代田のダイダラボッチ
今日も1日中暑い日が続いた。例年高浜・三村地区の先にある井関地区代田の入口に藁に杉をつけてダイダラボッチを飾って無病息災を祈願する催しが行われており、今年も見に夕方出かけてきた。しかし今日はあまりの暑さで作業が遅れてしまったようで、夕方の5時前にはまだ藁人形しか完成していなかった。1年間飾られた人形は焼いているところで、これから杉を体に刺して大人形の形に作るのである。写真は昨日のものと、昔採ったほぼ完成した時のものを載せた。

ダイダラボッチの話は全国各地にあるが、ここの地域の名前が代田であり、何かいわくがありそうでもある。大足などという地名が水戸の方にあり、ダイダラボッチの話が尾ひれをつけて広がっていく。ここの井関地区は昔水戸藩の領地で独特の習慣などがあるようである。代田、長者峰、梶和崎、古酒の各地域に人形を飾る風習がそのまま残っているのも面白い。

ダイダラボッチの話は全国各地にあるが、ここの地域の名前が代田であり、何かいわくがありそうでもある。大足などという地名が水戸の方にあり、ダイダラボッチの話が尾ひれをつけて広がっていく。ここの井関地区は昔水戸藩の領地で独特の習慣などがあるようである。代田、長者峰、梶和崎、古酒の各地域に人形を飾る風習がそのまま残っているのも面白い。
ダイダラボッチの里(1)
今日もまた残暑が厳しいです。
頭の中も溶け出しそうですっきりしませんね。
さて、今日は、石岡市井関地区に伝わる少し変わった風習を紹介します。
この地区は、常陸府中(石岡)の歴史とは少し違った文化を持つ土地柄だと思う。
これは江戸時代に水戸藩の飛び地として管理されてきた歴史を知る必要があると思う。
毎年8月16日に、井関地区近隣の4箇所(昔は6箇所であったが、2箇所は止めてしまったようです)で「大人形=ダイダラボッチ」を作って街角に飾る風習が残されています。
今年もお盆明けの8月16日に現地を見に出かけてきました。
これも3度目になりますが、今までは代田地区のみを見てきたので今回はその他の地区のものも見てきました。

井関の少し先「代田」地区のダイダラボッチ=大人形です。
8月16日の夕方4時頃に行ってみました。
昨年も飾り付は夕方遅くやっていましたのでどうかなと思いながら到着すると、まだこんな状態でした。
胴体の形をしたわらの束に頭に籠をかぶせています。

地区の男衆が集まって、これから杉の枝を刺したり、手足などを取り付けて形を作ります。
奥の方に上る煙は去年の人形を燃やしています。
この人形は1年間ここに置かれてこの地区の人々が病気などに罹らないように守ってくれます。

さあ完成したダイダラボッチです。
何箇所かこの人形は作られているのですが、姿、形に顔も少しずつ違いがあります。
始まりは江戸時代に疫病がはやった時に、この地区にやってこないように守り神として飾るようになったと伝えられています。

胸の2箇所と下のシンボルは藁で形を作りナスを使います。

スギの青々しい緑色もこの道の角に1年置かれるとすっかり色あせてしまいます。
1年間お役目を終えると、毎年新しいものに交換します。

この地域は、石岡市のもっとも東南に位置しますが、江戸・明治はじめまでは井関村であり、明治22年に隣の石川村と合併して「関川村」として存在しました。
そして、昭和29年末に石岡市に編入となりました。
現在この人形が作られているのはこの「代田」とそのほかに「梶和崎」「古酒(ふるさき)」「長者峰」の各地域です。
残りの地域の大人形の写真は明日以降に順に紹介します。
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頭の中も溶け出しそうですっきりしませんね。
さて、今日は、石岡市井関地区に伝わる少し変わった風習を紹介します。
この地区は、常陸府中(石岡)の歴史とは少し違った文化を持つ土地柄だと思う。
これは江戸時代に水戸藩の飛び地として管理されてきた歴史を知る必要があると思う。
毎年8月16日に、井関地区近隣の4箇所(昔は6箇所であったが、2箇所は止めてしまったようです)で「大人形=ダイダラボッチ」を作って街角に飾る風習が残されています。
今年もお盆明けの8月16日に現地を見に出かけてきました。
これも3度目になりますが、今までは代田地区のみを見てきたので今回はその他の地区のものも見てきました。

井関の少し先「代田」地区のダイダラボッチ=大人形です。
8月16日の夕方4時頃に行ってみました。
昨年も飾り付は夕方遅くやっていましたのでどうかなと思いながら到着すると、まだこんな状態でした。
胴体の形をしたわらの束に頭に籠をかぶせています。

地区の男衆が集まって、これから杉の枝を刺したり、手足などを取り付けて形を作ります。
奥の方に上る煙は去年の人形を燃やしています。
この人形は1年間ここに置かれてこの地区の人々が病気などに罹らないように守ってくれます。

さあ完成したダイダラボッチです。
何箇所かこの人形は作られているのですが、姿、形に顔も少しずつ違いがあります。
始まりは江戸時代に疫病がはやった時に、この地区にやってこないように守り神として飾るようになったと伝えられています。

胸の2箇所と下のシンボルは藁で形を作りナスを使います。

スギの青々しい緑色もこの道の角に1年置かれるとすっかり色あせてしまいます。
1年間お役目を終えると、毎年新しいものに交換します。

この地域は、石岡市のもっとも東南に位置しますが、江戸・明治はじめまでは井関村であり、明治22年に隣の石川村と合併して「関川村」として存在しました。
そして、昭和29年末に石岡市に編入となりました。
現在この人形が作られているのはこの「代田」とそのほかに「梶和崎」「古酒(ふるさき)」「長者峰」の各地域です。
残りの地域の大人形の写真は明日以降に順に紹介します。


