引き継がれます。

そして、石岡の府中城が築かれます。
ということは多気氏はこの北条一帯が所領の中心で、1193年までは、常陸国の国府は石岡の地にあったが、それを治めていた多気大掾氏はこの北条地区に居を構えていたことになります。

今考えてもかなり離れています。
馬で行くにしても峠を超えていくか、ぐるっと回っていかなければなりません。

taketarou01.jpg

これが多気太郎の墓といわれる五輪塔です。
かなり大きな花崗岩のようです。
普通の墓に比べると見るからに大きいです。
時代的にも八坂神社の五輪塔よりは古いでしょう。(八坂神社:1537年、多気太郎:1193年?)

taketarou02.jpg

地元の人に大事にされているようです。
塔婆と花が置かれていました。
確かに多気太郎となっています。

taketarou03.jpg

 現地の説明石碑です。

taketarou04.jpg

この五輪塔の周りは畑や田んぼが広がります。

確かこの向こうの小田城の跡にも比較的大きな五輪塔があったように思います。
北条、小田、新治地区に残された五輪塔を調べて比べてみるのも面白そうです。

taketarou05.jpg

北条の商店街に通りももうハズレの場所なのですが、そこから比較的狭い道を少し入ったところにこの五輪塔があります。
この日も暑かったので、皆さん涼んでいるのでしょうか?
五輪塔は写真の先の右側にあります。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/09/10 20:08

つくば市北条(4)-五輪塔(番外)

 つくば市北条の八坂神社に県指定文化財に指定されている戦国時代の五輪塔があったが、この説明によると「天文六年(1537年)建立の在銘五輪塔は県内では新治村の頭白上人五輪塔(永正十二年1515年)についで古いものである」と書かれていた。

この八坂神社の五輪塔を県内2番目に古いと書くと少し誤解を受けそうだ。
この説明にあるように銘が刻まれているものとして古いというので良いのだろう。
それにしても大きので墓とは違うのかもしれない。

 この北条地区はもっと紹介しておきたいところも多いが、この最も古いとされた「頭白上人五輪塔」を石岡に戻る時に偶然発見したので、北条地区とは離れているが、紹介しておきたい。

saiseki01.jpg

場所はつくば山の採石場や射撃練習場などがあるところといえば、近くを通った方ならすぐにわかると思う。

昔から毎日にのように山を崩して砕石をしています。
道路を作るのに使われているようです。
年間どれくらい山が小さくなっていくのかわかりませんが、まだまだ掘るんですね。

gorin01_20120910232000.jpg

ここは今は土浦市ですが、その前は新治村です。
地図には「金嶽神社」と書かれています。塚田陶管の工場のとなりです。

gorin03.jpg

それにしても大きな五輪塔です。
北条の八坂神社の五輪塔は2mくらいでしたが、この塔は3.6mもあります。

gorin02.jpg

「頭白(ずはく)上人」が母の供養のために建立したとなっています。
1516年の建立と書かれていますが、つくば北条の五輪塔のように一番古いとは書かれていません。
何故? 単に気がついていないだけか?

おそらくこの場所を訪れる人はこの採石場などの関係者や地元の方以外には少ないように思う。

gorin04.jpg

この金嶽神社は小田氏治の家臣、「小高知常」が天正2年(1574)にこの地に移り住んで、石崎の蔵王山の上に建立したといいます。

昭和50年にこの神社の場所が採石場にかかってしまい、この今の場所に移されたものだそうです。

gorin05.jpg

こちらが本殿ですが、本殿も別に鳥居があります。
本殿は江戸末期に再建されたものだそうです。

神社の周りは手入れされ、砕石業者などの信仰も集めているように感じました。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/09/11 20:00

つくば市北条(5)-日向廃寺跡

 つくば市北条地区が気になって少し見て歩いたのだが、おまつりの記事が入ってしまい少しあいだが空いてしまった。

この地区はとても不思議なところだ。
石岡に似ているところが多いが、大きな五輪塔などはまた違った文化があったようだ。

石岡は常陸国の国府があったところと自慢している。

isiokaeki.jpg

石岡駅の名所案内。一番下に「常陸大掾平氏歴代の墓」とある。
これは平氏の福を願う寺として紹介した「平福寺」にある五輪塔のこと(こちら)だが、石岡ではその中心にある一番大きなものは「平国香」のものではないかと密かに囁かれている。

常陸大掾(だいじょう)は役職が名前になった全国でも珍しい氏族だが、ここつくば市北条に来たら、やはりこの考え方(国香の墓)には同意できない気が強くなった。

もともと国香は石田館(明野)にいたし、ここに墓と言われるものもある。

北条はその後に常陸大掾になった多気(たけ)大掾が6代までいた。
そして、八田氏(小田)の換言で頼朝に地域を没収されてしまって滅びた。
その後の常陸大掾はこの多気氏とは同族の水戸にいた吉田氏(=馬場氏)(水戸城=馬場城)が継いだ。
そして府中(石岡)に府中城を建てた。

しかし、この北条地区はそれから小田氏の領地になったのだろう。

そして、多気氏の大掾は今でもこの北条にて慕われているようだ。
多気氏が6代、その後1590年に滅びるまで7~22代が吉田氏が常陸大掾氏ということになる。

IMG_4052s.jpg

今日は少し変わった場所を見つけたので紹介します。
「日向廃寺」と書いてありました。

IMG_4053s.jpg

これは、写真に写っているように市営アパート? を建設するときに発見されたものだそうです。
アパートの公園のような広場が広がり、そこに何箇所か建物の土台を現す長方形の盛土があります。
ただ普通の寺跡のイメージとはかなり違っています。

