小見川に平良文をみる(1)-阿玉台貝塚
千葉県香取市は佐原市と小見川町などが合併してできたが、香取神宮のある佐原は伊能忠敬と小江戸の街並みや水郷などがある観光地ともいえるが、この東側の旧小見川町はかなり趣が違うように思う。
この旧小見川の山側に入った高台に縄文時代の貝塚「阿玉台貝塚(あたまだい)」(国指定遺跡)があると言うので見に行った。

阿玉台貝塚は明治27年に発見された縄文時代中期前半の貝塚だという。
美浦村の陸平(おかだいら)貝塚(縄文時代前期から後期)は明治12年に発掘されたのでその15年後ということになる。
しかし、訪れて見て驚いたのはその場所の標高の高さである。
標高は45~50m程あり、山の上といった感じの場所。
貝塚の層も標高で30~40mくらいの場所だそうだ。
陸平貝塚は標高20~30mで、浮島の広畑貝塚などは2~3mくらいしかない。
しかし時代的には同じようなものだと思う。
すると、縄文海進で海面がかなり高い時代もあったそうだが、こんなに違う物なのか。
それとも千葉の地形はせり上がったものなのか。

この貝塚公園は民有地だそうで、整備もそれほど大掛かりには行われていない。
地元の方たちが保存会で頑張っていおられる様子。

貝塚といっても、このような道が整備されているにすぎない。

道を歩いていたら「夕顔観音塚」という看板が出ていた。かすれてよく読めない。

千葉氏の祖である平良文の墓だと言われている場所だそうだ。
良文が何故この地にこのように出てくるのか少し不思議な感覚をおぼえた。
これは石岡で平国香が語られるのと似ているということか。
平良文(よしぶみ)は高望王の息子だが、国香などと違って側室の子であった。
そして父高望が坂東に下るときに(正室の子供を3人連れてきますが、この良文は側室の子でもありまだ幼かったので共に来ることはなかったのです。
それが坂東八平氏と呼ばれる関東平氏の祖となりあり、特にこの地を支配した千葉氏の祖とされる人物なのです。

しかし、村岡五郎と呼ばれていたように関東では武蔵国村岡(埼玉県熊谷)に移り住んだと言われているが、この小見川にも館があったと言われているという。
または晩年にこちらに移り住んだとも。

少し調べて次回以降に少し自分のメモとして残しておきたい。
平良文の法名は「夕顔観音大士」ということで、夕顔観音については次回以降の樹林寺などのところで説明を加えましょう。
(記事が長くなり少し疲れたので次回に続きます)

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この旧小見川の山側に入った高台に縄文時代の貝塚「阿玉台貝塚(あたまだい)」(国指定遺跡)があると言うので見に行った。

阿玉台貝塚は明治27年に発見された縄文時代中期前半の貝塚だという。
美浦村の陸平(おかだいら)貝塚(縄文時代前期から後期)は明治12年に発掘されたのでその15年後ということになる。
しかし、訪れて見て驚いたのはその場所の標高の高さである。
標高は45~50m程あり、山の上といった感じの場所。
貝塚の層も標高で30~40mくらいの場所だそうだ。
陸平貝塚は標高20~30mで、浮島の広畑貝塚などは2~3mくらいしかない。
しかし時代的には同じようなものだと思う。
すると、縄文海進で海面がかなり高い時代もあったそうだが、こんなに違う物なのか。
それとも千葉の地形はせり上がったものなのか。

この貝塚公園は民有地だそうで、整備もそれほど大掛かりには行われていない。
地元の方たちが保存会で頑張っていおられる様子。

貝塚といっても、このような道が整備されているにすぎない。

道を歩いていたら「夕顔観音塚」という看板が出ていた。かすれてよく読めない。

千葉氏の祖である平良文の墓だと言われている場所だそうだ。
良文が何故この地にこのように出てくるのか少し不思議な感覚をおぼえた。
これは石岡で平国香が語られるのと似ているということか。
平良文(よしぶみ)は高望王の息子だが、国香などと違って側室の子であった。
そして父高望が坂東に下るときに(正室の子供を3人連れてきますが、この良文は側室の子でもありまだ幼かったので共に来ることはなかったのです。
それが坂東八平氏と呼ばれる関東平氏の祖となりあり、特にこの地を支配した千葉氏の祖とされる人物なのです。

しかし、村岡五郎と呼ばれていたように関東では武蔵国村岡(埼玉県熊谷)に移り住んだと言われているが、この小見川にも館があったと言われているという。
または晩年にこちらに移り住んだとも。

