フクロウの神社(鷲子山上神社)

 茨城県と栃木県の県境の山に少しかわった神社が鎮座しています。
テレビ「なにこれ珍百景」に登場した神社です。
登場した理由は神社が2つの県にまたがっているからです。

鷲子山上神社は「トリノコサンジョウジンジャ」と読みます。

この神社は、以前からもとても興味があり、今年の1月に「鷲の話」特集で紹介しました

その時の話は「鷲」「鳥」「酉(とり)」などと名前のつくところは、阿波(徳島)忌部(いんべ)氏と関係が深いということです。
それらの神社の祭神は「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」です。

神話では、天照大神が天岩戸に隠れてしまったために、この世は闇になり、天照の気を引くために岩戸の前で奏でた楽器に鷲が飛んできてとまります。
そのため、この楽器を演奏していたの人を「天日鷲命」と名付けたわけです。

そして、どういうわけだか全国にたくさんある「鷲神社」をワシジンジャといったりトリジンジャと言ったりしているのですね。

そして、ほとんどの所が産業振興の願い事をかなえてくれるというところが多いようです。
「酉の市」も熊手で商売繁盛ですね。

この辺りは前も書いたと思いますので、今回はこの神社が「フクロウ神社」として有名になっているところを紹介します。


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神社入り口の上り階段の真中に「県境」の立て看板が置かれています。
茨城県側は旧美和町(現常陸大宮市)、栃木県側は旧馬頭町(現那珂川町)となっており、社務所も両県にそれぞれあるといいます。

さてこれだけでもめずらしいのですが、ここはその他いろいろと興味をそそられる神社です。

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境内の手水鉢のところにある「フクロウの石像」です。水を2回かけて、手でフクロウの頭を良くなでてあげましょう。幸せになれるそうです。

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さてこちらは福亀です。石畳を亀の形でかたどって幸せがやってきそうですね。

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こちらは神社拝殿につながる石段です。中間部に楼門があります。
階段の数が96段で、往復すると2x96でフクロウ=不苦労ですね。

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神社の上に登ると、ここには樹齢1000年といわれる杉の木が聳えています。

さて、最近には神社の入口の反対側にとても大きな金色フクロウの像があり、こちらをフクロウ神社とも言われているようですが、私はあまり新しいものには興味がなくお参りしていません。

お土産も、フクロウのかわいらしいものが多くありました。

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鷲子・美和・高部 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/10/08 19:18

紙街道

 今日は先日紹介したフクロウの神社(鷲子山上神社)の続きです。

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 鷲子山上神社の楼門。1552年の建築でとても見事なものです。

しかし、テーマは紙街道(和紙)です。

この鷲子(トリノコ)から美和を経由して常陸大宮を通って常陸太田へ出る国道293号線は江戸時代には「紙街道」とも呼ばれた道でした。

それは、この鷲子地方から小瀬地方が良質の紙(和紙)の生産地として非常に栄えていたのです。
和紙はまた久慈川をさかのぼった方でも盛んに紙漉き場があったようです。

ところで、トリノコ紙(かみ)って聞いたことがありますか?
調べてみるととても面白いですね。

鳥の子紙は雁皮(ガンピ)、コウズ、三椏(ミツマタ)などを原料にして作られた高質な和紙の呼び名で名前の由来としては、

「文安元年(1444年)成立の『下学集』では、「紙の色 鳥の卵の如し 故に鳥の子というなり」と説明している。また『撮壌集』には、「卵紙」と表記している」

と書かれています。

しかし、漢字の「鳥の子」に対して「鷲子」とも書くと書かれているものもあります。

一方トリノコ用紙と引くと「模造紙」のことで、愛媛県や香川県などで主にそう呼ばれているそうです。
またその他の地方でも模造紙といわずに、サイズから「B紙」、材料から「ガンピ」などと呼んでいる所もあるそうです。

ではこの模造紙ですが、これは和紙ではなく洋紙で、日本の「トリノコ和紙」を模造して造ったので模造紙といわれていると書かれています。

しかし、漢字の「鳥の子」に対して「鷲ノ子」とも書くと書かれているものもあります。

紙の歴史をたどると、エジプトで発明されたパピルスがもっとも古いとされていますが、現在のように植物繊維を水に溶いて漉く方式の紙は中国で約2000年前に発明されたものです。
日本に入ってきたのは西暦610年頃に高句麗の僧、曇徴によって製紙法が伝達され広まったと伝えられています。

今から1400年くらい前です。

さて、今回のブログの出発点「鷲子山上神社」の創建についての記事を読みなおしてみました。

「大同2年(807)に大蔵坊宝珠上人が諸国遍歴中に四国の阿波国(徳島県)に立ち寄り、製紙業が盛んであることを知り、紙漉きの技術と共に守護神である天日鷲命(あめのひわしのみこと)を勧請し、鷲子山に社殿を建立したのが始まりといわれます。」

