笠間歴史民俗資料館(宍戸)-1
笠間市の宍戸駅周辺を通った時に、古風な洋館の建物が気になり立寄った。
場所は宍戸小学校の向かい側だ。
「笠間市立歴史民俗資料館」となっていた。
この洋風な建物は似たものをいくつか見てきた。
土浦一校の旧土浦中学校校舎(こちら)や高部の街並みに残された間宮家(こちら)、真壁の旧郵便局(こちら)などだ。
その他常陸太田市の旧太田中学校講堂や水戸歴史館に移築されたなど明治から昭和初期に建てられた建造物だ。

ここ宍戸は明治22年に西茨城郡宍戸町として発足したが昭和30年に友部町と合併し、平成の大合併で岩間町と共に笠間市に統合された。
この建物(歴史民俗資料館)は昭和12年に友部町の町役場として建てられたもので、国の登録文化財に指定されています。
宍戸町が友部町と合併した(昭和30年)の後に、昭和56年になって「友部町立歴史民俗資料館」としてオープンしたものです。

窓が上下に開くようになっているのが特徴でしょうか?
明日はこの資料館の内部を紹介します。
← よろしければクリックお願いします。
場所は宍戸小学校の向かい側だ。
「笠間市立歴史民俗資料館」となっていた。
この洋風な建物は似たものをいくつか見てきた。
土浦一校の旧土浦中学校校舎(こちら)や高部の街並みに残された間宮家(こちら)、真壁の旧郵便局(こちら)などだ。
その他常陸太田市の旧太田中学校講堂や水戸歴史館に移築されたなど明治から昭和初期に建てられた建造物だ。

ここ宍戸は明治22年に西茨城郡宍戸町として発足したが昭和30年に友部町と合併し、平成の大合併で岩間町と共に笠間市に統合された。
この建物(歴史民俗資料館)は昭和12年に友部町の町役場として建てられたもので、国の登録文化財に指定されています。
宍戸町が友部町と合併した(昭和30年)の後に、昭和56年になって「友部町立歴史民俗資料館」としてオープンしたものです。

窓が上下に開くようになっているのが特徴でしょうか?
明日はこの資料館の内部を紹介します。


笠間歴史民俗資料館(宍戸)-2
笠間市立歴史民俗資料館の記事の続きです。
この宍戸は筑波の麓の小田氏とは同族で八田知家の子供が宍戸に住んで宍戸氏を名乗ったのが始まりだと思いますが広島で毛利元就が勢力を拡大する原動力ともなった安芸宍戸氏もここから発生している。
この八田知家については諸説があり、ここ宍戸に伝わる話なども面白そうだ。
あまり詳しくはわからないが鎌倉御家人として特別な待遇を受けていたようなので、また後日まとめてみたい。

この資料館が開いているのかよくわからなかったが、横の扉を開けて中に入ると、入口正面にスリッパがたくさん並べられた下足棚が並んでいた。
左手に管理事務室があり、ノートに記帳して、見学の許可をいただき、2階までの電気をつけてもらった。
管理事務室の方に写真撮影の許可をいただいたので、内容を少しUPしておきます。
上の写真は高寺古墳群(円墳8基)(7世紀前半?)で発掘された鉄製の剣など。
この古墳の場所は前に「茨城」の名前発祥の地ではないかと書いた「小原神社」の少し西側です。
小原神社などと共に考えると、なかなか興味深いですね。石岡の茨城廃寺(茨城寺)は7世紀後半です。

この地方も製糸業や養蚕が盛んだったのでしょうか、農機具と共に綿などを紡ぐ道具などが展示されています。

この水戸線と常磐線の開通年代については前に正岡子規が書いた「水戸紀行」の記述を紹介していますが、正岡子規は歩いて水戸まで行き、帰りはこの水戸線に乗って帰っています。
当時の状況を知るにはとても参考になります。

こちらは花嫁道具として持って来て保存されていたもののようです。江戸時代後半から明治の頃でしょうか?