IMG_4054s.jpg

この説明によれば、多気氏が建てた寺の跡だろうと書かれており、特に注目すべきは宇治の平等院の鳳凰堂と同じような寺院様式だったと書かれています。

これは珍しいです。

平泉に残されている「無量光院の跡」もこの鳳凰堂を真似て作ったものだろうといいますので、
こんなところにもし本当に鳳凰堂を模した建物があったというのは当時の多気氏の力を想像させるものがあります。

IMG_4055s.jpg

幻の多気城と言われていた多気氏の城跡は、この裏山の上です。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/09/18 19:59

つくば市北条(6)-毘沙門天種子

 昨日日向廃寺跡を紹介したのですが、すぐ近くに変わったものがありました。

「毘沙門天種子板碑」と書かれています。
毘沙門天は聖徳太子や上杉謙信が信奉していたインドの神様ですよね。
四天王寺に祀られていますが、毘沙門天の種子=たね?? て一体何?

bishamon03_20120919193258.jpg

道の角に案内板、小さなお宮?とともに石碑のようなものが置かれていました。

bishamon02_20120919193258.jpg

これが毘沙門天種子だそうです。

bishamon01_20120919193259.jpg

一般的には毘沙門天(多聞天)は像を信仰していますが、これは毘沙門天を表す梵字で「ベイシラマンダヤ」ということを表したものだそうです。
文字の上には宝塔をほっているのだそうです。

さて、「種子」は「しゅじ」と読み、梵字のことを指すのだそうです。
種子または悉曇(シッタン)とも書くそうです。

鎌倉時代のものですから、800年以上前になるのでしょうか。
材質は「黒雲母」だといいます。

確かに珍しいものですが、「種子」なんて書かれると何かのタネかな?なんて考えてしまうのは知識がなさすぎるのでしょうか。

bishamon04_20120919193258.jpg

すぐ近くは竜巻の被害の跡がたくさんありました。
すぐ先にあった石碑のとなりに「虚空像尊」と書かれていました。
この空き地に何かがあったのでしょうか?

写真の奥の家の工事はおそらく竜巻で破損した家を修理または建て直しているものと思われます。

hojho05.jpg

上の写真は北条の「つくば道」の入口から少し登った辺りで、北条小学校の近くです。
あちこちビニールシートが目だちます。
また家の工事中がやたらに多く目につきました。

竜巻のすぐあとは被害がとてもひどいものだったそうですが、どうにか頑張って復興してきています。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/09/19 20:19

つくば市北条(7)-無量院

 つくば市北条地区を散策した時の記事を載せていますが、この地区は江戸時代から残る商屋、店舗、蔵なども多く残されています。

そして、徳川の鬼門の方角(丑と寅の間の方向=東北方向)の守り処として筑波山の「中尊寺」が手厚く扱われて、この筑波山中尊寺、筑波山神社の門前町として賑わったようです。
家光の時に現在残されている多くの文化財が造られたわけで、この工事にあたってもここから山に登る道が開かれたようです。

明治になって寺が取り壊されて、現在の筑波山神社だけが残され、後から大御堂を古民家を移築して寺を再建をしたと聞いています。

さて、このため、一般に、北条の歴史の説明はこの江戸時代の面影を追い求めすぎているように思います。
しかし、多気(たけ)氏6代に渡る歴史があちこちに残されてもいるようです。
多気氏がここで勢力を張っていたのは、西暦990年頃から1192年の約200年間です。

多気太郎の墓と言われる五輪塔のすぐ北側の山(多気城があった?)の麓に梅松山光明寺「無量院」(時宗)というお寺があります。

muryouin.jpg

少し山の方に登っていったところの左側にあります。

現地の説明板によれば下記。 あまりそのまま載せてもどうかとも思うが・・・。

muryoin02.jpg

多気氏が滅んですでに800年以上が経ちますが、今でもこの寺では多気氏を慕っているのがわかります。

先日紹介した「日向廃寺」が焼けてしまったが、この廃寺がこの無量院であったという話もあるようです。

 当初は天台宗だったが、呑海上人がこの寺を訪れ、多気太郎を供養し、時宗に改めたという。

このちに移ったのは、嘉暦年間(1326~1328)に現在地に移ったという。また本堂は200年以上たったものだったそうですが、2004年に建て直したものだそうです。

tasoutou.jpg

「北条さんぽ」の地図には、この寺に「石造多層塔」があると書かれていました。
そこで寺の裏に回ってみるとありました。

説明を書くのが面倒なので、書かれているものを写真に撮ってそのまま載せます。

tasoutou2.jpg

何故この寺に? と思いましたが。
これは1361年に建立された塔で、小田氏の家臣中久木家の墓地にあったものを移したようです。
このあたりは、多気氏が滅びた後に小田氏が1590年頃まで勢力を張っていたようです。

take03.jpg

無量院の入口に、小さなお宮が2つ置かれています。
向かって右側が「多気天神」で、左側が「多気稲荷神社」となっています。

take02.jpg

この「多気稲荷神社」と「多気天神」はともに、昭和61年2月再建されたと碑が置かれていました。

take01.jpg

多気天神さんは雨乞いの神様で、昭和初期までは雨乞いの行事も行われていたようです。

take04.jpg

無量院に登る坂道に「宝寿坂之碑」が建てられていました。
当然何かいわれがあるのでしょうね。
でもちょっと調べただけではわかりませんでした。
でも、知りたいと思っていれば、きっとそのうちに分かるでしょう。

take05.jpg

この無量院から南の北条の街の方を見下ろしたところです。
この方向に「多気太郎の五輪塔があります。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/09/20 20:36