となっています。すなわち1400年前に伝わった紙漉き(かみすき)の技術が、四国阿波地方で広がり、それが1200年ほど前にこの地に伝わったことを示す神社と言えます。

そして、この地で製紙産業が盛んになり、紙を水戸や江戸に運ぶ道として現国道293号線は栄えたのです。

この鷲子の和紙は質が良く、明治の選挙の時の投票用紙にも選ばれたとありました。

和紙と鷲なんていうのもダジャレではないですが意味があるのかもしれません。

鳥の子紙は上質の和紙の代名詞となり、その技術が高く評価され、日本政府が1867年のパリと1873年のウィーン万博にこの手漉きの和紙を出品して日本の優れた技術が世界に知られるようになったのです。
特に絵を描いたり、壁紙とするのにとても良かったといいます。

その日本の「鳥の子紙」を真似てオーストリアで模造紙が造られ、今では洋紙が主流になってしまったのです。

ここ鷲子山上神社のある地方が「トリノコ紙」の名前の由来になったとの証拠はわかりませんでしたが、逆にトリノコの名前が先にあって、この地に伝わって地名になったのかもしれません。

むかし、街道に立てられた道標に「はとうからすやまとりのこみち(馬頭・烏山・鷲子道)」も「鳩、烏、山鳥の小路」なんて言われたそうですから、昔から山深い里ではあったのですね。

また、江戸時代には水戸藩指定紙漉き場となり、徳川光圀(水戸黄門)は家来の松之草村小八兵衛(風車の弥七のモデルになったともいわれる人物)の進言で、城内の侍女たちを寒中に見学に遣わして紙の尊さを知らしめたといわれています。この風車の弥七と妻の墓や紙漉き場跡に建てられた紙の資料館もあります。

街道沿いには農協経営の緒川物産センター(農産物直売所)「かざぐるま」もこの名前からとったものでしょう。


(物産センター「かざぐるま」と「紙のさと和紙資料館」(風車の弥七と妻の墓はそのすぐそば))

弥七の墓などは、前にブログで紹介しているので今回は省略します。

また、水郡線(久慈川)沿いの西ノ内では今でも手漉き和紙が作られ、見学・体験・販売が行なわれています。

紙漉き体験は予約が必要ですが、和紙も独特の美しさがあり、展示品を見るだけでも楽しくなります。
袋田の滝見物などの帰りに立ち寄られたら良いと思います。

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鷲子・美和・高部 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/10/12 06:49

三浦杉(1)-(吉田八幡神社)

 常陸大宮市美和地区の鷲子(トリノコ)山上神社を紹介しましたが、そのすぐ近くの神社にとても立派な杉の木(三浦杉)があります。
茨城の人には是非知っておいてほしいと思う木です。
4月に一度紹介しています(こちら)が、さわりだけでしたのでもう一度紹介しましょう。

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神社前の石段をはさみ両側に高くそびえる二本の杉が「三浦杉」です。
樹齢がおよそ800年~1000年くらい 樹高58m、枝下29m 周囲10m しかも空洞 屈曲がないみごとな巨木です。

この杉の由来として書かれていることは

「久寿二年(1155)相模(神奈川県)の住人三浦大介基安が勅命により下野国那須野(栃木県那須町)の悪狐征伐を祈願して社前に杉を植え「われ冥護により よく武運を果し 心願を成就せば この杉 天にそびえよ」と述べ、山岳つらなる那須野ヶ原に向い みごとに悪狐を退治しました。
それから半年後、基安は再び小田野にみえ悪狐退治の報告を吉田神社にしました。
この杉は最初は鎌倉杉と呼ばれていましたが、徳川光圀公が御参拝のとき、この杉の偉大なことを賞賛し、杉の由来をきき「しからば三浦杉と称するがよからん」といわれ、それから三浦杉というようになったそうです。(昭和6年県の天然記念物に指定 茨城百景)」

となっています。

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私がここに書かれている内容を現地で読んだのは今から2年ほど前です。
そして、書かれた内容を読んで「へ~。そうなんだ。」という感想しかなかったのです。
しかし、このものすごいパワーを持った杉の木には圧倒されたのです。

そして、わけのわからない三浦などという武将の名前でなく「鎌倉杉」の方がいいんじゃないかなどと考えていました。

しかし、この三浦大介を調べていくとこの名前を光圀がつけたというのもわかる気がしてきました。

どういうことかって?