少し調べて次回以降に少し自分のメモとして残しておきたい。
平良文の法名は「夕顔観音大士」ということで、夕顔観音については次回以降の樹林寺などのところで説明を加えましょう。
(記事が長くなり少し疲れたので次回に続きます)



小見川に平良文をみる(2)-良文貝塚
阿玉台貝塚の近くに「良文貝塚」というところがあると言うので探した。
途中から少し狭い道で、右手に畑があり左手は森になっている場所だ。
しばらく行くと「史跡 良文村貝塚」との石碑が置かれていた。
良文貝塚だと思っていたが、良文村貝塚となっている。
調べてみるとこの阿玉台村や貝塚村などが合併して明治22年に良文村が誕生し、昭和30年に小見川町と合併するまで存在した村の名前であった。
もちろんこの良文は千葉氏の祖といわれる平良文のことだが、ここでこのように大切にされているとはこの地に来るまで知らなかった。

平良文(たいらのよしぶみ)はこの近くに館を構えていたという。


この良文貝塚は縄文時代中期から後期の貝塚で、ここも標高は40mくらいある。利根川下流で最大の貝塚群で昭和5年に国の史跡に登録された。
この貝塚が広範囲で縄文後期までの長い年代の貝塚群であるということで縄文海進の引き合いに出されるようですが、霞ヶ浦湖岸の貝塚を見てきた感想から言うと、本当にこんなに海面が高かったのどろうかというのが素直な気持ちです。
貝塚では貝以外にもいろいろなものが出土しています。特に人物意匠をもつ香炉型顔面付土器(こちら参照)などは特に珍しい物。
この貝層見学施設となっている白い箱の中にはびっしりと貝層が見られるが、ガラス窓も汚れておりあまり親切な施設とは言えない。

この見学施設は、昔は3か所にあったと言うが今はこの1か所だけ。

(ここからは歴史のメモ程度に、私的なメモ書きです)
平安時代中期に桓武天王のひ孫(または孫)であった高望王(たかもちおう)が宇多天皇より889年に平(たいら)姓をもらって上総介として、上総国にやってきたのが桓武平氏の始まりです。
もう当時の高級官僚である上総介は都にいて現地に来ることは少なくなっていたのですが、高望は上総国(今の千葉県東部、国府:市原)に、正妻の子である国香、良兼、良将を連れてやってきました。
でもこの時には側室の子であった「良文(よしぶみ)」はまだ小さい(3歳くらいだったとか)一緒には来ていないのです。
関東平氏の流れを参考までに少しだけ述べておきます。
高望とその3人の息子たちは、この地を開拓して領地を広げ、この坂東に強力な領地を獲得するに至ります。
高望はその後(902年)に西海道の九州大宰府に移ったようですが、息子たちはこの地で勢力を拡大していったのです。
(菅原道真が大宰府に流されたのは901年ですからほとんど同じ頃です)
さてその後の子供達は、長男国香は当時筑波山南側に広大な領地をもつ前常陸大掾の源護(みなもとのまもる)の娘を妻にむかえて常陸国に勢力をのばし、その後常陸大掾(だいじょう)として君臨します。
(平清盛などの伊勢平氏(平家)もこの国香の系列から分かれたものです。)
