無量寿寺(鉾田市)
昨年末に今年が「親鸞750回忌」になると紹介してきました。
しかし、この鉾田市鳥栖の「無量寿寺」(本願寺派)を入れないと片手落ちになると気になっていましたが、やっと出かけてきました。(もう一つ下冨田にも無量寿寺(大谷派)があります)
親鸞聖人は越後に流されて、許されたのちも京に戻らずに関東の地で布教活動をしていますが、特に稲田(笠間市)の草庵に暮らして、何度となく石岡の地を経由して鹿島神宮に通ったと伝わっています。
実はこの寺(無量寿寺)には「幽霊図」があることで有名なのです。

親鸞の関東での弟子二十四輩の第三番順信房が開基した寺です。

幽霊の話はこうです。
「領主村田刑部少輔平高時の妻が難産で亡くなってしまいますが、我が子愛しさのため幽霊となって寺に姿をあらわしたため、寺の住職もいたたまれずに逃げ出してしまい、無住の寺になってしまいました。
困った村人が親鸞上人にお願いしたところ、聖人は村人が集めた小石にお経を1文字ずつ書いて、妻の塚に埋めたところ幽霊はあらわれなくなったという。親鸞はこの寺に三年逗留し布教につとめたといわれています。」
しかし、一時は実在の人物ではないとまで疑われるほど謎の多い親鸞については、正直わからないことが多いのも確かです。

しかし、石岡では大覚寺に伝わる山伏弁円との話や、高浜の爪書き阿弥陀の話があり、親鸞聖人は高浜から舟で鹿島へ行っていたとなっていますが、小美玉市に伝わる「喜八阿弥陀堂」の話はこの無量寿寺の話と同じような話です。
いったいどのような道を通っていたのだろうか?

寺の本堂は立派ですね。この本堂は1600年代後半の築造だそうです。丁度菊祭りで花が飾られていました。


この鐘楼も趣がありますね。
昼少し前に行ったのですが、鐘を住職の方が突いておられました。写真を撮るときはもういません。
鳴らす回数が決まっているのでしょうから、もう一度突いてくださいとは言えません。
本堂、鐘楼、山門 が県指定文化財です。
また境内にある聖人が植えたといわれる菩提樹が県の天然文化財だそうです。

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しかし、この鉾田市鳥栖の「無量寿寺」(本願寺派)を入れないと片手落ちになると気になっていましたが、やっと出かけてきました。(もう一つ下冨田にも無量寿寺(大谷派)があります)
親鸞聖人は越後に流されて、許されたのちも京に戻らずに関東の地で布教活動をしていますが、特に稲田(笠間市)の草庵に暮らして、何度となく石岡の地を経由して鹿島神宮に通ったと伝わっています。
実はこの寺(無量寿寺)には「幽霊図」があることで有名なのです。

親鸞の関東での弟子二十四輩の第三番順信房が開基した寺です。

幽霊の話はこうです。
「領主村田刑部少輔平高時の妻が難産で亡くなってしまいますが、我が子愛しさのため幽霊となって寺に姿をあらわしたため、寺の住職もいたたまれずに逃げ出してしまい、無住の寺になってしまいました。
困った村人が親鸞上人にお願いしたところ、聖人は村人が集めた小石にお経を1文字ずつ書いて、妻の塚に埋めたところ幽霊はあらわれなくなったという。親鸞はこの寺に三年逗留し布教につとめたといわれています。」
しかし、一時は実在の人物ではないとまで疑われるほど謎の多い親鸞については、正直わからないことが多いのも確かです。

しかし、石岡では大覚寺に伝わる山伏弁円との話や、高浜の爪書き阿弥陀の話があり、親鸞聖人は高浜から舟で鹿島へ行っていたとなっていますが、小美玉市に伝わる「喜八阿弥陀堂」の話はこの無量寿寺の話と同じような話です。
いったいどのような道を通っていたのだろうか?

寺の本堂は立派ですね。この本堂は1600年代後半の築造だそうです。丁度菊祭りで花が飾られていました。


この鐘楼も趣がありますね。
昼少し前に行ったのですが、鐘を住職の方が突いておられました。写真を撮るときはもういません。
鳴らす回数が決まっているのでしょうから、もう一度突いてくださいとは言えません。
本堂、鐘楼、山門 が県指定文化財です。
また境内にある聖人が植えたといわれる菩提樹が県の天然文化財だそうです。



月蔵寺(鉾田市)
親鸞聖人の無量寿寺(鉾田市)の街道入口の当間(トウマ)地区に赤いトタン屋根のお蔵があった。
近寄って見て見ると「月蔵寺」との文字が読める。

後で調べて見ると「当間山月蔵寺大教院」という寺が明治元年まで、このお堂の階段昇り口左手にあったが、その跡地に残された「地蔵堂」だという。
一方の大教院のあった場所には、その後明治に開校された小学校が出来て、それも廃校となり今は公民館が出来ていました。

よこの看板には芭蕉の句碑の説明が書かれていた。
石の古い句碑があったらしいのだが、写真を撮るの忘れてしまった。
やはり霞ケ浦水運の影響が強かったのがわかります。
「 けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉
(解釈)
折からの初時雨に、この時期の物さびしい情趣は、老人の心にふさわしい。
若い人も今日だけは、老人の心になって、この時雨を味わえよ。
文化文政期の鹿島・行方地方は、水運の発達によって江戸の文化の影響が及んだか、特に俳諧の普及が著しかった。
この句碑は、鉾田地方の俳人39人によって、文政6年(1823年)10月12日に芭蕉百三十回忌に因んで建てられたもので、この地方の当時の俳諧熱の高まりを今に伝えるものである。」
と書かれています。

この地蔵堂は天正15年(1588年)に建てられたものらしい。
かなり歴史的価値がありそうだが、扱いは少し粗末な気がする。

このように彫刻も立派であったが、今は大分傷んで修理したら良いのにと思われるものでした。


外に掲げられた額の絵もなかなか興味深いものがあります。しかし、これも長年の風雨で判別も難しそうです。

下のYAHOOの地図にこのお堂のすぐ近くに「無量寿寺」との記載の寺があるが、これは先日紹介した寺ではない。
この道をもう少し行った先にある。いったい幾つ同じ名前の寺があるのか?
最近問題となっている念仏集団もあるという。無量寿とは寿命が無量ということらしい。
本来はだれでも極楽往生できるという考え方のようです。
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近寄って見て見ると「月蔵寺」との文字が読める。

後で調べて見ると「当間山月蔵寺大教院」という寺が明治元年まで、このお堂の階段昇り口左手にあったが、その跡地に残された「地蔵堂」だという。
一方の大教院のあった場所には、その後明治に開校された小学校が出来て、それも廃校となり今は公民館が出来ていました。

よこの看板には芭蕉の句碑の説明が書かれていた。
石の古い句碑があったらしいのだが、写真を撮るの忘れてしまった。
やはり霞ケ浦水運の影響が強かったのがわかります。
「 けふばかり人も年よれ初時雨 芭蕉
(解釈)
折からの初時雨に、この時期の物さびしい情趣は、老人の心にふさわしい。
若い人も今日だけは、老人の心になって、この時雨を味わえよ。
文化文政期の鹿島・行方地方は、水運の発達によって江戸の文化の影響が及んだか、特に俳諧の普及が著しかった。
この句碑は、鉾田地方の俳人39人によって、文政6年(1823年)10月12日に芭蕉百三十回忌に因んで建てられたもので、この地方の当時の俳諧熱の高まりを今に伝えるものである。」
と書かれています。

この地蔵堂は天正15年(1588年)に建てられたものらしい。
かなり歴史的価値がありそうだが、扱いは少し粗末な気がする。

このように彫刻も立派であったが、今は大分傷んで修理したら良いのにと思われるものでした。


外に掲げられた額の絵もなかなか興味深いものがあります。しかし、これも長年の風雨で判別も難しそうです。

下のYAHOOの地図にこのお堂のすぐ近くに「無量寿寺」との記載の寺があるが、これは先日紹介した寺ではない。
この道をもう少し行った先にある。いったい幾つ同じ名前の寺があるのか?
最近問題となっている念仏集団もあるという。無量寿とは寿命が無量ということらしい。
本来はだれでも極楽往生できるという考え方のようです。


子生(こなじ)の浜
鉾田の少し北の鹿島灘に面した浜に近いところに子生(こなじ)(旧旭村?)という場所があります。
この変わった名前の場所は、石岡の一部の人にとっては有名な場所なんです。
石岡に残る「国分寺の鐘伝説」(こちら)では、この場所に国分寺の雌雄2つの鐘が最初にこの浜に浮かんだ場所だからです。
そして、この伝説が石岡駅の下りホームに壁画として飾られているのです。(こちら)
この話は石岡では有名な話なのですが、この話をモチーフに作られた石岡の銘菓「釣鐘最中(つりがねもなか)」は知っていても、この話を知らない人も結構いるようですので、石岡の方でこのブログを読んでおられて、知らなかったら上にリンクしたHPを読んでみてくださいね。
この話は石岡以外にも、霞ヶ浦周辺にいくつも伝わっています。
この子生周辺の話では、ここから2つの鐘を常陸国府(現石岡)の国分寺に運んだのは「弁慶」になっていたりします。
逆に石岡では一つの鐘が盗まれてしまいますが、盗んだのはやはり「弁慶」だというのもあります。
伝説ですから力持ちは皆弁慶になってしまうようです。
もちろん時代も合いません。
子生は少し内陸よりなので、適当に玉田あたりに検討をつけて海を目指しました。

正面に海が見えてきました。ここで車は通行止めになっています。
歩いていくのは良いようなので、空き地に停めて歩いて坂道を下っていきました。
通行止めの入口に工事中らしく警備員さんが立っていました。

道路の両サイドにカラーコーンが置かれており、路肩が危ないのかもしれません。
この近くも地震と津波で被害を受けたのでしょう。

(サムネルです)
海岸にでました。
台風が過ぎたと思いましたが、かなり波が高いです。
北側は大洗海岸の方向ですが、波消しのブロックが置かれているのかと思いましたが、形が傘の弧のような形をしています。
先ほどの警備の方に、砂の流出防止だと後で伺いました。

昔は砂浜ももっと遠くまで広がっていたそうです。
今ではこのように波で流出してしまったのでしょう。
鹿島灘は波が荒く、船の難破も何度もあります。

(サムネルです)
南の方を見ると、波のしぶきで薄らと白いもやのようになっていました。
こんな波の高い海に船で鐘を運んできたとも考えられません。
さて、何故ここが子生という名前で、国分寺の鐘がここから運ばれたと伝説が何故生まれたのだろう。
荒れた海を眺めながらそんなことを考えていた。
そうそう、先ほどの入口に立っていた警備のおじさんも人が良さそうな方だったので、声をかけてみました。
「今日は暑くなりましたね。」
「そう。だからここ(木の陰)に立ってるの」
「でも大変ですね。昨日はもっと海の波は高かったのですか」
「いや、こんなものでしたよ。今日と同じくらい。」
「砂浜が少ないですね。」
「昔はもっと沖まで砂浜だったようだが、波で持って行かれてしまったらしい。」
「そうですか。昔みたいに戻ればいいですね。」
てな具合です。お粗末です。
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この変わった名前の場所は、石岡の一部の人にとっては有名な場所なんです。
石岡に残る「国分寺の鐘伝説」(こちら)では、この場所に国分寺の雌雄2つの鐘が最初にこの浜に浮かんだ場所だからです。
そして、この伝説が石岡駅の下りホームに壁画として飾られているのです。(こちら)
この話は石岡では有名な話なのですが、この話をモチーフに作られた石岡の銘菓「釣鐘最中(つりがねもなか)」は知っていても、この話を知らない人も結構いるようですので、石岡の方でこのブログを読んでおられて、知らなかったら上にリンクしたHPを読んでみてくださいね。
この話は石岡以外にも、霞ヶ浦周辺にいくつも伝わっています。
この子生周辺の話では、ここから2つの鐘を常陸国府(現石岡)の国分寺に運んだのは「弁慶」になっていたりします。
逆に石岡では一つの鐘が盗まれてしまいますが、盗んだのはやはり「弁慶」だというのもあります。
伝説ですから力持ちは皆弁慶になってしまうようです。
もちろん時代も合いません。
子生は少し内陸よりなので、適当に玉田あたりに検討をつけて海を目指しました。

正面に海が見えてきました。ここで車は通行止めになっています。
歩いていくのは良いようなので、空き地に停めて歩いて坂道を下っていきました。
通行止めの入口に工事中らしく警備員さんが立っていました。

道路の両サイドにカラーコーンが置かれており、路肩が危ないのかもしれません。
この近くも地震と津波で被害を受けたのでしょう。

(サムネルです)
海岸にでました。
台風が過ぎたと思いましたが、かなり波が高いです。
北側は大洗海岸の方向ですが、波消しのブロックが置かれているのかと思いましたが、形が傘の弧のような形をしています。
先ほどの警備の方に、砂の流出防止だと後で伺いました。

昔は砂浜ももっと遠くまで広がっていたそうです。
今ではこのように波で流出してしまったのでしょう。
鹿島灘は波が荒く、船の難破も何度もあります。

(サムネルです)
南の方を見ると、波のしぶきで薄らと白いもやのようになっていました。
こんな波の高い海に船で鐘を運んできたとも考えられません。
さて、何故ここが子生という名前で、国分寺の鐘がここから運ばれたと伝説が何故生まれたのだろう。
荒れた海を眺めながらそんなことを考えていた。
そうそう、先ほどの入口に立っていた警備のおじさんも人が良さそうな方だったので、声をかけてみました。
「今日は暑くなりましたね。」
「そう。だからここ(木の陰)に立ってるの」
「でも大変ですね。昨日はもっと海の波は高かったのですか」
「いや、こんなものでしたよ。今日と同じくらい。」
「砂浜が少ないですね。」
「昔はもっと沖まで砂浜だったようだが、波で持って行かれてしまったらしい。」
「そうですか。昔みたいに戻ればいいですね。」
てな具合です。お粗末です。