それは、少し長くなるので次回に回します。
調べるのも時間がかかりますが、まとめるのはもっと大変です。

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吉田八幡神社の拝殿と本殿。祭神は日本武尊と誉田別尊。
創建は、鷲子(とりのこ)山上神社と同じ大同2年(807)といわれ、八幡神社といわれていたが、徳川光圀公が参拝の折、吉田神社に変更され、昭和になって「吉田八幡神社」と改められたそうです。
社殿は寛永13年(1636)の造営で、二間社流唐破風造りで彫刻もきれいです。

この杉にまつわる話は、明日へ続きます。

さて、この前に書いた「紙街道」の記事が「和紙の職人.com」というサイトに紹介されました。
紹介記事は(こちら)です。毎日のように関連記事を集めて紹介されているようです。
和紙の温かみはいいですよね。
サイトを見て「頑張っているな」って応援したくなりましたのでこちらでも紹介しました。



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鷲子・美和・高部 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/10/13 19:12

三浦杉(2)-悪狐(九尾の狐)

さて、「三浦杉」の話の続きです。

この三浦杉の名前の由来となった「三浦大介基安」の退治した那須の悪狐の話だが、調べてみるととても面白い。
悪狐と書いて「あっこ」と読むというのだが、これは日本最強、いや東洋最強の妖怪「九尾の狐(きゅうびのきつね)」(尾っぽが九本ある)の事を指すらしい。那須の殺生石の由来の伝説に登場する妖怪であった。

この妖怪狐は中国から始まり、インド、日本、韓国にまで広く伝説として伝わっているという。
韓国では「クミホ」と呼び今年TBSで放送された「僕の彼女は九尾狐(クミホ)」という韓流ドラマにもなった。

皆絶世の美女に姿を変え、国の帝の寵愛を受けその国をのっとって魔界をつくらんとしたものばかりだ。
では雑学として簡単に調べた内容を紹介しましょう。

1)中国の殷国の時代最後(紀元前11世紀頃)にこの九尾の狐が絶世の美女「妲己(だっき)」に化け、国王の寵愛を受けるが、国王は妲己の気を引くために欲望の限りや残虐な見せしめなどを行うようになってしまいます。
この欲望の限りは後に「酒池肉林」などの語源として伝わっていきます。
しかし、この悪徳政治は武王の反乱で終わりを告げ、捕らえられた妲己は打ち首となるのですが、斬首の執行人はあまりの妖気に刑を執行できないでいました。
そこで登場するのが釣りでおなじみの「太公望」です。太公望は周の武王を補佐していた軍師で、妖怪と見破った太公望が「照魔鏡」をかざすと九尾の狐の姿を現し、雷雲が天をかけめぐり、飛び去ろうとしました。
逃さじとばかり、太公望が投げた宝剣が体に当たり、体は3つに割れて死んだといいます。

2)しかしこれで、この妖怪は滅びていなかったのです。次は天竺(インド)です。
中国の九尾の狐が滅んだ700年後に隣のインドに再び現れたのです。
今度はの耶竭陀(まがだ)国の華陽という美女として登場します。やはりここでも九尾の狐に操られた王子が100人もの人民を惨殺してしまいます。
これを救ったのは名医の耆婆(きば)で、正体を見破り霊験あらたかな杖を使って体を打つと、正体をあらわして北の空へ飛んで逃げていったのです。

3)次は再び中国です。
周の武王が国を治めて12代目の幽王の婦人となった「褒似(ほうじ)」がこの九尾の狐といわれています。褒似が笑わないので、笑わそうと唯一笑ったという「敵が侵入してきたときに上げる狼煙」を何度も打ち上げます。
 狼少年と同じく、誰も信用されなくなり、本当に敵が攻めてきた時に見方が集まらずに滅びたといいます。この褒似もここで死にます。

4)日本にやってきたのは聖武天皇の頃に、若藻という名前の美少女がひそかに遣唐使の帰国船にまぎれこんで博多にやってきて姿をくらまします。
それから350年後、捨て子と姿を変えたこの狐は北面武士に拾われて「藻(もくず)」と名づけられ、成長していきました。

そして18歳になった時に宮中に仕えると、たちまちその美貌で鳥羽天皇をとりこにしてしまいます。
そして「玉藻前(たまものまえ)」と呼ばれます。
しかし、天皇は病に罹り、この寵愛が深まるにつれ、天皇の病は重くなっていきました。

そこで登場するのが陰陽師安倍泰成(晴明の子孫)で、この玉藻前が妖怪であると見破ります。
見破られた九尾の狐は姿を現し辰巳の方角に姿をくらましてしまいました。
都から逃れた九尾の狐は下野国那須野でか弱い娘に姿を変え、十念寺の和尚をたぶらかして食べてしまいます。
ここでの悪さを知った那須野領主の要請で、鳥羽上皇は陰陽師安部泰成を軍師として三浦介義明と上総介広常を将軍に8万の軍勢が那須野に悪狐(九尾の狐)退治に派遣されました。
しかし、九尾の狐の術に翻弄された軍勢は多くの戦力を失ってしまいました。

はて、やっとここでこの「三浦杉」の出番です。でも一般の説明には出てこないので、勝手な想像も加わっています。
まあ妖怪退治でもあり、色々な読み物などとなっていくうちにストーリーは変化しているでしょうからこれもありでしょう。