ダイダラボッチの里(2)-梶和崎
一昨日紹介した「代田」(だいだ)地区のダイダラボッチ。
名前がやはり似ているのは関係があるのかな?
このダイダラボッチは各地に伝説があるが、ここにも伝わっている。
「大男(ダイダラボッチ)が富士山と筑波山を比べようと天秤にかけた。
すると筑波山傾いて天秤から落ちてしまい、2つに分かれて女体山と男体山になった。」
これが普通のお話し。
ここではダイダラボッチがこの時に踏ん張った足跡が大きな窪地となって池となった。と言われている。
また、この池(窪地)はどうやら昔の製鉄の跡ではないかと言われている。
八郷地区などにも人工的な窪地があり、砂鉄を採った跡だと考えられているようです。

代田地区を含めて、街角に4箇所人形が飾られますが、メインの通りにあるのは昨日紹介した「代田」地区だけです。
その他の場所も、地元の方はすぐにわかるのですが、地元の方以外には普段通ることのない場所で直ぐにわからなかったので今まで行ったことがありませんでした。
今年は調べて4箇所全部を見てきました。
今日は「梶和崎」のダイタラボッチを見てみましょう。

やはり道の曲がり角に置かれています。
ここがこの地区の入口なのでしょう。

顔は紙?布?金属板?に書かれたものですが、皆4箇所別々の表情です。
また体(藁で作る)に指す杉の枝もここでは枯らした茶色くなったものを使うようです。

全体には「代田」のものとよく似ています。
ナスを使って乳と男性シンボルを作るのも同じです。
これをグロテスクだの、教育上よくないなどというように思うかもしれませんが、むかしの各地に残る民衆の行事には何らかのこれらの要素は多分に入っていました。
今は出来るだけこのようなものを排除する動きもありますね。
でも何も娯楽のなかった昔の地方では、これが自然なんです。
近くのかすみがうら市出島地区の牛渡(うしわた)にある鹿島神社に伝わる「へいさんぼう」というお祭りは、今では珍しいおおらかな営みを表現しています。
興味のある方は調べてみてください。

でも、知らない人が初めてここに来たら驚きますよね。
1年間置かれたままですから、見ようと思ったらいつでも見られます。

人形が置かれている場所は、曲がり角ですが、片側はこんな田んぼが広がっています。
稲も大分実ってきました。
このあたりは9月に入ればすぐ稲刈りになるところが多いようです。
実はこの先にある「八木地区」でも昔は作られていたと聞きました。
そしてどこも今から40年ほど前に作るのをやめたのだそうですが、それから働き盛りの人が何人も亡くなり、また復活したといいます。
また現在人形を作っている地区も後継者が問題のようです。
これらを作るのは昔は若い男性がやることになっていたようですが、今では年齢も上がっているようです。
でも女性は作るのを手伝ってはいけないようです。
明日は残り2箇所を紹介します。
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名前がやはり似ているのは関係があるのかな?
このダイダラボッチは各地に伝説があるが、ここにも伝わっている。
「大男(ダイダラボッチ)が富士山と筑波山を比べようと天秤にかけた。
すると筑波山傾いて天秤から落ちてしまい、2つに分かれて女体山と男体山になった。」
これが普通のお話し。
ここではダイダラボッチがこの時に踏ん張った足跡が大きな窪地となって池となった。と言われている。
また、この池(窪地)はどうやら昔の製鉄の跡ではないかと言われている。
八郷地区などにも人工的な窪地があり、砂鉄を採った跡だと考えられているようです。

代田地区を含めて、街角に4箇所人形が飾られますが、メインの通りにあるのは昨日紹介した「代田」地区だけです。
その他の場所も、地元の方はすぐにわかるのですが、地元の方以外には普段通ることのない場所で直ぐにわからなかったので今まで行ったことがありませんでした。
今年は調べて4箇所全部を見てきました。
今日は「梶和崎」のダイタラボッチを見てみましょう。

やはり道の曲がり角に置かれています。
ここがこの地区の入口なのでしょう。

顔は紙?布?金属板?に書かれたものですが、皆4箇所別々の表情です。
また体(藁で作る)に指す杉の枝もここでは枯らした茶色くなったものを使うようです。

全体には「代田」のものとよく似ています。
ナスを使って乳と男性シンボルを作るのも同じです。
これをグロテスクだの、教育上よくないなどというように思うかもしれませんが、むかしの各地に残る民衆の行事には何らかのこれらの要素は多分に入っていました。
今は出来るだけこのようなものを排除する動きもありますね。
でも何も娯楽のなかった昔の地方では、これが自然なんです。
近くのかすみがうら市出島地区の牛渡(うしわた)にある鹿島神社に伝わる「へいさんぼう」というお祭りは、今では珍しいおおらかな営みを表現しています。
興味のある方は調べてみてください。

でも、知らない人が初めてここに来たら驚きますよね。
1年間置かれたままですから、見ようと思ったらいつでも見られます。

人形が置かれている場所は、曲がり角ですが、片側はこんな田んぼが広がっています。
稲も大分実ってきました。
このあたりは9月に入ればすぐ稲刈りになるところが多いようです。
実はこの先にある「八木地区」でも昔は作られていたと聞きました。
そしてどこも今から40年ほど前に作るのをやめたのだそうですが、それから働き盛りの人が何人も亡くなり、また復活したといいます。
また現在人形を作っている地区も後継者が問題のようです。
これらを作るのは昔は若い男性がやることになっていたようですが、今では年齢も上がっているようです。
でも女性は作るのを手伝ってはいけないようです。
明日は残り2箇所を紹介します。