こちらは江戸時代の「箱枕」と当時の「ひな人形」です。
石岡にも同じようなひな人形が蔵から出てきて、ひな祭りの時に展示していました。
似た姿をしていると思います。

こちらはたくさんの種類の薬をいれておくタンスで薬屋さんにおかれていました。
ここには「百目たんす」と書かれていますが、辞書を引くと「百味(ひゃくみ)箪笥」が正しいようです。

こちらは手鏡です。江戸時代のものでしょうか。

江戸時代の長持ちなどです。この金びつには葵の御紋がついています。
この宍戸は徳川光圀の弟である松平頼雄が1万石で入りましたが、ここには城を持たず陣屋しかありませんでした。

展示室の1部屋に「宍戸焼き」のコーナーがありました。

説明には「貧乏徳利」と命名されていました。
酒を買うのに升で量って量り売りで購入したそうです。大量に買えないので少しずつ徳利に入れてもらうのだそうです。
← よろしければクリックお願いします。
この宍戸は筑波の麓の小田氏とは同族で八田知家の子供が宍戸に住んで宍戸氏を名乗ったのが始まりだと思いますが広島で毛利元就が勢力を拡大する原動力ともなった安芸宍戸氏もここから発生している。
この八田知家については諸説があり、ここ宍戸に伝わる話なども面白そうだ。
あまり詳しくはわからないが鎌倉御家人として特別な待遇を受けていたようなので、また後日まとめてみたい。

この資料館が開いているのかよくわからなかったが、横の扉を開けて中に入ると、入口正面にスリッパがたくさん並べられた下足棚が並んでいた。
左手に管理事務室があり、ノートに記帳して、見学の許可をいただき、2階までの電気をつけてもらった。
管理事務室の方に写真撮影の許可をいただいたので、内容を少しUPしておきます。
上の写真は高寺古墳群(円墳8基)(7世紀前半?)で発掘された鉄製の剣など。
この古墳の場所は前に「茨城」の名前発祥の地ではないかと書いた「小原神社」の少し西側です。
小原神社などと共に考えると、なかなか興味深いですね。石岡の茨城廃寺(茨城寺)は7世紀後半です。

この地方も製糸業や養蚕が盛んだったのでしょうか、農機具と共に綿などを紡ぐ道具などが展示されています。

この水戸線と常磐線の開通年代については前に正岡子規が書いた「水戸紀行」の記述を紹介していますが、正岡子規は歩いて水戸まで行き、帰りはこの水戸線に乗って帰っています。
当時の状況を知るにはとても参考になります。

こちらは花嫁道具として持って来て保存されていたもののようです。江戸時代後半から明治の頃でしょうか?

こちらは江戸時代の「箱枕」と当時の「ひな人形」です。
石岡にも同じようなひな人形が蔵から出てきて、ひな祭りの時に展示していました。
似た姿をしていると思います。

こちらはたくさんの種類の薬をいれておくタンスで薬屋さんにおかれていました。
ここには「百目たんす」と書かれていますが、辞書を引くと「百味(ひゃくみ)箪笥」が正しいようです。

こちらは手鏡です。江戸時代のものでしょうか。

江戸時代の長持ちなどです。この金びつには葵の御紋がついています。
この宍戸は徳川光圀の弟である松平頼雄が1万石で入りましたが、ここには城を持たず陣屋しかありませんでした。

展示室の1部屋に「宍戸焼き」のコーナーがありました。

説明には「貧乏徳利」と命名されていました。
酒を買うのに升で量って量り売りで購入したそうです。大量に買えないので少しずつ徳利に入れてもらうのだそうです。


笠間歴史民俗資料館(宍戸)-3
宍戸にある歴史民俗資料館は訪れる人は少ないようだ。
私が行った時も誰もいなかったし、2階などの電気はわざわざつけてくれたようだ。
展示物は水戸の歴史館などのものとはかなり違っていて、石岡にある民俗資料館に近い。
こちらもあまり訪れる人は少なく土日しか開けていなかったように思うが、この宍戸の資料館も月水金の3日間は閉じている。また夕方は4時半で閉まってしまう。
展示の中に面白い写真があったので紹介しておきたい。