とちぎ海浜自然の家
昨日書いた子生(こなじ)近くの海岸のすぐ近くに、地図に「とちぎ海浜自然の家」と書かれた場所があります。
「いばらき」の間違いではないかと一瞬地図を疑いました。
すぐ近くなので行ってみました。
海岸に近い高台に立派な建物がでんと建っています。

この近くの道路から見ると少し場違いのような立派な建物です。

栃木県の生涯学習施設だそうです。海のない栃木県の子供達などに利用してもらうための栃木県の施設のようです。

施設を利用または見学をする方を除いて施設の中に入らないでくださいと書かれていました。
なら見学をさせていただくのなら構わないだろうとなかに車を乗り入れました。
入ると右側に立派な駐車場が有り20台くらいは停車していましたので利用者が来ているのでしょう。
この正面の建物の他、左側にテニスコートなどの運動場、奥の方に大きな体育館のような施設が数棟見ることができました。
ドラえもんとドラミちゃんなどが出迎えてくれます。

写真を撮っていると警備員さんがやってきました。
「ちょっと見学させていただいて、すぐに戻ります。」と話をしてすぐに失礼しました。
この施設がある場所は高台ですが、そのまま海岸に降りれるのかと思いましたが、少し周りを見てみましたが海に直接降りられるようには見えませんでした。(詳しくはわかりません)
建物の上の階に行けば太平洋の鹿島灘はよく見渡せるし、宿泊すれば日の出は見ることができそうです。
夏の海水浴ならこの少し北には大洗サンビーチがあり、すぐ南には大竹海岸もあります。
どちぎの子供たちも茨城に来て雄大な海を眺め、茨城を好きになって欲しいですね。

この自然の家に行く道と昨日の海岸への道の分かれ道の角には古びた石像が置かれていました。

(サムネルです)
この玉田地区の婦人会が置いた子安観音や庚申像?に二十三夜尊の石碑などです。
茨城もこのようにあちこちにこのような道祖神などが置かれています。
都会ではあまり見かけなくなったものですが、このようなものを見るのもどこか懐かしさがあります。
芭蕉もこのようなものに何かを感じて奥の細道を旅したのでしょうか?
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「いばらき」の間違いではないかと一瞬地図を疑いました。
すぐ近くなので行ってみました。
海岸に近い高台に立派な建物がでんと建っています。

この近くの道路から見ると少し場違いのような立派な建物です。

栃木県の生涯学習施設だそうです。海のない栃木県の子供達などに利用してもらうための栃木県の施設のようです。

施設を利用または見学をする方を除いて施設の中に入らないでくださいと書かれていました。
なら見学をさせていただくのなら構わないだろうとなかに車を乗り入れました。
入ると右側に立派な駐車場が有り20台くらいは停車していましたので利用者が来ているのでしょう。
この正面の建物の他、左側にテニスコートなどの運動場、奥の方に大きな体育館のような施設が数棟見ることができました。
ドラえもんとドラミちゃんなどが出迎えてくれます。

写真を撮っていると警備員さんがやってきました。
「ちょっと見学させていただいて、すぐに戻ります。」と話をしてすぐに失礼しました。
この施設がある場所は高台ですが、そのまま海岸に降りれるのかと思いましたが、少し周りを見てみましたが海に直接降りられるようには見えませんでした。(詳しくはわかりません)
建物の上の階に行けば太平洋の鹿島灘はよく見渡せるし、宿泊すれば日の出は見ることができそうです。
夏の海水浴ならこの少し北には大洗サンビーチがあり、すぐ南には大竹海岸もあります。
どちぎの子供たちも茨城に来て雄大な海を眺め、茨城を好きになって欲しいですね。

この自然の家に行く道と昨日の海岸への道の分かれ道の角には古びた石像が置かれていました。

(サムネルです)
この玉田地区の婦人会が置いた子安観音や庚申像?に二十三夜尊の石碑などです。
茨城もこのようにあちこちにこのような道祖神などが置かれています。
都会ではあまり見かけなくなったものですが、このようなものを見るのもどこか懐かしさがあります。
芭蕉もこのようなものに何かを感じて奥の細道を旅したのでしょうか?


龍蔵院-虚空蔵尊
茨城県の大洗海岸と大竹海岸の間の鹿島灘は太平洋の波が押し寄せるため、海岸線は比較的幅の狭い砂浜が続いています。
そして、そこに傘を広げたような防砂壁がいくつも設けられています。
この地には今は無き常陸国分寺の二つの鐘がこの付近(子生=こなじ)の浜より運ばれてきたとという伝説が伝わっています。
前に書いた海岸のすぐ近くに地図に「龍蔵院」という寺がかかれています。
ネットで調べてみてもほとんど内容がわかりません。
そこで、この寺を見てみたくなり立ち寄ることにしました。
海岸の崖の上に広がる玉田地区の住宅の台地の一番海岸寄りの脇道を少し入ったところに赤い板壁のお堂が見えました。

お堂の横に、昭和47年にこの龍蔵院本堂を改築した時の記念碑が建てられています。
内容の一部を少し省いたりしていますが下記に記します。
「明和4年に当地に建立され、一説に常陸国村松山虚空蔵尊の分室と伝えられる家内安全五穀豊穣を守護とする御仏として信仰される。明治42年10月火災により類焼したが、御本尊のみは災火から守られた。
・・・・・・
ここに於て往時不毛の地として価値なき海辺砂丘地帯を所有する玉田部落29名の共有地山林を売却し、代金の一部を削って龍蔵院本堂及び寺各所の建設を完成する。」
明和4年というと1767年で、江戸時代中期です。
また村松山虚空蔵堂というのは、東海村にある寺で、虚空蔵尊は、虚空菩薩像の中でも日本三体の一つに数えられ、十三詣りとして厄払いでも有名だそうです。
村松山虚空蔵堂は、807年に弘法大師により建立されたと書かれており、戦国時代の戦火で堂は焼けてしまったが、虚空蔵菩薩は無事で、後の1487年に頭白上人によって堂は再建されたとあります。
そう、頭白上人っていうのは頭が白かったので頭白だそうですが、先日北条地区を回った帰り道でみた大きな五輪塔(記事はこちら)で、この名前を見つけた僧です。

赤い壁の虚空堂本堂の中を覗くと、真ん中に色彩豊かな厨子が置かれています。
この中に虚空菩薩が安置されているものと思います。

その厨の横には、何やらとても古そうな仏像が置かれていました。
少し気味が悪いようにも思います。
この虚空蔵堂は「龍蔵院」と地図にも載っていますが、この玉田、子生地区には「厳島神社」という古社があります。
今回この地区に来た一番の目的はこの厳島神社の本殿を見たかったです。
国分寺の鐘伝説の現地調査はその次の目的でした。
こちらの厳島神社については明日以降に書きたいと思います。

この地区にひっそりと見物客なども訪れることはないような、このような社寺などを偶然訪れてみると、ハッとすることがあります。
もしかしたら、気がつかないことが眠っているのではないかとも思ってしまいます。
例えば、この龍蔵院は江戸中期の創建ではなく、もっと昔からあったのではないかということを・・・。
赤いお堂に曼珠沙華というのも絵になります。

花の写真を単独にアップして(マクロ?)撮るのはあまり趣味ではありません。
周り全体の中の花として風景などと一緒に花を見ないと落ち着かないのです。
赤の花を見るのでも「万緑叢中紅一点」の言葉どうり、一面の緑の草原に赤い花が一つあるから感じるものがあるように思っています。
これは、これらの社寺や道端のお地蔵さんなどでも同じです。
風景に溶け込んで初めて、そこに吹く風や土の匂いがするような気がしています。
これも個人の好みの問題なのでしょうがないですね。
これは石岡の史跡などを見るときも同じです。
常陸国分寺史跡を見るときも、単に石岡の史跡というのではなく、この史跡が置かれている環境を考えたり、常陸国(茨城)の史跡としてどう見るか、とか日本の史跡としてはどうなのか、という見方になります。
私も石岡に住んでいるので、ここに国分寺史跡があることは嬉しいのですが、石岡市民などという小さな枠で捉えることはどうしても好きになれないのです。
これは、もしかしたら私が生まれ育った場所ではないからかもしれませんね。
他所とのつながりを考えるのも好きですね。
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そして、そこに傘を広げたような防砂壁がいくつも設けられています。
この地には今は無き常陸国分寺の二つの鐘がこの付近(子生=こなじ)の浜より運ばれてきたとという伝説が伝わっています。
前に書いた海岸のすぐ近くに地図に「龍蔵院」という寺がかかれています。
ネットで調べてみてもほとんど内容がわかりません。
そこで、この寺を見てみたくなり立ち寄ることにしました。
海岸の崖の上に広がる玉田地区の住宅の台地の一番海岸寄りの脇道を少し入ったところに赤い板壁のお堂が見えました。

お堂の横に、昭和47年にこの龍蔵院本堂を改築した時の記念碑が建てられています。
内容の一部を少し省いたりしていますが下記に記します。
「明和4年に当地に建立され、一説に常陸国村松山虚空蔵尊の分室と伝えられる家内安全五穀豊穣を守護とする御仏として信仰される。明治42年10月火災により類焼したが、御本尊のみは災火から守られた。
・・・・・・
ここに於て往時不毛の地として価値なき海辺砂丘地帯を所有する玉田部落29名の共有地山林を売却し、代金の一部を削って龍蔵院本堂及び寺各所の建設を完成する。」
明和4年というと1767年で、江戸時代中期です。
また村松山虚空蔵堂というのは、東海村にある寺で、虚空蔵尊は、虚空菩薩像の中でも日本三体の一つに数えられ、十三詣りとして厄払いでも有名だそうです。
村松山虚空蔵堂は、807年に弘法大師により建立されたと書かれており、戦国時代の戦火で堂は焼けてしまったが、虚空蔵菩薩は無事で、後の1487年に頭白上人によって堂は再建されたとあります。
そう、頭白上人っていうのは頭が白かったので頭白だそうですが、先日北条地区を回った帰り道でみた大きな五輪塔(記事はこちら)で、この名前を見つけた僧です。

赤い壁の虚空堂本堂の中を覗くと、真ん中に色彩豊かな厨子が置かれています。
この中に虚空菩薩が安置されているものと思います。

その厨の横には、何やらとても古そうな仏像が置かれていました。
少し気味が悪いようにも思います。
この虚空蔵堂は「龍蔵院」と地図にも載っていますが、この玉田、子生地区には「厳島神社」という古社があります。
今回この地区に来た一番の目的はこの厳島神社の本殿を見たかったです。
国分寺の鐘伝説の現地調査はその次の目的でした。
こちらの厳島神社については明日以降に書きたいと思います。

この地区にひっそりと見物客なども訪れることはないような、このような社寺などを偶然訪れてみると、ハッとすることがあります。
もしかしたら、気がつかないことが眠っているのではないかとも思ってしまいます。
例えば、この龍蔵院は江戸中期の創建ではなく、もっと昔からあったのではないかということを・・・。
赤いお堂に曼珠沙華というのも絵になります。

花の写真を単独にアップして(マクロ?)撮るのはあまり趣味ではありません。
周り全体の中の花として風景などと一緒に花を見ないと落ち着かないのです。
赤の花を見るのでも「万緑叢中紅一点」の言葉どうり、一面の緑の草原に赤い花が一つあるから感じるものがあるように思っています。
これは、これらの社寺や道端のお地蔵さんなどでも同じです。
風景に溶け込んで初めて、そこに吹く風や土の匂いがするような気がしています。
これも個人の好みの問題なのでしょうがないですね。
これは石岡の史跡などを見るときも同じです。
常陸国分寺史跡を見るときも、単に石岡の史跡というのではなく、この史跡が置かれている環境を考えたり、常陸国(茨城)の史跡としてどう見るか、とか日本の史跡としてはどうなのか、という見方になります。
私も石岡に住んでいるので、ここに国分寺史跡があることは嬉しいのですが、石岡市民などという小さな枠で捉えることはどうしても好きになれないのです。
これは、もしかしたら私が生まれ育った場所ではないからかもしれませんね。
他所とのつながりを考えるのも好きですね。


厳島神社(子生弁天)(1)
茨城県鉾田市子生(こなじ)には子生の弁天様と呼ばれる「厳島神社」がある。
水戸から鹿島の方に海沿いを走る国道51号線の旧旭村の子生地区に国道沿いに厳島神社の表参道入口がある。

この入口に鳥居が2つ、「村社厳島神社」の石柱と、説明板が置かれている。

「旭村森林浴の道厳島神社
承歴2年(1078)、安芸の宮島の厳島神社の分霊を迎えたことが始まりとされている厳島神社の境内を巡るコース。安産の神様として地元からは崇拝されている。
本店は小振りだが周囲は池と樹林に囲まれ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
・・・・・・・
東に足を向ければ、約1.5kmで玉田海岸にたどりつく。海岸沿いには飛砂防備保安林としてクロマツ林が広がり、海の青さとマツの緑が絶妙なコントラストを有しており、旭村の自然を満喫できる。」
と書かれています。