ダイダラボッチの里(3)
毎日暑い日が続き、このブログも書くのが進まない。書きたいことがあっても手が進まずボケ~としている。
これはとうとうボケが来ているのか? まあ暑さのせいだと思いたい。
ここ数日は日中は頭の上の空はきれいな青空で、これは地上より上の方の空気の温度が高いので、上昇気流が起こりにくいのだそうだ。
そのため暑さも抜けないらしい。
今日は多少雲も多く、筑波山の夕焼けも綺麗だった。
また夜になると月が綺麗だ。三日月より大分ふっくらとしたうっとりするくらいの美人顔の月が微笑んでいる。
調べてみたら、明日が旧暦の七夕だという。7月7日が今頃なのですね。(今年はすこし遅い方みたいです)
9月9日の重陽の節句も旧暦なら菊の花が綺麗に咲く頃で、十五夜に近いですね。
七夕と重陽の節句は旧暦の方が良い気がします。
さて、昨日の続きで、残りの2箇所のダイダラボッチを紹介します。
3)古酒(ふるさき)のダイダラボッチ

人形は三叉の道角に置かれていました。
でもこの人形には両胸の乳と男根のシンボルがありません。
でもきっと昔はあったのではないかと思います。

後ろの木々と色が同化して、知らずに急に現れたらすこしドキッとしそうです。

集落の曲がり角ですね。
この人形作りが始まったのは天明の大飢饉(1782~1788)の時だと言われています。
この飢饉は江戸時代で最大の飢饉が襲ったそうです。
浅間山も噴火し、北日本を中心に日本の人口が100万人近くも減少したのです。
すごいですよね。でもこの記録は本当のようですよ。
多くの地域では地元の神社・寺などを中心に信仰が盛んになったと思われますが、この地区ではこのような人形を信仰の対象に作っていったものと思われます。

4)長者峰のダイダラボッチ
ここの大人形(ダイダラボッチ)はこの写真の旧家から脇道に入ったところに置かれています。

手前の煙は今まで1年間役目をしてきた人形を焼いているものだと思います。
写真は8月16日の夕方に撮影しています。

この山道に入るような道の右側に座っている人形がわかりますか?

顔はそれぞれ地区により表情が違います。
紙か布またはブリキ板のようなものに昔は墨で書いたが、今はマジックか何かで書いたもののようです。
この顔はやはり地区毎に伝統があるのでしょう。
また顔は再利用が可能であれば、翌年も使われることもあるようです。

なかなかユニークな顔をしていますね。

どっしりと斜面に腰を下ろして、これから1年間この部落に入ってくるものを見張ります。
少し調べていたら、後継者がやはり問題らしい。
それと、昨日書いた八木地区以外にも、三村の御前山地区でも昔は作ったらしいが、後継者が不足して今は止めになったそうです。
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これはとうとうボケが来ているのか? まあ暑さのせいだと思いたい。
ここ数日は日中は頭の上の空はきれいな青空で、これは地上より上の方の空気の温度が高いので、上昇気流が起こりにくいのだそうだ。
そのため暑さも抜けないらしい。
今日は多少雲も多く、筑波山の夕焼けも綺麗だった。
また夜になると月が綺麗だ。三日月より大分ふっくらとしたうっとりするくらいの美人顔の月が微笑んでいる。
調べてみたら、明日が旧暦の七夕だという。7月7日が今頃なのですね。(今年はすこし遅い方みたいです)
9月9日の重陽の節句も旧暦なら菊の花が綺麗に咲く頃で、十五夜に近いですね。
七夕と重陽の節句は旧暦の方が良い気がします。
さて、昨日の続きで、残りの2箇所のダイダラボッチを紹介します。
3)古酒(ふるさき)のダイダラボッチ

人形は三叉の道角に置かれていました。
でもこの人形には両胸の乳と男根のシンボルがありません。
でもきっと昔はあったのではないかと思います。

後ろの木々と色が同化して、知らずに急に現れたらすこしドキッとしそうです。

集落の曲がり角ですね。
この人形作りが始まったのは天明の大飢饉(1782~1788)の時だと言われています。
この飢饉は江戸時代で最大の飢饉が襲ったそうです。
浅間山も噴火し、北日本を中心に日本の人口が100万人近くも減少したのです。
すごいですよね。でもこの記録は本当のようですよ。
多くの地域では地元の神社・寺などを中心に信仰が盛んになったと思われますが、この地区ではこのような人形を信仰の対象に作っていったものと思われます。

4)長者峰のダイダラボッチ
ここの大人形(ダイダラボッチ)はこの写真の旧家から脇道に入ったところに置かれています。

手前の煙は今まで1年間役目をしてきた人形を焼いているものだと思います。
写真は8月16日の夕方に撮影しています。

この山道に入るような道の右側に座っている人形がわかりますか?