田植え祭りに土で田んぼに天狗の面を作って、その面に見守られて田植えを行ったという。

残念ながら昭和50年でこの奇祭は終了となったそうだ。
面白い習慣が残っていたものだ。
石岡での代田、梶和崎、長者峰、古酒にのこる大人形をまちかどに飾る風習(こちら参照)とどこか似通ったものを感じる。
全国に天狗の面をかぶって田植え前に露払いをして田植え踊りを踊る風習が残っているところはあるが、このような土面をつくって行うのは初めて知った。
またかすみがうら市の(牛渡)鹿島神社に残る「へいさんぼう」などのように田植えと五穀豊饒にどうしても子孫繁栄を昔はどこでも願っておおらかな祭りがあったのだろう。
ここの天狗土面にどのような意味を持たせていたのか・・・・。興味深いです。
上の説明文には「中市原・鹿島神社の奇祭り:享保4年(1719)頃、中市原全域に疫病が流行した。村人は神官から田植の時に神田の中央に天狗の顔を祀るようにすれば疫病神が退治できると云うことであった」と書かれていました。
この中市原と言うのは北山公園の1kmほど北方になります。
← よろしければクリックお願いします。
私が行った時も誰もいなかったし、2階などの電気はわざわざつけてくれたようだ。
展示物は水戸の歴史館などのものとはかなり違っていて、石岡にある民俗資料館に近い。
こちらもあまり訪れる人は少なく土日しか開けていなかったように思うが、この宍戸の資料館も月水金の3日間は閉じている。また夕方は4時半で閉まってしまう。
展示の中に面白い写真があったので紹介しておきたい。

田植え祭りに土で田んぼに天狗の面を作って、その面に見守られて田植えを行ったという。

残念ながら昭和50年でこの奇祭は終了となったそうだ。
面白い習慣が残っていたものだ。
石岡での代田、梶和崎、長者峰、古酒にのこる大人形をまちかどに飾る風習(こちら参照)とどこか似通ったものを感じる。
全国に天狗の面をかぶって田植え前に露払いをして田植え踊りを踊る風習が残っているところはあるが、このような土面をつくって行うのは初めて知った。
またかすみがうら市の(牛渡)鹿島神社に残る「へいさんぼう」などのように田植えと五穀豊饒にどうしても子孫繁栄を昔はどこでも願っておおらかな祭りがあったのだろう。
ここの天狗土面にどのような意味を持たせていたのか・・・・。興味深いです。
上の説明文には「中市原・鹿島神社の奇祭り:享保4年(1719)頃、中市原全域に疫病が流行した。村人は神官から田植の時に神田の中央に天狗の顔を祀るようにすれば疫病神が退治できると云うことであった」と書かれていました。
この中市原と言うのは北山公園の1kmほど北方になります。