しかし弟良将の子である平将門とこの護との領地争い(または護の娘や良兼の娘の争い)などで将門を襲った国香や護の子供たちの襲撃などもあり、将門は反乱をおこし、国香は殺されてしまいます。
次男良兼は父の高望が上総介の任期が切れてもやはり都には戻らず上総介として現地にとどまり、上総から下総にかけて勢力を拡大していきました。
居住していたのは上総国武射郡屋形(現在の千葉県山武郡横芝光町、匝瑳市のとなり)で屋形船などのことばの原型ではないかと言われている(屋形=館)そうです。
さて、この良兼はもともと将門とは不仲だったようで、兄国香が殺され、将門に対して出陣しますが敢え無く敗退。
下野国府(現栃木市)に逃げ込んだが取り囲まれてしまうが、良兼の娘を妻としている将門が一角を開けて逃がした。
その後も二人の争いは続くが、939年に病死します。
では、将門の父である高望王の三男良将(または良持)はというと、やはり下総の未開拓地などを開拓して領地を拡げていったようです。
最初の領地はこの香取市の佐原付近だと言われているようです。しかし正確なことな残っておらず、前に真壁散歩で書いたように猿島地区(坂東市)に屋敷を構えていたと言われています。
また子供の将門が滅んだ後は子孫がほとんど残っていないようです。
ではこの地で祀られている平良文はというと、側室の子であるということや、まだ幼かったということで父高望には同行せず、武蔵国村岡(埼玉県熊谷市村岡)に陸奥守、鎮守府将軍としてやって来て村岡五郎と呼ばれるようになります。
その後、村岡から千葉県東庄町大友に移り、それからこの小見川の阿玉台に館を築いたと言われているのですがこの辺りはどうもはっきりしません。
また、相模国村岡(神奈川県藤沢市)にも領地があり、こちらで亡くなったとする説と、この小見川の阿玉台付近で亡くなったとする説に分かれます。
墓所は神奈川県藤沢市渡内の二伝寺というのがどうやら定説のようですがはっきりしません。
国香や良兼は将門との争いをしますが、この良文はどちらかというと将門の味方と考えられているようですが、将門討伐には加わらず、後に下総国相馬郡を与えられ、坂東八平氏(秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏など)の基礎を築きました。
この千葉県ではやはり千葉氏の祖といわれる人物なのですが、千葉氏についても詳しいことが分からず、謎も多いようです。
夕顔観音の伝説などや良文の名前が残るこの地にどのような事が当時あったのかは興味があります。
夕顔観音などについては次回とします。
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途中から少し狭い道で、右手に畑があり左手は森になっている場所だ。
しばらく行くと「史跡 良文村貝塚」との石碑が置かれていた。
良文貝塚だと思っていたが、良文村貝塚となっている。
調べてみるとこの阿玉台村や貝塚村などが合併して明治22年に良文村が誕生し、昭和30年に小見川町と合併するまで存在した村の名前であった。
もちろんこの良文は千葉氏の祖といわれる平良文のことだが、ここでこのように大切にされているとはこの地に来るまで知らなかった。