2つの鳥居の先に森林浴に確かに良さそうな参道が続いています。
入口にもう一つ神社の説明が書かれています。

(サムネルです)
神社の由緒の内容は
・祭神は市杵島姫命・・・これは安芸(広島)の宮島「厳島神社」の祭神で弁天様のようです。
・神社は寛文22年に火災で焼失し記録が残っていないが、承歴2年に安芸の宮島より勧請したと言われる。・・・平清盛が宮島の厳島神社の社殿を造営したのは1168年頃と言われていますので、承歴2年(1078)はその90年も前です。
・享保2年(1717年)の江戸時代に奉納された鏡に「安産をこの神に祈らば即ち安泰なり」とあるので子生村(こなじむら)と号すると言い伝えられん。
・・・私はこの説は信じられませんが、こんなことも話としては面白いでしょう。
この「こなじ」を「子生」と書いたものだろうが、名前はきっともっと前からあるように思う。
・神殿向拝柱の龍の彫刻は一本の柱をくりぬいた珍しい手法とされている。・・・この神社に来た最大の目的です。後日詳細を書きます。

この狛犬素敵ですね。
阿型の獅子は子獅子を連れています。

吽型の方は玉を持っています。

入口の長い参道が続きます。竹林も綺麗です。

参道を進むと横断する道が向こうにありますが、その先にまた鳥居があり、階段を神社の方へ下ります。
すると赤い神社の拝殿が池の中に浮かび上がって見えてきます。
安芸の厳島神社をミニュチュアにしたようなイメージかもしれませんが、綺麗な造形美です。
神社はまた明日続きを書きます。
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水戸から鹿島の方に海沿いを走る国道51号線の旧旭村の子生地区に国道沿いに厳島神社の表参道入口がある。

この入口に鳥居が2つ、「村社厳島神社」の石柱と、説明板が置かれている。

「旭村森林浴の道厳島神社
承歴2年(1078)、安芸の宮島の厳島神社の分霊を迎えたことが始まりとされている厳島神社の境内を巡るコース。安産の神様として地元からは崇拝されている。
本店は小振りだが周囲は池と樹林に囲まれ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
・・・・・・・
東に足を向ければ、約1.5kmで玉田海岸にたどりつく。海岸沿いには飛砂防備保安林としてクロマツ林が広がり、海の青さとマツの緑が絶妙なコントラストを有しており、旭村の自然を満喫できる。」
と書かれています。

2つの鳥居の先に森林浴に確かに良さそうな参道が続いています。
入口にもう一つ神社の説明が書かれています。

(サムネルです)
神社の由緒の内容は
・祭神は市杵島姫命・・・これは安芸(広島)の宮島「厳島神社」の祭神で弁天様のようです。
・神社は寛文22年に火災で焼失し記録が残っていないが、承歴2年に安芸の宮島より勧請したと言われる。・・・平清盛が宮島の厳島神社の社殿を造営したのは1168年頃と言われていますので、承歴2年(1078)はその90年も前です。
・享保2年(1717年)の江戸時代に奉納された鏡に「安産をこの神に祈らば即ち安泰なり」とあるので子生村(こなじむら)と号すると言い伝えられん。
・・・私はこの説は信じられませんが、こんなことも話としては面白いでしょう。
この「こなじ」を「子生」と書いたものだろうが、名前はきっともっと前からあるように思う。
・神殿向拝柱の龍の彫刻は一本の柱をくりぬいた珍しい手法とされている。・・・この神社に来た最大の目的です。後日詳細を書きます。

この狛犬素敵ですね。
阿型の獅子は子獅子を連れています。

吽型の方は玉を持っています。

入口の長い参道が続きます。竹林も綺麗です。

参道を進むと横断する道が向こうにありますが、その先にまた鳥居があり、階段を神社の方へ下ります。
すると赤い神社の拝殿が池の中に浮かび上がって見えてきます。
安芸の厳島神社をミニュチュアにしたようなイメージかもしれませんが、綺麗な造形美です。
神社はまた明日続きを書きます。


厳島神社(子生弁天)(2)
子生(こなじ)弁天様といわれる厳島神社の続きです。
この子生(こなじ)に上がった鐘を常陸国分寺へ運んだという場所というには、この地の玉田海岸は砂浜も少なく何故この場所なのだろうとずっと考えていた。
そしてこの地に来たがこの子生の弁天様(厳島神社)がある以外にそれといったイメージがわかなかった。
そして、今日地図を見て思い当たったことがあります。
それは、この場所が筑波山の真東だということです。(石岡からは真東はもう少し南になります。)
春分・秋分の時に筑波山から見るとこの海岸から日が昇ります。こちらから見ると山に日が沈みます。
きっとそんなことが関係していたのかもしれません。
鹿島神宮から真西には諏訪大社があります。これも偶然の一致とは言えないでしょう。
やはり水際にお祀りしていますが、坂道を降りたところにある赤い神社が水面に映えておもわずハッとします。
今はコンクリの階段ですが、昔は山道を下ったようなところにあったのでしょう。
このような造形の美が何故かあまり知られていません。

ここは今は鉾田市ですが、平成の大合併以前は旭村でした。
鉾田も旭村もどちらもメロンが有名です。
夕張みたいに高くはなくとても美味しいです。
これはこのあたりの土壌がメロン栽培やさつまいも栽培に適しているのだと思います。

坂を降りたところに木々の間から赤い円弧の橋が水に映って、思わず立ち止まり、うっとりと眺めました。

(これだけサムネルです)
左側が拝殿で、市の文化財です。奥の右側が本殿で、県の文化財です。
待望の龍の彫られた柱は、本殿をすっぽりと保護するように建屋で覆われていますので、遠目にはよく見えません。

こちらが市の文化財である拝殿です。

太鼓橋と赤い欄干が水に映ると綺麗です。
この池の水はあまり綺麗ではありませんが、鯉がおよいでいます。

こちらが本殿(社殿)です。
創建は承暦2年(1078)と伝えられますが、現在の本殿は元禄10年(1697)年に建てられたものだそうです。
こじんまりしたものですが、300年以上経つ本殿はこの中にあります。

木々の生い茂る山の中の窪地に湧き出した池の中に浮かぶように社殿を建てたのは
やはり水というものが大切にされ、弁天様を祀り、五穀豊穣を願ったのでしょう。
名前が子生であるので、子供が無事に生まれる女神ということがいつの間にか広がり、江戸時代には江戸からも参拝者があり、正月の縁日には参拝客がたくさん集まったと言われています。

毎日調べながら記事を書いていますが、仕事に出かけているときは、やはり記事のUPが遅くなってしまいます。
休みの日にある程度の記事をストックしたりしてそれを装飾して記事にまとめてもいますが、限界にも近づいて来ているかもしれませんね。
本殿の龍の彫刻を載せようと思いましたが、疲れたので、それはまた明日にします。
← よろしければクリックお願いします。
この子生(こなじ)に上がった鐘を常陸国分寺へ運んだという場所というには、この地の玉田海岸は砂浜も少なく何故この場所なのだろうとずっと考えていた。
そしてこの地に来たがこの子生の弁天様(厳島神社)がある以外にそれといったイメージがわかなかった。
そして、今日地図を見て思い当たったことがあります。
それは、この場所が筑波山の真東だということです。(石岡からは真東はもう少し南になります。)
春分・秋分の時に筑波山から見るとこの海岸から日が昇ります。こちらから見ると山に日が沈みます。
きっとそんなことが関係していたのかもしれません。
鹿島神宮から真西には諏訪大社があります。これも偶然の一致とは言えないでしょう。
やはり水際にお祀りしていますが、坂道を降りたところにある赤い神社が水面に映えておもわずハッとします。
今はコンクリの階段ですが、昔は山道を下ったようなところにあったのでしょう。
このような造形の美が何故かあまり知られていません。

ここは今は鉾田市ですが、平成の大合併以前は旭村でした。
鉾田も旭村もどちらもメロンが有名です。
夕張みたいに高くはなくとても美味しいです。
これはこのあたりの土壌がメロン栽培やさつまいも栽培に適しているのだと思います。

坂を降りたところに木々の間から赤い円弧の橋が水に映って、思わず立ち止まり、うっとりと眺めました。

(これだけサムネルです)
左側が拝殿で、市の文化財です。奥の右側が本殿で、県の文化財です。
待望の龍の彫られた柱は、本殿をすっぽりと保護するように建屋で覆われていますので、遠目にはよく見えません。

こちらが市の文化財である拝殿です。

太鼓橋と赤い欄干が水に映ると綺麗です。
この池の水はあまり綺麗ではありませんが、鯉がおよいでいます。

こちらが本殿(社殿)です。
創建は承暦2年(1078)と伝えられますが、現在の本殿は元禄10年(1697)年に建てられたものだそうです。
こじんまりしたものですが、300年以上経つ本殿はこの中にあります。

木々の生い茂る山の中の窪地に湧き出した池の中に浮かぶように社殿を建てたのは
やはり水というものが大切にされ、弁天様を祀り、五穀豊穣を願ったのでしょう。
名前が子生であるので、子供が無事に生まれる女神ということがいつの間にか広がり、江戸時代には江戸からも参拝者があり、正月の縁日には参拝客がたくさん集まったと言われています。

毎日調べながら記事を書いていますが、仕事に出かけているときは、やはり記事のUPが遅くなってしまいます。
休みの日にある程度の記事をストックしたりしてそれを装飾して記事にまとめてもいますが、限界にも近づいて来ているかもしれませんね。
本殿の龍の彫刻を載せようと思いましたが、疲れたので、それはまた明日にします。


厳島神社(子生弁天)(3)
茨城県鉾田市子生(こなじ)にある厳島神社の3回目です。
この神社については途中での火災などのため、資料があまり残っていないため、創建年代ががはっきりしていなかったようです。
そのためか、資料によっては鹿島郡では鹿島神宮についで古い神社であると書かれていたりします。
これも鹿島郡というだけですからどの範囲までを指しているのかはわかりません。
元鹿島ともいわれる「大生神社」という古社がありますので、これももう少し調べてみないと鵜呑みにはできません。
現地に書かれた説明板によると、「昭和46年に至り氏子中の古文書より社の創建について承歴2年子生山弁才天建之此訳造谷村龍蔵院硯録に在之由也とあり、この神社の祭祠が遠く平安中期の九百年前に遡ることがほぼ立証された。」とあります。

国道沿いの入口とは別に、横の県道側に「裏参道」の入口があり、赤い鳥居が建っています。
この山道も古くからあるようで、参道脇の樹木は根がむき出しとなり、道も深く沈み込んでいます。
この神社に駐車場がないと思いましたが、この鳥居をくぐって下りて行ったところに駐車場ができていました。
しかし、案内もないので、知らないと、この狭い参道を車で下りていくのは、少し勇気がいりますね。
私はこの入口に少し空いたスペースがあったのでそこに置いて歩いて行きました。

こちらが県指定の文化財である「本殿」の龍の彫刻です。
元禄10年(1697)の棟札があるそうです。

(サムネルです)
この龍はものすごいですね。左右それぞれ一番上に頭がありますが、途中にも頭がそれぞれあります。
ものすごい形相ですね。
下の方にも頭があります。

本殿の彫刻も凝ったものがあります。
造りは流れ造りで屋根は後から上に保護のために銅板製の屋根を載せたのではないかと思います。
ここを見に来る気になったのは、龍の柱があるとの紹介は結構あるのですが、詳細を紹介しているところが少ないので、直接見に来たのです。
先日、石岡市瓦会(かわらえ)の日笠神社の本殿にやはり龍の彫刻があったので、比較のために見に来たといってもよいでしょう。

こちらがその日笠神社の龍です。
やはり、厳島神社の方が迫力があります。
でも神社の作りはよく似ていますね。
でもこちらは火災で焼け、1850年に再建された物だったと思います。
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この神社については途中での火災などのため、資料があまり残っていないため、創建年代ががはっきりしていなかったようです。
そのためか、資料によっては鹿島郡では鹿島神宮についで古い神社であると書かれていたりします。
これも鹿島郡というだけですからどの範囲までを指しているのかはわかりません。
元鹿島ともいわれる「大生神社」という古社がありますので、これももう少し調べてみないと鵜呑みにはできません。
現地に書かれた説明板によると、「昭和46年に至り氏子中の古文書より社の創建について承歴2年子生山弁才天建之此訳造谷村龍蔵院硯録に在之由也とあり、この神社の祭祠が遠く平安中期の九百年前に遡ることがほぼ立証された。」とあります。

国道沿いの入口とは別に、横の県道側に「裏参道」の入口があり、赤い鳥居が建っています。
この山道も古くからあるようで、参道脇の樹木は根がむき出しとなり、道も深く沈み込んでいます。
この神社に駐車場がないと思いましたが、この鳥居をくぐって下りて行ったところに駐車場ができていました。
しかし、案内もないので、知らないと、この狭い参道を車で下りていくのは、少し勇気がいりますね。
私はこの入口に少し空いたスペースがあったのでそこに置いて歩いて行きました。

こちらが県指定の文化財である「本殿」の龍の彫刻です。
元禄10年(1697)の棟札があるそうです。

(サムネルです)
この龍はものすごいですね。左右それぞれ一番上に頭がありますが、途中にも頭がそれぞれあります。
ものすごい形相ですね。
下の方にも頭があります。

本殿の彫刻も凝ったものがあります。
造りは流れ造りで屋根は後から上に保護のために銅板製の屋根を載せたのではないかと思います。
ここを見に来る気になったのは、龍の柱があるとの紹介は結構あるのですが、詳細を紹介しているところが少ないので、直接見に来たのです。
先日、石岡市瓦会(かわらえ)の日笠神社の本殿にやはり龍の彫刻があったので、比較のために見に来たといってもよいでしょう。