 さて、この悪狐退治に登場する「三浦介義明」は横須賀に城を持っていた三浦半島を領地とする豪族です。

この三浦杉に伝わる話は「那須野の悪狐(あっこ)退治に苦戦していた三浦大介基安が供のもの4人を従えて、この神社(八幡神社)にお参りし、悪狐退治の武運を祈願したとあります。名前は少し違いますが三浦介は三浦大介とも称していたので同じ人物でしょう。
この人物の紹介は少し後に譲って、この話の続きですが、三浦介と上総介はその後、犬の尾を狐の尾と見立てて訓練をして、三浦介の射た2本の矢で九尾の狐を射止めます。
(さて、この犬での稽古が、後の鎌倉時代の武家社会で行われた「犬追物(いぬおうもの)」などのはじまりといわれるので、現在の全国の愛犬家たちには考えられない残酷なことですね。)

三浦大介は那須で悪狐を退治して、半年後にこの八幡神社に勝利の報告をして、子孫がこの地に住み着いたとも言われています。

さて、話が長くなってしまいました。 また明日に続きます。

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この神社への上り階段は、今は上から枝などが落ちてくると危険ということで、平成13年から通行止めとなっています。参拝客用に、この階段の下で遙拝所が設けられています。

しかし、最初はこの拝殿まで登ることができないと思っていましたが、階段を使わずに、遠回りをして登れます。

通行止めになっていない時は、地区の小学生の遠足などにきて、子どもたちが手を繋いで木の幹の大きさを確かめたと地元の方が話してくれました。

石岡にも樹齢1300年の「佐久の大杉」という県指定天然記念物がありますので、大切に保護したいですね。
この佐久の杉は大分樹勢が衰えていますが、こちらの杉は途中にコブもなく見事に真っ直ぐに天に向かってのびています。本当に見事な杉です。

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鷲子・美和・高部 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/10/14 18:54

三浦杉(3)-三浦介と源頼朝

さて、この話(三浦杉)はまだ終わりではありません。今日が最後で三回目です。
この三浦杉を三回にも分けて紹介することになるとは最初は思いませんでした。
歴史も調べると知られていないことがたくさんあって面白いものなんですね。

歴史の知識も中途半端で、調べる時間が限られており、全てが中途半端になってしまうことは残念ですが、このブログでは埋もれた歴史を掘り起こして、その時に人々がどんな暮らしをしたり考えていたのかなどがそこに行ってみた景色と重なっておぼろげながら見えてくるのが楽しみなのです。

こんなことを掘り下げるなんて事は、やはり少し変わっていますね。

さて、三浦介(みうらのすけ)と上総介(かずさのすけ)の活躍で退治された(白面金毛)九尾の狐は巨大な毒を出す石(殺生石)に変わり、今度はそこに近づく住民を始め、やってきた多くの高僧たちををその毒で何人も殺してしまいます。
(実際は温泉地の近くですから硫化水素のガスをたくさん出していたのでしょう)

三浦介たちが悪狐を退治してから200年以上経った南北朝時代に会津の喜多方に示現寺という寺を再興した高僧の「源翁(玄翁)」が1385年8月にこの殺生石を破壊してこの殺生石が各地に飛散し、毒は小さくなったといわれています。

この「玄翁」の名前からトンカチ(金槌)のことを「げんのう(玄能)」と呼ぶようになったそうです。

さて、この全国に散らばった殺生石ですが、どういうわけか「高田」という地名のところに飛んでいったといわれています。

美作国高田(岡山県真庭市)、越後国高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)(一説には美作高田)、豊後国高田(大分県豊後高田市)などです。どういうわけでしょうか。今はわかりません。
そのうちに何かと関連してくればわかるかもしれません。

ところが、この悪狐(九尾の狐)ですが、江戸時代の娯楽の対象として浮世絵、歌舞伎、神楽、読み物などにたくさん登場するのです。
庶民にとっては中国、インド、日本と三国を股にかけ、美貌の化け狐が大立ち回りをして退治される話は爽快な気分となって楽しむことが出来たのでしょう。

また、那須に近い黒磯駅で2005年まで売られていた駅弁「九尾の釜飯」は益子焼の容器が使われていたそうです。現在は高速道路の上河内SA(下り線)のレストランで復活して駅弁ではないですが食べることができると書かれていました。

この日本の九尾の狐といわれる「玉藻前」は鳥羽上皇の寵愛を受けた藤原得子(ふじわらのなりこ)、後の美福門院(びふくもんいん)がモデルといわれています。このあたりも知っておくと面白いのかもしれません。

ここまでが、調べると出てくるのですが、まだ疑問が残ります。これは伝説のお話です。本当は何があったのでしょうか。

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 (吉田八幡神社入り口の鳥居)