つくば市北条(8)

 数日前まで書いていたつくばし北条地区の記事がもう少し残ってしまいましたので、もう少し載せたいと思います。

 筑波神社への江戸時代の門前町と思っていたこの北条地区だが、見方を変えてみると違った側面があるように思う。
もちろん筑波山には徳一法師が建てた「中禅寺」という寺があり、この寺を徳川家康が、東北の鬼門の守りどころと定め、3代将軍家光により、寺の修復や門、鐘楼などが次々と整備された。
この時に、この北条から寺への登山道が整備された。

この前まではもっと東側から登る道(徳一法師が登ったとされる)もあり、石岡側から登る万葉の頃からの「府中街道」などもあった。

江戸時代も今は忘れられてしまった、水戸からつながっていた「瀬戸井街道」がこの参拝の道でもあった。

明治になり寺が壊され、神社が残ったが、この遺構を残す「六所神社」などもあり、後に古い民家を移築した大御堂が筑波神社の脇に建てられ、中禅寺を引き継いだ形になっている。

私はこのブログで調べる前まで、このようなことなど知らずに、万葉歌碑などを眺めて、神社にお参りして、山に登っていた。

そして、家光が寄進した鐘楼と思われるものが「泉の子育て観音」にあることを偶然知った。
これは本当かどうかは知らないが、不思議でもない。

 さて、今日は昨日紹介した「無量院」の東となりにある「全宗寺(ぜんそうじ)」を紹介します。
最初こちらが無量院かと勘違いしてしまったが、かなり古い寺であった。

IMG_4090s.jpg

 北条の市街から多気山の方に入り、上り坂となって右手に駐車場があったので、そこに車を止めた。
この駐車場が全宗寺の駐車場で、無量院へはV字の道を左に進めば、少し先に無量院の大きな駐車場があります。

この全宗寺は写真正面に見えます。

IMG_4060s.jpg

しかし、全宗寺の駐車場から階段で登れるようになっています。
しかしこちらは階段の右側には「弘法大師一千百年御遠忌記念塔」と書かれた石碑が置かれています。

全宗寺は真言宗豊山派の寺で、駐車場から登る階段の左側の建物に大きく「熊野山弥勒院大師堂」と書かれています。

寺の開創は応永2年(1385)といわれ、小田氏の滅んだ天正年間(1573-91)に北条治高の家臣、蜷川全宗が再興して、寺の名前も全宗寺になったそうです。

どうも歴史がわからないが、ここ北条にいたのは小田氏の一家であった北条治高のようだが、最後は佐竹氏と同盟を結んだのか?

しかし、北条氏も治高が最後のようです。

IMG_4058s.jpg

その案内の下にはご覧のような古びた石像などが置かれています。
一番右にあるのはやはり「種子=梵字」でしょうか。

IMG_4061s.jpg

「不動堂」です。
本尊は本尊は波切不動尊だそうです。

IMG_4062s.jpg

弘法大師さまでしょうか。

IMG_4063s.jpg

苔むした狛犬が迎えてくれます。

IMG_4064s.jpg

こちらは寺の「法堂」だそうです。

IMG_4066s.jpg

寺の前の空き地にある墓地ですが、かなり古そうです。
ここにもいくつも五輪塔があります。
誰のものでしょうか?

IMG_4067s.jpg

写真に写っている木は樹齢300年以上と推定されているスタジイですが、数年前の写真を見るともっと幹が太くしっかりしていたようです。
このままでは樹勢が衰えてしまいそうです。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/09/24 20:50

つくば市北条(9)-熊野神社

 昨日紹介した「全宗寺」は熊野神社の別当寺であったと書かれていました。

別当寺は、神社に付属して置かれた寺のことだそうですが、この寺のすぐ東に熊野神社が残されています。

IMG_4057s.jpg

このようにお墓の脇の道が山の方に続いており、石段が見えます。
熊野神社はこの石段を100段ほどのぼったところにあるそうです。
入口に車を置いておけなかったので、この上までは行く勇気もなく諦めてしまいました。
あまり大きな神社ではなく、小さなお宮が置かれているようです。

IMG_4056s.jpg

入口に置かれた説明板です。
熊野信仰がさかんであった時にはかなり訪れる人もいたようですが、今は北条の街の通りにこの神社の鳥居が残されており、それがこのあたりでは最も古い鳥居だそうです。