こちらがその日笠神社の龍です。
やはり、厳島神社の方が迫力があります。
でも神社の作りはよく似ていますね。
でもこちらは火災で焼け、1850年に再建された物だったと思います。


白井家-慶喜が最後に休憩した家
鉾田市の中心部から、海岸沿いの国道にでる途中の街道沿いに大きな門構えの家があった。
門の前に説明板が置かれているので、一旦通り過ぎたが戻って見学した。

「白井家」とあります。
慶喜は慶応3年10月に大政を奉還し、翌慶応4年4月に江戸城を明け渡して、上野寛永寺から水戸の講道館の一室に身を寄せました。
そしてそれから3ヶ月後の7月に駿府(静岡)に移された。その移動時に休憩した家がこの白井家であったという。

(サムネルです)
当時を偲ばせてくれる大きな門構えの家です。

(サムネルです)
水戸街道で江戸に向かうのではなく、この海運ルートを通って行ったのは、こちらの方が身は安全と判断したのでしょう。
(霞ヶ浦水運ルートについては前に書いた記事 → こちら を参照下さい。4番目の那珂湊内海ルートです。)
水戸から船で涸沼へ進み、対岸より鉾田まで陸を進み、ここ鉾田で1泊。
そして、ここからまた船で北浦から霞ヶ浦を通って利根川-江戸川と通ると江戸まで船で行けます。
この白井家は立派な庭を持つ大きな家です。

(サムネルです)
慶喜は江戸城を明け渡して上野寛永寺から水戸の講道館に謹慎し、その後、駿府(静岡)に行きます。
そして明治30年に東京巣鴨に住み、大正の初めまで生きています。
さて、この白井家の前を通る街道の反対側に大きな「メロンの森」という観光施設がありました。
メロンの時期(5~7月始め、及び9・10月)にはメロン狩りやバーベキューができるようです。
鉾田のメロンは有名なんです。

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門の前に説明板が置かれているので、一旦通り過ぎたが戻って見学した。

「白井家」とあります。
慶喜は慶応3年10月に大政を奉還し、翌慶応4年4月に江戸城を明け渡して、上野寛永寺から水戸の講道館の一室に身を寄せました。
そしてそれから3ヶ月後の7月に駿府(静岡)に移された。その移動時に休憩した家がこの白井家であったという。

(サムネルです)
当時を偲ばせてくれる大きな門構えの家です。

(サムネルです)
水戸街道で江戸に向かうのではなく、この海運ルートを通って行ったのは、こちらの方が身は安全と判断したのでしょう。
(霞ヶ浦水運ルートについては前に書いた記事 → こちら を参照下さい。4番目の那珂湊内海ルートです。)
水戸から船で涸沼へ進み、対岸より鉾田まで陸を進み、ここ鉾田で1泊。
そして、ここからまた船で北浦から霞ヶ浦を通って利根川-江戸川と通ると江戸まで船で行けます。
この白井家は立派な庭を持つ大きな家です。

(サムネルです)
慶喜は江戸城を明け渡して上野寛永寺から水戸の講道館に謹慎し、その後、駿府(静岡)に行きます。
そして明治30年に東京巣鴨に住み、大正の初めまで生きています。
さて、この白井家の前を通る街道の反対側に大きな「メロンの森」という観光施設がありました。
メロンの時期(5~7月始め、及び9・10月)にはメロン狩りやバーベキューができるようです。
鉾田のメロンは有名なんです。



塔ヶ崎十一面観音(吉祥院)
先日紹介した鉾田市の厳島神社を訪問する途中で、バイパスも出来ていたが、旧市街への道を進んだところ「塔ヶ崎十一面観音」と書かれた看板を見つけた。
この名前をあまり知らなかったが、このあたりでは安産、子育て、子授りなどで有名な観音様だという。
しかし、今回案内するのはこの同じ塔ヶ崎にあるが、もう一つ別な十一面観音だということに後で気がついた。
2つあるとはどういうことか?
もう一方の十一面観音の方は1月と8月の21日には屋台が並ぶほど人が訪れる場所らしい。
(今はだいぶ寂しくなったとも・・・)
しかし、どこを見てもこの十一面観音堂(吉祥院)を紹介しているところがない。

車も入れたようだが、通りの空き地に駐車して、住宅のあいだを歩いて行った。
案内はしっかりしていて、ご覧のような矢印まである。

すると、小さな張り出したような山の麓に立派なお堂が現れた。

六角のお堂で「吉祥院」(きっしょういん?、きちじょういん?)と書かれている。
姿の良いお堂で、境内に梅の古木が植えられていた。


「十一面観世音堂新築記念」と書かれた立派な石碑が置かれていました。

それほど広い敷地ではないのですが、綺麗に管理されています。
近くで縁日に賑わうという「塔ヶ崎十一面観音堂」とはどういう関係があるのでしょう。
この裏手の山の姿を見ると、ここ鉾田が霞ヶ浦の北浦の先っぽにあり、この北浦にこの場所が突き出した場所だったのだろうと想像できます。
そして、そこに昔お宮が建てられた。そして十一面観音も祀られるようになった。
またその岬の場所に塔ケ崎と名が付いた。
しばらくして、山の麓に寺や神社ができ上の奥宮を下で祀った。
一つは有名な「塔ヶ崎十一面観音」で、もう一つが、この吉祥院のとなりにある「大宮神社」なのだろう。

こちらがこの吉祥院に隣接する「大宮神社」だ。

拝殿の裏にこじんまりとした本殿が山に抱かれるように安置されています。
そして、この神社の左手にまた鳥居と奥の方に小さな祠が置かれています。
これはこの山の神を祀るものでしょう。

さて、もう一つの縁日も立つという塔ヶ崎十一面観音は「塔明山観音寺」というお寺です。
しかし、昔からあるのは書いてあるが、謂れや歴史がほとんど書かれたものがありません。
しかし十一面観音はそれほど大きなものではないようですが、写真を見る限り金色の像です。
昔、この近くを流れる巴川(ともえがわ)に流れ着いた観音様だそうです。
巴川は昔はもっと広い川だったようで、笠間の方から流れています。
そして親鸞上人の幽霊退治で有名な同じ鉾田市の無量寿寺の脇も流れています。
新潟佐渡にも「観音寺」と「吉祥寺」と二つあったものが片方がなくなったなどという記述もあることからすると、ここも観音寺と吉祥寺の2つがあったのかもしれません。
明治の初めの廃仏毀釈でこちらの寺が壊されたのかもしれません。

歴史もよくわからない場所でしたが、こんなこともまた次のネタにもつながることはよくあるので記憶に留めておきましょう。
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この名前をあまり知らなかったが、このあたりでは安産、子育て、子授りなどで有名な観音様だという。
しかし、今回案内するのはこの同じ塔ヶ崎にあるが、もう一つ別な十一面観音だということに後で気がついた。
2つあるとはどういうことか?
もう一方の十一面観音の方は1月と8月の21日には屋台が並ぶほど人が訪れる場所らしい。
(今はだいぶ寂しくなったとも・・・)
しかし、どこを見てもこの十一面観音堂(吉祥院)を紹介しているところがない。

車も入れたようだが、通りの空き地に駐車して、住宅のあいだを歩いて行った。
案内はしっかりしていて、ご覧のような矢印まである。

すると、小さな張り出したような山の麓に立派なお堂が現れた。

六角のお堂で「吉祥院」(きっしょういん?、きちじょういん?)と書かれている。
姿の良いお堂で、境内に梅の古木が植えられていた。


「十一面観世音堂新築記念」と書かれた立派な石碑が置かれていました。

それほど広い敷地ではないのですが、綺麗に管理されています。
近くで縁日に賑わうという「塔ヶ崎十一面観音堂」とはどういう関係があるのでしょう。
この裏手の山の姿を見ると、ここ鉾田が霞ヶ浦の北浦の先っぽにあり、この北浦にこの場所が突き出した場所だったのだろうと想像できます。
そして、そこに昔お宮が建てられた。そして十一面観音も祀られるようになった。
またその岬の場所に塔ケ崎と名が付いた。
しばらくして、山の麓に寺や神社ができ上の奥宮を下で祀った。
一つは有名な「塔ヶ崎十一面観音」で、もう一つが、この吉祥院のとなりにある「大宮神社」なのだろう。

こちらがこの吉祥院に隣接する「大宮神社」だ。

拝殿の裏にこじんまりとした本殿が山に抱かれるように安置されています。
そして、この神社の左手にまた鳥居と奥の方に小さな祠が置かれています。
これはこの山の神を祀るものでしょう。

さて、もう一つの縁日も立つという塔ヶ崎十一面観音は「塔明山観音寺」というお寺です。
しかし、昔からあるのは書いてあるが、謂れや歴史がほとんど書かれたものがありません。
しかし十一面観音はそれほど大きなものではないようですが、写真を見る限り金色の像です。
昔、この近くを流れる巴川(ともえがわ)に流れ着いた観音様だそうです。
巴川は昔はもっと広い川だったようで、笠間の方から流れています。
そして親鸞上人の幽霊退治で有名な同じ鉾田市の無量寿寺の脇も流れています。
新潟佐渡にも「観音寺」と「吉祥寺」と二つあったものが片方がなくなったなどという記述もあることからすると、ここも観音寺と吉祥寺の2つがあったのかもしれません。
明治の初めの廃仏毀釈でこちらの寺が壊されたのかもしれません。

歴史もよくわからない場所でしたが、こんなこともまた次のネタにもつながることはよくあるので記憶に留めておきましょう。


諏訪神社(鉾田市)
鉾田の街の中も大分廃れた感じとなってるなと、街を抜けるあたりに大きなショッピング街ができていた。
この道路の突き当りにあったのが、この諏訪神社のようだ。
今はここで少し道が曲がっているだけだが、昔の通りは正面がこの神社であったのだろう。
鬱蒼とした樹叢が広がっていた。

伝承によれば、貞観14年(872)7月27日、信濃の諏訪より勧請した。
ただし、記録は1750年代に火災で焼失し、詳しいことはわからない。
祭神は「建御名方命(たけみなかたのみこと)」「八坂刀女命(やさかとねのみこと)」で、これはまさに諏訪大社の神だ。

参道はかなり長く、両側の木もかなり古いようだ。
人が歩いたところが沈んで、樹木の根が浮き上がり、傾いた木がその年月を物語っている。

この神社の境内には相撲土俵があったという。
また、この神社は安房郷(安房村、鉾田村、柏熊村、柏熊新田村、瀧浜村の5つの村)の総鎮守といわれたという。
例祭では、安房氏子中より毎年輪番で、男小児2名を選び、奉納相撲が行われたといいます。

本殿も格式にある立派な姿をしています。

神社の入口鳥居から鉾田市街地方面を見たところです。
このあたりは街中と違って、開発が進み、大型の店舗が並んでいました。
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この道路の突き当りにあったのが、この諏訪神社のようだ。
今はここで少し道が曲がっているだけだが、昔の通りは正面がこの神社であったのだろう。
鬱蒼とした樹叢が広がっていた。

伝承によれば、貞観14年(872)7月27日、信濃の諏訪より勧請した。
ただし、記録は1750年代に火災で焼失し、詳しいことはわからない。
祭神は「建御名方命(たけみなかたのみこと)」「八坂刀女命(やさかとねのみこと)」で、これはまさに諏訪大社の神だ。

参道はかなり長く、両側の木もかなり古いようだ。
人が歩いたところが沈んで、樹木の根が浮き上がり、傾いた木がその年月を物語っている。

この神社の境内には相撲土俵があったという。
また、この神社は安房郷(安房村、鉾田村、柏熊村、柏熊新田村、瀧浜村の5つの村)の総鎮守といわれたという。
例祭では、安房氏子中より毎年輪番で、男小児2名を選び、奉納相撲が行われたといいます。

本殿も格式にある立派な姿をしています。

神社の入口鳥居から鉾田市街地方面を見たところです。
このあたりは街中と違って、開発が進み、大型の店舗が並んでいました。


大儀寺ー芭蕉月見の寺
芭蕉の鹿島紀行には下記の記述があります。
「洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。
伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。
・・・・・・
門より舟にのりて、行徳と云処に至る。
舟をあがれば、馬にものらず、細脛のちからをためさんと、かちよりぞゆく。
・・・・・・やはたと云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり・・・・・
・・・・・・筑波山むかふに高く、二峰並び立り。・・・・・まことに愛すべき山のすがたなりけらし。
・・・・・・日既に暮かかるほどに、利根川のほとりふさと言処につく。・・・・・
・・・・・・麓に 根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。」
この鹿島には根本寺の仏頂禅師から誘われて月見に訪れたのです。
東京深川(隅田川沿い)からは小名木川(水路)を通って荒川へ出て、そこから新川(水路)を通って行徳に出ました。
行徳は当時は塩の産地でもありました。
ここから江戸川を関宿(千葉県、茨城県、埼玉県の境)まで遡れば舟でも利根川に入れますが相当に遠回りになります。
このため(葛飾)八幡から鎌ヶ谷、白井を通って木下(きおろし)・布佐までの木下街道を徒歩で行ったようです。(約21
~22km?)
布佐から利根川を舟で下って鹿島まで行ったことがわかりますが、当時の鹿島参りはこのようなルートが普通だったのでしょう。

