正等院の七福神像(銚子)
教職員や警察官の1月末での駆け込み退職の話題が過ぎたら、今度は2月末での駆け込みだ。
これに対して、「教職員が途中で責任を放り出してはだめだ。」ということをいう政治家や、官僚、また大手の新聞の論説にも載っている。
はたして、これは辞めるという教職員の問題なのだろうか?
これは、このように仕向けた制度にしたのだから、こうなっても仕方がないのではないか。
制度の運用をこの1月、2月末に決めたのは、県の役人だろう。
国からの指導があったし、早く施工すればいくら予算が浮くとのそろばん勘定をしたに違いない。
こんなことが前もって読めずにいたのだろうか。
だから、こうなってもやむを得ないはずだ。
辞める人だって、最後まで気持ちよく過ごしたいと思っていただろう。
でもひとりひとりの胸の内はわからないし、学校の先生も最近は楽でもないと思っていた人も多いに違いない。
早く退職になればいいと思っていたかもしれない。
中には病気を患っていた人だっていただろう。
この問題を武士道などを持ち出して、精神論を持って論じる人がいる。全くおかしなものだ。
そのような人は組織の上に立てない。
このようなことが起こらないように、前もって対策を立てていないからであって、リスクマネージメントもできないことを露呈しているようなものだ。
ある新聞の論説で、「公と私を混同するのはおかしい。公の責任を放棄すべきでない」というような記述があった。
一見正しいように思われるが、これは組織的なマネージメントを精神論で論じてしまっている。
公も私も関係ない。全ては私という個が寄り集まって組織ができている。
さて、でも駆け込み退職せずに、退職金は減っても最後まで頑張ることを決めた人の方が多いという。
これが、立派かどうかはわからない。これも個々の事情があって苦悩したかもしれない。
もし、自分がその立場であったら、最後まで勤めただろうとは思うが、そのような制度ができたことを恨むだろう。
私は、辞める人、最後まで残った人の個々の人の良し悪しをここでは全く論じるつもりはない。
辞めると決めた人にも、その人なりに悩んでの結論だったと推察するだけだ。
テレビや新聞での論調が、途中で仕事を投げ出す先生や警察官は是か非かということを論点にしているのがおかしいと思っているに過ぎない。
さて、今日も千葉県銚子の近くの話です。
最近度々銚子に仕事関係で出かけているが、その途中で気になっていた猿田神社に寄ってみようと利根水郷ラインの椎柴より内陸方面に曲がった。
このあたりも徐々に高台となって行くが、かなり古くからの寺院などが集中している。
東光寺という立派な寺の手前に気になる石像が置かれていた。

(サムネルです)
七福神像です。このように七福神を一つの台座に並べて造られているにのは初めて見た。

(サムネルです)
実際に人間よりは少し小さいが、立派な像です。(台座約35cm、像高約90cm)

(サムネルです)
調べてみると2001年に銚子の二人の方が寄進したのだそうです。
この像が置かれていたのは正等院(しょうとういん)というお寺の広場のような境内です。

この寺は隣の東光寺という古刹の寺が管理しているようです。
調べたが、寺のいわれなどはわからなかった。
無造作に置かれた七福神像と寺のコントラストが面白い。


比較的古いお堂が境内に置かれているが、これも何かは不明だ。
そのうちにわかるかもしれないので、焦らずに紐解けばいいだろう。
さて、今日はバレンタインデー。
最近はこの日には全く縁がない。
会社も不定期勤務になり今日は近くの知り合いの葬式に午前中に出かけ、午後からは家にいた。
妻からは昨日「会社でチョコレートもらってくるからいらないわよね。」といわれ、知り合いの男の子の分だけチョコを買ったそうだ。
もっとも、もし義理チョコをもらってきたとしても、食べるのはほとんど妻なのだが・・・。
義理チョコもなくなってがっかりしているのはきっと妻の方に違いない。
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これに対して、「教職員が途中で責任を放り出してはだめだ。」ということをいう政治家や、官僚、また大手の新聞の論説にも載っている。
はたして、これは辞めるという教職員の問題なのだろうか?
これは、このように仕向けた制度にしたのだから、こうなっても仕方がないのではないか。
制度の運用をこの1月、2月末に決めたのは、県の役人だろう。
国からの指導があったし、早く施工すればいくら予算が浮くとのそろばん勘定をしたに違いない。
こんなことが前もって読めずにいたのだろうか。
だから、こうなってもやむを得ないはずだ。
辞める人だって、最後まで気持ちよく過ごしたいと思っていただろう。
でもひとりひとりの胸の内はわからないし、学校の先生も最近は楽でもないと思っていた人も多いに違いない。
早く退職になればいいと思っていたかもしれない。
中には病気を患っていた人だっていただろう。
この問題を武士道などを持ち出して、精神論を持って論じる人がいる。全くおかしなものだ。
そのような人は組織の上に立てない。
このようなことが起こらないように、前もって対策を立てていないからであって、リスクマネージメントもできないことを露呈しているようなものだ。
ある新聞の論説で、「公と私を混同するのはおかしい。公の責任を放棄すべきでない」というような記述があった。
一見正しいように思われるが、これは組織的なマネージメントを精神論で論じてしまっている。
公も私も関係ない。全ては私という個が寄り集まって組織ができている。
さて、でも駆け込み退職せずに、退職金は減っても最後まで頑張ることを決めた人の方が多いという。
これが、立派かどうかはわからない。これも個々の事情があって苦悩したかもしれない。
もし、自分がその立場であったら、最後まで勤めただろうとは思うが、そのような制度ができたことを恨むだろう。
私は、辞める人、最後まで残った人の個々の人の良し悪しをここでは全く論じるつもりはない。
辞めると決めた人にも、その人なりに悩んでの結論だったと推察するだけだ。
テレビや新聞での論調が、途中で仕事を投げ出す先生や警察官は是か非かということを論点にしているのがおかしいと思っているに過ぎない。
さて、今日も千葉県銚子の近くの話です。
最近度々銚子に仕事関係で出かけているが、その途中で気になっていた猿田神社に寄ってみようと利根水郷ラインの椎柴より内陸方面に曲がった。
このあたりも徐々に高台となって行くが、かなり古くからの寺院などが集中している。
東光寺という立派な寺の手前に気になる石像が置かれていた。

(サムネルです)
七福神像です。このように七福神を一つの台座に並べて造られているにのは初めて見た。

(サムネルです)
実際に人間よりは少し小さいが、立派な像です。(台座約35cm、像高約90cm)

(サムネルです)
調べてみると2001年に銚子の二人の方が寄進したのだそうです。
この像が置かれていたのは正等院(しょうとういん)というお寺の広場のような境内です。

この寺は隣の東光寺という古刹の寺が管理しているようです。
調べたが、寺のいわれなどはわからなかった。
無造作に置かれた七福神像と寺のコントラストが面白い。


比較的古いお堂が境内に置かれているが、これも何かは不明だ。
そのうちにわかるかもしれないので、焦らずに紐解けばいいだろう。
さて、今日はバレンタインデー。
最近はこの日には全く縁がない。
会社も不定期勤務になり今日は近くの知り合いの葬式に午前中に出かけ、午後からは家にいた。
妻からは昨日「会社でチョコレートもらってくるからいらないわよね。」といわれ、知り合いの男の子の分だけチョコを買ったそうだ。
もっとも、もし義理チョコをもらってきたとしても、食べるのはほとんど妻なのだが・・・。
義理チョコもなくなってがっかりしているのはきっと妻の方に違いない。


猿田神社(2)-神社本殿
猿田神社の祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)・天鈿女命(あめのうずめのみこと)・菊理媛命(くくりひめのみこと)の三柱だそうです。
猿田彦神社という神社は全国的にも数多くありますが、猿田神社は珍しいそうです。
猿田彦は神社などで行われる神楽では、ほとんどが鼻の長い天狗の姿をしています。
猿という漢字を書いているのでお猿さんを思い浮かべますが、これは間違いで、縄文の言葉では先達(せんだつ)する人を指しているという説明を読んだことがあります。
天(高天原)にいた神様が地上(葦原中国の)に降りる時に道案内をした神様です。
天鈿女は、天照大神が岩戸に隠れてしまった時に、岩戸の前で踊った女性です。
この猿田彦と天鈿女(あめのうずめ)が夫婦となったとされているのですが、菊理媛(くくりひめ)とはどんな神様なのでしょうか。
黄泉の国(死んでしまった人の国)に行ってしまったイザナミを探しにイザナギが黄泉の国に出かけます。
そして変わり果てたイザナミの姿を見てイザナギは逃げ帰るのですが、追いかけられてしまいます。
この二人の間を取り持ったのがこの菊理媛だそうです。
縁結びの神様なのだとか。

本神社の創建は垂仁天皇25年(紀元前4年)となっていますが、そんなに古いことはありえませんが、相当に古いようです。
街道沿いに1の鳥居があります。奥に見える鳥居の先が、昨日書いたJRの線路が階段下を走っています。

(サムネルです)

拝殿です。立派な社務所や、禰宜、巫女さんなどもいる大きな神社です。
訪れた日も何人もの人がお祓いを受けるために訪れていました。
この猿田の地は銚子の方からすると山の方にある場所で、もっとひなびた神社を想像していたので立派なのに驚きました。

絵馬やおみくじもこの通りです。方位除け、交通安全、七五三のお祓いを受けに、この神社を訪れるのだそうです。

拝殿の奥に本殿があります。

記録からは、大同2年(807)に社殿を造営したとされていますので、多くの古い神社と同じです。
ただここも源氏の武士の信仰が厚く、頼朝からの寄進もあったようです。

本殿はとても立派なものです。この現在の本殿は、永禄9年(1566年)に海上氏と安房氏との戦いで焼失し、元亀年間に再建するも天正元年(1573年)にふたたび焼失、翌天正2年(1574年)に再建し、現本殿は延宝8年(1680年)に改築されたものだそうです。

それにしてもかなりの歴史遺産ですね。千葉県の文化財になっています。

このあたりでは、七五三のお参り(11月)に訪れる人が大変多いそうです。
明日に境内の紹介がもう少し続きます。
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猿田彦神社という神社は全国的にも数多くありますが、猿田神社は珍しいそうです。
猿田彦は神社などで行われる神楽では、ほとんどが鼻の長い天狗の姿をしています。
猿という漢字を書いているのでお猿さんを思い浮かべますが、これは間違いで、縄文の言葉では先達(せんだつ)する人を指しているという説明を読んだことがあります。
天(高天原)にいた神様が地上(葦原中国の)に降りる時に道案内をした神様です。
天鈿女は、天照大神が岩戸に隠れてしまった時に、岩戸の前で踊った女性です。
この猿田彦と天鈿女(あめのうずめ)が夫婦となったとされているのですが、菊理媛(くくりひめ)とはどんな神様なのでしょうか。
黄泉の国(死んでしまった人の国)に行ってしまったイザナミを探しにイザナギが黄泉の国に出かけます。
そして変わり果てたイザナミの姿を見てイザナギは逃げ帰るのですが、追いかけられてしまいます。
この二人の間を取り持ったのがこの菊理媛だそうです。
縁結びの神様なのだとか。