この写真を撮ったのは、鳥居をくぐってくると、お宮との中間点付近になります。

ところで、この神社は「イザナギノミコト」を祀っているんですね。
何か不思議な気がしませんか?
何故イザナギなのでしょうか。

熊野神社といえば「熊野詣で」というように熊野三山の神様が祀られていると思ったのですが・・・。

調べてみると東北などでもイザナギ、イザナミを祀った熊野神社が多数あるといいます。
出雲の熊野大社はスサノオを祀っているそうですから、イザナギから生まれた神です。

そういえば常陸総社宮は6神が祀られているようですが、イザナギ、スサノオが入っています。
その他ニギニや大国主など・・・

天皇家の先祖に当たる神を祭っていると思われます。

これも六所神社などと同じような総社ですから、考えるとどこか不思議です。

IMG_4049s.jpg

こちらはもう少し東側にある「鹿島神社」です。
やはり、熊野神社と並ぶように多気山(城山)の麓に置かれています。
建久2年(1191)に多気義幹が建立したと伝えられるそうですがはっきりしません。

IMG_4048s.jpg

祭神についても書かれていないのでわかりませんが、鹿島神社ですから武甕槌(タケミカヅチ)を祀っていると思われます。


つくば市北条 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/09/25 20:08

つくば市北条(10)-北条氏

茨城県は3年間続いた魅力度ランキングの最下位を今年は脱出しました。
でも下から2番目。最下位は群馬県だそうです。
群馬県は温泉もあってとても好きなのですが、共にこんな順位ではダメですね。
もっと頑張っていきましょう。

 さて、10回目を迎える「つくば市北条」地区の記事です。
ひとまずこれで北条地区は終わりです。

この地区を調べていくと、石岡と同じように昔から面々と続く歴史が眠っているように感じました。

しかし、ここもどこかに忘れらてしまった歴史があるように感じてしまいました。

その一つが、この地名ともなっている北条氏です。

北条という名前は桜川の北側になるので北条と言われるよううになったと思う。
そこに城を構えたので「北条氏」と言われるようだ。
鎌倉では北条氏が大きな力を持っていた時代であるが、そちらとは直接の関係はないかもしれない。

北条地区を歴史散歩の案内板に従って歩いていくと道がないような北条小学校の脇道を歩かされた。
しかし、こんな感じの道はきっと昔はお城があった場所ではないかと感じた。

しかし、学校のHPにも出てこないし、北条散歩の案内にも何にも書かれていない。

shougakkou.jpg

この小学校はこの地区では比較的高台で、こんな場所を中世の人がほっておくわけがないと思い、更に見ていくとここに「北条城」という城があり、北条氏の居城であったという記事を見つけた。

 前に述べた多気城はもっと高い場所で、こことは向かい合った場所となっている。
そして、多気大掾が滅びたのは鎌倉幕府が出来た翌年の富士の裾野での曽我兄弟の仇討ち事件のあとだから1193年頃。

その後に、この北条に来たのは宇都宮氏の系列の八田知家(多気大掾はこの八田氏の換言により滅びた)の7男である時家で、この北条小学校がある場所に城を築き、北条氏(北条時家)を名乗ったようだ。

また、八田知家はこのつくばから土浦に勢力を張った「小田氏」の始祖と言われている。

この北条氏はそれから300~400年間この地を領地として居を構えていたはずである。
しかし、これほどの長さなのにあまりその歴史を感じさせるものが少ない。
何故なのだろうか?

やはり多気太郎が今でも慕われているのと関係しているのかもしれない。

さて、この北条氏だが、小田氏とは同じ仲間であるはずだが、南北朝時代などを経て、敵も味方も入り乱れてしまったようだ。

石岡市片野に城を構えた佐竹氏側の太田三楽斎(資正)と手を結んで、小田氏を攻めたりもしている。(三楽斎についてはこちらに記事を書いています)

天正10年(1582)に下妻の多賀谷政経に攻められ北条城は落城したという。
石岡の大掾氏が滅びた8年前である。

hojho04.jpg

北条小学校の前から筑波山を見る。
多気城山はこの左手の家屋の裏手の方に見えますが、写真は撮っていません。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/09/27 19:46

つくば市北条(11)

 昨年つくば古道の江戸時代の参拝入口にあたる「北条」を数回にわたり紹介してきた。
この時は常陸国府「石岡」との関係を見ながら見てきたが、ここを訪れる人たちは、昔の多気大掾氏はもうイメージとしてもわかない存在なのだと思った。

多気太郎の五輪塔は観光案内の地図にも載っていたが、それはこの地の昔にいた氏族の歴史であり、常陸国の大掾職としての関東平氏との考え方は地元にも残っていない印象を受けた。

歴史が古すぎるのだろう。これも致し方ない。
石岡が歴史の街といってみても、一般の人には思い描くことが難しい過去のできごとになるのかもしれない。

北条は、江戸から見て筑波山が鬼門というので、大切にされ、それにより多くの参拝者や、筑波への道が作られて栄えてきた。
この方が観光客にはよっぽど馴染み深いに違いない。


さて、鬼門は丑寅方向で東北方面だが、江戸初期の民衆への思想的な統一のためにもこの筑波の寺が大切にされたという。

その証拠に筑波山の知足院中禅寺(現在の筑波山神社の場所)に家康は500石を寄進し、家光により山門、社殿、鐘楼などが寄進されたのである。
しかし、これも明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって寺院や仏像が取り壊され、神社の信仰が広まったため、筑波神社があたかも江戸時代の信仰対象と見られてしまっている。

正月にお参りに行ったときも大御堂は人はほとんどいなかった。

もともと筑波山は万葉の頃から歌にも歌われ、徳一法師をはじめ、空海(弘法大師)などにより仏教の霊地としての信仰の対象となっていた。
鬼門などという考え方は、後からそう解釈していっただけのことのように感じている。