水戸光圀が三浦杉と命名した「三浦(大)介」とはどんな人物なのでしょうか。興味がわきますね。

この三浦氏は桓武平氏系の坂東八平氏の一つです。ですからもとは平氏ですね。
しかし、源氏の祖である八幡太郎義家の奥州征伐である前九年の役での功績を認められ、相模国の三浦半島に領地を与えられ、後三年の役でも功を立て、三浦介(みうらのすけ)を称し相模の東(衣笠城)と安房(千葉)に領地を持つ大きな勢力になっていきました。

1180年に源頼朝が伊豆で挙兵するとこれに応じて、三浦大介義明は頼朝側にて挙兵し、衣笠城から出陣します。
しかし、途中で、石橋山の戦で頼朝が破れたことを知り、衣笠城に戻って篭城。
そして、敵方の畠山重忠に追い詰められ、一族を安房へ逃がし(頼朝も何とか難を逃れて真鶴岬から安房に渡りました)、1人城に残って戦死(89歳)したとされる人物です。

もう1人の上総介広常も平姓ですが、頼朝の挙兵の時に大いに活躍した人物です。
広常の加担がなければ頼朝の挙兵は失敗していただろうといわれています。

以前に石岡の大矢橋事件を取り上げた時(こちら)に佐竹義政を大矢橋の上で斬った人物です。

しかし、大きな力を持っていた広常を恐れた頼朝は謀反の疑いがあるとして、梶原景時に命じて殺させてしまいました。
しかし、実際には謀反の疑いが間違いであったことがわかり頼朝は非常に後悔したといわれています。

さあ、この二人に陰陽師を加えて、九尾の狐の物語は出来ているのです。陰陽師も時代は合いませんが、有名な安倍清明であるとの話になっているものもあります。

江戸時代にはこの「三浦介」なる人物は人気があったのかもしれません。
でなければ「三浦杉」などと命名しないのではないでしょうか。
それまで呼ばれていた「鎌倉杉」でいいですよね。

もう一つこの神社で不思議なのは神社の名前です。
最初は「八幡神社」だったようです。八幡神社は全国に1万以上はあり、多くは武士の守り神として鎌倉時代に建てられたものでしょうが、ここの創建はそれより300年くらい前の807年です。

それが三浦杉の名前に変わった時に「吉田神社」と改名しています。いまは氏子さんたちの要望で「吉田八幡神社」というそうです。

この「吉田」とは何でしょうか。常陸平大掾氏の一族である「吉田氏」と関係するのでしょうか。
吉田氏であれば行方氏や麻生氏などとも繋がりが出てきます。
常陸平大掾であった平為幹(ためもと)の次男(清幹)が興した氏です。
この清幹の娘が源義業に嫁いでおり、ここから佐竹氏が発生していきます。

この神社との繋がりは調べたけれどよくわかりません。ここの地名は「小田野(宿)」です。
宮司さんは「高野」姓で江戸時代から続いています。

調べているうちに、もう一つ少し面白いことがわかりました。
この悪狐の話をもとに「悪狐伝(あっこでん)」という神楽が安芸高田市(広島県)に伝わっています。
この地は毛利元就が治めた土地で「吉田町」といいます。

何か関係あるのでしょうか。
毛利元就が小さなところから中国全体(特に広島)を制した非常に優秀な武将がこの地で城を構えていたのです。
そして、常陸国の宍戸氏が安芸に渡って土着した安芸宍戸氏と手を組んで広島全土を手中に収めたのです。

意外に日本も狭いですね。こんなところに身近な宍戸氏の名前が出てくるなんて思いもしませんでした。

そして江戸時代の広島藩と常陸の真壁藩や笠間藩は赤穂の浅野家の歴史を見ると皆つながってきます。
これも面白い事柄ですね。

もしここを訪れるなら春の桜の頃か、麓の駐車場のわきにアヤメ公園がありますのでアヤメの咲く頃がよさそうです。

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(2011年4月16日撮影。三浦杉公園)

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鷲子・美和・高部 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/10/15 10:18

諏訪神社(高部)

 和紙産業の守り神の鷲子(トリノコ)山上神社、九尾の狐退治の伝説を秘めた三浦杉の大木が聳える「吉田八幡神社」と見てきましたが、この二つの神社の創建は共に西暦807年とされています。

しかし、この地方は戦国時代には佐竹派の高部(たかぶ)氏が城を構えておりました。
その城のあった場所が吉田八幡神社の裏山です。
この裏山の東側の麓が高部氏の氏族が住んでいた場所で、ここに西暦806年に諏訪大社より八坂刀売命(やさかとめのかみ)を分遷した「諏訪神社」が鎮座しています。

この諏訪神社が高部氏の守り神だったと伝えられています。

諏訪神社には美和中学校からタバッコ峠に向かう道(県道32号線)から「尺丈山」への道の分かれ道にあります。
戦国時代にはこの山の中に大きな「高部城(館)」がありました。この城は、佐竹義胤の五子景義が鎌倉時代に築城し、初代高部(たかぶ)氏となりました。
そして、戦国時代には佐竹氏の重要な城の一つとなったのです。