宍戸城跡
茨城県笠間市宍戸の町を少し歩いて気がついたものなどを紹介しています。
この町は何と言っても宍戸氏の居城であった宍戸城がどのようであったのかが気になります。
おおざっぱに歴史を振り返ってみましょう。
この辺りの地の近くには涸沼川が流れています。
宍戸の少し南には小原と言う土地があります。昔茨城郡に入っていたが途中から那珂郡に組み込まれたという場所でしょう。
今年は常陸国風土記が書かれてほぼ1300年経つと言うので、茨城県の各地で記念の行事が行われています。
風土記が書かれたのは8世紀初め(西暦720年頃)の事で、この時には茨城郡の郡衙は今の石岡にあったことは確かですが、それより前の7世紀前半には茨城郡の郡衙がこの辺り(小原、友部、宍戸あたり)にあったと思われるのです。
ここの歴史民俗資料館に立寄り少しその思いは強くなりました。
しかし、7世紀半ば頃にはこの地が那珂郡に編入されたため、茨城郡の群衙を石岡に移したのです。
その頃に茨城廃寺(茨城郡の郡寺)が建てられたのでしょう。国分寺が建つ50年以上前です。
そのため、茨城の名前はこの辺りにあったため、石岡駅前に書かれている「茨城の県名発祥の地」というのは正確には間違いです。
石岡には茨城と書いてバラキと読む土地があります。
ここが県名発祥の地であり、バラがたくさん咲いていたなどと言うバカげた話を何故本気でするのでしょうか?
この茨城(バラキ)も少し前までは茨木と書いていました。茨城廃寺の茨木寺書いていました。
さて、石岡の話は置いておくとして、この宍戸の地に八田知家の四男が居を構え宍戸氏を名乗ります。
この八田知家と言うのはなかなか重要な人物で、筑波・土浦で勢力を張った小田氏の祖です。
調べれば調べる程わからなくなる人物です。
一般には藤原北家の宇都宮氏の子供(宇都宮宗綱の四男)とされますが、どうやら子供と言っても養子に入ったのではないかと思われます。
または源頼朝の子供(10男、御落胤)だともいわれています。
源平合戦でも活躍し、鎌倉の御家人となります。
その後常陸守護職を任せられ、常陸大掾職(守護の上の位)を狙って、多気大掾(つくば市北条)を換言で陥れ、滅ぼしてしまいます。
また壇ノ浦の合戦では源氏の那須野与一とならんで双璧ともいわれた平家の「平景清(かげきよ)」は、戦い後に頼朝に捉えられ、殺すにおしいとこの八田知家に預けられたが、景清は食を絶って死んだともいわれています。
この景清は石岡で生まれたとの伝説が残されています。
また壇ノ浦の後に九州に流されたとする伝説も残っています。

さて、この宍戸という地は今では忘れられたような場所になっていますが、かなり重要な土地だったようです。
宍戸氏もかなりの力を持っていました。新善光寺を建て、この信仰がかなり大事にされたようですが、宍戸氏が佐竹氏に組みせられたときに、海老ヶ島(現筑西市)に寺も城も移ってしまいます。(1595年)
その後、佐竹氏が秋田に転封となって秋田氏が秋田からやってきます。1602年のことです。
その当時にこの宍戸は5万石だったのです。かなり広い地域がこの宍戸藩になっていたのでしょう。
その中心がこの現在の宍戸駅の南側の平地に城が出来たのです。
秋田氏も1645年に三春の桜で有名な郡山の近くの三春に移るまでここにいました。

上の地図は三春に移る1年前に書かれたものだそうです。秋田氏がこの地に城を築いていたのでしょう。
それによると本丸や北丸などが土塁で囲まれていたようです。

秋田氏が三春に移った後、水戸光圀の弟「松平頼雄(よりお)」が水戸徳川藩から1万石をもらってやってきます。
そして、ここには陣屋がおかれただけでした。
ここの常陸宍戸藩(1万石)と石岡の常陸府中藩(2万石)、それと離れていますが四国の高松藩(12万石)の3か所が水戸の松平の支藩となります。

しかし、宍戸城(秋田氏の居城)にあった土塁などで昔をしのぶことができるところは、この末廣稲荷神社の土塁だけとなってしまいました。
一昔前まではかなり土塁跡が残っていたのだそうです。
それを明治初めに開校した宍戸小学校を、現在の地(歴史民俗資料館前)に移転する時にその工事に必要とされた土砂に使われてしまったのだそうです。(歴史民俗資料館でお話を伺いました)
宍戸小学校が現在の地に移転したのは大正9年です。当時は木造で、現在の鉄筋校舎は昭和58年に建てられたそうです。

陣屋があっただけで、殿様は江戸にいて、ここ宍戸藩の管理は水戸藩がやっていたようだ。
ということは宍戸の松平家は形ばかりで藩主がこの地に住むことはなかったらしい。
しかし9代松平頼徳の時に天狗党の乱が勃発し、取り締まりを命ぜられたが失敗。切腹させられて宍戸藩はお取りつぶし(1864年)。3年半後に藩の再興が行われそのまま明治に。廃藩置県で一時的に宍戸県が誕生した。