さて芭蕉は鹿島へは根本寺の住職をしていた仏頂和尚を訪ねて月見をして歌を読んだのですが、この根本寺は鹿島神宮の近くにあり前に訪れました。(記事はこちら)
「麓に 根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。
すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。
暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。
月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。」
この仏頂和尚のことを芭蕉は禅の師と仰いでいたのですが、この時はすでに根本寺から離れて山内の小庵に移っていたとあります。
この小庵の場所が今回紹介する鉾田市(旧太陽村)阿玉にある大儀寺です。
地図を見るとかなり離れています。
その当時(貞享4年(1687)8月)も北浦にも舟運が盛んに行なわれており、水戸方面からも鉾田経由でこの北浦にも多くの舟が行き来していたものと思います。
舟ならそれほど遠い事もなかったのかもしれません。
しかし、かなり離れた山里で、月見とは言っても生憎の雨。どんな思いだったのでしょう。
「月はやし梢は雨を持ながら」
大儀寺へは北浦から山道を上って行く道があり、昔は歩いてこちらから寺に行ったようですが、車ではこの道を通ることは少し無理なようです。
北浦に沿って走る18号線から太平洋側の汲上方面に走る道路入口に寺の案内看板があり、そのまま進むと寺の北側に入口と駐車場があります。

寺の南側の道路に寺の門柱と階段があります。

その道路はこんな山道ですので車での侵入は無理でしょう。
ひっそりとした寺でまわりは竹林です。

山門には「宝光山大儀寺」とあります。

緑が美しいです。

山百合が咲いています。
山門の隣り外側には「金刀毘羅宮社」とあります。
北浦の舟の安全を祈願して置かれたのでしょうか。
明日にもう少し続きます。
「洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。
伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。
・・・・・・
門より舟にのりて、行徳と云処に至る。
舟をあがれば、馬にものらず、細脛のちからをためさんと、かちよりぞゆく。
・・・・・・やはたと云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり・・・・・
・・・・・・筑波山むかふに高く、二峰並び立り。・・・・・まことに愛すべき山のすがたなりけらし。
・・・・・・日既に暮かかるほどに、利根川のほとりふさと言処につく。・・・・・
・・・・・・麓に 根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。」
この鹿島には根本寺の仏頂禅師から誘われて月見に訪れたのです。
東京深川(隅田川沿い)からは小名木川(水路)を通って荒川へ出て、そこから新川(水路)を通って行徳に出ました。
行徳は当時は塩の産地でもありました。
ここから江戸川を関宿(千葉県、茨城県、埼玉県の境)まで遡れば舟でも利根川に入れますが相当に遠回りになります。
このため(葛飾)八幡から鎌ヶ谷、白井を通って木下(きおろし)・布佐までの木下街道を徒歩で行ったようです。(約21
~22km?)
布佐から利根川を舟で下って鹿島まで行ったことがわかりますが、当時の鹿島参りはこのようなルートが普通だったのでしょう。

さて芭蕉は鹿島へは根本寺の住職をしていた仏頂和尚を訪ねて月見をして歌を読んだのですが、この根本寺は鹿島神宮の近くにあり前に訪れました。(記事はこちら)
「麓に 根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。
すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。
暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。
月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。」
この仏頂和尚のことを芭蕉は禅の師と仰いでいたのですが、この時はすでに根本寺から離れて山内の小庵に移っていたとあります。
この小庵の場所が今回紹介する鉾田市(旧太陽村)阿玉にある大儀寺です。
地図を見るとかなり離れています。
その当時(貞享4年(1687)8月)も北浦にも舟運が盛んに行なわれており、水戸方面からも鉾田経由でこの北浦にも多くの舟が行き来していたものと思います。
舟ならそれほど遠い事もなかったのかもしれません。
しかし、かなり離れた山里で、月見とは言っても生憎の雨。どんな思いだったのでしょう。
「月はやし梢は雨を持ながら」
大儀寺へは北浦から山道を上って行く道があり、昔は歩いてこちらから寺に行ったようですが、車ではこの道を通ることは少し無理なようです。
北浦に沿って走る18号線から太平洋側の汲上方面に走る道路入口に寺の案内看板があり、そのまま進むと寺の北側に入口と駐車場があります。

寺の南側の道路に寺の門柱と階段があります。

その道路はこんな山道ですので車での侵入は無理でしょう。
ひっそりとした寺でまわりは竹林です。

山門には「宝光山大儀寺」とあります。

緑が美しいです。

山百合が咲いています。
山門の隣り外側には「金刀毘羅宮社」とあります。
北浦の舟の安全を祈願して置かれたのでしょうか。
明日にもう少し続きます。
大儀寺(2)-仏頂禅師
大儀寺の歴史を少し調べてみました。
慶長年間(1596~1615)華蔵曇下(けぞうどんげ)和尚が草庵を開き,その後,元和2年(1616)阿玉村の領主,荒野右京進が梅易陽禅師を迎えて法花山大儀庵にし、その後六代を経て廃庵となりったそうです。
一方、近くの札村出身の仏頂禅師が、延宝8年(1680)に鹿島の根本寺を辞して、貞享元年(1684)に荒廃していたこの大儀庵に入り,復興に努力し,寺名も宝光山大儀寺と改めたとあります。
仏頂禅師は大儀寺の少し南方の札村で寛永19年(1642年)に生まれました。
そして8歳で根本寺の冷山和尚のもとに入り禅の世界に入ります。
その後各地を旅し、33歳で根本寺の住職を引き継ぎます(1674年)。
根本寺の冷山和尚はその後、江戸深川に草庵(臨川庵:りんせんあん)を結んでiいたようです。
鹿島の根本寺の寺領50石を鹿島神宮に取られそうになり、仏頂禅師がこの江戸臨川庵(現臨川寺)に逗留して、寺社奉行に訴えます。(1675年頃?)。
この訴訟争いは7年ほどかかり勝訴がほぼ決まった天和2年(1682)だといいます。
そしてこの寺領が根本寺に戻されると仏頂禅師は根本寺の住職を頑極和尚に譲ります。
そしてもう少しの間この深川にいたようですが、根本寺からこの山に中の荒れ果てた「大儀庵」を復興して寺として建てなおしたのでしょう。
一方芭蕉は深川の草庵に移ったのは1680年の冬ですから、この深川での二人の交流は約2年程だったようです。
芭蕉はこの仏頂禅師に禅を習い、逆に芭蕉は俳句を教えたと言われています。

この大儀寺の山門を入って正面に寺の本堂?には「月見寺」と額がかかっています。

本堂から山門を眺めます。
右手に薬師堂や梅の木。
なかなか良い眺めです。

この寺の本尊は十一面観音だそうです。こちらに置かれているのでしょうか?

薬師堂の右に仏頂禅師の像と芭蕉句碑が置かれています。

句碑には芭蕉がこの寺で詠んだ「寺に寝て まこと顔なる月見哉」と芭蕉(桃青)の句が彫られています。


薬師堂の裏手は竹林やお墓に色々な句碑が立っていますが、その中に仏頂塔(お墓?)が置かれています。
さてこの仏頂禅師についてはむかし栃木県大田原市の雲巌寺を訪れた時に、この地にこの仏頂禅師が結んだ草庵があったことを思い出して奥の細道の旅の途中に立ち寄っている。(こちら)
雲巌寺(雲岩寺)での句:(奥の細道)
竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば (仏頂和尚)
木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立 (芭蕉)
この雲巌寺の奥に五尺(約1.5m)程の小さな草庵に禅の修行をするために仏頂禅師が暮らしていたことがあった。
そして江戸で芭蕉と知り合った時に上の句を詠んだものと思います。
芭蕉にはこの草庵での暮らしが強く印象に残り、どんなところか立ち寄ったのでしょう。
この寺はまわりを竹林で囲まれ、そこにたくさんの石の句碑が置かれていました。
この景色を見て芭蕉の句の意味も、もう少し考えなおしてみたくなりましたので明日もう少し続きを書きます。
慶長年間(1596~1615)華蔵曇下(けぞうどんげ)和尚が草庵を開き,その後,元和2年(1616)阿玉村の領主,荒野右京進が梅易陽禅師を迎えて法花山大儀庵にし、その後六代を経て廃庵となりったそうです。
一方、近くの札村出身の仏頂禅師が、延宝8年(1680)に鹿島の根本寺を辞して、貞享元年(1684)に荒廃していたこの大儀庵に入り,復興に努力し,寺名も宝光山大儀寺と改めたとあります。
仏頂禅師は大儀寺の少し南方の札村で寛永19年(1642年)に生まれました。
そして8歳で根本寺の冷山和尚のもとに入り禅の世界に入ります。
その後各地を旅し、33歳で根本寺の住職を引き継ぎます(1674年)。
根本寺の冷山和尚はその後、江戸深川に草庵(臨川庵:りんせんあん)を結んでiいたようです。
鹿島の根本寺の寺領50石を鹿島神宮に取られそうになり、仏頂禅師がこの江戸臨川庵(現臨川寺)に逗留して、寺社奉行に訴えます。(1675年頃?)。
この訴訟争いは7年ほどかかり勝訴がほぼ決まった天和2年(1682)だといいます。
そしてこの寺領が根本寺に戻されると仏頂禅師は根本寺の住職を頑極和尚に譲ります。
そしてもう少しの間この深川にいたようですが、根本寺からこの山に中の荒れ果てた「大儀庵」を復興して寺として建てなおしたのでしょう。
一方芭蕉は深川の草庵に移ったのは1680年の冬ですから、この深川での二人の交流は約2年程だったようです。
芭蕉はこの仏頂禅師に禅を習い、逆に芭蕉は俳句を教えたと言われています。

この大儀寺の山門を入って正面に寺の本堂?には「月見寺」と額がかかっています。

本堂から山門を眺めます。
右手に薬師堂や梅の木。
なかなか良い眺めです。

この寺の本尊は十一面観音だそうです。こちらに置かれているのでしょうか?

薬師堂の右に仏頂禅師の像と芭蕉句碑が置かれています。

句碑には芭蕉がこの寺で詠んだ「寺に寝て まこと顔なる月見哉」と芭蕉(桃青)の句が彫られています。


薬師堂の裏手は竹林やお墓に色々な句碑が立っていますが、その中に仏頂塔(お墓?)が置かれています。
さてこの仏頂禅師についてはむかし栃木県大田原市の雲巌寺を訪れた時に、この地にこの仏頂禅師が結んだ草庵があったことを思い出して奥の細道の旅の途中に立ち寄っている。(こちら)
雲巌寺(雲岩寺)での句:(奥の細道)
竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば (仏頂和尚)
木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立 (芭蕉)
この雲巌寺の奥に五尺(約1.5m)程の小さな草庵に禅の修行をするために仏頂禅師が暮らしていたことがあった。
そして江戸で芭蕉と知り合った時に上の句を詠んだものと思います。
芭蕉にはこの草庵での暮らしが強く印象に残り、どんなところか立ち寄ったのでしょう。
この寺はまわりを竹林で囲まれ、そこにたくさんの石の句碑が置かれていました。
この景色を見て芭蕉の句の意味も、もう少し考えなおしてみたくなりましたので明日もう少し続きを書きます。
大儀寺(3)-句碑
茨城県鉾田市阿玉にある芭蕉月見の寺「大儀寺」の紹介の続きです。
本当は前回で終わる予定でしたがもう少し書いておきたくなりました。
それはこの寺を訪れて、芭蕉が二人の門人(曾良・宗波)を連れて3人でこの山寺を訪れた時のことを想像してみた時に浮かんできた景色です。
少し、芭蕉の書いた鹿島紀行の内容を考えて見ないとなりません。
貞享4年(1687)8月14日に翌日が名月であるので、この名月を禅の師と仰ぐ仏頂禅師の住む鹿島で一緒に眺めようと朝早く深川を舟で旅立ちます。
小名木川、新川を経て行徳まで1~2時間くらいでしょうか。そこから木下(きおろし)街道を利根川のほとりの布佐まで歩きます。
距離として5里(20km)以上ありますから5~6時間くらいかかったでしょう。
途中で鎌ヶ谷から白井へ出て筑波山が紫に輝く風情で謳われていますので天気は良かったのでしょう。
布佐は江戸時代初期頃までは水戸街道もここで利根川を渡っていますので船着き場としてもにぎわっていたと思います。
しかし、布佐には網代があり、利根川を遡ってくるサケをここで網で捕まえて江戸に運ぶ漁師がたくさんおりました。
芭蕉たちもこの網代の漁師の家に宿泊しようとしました。
しかし生臭い匂いが漂っていて眠れません。仕方なく夜中に舟で鹿島に向かおうと出発します。
鹿島へは布佐から佐原へ利根川を下り牛堀、潮来に水路でそのまま渡ります。
潮来から鹿島へも舟で行くことはできたと思いますが、外逆浦を避けて潮来から陸路を少し歩いたかもしれません。
いままで鹿島に渡ったのなら鹿島の大船津に舟で渡ったと思いこんでいましたが、この大儀寺が北浦の鉾田方面に大分行った場所にありますので大船津を通ったとしても更に北の「札」(仏頂禅師の生れた村)辺りまで舟で行ったのではないかと思います。
夜中に出発して鹿島には朝早く着いたのでしょうが、外は生憎の雨がふっていました。
今夜の名月は見られそうもない・・・・ そんな思いが3人の頭によぎったことでしょう。
・・・・ここからは鹿島紀行の一部を抜粋してみましょう・・・・・・
「昼より雨しきりに降て、月見るべくもあらず。麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。」
・・・夜中からの船旅で大分つかれていたのでしょう。寺についた3人は、この雨を怨みながら夜を待つ間仮眠したようです。
「すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。」
・・・中国の詩人杜甫が「深省を発せしむ」(人に深い悟りの心を抱かしめる)と詠んだ心境とこの山の寺の雰囲気が似ていて、心が洗われるようだというような意味か?
「暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。」
・・・暁になり雨も上がり、和尚が皆を起こして、歌詠みを始めます。
さて、その時に月は見えたのでしょうか??
「月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。」
・・・・解釈は分かれますが、詠んだ歌からは残念ながら名月は見えなかったのではないでしょうか。
でもはるばる月見のためにここまで来たのだから句を詠もうとしますが、皆なかなか詠むことができなかったようです。
でもここは禅の心をもって名月の歌を詠みあったことがうかがえます。
おりおりにかはらぬ空の月かげも
ちぢのながめは雲のまにまに 和尚
月はやし梢は雨を持ながら 桃青
寺にねてまことがほなる月見かな 桃青
雨にねて竹おきかへる月見かな 曽良
月さびし堂の軒端の雨しづく 宗波
(桃青は芭蕉のことです)
和尚の歌と次の芭蕉の歌からは雲が早く流れゆくの間に月が垣間見えるような歌です。
しかしその他の句はみな月見ではあってもまだ雨のしずくが残る禅寺の風情をうたっています。
この大儀寺に来る前にはこの月見で月も垣間見えたとという思いがしていましたが、ここに来るときっと月は見えなくとも心象として月見ができたのだという思いがしてきました。

北側の裏門。車では今はこちらから入る。この門を入ってすぐ左手に駐車場がある。

寺の手前に大きな青々として竹林が広がる。

俳句の里となっています。

布袋様。これも俳句愛好者から奉納された物?