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神社入り口(一の鳥居)は石橋がありとても落ち着いたすてきな入口です。

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二の鳥居から神社には木々の中を石段を少し登っていきます。

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この参道には狛犬があり、この狛犬もとても姿がいいです。

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神社の本殿は嘉慶元年(1387)6月、落雷により消失したが再建造営され、現在の本殿は、享保6年(1721)7月完成されたもので、「二間社流造銅版葺、向拝唐破風、前面二扉、間口二間、奥行二間、彫刻彩色あり優美である。」と書かれていました。

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彩色豊かな武者絵でしょうか。数枚の額が掛けられていました。

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さて、神社手前脇の道を進むと「尺丈山」に行きます。
この山も鷲子山の嶺続きで、栃木県那珂川町との県境の山です。

登山口より往復で1時間程度の山であり、頂上からの眺めがとてもすばらしく、天気が良ければ日光連山から富士山まで眺めることができるというので地元では人気のある山だといいます。

尺丈山の名前の由来は、昔親鸞聖人の孫の如真上人が布教の途中、この山の祠に錫杖を忘れたことから名付けられたと地元の地史には紹介されていますが、タバッコ峠もここでタバコを一服したなどの紹介まであればあまり信用はできません。

しかし、この山は百樹の森整備事業として「21世紀の子供たちに森を引き継いでいきたい」と20年計画で平成9年度より、地元(旧美和村)と住民が一体となった森の整備(植樹)活動を行っています。
途中の山火事にもめげず一帯が森林公園として整備が進んでいます

またビジョン美和の森では赤ちゃん誕生記念植樹活動なども行っているようです。
また花立自然公園などと合わせて「茨城森林浴コース100」に選ばれています。




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鷲子・美和・高部 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/10/16 10:01

常陸大宮市高部の街並み

常陸大宮市(旧美和町)に高部(たかぶ)という集落がある。
美和と言ったほうがわかる人も多いだろう。
ここには戦国時代には山の上にかなり賢固な高部城があったという。

この城は佐竹義胤の五子景義が鎌倉時代に築城し、初代高部氏となったと言われている。
戦国時代の佐竹氏の重要な城の一つであったようである。
この城の麓に諏訪神社があり、これは前にHPの方で紹介した。(こちら

今回大子町に行った時に少し寄り道してきました。

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美和にある「鷲子」(とりのこ)の交差点を東(右)に曲がると美和小学校の手前で左に曲がると諏訪神社や尺丈山またはタバッコ峠経由で大子町栃原に行く。

しかし、曲がり道を曲がらずにまっすぐの街道沿いに高部のかなり見ごたえのある街並みが残されている。

町並みに興味のある人にはたまらない隠れた場所かもしれない。
バスなどで行くには不便で、ネットでの露出度も少なく、何か用事でもなければ来ることも希な場所に違いないと思う。

通りの両側に大きな蔵など歴史を感じさせる建物が並ぶ。
山のふところに抱かれたひっそりとした街並みは少しの範囲だけだが見ごたえのある街並みであった。

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少し行くとすぐ右側にこの3階建てのシンボル的な建物が目に飛び込んできました。
どこかで見たことがあるような建物です。
まず思い浮かべたのが小江戸川越のシンボル時の鐘です。

充分これも観光のシンボルになります。

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門は閉まっていましたが、敷地の中は大きな酒造工場の建物がありました。

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この建物に続く板塀もこの山あいの街にマッチしています。

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建物の一番上に「花の友」と書かれていたので調べてみてこの建物の概要がわかりました。
花の友というのは旧(有)岡山酒造が醸造していた酒の商標だそうです。

(有)岡山酒造の岡山はここの家のお名前で、岡山家はこの地方で和紙作りが盛んであった江戸時代から明治初期まで紙問屋をしていたそうです。

その後酒造りに転業して日本酒造り、梅酒などを造ってきたそうですが現在は廃業しているそうです。

そしてこの建物は水戸偕楽園の好文亭をモデルに明治20年(もう10年くらい後かも?)の築造で「喜雨亭」(きうてい)というのだそうです。
杜甫の詩「春夜喜雨」から名付けたと書かれていました。

1階は今でも週1回程度茶室として利用しているといいます。

昔はここで、歌詠みが行われたといいます。今は地元の方の社交場でしょうか?