顔はそれぞれ地区により表情が違います。
紙か布またはブリキ板のようなものに昔は墨で書いたが、今はマジックか何かで書いたもののようです。
この顔はやはり地区毎に伝統があるのでしょう。
また顔は再利用が可能であれば、翌年も使われることもあるようです。

なかなかユニークな顔をしていますね。

どっしりと斜面に腰を下ろして、これから1年間この部落に入ってくるものを見張ります。
少し調べていたら、後継者がやはり問題らしい。
それと、昨日書いた八木地区以外にも、三村の御前山地区でも昔は作ったらしいが、後継者が不足して今は止めになったそうです。


ダイダラボッチの里(4)-盛賢寺
先に3回にわたり石岡市の一番南東部にある「井関地区」を江戸時代から変わった大人形=ダイダラボッチを街角に飾るダイタラボッチの里として紹介してきました。
昔はこの地区の6箇所の地域で飾られていたものが、2箇所がやめになって残っているのは4箇所。
このブログもこのダイダラボッチを紹介するだけでは終われない。
私が石岡に来て1年ほど過ぎた頃、この地区が石岡市内とは違った文化を持っていることに少し関心を持ったことがある。
その時はよく理由がわからなかったが、この土地が江戸時代は水戸藩の飛び地であったことを知ってなんとなくわかってきたように思います。
少しでも紐解ければと思いその他のところも見ていきたいと思います。
まずは、とても立派な寺である「盛賢寺」を紹介しましょう。
ここを最初に訪れた時の説明でも、この寺は水戸光圀の命で那珂郡額田より引寺して建てられたとなっていたのです。

代田のダイダラボッチを見てその道(県道118号線)を進むと、かすみがうら市の方に道は曲がっていきます。すると右手に立派な寺が見えてきます。
この寺がこのあたりではかなり格式を持った「盛賢寺」(霊通山無量寿院)です。
このお寺は真言宗豊山派の寺院です。
引寺=曳き寺というのですから、寺を分解して移したのでしょうか?
どうもよくわかりません。

この山門(仁王門)には立派な木造仁王像があります。この門をくぐったところにある阿弥陀堂と並んで市の文化財に指定されています。

これが市指定文化財である「阿弥陀堂」です。
とても荘厳な屋根が目を見張ります。
もとは茅葺き屋根の阿弥陀堂でしたが、1983年(昭和58年)に銅板葺きに修理されたものだといいます。

この寺を訪れた時に、このお堂が寺その物だと思っていました。
ですからこの立派なお堂を額田(那珂市)より曳いてきたのでしょうか?
どうもそれは違うようです。

調べてみると、この阿弥陀堂はこの地に700年程前に建てられたといいます。
もと醍醐三宝院の末院とされた阿弥陀堂だといいます。
ものすごく立派なものです。
近くにおられてみておられない方は一度見ておかれることをお勧めします。
そして、この地が水戸藩ということで、光圀がやってきた時にこの阿弥陀堂がとても立派で驚いたことのようです。
そして、堂だけで、寺がないので額田より寺を持ってきてこの地の信仰の中心としたのだと思います。

寺の本堂はこの仁王門の横から山に沿って少し登ったところにあります。
この写真はその登り道の途中から門を見たところです。

こちらが寺の本堂です。一般の観光客はこちらには来ないのかもしれません。
本堂と信徒会館などがあります。
盛賢寺となってからの天明4年(1784)に火災にあって焼けてしまったそうですが、その翌年に再建したものだといいますので、阿弥陀堂もその時の堂で、昭和になって屋根は銅板に作り替えたということでしょう。
この寺の説明看板に書かれていることで、一つ面白いことが書かれていましたので紹介しておきましょう。
阿弥陀堂の縁日は正月と七月にあるそうだが、その正月15日(旧暦)の縁日には、その年に嫁をもらった家では、この阿弥陀堂に参詣し、お互いに「嫁自慢」をしたのだそうです。
いまはこのような風習は残っていないのでしょうが、そのような気風は伝わっているのかもしれません。
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昔はこの地区の6箇所の地域で飾られていたものが、2箇所がやめになって残っているのは4箇所。
このブログもこのダイダラボッチを紹介するだけでは終われない。
私が石岡に来て1年ほど過ぎた頃、この地区が石岡市内とは違った文化を持っていることに少し関心を持ったことがある。
その時はよく理由がわからなかったが、この土地が江戸時代は水戸藩の飛び地であったことを知ってなんとなくわかってきたように思います。
少しでも紐解ければと思いその他のところも見ていきたいと思います。
まずは、とても立派な寺である「盛賢寺」を紹介しましょう。
ここを最初に訪れた時の説明でも、この寺は水戸光圀の命で那珂郡額田より引寺して建てられたとなっていたのです。

代田のダイダラボッチを見てその道(県道118号線)を進むと、かすみがうら市の方に道は曲がっていきます。すると右手に立派な寺が見えてきます。
この寺がこのあたりではかなり格式を持った「盛賢寺」(霊通山無量寿院)です。
このお寺は真言宗豊山派の寺院です。
引寺=曳き寺というのですから、寺を分解して移したのでしょうか?
どうもよくわかりません。


この山門(仁王門)には立派な木造仁王像があります。この門をくぐったところにある阿弥陀堂と並んで市の文化財に指定されています。

これが市指定文化財である「阿弥陀堂」です。
とても荘厳な屋根が目を見張ります。
もとは茅葺き屋根の阿弥陀堂でしたが、1983年(昭和58年)に銅板葺きに修理されたものだといいます。

この寺を訪れた時に、このお堂が寺その物だと思っていました。
ですからこの立派なお堂を額田(那珂市)より曳いてきたのでしょうか?
どうもそれは違うようです。

調べてみると、この阿弥陀堂はこの地に700年程前に建てられたといいます。
もと醍醐三宝院の末院とされた阿弥陀堂だといいます。
ものすごく立派なものです。
近くにおられてみておられない方は一度見ておかれることをお勧めします。
そして、この地が水戸藩ということで、光圀がやってきた時にこの阿弥陀堂がとても立派で驚いたことのようです。
そして、堂だけで、寺がないので額田より寺を持ってきてこの地の信仰の中心としたのだと思います。