位置関係を見ると、東京(江戸)から東北方面に線を引いてみると、この筑波山があり、その延長線上に水戸がある。
さらに線を伸ばすと東海村になる。村松山虚空像尊の場所になる。
この虚空像尊には「丑」と「寅」の像が、狛犬代わりに置かれている。

これは江戸時代ではなく空海の頃に考えられた位置関係のような気がする。丑寅は後からのものに違いない。

IMG_4897s.jpg

北条地区は昨年の竜巻で大きな被害を受けた。
被害を受けたところと無傷のところが極端だが、今では表面的には復興しているように見える。
北条の中心地に江戸時代の商店として使われた建物が残っている。
外観はこのような店蔵(土蔵)作りである。

「宮本家」(宮清商店)である。

この宮本家には8棟の建物や蔵が残っているが、全て国の有形文化財に指定されている。
奥にある蔵では「宮清大蔵コンサート」などが時々行われ、海外からのオーケストラ(ウィーンフィルなど)によるクラシックなどが行われ、人気を博しています。

IMG_4903s.jpg

弘化4年(1847)の建築で、昭和30年代まで醤油の醸造販売やお米販売を行っていたようだ。
160年ほど前から続いてきた商店には、昔使った数々の懐かしい道具などが展示され、見学することができる。
上の地図は昔の北条の街の全図で、その下の額に入っているのは明治18年に書かれた、この屋敷の見取り図。
更に、その左の写真は、昔の屋敷と車の写真です。

IMG_4904s.jpg

このような階段を使ったタンスのような作りは、私も昔見た記憶のあるものです。
今では本当に懐かしいものとなりました。

IMG_4905s.jpg

屋敷の説明書

IMG_4906s.jpg

上の写真に写っている枡(ます)は醤油の秤り枡です。昔は醤油もこの枡で測って売っていたのです。
買う人は瓶を持って測った醤油を買うのです。年配の方には懐かしいと思う方もおられるかもしれません。
私は、すでに醤油を測って買うということは経験ありません。

醤油用の枡のとなりには米の秤枡が置かれていました。

IMG_4909s.jpg

その他、元禄時代の銭函や、天明期の引き出し、弘化2年製作の証文箱、有明行灯などが展示されています。

IMG_4910s.jpg

上の写真は大正時代(大正9年?)のキャッシュレジスター(機械式)です。
輸入品です。当時100台程アメリカ?から輸入され、全国の百貨店などに納入されたものの1台とのことです。

IMG_4899s.jpg

敷地の裏通りには水路がある。これは昔多気氏の頃に整備されたものが形を変えて受け継がれているのではないかと思う。

明日に続きます。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/01/11 18:41

つくば市北条(12)

 昨日紹介したつくば市北条の「宮本家」の記事の続きです。

地図を貼り付けようとYAHOOやGoogleなどの地図を見たが、この建物の表示がほとんどの地図アプリに表示されない。
まだこの地区の観光についても始まったばかりなのかもしれない。
頑張って欲しいものだ。

 この土蔵の店蔵の入口の「戸」に興味を持った。

よく時代劇で障子の入った引き戸を開けて店に入ったり、屋敷に入ったりする場面が出てくる。

この商店の入口にも比較的小さな障子の引き戸があった。

IMG_4900s.jpg

この引き戸を左右に引いて出入りができるが、これが引き戸と横の板の部分と全体がまるで今の店のシャッターのように上に持ち上げることができる。

IMG_4902s.jpg

大きな物の出入りなどの時は便利だし、店の間口を広く開けることができる。
上の写真はこの昔のシャッターを持ち上げたところです。(店の内側から撮っています)

IMG_4901s.jpg

この上下の戸以外に通常の人が立って入れる高さの戸もちゃんとある。

このように店の中から戸越しに外を見ると、日本の間戸(=窓)の美しさが伝わってくる。

日本では昔から間戸越しに庭を眺めたり、障子や桟(さん)が日本庭園などを眺める美の要素となっているのがよくわかる。

さて、英語で「Window(窓)」は「Wind(風)」+「auga=eye(目)」の二つの語からできているそうだ。
すなわち「風の目=風の通り道」なのだが、日本の窓は「間戸」が語源のようだ。

日本の窓は間戸であるから、家のあいだを仕切る戸を意味しているようだ。

古民家や昔風のお屋敷などにいくと、長廊下と外を仕切るのに戸が使われている。
それが障子になっている場合も多いし、一部が持ち上げて外を見ることができる雪見障子を設けているものも多い。

これこそ日本ならではの美意識だと思う。
京都の庭や枯山水などを眺めた時に感じる美の意識には、縁側や木の戸や桟のアクセントであったり、部屋の中からこの戸越しに眺めた時の美しさが必要な要素の一つだと思う。