本神社の創建は垂仁天皇25年(紀元前4年)となっていますが、そんなに古いことはありえませんが、相当に古いようです。
街道沿いに1の鳥居があります。奥に見える鳥居の先が、昨日書いたJRの線路が階段下を走っています。

(サムネルです)

拝殿です。立派な社務所や、禰宜、巫女さんなどもいる大きな神社です。
訪れた日も何人もの人がお祓いを受けるために訪れていました。
この猿田の地は銚子の方からすると山の方にある場所で、もっとひなびた神社を想像していたので立派なのに驚きました。

絵馬やおみくじもこの通りです。方位除け、交通安全、七五三のお祓いを受けに、この神社を訪れるのだそうです。

拝殿の奥に本殿があります。

記録からは、大同2年(807)に社殿を造営したとされていますので、多くの古い神社と同じです。
ただここも源氏の武士の信仰が厚く、頼朝からの寄進もあったようです。

本殿はとても立派なものです。この現在の本殿は、永禄9年(1566年)に海上氏と安房氏との戦いで焼失し、元亀年間に再建するも天正元年(1573年)にふたたび焼失、翌天正2年(1574年)に再建し、現本殿は延宝8年(1680年)に改築されたものだそうです。

それにしてもかなりの歴史遺産ですね。千葉県の文化財になっています。

このあたりでは、七五三のお参り(11月)に訪れる人が大変多いそうです。
明日に境内の紹介がもう少し続きます。


猿田神社(3)
銚子にある七五三などで賑わうという「猿田神社」の3回目の記事です。
途中に石岡の雛めぐり記事を入れたので5日ぶりです。


神輿や太鼓など祭礼のものが保管されているのでしょう。大変綺麗です。

向かって左側の狛犬(獅子)です。子獅子を携えている姿です。
これも玉であったりしますので、意味があるのでしょうがわかりません。

この神社に残された文化財ですが、面白い説明が書かれていました。
銚子の名前はお酒の「お銚子」なのですね。もうみんな知っていたのかな?

この猿田村、結構古いんですね。侮れません。

本殿の彫刻は見ごたえがあります。

礎石が置かれていました。この本殿が建て替えられた1574年より前のものでしょうか。


それぞれ本殿の隅に置かれた彫刻。よく龍や象、獅子などが使われますが、この彫刻はグロテスクですよね。
建物の隅で、外からの邪悪なものを寄せ付けない役割をしているのでしょうが。どうもこちらも近づけません。
さて、猿田については「先達人」という意味だろうと書きました。
でも神話での表現を見ていると少し不思議な神様です。
高天原にいた神様の仲間ではありません。
地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)=今の日本本土に降臨する時にその間を照らして道案内をした名前も知らない神様だそうです。
名前がわからないのでアメノウズメに名前を聞かせたのです。
こんなところから、この猿田彦は弥生人と縄文人との仲を取り持った人物(氏族)だと言われているようなのです。
この銚子にも原住民(縄文人)が住んでいたはずです。そこにヤマトの人々が進出してきたのでしょう。
最初に名前も知らない神様はこの「猿田彦」の他に「少名彦」がおります。
どちらも弥生人というよりは朝鮮半島南部の氏族のような印象を受けます。
この大和朝廷は朝鮮南部の氏族が日本本土に逃げてきたとき、結構差別なく優遇したようです。
多くの技術を持つ優秀な氏族として、ともに日本の国作りをしたようです。
(推論です。根拠はあまりありません)
石岡の北西部の板敷峠を越えて、桜川市に入ったところに「猿田」という地名があります。
また常陸太田には猿田さんという名前の方が多くいます。
これは常陸太田を拠点とした源氏の佐竹氏の部下に猿田氏という人がいましたので、その子孫だと思います。
佐竹氏は江戸の始まりに秋田に天封され、猿田氏もまた秋田の横手に移りました。
猿田彦が秦氏の一族なら、秦氏が織物を伝え、少名彦は薬などの製法を伝えています。
今の日本人がどこから来たのかなどを論じてみても、虚しさばかりが残ります。
日本には日本で育った文化がたくさんあります。
日本の文化を大事にしなくてはなりません。
日本語などを見てください。ほかの国にはない素晴らしい文化なのです。
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途中に石岡の雛めぐり記事を入れたので5日ぶりです。


神輿や太鼓など祭礼のものが保管されているのでしょう。大変綺麗です。

向かって左側の狛犬(獅子)です。子獅子を携えている姿です。
これも玉であったりしますので、意味があるのでしょうがわかりません。

この神社に残された文化財ですが、面白い説明が書かれていました。
銚子の名前はお酒の「お銚子」なのですね。もうみんな知っていたのかな?

この猿田村、結構古いんですね。侮れません。

本殿の彫刻は見ごたえがあります。

礎石が置かれていました。この本殿が建て替えられた1574年より前のものでしょうか。


それぞれ本殿の隅に置かれた彫刻。よく龍や象、獅子などが使われますが、この彫刻はグロテスクですよね。
建物の隅で、外からの邪悪なものを寄せ付けない役割をしているのでしょうが。どうもこちらも近づけません。
さて、猿田については「先達人」という意味だろうと書きました。
でも神話での表現を見ていると少し不思議な神様です。
高天原にいた神様の仲間ではありません。
地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)=今の日本本土に降臨する時にその間を照らして道案内をした名前も知らない神様だそうです。
名前がわからないのでアメノウズメに名前を聞かせたのです。
こんなところから、この猿田彦は弥生人と縄文人との仲を取り持った人物(氏族)だと言われているようなのです。
この銚子にも原住民(縄文人)が住んでいたはずです。そこにヤマトの人々が進出してきたのでしょう。
最初に名前も知らない神様はこの「猿田彦」の他に「少名彦」がおります。
どちらも弥生人というよりは朝鮮半島南部の氏族のような印象を受けます。
この大和朝廷は朝鮮南部の氏族が日本本土に逃げてきたとき、結構差別なく優遇したようです。
多くの技術を持つ優秀な氏族として、ともに日本の国作りをしたようです。
(推論です。根拠はあまりありません)
石岡の北西部の板敷峠を越えて、桜川市に入ったところに「猿田」という地名があります。
また常陸太田には猿田さんという名前の方が多くいます。
これは常陸太田を拠点とした源氏の佐竹氏の部下に猿田氏という人がいましたので、その子孫だと思います。
佐竹氏は江戸の始まりに秋田に天封され、猿田氏もまた秋田の横手に移りました。
猿田彦が秦氏の一族なら、秦氏が織物を伝え、少名彦は薬などの製法を伝えています。
今の日本人がどこから来たのかなどを論じてみても、虚しさばかりが残ります。
日本には日本で育った文化がたくさんあります。
日本の文化を大事にしなくてはなりません。
日本語などを見てください。ほかの国にはない素晴らしい文化なのです。


猿田神社(4)-力石
千葉県の銚子近くにある猿田神社の続き(最終)です。
神社の境内の横にお稲荷さまが祀られています。
たくさんの狐像が並べられています。
この稲荷社と猿田神社がどのような関係にあるのかわかりません。

そのすぐ手前に「御神水」があり、この水を汲んで持ち帰る人がたくさんいるようです。
ペットボトル専用とポリタンク専用の蛇口がついています。
でも本来の御神水は裏の山の方にあるそうです。

この鼻長の狐さんは古い稲荷神社でよく見かけます。

今日の話題はこの「力石」です。
私も各地の神社などを回っていると時々見かけます。
ほとんどがこれを持ち上げて力比べをするものです。どこまでもって歩けるかとか・・・
でもこの大きな方の石には「四十八貫」と刻まれています。
約180kgになります。普通のコメ俵だと3俵ですよね。
我が家では玄米を米袋で買いますが、これだと倍の6袋あります。
1袋でも重いですよね。私なら60kgくらいしか持てないです。

なかなかこの猿田神社も奥が深い神社でした。
地図を見ていたら鹿島神宮のすぐ北側にも「猿田」という地名がありました。
また「高天原」という地名も近くです。
神話ではニニギ(天皇の祖)が天から降臨する時に、行く手を照らす神がいたが名前がわからなかったのでアメノウズメに名前を聞くように言った。そしてそれが猿田彦であると知った。
そしたら名前を聞いたのだからと二人は夫婦になった。なんでかな?
二人は猿田彦の故郷である伊勢の五十鈴川に帰り、そこで猿田彦は漁をしている時に溺れ死んだ。
何を意味しているのだろう。アマノウズメはどうなったのか?
神楽で赤い鼻の長い天狗がこの猿田彦だ。
考えれば考えるほど不思議な神(氏族)だ。弥生人と縄文人をつなぎ合わせた民族はどこから来たのか。
それがなぜこの香取の神(物部)のいる銚子に祀られているのか・・・・。
まあ、神話はできるだけ意味深な書き方をして、わからないように作られている。
そして聖書やギリシャ神話も真似たようなところもある。
この時代にどのように情報を得ていたのだろう。
神社の境内の横にお稲荷さまが祀られています。
たくさんの狐像が並べられています。
この稲荷社と猿田神社がどのような関係にあるのかわかりません。

そのすぐ手前に「御神水」があり、この水を汲んで持ち帰る人がたくさんいるようです。
ペットボトル専用とポリタンク専用の蛇口がついています。
でも本来の御神水は裏の山の方にあるそうです。

この鼻長の狐さんは古い稲荷神社でよく見かけます。

今日の話題はこの「力石」です。
私も各地の神社などを回っていると時々見かけます。
ほとんどがこれを持ち上げて力比べをするものです。どこまでもって歩けるかとか・・・
でもこの大きな方の石には「四十八貫」と刻まれています。
約180kgになります。普通のコメ俵だと3俵ですよね。
我が家では玄米を米袋で買いますが、これだと倍の6袋あります。
1袋でも重いですよね。私なら60kgくらいしか持てないです。

なかなかこの猿田神社も奥が深い神社でした。
地図を見ていたら鹿島神宮のすぐ北側にも「猿田」という地名がありました。
また「高天原」という地名も近くです。
神話ではニニギ(天皇の祖)が天から降臨する時に、行く手を照らす神がいたが名前がわからなかったのでアメノウズメに名前を聞くように言った。そしてそれが猿田彦であると知った。
そしたら名前を聞いたのだからと二人は夫婦になった。なんでかな?
二人は猿田彦の故郷である伊勢の五十鈴川に帰り、そこで猿田彦は漁をしている時に溺れ死んだ。
何を意味しているのだろう。アマノウズメはどうなったのか?
神楽で赤い鼻の長い天狗がこの猿田彦だ。
考えれば考えるほど不思議な神(氏族)だ。弥生人と縄文人をつなぎ合わせた民族はどこから来たのか。
それがなぜこの香取の神(物部)のいる銚子に祀られているのか・・・・。
まあ、神話はできるだけ意味深な書き方をして、わからないように作られている。
そして聖書やギリシャ神話も真似たようなところもある。
この時代にどのように情報を得ていたのだろう。
海上宮(銚子)
房総の上総国の中に海上(うなかみ)国という国をご存知だろうか。
これは菟上国とも書いた。
霞ヶ浦が内海で香取の海と呼ばれていたころの話だ。
この地の水運を支配していたという。
6世紀ころには大海上国があったようだ。
それが6世紀前半に物部小事が坂東を征して褒美に匝瑳群ができた。
また、川の上流側が印波国などとなり、また海上国(菟上国)も上下に分かれた。
上菟上国は市原近辺、下菟上国は銚子市、旭市、匝瑳市のあたりと考えられるようだ。
そして巧みな水運の技術を持ってこのあたりを支配していた。
この辺が全くよくわかっていない。
一方四国の阿波国から忌部氏などが黒潮に乗ってこの房総や常陸国にやってきて、麻や稲作を広めていったと思われ、この影響や名前があちこちに見て取れる。
するとこの海上国(菟上国)はどんな人たちがいたのだろうか。
たくさんの丸木舟をあやつっていた。??
古事記には「上菟上国国造」と「下菟上国国造」とがでてくる。
この氏族は伊勢の豪族「伊勢津彦(いせつひこ)」の後裔だとされる。
前に大杉神社(アンバ様)の由来を書いていた時にこの上菟上国がでてきた。
ということは、上菟上国は市原市あたりを中心といってもこの成田から稲敷あたりにかけても勢力を張っていたということだろう。
また伊勢の海で死んだという猿田彦を祀る銚子(下菟上国)の猿田彦神社も関係があるようだ。