寺の本堂はこの仁王門の横から山に沿って少し登ったところにあります。
この写真はその登り道の途中から門を見たところです。

こちらが寺の本堂です。一般の観光客はこちらには来ないのかもしれません。
本堂と信徒会館などがあります。
盛賢寺となってからの天明4年(1784)に火災にあって焼けてしまったそうですが、その翌年に再建したものだといいますので、阿弥陀堂もその時の堂で、昭和になって屋根は銅板に作り替えたということでしょう。
この寺の説明看板に書かれていることで、一つ面白いことが書かれていましたので紹介しておきましょう。
阿弥陀堂の縁日は正月と七月にあるそうだが、その正月15日(旧暦)の縁日には、その年に嫁をもらった家では、この阿弥陀堂に参詣し、お互いに「嫁自慢」をしたのだそうです。
いまはこのような風習は残っていないのでしょうが、そのような気風は伝わっているのかもしれません。


ダイダラボッチの里(5)-八木地区
石岡市井関地区(旧井関村)に4箇所の大人形を街角に飾る風習を紹介し、(2)に地図を載せています。
しかし、この他に2箇所(御前山地区と八木地区)が作るのをやめています。
地図で午前山と八木地区の場所を確かめると両端の2箇所がやめたことになります。

やめたことの理由は様々に言われていますが、他の地区もやめたことがあったそうですが、その年に働き盛りの人が何人か亡くなりまた始めたのだとか・・・・。
これはどの程度信用できるかは不明ですが、地図を見る限り、御前山地区は井関村ではなく石川村または三村村で、少し離れており、部落も崖が多い地区に入り組んで住居があるため、この地区で後継者などが減ってしまったためだと思う。
一方八木地区は霞ヶ浦に接しており干拓で埋めたてた田んぼが広がっています。
この八木地区から望む筑波山は手前に穏やかな霞ヶ浦があり、筑波山も姿が良いので写真撮影のポイントだといいます。
また今度写真を撮ったら紹介しましょう。

八木地区を南側から眺めたところです。(この地区を見に行ったのは4月末です)
この小高くなった丘の右端に「住吉神社」という神社があります。
どうやらこの神社があるために大人形作りはいらないとなった経緯もあるようなことも・・・。
(正確ではありません)

この高台に沿って道が続いています。そして右側(霞ヶ浦側)には家があり、霞ヶ浦漁と干拓などの水田やレンコンなどを作っているようです。

そのまま山に沿って進むと神社入口の鳥居が見えてきます。

今年鳥居を新しくしたようです。神社への石段も修理したようです。80段程の石段があります。

上に登ってみると、神社はこんな小屋が一つです。
山の上なので「山王さま」といわれており、どうも住吉は日吉の間違いではないかと石岡の歴史の説明にもありましたが、詳細は不明です。
たしかにこの近くには住吉神社はほとんどありません。

神社の前から霞ヶ浦が一望できます。
手前の住居のあたりは昔は霞ヶ浦の水面がきていたと思われるので、昔はこの高台が霞ヶ浦に突き出したような位置にあったようです。
意外に古い神社なのかもしれません。

下へ降りて近くにあった農村公園の片隅の気の脇に置かれていた石像です。
この先の霞ヶ浦は江戸時代に「御留川(おとめがわ)」と呼ばれていました。
この説明はまた明日にします。
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しかし、この他に2箇所(御前山地区と八木地区)が作るのをやめています。
地図で午前山と八木地区の場所を確かめると両端の2箇所がやめたことになります。

やめたことの理由は様々に言われていますが、他の地区もやめたことがあったそうですが、その年に働き盛りの人が何人か亡くなりまた始めたのだとか・・・・。
これはどの程度信用できるかは不明ですが、地図を見る限り、御前山地区は井関村ではなく石川村または三村村で、少し離れており、部落も崖が多い地区に入り組んで住居があるため、この地区で後継者などが減ってしまったためだと思う。
一方八木地区は霞ヶ浦に接しており干拓で埋めたてた田んぼが広がっています。
この八木地区から望む筑波山は手前に穏やかな霞ヶ浦があり、筑波山も姿が良いので写真撮影のポイントだといいます。
また今度写真を撮ったら紹介しましょう。

八木地区を南側から眺めたところです。(この地区を見に行ったのは4月末です)
この小高くなった丘の右端に「住吉神社」という神社があります。
どうやらこの神社があるために大人形作りはいらないとなった経緯もあるようなことも・・・。
(正確ではありません)

この高台に沿って道が続いています。そして右側(霞ヶ浦側)には家があり、霞ヶ浦漁と干拓などの水田やレンコンなどを作っているようです。

そのまま山に沿って進むと神社入口の鳥居が見えてきます。

今年鳥居を新しくしたようです。神社への石段も修理したようです。80段程の石段があります。

上に登ってみると、神社はこんな小屋が一つです。
山の上なので「山王さま」といわれており、どうも住吉は日吉の間違いではないかと石岡の歴史の説明にもありましたが、詳細は不明です。
たしかにこの近くには住吉神社はほとんどありません。

神社の前から霞ヶ浦が一望できます。
手前の住居のあたりは昔は霞ヶ浦の水面がきていたと思われるので、昔はこの高台が霞ヶ浦に突き出したような位置にあったようです。
意外に古い神社なのかもしれません。

下へ降りて近くにあった農村公園の片隅の気の脇に置かれていた石像です。
この先の霞ヶ浦は江戸時代に「御留川(おとめがわ)」と呼ばれていました。
この説明はまた明日にします。