平良文(たいらのよしぶみ)はこの近くに館を構えていたという。


この良文貝塚は縄文時代中期から後期の貝塚で、ここも標高は40mくらいある。利根川下流で最大の貝塚群で昭和5年に国の史跡に登録された。
この貝塚が広範囲で縄文後期までの長い年代の貝塚群であるということで縄文海進の引き合いに出されるようですが、霞ヶ浦湖岸の貝塚を見てきた感想から言うと、本当にこんなに海面が高かったのどろうかというのが素直な気持ちです。
貝塚では貝以外にもいろいろなものが出土しています。特に人物意匠をもつ香炉型顔面付土器(こちら参照)などは特に珍しい物。
この貝層見学施設となっている白い箱の中にはびっしりと貝層が見られるが、ガラス窓も汚れておりあまり親切な施設とは言えない。

この見学施設は、昔は3か所にあったと言うが今はこの1か所だけ。

(ここからは歴史のメモ程度に、私的なメモ書きです)
平安時代中期に桓武天王のひ孫(または孫)であった高望王(たかもちおう)が宇多天皇より889年に平(たいら)姓をもらって上総介として、上総国にやってきたのが桓武平氏の始まりです。
もう当時の高級官僚である上総介は都にいて現地に来ることは少なくなっていたのですが、高望は上総国(今の千葉県東部、国府:市原)に、正妻の子である国香、良兼、良将を連れてやってきました。
でもこの時には側室の子であった「良文(よしぶみ)」はまだ小さい(3歳くらいだったとか)一緒には来ていないのです。
関東平氏の流れを参考までに少しだけ述べておきます。
高望とその3人の息子たちは、この地を開拓して領地を広げ、この坂東に強力な領地を獲得するに至ります。
高望はその後(902年)に西海道の九州大宰府に移ったようですが、息子たちはこの地で勢力を拡大していったのです。
(菅原道真が大宰府に流されたのは901年ですからほとんど同じ頃です)
さてその後の子供達は、長男国香は当時筑波山南側に広大な領地をもつ前常陸大掾の源護(みなもとのまもる)の娘を妻にむかえて常陸国に勢力をのばし、その後常陸大掾(だいじょう)として君臨します。
(平清盛などの伊勢平氏(平家)もこの国香の系列から分かれたものです。)
しかし弟良将の子である平将門とこの護との領地争い(または護の娘や良兼の娘の争い)などで将門を襲った国香や護の子供たちの襲撃などもあり、将門は反乱をおこし、国香は殺されてしまいます。
次男良兼は父の高望が上総介の任期が切れてもやはり都には戻らず上総介として現地にとどまり、上総から下総にかけて勢力を拡大していきました。
居住していたのは上総国武射郡屋形(現在の千葉県山武郡横芝光町、匝瑳市のとなり)で屋形船などのことばの原型ではないかと言われている(屋形=館)そうです。
さて、この良兼はもともと将門とは不仲だったようで、兄国香が殺され、将門に対して出陣しますが敢え無く敗退。
下野国府(現栃木市)に逃げ込んだが取り囲まれてしまうが、良兼の娘を妻としている将門が一角を開けて逃がした。
その後も二人の争いは続くが、939年に病死します。
では、将門の父である高望王の三男良将(または良持)はというと、やはり下総の未開拓地などを開拓して領地を拡げていったようです。
最初の領地はこの香取市の佐原付近だと言われているようです。しかし正確なことな残っておらず、前に真壁散歩で書いたように猿島地区(坂東市)に屋敷を構えていたと言われています。
また子供の将門が滅んだ後は子孫がほとんど残っていないようです。
ではこの地で祀られている平良文はというと、側室の子であるということや、まだ幼かったということで父高望には同行せず、武蔵国村岡(埼玉県熊谷市村岡)に陸奥守、鎮守府将軍としてやって来て村岡五郎と呼ばれるようになります。
その後、村岡から千葉県東庄町大友に移り、それからこの小見川の阿玉台に館を築いたと言われているのですがこの辺りはどうもはっきりしません。
また、相模国村岡(神奈川県藤沢市)にも領地があり、こちらで亡くなったとする説と、この小見川の阿玉台付近で亡くなったとする説に分かれます。
墓所は神奈川県藤沢市渡内の二伝寺というのがどうやら定説のようですがはっきりしません。
国香や良兼は将門との争いをしますが、この良文はどちらかというと将門の味方と考えられているようですが、将門討伐には加わらず、後に下総国相馬郡を与えられ、坂東八平氏(秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏など)の基礎を築きました。
この千葉県ではやはり千葉氏の祖といわれる人物なのですが、千葉氏についても詳しいことが分からず、謎も多いようです。
夕顔観音の伝説などや良文の名前が残るこの地にどのような事が当時あったのかは興味があります。
夕顔観音などについては次回とします。


小見川に平良文をみる(3)-樹林寺
小見川駅方面から阿玉台貝塚を目指していく途中にこの白華山樹林寺がある。
入口に「夕顔観世音根本霊場」と書かれた大きな看板があり立寄った。
平良文は天暦6年(952)に66歳でこの地で亡くなったとこの辺りでは語られているのですが、晩年は朝に咲いて華やかな桔梗(将門の愛妾の名)よりも、黄昏に匂う夕顔を愛したのだといいます。
そして、死に際して子の忠頼に「夕顔を割ってみよ。そこに私の化身があるはずだ」と遺言したと言う。
そして、実際にその後夕顔の実(瓢)から良文の化身として観音像が現われたと伝えられ、その後、亥鼻城を築いて実質的な千葉氏の基礎を固めたとされる千葉常重の代になって、大治元年(1126)に常重の夢枕に「祖、良文の念持仏である夕顔から出現した夕顔観世音菩薩を本尊を祀れ」とのお告げにより、この樹林寺を建立したという。

この樹林寺は創建時は真言宗でしたが、臨済宗に変わったそうです。
この五郷内地区では「夕顔(干瓢)を食さない」という言い伝えがあるそうです。
この寺は紫陽花も有名らしいのですが、ここを訪れたのは5月の事でまだ咲いていませんでした。
紫陽花を「愛慈妻」と書いているとありました。そうですね。「妻を愛で慈しむ」と言うのもよいですね。