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そのまま道を進んで振り返るとこんな町並みです。

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そしてそこに川が流れています。
この橋は「下町橋」(しもちょうばし)というそうです。昭和初期に作られた橋です。
古びた橋の石柱が年月を感じます。

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川はこんな感じです。いかにも山あいの集落だというのがわかります。

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こちらは先ほどの喜雨亭のとなりの門です。

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そのまま戻ると敷地内にある土蔵が見えました。

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この上の写真の真ん中に見える洋風な浅葱色(あさぎいろ)の建物。
この地の登録文化財「間宮家主屋」(3階建)に似ています。
(こちらはタバッコ峠に曲がるところの角にあったはずですが、写真に収めなかった。)

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こちらの入口門。同じ岡山酒造さんの敷地かと思いましたが違うようです。

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門の中に大きな醸造所の建物。大きな煙突が目だちます。
このような煙突は、昔、石岡、高浜にもたくさんありました。
酒造所か醤油工場です。絞り粕を燃やすのだそうです。
今は創業しているところでも、煙突があっても燃やすことはしていません。

岡山酒造さんとは屋号が違います。よくわかりませんが「間宮酒造」さんかもしれません。

(追記)調べたらここは國松家で、明治初期から酒造業を営んでいたそうです。この若草色の建物は築は、明治時代に建てられた郵便局舎だったそうです。(2015.1.11)

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門の手前左手の洋館に受付窓口のような小窓があります。

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そこから西(道の駅みわの方向)を眺めたところです。

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少し戻って曲がり角近くの反対側におりっぱな土蔵がありました。
何をしていたものかはわかりませんが、土蔵店舗ではないですね。

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(サムネルです)

もう一度高部の町並みを撮しています。クリックすると最後の2枚は大きな画像になります。

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(サムネルです)

高部のバス停(タクシー会社前)から町並みを眺めたところです。

間宮家主屋を今度いった時には写真に撮っておきたいと思います。



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鷲子・美和・高部 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/11/26 19:09

高部(常陸大宮市)-間宮家住宅

 半年くらい前にこの県境の町「常陸大宮市高部(たかぶ)の街並み」の記事を書いた。(こちら

その時に写真を撮り忘れた建物があったのを思い出して、近くにまた来たので立ち寄ってみました。

近くを鉄道が走っていないので一時は日本のチベットなどと表現されることまであったというが、これらの建物を見ていると往時の繁栄が蘇る思いがする。

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「間宮家住宅主屋」という国登録の有形文化財です。

浅葱色(あさぎいろ)の3階建てのモダンな建物です。
1902年(明治35年)に建設されたものだといいますから驚きです。
当時としてはとてもモダンな建物です。
隣接する和風の2回建ての建物も同じ時期に建てられ両方を含めた登録となっています。

1902年ですよ。日本が日清戦争(1894-1895年)で多額の賠償金を得て、坂の上の雲を見ながら歩んでいた時代です。
1900年に義和団事件が起こり、1902年1月に日英同盟を結んで、1904年には「ひとつくれよう(1904)露にげんこ」などという激動の時代です。

そんな時代に何故この辺境の街に洋風のモダンな建物が建てられたのでしょうか?

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これを見ると、土浦一高に残されている旧土浦中学校の校舎を思い出します。(記事はこちら

この土浦の校舎が建てられたのは明治37年(1904)です。この高部の方が古いのです。
土浦中学校の校舎を設計したのは駒杵勤治氏で、東京帝大を卒業したばかりの青年です。

駒杵氏はその後常陸太田の旧太田中学校(現太田一高)の講堂も設計しています(明治37年)。

これらには皆窓のデザインなどはすべて共通点があります。

これは何を物語っているのでしょうか。

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茨城県にこの若き建築家「駒杵勤治氏」が多くの優れた建物をこの短い期間にたくさん残しているのですから驚きです。

土浦中学(現土浦一高)本館と講堂、常陸太田の太田中学(現太田一高)の講堂が国の登録文化財に指定されていますが、その他に旧水海道中学の講堂、旧龍ケ崎中学(現龍ケ崎一高)の本館・講堂、高等女学校(現水戸二校)講堂、や水戸商業高校の本館、県立図書館、麻生警察署などもこの駒杵勤治氏による設計と考えられています。

今では残っていないものが多くありますが、写真や設計図などは皆同じ作りであることがわかります。

この高部には同じような建物がもうひとつ残されており、これらの旧制中学校などの建物よりも建築されたのが少し前であることを考えると、この時代に最も最先端のデザイン建築だったのかもしれません。

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こちらの国の登録文化財データベースでは建設の施工者や設計者の名前はありません。
ただ時代を考えるとこの若き天才建築デザイナー「駒杵勤治」とどこかで関係があるのかも知れません。

駒杵勤治(こまきねきんじ)は山形県新庄市の生まれですが、明治35年に茨城県庁に入庁し翌年技師になっています。でも県庁での在職期間はわずか2年3ヶ月です。

調べてみたい人物です。これらの残されている建物を見て回るのも興味が湧きます。
その他の建物の写真などは(こちらのブログ)を参考に見ることができました。

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鷲子・美和・高部 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2013/04/22 19:24