猿田彦神社は高台にあるが、この海上(うなかみ)八幡宮はもっと低地にある。
しかし、ひっそりと佇んでいるがどこか厳かな伝統を重んじる雰囲気をさせている。
もっとも菟上国(うなかみのくに)ではなく、その後に成立した「海上郡」の総鎮守としてこの神社は置かれている。
ただ、この名前が残るのだから何かその痕跡を見たいと思ったが・・・・
八幡宮と名前がつくようにもっと時代はあとになってしまう。

(サムネルです)
正面が拝殿。手前の大きな古木はこの地方では多く見かける「マキ」の大木と思われる。

(サムネルです)
多くの神社と同じく大同二年(807)の創建とされる。
豊前の宇佐八幡(大分県宇佐神宮)を勧請したと伝わる。

(サムネルです)
この本殿は美しい。県の文化財に指定されている。
天和三年(1683)(江戸初期)の建立と思われると書かれている。
しかし最近までは屋根は萱葺き屋根だったようです。銅板葺きに変わったのは2003年だそうです。

(サムネルです)
元々は少し離れたところにあったようですが、源頼朝が挙兵して石橋山の戦いに敗れ安房国に逃れてきた時にここに祈願し、後にお礼のため、この地に移し造営したともいわれています。

皇室の菊紋がたくさん付けられている。

本殿の横の天井下の部分におもしろい彫刻(邪鬼?)が施されていたのでUPしてみました。

境内にある稲荷神社。

この狐の姿がどこか艶かしい・・・・。

椿の花びらが散って。
寺の隣に植樹された桜の木の林があります。御大典記念らしいです。
(訪れたのは3月下旬でした)

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これは菟上国とも書いた。
霞ヶ浦が内海で香取の海と呼ばれていたころの話だ。
この地の水運を支配していたという。
6世紀ころには大海上国があったようだ。
それが6世紀前半に物部小事が坂東を征して褒美に匝瑳群ができた。
また、川の上流側が印波国などとなり、また海上国(菟上国)も上下に分かれた。
上菟上国は市原近辺、下菟上国は銚子市、旭市、匝瑳市のあたりと考えられるようだ。
そして巧みな水運の技術を持ってこのあたりを支配していた。
この辺が全くよくわかっていない。
一方四国の阿波国から忌部氏などが黒潮に乗ってこの房総や常陸国にやってきて、麻や稲作を広めていったと思われ、この影響や名前があちこちに見て取れる。
するとこの海上国(菟上国)はどんな人たちがいたのだろうか。
たくさんの丸木舟をあやつっていた。??
古事記には「上菟上国国造」と「下菟上国国造」とがでてくる。
この氏族は伊勢の豪族「伊勢津彦(いせつひこ)」の後裔だとされる。
前に大杉神社(アンバ様)の由来を書いていた時にこの上菟上国がでてきた。
ということは、上菟上国は市原市あたりを中心といってもこの成田から稲敷あたりにかけても勢力を張っていたということだろう。
また伊勢の海で死んだという猿田彦を祀る銚子(下菟上国)の猿田彦神社も関係があるようだ。

猿田彦神社は高台にあるが、この海上(うなかみ)八幡宮はもっと低地にある。
しかし、ひっそりと佇んでいるがどこか厳かな伝統を重んじる雰囲気をさせている。
もっとも菟上国(うなかみのくに)ではなく、その後に成立した「海上郡」の総鎮守としてこの神社は置かれている。
ただ、この名前が残るのだから何かその痕跡を見たいと思ったが・・・・
八幡宮と名前がつくようにもっと時代はあとになってしまう。

(サムネルです)
正面が拝殿。手前の大きな古木はこの地方では多く見かける「マキ」の大木と思われる。

(サムネルです)
多くの神社と同じく大同二年(807)の創建とされる。
豊前の宇佐八幡(大分県宇佐神宮)を勧請したと伝わる。

(サムネルです)
この本殿は美しい。県の文化財に指定されている。
天和三年(1683)(江戸初期)の建立と思われると書かれている。
しかし最近までは屋根は萱葺き屋根だったようです。銅板葺きに変わったのは2003年だそうです。

(サムネルです)
元々は少し離れたところにあったようですが、源頼朝が挙兵して石橋山の戦いに敗れ安房国に逃れてきた時にここに祈願し、後にお礼のため、この地に移し造営したともいわれています。

皇室の菊紋がたくさん付けられている。

本殿の横の天井下の部分におもしろい彫刻(邪鬼?)が施されていたのでUPしてみました。

境内にある稲荷神社。

この狐の姿がどこか艶かしい・・・・。

椿の花びらが散って。
寺の隣に植樹された桜の木の林があります。御大典記念らしいです。
(訪れたのは3月下旬でした)



長者山仁王尊阿弥陀院(銚子)
先日銚子で金目鯛を食べた後、海岸に沿った道路を戻ってきた時に途中で見かけて立寄ったお寺がある。
「長者山」と書かれた石柱がたっている。
場所は松岸駅に近い垣根町にあり、海上小学校のとなりになる。
なにか古そうな建物が見えたので、由来も名前もわからずに立ち寄ったのだ。
丁度この日は祭礼があったのかどうか知らないが、受付などの準備が進められていた。
近所の人も三々五々自転車などでやってき始めていた様子だった。

横の方から入ってしまったので、正面に回って写真を撮った。
正面に灯篭や立派な仁王門がある。

仁王門と書いたが、仁王像は置かれていない。中が暗いが仁王様がいらっしゃるそうです。ご指摘頂きましたので訂正します(2014.6.16)
このように両側に「長者山」と大きく書かれた板が置かれている。

そして、仁王像が安置されているべきところの金網にはたくさんの履物が奉納され、納札二ヶ所目と書かれていた。
仁王門の手前に入口の受付のような場所があったので、そのが一ヶ所目だったのかもしれない。

仁王像が置かれているべき場所は「賽銭口」とあるので、賽銭を入れる場所になっていた。

正面の上には「仁王尊」という額がかかっていた。ここそのものが山門でもあるが、仁王様を正式に祀っているようだ。

門をくぐった先の正面にあるのは「阿弥陀院」の本堂。
調べてみると、この寺は正式には阿弥陀院根本寺(こんぽんじ)となっていた。
正面に「札所三ヶ所目」と書かれた札があった。
なかなか形の良い阿弥陀堂である。

入口の狛犬の表情も良い。



帰ってから、調べてみると結構面白いことがわかってきた。
私の散策もこのようなことが多い。
訪れた時はわからずに疑問を解消しようと調べだしたら、記事がまとまらなくなる。
でも早めに残しておきたくなる。そしてその得た知識が別なところを訪れていてふと思い出されて関係が気になってまた調べる。
そんな繰り返しだ。いつになっても終わらない。
調べた内容を大雑把に書くとこんなことだ。
ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたのだそうだ。
土地の名前で「垣根の長者屋敷」と呼ばれていたという。
名前は「根本右兵衛義貞」。この根本(ねもと)の名前から根本寺(こんぽんじ)(寺と苗字の読みが違うことは普通よくあること)となった。
しかし、面白いのはここに「安倍晴明」の伝説が残っていることである。
陰陽師で有名な安倍晴明伝説がどうして銚子に残されているのか。
伝説の内容の詳細は こちら などを参考にさせてもらいました。
安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。
大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)で生まれたとする説もかなり有力なのです。
921年生まれ1005年没とするのは少し年齢的におかしな気もするので、940年生まれというのも比較的時代もあっているようです。
晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
平将門がいたのもこの近くですし、亡くなったのは940年です。
ただ、ここに残されている伝説では、晴明は都から筑波に逃げてきたとされます。
そして、この銚子の長者「根本氏」宅に匿われ、その時に長者の娘が晴明に恋をしてしまい、財産を全て渡すことを申し出られて一旦約束するが、顔の半分にあざのある姿に耐えられず晴明は逃げ出したのだそうです。
そのあとを追いかけ、晴明が着物・履物を脱ぎ身を投げたように偽装したため、それを信じた娘が身を投げて死んでしまい、その歯と櫛が流れ着いたのを祀った「歯櫛明神」が建ち、その後名前を「白紙神社」となり、明治になって地名から「川口神社」となって今に残るといいます。
その他にも幾つかこの近辺にこの伝説が元となった神社な名前が多く残されているのです。
この伝説はいくつかおかしなところがあります。
でも本当か嘘かというのではなく、この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。
千葉氏からわかれた相馬氏は将門の子孫を自認します。
千葉県西部にこの子孫が点在し、色々なところに伝説を残しています。
福島県の海岸沿いにある相馬市、南相馬市(原ノ町)なども相馬氏の子孫がいた場所ですが、千葉県の柏や我孫子、また茨城県の取手、守谷、常総市、利根町などは昔はみな相馬郡と呼んでいた。
美浦村に残されている信太の小太郎伝説などもこの将門の子孫とされている。
そして利根川、常陸利根川が注ぐ銚子にこのような話が伝わっていたことがなんとも驚きで面白いのです。
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「長者山」と書かれた石柱がたっている。
場所は松岸駅に近い垣根町にあり、海上小学校のとなりになる。
なにか古そうな建物が見えたので、由来も名前もわからずに立ち寄ったのだ。
丁度この日は祭礼があったのかどうか知らないが、受付などの準備が進められていた。
近所の人も三々五々自転車などでやってき始めていた様子だった。

横の方から入ってしまったので、正面に回って写真を撮った。
正面に灯篭や立派な仁王門がある。

仁王門と書いたが、
このように両側に「長者山」と大きく書かれた板が置かれている。

そして、仁王像が安置されているべきところの金網にはたくさんの履物が奉納され、納札二ヶ所目と書かれていた。
仁王門の手前に入口の受付のような場所があったので、そのが一ヶ所目だったのかもしれない。

仁王像が置かれているべき場所は「賽銭口」とあるので、賽銭を入れる場所になっていた。

正面の上には「仁王尊」という額がかかっていた。ここそのものが山門でもあるが、仁王様を正式に祀っているようだ。

門をくぐった先の正面にあるのは「阿弥陀院」の本堂。
調べてみると、この寺は正式には阿弥陀院根本寺(こんぽんじ)となっていた。
正面に「札所三ヶ所目」と書かれた札があった。
なかなか形の良い阿弥陀堂である。