竹林の中にはたくさんの俳句を彫った石碑が置かれています。

これは全て愛好家たちが自分の俳句を石材店の方にお願いして彫ってここに置かせてもらったもの。

句碑は100基以上あります。





本当は前回で終わる予定でしたがもう少し書いておきたくなりました。
それはこの寺を訪れて、芭蕉が二人の門人(曾良・宗波)を連れて3人でこの山寺を訪れた時のことを想像してみた時に浮かんできた景色です。
少し、芭蕉の書いた鹿島紀行の内容を考えて見ないとなりません。
貞享4年(1687)8月14日に翌日が名月であるので、この名月を禅の師と仰ぐ仏頂禅師の住む鹿島で一緒に眺めようと朝早く深川を舟で旅立ちます。
小名木川、新川を経て行徳まで1~2時間くらいでしょうか。そこから木下(きおろし)街道を利根川のほとりの布佐まで歩きます。
距離として5里(20km)以上ありますから5~6時間くらいかかったでしょう。
途中で鎌ヶ谷から白井へ出て筑波山が紫に輝く風情で謳われていますので天気は良かったのでしょう。
布佐は江戸時代初期頃までは水戸街道もここで利根川を渡っていますので船着き場としてもにぎわっていたと思います。
しかし、布佐には網代があり、利根川を遡ってくるサケをここで網で捕まえて江戸に運ぶ漁師がたくさんおりました。
芭蕉たちもこの網代の漁師の家に宿泊しようとしました。
しかし生臭い匂いが漂っていて眠れません。仕方なく夜中に舟で鹿島に向かおうと出発します。
鹿島へは布佐から佐原へ利根川を下り牛堀、潮来に水路でそのまま渡ります。
潮来から鹿島へも舟で行くことはできたと思いますが、外逆浦を避けて潮来から陸路を少し歩いたかもしれません。
いままで鹿島に渡ったのなら鹿島の大船津に舟で渡ったと思いこんでいましたが、この大儀寺が北浦の鉾田方面に大分行った場所にありますので大船津を通ったとしても更に北の「札」(仏頂禅師の生れた村)辺りまで舟で行ったのではないかと思います。
夜中に出発して鹿島には朝早く着いたのでしょうが、外は生憎の雨がふっていました。
今夜の名月は見られそうもない・・・・ そんな思いが3人の頭によぎったことでしょう。
・・・・ここからは鹿島紀行の一部を抜粋してみましょう・・・・・・
「昼より雨しきりに降て、月見るべくもあらず。麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。」
・・・夜中からの船旅で大分つかれていたのでしょう。寺についた3人は、この雨を怨みながら夜を待つ間仮眠したようです。
「すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。」
・・・中国の詩人杜甫が「深省を発せしむ」(人に深い悟りの心を抱かしめる)と詠んだ心境とこの山の寺の雰囲気が似ていて、心が洗われるようだというような意味か?
「暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。」
・・・暁になり雨も上がり、和尚が皆を起こして、歌詠みを始めます。
さて、その時に月は見えたのでしょうか??
「月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。」
・・・・解釈は分かれますが、詠んだ歌からは残念ながら名月は見えなかったのではないでしょうか。
でもはるばる月見のためにここまで来たのだから句を詠もうとしますが、皆なかなか詠むことができなかったようです。
でもここは禅の心をもって名月の歌を詠みあったことがうかがえます。
おりおりにかはらぬ空の月かげも
ちぢのながめは雲のまにまに 和尚
月はやし梢は雨を持ながら 桃青
寺にねてまことがほなる月見かな 桃青
雨にねて竹おきかへる月見かな 曽良
月さびし堂の軒端の雨しづく 宗波
(桃青は芭蕉のことです)
和尚の歌と次の芭蕉の歌からは雲が早く流れゆくの間に月が垣間見えるような歌です。
しかしその他の句はみな月見ではあってもまだ雨のしずくが残る禅寺の風情をうたっています。
この大儀寺に来る前にはこの月見で月も垣間見えたとという思いがしていましたが、ここに来るときっと月は見えなくとも心象として月見ができたのだという思いがしてきました。

北側の裏門。車では今はこちらから入る。この門を入ってすぐ左手に駐車場がある。

寺の手前に大きな青々として竹林が広がる。

俳句の里となっています。

布袋様。これも俳句愛好者から奉納された物?

竹林の中にはたくさんの俳句を彫った石碑が置かれています。

これは全て愛好家たちが自分の俳句を石材店の方にお願いして彫ってここに置かせてもらったもの。

句碑は100基以上あります。





福泉寺(穴寺)
県道354号線を行方側から北浦を鹿行大橋でわたりそのまま進むと、大蔵という場所に出る。
鉾田市だが、ここも合併前は太陽村といった。
このまま鹿島灘の海岸沿いには昔、太陽の別荘といった広告がたくさん都会にもばらまかれ、多くの方が海の別荘が安く手に入るとかなり売れた。
しかし、海沿いの別荘としては安易な建物で70~80坪ほどの別荘は今では売りたくても買い手がほとんどいない。
さてその太陽村の内陸部も大蔵は集落があった場所のようだがあまり開けた感じではない。
そこにザ・ロイヤルオーシャンというゴルフ場があるがその前に福泉寺という古い寺がある。
国宝の釈迦如来像がある寺である。
芭蕉の月見の寺「大儀寺」に行った時にこちらにも立ち寄った。

大蔵山福泉寺と国道沿いに門柱がある。
道はここから急坂を下っていく。

この寺は別名「穴寺」と呼ばれているそうで、本当に穴の中に入り込むような気持ちになる。

山に囲まれた窪地に寺が建てられているのだが、福泉寺というように下には泉があって、昔は貴重な水源であったのだと思う。

寺は臨済宗妙心寺派である。
本山は京都の妙心寺だが、世界に3400もの寺がある最大の禅寺だそうだ。

(茨城県教育委員会の文化財維摩居士像: こちら)
今から800年以上前に、常陸大掾の一族、平忠幹(平安時代末期に行方地方に進出してこの地に勢力を張った。この孫が行方四頭となった?)が恵光大和尚に請うて創建されたと伝えられる。
1325(正中2)年、鎌倉幕府の執権、北条高時の命により華蔵雲大和尚が再興した。 この時に京都妙心寺派の寺院となった。
江戸時代の初期に火災で建て物などが焼失したが、本尊である釈迦如来像は庭の池に移され無事であったという。
この仏像は鎌倉時代の春日仏師の作と伝えられ、昭和25年に国の重要文化財になった。
(鉾田市観光協会HOの写真:こちら)


本堂の天井に描かれている龍の絵は一説には谷文晁が寺に滞在して描いたといわれている。


本尊の釈迦如来像はこの収納庫に保存されている。
毎年4月8日のお釈迦さんの誕生日に一般公開されているそうだ。

この寺はあまり知られていないと思うが、鎌倉時代の木像といい、維摩居士像にはちゃんと徳川光圀の書が裏に添付されていて、龍の絵も本物かもしれない。
維摩居士(ゆいまこじ)はインドの釈迦の在家弟子と言われる人物。敦煌に壁画が残されている。
鉾田市だが、ここも合併前は太陽村といった。
このまま鹿島灘の海岸沿いには昔、太陽の別荘といった広告がたくさん都会にもばらまかれ、多くの方が海の別荘が安く手に入るとかなり売れた。
しかし、海沿いの別荘としては安易な建物で70~80坪ほどの別荘は今では売りたくても買い手がほとんどいない。
さてその太陽村の内陸部も大蔵は集落があった場所のようだがあまり開けた感じではない。
そこにザ・ロイヤルオーシャンというゴルフ場があるがその前に福泉寺という古い寺がある。
国宝の釈迦如来像がある寺である。
芭蕉の月見の寺「大儀寺」に行った時にこちらにも立ち寄った。

大蔵山福泉寺と国道沿いに門柱がある。
道はここから急坂を下っていく。

この寺は別名「穴寺」と呼ばれているそうで、本当に穴の中に入り込むような気持ちになる。

山に囲まれた窪地に寺が建てられているのだが、福泉寺というように下には泉があって、昔は貴重な水源であったのだと思う。

寺は臨済宗妙心寺派である。
本山は京都の妙心寺だが、世界に3400もの寺がある最大の禅寺だそうだ。

(茨城県教育委員会の文化財維摩居士像: こちら)
今から800年以上前に、常陸大掾の一族、平忠幹(平安時代末期に行方地方に進出してこの地に勢力を張った。この孫が行方四頭となった?)が恵光大和尚に請うて創建されたと伝えられる。
1325(正中2)年、鎌倉幕府の執権、北条高時の命により華蔵雲大和尚が再興した。 この時に京都妙心寺派の寺院となった。
江戸時代の初期に火災で建て物などが焼失したが、本尊である釈迦如来像は庭の池に移され無事であったという。
この仏像は鎌倉時代の春日仏師の作と伝えられ、昭和25年に国の重要文化財になった。
(鉾田市観光協会HOの写真:こちら)


本堂の天井に描かれている龍の絵は一説には谷文晁が寺に滞在して描いたといわれている。


本尊の釈迦如来像はこの収納庫に保存されている。
毎年4月8日のお釈迦さんの誕生日に一般公開されているそうだ。

この寺はあまり知られていないと思うが、鎌倉時代の木像といい、維摩居士像にはちゃんと徳川光圀の書が裏に添付されていて、龍の絵も本物かもしれない。
維摩居士(ゆいまこじ)はインドの釈迦の在家弟子と言われる人物。敦煌に壁画が残されている。
近津神社
茨城県鉾田市の旧太陽村の中央部に気になる寺を2つ紹介しました。
芭蕉が月見に仏頂禅師を訪れたと言われる大儀寺(阿玉)と穴寺と別名を持つ国宝の仏像がが眠る福泉寺(大蔵)であるが、地図を見るとそのどちらにも近くに「近津神社」という神社がある。
それ程知られた物でもなく地元でも関係者以外はほとんど訪れることもなさそうな神社である。
しかし同じ名前の神社がもう一つ汲上付近にあり、3つもある。

祭神は鹿島神宮と同じ「武甕槌(タケミカズチ)」のようだ。
普通なら鹿島神社となるのだろうが、近津神社となっている。
その中心となるのは大蔵にある近津神社のようだ。(訪れて見てそう思っただけだが・・・)
まずはこちらから、国道354号線を鹿行大橋(この橋は東日本大震災の時に橋が落下して車が落下して一人死亡する被害が出た。今の橋は新しい橋)をわたって進むと、福泉寺の少し手前に右に斜めに入る細い道がある。
この細い道が神社の参道であったようだ。
入口には何の案内もない。

奥まで進むと右手に神社の鳥居が見える。

古木が参道の両側にあり時代を感じさせてくれる。

神社拝殿。

上の説明にあるように創建ははっきりしないが、石岡(府中)の大掾(だいじょう)氏が鹿島大神(鹿島神宮)の分霊を奉遷したものという。
時代としては鎌倉時代になるようだ。

神社本殿。

古木の根に苔が。
次に大儀寺の山門入口の道を北に進むと阿玉の近津神社に出る。

こちらが阿玉の近津神社。
説明などの書かれた物は何もない。

奥に拝殿と本殿が一体となった小さな社が置かれていた。

まわりはきれいに整備されている。
もう一つの汲上にある近津神社はこの神社の管理をしていたという「華徳院」という寺が近くにあり、この寺の正式名称が「近津山華徳院」というようなので関係しているのかもしれない。
汲上という地名も大昔に塩汲みがこの鹿島灘で行なわれていたことから来ている。
江戸後期にはここで塩窯が8基もあったという。
こちらの神社はまだ行っていないのでまた近いうちに行けたら追加します。
今日は暑かった。
こんな状態だとこの夏が今のような調子で記事が書けるかどうかはわからない。
いろいろやらねばならないこともあるのでペースも落とさざるを得ないかもしれない。
芭蕉が月見に仏頂禅師を訪れたと言われる大儀寺(阿玉)と穴寺と別名を持つ国宝の仏像がが眠る福泉寺(大蔵)であるが、地図を見るとそのどちらにも近くに「近津神社」という神社がある。
それ程知られた物でもなく地元でも関係者以外はほとんど訪れることもなさそうな神社である。
しかし同じ名前の神社がもう一つ汲上付近にあり、3つもある。