陣屋の立派な門が残されているそうです。しかも土師(はし)の民家に残されているそうです。(こちら参照)
ただ城はなく陣屋を元の秋田氏の城のあった辺りに作ったようですが、あまり大がかりなものではなかったようだ。
街並みとしても真壁の陣屋のような遺構はあまり残っていないように思う。

← よろしければクリックお願いします。
この町は何と言っても宍戸氏の居城であった宍戸城がどのようであったのかが気になります。
おおざっぱに歴史を振り返ってみましょう。
この辺りの地の近くには涸沼川が流れています。
宍戸の少し南には小原と言う土地があります。昔茨城郡に入っていたが途中から那珂郡に組み込まれたという場所でしょう。
今年は常陸国風土記が書かれてほぼ1300年経つと言うので、茨城県の各地で記念の行事が行われています。
風土記が書かれたのは8世紀初め(西暦720年頃)の事で、この時には茨城郡の郡衙は今の石岡にあったことは確かですが、それより前の7世紀前半には茨城郡の郡衙がこの辺り(小原、友部、宍戸あたり)にあったと思われるのです。
ここの歴史民俗資料館に立寄り少しその思いは強くなりました。
しかし、7世紀半ば頃にはこの地が那珂郡に編入されたため、茨城郡の群衙を石岡に移したのです。
その頃に茨城廃寺(茨城郡の郡寺)が建てられたのでしょう。国分寺が建つ50年以上前です。
そのため、茨城の名前はこの辺りにあったため、石岡駅前に書かれている「茨城の県名発祥の地」というのは正確には間違いです。
石岡には茨城と書いてバラキと読む土地があります。
ここが県名発祥の地であり、バラがたくさん咲いていたなどと言うバカげた話を何故本気でするのでしょうか?
この茨城(バラキ)も少し前までは茨木と書いていました。茨城廃寺の茨木寺書いていました。
さて、石岡の話は置いておくとして、この宍戸の地に八田知家の四男が居を構え宍戸氏を名乗ります。
この八田知家と言うのはなかなか重要な人物で、筑波・土浦で勢力を張った小田氏の祖です。
調べれば調べる程わからなくなる人物です。
一般には藤原北家の宇都宮氏の子供(宇都宮宗綱の四男)とされますが、どうやら子供と言っても養子に入ったのではないかと思われます。
または源頼朝の子供(10男、御落胤)だともいわれています。
源平合戦でも活躍し、鎌倉の御家人となります。
その後常陸守護職を任せられ、常陸大掾職(守護の上の位)を狙って、多気大掾(つくば市北条)を換言で陥れ、滅ぼしてしまいます。
また壇ノ浦の合戦では源氏の那須野与一とならんで双璧ともいわれた平家の「平景清(かげきよ)」は、戦い後に頼朝に捉えられ、殺すにおしいとこの八田知家に預けられたが、景清は食を絶って死んだともいわれています。
この景清は石岡で生まれたとの伝説が残されています。
また壇ノ浦の後に九州に流されたとする伝説も残っています。

さて、この宍戸という地は今では忘れられたような場所になっていますが、かなり重要な土地だったようです。
宍戸氏もかなりの力を持っていました。新善光寺を建て、この信仰がかなり大事にされたようですが、宍戸氏が佐竹氏に組みせられたときに、海老ヶ島(現筑西市)に寺も城も移ってしまいます。(1595年)
その後、佐竹氏が秋田に転封となって秋田氏が秋田からやってきます。1602年のことです。
その当時にこの宍戸は5万石だったのです。かなり広い地域がこの宍戸藩になっていたのでしょう。
その中心がこの現在の宍戸駅の南側の平地に城が出来たのです。
秋田氏も1645年に三春の桜で有名な郡山の近くの三春に移るまでここにいました。