入口の狛犬の表情も良い。



帰ってから、調べてみると結構面白いことがわかってきた。
私の散策もこのようなことが多い。
訪れた時はわからずに疑問を解消しようと調べだしたら、記事がまとまらなくなる。
でも早めに残しておきたくなる。そしてその得た知識が別なところを訪れていてふと思い出されて関係が気になってまた調べる。
そんな繰り返しだ。いつになっても終わらない。
調べた内容を大雑把に書くとこんなことだ。
ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたのだそうだ。
土地の名前で「垣根の長者屋敷」と呼ばれていたという。
名前は「根本右兵衛義貞」。この根本(ねもと)の名前から根本寺(こんぽんじ)(寺と苗字の読みが違うことは普通よくあること)となった。
しかし、面白いのはここに「安倍晴明」の伝説が残っていることである。
陰陽師で有名な安倍晴明伝説がどうして銚子に残されているのか。
伝説の内容の詳細は こちら などを参考にさせてもらいました。
安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。
大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)で生まれたとする説もかなり有力なのです。
921年生まれ1005年没とするのは少し年齢的におかしな気もするので、940年生まれというのも比較的時代もあっているようです。
晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
平将門がいたのもこの近くですし、亡くなったのは940年です。
ただ、ここに残されている伝説では、晴明は都から筑波に逃げてきたとされます。
そして、この銚子の長者「根本氏」宅に匿われ、その時に長者の娘が晴明に恋をしてしまい、財産を全て渡すことを申し出られて一旦約束するが、顔の半分にあざのある姿に耐えられず晴明は逃げ出したのだそうです。
そのあとを追いかけ、晴明が着物・履物を脱ぎ身を投げたように偽装したため、それを信じた娘が身を投げて死んでしまい、その歯と櫛が流れ着いたのを祀った「歯櫛明神」が建ち、その後名前を「白紙神社」となり、明治になって地名から「川口神社」となって今に残るといいます。
その他にも幾つかこの近辺にこの伝説が元となった神社な名前が多く残されているのです。
この伝説はいくつかおかしなところがあります。
でも本当か嘘かというのではなく、この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。
千葉氏からわかれた相馬氏は将門の子孫を自認します。
千葉県西部にこの子孫が点在し、色々なところに伝説を残しています。
福島県の海岸沿いにある相馬市、南相馬市(原ノ町)なども相馬氏の子孫がいた場所ですが、千葉県の柏や我孫子、また茨城県の取手、守谷、常総市、利根町などは昔はみな相馬郡と呼んでいた。
美浦村に残されている信太の小太郎伝説などもこの将門の子孫とされている。
そして利根川、常陸利根川が注ぐ銚子にこのような話が伝わっていたことがなんとも驚きで面白いのです。


犬岩(銚子)
銚子の犬吠崎の近くの海岸に「犬岩」という犬の形の岩があります。
場所は外川港の隣りで、犬若海岸という場所です。
ここに伝わる義経伝説があります。

頼朝に追われる身となった義経が奥州に逃げるとき、海岸に残された愛犬が7日7晩なき続けて岩になってしまいました。犬吠崎もこの犬の吠えた声が届いたので名前が付いたという。
もちろん伝説です。
悲劇の義経の幼名「牛若丸」から犬若海岸の地名も付けられたのでしょうか。

この犬の形の岩「犬岩」も、「約1億5千万年前のジュラ紀に古い太平洋プレートの上に堆積したものがプレート運動で大陸にぶつかって激しく変形を受けたもの」という説明がありました。
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場所は外川港の隣りで、犬若海岸という場所です。
ここに伝わる義経伝説があります。

頼朝に追われる身となった義経が奥州に逃げるとき、海岸に残された愛犬が7日7晩なき続けて岩になってしまいました。犬吠崎もこの犬の吠えた声が届いたので名前が付いたという。
もちろん伝説です。
悲劇の義経の幼名「牛若丸」から犬若海岸の地名も付けられたのでしょうか。

この犬の形の岩「犬岩」も、「約1億5千万年前のジュラ紀に古い太平洋プレートの上に堆積したものがプレート運動で大陸にぶつかって激しく変形を受けたもの」という説明がありました。


外川港(銚子)
銚子は「銚子港」と「外川港」の2箇所の港が有り、金目鯛などの水揚げも外川港が中心だと聞いていた。
今まで、銚子港の方には数回訪れているが、そこで食べたキンメの「久六」さんも外川港でとれたキンメを使っていると言っていた。

犬吠崎の近くに外川港があった。
おもったよりこじんまりした港であった。

「澪つくし」のロケ地として有名になったという。
今は海釣りで釣り好きには有名なところのようだ。
ヒラメ、ヤリイカなどがたくさん釣れるという。

このあたりの船は海釣りの客を載せて早朝にここから沖合に出るらしい。

港の端は先日の犬岩とも近く、この岩は「千騎ヶ岩」というのだそうです。
源義経が千騎の兵で立てこもったと言われているのだとか。
沖合に見えるの風車は洋上発電のテストプラント(NEDOと東京電力で実施)でしょうか。
いま、この銚子沖と福島の原発事故の沖合(広野火力発電所沖)で海に浮かぶ風車のテスト装置が作られています。
まだテスト機ですから、最終的にはこの風車が何十機も立ち並ぶことになるかもしれません。
そうすればこの景観もかなり変わってくることでしょう。
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今まで、銚子港の方には数回訪れているが、そこで食べたキンメの「久六」さんも外川港でとれたキンメを使っていると言っていた。

犬吠崎の近くに外川港があった。
おもったよりこじんまりした港であった。

「澪つくし」のロケ地として有名になったという。
今は海釣りで釣り好きには有名なところのようだ。
ヒラメ、ヤリイカなどがたくさん釣れるという。

このあたりの船は海釣りの客を載せて早朝にここから沖合に出るらしい。

港の端は先日の犬岩とも近く、この岩は「千騎ヶ岩」というのだそうです。
源義経が千騎の兵で立てこもったと言われているのだとか。
沖合に見えるの風車は洋上発電のテストプラント(NEDOと東京電力で実施)でしょうか。
いま、この銚子沖と福島の原発事故の沖合(広野火力発電所沖)で海に浮かぶ風車のテスト装置が作られています。
まだテスト機ですから、最終的にはこの風車が何十機も立ち並ぶことになるかもしれません。
そうすればこの景観もかなり変わってくることでしょう。


渡海神社(銚子)
3週間程前に千葉県旧小見川の良文貝塚などを紹介してきました。
その時に「豊玉姫神社」を紹介しました。(記事こちら)
この豊玉姫神社とこの銚子の渡海神社とがかなり深い結びつきがあるということが書かれていました。
また式年銚子大神幸祭(20年置きに行う祭り)がこの豊玉姫神社と東大社(東庄町宮本)、雷神社(海上町見広)の三社の間で行われるのですが、前に書いた「海上八幡宮」(こちら)にも立寄り、夜にはではこの渡海神社に上の三か所の神社から神輿が集まります。
そしてこの神社が宿泊所となり、翌日にはここで神事が行われ、神輿は順番に外川港に集結し、会場に船を連ねて出ていきます。
このお祭りは康和4年(1102年)に銚子の高見浦に大津波が起こり海難が続いたため行われるようになったそうです。
このためこの海を鎮めることが神事の目的なのだと思います。

銚子の外川港に近い少し内陸側に木々で囲まれた場所にひっそりとたたずんでいました。
神社の創建はかなり古く奈良時代末頃から平安時代初めとされ、外川浦日和山(現、銚子市外川町1丁目)に建てられたが、津波で流され現在の少し山側に移されたようです。

とても神聖な場所である空気が漂っていました。きっと由緒正しいのでしょうね。

神社の入口鳥居が三か所ありました。
こんな立派な神社ですが、地図を調べていかないと少しわかりにくく近くを通っていても見落としてしまうかもしれません。


この狛犬の顔はやはり沖縄などのシーザーの系列なのかもしれません。
やはり黒潮海上ルートで人も文化も伝わっていたような気がします。
ところで銚子というのはこの半島の形状がお酒を飲む時の「ちょうし」に似ているからだと言うのは本当なんでしょうか。





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その時に「豊玉姫神社」を紹介しました。(記事こちら)
この豊玉姫神社とこの銚子の渡海神社とがかなり深い結びつきがあるということが書かれていました。
また式年銚子大神幸祭(20年置きに行う祭り)がこの豊玉姫神社と東大社(東庄町宮本)、雷神社(海上町見広)の三社の間で行われるのですが、前に書いた「海上八幡宮」(こちら)にも立寄り、夜にはではこの渡海神社に上の三か所の神社から神輿が集まります。
そしてこの神社が宿泊所となり、翌日にはここで神事が行われ、神輿は順番に外川港に集結し、会場に船を連ねて出ていきます。
このお祭りは康和4年(1102年)に銚子の高見浦に大津波が起こり海難が続いたため行われるようになったそうです。
このためこの海を鎮めることが神事の目的なのだと思います。

銚子の外川港に近い少し内陸側に木々で囲まれた場所にひっそりとたたずんでいました。
神社の創建はかなり古く奈良時代末頃から平安時代初めとされ、外川浦日和山(現、銚子市外川町1丁目)に建てられたが、津波で流され現在の少し山側に移されたようです。

とても神聖な場所である空気が漂っていました。きっと由緒正しいのでしょうね。

神社の入口鳥居が三か所ありました。
こんな立派な神社ですが、地図を調べていかないと少しわかりにくく近くを通っていても見落としてしまうかもしれません。


この狛犬の顔はやはり沖縄などのシーザーの系列なのかもしれません。
やはり黒潮海上ルートで人も文化も伝わっていたような気がします。
ところで銚子というのはこの半島の形状がお酒を飲む時の「ちょうし」に似ているからだと言うのは本当なんでしょうか。







渡海神社の極相林
渡海神社の入口に「極相林(きょくそうりん)」という説明文が掲げられていました。
始めてみる言葉です。
普通古木などで覆われた樹林のことは「樹叢(じゅそう)」と書かれているところが多いと思います。
ではここのはただの樹叢とは違うのでしょうか。

説明では大分違っています。植物から樹木が何度も生育から衰退を繰り返してきて、今は安定した樹林帯になっている林のことだと言います。

この神社の周りの木々やシダ類などを見てわかるのでしょうか?

やはり海に近いせいでしょうか、このような樹木はあまりよそでは見られません。

神社の参道もこのような木々が・・・。

神社の境内社として稲荷神社でしょう、たくさんの狐が祀られていました。

これは猿田神社にもあったな。(こちら)

神社から外に出て、近くの道角に置かれていた石碑。

地図にある通り犬吠崎も近い場所です。また銚子有料道路と書かれていますがいまは無料です。
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始めてみる言葉です。
普通古木などで覆われた樹林のことは「樹叢(じゅそう)」と書かれているところが多いと思います。
ではここのはただの樹叢とは違うのでしょうか。

説明では大分違っています。植物から樹木が何度も生育から衰退を繰り返してきて、今は安定した樹林帯になっている林のことだと言います。

この神社の周りの木々やシダ類などを見てわかるのでしょうか?