ダイダラボッチの里(6)-御留川
ブログ記事を毎日書くのはやはり少し無理になって来たように思う。
夜が少し涼しくなってくれればゆっくり眠れて疲れも取れるのだが、夏場は疲れがたまってしまう。
時々は短い記事でも良いでしょう。
昨日書いた八木地区は霞ヶ浦に面しており、霞ヶ浦を一部埋め立てて干拓を行なった。
これは前に記事を書いた。(こちら)

大正から昭和にかけて高浜の醤油業「羽成卯兵衛」さんが政府の補助金と私財を投入して干拓事業を行ったが、この地は底なし沼のような土壌で杭は流され大変苦労したようだ。
今回見ている井関地区は前から書いているように「水戸藩」の領地であった。
石岡などは松平2万石の常陸府中藩であったが、殿様も家臣もほとんど江戸詰めでこちらに来ることはほとんどなかったようです。
そのため商人や町人、農民などが中心になっており、華やかな江戸文化がほとんど伝わっていないように思います。
江戸時代の文化などの特筆すべき事柄がほとんど無いに等しいのです。
一方水戸藩は前に紹介した小川から玉里そしてこの井関の地を押さえていました。
それには理由があったようです。
水戸から江戸に物資を運ぶには那珂川から涸沼に入り、途中陸路を使って小川よりまた園部川の船着場から船に乗せて霞ヶ浦-銚子-利根川をさかのぼって埼玉県関宿で江戸川に入り、江戸へ運んでいたのです。
このため、小川が必要だったのでしょう。
では玉里とここ井関はというと「御留川(おとめがわ)」なる制度のためだと思われます。
霞ヶ浦は豊かな漁場でした。どこのものと区別ができないようでしたが、それでも自主的に乱獲を防ぎ漁民たちの自治組織などが出来上がっていました。
しかし、この高浜入りと呼ばれる入江は両岸との幅が狭くなっており、両側の領地をもつことで川とみなしてこの領域の漁業権を独占したのです。

八木干拓の手前石川地区から対岸の高崎地区を望む。
むかしこのあたりから下流の玉里地区までが御留川だった。
これにより、この領域で採れた魚はすべて水戸藩に運ばれ、水戸藩およびこの両岸の漁民に利益をもたらしたのです。
「こんなのずるいよね」と思いますが、今も昔もそんなものだったのでしょう。
しかし、統計によれば江戸時代に行われた地検により、この地の石高が150%程に上がってしまったようですので、豊かではあったでしょうが楽ではなかったのかもしれません。
そして大飢饉が起こったときにダイダラボッチ人形を作って街角においたのです。
少しこの地の人たちの気持ちもわかってくるような気もします。
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夜が少し涼しくなってくれればゆっくり眠れて疲れも取れるのだが、夏場は疲れがたまってしまう。
時々は短い記事でも良いでしょう。
昨日書いた八木地区は霞ヶ浦に面しており、霞ヶ浦を一部埋め立てて干拓を行なった。
これは前に記事を書いた。(こちら)

大正から昭和にかけて高浜の醤油業「羽成卯兵衛」さんが政府の補助金と私財を投入して干拓事業を行ったが、この地は底なし沼のような土壌で杭は流され大変苦労したようだ。
今回見ている井関地区は前から書いているように「水戸藩」の領地であった。
石岡などは松平2万石の常陸府中藩であったが、殿様も家臣もほとんど江戸詰めでこちらに来ることはほとんどなかったようです。
そのため商人や町人、農民などが中心になっており、華やかな江戸文化がほとんど伝わっていないように思います。
江戸時代の文化などの特筆すべき事柄がほとんど無いに等しいのです。
一方水戸藩は前に紹介した小川から玉里そしてこの井関の地を押さえていました。
それには理由があったようです。
水戸から江戸に物資を運ぶには那珂川から涸沼に入り、途中陸路を使って小川よりまた園部川の船着場から船に乗せて霞ヶ浦-銚子-利根川をさかのぼって埼玉県関宿で江戸川に入り、江戸へ運んでいたのです。
このため、小川が必要だったのでしょう。
では玉里とここ井関はというと「御留川(おとめがわ)」なる制度のためだと思われます。
霞ヶ浦は豊かな漁場でした。どこのものと区別ができないようでしたが、それでも自主的に乱獲を防ぎ漁民たちの自治組織などが出来上がっていました。
しかし、この高浜入りと呼ばれる入江は両岸との幅が狭くなっており、両側の領地をもつことで川とみなしてこの領域の漁業権を独占したのです。

八木干拓の手前石川地区から対岸の高崎地区を望む。
むかしこのあたりから下流の玉里地区までが御留川だった。
これにより、この領域で採れた魚はすべて水戸藩に運ばれ、水戸藩およびこの両岸の漁民に利益をもたらしたのです。
「こんなのずるいよね」と思いますが、今も昔もそんなものだったのでしょう。
しかし、統計によれば江戸時代に行われた地検により、この地の石高が150%程に上がってしまったようですので、豊かではあったでしょうが楽ではなかったのかもしれません。
そして大飢饉が起こったときにダイダラボッチ人形を作って街角においたのです。
少しこの地の人たちの気持ちもわかってくるような気もします。