本尊の夕顔観音は公開されていないために見ることができません。
明治4年に本堂が火災で焼けてしまいました。






千葉にはこのほかに夕顔観音に関するいろいろな話が伝わっている。
葛飾区西水元の安福寺:
飯塚村の名主・関口治左衛門が自宅近くの老松の根元から夢のお告げにより観音像が出てきた。
この観音像は鎌倉時代の作とおもわれ、「夕顔観音」として堂宇を建てて祀った。
その後明治になって西水元の安福寺におかれるようになったという。
足立の瑞応寺:
千葉介の千葉常胤の娘に夕顔姫がいた。この寺はこの夕顔姫の菩提をとむらうために建てられたという。
そして夕顔観音を本尊としている。
千葉常胤の羽衣伝説:
天女の羽衣を見つけた武将、幾年か天女とともに暮らす。数年たち、天女は天上に戻る。が、武将がなくなったとき、天女地上に現れ、ともに天上の国に。そのとき、一粒の「夕顔」の種を落としていく。その種を拾った子供が種をまくと、すくすく育ち、中から観音さまが。「夕顔観音」と名付ける。この夕顔観音を護り本尊とした子供は大きくなり、立派な武将に成長。それが千葉常胤であるという伝説。
どうもこのような話を見ていくと千葉氏の本当の素性に何か隠されたものがあるのではないかと言う気がしてくる。考えすぎなのか?
側高神社にいって感じたことに近い感覚がある。
いろいろと調べていくうちに少しずつわかってくるのかもしれない。
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入口に「夕顔観世音根本霊場」と書かれた大きな看板があり立寄った。
平良文は天暦6年(952)に66歳でこの地で亡くなったとこの辺りでは語られているのですが、晩年は朝に咲いて華やかな桔梗(将門の愛妾の名)よりも、黄昏に匂う夕顔を愛したのだといいます。
そして、死に際して子の忠頼に「夕顔を割ってみよ。そこに私の化身があるはずだ」と遺言したと言う。
そして、実際にその後夕顔の実(瓢)から良文の化身として観音像が現われたと伝えられ、その後、亥鼻城を築いて実質的な千葉氏の基礎を固めたとされる千葉常重の代になって、大治元年(1126)に常重の夢枕に「祖、良文の念持仏である夕顔から出現した夕顔観世音菩薩を本尊を祀れ」とのお告げにより、この樹林寺を建立したという。

この樹林寺は創建時は真言宗でしたが、臨済宗に変わったそうです。
この五郷内地区では「夕顔(干瓢)を食さない」という言い伝えがあるそうです。
この寺は紫陽花も有名らしいのですが、ここを訪れたのは5月の事でまだ咲いていませんでした。
紫陽花を「愛慈妻」と書いているとありました。そうですね。「妻を愛で慈しむ」と言うのもよいですね。

本尊の夕顔観音は公開されていないために見ることができません。
明治4年に本堂が火災で焼けてしまいました。






千葉にはこのほかに夕顔観音に関するいろいろな話が伝わっている。
葛飾区西水元の安福寺:
飯塚村の名主・関口治左衛門が自宅近くの老松の根元から夢のお告げにより観音像が出てきた。
この観音像は鎌倉時代の作とおもわれ、「夕顔観音」として堂宇を建てて祀った。
その後明治になって西水元の安福寺におかれるようになったという。
足立の瑞応寺:
千葉介の千葉常胤の娘に夕顔姫がいた。この寺はこの夕顔姫の菩提をとむらうために建てられたという。
そして夕顔観音を本尊としている。
千葉常胤の羽衣伝説:
天女の羽衣を見つけた武将、幾年か天女とともに暮らす。数年たち、天女は天上に戻る。が、武将がなくなったとき、天女地上に現れ、ともに天上の国に。そのとき、一粒の「夕顔」の種を落としていく。その種を拾った子供が種をまくと、すくすく育ち、中から観音さまが。「夕顔観音」と名付ける。この夕顔観音を護り本尊とした子供は大きくなり、立派な武将に成長。それが千葉常胤であるという伝説。
どうもこのような話を見ていくと千葉氏の本当の素性に何か隠されたものがあるのではないかと言う気がしてくる。考えすぎなのか?
側高神社にいって感じたことに近い感覚がある。
いろいろと調べていくうちに少しずつわかってくるのかもしれない。


小見川に平良文をみる(4)-来迎寺
今日は良文貝塚近くの来迎寺を紹介します。
東光山宝樹院来迎寺 浄土宗鎮西派の寺です。
ここには鎌倉将軍3代の墓碑がある。
全国に来迎寺という名前の寺は数多くあるという。
鎌倉にも2か所あり、多くが阿弥陀如来を祀っているようだ。

阿玉台貝塚から良文貝塚に向かう途中にこの比較的大きな寺があります。
一般に寺などは道路より高い場所にあるのが普通ですが、ここは貝塚の道路が比較的高いところを通っており、階段で一旦下に降りる様に寺の入り口につながっています。
山谷が入り乱れて、比較的起伏の激しいところです。

寛治2年(1088)に千葉常将が東庄町平山に創建し、建久9年(1198)に明恵上人がこの地に移転したと言われています。

鐘楼堂。

本堂


阿弥陀三尊の板碑(黒雲母)。鎌倉時代後期 嘉元四年(1306)の銘がある。
頭に頭光を負った観音菩薩像が三体彫られている。
この寺にはその他に阿弥陀一尊種子板碑(梵字)がある。