やはり海に近いせいでしょうか、このような樹木はあまりよそでは見られません。

神社の参道もこのような木々が・・・。

神社の境内社として稲荷神社でしょう、たくさんの狐が祀られていました。

これは猿田神社にもあったな。(こちら)

神社から外に出て、近くの道角に置かれていた石碑。

地図にある通り犬吠崎も近い場所です。また銚子有料道路と書かれていますがいまは無料です。


地球の丸く見える丘(3)
昨日はこの地球の丸く見える丘展望台の上から眺めを写真で単に紹介したのみでした。
まったく手抜きですよね。
でも昨日はまた銚子に行っていて戻ったのは7時過ぎ。まあこんな調子ですからこの程度で胡麻化していました。
でもこの場所はただの観光場所として見ていたのですが、少しいくつか違った目で見てみると興味が湧いてきました。
今日は、世田谷の用賀の方に用事があり車で出かけて夕方戻りました。
お盆前でしょうか、それともいつもの事なのかどうかわかりませんが、高速道路もかなり渋滞し、事故も見ました。
そのため、予定よりも1時間近くも遅れて到着。暑い中運転手さんは大変ですね。
私の方は疲れました。
ではこの展望台周辺で気になったところを調べながら記事を書いてみたいと思います。
まずは、この展望台の壁面にはその方向の地名などが記されていますが、筑波山も載っていましたが、フィリピンと書かれたプレートが目につきました。

さあ、海の向こうのフィリピンが見えるのでしょうか。
展望台の建物の横に「日比友愛の碑」というモニュメントがおかれています。

銚子市はフィリピンのマヨン山を有するレガスピー市と姉妹都市契約を締結しています。
しかし姉妹都市の提携は昭和60年のことで、この「日比友愛の碑」が出来たのは昭和33年です。
この碑が日本とフィリピンの戦争による過去の過ちを繰り返さないようにフィリピンのマヨン山に向かって建てられたのは、それまでも銚子とフィリピンが友好関係にあったことによるようです。


フィリピンのマヨン山(2462m)は富士山と同じような姿の山で、マニラ富士とも呼ばれています。
写真は(こちら)をクリックして下さい。 リンク先で見られます。
しかし、この山は活火山で、時々噴火(過去400年で50回噴火)して多くの被害をもたらしました。
最近では1993年に噴火による火砕流で70人以上の死者が出ています。


碑文:内閣総理大臣 岸信介 と カルロス・P・ガルシア大統領のサイン
その隣には陸軍報道班員だっと寺下辰夫の詩
雲へだつ
ふたつの国の同胞が
互の慨き のり越えつ
緊く結びし 心とこころ
友愛の浄火 仄々と
永劫不滅に
あゝ 燃えにぞ燃えよ
寺下 辰夫

碑 文
撰文 尾﨑士郎
此処に、われ等が恩讐を絶する日比両国の戦友百数十万の霊を
慰むるための記念塔を立てる。
悲しき歴史の運命について、われ等は今日言うべき言葉もない。
この儚き民族の夢の影もなく消えていったあとに、祖国の難に殉
じて倒れた魂の、声なき声を、われ等は心の底に聴く。
希うところは、唯、この微かなる響きを透して、あたらしき民族の
生命の芽生えんことのみである。愛情の最後の一滴を捧げつくし
て、侘しく滅びていった同胞の御霊よ。
此処に永恒をつらぬく悲しき思いを、世界平和を築く荘厳なる理想
と抱負に託して、こころしずかに眠れよかし。
昭和三十三年五月中浣
日比友愛の碑建立委員会
銚子がフィリピンとこのような関係にあることは知りませんでした。
今、この千葉県の東端(日本の東端)である銚子は、人口の減少率が千葉県では一番のようです。
水産や醤油産業だけでは、東京からは鉄道でも遠くこれからの過疎化が深刻になって来ています。
今、この町に近づくと高台に何台もの風車が立ち並ぶ光景は、遠くからでも見ることができます。
私もここに来るまではあまり興味をもっていなかった銚子ですが、この地が銚子口と言われて漁場の宝庫で江戸の魚の多くが水運でここから運ばれていたことなどにも想いを馳せています。
また、日本酒も熱燗して飲むことも若い人は減ってしまい「お銚子」などといってもピンとこない人もいますよね。
私も銚子というと徳利の事だと思っていたのですが、本来は違うようです。
銚子は長い柄のついた金属製の酒を注ぐ口の付いた容器なのだそうです。
でも千葉県の銚子は昔「銚子口」と言われていたそうです。
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まったく手抜きですよね。
でも昨日はまた銚子に行っていて戻ったのは7時過ぎ。まあこんな調子ですからこの程度で胡麻化していました。
でもこの場所はただの観光場所として見ていたのですが、少しいくつか違った目で見てみると興味が湧いてきました。
今日は、世田谷の用賀の方に用事があり車で出かけて夕方戻りました。
お盆前でしょうか、それともいつもの事なのかどうかわかりませんが、高速道路もかなり渋滞し、事故も見ました。
そのため、予定よりも1時間近くも遅れて到着。暑い中運転手さんは大変ですね。
私の方は疲れました。
ではこの展望台周辺で気になったところを調べながら記事を書いてみたいと思います。
まずは、この展望台の壁面にはその方向の地名などが記されていますが、筑波山も載っていましたが、フィリピンと書かれたプレートが目につきました。

さあ、海の向こうのフィリピンが見えるのでしょうか。
展望台の建物の横に「日比友愛の碑」というモニュメントがおかれています。

銚子市はフィリピンのマヨン山を有するレガスピー市と姉妹都市契約を締結しています。
しかし姉妹都市の提携は昭和60年のことで、この「日比友愛の碑」が出来たのは昭和33年です。
この碑が日本とフィリピンの戦争による過去の過ちを繰り返さないようにフィリピンのマヨン山に向かって建てられたのは、それまでも銚子とフィリピンが友好関係にあったことによるようです。


フィリピンのマヨン山(2462m)は富士山と同じような姿の山で、マニラ富士とも呼ばれています。
写真は(こちら)をクリックして下さい。 リンク先で見られます。
しかし、この山は活火山で、時々噴火(過去400年で50回噴火)して多くの被害をもたらしました。
最近では1993年に噴火による火砕流で70人以上の死者が出ています。


碑文:内閣総理大臣 岸信介 と カルロス・P・ガルシア大統領のサイン
その隣には陸軍報道班員だっと寺下辰夫の詩
雲へだつ
ふたつの国の同胞が
互の慨き のり越えつ
緊く結びし 心とこころ
友愛の浄火 仄々と
永劫不滅に
あゝ 燃えにぞ燃えよ
寺下 辰夫

碑 文
撰文 尾﨑士郎
此処に、われ等が恩讐を絶する日比両国の戦友百数十万の霊を
慰むるための記念塔を立てる。
悲しき歴史の運命について、われ等は今日言うべき言葉もない。
この儚き民族の夢の影もなく消えていったあとに、祖国の難に殉
じて倒れた魂の、声なき声を、われ等は心の底に聴く。
希うところは、唯、この微かなる響きを透して、あたらしき民族の
生命の芽生えんことのみである。愛情の最後の一滴を捧げつくし
て、侘しく滅びていった同胞の御霊よ。
此処に永恒をつらぬく悲しき思いを、世界平和を築く荘厳なる理想
と抱負に託して、こころしずかに眠れよかし。
昭和三十三年五月中浣
日比友愛の碑建立委員会
銚子がフィリピンとこのような関係にあることは知りませんでした。
今、この千葉県の東端(日本の東端)である銚子は、人口の減少率が千葉県では一番のようです。
水産や醤油産業だけでは、東京からは鉄道でも遠くこれからの過疎化が深刻になって来ています。
今、この町に近づくと高台に何台もの風車が立ち並ぶ光景は、遠くからでも見ることができます。
私もここに来るまではあまり興味をもっていなかった銚子ですが、この地が銚子口と言われて漁場の宝庫で江戸の魚の多くが水運でここから運ばれていたことなどにも想いを馳せています。
また、日本酒も熱燗して飲むことも若い人は減ってしまい「お銚子」などといってもピンとこない人もいますよね。
私も銚子というと徳利の事だと思っていたのですが、本来は違うようです。
銚子は長い柄のついた金属製の酒を注ぐ口の付いた容器なのだそうです。
でも千葉県の銚子は昔「銚子口」と言われていたそうです。


地球の丸く見える丘(4)
この地球の丸く見える丘展望台のある愛宕山は標高73.6mしかありませんが、北総台地最高峰です。
この場所が地質学的には少し興味深い場所だということがわかりました。
銚子の海岸よりの史跡などに行くと「シオパーク」という説明看板が目立ちます。
この展望台のある場所にも看板がありましたので少し紹介します。
「銚子ジオパーク推進協議会」がまとめ「千葉科学大学」が制作しています。
この大学は前に紹介した「屏風岩(屏風ヶ浦)」(こちら)の入口海岸にあります。

地層をそのできた年代で3つに分類しています。
この最も古い部分が先端の手のこぶしの部分(A)でジュラ紀の地層です。

この愛宕山の部分がこぶしエリアで最もとんがった高い場所です。そしてその中でも一番古いジュラ紀の地層なのだそうです。
香取から前の貝塚などのある腕の部分(Bエリア)がその次に古い場所。
利根川の周りのエリアCの地域は縄文海進では水面以下で15万年前位以降の地層だそうです。
なんとなくわかってきたようです。
詳細は下の説明写真をクリックして拡大して見て下さい。

この展望台のあるのは標高73.6mの愛宕山(正式には高神愛宕山)です。
そのため、この頂上に三角点が置かれています。これがかなり古いのです。
そしてかなり重要な役目を負っています。

良く読んでみて下さい。何か感じませんか?
何気なしに書かれていますが、これってかなり重要な事だと思います。
三角点の名前が「高神村(こうじんむら)」と言うのも面白いですね。
昔からあるこの地層の頂点を基準として日本の地形の変化を量る基点になっているようなのです。
これってすごい事ですよね。
今ではGPSがあるから関係ない? 確かにそうかもしれないけど・・・。
でも考えると結構楽しい。
また、明治38年に田山花袋が犬吠崎に国木田独歩を見舞いに来て、この愛宕山にのぼったと「写真」という小説に書いてあるそうだ。
それによれば、この三角測量台の傍に戦時の展望哨が置かれてあると書かれている。
いろいろ想像して楽しみましょう。

これがその三角点です。
この山の地層が愛宕山層群で「高神礫岩」とよばれるジュラ紀の化石などが多く出土しているのだそうです。
約3億年前くらいまでさかのぼれるそうですからすごいですね。

三角点の横に「愛宕神社」があります。たんに、石造の祠と玉垣があるだけですが、道路から展望台に登る入口の両側に石の灯籠がおかれています。
これも神社の入口燈籠らしいのです。
この石灯籠は「愛宕燈籠」と呼ばれています。
江戸時代には、火難除けの「愛宕信仰」が盛んで、ここから村々の代表が年に一度、京都の「愛宕神社」へお参りしてお札をもらって帰って来て、それを各戸に配ることが行われてきたそうです。
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この場所が地質学的には少し興味深い場所だということがわかりました。
銚子の海岸よりの史跡などに行くと「シオパーク」という説明看板が目立ちます。
この展望台のある場所にも看板がありましたので少し紹介します。
「銚子ジオパーク推進協議会」がまとめ「千葉科学大学」が制作しています。
この大学は前に紹介した「屏風岩(屏風ヶ浦)」(こちら)の入口海岸にあります。

