常陸大宮市長倉宿
御前山の那珂川大橋を渡って県道123号線を川沿い進むと御前山の昔の街並みが続く「下町」「中宿」「上宿」とあり、そこに佐伯神社という比較的大きな神社もある。
今回はこの町並みの紹介ではなく、さらに5kmほど上流にいったところに長倉という街がある。
御前山を知っている人はおそらく日帰り温泉保養施設「四季彩館」を知っておられる方も多いと思う。
四季彩館とは間に大沢川という山から流れて那珂川に注ぐ川の対岸に当たる。

那珂川は水戸に注いでいる常陸国では大変大きな川で、常陸風土記には「粟川」と書かれている。
それぞれ時代で呼び名が違うのはよくあることで、石岡の恋瀬川は「表川(おもてがわ)」だとか「信筑川(しづくがわ)」などと呼ばれている。
でも「粟川」というのも時代が時代なので気になることだが、この御前山より手前の那珂川沿い(旧桂村、現城里町)に「粟」とか「阿波山」という地名があり、古墳も残されているため関係も気になっている。
特に、那珂川入口の大洗磯前神社と酒列磯前神社の祭神でもある「スクナヒコナ」が阿波山上神社にも降り立ったとされることは注目している。
神話では出雲の海岸にガガイモの舟に乗ってやってくる。
出雲に朝鮮半島から渡ってきて、日本の国造りを大国主と一緒にやってきた人々を連想させる神である。
上の写真はこの那珂川大橋の少し上流側から御前山方面を眺めたところです。
空を飛んでいたのは鷹や鷲のような比較的大きめの鳥でした。
クネクネと蛇行する那珂川を蛇にたとえて考える見方もあるようですが、よくわかりません。

那珂川大橋の先を川沿いに6kmほど遡ると「四季彩館」へ右折する信号があります。
この四季彩館も日帰り温泉施設で、前に利用したことがあります。
山あいに有り朝日も綺麗な温泉施設です。
この四季彩館への信号の先が橋になっており、橋(大沢川)の先にも信号があります。
この信号が「長倉宿入口」となっています。

この信号を右折すると、すぐに上り坂となって坂の上に「長倉宿」の街が現れます。
写真は登ってきた道を振り返ったところです。
山の上というほど高くはありませんが、下から歩いて登ると年寄りには大変そうです。

町並みの家にはこのような屋根の家がいくつか目立ちました。
この造りは海寄りでは一つ屋根で下まで長いものが多く見られるのですが、この地方の特徴なのでしょうか。

街の中央に山に入っていく道が有り、見ると鳥居があります。地図には「天満宮」とあるようです。

どこか懐かしくなるような家並みです。

ここにも宿というので宿場があったということのようです。
城下町宿場というように紹介されています。
毎年8月初めにこの長倉宿通りでもう50~60年近く続く「長倉七夕まつり」が行われています。

街並みは比較的短い区間ですが、戦国時代にこの上の小高い山の上に「長倉城」があり、堅固な山城があったのです。
しかし、今の街並みは江戸時代中期以降の松平陣屋の街として繁栄した名残でしょうか。

何故、私がここに来たかについてですが、ここが石岡市柿岡(旧八郷町)に関係がある場所だからです。
室町時代の文禄4年(1495)、佐竹氏の親類である長倉城主の長倉義興が柿岡城(現石岡市柿岡)に移っています。
その後、中田駿河守がしばらくこの地を治めますが、佐竹氏の出羽(秋田)移封に伴って廃城となっています。
その後、江戸時代も中期になり天保9年(1838)に、水戸徳川斉昭の命で、松平頼位がこの長倉城跡のすぐ下に陣屋を設けて、明治を迎えています。
今残るのはこの陣屋の時の街並みが続いたものでしょう。
明日はこの先の蒼泉寺(そうせんじ)を紹介します。
今回はこの町並みの紹介ではなく、さらに5kmほど上流にいったところに長倉という街がある。
御前山を知っている人はおそらく日帰り温泉保養施設「四季彩館」を知っておられる方も多いと思う。
四季彩館とは間に大沢川という山から流れて那珂川に注ぐ川の対岸に当たる。

那珂川は水戸に注いでいる常陸国では大変大きな川で、常陸風土記には「粟川」と書かれている。
それぞれ時代で呼び名が違うのはよくあることで、石岡の恋瀬川は「表川(おもてがわ)」だとか「信筑川(しづくがわ)」などと呼ばれている。
でも「粟川」というのも時代が時代なので気になることだが、この御前山より手前の那珂川沿い(旧桂村、現城里町)に「粟」とか「阿波山」という地名があり、古墳も残されているため関係も気になっている。
特に、那珂川入口の大洗磯前神社と酒列磯前神社の祭神でもある「スクナヒコナ」が阿波山上神社にも降り立ったとされることは注目している。
神話では出雲の海岸にガガイモの舟に乗ってやってくる。
出雲に朝鮮半島から渡ってきて、日本の国造りを大国主と一緒にやってきた人々を連想させる神である。
上の写真はこの那珂川大橋の少し上流側から御前山方面を眺めたところです。
空を飛んでいたのは鷹や鷲のような比較的大きめの鳥でした。
クネクネと蛇行する那珂川を蛇にたとえて考える見方もあるようですが、よくわかりません。

那珂川大橋の先を川沿いに6kmほど遡ると「四季彩館」へ右折する信号があります。
この四季彩館も日帰り温泉施設で、前に利用したことがあります。
山あいに有り朝日も綺麗な温泉施設です。
この四季彩館への信号の先が橋になっており、橋(大沢川)の先にも信号があります。
この信号が「長倉宿入口」となっています。

この信号を右折すると、すぐに上り坂となって坂の上に「長倉宿」の街が現れます。
写真は登ってきた道を振り返ったところです。
山の上というほど高くはありませんが、下から歩いて登ると年寄りには大変そうです。

町並みの家にはこのような屋根の家がいくつか目立ちました。
この造りは海寄りでは一つ屋根で下まで長いものが多く見られるのですが、この地方の特徴なのでしょうか。

街の中央に山に入っていく道が有り、見ると鳥居があります。地図には「天満宮」とあるようです。

どこか懐かしくなるような家並みです。

ここにも宿というので宿場があったということのようです。
城下町宿場というように紹介されています。
毎年8月初めにこの長倉宿通りでもう50~60年近く続く「長倉七夕まつり」が行われています。

街並みは比較的短い区間ですが、戦国時代にこの上の小高い山の上に「長倉城」があり、堅固な山城があったのです。
しかし、今の街並みは江戸時代中期以降の松平陣屋の街として繁栄した名残でしょうか。

何故、私がここに来たかについてですが、ここが石岡市柿岡(旧八郷町)に関係がある場所だからです。
室町時代の文禄4年(1495)、佐竹氏の親類である長倉城主の長倉義興が柿岡城(現石岡市柿岡)に移っています。
その後、中田駿河守がしばらくこの地を治めますが、佐竹氏の出羽(秋田)移封に伴って廃城となっています。
その後、江戸時代も中期になり天保9年(1838)に、水戸徳川斉昭の命で、松平頼位がこの長倉城跡のすぐ下に陣屋を設けて、明治を迎えています。
今残るのはこの陣屋の時の街並みが続いたものでしょう。
明日はこの先の蒼泉寺(そうせんじ)を紹介します。
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