上の地図は三春に移る1年前に書かれたものだそうです。秋田氏がこの地に城を築いていたのでしょう。
それによると本丸や北丸などが土塁で囲まれていたようです。

秋田氏が三春に移った後、水戸光圀の弟「松平頼雄(よりお)」が水戸徳川藩から1万石をもらってやってきます。
そして、ここには陣屋がおかれただけでした。
ここの常陸宍戸藩(1万石)と石岡の常陸府中藩(2万石)、それと離れていますが四国の高松藩(12万石)の3か所が水戸の松平の支藩となります。

しかし、宍戸城(秋田氏の居城)にあった土塁などで昔をしのぶことができるところは、この末廣稲荷神社の土塁だけとなってしまいました。
一昔前まではかなり土塁跡が残っていたのだそうです。
それを明治初めに開校した宍戸小学校を、現在の地(歴史民俗資料館前)に移転する時にその工事に必要とされた土砂に使われてしまったのだそうです。(歴史民俗資料館でお話を伺いました)
宍戸小学校が現在の地に移転したのは大正9年です。当時は木造で、現在の鉄筋校舎は昭和58年に建てられたそうです。

陣屋があっただけで、殿様は江戸にいて、ここ宍戸藩の管理は水戸藩がやっていたようだ。
ということは宍戸の松平家は形ばかりで藩主がこの地に住むことはなかったらしい。
しかし9代松平頼徳の時に天狗党の乱が勃発し、取り締まりを命ぜられたが失敗。切腹させられて宍戸藩はお取りつぶし(1864年)。3年半後に藩の再興が行われそのまま明治に。廃藩置県で一時的に宍戸県が誕生した。

陣屋の立派な門が残されているそうです。しかも土師(はし)の民家に残されているそうです。(こちら参照)
ただ城はなく陣屋を元の秋田氏の城のあった辺りに作ったようですが、あまり大がかりなものではなかったようだ。
街並みとしても真壁の陣屋のような遺構はあまり残っていないように思う。



平神社(宍戸)
宍戸の散策の中で、ここの平という地名が気になった。
平家の「平(たいら)」である。ここに「平神社」がある。今は夏祭りのシーズンなのでこの休みに祇園祭が行われたと思う。
私が訪れたのはもう少し前だ。

この神社のとなりに宍戸尋常小学校(現宍戸小学校)が明治22年から大正8年まであったという。

この平という地名の由来は近くを流れる涸沼川に大きな平らな岩があったという。
上流から箱が流れ着いた。その箱の中には、素盞鳴尊の神壐(しんじ)と八咫鏡(やたのかがみ)が入っていた。
このことから素盞鳴尊(スサノオノミコト)を祀って神社を建てたのだとか。
それが奈良時代の神仏習合で牛頭天王を祀るようになったという。
明治の廃仏毀釈でまた平神社に戻ったのでしょうか。
しかし素盞鳴尊や誉田別命(応神天皇)を祀っているらしい。
どちらにしても八幡神であり、祇園祭をやっているのだろう。

平神社の本殿。火事で少し焼けてしまっているようだ。



神社前の通り。
← よろしければクリックお願いします。
平家の「平(たいら)」である。ここに「平神社」がある。今は夏祭りのシーズンなのでこの休みに祇園祭が行われたと思う。
私が訪れたのはもう少し前だ。

この神社のとなりに宍戸尋常小学校(現宍戸小学校)が明治22年から大正8年まであったという。

この平という地名の由来は近くを流れる涸沼川に大きな平らな岩があったという。
上流から箱が流れ着いた。その箱の中には、素盞鳴尊の神壐(しんじ)と八咫鏡(やたのかがみ)が入っていた。
このことから素盞鳴尊(スサノオノミコト)を祀って神社を建てたのだとか。
それが奈良時代の神仏習合で牛頭天王を祀るようになったという。
明治の廃仏毀釈でまた平神社に戻ったのでしょうか。
しかし素盞鳴尊や誉田別命(応神天皇)を祀っているらしい。
どちらにしても八幡神であり、祇園祭をやっているのだろう。

平神社の本殿。火事で少し焼けてしまっているようだ。



神社前の通り。


| HOME |