地層をそのできた年代で3つに分類しています。
この最も古い部分が先端の手のこぶしの部分(A)でジュラ紀の地層です。

この愛宕山の部分がこぶしエリアで最もとんがった高い場所です。そしてその中でも一番古いジュラ紀の地層なのだそうです。
香取から前の貝塚などのある腕の部分(Bエリア)がその次に古い場所。
利根川の周りのエリアCの地域は縄文海進では水面以下で15万年前位以降の地層だそうです。
なんとなくわかってきたようです。
詳細は下の説明写真をクリックして拡大して見て下さい。

この展望台のあるのは標高73.6mの愛宕山(正式には高神愛宕山)です。
そのため、この頂上に三角点が置かれています。これがかなり古いのです。
そしてかなり重要な役目を負っています。

良く読んでみて下さい。何か感じませんか?
何気なしに書かれていますが、これってかなり重要な事だと思います。
三角点の名前が「高神村(こうじんむら)」と言うのも面白いですね。
昔からあるこの地層の頂点を基準として日本の地形の変化を量る基点になっているようなのです。
これってすごい事ですよね。
今ではGPSがあるから関係ない? 確かにそうかもしれないけど・・・。
でも考えると結構楽しい。
また、明治38年に田山花袋が犬吠崎に国木田独歩を見舞いに来て、この愛宕山にのぼったと「写真」という小説に書いてあるそうだ。
それによれば、この三角測量台の傍に戦時の展望哨が置かれてあると書かれている。
いろいろ想像して楽しみましょう。

これがその三角点です。
この山の地層が愛宕山層群で「高神礫岩」とよばれるジュラ紀の化石などが多く出土しているのだそうです。
約3億年前くらいまでさかのぼれるそうですからすごいですね。

三角点の横に「愛宕神社」があります。たんに、石造の祠と玉垣があるだけですが、道路から展望台に登る入口の両側に石の灯籠がおかれています。
これも神社の入口燈籠らしいのです。
この石灯籠は「愛宕燈籠」と呼ばれています。
江戸時代には、火難除けの「愛宕信仰」が盛んで、ここから村々の代表が年に一度、京都の「愛宕神社」へお参りしてお札をもらって帰って来て、それを各戸に配ることが行われてきたそうです。


地球の丸く見える丘(5)
千葉県銚子の地球の丸く見える丘の5回目です。
ここを5回にわたって紹介するとは最初は思っていませんでした。
今日が最後です。
今日はここの展望台に登る途中におかれていた次の立て看板について少し調べてみました。

登り坂の途中におかれていました。書かれている内容は下記です。
まあこんなものもあるのだと思っただけでしたが、調べると面白い事も出てくるものです。
でも記事を書く時間がどうしても足りない。
こんなに暑いと全く書く気もしなくなるしパソコンを打つ手も進まない。

内容は、ここの銚子にある小学校がNHKの教育番組(小学高高学年向けの道徳番組)である「あしたへジャンプ」のモデル校に選ばれて、1年間放送された。
その時の生徒たちの想いなどを書いた手紙をタイムカプセルにしてこの場所に埋めたようです。
調べてみると、このあしたへジャンプは小学校の道徳の時間の教材として使われたそうですが、私の小学校時代はこんなテレビなどという洒落たものは学校にはもちろんありませんでした。
いくつかのシリーズがあるようなので、このあしたへジャンプは約10年間各地の地方の学校を1年おきくらいにモデル校として使われたようです。この銚子の学校は開始から3年目くらいのモデル校でした。
その時の子供達は今はどれくらいになっているのでしょうか?
平成元年ですからすでに25年が経過しています。30代半ばでしょうね。

さて、このモデルとなったのは「高神小学校」です。そうこの山のある村の名前の小学校です。
明治9年創業です。
現在はこの展望台の山の下の方の少し海岸方面にいった辺りにあります。
この展望台の下に広い公園があります。
先日コスモスとアジサイのコラボレーションとして写真を紹介したところです。
その公園の登り口に上のような石碑がおかれていました。
この公園のあった場所にこの小学校が昔あったのです。
調べてみると、1964年(昭和39)まで、この小学校がここにあったのだそうです。
小学校のHPの沿革には載っていないので探すのに苦労してしまいました。
そして、地元の方は特区に御存じなのでしょうが、この小学校のあった敷地に遊園地(犬吠オーシャンランド)ができたそうです。
それもプールが5つにゴーカート、海の生活館の展示施設など本格的なレジャー施設だったそうです。
1973年(昭和48)に開園され、施設の老朽化の為に1989年(平成元)に閉鎖されたそうです。
当然地元の人はご存じでしょうね。でも何も書かれていないので他所から来た人は知る由もありません。

現在この公園には季節の花々と銚子市内にある点在しているいくつもの文学碑のレプリカをここに作ってここを一回りするだけで銚子所縁の文学者などを紹介しようとしています。
これは市民にアイデアを募集して決まったものだそうです。
上の写真は「竹下夢二」の碑です。
宵待草
まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は 月も出ぬさうな
これは、夢二が海鹿島海岸にひっそりと咲き乱れる宵待草によせて、わが身の悲恋をうたったものなのだそうです。

こちらは国木田独歩の詩碑です。
「なつかしき わが故郷は何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」
国木田独歩は銚子に生まれました。生い立ちを見てみるとかなり興味をひく内容でした。
父の国木田専八が銚子沖で船が沈没し、銚子の旅館(吉野家)に奉公していた淡路まんと仲良くなり生まれたというように伝わっています。しかし謎も多いようです。
小さい時に銚子を離れていますが、銚子には何度も足を運んでいますし、病気療養にも来ています。

こちらは、牛久沼でも河童でおなじみの小川芋銭(おがわうせん)の句碑です。
「銚子灘朝暾(ちょうとん) 大海を飛びいつる如と 初日の出」
芋銭が初めて銚子を訪れたのは大正12年で、55歳の時だそうですが、ここの海鹿島が気に入り9回も訪れたのです。
調べてみると、私のいる石岡にも大いに関係していました。
芋銭はこの銚子には、後援者であった石岡の高浜の運漕業を営む篠目八郎兵衛が自分の別荘を勧めて、海鹿島にあった篠目家の別荘に滞在したのです。
その後もまたこの別荘に来て、「潮光庵」(ちょうこうあん)と名付けたそうです。
高浜はその当時霞ヶ浦の水運でかなりの勢いがあり、この篠目八郎兵衛についても以前に石の仁王像を船で運んだとして記事にしています。(こちら)
こうしてつながってくるとその当時の事が徐々にはっきりしてきますね。
銚子市内にはまだまだ文学碑がたくさんあるそうですが、この場所には4つだけレプリカを設置しているようです。
← よろしければクリックお願いします。
ここを5回にわたって紹介するとは最初は思っていませんでした。
今日が最後です。
今日はここの展望台に登る途中におかれていた次の立て看板について少し調べてみました。

登り坂の途中におかれていました。書かれている内容は下記です。
まあこんなものもあるのだと思っただけでしたが、調べると面白い事も出てくるものです。
でも記事を書く時間がどうしても足りない。
こんなに暑いと全く書く気もしなくなるしパソコンを打つ手も進まない。

内容は、ここの銚子にある小学校がNHKの教育番組(小学高高学年向けの道徳番組)である「あしたへジャンプ」のモデル校に選ばれて、1年間放送された。
その時の生徒たちの想いなどを書いた手紙をタイムカプセルにしてこの場所に埋めたようです。
調べてみると、このあしたへジャンプは小学校の道徳の時間の教材として使われたそうですが、私の小学校時代はこんなテレビなどという洒落たものは学校にはもちろんありませんでした。
いくつかのシリーズがあるようなので、このあしたへジャンプは約10年間各地の地方の学校を1年おきくらいにモデル校として使われたようです。この銚子の学校は開始から3年目くらいのモデル校でした。
その時の子供達は今はどれくらいになっているのでしょうか?
平成元年ですからすでに25年が経過しています。30代半ばでしょうね。

さて、このモデルとなったのは「高神小学校」です。そうこの山のある村の名前の小学校です。
明治9年創業です。
現在はこの展望台の山の下の方の少し海岸方面にいった辺りにあります。
この展望台の下に広い公園があります。
先日コスモスとアジサイのコラボレーションとして写真を紹介したところです。
その公園の登り口に上のような石碑がおかれていました。
この公園のあった場所にこの小学校が昔あったのです。
調べてみると、1964年(昭和39)まで、この小学校がここにあったのだそうです。
小学校のHPの沿革には載っていないので探すのに苦労してしまいました。
そして、地元の方は特区に御存じなのでしょうが、この小学校のあった敷地に遊園地(犬吠オーシャンランド)ができたそうです。
それもプールが5つにゴーカート、海の生活館の展示施設など本格的なレジャー施設だったそうです。
1973年(昭和48)に開園され、施設の老朽化の為に1989年(平成元)に閉鎖されたそうです。
当然地元の人はご存じでしょうね。でも何も書かれていないので他所から来た人は知る由もありません。

現在この公園には季節の花々と銚子市内にある点在しているいくつもの文学碑のレプリカをここに作ってここを一回りするだけで銚子所縁の文学者などを紹介しようとしています。
これは市民にアイデアを募集して決まったものだそうです。
上の写真は「竹下夢二」の碑です。
宵待草
まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は 月も出ぬさうな
これは、夢二が海鹿島海岸にひっそりと咲き乱れる宵待草によせて、わが身の悲恋をうたったものなのだそうです。

こちらは国木田独歩の詩碑です。
「なつかしき わが故郷は何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」
国木田独歩は銚子に生まれました。生い立ちを見てみるとかなり興味をひく内容でした。
父の国木田専八が銚子沖で船が沈没し、銚子の旅館(吉野家)に奉公していた淡路まんと仲良くなり生まれたというように伝わっています。しかし謎も多いようです。
小さい時に銚子を離れていますが、銚子には何度も足を運んでいますし、病気療養にも来ています。

こちらは、牛久沼でも河童でおなじみの小川芋銭(おがわうせん)の句碑です。
「銚子灘朝暾(ちょうとん) 大海を飛びいつる如と 初日の出」
芋銭が初めて銚子を訪れたのは大正12年で、55歳の時だそうですが、ここの海鹿島が気に入り9回も訪れたのです。
調べてみると、私のいる石岡にも大いに関係していました。
芋銭はこの銚子には、後援者であった石岡の高浜の運漕業を営む篠目八郎兵衛が自分の別荘を勧めて、海鹿島にあった篠目家の別荘に滞在したのです。
その後もまたこの別荘に来て、「潮光庵」(ちょうこうあん)と名付けたそうです。
高浜はその当時霞ヶ浦の水運でかなりの勢いがあり、この篠目八郎兵衛についても以前に石の仁王像を船で運んだとして記事にしています。(こちら)
こうしてつながってくるとその当時の事が徐々にはっきりしてきますね。
銚子市内にはまだまだ文学碑がたくさんあるそうですが、この場所には4つだけレプリカを設置しているようです。