この阿弥陀三尊の後ろに「松平外記頭伊昌(これまさ)の室おふうの方の墓碑」がある。
この「おふう」は酒井忠次の娘で、徳川家康の養女となった娘である。
おふうは浄土宗に帰依し、遺言によって当寺に遺髪を葬り石碑を建立したという。
またここに鎌倉三代(源頼朝、頼家、実朝)の墓碑がある。
これは鹿島神宮に参拝した源頼朝がこの寺で休憩し、建久9年(1198)にこの地に移したのは頼朝の鹿島神宮参拝の際に頼朝が深く帰依していた明恵上人を開山上人として置いたものとも言われている。
かなりの有力寺院であったことが分かる。

五地蔵の左端にあるのが「神野角助の墓である宝筐印塔」
私はよく知らないが、神野角助という人物はこの辺りの土地の有力者で、海上氏の嫡流であったが家督を離れ神野氏となり、小見川の松平家忠と親交が深かったという。
この場所には神野角助の陣屋があったようだ。

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東光山宝樹院来迎寺 浄土宗鎮西派の寺です。
ここには鎌倉将軍3代の墓碑がある。
全国に来迎寺という名前の寺は数多くあるという。
鎌倉にも2か所あり、多くが阿弥陀如来を祀っているようだ。

阿玉台貝塚から良文貝塚に向かう途中にこの比較的大きな寺があります。
一般に寺などは道路より高い場所にあるのが普通ですが、ここは貝塚の道路が比較的高いところを通っており、階段で一旦下に降りる様に寺の入り口につながっています。
山谷が入り乱れて、比較的起伏の激しいところです。

寛治2年(1088)に千葉常将が東庄町平山に創建し、建久9年(1198)に明恵上人がこの地に移転したと言われています。

鐘楼堂。

本堂


阿弥陀三尊の板碑(黒雲母)。鎌倉時代後期 嘉元四年(1306)の銘がある。
頭に頭光を負った観音菩薩像が三体彫られている。
この寺にはその他に阿弥陀一尊種子板碑(梵字)がある。

この阿弥陀三尊の後ろに「松平外記頭伊昌(これまさ)の室おふうの方の墓碑」がある。
この「おふう」は酒井忠次の娘で、徳川家康の養女となった娘である。
おふうは浄土宗に帰依し、遺言によって当寺に遺髪を葬り石碑を建立したという。
またここに鎌倉三代(源頼朝、頼家、実朝)の墓碑がある。
これは鹿島神宮に参拝した源頼朝がこの寺で休憩し、建久9年(1198)にこの地に移したのは頼朝の鹿島神宮参拝の際に頼朝が深く帰依していた明恵上人を開山上人として置いたものとも言われている。
かなりの有力寺院であったことが分かる。

五地蔵の左端にあるのが「神野角助の墓である宝筐印塔」
私はよく知らないが、神野角助という人物はこの辺りの土地の有力者で、海上氏の嫡流であったが家督を離れ神野氏となり、小見川の松平家忠と親交が深かったという。
この場所には神野角助の陣屋があったようだ。



小見川に平良文を見る(5)-豊玉姫神社
良文貝塚のすぐ近くにこの「豊玉姫神社」がある。
名前の通り豊玉姫を祀る。安産の神として知られる。
豊玉姫は海神(わたつみ)の娘で、海幸彦と結婚して神武天皇の父である鵜葺草葺不合神(アマツヒコナギサタケ)を産む。
この海神のいたところは九州南部と考えられており豊玉姫を祀る神社は九州に多く、鹿児島県知覧町、指宿市、佐賀県嬉野市や四国などに有名な神社は集中している。
その中でこの千葉県香取市の豊玉姫神社は少し特異な感じがする。
徳島県にも多いので阿波からここに移り住んできた人びとがもたらしたと考えるのが常套であろう。
貝塚があるため、この内陸部まで内海で広がっていた地形を想像してみるが、どうも今の地形からはあまり想像できない。
そこでまた、Flood Mapsで海面を7m上昇させて地形を見てみた。

やはり千葉県のこの辺りに大きな内海が現われた。
この内海の海岸付近にたくさんの人が暮らしていたのだろう。
そして貝塚はどういうわけか裏山の比較的高い所に積み上げられた。
何十メートルも海面が高いのではなく、5m~7m程度なのかもしれない。
ここに海洋族が九州から四国そして黒潮に乗ってこの安房国にやってきた。
そして小舟を操り海と共に生活していた。兎上国(うみのうえこく)が出来た。・・・
勝手に想像をたくましくしてみるのも楽しい。