祭神は鹿島神宮と同じ「武甕槌(タケミカズチ)」のようだ。
普通なら鹿島神社となるのだろうが、近津神社となっている。
その中心となるのは大蔵にある近津神社のようだ。(訪れて見てそう思っただけだが・・・)
まずはこちらから、国道354号線を鹿行大橋(この橋は東日本大震災の時に橋が落下して車が落下して一人死亡する被害が出た。今の橋は新しい橋)をわたって進むと、福泉寺の少し手前に右に斜めに入る細い道がある。
この細い道が神社の参道であったようだ。
入口には何の案内もない。

奥まで進むと右手に神社の鳥居が見える。

古木が参道の両側にあり時代を感じさせてくれる。

神社拝殿。

上の説明にあるように創建ははっきりしないが、石岡(府中)の大掾(だいじょう)氏が鹿島大神(鹿島神宮)の分霊を奉遷したものという。
時代としては鎌倉時代になるようだ。

神社本殿。

古木の根に苔が。
次に大儀寺の山門入口の道を北に進むと阿玉の近津神社に出る。

こちらが阿玉の近津神社。
説明などの書かれた物は何もない。

奥に拝殿と本殿が一体となった小さな社が置かれていた。

まわりはきれいに整備されている。
もう一つの汲上にある近津神社はこの神社の管理をしていたという「華徳院」という寺が近くにあり、この寺の正式名称が「近津山華徳院」というようなので関係しているのかもしれない。
汲上という地名も大昔に塩汲みがこの鹿島灘で行なわれていたことから来ている。
江戸後期にはここで塩窯が8基もあったという。
こちらの神社はまだ行っていないのでまた近いうちに行けたら追加します。
今日は暑かった。
こんな状態だとこの夏が今のような調子で記事が書けるかどうかはわからない。
いろいろやらねばならないこともあるのでペースも落とさざるを得ないかもしれない。
近津神社(汲上)
鉾田市の元大洋村に「近津神社」が3か所あってそのうち2か所(大蔵、阿玉)については先日紹介しました。
もう1か所を残すのはやはり気になりますので汲上にある近津神社に行ってみました。
水戸から鹿島・香取・成田・千葉を結ぶ国道51号線に面したところに比較的地味な石の鳥居がありました。

「村社近津神社」と彫られた石板が入口に置かれています。
先日書いたように常陸大掾氏が鹿島神宮から神を持ってきてこの地に建てた神社が3か所に分かれた?
近津という意味がどういう意味かははっきりわかりませんが、津というのは昔から船着き場の意味のはずなので、霞ケ浦北浦の津に近い場所に建てられたのが最初かもしれません。
一番北浦に近い場所は芭蕉の師である仏頂禅師の隠居した大儀寺に近い阿玉の近津神社が最初なのかもしれません。
今では一番忘れられたような神社ですが・・・

この汲上という場所は鹿島灘に面した場所で昔から塩の製造が行なわれていました。
後でまた述べますが今でも釜と名のつく地名がたくさん残されています。
(釜は製塩に使った釜につけられたもの:塩釜も大昔から製塩がさかんであった場所)

海に近いために境内は砂が大量に積もっています。
また境内にあるこの記念碑も書かれている内容をよく読むことができません。
「近津神社の境内はもと大字汲上字下宿?千七百四十番地?学校の南隣りにあった後ここに移し・・・・??」
どうやら近くの上島東小学校の敷地にあったのかもしれない。
今この小学校の隣りに汲上観音と呼ばれる観音堂がある。

境内はだいぶ砂などで埋まっている。

一応村社格なので拝殿と本殿がある。

神社の前は国道51号線。見える信号は「汲上」で、海は左側。
右に行くと臨海大洗鹿島線の「大洋駅」へ行く。
もう1か所を残すのはやはり気になりますので汲上にある近津神社に行ってみました。
水戸から鹿島・香取・成田・千葉を結ぶ国道51号線に面したところに比較的地味な石の鳥居がありました。

「村社近津神社」と彫られた石板が入口に置かれています。
先日書いたように常陸大掾氏が鹿島神宮から神を持ってきてこの地に建てた神社が3か所に分かれた?
近津という意味がどういう意味かははっきりわかりませんが、津というのは昔から船着き場の意味のはずなので、霞ケ浦北浦の津に近い場所に建てられたのが最初かもしれません。
一番北浦に近い場所は芭蕉の師である仏頂禅師の隠居した大儀寺に近い阿玉の近津神社が最初なのかもしれません。
今では一番忘れられたような神社ですが・・・

この汲上という場所は鹿島灘に面した場所で昔から塩の製造が行なわれていました。
後でまた述べますが今でも釜と名のつく地名がたくさん残されています。
(釜は製塩に使った釜につけられたもの:塩釜も大昔から製塩がさかんであった場所)

海に近いために境内は砂が大量に積もっています。
また境内にあるこの記念碑も書かれている内容をよく読むことができません。
「近津神社の境内はもと大字汲上字下宿?千七百四十番地?学校の南隣りにあった後ここに移し・・・・??」
どうやら近くの上島東小学校の敷地にあったのかもしれない。
今この小学校の隣りに汲上観音と呼ばれる観音堂がある。

境内はだいぶ砂などで埋まっている。

一応村社格なので拝殿と本殿がある。

神社の前は国道51号線。見える信号は「汲上」で、海は左側。
右に行くと臨海大洗鹿島線の「大洋駅」へ行く。
汲上観音
昨日の汲上の近津神社の説明で気になった「汲上の観音様」といわれる観音堂に行ってみました。
上島東小学校の入り口横に観音堂がありました。
この場所に近津神社があったのでしょうか。

これが観音堂です。
右手が小学校です。

8月9日に御開帳されると書いてありました。
とても見て見たい観音様なのですが、夜7時だとありますね。
こちらから行くにはちょっと遅いですね。

中を覗いてみましたが扉が閉まっていて見えません。

こじんまりした観音堂ですが、小学校の敷地に神社や寺があったのならかなり大きなものだったのかもしれません。

この観音像(如意輪観音像)は茨城県指定有形文化財となっています。(像の写真と説明は:こちら)
大きさは85cmといいますのでまずまずの大きさです。
でもここに「大同元年(806)ころの作といわれている」と書かれています。
台座に彫られている仁治三年修理というのは1242年となるのでやはりこれはかなり古いものだ。
市の説明では「元来如意臨観世音菩薩座像は、汲上山東福寺の守護仏とされていましたが、明治18年(1885年)の火災により東福寺が焼失し、廃寺となったため、現在は無住で華徳院が管理しています。」と書かれています。
これでここに東福寺という寺があったことがわかる。
この東福寺はきっと近津神社の神宮寺であったのかもしれません。
今はこの観音堂も近津神社(3か所)も汲上にある「華徳院」が管理していると書かれていたので、こちらにも立ち寄りました。

「近津山宝徳寺華徳院」
天台宗
969(安和2)年、天台宗座主慈恵僧正の法弟、慈泉が開基し、応永年間(1394~1428年)叡繁が入り再興したという。

お盆の時期で檀家さんもたくさん来られていて、あまりお寺を見て回ることはできませんでした。
昔は末寺をたくさん持つかなり大きな寺だったようです。

上島東小学校の入り口横に観音堂がありました。
この場所に近津神社があったのでしょうか。

これが観音堂です。
右手が小学校です。

8月9日に御開帳されると書いてありました。
とても見て見たい観音様なのですが、夜7時だとありますね。
こちらから行くにはちょっと遅いですね。

中を覗いてみましたが扉が閉まっていて見えません。

こじんまりした観音堂ですが、小学校の敷地に神社や寺があったのならかなり大きなものだったのかもしれません。

この観音像(如意輪観音像)は茨城県指定有形文化財となっています。(像の写真と説明は:こちら)
大きさは85cmといいますのでまずまずの大きさです。
でもここに「大同元年(806)ころの作といわれている」と書かれています。
台座に彫られている仁治三年修理というのは1242年となるのでやはりこれはかなり古いものだ。
市の説明では「元来如意臨観世音菩薩座像は、汲上山東福寺の守護仏とされていましたが、明治18年(1885年)の火災により東福寺が焼失し、廃寺となったため、現在は無住で華徳院が管理しています。」と書かれています。
これでここに東福寺という寺があったことがわかる。
この東福寺はきっと近津神社の神宮寺であったのかもしれません。
今はこの観音堂も近津神社(3か所)も汲上にある「華徳院」が管理していると書かれていたので、こちらにも立ち寄りました。

「近津山宝徳寺華徳院」
天台宗
969(安和2)年、天台宗座主慈恵僧正の法弟、慈泉が開基し、応永年間(1394~1428年)叡繁が入り再興したという。

お盆の時期で檀家さんもたくさん来られていて、あまりお寺を見て回ることはできませんでした。
昔は末寺をたくさん持つかなり大きな寺だったようです。

鹿島七釜
大洗磯前(いそさき)神社から鹿島神宮までの間の海岸は鹿島灘に面しており、九十九里のような砂浜もあるが波が荒く、険しい崖の場所もある。
この鹿島灘は大昔には砂鉄の産地でもあるが、塩の産地としてもその歴史が残されている。
そして今でも鹿島七釜と呼ばれる「釜」の付く地名がある。
北から上釜・別所釜・武与釜・高釜・京知釜・境釜・武井釜の七つである。

地図にその場所を記入した。
海岸にもその名前を冠して呼ばれている場所もある。
汲上別所釜海水浴場、京知釜海水浴場などがあり、夏にはサーファーが集まる。
路線バスのバス停にもいくつかこの地名のところがあるが、やはり国土地理院の地図には全ての地名と集落が載っていた。
釜は鉄釜のことであり、塩を煮詰めるのに使われていました。
鹿島神宮が武人の神を祀っているのもこの地が鉄の産地であったことが大きいのではないかと言われています。
中臣鎌足(藤原鎌足)が鹿島出生説が強いのもこの鉄や釜に関係が深いと考えられているためでもあるように思われます。
前から気になっていた製塩が盛んであったという鹿島灘を地図と写真から少し追ってみます。

まず汲上別所海水浴場へ。
狭い道を海岸まで行くと砂浜や海に結構人が来ておりました。
この北の大竹海岸やこの辺りの砂浜は湿っていて結構硬く、昔は車ものりいれられたと思いますが、今は手前に停めて砂浜には車はありませんでした。
一般の海水浴客はほとんどなく皆サーフボードを持って楽しんでいました。

海に突き出しているのは砂の流出を防ぐための防砂堤だと思います。
この別所釜から境釜まで砂浜というところは全てと言ってよいほど塩釜があって、部落ができたと思われます。

こちらは南部の境釜海岸です。
この浜にはあまり人はおりません。

鹿島灘はこのように比較的狭い幅で砂浜が続いています。
製塩の話は前に稲敷市の広畑貝塚を紹介した時に書いてことがあります。(こちら)
広畑貝塚で発見された製塩土器が恐らくこの周辺では最も古く、今から3000年くらい前の紀元前1000年頃にこお霞ケ浦湖畔(昔は海)で海藻を使って土器で煮て塩を作っていたのが最初のようです。
そして常陸国風土記には、浮島(稲敷市)で「山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる」という記述がある。
風土記が書かれたのは8世紀初頭だが、記述の内容は4~5世紀頃に浮島で製塩で生業を立てる者がいたことになります。
一方鹿島灘の方はどうかというと、恐らく宮城県の塩釜(鹽竈)神社の創建よりも前かもしれないと思い塩釜神社を調べて見た。
塩釜神社(志波彦神社)の記述によれば「鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。」と書かれており、
別宮:塩土老翁神 - 主祭神、左宮:武甕槌神、右宮:経津主神
の3柱を祀る。
まあ謎が多く創建ははっきりしないが、この鹿島と香取から蝦夷征伐が始まり、陸奥国の一宮として建てられたものという。
ではやはり5~6世紀頃にすでに製塩が行なわれていたのだろうか?
文献を調べると文徳実録(貞観13年:871年)に大洗の磯前神社近くの海岸で「海を煮て塩を作る者有り(856年12月の条)」と記録されています。
また鹿嶋市の北部の角折地区に「はななす公園」があり、公園の名前に「長者ヶ浜潮騒」と名前を頭に冠しています。
この長者というのが伝説で伝わる塩で大もうけをした長者(文太長者)というのです。
昔の御伽草子の中の「文正草子(ぶんしょうそうし)」(室町物語)に書かれている内容で、
「むかし、鹿島の大宮司の下男であった文太という男が、主家から追い出されて「つのをかが磯(角折?)」に住みついて、塩焼きを始める。そしてこの塩が味もよく、病にも効くと評判になり倍の値で飛ぶ様に売れたそうだ。
そして長者になり、鹿島大明神に願掛けしてできた2人の娘が関白と帝(みかど)に見染められ、北の方と中宮になった。
これにより文太は大納言までのぼりつめたという。
「文正草子」はこの文太が出世して「文正つねをか」と名乗ったことでつけられた名前である。
卑賤の身分であったものが立身出世をしていく話として室町時代に大いに語られたようだ。
御伽草子は文正草子など室町時代などの物語二十三編を集めたものである。(江戸時代)
鉢かづき、一寸法師、浦島太郎などの話があるがその一番最初がこの文正草子なのである。
さて江戸時代頃の製塩法を見ると、一般には潮の干満を利用して、塩田を満潮時には海面下となり干潮時に潮が引く位置に作る「入浜式塩田法」が瀬戸内海の沿岸を中心に作られましたが、この辺りの塩田は波が高いために「揚げ浜式製塩法」が主に作られたといいます。
これは塩田を波打ち際から30間(54m?)離れたところに作り、海の水を桶で運んだのです。
上の地図には先の文太長者の話の「角折(つのおれ)」と「子生(こなじ)」の2か所を追加しました。
角折の浜は常陸国風土記には
「昔、大きな蛇がゐて、東の海に出ようとして、浜に穴を掘って通らうとしたが、蛇の角が折れてしまったといふ。そこから名付けられた。また別の伝へに、倭武の天皇がこの浜辺にお宿りになったとき、御饌を供へるに、水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまった。ここから名付けられた。」
と書かれています。
いっぽう子生の浜については常陸国分寺の鐘がこの浜から府中(石岡)に運ばれたという伝承が残されています。
常陸国の国府があった府中(石岡)までこの鹿島灘の砂浜で造られた塩が運ばれたという「塩街道」の伝承も残されているのです。
興味がありましたら白井啓次さんのふるさと文庫「潮の道余話」(pdf(220kB):こちら)なども読んでみてください。
この鹿島灘は大昔には砂鉄の産地でもあるが、塩の産地としてもその歴史が残されている。
そして今でも鹿島七釜と呼ばれる「釜」の付く地名がある。
北から上釜・別所釜・武与釜・高釜・京知釜・境釜・武井釜の七つである。