犬吠埼(1)-白い灯台と白いポスト
先日銚子に少し早めに言って先端の犬吠埼に行ってきました。
昔、行った時のことはほとんど覚えていません。

この高台の下は白亜紀層の岩が露出した岩場です。周りに遊歩道がついています。

こんな真っ白な灯台だったのですね。

上の展望台まで99段の階段を登らなければいけないようです。

ここに来るまで途中寄り道をして時間がなかったので中には入りませんでした。
入場料が200円かかると書いてありました。

それより変ったものを発見しました。
入口に灯台と同じ真っ白い郵便ポストがありました。
「郵便は世界を結ぶ」だそうです。

このポストは昨年3月のホワイトデーに設置されました。
神栖町に保存していた旧型(1960年製)の赤いポストを白く塗ったのだそうです。
ちゃんと赤いポストと同じように郵便を出すことが出来ますよ。
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昔、行った時のことはほとんど覚えていません。

この高台の下は白亜紀層の岩が露出した岩場です。周りに遊歩道がついています。

こんな真っ白な灯台だったのですね。

上の展望台まで99段の階段を登らなければいけないようです。

ここに来るまで途中寄り道をして時間がなかったので中には入りませんでした。
入場料が200円かかると書いてありました。

それより変ったものを発見しました。
入口に灯台と同じ真っ白い郵便ポストがありました。
「郵便は世界を結ぶ」だそうです。

このポストは昨年3月のホワイトデーに設置されました。
神栖町に保存していた旧型(1960年製)の赤いポストを白く塗ったのだそうです。
ちゃんと赤いポストと同じように郵便を出すことが出来ますよ。


犬吠埼(2)-白亜紀海岸
犬吠埼の続きです。
灯台の建つ台地の広場に遠く海の向こうを眺められるような石碑が建っていました。

「犬吠埼・ロカ岬友好記念碑」
ロカ岬はポルトガル/シントラ市にあります。

1993年にポルトガルとの友好を記念してポルトガル産大理石であるピンクのオーロラ石に「風と光と土と水 引き継ぐものは美しい」と刻みこの場所の建立しました。
「海終わり 陸始まる」と書かれています。
前に私の記事(こちら)にフィリピンとの友好の碑を紹介しました。ちょっと複雑な思いに駆られました。
この碑も前に建ってみた時に何が書かれているかがその場では判断できませんでした。
写真を解析して読めるようになりました。

この台地から下の海岸及びその廻りの遊歩道に続く道に降りられます。
(但し、危険なので一部通行止めとなっていました)
その降り口の所に「人間の歴史と地球の歴史」と書かれた石碑がおかれていました。
人間の歴史は犬吠埼の名前の謂れ(義経伝説:これは犬岩の所に書いた。こちら)です。
一方地球の歴史は白亜紀層の岩石がこの犬吠埼を形成しており、7000万年~1億年前の地層なのだそうです。
こうして比べたら人間の歴史など比べ物になりません。


(クリックで拡大します)

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灯台の建つ台地の広場に遠く海の向こうを眺められるような石碑が建っていました。

「犬吠埼・ロカ岬友好記念碑」
ロカ岬はポルトガル/シントラ市にあります。

1993年にポルトガルとの友好を記念してポルトガル産大理石であるピンクのオーロラ石に「風と光と土と水 引き継ぐものは美しい」と刻みこの場所の建立しました。
「海終わり 陸始まる」と書かれています。
前に私の記事(こちら)にフィリピンとの友好の碑を紹介しました。ちょっと複雑な思いに駆られました。
この碑も前に建ってみた時に何が書かれているかがその場では判断できませんでした。
写真を解析して読めるようになりました。

この台地から下の海岸及びその廻りの遊歩道に続く道に降りられます。
(但し、危険なので一部通行止めとなっていました)
その降り口の所に「人間の歴史と地球の歴史」と書かれた石碑がおかれていました。
人間の歴史は犬吠埼の名前の謂れ(義経伝説:これは犬岩の所に書いた。こちら)です。
一方地球の歴史は白亜紀層の岩石がこの犬吠埼を形成しており、7000万年~1億年前の地層なのだそうです。
こうして比べたら人間の歴史など比べ物になりません。


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芋銭歌碑(銚子)
前に銚子の地球の丸く見える丘に作られた銚子にある歌碑のモニュメントで紹介しましたが、やはり歌碑はその歌が詠まれた場所に建てられているものがいいね。
特に小川芋銭(うせん)の歌碑は海岸の絶壁の自然石に彫られたものですごいです。
「大海を 飛びいつる如と 初日の出」
ここ犬吠埼は平野部では日本一早く初日の出がみられる場所です。

海岸にそそり立つ自然石に歌が彫られています。
この辺りは白亜紀層が飛び出し、奇岩も多い場所です。

この後ろの岩に彫られた歌碑。どうやって掘ったのでしょう。

この岩の所から見る初日の出はどんなものでしょうか。
なんだか見たくなりますね。


小川芋銭(うせん)はカッパの絵で有名で、牛久沼では記念館もあります。
前に書いたようにこの芋銭が銚子にやってきたのは(現石岡市)高浜の篠目八郎兵衛の別荘に来て気にいってしまったのです。(記事はこちら)

天皇陛下がお生まれになった時にその喜びを詠んだものだそうです。
この芋銭の碑の通りの反対側の山の方に少し入ったところに、尾崎咢堂(がくどう)の歌碑があります。

咢堂は号で、本名は議会政治の父と言われた相模原出身の政治家「尾崎行雄」です。

この碑の置かれた場所の先は現在三菱化学の犬吠寮となっていて、この奥には入れません。
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特に小川芋銭(うせん)の歌碑は海岸の絶壁の自然石に彫られたものですごいです。
「大海を 飛びいつる如と 初日の出」
ここ犬吠埼は平野部では日本一早く初日の出がみられる場所です。

海岸にそそり立つ自然石に歌が彫られています。
この辺りは白亜紀層が飛び出し、奇岩も多い場所です。

この後ろの岩に彫られた歌碑。どうやって掘ったのでしょう。

この岩の所から見る初日の出はどんなものでしょうか。
なんだか見たくなりますね。


小川芋銭(うせん)はカッパの絵で有名で、牛久沼では記念館もあります。
前に書いたようにこの芋銭が銚子にやってきたのは(現石岡市)高浜の篠目八郎兵衛の別荘に来て気にいってしまったのです。(記事はこちら)

天皇陛下がお生まれになった時にその喜びを詠んだものだそうです。
この芋銭の碑の通りの反対側の山の方に少し入ったところに、尾崎咢堂(がくどう)の歌碑があります。

咢堂は号で、本名は議会政治の父と言われた相模原出身の政治家「尾崎行雄」です。

この碑の置かれた場所の先は現在三菱化学の犬吠寮となっていて、この奥には入れません。


川口神社(1)(銚子)
銚子の港に近い神社で前に「安倍晴明伝説」を紹介した事があります。(こちら)
その時にこの川口神社の話が出て来たのですが湊沿いの道を車で走っていてこの神社を発見しました。
普段ですとまあ「こんなときにも神社があるな~」と思う程度なのですが、車を少し道路の空いた所に止めて覗いてみることにしました。その時はまだこの神社がその晴明伝説にまつわる神社であるとは気がつきませんでした。
986年(寛和2年)の創建といわれる。
安倍晴明の伝説は、晴明がお世話になった地元の長者の娘の顔にあざがあったが晴明に恋した。
晴明も結婚の約束をするがいやになり逃げ出す。
それを娘は追いかけたが、晴明は身を投げた工作をする。
それを見た娘は晴明が死んだと思い身を投げて死んでしまう。
そして、娘の歯と櫛が流れ着いたこの場所にその冥福を祈って神社を建てた。
神社の名前は「歯櫛明神(はくしみょうじん)」とよばれ、途中から「白紙明神」と書くようになり明示を迎えた。
明治に入り現在の川口神社(明治3年)と改められた。明治12年に村社となる。
速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀る。速秋津姫命はイザナギ・イザナミの間に生まれた神で、男女一対の「水戸神(みなとのかみ)」であるが、ここは女性のみを祀っている。
川と海の接する河口部の神とされるので神社も「川口神社」となったものと思われる。
銚子の利根川の入口の河口に建てられた神社だ。

ここにあるように銚子の大漁節にうたわれる神社です。
一つとせ 一番船に 積み込んで
川口押込む 大矢声 浜大漁だネ
・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・
九つとせ この浦守る川口の
明神 ご利益 あらわせり
この「川口の明神」がこの神社です。
江戸時代はここから利根川をさかのぼり江戸に魚を送っていた。

港に近い2つの道が交わる交差点に一の鳥居がありました。

鳥居から奥に広い参道が続いています。
左右は松並木です。

しばらく平坦な道を進むと二の鳥居があります。昔はこの辺りから登り道が続いていたのでしょう。
今は広い階段です。

鳥居の左右に阿吽の狛犬が置かれています。

1歩では次の階段を登れませんので、結構歩きにくいんです。

最初はちょこっとどんな所かを見て戻るつもりでしたが、なかなか古びた大きな風格のある神社なので驚きました。
正面に拝殿とその手前に狛犬か2対。

手水舎も風格があります。

境内社ですが、説明がないのでわかりません。

拝殿。柱などの彫刻が目を引きます。

写真が多くなってしまいましたので、明日に続きを書きます。
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その時にこの川口神社の話が出て来たのですが湊沿いの道を車で走っていてこの神社を発見しました。
普段ですとまあ「こんなときにも神社があるな~」と思う程度なのですが、車を少し道路の空いた所に止めて覗いてみることにしました。その時はまだこの神社がその晴明伝説にまつわる神社であるとは気がつきませんでした。
986年(寛和2年)の創建といわれる。
安倍晴明の伝説は、晴明がお世話になった地元の長者の娘の顔にあざがあったが晴明に恋した。
晴明も結婚の約束をするがいやになり逃げ出す。
それを娘は追いかけたが、晴明は身を投げた工作をする。
それを見た娘は晴明が死んだと思い身を投げて死んでしまう。
そして、娘の歯と櫛が流れ着いたこの場所にその冥福を祈って神社を建てた。
神社の名前は「歯櫛明神(はくしみょうじん)」とよばれ、途中から「白紙明神」と書くようになり明示を迎えた。
明治に入り現在の川口神社(明治3年)と改められた。明治12年に村社となる。
速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀る。速秋津姫命はイザナギ・イザナミの間に生まれた神で、男女一対の「水戸神(みなとのかみ)」であるが、ここは女性のみを祀っている。
川と海の接する河口部の神とされるので神社も「川口神社」となったものと思われる。
銚子の利根川の入口の河口に建てられた神社だ。

ここにあるように銚子の大漁節にうたわれる神社です。
一つとせ 一番船に 積み込んで
川口押込む 大矢声 浜大漁だネ
・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・
九つとせ この浦守る川口の
明神 ご利益 あらわせり
この「川口の明神」がこの神社です。
江戸時代はここから利根川をさかのぼり江戸に魚を送っていた。