良文貝塚のすぐ近くに通り沿いに1の鳥居があります。ここから神社域に入っていきます。

神社の拝殿などの入口に良文貝塚の説明と重要文化財の「香炉型人面付き土器」の説明板が置かれていました。
顔の形をかたどった土器で、大変珍しいものだそうです。この神社で保存されているのでしょうか?
香炉として使われたものではなく占いなどの儀式に用いられたらしいと説明に書かれています。

入口に掲げられている門柱には「豊玉姫神社式年銚子大神幸祭」と書かれています。
この神社と銚子の港近くにある「渡海神社」との間で20年に一度の銚子大神幸祭が行われています。
康和4年(1102年)に銚子の高見浦に大津波が襲ったことをきっかけにこの祭りがおこなわれるようになったものだそうです。
前回行われたのは平成22年4月だそうですから次回の20年後は・・・・。

拝殿前の鳥居。

この鳥居の左側に千葉県神社庁の「規範神社」の石碑が置かれています。
規範神社がどういう神社か知りませんが、ネットで見てみると氏子などがしっかりしており、他の神社の模範となるような神社を県の神社庁が認定しているようです。

拝殿です。

狛犬(昭和5年建立?)も海神を守るのにふさわしい姿に見えます。九州や沖縄などの南洋と近いような気がします。(気のせいか?)

こちらは本殿。宝暦7年(1757)に建立されたもので、昭和54、55年に大幅修理が行われたそうです。



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名前の通り豊玉姫を祀る。安産の神として知られる。
豊玉姫は海神(わたつみ)の娘で、海幸彦と結婚して神武天皇の父である鵜葺草葺不合神(アマツヒコナギサタケ)を産む。
この海神のいたところは九州南部と考えられており豊玉姫を祀る神社は九州に多く、鹿児島県知覧町、指宿市、佐賀県嬉野市や四国などに有名な神社は集中している。
その中でこの千葉県香取市の豊玉姫神社は少し特異な感じがする。
徳島県にも多いので阿波からここに移り住んできた人びとがもたらしたと考えるのが常套であろう。
貝塚があるため、この内陸部まで内海で広がっていた地形を想像してみるが、どうも今の地形からはあまり想像できない。
そこでまた、Flood Mapsで海面を7m上昇させて地形を見てみた。

やはり千葉県のこの辺りに大きな内海が現われた。
この内海の海岸付近にたくさんの人が暮らしていたのだろう。
そして貝塚はどういうわけか裏山の比較的高い所に積み上げられた。
何十メートルも海面が高いのではなく、5m~7m程度なのかもしれない。
ここに海洋族が九州から四国そして黒潮に乗ってこの安房国にやってきた。
そして小舟を操り海と共に生活していた。兎上国(うみのうえこく)が出来た。・・・
勝手に想像をたくましくしてみるのも楽しい。

良文貝塚のすぐ近くに通り沿いに1の鳥居があります。ここから神社域に入っていきます。

神社の拝殿などの入口に良文貝塚の説明と重要文化財の「香炉型人面付き土器」の説明板が置かれていました。
顔の形をかたどった土器で、大変珍しいものだそうです。この神社で保存されているのでしょうか?
香炉として使われたものではなく占いなどの儀式に用いられたらしいと説明に書かれています。

入口に掲げられている門柱には「豊玉姫神社式年銚子大神幸祭」と書かれています。
この神社と銚子の港近くにある「渡海神社」との間で20年に一度の銚子大神幸祭が行われています。
康和4年(1102年)に銚子の高見浦に大津波が襲ったことをきっかけにこの祭りがおこなわれるようになったものだそうです。
前回行われたのは平成22年4月だそうですから次回の20年後は・・・・。

拝殿前の鳥居。

この鳥居の左側に千葉県神社庁の「規範神社」の石碑が置かれています。
規範神社がどういう神社か知りませんが、ネットで見てみると氏子などがしっかりしており、他の神社の模範となるような神社を県の神社庁が認定しているようです。

拝殿です。

狛犬(昭和5年建立?)も海神を守るのにふさわしい姿に見えます。九州や沖縄などの南洋と近いような気がします。(気のせいか?)