もちろん庭を囲った塀や壁などとの調和もあるが、洋風の家の窓から見るよりは明らかに日本の障子枠などとともに見ると美しさが倍増するように思う。

「間戸(まど)」という文字を見たのは、昨年に江戸崎の少し先の利根川沿い(河内町)に「十三間戸(じゅうさんまど)」という地名を見つけたことにある。

奈良に「北山十八間戸(けんと)」という国の史跡があるそうだ。
これは奈良時代にハンセン病患者を保護するために建てられた長屋風の建物だそうだ。

ライ患者は隔離されることが奈良時代にも行われていたのだろう。
一間戸というのが一部屋ということで、長屋にほぼ1間の間隔に仕切った部屋をたくさん作ったようだ。

茨城県河内町の「十三間戸」がどのような経緯で名前がつけられたのかは知らない。
しかし同じような施設が大昔にあったのかもしれない。

松虫寺(印旛沼近く)に伝わる「松虫姫伝説」が気になる。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/12 17:09

竜の子ゴブリン

 つくば市北条を襲った竜巻は2年前の5月。
損壊家屋も1000軒を超え大きな被害を受けたが、見た目は復興し、一部は家を壊した空き地も目立っている。

今では近くで竜巻の予報が出てもまだビクビクするという。

この地は石岡の大掾氏(だいじょうし)に鎌倉時代まで続いた多気大掾氏の居城があった場所であり縁が深い。

このため何とか石岡とも交流を持ちたいと「風の会」の会報を町の観光施設としている田村家(旧呉服屋さん)に置かせていただいている。

ここを開けるのは土日にのみだが、そこしでもつながりが持てれば嬉しい限りだ。

IMG_2769s2.jpg

竜巻の被害ででたガレキのかけらで作った「竜の子ゴブリン」を団地に組み立て、今はこの田村家に飾られています。

IMG_2770s.jpg

あまり暑かったので名物「北条米スクリーム」(300円)をお店で頂きました。
お米がはいっているのでモチモチした触感でコクがあります。今年は抹茶味も追加されました(350円)

先日地元の神社の祇園祭りは終わりましたが、8月7日に多気太郎の命日と言うことで万灯会が行われます。
また復興記念の夏祭り(盆踊り)が8月17日(日)に行われます。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/08/05 19:19

石倉璃厨(RIZ)

 先日石岡側から筑波山を越えて筑波の町に行き北条へ行こうとあまり通ったことのない道を車で走っていた。
見覚えのある飯名神社の脇を走って東に進むと「神郡(かんごおり)」地区には出た。

つくば道や普門院なども前には通ったこともあるし、蚕影神社なども行ったことがあるがこの神郡地区をあまり意識したことがなかった。

P7040026s.jpg

街の入口に「石倉RIZ」という大谷石造りの大きな立派な倉庫があった。

P7040027s.jpg

昭和27年(1952)に建てられたもので、戦後のわが国の食糧事情を考えて米の安定供給を図る目的で建てられたものだそうだ。
筑波山麓は米どころで北条米などは高級ブランド米として知られている。

もちろんこの倉が造られた時は食糧管理制度で米も政府の管理下でしたので、この倉庫も政府の指定倉庫となっていたようです。
大谷石の倉庫は湿気も少なく温度も一定で米の保管に適していた物のようです。

ただし、今はこの倉を町おこしのシンボルとして筑波大と連携したりして色々な活用を図っているようです。
私が行った時は少し雨も降っており何もやっていませんでした。

P7040028s.jpg

この通りも大きな屋敷が並び、趣のある風情を感じます。
最近きれいにしたものかもしれません。

P7040030s.jpg

P7040031s.jpg

近くに日本三蚕神社の一つである「蚕影神社」があるためでしょうか。繭玉などを展示しているようです。
誰もいませんでしたので中にも入りませんでした。

この石倉の前にパンフレットが置かれていましたので載せておきます。

CCF20150708-1.jpg
(パンフレットPDFは → こちらをリックして下さい。)


今回がこのブログの2000回目の記事です。
毎日のように記事を書き続けてやっと2000回を達成です。
でも心は現在心配事もあり梅雨空と同じで湿っています。

でも記念ですから記録を残しておきましょう。

記事回数:2000件
期間:1793日(約4年11カ月)
投稿頻度:1.115回/日
拍手数:10140(5.1回/記事)
コメント数:4644件(2.3件/記事)
写真:10236枚(5.1枚/記事)
アクセス数:441300回(220回/記事)

でもこのまま毎日書き続けるか、それとも立ち止まって今までの記事の関連したところをまとめて、一部足りないところを補足して形に残す作業に時間を使おうか思案中です。



つくば市北条 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2015/07/08 20:12

極楽寺跡(1)

 筑波の手前の山「宝篋(ほうきょう)山」は最近ハイキングとして人気となり、気軽に歩ける山として歩く人が増えている。

北条大池の方から登るコースが一般的のようだが、昔麓にあった大寺院「極楽寺」の跡を通るコースも歩く人が多くなった。

先日近くを通ったのでこの極楽寺コースに入口「小田休憩所」に行ってみた。
天気の良い日であったせいか駐車場にはすでに40~50台くらい車が停まっていた。

私は山に登るつもりはなかったので800~900m先にある極楽寺跡を目指した。

P9050071s.jpg

天気も良く、稲も黄金色に輝き、稲刈りも始まっていた。(9月5日)

先に頂上に「宝篋印塔」が立つ宝篋山が見える。
その山の麓が今から760年ほど前の鎌倉時代に、奈良の西大寺から高僧「忍性」がここに来て、約10年間過ごし、東国の布教を行なった場所だ。