地図にその場所を記入した。
海岸にもその名前を冠して呼ばれている場所もある。
汲上別所釜海水浴場、京知釜海水浴場などがあり、夏にはサーファーが集まる。
路線バスのバス停にもいくつかこの地名のところがあるが、やはり国土地理院の地図には全ての地名と集落が載っていた。
釜は鉄釜のことであり、塩を煮詰めるのに使われていました。
鹿島神宮が武人の神を祀っているのもこの地が鉄の産地であったことが大きいのではないかと言われています。
中臣鎌足(藤原鎌足)が鹿島出生説が強いのもこの鉄や釜に関係が深いと考えられているためでもあるように思われます。
前から気になっていた製塩が盛んであったという鹿島灘を地図と写真から少し追ってみます。

まず汲上別所海水浴場へ。
狭い道を海岸まで行くと砂浜や海に結構人が来ておりました。
この北の大竹海岸やこの辺りの砂浜は湿っていて結構硬く、昔は車ものりいれられたと思いますが、今は手前に停めて砂浜には車はありませんでした。
一般の海水浴客はほとんどなく皆サーフボードを持って楽しんでいました。

海に突き出しているのは砂の流出を防ぐための防砂堤だと思います。
この別所釜から境釜まで砂浜というところは全てと言ってよいほど塩釜があって、部落ができたと思われます。

こちらは南部の境釜海岸です。
この浜にはあまり人はおりません。

鹿島灘はこのように比較的狭い幅で砂浜が続いています。
製塩の話は前に稲敷市の広畑貝塚を紹介した時に書いてことがあります。(こちら)
広畑貝塚で発見された製塩土器が恐らくこの周辺では最も古く、今から3000年くらい前の紀元前1000年頃にこお霞ケ浦湖畔(昔は海)で海藻を使って土器で煮て塩を作っていたのが最初のようです。
そして常陸国風土記には、浮島(稲敷市)で「山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる」という記述がある。
風土記が書かれたのは8世紀初頭だが、記述の内容は4~5世紀頃に浮島で製塩で生業を立てる者がいたことになります。
一方鹿島灘の方はどうかというと、恐らく宮城県の塩釜(鹽竈)神社の創建よりも前かもしれないと思い塩釜神社を調べて見た。
塩釜神社(志波彦神社)の記述によれば「鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。」と書かれており、
別宮:塩土老翁神 - 主祭神、左宮:武甕槌神、右宮:経津主神
の3柱を祀る。
まあ謎が多く創建ははっきりしないが、この鹿島と香取から蝦夷征伐が始まり、陸奥国の一宮として建てられたものという。
ではやはり5~6世紀頃にすでに製塩が行なわれていたのだろうか?
文献を調べると文徳実録(貞観13年:871年)に大洗の磯前神社近くの海岸で「海を煮て塩を作る者有り(856年12月の条)」と記録されています。
また鹿嶋市の北部の角折地区に「はななす公園」があり、公園の名前に「長者ヶ浜潮騒」と名前を頭に冠しています。
この長者というのが伝説で伝わる塩で大もうけをした長者(文太長者)というのです。
昔の御伽草子の中の「文正草子(ぶんしょうそうし)」(室町物語)に書かれている内容で、
「むかし、鹿島の大宮司の下男であった文太という男が、主家から追い出されて「つのをかが磯(角折?)」に住みついて、塩焼きを始める。そしてこの塩が味もよく、病にも効くと評判になり倍の値で飛ぶ様に売れたそうだ。
そして長者になり、鹿島大明神に願掛けしてできた2人の娘が関白と帝(みかど)に見染められ、北の方と中宮になった。
これにより文太は大納言までのぼりつめたという。
「文正草子」はこの文太が出世して「文正つねをか」と名乗ったことでつけられた名前である。
卑賤の身分であったものが立身出世をしていく話として室町時代に大いに語られたようだ。
御伽草子は文正草子など室町時代などの物語二十三編を集めたものである。(江戸時代)
鉢かづき、一寸法師、浦島太郎などの話があるがその一番最初がこの文正草子なのである。
さて江戸時代頃の製塩法を見ると、一般には潮の干満を利用して、塩田を満潮時には海面下となり干潮時に潮が引く位置に作る「入浜式塩田法」が瀬戸内海の沿岸を中心に作られましたが、この辺りの塩田は波が高いために「揚げ浜式製塩法」が主に作られたといいます。
これは塩田を波打ち際から30間(54m?)離れたところに作り、海の水を桶で運んだのです。
上の地図には先の文太長者の話の「角折(つのおれ)」と「子生(こなじ)」の2か所を追加しました。
角折の浜は常陸国風土記には
「昔、大きな蛇がゐて、東の海に出ようとして、浜に穴を掘って通らうとしたが、蛇の角が折れてしまったといふ。そこから名付けられた。また別の伝へに、倭武の天皇がこの浜辺にお宿りになったとき、御饌を供へるに、水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまった。ここから名付けられた。」
と書かれています。
いっぽう子生の浜については常陸国分寺の鐘がこの浜から府中(石岡)に運ばれたという伝承が残されています。
常陸国の国府があった府中(石岡)までこの鹿島灘の砂浜で造られた塩が運ばれたという「塩街道」の伝承も残されているのです。
興味がありましたら白井啓次さんのふるさと文庫「潮の道余話」(pdf(220kB):こちら)なども読んでみてください。
薬師堂宝蔵院(武与釜)
鹿島灘の海岸沿いに鹿島七釜と呼ばれる場所が残されていると先日書きました。
ほとんどが鉾田市ですがその5つが旧大洋村にあります。
この塩釜で作られた塩が汲上(くみあげ)に集積され塩の道を通って行方、小川、府中など西に運ばれたのでしょう。
汲上の地名も塩汲みから来ているのでしょう。

上の地図は国土地理院の電子国土Web の地図です。
鹿島灘沿いに「別所釜」「町山」「武与釜」「上沢」などの集落が点在します。
砂浜のある別所釜は「汲上別所釜海水浴場」がありサーファーで賑わっています。
国道51号線から各集落を蜘蛛の巣のように細い道が走っています。
集落はみな海面よりかなり高く、海岸へは急な下り道になっています。
この地図を眺めていて少し気になる地名が目につきました。
汲上のところに「汲上上宿」「汲川下宿」という地名となっています。
一瞬地図の間違いかと思いました。「汲川下宿」が「汲上下宿」ではないかと思ったのです。
でもこれはあっているようです。
江戸時代に水戸から鹿島神宮、息栖神社、飯沼観音(銚子)を結ぶ街道が発達し、飯沼街道と言ったようです。
途中の宿場として「水戸-大貫宿-成田宿-子生宿-籾山(樅山)宿-汲川宿-飯島宿-鹿島宿-鳥栖宿-日川宿-東下宿-飯沼宿」という宿場があったようです。
この「汲川宿」がこの汲上あたりのようですので汲川上宿、汲川下宿とあったものが、いつの間にか汲川上宿が「汲上」に変わったものなのでしょうか。
でも汲上というのには意味もあり名前もかなり昔からあるようですのでどうもこの名前のいきさつは気になりますがわかりません。
そのうちにわかるかもしれません。
前に吉田松陰が水戸から銚子に行ったルートが気になって記事にしたことがありました。(こちら)
この松陰のたどったルートでは子生(こなじ)あたりからは街道ではなくこの海岸沿いの砂浜を歩いているようですので、当時から海岸沿いの砂浜も歩く人も多かったのかもしれません。
さて、今日は汲上の別所釜のすぐ南の武与釜にあった「薬師堂宝蔵院」を紹介します。

国道51号線から狭い道を部落の方に入り突き当りを住宅街は右に曲がりますがそのまま狭い道を直進するとすぐに右に下りる階段があります。

最初に載せた地図に「汲上観音」と共に今回の「薬師堂宝蔵院」の場所を追加して見ました。
飯沼街道は信仰の道のようです。
水戸から「子生弁天」「鹿島神宮」「息栖神社」「飯沼観音」と古くから信仰を集めていた神社が並んでいます。
このように見ていくとこれらの塩釜にある観音様などの意味もわかってくるかもしれません。

この場所も案内も何もありませんが地区で信仰されてきた場所のようです。綺麗に整備されていました。
階段を下りた場所はぽっかり空いた広場に建物が3つ。
一つは多分地区の公民館か何かの集会にでも利用される建物でしょう。

そして上の写真にある建物で、右の建物が「薬師堂宝蔵院」と額がかかっています。


この宝蔵院の中には左手に小さな阿弥陀三尊(中尊:阿弥陀如来、両脇侍:観音菩薩・勢至菩薩正面?)が置かれ、正面の像は木像のようですがよくその姿が見えません。
気になりますが書かれた物が見つかりませんでした。
地元の図書館にでも行けば分かるのかもしれませんね。

もう一つ小さな建物がありました。
こちらの小屋には何も書かれた額もありません。
小屋の手前には気になる石像がたくさん。
部落の人たちの子安講などの講が昔は行なわれてきた証でしょう。

その建物の中にもこのような観音像が置かれていました。
ほとんどが鉾田市ですがその5つが旧大洋村にあります。
この塩釜で作られた塩が汲上(くみあげ)に集積され塩の道を通って行方、小川、府中など西に運ばれたのでしょう。
汲上の地名も塩汲みから来ているのでしょう。

上の地図は国土地理院の電子国土Web の地図です。
鹿島灘沿いに「別所釜」「町山」「武与釜」「上沢」などの集落が点在します。
砂浜のある別所釜は「汲上別所釜海水浴場」がありサーファーで賑わっています。
国道51号線から各集落を蜘蛛の巣のように細い道が走っています。
集落はみな海面よりかなり高く、海岸へは急な下り道になっています。
この地図を眺めていて少し気になる地名が目につきました。
汲上のところに「汲上上宿」「汲川下宿」という地名となっています。
一瞬地図の間違いかと思いました。「汲川下宿」が「汲上下宿」ではないかと思ったのです。
でもこれはあっているようです。
江戸時代に水戸から鹿島神宮、息栖神社、飯沼観音(銚子)を結ぶ街道が発達し、飯沼街道と言ったようです。
途中の宿場として「水戸-大貫宿-成田宿-子生宿-籾山(樅山)宿-汲川宿-飯島宿-鹿島宿-鳥栖宿-日川宿-東下宿-飯沼宿」という宿場があったようです。
この「汲川宿」がこの汲上あたりのようですので汲川上宿、汲川下宿とあったものが、いつの間にか汲川上宿が「汲上」に変わったものなのでしょうか。
でも汲上というのには意味もあり名前もかなり昔からあるようですのでどうもこの名前のいきさつは気になりますがわかりません。
そのうちにわかるかもしれません。
前に吉田松陰が水戸から銚子に行ったルートが気になって記事にしたことがありました。(こちら)
この松陰のたどったルートでは子生(こなじ)あたりからは街道ではなくこの海岸沿いの砂浜を歩いているようですので、当時から海岸沿いの砂浜も歩く人も多かったのかもしれません。
さて、今日は汲上の別所釜のすぐ南の武与釜にあった「薬師堂宝蔵院」を紹介します。

国道51号線から狭い道を部落の方に入り突き当りを住宅街は右に曲がりますがそのまま狭い道を直進するとすぐに右に下りる階段があります。

最初に載せた地図に「汲上観音」と共に今回の「薬師堂宝蔵院」の場所を追加して見ました。
飯沼街道は信仰の道のようです。
水戸から「子生弁天」「鹿島神宮」「息栖神社」「飯沼観音」と古くから信仰を集めていた神社が並んでいます。
このように見ていくとこれらの塩釜にある観音様などの意味もわかってくるかもしれません。

この場所も案内も何もありませんが地区で信仰されてきた場所のようです。綺麗に整備されていました。
階段を下りた場所はぽっかり空いた広場に建物が3つ。
一つは多分地区の公民館か何かの集会にでも利用される建物でしょう。

そして上の写真にある建物で、右の建物が「薬師堂宝蔵院」と額がかかっています。


この宝蔵院の中には左手に小さな阿弥陀三尊(中尊:阿弥陀如来、両脇侍:観音菩薩・勢至菩薩正面?)が置かれ、正面の像は木像のようですがよくその姿が見えません。
気になりますが書かれた物が見つかりませんでした。
地元の図書館にでも行けば分かるのかもしれませんね。

もう一つ小さな建物がありました。
こちらの小屋には何も書かれた額もありません。
小屋の手前には気になる石像がたくさん。
部落の人たちの子安講などの講が昔は行なわれてきた証でしょう。

その建物の中にもこのような観音像が置かれていました。