ダイダラボッチの里(7)-浜卯干拓
昨日のニュースで「ニホンカワウソ」が絶滅種になってしまったといっていた。
ユーラシアカワウソなどはまだ結構見られるらしいのだが残念です。
1年ほど前に石岡の恋瀬川にカワウソらしきものを見かけたことがある。
その時もニホンカワウソだったらこれは大変だと話し合ったことがある。
恋瀬川や霞ヶ浦周辺にはまだまだたくさんの動物や鳥がいるが調査や保護などはどうなっているのだろうか?
さて、ダイダラボッチの里「井関」地区をみてまわり、最後に訪れた八木・石川地区は干拓事業が大正から行われてきた。
この事業が大変だったと「石岡の歴史」などの本にのっており、八木(関川)干拓のことを「浜卯干拓」というのだそうだ。
これはこの事業をした高浜の醤油業「羽成卯兵衛」の卯をとっているはずだが、浜は?
この事業は大正時代に政府の助成事業に私財もつぎ込んだ「羽成卯兵衛」さんと真壁の「猪瀬蔵太郎」さんの2人だ。
調べてみると確かにその頃は食糧難の時があったようだ。しかし今は??
この干拓地をもう一度見ておこうと行ってみた。
しかし、現在霞ヶ浦湖岸よりの堤防を工事中で車で湖岸を走ることができなかった。
そのため旧道をぐるりと回って一番奥まで行った。
そこに下記の石碑があった。
(写真はサムネルです。クリックで大きくなります)

「甦った浜卯干拓」と書かれています。 内容は下の拡大で読めると思います。

この護岸堤防工事をかなり前からやっています。
調べてみると霞ヶ浦の周りにはすべて基準高さが+3.15mとなったと書かれていたものがありました。
この基準の高さは江戸川河口の高さに対する高さを示したものだそうです。
この八木(関川)地区は対岸との距離が狭く、湖岸での水深も1m以上あるようです。
このため、風が強いと波が荒く、土を盛っただけの堤防ではないそうです。
鉄板を縦に埋め込んでそこにあとから土を盛っているようです。
霞ヶ浦の浄化についてはいろいろな意見が有り、遠く那珂川とトンネル水路をつないで水を流すことや、銚子川の水門を農閑期には開けたら良いなどの意見が交錯しています。
たしかにこの干拓地もコメが黄金色に実っていたが、果たして昔考えたほどの効果があったのか?
一部はレンコン栽培に、近く(石川地区)では生花などのビニール栽培なども行われているようだ。
そろそろ考えていかねばならないだろう。
霞ヶ浦の対岸の山の上の端には「愛宕神社」がある。
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ユーラシアカワウソなどはまだ結構見られるらしいのだが残念です。
1年ほど前に石岡の恋瀬川にカワウソらしきものを見かけたことがある。
その時もニホンカワウソだったらこれは大変だと話し合ったことがある。
恋瀬川や霞ヶ浦周辺にはまだまだたくさんの動物や鳥がいるが調査や保護などはどうなっているのだろうか?
さて、ダイダラボッチの里「井関」地区をみてまわり、最後に訪れた八木・石川地区は干拓事業が大正から行われてきた。
この事業が大変だったと「石岡の歴史」などの本にのっており、八木(関川)干拓のことを「浜卯干拓」というのだそうだ。
これはこの事業をした高浜の醤油業「羽成卯兵衛」の卯をとっているはずだが、浜は?
この事業は大正時代に政府の助成事業に私財もつぎ込んだ「羽成卯兵衛」さんと真壁の「猪瀬蔵太郎」さんの2人だ。
調べてみると確かにその頃は食糧難の時があったようだ。しかし今は??
この干拓地をもう一度見ておこうと行ってみた。
しかし、現在霞ヶ浦湖岸よりの堤防を工事中で車で湖岸を走ることができなかった。
そのため旧道をぐるりと回って一番奥まで行った。
そこに下記の石碑があった。
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「甦った浜卯干拓」と書かれています。 内容は下の拡大で読めると思います。

この護岸堤防工事をかなり前からやっています。
調べてみると霞ヶ浦の周りにはすべて基準高さが+3.15mとなったと書かれていたものがありました。
この基準の高さは江戸川河口の高さに対する高さを示したものだそうです。
この八木(関川)地区は対岸との距離が狭く、湖岸での水深も1m以上あるようです。
このため、風が強いと波が荒く、土を盛っただけの堤防ではないそうです。
鉄板を縦に埋め込んでそこにあとから土を盛っているようです。
霞ヶ浦の浄化についてはいろいろな意見が有り、遠く那珂川とトンネル水路をつないで水を流すことや、銚子川の水門を農閑期には開けたら良いなどの意見が交錯しています。
たしかにこの干拓地もコメが黄金色に実っていたが、果たして昔考えたほどの効果があったのか?
一部はレンコン栽培に、近く(石川地区)では生花などのビニール栽培なども行われているようだ。
そろそろ考えていかねばならないだろう。
霞ヶ浦の対岸の山の上の端には「愛宕神社」がある。


ダイダラボッチの里(8)-地蔵尊(八木)
八木干拓の里を探索していたら、先日紹介した「住吉神社」の山をぐるりと回ったところに道角に地蔵尊と書かれたお堂が置かれていた。

T字路の角に山側に比較的新しいお堂があった。
この前には八木公民館と書かれていた。

この石柱には「古酒馬場???」などと書かれている。古酒(ふるさき)地区は少し離れている。

「月読尊」「二十三夜供養塔」「十九夜尊」「庚申像」など古いものも比較的新しそうなものまでいろいろなものがまとめて置かれているようです。
きっと、近くの山や里の道端にでも置かれていたものをここに集めて置かれているのだろう。

お堂の額には「地蔵尊」と書かれているので、中には地蔵尊が祀られているものと思います。
この地区には道標の上に地蔵が彫られた石柱(花崗岩?)があるというので、この中にあるのかもしれない。
覗いていないので何があるかはわからない。

この地蔵尊のすぐ前に立派な家があった。
門や家屋、蔵などの瓦の模様が変わっていたので写真を撮ってみた。

立派な入口門の屋根です。模様が素敵ですね。どのような意味があるのでしょうか?