P9050077s.jpg

この三村山極楽寺はかなり大きな寺で、「三村山清冷院極楽寺」といい、尼寺などを含めたくさんの堂宇があったと伝えられている。

田圃の脇の道を進むと隠れるようにして「石造地蔵菩薩立像」が置かれていた。

登山者は気にしてみていく人もあまりいないようだ。

P9050075s.jpg

この石の地蔵さんだが、これは忍性のいる頃に造られたようだ。
奈良からこれらの作業できる人も連れて来ていたようです。
(茨城県指定文化財)

P9050081s.jpg

忍性は奈良に北山十八間戸というライ病患者の収容所を建てたとして知られ、その他にも四箇院(敬田院:仏法修行の道場、施薬院:病院に薬を投与する場所、療病院:病気の療養所、悲田院:老人や身寄りのない人を保護)を建てている。

ここにもおなじような建物を建てたに違いない。
これが極楽寺と言われる場所なのだろう。

この三村山にやってきたのはこの地に鎌倉御家人であった小田氏がいたからに他ならない。


P9050080s.jpg

この極楽寺は小田氏の祖「八田知家」が堂宇を整備したらしいが、建長4年(1252)にここにやってきた忍性はいる間(10年間)に、ここの堂宇を一新したと言う。

忍性は戒律を重んじる律宗であったが、病人たちも分け隔てなく極楽往生をこの地で願っていたのだろうか。

以前行方の小幡観音寺でも忍性の布教の跡を見た。(記事は:こちら

この山(宝篋山)の中腹には薬師堂などもあったようです。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/09/13 21:30

竜巻被害から4年 北条市が開催

 2012年の5月6日につくば市北条地区を襲った竜巻の被害から立ち直った北条の街。
店舗も廃業したり空き地になった場所などもまだ目立ちますが、あれから4年となる先週の土曜日(5/7)に復興と防災意識の高揚をうたって北条市が開かれていました。

P5070013s.jpg

私が訪れたのは午後だいぶ経っていましたのでにぎわいも少し減っていたようです。

P5070014s.jpg

それでもたくさんの家族連れなどが訪れていました。
商店会の通りを歩行者天国にしていました。

お昼頃にはたくさんの人が出て消火訓練のバケツリレー競争などが行われたようです。

P5070015s.jpg

筑波山名物「福来(ふくれ)みかん」も氷にして・・・。
これは昔の駅弁とともに売っていた冷凍ミカンと同じようなものでしょうか。
冷凍ミカンも最近見かけませんね。みかんの表面に水をかけて凍らすのを繰り返し表面だけが凍ったみかんです。

P5070016s.jpg

この「田村家」さんは観光施設として土日のみ開放しています。
ここに風の会の会報を置かせていただいています。

P5070009s.jpg

この日は中で撮影が行われていました。北条市の様子の撮影のようです。

詳細は北条街づくり振興会会長の坂入さんのブログ(リンク先の「たかぼんのつくば市北条古民家暮らし」)を見てください。


つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/05/12 16:37

多気太郎(1)

 つくば市北条では毎年夏8月7日に「多気太郎万灯会」という祭りが行われている。

この多気太郎というのが多気大掾義幹(たきのだいじょうよしもと)のことで、地元では多気太郎さんと呼ばれ慕われている。

石岡の人は平国香のことは言うが、北条の多気山に城をかまえていたこの多気氏(大掾氏)のことはあまり言わない。

言わないというよりも石岡でも北条でもお互いの関係を知らないのかもしれない。

私は風の会の会報を毎月この北条に届けている。
何時もいくと気さくに話してもらえるようになった。
今回も田村家の奥様と多気太郎さんの話をして、久しぶりに五輪塔をお詣りしてきた。
知らないこともかなりあった。

そのうちにハッと気が付くこともあるだろう。

P9030011s_20160905214603656.jpg

多気太郎の墓といわれる五輪塔。


少しこのところブログを書き続ける気力がなくなってきたかも知れない。


つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/05 22:19

多気太郎(2)

 つくば市北条の多気太郎の紹介をしています。

さて、この多気太郎って誰? と思われている人が多いでしょう。
少し歴史を紹介します。

平安時代に桓武天皇の曾孫であるとされる「高望王(たかもちおう)」が、寛平元年(889年)5月13日、宇多天皇の勅命により平氏を賜与されて民間に降下し、(桓武)平氏が始まります。

この高望王の長男が国香で二男が良兼、三男が良将です。千葉などでよく名前を聞く「良文」は五男といわれています。

そして昌泰元年(898年)に上総介に任じられて、上総国に国香、良兼、良将の3人を連れてやってきます。

そして国香は常陸大掾であった地元の豪族であった源護(みなもとのまもる)の娘と結婚して常陸国に勢力を張っていきます。

そして真壁郡東石田を(現・茨城県筑西市)本拠地とし常陸大掾職を引き継いでいくことになります。

国香は平将門との争いで死んでしまいますが、その子である貞盛が藤原秀郷と共に将門を打ち取ります。

この貞盛の後を継いだ維幹が、筑波郡水守(みもり)に住んでいたが、990年頃にこの北条の多気に移り、多気城を築いたといわれています。

今「多気太郎」といわれているのはこの多気氏初代の維幹(これもと)から数えて6代目の多気義幹のことで、代々常陸大掾(だいじょう)職を踏襲していきますので「大掾氏(多気の大掾)」と呼ばれます。