こちらは本殿。宝暦7年(1757)に建立されたもので、昭和54、55年に大幅修理が行われたそうです。





小見川に平良文を見る(6)-編玉神社
小見川紹介で最初に書いた国の指定史跡「阿玉台貝塚」のすぐとなりにこの編玉神社があります。
古くからあるようだが、多くの神社と同じく坂上田村麻呂の蝦夷征伐頃の話がついてくる。
少彦名(スクナヒコナ)が祀られているのは少し違っているかな。
編玉も阿玉も発音的には同じ部類だろう。
主祭神の天津日高日子穂々出見尊(アマツヒダカヒコホホデミノミコト)は山幸彦の事で、昨日紹介した豊玉姫の夫になる神。
海彦・山彦に係る神がこんなところに鎮座しているのは、やはり千葉が黒潮圏と言うことなのだろう。
茨城の方にいるとこのような話はほとんど聞かない。

編玉神社の入り口。近くに駐車場がないので少し困った。

神社拝殿。

この狛犬も南方系の香りがする。

こちらが本殿。


隣に境内社とおもわれる神社がありました。


「招魂社」と額がかかっていました。
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古くからあるようだが、多くの神社と同じく坂上田村麻呂の蝦夷征伐頃の話がついてくる。
少彦名(スクナヒコナ)が祀られているのは少し違っているかな。
編玉も阿玉も発音的には同じ部類だろう。
主祭神の天津日高日子穂々出見尊(アマツヒダカヒコホホデミノミコト)は山幸彦の事で、昨日紹介した豊玉姫の夫になる神。
海彦・山彦に係る神がこんなところに鎮座しているのは、やはり千葉が黒潮圏と言うことなのだろう。
茨城の方にいるとこのような話はほとんど聞かない。

編玉神社の入り口。近くに駐車場がないので少し困った。

神社拝殿。


この狛犬も南方系の香りがする。

こちらが本殿。


隣に境内社とおもわれる神社がありました。


「招魂社」と額がかかっていました。


阿玉台貝塚梅林
千葉県香取市小見川から少し山の方に入った所にある「阿玉台貝塚梅林」を見てきました。
先日ブログでこの梅林を紹介してもらったので銚子に行った時に立ち寄りました。
この貝塚は国の指定史跡になる貴重な貝塚ですが、以前このあたりを「小見川に平良文をみる」(こちら)として紹介した場所です。

以前訪れた時に、何故このような内陸には入った少し標高の高い場所に貝塚があるのかとても不思議に思ったことでした。
そして海面を少し上昇させて地図を見て、この小見川地区はかなり広い範囲まで内海が広がっていることを知ったのです。

その貝塚のある場所に約1000本もの梅の木を植えて梅林となっています。

前来た時も車を止める場所を探すのに苦労しました。
今回駐車場の場所を聞いていたので比較的探しやすかったですが通りの反対側に隠れるように4台くらいおける駐車場がありました。
ここには2台置かれただけだったので私の車も停められたのですが、通りに4~5台停められていましたし、入口近くに有料駐車場が一つ出来ていたようです。

やはりこのあたりの梅は茨城より早いようです。
かなり咲いていました。
梅の写真はどのように撮ればいいのか・・・・

この公園の全体の雰囲気を味わいたいし、人の歩かない崖下にも植えられています。

そんな山里に咲く梅の花の雰囲気も好きです。

平良文は上総国にやってきた高望王の五男。長男が平国香だ。
そんな面影を探して夕顔観音などを見て回ったことが思い出されて、一足早い春を感じてきました。
先日ブログでこの梅林を紹介してもらったので銚子に行った時に立ち寄りました。
この貝塚は国の指定史跡になる貴重な貝塚ですが、以前このあたりを「小見川に平良文をみる」(こちら)として紹介した場所です。

以前訪れた時に、何故このような内陸には入った少し標高の高い場所に貝塚があるのかとても不思議に思ったことでした。
そして海面を少し上昇させて地図を見て、この小見川地区はかなり広い範囲まで内海が広がっていることを知ったのです。

その貝塚のある場所に約1000本もの梅の木を植えて梅林となっています。

前来た時も車を止める場所を探すのに苦労しました。
今回駐車場の場所を聞いていたので比較的探しやすかったですが通りの反対側に隠れるように4台くらいおける駐車場がありました。
ここには2台置かれただけだったので私の車も停められたのですが、通りに4~5台停められていましたし、入口近くに有料駐車場が一つ出来ていたようです。

やはりこのあたりの梅は茨城より早いようです。
かなり咲いていました。
梅の写真はどのように撮ればいいのか・・・・

この公園の全体の雰囲気を味わいたいし、人の歩かない崖下にも植えられています。

そんな山里に咲く梅の花の雰囲気も好きです。

平良文は上総国にやってきた高望王の五男。長男が平国香だ。
そんな面影を探して夕顔観音などを見て回ったことが思い出されて、一足早い春を感じてきました。
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