港に近い2つの道が交わる交差点に一の鳥居がありました。

鳥居から奥に広い参道が続いています。
左右は松並木です。

しばらく平坦な道を進むと二の鳥居があります。昔はこの辺りから登り道が続いていたのでしょう。
今は広い階段です。

鳥居の左右に阿吽の狛犬が置かれています。

1歩では次の階段を登れませんので、結構歩きにくいんです。

最初はちょこっとどんな所かを見て戻るつもりでしたが、なかなか古びた大きな風格のある神社なので驚きました。
正面に拝殿とその手前に狛犬か2対。

手水舎も風格があります。

境内社ですが、説明がないのでわかりません。

拝殿。柱などの彫刻が目を引きます。

写真が多くなってしまいましたので、明日に続きを書きます。


川口神社(2)(銚子)
銚子の川口神社の続きです。
この川口神社は「白紙神社」と呼ばれ、その前は「白神明神」や「歯櫛明神」と呼ばれてきた。
安倍晴明伝説がどの程度の信憑性があるかはわからない。
この説によれば安倍晴明の生まれは筑波山の麓と言うことになり、筑西市(旧明野町)猫島の生まれとすることと繋がってくる。
石岡市の旧八郷地区の吉生でも晴明誕生説があるというが、こちらはあまりよく知らない。

この川口神社の本殿はなかなか見ごたえのある造りであった。

制作年代が書かれたものがないが、狛犬の刻印が文政三年(1820)とあり、それより前の文化年間(1804-1818年)と推測されるという。

かなり凝った彫刻が全体に施されている。


奥の本殿側から参道の方を見る。遠くに銚子の利根川入口が見える。
ここが川口神社ということが良くわかる。

この神社の境内から銚子の漁港が良く見降ろせます。
海川吹く風を感じながら、広々した参道の上から海を見ると、とてもゆったりとした気分にさせてくれます。
大潮まつり(旧暦6月15日:現7月22日?)の時に朝早く神輿がこの階段を駆け降り、下の港の関係場所を練り歩き、夕方にまた駆け上るそうです。

吉田松陰も21歳の時に水戸、鹿島神宮を巡りこの銚子に来てこの神社に立寄ったようです。
参道の階段横に石碑が置かれています。

港の漁業関係者の信仰がとても厚い神社だと感じました。
灯籠には寄進した船の名前が・・・。
また女性のあざ除けに御利益があると言われ、訪れる女性も多いそうです。
これは、この晴明を慕って入水した長者の娘は顔にあざがあったと伝えられていることに由来したものと思われます。
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この川口神社は「白紙神社」と呼ばれ、その前は「白神明神」や「歯櫛明神」と呼ばれてきた。
安倍晴明伝説がどの程度の信憑性があるかはわからない。
この説によれば安倍晴明の生まれは筑波山の麓と言うことになり、筑西市(旧明野町)猫島の生まれとすることと繋がってくる。
石岡市の旧八郷地区の吉生でも晴明誕生説があるというが、こちらはあまりよく知らない。

この川口神社の本殿はなかなか見ごたえのある造りであった。

制作年代が書かれたものがないが、狛犬の刻印が文政三年(1820)とあり、それより前の文化年間(1804-1818年)と推測されるという。

かなり凝った彫刻が全体に施されている。


奥の本殿側から参道の方を見る。遠くに銚子の利根川入口が見える。
ここが川口神社ということが良くわかる。

この神社の境内から銚子の漁港が良く見降ろせます。
海川吹く風を感じながら、広々した参道の上から海を見ると、とてもゆったりとした気分にさせてくれます。
大潮まつり(旧暦6月15日:現7月22日?)の時に朝早く神輿がこの階段を駆け降り、下の港の関係場所を練り歩き、夕方にまた駆け上るそうです。

吉田松陰も21歳の時に水戸、鹿島神宮を巡りこの銚子に来てこの神社に立寄ったようです。
参道の階段横に石碑が置かれています。

港の漁業関係者の信仰がとても厚い神社だと感じました。
灯籠には寄進した船の名前が・・・。
また女性のあざ除けに御利益があると言われ、訪れる女性も多いそうです。
これは、この晴明を慕って入水した長者の娘は顔にあざがあったと伝えられていることに由来したものと思われます。


銚子のかんのん様
先日銚子で食事(サバの漬け丼)を食べたすぐ近くに銚子で「かんのん様」と慕われる「飯沼観音」がありました。
正式な名前は「飯沼山円福寺」です。

銚子電鉄の「観音駅」から銚子港の方に少し進んだあたりです。
立派な山門が目に飛び込んできました。

説明看板に書かれていた内容をそのまま転記します。
「飯沼観音・圓福寺は、坂東三十三カ所観音霊場二十七番札所で、本尊は十一面観世音菩薩が奉安されています。銚子の繁華街や商店街は、飯沼観音を中心に形成され、門前町として繁栄してきました。平成21年には、新たに五重塔が建立されました。
また、飯沼観音境内には、明治5年にオランダ人技師リンドにより設置された「飯沼水準原標石」があり、これは日本における河川工事の水準基準面になるもので、日本最初の水準原標です。」
この水準原標は見落としてしまいました。今度行った時にでも確認してきます。

この「かんのんさま」の看板はでかいですね。
有料トイレもあり、かなり大きなお寺です。

平成18年9月18日着工、平成21年5月5日竣工の五重塔です。立派ですね。
総高33.5mで風圧に堪えるために心柱だけは鉄骨だそうです。

本尊の十一面観音は漁夫が拾い上げたものという。その後、弘仁年間(810~824)に海上長者が財を投じて壮麗な伽藍を建立し、その後も海上氏一族の庇護を受けて発展したと伝えられる。
戦国時代の天正6年(1578)に観音堂がたてられ、江戸時代の安永2年(1773)に銅葺に改築され、仁王門、鐘楼、多宝塔、太子堂などのさまざまな建物が建てられたが、先の戦争ですべてを焼失したという。
さて、ここまでは検索して知った内容を記載したのだが、この坂東三十三カ所札所の二十七番目というが、このひとつ前の二十六番札所は土浦の小町の里近くにある「清滝寺」だ。(前に書いた記事:こちら)
あの土浦の北側にある寺からここまで歩いたり、舟に乗ったりしてやってくるとするとどれくらいかかるのだろうか?
この観音様の巡礼は土浦からくると100km近くあるのでこの門前町で泊まることになったそうだ。
この門前町も昔は栄えていたのだろう。魚はここから利根川を上って江戸まで運ばれたのであり(前の記事参照:こちら)、そんな事を考えて街を見ているとこの風景などもどこか懐かしい気がする。
← よろしければクリックお願いします。
正式な名前は「飯沼山円福寺」です。

銚子電鉄の「観音駅」から銚子港の方に少し進んだあたりです。
立派な山門が目に飛び込んできました。

説明看板に書かれていた内容をそのまま転記します。
「飯沼観音・圓福寺は、坂東三十三カ所観音霊場二十七番札所で、本尊は十一面観世音菩薩が奉安されています。銚子の繁華街や商店街は、飯沼観音を中心に形成され、門前町として繁栄してきました。平成21年には、新たに五重塔が建立されました。
また、飯沼観音境内には、明治5年にオランダ人技師リンドにより設置された「飯沼水準原標石」があり、これは日本における河川工事の水準基準面になるもので、日本最初の水準原標です。」
この水準原標は見落としてしまいました。今度行った時にでも確認してきます。

この「かんのんさま」の看板はでかいですね。
有料トイレもあり、かなり大きなお寺です。

平成18年9月18日着工、平成21年5月5日竣工の五重塔です。立派ですね。
総高33.5mで風圧に堪えるために心柱だけは鉄骨だそうです。

本尊の十一面観音は漁夫が拾い上げたものという。その後、弘仁年間(810~824)に海上長者が財を投じて壮麗な伽藍を建立し、その後も海上氏一族の庇護を受けて発展したと伝えられる。
戦国時代の天正6年(1578)に観音堂がたてられ、江戸時代の安永2年(1773)に銅葺に改築され、仁王門、鐘楼、多宝塔、太子堂などのさまざまな建物が建てられたが、先の戦争ですべてを焼失したという。
さて、ここまでは検索して知った内容を記載したのだが、この坂東三十三カ所札所の二十七番目というが、このひとつ前の二十六番札所は土浦の小町の里近くにある「清滝寺」だ。(前に書いた記事:こちら)
あの土浦の北側にある寺からここまで歩いたり、舟に乗ったりしてやってくるとするとどれくらいかかるのだろうか?
この観音様の巡礼は土浦からくると100km近くあるのでこの門前町で泊まることになったそうだ。
この門前町も昔は栄えていたのだろう。魚はここから利根川を上って江戸まで運ばれたのであり(前の記事参照:こちら)、そんな事を考えて街を見ているとこの風景などもどこか懐かしい気がする。


銚港神社
昨日紹介した飯沼観音「圓福寺」は古くから信仰されてきた寺であるが、それに隣接してこの「銚港(ちょうこう)神社」がある。
この神社は元は「龍蔵神社(龍蔵権現)」と呼ばれ、奈良時代初期の720年頃の創建ともいわれているそうですが、圓福寺と神仏混合として信仰されてきたという。
それが明治初期の神仏分離で圓福寺とわかれ、銚港神社と名前も変わったのだという。
神仏分離は各地で見て来たが、多くは神社の方が大きくなり、寺は壊されたり復興しても小さなものとなっていたのだが・・・。ここは神社が小さくて、寺の方が大きい。

こちらが神社の入口で、その左側が圓福寺(飯沼観音)だ。

祭神は、闇淤加美神(くらおかみのかみ)・志那都比(級津彦)古神(しなつひこのかみ)・志那都比売(級津姫)神(しなつひめのかみ)・阿遇突智神(かぐづちのかみ)などを祀る。
地元では「産土(うぶすな)さま」と呼ばれる神社だ。

圓福寺とともに太平洋戦争で消滅したが、その後の昭和33年に復興した。
社殿正面の銚港神社の署は吉田茂が総理大臣であった時に書いた揮毫だという。

銚子式年神幸祭ではこの神社の前でも神輿の競演が行われると言う。

古い柱の一部?が残されており、真ん中の柱には「龍蔵権・・」の文字が読めます。

境内にある金毘羅神社です。海運の守り神ですね。
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この神社は元は「龍蔵神社(龍蔵権現)」と呼ばれ、奈良時代初期の720年頃の創建ともいわれているそうですが、圓福寺と神仏混合として信仰されてきたという。
それが明治初期の神仏分離で圓福寺とわかれ、銚港神社と名前も変わったのだという。
神仏分離は各地で見て来たが、多くは神社の方が大きくなり、寺は壊されたり復興しても小さなものとなっていたのだが・・・。ここは神社が小さくて、寺の方が大きい。

こちらが神社の入口で、その左側が圓福寺(飯沼観音)だ。

祭神は、闇淤加美神(くらおかみのかみ)・志那都比(級津彦)古神(しなつひこのかみ)・志那都比売(級津姫)神(しなつひめのかみ)・阿遇突智神(かぐづちのかみ)などを祀る。
地元では「産土(うぶすな)さま」と呼ばれる神社だ。

圓福寺とともに太平洋戦争で消滅したが、その後の昭和33年に復興した。
社殿正面の銚港神社の署は吉田茂が総理大臣であった時に書いた揮毫だという。

銚子式年神幸祭ではこの神社の前でも神輿の競演が行われると言う。

古い柱の一部?が残されており、真ん中の柱には「龍蔵権・・」の文字が読めます。

境内にある金毘羅神社です。海運の守り神ですね。