三浦杉とアヤメ公園

 先週また茨城の北の方に行ってきました。常陸大宮市美和にある三浦杉の神社と公園です。

前に九尾の狐(悪狐)の話を書いたところです。(記事はこちら

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(クリックで拡大します)

その神社(吉田八幡神社)の入口にアヤメの公園があります。
少しまだ早かったのですが、アヤメが綺麗でした。

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上の写真の奥が神社の入口です。ここに三浦杉があるのです。
そしてその裏山は昔、高部の館があったと言われています。
高部は前に町並みを紹介しました。(こちら

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遠いのによく来るよね。
石岡からは1時間半以上かかるかな?
4月にも来ました。

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(クリックで拡大します)

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こちらが神社の入口です。
前を年配のこ夫婦が歩いていました。

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このご夫婦は毎日この階段を登ってお参りしているそうです。
すぐ近くの方のようでした。
私が後から上まで登ってハアハアしていたら、奥様に声をかけられました。
「息が切れますか?」って。

私のほうが若いんですよ。
毎日の訓練にはこの階段も鍛えられるようです。ご夫婦は足も軽やかでしたよ。

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(クリックで拡大します)

このまっすぐな2本の杉が三浦杉です。

今はこの神社前の階段を通行止めにして杉の下は危ないので歩けません。
枝が落下して、神社の屋根を直撃し、屋根を片側だけ修理して向かって左半分だけ色が違っていました。

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鷲子・美和・高部 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/05/27 19:04

道の駅みわ

 茨城県西北の美和村は平成の大合併で常陸大宮市美和地区となり、住所も西側が「鷲子(とりのこ)」と東側が「高部(たかぶ)」に区分されている。

ここには鷲子山上神社があり栃木県の那珂川町(旧馬頭町)と那須烏山市と接している。

この三和地区に「道の駅みわ=北斗星」がオープンしたのは1995年(平成7年)だという。
かなり大規模なきれいな「道の駅」であるとオープン当初から話題になった。

この地区は夜には星が綺麗に見える場所であるところから、星を見るイベントなども行われていて、レストランは「北斗庵」トイレは「満てんトイレ」と名づけて客集めをしている。

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どこの道の駅も同じだが、地元野菜などの新鮮野菜を売っている。

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この美和地区は林業の他に「しいたけ」などのきのこ類やお茶などの栽培が盛んで、この時期にはきのこが多く売れれていた。

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この先の馬頭手前にも道の駅があるが、こちらのほうが広くて綺麗なので利用者は多いように思う。
観光バスなども多くがこの道の駅を使っており、このあたりでは成功した道の駅の部類に入るだろう。

石岡にも道の駅の建設計画があるようだが是非客寄せのノウハウを参考にしてもらいたい。

私が観るところでは、以前にも来た時はリンゴなども山積みされていたが、地元でもリンゴ栽培が盛んであるにもかかわらず、長野産のリンゴがケースで売られていた。

現在茨城県には9箇所の道の駅しか設置されていない。大変数が少ないように思う。

造っても客が来ないようではどうしようもないのでぜひ絶えず目新しい工夫をしていけるような組織作りが大切なのではないかと思う。

地元農協などに丸なげでは、たぶんうまくいかないだろう。

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道の駅入口に置かれていた巨大なきのこのオブジェ。

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そのオブジェの脇に置かれていた石碑

「はとうからすやまとりのこみち」

さて皆さんはこれをどのように読みますか?
江戸時代にこの辺の道の案内に置かれていた石碑を模したもののようです。

「鳩、カラス、山鳥の小路」と読んで、旅人がこの道は人間が通るところではないと引き返したのだとか。

「馬頭・烏山・鷲子 道」をひらがなで書いたものだそうです。

そうこの道の駅美和があるのは「鷲子(とりのこ)」という地名です。

詳しくは前に鷲子山上神社を紹介した時に書いています。

ここからはこの道の駅を紹介しようと思ったトイレの紹介です。
(食事中の方はまた終わってからご覧下さい(笑))


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入口に赤いマークで「満てんトイレ」とあります。
向かって右が女性用、左が男性用です。

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この男女それぞれの入口に映画スターの写真が置かれています。
これはユニークですね。

懐かしのスターの写真です。私などには懐かしいのですが、今の人は少し古すぎるかもしれませんね。

天井は満天の星空です。

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これも映画スター=星 を引っ掛けているのだそうです。

さてこの女優さん誰でしょう。 下はオードリーヘップバーンはすぐわかります。
では上は?「グレースケリー」でしょうか?

男性の方は「ジェームスディーン」と「チャップリン」ですね。

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この道の駅の通りの反対側には綺麗に植林されたスギ・ヒンキ林が広がっています。
ここは昔は和紙作りも盛んだったようですが、今ではしいたけやお茶に林業が大きな産業なのです。

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鷲子・美和・高部 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/06/10 20:08
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