しかし、鎌倉幕府ができ、1193年に大掾職の座を狙っていた鎌倉守護の八田(小田)知家が策謀を巡らし、源頼朝へ曽我兄弟の仇討ち事件の混乱につけ入り、「義幹謀叛の噂あり」と讒言をし、義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏が滅びたのです。

鎌倉に呼びつけられた義幹はまんまと罠にはまってしまい、領地をすべて没収され駿河国に謹慎となりそこで没したといわれています。

P9030005s.jpg

北条の商店会の通りを少し先に進んだところからこんな小さな看板のあるところの細い道を少し曲がったところに「多気太郎義幹」とものといわれる五輪塔があります。

P9030006s_20160907000543dc1.jpg

下記の看板の説明によると、駿河国に預けられていて無念のうちに没した義幹の霊骸をこの地に持ち帰って葬ったようです。

P9030007s.jpg

石岡は常陸国の国府であり、この地が政務の拠点ではあったようですが、この時はまだ大掾氏の城はありません。

この多気太郎義幹の二男茂幹が芹沢氏の基になっています。






つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/07 00:22

多気太郎(3)

 つくば市北条の多気山に城を築いて、常陸国の大掾職を継承していった桓武平氏の棟梁であった多気氏(平氏)は、小田(八田)氏の換言で頼朝により失脚させられたといわれていますが、実際にはどんなことがあったのでしょうか?

1193年に源頼朝が富士の巻狩りの時に起きた「曾我兄弟の仇討ち」事件が大きな影響を与えたようだ。

この仇討事件は曾我兄弟が父親の仇である工藤祐経の寝所を襲って仇討を果たしたのだが、これが単なる親の仇討ちだけではなかったと頼朝の周りでは噂が広がり、頼朝も狙われたとか、狙っているものがいるとかなり頼朝は神経質になっていたようだ。

そんな疑心暗鬼の中で、鎌倉御家人でもあった小田氏(八田氏)は、この多気大掾が戦の準備をしていると頼朝にささやいた。

そんな時に多気では街中に水路を構築していた。

P9030002s.jpg

それが今でも北条の街中に存在しており、むかしから人々の生活に潤いを与えてきた。

P9030004s_20160907232952f51.jpg

この当時に稲作や生活のためにこれだけの水路を作る街立てを行ったことは称賛に値すると思う。
しかしこれが頼朝に謀反の証しと思われたとは・・・。

P9030010s.jpg

多気太郎の五輪塔の周りには小さな形も崩れた五輪塔がいくつもおかれている。
これらは誰のものなのか?

P9030012s.jpg

五輪塔から南方向(つくば方面)を見ると、空は晴れあがり気持ちの良い風が吹いていた。

この後、大掾職は多気氏から分かれた水戸の吉田氏(馬場氏)に引き継がれる。

つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/08 00:00

多気太郎(4)

 つくば市北条の多気太郎といわれている人物を紹介している。

私は石岡に来るまで「大掾氏(だいじょうし)」などという名前は聞いたこともなかった。
学校の歴史などには登場しないと思う。

石岡では「大掾氏」とあちこちに出てくる。

掾(じょう)というのは地方の国の長官のような役職で大国といわれた常陸国などには大掾と少掾が置かれていた。
常陸国などは天皇の直轄の親王任国では中央のおえらい常陸の守や介などは都にいて地方には来ないから大掾が権力を握ってしまっていた。

この大掾職が世襲で受け継がれていき「大掾氏」なるものが誕生した。

その世襲の始まりがこの多気山に城をかまえた平氏の血筋の多気氏から始まるといわれている。
多気大掾は維幹・為幹・繁幹・致幹・直幹・義幹の6代続いた。太郎は長男をそう呼んでいたであろうから、この6人はすべて多気太郎と呼ばれていたのかもしれない。

今、北条に残されている多気太郎の五輪塔は最後の当主義幹(よしとも)のこととされる。

この大掾職は当時かなりうまみのある役職だったようで、これを小田氏(八田氏)はほしかったようだ。
うまく多気氏を失脚させることができたのだが、小田氏に大掾職はいかなかった。

ここで小田氏が大掾職を得ていたら石岡の大掾氏は存在しない。

大掾職を引き継いだのは繁幹(しげとも)の二男(致幹(むねとも)の弟)で水戸に進出していた清幹(吉田二郎)が始祖となった吉田氏で水戸城を築き、馬場に住んでいたので馬場氏とも呼ばれていたこの多気氏(平氏)から分かれた一族であった。

そのため、同族に引き継がれたので「大掾職」は世襲の様にして次の吉田氏に引き継がれた。

こうして多気氏・吉田氏と平氏の一族がこの地方長官のような大掾職を引き継ぎ府中城で清幹が倒れる1590年まで約600年続いた。

多気氏が200年、吉田氏が400年である。
吉田氏の400年のうち、最初の半分(220~30年)ほどは水戸が主で、石岡(府中)が従の2つの城を掛け持ち。
水戸が奪われた1426年からは石岡(府中)が大掾氏の本城となった。

言ってみれば石岡と北条や水戸は兄弟のようなものともいえる。

もう少し仲良くお互いの交流を深めてもいいんじゃないかと思っている。
風の会の会報を毎月届けて、少しづつでも交流ができそうな気がしている。

P9030003s.jpg

北条の街中には古い板碑や供養塔もあちこちに残されている。


つくば市北条 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/09/08 23:48
 | HOME | Next »