こちらは石蔵です。屋号は何んと書いてあるのか?

干拓ももう稲が黄金色ですね。ここに来るまで一部で稲刈り(早場米?)をし終わった田を見ました。
しかし、8月にはまだほとんど稲刈りはしません。
あと1~2週間くらいすると刈り取られているかもしれません。
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T字路の角に山側に比較的新しいお堂があった。
この前には八木公民館と書かれていた。

この石柱には「古酒馬場???」などと書かれている。古酒(ふるさき)地区は少し離れている。

「月読尊」「二十三夜供養塔」「十九夜尊」「庚申像」など古いものも比較的新しそうなものまでいろいろなものがまとめて置かれているようです。
きっと、近くの山や里の道端にでも置かれていたものをここに集めて置かれているのだろう。

お堂の額には「地蔵尊」と書かれているので、中には地蔵尊が祀られているものと思います。
この地区には道標の上に地蔵が彫られた石柱(花崗岩?)があるというので、この中にあるのかもしれない。
覗いていないので何があるかはわからない。

この地蔵尊のすぐ前に立派な家があった。
門や家屋、蔵などの瓦の模様が変わっていたので写真を撮ってみた。

立派な入口門の屋根です。模様が素敵ですね。どのような意味があるのでしょうか?

こちらは石蔵です。屋号は何んと書いてあるのか?

干拓ももう稲が黄金色ですね。ここに来るまで一部で稲刈り(早場米?)をし終わった田を見ました。
しかし、8月にはまだほとんど稲刈りはしません。
あと1~2週間くらいすると刈り取られているかもしれません。


ダイダラボッチの里(9)
石岡市の東南端の地区(旧井関村、石川村)は、江戸時代は、常陸府中藩(常府)とは違って水戸藩の飛び地であった。
この里をダイダラボッチ(大人形)を飾る地区や霞ヶ浦の干拓した地区と紹介してみたが、本当はもっと違った側面を紹介するべきだったかもしれない。
それは、この地区は多くの古墳が眠っている地でもあるが、江戸時代に「楢山塾」「長峰塾」という私塾が開設され、多くの子弟を育て、文化的にも大きな影響を与えた土地柄でもあったことだと思う。
これは、霞ヶ浦の対岸側の小川が水戸藩の医学校(稽医館)や小川郷校が作られていたことが非常に大きい。
この「楢山塾」は1840年に小川稽医館で学んだ鈴木文輔が起こしたものであり、「長峰塾」は小川郷校に学んだ鈴木銀四郎晩香が1858年に起こした。
明治5年に政府が学校制度を頒布して、続々と小学校が設立されたが、これらの私塾教育がすでに行われていたことは特筆されてもいいと思う。
これらは少しみな高台側であるが、霞ヶ浦に面したところの写真を少し紹介します。

石川地区の干拓入口部にあるモータープール。

この場所から土手が続き、右側には田んぼが広がります。
しかし、この土手の道は車は進入禁止になっていました。
これはこの先の八木地区の堤防を工事中のためだと思います。前は通れたように思います。

この場所は釣りの人も多いようですが、危険なので釣り禁止です。

西側には筑波山が見えます。この場所では手前の建物が邪魔です。
写真には八木地区入口の方が良さそうですが、工事中です。

この石川地区の田んぼには、写真のような比較的大きなビニールハウスが並んでいます。
中ではいろいろな花を育てているようです。

さて、前回紹介した八木地区の高台にあった「住吉神社」と同じように、石川地区から八木地区へこの山沿いの道を進むと高台に「鹿島神社」があります。
しかし、通りの道が狭く、手前も車を置く場所がないので、鳥居のところで写真を撮っただけで通り過ぎました。
これではこの神社に一人で登るのはためらわれます。
この里をダイダラボッチ(大人形)を飾る地区や霞ヶ浦の干拓した地区と紹介してみたが、本当はもっと違った側面を紹介するべきだったかもしれない。
それは、この地区は多くの古墳が眠っている地でもあるが、江戸時代に「楢山塾」「長峰塾」という私塾が開設され、多くの子弟を育て、文化的にも大きな影響を与えた土地柄でもあったことだと思う。
これは、霞ヶ浦の対岸側の小川が水戸藩の医学校(稽医館)や小川郷校が作られていたことが非常に大きい。
この「楢山塾」は1840年に小川稽医館で学んだ鈴木文輔が起こしたものであり、「長峰塾」は小川郷校に学んだ鈴木銀四郎晩香が1858年に起こした。
明治5年に政府が学校制度を頒布して、続々と小学校が設立されたが、これらの私塾教育がすでに行われていたことは特筆されてもいいと思う。
これらは少しみな高台側であるが、霞ヶ浦に面したところの写真を少し紹介します。

石川地区の干拓入口部にあるモータープール。

この場所から土手が続き、右側には田んぼが広がります。
しかし、この土手の道は車は進入禁止になっていました。
これはこの先の八木地区の堤防を工事中のためだと思います。前は通れたように思います。

この場所は釣りの人も多いようですが、危険なので釣り禁止です。

西側には筑波山が見えます。この場所では手前の建物が邪魔です。
写真には八木地区入口の方が良さそうですが、工事中です。

この石川地区の田んぼには、写真のような比較的大きなビニールハウスが並んでいます。
中ではいろいろな花を育てているようです。

さて、前回紹介した八木地区の高台にあった「住吉神社」と同じように、石川地区から八木地区へこの山沿いの道を進むと高台に「鹿島神社」があります。
しかし、通りの道が狭く、手前も車を置く場所がないので、鳥居のところで写真を撮っただけで通り過ぎました。
これではこの神社に一人で登るのはためらわれます。